*星空文庫

黄色いハバナ

加原ゆうま 作

 彼は右手で拾い上げたその一枚の写真についてしばらく考えてみたが、結局のところ何ひとつとして深いことはわからなかった。なぜその写真を拾い上げ、強い興味を惹かれてしまったのかということさえもわからなかった。すべては暗い底知れぬ闇で包まれていた。青すらも消え失せてしまった真っ黒な海の底で目的もなくさまよい続けているだけだった。
 その写真を拾ったのは日曜日の夕方だった。十一月の十一日、午後五時二十一分の街の路地裏で彼はその写真を拾ったのだ。その日は午前中雨が降っていて、地面にはまだ雨の痕跡が大きく残っていた。空には薄暗い雲の網が張り、隙間から赤みを帯びた光が差し込んでいる。そこらかしこの店からは流行りのロック調ミュージックが漏れ、何が何だかわからなくなっていた。何曲かは彼も聞いたことがある曲だったけれど、それぞれが混ざり合い個々の楽曲名を特定するのは困難だった。学校を終えた高校生グループが大きな声で笑いながら水たまりを踏み、その勢いで水しぶきが上がった。それについて高校生たちは特に気にした様子はなかった。窓を開ければ風が入って来る、交互に足を動かせば歩くことができる、それくらい当然のことなのだ。いちいち気にしやしない。一定間隔で配置されたマンホールにはよくわからないご当地キャラクターのイラストが彫られ、溝にゴミや雨水が溜まり汚らしく見える。このキャラクターははじめこそ話題になったが、今では誰の口からも語られず、ひっそりとみんなを地面から見守っているのだ。
 彼は小さな喫茶店でエスプレッソ・コーヒーを飲み、店を出て連れと二人で歩いていた。連れの女と会うのは実に三カ月ぶりだった。お盆で実家に帰ったとき以来だった。写真は路地の片隅にポツンと、水たまりに浮いていた。彼は不思議とその写真に目が留まり、何かにとりつかれたように歩み寄り、腰をかがませて写真を拾った。なぜそんなことをしたのかと言われれば彼にも説明はできない。潜在的な意識の作用が突然強くなり、無意識的に行った行動だったのだ。誰かの落とし物かもしれない、本来の持ち主は困り果てているかもしれない、僕が交番に届けてあげなくては。そんな気持ちはさらさらなかった。
「ねえ、これはいったい何の写真なんだろう?」と彼は連れの女性に、あるいは空中に向かって尋ねてみた。
「見ないとわからないわよ」
 彼は彼女に写真を見せる。彼女は首をひねってしばらく写真を見るけれど、やがてさっぱりわからないわ、という風に首を振った。
「さっぱりわからないわ」と彼女は言った。
 写真の表(おそらく表だ)は一面を水色の絵具でベタ塗にしたようになっている。まるで今にも濃い青色の絵具で影をつけ、白い絵具で波を描き、黒い絵の具で魚でも描かれそうな写真だった。それは写真として、ある景色を映したというものではなかった。広大な海原を写したわけでも、雲ひとつない快晴の空を撮ったわけでもなく、コンピュータのツールで暴力的に一面を一色で染め上げただけのようなものだった。あるいはこれを撮った人はこういったベタ塗の写真をそろえたいという欲望を胸に抱いた一種のヘンタイなのかもしれない。しかし彼にはその欲望を理解することができなかったし、出来損ないの写真のようだなという感想しかなかった。裏面(おそらく裏だ)には、右下(おそらく右下だ)に黒い線で「194・黄色いハバナ・FB」という文字が印刷されていた。その文字は余計に彼を混乱させた。194という数字、黄色いハバナという文字、FBというアルファベット、すべてに意味を見出すことができなかったのだ。それらは独立したひとつの単語や数式としても意味を持たないように思えた。まとまることもできなければ、独立することもできない。映像の映らないテレビのように完全に不完全な文字列なのだ。
