連載 『風の街エレジー』 12、13、14

12 「左獣]

 
 春雄が警察に出頭して榮倉と話をした同じ日、銀一は志摩と会っていた。
 と場での仕事を終えて帰路につこうとした銀一を呼び止め、風呂に入りたいから家で話そうと言う彼の腕を掴んで、志摩は繁華街へ誘った。
「また土建屋呼んでんちゃうやろな」
 と銀一がカマをかけると、志摩は感情の読めない笑顔のまま少し黙って、
「え?」
 と聞き返して来た。とぼけているのか、本当に心当たりがないのか、銀一には分からなかった。
「残念やったな、難波」
 志摩にそう言われ、銀一は頷くしかなかった。軽く憎まれ口や皮肉を応酬しているぐらいが気楽で良かったと、銀一は志摩の思いがけない優しさに却って打ちのめされる思いだった。
 赤江を出た二人は、並んで『死体置き場』と称される空き家街を歩いた。
 銀一はこの街を通る時、怖いとは思わないが、寂しい気持ちにさせられるという。人の気配はないくせに、街灯の薄明かりだけがぽつぽつと点在する中に、記憶や思い出の沁み込んだ空気が、いまだに漂っているのだ。銀一が子供の頃にはまだ住んでいる家族が何世帯かあって、この地域で遊んだ事も当然ある。ここを通って小学校に通学していたし、今でも酒目当てに毎日のよう歩く道だ。銀一にとっては悲しい記憶も多い場所だが、しかし一番強く胸を支配するのは、やはり寂しさという虚無感だった。
 確か西荻の家に住み込みで働く前は、難波の家もこの地域にあったはずだ。
「四ツ谷とは今どうなん。飲み屋ついた途端また襲撃されるんと違うか」
 と銀一が聞いた。
「逆に今はうちが追い込みかけよる番よ。やられたらやり返す、その繰り返しやな。今の時代きっちりすり潰すトコまでやる組なんてあれへん。ドス持って大勢で来る時点でお察しよ。本気ならコソーっと忍び寄って後ろからピストルでズドンや。俺かて今、刑務所入るワケにはいかんしの。適当に逃げてごまかすわ」
 志摩の答えに銀一は鼻で笑い、
「そればっかりやなお前。そいで、話ってなんじゃ」
 と気になっていた質問を投げかけた。すると志摩は、
「ええやん、店ついてからで。酒飲みながらで」
 とはぐらかした。
「酒飲みながらする話か?」
「素面ではあんまし、言いとうないのう」
「面白い話ではないようやな」
「…」
「一個だけ先聞かせえ」
 銀一の声が本気である事を感じ、志摩は黙って彼の横顔を見つめた。
「こないだ雷留で飲んだ帰り、お前俺らについて来て護衛じゃあ抜かしたの。そん時はボケカスくらいにしか思わんかったけどよ、直後に難波がああなった」
「…ああ」
「しかもお前はあん時、藤堂の指示やと言うた。間違いないな?」
「ああ」
「どういう意味じゃ」
 銀一の睨むような目つきに、志摩は溜息をついた。歩きながら周囲を見回して、こう言う。
「話言うんは、…その事や。兄貴の事や。お前、こないだ一緒の席におって、どう思った?」
「何がじゃ。もったいぶった話し方すんな。お前のそういう所が嫌いなんじゃ」
「傷つくのお。ほな単刀直入に言うたるわ。俺な、兄貴が、黒やと思うんや」
 志摩の言葉に、自然と銀一の足が止まった。
 月明かりの柔らかな光の中ではなく、寂びれていつ切れるかも分からない人口の灯の中で見る志摩の顔は、銀一にはとても生々しく見えた。化粧でもしているのかと思いたくなる白い顔。切れ長の目は普段通り涼しい表情を浮かべているものの、飄々としたいつもの軽さを感じなかった。冗談を言っている顔ではないと、銀一は思った。
「藤堂さんが、黒? なんでそう思う」
 銀一の言葉に、志摩は目線で「歩こう」と促して先を行く。
「こないだ飲みの席で竜雄が兄貴に聞いたやろ。黒に会った事あるんかて。あると思うっちゅう、なんとも曖昧な返事やったけどよ、これが臭い」
「なんで」
「お前、黒なんておると本気で信じてるか?」
「…あ? なんやお前は。お前が今、藤堂が黒やと言い出したんちゃうんか」
「おお、怒るなよお前はすぐ、ほんまに」
「お前は信じてないんか」
 銀一が聞き返すと、志摩は唸り声を上げて「分からん」と答えた。
「俺自身見た事はない。信じてるか信じてないか言うたら、信じてない。現実主義やからな」
「はあ?」
「例えば銀一が今、石に蹴躓いて転んだとせえ」
「お前にせえ。勝手に俺をこかすな」
「お、おお。俺が石に躓くとせえ。そこに神様の存在を感じるか?たまたま、偶然やがなで片付けるか、そういう話やんけ」
「…はあっ!?」
 空き家街に響き渡る銀一の声に、志摩は眼前で両手を振ってみせた。
「すまん、今自分で何言うてるか分からんなったわ。だからな、目の前に今黒がおると、そういう実感がない限り俺は何も信じんのや。誰かがおると言うてるからおる、と。そういうのは俺にしてみたら現実的やない。…ただ、もしおると仮定するならば、それを見たと言い張る兄貴はちょっと、これは臭いぞと」
「ウソついてるだけかもしれんぞ」
「そんな風に感じたか?」
「じゃあほんまに見たんと違うのか」
「そこや。もし兄貴自身が黒なら、見た見てないは関係ない。自分の事言うてるわけやからな。初めて俺が兄貴をそういう目で見たのは、四ツ谷組の松田が死んだ時や。お前ら街の人間が知らんかったように、当然俺もバリマツが殺された事なんぞ耳に入って来てなかった」
「いまだに知らん奴も多いぞ。試しにと場で何人かに聞いたら、皆度肝抜かれてたわ。なんでや、病気か!いうて」
「せやろ。新聞にも出てないし、もちろんニュースにもなってない。それやのに、兄貴はバリマツが殺された事も、おそらくやったのが黒やいう話も、どこからともなく仕入れて俺に話して聞かせた。最初はそら、お前らと一緒。ほんまですか!? あのバリマツがですか!? てな具合でウブな反応や。…そこへ来てお前、ほんの一週間程前に殺された今井っちゅう警官の事まで知っとった。…なんでや?」
「だから藤堂がやったってか? そんな阿呆な話あるか、お前」
「そう思うか?」
 黒の存在が現実的ではないと志摩は言うが、銀一にしてみれば志摩の妄想の方こそ現実味が薄いように感じられた。
「なんの理由があるんじゃ。何で藤堂がバリマツと今井を殺すんじゃ。戦争でも始めたいんかい。勝手に一人でやれや。それやのうても、そこに黒じゃーなんじゃーいう疑いを持ち出す根拠がお前にあるんか? 個人的な恨みがあって二人を殺っただけかもしれんし、ただ単に藤堂が根っからの戦争狂いかもしれんぞ?」
「そらまあ、そう言うたらそうやけど」
「自分で言うといておかしな話やけど、バリマツだけならまだしもヤクザが警察手にかけて戦争もクソもないけどな。俺は、お前らヤクザの事はなんぼ程も知らんけどよ。そもそもバリマツが殺された話がホンマなら、そら、そういう生き死にの情報はお前らがどこよりも早いんと違うのか。ましてやスターと呼ばれた自分とこの看板ヤクザを殺された四ツ谷が、絶対黙ってないわ。そこら辺からいくらでも、話なんか出てきよるじゃろ。若頭の藤堂が自分とこの上から話聞いとっても、それが普通と違うんか」
「ほな、今井の件は?」
 銀一は不意に込み上げた笑いを抑えきれず、吹き出した。
「お前、さっきから何を言いよるんじゃ。お前ら紛いなりにも裏稼業じゃろ。そんなもんなんぼでも耳に入ってきよんと違うのか。自分の舎弟にそんな素人臭い理由で疑われるて、あの藤堂もたかが知れとるわ」
「…そうかあ。確かに情報はこれからの時代、それ自体が武器になるからのお。お前の言う通り一般市民よりは出回るのが早いわ。ただ、早すぎるというかなんというか。そういう違和感があったんもマジな話なんよ。まあ、お前がそう言うてくれんなら、やっぱり思い過ごしでええんかのお」
「なんじゃお前、揶揄いよるんやのうて、本気で疑いよったんか」
「…おう」
「お前アホと違うか! そんな下らん話されてみい、酒がクソ不味うなるわ!」
「良かったわあ。ほな、酒飲みながらもっと面白い話聞かせたるわ」
「もうええわ」
 その時だった。



