水のようなもの

 幾十にも区切られた、白い四角い箱の一角に私たちの住まいはあった。
 寝室と居間と和室と食堂と、簡素な水廻り一式を備えた私たちの住居である。私達はもうずいぶんと長いあいだ、この部屋で暮らしていた。これまで何度か引越しを考える機会はあったが、実行する機会はなかった。漫然とただ飽きたという以外には、そうするべき理由も見当たらなかったからであった。

   ***

「——私たち、そろそろどこかへ越しませんこと?」
 そう最後に妻が口にしたのはいつのことだったろう。少なくとも私がまだ仕事をしていた頃の話だから、それは、かれこれもう十年以上も前のことだったように思える。私はしばし考えるふりをしたあとで、小さく、しかしきっぱりと、否、と応えた。いまさらなにを、と私は思った。特に決意してそうしたわけでもなく、ただ漠然と子を為さなかった私たちである。これから先、家族が増えるあてがあるわけでもなければ、減るあてもない。なにをいまさら、と私は思った。
 
 決して他人様に自慢できるような素晴らしい点があるわけではない、簡素で質素な住居であった。しかし、間取りも広さも明るさも、私たち夫婦にはぴったりであると、つねづね感じていた住居でもあった。それはこの先も変わらぬことのように思えた。とりたてて今、新たな部屋を探し求めなければならない理由はなにもない。私はその話題に長く付き合いたくはなかったので、読みかけの新聞記事に再び目を落としたが、べつだんそれに興味があるわけでもなかった。
「——ほんとうに、越さないのですか?」
 しばらくの沈黙のあとで、妻が再び、口を開いた。このように妻が私に食い下がることはたいへん珍しいことであった。私はそのことに少々気持ちを乱されたが、苛立ちを悟られぬよう押し殺しながら、もういちど静かに、否、と応えた。私はもう新聞から目線を上げなかったので、妻は小さな溜息とともに和室に下がって花を生け始め、そこで話は終わった。薄暗い部屋の中で、私が捲る新聞紙が擦れる乾いた音と、和室で妻が草花の茎を切る和鋏の湿った音が交互に響いた。それは、いつもどおりの、我が家の静けさであった。

 私たちの住居には、出口と入口を兼ねたひとつの扉があった。それは広く一般に玄関と呼ばれるものであった。
 まだ働いていた頃の私は、毎朝ほぼ決まった時刻にその扉より出かけて行き、毎晩ほぼ決まった時刻にその扉より戻ってきた。妻もまた、ときおりその扉より外に出ては食材や生活の品々などを買い求め、買い物袋を抱えてその扉より戻ってくるようであった。しかし、妻の生態について私が知ることはそう多くはなかった。現役時代の私は多くの時間を外で過ごしていたのであり、妻の外出の時間には、私もたいてい、家に居なかったからである。妻はたいへんに几帳面な性格だったので、塵紙ひとつ、米や味噌の類ひとつをとっても、生活の物を切らすということがなかった。常に物があるということは、どこかで買い求めているのだろう。そのように想像しただけのことである。
 定年退職を迎えて私が家に居付くようになると、その想像が正しかったことが証明された。妻は三日か四日に一度、新聞を読んだり教則本を片手にひとり碁盤に石を並べたりしている私の背中に「いってまいります」、と一言言い置くと、玄関を出てはどこぞへと出かけて行き、私がにわかな空腹に苛立ちを覚え始めるよりも少し前には、白いビニールの袋を両手に提げて戻ってきた。もとより衣食や身の周りのことに興味を持たぬ私である。妻が買い求めてくる品々について、私が興味を持つことはほとんどなかった。ときおり新しい椀や箸などを目にした折に、ああ、買ってきたのだな、と、特に感慨もなく、口に出して感想を述べるでもなく、ただそれを知るのみであった。

