わたし、犬ぞりレーサーになる!

わたし、犬ぞりレーサーになる!

「わたし、犬ぞりレーサーになる!」
彼女のその一言で僕の人生は変わった。
大人の青春ストーリー。

宣言は突然に

「わたし、犬ぞりレーサーになる!」
「はい? 鈴木さん、いきなり何言ってんの? どこぞの有名マンガみたいに」
 僕は、いきなりの彼女の言葉に困惑した。酔ってんのか、この女は。
まあ、居酒屋にいるのだから不思議ではないが。それにしても、まだ二杯目だし。あなた、いつもそんなんじゃ酔わないでしょ?
 僕のそんな不思議そうな顔を見たからではないだろうが、鈴木さんは話し出した。
「本当になるんだって! いや、まあ、まだなりたいかな」
「あのさあ、何でいきなり犬ぞりレーサーなの? 僕らまだ就職して三ヶ月だよ。仕事辞めんの?」
「いや、まだ辞めないよ。これからお金貯めないとだからね」
 僕は呆れながら、ウーロンハイのジョッキを煽った。
同期の鈴木さんとは、仕事帰りに良く飲みに行く仲だ。でも今夜、行き付けの居酒屋海彦山彦でそんな話を聞くとは。しかも本気で言ってるっぽいのが。
「佐藤君はなりたいものないの?」
 僕はため息混じりに答えた。
「小学生の夢じゃないんだから、この仕事に就けただけでもめっけもんだよ。専門性もないFランで、あわや就職難民かと思ってたんだから。ある意味夢が叶ったね」
 ダンッ! 鈴木さんは生ビールのジョッキをテーブルに叩きつけるように置いて、僕を真顔で見た。
「おい、佐藤! そんなんでいいのか? 人生はねえ、一度きりなんだよ! それで満足なの?」
 水曜日の夜九時過ぎの、お客もまばらな店内が、よりいっそう静まりかえった。
大将もびっくりしてこっちを見てる。
「ちょ、ちょっと鈴木さん、落ち着こ。ほら、大将も心配して見てるから」
「んなこたあ、関係ない! わたしは佐藤君の本心を訊いてんだよ。もう一度訊くね。本当にそれでいいの?」
 自分を否定されてるようで、僕は少しむきになって答えた。
「ああ、僕はこれでいいよ。逆に何が不満なのさ? 給料体系も県職と同じ。初任給は確かに民間大手とは比べものにならないけど、家賃補助はあるし、今時珍しく、残業代も青天井。僕の先月の給料、手取りで三十万近くだぜ? 忙しいなりに金も入ってくる。何が不満なのさ」
「わたしはね、給料云々言ってんじゃないのよ。本当にやりたい仕事なのかってことよ」
「仕事にやりたいも何もないだろ? 仕事だからするんだよ。だいだいさあ、やりたい仕事で食ってける人なんて極少数だろ? 挫折した挙げ句、ろくな職にも就けないで、食えませんじゃ、本末転倒だろ。そもそも犬ぞりレーサーってどうやって稼いでんの? 生活できんの?」
「賞金で稼ぐんだよ! 夢あるでしょ? 賞金稼ぎだよ!」
「脳内お花畑か! 現実見ろよ!」
「そっちこそ、年寄り臭い! 若さの欠片もないねえ」
 僕らは睨み合って、同時に口に出した。
「大将、お会計!」
 大将のうんざりした声が返ってきた。
「はいよ」
その夜は、もやもやしながら店を後にした。

 僕は多忙な日々を過ごしながらも、あの夜のもやもやが治まらなかった。
正確に言えば、仕事中は忘れられたのたが、遅くに部屋に帰り、閑散とした何も無い部屋が灯りに照らし出されると、腹の底からじんわりと湧いてくる。もやもやに侵食される。
やっと決まった仕事。経済学部卒業で農地整備団体へ。同期はほとんど農学部卒だ。農業用語に苦戦するときもあるが、これから覚えていくだろう。
世の中の社会人は皆こんな感じじゃないのか?
今は余裕がないけど、これから時間の使い方も上手くなり、趣味が出来て、彼女も出来て、結婚して。そうやって充実した生活を営んでいくんじゃないのか? それだって、立派にやりたいことだし、夢じゃないのか? ああ、もやもやする。鈴木さんは鈴木さん。僕は僕でいいじゃないか。
最近はそんなことを考えながら眠りに落ち、着替えもせずに寝転がったベッドで朝を迎える。

