「鰻絞り」「穴子縛り」「泥鰌掬い」……違う…何か山に関係するもの?

 小便がなかなか出なかった。
 所謂トイレボールが小便器の中で密やかな芳香を発するのが微かだが感じられた。窓の向こうは一面の田圃で刈られた稲の株が遠くまで連なり丘になった向こうは小学校らしい。足元のセメントの床には水漏れが長らく続いた痕跡が向日葵のような黄色いひだを形作っている。黴であろう。とにかくアンモニア臭が酷い。便器の上に握り飯が置かれている。私はその皿の上に置かれた握り飯を見詰めながら陰茎の奥の弛緩を待ち、ゆっくり深く息を吸い込み、瞑想状態に入ろうとする。

「出えへんなあ」
「出えへんなあ」

 ぷるる。ぷるる。ぷるる。

「出えへんなあ」

 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ぷるる」
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ぷるる?」
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ああ。電話か…」
 電話が机の上で着信音とともにバイブレーション効果で天ぷらのように回っている。これはガラケーである。スマートフォンにした方がよかった。漫然と天ぷらで言えば出来上がりに近いだろうと思われる携帯の動きを見詰める。ガラケーは違うかったな。スマートフォンにしておけばよかった。
 ぴたっ。
 携帯はその場で静止し着信音は止んだ。
今何時だ。十時か。コーヒーでも淹れるか、と立ち上がり、台所に向かおうとした時、ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 通話ボタンを押して受話口に耳を傾けた。
「おおう」
 受話口の向こうから挨拶なのか電話に出た事に対する小さな驚きなのか、ただ声が漏れただけなのか。
「山岡か?」
 相手は続ける。受話口のこの遠い懸崖はなんだろうか。何かが捩れているように思う。彼は異次元にいるのだろうか。ああ、眠たいなあ。何でこの男は個人使用の携帯電話なのに名前の確認をするのだろうか。
「おおう、聞いてんのか?」
「ああ、悪い。おお、聞いてるよ」
「おおう、どないしてん?テンション低いな」
「寝てたから」
「寝てた?」
「そう、寝てた」
「寝てたんかい!」
「おお、寝てた」
「起きろやあ!」
「起きてるし」
「んもう!起きろって!」
「起きてるし」
 しつこいなあ。何なんこいつ。面倒くさいなあ。何の用なんだ?
「それで、何の用?」
「おおう、あんな、あれ、この前言ってたやん。あれ、コスモ太郎のやつ」
「誰?」
「コスモ太郎やんけ!」
「誰やねん」
「お前!『水曜日はコスモ・タイフーン』知らんのか!」
「ああ」
 そう言えばそんなテレビ番組が流行っていたぞ。
 確か、頭が岩海苔のようにテカテカした青鬚の濃い年齢不詳の男が司会をする視聴者参加型クイズ、短編ドラマ、ゲストを招いてのトーク、唄もあって、盛り沢山の九〇分。そのあとに天気予報があって、三〇分の難解なアニメと続いて、イレブンニュースだ。
 実は私は今学校を休学しており、というより勝手に休んでいるだけだが、アルバイトに勤しんでおり、忙しい生活にテレビを見る暇が無く世間の趨勢に遅れを取っていた。
 いや、それは言い訳でただ単に怠けていて、要するに、一人暮らしを始めて生来の出不精が顔を出し、つまりは朝起こしてくれる人がいないことで、暮らし向きが非常に鈍重になり、夕方になってようやく四時間のアルバイトに出掛けるだけの生活に安逸し、そしてそのアルバイトはチルド室で黙々と仕分けを行うのみなので、人との接触が皆無であり、その試験管のような営みは私にとって、逆に、心地の良いスパイラルなのであった。
「おお、15チャンだろう」
 私は記憶を取り戻しこう言った。
「そうそう15チャン」
「それが、どうしたの?」
「おお!それがな!当たった!」
「何が?」
「もう、ほんま信じられへんわあ!」
「何がだ?」
「コスモ・タイフーンのクイズだよ!」
「え」
「クイズ」
「は?」
「二人一組なんだよ!」
「クイズ?」
「クイズ」
「何それ」
「当たった!」
「うそお?」
「一緒に行かへんか?」
「まじで?」
「まじまじ」
「まじで?」
「まじまじ」
「まじかよ?」
「まじやって」
「まじで行くの?」
「おおう、行こうや」
「行くんかあ…」
「え。嫌なん?」
「あいや、そんなことないよ」
「おし!じゃあ、行こう」
「お、おお…」
「じゃあ、決まりやな!来週の日曜日、バイトないやろ?昼の三時入りらしいわ。だから、そうやな、どないしよかっなあ、十時でええわ、十時。十時に難波やな」
「お、おお、分かった。十時やな」
「じゃあ、そういうことやから」
「おお、あ、ちょう待って十時か」
「え、何」
「あ、いけるわ十時な」
「おお、行けるやろ」
「おお、十時な」
「頼むで」
「あれ、日曜日?」
「え、どないしたん」
「ああ、日曜日か」
「行けるやろ」
「おお、バイトないわ」
「じゃあ、十時な」
「おお」
「頼むで」
「おお、ほなな」
「おお、ほな」
「じゃあ、切るわ」
「おお」
「またな」
「おお、じゃあ」
「じゃあ」
「切るで」
「あれやな、十時な」
「おっ、せや、十時」
「よっしゃ、んな」
「おお、んな」
「んなな」
「おお、じゃ」
「お、んじゃ」
「んな、切るわ」
「おお、んな」
「お、んな」
「んなね」
「ふな」
「おうっ、切るし」
「おっ」
「あれ、十時やっけ」
「そう、十時。遅れるなよ」
 寒井とはいつもこのようにして電話を切るタイミングを逸するのである。
 われわれはいつもこの電話回線の間で出口の見えないインタラクティブで無意味なやり取りを行い、最終的な帰結を見出せないまま、もはや己自身さえ知覚出来ない霊体としてのどちらかが、またもしかすると同時期に、感覚的作用で右端の大きめのボタンを押すことにより通話は終了する。
 寒井は大学に入ってからの唯一の友人であった。
 学食でいつも隣り合う仲で、ひっそり端の席で、たまに非常勤なのか背広にベースボールキャップを被ったお爺ちゃんみたいな誰かと三人で昼食をともにしていたのだが、三ヶ月ほど誰も口を聞いたことがなかった。
 たまたまそのお爺ちゃんが油物はカロリーが高いからちょっと食べられへんねん、お兄ちゃん、これやろか、と勝手に私の皿に牛カツの残り三切れを放り込んだとき、おい、なにすんねん、と立ち上がろうとした私を制して、そっとソースを手渡したのが寒井であった。
 それから寒井と学食で会う度話をする仲になり、特に婉曲に話すオナニーの話題で私たちは胸襟を開き合った。彼から両手を用いて行為を行うという秘密をそっと耳打ちされたとき私は彼に陰在する恐るべき魔物を知った。
 私に関わり合いにないことがこの世にあることに呆然とした。
 私に至っては利き手と反対の左手で味気ないガムを噛むようにそのか細い旨味を追求していたに過ぎなかったのだ。
 私は自分を恥じると同時、寒井の秘された、或いは顕現した、そのある種剛胆とでも言える相に出会し、素直に感服したものだ。
 いつしかベースボールキャップのお爺ちゃんは学食に姿を見せる頻度が減った。見る度に痩せ細っていくのが目に見えた。最後に見た時、その黒目の奥には何物も映っていないように見えた。紙コップにお茶を入れて中庭の森のいずこかへ消えていった後ろ姿だけが目蓋に焼き付いている。
 時計を見ると十時半であった。寒井は今頃大学の講義を受けているのだろう。私と例のお爺ちゃんのいない学食の端の席に寒井は一人腰掛けて昼食を食べるのだろうか。今から家を出れば昼食に間に合い午後の講義を受けることも可能だ。もう二ヶ月も学校に顔を出していなかった。単位が心配だ。まずはコーヒーでも淹れるか。うん、そうしよう。
 私は立ち上がり台所に向かい鍋に水道水を注ぎ焜炉にそれを置き火をかけた。
 インスタントのコーヒーの顆粒をマグカップに入れ、私は待った。
 待ちながら寝起きの小便が膀胱に滞って繊細な針の穴を刺激しているのを感じた。

 小便はじょぼじょぼと緩慢に便器の深い溜まりに落ちていく。
 じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ、長いな、じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ、へへへ、よく出るな、じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ、そう言えばあの向日葵の咲いたセメントの床、小便器の上に置かれた皿に盛られたお握り、酷いアンモニア臭が染み付いたであろうあのお握りの向こうには刈られた稲株があって、その先に小学校があった。あの時はなかなか小便が出なかったんだ。