 私達はあまり口数の多い夫婦ではなかった。
 むしろ極端に口数の少ない夫婦であったかもしれぬが、他所の話を知らぬ私は、ここではごく控えめに、あまり、と記すに留めることとする。私の趣味は、毎朝玄関のポストに誰かが届けてくれる新聞を、三面記事から広告欄まで隅から隅まで一字漏らさず読むことと、教則本を片手にひとり碁盤に石を並べることであった。私は物静かな室内で、インクの匂いの染み付いた新聞紙が擦れ合う音を聞くことを好み、白黒の碁石を碁盤に置いたときの、パチリと跳ねるような音がよく響くことを好んだ。いっぽう妻は、よく花を生けた。その暗さでは色もよく判らぬだろうと思われる、日の差し込まぬ、空気の澱んだ和室の片隅で、妻は明かりも付けずに色とりどりの草花を生けた。神経質な和鋏の音が、清潔な草の香りや花の匂いを私のもとへ運んできた。それらの香りは、私の鼻腔を、すんと心地よく刺激した。私は常々それを心地よく感じていたが、それについても、特に感慨を述べるようなことはなかった。

   ***

 その水のようなものに最初に私が気付いたのは、しばらく前のことだった。それは安手の合板を組み合わせた床板の一角からじわじわと滲み出てくるようであった。靴下が濡れるじゃないかと思い妻を呼んだが、「ああ、それ」と言うだけで、感慨を示さない。腹が立った私は妻に雑巾をもって拭くよう命じたが、いっこうに動く気配もなかった。日ごろ従順な妻にしてはめずらしいことである。訝しんで詰問すると、もうさんざん試したのだと、うんざりした声で言った。そして、特に害はないのです、と付け加えた。
「しかし、放っておくわけにもいかんだろう。家のものが濡れて困るじゃないか」
 私がそう食い下がると、妻はほほほと笑い、「大丈夫ですよ」と応えた。なにがどう大丈夫なのかとさらに問うと、いちど触って御覧なさいと言う。私がおそるおそるその部分を足で踏んでみると、不思議と濡れない。冷たくもなく、温くもなかった。これはいったいどういうものだと妻に訊くと、妻はしれっとした表情で、「そういうものです」と応えた。釈然とはしなかったが、普段より家のいっさいを妻に委ねている私である。いまさら執拗に口出しすることも憚られ、そういうものか、と、そこで話を終えた。

 平然とした妻の態度とは裏腹に、その水のようなものはじわじわと水位を上げてきているようであった。水源はひとつではないようだった。次第に床一面が薄い水面に覆われたが、相変わらず、冷たくもなければ温くもなく、重くもなく、足裏が濡れることもなかった。そこに水のようなものがあるのだと、ただ感じられるだけだった。私は極力その存在を忘れるようにした。そして忘れた。私はまた半日をかけて新聞を読み、半日をかけてひとり碁石を並べる平凡な日々に埋没していった。いっぽう妻は妻で、まるで最初から何もないように、ときおり買い物に出掛けては戻り、飯を炊き、茶を淹れては飲みたいときに飲み、ときおり和鋏を鳴らして草花を生ける日々を過ごしているようだった。それは多少物足りなくとも、平和で、穏やかで、害のない日々であるように、私は感じていた。

 ある日いつものように碁盤に向かっていると、なにやら碁石の座りが悪い。どうしたことかと訝しく思うと、水面がひたひたと碁盤の上に達し、碁石をにわかに浮き立たせている。これでは囲碁にならぬと思い妻を呼ぶが、「じきに慣れます。私はもう、慣れました」と、取り合わない。
「そういうものかね?」、私は尋ねた。
「そういうものです」、妻は応えた。
「ほんとうに、そういうものかね?」、私は尋ねた。
「ほんとうに、そういうものです」、妻は応えた。
 もとより家のなかのことについては、あえて愚鈍を貫いている私である。いえうちのことは妻に任せ余計な口を挟まぬことで、私たち夫婦はうまくやってきたのだという確信に近い心持ちが私のなかにはあった。そう思えばたしかに、妻の言うとおり、大したことではないのかもしれない。衣服が濡れるわけでもなく、身を冷やすわけでもない。ただそこに、水のようなものがあると感じるだけのことであった。碁を打つには不便があったが、ちょうど折よく、教則本相手の碁打ちにも飽きてきた頃あいだった。私は極力、気にしないことにした。