 ぐるるるる、うぉうぉうぉうぉうぉー。
 確かにそう聞こえた。銀一は野犬でも吠えているのかと思ったが、それは犬の声ではなく、こちらに向かって吠えたてる男性二人の威嚇の声であった。正確に言えば威嚇ですらない。俗に言う『おちょくり』である。
 見ると銀一と志摩の前方二十メートル程向こうに、ガタイの良い男性のシルエットが二つ並んで立っていた。街灯と街灯の間に立っている為、ヘソから上は影になって見えない。脇道などの細い路地を除けば、彼らが相対している道はまっすぐな一本道である。このまま歩けばぶつかり合う事は避けられない。
 志摩が立ち止まり、首をぐいと前に伸ばして目を細める。
「誰や?」
 銀一がその横に立って、ああ、と零した。
「誰?」
 もう一度志摩が聞くと、銀一は答えず、眉間に皺を寄せた。何度も見た事のあるシルエットだった。
「おー、おっほほほ。なんじゃー、その組合わせー。反則やぞぉ、志摩ー!」
 シルエットの内、片方どちらかが強くそう言い放った。到底堅気には聞こえない獰猛な声だった。その言葉を合図と受け取ったのか、二つのシルエットの内、左側の男が銀一達に向かって歩き出した。街灯の照らす輪に入り、すぐに顔が見えた。
 銀一が舌打ちする。
「こんばんわあ、銀一くん。久しぶりやねえ」
「おお、ケンジ。東京違うんけ」
「今はちゃうのう」
「相変わらず、おかしな眉毛しとんの」
「殺すぞグラァ!!」
 ケンジと呼ばれた男が猛烈な勢いで走り出した。
 暴虐の喧嘩師、ナシケンこと黛ケンジである。という事は、もう一つのシルエットは必然的にハラハラこと花原ユウジである。
「うわ、来たあ」
 志摩がそう呟いた時には、ケンジは既に銀一達の目の前まで迫っていた。
 無言で剛腕が振り回される。
「なんで俺!」
 そう叫んで志摩が飛び退った。
 ケンジは銀一には目もくれず、風を切り裂くような剛腕パンチと殺人キックを繰り出しながら志摩に襲い掛かる。銀一は条件反射で上体を反らせてケンジの拳をかわしたが、自分を素通りして志摩に猛攻を仕掛けるケンジの背中を、茫然と見送った。
 ケンジの放った左足のフェイントキックを、志摩が自身の左側へ避けてかわした。その瞬間ケンジの右フックが志摩の左腕を捉えた。ドフッと鈍い音がして志摩の体が浮いた。ケンジの使いこまれた巨大な拳が、志摩の体に叩き込まれるのが銀一にも見えた。志摩は苦痛に顔を歪ませたが、次の瞬間ギロリとケンジを睨み返した。
 銀一はワケが分からずただ二人の攻防を見守っている。今の所、ユウジがこちらへやって来る気配はない。
 ケンジはおそらくユウジと並んで、銀一の知る中でも喧嘩の腕前なら当代随一だと思っている。幼馴染の竜雄、春雄、和明も同じく喧嘩となれば無類の強さを誇るが、人間相手に殴る蹴るを生業にしているケンジ、ユウジとは比べるわけにはいくまい。この二人はもちろん刃物や飛び道具を持たせても怖い。しかし一番怖いのは素手の喧嘩である。ためらいなく人を殺しに行ける男の拳は、ある程度距離を保って繰り出される武器による攻撃とは比較ならない怖さがあるのだ。
 だが、そんなケンジを前にしても全く怯まない志摩が、今は銀一の気を引いた。銀一は、先日も垣間見た志摩の本性を思い出していた。刑事である榮倉を睨みつけたあの目だ。底が見えない男とは、恐らくこういう志摩みたいな人間の事だろうなと、台風のような喧嘩を間近で観察しながら、銀一は思っていた。しかし、
「見とらんで、助けろ!銀一!」
 そう叫んだ志摩の顔は、普段通りだ。
「無理言うな」
 銀一が答えるのと、ケンジの左手が志摩の服の襟を捕まえるのは同時だった。やばい、と銀一が思った瞬間、ケンジの膝が志摩の鳩尾に向かって跳ね上がった。
「んんん、ぐはああ」
 と嗚咽のような声を漏らす志摩だが、実際は膝蹴りを食らってはいない。寸前で自分の右腕を挟み込んでガードしたのだが、しかしまともに膝蹴りの威力をその身に受けて苦悶の顔を浮かべている。あのタイミングでよう防いだな、と銀一は思う。常人なら間違いなく食らっている。その証拠に、ケンジの猛攻が一瞬止まった。
 その隙をついて、志摩が左肘をケンジの顔面に向かってぶん回した。ケンジはそれを、あえて額で受け止めた。
「やるやんけ、クソチンピラ」と嗤うケンジ。
「お前らどういうつもりや。お前らうちの仕事で飯食うてるんと違うんか。人違いではすまさんぞボケ!」
 眉間に縦皺を刻んで凄む志摩に、ケンジは長い舌をビラビラと出して見せた。
「これも仕事ですねん、ワレェ」
「どういう意味じゃ!」
「後で教えたるやないかぁ。今は取り合えず…」
 ケンジの両腕が志摩の肩をがっしりと掴んだ。
「死ね!!」
 もはや岩塊にしか見えないケンジの頭突きが志摩の額にめり込んだ。志摩は派手に頭部を仰け反らせたが、ケンジが掴んでいるせいで後ろに倒れる事も出来ない。
「もう一発いこか」
 振り被ったケンジの額に、銀一が手を置いた。
「もうええやろ、逝っとるがな」
 見れば志摩は完全に白目を剥いて失神している。
 ケンジは銀一の手の下からジロリと睨み上げ、
「何、銀一君、ワシらの仕事邪魔するん?」
 と不服そうな声を上げる。例えお前でも殺すぞ、と言わんばかりである。
「相変わらずお前の喧嘩は容赦ないな。酒が不味なるから、これ以上はやめたれ」
「誰にもの言うてんねん」
「お前じゃ、ナシケン」
 ケンジの口角がグニャリと歪む。
「嬉しいわ、銀一君。殺すで、ほんまに」
 ケンジはそう言って志摩の体を前方に突き飛ばした。「お前」そう言いながら銀一の方へ体を向けたその時だった。
「うおおりゃ!」
 怪気炎を上げながら、志摩が上段回し蹴りをケンジの首に叩き込む。しかしそこは百戦錬磨の喧嘩師である。間一髪で右腕を折りたたんでガードする。だがケンジのそれは本能的な条件反射であり、明らかに意表を突かれて驚いている顔だった。
 銀一も驚いた。あの白目を剥いた失神が演技ならば天才的である。だがもしこの短時間で復活したのなら、志摩も化け物だ。
「お前絶対生かして帰さんぞボケ! 何が仕事じゃ、街の喧嘩屋風情がこの…」
 ケンジを指差し啖呵を切ろうとした志摩の体が、真横から飛んできたユウジのドロップキックによって吹き飛んだ。ゴロゴロと勢いよく地面に転がった志摩は、そのまま仰向けになって動かなかくなった。
「おお、ユウジ、遅かったやん」
 ケンジが笑ってそう言うと、ユウジは鼻で笑って道路脇に唾を吐いた。
 並んで立つ喧嘩師二人の威圧感は、間近で見ると凄まじいものがある。さしもの銀一ですら、そんな思いに冷や汗が背中を伝った。どちらか一人なら、刺し違える事は可能だろう。しかし二人が相手なら、一方的にやられる。そういう認識だった。
 二人とも身長だけなら銀一と大差ない。しかし労働で鍛え抜かれた銀一の筋肉とも違う、禍々しい力がケンジとユウジには充満していた。この男達の体内にある力は、筋肉や骨格の強さから来るのではない。人を殴る。人を蹴る。その瞬間に得る強烈な反動を糧に、全ての部位が鍛え上げられている。人の血を吸った刀のような、切れ味や造形美では説明できない妖しさに似た雰囲気が、ケンジとユウジには纏わりついていた。
 ユウジはしばらくの間、動かない志摩の体を見下ろしていた。今度こそ完全に失神していると分かると、ユウジは一言、
「ひこか」
 と言って銀一に背中を向けた。行こか、である。何の説明もなしに立ち去るつもりらしい。
「なんか言う事あるやろ」
 銀一がそう声を掛けると、ユウジは立ち止まって顔だけを振り向かせて、
「なひ」
 と答えた。ケンジはユウジの横に立つと、銀一に向かって右拳を握って見せた。
「銀一君、命拾いしたなあ」
「阿保抜かせ。お前ら、時和会とは縁切ったって事なんか?」
「さて、どうじゃろうなあ」
 はぐらかすというより初めから本当の事を言うつもりのないケンジの口調に、銀一は思わずため息を漏らした。
 ここの所ずっと、ワケの分からない事だらけである。
 真面目に働き、美味い酒を飲む。昔から見知った人間しかいないこの街で、なんでそんな簡単な事がままならんのじゃ。
 平助は父親に刺され、難波は無惨な死を迎えた。志摩は泡を吹いて地べたに転がり、ケンジもユウジもワケが分からない。
 なんなのだ、一体。
「お前ら、…ええ加減にせえよ」
 銀一の言葉に、ユウジが少しだけ目を見開いた。
「おおおお、ええやんけえ、銀一君。久々にやるかあ、ワシらとお」
 ケンジが体を低くして、身構えた。
「ワシらとやり合うんなら、と場帰ってハンマー持ってこな」
 ユウジが半笑いでそう挑発すると、銀一は吸い込んだ息を、吐き出さずに止めた。
「何言うてるか全然分からんぞハラハラぁ。奥歯も全部へし折ったるから黙って掛かって来い!」
「あああぁ!?」
 ユウジが体を反転させて凶暴な唸り声を上げた。



