病室の恋人
病室のドアをひらくと、彼女は読んでいた本を布団の上にそっと置いて笑みを浮かべる。その微笑みの温かさは彼女の優しさそのままだと私は思った。
「お待たせ。気分はどう?」
私がいつもの調子で訊くと、彼女はほんの少し首を傾げていつもの調子で言った。
「まぁまぁかな」
互いに顔を見合わせて笑い合う。何かが面白いわけでもないのだけれど、二人でいる時間は、確かに同じ幸せを共有していた。とても小さな幸せだったが、私達にはそれで十分だった。想いだけで心は満たされた。
彼女は私の幼馴染だった。どこにでもいる普通の幼馴染の関係だったと思う。それが進学を境にいつの間にか彼女との距離は離れてしまった。彼女は進学校、私は商業高校に進学し、住んでいた家こそ遠くはなかったが、会うことはすっかりなくなってしまっていた。
そんな二人が繋がり合っていたのは携帯電話のメールだった。多くても日に一回か二回程度だったが、彼女の近況はだいたいわかっていた。お互いの高校の文化祭や体育際に行く機会もあった。実際に再会したのはそれぐらいだろうか。
小さい頃から男子とも気軽に遊んでいた彼女は私なんかよりずっと友達も多かったが、彼氏ができたのは大学に進学してからのことだった。私にも高校時代には彼女がいた時期もあったが、長続きした相手はほとんどいなかった。
私は高校卒業後、父親と同じ旅行代理店の会社に就職した。勤務先は小さな事務所だ。社会人一年目は多忙だった。覚えるべき仕事は山積みだ。新しい彼女を作る余裕なんてまるでなかった。慌ただしく日々は過ぎ去っていく。こうして青春の気持ちを置き去りにして、自分もいつの間にかつまらない大人になっていくのがなんとなくわかった。
夏に彼女から彼氏ができたという知らせがあって、その頃からメールの回数は週一程度に減ってしまった。彼女の方からメールがあるということはほとんどない。彼氏が出来たのだから仕方ないと思う一方で、私は内心彼女を意識するようになっていた。これが片想いだと自覚したのは、しばらく経ってからのことだった。
ある日彼女から会いたいとメールがあった。場所は市内にある大学病院だった。そこに入院しているのだとメールには書いてあった。軽い気持ちで足を運んだ。骨折か何かして、弱気になって気まぐれに自分なんかを頼ってくれたのだと思った。それくらいにしか考えられなかった。
初めて見舞いに訪れた日、彼女のいる病室には、綺麗な個室、だが冷たい感じだな、という印象を受けた。ドアをひらいて、彼女を見つけた私は言葉を失った。ベッドの上に横になっていた彼女は、私の記憶にある男勝りで活発な少女の姿は見る影もなかった。そこにいたのは病に蝕まれて痩せほそった一人の女性だった。肌は青白く、鎖骨がくっきりと浮き出ている。細い腕には点滴の管が繋がれていて痛々しかった。
その日、彼女と何を話したのか私はよく覚えていない。ただ別れ際に「また来るよ」と言ったのだけははっきりと覚えている。彼女がとても嬉しそうに微笑み返してくれたからだ。以来、私は暇を見付けてはこうして彼女の見舞いに通っている。
私の母が人伝てに聞いた話しによると彼女は重い難病を患い、治療は困難なんだという。
通っていた大学も休学し、最初のうちは見舞いに来ていた彼氏ともすぐに別れてしまったのだそうだ。彼女の辛い気持ちを考えると、胸をしめつけられる思いだった。
見舞いに通ううちに、不思議とお互いに素直な気持ちになっていった。話すことといえば他愛もないことばかりだったが、これまで会えなかった時間を取り戻すように語り合った。
いつだったか、彼女がぽつりと「好きだよ」と私に呟いた。私はその一言で彼女も自分を想ってくれていたのだと悟った。そして言葉を重ねる前に優しく唇を重ねていた。
病室では静かな時がゆっくりと流れている。
一緒にいる時が、このまま止まってしまえばいいのに。私は何度そんなことを考えたことだろう……。
ドアをひらくと彼女が待っている。
「お待たせ。気分はどう?」と、私が訊く。
「まぁまぁかな」と彼女が言う。
それがいつまで続けられる幸せなのかはわからないけれど、私は彼女が他の誰よりも愛おしい。
たとえ二人に残された時間が残り僅かだとしても、私はこの恋心を忘れはしない。
病室の恋人