連載 『風の街エレジー』 6、7、8

6 「豚喰」

 

 志摩が側にくっ付いていたせいで、竜雄の本心を聞けないまま別れる事になった。竜雄は別れ際まで苦虫を噛み潰したような顔をしており、何かを言いたそうにしていた。銀一もそれを聞いてやりたかったが、口に出せない理由が志摩にあると踏んで、こちらから聞くことはしなかった。
 和明は志摩が偉そうに喋る度、彼の腹を殴った。傍からだといじめのように見えなくもないが、銀一達は皆、志摩がこの程度の柔な男でない事を十分承知していた。和明も当然それを踏まえた上で、自分の憂さ晴らしが相手の本気に火を点けないよう手心を加えた。
「どこまで付いてくる気じゃ」
 銀一はついに家の前までくっ付いて来た志摩を睨んだが、
「挨拶くらい、せんとな」
 と、飄々とした顔で志摩は答えた。
「誰に?」
「お前の、お母ちゃんやないの」
 竜雄、和明と別れて帰宅した銀一を、母リキが出迎えた。
 五十前のほっそりとした身体つきは、まだ女としての色気を十分残しており、志摩はすぐに藤堂の言いつけを思い出した。
 伊澄の家の近所を出歩く時は素通りせず、必ず挨拶に伺う事。そしてリキには必ず自分の事を褒めて聞かせる事。志摩は藤堂から、この二点を義務付けられていた。藤堂の年増好きは昔からだが、確かにこのリキという女性は若い女にない魅力があるように、志摩も感じていた。実際は自分の母親と変わらない年齢の筈で、口が裂けても言えるわけがないのだが。
「遅かったね。晩御飯どうする」
 とそこまで言った所で、銀一の背後からにゅっと顔を出した志摩を見て、リキは顔をほころばせた。
「あらま、時和会のニューエース、志摩太一郎くんじゃないのさ」
「あはは、藤堂兄貴のおかげですわ」
 志摩は明るく笑って返すものの、実際腹の中では「かなわんな」と思っていた。若いとは言え時和会から盃を受けた正式な構成員の自分を、明らかに子ども扱いしているのが分かった。この時以外でもリキの態度は常に同じで、他の組員達が居合わせる場所でも、志摩の頭をポンポンと叩いて「ご飯食べに来ー」と朗らかに笑う女性だった。「どえらい人やの」と志摩自身がよく銀一に零していた。愚痴ではなかったが、どこかで拗ねているように、銀一には思えたという。
 この時代、特にこの街において堅気とヤクザ者の距離は現代よりもずっと近かった。しかし貧困と差別に虐げられる住人がひしめき合って暮らすこの街においても、ヤクザ者は時に後ろ指をさされる存在と言えた。
 抗争で軽々しく命を散らす、徒花のような若者も後を絶たない。博徒系ヤクザである時和会には、流れで覚せい剤に手を出す組員も多かった。羽振りが良く小粋に決めた若い衆もよく見かけたが、一年後と経たずボロボロになっていく姿を、リキは何人も見て来たそうだ。銀一は子供の頃からそんな話を聞いていたし、特別毛嫌いする事もない反面、ヤクザになる気はさらさらなかった。
「先生は、おいでですか?」
 と志摩が頭の位置を下げつつ聞いた。リキは一瞬ぽかんとなって、あやふやに頷いた。
「…なんだって?」
「父ちゃん」
 と銀一が言うと、リキは真顔で「先生?」と聞き返した。
「いや、ええんです。気にせんでください。今、外出されてますか?」
「うちの人なら今風呂に入ってるけど。上がって待ってなさいよ。ごはん食べた?」
「たらふく飲んで来たんで、お気持ちだけ」
「そうかいな。まあ、上がりいよ、汚い家で申し訳ないけども」
「すんません、待たせてもらいます」
 伊澄銀一の父・翔吉は、この街では相当名の知れた男であった。若い頃からとにかく喧嘩が強いと有名で、仕事は銀一と同じくと場で牛を「割る」職人として様々な店を転々とし、その都度重宝がられて来た。ノッキングと言って、解体する牛を気絶させる為の手段として、長い柄のついた鉄製のハンマーを振るって牛の眉間を叩くのだが、ある時新人が打ち損じて暴れ狂った牛を捕まえる最中、左腕を突き上げられて大怪我を負った。十年前の事だ。以降左肩から先を失い、片腕となって仕事をやめざるを得ないと誰もが諦めたが、なんと彼は右腕一本でハンマーを振るい、両腕の時と変わらぬ精度で牛の眉間を打ち抜いた。欠損した人体のバランスという物を考えると普通はあり得ない事だけに、とにかく荒くれ者の多いと場において、翔吉は誰もが一目置く伝説の職人となった。もちろん食肉加工の仕事は牛の眉間を叩くだけではない。数種類の包丁を用いて牛を捌き、枝肉と呼ばれる状態に解体していく。さすがに片腕となった翔吉には荷が重い仕事だったが、そこはまだ見習いにもなっていなかった銀一を傍らに置き、自分の左腕とする事でこなして見せた。捌きの頭数では腕利きの職人に敵わないが、質の良さなら以前と比べて見劣りしないとまで言わしめる程だった。とにかく何があろうと諦めない男。めげない男。そういう狂気じみた執着心で、周囲からの人望も厚い男なのである。