 耳をつんざくようなトラックのクラクションに、三人の気勢は削がれた。ケンジとユウジの背後に、池脇竜雄の運転するトラックが迫っていた。大きなヘッドライトが煌々と三人を照らし、オイルが切れたような金属音をきしませて、トラックが停止する。
 エンジンをかけたまま、運転席から竜雄が降り立った。
 竜雄にしてみれば、旧知の三人が道路に突っ立っているだけである。それ以上の事を彼は知りようがない。
 眩しそうに手を翳しながらトラックを睨んでいるケンジとユウジの前に立ち、竜雄が言った。
「普通に邪魔や!」
 ケンジとユウジは顔を見合わせ、
「そら、そうやな」
 と言って頷いた。
 興覚めした喧嘩師二人は、銀一に向かって一瞬殴りかかる真似をし、そのまま笑って歩き去った。
 銀一は消化不良の苛立ちを抱えたままだったが、何も事情を知らない竜雄の心配そうな顔を見て、やがて落ち着きを取り戻した。
「久々に乗せてくれよ」
 と銀一が言うと、竜雄は地面に転がる志摩を指さし、
「あれは?」
 と言った。
「あれも」
 と銀一は答え、「あれは荷台で」と付け足した。



 

13 「邪瘤」

 
 何ヶ月振りかに幼馴染四人が顔を揃えた。
 伊澄銀一、池脇竜雄、神波春雄、善明和明の四人が居酒屋『雷留』の暖簾をくぐる。威勢よく「らっしゃい」と声を上げた店主の留吉は、先頭の竜雄を見た瞬間片手で顔を覆った。時任建設の若い衆を病院送りにした大立ち回りから、まだ幾日と経っていない。とは言え赤江において喧嘩や揉め事、果てはヤクザの抗争もよくある話だ。留吉とて彼らを追い出そうという気など毛頭ない。
 食肉加工業、長距離トラックの運転手、造船業、漁師とバラバラの職についているため、四人が一斉に顔を合わす機会は一年を通してそう多くはない。その為揃いも揃って底なしの酒豪である彼らは、その時あるだけの現金を引っ掴み、尽るまで飲むのが習わしだった。
 本来ならばこの夜もそうなる筈であったが、いつも通り雷留に向かう足取りからして既に重たかった。
 時和会の藤堂から西荻平左殺害に関する不穏な推測を聞かされた後、仕事から三日ぶりに赤江に戻って来た竜雄は、平助の入院と難波の死を聞かされて愕然となった。打ちひしがれたと言ってもいい。
 昔からの馴染みである平助らの変わり果てた様相はもちろんの事、幼馴染である銀一達が得体の知れぬ事件に巻き込まれる切っ掛けを作ったのが自分ではないのかと、顔面を蒼白にして気に病んだ。そして竜雄にとっても、難波の死は大きな衝撃だった。犯人が特定出来ず捕まっていない事も恐ろしいが、単なる通り魔殺人や偶発的な事故ではない事が薄気味悪さに拍車をかけていた。理由がなんであれ殺意という犯人の意識が、よもや自分達に向かないとは誰にも言えないからだ。
 竜雄がこの街に戻って来た夜は、和明が翌未明から漁に出る事が決まっており、四人が顔を揃えたのは春雄が東京へ戻る日の前日であった。
 雷留にて。
「…どないした、お前ら全員糞詰まりか?」
 注文伝票を構えたまま、留吉は冗談を飛ばす。
 銀一達四人を柄の悪い他の客達の間に座らせたくない留吉は、気を使って普段使用していない店の奥に席を設けた。しかし狭いとはいえ個室を用意したにも関わらず、当の四人は下を向いたまま注文ひとつしようとしない。未成年の頃からこの店に通っていた四人を知っているだけに、留吉はさすがに気味悪がった。 
「とりあえず、…ビー、ル?」
 と和明が言うと、
「お、何本いこか」
 と留吉は喜んで喰い付いた。しかしその先が続かない。和明の視線が他三人の頭上を泳ぎ、下を向いてしまう。
「もうええわ、ケースで持って来るさかい、後は自分らでやり」
 留吉は注文伝票を白紙のまま机に放り投げ、厨房へ戻っていった。
 やがて、ささやかな宴が始まる。
「…んで、志摩はその後どうなったん」
 と言ったのは春雄である。『死体置き場』で起こった黛ケンジと志摩太一郎の突然の殴り合いは、仕事終わりでたまたま通りがかった竜雄の登場で呆気なく幕を閉じた。路上に転がって失神している志摩を銀一と竜雄がトラックの荷台に乗せて赤江へ戻って来たのだが、竜雄が普段から利用しているトラック置き場に放置していた所、朝には姿を消していた。
「何それ、一言もなしかえ?」
 眉をしかめる春雄に、銀一はただ首を横に振って答えた。
「なんじゃいな、あいつも大概やの」
 不服そうな春雄に対し、
「…響子にすまん事したな」
 と話題を変えて言ったのは、銀一である。
「ええよ、うちの親とは仲良うやっとるから。別になんも文句は言うとらんよ」
「今日だけやない。帰ってからこっち、ずっと連れ出してるようなもんやしな」
 春雄が東京から赤江に戻って来た日の翌日には、銀一と共に西荻の家を訪れ、幸助の疾走と難波の死に直面している。あくる日まで騒動は続き、その二日後には警察にて事情聴取を受けている。竜雄が戻ってからも春雄は家を空けて銀一や竜雄と飲んでおり、おそらく響子が思い描いていたような、久しぶりの長期休暇を過ごせてはいない。
「かまわんて。そんな事で文句言うような奴と違う」
 春雄はそう苦笑して言うが、それを鵜呑みにする程銀一達は馬鹿ではなかった。
