*星空文庫

今日から僕はホームレス

おおへんり 作

 僕が下着の材料を加工する工場で勤めてから、もう五年目になる。好きでもない会社でやりたくもない仕事を、生活のために何となく続けて来た。それでも、年金もらうまでとにかく勤めていようと考えていた。
 去年の東北地震の後、関東の工場に材料を発注している当社は、発注先の材料の製造が滞りがちで、仕事が暇になることが多い。パートの僕でも本来は8時間働けるのだが、12時や15時に終わらなければならない。時給800円での勤務だから収入は大幅に下がる。
 2012年3月23日金曜日。この日は給料の支給があった。本来の給料日は25日だが、24日25日は土曜日曜とあって、二日早い23日になった。2月分の給料は7万円余りだ。
 社長からの手渡しの給料をもらって職場を出て、駅前のスーパーに行った。缶ビールとからあげを買い、2階広場のベンチで時間を過ごす。16時になると、別居中の妻に会いに行く。妻はスーパーに併設されたカルチャーセンターで茶道と華道を習っている。給料をもらうと、その別居中の妻にお金を渡しに行く。
 カルチャーセンターの入口で待っていると、車から降りた妻がやって来た。
「今日も早仕舞いだよ、はい、いつもの分」
 そう言いながら、お金の入った封筒を渡した。妻はそのままカバンに入れる。
「そう、がんばってんの」
「うん」
 妻としばらく話して別れた。その後、家賃を銀行振込みし、銭湯に行った。19時に自宅のマンションに戻ったが、ドアに鍵がかかっていて開けられない。僕はいつも鍵をかけないので、妻が鍵をかけたと思って、妻がいる実家に電話した。しかし、妻は鍵をかけてないと言う。
 僕は思った、『ついに来る時が来た・・』
 僕は相当家賃を滞納していて、追い出されるのも時間の問題だった。そして、ついにその時が訪れた。去年の地震がなければ、給料は10万以上あって、ついにその日は訪れなかったのだが。
 僕は部屋に入るのをあきらめて、外で過ごすことにした。24時間オープンのファミリーレストランに行ったり、コインランドリーに行ったり、スーパーに行ったりして、朝まで過ごした。
 3月24日土曜日。大阪まで行き、かかりつけ医院に高血圧の薬をもらいに行った。大阪の街をブラブラして14時頃戻って、図書館で昼寝した。図書館が閉館する間際、そこを後にして銭湯に行き、再びファミリーレストランやスーパーで朝まで過ごした。
 3月25日日曜日。朝から図書館で過ごし、夕方以降は昨夜と同じように朝まで過ごした。
 26日月曜日、平日ではあるが、仕事が暇で休みなので、その日も前日と同じように過ごした。
 3月27日火曜日。始業は9時からだが、7時過ぎに職場に向かった。いつも7時半頃、運送業者から材料が届くので、僕はその時間に出勤している。職場の前に道路があり、それをはさんで病院がある。病院の前の自動販売機で缶コーヒーを買って飲んでいると、いつも応援している共産党の市会議員が通りかかったので、あいさつをした。
「おはようございます」
「おはようございます」
「新聞配達しているんですか」
「そうなんです、これは私達の義務なので、当選するとずっと続けます」
「そうですか・・あのう、ちょっと、相談したいことがあるのですが」
 僕は愛想のつもりでそう言ったが、市会議員は真剣に取り合ってくれた。
「どんなことですか」
「今お仕事の最中でしょ」
「少しぐらいなら時間がありますけど」
「実は家賃の滞納で部屋に鍵をかけられ、締め出されたんですけど」
「いくら家賃を滞納したからといって、部屋を締め出すのは違法行為ですね」
「そうなんですか、では、相談に乗っていただけますか」
「はい、今日は何時まで仕事ですか」
「12時に昼休憩ですから、その時間で良かったら」
「じゃあ、わかりました、12時にここに来ます」