「ハバナっていう国はあるけど」と彼女が言った。「たしかキューバの首都だったのよ」
「キューバ?」と彼はびっくりして言った。「どうしてキューバなんかの写真がここにあるのさ」
 彼女は首を振って――彼女は首を振るのが癖なのだ――答える。「さっぱり、まるでわからないわよ。私が落としたんじゃないし」
「でもどうしてハバナなんだろう? ハバナにはこう真っ青な陰影の欠片もない場所があるのだろうか?」
「そんなの知らないわよ。ハバナになんか行ったこともないし、これからの将来で行く予定もないのよ。わかるわけがないじゃない」
 彼は小さく肯いた。「落とした人は困っているんだろうか?」
「知らないわよ。でもそんなこと気にする必要ないわ。そのまま両手を開いて地面に戻してあげたほうがいいのよ。わざわざ面倒ごとにかかわる必要もないんだから」と言って彼女は息をついた。
 彼はぼんやりと、しばらく写真を眺めていた。正確には写真と彼の両目の間にある空間を眺めていた。
「ねえ、まさかとは思うけどそれを持ち帰ったりしようなんて思ってるの?」
「いや、わからないんだ。僕はどうするべきなんだろうか」
 彼は写真をもう一度見て、それから彼女の顔を見た。彼女は困ったような、微笑んでいるような難しい表情を浮かべていた。彼女もまた混乱しているのだ。わけのわからない写真と、それを持って戸惑っている彼に。そしてまた彼も、わけのわからない写真に対して混乱していた。すべてがうやむやなのだ。深すぎる靄は一枚の写真から彼に伝染し、ごく自然な流れで彼女にも伝染した。二人の男女と一枚の写真のあべこべな空間は合わせ鏡のように先のない現実に取り残されている。
「まあ、持って帰りたいならそうすればいいわよ。そんなことで死刑になんてならないし、そもそも落とす奴が悪いんだから」と彼女は言った。
 彼はしばらく悩んで決断を下す。「いや、いいよ。こんなもの持っていたって無価値さ」
「いらないのね?」
「ああ、いらないよ」そう言って彼は写真から手を離した。「194・黄色いハバナ・FB」はひらひらと木の葉のように不規則に舞いながら地面へと落下した。そして元通り大きな水たまりの上に落ち、水面に二重の波紋が広がった。
 彼らはしばらく黙ったまま歩いた。何人かが彼らとすれ違い「194・黄色いハバナ・FB」のそばを通ったが、誰一人としてそれに関心を向ける人はいなかった。まるで青葉の裏にへばりついた芋虫のように、その写真は一切の注目を浴びなかった。
「でも、あれはいったい何だったんだろうね?」と彼は彼女に、あるいは空中に向かって喋った。
「さあね」と彼女は言った。「それにしても、あんたって昔からああいう変なものによく遭遇するわよね」
「変なもの?」
「そうよ。たとえばデパートで眼鏡を二重にかけた紳士的な服装のおじいさんに出会ったり、ハート模様の毛が生えた猫に会ったり。今の写真だってそうよ」と言って彼女は笑った。「しかもそれに対して不思議な興味を抱いちゃう」
「その中には君も含まれてるかもしれないな」
「実は私はエイリアンで、あんたをぎたぎたに引き裂いて内臓をむさぼり食べちゃうのが目的かもしれない」
「否定はできないな」と彼は笑う。
 何はともあれ、彼は「194・黄色いハバナ・FB」という一枚の写真から意識をそむけることに成功した。いつも不思議なものを見たとき、彼は決まってそれに対して「何なのだろう?」という感情を抱き、それをどんどんと膨らませてきた。そしてそのたびに彼女に話し、彼女は「何なのだろう?」を「気にすることないのよ」という言葉で粉砕してきた。それは一種の儀式のようなものだった。彼が「何なのだろう?」を彼女へ捧げ、「気にすることないのよ」という呪文により「何なのだろう?」を浄化する。彼が生産し、彼女が消費する。作物が育ち、いただきますによって胃の中へ消滅していくのと同じだ。彼らはそういった儀式をもう何度も行ってきた。
