羽ばたき方の参考書

多分そのうち続き書く

1

 私が彼女に抱く感情に、名前を付けて良いものか。

 床を跳ねる適度な質量感と、反響。記憶を蝕む音が、ダアン、ダアンと何度も。何度も。鼓動のように床を叩いては、酷い息苦しさに、決壊しそうになる。
 忘れたいと願った。消し去りたいと祈った。目を閉じれば何度でもフラッシュバックする光景とノイズ。篭った空気とスパイクの底が擦れる甲高い音。照明が反射してべっ甲色に光を照り返す床。
 掌を離れたボールがガコン、と音を立てて、地に落ちた鳥みたいに床に叩き抜けられる。また心音のようにダアン、ダアンと弾んだ。まるで断頭台から転がり落ちた頭部が、床を跳ねまわるみたい。だとすれば、執行人はやっぱりあなたなのだろう。記憶に染み付いた微笑はもう、取り返しのつかないもの。
 ああ、どうして信じたのだろう。
 それをかき消すように抱いたドス黒く胸中を渦巻く感情の名前は。きっと鴉が教えてくれる。
 私は、鳥になれるのだと。


 ホームルームを終え、教室に規則正しく並べられていた生徒たちは廊下へと溢れていった。勿論、まだダラダラと教室に残り、駄弁る者もいるし、自分の席を立たずに誰かを待つ者もいるが、大体は部活とかバイトとか、放課後のそれぞれの予定のために、何処かへ向かって廊下を進んでゆく。
 そんな中、私はぼんやりと教室の窓の外を眺めていた。小さな風が吹くたびに鮮やかに色付いた葉を散らす校庭の木々を見て、何を思うわけでもなく。強いて言えば秋だなぁと、本当にどうでもいい感想が出るくらい。
 教室中央、前から数えて三番目の席で頬杖を付きながら私はスマホを確認する。十月六日金曜日、四時四十五分。私も例外でなく、待ち合わせ相手が来るまでは暇を持て余している。緑アイコンのメッセージアプリに、彼からの連絡は無し。
 他校の人間である彼が、そんなすぐに来れるわけもないか。ぼんやりとそう考えながら席を立ち、スクールバッグを右肩に掛けると、私は二年三組の教室を後にした。なんか、自販機で買って、一つ飲みきる頃には来るだろ、と思って。

 自動販売機があるのは、一階の下駄箱の側。朝、登校した生徒たちは大体自販機の前に群がる。教室が三階とか五階にある二年生や一年生達は、朝のうちに買いに来なければ、後でわざわざ一階まで降りて来る羽目になる。それはクソめんどくさい。そういう意味では早く三年生になりたいと思わなくもないが、元運動部である私が階段の上り下りを面倒くさがる日がくるなんて思わなかった。
 自販機の前は放課後にも生徒の姿がちらほら。これから部活の運動部などが買っていったのか、スポーツドリンクは売り切れの赤いランプが点灯していた。
 さて、何にするかと三台の自動販売機を眺めていると、隣に見知った顔の男がやってきて、突然歌い出した。

「カッフェオーレがー飲みったいのー、と言いつつココアもいーけどー、ソルティーライチも魅ー力的っ! でも……白黒つっけないカッフェオーレ!」

 と、とあるCMソングを改変して歌いながら、彼はボタンを押したが、出てきたのは紫色の缶。中にゼリーが入ってるので、開ける前に振って下さいとか書いてあるグレープゼリーソーダだった。

「いや、カフェオレじゃないんかーい!」
「あはは、これ好きなんだよねー、ナタデココも入ってるんだよ」

 思わずツッコミを入れてしまった私に、取り出した缶をシャカシャカと振りながらそう聞いてくる笑顔の生徒。変な登場の仕方をしたが、彼は四方田 朝(ヨモダ アサ)という、隣のクラスの男子だった。
 愉快な奴、と呼べばいいのか、頭のおかしい奴と言うべきか。日頃から妙にテンションが高く、常に楽しそうな人。パーリーピーポー。通称パリピとか陽キャと呼ぶべき部類の人間のようで、私は少し苦手かもしれない。嫌いなわけではなくて、いつも元気だからこそ、ずっと話していると疲れてしまうことがある。けど、気さくで話しやすいし、楽しい人なので、どちらかといえば好きではある。
 未だに紫色の缶をシャカシャカと振りながら「ツバメもなんか飲む?」と空いてる方の手に百円玉を乗せて話しかけてくる。パリピ特有の羽振りの良さ。奢ってくれるらしい。
 そういえば今更気がついたが、アサクンは何故か『本日の主役』と書かれた、白地に赤で縁取られたタスキを肩にかけている。パリピ特有のツッコミ待ちなのかもしれない。私は敢えてスルーを選択。
 アサクンには元気よくお礼を言って、先程可哀想な扱いを受けたのでカフェオレをチョイスした。