 私は、求人情報に記された地図を手掛かりに見知らぬ街を彷徨っていたのであった。そこは中華料理屋らしかったが電話番号の記載がなく、住所と簡易な地図だけが便りであった。
 私は行き交う人々に道を尋ね歩いたがみな要領を得なかった。
「多分それはあっちじゃないかな」
「ああそれはこっちだよ」
 聞く人それぞれに独自の見解がありそれぞれにばらつきがあったのだ。私は人々の言い分を頭の中で思い描き、三次元的な右脳の働きを持って、地図と照らし合わしながら、シミュレートされた、その中心点を目指した。
 しかし、中心を目指しながら外縁へと向かうのは人類の歴史の歩みと軌を同じくしているとは言えまいか。道は直線でなく、曲がり、迂回に次ぐ迂回、私は見知らぬ土地から更なる見知らぬ土地に足を踏み入れていることに気付いてはいなかった。
 太陽は西に傾いていた。
 太陽の位置からして東にある山脈から流れてくる川の支流らしきが足元の暗渠に潜り込んでいた。左手は金網の張り巡らされた大きな敷地で白いコンクリート製の建物が奥にある。その屋上に大きなパラボラアンテナが山を背に上空を見上げていた。右手は田圃で刈られた稲株が狭い敷地にあって傍らに汚らしい浴槽に緑色の水が張られていた。道の反対側も一面の田圃。奥の小高い丘に小学校らしきが望めた。暗渠になる前の溝川の少し凹んだ箇所につんつん動く小さな魚を発見ししばらく見るともなく見ていた。その間三台の車が行き交ったが、人とは出会さなかった。山とは反対側の少し行ったところに民家があった。もう日は沈もうとしていた。
 田圃に囲まれる形で一軒、その平屋はあった。横は納屋になっているらしかったがシャッターが閉まっていた。その前に軽自動車が止まっていた。門柱には『奥西』とあった。 インターホンを押すと、こちらにも分かるよう、音が鳴った。当然家の中からも音が聞こえた。しばらく待っていると、引き戸の磨り硝子に人が近付いてくるのが見えた。引き戸が開かれ、つるっ禿げのお爺さんが顔を出した。眉毛が黒く非常に濃かった。
「なんや!便所か!」
 その『奥西』らしいお爺さんは言った。すると、このお爺さんの横から、スーツ姿の男がぬいっと現れ、では、あたしはこれで、と囁くように言いながら出てきた。では、どうも有り難うございました、と私の後ろで振り返ってお辞儀をして、道を曲がり、山脈に沿うた道を歩いて行った。
「あいつも便所じゃ!」
 お爺さんは私にこう言った。すかさず、
「お前も便所やろう」
 眉毛の奥の鋭い眼光が光った。私に何か含みを持たせるように、ふふ、と笑みを浮かべた。その時、右目だけがギョロッと上に向いた。その右目は義眼のようであった。
「さあ、便所はこっちじゃ」
 私は肩を掴まれ無理矢理家の中へ入らされた。家の中は前方奥まで土間になっており、左手に沓脱ぎ石があって上がり框の先は居間になっていた。そこにいやに着込んで膨らんだ老婆が机の前に座っていた。テレビを見ていた首が徐々にこちらに推移する前に、私はお爺さんに促されるまま土間の奥へ進んだ。
 土間の奥に便所があった。男便所と女便所に分かたれていた。
「お前はこっちじゃ」
 私は当然、男便所に案内された。
 木戸を開いて中に入った。中に学生服を着たセンター分けの男がいて用を足していた。学ランの裾を捲り上げて顎に挟んでするスタイルであった。私の顔を見ると、ふふ、と含みを持たせる例の笑みを浮かべた。私も意味が分からなかったが、ふふ、と笑みを浮かべた。
 彼は尻を大仰に二三回振って、水滴を飛ばした後、それをチャックに仕舞い、顎に挟んだ裾を降ろした。それから袈裟に掛けた鞄をくいっと腰に引き寄せて、颯爽と出ていった。 小便器の下の床に黄色いひだが放射状に伸びていた。小便をすればいいのか。システムが分からないので私は困惑しながら小便器に向かった。右手に木戸があって、そこは大便器であった。扉は開いており、そこには誰もいなかったので、少しほっとした。
 私はチャックを開きそれを小便器の排尿口にあるトイレボールに照準を合わせた。小便器の上の皿に盛られたお握りを見詰め尿道を弛緩させた。窓の向こうには刈られた稲株その先に小学校。

 じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ…

 小便はなかなか出なかったが、ようやく紙コップにすれば三分の一ほど、精子より少し多いくらいの量を、出すことに成功したんだ。
 すると後ろの木戸が突然開かれ、子供が一人活き活きとした顔で駆け込んできた。だが、私の顔を見ると、
「あ」
 と切ない顔に変わった。もじもじとして両手を股に挟んで身体をくの字に床を呆然と見ていたが、私がそれの水滴を揺すぶりだしチャックに仕舞う動作をすると、彼は精気を取り戻したように顔を上げた。私は小便器から半歩ずれたが、少年は用心深そうに私を見て、一歩踏み出そうとしたが、すぐに首を引っ込めて視線は床に戻った。
 私は含みを持たせる笑みを浮かべ、彼を見た。彼の視線は床から動かなかった。私は小首を傾げるしかなかった。小首を傾げながら木戸に向かおうとすると、少年は私を素早く横切り、もどかしそうにズボンとともにパンツを膝まで下げ、小便器に躙り寄った。下腹部が小便器に嵌まり込んでいた。
 木戸を開けると、便所の横に据えられた椅子に座ってお爺さんは腕を組み中空を睨んでいる。
「あのう、どうも」
 と一応礼を言うと、ひたっと私の顔を見て、
「おう、また来いや」
 と言った。
 私はここを訪ねた目的を思い出した。私は求人情報誌のページを開き、お爺さんに指し示した。
「ここまで、どう行けばいいでしょうか」
 お爺さんは開かれたページを覗き込み、私の指し示す人差し指につつっと小指を沿わせ、文字の一つ一つを声に出して読んだ。
「中華料理、きんとうん、宅配、まかない付き、時給九百円、原付免許、なければ自転車の使用も可、中田町四の六の二十三」
 中田町四ー六ー二十三…
 お爺さんは住所をもう一度呟くと、再び腕を組み天井に顔を向けて深く眼を瞑った。
 しばらく、沈黙が続いたが、出し抜けに木戸が開かれかと思うと、さっきの少年が駆け出してきた。少年は、
「サンキュウ!」
 と、その場に飛び上がってこう叫ぶように言うと、そのまま土間を走って玄関に飛び出していった。
「中田町四ー六ー二十三。ちょっと待てよ」
 お爺さんの眼が開かれた。椅子から立ち上がり、対面のガラス障子で仕切られた部屋へゴム草履を脱いで入っていった。
 奥で何やらゴソゴソしていたが、戻ってくるとその手には大きな巻物のようなものが握られていた。お爺さんはその巻物のようなものを椅子の上に広げた。それは地図だった。「しかるに、ここは田辺町じゃ。東に山脈が走っておるじゃろう。この田端山地が隣県との県境である。そして、中田町。そこは六つの町を越えた南にある。ここから中田町を通る道は二つある。一つは田端街道。これはもっとも単純なルートで一本道だが、肝心の四丁目から少し外れる。もう一つは市道15号だな。いわゆる矢鍋坂村線じゃ。道は狭く、時に歩道のない区間があり、また、旧環状線に交わる区間では右折と左折を二度行わなければならないが、直接四丁目を通る。その点ではわしは市道十五号を推す」
 お爺さんは地図を示して、市道十五号を指でなぞった。やはりそこも小指を用いていた。「しかし、最も確実な方法がある」
 お爺さんは市道十五号をなぞる小指の反復を止め、そっとその手をスウェット地のズボンのポケットに入れた。じゃらじゃらと音をさせながらポケットの中をまさぐりながらこう言った。
「タクシーがある」
 すると、その手に小銭を示し、数を数えた。
 百円が三枚、十円が三枚、五百円が三枚あった。
「なんぼや、千八百三十円か…」
私の手を取り、それを握らせた。
「これぐらいで足りるやろう」
「え、いいのですか」
「おう、使え」
「そんな」
「まあ、気にすんな」
「悪いですよ」
「よく考えると、徒歩では遠い。かなりな」
「頂けませんよ」
「いいからよ。取っとけって」
「そんな」
「また今度来たとき返してくれたらいいからな」
「そんな」
「いいからって言ってるやろ」
「本当ですか」
「構わん」
「で、でも」
「いや、だからいいって言ってるやろ」
「でも悪いですよ」
「しつこいぞ!お前!」
「あ、じゃ、じゃあ」
「取っとけ!」
「あ、ありがとうございます」
「おう」
 私はその小銭を握り締めた。あまり断ると逆に怒られるかもしれないと思ったからだ。
 その時玄関の扉が開かれ、
「すいませーん。トイレ貸してくださーい」
 スーツ姿の男が鞄を両手で持って直立している。
「あいよ」
 お爺さんは応対に行った。

 じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ…

 それからどうしんだっけ。
『奥西』から千八百三十円貰ったんだ。
千八百三十円。千八百三十円。
 大きな河が眼下に流れていた。
 崖沿いの小さな駅のロータリーだった。そこに一台だけ止まっていたタクシー。あれは個人タクシーだった。でも、タクシーには誰も乗っていなかったんだ。

 じょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼじょぼ、じょぼ、じょぼ、じょぼじょぼ、じょぼ、っじょぼ、っじょぼ。



