午前弐時
壱
ぐじゅ、ぐちゅ、ぶちぶち、ぱきん。
仄暗い部屋の中に、およそ似つかわしくない肉を食い千切り咀嚼する音と、噎せ返るような鉄臭い臭気が満ちている。
泣く子も黙る"妖華軍総帥閣下"と名高いこの我が、年頃の娘に腹の上に跨られ、あまつさえこの身を喰らわれるとは…落魄れたものだ。此方の気など露知らず、ほぼ肌着のみに等しいあられもない姿で一心不乱に貪り喰う様子を、何処か己の身に起きていることと認識せぬままに見詰め続ける。
痛みも苦しみも感じない、必ずや生き返ってしまう身では思うこともあったものでは無い。
腹の上の娘の正体を簡潔に述べると、鬼だ。しかし、簡潔に述べられないのが厄介なところでもある。
確かに鬼なのだが、正しくは"前世が鬼"な筈だった。しかし、何故か今世にも鬼の力が覚醒し、その力は今や食人衝動を抑え込めない所まで膨れ上がってしまっていた。
食人衝動を放置すれば、いずれ負傷者は勿論、死者が出るのは火を見るより明らかで、事が起こる前に全ての役を引き受けた。
つまり、早い話が我自身が生け贄──否、生き餌となる事で、皆に被害が出ることを食い止めている。という訳になる。
痛みを感じることは無くとも身体は確実に弱り行き、一口また一口と身を蝕む鋭利な歯が肉に食い込み、怖々引き千切られる度に肉塊と鮮血が飛び散り、辺りの臭気を濃くしていく。
いっその事、手荒く喰らわれるならばまだ楽だろう。しかし、それは無理な話。人を傷付ける事すら不慣れなこの娘からすれば、食人衝動も立派な暴力、罪悪感を感じている事は重々理解していた。
ふと我が身に視線を落とせば、胸の辺りが肉は勿論のこと、骨も内臓も全て消え失せ、食い勧められて行く腹の辺りの臓物が窓から差し込む月の青い光に気味悪くてらてらと浮かび上がっていた。
思わず息を呑む。──一体、この娘の細く小柄な身体の何処へ、大部分の臓物が収まったと言うのだろうか。
尤も、呑んだ息は何処へ向かっているのか等、この有様では分かる訳もないのだが。
弐
ようやく満足したのか、おもむろに顔を上げる娘を息も絶え絶えに見遣る。
解けた髪の隙間から覗く一対の角や蒼い瞳の奥に怪しく紅く光る瞳孔は、人間と呼ぶにはあまりにも妖に近く、人か鬼か断言することを躊躇せざるを得ない。それに追い打ちを掛けるように、その瞳は人のものと鬼のものを行き来し、己が何者なのかが理解出来ないと訴える様だった。
身体の大半を占める部分が失われた為に自由に動かぬ身体に鞭打ち、引き千切れる筋繊維や滲み出る血液、腹の中でどぷりと動く残った臓物の感覚を感じつつ、何処かぼんやりとして項垂れさせた頭を撫で、満足したかと問えば夢から覚めたかの様に見開いた瞳を小刻みに泳がせ、小さくこくりと頷く。
血と肉片で汚れた口元を優しく何度も拭い、乱れた髪を梳く様に撫で続ければ震える小さな声が「ごめんなさい。」と謝罪を述べた。
腹の上で俯き、震える小柄な身体を見る度、何故この娘が鬼などになったのだろうかと悲観してしまう。此方は少なくとも老い先の心配は無いが、この娘は違う。この娘の心はまだ人なのだ。人の心で目の前の所業を見れば、心が擦り切れるのも無理は無く、いっそ人の心など無ければ救われるだろうにと、そう考えざるを得ない。
「……其う気に病むな、仕様の無い事だ。…風呂と服は好きに使え、戻る時は扉を使わず手札で戻れ。…良いな?」
「……ん、」
「うむ…良い子だ。御前が気に病む事等、何一つ無い。此れは我が自ら引き受けた事…御前に非は無い。…さぁ、湯浴みへ行くが良い。」
音を立てず部屋を後にする娘を動くこともままならず寝台に身を投げ出し見送る。
千々に乱れる息を繰り返しつつ、我が身を食い漁る度悲しげに見えた娘を哀れに思い譫言の如く零す。
「…………今生こそは、何不自由無くあればと思うたのだがなぁ……。」
風呂場から微かに、啜り泣く声が聞こえた。
午前弐時