 それだけではない。片腕になった後も、翔吉は喧嘩において負け知らずだった。ある時喧嘩好きのヤクザ者が、翔吉を「肉屋の腕利き先生」と呼んでからかった。それが既に片腕だった翔吉の逆鱗に触れ、顎を引っ掴まれてそのまま骨を外された。生来の短気者である翔吉の力量を推し量れなかったヤクザ者が悪いと地元の人間は考えたが、運悪くその相手は四ツ谷組の若い組員だった。更に間の悪い事にはその一件は翔吉の父であり、銀一の祖父の死に目と重なった。葬儀の真最中に、聞きつけた四ツ谷の連中がお礼参りに押し寄せて来たのだ。悲しみに暮れる銀一らを残し、翔吉は単身四ツ谷の事務所へ乗り込んだ。傍から見れば完全に拉致なのだが、後に翔吉は四ツ谷組を、
「木端微塵に叩き潰してやろうと思った」
 と語った。その言葉が勢いだけのハッタリでない事は、疑いの余地がない。翔吉は、謝罪に訪れたものとタカを括っていた組員十数人と若頭の前で、腹に巻いていたサラシから肉切り包丁をすらりと抜いたのだ。一般家庭の主婦が使う細身の包丁ではない。普段翔吉がと場で解体に使用している牛刀と呼ばれるものだった。組員達は「え?」という顔でお互いを見合った。話が違うと思ったのだろう。何も言わずに包丁を手にする翔吉の仁王立ちに、誰もピストルはおろかドス一本も抜かなかったという。翔吉が片腕である事もまた怖さに拍車をかけた。捨て身のこの男が、冗談で刃物を抜くわけがない。こちらはピストルを抜けば終わる。抜けば、撃てる。だが撃てば、間違いなく撃った人間は刺される。伊澄翔吉に刺される。それはつまり、メッタ刺しにされるという事だ。全員で一斉射撃を行えば、その場から一歩も動かす事無く殺せるだろう。しかし一度脳裏に自分が刺し殺される映像が浮かんでしまうと、懐からピストルを抜く勇気は誰からも出てこなかった。牛刀を握った片腕の男が、最初で最後の犠牲者を誰にするか、今かこいつかと、じっと睨んで選別しているのだ。怖いはずである。
 ついには当時の四ツ谷組若頭・沢北自らが頭を下げて、
「今回は、うちの不手際だった。すまなかった」
 と言ったそうである。
 これはほとんど世間に出回る事のない話だったが、ヤクザ業界では広く知れ渡る事となった。
 一人の怪我人も出さずに場を収めた沢北の度量を持ち上げる話になる事もあるが、ほとんどが、伊澄翔吉という気狂いの逸話として語られた。状況だけ聞けば、どうしてそんな事までされて生きて帰すのか、帰すと見せかけて後ろからドスで一突きすれば済んだ、と強がる意見も出るのだが、考えれば考えるだけ、よほど翔吉の本気が怖かったのだろうと、誰もが思いを巡らせてはひっそりと肝を冷やした。
 それからというもの、この界隈のヤクザはこぞって翔吉を「先生」と呼び始めた。もちろん揶揄い半分の為本人の前では口が裂けても言えないが、その呼び名が広まりある程度年数が経過してくると、今度は本当に畏敬の念を込めて先生と呼びたがるヤクザまで出始めた。
 それが、藤堂義右であり、志摩太一郎であった。
 風呂から出て来た翔吉は、帰ったばかりの銀一を見つけて、「お前も入れ」と言った。
 正座していた志摩の背筋がピーンと伸びた。ガタイの良さではアメリカ軍人にも引けをとらない藤堂が、絶対に挨拶を忘れるなと釘をさす理由が分かる。体躯や顔付きだけでは説明しきれない、時和会のドンにも匹敵する貫禄の雰囲気が、匂い立つ程に翔吉からは揺らめき立ち昇っているのだ。
「こんばんわ、お疲れさまです、お邪魔してます」
 志摩は勢いよく立ち上がり、頭を下げた。
 翔吉は片手で器用にシャツを被りながら、
「おう」
 と答えた。どちらが本物のヤクザだか分からない。
 奥に引っ込んだまま出て来ないリキを目で探す志摩などお構いないしに、翔吉はどかりと座り込んで、側にあった酒瓶を引っ掴んだ。酒宴に入られては先が長くなる。やばいと踏んで、志摩は慌てて言葉を繋げる。
「ご挨拶に伺いました。兄貴も、よろしゅう言うとります」
「…」
「…用向きは、それだけです」
「なんじゃい」
「…あかんかったですか」
「貴様が直接来いと言え。なんじゃい挨拶て。下の人間寄越すんが義右の挨拶か」
「…すんまへん」
「所で志摩よ。今日帰り際に豚をパパっと捌いたんやけどな。仕入れの内訳が急に変わったようで、一頭売れ残ったわけだ。可哀想になぁ」
「…はあ」
「捨てるわけにもいくまいよ」
「はあ」
「もらって来た。ええ豚なんじゃ」
「…はあ」
「喰えや」
 志摩はゾッとしたような顔で、首を横に振る。
「今しがた銀一と飲んで来たばかりなんで、飯はもう」
「…え?」
「食います。…食いますがな。嫌やなあ、もう」
 志摩は助けを求めるように銀一を見たが、彼は風呂の支度を済ませて立ち上がる所だった。
「適当に食って、適当に帰れ。風呂行ってくるわ」
「嫌やなあ銀一君! 何言うてるの君! 一緒に頂こうやないか! 豚を! お父さんが捌いた豚を!」



 銀一が風呂から上がると既に、志摩の姿はなかった。こんがり焼いた豚の切れっぱしを一口放り込んだだけで、嗚咽を堪えながら退散したそうだ。志摩は豚肉が嫌いなのだ。翔吉は銀一からそれを聞いて知っていた。理由は上手く言えないが、リキとは違い、銀一が志摩に対しそこまで胸襟を開く気にならない事もまた、聞いて知っていた。更に言えば、急に仕入れの内訳が変わって、帰り際に捌いた豚が売れ残った、という話は機転を利かせた翔吉の嘘である。
 リキが翔吉と銀一の側にお酒の用意を済ませ「お先に」と断ってから床に就いた。