 そういうことで市会議員に相談することになった。そして、12時をだいぶ過ぎた時、例の市会議員が現れた。詳しく事情を説明し、一緒に僕の部屋を行ってみることにした。部屋は確かに施錠されていた。しかし、誰が施錠したのか分からない。部屋の鍵を持っていない僕ではないことは事実だ。しばらくその場にいると、家主さんの父親がやって来て、市会議員と話した。僕が市会議員を連れて来たことに立腹していた。さらに、別居中の妻と義父とその友人で小林という暴力団員が来ていた。
「ごぶさたしています」
 僕は仏頂面で義父にあいさつした。義父は苦笑いしていた。
「お前、元気にしてるのか」
「はい」
「不動産屋から連絡があったけど、家賃払ってないそうだな」
「いいえ、たまに払えない月もありますけど」
 僕は不機嫌に返事をしていた。僕はとりあえず家主の奥さんに頭を下げた。
 結局・・結局・・結局・・
 家賃は157万円滞納していて、その暴力団員の小林が不動屋さんと話を付けてくれ、それを60万円に値切ってくれ、義父が立て替えて支払ってくれることになった。さらに次の部屋まで手配してくれた。
 その暴力団員の小林というのは、義父に恩があって、僕の見方をしてくれるのだった。
 僕はその夜から、妻と義父と共に引越しの準備を始めた。妻の荷物は妻と義父が引き取った。残りの僕の荷物はかなりあった。どうしようかと思案していて、名案が浮かんだ。近くに空き家があるから、とりあえずその庭においてそれから引越し先の部屋まで運ぼう。
 28日29日、僕は仕事を終わってから荷物を運び出した。あと少しになったが、30日の午前1時を過ぎてしまった。37インチのブラウン管テレビを運んでいると、遠くからパトカーが走ってきた。どこかで事件かなと思っていると、僕は間もなくパトカー二台と白バイと自転車に乗った警官達が取り囲まれた。
「こんな夜中に何してるんだ」
「荷物を運んでいます」
「どこに運んでゆくんだ」
「空き家の前です」
 僕がそう言うと、警官達はその空き家まで同行した。空き家の前にはかなりの荷物があった。
「これらはお前の荷物か」
「はい、引越しするので」
「ここはお前の家か」
「いいえ、置かせてもらっているだけです」
「この家の人に断ったのか」
「いいえ」
「この荷物、ここに捨てているんじゃないのか、不法投棄は罰金1000万円だぞ」
「いいえ、捨てているのではありません」
「いい加減なことばかり言うな」
「本当です」
「無断で庭先に入るだけでも、不法侵入という罪だ・・逮捕する」
 TKH係長は時間と容疑を述べ、他の警察官に命じて、僕に手錠を掛けさせた。いろんな荷物を確認しながら、あれこれ写真を撮った。30分ぐらいかかっただろうか。それから僕は、YTT署に連行された。早速、取調室に連れて行かれ、取調べられた。子供の頃から事や家族の事をあれこれ聞かれた。取調べは朝まで続いた。引越しの準備で、三日ぐらい寝ていなかったので、つい居眠りをしてしまう。居眠りをすると、取調べをしているTKH係長にどやされた。何度も同じ事を聞かれ、THK係長は僕の言葉をパソコンに入力していった。僕が言っていることがその都度違うと指摘された。
 記憶力には自信があるが、昔のことをそんなに詳細に覚えているわけがない。聞かれる度により正確な記憶に近付いているのに、どうしてわからないのかと不満に思った。
 僕は小林という暴力団員が不動産屋との間に仲裁に入っていると言えなかったので、その点はあやふやに言っていた。そういうことで、僕の取調べは延びた。僕は13日間留置場に拘留されることになった。
(この13日間のことは後日詳しく書くことにする)
 留置場はすごく快適だった。食事はおいしかった。毎日することは無いが、頭の中で小説を書いていた。少なくとも僕にとって貴重な経験をしている、それを書き留めておこうとと考えた。

 僕は十三日間拘留されて不起訴処分となり、4月13日13時、警察署の拘置所を出た。僕は残った荷物をYTT駅のコインロッカーに入れて、例の行き付けのスーパーに寄った。千円で缶ビール二本とからあげと弁当を買い、飲み食いしながら国選弁護士に電話をして、不起訴処分になったことを告げた。それから僕はよく行く公園に行き、ベンチで飲み食いの続きをした。そこで暗くなるまで時間を過ごすことにした。