 っじょぼ。



 タクシーには誰も乗っていなかった。もうとっぷりと日が暮れて、ロータリーから望める駅のホームには人の影すらなかった。少し冷えるので私は自販機で、

『あったか~い』

 コーヒーを買ったんだっけ。
 そして、植え込みに座りドライバーの出現を待った。しばらくすると駅のホームに電車が到着した。誰も乗客を吐き出すことなく、扉が閉まり、電車は発車していった。それから数分後、遠くの方でライトが瞬き、どうやら崖道を車が左折してきたようだ。ゆっくり車はこちらに向かってきた。黒いワンボックスはロータリーに入ると停車した。ライトが消されエンジンが止まった。時計を見ると八時過ぎだった。
 踏切の向こうは坂になっていて、その空に大きな月が掛かっていた。あの坂を歩いてきたのだった。五階建てマンション『メゾンポワーレ田辺』の一室に明かりが点った。空き屋が多いのだろうか、ほとんどの部屋が暗闇で閉ざされていた。
 二十分ぐらい経ったであろうか。さっきとは反対方向に電車が到着した。電車が発車すると、ホームを歩く一人の青年の姿が見えた。すぐに彼は階段を上って行きその姿は消えた。私は黒いワンボックスに視線を移した。エンジンが掛けられライトが点灯した。振り向くとセーラー服を着た美しい少女が嬉しそうに駆け出していた。そのまま車に乗り込むと、車はゆっくり発進し、ロータリーを一周して、徐行しながら右折していった。
 遅れて青年が階段を降りてきた。私を見ると、はっとして、すぐに進行方向に向き直った。私を遠ざけるように線路側のフェンスすれすれに歩き、そのままロータリーから出ていくのかと思ったが、突如、ロータリーを横切りタクシーの方へ早足で歩いて行った。そして、そのまま右側からタクシーの後部座席に乗り込んだ。
 辺りは沈黙していた。崖下に流れる河のせせらぎだけが微かに聞こえていただけだ。
 タクシーは全く発進する気振はない。当然、乗務員がいないからだ。それなのに青年はタクシーの中に籠もったまま降りようとしない。
 私はムックリと立ち上がってタクシーまで移動した。右側の後部座席の窓をコンコンと二度叩いた。薄暗い車内から覗える青年の顔はとても悲しそうであった。左腕を抱えて項垂れていた。ただ、その横顔に妙な笑みを浮かべていた。しばらく見守っていると、決心したように青年は私の顔を見た。そして、すぐに逸らした。私は溜め息を吐いて頭を振った。
「違うんやけど」
 思わず言葉が漏れた。
 すると、窓が少しだけ開いた。このタクシーはパワーウィンドウでなく手動式だったのだ。青年は私を見ずにこう言った。
「嫌がらせはやめてください」
 彼は何故か私に怯えているようであった。
「誤解やし」
 彼は左腕を抱えたままその妙な笑みを浮かべていた。まるで、袋の鼠になってしまった運命を嘲笑うような、そんなニヒルといおうか、僕はいつもこうなのさ、という一抹の切なさを私は感じずにはいられなかった。
「違うんやって」
 私はどう説明したらいいか分からなかった。私の一挙手一投足が暴漢のそれに当てはまるか当てはまらないか、彼の私に対する内部的な桎梏を感じ、どのように振る舞うべきか、細心の注意を払わなければならなかった。
「あっちへ行ってください。僕は何も持ってはいません!」
 青年は突然、決然とこう叫んだ。
「だから誤解やって」
「僕が警察を呼んでも構わんのですか」
 キッともの凄い形相で中空を見上げた。ポケットをゴソゴソさせスマートフォンを取り出した。
 何を言っても無駄だ。その時私は感得した。彼はきっと、私が彼の財布を強奪する目的でこの人通りのない駅で待ち構えていたと考えているのだろう。歩いて帰る道すがら追跡されて強奪される可能性を視野に入れ、タクシーに駆け込んだのだろう。そこまではよかったがタクシーに肝心のドライバーが不在で、彼は出るに出られず、恐らく万事休すとでも思っているに違いない。彼が危惧するのは私の存在だ。要するに、しばらくこの場所から離れれば彼も安心し、自ずから出てきて何処かへ行くだろう。そう考えるが早いか、
「じゃあ、勝手にしろよ。僕は行くからな」
 反転し、私は切符を買う振りをして、駅の階段を上っていった。そして、駅長室の前にあった旅行のパンフレットを見て時間を潰し、十分ぐらいしてから階段を降りた。タクシーはまだそこにあった。右側の後部座席に少し開いた窓。左腕を抱え奇妙な笑みを浮かべる青年。
「やっぱり罠だったんだね。そんな策謀、僕には通用しないよ」
 彼は私を見ず遠くに視線を向けてこう言った。



 山岡。

 山岡。山岡。

 山岡。山岡。山岡。

 おい。聞いてんのか。
「え?」
お前じゃ。お前。
「え?何ですか」
 何ですかちゃうやろ。これお前間違えとるやんけ。ちゃんと住所確認しろや。
「あ、すんません」
 お前そんなん結構多いねん。仕事やぞ。ちゃっとせえ。
「すんません」
 ほんま、気い付けえよ。
「あかん。呆っとしとったわ。ちょっと寝てたかなあ。昨日大分寝たのに。寒いわ、ここ。寒いと眠たくなるらしいからな。ああ。仕分けも疲れるなあ。あの社員うるさいからなあ。あいつも結構間違えるのに。人には厳しいからな。ほんま。最低なやつだ。
 それにしても、さっきまで何考えてたんやっけ。何か小便して。千八百三十円。そう、千八百三十円。確か千八百三十円貰ったんだっけ。誰に。あいつは…そう『奥西』だった。『奥西』の便所を借りて、小便の対価に千八百三十円だっけ。その時何か『奥西』言ってなかったっけ。何を言っていたんだ。何か言っていたぞ。

「鰻絞り」「穴子縛り」「泥鰌掬い」…

 まあ、いいか。それから歩いたんだ。駅に向かって。駅にタクシーが止まっているからと言われて。坂を登り右側に『メゾンポワーレ田辺』があって踏切が見えて。
 そう言えばその『メゾンポワーレ田辺』からタクシー運転手が現れたんだ。結構ほろ酔いで、ゴム草履を履いて、気持ちよさそうな顔で、風にたゆたうようにふわりふわり、右に寄ったり左に寄ったりしながら、徐々に近づいて来たんだ。
 あの青年。名前は何と言ったっけ。私にひどく怯えていたんだ。最初の頃は私が何を言っても、そうなんですか、そうなんですか、と取り付く島もなかったが、求人情報誌を示して、丁寧にこれまでの経緯を語ると、私の顔を窺いながら頷いたりし始めた。ただ決して車の扉の鍵は開けようとしなかったが。
 ふと見ると彼は何処かへ電話をしていた。まさか警察ではないだろう。疑いは少なくとも晴れたはずだった。電話を終えると彼はひどく落ち込んだように項垂れた。しばらくして顔を上げると、奇妙な笑みが張り付いていたので、私は不気味に思ったものだ。
 その間に時計をチラッと見ると十時だったから、恐らく運転手が姿を見せたとき、すでに十時半を過ぎていたことだろう。
 緑色の背広、下は白いスラックス、愛用しているのか制帽を頭に乗せ、パーマを掛けた髪が側頭からはみ出ていた。私を見つけると、
「お」
 と声が漏れた。
「客か」
 と言ったが、私に問うというより自分の感想を言葉にしただけのようだった。
「いきなりやん」
 とまた感想を言葉に出し、
「これはラッキーやぜ」
 と、嬉しそうであった。自宅で一杯引っ掛けたのだろう、ほんのり顔が赤らんでいた。
「ちょっと待ってな」
 乗り込もうとすると鍵が掛かっている。
「あれ、鍵閉めてないのに」
 運転手は不審げに窓を覗き込むと、後部座席に座る青年を認めた。
「あ。松本君やんか。君もおったんや」
 後部座席でこの『松本』君はやはり左腕を抱えたまま切なそうに遠くを見ていた。松本君はこのタクシーをよく利用していたのだ。
 運転手はキーを取り出して鍵を開け、乗り込むと左側の後部座席のドアを開けた。私もぐるっと回って乗り込んだ。運転手は振り返り私を見た。
「ごめん悪いけど、相乗りでもええか」
「ええ。僕は構わないですけど」
 私はそう言うと横の松本君を見た。
「松本君もそれでええか」
 運転手が応答を求めると、松本君は小さく頷いた。
「中田町の方やね」
 運転手にそう言われ私は驚いたが、それは私に言ったのではなかった。松本君は左腕を抱えまた例の奇妙な笑みを浮かべていた。
「いいえ。今すぐに郷里の方へ向かって頂きたいのです」
 遠くを見ながらこう言った。
「え。なんでまた」
「ええ。母親が倒れたんですよ」
 月を見上げているのだろうか。反対方向を向いているので表情は窺い知れなかった。
「えっ?お母さん大丈夫なの」
「さあ、分かりません。一応、一人親なもんですから、僕は行かなければならないでしょう」
「そうなんや。松本君。あんまり気い落としなや」
 松本君はそれには何の反応も示さなかった。
「あれ。ちょっと待って松本君。松本君。松本君の郷里って何処やっけ」
 松本君は左腕を抱えたまま未だ笑みを浮かべていた。顔を運転手に向けると、
「四国まで」
 こう言った…」