   ***

 碁打ちがままならなくなった住居の中で、私は居間にしつらえられた黒革のソファに寝転がって新聞を読んで過ごした。
 居間でだらしなく寝転がるということをこれまでの私は決してよしとしなかったが、存外、やってみると心地のよいものであった。新聞を読み耽る私に妻はときおり珈琲を淹れて運び、ソファの前に置かれた小さなテーブルの、硝子製の天板の上にカタリと音を立てて添えた。私は若い時分より、このタールのような色をした液体の味を好みとしなかったが、その香りだけはつねづね心地よく感じていた。口をつけずとも、それを快く感じていることを、妻も知っているようだった。
 ある日ふと気が向いて、めずらしく私が天板の上の湯気立つ椀に口をつけようと手を伸ばすと、椀はするりと手を離れ、水面を水母のように漂いながら離れていった。と、同時に、小皿に盛られた角砂糖や牛乳の壺も、ゆらりと天板から浮き出すと、水面のあちこちに流れ去っていった。私は、妻を呼んだ。
「これでは飲めんではないか。困ったものだ」
 私は言った。
「もとよりお好きではなかったではないですか。香りだけなら、ほら、このほうがよくたちますわ」
 妻はそう言うと、中に珈琲の液体を湛えたまま浮かんでいた足元の椀を屈み込んでつまみ、咄嗟に指先でつるりと裏返した。同時に、椀の中の汁が水の中にはさっと広がっていった。成程、すでに膝上まで達した水に十分薄められた珈琲の香りは、嫌味なほどには強くならず、私にもほどよく感じられた。私は妙に得心し、よりいっそう気にせぬように努めた。

 水嵩が私の胸元に達する頃には、すでに家の中のものの多くは、その機能を失っていた。
 この頃には、ときおり波立った水が私や妻の顔を覆うこともあったが、呼吸も会話も、滞りなくできた。すでに幾十もの碁石や、碁盤や、その他家の中に納められていた私の知らぬ数々の小物が、あるべき場所を離れて水中をふわふわと漂っていた。水中を漂う碁石はすでに碁石でなく、碁石も満足に置けぬ碁盤は、すでに碁盤ではなかった。この水のようなものには質量を感じなかったので、掻き分けて進む必要はなかった。丁度、部屋の重力が少しずつ失われていくような感じであった。幾分身体が軽くなったような気はしたものの、私は水の中で滞りなく新聞を読み続け、妻は水の中で滞りなく花を生け続けた。妻は最初からこの状況を気にも留めぬ素振りだったので、私一人が喚くのも、随分とみっともないことのように思え、私も平然を装ってすごした。確かに妻の言うとおり、こういうものだと思ってしまえば、こういうものなのかもしれない。私は次第に慣れ始めていった。

   ***

 一度だけ来客があった。Kさんと名乗るその客人は私と妻の共通の旧い友人であるとのことだったが、私はKさんをあまりよく思い出せなかった。妻はそうでもないようだった。妻は部屋のあちこちに浮遊するティーポットや茶碗や一連の道具を拾い集めては器用に茶を淹れ、茶菓子を出してKさんをもてなした。Kさんもまた、いっこうに我が家の状況を気にも留めぬ様子だった。あるいは他人にはこの状況が普通に見えるのかもしれぬと思い、Kさんを問い質そうかとも思ったが、無粋な気がして、やめた。
「——さん御夫婦もお変わりなくようようやっているようで安心しましたわ」
 とKさんが、どこの訛りとも知れぬ言葉でそう言ったので、そうか変わりなく見えるのか、と私はにわかに安堵した。妻は、「ええ、おかげさまで」などと空虚なことを言い、ほほほと笑った。もとよりよく知らぬ他人と共に過ごすことを好まない私は、Kさんが早く帰ってくれるよう内心祈りつつも、不慣れな愛想笑いなどを振り撒きつつ、うわの空で歓談に応じていた。Kさんは、やれYさんのことだのNさんのことだのと、私のよく記憶しない人物に関するよく知らぬ思い出話を妻と咲かせた後に、ひととおり満足したのか、「それじゃ私はこのへんで」と言い残して去っていった。じつに意味のない来訪であると、私はひどく憮然とした。
「彼にはこの部屋の様子が奇妙に映らなかったのかね」
 Kさんが去ったあと、もとの静けさを取り戻した居間で、私は妻に尋ねた。
「奇妙もなにも。あなたは外に出るということをなさらないから——」
 妻はまた、ほほほと笑った。ついさきほどまではかろうじて床に脚をつけていたテーブルや、ソファなどの重たい家具類すらも、少しずつ宙に浮きはじめているようであった。