 毎晩ではないが、就寝前に父子で酒を酌み交わすのが日課だった。二人とも酒豪である事を自覚していたが、裕福ではない事も承知している。長くなる為、寝酒は一人二合までと決めていた。
 この日も、いつもと変わらぬ晩酌に過ぎなかったが、銀一は良い機会かもしれないと思い、父の顔を真っすぐに見つめて聞いてみた。
「父ちゃん。今、平助ん家は、どうなってる?」
「どうって、なんじゃ」
「平助のじいちゃん殺した犯人、まだ捕まってないよな」
「ああ」
「なんでじゃと思う?」
「なんでって、なんじゃ」
「なんで平助のじいちゃん、あんな惨い死に方せんといかんかったんじゃろうか。なんで、一年も経って犯人捕まらんのじゃろか」
「俺が知ってるわけないじゃろうが。お前何言うとるんじゃ、さっきから」
 銀一は隣の部屋で寝息を立てる母を起こさぬよう声を落として、夕方竜雄から聞いた平助の話と、和明が港で耳にした噂話、そして先程藤堂から聞いた話を翔吉に聞かせた。翔吉は顔色一つ変えず黙って話を聞いていたが、藤堂の口から「黒」の名前が出た辺りから急に眉間に皺を寄せ始めた。ある程度予想は付いていたが、それでも息子の銀一ですら小便を漏らしかねない程、翔吉の形相は恐ろしかった。
 バリマツこと松田三郎。今井という名の警察官。一年前に殺された西荻平左と関係があるというその二人の死が、この街に災厄を運んでくるやもしれないと、藤堂はそう睨んでいる。何がどんな風に絡み合えばそのような流れになるのかさっぱりと理解が出来なかったが、ひとまず西荻の家へ出向いて幸助の話を聞いてみようと思う。と、銀一がそう言った瞬間、
「やめとけ」
 と翔吉が止めた。
「ろくな事にならん。やめとけ」
「うーん。まあ、相手が本当に黒の連中ならどうにもならんと思うけど。でもそれは藤堂が勝手に言うてるだけやから。俺はそこよりも、平助から相談受けて親身に聞いてやってる竜雄を心配しとるんよ」
「竜雄?」
「うん。責任感のある男じゃから、今日もなんや一人で思い詰めとった。明日からまたトラックで、そうなるとしばらくは戻られんやろうし。まあ、代わりに平助の話を聞いてやるだけでも、楽になるんならと思ってな」
「…話を聞くだけか?」
「それ以上、俺には何も出来きんよ」
「一人でうろうろせん方がええぞ」
「俺もう子供やないんで」
「笑い事言うとるように見えるんか、お前は」
「…どないした」
「勘じゃ」
「…勘かぁ」
「おお、勘じゃ」
「怖いのお。…そしたら、明日は春雄が戻って来るから、明日、二人でちょっと行ってみるわ」
 しぶしぶという顔で頷く翔吉を見ながら、銀一は内心首を傾げていた。本心では、別に西荻の家になど行きたいわけではない。しかし口では行きたいような素振りで父を説き伏せているし、どこかで、行かなくてはならないように感じていた事も、確かだった。
 竜雄と話せていない事が気がかりだったが、それでも翔吉の了解を得た上での成り行きである事は、銀一にとって大きな安心だと言えた。

 


 

7 「険雄」

 銀一と同じ年の幼馴染、神波春雄が朝早くに訪ねて来た。朝と言っても、五時六時ではない。まだ日の上らない四時という時間だった。呼び鈴の音に何事かと起きて出た銀一の母リキは、鍵を開ける前に誰かと尋ねた。低く小さな声で、
「神波です。春雄です」
 と答える声に、リキはほっと胸を撫でおろして鍵を開ける。
「びっくりした。早くからどうした?」
 玄関の戸をガタガタと横に開けると、背筋を真っすぐに伸ばした青年が立っていた。身長は百七十五センチの銀一と同じ位で、上半身は服の上からでも鍛えられた筋肉の盛り上がりが見て取れる。しかし全てが大きい骨太な竜雄とは違って、どちらかと言えば和明に近い細身の印象である。
 春雄はリキと顔を合わせるなり、頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう。春雄、久しぶりじゃねえ、また男前になっちゃってさあ」
「ご無沙汰してます」
 ニッコリと笑った春雄の顔は、銀一と同じく二十一歳ながらとても大人びて見えた。美男子だがどこかにあどけなさを残す和明と違い、整った彫りの深い顔立ちには精悍という表現が良く似合う。
「朝早くにすんません。銀一、まだ寝てますか?」
「ああ、多分、どうやろう」
 言いながら家の中を振り返るリキに、「起きてる」と声を掛けて中から銀一が出て来た。物音に気付いて目覚めてはいたが、服を着ている間にリキが先に出てしまったのだ。
「おお、すまんな、銀」
「かまわん。外で話そか」
「おお」
 リキは息子とその幼馴染を交互に見やり、
「ええよ、中で話しな」
 と言ったが、翔吉の眠りを妨げる根性が、彼らにある筈もなかった。



 遠くの空で薄っすらと夜明けの気配を感じる。
 犬が鳴き、音もなく風が吹いた。
 銀一が春雄と会うのは、二ヶ月半前のお盆以来だったように思う。懐かしいというわけではないが、前回会った時の印象よりも少しだけ逞しく見える友の姿に、どこかほっとする安堵に似た感情が、じわりと銀一の胸に広がった。まだこの時点では、銀一の方から春雄に対して西荻に関する話は何もしていないが、今はただ春雄の落ち着き払った印象と、見たままの逞しさが銀一には有難かった。ビビッてんちゃうぞ。と己を鼓舞するものの、口には出せない。