「こう言った…」
「こう言った…」
「こう言った…」

 私はこう言った…と何度も確かめるように口に出した。私はこのエコーが気に入って布団の中で何度も口に出した。

「こう言った…」
「こう言った…」
「こう言った…」

 声音を変えたり、リズムを変えたりして、何回かそのエコーを繰り返していた。時計を見ると十時だった。そう言えばこの前も十時に電話があったな。いや、十時に約束があったんだっけ。暑井から電話があったんだ。いや、寒井だっけ。どっちでもいいや。今頃講義を受けているんだろうな。あいつも。よくやるよ。ふわっ、少し冷えるな。最近けっこう冷えるからな。布団を引き寄せ丸まった。

「じょんごお!」
「じょんごお!」

 あれは何の鳴き声はなんだろうか。あるいは人間の叫び声だった。寝ていたのに非常に五月蠅かったんだな。
 そこは四国に向かい合う本州の対岸、ある大橋にほど近いとある砂浜だった。私は海風が吹いて寒いので砂に埋まって熱を身体から逃がさないようにしていた。軽装なのでここで一夜を明かすのは自殺行為かと思ったが、星を仰ぎながら、波の音を聞いていたかった。
 私は何故こんなところまで来ていたのだろうか。
 あの時、松本君が、
「四国まで」
 と言ったとき、私も咄嗟に、
「あ、僕も」
 と言ってしまったのだ。
 私は何故、僕も、と言ってしまったのだろうか。
 まず第一に中田町にある件の中華料理店はもう閉まっているだろう、というのがあった。 では家に帰ればいいのでは、と普通は思うが、私の頭の中にその選択肢はなかった。私は親と私の一人暮らしのことなど今後のことを巡って対立していたはずだ。私はバイトもしたことがなかったので、その点からも明らかに親に舐められていた、ふざけるな、俺を舐めるんじゃない、こういう気持ちが私をして家には向かわせなかった。むしろ家から離れたかった。とにかく遠くへ行きたかったのだ。
 と、すれば松本君の四国行きは私にとって渡りに船だったのだ。勿論、私には、四国に親類はおろか知り合いもいなかった。そもそも四国になど行ったことがなかったのだが。
 松本君は怪訝な顔で私を見た。私は松本君の頭上にある月を投げやりに見ていた。私は松本君の不幸に乗じていたのだ。
 運転手は何度か私に確認をしたが、私はそうしてくれ、と発言を撤回しなかった。
 運転手はメーターを倒し、発進した。ロータリーを回り、停止線で一旦停止し、左右を確認すると徐行して右折した。
 しばらく行くと車は高速道路に乗り入れた。私はタクシーに初めて乗ったので、高速料金は客が支払うものだとは思い至らなかった。むしろ心の何処かでタクシーは高速が乗り放題だと、そんな楽観すらあったのだ。
 私は表示されたメーターの金額にばかり目を向けていたのである。高速道路に入るとメーターは破竹の勢いと言おうか、見る見るうちに金額が膨れ上がっていった。私は一喜一憂しながら見守っていた。見ると、松本君は涼しい顔で車窓を眺めていた。結構な大金を持ち歩いているのだろうか。あれほど用心深くなる理由が分かった気がした。
 一万五千を越えた時、私はもう駄目だ、と思った。私はこの辺りで降ろしてくれ、と運転手に懇願した。運転手は困惑した顔で私を見た。
「まだ、四国じゃないよ」
「構いません。本当はこの辺りでいいんです。四国までは通り道でしたから…」
 こう弁解し私は言った。
「そうなん、じゃあ降りるわ。もっと早く言ってな」
 運転手は少し不満げに言うと、次の出口で降りた。私は適当な場所で車を止めてもらった。すでにメーターは一万八千円になっていた。実は一万六千円、これが私の全財産だったのだ。どうしよう。身ぐるみ剥がされるんではないだろうか。今まで愛想のよかった運転手はその化けの皮を現すのか。
 メーターが精算モードに切り替えられた。松本君が九千円を差し出した。
「え?」
 私はビックリした。それを見て、松本君が、
「ああ、高速代もあるね。いくら?」
 運転手はレシートのようなものを出して、
「え~、千八百三十円」
 私は思い出した。ポケットに入れた小銭を取り出した。これもあったんだ。そしてそれを皿の上に置かれた松本君の九千円の上に置き、財布から一万円札を出した。
 なるほど、相乗りだから半分ずつなんだ。理解して、その一万円札を置くと、九千円の中から千円札を抜き取った。
「これでいいでしょう」
 私は二人に確認した。
「あれ。高速代はええんか」
 運転手は聞いた。
「ああ。いいですよ。あれさっき貰ったやつなんで」
 運転手は小首を傾げ、よく分からないという顔をしながら、松本君を見た。
 松本君はこちらを見、左腕を抱えたままの当初からの格好で、くいっとちょっと首を動かした。会釈のようなことをしたようだ。私はそれに頷いて、無言のまま身体を屈め開かれた扉から足を降ろした。そのまま通りを真っ直ぐ歩いて行った。後ろで扉が閉められ、車は発進していった。
 
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。

 ぷるる。ぷるる。ぷるる。

 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ぷるる」
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ぷるる?」
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。
「ああ電話か…」
 たまらなく五月蠅かった。
 しばらくすると電話は切れ、ほっとした。
 そのまま頭の奥をドリルするように眠りの世界に入ろうとすると、すぐにまた、
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 布団をひっ被り我慢していたものの、ものすごい音だ。けたたましい。頭の奥をドリルするように目を瞑っていると、電話が切れた。ほっとするのも束の間、また、
 ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。ぷるる。
 更に、机の上のバイブレーション効果でその振動音がまた不快なのであった。私はもはや堪らず、布団から手を出して、手探りで電話を掴み、ぺっと投げ捨てた。電話は壁に当たって、そしてテレビの裏に落ちた。テレビの裏から着信音は続いた。
 電話はただの媒体に過ぎないので、乱暴に扱われようが、着信があれば機械的作業でベルを鳴らすのである。犯人はその発信者だ。
 仕方なく、私は立ち上がって、屈んでテレビの裏に手を入れ、電話を取り出すと、通話ボタンを押し、耳に押し当てたのである。
「おう。寝てた?」
 私は何も答えなかった。寒井である。
「今日行くやろ?」
 今日は日曜であった。確かクイズに行くのであろう。しかし、時計を見るとまだ八時半ではないか。
「まだ八時半やんけ」
 私は言った。
「いや、遅れたらあかん思て、おはようコール入れてん」
「おはようコールとかいらんし」
 私はかなりムカついた。何やねん、おはようコールって。うっとうしいわ。
「十時に行ったらええんやろうが」
 私がきつく言うと、
「おう。十時。難波な」
 とすぐ切り上げようとした。
「分かってるし、難波やろ」
「おう。十時な」
「おっしゃ」
「じゃあ、切るわ」
「おう」
「ほなな」
「おう、ほな」
「んな」
「おう、んな」
「切るわ、十時な」
「おう、分かってるって」
「あれな、難波やから」
「知ってるし」
「OK、じゃあまた」
「おう、また」
「頼むで」
「おっしゃ」
「んな」
「おう、んな」
「切るし」
「おう」
「二度寝とかすんなよ」
「分かったって」
「よっしゃ、頼むで」
「おう、じゃあな」
「何やったら、あれ」
「なんや」
「また電話入れよか」
「え」
「電話」
「いや、遠慮しとくわ」
「いらんか」
「おう」
「そうか」
「おう」
「じゃあ、切るし」
「じゃあな」
「遅れるなよ」
「おう、まかせとけって」

さて、クイズの正解はぬるぬるするもの?蛙であろうか?