 僕は警察に見付かった荷物以外にも、公園や体育館に荷物を捨てていて、それを処分しなければならなかった。それこそは明らかに不法投棄だったから。
 公園のベンチでうたた寝していると、瞬く間に時間が過ぎて暗くなった。僕は捨てた荷物を集めて住んでいたマンションのゴミ集積場に運んだ。振り返ると、かなりの量があった。
 その日は決別を惜しむように、そこに泊まった。見慣れた街を改めて見て回った。そして、午後3時頃の上本町行の急行に乗って、鶴橋駅で乗換えて日本橋駅で降車した。大きなカバンを二つ持って新今宮駅まで歩き、ヘトヘトになったので簡易ホテルに宿泊することにした。とにかく目に付いた簡易ホテルに入り、二日間の部屋代を払った。所持金の残金はもう10000円になっている。僕は部屋に入ってテレビを付けた。久し振りの安らいだ時間だ。近くのコンビニでパンとカップめんと缶コーヒーを買い、その晩は夜遅くまでテレビを観た。翌日は情報収集しようと歩き回った。とにかくお金を稼がなくては、お金を稼ぐ方法を見つけなくては、と思った。しかし何の有効な情報を得られることもなく、一日は過ぎた。
 4月15日は朝から雨が降っていた。出かけるのをやめて、中学次代の同級生のTHTに一万円貸してくれるように手紙を書いた。そしてその日一日テレビを見続けた。翌日は晴れだった。気分はそう快。がんばって仕事を探そうと思った。荷物を持ってウロウロ出来ないので、そこにもう一泊泊まることにした。しかし、住所も無く電話も無く、仕事を探すどころではなかった。途方に暮れて僕は部屋に戻った。
 4月16日8時に僕は簡易ホテルを出た。缶コーヒーを飲みながらあいりん地区を歩き回った。西成市民館という所に生活相談というのがあったので、そこの職員に相談にのってもらった。そして、そこの職員の指示に従って大阪市立更生相談所に行ってみたが、何の解決策も示されなかった。しかし三徳寮に三日泊まれることになった。16、17、18日は平和な三日間だった。17日に簡易ホテルの清掃の仕事の面接に行き、18日に結果を尋ねたが、やはり住所不定ではダメだった。夕方になってあいりんセンターをブラブラしていると、男達が長蛇の列を作って並んでいるので、僕も並んでみた。列の先頭で黄色い紙切をもらった。シェルターと書かれていたので、泊まれる場所だとすぐにわかった。みんなと一緒に歩いていった。大きな二階建のプレハブに二段ベッドが並んでいる所に寝ることになった。今日から野宿を覚悟していた僕にとってありがたい贈り物だった。寝るところだけでなくカニヤの乾パンというビスケットまでくれた。これで、年金を受給するまでの四年余り何とか生きていけると思った。
 翌日、シェルターは朝5時には出て行かなければならないので、僕はシェルターを後にした。シェルターを出るとみんなと同じ方向に歩いていった。ほとんどの人間があいりんセンターに向かった。顔を洗ったり、トイレに行ったり、洗濯をしたり、みんながその場所を暮らしの場としていた。僕はセンターの片隅にテリトリーを持ち、そこで本を読んだり原稿を書いたりした。10時を過ぎると、センターにたむろしている人達が移動を始めた。何かがあるだろうと思って後についていった。人の流れが止まった所は小さな公園で、二百人以上の人達が列を作っている。僕も列の最後尾に加わった。
11時になると列の前の方が騒がしくなった。しばらくすると、僕も列の前の方になった。そこではむさ苦しい男達がおわんにおかゆを入れて配っていた。それだけではなく、若い女性をリーダーとして、中高年の男が何人かいて、おにぎりと具の多いスープを配っていた。僕はおにぎりとスープと、おかゆ五杯を食べた。
「このおかゆ、毎日配っているのですか」
「11時と17時にここで毎日やってるけど」
 僕は思った・・『シェルターで寝て、おかゆを食べる、これなら生きて行ける』

 次の日から生活パターンが出来た。5時にシェルーを出て、あいりん労働センターに行き、その片隅で原稿を書き、10時半になったら、四角公園という所に炊き出しのおかゆを食べに行く。それがすんだら図書館で本を読む。16時半になったら炊き出しを食べに行く。17時過ぎにはシェルターに泊まるために並ぶ。翌日の明け方までゆっくり眠る。