 ただ、正直今は響子の事を考えられる余裕が、竜雄や和明にはなかった。銀一にしても会話の切っ掛けになればと思っての話だったが、誰もその思いやりには乗って来なかった。
「どうしても気になるのが、一個あって」
 沈黙を破ってそう切り出したのは、和明だった。
「そのー、幸助さんな。お前ら二人が平助と話しよるのを盗み聞きしとって、今井が死んだ知らせを聞いて飛び出してったんよな」
 銀一と春雄は顔を見合わせ、頷いた。和明は続ける。
「バリマツが死んで、今井が死んで、次は自分かと思ったと…」
「そうやろうな」
 と春雄が答える。
「刃物を隠し持ってて、追いすがって来た平助を刺してまで山へ逃げた。…そこからが、行方知れず。そうやのになぜか、殺されたのは幸助さんやなく、難波やった」
 和明の言葉に聞き入っていた銀一が、頷いて言う。
「それは俺も思う。何で俺やなく、難波なんじゃろうか」
「違うで銀」と和明は首を振る。「俺が言うてんのは難波か、銀かて話やないんよ。お前らが見た幸助さんは、明らかに怯えてたんよな? 気が狂う程に震えてたと。な? つまりは何かしら理由はあったと考えてええと思う。ただそんな状態で、難波をやった犯人のおる山へ、そうとは知らんかったとは言え、自分から入って行くもんかのう」
「それはお前…」
 知らなければそういう事もあるだろう。むしろ冷静に思考できたいたかも怪しい状態に見えたのだ。
「それやのに、なんで幸助さんは、ほんまはこんな言い方したらあかんけど、なんで死んでないんや?」
「なんでて」
和明と銀一の間に、春雄が割って入る。
「榮倉の言い方やと、見つかってないだけで、もうあかんのと違うかってのが警察の見立てやけどな」
 すると和明は尚も頭を振って、
「その話もどうかと思うわ。榮倉てこないだおったジジイの介護人みたいな奴じゃろ? あいつ、ああ見えてなかなか食わせもんやと俺は思うなあ。そもそも警察が捜索に山入って死体が見つからんなんて事あるかい? あるとすりゃ、そら死体が動いとるわ。それやのうても、つい最近知り会うたばっかりの一般市民に、軽々しく人の生き死にがどうとか言いよるもんかねえ」
 と実にもっともらしい事を言う。春雄は面白くなさそうな顔をしたが、和明の言葉には説得力があって、口を尖らせた。
「そう言われたらそうかもしれんけどや。ほな和明は、幸助さんは、死んでないと思うとるんか?」
「死んでないどころかお前…」
「おう、俺も」
 不意に言葉を差し挟んでそう言ったのは、竜雄である。ひたすら落ち込んでいるように見えた竜雄だったが、彼なりに考えを巡らせているらしかった。
「俺も和明と同じように考えとったわ」
「な?」
 という和明の同意の求めにも竜雄は頷いで応じ、銀一と春雄を交互に見て言う。
「お前ら二人は最初っから現場におったから何とも思わんのかもしれんけどな。俺な、和明もそうやと思うけど、初めて難波が死んだって聞いた時、幸助さんが殺ったと思たわ」
「はあ!?」
 銀一の上げた驚きの声に、
「そうそう、俺もや」
 と和明が言葉を被せた。頷いて、竜雄は言う。
「状況的に見たら普通そう思うぞ。なんでお前らがそれを言わんのか、そっちの方が不思議やったくらいよ。山に入る寸前、平助刺しとるんやろ?」
「ちょっと待ってや」
 と銀一は春雄を見やる。春雄は口をぽかんと開けたまま言葉を失っている。竜雄が続ける。
「そら、俺らが知っとる幸助さんは、控え目に言うて平凡太郎じゃ。まだ平助の方が根性あるよ。自分の息子包丁で刺すようなボンクラには見えんけど、実際それをやりよった以上、難波殺しかて一番の容疑者は普通幸助さんっちゅう事にならんか?」
「ないわ。あん時の幸助さんの姿見たら、そら一瞬後ろ姿見ただけやけど、絶対そんな事想像も出来んわ。あんなもん、完璧にトチ狂った呆けもんやで。頭から毛布引っ被って、小便撒き散らしながらダダダダダー!や。そんな…」
「それや」
 和明が言う。一瞬場がしんと静まる。
「俺が一個気になる言いよるんはそこよ。幸助さんが怪しいっちゅう話もそうやけど、そもそもお前ら、お前らが見たんはほんまに幸助さんなんか?」
 音のない電撃が狭い部屋で反響した。そこまで考えていなかったのか、竜雄までもが目を見開いて和明を見た。
 銀一も春雄も顔色を失っている。和明に言われて、あの日の状況を何度も思出しているのだ。何度も何度も。
 やはり、そうだ。
 あの時平助が叫んだのだ。『父ちゃん!』。
 顔は、見ていない。
 沈黙が、銀一達の答えそのものだった。
「平助は、見たんじゃろうか」
 と、和明が言った。
「見舞いがてら、平助の様子見に行ってくるわ。明日は休みやから、話出来るようなら、してくる」
 竜雄がビールの入ったグラスをグイと煽り、言った。
 そこへ、店主の留吉が現れた。
 いまだに静まり返った室内を見渡し、溜息混じりにこう言った。
「おい、今、店の方に電話入っとるんやが、なんぞ言う刑事がお前ら探しとるぞ。ここにおるて言うてええか?」
 四人が一斉に振り返った。
「刑事?」
 春雄が言い、
「誰じゃ」
 と銀一が聞いた。
「成瀬とか言いよったわ。ジジイみとーな声やわ。ジジなんかな、知らんけど」