 あの砂浜も寒かったが、今日もなかなか冷えるな。あの晩は砂浜で一夜を明かしたんだ。
 砂の中に埋まって顔だけ出して。
 星が綺麗だった。将来のことや、今までのことを観想していた。心の何処かで熱く燃え上がった炎が眼底まで満たされていたんだ。そして一心と海を見詰めていた。この熱く燃え上がった顔面に、海風が、心地のよい冷気を届けてくれた。
「俺はイケているんだろうか」
 海は何も答えなかった。そして無情にも、海風だけが私の頬を舐めるように過ぎ去っていった。
「俺はこの寄せては返す波みたいなものだ」
 静かに、ある悟りを得た気になって、海の彼方を見詰めていると、
「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」
 背後の砂浜の彼方の暗黒からだった。そこは堤防があってその向こうはキャンプ場らしかった。首を回してみたが見えなかった。声が非常に野太いのが印象的だった。カーブする道路にたった一つ電灯が光っていただけだった。
「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」

 十時。約束の場所に行くと寒井の姿がなかった。
「ん。難波って言っていたな」
 始め私は間違えたかと思った。記憶を辿ってみたが、
「やはり難波だ」
 だとすれば遅刻をしたのか。私は呆れながら、少し待っていると、寒井が恥ずかしそうな顔でやって来るのが見えた。
 緑のスーツを着て、下は白いスラックス、このためにパーマを掛けたのか、頭に妙に四角い帽子を被って側頭からその髪をはみ出させていた。
「悪い。悪い。行く前ちょっと、うんこしてもうて」
「何やねん、それ。おはようコール意味ないやんけ」
「悪いって」
「何やねん、その格好」
「格好ええやろ?」
「まあな」
 別になんとも思わなかった。私の方がお洒落だと思っていたからだ。
「何処で買ったん?」
 などと適当に言った。
「飯食べた?」
「食べてないな」
「ちょっと食べよか」
「ほな、食べるか」
 その辺をぶらぶらしていると、良さげな店を発見したので、二人揃って立ち止まった。
「あそこにするか」
 テントウ虫の概観の店だった。テントウ虫は丁度こちらに背を向ける格好で、甲羅がパックリ逆V字に開いたところが入り口のようだ。
店の前に置かれた黒板にはチョークで、
『鰻定食(コーヒー付き) 千二百円』
 とある。
「鰻か…」
 私は何かを思い出して呟いた。『鰻』にまつわる言葉を『奥西』から聞いたような。
「いいねえ。鰻」
 寒井は嬉しそうに言った。
「ここにするか」
「ここにしよう」
 われわれは店に入った。店は木の内装だった。ニスを塗っているのか全体がテカテカとしていた。店の衣装なのだろうテントウ虫のはっぴを着た女性が席に案内した。われわれ二人は喫煙者なので灰皿をお願いした。一人暮らしをして覚えた大人の味だ。水が運ばれ、同じ女性が注文を聞きに来た。
「あの、その鰻定食にはコーヒーは付いていますよね」
 寒井は気になるのか書いてあるのに念を押している。一円も無駄にしたくないのだな、と私は思った。

『鰻登り』…

 いや、違うぞ。何か食材だったはずだ。それは田舎にありそうなやつだ。それに鰻の配置は下だったはず。
「おい、うまいな、これ」
 寒井が口元にご飯粒を付けながら、嬉しそうに言った。私はそれに答えず思索に没頭した。かなり手繰り寄せていたのである。

 確か、寄せては返す波のような意味だったはず。いや、ちょっと違うか。鰻、鰻、鰻。山にまつわるような。『岩鰻』…?

「おい早く食べろよ」
「お…おう、食べるわ、うまいな、これ」
 食べ終わると、一服した。コーヒーが運ばれてきた。
「コーヒーもうまいな」
「うん。コーヒーもうまいな」
「また来ような」
「おう、来よう」
 われわれはぼんやり窓外に歩く人々を目で追っていた。呆っと煙草に火を付け、足を組みながら食後の一杯を楽しんだ。
「いいねえ」
「いいねえ」
 店内はよく知らないが、ジャズみたいな何か雰囲気的に心地よい音楽が流れていた。
「ときに寒井殿、今は何時かね」
「うん、あそこの時計を見ると十二時過ぎだね」
「結構長くいたねえ」
「そうだねえ」
「そういえば、テレビ局はすぐそこなんだろうね?」
「ああ、ユニバーサルシティだってよ」
 寒井は言った。
「あれ、ちょっと遠いぞ」
「ええ?行けるやろ」
「いや、ちょっと遠い」
「まあ、行けるやろ」
「まあ、行けるけど。USJのところだろう。それなら新今宮とか天王寺にすればよかったのに」
「ええ?ここからでも行けるだろう」
「行けるよ。行けるけど、何か遠い」
「まだ間に合うって」
 それからわれわれは店を出た。
 寒井は地下鉄に乗ろうとするので、呼び止めて、
「おい、JRの方がよかろう」
 寒井は近鉄なのでどうやらJRには詳しくないようだ。
 私はJR沿線なので知っていたのだ。電車に乗るときは路線図を暇つぶしに眺めていたものだ。環状線から分岐してユニバーサルシティ駅がある。カタカナ表記だから目立っていた。それに行ったことはなかったが例のテーマパークがあることでも有名だ。
われわれはJR難波で電車に乗り、新今宮で環状線に乗り換え、西九条で降りた。
 西九条はサングラスを頭の上に乗せたピッチリしたジーンズを穿いた女性や、ピッチリしたホットパンツを穿いたきゃぴきゃぴする女性たちが多くいた。USJに行くのだろう。 他にも家族連れなどもいたようだが、私にはあんまり見えなかった。寒井と話しながら横目でさりげなくだがそれらを追っていた。寒井もあまり私の目を見ていなかったから、きっと彼も同じものを追っていたのだろう。沈黙が怖いので、われわれは、話の流れであまり得意でないサッカーの話、しかも更に得意でない海外の方の話題を、声をひそめるように話していた。
 洋アニメのキャラクターの描かれた電車に乗り込み、ユニバーサルシティ駅に向かう車内は熱気にむんむんしており、肉体の密林であった。私は痴漢に間違われるのを危惧して、両手を挙げ吊革を掴んだ。身体中が女性に密着しているので、私は紳士を装うように寒井に向かって苦笑した。
「人が多くていやだなあ」
 本当はまんざらでもなかったのだ。

 そのテレビ局は正式名称は『ユニバーサル・ブロードキャスト』というらしかった。
『UBC』
 そう言えば新聞のテレビ欄の上にそう書かれているのを思い出した。十五チャンネルだ。
 UBCはユニバーサルシティ駅を出たすぐの、安治川という大きな川の河口付近の中州に建てられてあった。人工島らしかった。
 眼前に見える巨大な建築物にわれわれは少々臆してしまった。
 ドーム状の下層から円錐形の尖塔が伸び出し雲を突いていた。先端付近には土星の輪のようなものが掛けられてあり、すこぶる未来的だ。浮いているのか、と期待したが内側で三点のアームで止めてあった。
 そこまでは橋を渡って行かなければならなかった。海風が激しく吹いていた。
「すごい風だな」
「全く、飛ばされそうだ」
 寒井は四角い帽子を手で押さえていた。
「洋上から遮るものがないからな」
「なるほど、それでか」
 そのままゲートを通ろうとすると、
「あ、あ、あ、ちょっと、自分ら」
 警備員に呼び止められた。
「はい?何ですか?」
「通行証あるか」
 われわれはお互いを見合って笑った。
「何言ってるんですか。僕らクイズのゲストなんですよ。ゲスト」
 猜疑心の強そうな警備員であった。この警備員は肩を怒らし、首をその中に縮めて、腕を腰に、われわれの顔を細目で見回した。ここは一歩も通すまいぞ、と鼻息を吐いていた。
「じゃあ、証拠があるだろう」
 私は寒井をこづいた。寒井は中指を丸め親指に合わしOKと示すと、胸ポケットから封筒を取り出した。封筒から一枚の紙を恭しく警備員に見せつけた。そこには、
『水曜日はコスモ・タイフーン クイズコーナー招待券』
 と書かれ、続いて、

『寒井洋一郎殿
 他一名』

とある。
 警備員は頷きながらわれわれは見回し、親指を突き出した。
「これは本物だな。よし、それなら、あそこのフロントでもう一度その招待券を見せてやってくれ」
 われわれはゲートを通らされ、そしてフロントの女性二人に、同じくそれを見せると、一人の女性が何処かに電話を掛けた。しばらくお待ちください、と言われたので、しばらくその場で待っていると、遠くから手揉みしながら小男がこちらにやって来るのが見えた。社員証を胸に掲げている。『AD』と書かれてあった。
 こいつが世に言うADなのだな…
「これはご足労願いありがとうございました」
 ADはわれわれに礼を言い、では、こちらへ、とそそそっと先に立って歩き、われわれを奥に招き入れた。まるで迷路のような通路を右に左に折れ、とある廊下の一室にわれわれを案内した。
 畳敷きの六畳ほどの小部屋である。一方の壁は前面鏡張りになっていた。
 なるほど、これがいわゆる楽屋というもの…
 私は首を回し辺りを見回した。寒井はすかさず机の上、容器に盛られた菓子に手を伸ばしていた。寒井は推し量るようにADを見た。
「お食べください。もし飲み物が所望とあれば、そこにウォーターサーバーがございますので、そちらもご利用なさっては如何でしょうか」
 われわれは紙コップを手に取りウォーターサーバーの水を注ぎ入れた。
「お二方、お早いお着きに恐れ入ります。しかしながら収録は四時からとなっておりまして、お時間の方もなかなか余っております次第で、どうでしょう、この先に大浴場がございまして、人工の温泉ですが、そこでお汗の方をお流しになられては?」
 ADはそうわれわれに示唆を与えると、三時半頃にもう一度呼びに参ります、と言い残し去って行った。
「温泉があるようだな」
 私はそれとなく寒井に言った。
「うむ、若しかするとサウナもあるのだろうか」
 寒井はいぶかしげに呟いた。
「きっとあるだろう。温泉にはサウナが付きものだ」
 私がそう言うと、寒井は何気なく時計を見上げた。まだ二時過ぎだった。微妙な空気が流れた。
 私はおもむろに立ち上がった。
「おい、何処へ行くんだ」
「トイレだ」
 寒井はしばらく考えて、
「俺も行こう」
 トイレを探していると、
『大浴場ここを左に曲がってスグ』
 と書かれた張り紙が目に止まった。私は腕を組みながら寒井を見遣った。
「大浴場はこの先らしいな」
 私はそれとなく言った。寒井はしばらく考え、こう呟いた。
「大浴場にはトイレがあるだろうな」
 私も少し考え、ようやくこう言った。
「では大浴場に行ってみるか」
 私は本当は大浴場に行きたかったのだ。寒井の手前、興奮する姿が見られたくなかったので、口には出さなかっただけだ。トイレに行ったのも下見に行こうとしただけだ。恐らく寒井もそんな気持ちだったのだろう。
 そして大浴場に着くとどちらともなく服を脱ぎ百円ロッカーにそれらを放り込んだのは言うまでもない。