  八月も終わる頃、僕は地元説明会の準備に追われていた。稲刈り前のこの時期は説明会の回数が増える。金曜日の夜から土曜日、日曜日と四地区の説明会が控えていた。
 今夜も仕事終わりが十時を回っていた。
まだ残っている違う課の先輩に挨拶をして、僕は暗い廊下を歩き始めた。
エレベーター前の電算室もまだ明るい。二年後の事務所移転を控え、データの整理やシステムの構築で大忙しのようだ。
 横目で通り過ぎようとすると、
「佐藤君、待って!」
と鈴木さんの声がした。
「よお、お疲れ様。まだ仕事かい?」
あれ以来、お互い仕事が忙しく飲みに行けてなかった。決して、ギクシャクしているわけではない。多分。
「今終わるから、ご飯がてら海彦山彦行こうよ」
「いいよ。最近行ってなかったしね。久しぶりに大将の顔見に行くか」
「よし、決まり」
 言うやいなや、着替えてくるとの言葉を残し、電算室のロッカールームへと消えていった。
 そう。ギクシャクなんてしてない。会えば挨拶もするし、軽口も叩く。ただ、鈴木さんの言葉が僕の心の奥底の何かを引っ掻いて、そこから日増しにあふれ出てくるものに、僕の心が追い付いていなかったのだ。だから、忙しいのも相まって自然と二人飲みを避けていたのかもしれない。
何だろうこれ? もやもやしたものが、何となく形を整え始めてるような。
今夜鈴木さんと話したら、正体が見えるのだろうか。それは見ても大丈夫なものなのだろうか。
 僕が暗がりでそんなことを考えていると、着替えてきた鈴木さんがパタパタとやってきた。
「お待たせ。行こう!」
「行きますか」
エレベーターに乗り込み、僕らは店へと向かった。

