断端形成術
断端形成術 蜂蜜
夫はここ数日何か物思いに耽っているようだったが、それはとくべつ珍しいことではなかった。なぜって、彼は作家だったから。でもまさか――親指のことを考えていたなんて。
「親指を、切り落とそうと思うんだ」
夫がそう私に打ち明けたのは、秋晴れの心地よい日のことで、川沿いの堤防のうえにある遊歩道をふたりで散歩しているときのことだった。空はペンキを塗ったように雲ひとつなく青く、頭上には、絶え間なく囀りながら小さな翼をばたつかせるひばりの姿が見えた。カヌーをする若者たちがオールを曳く掛け声が聞こえた。きっとこの風景を誰かが写真に収めたら、『穏やかな秋の昼どき』なんてタイトルがしっくりくるに違いないと私は思った。そしてその写真の中では、きっと私たちはどこにでもいるような仲睦まじい夫婦として写し撮られていることだろう。まさか誰も、私たちが親指を切り落とす話をしているなんて思いもよらないに違いない。
「本気なんだ」、夫は続けた。
「いつ頃からだったかはもう思い出せないけれど、ずっと考えていたことなんだ。左手の親指が、まるで大きないぼか腫れ物みたいにしか感じられなくて、どうにもこうにも、自分の一部だと思えないんだ。とにかくこいつが身体にひっついているってことが我慢できないんだ」
私は少し考えたあとで、こう尋ねた。
「左手の親指がなくなって困ることって何かしら?」
「偉そうに自分を指差しできなくなる」
既にさんざん考えてあった答えなのだろう。夫は即座にそう答えた。
「でも右手がある」、私は言った。
「そう、右手もある。だから困らない」、夫は言った。
案の定、散歩から家に帰ってみると、全ての手はずはもうすっかり整えられていたのだった。新品のまな板と包丁があり(まさか普段使いの包丁とまな板で指を落とすわけにはいかない)、骨を砕いて指を切断しやすくするための重たい鉄製のハンマーがあり、止血のための清潔なタオルが何枚もあった。全て私の知らぬ間に夫が買い揃えたものだった。夫は執筆の合間にときおり散歩に出ていたが、まさかこんな道具を私に内緒で秘密裏に戸棚の奥に揃えていたとは、全く気づきもしなかったことだった。私の知らない間に、内緒ごとが着々とこの家の中で準備されていたのだ。そのことに、私は少なからず嫌悪感を覚えた。
「指を切り落とすところを見ていたい?」
夫は私に尋ねた。私はゆっくりと考えたあとで、「見届けたい」と答えた。血を見ることが嫌いでグロテスクな映画なども一切見ない私だが、夫の左手の親指が夫のものでなくなる瞬間を見届けることは、なぜだか私の義務のように思えたのだ――そう、たとえば夫が死んだあと、彼の骨を拾って骨壷に納めることが、ほかならぬ妻である私の義務であるように。
キッチンに立ち、真っ白いプラスチック製のまな板の上に自分の左手を広げて置くと、夫は、右手に持ったハンマーを躊躇なく左手の親指の付け根目がけて振り下ろした。ゴン、ゴン、と鈍い音が響き、そのたびに夫の顔は歪んだが、それは苦痛のためというよりもむしろ、やっかいな巨木を切り倒そうと果敢に斧を振るう勇猛な木こりの姿を私に連想させた。幾度かハンマーが打ち下ろされたあと、夫は一言、これでよし、と呟いた。
いよいよ指を切り落とすときが来た。まな板の上にぱっくりと広げた人差し指と親指の間に包丁の切っ先を立て、裁断機で紙を切る要領でぐいと一気に刃物を落とすと――きっと、もう充分に骨が砕かれていたからだろう――親指は音もなくコロリとまな板の上を転がった。夫はついさっきまで親指があった場所に止血用のタオルを巻きつけるのに必死だったから、私がその親指をつまんで、ぽい、と生ごみ用のバケツの中に捨てた。さようなら、親指さん。さようなら、私の愛する人の一部だったもの。
夫と私はその足で近所の形成外科に出かけた。夫のタオルはもう血まみれだったが、受付の若い女は目の色ひとつ変えずに、「どうされました?」と尋ねた。痛みのせいか、それとも事情を説明しにくいのか、もごもごと口ごもっている夫の替わりに、私が、親指を切り落としたんです、と答えた。