 大浴場はヨーロッパスタイルであった。
 水瓶のようなものから湯が沸き出でて、それが絶えず下の浴槽にこぼれ落ちていた。四方をギリシャのような青年の彫刻が片手を頭に乗せて仰け反る格好をしていた。
 寒井が身体を洗わず湯に入ろうとするので、呼び止めた。
「ちょちょお前、身体洗えや!」
「洗ったわ!」
 聞くとちょっと目を離した二三分のうちに洗ったと言うのだ。そんなものが洗ったうちに入るものか。隅々まで洗うのが道理というものだ。すると、一人客が入って来て、そのままザブンと浴槽に飛び込んだ。私は目を疑ったが、この男は嬉しそうに湯を顔に掛けて、ああ、とか、ふう、とか呻いていた。この男は大便の後、しっかりと尻は拭いているのだろうか。こびり付いていたものが溶け出したりはしないであろうか。最後までこの男の挙動を私は恨めしく追っていたのだが、最後の出る間際で身体を洗っていた。これは反則技ではないのか、私は思った。
 とは言え、大浴場はまさに極楽そのものであった。熱くもなくぬるくもなく、丁度良い感じの温度でずっと入っていられた。少し底が浅くなった場所で寝っ転がることが出来るのも嬉しかった。宇宙的なヒーリングミュージックが母なる地球を感じさせ、虚空に漂っている原始生物の心持ちであった。
「いいなあ」
 寒井は人が出たり入ったりする波の動きにたゆたいながら、感嘆している。
「いいなあ」
 私はぼんやり『奥西』の言葉を思い出していた。

『岩鰻』…
 近いんだ。山の岩鰻…
 山の岩は鰻とならず。
 うーん。もう一息なんだがなあ。

「おい、山岡、サウナに行こうぜ」
「お…おう」
 そうしてわれわれはサウナでひとしきり汗をかいた後に大浴場を後にした。

 レンタルタオルを首に掛け、身体の芯から汗をかいて虚脱しながら、廊下を歩いていると、
「アンタ、MIYOKOの気持ちも考えたりたりいや!」
 一人の男が二人の女に囲まれて何やら口論していた。
「雲行きが悪いね」
 寒井は言った。
 寒井が言うには、男は俳優の『木手英一』という若手だった。プレイボーイで知られているようだ。二人の女はガールズモデルをしている、『MIYOKO』と『SHIZUKA』と言うらしく、その美しさに私は少しく憧れを抱いた。木手とMIYOKOは週刊誌でその恋愛を仄めかされていた仲であるらしい。
「違うよ!誤解なんだよ!あれは本当に友達なんだ!SHIZUKAちゃんも知っているだろう」
 木手はなにやら弁解をしていたようだが、
「アタシ見てんで、アンタらがホテルに一緒に入るの!」
 SHIZUKAは木手の言い分を喝破した。
 その時、MIYOKOが泣き崩れた。そしてキッと木手を睨んで、木手の頬をはたいた。「うわ」
 われわれは驚きを隠せなかった。
 木手は自らの頬に手を遣り呆然と二人を見詰めていた。
「もう行こう。MIYOKO。他にも男おるから。こんなやつ相手にしたらあかんねん」 そう言って二人は廊下を去って行った。
 残された木手はふらふらっと壁に凭れ、そのまま倒れるようにその場にしゃがみ込んででしまった。顔を膝の上に乗せた腕の中に埋まらせピクリとも動かなくなった。
 掛ける言葉などなかった。そもそも知り合いでもないので立ち入ったプライベートのことなど知る由もなかった。われわれは無言で木手の前を通り部屋に戻った。

 三時半を過ぎた頃、ADがわれわれを呼びに来た。ADは通路を何度も曲がり、そして大きな扉を開けると、われわれをそこへ通した。
 洞窟のように薄暗い通路であった。そこは全体ひんやりしていた。ぴちょん、ぴちょん、と冷房の結露であろうか水の滴る音が聞こえる。
 前方に煙草の自販機があってそこだけ仄かに照らされていた。その脇に赤いバケツがあって水を張られた中に吸い殻が何個か浮かんでいた。
 私は丁度煙草を切らしていたのでそこで煙草を買おうとした。しかし、私はタスポを持っていなかった。そこで寒井に借りようとしたが、同じく持っていなかった。ADを見たが、彼も首を横に振った。
 呆然としていると、自販機の下に何か落ちているのを見つけた。屈んで手に取ると、それはタスポだった。そこには『木手英一』とあった。私はそのタスポで煙草を買った。
「後で、僕が渡しておきますよ」
 ADがそう言って受け取った。
 ただ、その自販機はセーラムとかバージニアスリムとかが棚を埋めていて、私は欲しくもない端にあったメビウスの一ミリを仕方なく買ったのだった。
「そろそろ始まりますよ」
 慣れているのかADは懐中電灯なしでも薄闇を先に立って歩いた。しばらく行くと、仄暗い彼方に光が揺らいでいるのが見えた。

