浅茅

『蛞蝓』の続編。今すべての謎が解明かされる。

(これは『蛞蝓』の続編です。)

鉄二が縊死した数日後、在所のものは同じ家での二つ目の葬式を上げるために再び鉄二の家に集まらなければならなかった。前回の葬式から2カ月と経ってはいなかった。

鉄二があんな死に方をし、その足元に新しげな髑髏がころがっていたので、田舎の小さな在所では有史以来の大事件だと大騒ぎになった。

なぜ鉄二は自殺したのか?
髑髏の主はだれなのか?

鉄二の通夜に集まった村人たちの意見は共通していた。
髑髏の主は寺の住職と逐電した筈のアイに違いなかった。
坊主の文岳の頭骸骨にしては小ぶりで、それは女のものと見受けられた。
鉄二が不倫した妻のアイを殺害し、その事実に驚愕した不倫相手の坊主が在所から姿を消した。だれもが納得しえるストーリーた。そのストーリーに村人の誰も彼もがなぜだかほっとした。
これは大事件に違いなかった。村の駐在では当然手におえるはずもなく、鉄二の葬儀の前から、県警から刑事が何人も来て、在所のほぼ全員が事情と、鉄二が自殺したであろう夜のアリバイを聞かれた。地元の新聞もこの猟奇的な事件を大々的に取り上げた。『不義密通の果ての地獄への逃避行』とかそれらしい見出しで、ミステリー仕立てで長文の記事を書き立てたが、内容は上述のごとく、だれもが納得できる内容だった。警察は文岳の行方を躍起になって探したがとうとう見つからなかった。後日鉄二は、被疑者死亡のまま殺人犯として起訴された。死人はこういう時、とても都合がよい。そしてDNA鑑定もない明治末期のこの時代、頭蓋骨の主はアイということで一件落着した。頭蓋骨以外の体の部位はどこからも見つからなかったにもかかわらず・・・
しかし、在所のものは口には出さなかったものの、心の中に大きなわだかまりがあった。鉄二は頭が弱かった。ほとんど白痴に近かったといっても過言ではない。それゆえ子供のように気持ちが可愛らしく、村の誰彼に愛されていた。そんな男が人を殺めるだろうか?だいたい鉄二は、不義密通の概念を理解し、人に恨みを抱くような感性を持ち合わせていただろうか・・・?

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あのひとは本当に来るだろうか・・・・

黄昏時、夜のとばりが次第に深くなってゆき、宵の明星がだんだんと輝きを増してくる。
アイは漠然とその宵空を見上げた。アイは茅を踏み分けて河原に出てみた。闇を増してゆくこの河原はまるで賽の河原のように思われた。せせらぎの音が、どこかもう後戻りができない日常のほうから聞こえてくるようであった。

あのひとは恐ろしい・・・・

アイはひと廻りも年下の文岳と、それも仏に使える身の彼と、肉体関係を持ってしまった。
アイは文岳の顔を思い浮かべた。私は、在所の者達には見せない彼の素顔を知っている。そしておぞましい本性も知っている、そう思った。そしてアイは鉄二の顔も思い浮かべた。10年間連れ添った夫。そして時々自分に対して見せる子供のように愛らしい表情をアイは知っている。
私たちに子供がいたら、私は鉄二と最後まで添い遂げることができたのかもしれない・・・
でもそれはいいわけではない。直感的な思いだった。
アイには、不思議と罪悪感はなかった。不義密通という反社会的な概念に対する思いは不思議となかった。ほんとうにどうでもよいことのような気がした。
そして文岳がアイの耳元でささやいた言葉をもう一度思い返してみた。
文岳との関係は何回か続いた。文岳はいつもお寺の本尊の十一面観音像に見せるように、その前でアイを抱いた。アイはいつも、抗うが、抗いきれなかった。
きれいなお顔をしている・・・
その寺の本尊である観音様の顔をみつめながら、アイは文岳に抱かれた。なんだかとても悲しい・・・・と観音像と対峙して果てながら、アイはいつもそう思った。罪悪感も仏に対する畏怖の気持ちもなかった。ただひたすらに悲しかった。