 暖簾をくぐり、引戸を開けると、炭火の良い匂いと、大将の「いらっしゃい!」との威勢の良い声が出迎えてくれた。
「よう、お二人さん。随分と久しぶりだねえ。てっきり別れたから来づらいのかと思ってたよ」
「いや、付き合ってないし。へえ、大将そんな風に見てたんですね。 そのゲスな勘繰りに気分を害したので、一杯奢ってください」
「いつも二人で来てりゃあ勘繰りもするさあ。まあ、ハズレた詫びに一杯ご馳走するよ。生ビールとウーロンハイでいいかい?」
「あれ? いいんですか本当に。いや、言ってみるもんだなあ。甘えてゴチになります」
 僕の言葉に鈴木さんも続ける。
「大将、ありがとうございます」
「小上がりでゆっくりしてきな」
 大将の声に頷き、小上がりの一番奥の席に座った。
 二ヶ月近く二人飲みしてないと、すごく久しぶりのような気がして、少し気まずい。まあ、前の平均週二回が多いからなのかもしれないが。
「はいよ、ドリンクお待ち!」
小気味の良い声が僕の気まずさを消してくれるようだ。
 僕らはジョッキを合わせ、「お疲れ様!」と一気に煽った。
「はあー。久しぶりにお酒を飲んだ気がするよ。仕事も忙しかったし、誰かさんが全然誘ってもくれなかったからね」
「こっちだって、仕事が忙しかったんだよ。今日なんて早い方だよ。それに誤解が無いように言っておく。誘わなかったわけじゃないから」
「まあ、いいけどね」
 鈴木さんが先に話しかけてくれたので、僕は幾分楽になった。
 僕らは大将に鶏の半身揚げと冷やしトマトを頼んで、お通しのオクラやっこをつまみ始めた。
 鈴木さんと一通りの近況を話し合って、頼んだ料理が来る頃には二杯目に入っていた。
 酒が入るに連れて訊きたくなる。前回の話は本気なのかと。それを訊いてしまえば、必ず僕にも返ってくるのは目に見えている。
 僕が迷っていると、鈴木さんが見越したように話し出した。
「前に話したこと気になってんでしょ? まあ、当然だよね。いきなりあんなこと聞かされてもねえ」
「正直気になるよ。本気なのか。それと何で犬ぞりレーサーなのか。だって安定した仕事捨ててまでやる価値あるとは思えないから」
「わたしは本気だよ。理由は簡単なんだ。大学時代にカナダにオーロラ見に行ってね、そこでポイントまでの移動に犬ぞりに乗せてもらってさ。それに感動したから。オーロラ見に行ったのに、オーロラなんてどうでもよくなっちゃってね。それくらい感動したんだよ」
 僕はいまいち納得がいかずに、理由が安易過ぎないかと尋ねた。
「まあ、普通はそう思うよね。でもね、『これだっ!』って言葉に身体が打たれた気がしたんだ。やらなきゃいけないって」
「それにしたって、賞金稼ぐのは相当難しいだろ? 気になって調べたけど、完走するのもハードなのに。それじゃあ、暮らしていけないじゃん。今の仕事してりゃあ、食べるに困らないだろ?」
 鈴木さんは、ちょっと黙ってから話し出した。
「わたしが高校一年の時にね、父が癌で亡くなったんだ。大学病院に勤務してたんだけど、まあ、医者の不養生だよね。体調悪かったのに検査もしないで仕事しっぱなしでね」
 僕は黙って促した。
「父が亡くなる前に、わたしに言ったの。死ぬ前に好きなことやっとけってね。父が好きなこと出来てたかは分からないけど、その言葉はずっと残ってた」
「そして犬ぞりに出会って、心打たれたってわけね。じゃあ、うちの事務所は最初から腰掛けのつもりだったんだ」
「それも悩んだのよね。そもそも、わたしが農学部を選んだのは、父の実家の田んぼの手伝いしててね、農業に興味があったからなんだ。だから犬ぞりを知る前は、ずっと農業系の仕事に就きたかったのは事実。今の事務所は大学の教授の推薦でね。事務所にうちの大学のOBいっぱいいるから、稼げるって話も聞いてたしね。県庁も受かってたけど、短期じゃ、こっちの方が良かったから」
 僕は県庁落ちたんだけど、との言葉を飲み込み尋ねた。
「話はなんとなく分かったよ。でも、何で僕になりたいものなんて訊いたの?」
「だって、佐藤君も同じ匂いがしたから。わたしと同じで、きっと他にやりたい仕事あるんだろうなって。だから、この話もしたのよ」
 尋ねて後悔した。触れるのが不安なものに、自分から触れてしまった。
僕のもやもやの正体は、自分が諦め、押し殺していた願望だった。鈴木さんの言葉で、気づかないふりをしていたものと、正面から向き合ってしまった感じがした。
「同じ匂いね。それはいい匂いなのかねえ」
「とってもいい匂いだよ!」
「そうかなあ。刺じゃないけど、いい匂いには毒もありそうだけどね」
「それなら、皿までだよ」
 鈴木さんの明るい声に、僕は呆れて首を振るしかなかった。

 僕らはそれからも、互いに忙しい間を縫って、仕事終わりに飲みに出かけた。
 鈴木さんの計画では、新事務所に移転するまでの忙しいこの期間に稼ぐだけ稼ぎ、二年後の夏のボーナスを合わせて、三百万円貯める予定とのこと。お父さんの遺産が、自分名義で五百万円あるので、合わせて八百万円あれば何とかなるらしい。詳しい計算は分からないが、鈴木さんが言うのならそうなんだろう。
前から身なりにお金がかかってない女だとは思ってたが、具体的な金額を聞くと納得してしまう。
見た目は悪くない。だけど化粧気もなく、眉を整えてるわけでもない。余計なことをしてこなかったせいか、肌は透き通るような白さで、女というよりは美少年みたいだ。
それがおじさん受けするのか、良く昼飯もご馳走になってるみたいだ。実際、お金を使うなんて、僕との飲み代くらではないのか。
 計画を建て、目標に向かってる鈴木さんを見てると、僕の中で形になったものが、どんどん大きくなっていった。お前は今のままでいいのか? それが勝手に囁きかける。