 その黒いカーテンから覗うと、すでに観覧席は客で埋め尽くされていて、スタジオの解答席には二人の男女、それから変な三人組がスタンバイしていた。その男女とはあの木手英一とSHIZUKAであった。新作映画の宣伝のために呼ばれたらしい。あの変な三人組は『グレートスリーパワーズ』というお笑い芸人であるらしい。あくまでお笑い担当だから、われわれのライバルではない、とADは言った。
「木手英一、SHIZUKAの映画チームがあなた達の実質のライバルですね」
 ADはこう付け加えると、時計を確認し、そしてわれわれの背中を押した。
「さあ、皆さんお待ちかねですよ。あの端の席にお座りになってください。出るときに観覧席に手などを振ってもらえればいいですよ」
 われわれが出ていくとそこここで小さな拍手が起こった。言われた通り端の席に腰を下ろした。そこにはフリップとマジックペン、スポンジ、台の右隅に早押しのボタンがあった。
 このスタジオセットは天空をイメージしたものらしい。真ん中に三十段はあるだろう長い階段があり、上が雲を模したスモークで霞んでいた。その階段からハの字に、観覧席から向かって右に解答席が並び、左に司会者席がある。そこには未だコスモ・太郎の姿はなく、アシスタントらしい女性が原稿を束ねたり、別のADと何やら打ち合わせをしたりしていた。
 口々に話し合う観客を制して、ADが本番の訪れを告げた。観客がそれを聞いて沈黙した。
 本番五秒前の合図とともにカウントが数えられ、ADは最後のゼロを口に出さず、手で何かを受け渡す仕草をして、海老のように後ろに下がっていった。
 するとスタジオは突然暗転した。雷が鳴り響き、暴風が吹き荒れる音がした。
 そして大自然の営みを敷衍するように、嵐が去り、何処からともなく鳥の声が聞こえ始めた。すると、階段の彼方に光が差し、そこに立つ男の後ろ姿を照らした。鎧でも着ているのだろうか異様に肩が張っていた。
 歓声が上がった。
 男が振り返った。そして両手を広げた。
 更に歓声が上がり拍手が沸き起こった。
 男が階段を駆け下りてくる。なんてアグレッシブな動きだろう。階段の途中で飛び上がり、十字架のような形で一回転した。そしてそのままの状態で着地した。この時、皆申し合わせたように静寂した。
 しばらくして、この男は皆の心を掴み取るようにグッと拳を顔の前で握り締めた。
「水曜日は『コスモ・タイフーン』今週もいよいよ始まったね」
 やっとこの男が口を開くと、どっと再び歓声が起こった。
「そして、何を隠そう、この僕がこの番組の司会を務めるコスモ・太郎という男さ。皆さん、これから一時間半の間お付き合いくださいね」
 こう言ってコスモ・太郎は恭しくお辞儀をした。鎧のように見えた服は燕尾服で、裃のように肩が張っていた。青い光沢のある上等な織物であった。ただでさえ大きいのに踵の高いブーツを履いていた。まさに雲を突く男といった体だ。
「さて、最初の三十分はクイズだね。じゃあ、これから楽しい解答者のみんなを紹介しようかな。まずは映画チーム」
 コスモ・太郎は優雅な物腰で解答者席に歩み寄った。そして気さくそうに解答者席に腕を凭せて木手英一に話し掛けた。
「調子はどうだい」
 話し掛けられ、木手ははっとして顔を上げた。左腕を抱え木手は心ここにあらずと言った体であったが、思い出したようにニッコリと頬笑んだ。
「週刊誌見たよ。順調らしいじゃないか。例のMIYOKOちゃんだね?」
 すかさず、カメラマンが木手の顔を映そうと映画チームとお笑いチームの席の隙間に入っていった。
「もう、やめてくださいよ」
木手は照れたように顔を隠したが、カメラが引き下がると一瞬、遠い眼をした。
「木手さんは順調らしいですってよ」
 SHIZUKAは木手を見て見下すようにこう言った。そして冷たい笑みを浮かべたのである。
「それは何よりだね、さて続いては、視聴者チーム」
 コスモ・太郎は真ん中のお笑いチームを素通りして、われわれの方に向かおうとした。
「ちょっと待ってくださいよ!コスモさん」
 待ち構えていたように、『グレートスリーパワーズ』の面々が一斉に立ち上がった。前のめりになり、集合写真のようにお互いに重なり合っていた。
「われわれを忘れてくれちゃこまりますよ。必殺のトライアングル・アタックをお目にかけますから!」
 コスモ・太郎は頭を抱えながらお笑いチームの解答席に手を置き、
「肉体戦ではないからね。今日は頭脳の戦いってことは知ってるよね。ところで君たちは三人いるけど、卑怯じゃないか。みんな二人なんだぜ」
「ギャラは二人分で結構です」
「そりゃいいや経費が浮くよ。でも、公平という観点から言って宜しくないね。君達はペナルティだな。一〇〇点マイナスからスタート」
 観覧席から笑いが起こった。三人は殺虫剤を掛けられたゴキブリのCMように両手を大仰に振るわせて天井を向いて口をアップアップさせていた。
「さあ、改めて視聴者チーム」
 コスモ・太郎がわれわれの解答席にやってきた。近くで見ると相当に大きかった。
 ふと、胸ポケットに目を遣ると何かふわふわしたものがあった。本来ならハンカチーフを挿している場所に、ティッシュペーパーが花咲くように挿されていたのだ。何度も見直したがそれは紛うことなきティッシュだった。
「やあ、よく来たね」
 例によってコスモ・太郎は解答席に片手を置き、気さくに語りかけてきた。
「何か食べてきたかい?」
「ええ。さっき鰻を」
 寒井が言った。
「鰻とは豪勢だね。精をつけてきたってわけかい。意気込みのほどを感じられるね。ところで君たちは何のコンビなんだい?」
「はい。大学の同級生で」
 寒井が言った。
「そうかい。で、君たちには彼女がいたりするの?」
 私も思い切って口を挟もうと、
「いえ、ただいま募集中です!」
 と、言いかけたその時、
「ええ。僕には彼女がいますよ」
 と寒井が言ったのである。
 私は硬直してしまった。一瞬何が起こったのか分からなかった。突然、遠い異国から足音を鳴らしてやってきた侵略者が私に銃を向けているように思われた。
「もう、三ヶ月ですかねえ。向こうから言い寄ってきたんですがね、まあ、僕もまんざらでもないので、いいかな、なんて思いましたもので、ええ」
 と寒井は雄弁に語り、そして、私の方を向いて、
「もっとも、彼にはいないんで…」
 と憚るようにこう言った。
 私は心の中で雄叫びを上げた。
 後ろ手に縛られたまま、この侵略者であり裏切り者である男に対して、怒りに打ち震えていたことは言うまでもない。

 それから時が経つのは早かった。全て焦燥的に私の周囲で目まぐるしく過ぎていった。様々なことが脈動しているらしかったが、私は二十分近く無言のままでいた。私は静かにも炎となって燃えていたのである。それは凍てついた炎であった。
 クイズには関してはお笑いチームがものすごい追い上げを見せているらしかった。
 と言うのも、われわれ視聴者チームは私のこのある種の抵抗による現状不参加のために、寒井だけで孤軍奮闘しなけばならなかったし、それに、映画チームの木手もクイズに身が入らないようで、早押しで、ただただ悔しがる役割に過ぎなくなっていたからだった。
 まるで勢いが違った。この『グレートスリーパワーズ』は観客を笑わせながら、更にクイズをも正解させる荒技を披露していたのだ。全く違う二つのレールを歩みながら、しかも同時にその終着では見事に合わさり、両方から収穫を得ることに成功していた。観客が大いに沸いていた。彼らはマイナス一〇〇点から蘇生するだけでなく、更に飛翔を始めたのだった。
 私はこの点では冷静にその場を観察する部分があったということだ。そして、この寒井の不甲斐なさを鼻で笑っていた傍観者でもあった。寒井は不正解を出す度に恨めしそうに私の顔を見たが、私はそれを無視した。

「さて、とうとう最後の問題だ。今のところグレートスリーパワーズが五〇点のリード、続いて視聴者チーム、そして映画チーム。ただ視聴者チームにもまだ勝機はある。なんといっても最後の問題はボーナスが付くんだ。さあ、誰が運命のハワイ旅行を手にするのか。泣いても笑ってもこれが最後だ!」
 コスモ・太郎はそう言いながら解答席の前をうろつき、言い終わると方向転換して司会者席に戻っていった。
 アシスタントの女性が問題文を読み上げる。
「世の中、起こるはずのないことが起こったり、思いもよらない変化が生じたりすることを、一般に『山の芋がホニャララになる』と、言いますが、このホニャララとは何?」
 ピンポーン。すかさず、お笑いチームがボタンを押した。
「ポテトチップス」
 小さな笑いが起こった。不正解のブザーが鳴らされた。三人は悩ましそうに腕を組み頭を振った。
 ピンポーン。更に映画チームのボタンが押された。木手が怖々とした様子で言った。
「あれかな、山芋が里芋になる…かな」
 不正解のブザーが鳴らされた。一瞬間、放心したように遠い眼をした後、あっと気付いて、
「ああ、違うのか」
 と、悔しがった。
 それからは誰もボタンを押す者はなかった。
「問題が難しいかな。いいよ。ヒントを出そう。それは、ぬるぬるするものさ」
 コスモ・太郎が見かねてこう言った。
「ぬるぬるするもの…さては蛙かな…」
 寒井が横で呟いた。私は鼻で笑った。すると寒井がジロッとこっちを見た。
 しかし、それでも誰もボタンを押す者はいなかった。
 寒井はボタンに手を掛けたまま、奥歯を噛み締めて、中空を睨んでいる。私はおもむろに寒井の手の脇から自分の手を差し入れた。
 ピンポーン。ボタンが鳴った。
 スタジオの全ての視線が私に集中した。寒井の目が私の横で見開かれていた。時間が止まったように感じた。天井の照明の光が格子状に固定していた。司会者席のコスモ・太郎の口がポッカリ開いていた。そして、ゆっくり片手を上げて仰け反り始めた。そのまま倒れるのか、と思った次の瞬間、ものすごい速さで司会者席から飛び出し、前のめりにその片手を前に突き出した。
「視聴者チーム!」
 私はしばらく黙った。
 そして、ようやくこう言った。
「………鱧」





























 観覧席の人々が帰宅を始めていた。
 その後の収録はコスモ・太郎のスケジュールの都合によってまた後日ということであった。コスモ・太郎は大勢の取り巻きに囲まれながらいち早くスタジオから姿を消し、グレートスリーパワーズの三人も、懸賞を受け取って嬉しそうに引き上げていった。
 未だ、われわれは解答席に座ったままだった。
「わざとやろ?」
 寒井が言った。
私は答えなかった。
「あれ、絶対わざとやろ?」
 私はよく分からない、という素振りで上を見上げた。
 ちなみに、われわれと同じく、木手もしばらく解答席で虚ろにしていたが、SHIZUKAが戻ってきて何か紙を木手に手渡してからは、にわかに精気を取り戻して、こちらも妙に嬉しそうに、われわれの前を横切って足早にカーテンを潜っていった。
 寒井はしつこく私に詰め寄った。
「あんな間違い方ある?普通に鰻でええやん。鱧って…」
 私は何も答えなかった。
 その時、ADがわれわれに近寄り、
「いやあ、残念でしたね。まさかお笑いチームが優勝するとは。まさに最後の問題、何でしたっけ、あれ、山の芋鰻でしたっけ。あのことわざ通りになりましたなあ。いやあ、惜しかった。いやあ、全くもう、盛り上がりましたよ」
 ADはこう興奮気味に言うと、
「あ、そう、これ。コスモさんからですよ。なんでも参加賞ということで」
 見ると、リボンの付いた学校の卒業証書みたいな筒状のものであった。ADはそれをわれわれに手渡すと、観覧席の端で彼より少し年長の男と立ち話を始めた。
「クイズにも参加せえへんし、何しに来てん」
 吐き捨てるように寒井は言った。
 私はプイッと寒井と反対のカーテンの方を向いた。
「惜しかったのに。あそこで鰻って答えておけば、優勝できたかもしれないんやぞ!」
 寒井は激昂してきたのか、喋りながら筒状のものを解答席にカンカン叩きだした。
「あのボーナス!俺ダーツ得意やねんぞ!絶対、獲れた!絶対に獲れてたのに!」
 そう言って何度も叩き続けた。
 観覧席のADともう一人が怪訝な顔でこちらを見上げた。
「おい」
 私が止めようとすると、ポンっと筒の蓋が開いて、中から一本のカーネーションが飛び出した。手に取ると、それは造花であった。