 そういう生活が一週間続いた。これで命はつないで行ける。しかし、このままではだめだと思って、いとこや親戚を探し始めた。そして昔の友達も。時間はたくさんあるから、午前の5時から10時。午後の1時から4時まで探してみた。五年ぐらい前まで住んでたはずのマンションもアパートも文化住宅も、誰もいない。三日間探してみて、あきらめた。
 4月終盤になって気温が高くなってきて、シェルターのベッドにシラミが出るようになった。朝起きると、体中がシラミにかまれてデコボコになる。シェルターに着くと、下着を着替え、そこのシラミを取る。一日3時間ほど。シラミを取ってからトイレで洗濯する。シラミ退治が暇を持て余す僕の楽しみになってきた。
 労働センターの片隅に居座って、みんなを観察しているといくつかのグループが何かをやっていることに気付いた。バカバカしいけど、労働組合同士が悪口の言い合いをしている。
 僕は毎朝、その光景を観察した。そして、5月7日月曜日。B労働組合の委員長を名乗るIGHという人に声をかけた。
「いつもそこで演説を聞いていますけど、A労働組合の人が言っているより、こちらの言っていることの方が正ですね」
 IGHは嬉しそうに答えた。
「そうですか、それはありがとう」
「実は相談したいことがあるんですけど」
「そうですか、では事務所に9時過ぎに来てください、事務所の場所わかりますか」
「はい、伺います」
 僕は言われたように9時過ぎに事務所に行った。そして、賃金未払いについて労働相談をした。そして、シェルターで寝泊りをしていると言うと、ボランティアを手伝うを条件で事務所の三階に泊まれることになった。早速、三階の部屋に荷物にを持って行き、一息付いた。その部屋は、六畳の部屋で、米が1トンほど保管されていた。僕が使える広さは二畳、それでもシェルターよりはるかに上等だった。
 11時におかゆの配食がある。それが僕の初仕事になった。西成警察の裏にある小さな公園、通称四角公園で、炊き出しというボランティアが行われる。僕の役割は、並んでいる人達にビラを配ることだった。
 11時の炊き出しが終わると、17時の炊き出しまで特にすることはなかった。部屋でごろごろしていた。17時の炊き出しも同じことをした。
 翌朝は6時に起きた。久し振りにぐっすり眠れた。起きると、事務所の一階でご飯を食べた。おかずが無いので、塩をかけた。その後、西成警察の玄関先にある水飲み場で顔を洗って歯を磨き、事務所の入口で待機していた。
 その時のボランティアグループのメンバーは、リーダーのNTK40代・THX70代・MNX60代・HBM60代・STX50代だった。
 7時からみんなで事務所の入口で待機していると、白いクラウンがやって来た。IGHだった。何があるのだろうか、と思っていると、7時半から労働センターでビラを配りに行くそうだ。リーダーのNTKが錆付いたリヤカーを押して行く。
 労働センターに着いたら、IGNは早々と演説を始めた。僕は他の者と一緒にビラ配りをした。二時間近く労働センターで行動し、事務所に戻ることになった。いつの間にかメンバーが増えて10名ほどになっている。そのみんなでマコという喫茶店に行った。それぞれ自己紹介をして適当に身の上話をした。
 10時半頃事務所に戻って来て、11時の炊き出しの準備。そして、公園で炊き出し。11時半に戻って来て昼食。炊き出しが済めば自由時間になる。自由時間があるからといって、することがあるわけではない。自分の部屋でボウっとしていた。17時の炊き出しが終わると、やはりすることはない。

 5月11日金曜日、いつも通りに事務所の前で待機していた。いつものようにIGHがやって来ると、事務所に入ってくるように言われた。中に入ると、IGHから2千円を渡された。活動費という名目だ。お金がもらえるとは思っていなかったので、感激した。労働センターでのビラ配りが終わり事務所に戻って来ると、100円ショップに買い物に行った。そして、レポート用紙二冊とボールペン、菓子パンと缶コーヒーを買った。