「どのカフェオレ? 沢山あるよ」

 三台の自動販売機の中、中央がパックのドリンクで統一されており、両端の飲み物たちはどういう基準で並んでるのかよく知らない。私は真ん中の自販機を指差した。

「んー、じゃあパックのやつ」
「パックですら2種類あるよー」
「下。下のやつ」
「オッケー、ミックスオーレ!!」
「なんでーっ!?」

 アサクンは高らかに叫んで、マジでカフェオレの隣にあったミックスオレのボタン押しやがった。ピッ、ガコンという音が忌々しく響く。
 アサクンは一瞬固まって、でもすぐに両手を合わせて謝罪してきた。

「あっ、ごめん! ミックスオレって言いながらカフェオレ押そうと思ったらホントにミックスオレ押しちゃった……」
「なにしてんのもー、アホでしょ。いいよ、奢って貰う立場だし、私ミックスオレ好きだし」
「自分でもビックリした。今度から気をつけるね」
「今度も奢ってくれる予定あんの? 良い財布じゃん」
「わ……もう奢んない」

 そう言いながら彼がパックのミックスオレと書かれたオレンジ色のパックを差し出してきたので、受け取る。

「あはは嘘嘘。ありがとね」

 そもそも奢ってくれたのだから、大嫌いなトマトジュースでも渡されない限りは何でもいい。

「ところで部室のことなんだけどさ」

 アサクンが缶を開けるプシュ、という音を立てながら切り出す。私とアサクンは同じ部活に所属していた。といっても、あんなものを部活と呼べるのかわからないが。部室だって、放課後ダラダラするのに使うだけだし。この前の部活の際は中間テストの勉強室代わりに使用した。
 ちなみに部活があるのは月曜日と水曜日の週二回のみ。そして今日は金曜日。

「今日部活無くない?」
「無いけど、なんかそろそろ掃除しないと過ごしにくいなって思ってさ。一緒にやんない?」
「えー次の部活のときにやりゃいいじゃん」

 面倒臭いことは嫌がる私に、アサクンは今やりたい気分なんだ、と主張する。
 スマホを確認しても、待ち人からのメッセージはまだきていない。暇潰しにはなるだろう。軽く嘆息しながらも、私は頷いた。

「んじゃ、他校の人待ってるから、その人来るまでね」

 私がそう言うと、彼はやったーと元気よく笑った。


 私の通う坂ノ下高校……皆、坂校と呼ぶのでそっちのほうが耳馴染みがあるが、うちの高校の部活は、いくつかおかしいものがある。生徒に好きな事に全力で取り組んでほしいとか、そういった理由だったと思うが、その一つとして存在する私の部活に関しては、所属する私としても無くてもいいんじゃないかと思ってしまう。
 四階。音楽室や視聴覚室、パソコン室に理科室等、授業に使う空き教室が多く存在するそのフロアの端っこ。普通の教室の半分程度の大きさしかない、狭い教室の横開きドアに黄ばんだA4サイズの張り紙がされている。そこに黒のマジックで書かれた『紙飛行機同好会』の文字。アサクンはこの謎部活の部長だった。

2

 普通の教室の半分程度のサイズの室内。中央に置かれた会議室にあるような長テーブルと椅子、窓際には折り紙とか文房具各種を収納しておく棚。あとはゴミ箱がおいてある程度の空間。
 掃除と言っても、ゴミ捨てに行ったり、ちょっと室内を箒で履く程度だ。このこじんまりした感じが自習室代わりに適していたから、テスト期間に勝手に使わせてもらったお陰でお菓子や飲み物のゴミとか消しカスとか、そのまま放置してあったりするのもあるが、それはゴミ箱にポイポイすれば済む話であるし、楽な仕事だった。