 われわれは無言のまま橋を渡っていた。
 スタジオを後にする時も、薄暗い洞窟めいた通路を歩く時も、ロビーから出ると時も、一言も口を聞くとはなかった。
 私はこの時、この唯一の友人に彼女が出来たとすれば、それはそれで吉報であると言えるのではあるまいか。本来であれば喜んでやるべきだったのではないか、と自問していた。
 彼は隠していたのではなく、言いにくくて、黙っていたのではないだろうか。そして、ああいう大舞台でカミングアウトすることで、私を推し量っていたのかもしない、そんな気持ちを抱きながら、四角い帽子を押さえながら先に歩く寒井の背中を見詰めた。
 あの時、われを忘れていたが、もっと何か方法があったのかもしれない。
 ただ、今は彼とは一緒に居たくなかった。
「なあ…」
 私は言った。寒井が振り向いた。
「ちょう、俺バスで帰るわ、この先でちょっと用事あるから…」
「そうか」
 そう言って寒井は進行方向に向き直りそのまま歩き始めた。
「なあ…」
 私はそれを呼び止めた。また寒井が振り向いた。
「何だ」
「あんな…」
 私は口ごもりながらなんとかこう言うことが出来た。
「彼女と幸せにな…」
 寒井は少し笑みを浮かべた。
「おう」
 そう言って歩いて行った。

 私はそのまま停車していたバスに乗り込んだ。
 窓を覗くと、寒井の姿があった。
 彼は切符を買い、混み合った改札の人の群れに消えていった。
 私はボンヤリ将来のことを観想していた。
この試験管のような生活の行き着く先に何があるだろうか。
「俺は時勢に乗り遅れている…」
 私は心の中でこう口にした。
 すると、少年の一団がバスに乗り込んできた。最後尾の広い席が開いているのを見つけて、嬉々として駆け出し、滑るように着席した。
「ああ、USJむっちゃおオモロかったわ!」
「まじヤバかったって」
 と口々に言い合い、ぷわんっとガーリックの臭いが漂い始めた。コンビニで買ったらしいチキンの封を開け、皆で頬張っている。
「ぶわっ、バリうまいってこれ!」
「うまっ!」
「まじ、うまいし」
 どうやら、中学生、しかも序列が最下位、または小学生の最高位だろう、と思われた。
 一人が窓の向こうの海上に浮かぶUBCの未来的建物を認めて、
「あ!あそこ、コスモおるんちゃうん!」
「でかっ!」
「アホか、俺の姉ちゃんコスモと友達やって!」
「ウソつくなや!」
「ホンマじゃ、姉ちゃんの知り合い知ってるらしいで!」
「何やねん、それ!」
「友達ちゃうやん!」
「もう、ええって」
「アー、辛いやつにすればよかったわ、俺」
「もう、お前やめろや!」
「え、何もしてへんし」
「お前、俺のDS返せよ」
「ちょ、待ってや」
「あっ、そこな、こうすんねん」
「こいつ、バリ強いやん」
 しばらくすると、おとなしくなったので、ふと、後ろを振り返って見ると、彼らは一つのニンテンドーDSを皆で覗き込んでいた。
 私は頬杖をついて深い物思いに沈んでいた。そして、バスが発進した。
 バスは何度も右折と左折を繰り返した。
 交差点で子供を連れた女性が立ち止まっていた。
 荷台に大きな荷物を載せた自転車のおばちゃんを追い越した。
 スーツ姿の男が自販機の前でジュースを飲んでいた。
建物の間から西日が差していた。




 前の席の客がぬっと立ち上がった。
 それはお爺ちゃんであった。ベースボールキャップを被りスーツを着ていた。大事そうに紙コップを両手で持っていた。
 ふと見ると、車内に照明が点いていた。窓の外は暗闇に包まれている。最後尾の中学生らしい一団も姿を消していた。
 走行する車内で、このお爺ちゃんは紙コップの液体を守るように、足を前に後ろに動かしてバランスを取っていた。
 見覚えのある景色だった。窓から大きなパラボラアンテナが望めた。すぐにバスは右折し、しばらくして徐行を始めた。
 電光掲示版には『田辺町』とあった。
「う」
 私は奇妙な尿意を感じた。くくくっと引っ張られるような尿意だった。
 バスは停車し、あのお爺ちゃんがシルバーパスらしきを掲げてそのまま降りていった。
 私も降りよう、と思った。この近くに便所があったはずだ。あのパラボラアンテナを辿った先にある、『奥西』の表札を掲げた民家だ。
 料金は三百八十円だった。
「あれ?意外に安いな」
 思わず言葉を漏らしてしまった。ドライバーは無言のままハンドルを握り進行方向を見ていた。私が降りると、後ろで、
「……した」
 と呟くような声が聞こえた。
 路上でベースボールキャップのお爺ちゃんは闇に溶け込んでいた。俯く後ろ姿は紙コップの中身に対して注意を払っているのだろう、彼はゆっくりと遠ざかっていた。
 バスが発車した。バスのフロントライトが一瞬カッとお爺ちゃんの姿を照らし、通り過ぎていった。私はパラボラアンテナが見えた方向、山の方向に向かって、このお爺ちゃんとは反対に歩いた。
 その歩道は等間隔に角柱が立ち並び、天井はコンクリートに覆われていた。仮設らしい小さな電球が少ない間隔でぶら下がっていた。歩道の右手は柵がされており、奥行きのあるスペースに資材などが無造作に置かれていた。道路の対面は緑地公園のようだった。
 しばらく行くと、角柱が途切れ、交差点になっていた。右に曲がると、すぐ側から階段が伸びていた。階段から歩道を覆うコンクリートの上に行けるようだ。前来た時はこんなものはなかった気がする。
 階段の上はただの遊歩道だった。道の両側に木が植えられてあり、ベンチがあった。人影はなかった。私は手摺りに凭れて『奥西』を確認した。広い沼のような田圃の中に埋まるように平屋の民家があった。目印のように一本の電柱から光が降りていた。左を見るとパラボラアンテナが蒼白く天空を見上げていた。

 インターホンを押したがピンポーンの反響が聞こえなかった。
 シャッターの閉めきった納屋の前に軽自動車がなかった。
 雨戸が閉ざされていて玄関のガラス戸の向こうは暗闇であった。
 見ると、門柱に掲げられた『奥西』の表札がなかった。

 周囲の田圃も近くで見ると其処此処に杭が打ち込まれていたり、盛り土がされていたり、シートに被せられた資材があったりと、何やら迫り来る都市計画の片鱗が窺えた。
 立ち退きであろうか。
 もう一度インターホンを押したが、やはり反響はなかった。内部と外部で同時に音を発して住人だけでなく訪問者も安心させるあの音が聞こえなかった。『奥西』はもはやあの便所稼業を廃業したのだろうか。いや、稼業でなくボランティアというべきであろう、私は逆に金まで借りたのだ。そう言えば、金を返さないといけない。ただ、さっき財布を確認したところ五千円札だけあって細かいのがなかったのだが。
 私はおもむろに引き戸に手を掛けた。電柱から降りる蛍光管の光が私をひっそりと照らしていた。鍵は掛かっていなかった。開けると、湿気の籠もった臭いがした。外の照明で室内がうっすらと照らされていた。土間の奥に椅子が見えた。『奥西』が座っていたものだ。
 私はそっと中に入った。沓脱ぎ石の向こうの居間には、家具や机がぼんやりと闇から浮かび上がっていた。そのまま残されているようだ。私は真っ直ぐ便所に向かった。
 木戸を開けると、涼しい風が頬を撫でた。窓が開いていたのだった。窓外で夜空と小高い丘が分かたれていた。丘の上にあるはずの小学校らしい、建物の影がなかった。あれは、取り壊されたのだろうか。
 私はチャックを開けて小便器に向かった。そして尿道を弛緩させた。
 ほんのりとトイレボールの匂いが下から漂った。小便器の上には未だ皿が置かれてある。皿の上の握り飯は三分の一ほどの大きさに縮んでいた。触るとカチンコチンに固まっていた。

「じょんごお」
「じょんごお」
「じょんごお」

 闇の向こうから時折こんな鳴き声が木霊していた。それは奇妙にもエコーが掛かっていた。

 そして、私はコスモ・太郎から貰った筒の中から、あの一本のカーネーションを取り出した。それは造花だったが鼻に持ってくると良い匂いがした。それを皿の上に置いた。それから『奥西』の屋敷を後にした。

大学はほぼ休学状態。夕方から四時間のアルバイトだけをして日々を送る山岡。夢のような過去の出来事が思い返される試験管のような生活。世界の趨勢は彼の知るよしもなく推移している。そんなある日唯一の友人寒井からクイズ番組の出演を持ちかけられる。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 「鰻絞り」「穴子縛り」「泥鰌掬い」……違う…何か山に関係するもの?
  2. さて、クイズの正解はぬるぬるするもの?蛙であろうか?