 これでまた、原稿が書ける。その夜から、ダンボール箱の上で缶コーヒーを飲みながらがんがん原稿を書いた。幸福感に浸っていると、僕の幸福を邪魔するものが現れた。部屋には米が山積みされているが、その米から無数のコクゾウムシが湧き出てくる。そして、体にまとわり付いてくる。かわいい虫だけど、駆除せざるを得ない。もらった2千円で布テープを買い、米袋の穴やほころびをふさいでゆく。ふさいでもふさいでも、米袋に穴を開け、どんどんどんどん、はい出して来る。毎夜四時間以上コクゾウムシ退治をしなければならない。原稿を書くどころではなくなってきた。それから、6月7月8月とコクゾウムシ退治の日々が続く。
 7月23日月曜日、THSが入院した。THSは74歳、北海道出身で、東京などを経由して大阪西成にやって来た。僕の隣りの部屋に住んでいる。認知症を発症しているようで、会話は成り立たない。一日中、三階から一階を往復して過ごしている。THSはひと月あまり入院して、9月2日日曜日の早朝に亡くなった。
 10時前、IGHから事務所に電話があり、その知らせを受けた。IGHはTHSの荷物をすぐに四角公園に出すようにNTKに命じた。僕はどういうことかわからないが,NTKの作業を手伝った。手伝っていてわかったが、THSの荷物を処分しろというものだった。NTKは四角公園にブルーシートを敷き、その上にTHSの荷物を置いた。公園周辺のホームレスがその荷物をもらいに来る。
 僕は呆れ果てた。亡くなったばかりの仲間の所持品をゴミように捨てる。こんな非人間的な行為を初めて見た。僕はボランティアを出て行くことを決意した。
 9月3日月曜日、お通夜をし、9月4日葬式をした。その夜、僕は4ヶ月近くいた事務所を跡にした。どこに行くあてもなかったが、IGHの元を離れて清々した。その夜は労働センターのシャッター前で寝た。シャッターは5時に開くので5時前にその場所を立ち退いた。そこにずっといると、IGH達が活動にやって来るので、6時過ぎには天下茶屋の公園に移動した。公園で本を読みながらうたた寝をする。なかなか快適な自由時間だ。図書館が開館すると、そこに行った。本を読む振りをしてうたた寝をし、時間を過ごした。しかし自由時間はあっても、食べる物が無い。わかっていたこととはいえ、困った状況になった。図書館にも長くいられないので、そこを出て、ウロウロした。あいりん地区に戻って、何となくゴミ箱を除いて回った。賞味期限が切れた菓子パンを三つ見付けた。今日の食べ物を確保。でもなぜ賞味期限切れの菓子パンがゴミ箱に捨ててあるのか、知りたくなった。翌朝はシェルターを出てから労働センターに居残った。IGHに見付からないように、労働センター周辺を回ってみると、賞味期限切れのおにぎりや菓子パンを四つ五つ100円で販売している男が何人かいた。男達はお金を無い者にはただであげていた。そして余った物はゴミ箱に入れていった。それは捨てるというより誰かが食べることを想定しているかのようだった。昨日僕がゴミ箱から拾って食べた菓子パンはまさにそれだった。その日から、ゴミ箱を探って菓子パンやおにぎりを食べた。
 9月7日金曜日17時頃、シェルターに泊まるために並んでいると、年配の男がビラを配りに来た。僕のそのビラを受け取って読んでみた。ビラはキリスト教教会の集会の案内だった。17時半にシェルターの予約票を受け取ると、その教会に行った。そのUNO教会は結構広い教会で、三人掛けのテーブル兼椅子が左側11列、中央12列、右側11列の34脚あり、補助椅子を入れると120席余り座れた。僕は左側の前から二列目の席に腰掛けた。僕が入った時はまだ十人程しかいなかったが、一人また一人と入って来た。僕と同じ、シェルターや野宿をしている人が多かった。結局四十人程が席に着いた。