「そういえば、そろそろ球技大会だよね。今年なんだろ、ドッジがいいなあ」

 椅子の上にスクールバッグを置きながら、脈絡もなくふと思い出したことを呟いてみた。運動神経くらいしか誇れるものがない私としては、毎年の球技大会とか体育祭とかは結構好きなのだ。誰も楽しくないし、ただ辛いだけのマラソン大会は本当に必要ないと思うけれど。
 アサクンも机の上に荷物を置いて、廊下にあった掃除用具ロッカーから借りてきた箒で床を掃きながら答える。

「生徒会の子がバスケって言ってたよ」

 瞬間的に私の足から力が抜けて、へなへなと机の上に突っ伏してしまう。私の様子を横目で見て笑いながら、アサクンがどうしたのと訊ねてくる。

「……バスケって聞いてテン下げなの」
「え、僕テン上げなんだけど。ツバメ、バスケ嫌いなの?」
「んー、まあ……。アサクン、バスケできんの?」

 顔だけ横にずらして、視線を合わせようとする。アサクンは手際良く箒を動かしているので、私の方は見ていない。

「できるできる。だってスラムダンクと黒子のバスケ全巻読んだことあるんだよー? 僕のミスディレクション楽しみにしててね」
「いや、バスケ馬鹿にしてんのかよ」

 アサクンは集めたゴミを塵取りに掻き集めるために軽く屈む。

「諦めたら試合終了だよ?」
「諦めろ、あんたは試合に参加すらできない」
「そうだろうなあ。身長も体力も技術もないからねー」

 彼は私よりも僅かに小さい。私が女子の中で結構長身な部類に含まれるから、少し小柄な男子生徒の身長なら、抜かしてしまうことが多々あるのだ。
 アサクンが塵取りをゴミ箱の中に傾けながら私の方を見た。

「ツバメがバスケ好きじゃないのってなんで? 背高いし運動神経いいから得意そうだけど」

 嫌な質問だな。そう思って、ちょっと顔を伏せて、ぼかした答え方をする。

「んー、なんでだろうね……」
「ツバメって……もしかして小豆澤先輩、ですか?」

 ギクリ、と肩を震わせた
 名前を呼んできたのは長過ぎる前髪で目元が隠れているけど、緩く結んだ短い二つ結びがよく似合う、可愛らしい女子生徒だった。
 初めて見る顔だが、何故か名前を知られている。そういう、知らない人に名前を知られている状況に、心当たりはあった。だから、より嫌な気分になる。

「あ、ヨミ。来てくれたんだねー。てか、ヨミとツバメ、知り合いなの?」

 アサクンの後輩なのか。口ぶりからして、片付けを手伝わせるために予め呼んでおいたのかもしれない。でも、三人で掃除するほどの散らかり方してないし、一人でもどうにかなると思うのだが。とりあえず大人数でワチャワチャしていたい、的な、パリピ特有の習性(?)なのかもしれない。
 ヨミと呼ばれていた女の子は、アサクンを見て、呆れたような目をした。

「知り合いというか。よもあさ知らないの? 小豆澤先輩有名なんだよ。ちょっと前に、女バスに天才がいるって言われてて──」
「ごめんアサクン、待ち合わせの相手来たみたいだからもう行くね」

 私は早口にそう言うと、返事も待たずにスクールバッグを肩にかけ直して、足早に教室を出て行った。
 ああ。また、逃げたみたいだ。そう思うと、私の背中に向けられているであろうアサクンとその後輩の視線が、急に恐ろしく感じて、踏みしめる廊下がぐにゃぐにゃするみたいだった。


 坂校の文化祭は、六月の終わりに行われる。私のクラスは駄菓子屋をやっていて、呼び込み役だった私はクラスの宣伝のためにフラフラと校内を歩いていたら。そうしたら、偶々声をかけた他校の男子生徒に、やたら気に入られた。パリピ系の人種がよく口にする呪文「ねえ何処住み?」「今暇?」「てかLINEやってる?」を本当に使ってくるやつがいたこと引いていたのだが、流れで校内の案内をさせられて、話しているうちにそれなりに仲良くなってしましまって。
 気さくな人で、口下手な私の代わりに一方的に喋っていてくれたので、一緒にいて楽ではあったし、結構楽しかった。