 静かな路地を並んで歩きながら、二人は声を落として話をする。
「昨日の晩には帰っとったんじゃが、遅かったもんで」
 会いに来なかった言い訳を口にする春雄に、お前は女か、と銀一は思った。しかしそうとは言わず、
「ああ、構わんよ、お疲れさん」
 と笑って返した。きっと竜雄なら思った事をそのまま口にしているだろうな、と銀一は思った。
「なんでこんな時間に?」
 続けて銀一が聞くと、右横を歩く春雄は小さく頷いた。
「和明がな。昨日大分と遅なってから、夜明け前に海出んならんようなったーって、わざわざ出る前に顔見せに来たんじゃ。いるかと思って来てみたら、おるじゃないのーって、ケラケラ笑ってた」
「へえ、あいつらしいな」
「竜雄が今朝入れ違いで街を出るって聞いたもんでな。この後顔出そうかと思って」
「早えって」
「すまん。実はさっきまで和明と飲んどった」
「そうじゃろうのお、酒臭せえもん」
「なるべく小声で話しよったんやけど、おばさん気付いてるかな」
「当たり前じゃろうが」
「っはは、まあそう怒るな。何かと積る話もあってだなぁ。…ただお前、こっちはこっちで凄い事になっとるじゃないの」
 銀一は答えず、懐から煙草を出して一本銜えた。
「お、『わかば』か、ハイカラだねえ。くれや」
「家では吸えんからな。全部やるわ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく」
 二人は立ち止まって煙草に火を点け、穏やかな早朝の時間を楽しむように、煙を吐き出して空を見上げた。
「いつ戻るん?」
 と、銀一が夜明け前の空を眺めたまま尋ねる。
「…仕事か? おお、一週間休み取れたわ」
「ほお、そうかい」
 珍しそうに、銀一は春雄の顔を見つめた。
 春雄の就いている造船業という職種について明るいわけではないが、とにかく危険で重労働という噂だけは、銀一も聞いた事がある。銀一は子供の頃から遊び感覚でと場に出入りしていた為、食肉加工の仕事をきついと感じた事はないが、一般的には環境面・作業面含めて過酷であると言えた。その銀一ですら、屋外での高所作業や休日出勤、高確率な怪我の危険性や薄給といった、悪条件の向こう側に見える船作りという仕事をあまり魅力的だと思った事はなかった。
 いつだったか春雄の語った、『とにかくバカでかい物が好きなんだ』という言葉だけは何となく理解出来た。見上げる程巨大な鋼鉄の塊を、職人仲間とコツコツ積み上げて行く達成感は、他の仕事では味わえないと言う。春雄の見ている風景と同じも物を見る事は出来ないが、仕事そのものに幸福を見出せる彼を、銀一は尊敬していた。
「俺もよ、ちょっと面白い話があってよう」
 と、春雄が切り出した。
「ついこないだ、ふらっと、俺の職場にケンジとユウジが来たんだわ」
「え。いつ?」
「一週間ちょっと前。びっくりしたぞお。もう二度とこっちで見る事はないと思ってたからな。俺に何か用があってわざわざ出て来たんかって聞いたら、人を探してたら辿り着いたって言いよるんよ」
「…人?」
「何を言いよんじゃウソくせえって。したら、なんかおかしな奴見つけたら、しばらくこっちにいるから連絡せえ言うて、どっかの家の電話番号置いてった」
「ああ? 何じゃいそれ」
「変やろ?」
「変もなにも、お前東京やろ? あの二人がわざわざ東京顔出して、そんな可愛らしい事だけ言うて、お前にいっこも手出さんで引っ込んだってか?」
「ああ」
「はあ!?」
「あははは、俺も銀と同じ顔してたと思うわ」
 銀一は呆けたように口を開いて、閉じるのを忘れてしまった。
 春雄の言うケンジとユウジは、時和会系列の準構成員である。
 名を、黛ケンジ、花原ユウジといった。
 藤堂や志摩と違い、時和会に正式に名を連ねているわけではないが、基本的には時和会から仕事を貰って飯を食べている。その仕事が何かと言えば、喧嘩と恐喝である。
 年齢は銀一達の一つ下で、今年二十歳の筈だが誰も正確な事は分からない。全ては本人達の自己申告に過ぎず、二人とも字が書けない為ケンジもユウジもどのような漢字なのか定かではない。橋の下で拾われて来たという説もあるが、顔が全く似ていない為兄弟という線は薄いようだ。
 昔から、ただひたすらに喧嘩が強かった。名を馳せるようになってからは、ヤクザが先生と呼ぶ伊澄翔吉の再来と言われ、二人がかりで挑めば片腕の翔吉に勝てるとまで言われた。この街において、それは勲章だった。
 幼少期より二人が揃うと所構わず人を殴り始める為、十五歳まで二人は別々の人間に育てられた。ケンジを育てたのが時和会の元幹部・黛光哲。ユウジを育てたのが時和会とは同じ系列に位置する酒和会の元幹部・花原茂美である。二人の苗字を貰って黛と花原を名乗るが、離れて生活するようになっても相変わらず手の施しようがない悪童ぶりで、彼らを育てた二人もほとほと困り果て、十五歳になると同時に匙を投げるように元の街へ突き返した、という話であった。