 はじめて彼が「何なのだろう?」を身に宿した時、それは小学五年生の頃だった。放課後忘れ物に気づいて教室へ入ると、彼の目には教卓で裸になって雑誌を読んでいる担任の姿が映った。その教師は結局学校を去り、新聞にも載ることになった。「あの先生はいったいなぜ裸になって教室にいたのだろう?」。それが彼のはじめの「何なのだろう?」だった。やはり「気にすることないのよ」という彼女の言葉により、それは沈められた。それがはじまりの儀式だ。儀式は彼らが大学二年生になった今でも行われている。相変わらず多くの疑問は彼の周りに蠢いているが、彼女がいる限り安心だった。

 夢の中で彼は奇妙な光景を目にした。彼はひとつの大きな町を見ている。いや、それを町と呼ぶのは正確ではない。都市と呼ぶほうがしっくりとくるだろう。空に届くことを目的としているかのようなビルが立ち並び、人々はあくせくとスーツを着て丁寧に歩き、きれいな列となってそれぞれのビルへと吸い込まれていく。あるいは電車へ吸い込まれ、代わりにまた多くの人間が吐き出された。人々は笑顔になることはなく、常に何かに追われているような焦りの混じった顔を浮かべている。彼らの顔は見ていて気分のいいものではなかった。それぞれの肉体の中にやり場のない棘のようなものが生え、それが肉体を突き破って露出している。彼らを見ているとその棘がこちらに向かって伸びてくるんじゃないかという気がしてならなかった。棘は獲物に向かって真っすぐに伸び、捉えた対象の中に種を植え付け、そこから新たな棘が生えるのだ。しかし誰にもその負の連鎖を止めることはできなかった。抗うにはあまりにも力の差がすぎるのだ。反乱者たちは結集し棘の種を死滅させてやろうと目論むが、反乱者たちの数は百人とならなかった。棘は都市全体に繁殖しているのだ。棘は愚かな反乱者を恨み、罵倒し、さげすみ、彼らの中にも種を植え付ける。そうして都市は棘に支配された。しかしそれは不幸だとは言い切れない。バラバラだった彼らは棘によってまとまり、意見を統一し、より効率よく障害のない将来への作業にいそしんでいるのだ。ベルトコンベアで運ばれる積み荷のように。だがやはり、好んで見ていたいというものではなかった。
 そんな完璧かのような都市にも、終りがやって来る。突然風が激しくなり、ところどころで小さな竜巻が生まれた。竜巻は周りの吹きすさぶ風を吸収し、どんどん大きくなっていった。そして最終的には鬼神のごとく巨大な三つの竜巻が完成し、都市を破壊すべく暴れまわった。アスファルトの地面には亀裂を走らせ、コンクリートのビルを粉々に破壊し、そこらかしこに根を張った棘を完膚なきまでに叩きのめした。だが人々は竜巻に一切の関心を示さず、洗脳されてしまったかのように急ぎ足で自らの作業に没頭している。だが数分後には竜巻に彼らも巻き込まれ、体内に宿した棘の種は生命を失って散った。竜巻は一時間ほど暴れまわった。圧倒的な力で何もかもを破壊し、無に帰した。一方的な残虐だった。しかしもう何も壊すべき対象がなくなると、ふと興味をなくした猫のように空中で消滅した。もう都市の面影は小指ほども残っていなかった。空へ向かって伸びる建物はひとつもないし、サバンナのように平らな地面には棘から解放された人々の死体が転がっている。彼らは暴力的な風の中で体を細切れにされたり、皮膚を無残に剥がされていた。健全な、あるべき美しい人間としての姿を残しているものは一人としていなかった。