「ところで小豆澤は彼氏いんの?」
「何急に……。いないっていうか、その」

 出会ったばかりの彼に話すべきか。少し迷ったが、彼の軽いノリに誘発されてしまったのだと思う。
 それを伝えてみると、彼は、

「ま? じゃあさ、試しにオレと付き合ってみれば」

 その時は思わず飲んでたタピオカミルクティーを吹き出して咽せてみたり、廊下に散らばったタピオカを回収するなどしていた。

「ノリかっる! やだあ、そういう軽いとことかマジパリピ……」
「ナハハ、ホントに好きになれなかったら別れればいいべ? オレは結構小豆澤に興味あるよ」
「あ……そう。なん、だ。へえ……」

 そういう流れで告白されて、私も彼のことは嫌いじゃなかったし、話していて楽しかったし……彼の言う通り、彼を好きになってみたかったから。断る理由もなかったので、付き合った。私もなんだかんだ言って軽い奴だな、と思いつつ。
 今日はその男と待ち合わせをしていたのだ。
 アサクンにはああ言ったが、本当は彼からの返信は、まだ来てなかった。他校なのだから、学校終わってから坂ノ下高校まで来るのは、少し時間がかかる。別に態々来てもらわなくても良いと伝えたが、どうせ暇だからって、来てくれることになっていた。
 ノロノロと階段を下り、一階の階段の踊場でたむろする男子生徒達を掻き分けて下り、下駄箱で上履きとローファーを履き換え、ふと窓に写った自分のシルエットに視線がいく。去年くらいから金髪に染め上げた、肩に付かない程度のショートカットを軽く手ぐしで整えて、どうせ風で直ぐに乱れるくせに、前髪の分け目を整えてみたりして。よぅし完璧。そう思って外に出た途端、風に煽られて、髪がぐしゃぐしゃになる。今の二十秒間は全て無駄になったわけだ。
 ブレザーのポケットに入れていたスマホが、独りでに振動する。画面を確認してみると、例の彼からLINEのメッセージで『門の前で待ってるぽよ』と来ていた。ぽよってなんだ。

 そう思いながらも顔を上げると、確かに門の側で、他校の制服を着た男子生徒がひらひらと手を振っていた。四ヶ月前に出会ったときから変わらぬ、海藻を思わせる癖毛とそれなりの長身。そしてそれなりの顔。少し違うのは、彼のアイデンティティーと言っていいほどの黒縁の眼鏡が、その顔に見当たらないことだ。
 うちの高校は茶色ブレザーの制服だが、彼の制服は紺色ブレザーなので、微妙に目立って、視線を集めてしまっている。そんな彼に話しかけに行くのは少し気が引けたが、会おうと言ったのは私だしな、と右肩のスクールバッグを掛け直して、早足で彼の元へ向かう。

「お待たせぽよー」
「そんな待ってないけど。ぽよってなんだべ」

 彼の真似をして語尾にぽよを付けてみたのに、私と全く同じ反応をしやがる。本当にぽよってなんだよ。
 苦笑を浮かべながら、私は両手の人差し指と親指で二つの輪っかを作り、それを目元に当てながら訊ねる。

「先輩、眼鏡は?」

 文化祭で話したときに彼は三年生だったと知ったため、まだ二年生の私は、彼の事を先輩と呼び続けていた。彼は私のことを名前で呼ぶが、なんとなく恥ずかしくて真似出来なかったのだ。

「あー。なんか無くても行けるんじゃないかと思って、外してみたけど……やっぱ全部ぼやけるわ」

 思わず鼻で笑ってしまった。馬鹿だと思ったが、先輩のそういう面白いところはかなり好きで、ついつい私の口からは言葉が溢れてしまう。

「先輩」

 付き合いたての頃は直視することもできなかったその目を、しっかりと見つめて。実は二重だったことを知ったのは最近のことであり、ピアスは左耳しか開けてないことを知ったのも、大分経ってからだったな、なんて思いながら。

「ごめん。別れよ」
「えっ、このタイミングで!?」

 大袈裟に声を上げる先輩を見て、確かにいきなり過ぎたかなと、反省する。

「あ、駄目だった? 今のやり取りやり直す?」

 そうしよ、と彼が言うので、私は数メートルほど後退って先輩との距離を取る。そして彼が先程と同じように掌をひらひらと振るので、私も同じように振り返しつつ、笑顔で駆け寄っていく。

「うっふふ! せぇーんぱぁい、別れよー!」
「あっはは! イイヨー! ……って何だこの茶番」
「さあ……なんだろね。でも、こんな事に付き合ってくれる先輩の事はやっぱり好きだよ」

