ウッディ
——ウッディはおもちゃ。ちょっと時代遅れの保安官人形だけど、アンディ少年のお気に入りナンバーワン。おもちゃたちのリーダーさ。カウボーイハットと胸に光るぴかぴかのバッジが御自慢。アンディが部屋を離れれば、おもちゃたちは動き出す。おもちゃたちの時間のはじまり! でも、アンディは知らないんだ。お気に入りのおもちゃたちが、ほんとうは動いたり、しゃべったりしてることなんて——(映画『トイ・ストーリー』あらすじより)
「おれは、この目で見たものなんて、これっぽっちも信じちゃいないんだぜ」
ウッディはその晩何杯目かの赤ワインを、まるで火の玉でも飲み込むように一気に煽り、嫌な匂いのする唾を飛ばしながら、俺に向かってたしかにそう言ったのだった。金曜日の夜だ。繁華街の安い立ち飲みのワインバーにはスーツ姿の若い男女がごったがえしていて、立錐の余地もない。どこかのテーブルで誰かが誰かにぶつかって、手から滑り落ちたグラスが粉々に砕ける音が店内に響くが、そんなものには誰も見向きやしない。この店の常連にとっては、そんなことは慣れっこなのだ。
「考えてみろよ? おれが死んだあとにも世界は続いているなんて保証がいったいどこにある? おれが生まれる前にも世界は存在していたなんて証拠がいったいどこにある? 教科書? 博物館? 歴史の授業? ファックオフ! それだってぜんぶ、このおれの信用ならない両目がちらりと見ただけか、せいぜい、このぶきっちょな両手がちょちょっと触っただけのもんじゃないか。くだらない。まったくもってくだらないぜ。完全に信用に値しないものだぜ」
ウッディと俺は親しい仲ではない。仕事仲間や恋人と連れ添ってやってくる客の多いこの店に、ときおりふらりとやってくる数少ないひとり客。それ以上の接点は何もない。ちょっと言いようのないかたちに着崩れた、決して上物とは言えないしなびたスーツを着ているところから、たぶんこのへんで働いている安月給のサラリーマンなのだろうと俺は推測する。まぁ、それは俺も似たようなものだけれど。
ウッディと会話を交わすようになったのはここ半年くらいのことだが、そのきっかけはあまりよく覚えてない。今日みたいな夜に、二人ともかなり酔っ払っていて、どっちかがどっちかにぶつかり、手が滑り、グラスが割れ、お詫びに一杯奢り、ついでにちょっと喋ったみたいなことだったような気がするが、ひょっとしたら全然違うかもしれない。とにかく何かの些細なきっかけがあり、それから何度か顔をあわせるうちにどちらともなく話しかけるようになり、そして俺たちは、くだらない話をするのにうってつけの、その場限りの飲み友達になった。それだけのことだ。
おれのことはウッディと呼んでくれ、と、ウッディは言った。
理由を尋ねる必要はなかった。日本人離れした彫りの深さと目の大きさを持った浅黒い細面の顔立ちは、どこからどう見ても、ディズニーのアニメ映画『トイ・ストーリー』の主人公、カウボーイ人形のウッディに瓜二つだったからだ。ウッディは酒が入ると思考の歯止めが利かなくなるタイプの男だったが、俺がウッディに出会うのはいつだってこの酒場だから、酒に酔ってないウッディは、俺にとってはせいぜい映画の前の予告編程度のもので、基本的には、ウッディはオールウェイズ&ワンハンドレットパーセント、思考の歯止めの利かない男だった。
「——ビアは、おれだ」
ウッディの思考の唐突さは俺のヒアリング能力では対応しきれないときがある。声は聞こえているのだが、あまりに唐突な語彙に、ときどき俺の頭がついていかないのだ。なんとかビア? なんだそれは。そんなビールこの店にあったっけ?