 この当時、ヤクザ同士の抗争は赤江でも、その他の街においても日常茶飯事だった。暴対法施行前のこの時代、抗争は大小問わずいたる所で勃発し、堅気の近隣住民に被害を与える事件もしばしば起きていた。連日ニュースを騒がせた時期もあって、大きく問題視されるようになるまでに時間はかからなかった。懲役覚悟の鉄砲玉をいくら揃えようが、街中で派手なドンパチを繰り広げるわけにはいかないそんな中、ケンジとユウジは大いに重宝がられた。ドスが無くとも、ピストルも持たせずとも、敵対組織の幹部をいとも容易く拉致って山の中で半殺しにする。例え街中であっても、壊れた暴力マシンのように暴れ倒した。刺されても、ピストルで撃たれても、死なない限り向かっていくのが生粋の喧嘩師、ケンジとユウジであった。そして何より重要なのが、逃げ足がとことん早かった。
 仕事の力量だけで言えばとっくに若頭などの役職についてもおかしくはない。しかし最初から本人達が誰の下に付く気もないのと、時和会としても荒事担当の彼らをいつでも足切り出来るように、正式な構成員として積極的に迎え入れようとはしなかった。
「灰、灰」
 春雄に言われて、銀一は我に返る。煙草の灰が、文字通り一服しか吸わないうちに大分と灰に変ってしまった。
「ああ、ああ」
 慌てて吸う。
「そいで電話番号って、何」
 銀一の問いに、春雄は声のトーンを落として答えた。
「向こう出る時に響子が教えてくれた。…酒和会の番号やった」
「やっぱそっちの話か」
 酒和会は以前、花原ユウジが世話になっていた関東ヤクザである。春雄のいる東京のとある街にも、組事務所を構えている。響子とは春雄と共に東京で暮す、彼の恋人の名である。
「それで、帰って来たんか?」
 ケンジとユウジの来訪を訝しんで、赤江に戻る事にしたのか、という意味である。
「いや」
 と春雄は首を横に振る。
「休みはもともと(会社に)言うてあった。タイミングはこっちが先よ」
「そうかい。それで、怪しい奴なんかおったの?」
「おるかいや。平和なもんよ、あっちは」
「そんなもんあいつら自身が、おかしな連中じゃろが」
「全くよ。現場の人間も気が荒いからヒヤヒヤしたって」
「よお大人しい帰ったもんじゃな」
「まあ、確かにな」
「…」
「…よっぽどさ、急ぎの用でもさ、あったんじゃあ、ないのかなあ」
 何かがあったらしい事は、春雄のわざとらしい口調が物語っていた。
「あはは。へえ、春雄くんも、丸くなりましたねえ」
「昔は顔見ただけで殴り合ってたけどな」
 ユウジと離れて生活していた十代前半、ケンジは隣町の時和会で面倒を見てもらっていた。その時代、同じく暴れ者であった銀一達ともよく殴り合いの喧嘩を繰り返していた。お互い鼻血で顔面が血塗れになりながら、角材やらバットを引っ掴んで殴りあった。大抵一つ年上の銀一が勝つのだが、子供時代のケンジはよく泣きはするがそこからが粘り強かった。痛い痛いと泣き喚きながら、それでも襲い掛かって来るのをやめないのだ。銀一は段々可哀想になって来るのだが、向かってくる以上は全力で殴り続けた。
「…ふ、あのナシケンと、ハラハラがな」
 と銀一は言い、鼻で笑った。
 二人はこの街では陰で、『ナシケン』『ハラハラ』と呼ばれている。黛ケンジはその名に似合わず眉毛が全部ない。片やユウジは前歯がほぼない為、花原と発音しても空気が漏れてハラハラと聞こえるのが由縁だが、面と向かっては誰も口に出せない。言うとするなら、この銀一達だけである。今でも、偶然街中でケンジと顔を合わせば『眉毛の借りは絶対返してもらうからな』と言われるのだが、彼の眉無しと銀一は無関係である。ちなみにユウジの前歯がないのは、トルエン(シンナー)が原因である。
「なあ。何かあったのか言うてみ?」
 と、春雄が聞いた。
 銀一は話すのをためらっていたが、観念したように煙草の煙を長く吐き出して、頷いた。
「危うく藤堂と揉める所やったって?」
 半笑いで春雄が言うと、銀一は首を横に振って「してやられた気がするわ」と答えた。
 春雄は声に出して笑い、
「和明もそう言うとった。見た事もない連中がいきなりちょっかい出して来たってな」
「ああ」
「雷留やろ? いつもお前らが出入りしてる居酒屋で、たまたま時和が飲んでる席で、向こうも四人で、笑ろてまうぐらいのチンカスやったってな。出来た話があったもんだわ」
「普通気付かんよ、そこまでは」
「俺がそこに、おればなあ」
「よー言うわ」
「喧嘩なんか飽きる程してきたもんな。相手が時任建設で、その後ろで藤堂がふんぞり返ってるなんざ、まあ、この街じゃあ当たり前の光景やしな」
「ああ」
「ただ、西荻の一件が絡んどるって? それはお前…」
 薄々、銀一も感じ取ってはいた。直接の関係がない為頭で理解は出来ていなかったが、藤堂の前に座らされた瞬間、確かに嫌な予感がしたのだ。企業舎弟とも言える時任建設の若い衆を潰されて笑っている藤堂も気味が悪かったが、西荻の名前を聞いた瞬間背筋がゾっとするのをはっきりと感じた。春雄の言葉で、今それは確信に変わった。
『俺達は、動けない時和会の代わりに、何かに利用されようとしている』
 不意に、春雄が笑った。
「飲みの後、志摩がひょこひょこ付いて来て『護衛だ』って抜かしたそうやな。お前ら、クンロク入れられとるじゃないの」