 十二月に入り、ボーナスも出て、恒例の忘年会が開かれた。フロア毎に集まるので、僕は一次会終わりに鈴木さんを二件目に誘った。
「どこに連れていってくれるのかな?」
「まあ、誰も知らない僕の行き付けの場所だよ」
「え!? そんなとこあったんだね!」
「それはあるよ。当然だろ。隠れ家の一つや二つはね」
 初雪が薄く積もった小路を暫く歩き、飲み屋街から少し外れにあるバーに案内した。
「マスター、こんばんは。奥大丈夫ですか?」
僕はドアを開けて、そう尋ねた。
「佐藤さん、いらっしゃい。どうぞ、大丈夫ですよ」
 鈴木さんを中に促し、店に入ると、温度差でブルッと震えた。
 カウンターが八席と四人掛けのテーブルが三席。そんなに広くない店内は、カウンター席がほとんど埋まっていたが、テーブル席には誰もいない。ゆっくり話すにはちょうど良かった。
 僕らはマスターにコートを預けて、一番奥のテーブルに座った。
 マスターが出してくれた、暖かいおしぼりで手をふき、鈴木さんを見た。こういう場には慣れていない様子で、物珍しげに店内を見回している。
「ちょっと、そんなにキョロキョロしないでよ。こっちが恥ずかしい」
「いや、だって、こんな店知ってたなんてびっくりだよ!」
「だから隠れ家って言っただろ」
「まあ、確かに」
 僕らはマスターを呼び、ドリンクをオーダーした。
「僕はレモンハート151をロックで。彼女には、マスターのお任せで。あと甘納豆ください」
 かしこまりましたと立ち去るマスターの後ろ姿を見ながら、
「ねえ、お任せでって大丈夫かな?」
と、鈴木さんは不安そうに言った。
「大丈夫。プロなんだから」
「ところで、甘納豆って聞こえたんだけど」
「ああ。甘納豆だよ。僕が頼んだのはラムなんだけど、甘納豆と合うんだよね。マスターに教えてもらったんだ」
「お酒に甘いのなんて合うの? 酒好きに甘党はいないって良く言うじゃん」
「それ偏見だから。まあ、僕用に頼んだから、鈴木さんのドリンクに合うかは分かんないけどね」
「なにそれ。ひどくない?」
「冗談だよ。マスターに任せとけば心配ないって」
 程なくして、マスターはドリンクを持ってきた。
「はい、佐藤さんにはレモンハート151。そちらのお嬢さんにはネバタを。ラムとグレープフルーツをメインに使ったカクテルです。甘さ控えめなので、甘納豆にも合いますよ」
マスターは笑いながら言った。
 どうぞごゆっくりと言ってマスターが離れたあと、僕らはグラスを静かに合わせた。
 鈴木さんは、淵手前まで入ったカクテルグラスを、こぼさない様にゆっくりと口に運んだ。
「すごく美味しい! スッキリして飲みやすいよ!」
 それは良かったと、僕もグラスに口をつける。甘さのある、熱い液体が喉を通る。そして、すかさず甘納豆。うん。たまらない。
 それを見ていた鈴木さんが、わたしもやってみたいと言った。僕は止めたが、彼女はきかなかった。結果は目に見えていたが、案の定、一口飲んで蒸せ返った。
「なにこれ!? よくこんなの飲めるね!」
 げほげほする彼女に、僕のチェイサーを進めて、だから止めただろと、笑いながら言った。
「もっと強く止めてよね! 死ぬかと思った」
「そりゃあ、75.5度あるからね。そうなるよ」
「そんなのよく飲めるね。いつか死ぬよ」
「そうだね。誰でもいつかはね」
 その言葉のあと、僕の想いを鈴木さんに話した。
「鈴木さんに言われて、自分の想いに気づいたんだ。まあ、聞いてよ」
鈴木さんが、真顔で頷いた。
 なりたいものと訊かれて、最初はもやもやした。それが、鈴木さんと会っているうちに、はっきりとした形になって、どうやら止められない。
 僕の話を鈴木さんは黙って聞いている。最後まで吐き出させようとするように。
「ここに連れて来たのはね、僕のなりたいものを見せたかったからなんだ。僕ね、バーテンダーになりたいんだ。バーに通うようになって、飲んでるだけじゃなくて、自分でもやってみたいって思うようになってね。羨望が願望に変わったんだ。鈴木さんより、よっぽど安易な理由だけどね」
 鈴木さんは、優しく微笑んで言った。
「やっぱりあるじゃん。なりたいもの。なったらいいんだよ。それに嘘偽りがないんだったら」
「そうだよね。人生一度きりだしね」
 僕らはもう一度グラスを合わせた。
「やっぱり、同じ匂いだったね」
おっしゃる通りです。