「なんだって? 悪い。もう一回言ってくれ」
「シェイクスピアは、おれだ」
ウッディは、真顔で、ひとことひとことを噛みしめるようにそう言ったので、こんどは俺もはっきりと聞き取ることができた。しかし、まったく意味がわからない。
「すまん。もう一回言ってくれ」
「シェイクスピアは、おれだ。マクベスもリア王もロミオとジュリエットも夏の夜の果ても、全部おれが書いた」
「夏の夜の夢」
「そうそう、それそれ」
「どうせどれひとつ読んだこともないんだろう?」
「ないね。でも、読めばわかる」
その晩、ウッディが言いたかったのは、こういうことだった。
この世の中の全ての物事は、全てウッディの脳内で作られた幻であり、その作者は、全てウッディ自身である。例えば一冊の小説。もちろんその時点では、内容はわからない。一ページ目を開くとそこから物語が始まるが、それは他人によって書かれたものではなく、彼の脳が、考えるより早く、その瞬間に急ごしらえでしつらえたものである(と、彼は信じている)。彼の持論によるならば、この世界の万物の創造主は彼である。全ての事象は、彼が見、読み、触り、把握するまさにその瞬間に、彼の脳によって即席で作り上げられるのだ。歴史的建造物もテレビ番組も物語も国家も、(そして俺自身もが!)全てウッディの脳内でそのつど創造されるリアルな幻であり、現実には存在しないものである。すくなくとも、そう彼は説く。彼の説によれば、そもそも彼の意識の外には、世界などというものは最初から存在しない。荒唐無稽な馬鹿話にも程があるが、とにかくウッディはその夜、こんな内容の妄想を熱弁した。
「イエス・キリストはおれだ。仏陀はおれだ。マホメットも、サダム・フセインも、くそったれのジョージ・ブッシュも、気に食わない上司も、こないだ三回もやった挙句におれのことを下手糞だと言いやがった女も、このしみったれた南アフリカ産赤ワインとそのワイナリーとそこで働く小間使いも、全部おれだ。地球も宇宙もおれが造った。幽霊もおれだ。天国も地獄もおれだ。おまえだってそうだぜ。おれがこしらえた幻なんだ。おまえなんて存在しないんだよ。どうだ? 反論できるか?」
「できるよ」
俺は即座に答えた。
「どうやって?」
「簡単だよ。俺がお前を殺せばいい。今ここにあるワインボトルでお前の後頭部を叩き割って、完全に息の根を止めたあとに、俺がもう一杯グラスワインをオーダーする。それだけのことさ」
ウッディは唸りながら両手でこめかみを押さえて、合板に付き板を練りつけただけの簡素なカウンターテーブルに肘をついた。そして、しばらくの無言のあとで、これまでの勢いとは裏腹にかすれるようなか細い声を搾り出して、こう言った。
「でもそれじゃあ、おれはなにひとつ、確認できないじゃないか」
「その通りだね。申し訳ないけれどさ」
それじゃ駄目なんだよ、それじゃあ……ウッディはそう呟くと、まるで遠い外国で母親の訃報を受け取ったばかりの末っ子息子みたいな悲しげな表情を浮かべて、何かを懇願するような、切なく、空虚な眼差しを、一瞬だけ俺に投げかけた。ウッディの瞳の奥で、何かが揺れていた。そのゆらめきは、彼を駆り立て、追いつめ、不安に怯えさせ、孤独に向かわせ、痛みを与える、そんな青くて冷たいほのおのような輝きを放っていたけれど、同時に、その光だけが、不思議と俺の心にしっかりと刻み込まれていて、それを俺は今でも忘れることができない。
——ウッディはおもちゃ。ちょっと時代遅れの保安官人形だけど、アンディ少年のお気に入りナンバーワン。おもちゃたちのリーダーさ。ウッディはアンディが大好きで、アンディはウッディが大好きだ。でも、ウッディが動いたりしゃべったりできるのは、アンディがおでかけしているあいだだけ。アンディが部屋にいるときは、ウッディは身動きひとつとれないし、目も見えなければ耳も聞こえない、つまりはただのでくのぼう! それでもウッディはアンディを知っているし、アンディのことを心から愛してる。おかしいよね? だってウッディは、アンディを見たこともなければ、声を聞いたことすらないんだから——
ウッディはうつむくと、すでに空になったワイングラスの内側に張り付いてるかもしれない最後の数滴を期待してすすりあげ、もうすっかり殻ばかりになったピスタチオナッツの皿の中をえんえんとほじくりまわして、すでにあと一粒残っているかどうかもわからない手付かずの実を、ずいぶんとながいこと探し続けていた。
それは、すぐに見つかるかもしれないけれど、永遠に見つからないものかもしれなかった。
ウッディ