「あいつマジで、ぼてくらかしたったら良かったわ。響子には悪いけど」
「あはは、俺は構わんぞ」
「はーあ。面倒くせえ!」
 銀一が本音を漏らすと、春雄は愉快そうに笑って、まあまあとなだめた。
「竜雄、平助から相談受けてるってな。人助けと思って、まあ、それでええんじゃないの?」
 銀一はギロリと春雄を睨み付ける。
「言うからには、お前も手伝えよ?」
「っはは。おお、そのつもりよ。任せとけ」
 やっと言えた、と銀一は思った。そしてやはり春雄は、信頼出来る頼れる友だった。
「…煙草一本くれる?」
「何本でも吸え」
「悪いな。…いや、俺のや」
「元な。…今は俺のや」
 やはり家で話さなくて良かったと思う程、銀一は大声で笑った。

8 「渋爺」

 と場の仕事を終えて、銀一が春雄と合流したのは午後二時半だった。
 勤務先の林原商店を出てすぐ、斜向いで商いをしているうどんの屋台に腰かける、男女の背中が目に入った。筋肉の盛り上がった肉体労働者の大きな背中と、緩やかに左カーブを描いて隣の男にしだれかかる細い背中。銀一は不思議と笑いが込み上げて来るのを抑え、わざと声を張り上げた。
「人がせっせと働いてる間酒かっ食らって、お前らそれで平気なんか。悪いと思わんか」
 銀一の声に、二人が立ち上がって振り向いた。春雄と、恋人の志摩響子である。
 志摩太一郎の妹、響子はまだ十七歳と若いながら、春雄について行くと決めて家を飛び出し、東京で彼と暮らしながら自分も働いて生計を支える、しっかり者である。しかし家を出たのは三年前で、十四歳の時だ。そういう意味では、しっかり者の彼女もまた一筋縄ではいかない娘である。丸っこい顔の中で愛想よく笑っている響子を見れば、誰もが心を許しはする。しかし付き合いを深めればすぐに、志摩の名は伊達ではないと感じる嵌めになる。
 春雄と響子の駆け落ちは誰もが反対した。春雄が東京の造船会社の下請けで働き始めたのはまだ十代の頃で、赤江の街で彼の帰りを待ちわびていた、響子の幼くも健気な姿を見ている分には、誰もが皆微笑ましく感じていていられた。
 所が、十四歳の彼女は大人になるまでの時間をすっ飛ばそうと画策し、家出を兄に相談した。当然、兄太一郎は激怒した。いくら自分が極道に進む程の無頼だとしても、妹はまだ十四歳である。何かを決めるには早く、それが男との駆け落ちとなれば冷静でいられるわけがなかった。
 響子は相談する相手を間違えたと思い直し、今度は幼い事から姉と慕っていた藤代友穂に話を持ち掛けた。友穂は笑って賛成し、「少ないけど」と言って行きの電車賃と幾らかの金を用立ててくれた。「その代わり」と彼女からと出された条件は、「これを受け取るなら、必ず実行に移して、必ず幸せになる事」だった。
 感銘を受けた響子は、友穂ですら思いもよらない行動に出た。彼女に相談し、工面してもらったお金を握り締めたその日の夜に、家を出たのだ。短い書置きを部屋の机に貼り付け、洋服だけをカバンに詰めて赤江を後にした。書置きの内容はこうだ。
「神波さんと、東京で暮らします。探しても、無駄です。見つけた所で、帰りませんので」
 もちろん怒り狂った響子の父は、息子・太一郎の胸倉を掴んで時和会から追手を放てと命じた。これは噂話でしかないが、その放たれた追手というのが実はケンジとユウジではないかと言われている。荒っぽい仕事を依頼する側としてはこれ程頼りになる人間はいないが、ただ相手に回ったのが神波春雄という、これまた狂犬と呼ばれた並々ならぬ男であり、尚且つケンジ達とも知らぬ関係ではなかった事が、明暗を分けた。実際、春雄と響子はその後連れ戻される事なく東京に留まり、今も平和に暮らしている。ただ両者の間に何事もなかったというわけでは、どうやらなさそうだった。今更春雄の口から三年前の出来事が語られる事はないが、先日東京の職場に現れたケンジ、ユウジとの間でも何かがあったらしい事は、昨日の春雄の態度から容易く読み取れた。
 あれから志摩響子は赤江に戻って来る事はあっても、実家の敷居は跨いでいないそうだ。
「ご無沙汰してます、銀一さん」
 突然声を掛けて来た銀一に驚くでもなく、笑顔の響子が両手を前に回して頭を下げた。
「おう。元気そうで安心したわ。疲れ果てて、もっとがりっがりにやせてるかと思った」
「…ちょっと、それ太ってるって意味ですか!?」
 響子は目を見開いて、銀一の腕を叩いた。
「違う違うー。そういう意味じゃないよー。何言っちゃってんのさー」
 銀一が大袈裟に顔の前で手を振って見せると、響子は頬を膨らませてまた銀一の腕を叩き、そして春雄を睨んだ。
「違うって言うとるじゃないの」
 春雄は苦笑し、歩こうか、と銀一を促した。
「銀一さんは、お昼食べたんですか?」
 路地を行く銀一と春雄の後ろを付いて歩きながら、響子が明るい声で聞いてくる。
「おお、食ったぞ。さっきの、そこの屋台でうどん食った」
「美味しいですよね、私も食べちゃいました。…さっきお昼食べたんですけどね」
「あはは、そら…。そうか」
「何ですか?」
「何でもない」