 奇妙なことが起こったのはそれからしばらくしてからだ。彼が棺桶に閉じ込められたミイラのような気分で荒れ果てた都市のあとを眺めていると、突然それはやってきた。気づいたとき、横たわっていた人たちはむくりと起き上がり、何事もなかったかのように動き出した。そして体を単色に――ある人はセピア色に、ある人はグレーに――染め上げ、あらゆる陰影をなくしていった。思わず彼は息を呑んだ。陰影をなくした人々はやがて新たな町を築き、それぞれの生活を始めていった。そこには学校があり、市民会館があり、映画館があり、喫茶店がある。セピア色に染まった人は単色でできたはりぼてのような喫茶店に入り、真っ白なコーヒーカップに注がれた砂のようなコーヒーを飲み、首をかしげる。なぜ俺はこんなものを飲んでいるんだ? 小さな疑問が風船となって空へ上った。(風船は純色の緑だった)風船は高度を増すにつれてブクブクと膨れながら、彼のもとへやって来た。彼は風船に触れる。すると彼の手に触れた瞬間風船は音もなく破裂し、割れた欠片はぼうぼうと小さく燃え一粒の灰すらも残さずに消えた。風船はひとつだけではない。ひとつ、またひとつとそこらかしこから湧き出て、彼のもとへやって来る。定められた線路の上を電車が走るように、何の抵抗も示さずに彼のところへ風船は向かう。風船が生まれたところには常に単色の、のっぺりとした人間が存在した。そして彼の視界が風船で溢れたとき、彼は目を覚ました。

 翌日の彼の様子は、誰の目から見ても異常と言えるものだった。事あるごとに彼は何かに対して「これはいったい何なんだ?」と疑問を浮かべ、それを目についた人に質問した。面識があろうがなかろうが、授業中であろうがそうでなかろうが関係なかった。無差別殺人と同じように、目についた人を片っ端から捕まえ、質問というナイフを突き立てた。
 大学の食堂で一人カツカレーを食べていると、一人の男がやって来た。二年生に上がり、フランス語の授業で知り合った彼の友人だ。頭を丸刈りにし、Tシャツにチノパンツとラフな格好をしている。髪型は形のいい彼の頭によく似合っていた。丸刈りは彼の向かいの席に座り、笑って彼の顔を見る。
「なあ、お前いろんなやつに変な質問してるんだって?」と笑いながら丸刈りが言う。
「仕方ないじゃないか。でも誰もそれに答えてくれないんだ。腫物に当たるように僕のことを避けるんだよ。知らない、他の奴に訊けよって」
「ふうん」と丸刈りは言う。「どんな質問をしたんだ?」
「いろんなことさ。どうして君はいつも口を開けているのだとか、今聞こえる音楽は誰が流しているんだとか、ソクラテスは何を思って死んでいったのかとか」
「どうしてソクラテスの死に際なんか気になったんだよ」
「わからないさ。ただ頭の中に突然浮かんだんだよ。いったい何なんだ? ってね。……ねえ、君はどうして丸刈りなんだい?」
 丸刈りは驚いたように彼の顔を見て、それから笑った。「特別理由なんてねえさ。昔からこうだったからなんとなくだよ。この髪型が定着しちまってんだ」
「どうして最初に丸刈りにしたの?」と彼は訊いた。
「そりゃお前、少年野球やってたからな。そこじゃみんな丸刈りだったんだよ」
 彼は丸刈りの頭をしばらく見ていた。なるほど、確かに野球選手は丸刈りのイメージがあるな、と彼は思った。丸刈りは体格もゴリラのようにしっかりとしているし、バットを持ってピッチャーと対峙している構図がよく似合いそうだ。
「少年野球には何人くらい入っていたの?」
 丸刈りは唇を噛んで彼の斜め上を見る。古い記憶を起こしているのだ。「二十人くらいだったかな。田舎なもんで小さなグループだったよ」
 彼は二十人前後の少年が全員頭を丸刈りにしている光景を思い浮かべた。丸刈りの少年がグラウンドで野球ボールを投げ合ったり、バッドを規則的にスウィングしているのだ。その光景は彼にとって未知の世界であり、神秘に満ち溢れていた。彼の今までの人生において、二十人前後の丸刈りの少年が野球の練習をしている場面に遭遇したことは一度もなかったのだ。そこに好奇心による多数の疑問が浮かび上がることは当然のことだった。