さっき文岳はアイにこうささやいたのだった。
「鉄二を殺そう・・・」

文岳は以前アイにこうも言っていた。
「鉄二は業が深い・・・その負ってしまった業を受け入れ、この世を一生懸命生きてゆくのが人の務め。そしてその業のさまを肯定し、やさしく見守ってやるのが仏のご慈悲。仏様はいつも輪廻の輪の中でもがき苦しむ者の傍らに寄り添っている・・・・
でも・・・・俺は本当は納得できない。幼い頃、俺は親無しになって、お寺に救われた。それからずっと俺は仏に対峙してきた。厳しい修行も積んだ。仏の慈悲も理解した。でも本当にどうしても納得できない。人はどうして業を負わされるのか?どうして人は業を負わされなければならないのか・・・どうすれば人を業から解き放してやれるのか・・・・」
アイには難しいことは分らない。でも一つだけわかることがある。業が深いのは鉄二ではない。本当に業が深いのは私だ。そして文岳もそうだと、アイは思った。

ああ、ほんとうにあのひとは来るのかしら。鉄二を殺しに。私の夫を殺しに・・・・

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文岳は夜陰に紛れて再びこの在所に帰ってきた。約二カ月放浪し、文岳の来ている袈裟は薄汚れて襤褸のようになっていた。ひどくやせこけた頬のうえで、眼光だけが以前とは別人のように鋭く尖っていた。
俺は鉄二に会わなければならない・・・・そして教えてやらなければならない・・・・

あの日、アイは俺に言った。
「わたしの夫を殺して。そしてわたしをこの村から連れ出してほしい・・・」と。

月のない深夜だった。満天の星がきれいで、それゆえ、どこに向かって帆を進めていいのか、まるで指標が見えない、そんな気分だった。
これから人を殺めに行こうというのに文岳にはなんの気概も感情も沸き起こってこなかった。

ああそうだ、俺は親に捨てられたあの日、そういったものを一切捨てようと幼心に決心した。仏に仕えるふりをしていれば俺は生き延びて行ける・・・それが俺の処世術だった。

文岳はアイが教えた鉄二の寝室に忍び込んだ。袈裟の懐に忍ばせた匕首を抜いて文岳は部屋の障子を開けた。

夜陰に目が慣れてしまっていた。
文岳は、布団を口元までかけて行儀正しくあお向けに寝ているのが、鉄二ではなく、アイであることは近づいてすぐに気づいた。
アイはきつく目を閉じていた。でもその顔に恐怖の色はないように思われた。覚悟を感じた。
文岳は般若経を唱えながら静かに掛け布団を取ると、寝ているアイの首筋に持ってきた白い晒を押し当て匕首で一気に頸動脈を掻き切った。晒に血が吸収され、その長い白布がまたたく間に血に染まっていった。
文岳は息絶えたアイを担ぎ上げると、何事もなかったように部屋を出て行った。

俺は、アイの死体を山中に捨てた。その際、俺は持っていた匕首でアイの首を切断した。そしてそのアイの頭部を自分の袈裟の懐に入れた。
正直、俺はこの女を愛おしいと思ったことはない。でもこの女と共にあることは感じていた。
俺とこの女は既にこの世にはいない。他の者たちと同じ空間を共有しながら、もはや戻っては来れない空気の襞のあっち側に行ってしまった。そう感じた。
俺はとにかくこの女の頭部を道連れに行く当てもなくさまよった。

暑い夏の盛りだった。女の頭部からは数日もしないうちに腐臭が漂い始めた。
張りのあった皮膚の内側がぶよぶよに腐りはじめ、鼻孔や眼窩、耳から、液状になった脳漿が流れ始めた。
俺は沢の水でこまめにアイの頭部を洗いながら、山中をさまよい続けた。朝・昼・夕と袈裟の懐からアイの頭を取り出してはしげしげと観察した。
一週間もすると、アイの頭部からは表情が消え、数週間もすると頭蓋骨が見え始めた。皮膚が腐ると同時に髪の毛も抜け始め、もう毛はすべてなくなっていた。いつ頃からか眼球が抜け落ち、口蓋もあらわになっていった。
毎日洗い続けた頭部は、何時しか頭蓋骨のみとなった。毎日洗い続けたせいか、それは純白でとても美しく、清らかに見えた。

そうだ。アイを鉄二に返してやらなきゃ・・・
と俺はいつからか思うようになった。

あかあかとした陽光が吹く風に抗うように違和感を呈し始め、秋が到来し始めたことを感じ始めたころ、文岳は里近くに戻ってきた。懐にはアイの髑髏を忍ばせていた。

ある日の深夜。文岳は再び鉄二の家の軒先に来ていた。
文岳には二つの目的があった。
ひとつは、鉄二にアイの髑髏を返すこと。
そしてもう一つは・・・・

浅茅

浅茅

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-15

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