 そうと決めたら、あとは進むだけだ。
僕は冬のボーナスを丸々貯金して、遅まきながら、お金を貯め始めた。東京のバーテンダースクールに通って、そこで職を斡旋してもらうのが、一番の近道だと思ったからだ。調べると、スクールは半年コースで四十万円。それに引っ越し費用と職が見つかるまでの生活費を合わせて、最低でも二百万円は欲しい。半年間は失業保険が出るし、住む場所は、学生時代の友人が千歳烏山の一軒家で一人暮らしをしてるので、それをあてにすれば何とかなる。甘い見通しのような気がするが、もう止まらない。
退職日は事務所移転後の七月。ボーナスが出たら、二人で退職願いを出すことにした。

 慌ただしく月日は流れ、事務所の移転日がやってきた。残雪も消えかけた三月一日。四月から来る新人職員を新事務所で迎えるために、この日に設定されていた。年度末の忙しい時期にと愚痴も出る。
 僕らの計画まで、あと四ヶ月ちょっと。
上司や先輩や同期、そして親にすら辞めることを相談していない。忙しさにかまけていたのもあるが、言い出せずにいた。でも、さすがに親にはそろそろ相談しなければ。
 僕は日曜日に、車で一時間程離れた実家に向かった。同じ県に住んでいても、めったに顔を出していなかった。だから、正月以来に顔を出した僕を両親はびっくりして出迎えた。
「珍しいわね。盆暮正月しか帰ってこないあんたが」
 母にそう言われて、移転絡みで忙しかったんだよと言い訳をする。
「父さんもいるんだろ? 表に車あったし」
「いるわよ。部屋でサクラマス釣るルアー作ってるわよ。ちょうど時期だからね」
 そう、と答えて僕はリビングのテーブルの上の大福を手に取り、腰を下ろした。
 所在なく大福を弄りながら、何て切り出そうかと迷っていた。ここに来るまでも考えてはみたが、どうも思いつかない。でも悩んでいてもしょうがない。ええい、言うがままよ。
「母さん、話があるから父さん呼んできてよ」
「あら、何? 話って。ひょっとして結婚とか!?」
ヤバイ。変に期待を持たせてしまった。
「いや、そんな話じゃないから。まあ、早く呼んできてよ」
 母は、はい、はい、と二階の父を呼びにリビングを出ていった。
 程なくして父が降りてきて、どうした、話なんて珍しいなと言いながらテーブルに着いた。
母もお茶の用意をして、テーブルに着く。
 僕は二人を交互に見て、意を決して話し始めた。
「聞いて欲しいことがある。今の仕事を辞めて、バーテンダーになりたいんだ」
 二人は何も言わなかった。いや、言えないんだろう。公務員の二人からしてみれば、それも当然か。
 母がようやく重い口を開いた。
「何言ってるの、あんた。それ本気なの?」
「ああ。本気だよ」
 父は黙ったままだが、僕はここに至るまでの想いを語った。 でも、どう語ったところで理由は安易だ。飲み歩いてるうちにバーテンダーに憧れたなんて。当然母は反対した。憧れは否定しないが、先がどうなるか分からない仕事に就いてどうするのかと。そして、今の仕事がどんなに恵まれているかを、噛んで含めるように僕に話す。当たり前のように、見てるのとやるのは全く違うとの話もされた。それは僕にも分かっている。
 僕と母のやり取りを聞いていた父が、静かに話し出した。
「俺も飲みに行くのが好きで、もちろんバーにも行く。正直カッコいいと思うよ。若い頃は俺もなんて思った時期もあったから、お前の気持ちも分からなくはない。でもな、水商売なんだよ。良い時もあれば悪い時もなんて言うが、良い時なんてないかもしれない。給料だって安い。お前が今見てる景色、それに将来見るであろう景色。全部見れなくなるぞ。安定なんて望めないぞ。まだ表面しか見てないお前に、その覚悟はあるのか?」
 僕は覚悟という言葉に黙ってしまった。答えが出ない自問が頭の中をぐるぐる回る。今の景色を捨ててまで、その世界に魅力はあるのか? しょせん、若い時期のノリでの決意でしかないのだろうか? 何度も考えたはずなのに、決心したはずなのに、父に言われて揺らいでしまう。
 そんな時、鈴木さんの言葉が頭を余儀った。
「わたし、犬ぞりレーサーになる!」
あの時の、鈴木さんの輝いていた顔を思い出した。
 僕は思いの丈をぶつけた。
「なりたい気持ちに嘘偽りはない。公務員の二人から見れば、信じられないことを言ってるのも分かる。でも、ここでやらなきゃ一生後悔すると思う。するにしても、やって後悔したいんだ」
 父は一つ間を置き言った。
「しなくていい後悔もあると思うがね。まあ、好きにしてみたらいいよ。お前の人生だから」
そう言い残し、二階に戻っていった。
母は俯いて、泣いているようだった。
僕は、ごめんと一言残し、家を後にした。