「ねえ、君以外の少年野球に参加していた人はみんな今でも丸刈りなのかな?」と彼は目の前の丸刈りの大学生に質問した。
「そんなの知らねえさ」と言って彼は笑う。「今でも丸刈りの奴もいるかもしれねえが、洒落に興味持ってホストみたいな髪になってるやつだっているだろうぜ。坊主じゃあ女受けはいいとは言えねえもんな」
「どうして野球をやろうと思ったんだい?」
「どうだったかなあ。田舎だったもんで、他にやることがなかったからかもしれねえさ。ゲームにも興味湧かなかったからな」
「君はレギュラーだったの?」
「もちろん。あの中じゃ一番よく動いてたよ」
「ボールが顔に当たったりとか考えたら怖くないの?」
「そんなこと考えねえさ」
「途中でサッカーがやりたいって思うことはあった?」
「あったけど、サッカークラブはなかったし、学校の休み時間にできたからな」
「野球はまだやってるの?」
「いいや。中学に上がったきりやってないよ。テニスを始めたからな」
「ソフトテニス? 部活なの?」
「ああ」
「丸刈りでテニスをしている人はいたの?」
 丸刈りは顔をしかめた。「なあ、お前本当に質問が多いぜ」
「疑問が浮かんでくるんだよ。沸騰した水の泡みたいにポコポコと」と彼は言った。
「沸騰した水の泡みたいに」と丸刈りは呟く。「なあ、それはずっと前からそうなのか? 前に話したときはそんな質問マシンみたいなことしてなかっただろ」
「質問マシン?」と彼は訊いた。言った後にこれも疑問だなと彼は思った。
「ああそうだよ。ピッチングマシンみたいにさ、球を飛ばし続けるんだよ。お前は質問っていう球を飛ばしてる」
「ピッチングマシン……」と彼は言った。「ねえ、ピッチングマシンってマシンガンみたいに連射することはできるの?」
 丸刈りは質問に答えず、彼の顔をしばらく見た。そして深いため息をついた。

 怒涛の疑問符の乱用は一週間にわたって続いた。ことあるごとにこれはいったい何なんだい? と彼のクエスチョン・マークは空中を飛び、誰かしらの耳に入って顔をしかめさせた。大学内で彼のことは小さな噂となり、質問魔人というあだ名までついた。わざわざ冷やかしに来る連中も現れた。なぜ彼らはわざわざ僕のところに来て妙なことを言うのだろう? 他にするべきことはないのか? と彼は思い、それを口に出した。ゲラゲラと下品な笑い声を出して満足したように消えていくものもいれば、熟れたリンゴのように顔を赤く染めるものもいた。彼の中では相変わらず、単色ののっぺりとした人間が風船を上げ続け、彼は風船を割り続けた。彼が「何なのだろう?」を製造し、彼女が「気にすることないのよ」により消費するように、今度は単色人間が風船を作り続け、彼がそれを割り続けるのだ。それは単純な作業だが、楽ではなかった。同じ公式を扱う問題集を解き続けるように、彼の精神は徐々にすり減り、日曜日には髪の毛一本ほどの脆弱なものになってしまっていた。誰かがふと息を吹きかければ、すぐにでも崩れ落ちてしまいそうなほどだ。もうやめてくれ、十分だ、自分で考えてくれよ、と彼は心の中で単色の人間に怒鳴った。実際に声に出したりもした。だが風船は彼に向かって飛び続け、彼は疑問を感じずにはいられなかった。
 彼は彼女を求めた。これほど彼女の存在を求めたのは後にも先にもこれが最初で最後だった。例のように「気にすることないのよ」と一声かけてもらい、風船割りの無限作業を止めてもらいたかった。彼女の携帯電話にかける。しかし彼女は出ない。コールが二十回なったところで、彼は受話器を戻した。彼女の住んでいるアパートには固定電話がなかったから、携帯電話以外に彼女の声を聴く方法はなかった。アパートへ向かうという方法もあったが、それは現実的ではなかった。
 彼女は今何をしているのだろうか?