 18時を過ぎると、ラジカセから賛美歌が聴こえて来て、厳かな雰囲気に包まれる。しばらくして、ビラを配っていた男が祭壇の下にやって来た。男は内藤牧師といって、明石から家族と一緒に宣教に来ていた。もう長年続けているようだ。何が行われるのか考えていると祭壇の壁にあるスクリーンな歌詞が映し出され、みんなで合唱を始めた。10曲余り合唱すると、説教が始まった。意外と面白かった。内藤牧師の力量だと思う説教は一時間ほどで終わり、みんなが動き回っているのを見ると、食事を準備をしていた。ここでご飯が食べられるのだと思うと、よだれが出てきた。席に掛けた順番から列を作って並び、おわんでおにぎりとスープを受け取った。そして元の席に戻り、食べた。早く食べた者はおかわりをすることが出来た。僕はおかわりをしなかったが、それで満足した。シェルターは21時までに入ればいいから、教会で三時間近くゆっくり出来た。
 教会の礼拝に出ることは、原稿を書くこと、本を読むことに続いて、楽しみのひとつになった。翌日の土曜日も礼拝に行った。昨日の内藤牧師と違って、女性の岡牧師が取り仕切っていた。僕は昨日と同じ席に着いて、くつろいでいた。時間が来ると、岡牧師が祭壇に上がって進行役を勤めていた。その夜の賛美歌は心打たれるものだった。賛美歌の一曲一曲が自分の人生を語ってくれてるような気がした。礼拝が終わると、昨日と同じように食事を提供されるのだが、岡牧師が「食事の提供を手伝ってください」と訴えているので、僕は手伝うことにした。僕自身も大変お腹が空いていたのだが、自分が食べることはさておいて奉仕した。食器を回収し台所で洗った。すべてが片付いたのは21時前だった。僕は急いでシェルターに戻った。たった半時間だが、久し振りに働いたので快く眠れた。
 翌日の日曜日も、同じようにUNO教会に行った。日曜日は安田という牧師が夫婦で子供を連れて来ていた。40歳代の男性で人気があり教会は満席となった。安田牧師はギターを担ぎ賛美歌を歌い出した。その後は説教。食事はカレーライスだった。
 UNO教会では、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜と毎日のように礼拝が営まれ、僕は毎日参加して、後片付けなどを手伝った。最初は食事が目的だったが、いつの間にかキリスト教に傾倒していった。僕はそもそもヒンズー教なのだが。教会に通うようになって、僕の生活がかなり変化した。その少し新しい生活が定着した。
 9月30日土曜日。台風が近付いていて、降り続いている雨をしのいでいるとシェルターの宿泊券をもらい損ねた。いつものように教会の礼拝が終わった後、労働センターのそばで過ごすことにした。時々野宿する場所があって、そこで横になっていると、一人の女性が傘をさしながらウロウロしていた。見たところ、人を探しているようだった。その女性が雨を避けるために僕の隣りに座った。仕方ないので話しかけた。
「誰か探しているんですか」
「ええ、飲みに行く約束をしている男が来なくて」
「そうですか」
「そろそろ帰ろうかと、台風が来るみたいだし」
「住まいは近くですか」
「堺の鳳よ」
「結構遠いから帰った方がいいですね」
「あんたはどこで寝るの?」
「いつもシェルターに泊まってるけど、今日は券をもらいそびれて、今夜はここで寝ます」
「このコンクリートの上で?」
「時々寝てるから大丈夫」
「よかったら家に泊まりに来ない?」
「いいんですか」
「いいわよ」
「じゃあ、泊めてもらいます」
 棚からぼたもち・・とはこういうことを言うんだろうか。僕は女性の家に泊まることになった。早速最小限の荷物を持って僕は女性と新今宮駅から高野線の急行に乗った。堺東駅で降りてそこからタクシーに乗った。タクシーに乗る時、彼女は介護ヘルパーの免許書を運転手に見せた。ヘルパーだと料金が割引されるそうだ。20分足らずで女性のマンションに着いた。女性の部屋は二階だった。部屋は2LDKで、一室は別れた夫の部屋だと言って中を見せてくれた。それからリビングでポテトチップで缶ビールを飲み、女性の部屋に入った。本人が言うように余り片付いていない部屋だった。女性の支持で女性のベッド下に布団を敷き、僕はそこで寝ることになった。すでに0時を過ぎていた。横になるとすぐに眠気がやってきて、僕は眠りかけた。その時、女性が声を掛けて来た。