 良い子だな、と銀一は思った。赤江出身だからというのもあるかもしれないが、今仕方まで二人が座っていたのは、林原商店の職人御用達の屋台である。と場の真ん前に陣取り、時間を惜しんで昼飯を腹に詰め込みに来る職人達の為の店だと言っていい。そんな店が美味い筈がなし、第一慣れない者にすれば漂って来る匂いにまず耐えられない立地にある。今もまた、仕事を終えたばかりの銀一の側にいて尚ひとつも嫌な顔をしないのは、誰にでも出来る事ではないと思うのだ。
「竜雄には会ったか?」
 と、銀一は会話の矛先を変えた。春雄は頷き、
「お前と別れたすぐ後に家行った」
「早。怒られたやろ」
「いや、もう竜仁おじさん起きて外で乾布摩擦してた」
 銀一は思わず手を叩いて笑った。
 竜仁(たつひと)とは竜雄の父親である。大柄な竜雄の体躯は父譲りで、今でも背後から見ただけではどちらが父でどちらが子は分からぬくらい、若く逞しい。
「竜雄も起きとったわ。ちょっとだけ話した」
「なんか言うてたか?」
「相談を受けたのは自分やってのに、言うだけ言うて街を出るのが心苦しいって。お前に打ち明けた時は別に、代わりに様子を見に行かせようなんて思ってなかったって」
「ああ」
「謝っといてくれー言うて。今回は三日もあれば戻って来るらしいぞ」
「別にあいつの為やないよ。平助も、知らん間じゃないしな」
 歩きながら三人が向かった先は、銀一の家である。今朝、翔吉に挨拶出来なかった事を春雄が気にして、西荻の家へ向かう前に立ち寄ったのだ。もともとそのつもりで林原商店へ出向いたのだが、途中休憩で抜け出して来た銀一から翔吉が既に帰ったと聞いて、ならば響子も呼んで一緒に顔を見せに行こう、という話になった。
「お疲れさまです」
 春雄が伊澄家の敷居をまたぐと、丁度奥から翔吉が出て来る所であった。
「ご無沙汰してます、おじさん。春雄です」
「おう、男前。お、響子か?」
 翔吉は春雄に一瞥をくれただけで、すぐに背後の響子へと視線を移した。響子は満面の笑みで前に進み出て、深く頭を下げて、「お久しぶりです」と言った。
「挨拶なんぞいらん。上がれ上がれ」
「すみません」
 と春雄が会釈すると、
「お前やないよ。お前は早いとこ、日が暮れん内に西荻行ってこい」
 と翔吉が突っぱねた。
「ええ」
 困惑の表情で春雄が後ずさると、その後ろに立っていた銀一がククッと笑い声を押し殺すのが聞こえた。
「響子は春雄が戻るまでここて待ってればええわ。東京の話でも、聞かしてくれ」
 言われて響子は一瞬春雄を見やったが、すぐに明るい笑顔で「はい」と頷いた。
 春雄の肩越しに銀一が顔を覗かせ、「手出すなよ」と言った。
「殺すぞガキ。出せる手なんざとっくの昔に無くしたわ」
 笑えない冗談を言う翔吉に、銀一は真顔で、
「もう片方あるやろ」
 と返した。
「お前それ、アリなんか?」
 春雄が、心なしか震えながら銀一に向かってそう呟くと、ついには堪え切れずに響子が大声で笑った。


 
 赤江はとても変わった地形をしている。山があり、川があり、何ヘクタールもの農地があり、需要の高まる肉食業を支える屠畜場も五軒以上運営され、そのどれもが規模の違いはあっても業績が右肩上がりだ。条件だけ見れば、町全体が豊な印象を受ける。しかし立地の悪さが致命的で、あるいは環境操作された地だという印象を、長い間歴史研究家に与え続けて来た。
 まず、自家用車やオートバイ普及率が低い赤江の住人にとっては、『雷留』などの飲み屋街へ出ようとする際、公共の交通機関を使用出来ない。何故なら当時街の側を電車が通っておらず、バスも近くまではやって来なかったからだ。一番近いバス停まで徒歩で三十分以上かかり、そのバス停へ辿り着くまでには赤江地区を出て住宅街を端から端まで歩かねばならない。その住宅街というのが、いわば空き家街、ゴーストタウンである。時和会の藤堂が『隣』と言ったのはこの空き家街の事で、本来ここは赤江ではなく別の名前の付いた地域なのだが、他所の人間はここも含めて赤江だと認識している事が多い。
 静まり返った夜の住宅街を徒歩で通過し、最寄りのバス停へ辿り着く頃には、飲み屋の点在する繁華街の灯りがチラホラと見え始める。その為飲食目的で繁華街へ向かう者は移動手段としてバスを用いる事がなく、結果バス側も赤江付近まで近寄って来ない。当時、利用者数が極端に少なく停留所を置く必要性を感じなかったというのが、バス会社の主張する主な理由だそうだが、そこに説得力は感じられない。
 この空き家街の治安が、とにかく最悪だった。基本的には酔っ払いか麻薬中毒者しか通らず、普段から住人の目が光らない暗がりだらけの街並みは、当然死角だらけだ。自然と犯罪の温床となり、女子供は歩きたがらない。
 通称『死体置き場』と呼ばれるこの空き家街から繁華街まで、徒歩で三十分という事は車で十五分もかからない。と場へ運ばれてくる牛豚や、反対にと場から仲卸へ出荷されて行く枝肉などは意外と早く都市部へ運ぶ事が可能な為、その点だけは業者から有難がられていた。窮屈で物騒な街ではあるが、地方の農村程辺鄙な土地ではない事も一つの特色と言えた。
 視点を都市部に置いて赤江見つめると面白い事が分かる。繁華街をスタート地点にして赤江を目指すと、徒歩でも車でも必ず『死体置き場』を通らねばならない。やがて到着する街の玄関口は、と場である。街の入口付近に、林原商店を含む食肉工場が軒を連ねているのだ。