 彼は部屋の中でうずくまった。もう何も考えられないように頭を何度もたたきながら。しかしそれはびっしりと棘の生えた分厚い壁を素手でたたくようなものだった。鈍い痛みを感じるばかりで、その痛みにすら疑問を感じてしまうのだ。どうしてこんなに痛いんだ? 彼の中の単色人間で構成された町では絶えず風船が上がり、疑問は浮かび続けた。疑問が浮かぶたびに、彼はそれを口に出さずにはいられなかった。早くそれを言葉として吐き出さないと、体の中が疑問で溢れかえり、ぶくぶくと膨らんで爆発してしまいそうだったからだ。そう、単色人間の飛ばす風船のように。風船ははじめは小さなゴムの物体だったが、空気を吸い込んで膨らみ、高度を増すにしたがって成長期の子供のように巨大になっていくのだ。彼が風船を割ることを放棄してしまえば、風船はさらに膨れ上がり、やがて耐えきれずに爆発するだろう。
 パンッ!
 風船は惑星のようになり、その爆発の勢いはすさまじく、彼と単色人間の町を巻き込んで何もかもを消滅させる。そうなればどうなってしまうのか、彼には想像がつかなかった。竜巻のあとのように単色人間はやはり起き上がって何事もなかったかのように町を再建するのか、はたまた爆発の勢いで今度こそ木っ端みじんに消し飛んでしまうのか。彼はその爆発に巻き込まれても生きていれるのだろうか。彼はあの荒れ狂う竜巻に憎しみを抱いた。奴が棘人間を粉みじんにすり潰していれば、単色人間が出来上がることもなかったのだ。あるいはあのまま棘により支配された都市が続いているほうが、よっぽどまともだったのかもしれない。少なくとのその段階では、彼の中で風船が上がることはなかったのだ。人々は機械的だが、安定した毎日を送り、やがては子供を産み、次の世代が始まる。その世代もやはり棘に支配されるだろうが、それでも人々は生き続け、安定した社会を繋げていく。はりぼての喫茶店で砂のコーヒーをすすることもないのだ。

 十二月が来て、彼は実家に戻った。二十日から冬期休暇期間に入り両親から戻って来いという連絡があったのだ。戻る前に、丸刈りは一度キャッチボールでもしようと彼を公園に誘った。しかし植物や芝生や小さな虫について、公園というのは疑問の絶えない場所だったのでキャッチボールどころではなかった。結局キャッチボールはやめ、ベンチに座って話しをした。その日は激しい風が吹いていた。どこかからやって来た突風は散歩中の少女の帽子を飛ばし、木々を大きく揺らした。彼と丸刈りは近くのコンビニで熱いコーヒーを買った。
「お前はきっと病気なんだよ」と丸刈りが言った。「医学の知識なんかないけど、疑問症候群なり好奇心症候群なりあるはずさ。お前はそれなんだよ」
 彼は首をかしげて丸刈りの顔を見た。「僕が病気?」
 彼は病気についての可能性を考えた。毎日三食(時には朝食を抜くこともあるけれど)食べているし、体重だって落ちていない。頭痛やめまいがすることもないし、喉の調子だって悪くない。自分が病人だとは思えなかった。それに疑問が次々に浮かぶ病気なんてものは彼も聞いたことがなかった。
「それは精神的なこと?」と彼は訊いた。
 丸刈りはうなずく。「きっとな」
「ねえ、僕はどうしてこうなってしまったんだろう?」
「そんなもん知らないさ」
「僕としても苦しいんだ。でも訊かずにはいられないんだよ。言葉に出さないとおかしくなっちゃいそうで」
「おかしくなっちゃいそう?」
 彼はうなずく。「だから早く治したいんだ。解決法を早く知りたい」
「ふうん」と言って丸刈りは空を見る。空には灰色ののっぺりとした雲が張り付いていた。風に乗って雲は東へ向かう。奴らに西へ向かいたいなんていう意思はさらさらないのだ。