「こっちで寝ない?」
「いいんですか」
「早く来て!」
 女性が性行為を求めていることがすぐにわかった。そもそも僕を家に泊めるのもそういうことだったのだろうが。僕は彼女のベッドに入った。そして、パジャマの上から彼女の体を触った。しかし局部を触ろうとすると拒絶する。そうするうち、ついに局部を触わり驚いた。女と思っていた者が男だった。僕は早々とベッドを出て部屋を飛び出した。家の外は雨。台風が近付いていて、次第に激しくなるようだ。そんな天候の中を僕は新今宮を目指して歩いた。帰り着くまで五時間もかかった。盗まれてもいいと思っていた荷物はそのまま残っていて、ずぶぬれになった服を着替え、汚れ物を洗濯した。体が冷え切っていたが、台風が過ぎ去ると日が差してきてので、日当たりのいいところで体が温まるのを待った。5時を過ぎるとシェルターの券を受け取り、UNO教会に行った。
 それからというもの、朝から夕方まで図書館や公園で時間を過ごし、夕方UNO教会に行き、教会の礼拝が済むと、ボランティアをし食べ物をいただき、シェルターで寝るという、決まりきった日常になった。食事は週に十食だった。時々ゴミ箱でパンを拾うこと以外は・・。 ちょうどひと月が過ぎた10月30日。シェルターに泊まって5時前にそこを出た。すぐに四角公園のトイレに行き、用を足そうをしたが、トイレの前でこけて額を打ち、血があふれて止まらなくなった。仕方なくIGHの事務所に戻ることにした。5時半頃にそこに行くと、事務所はまだ閉まっているので、それまで自分が寝起きしていた3階の部屋に入って横になった。しばらくすると、3階奥の部屋の、グループリーダーのNTKが起きてきた。とりあえずグループに戻る意思を伝え、代表のIGHの了解を求めてもらった。そして部屋に戻って横になったが、血が止まらなかったので救急車を呼んでもらった。杏林病院に搬送してもらい手当を受けた。額の血管が切れていて、八針も縫う大ケガだった。治療は一時間ほどで済んで、歩いて事務所に戻った。そこにはすでにIGHが来ていて、再びそこで活動することにした。不本意ながらも昼間はIGHの元で活動し、夜はUNO教会に行きボランティアをした。
 7時から18時までIGHの元で活動し、19時から21時までUNO教会でボランティアをし、日曜日の12時と18時もUNO教会で礼拝に参加しボランティアした。
 そして12月2日、日曜日の12時過ぎ、UNO教会で食器を洗おうと台所に入ると、男っぽいおばさんが先に食器を洗っていた。
「手伝いましょうか」
 そう声を掛けると、おばさんは手を止めて僕に食器を洗わせてくれた。そして僕が洗っているのをじっと見ていた。僕はおばさんの視線を痛く感じながら黙々と食器を洗った。
「あなた、働いているんですか」
 話し掛けられて僕はほっとした同時に、親しみを持った。
「いいえ、ホームレスですから、働きたいんですけど、働けるところがなくて、ボランティアをしています」
「そう、じゃあ、わたしの所で働きなさい」
「どんな仕事なんですか」
「わたし、介護の会社をやっているんだけど、来年新しい事業所を設けてその屋上に花壇を作るから、それに水をあげて欲しい」
「はい、わかりました」
「わたし達も月曜と金曜に労働センターでバナナとスープを配っているから、それも手伝ってもらえるかな」
「いいですよ」
「じゃあ、明日の12時に消防署の前の喫茶店に来てください」
「わかりました」
 そういうことになって、僕は食器を洗い終えるとその場から立ち去った。ボランティアの事務所に戻ると、自分の部屋に行き、布団にくるまってそのことを考えた。
『見ず知らずの人が仕事をくれるなんて信じられない』
 僕は野宿していた時、いつも空想していた。小学生や中学生の時の同級生と出会って助けてもらう・・その空想が現実になるのだろうか。

 翌日の月曜日、朝の炊き出しを終えると、彼女が言っていた喫茶店に出向いた。喫茶店は三角公園の近く、消防署の向かいにあった。喫茶店のドアを開けると、男性の店主と女性が二人いた。カウンターとテーブル二つの小さな店だ。