   ***

 すでに室内で地に足をつけているものは、私と妻以外にはなかった。
 私たちの住居の中で、ありとあらゆるものが、たっぷりと水を含み、水と同じ重さになって、水中をゆらゆらと漂っていた。ソファもテーブルも本棚も、すでにそれらであることをとうの昔にやめ、今やただ室内を漂う無用の品々になりかわっていた。私と妻が長年守り続けてきた住居の穏やかな秩序は、静かに、しかし決定的に、壊されていた。

「あなた、こちらをご覧になって」
 和室のほうより、妻が私に声を掛けた。ときおり会心の生け花などが完成すると私を呼んで見せることがあったが、それは非常に稀なことであった。室内を、水中を、乱雑に漂う本やら碁石やら、その他出処の知れぬ置物やらを両手で掻き分けながら和室に辿り着いたが、がらりとしており、何もない。ぴたりと閉じた押入れの襖の前に、妻がただひとり、私に背を向けて立っているだけであった。ふと妻の足元を見やると、俄かに畳より一寸程浮いているようであった。
「何もないではないか。会心の作でもできたかと思ったのだがね」
 私は別段の用もなく呼びつけられたことに幾分憮然としてそう言うと、そうではないと妻は応えた。
「こちらにございますわ。貴方、見てやって下さいまし」
 そう言って妻がさっと襖を引くと、押入れの中より色とりどりの幾千もの花々が、まるで小魚の群れのようにどっと室内に溢れ出た。黄の花も、赤の花も、青紫の花も、皆一様に、首元ですぱりと裁たれており、茎がない。それらの花々は水中を円盤のようにくるくると舞った。途端にむせかえるような花の匂いが部屋中を満たした。私は呆気にとられ、ただ室内を舞う無数の花々のうつくしさと、妻の狂気じみた奇行に言葉を失っていた。花々の向こうで、妻もまた、その美しさに見とれているようであった。近頃無心に鋏を動かしていたのはこれだったかと思うと、なぜか妻が無性に憐れなものに感じられて、私は子供をあやすような声で尋ねた。
「これは見事だね。いや、見事だ。しかし、茎は何処へいったんだい? これだけの花の首を折ったからには、さぞたくさんの茎があったのではないかね?」
 妻は、まるで私と出会ったばかりの頃のようにころころと少女のような声で笑い、言った。
「何をおっしゃいます。それならば、毎朝毎夕、あなたは何も言わずに食べていらしたじゃないですか」
 そう言いながら妻は、部屋中を牡丹雪のように舞う花を掻き分けて私の目の前に現れたが、すでにその両足は床を踏んではいなかった。妻の全身が花の向こうから現れるやいなや、ごぶり、という低く嫌な音が響いて妻の腹が膨れ、裂けた。着物がはだけて、赤黒く腫れ上がった腸やその他の臓物が水の中に弾け出された。花の汁と腐った血の交じり合ったえもいえぬ匂いと、赤貝を剥いたような赤黒い血の色がいっせいに、室内に、水中に広がった。血液の混じった水が私の口腔に入り込み、鈍く重たい鉄のような血の匂いが私の鼻腔を突いたが、私は腹から臓物を噴出させた妻の身体を抱きかかえようと、不思議と臆さずに前へ出た。水中を水草のように浮かぶ膨れた腸を掻き分けると、手に触れる先から寒天のようにぐずぐずと裂け、その中から糞臭とともに、幾本もの草花の茎が現れた。妻の身体を抱きかかえるとぼろりと脆く崩れ、下半身が抜け落ちた。粉々に砕けた肉片が、視界を昏くした。その幾つかが口に入り込み、苦い味がした。さらに強く抱き寄せると、右腕が肘から、左腕が肩からもげ落ち、髪を撫でると頭皮の一部とともにずるりと剥がれた。その貌はすでに、妻の貌ではなかった。妻はすでに、妻ではなかった。

 もはや室内で、地に足をつけているのはただ私一人だった。そう感じた刹那、私は急激に私の体が軽くなっていくのを感じた。咄嗟に足元を見やると、私の両足もまた、床上を遠く離れていた。

 いきぐるしい、

 はじめて水の苦しさを感じた。そのときには私もすでに、私自身ではなかった。

水のようなもの

水のようなもの

水のようなものに侵食されていく老夫婦の話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-30

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