 店内奥の個室から出て入口脇の電話のある場所まで向かうと、呑兵衛達の喧騒が嫌でも耳についた。普段そんな事は気にした試しがないというのに、何も知らずにただ美味い酒を飲んで酔っ払っている連中が、銀一は無性に腹立たしかった。
 成瀬からの電話には、銀一が応じた。本来なら警察からの電話に出る気になどならないし、居場所を聞かれても明かすわけがないのだが、状況ここへ来て耳にする成瀬の名が不吉以外の何物にも感じず、無視する事が出来なかった。
「伊澄じゃ」
「おう、成瀬じゃ。お前ら今日、西荻平助を見舞いに行ったか」
 ドンと胸を殴られたように、銀一の心臓が跳ねた。
「なんでじゃ」
「聞いとるんはワシやないけ」
 電話越しに聞く成瀬のしわがれた声は、直接聞くよりもずっと低くて粘着質だった。経でも読んでいるのかと思う程、しわがれている癖に異常な程力強い。顔さえ見なければ、これが老人の声かと思えて来る。
「…いや、バタバタしとったのもあるけど、行けてない。明日行こうと思ってた」
「ほんまか」
「おお」
「先だって病院から署の方へ連絡があった。平助の容体が急変したんじゃあ言いよってから、まだまだ聞かんといかん事がようけあるさかい急いで駆け付けたんじゃ」
「何?」
「何とか持ち直しはしたもんの、全く話なんぞ出来る状態やなかったぞ」
と尚一層成瀬の声が、意味深な程低く銀一の耳でうねった。
「何があった!?」
「ほんまに今日行ってないんやな。そしたら言うが、お前ら結局一度たりとて、あれから平助の病室へ見舞いに顔出してないっちゅう事になるやないけ。なかなかどうして、お前らも大層な薄情モンやないか」
 人を馬鹿にする時の成瀬の嫌味な目付きが、銀一の瞼裏にちらついた。
「お前がどうこう言う話と違うやろ!明日行く言うとるじゃろクソが!」
 吠えたてる銀一に、成瀬は一歩も引く事をしない。
「ワシに食ってかかった所で同じ事じゃろが。平助の奴、ガタガタ震えて泣きよったぞ。死にとうない、死にとうない言うて、ガタガタガタガタ、赤江のごんたくれが鼻水垂らして泣きよったんぞ。ただでさえ死の淵いっぺん覗いとるんじゃ。そんな所で安酒かっ食ろうとらんで、一人くらい顔見せたらんか」
「……」
 成瀬の言い分は正しかった。こうして幼馴染四人が顔を揃えて大好物の酒を目の前にして尚、楽しくも嬉しくもないのだ。あーだこーだと推測で物を語るような事は本来性に合わない。今からでも行けるものなら顔を見に行こうかと、銀一は素直にそう思った。
「分かった。そうするわ」
「ほお、やけに素直やないけ」
「そんなんやないわ。で、何でわざわざ電話してきよったんじゃ」
「もうええわい。お前らが今日病院へ来とらんのやったら、関係のない話じゃ」
「…てこたあ、誰か別の人間が平助の見舞いに行っとるんか。…容体がおかしなった事と、関係あるんか」
 成瀬は答えない。
「今から行くわ」
「面会時間はとうに過ぎとるわい」
 銀一は壁に掛かった汚い時計を見上げる。午後十一時を回っている。
「ほな一個だけ聞かせえ。俺がこんな事言うのはおかしいかもしれんが、平助を刺したんは、ほんまに幸助さんか?」
「なんじゃあ、どういう意味じゃ」
「俺らは平助の部屋の前から逃げるあん人の後姿しか見てない。平助がそう言うたもんじゃから、あれが幸助さんなんやと信じとったが、顔は見てないんじゃ。もし俺らの証言だけで幸助さんが犯人扱いされとるんなら…」
 銀一が言い終わらぬうちから、成瀬の鋭い声が割っている。
「お前警察をなんやと思うとるんじゃ。お前らの話なんか初めから信じとるわけないやろ。最近になって幸助があの家に閉じこもっとったんはワシらも把握しとる。平左が死んでからこの一年、何度も足を運んで幸助と話をしとるし、バリマツの件でも、幸助の女房静子に話を聞く為に家には行っとる。もちろん難波が殺されてからも家ん中から敷地全部を捜索しつくした。今西荻の家は使用人共を除いて空っぽじゃ。お前らが見たんが幸助かどうかは知らんが、平助を刺してトンズラしとる人間は幸助で間違いない」
「証拠はあるんか」
「平助が顔を見とる」
 銀一は、自分の心臓で堰き止められていた血液がドッと流れるような安堵を感じた。しかし、それとて喜んで良い話では到底ない。
「…そうか」
「今更何を言いよるんじゃ」
「まだ幸助さんが見つかってないのは、あん人が難波をやった人間に殺されたからやのうて、あん人が殺した側なんじゃないかあ言うて、そういう思いも過っただけや」
「…これが普通の事件なら、無い話やない」
 受話器を握る銀一の手に力がこもる。
「やっぱり、そう思うか」
「ただ今回の事件はそんな単純なものやない。少なくとも、けったくそ悪い話やが平助を刺したのは幸助で間違いない。ただ、難波を殺したのは幸助ではないやろう」
「そうなんか!?」
「…お前、そこまで色々考えられる頭を持っとって、なんで見舞いの一回も顔出さんのじゃ」
「しつっこいのお!こっちも朝早よから働きよんじゃ!命に別状はないと聞けば落ち着いてから顔出そうかぐらいに思うてもおかしいないじゃろうが!恋人同士でもあるまいし、そんな事でがたがた他人に言われる筋合いは…」
「待て、お前今何言うた? 命に別状はないやと?」
 叫び過ぎたせいだろうか。理由の分からない冷たい空気が、耳の中に入って来るのを銀一は感じた。キーンという、耳鳴りも聞こえる。
「…なんや」
 という銀一の問いに一拍置いて、「阿保抜かせ!」成瀬が怒鳴り声を上げる。
「平助の意識が戻ったんは今朝じゃ!奴は今日までずっと死の淵覗きよったんぞ!ようやく目覚めて幸助の話聞けた思うとったら、今頃んなって容体が急変じゃ! なんとか持ちこたえたはええが、意識を取り戻した瞬間ベッドの上でパニックじゃ! 動けん体でガタガタ震えて、今でもずっと泣き続けよるわ!」
「ま、待て!待てや!聞いてないぞそんな話!命に別状はないて言うとったやないか!お前も一緒に話聞いてたやろ!」
「何をじゃ!」
「俺が難波と山へ入った翌日んなって、実は病院へ付き添った使用人から、手術は長引いたが命に別状はない言う知らせが晩の内に入っとったんじゃあ言うて。俺も春雄も和明もそう聞いた。お前や榮倉とかいう刑事も一緒におったじゃろ、あの日!」
「お前何をトチ狂った事を言いよるんじゃ。なんで警察のワシが使用人の話なんか聞かなあかん。そんなもんとっくにワシの部下から連絡受けとるわい。志摩が現れる前、西荻の玄関先で話しよった時の事を言うとるんなら、お前まだ動揺が抜けきっとらんかったのと違うか。ちゃんと思い出せ、あの段階でワシらの他に誰か人がおったか? ワシらが話しよる所へ、誰か割って入りでもしたか?」
「…いや。…誰もおらん」
「そもそも、お前らに平助の容態を伝えた言うんは誰じゃ。使用人言うても限られたあるぞ。今もこの病院で付き添いしてる、片森の事か?」
「いや、…違う」
「ほな誰じゃ」
 銀一の目は、汚れた壁時計もバカ騒ぎする客達も見ていなかった。
 あの日、突然現れた志摩太一郎と敷地玄関の門扉で談笑していた、あの男。
「…庭師」
 そう言った銀一の声は、ほとんど独り言に近い囁くような声だった。