「その辺に座って」
 一人の女性に言われて、僕はカウンターの奥側のイスに座った。しばらくして、ホットコーヒーが出て来た。
「OKB社長、今出ているけど、時間までに戻って来るから」
 僕はOKB社長が戻って来るまで、今までの経緯を詳しく話した。僕は笑い話のつもりで話したが、NSGさんとSKRさんはすごく感銘を受けたようで、涙を流していた。OKB社長が戻って来ると、彼女も涙を流し、仕方なく僕も付き合いで涙を流した。カウンターに座っている四人の人間が涙を流している、異様な光景だった。
 OKB社長は僕が今日来てくれるかどうか心配でならなかったという。彼女は最近悩んでいることがあったが、昨日僕と出会ってその悩みが解消されたという。僕はそれがどういうことがよく理解できなかったが、とにかく光栄に思った。
 それから僕は三十分余り話してから、ホームレスが集まる労働センターに向かった。バナナとみそ汁を積んだ台車を僕は押して歩いた。労働センターに着くと、百人を超える人々が長い列を作っている。その列が私達を待っていることを知ったのは、OKB社長が彼らに声を掛け始めたからだ。
「お父さん、元気にしてた?」
「お父さん、カゼひいてない?」
「お兄さん、みそ汁飲んで暖まってね」
「お兄さん、こんにちは」
 OKB社長は一人一人に声を掛けながら、長い列の横を通って行った。一つの丸い柱の近く来ると、台車の荷物を解き、配食する準備をした。僕は粉末の味噌汁が入った紙コップにお湯を注ぎ、OKB社長に渡し、彼女はホームレス達に手渡した。バナナはNSGさんが配った。その作業は三十分もかからなかった。僕達は手早く片付けると、あの喫茶店に戻りかけた。その途中、僕に缶コーヒーを買ってくれた。僕のねぐらは喫茶店の手前にあるので、そこに戻ろうと思っていたところ、しばらく一緒に歩くと、僕に喫茶店に来るかと誘ってきた。僕が行くと言うと、OKB社長もNSGさんも大喜びした。
 喫茶店に戻ると後片付けをし、再びカウンターに腰掛けてコーヒーを飲みながら、僕達はいろんな話をした。三人の女性は僕と出合ったことを大変喜んでいるようだった。午後4時半になると、僕は四角公園での炊き出しの作業があるので、帰ろうとした。
「明日から昼御飯はここで食べてね、お金は要らないから」
 OKB社長にそう言われた。
『喫茶店で毎日ただで昼ごはんが食べられる!』
 僕はまさに奇跡を体験した。
 翌日から、僕は図々しいと思いながらもその喫茶店に昼ごはんを食べに行った。昼間はその介護サービス会社の従業員たちが来ているが、みんなは僕にあいさつをしてくる。
『どうかしてるぜ!』
 そう思いながら、僕は優越感に浸っていた。そして、金曜日二度目の配食の日がやって来た。前回のように作業して喫茶店に戻った。午後四時半になって僕が帰る時、今度はこう言われた。
「あさっての日曜日、二階の事務所で礼拝(キリスト教)をするからぜひ来てほしい」
「わかりました、必ず行きます」
 11時からということだったが、僕は11時から炊き出しの作業があるから、11時半に出向いた。ひと声かけて二階の階段を上がってゆくと、社長やNSGさんを含めて四人の女性がいた。あとの二人は30歳前後の若い女性だった。

つづく

『今日から僕はホームレス』

『今日から僕はホームレス』 おおへんり 作

2012年3月末、僕は引越しをしようとして荷物を運んでいた。それを近所の夫婦に警察に通報され、僕は逮捕されて留置場に13日間拘束された。検事の判断は不起訴ということで、4月12日に釈放され留置場から出て来た。留置場にいる間に、離婚され、解雇され、引越し先もダメになった。そして僕はあいりん地区でホームレスを始めた。これはその一年半の記録である。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-11-09
Copyrighted

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