「自傷ですか? 事故ですか?」、受付の女が再び尋ねた。
「自傷です」、私は応えた。
「自傷だと保険証が使えないので自己負担になりますが構いませんか?」
まさかここでだめだと言うわけにもいかないので、結構です、と私は再び応じた。
診察室に入ってから一時間ほどで、夫は右手にカルテが入ったクリアファイルを持って私のもとへと戻ってきた。ファイルの中には、縫合前と縫合後の傷口を写したポラロイド写真が入っていた。見たところ夫の傷口は、周囲の皮を引っ張って縫い繕われていたようだった。カルテを見ると『断端形成術』という短い言葉が一言書き込まれていただけだった。クレジットカードで会計を済ませ、痛み止めの薬と、熱が出たときのための解熱剤を貰って私たちは家へ帰った。これが秋のことだった。
冬になる頃には夫の包帯はすっかり取れ、かつて親指があった場所にはつるりとしたきれいな丸い断面が残った。だが、いっこうにして夫は相変わらず浮かない顔で何か考え事をしているようで、私は何か厭な予感がした。ひょっとして……と私が問いかけようとしたまさにそのとき、夫は私のその悪い予感をそっくりなぞるようにこう呟いた。
「人差し指を切り落とそうと思うんだ」
ああ、やっぱり、と私は思った。
「人差し指がなくなると何が困るかしら?」、私は尋ねた。
「他人を嘲り笑って指差しできなくなる」
「でも右手があるから大丈夫、ね?」
「そう、右手があるから大丈夫」
そこから先は全て一緒。夫はハンマーで骨を砕いたあとで人差し指を切り落とし、彼がタオルで止血している間に私が指を生ごみのバケツに放り込み、そして二人揃って形成外科へ行った。夫のカルテには、一回目の下に、二度目の『断端形成術』の文字が書き込まれ、クレジットカードで料金を払い、鎮痛剤と解熱剤を貰って私たちは家路についた。
春に夫は中指を切り落とし、夏には小指を切り落とした。中指を落として困ることは、「卑猥なサインが出せなくなる」、小指を落として困ることは、「ゆびきりげんまんできなくなる」だったが、いずれも右手があれば問題のないことだった。少なくとも左手の指が四本ないということは、作家としての彼の仕事に大きな影響はなかった。彼は手書きで原稿を書くタイプだったから、左手は原稿用紙を押さえるための文鎮代わりに拳さえあれば、それで事足りてしまうのだった。こうして、春に一回、夏にさらにもう一回、切り落とされた指のかわりに『断端形成術』という言葉が合計四つ、形成外科の戸棚に保管されている夫のカルテに書き込まれた。
そしてまた秋がやってきた。
「薬指を切り落とそうと思うんだ」
夫は言った。私はもう、何も言わなかった。ずっと予感していたことだったから。
夫は私に背を向けてキッチンに立つと、いつもの作法で薬指の付け根を叩きはじめた。そして包丁をあててぐっと手前に引くと、薬指はころりとまな板の上を転がり、その拍子に、夫の薬指に嵌まっていた結婚指輪が外れてフローリングの床の上に落ち、キン、と高い音色を立てた。
「わたしたち、もう終わりみたいね」
私は言った。
「そうだね。もう終わりみたいだね」
夫は応えた。
夫は例のように包帯で薬指のあったところをぐるぐる巻きにして、今度はひとりで病院に行った。
私は薬指をつまんでゴミ箱に捨てたあとで、床にへたりこんで、落ちた銀色の結婚指輪を拾い上げた。指輪は少しだけ血に塗れていて、顔に近づけると鉄の匂いがした。私は指輪を外の光に透かしてみた。左目のそばに寄せて、右目を閉じて、片眼鏡のようにして周囲を眺めてみた。目に見える家の中の家具や家電は全て物言わず、ただ、私に対して背を向けているように感じられた。ここはもう私の場所ではないのだ、と私は思った。少なくとも私たちの場所ではないのだと思った。右目を開くと、視界が大きくぶれて、一瞬、まるで足元の床が溶けていくような行き場のなさを私は感じた。私は拾い上げた指輪をごみ箱に捨てようかどうしようか迷いながら、この先どこへ行けばいいのだろう? 何をすればいいのだろう? と、立ち上がることもできないまま、ずっと考え続けていた。
断端形成術