 六月に入り、僕らはそれぞれの上司と同期にも報告をした。反応はそれぞれだった。上司は反対したが、同期には理解を示してくれる者も多くいたのには驚いた。
 父と母とはあれっきりだっだが、僕は着々と準備を進めていた。十月に始まるバーテンダースクールの手続きと、千歳烏山の友人への同居のお願い。友人は快く引き受けてくれた。お金の面も何とかクリアできた。鈴木さんも諸問題をクリアしていて、カナダのホームステイ先も決まっていた。まあ、鈴木さんに関しては、おじさん達の引き止めが煩くて苦労しているみたいだが。
 
 七月十日。いよいよボーナスの日がやってきた。
 僕らが辞めるのは周知の事実になっていたので、退職願いをしたため部長の元に向かった。退職願いは鈴木さんに書いてもらった。テンプレだから、一緒でも大丈夫でしょとのことで。
 ここに至るまで散々説得されていたが、部長も僕の顔を見るなり、ついに来たかと若干身構えているように思われた。
「部長、お話があります」
一応あらたまって僕は声をかける。
 部長は渋い顔をしながら言った。
「まあ、来るのは分かってたけどね。一応訊いておく。気は変わらないんだな?」
「はい。短い間でしたが、お世話になりました」
そう言って、退職願いを部長に手渡した。
 部長は封を開け、さっと目を通した。
そして暫く沈黙したあと、ため息混じりに僕に言う。
「なあ、佐藤。これは受け取れないわ」
 その言葉に僕は焦った。今更なぜ? ここにきて引き留める理由なんてないだろ?
「なぜですか、部長。前に話した通り僕は……」
 部長は僕の言葉を手で遮り、やれやれといった風に話した。
「あのな、これ会長の名前間違ってるから。訂正してこい」
 部長から渡され、文面を確かめると、確かに会長の名前一文字が間違っていた。
「す、すみません! すぐに直してきます」
 僕はすぐさま電算室に向かい、鈴木さんを手招きした。
「鈴木さん、もう退職願い出した?」
「わたしはまだだよ」
「これさあ、会長の名前間違ってるんだよね。今、部長に渡したら返されたよ」
 鈴木さんは、僕から渡された文面を読み、
「あ、ここね。ごめん、ごめん。今直してくるね」
と、たいして悪がりもせずに自分のデスクに向かった。
 程なくして、これで大丈夫だからと訂正された退職願いを受け取り、僕はまた部長の元へと向かう。
 まさか二回出すとは思わなかったが、今度は部長にも受け取ってもらえた。
「引き継ぎや何やらで、八月末までいることになるだろうから、それまでよろしくな」
僕は頷き、その場を後にした。
 