 電話を切った銀一の背後には、なかなか戻って来ない彼を心配で見に来た竜雄達が立っていた。気配でそれを感じ取った銀一は、自分の右肩を見るように、虚ろな視線を泳がせてこう言った。
「ちょっと、出てくるわ」
「どこへじゃ」
 と竜雄が聞いた。
「西荻」
「今からか!?」
「ちょっと、確認せんなんこと、あって」
「なんや。成瀬に何言われた」
 春雄が声を掛けるが、銀一はそれには答えない。
「ちょっと、行ってくる」
「おい、待て!」
「銀!」
 うわの空のようだった銀一は、静かに言い残した次の瞬間には猛烈な勢いで店を飛び出していた。
 竜雄と和明がその後を追う。
 留吉が白紙の伝票を振り回し、「うちツケはやってないぞ!」と怒鳴った。
「警察!榮倉いう奴か成瀬いう刑事に電話して!西荻の家に行くて、言うといてくれ!頼んだで!」
 春雄は留吉に言い残すと、彼もまた入口の引き戸を壊す勢いで外へと飛び出して行った。

14 「舐二」

 
 銀一は全力で駆けた。何も考えられないスピードで、真夜中の赤江を駆けた。
 『雷留』のある繁華街から『死体置き場』を通り抜け、赤江の玄関口であると場を通過して住宅地、田園と工場地帯を後目に街のどんつき、坂の上の西荻家まで、直線距離にして五キロ近くはあろうかという道程を止まる事なく走った。
 何かの答えを見つけたわけではない。逆である。疑惑を払拭する答えが欲しかったのだ。
 この時点で銀一の頭にあったのは漠然とした不安でしかなかった。
 何故庭師の男は自分達に、平助に関する嘘の情報を教えたのか?
 しかしそれとて、実際には病院に付き添っていた使用人からそのように知らせを受けていたのかもしれず、ニュアンスの違いや聞き間違いも考慮に入れれば全てが間違いだ、嘘だと断言できる事ではないのかもしれない。冷静に考えればいくらでも理由は思いつく。しかしこの時の銀一はとても冷静ではいられなかった。
 得体の知れない庭師はもとより、志摩に対する疑念が大きく膨らんだ事が理由だった。
 銀一の脳裏に、どんどんと映像が浮かび上がっては飛び退って行く。
 黒を見た事があると言った藤堂のぎらついた目。
 (志摩は藤堂を黒だと疑っとった)
 護衛だ、と笑って言った志摩の顔。
 (誰から誰を守る為の護衛や?)
 やめとけ、ろくな事にならんと銀一を止めた翔吉の声。
 (黒が絡んでるかもしれんという与太話に、父ちゃんがあそこまで真剣な顔をするやろうか…)
 平助の蒼ざめた顔。
 (今頃あいつはどんな思いで…)
 微笑んでハンマーを振る真似をしてみせた難波。
 (俺が意識を飛ばされる瞬間、あいつは何を見た?)
 とぼけた雰囲気で自分達を敷地へ招き入れた庭師は、一体どんな顔をしていただろうか。
 (確かあの男は自分達やのうて、背後の成瀬らを気にしていたような…)
 『銀一さん!警察の方々!戻って来ました!難波が!戻って来ました!』
 (あいつ…)
 あの時坂を駆け下って来た庭師は確かにそう言った。銀一さんと彼の名を呼んだのだ。
 銀一はあの日初めて西荻の庭師に出会い、そして一度も面と向かって名乗ってはいない。
 誰かとの会話を聞いて名前を覚えただけかもしれないし、違うのかもしれない。
 志摩と談笑する庭師が肩越しにこちらを見やり、門扉を開ける。
 笑って志摩が、それを閉じる…。
 まるで以前から知己の間柄であったように、飄々とした志摩が普段通りお道化ているように見えた事を、銀一は思い出していた。
 死体置き場に突如現れたケンジとユウジは、時和会の仕事を匂わせて志摩と相対した。
 時和会のニューエースと自他共に認める志摩が何も聞かされておらず、志摩襲撃がその時和会から正式に依頼された仕事であるならば、これは異常事態だ。組を二分する内紛か、志摩個人に対する粛清かどちらかという話になる。ただ相手はあのケンジとユウジだ。何か理由があったにせよ、正直に全てを曝け出すような輩では当然ない。しかし間近でケンジらの喧嘩を見た銀一が、彼らの立ち居振る舞いや志摩の反応に疑わしい気配を感じる事がなかったのも、事実である、
 何故、子供の頃から見知っている志摩に対し、自分は心を許すことが出来ないのだろうか。長年のその思いが、銀一の中で疑惑となって大きく膨らんだ。
 時和会・志摩太一郎は、…『黒』なのか?



