夜の森を越える

夜の森を抜ける
 
 ——けして足を止めてはならない。
 ——けして走ってはならない。

 ふと気づくと、私は夜の森の中にいた。視線の向いている方向が前で、その背後がうしろだということ以外には、何ひとつとしてわからなかった。右手には、足元を照らす以上には何の役にも立ちそうもない、心細いばかりの火を点した真鍮製のランタンがあった。試しにそれを軽く振ってみると、ぱちゃぱちゃと中のオイルが揺れる軽い音がしたが、果たしてそれが、この森を抜けるまでに充分な量なのか、この夜を耐え忍ぶに充分な量なのかを知る術は、もとより私にはなかった。四方は見渡す限り、直立するメタセコイヤの樹々の幹の群れだった。私は、今自分が立っている場所が、果たしてこの深い森の中心なのか、あるいは周縁なのかすら理解していなかった。上空は風が強いのだろう。頭上を見上げると、影になった枝葉の間隙から垣間見える星空を、ときおり、まるで熱い白蝋を溶かしたような細い雲が、猛スピードで流れ去ってゆくのが見えた。頭上で巻いている風は、幾万ものメタセコイヤの枝葉を揺らし、それは轟々という地響きのような巨大な森の音となって、私の耳と心を騒めかせた。私はひどく不安だった。まるで広大で巨大な墓場の中にいるような妄想に、私は囚われた。この幹の一本一本が誰かの墓標で、私はその足元を這いつくばる一匹の蟻のごとき存在なのだ。

 背後ではずっと梟の啼き声が響き続けていた。梟はこの夜の森の監視者だ。音を立てずに樹々の間を飛び、私の視界の届かぬ遠いメタセコイヤの枝の上から私を見下ろし、監視する。もちろん森には、熊や野犬といった、より獰猛な獣たちも姿を隠しているはずだった。一、二度、野犬の遠吠えを耳にしたような気がするが、それが果たしてどれくらい前のことだったのか、また、本当に耳にしたのかどうかすら、朦朧とした私の意識にとっては何一つとして定かではなかった。

 森の中では全てが曖昧だった。私はいつからこの森にいるのか、どこから来たのか、どこへ向かっているのか、この森に入ってからいったいどれほどの時間が経ったのか、それら全ての記憶が、まるでこの巨大な森に飲み込まれ、暖かな泥のようにごたまぜに消化されてしまったかのごとく、曖昧模糊として実体のない、不定形なものとして、私の意識に立ち上っては消えていった。それらの事実は、考えれば考えるほど、思い出そうとすれば思い出そうとするほどに、私を混乱に陥れた。全てがあまりにも不確かだったからだ。したがって、私はある時点から、それらについて考えるのを止めた。今は、そんなことを考えている場合ではない。いつ明けるとも知れぬこの夜、この深い闇のうちに、私はこの森を抜けなければならないのだ。

 ヴェルヴェット製の濃紺のマントを私は羽織っていた。足元は、木と木の弦で作った粗末な靴で、私は地面を這う木の根や枯れ枝や緑の蔓草に幾度も足を取られそうになりながら、歩を重ねていた。森は鈍い白銀の月のあかりにぼんやりと照らされていたが、樹々の枝葉が邪魔をして、月がどっちに出ているのかすら私にはわからなかった。水は持っていなかったが、不思議と喉は渇かなかった。

 もう一万歩も歩いたような気もすれば、まだ百歩も歩いてないような気がした。まっすぐに進んでいるような気もすれば、同じところを堂々巡りしているような気もした。しかし、何はともあれ、足を止めることは許されなかった。足を止めれば、夜闇に蠢く蔓草が、あっというまに私の手足を絡め取り、森の獣たちは私を骨の髄まで食いつくし、時を経ずして私はこの森の一部になってしまうことだろう。また、けして走ってもならなかった。夜の森をこだまする私の足音は、森の獣たちの眠りを妨げ、必ずやよからぬ結果を私にもたらすだろう。そのことだけは、何故かはっきりとした事実として私の脳裏に刻み込まれていた。

 私は歩き続けた。足元に絡みつく蔓草を蹴り上げて切り、草むらを手で分け、かすかな獣道を頼りに、少なくとも私自身が前だと感じる方向に向かって、慎重に歩を進め続けた。ランタンの炎が小さく揺れた。私は親指を内に入れてぎゅっと両拳を握り締め、そこにある親指に、自分の存在を確認した。見渡す限り、森はどこまでも続いていた。

 ——けして足を止めてはならない。
 ——けして走ってはならない。

 夜の帳が明けるまでにこの森を私は抜けなければならない。何処へ向かうのか、何処へ還るのかもわからぬまま、私は、いつ途切れるともしれぬ森を、いつ終わるともしれぬ夜を、延々と、延々と歩き続けていた。

夜の森を越える

夜の森を越える

夜の森を越える話です。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-30

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