 改めてそう思ったので声にする。先輩がそ? と首を傾けながら小さく笑った。ノリの良い人は好きだ。友達としてネ。
 ふと、周りに視線をやると、やっぱりというか、当然、帰宅せずに下駄箱近くでたむろしている男子生徒たちや、自転車置き場に向かおうとしていた女子生徒の視線を集めていた。放課後のこの時間、帰宅する生徒も沢山いる中、こんな茶番するのは不味かった。別れ話をする男女なんて、暇な帰宅部共には良い暇潰しの対象なのだろう。
 目があった傍観者達を軽く睨み付けてから、私は先輩に向き直って続ける。

「好きなんだけどさ、やっぱ、なんか……違うなぁって」

 やはり、好きになれそうにないのだ。

「マジか」

 苦笑しながら、彼は短くそう言った。笑ってはいるけど、やはり彼を傷付けてしまったのではないか。そう思って慌てて弁解する。

「あ、嫌いになったわけじゃないんだよ? 好きには、なりたかったんだ。でもなんか、付き合って四ヶ月、経つけど、少女漫画読んで、色々勉強してみたけど、思ってたのと違うというか、やっぱりドキドキしないしさ」
「少女漫画でべんきょ……? そっか。それにドキドキ……ドキドキかぁ」

 うーん、と唸りながら腕を組んでいた先輩が、腕を解くと、不意に目の前でパンッと空気の爆ぜる音が響いて、私は目を瞬かせて思わず肩を震わせる。再びちゃんと目を開いたとき、私の顔の前で掌を合わせて静止する彼の姿が映り込んできて、イラッとした。

「ドキドキした?」
「そういうことじゃねぇよ」

 先輩の頭部にストン、と手刀を落とす――が、それを予想していたのか、それとも用意に見切れる動きだったとでも言うのか。先輩は私の腕を軽く受け止める。
 それから彼は、掴んだ私の腕を強引に自分の方へ引き寄せて、自然に前のめりになった私を抱き締めた。突然の事にされるがままの私は、彼の胸元に収まって固まる。体温と心臓の音が直に伝わってきた。

「ドキドキした?」

 先輩が私の耳元で、囁くような声で言う。

「…………いや」
「え、マジで? 乙女ゲームで勉強したんだけどなあ」
 
 乙女ゲームなんてやってたのかよ、と苦笑しながら、私は彼を押し退けて距離を取った。別にどんなゲームをやっていても構わないが、そこで学んだことを実行に移してしまうのにはドン引きする。
 帰宅しようと門を通り抜けていく生徒たちが、すごく気まずそうな顔をしていたり、此方を横目で見てクスクスと笑っているのにも気付いてしまい、胃痛がする。それに気付いてるのかどうかわからないが、先輩は一つ、深めの息を吐いて、まあ、と口を開く。

「ツバメがそう言うなら無理に引き止めることもないな。じゃ、今までありがとーな」
「あ、え。うん、バイバイ……」

 待ち合わせしてた時と同じように、彼はひらひらと手を振りながら去ってゆくので、私も同じように振り返して、これで最後なのかなと思いながら見送った。

「…………」

 何だこのあっさり感。あっさりした口答えを売りにしているポテトチップス薄塩味だって、もう少ししつこいくらいだと思うが。いや、断じてしつこさを求めていたわけではないし、想像以上に事が上手く進んだのは良いことだが、ちょっとだけ何かが胸に支えた。
 そのまま、私は立ち尽くしてしまい、小さくなる彼の背中をなんとなく見つめて、見えなくなってもぼうっとしていた。

「その点トッポって凄いよね……。最後までチョコたっぷりだもん」

 私は何を言っているのだろう。なんだか自分でもよくわからなかった。

「小豆澤ちゃん」

 不意に背後から声をかけられて、心臓が跳ねた。思考を巡らせても、自分に声をかけてくる人なんて心当たりが無くて──いや、一人だけ、いた。
 その声には聞き覚えがあって、振り返って見ると、予想通りの女子生徒の姿があった。胸の下辺りまで伸ばされた黒くて艷やかな髪は、毛先がほんのりうねっていて、それで、すごく、すごく綺麗な顔をしたその女の子の雰囲気に、とても似合っている。同じクラスの唐洲 世津那(カラス セツナ)が、不思議そうな表情を浮かべてこちらを見つめていた。