 体力に自信のある竜雄らをもってしても、ついに西荻家の前に辿り着くまでに銀一に追いつく事が出来なかった。
 銀一は夜中だというのに家の者の了承を得ないまま門扉を開き、玄関扉の前に立った。呼び鈴の場所が分からず拳で扉を叩いた。
「伊澄です!誰かおりませんか!誰か!」
 時刻は夜中の十二時を回ろうとしていたが、銀一の荒ぶる声に驚いたのか、すぐに家の中で灯りがついた。
 出て来たのは名を安東と言う、老齢の女性であった。寝巻の上に毛布をぐるりと巻いて出て来た老婆は、興奮と荒い息遣いが屈強な獣を連想させる銀一を前に、首を竦めて頭を低くした。
「夜中にすんません。ちょっと、どうしても聞きたい事、あって」
 肩を上下させつつ銀一がそう告げた所へ、ようやく竜雄らが追い付いた。
 瞬く間に四人の獣がそこに居並び、何事かと怯えて安東が後ろへ下がった。
「すんません、怖がらせるつもりやないんです、どうしても聞きたい事あるんです!」
 再びそう言った銀一の言葉を耳にして、竜雄らは全員が同じ事を思った。聞きたい事があるんはこっちの方じゃ。
「なんでしょうか」
 と返事した安東の怪訝そうな声に、銀一も自然と声のトーンを落とす。
「ひとつだけ。例の、平助が入院しよった日、この家に庭師の格好をした男の人がおったでしょう。四十代くらいの。あの男の名前は分かりますか。ずっとこの家で働きよる人なんですよね?今、どこにおるのか、分かりますか?」
 ひとつどころか三つ四つまとめて問い質す銀一の言葉に、安東は斜め上を見つめて思案する。暗がりの中で光る二つの瞳が、左右に揺らめいた。
「…誰の事ですか?」
 と、安東は答えた。
 銀一は思わず言葉にならない呻き声を漏らした。
「いや、だから、あの日、庭師の格好した人、いてましたよね?」
「…はあ」
「お前らも見たやろ!」
 銀一が背後を振り返って怒鳴る。春雄と和明が顔を見合わせた。
「おったよ、なんやそれが。そないガンガン怒鳴るなや、びびってもうてるやないか」
 春雄がそう言うと、銀一は慌てて安東に頭を下げた。
「すんません、あれやったら、他の人にも聞いてもらえますか。誰か今、他におってですか?」
 銀一の言葉に安東は首を横に振り、
「今はワテしかおらしません。そやけど、困ったわあ。ワテは当日奥に引っ込んでたもんやさかい、その誰やいう人の顔は見てしません」
 と答えた。
「誰やいうか、庭師の人。おるでしょ? 植木職人て言うんかな?」
 銀一の代わりに春雄が尋ねるも、口を噤んだまま安東は首を横に振った。
「ええ…」
 と、さすがに和明からも驚きの声が漏れ出た。事情の掴めない竜雄だけが、その場に加わろうとせず俯き加減に何かを考えている様子だった。
 安東は言う。
「この家に古くからおります。平左さんが若い頃から奉公させてもらってますんで、大概の事はワテ知ってまっけど、そやけどこれまでこの家に庭師がおった事はないですよ。こないな事言うべきやないけども、あんたらもこの街の人間や思うから言える話、所詮は赤江の人間でっさかいな。お抱えの庭師を持つような家やないですわ。そら銭があったら人は使えるかしらんけんど、平左さんはそないな人やあらしません。そもそもこの家の植木や草花は全部平左さんの趣味でっさかい、他人に触らすような真似はしたことおまへんな。…ただそういう意味では、この一年は確かに手入れが行き届いてまへんよってに、誰ぞが気を利かせて業者を呼んでた可能性は、ありまんな。それでもワテや片森を通さんいう事は、多分ない思うんですけどねえ。ただ例の日以外でも、ワテはそないな男を見た事はあらしまへんえ。力仕事はそれこそ難波がずーっと…、ああ、難波、可哀想な子やぁ、ああ」
 突然顔を覆って泣き始める安東に、銀一達は狼狽えた。
「ちょっと、おばあはんスマンけど、もうちょっと頑張ってくれ」
 と春雄が言う。
「もし誰かが植木屋に頼んで職人呼んどったとしたら、それを証明する事は出来るか?」
「…どない意味でっしゃろ?」
「植木屋の連絡先が残ってるとか、職人の名刺があるとか」
「そやさかいワテはその誰ぞを見たわけやないから、どこのモンか分からしまへんけど、片森ならもしかしたら分かるやもしれまへんなあ。そういう事があったんなら、でっけど」
「片森て誰?」
 と、銀一の背後から和明が首を伸ばして尋ねた。
「うちで二番目に長い使用人だす。一番目はワテだす」
「今どこにおるん」
 と和明。
「平助さんについて、病院に」
「すんません、もう一個だけええですか」
 と銀一が聞いた。
「この家に、志摩っていうヤクザもん、よう出入りしてましたか」
「志摩て、時和会の?」
「そうです。やっぱり出入りしてますか」
「ワテ、ふわんですねん。けど、この家に?いやあ? はて、見た事おまへんけど、なんでまた?」
 年甲斐もなく頬を染める安東には答えず、銀一は思案を巡らせた。
 銀一と春雄が先日この家を訪れた時、玄関先の門扉で出くわした庭師の格好をした男は、西荻お抱えの庭師ではなく、ひょっとしたら職人ですらないのかもしれない。その男は何故か銀一の名前を知っており、志摩と親し気に話をし(これはそう見えただけかもしれない)、平助の容態が大した事ではないかのようにウソの情報を伝えた。その男は西荻の家に仕えて一番の古株が顔も名前も存在すらも把握しておらず、まるで初めからいなかったかのように見事に行方をくらませている。
 安東に礼を言って玄関先から離れると、銀一達は門扉の近くで顔を寄せ合った。
 銀一が言う。
「さっき成瀬と電話で話をした時に聞かされた。平助な、刺された傷の具合が酷うて、意識が戻ったんは、今朝らしいぞ」
「は!?」
 勢いよく喰い付いたのは、あの日一緒にいた春雄と和明であった。
「なんでや、命に別状はないんやろ?」
 と和明が言い終わるのを待たずして、
「大丈夫なんか!今は!」
 と春雄が平助の容態を聞いた。
「…何とも言えんな。ちょっと前に急変して、連絡受けて成瀬が病院行ったらしいわ。何かがあったらしゅうてな、今もずっと泣きよるんやと」
 銀一の言葉に誰もが言葉を失った。
 何が起きているのか全く理解が出来なかったからだ。その証拠に春雄と和明は顔を見合わせ、竜雄は俯いて下唇を強く噛んでいる。今朝?急変?泣いている? それらの事実に対し、言うべき言葉が出てこないのだ。
「何があったんかは成瀬も言いよらんかった。ただ、俺らが今日見舞いに行ったかを確認してたから、誰かが平助の所へ現れたんやと思う」
 銀一の言葉に、竜雄が顔を上げる。
「誰や」と春雄。
「分からん。それは言いよらん。それ所か何で今まで一回も見舞いにこんのじゃーいうて怒鳴られたよ」
「何でてお前、命に別状はないて、手術は長引いたけど無事終わったーいうて、そういう話やったろうが」
 和明がそう言った瞬間、「うわ」と声を上げて春雄は後退った。両手で額を覆い、そして髪の毛をかき上げた。銀一達の視線が春雄に集まった。
「…ウソなんか。あの庭師の格好した男が俺らに言うた事。平助の事、ウソやったんか」
「…多分そういう事やろ」
 銀一が頷いて答えると、
「おいおいおいおい、何じゃいその恐ろしい話は!」
 と和明が声を荒げた。口では怖いと言いながら、明らかに怒りが漲っている。もし庭師の伝言が故意のウソならば、彼らは全員騙されたのだ。そこにどんな理由があるかは分からないが、友人の生き死にについての情報を謀られたのだから、平静でいられるはずがなかった。
「…ほな、おい、そしたらその男と違うのか!平助の入院先に現れた言うんは、その庭師と違うんか!」
 和明が言うも、
「かもしれんな。けど成瀬も阿呆やないよ。そうそう平助から目離さんやろ。平助はパニックでおかしいなっとるようやが、俺は庭師が今も病院におるとは思えんな」
 と銀一は答えた。
「一体何者なんじゃ。何がしたいんじゃ」