 八月に入り、僕らは同期や先輩達に送別会と称した飲み会に散々引っ張り回された。特に鈴木さんは、おじさん達からの誘いが、これでもかというくらい予定を占めていた。まあ、鈴木さんロスになる気持ちも分からないではないが。
 いよいよ最終日。僕らは二人で各部署を挨拶回りをした。普段付き合いのある人無い人。応援の言葉や寂しくなるとの声。たまにそっけない態度。新事務所に移って五ヶ月足らずだったが、ここで見る最後の景色。もう先は見れないと、ここにきて実感する。
 定時になり、僕らはロビーで皆に見送られて、事務所を後にした。
 渡された花束を見ながら、鈴木さんが言う。
「なんか、わたし達結婚するみたいだね」
「そうだね。新婚旅行行く前の見送りみたいだったよね」
 僕は、ふと思ったことを口にした。
「しかしさあ、僕らあんだけ二人で飲みに行ってたのに、誰一人疑わなかったのかねえ。海彦山彦の大将くらいじゃない?」
 鈴木さんは不思議そうに僕の顔を見た。
「あれ? 佐藤君知らなかったの? めちゃくちゃ疑われてたよ。まあ、わたしが全部否定しといたから大丈夫だっだけど」
「えっ!? そうだったの? いや、全く知らなかったよ。まあ、普通疑うか」
 鈴木さんは、笑いながら僕に訊いてきた。
「佐藤君は、わたしに恋愛感情はあったのかな?」
 僕も笑って答えた。
「いや、まったく無いよ」
「良かった。わたしも無かったよ」
僕らはその言葉を最後に、別の道を歩き始めた。

 あれから十五年が過ぎ、僕は地元に帰ってきて、小さなバーを営んでいる。帰って来たのは、父の死がきっかけだった。なんだかんだ応援してくれた父と母には感謝しかない。
 鈴木さんはといえば、最初は苦戦していたが、今では女性の第一人者になり、カナダの住所や番地すらない辺境をベースに頑張っている。最寄りの駅が数百キロも離れているため、移動はもっぱらセスナだそうだ。オフシーズンは日本に帰って来て、雑誌への寄稿や公演でレース資金を稼ぎ、またシーズンに戻るの繰り返しをしている。たまに連絡がくる時は、足りないレース資金のカンパや自伝の購入のお願いばかりだ。賞金稼げてないねとツッコミたくなるが、完走するのも命懸け。だが、それにみあった賞金でもないのだろう。どちらかというと得るのは名誉か。
 この仕事をしていて、たまに当時のことを考える。僕は結局流されただけだった。確かにバーテンダーになりたいとの想いに嘘はなかったが、それに蓋をして安定を求めていた。流されはしたが、後悔は全く無い。好きな仕事で、細々だが暮らしてもいけてる。捨てた景色の代わりに得た今の景色にも満足している。まあ、ボーナス時期になると、たまに同期が羨ましくなることもあるが。
 結局鈴木さんは僕にとって、そりを引くハスキーのような存在だった。
僕はただ引かれてただけだったが、いつか、ちゃんとお礼を言いたい。
出会えて良かったと。

終 



 

 

 
 

わたし、犬ぞりレーサーになる!

わたし、犬ぞりレーサーになる!

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-31

Copyrighted
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