「なんだかぼーっとしてたように見えたので。大丈夫です?」
「あ、いや、うん。ありがと、へーきよ」

 声をかけられるなんて予想もしてなかったため、無駄に鼓動がうるさくて、冷汗までかいている。私の心臓は、先輩に抱きしめられたときよりもずっと元気だ。
 唐洲さんの隣にいるツインテールの女子生徒には見覚えがあった。よく唐洲さんを“せっちゃん”と呼んで仲良さげに歩いているのを見る。しかし同じ学年ではなかったと思うし、顔立ちの幼さから見ても後輩なのだろうと思う。私と視線が合うと、ふいっと逸らされてしまって、微かに傷付く。
 ああ、唐洲さん。唐洲さんだ。彼女とは二学期が始まってから入った図書委員の活動で、最近良く会話を交わすようになった仲で、でもそれ以上でもそれ以下でもない――のは、彼女の中だけでの話。きっと私だけが、彼女のことを意識してしまっているのだ。
 その理由である彼女の左手首に、自然と視線が行ってしまった。少し袖の長い黒のカーディガンに覆われて、白人みたいに白い指の、第二関節くらいまでしか見えない。いわゆる萌え袖という状態になっている。可愛い。
 視線に気がついた唐洲さんが、自分の左腕を顔の前までもってきて、袖を見る。

「んー……お昼にプレミアムダブルチョコレートオールドファッション食べたので、付いてるのかと思っちゃいましたが、何も無いですね……どうかしたんです?」

 なにか呪文のような食品名を言われて混乱仕掛けたが、私は慌ててブンブンと首を横に振る。

「あ、いやっ、何でもないんだよ」

 不自然な私の反応を大して気にする様子はなく、そうですかー? と、唐洲さんは微笑む。彼女は顔が大変よろしいので、微笑まれるだけで、少し緊張してしまう。

「小豆澤ちゃん、これから帰るところですか? もしよかったら一緒に帰ります?」
「え……」

 本当に? 誘いが嬉しくて、そう口にしかけたが、唐洲さんの斜め後ろに待機していたツインテールの女の子が鬼の形相で私を睨みつけているのに気が付いて、思わず固まった。確かに、面識のない女の子と会話をしながら帰宅するビジョンがイメージできない。やめよう。けしてその女の子が怖いから断るわけではない。私のコミュニケーション能力を考慮した上での判断である。

「私はまだ帰らないよ、その、部活行かなくちゃだから……」

 適当な嘘を吐いて、適当に誤魔化す。
 唐洲さんは特に疑うでもなく、ちょっと微笑んで「それは残念ですね。それじゃあ、また今度にしましょう。さよなら」と左手を振って去っていった。その隣を、ツインテールの女の子が、並んで歩く。

「じゃあね。また明日」

 唐洲さんと同じように手を振る。右肩に掛けたスクールバッグで右手が塞がっているから、彼女と同じように、左手で。そうだ、彼女も右肩にスクールバッグをかけている。そっちが利き手のはずだから。振動で揺れた袖から、僅かに手首が露出していたが、目当てのものは見つからなかった。

 あれは、9月の半ばだった。見間違いだと思いたかったけれど、未だに瞼の奥に焼き付いて離れないのだ。
 あの日は図書委員として、放課後の図書室で、返却された本を棚に戻す作業をしていた。本棚に伸ばされた彼女の細い腕を、なんとなく見たとき、確かに“それ”を目にした。唐洲さんの左の手首に無数に刻まれた、痛々しい傷跡。刃物で深く切りつけたような傷。引っ掻き傷とかではなくて、あれは自らの意思で傷付けないと残らないはずだ。利き手である右手が、意図的に左手首に刻みつけた、リストカット。
 でも、わからないのだ。あんなに美人で、勉強も運動もできて、教室でも、友達もそれなりにいるように見えた。彼氏とかは、いるかわからないけれど、いてもおかしくはないだろう唐洲さんが、充実した高校ライフを送る女の子が腕を切る理由が。
 だから……だったのだろうか。彼女のことに興味を持ったのは。優しくて綺麗な見た目をしていて真面目で人気者の、私とは真逆の唐洲さんが、何を抱えているのか。興味を持つと共に、抱いた感情には蓋をして。

羽ばたき方の参考書

羽ばたき方の参考書

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-10-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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