「でもな、俺思うんだよ。知る必要もないんじゃないかってな」と丸刈りは言った。「きっと知ったところで解決できそうな気もしないんだ。だからただ待つだけでいいんじゃないかって思うんだよ」
「見守るってこと?」
「ああ」と言って丸刈りは彼の顔を見る。「よく言うだろ。時間が解決してくれるって。解決を急がなくてもいいんじゃないか。まあ早く治したいっていう願いは叶わないけどな。自分でどうにもできないならただ待って、全部受け入れながらしょうがないって思うしかないんだよ」
「ただ受け入れて、しょうがないって思う」と彼は繰り返した。
「そういうことさ」
 彼は何かを言おうとしたが、口をまっすぐに結んで下を向いた。これについてもあれこれと質問してくるんだろうな、と丸刈りは思っていたので、彼のその行動は意外だった。逆に心配にもなった。彼はなにかについて細かな質問を投げつけてくるようになっていたから、彼が口をつぐんだことは驚きだったのだ。まるで犬が突然ニャアという鳴き声を上げたみたいな驚きだった。
 丸刈りがキャッチボールしようぜと話しかけるまで、彼は数分間そのまま静止していた。そしてその日、彼は一度も丸刈りに対して質問をすることはなかった。風船は止まったのだ。

「聞いたわよ、あんた質問魔人なんて呼ばれてるそうじゃない」と彼女が言った。十二月の三十日、大晦日の前に二人は地元の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「何で知ってるの?」と彼はびっくりして訊いた。
「女の子の情報網はとんでもないのよ」と言って彼女は微笑み、こめかみを人差し指で二度突いた。「どうしてそんなになっちゃったの?」
「原因はいろいろあると思う。ただ単にそういう時期だったのかもしれない。人間にはたまらなく疑問を抱き続ける時期があって、たまたまその時期に入っていただけなのかもしれない」
「そういうのいいわよ。なんかあるんでしょ?」
 彼はうなずく。「風船が上がったんだ」
 彼女は首をかしげた。まるで、風船? とでもいう風に。「風船?」と彼女は言った。
「僕の中に町があって、そこに住む陰影のない単色人間が風船を上げるんだ。中に疑問を詰めてね。風船は大きくなりながら僕のところへ飛んでくる。だから風船が自然に破裂する前に、僕はまだ小さな段階で割っていかなくちゃならなかったんだ。放っていたらどれだけ大きくなるかわからないからね」
「そう誰かに言われたの?」
「いいや」と言って彼は首を振る。そしてコーヒーカップを口に付ける。コーヒーは温かく、白い湯気をゆらゆらと上げていた。「ただそういう気がしたんだ。野生の勘みたいなもんだよ」
「野生の勘」と彼女は繰り返した。「それで、結局どうなったの?」
「風船は爆発したよ。パンッ! ってね」
「自然に?」
「そうだよ。きっとすさまじい衝撃だったんだ。町は崩壊し、地面は大きく抉れた」
「その陰影のない人たちはどうなったの?」
「さあね。それは僕にもわからない。でも彼らはもういないんだ」
「風船は爆発し、彼らはもういない。陰影のない単色の人たちは」
「そのとおり」
「死んじゃったのかな?」
「わからないよ。そうなのかもしれないし、風船の中に入って逃げたのかもしれない。どちらにせよ、彼らはもう僕の中にはいないんだ」
「ふうん」と彼女は言った。「風船が爆発して町は吹き飛んだ。つまりあなたは風船を割らなかったということなのね?」
 彼はうなずいた。そしてあの町が衝撃により消し飛ぶところを想像した。なるべく残虐に、痛々しく町が破壊されるところを想像しようとしたが、意に反して町はあっさりと消滅した。スプーンですくうように、あるいは小さな紙を握りつぶすようにして一瞬で消えたのだ。
「風船が爆発した時、あなたはどこにいたの?」
「僕は現実にいたよ。気が付いたら町が消えていたんだ」