 と、久しく黙り込んでいた竜雄が口を開き、「そいつが平助刺したんちゃうのか。そいつが山で難波殺ったんちゃうのか」と続ける。
「…ああ」
 銀一も、そう思い始めていた。平助が顔を見ている以上、平助を刃物で刺したのは幸助の可能性が高い。しかし銀一達が見知っている幸助があの通りの人間ならば、とても難波を殺せるとは思えない。例え刃物を使って背後から襲ったとしても、一撃を食らわせた瞬間取っ捕まって、難波の熊並みの腕力でもって返り討ちに会うだろう。
 ただあの得体の知れない庭師の格好をした男が、あるいは『黒』やそれに関係する類の人間ならば、話は違ってくるだろう。
 銀一は言う。
「この家の人間が庭師なんか使っとらんと言いよるからには、竜雄の言う通りあいつは何者なんじゃと言う話になる。俺らにウソをついたのが平助の見舞いに行かせん為やと言うのは考えすぎかもしれんけど、仮にそうなら今日平助の所へ現れた理由としても辻褄が合うんと違うやろか。今の所なんの確証もないし、ただの思い付きでしかないけど、おそらく庭師は今回の事件に関わってると俺は思う」
「いや」
 と春雄は言う。
「庭師がなんや関係しよるのはそうかもしれんけどよ、平助の見舞いの件に関してはいくら命に別状はないと言うても、知り合いが刺されたら普通見舞いくらいは行くわいな。そのタイミングをや、『命に別状はいないですー』程度のウソで操ったと考えるには、ちょっと弱いんと違うか」
「せや。問題はや」
 と和明は言う。
「なんで俺らは一度も見舞いに行ってないんや? もちろん、死ぬわけやないし、親兄弟でもあるまいし、落ち着いてからでええがなと、そう考えとったのもあるよ。ただほんまはそうやないんと違うの。多分俺らは、『行くのであれば四人揃って顔を出す事になるやろう』と、そう思ってたんやないかな」
「…それはつまり、今日やないか」
 と銀一は言う。
「だから庭師は、俺らが見舞いに行く日を、後にズラそうと操作したんと違うのか? ん、なんや、ややこしいぞ。分からんなってもうた、お前ら色々言いすぎやぞ!」
 混乱する銀一をよそに、
「…完全に舐められとるやないけ」
 と、そう言ったのは竜雄だった。
「銀一。お前逆の事言うとるぞ」
「…どういう事や」
「確かにその庭師とやらは俺らが見舞いに行くのを遅らせる為に、平助の容態が大した事ない言うてウソをついたんかもしれん。ただ本心は、遅らせる為やないんじゃ。遅らせて誰にも知られずコソコソ行動したいわけやないんじゃと俺は思う。考えてみい。和明の言うように俺らは行くとなったら四人が顔揃えた時に一緒に済まそうとするじゃろう。ただ俺らは全員仕事がバラバラ。ましてや春雄は普段東京におって、しかも明日帰るときた。となれば、今日しかない」
「…おう」
 銀一が頷いた瞬間、
「え」
 と春雄が何かに気が付いた。竜雄が続ける。
「事件が起きた日、幸助さんを探して銀一は一晩中山の中。その裏では庭師も山におって、銀一を眠らせてから難波をボロ雑巾に仕立て上げた」
 想像するだけで冷や汗の伝う話に、「くそが」と漏らして和明が俯く。
「問題はそこからじゃ」と竜雄。「その後警察に呼ばれてしつこう話聞かれたリ、あるいは俺が仕事で街におらんだり、和明が漁で海に出よったりで、結局四人揃ったんは、…今日じゃ」
 竜雄は銀一を睨んだ。
「庭師は今日、がん首揃えて見舞いに来いいうつもりで平助の病室に張り付いてたんと違うけ。自分に会いに来いと言うとるんちゃうのけ。それに気づかんと俺らは阿呆みたいに酒かっ喰らいよって、それに腹を立てて庭師が平助追い込んだんと違うんけ!」
 銀一ははっとするも、どこか竜雄の話を素直に受け入れられなかった。話が急すぎる。
「待て待て!庭師が全部やった事になってるけど、そこまでお前、何の確信もないやろが」
 銀一の言葉に、竜雄は顔色一つ変えずこう言う。
「こんなけったくそ悪い事件のど真ん中に誰とも分からん人間が紛れこんどるんやぞ。どこに石投げても知り会いに当たるクソ狭い街ん中でや!」
「それはそうかもしれんけど」
「銀一。あの日藤堂から西荻の話を聞いた帰り、志摩が俺らの後ついて来よったじゃろ。そん時なんや嫌な気がして話さんだけどな、俺は平助から誰にも言うてない相談を受けとったんや」
「な、なんじゃあ、今頃」
「タイミング悪うて話せなんだけどよ、今やっと意味が分かったわ。平助な、最近全く見た事のない男が家の周りうろついとる言うて気味悪がっとった。幸助さんがおかしいなった原因がその男にあるんやないかて気に病んどったんじゃ。どういう類の男なんじゃあ言うたら、それが不思議と全く顔を思い出せんと抜かしやがる。ただ、知り会いじゃない事は確かじゃあ言いよったわ。その薄気味悪い男っちゅうんが、庭師と違うか」
「なんじゃいその話…」
 黙って聞いていた和明が思わずそう零した。
 怪談話でも聞いているかのように、背筋に冷たいものが這い上がって来るのを感じながら、銀一は生唾を飲み込んで言う。
「仮にそうやとせえや。ほな聞くがよ、そもそも庭師がなんで俺らの仕事やら顔会わせるタイミングを知っとるんよ」
 銀一の問いに、竜雄は噛み付くように答える。
「分かるやんけ!志摩がチクっとるんじゃろうが!」
「お、わ」
 自分以外にも志摩を疑っている者がいると分かって、銀一は正直面食らった。それでもどこかで、学のない人間の浅はかな思い過ごしであれば良いと願っている部分もあったのだ。驚いたと同時に、悲しさにも襲われた。
「ケンジが時和の命令でタマ取りに来た言いよるんなら、そんなもん志摩はもう時和の人間やないいう話やんけ。それが初めっからか、今んなってかは知らん。ただこのタイミングでそれがバレるいうんは志摩がそれなりの事やらかしとるんじゃろうて」
「待て待て待て」
 と思わず銀一が遮ろうとするも、竜雄は止まらない。
「志摩なら俺らの仕事も分かっとるし、実際俺が街を出る前日にも会うとる。港の連中に口聞けば和明の動きなんぞすぐに把握できるやろ」
「志摩だけやないけどな、時和はよう出入りしとるわ、なんぞ企んどるんや知らんけど」
 和明の言いように、銀一が声を荒げる。
「待てて!言いたい気持ちは俺にも分かるがな、志摩まで疑いだしたらよ。…ほな妹の響子はどうなる?」
 銀一の言葉に、竜雄と和明ははっとなって春雄を見やった。
 春雄は銀一達から顔を背けるようにして立ち、何も言おうとはしなかった。その表情は複雑であり、怒りもあれば、不安も浮かんでいた。
 普通に考えれば、響子が兄太一郎と結託して事件の渦中にいるなど考えられない。だがどう足掻いても事は普通ではなかったし、誰がどこで何を考えているのか、誰にも定かではないのだ。その不安が春雄を無口にさせた。むろん春雄は響子を信じている。信じてはいるが、彼女の潔白を『知っている』わけではないのだ。
「ただ言える事は」
 幾分声のトーンを落とし、竜雄が言った。
「その庭師とやらは、俺らが四人揃って病院へ見舞に来る事を待っとったいう気ぃがしてならんわ。俺ら四人を相手にする気満々やったんと違うか。これは完全に舐められとるよ」
「じゃあ、庭師が俺らに、平助が大した事ない言うたんは…」
 と和明がつぶやく。
「今にも死にそうじゃ言うたら、俺がおらん状態でもお前らは真っ先に病院行くじゃろうが。そうなれば庭師かて自分が出向いて待ち構える事ができんじゃろ」
 竜雄の言葉には全ての辻褄が合うだけの説得力があった。だが唯一、一番大切な部分が抜け落ちている。その為銀一の放った根源的な問い掛けには、誰も答える事が出来なかった。
「ただお前、…一体それに、なんの意味があるんじゃ?」



 

連載 『風の街エレジー』 12、13、14

連載 『風の街エレジー』 12、13、14

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 12 「左獣]
  2. 13 「邪瘤」
  3. 14 「舐二」