 彼女は首を振った。彼女の長い黒髪が小さく揺れ、石鹸の匂いが微かに香った。「どうして風船を割らなかったの? その、野生の勘というやつを無視したのよね?」
「ううん」と言って彼は考える。そして答える。「言われたんだ。見守ってみるのもいいんじゃないかってね。解決を急がなくてもいいんじゃないかって」
「それで風船を見届けることにしたの?」
 彼はうなずいた。
「それは正解だったわけね?」と彼女は言った。「結果的にあなたは風船から逃れることができた」
「いいや、それはわからない」と彼は他人事のように言った。「たしかに今僕は風船から解放されたけど、それがいいことだったのかはわからないんだ」
 彼女は首を傾げた。まるで、どうしていいことなのかわからないのかしら、とでも言うように。「どうしていいことなのかわからないのかしら?」と彼女は言った。
「風船が爆発してから、僕はいろいろ考えたんだよ。奴らの小さな風船を割り続けるのは大変だったし、そのせいで僕はへとへとになっていた。だからその作業から解放されたのはいいことのように思えたんだ。救われたんだと思った。でも、疑問を口に出すという行為そのものが悪いことかどうかと訊かれたら、僕は首を振ることはできないと思うんだ。知らないことや気になることを誰かに教えてもらうのは、決して悪いことじゃないと思うからね。実際のところ、単色人間たちだって困っていたんだよ。僕をパイプとして周りに助けを求めていたんだ。だからもしも僕の周りで風船を割り続けている人がいたら、僕はひとつひとつの質問を正直に答えてあげたいと思う」
 彼女は頬杖をついて黙って彼の話しを聞いていた。「じゃあ、もしも私が風船を割ることになったら、あんたは助けてくれる?」
「もちろんさ」
 彼女は笑った。「ありがとう」

 翌年の一月二十七日に彼は二十歳になった。その日は午前中雨が降っていて、地面にはまだ大きな水たまりができていた。念のために傘を持ち、彼は午後の町を散歩していた。空気は冷え、人々は厚手のコートを着ていた。彼は馴染みの喫茶店を出て、裏路地へ行く。かつて「194・黄色いハバナ・FB」というあべこべの写真を拾った場所だ。思えばその翌日から彼の風船割りの作業は始まったのだ。その写真の落ちていたところを見るが、もう「194・黄色いハバナ・FB」の姿はなかった。大きな水たまりがあり、水面にはどんよりとした空が映っている。彼が歩いていると、遠くから足音が聞こえてくる。誰かが急いで走っているらしい。やがて角からひとりの小さな少年が現れ、彼に向かって走って来る。町から上がった風船が電車のように彼のもとへとやって来るように。少年は彼の前で立ち止まり、息を整える。深呼吸を何度かして、彼の顔を見る。その暗く大きな二つの瞳は、淀みのない透き通った水晶のようだった。
「ねえ、この写真はあなたのですか?」
 そう言って少年は小さなポーチから一枚の写真を取り出す。その写真は水色でベタに塗りつぶされ、裏には何の文字も書かれていなかった。写真と呼んでいいのかすら不明な代物だった。
 彼はにっこりと笑って少年を見る。
「いや、これは僕のじゃないよ」

『黄色いハバナ』

『黄色いハバナ』 加原ゆうま 作

 二人の男女と一枚の写真のあべこべな空間は合わせ鏡のように先のない現実に取り残されている。 「まあ、持って帰りたいならそうすればいいわよ。そんなことで死刑になんてならないし、そもそも落とす奴が悪いんだから」と彼女は言った。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-11-09
Copyrighted

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