 『死体置き場』から赤江地区の境には明確な線引として、鉄格子が張り巡らされている。その錆びた鉄格子のすぐ向こう側で、何十頭もの牛達が鳴いている光景は、おそらく他所では見る事が出来ない。
 この時点で部外者がふらっと思いつきで街へ足を踏み入れる事は起こりえず、他所者の侵入を遮る防犯の意味では機能していると言えた。しかし実際内部へと目を向けると意外にも、長閑な田園風景と小川を堪能する事もできるのだ。
 住居はと場周辺に集中する長屋であり、そこから田園までの区画にあまり景気の良いとは言えない古い町工場が数棟建っている。すでに畳んで廃屋となった工場も傾きつつ原型を留めており、それらの隙間を縫うようにして銀一達の住む木造平屋がひしめき合っている。
 田園と町工場の一部は西荻の所有地であり、街を奥へ進む程その割合は高くなる。やがては山の麓に辿り着き、高台の上に鎮座しているのが大地主、件の西荻家である。
 立地に目線を戻した時、最も困惑するのがこの西荻家である。西荻家の背後には、県境に位置する山がある。ところがその山を越えて隣県へ抜ける道路が、当時は一本も開通していなかった。舗装、未舗装関係なく、一本もだ。つまりは赤江の街をずんずん進んで西荻の家付近まで来ると、隣県は山を越えたすぐ目と鼻の先にあるにも関わらず、その土地へは行けなかったという事になる。
 奥、と言う言葉がここまで似合う土地も珍しい。しかしそこには、当時赤江が被差別部落であったという世情が関係しているように思えてならない。
 そんな西荻の家へ向かうには、緩やかだが長い坂を上らねばならない。
 坂道の舗装もまばらであり、途中木々に挟まれた小さな林道があったり、つづら折りになっている箇所があったり、とにかく麓から屋敷までが遠く険しい。老人の多いこの街ではめったに徒歩で西荻の家を訪れる者はいないが、そこは若い銀一達のことである。徒歩以外の移動手段を持たないという事もあるが、それでも特に問題には感じなかった。
 それよりも、だ。
「志摩の言う通りやな」
 銀一が言うように、明らかに坂の中盤辺りから、警察関係者と思しき人間と多くすれ違った。
 平日の午後三時前である。一般的には若い男が連れ立って歩くには珍しい時間と言えたし、そもそも治安の悪い街の事だ。二人を見やる険しい目付きとピリついた雰囲気が、気の短い銀一達を苛立たせた。口では平助の為と言いながら、腹の底ではヤクザの使いっ走りかと己に管を巻いているのだから、面白い筈がなかった。
「こいつら皆、例の、警官殺しを追ってここに辿りついたんやろか?」
 と春雄が声を潜めて言った。
「か、バリマツの件じゃろ。どっちにしろ、あっこに関係があるのは間違いないからな」
 銀一が顎をしゃくってそう言った先に、ようやく西荻家の門が見えて来た。
 そこへ、なんじゃいお前ら、と横柄に呼び止める声があった。見ると、ハンチングを適当に頭に乗せた白髪の男が、道路脇に立って銀一達を睨み付けていた。身長は百六十あるかないかの小男で、真っ白い髪色と刻まれた顔の皺から察するに、年齢は七十に近いと思われる。寒いのか、しきりにコートの前を掻き抱いている。
「なんじゃいて、なんです?」
 春雄が答えた。その先を言うつもりがなさそうな、気のない返事だった。
「どっから来た」
「下からですけど」
「なんで来た」
「歩いて」
「ワレ舐めとんのか」
「舐めてませんよ。僕ら急いでますんで、これで」
 会釈して立ち去ろうとする二人に、
「待て待て!舐めとるやないか!」
 と、老人と呼んで差し支えのない白髪の男は声を荒げた。それを聞きつけてもう一人別の、今度は若い男が駈け寄って来た。年恰好は三十代前半、清潔感のある男前だが、眉が下がり気味ないせいかどこか頼りない感じもする。身長は銀一達より少し低い。「どうかされましたか」とその男が白髪の老人を覗き込んで言う。
「こいつら連行せえ」
「え、何でですか?」
「ええからしょっぴけ」
「え。…お前ら何したんや」
 若い男は困惑した顔を上げて、銀一達にそう言った。
 やっぱり警察か、という顔を悟られぬよう銀一は俯き、代わりに春雄は大袈裟に声を張り上げ、
「僕らは普通に道歩いてただけです!何もしてません!このお爺さんがいきなり怒り出しただけです!」
 と弁明してみせた。
 駈け寄って来たその若い男性刑事は溜息をついて、もう一度白髪の老人を覗き込んだ。
「成瀬さん、まずいですって」
「何がまずいんじゃ。お前ワシの言うこと聞かんと、このガキの言う事真に受けとるんか」
「いや、そーじゃのーて」
 不毛なやり取りに嫌気がさし、銀一は再び歩き始めた。行くぞ、と小さく春雄に声を掛け、西荻の家へ顔を向ける。
「待たんかいワレ!お前、名前ナニ言うんじゃ!」
 小柄ながらも気性の荒い老人は、ヤクザ顔負けの怒声を銀一に浴びせかけた。銀一は立ち止まり、顔だけを振り向かせると、
「伊澄銀一だ」
 と名乗ってまた坂を上り始めた。
「なんじゃ、伊澄やと!?」
「え、あの、先生んトコの息子さんか!?」
 驚いた表情でそう口走った若い男性刑事の腰を、成瀬と呼ばれた白髪の老人がいきなりぶん殴った。
「お前、何じゃかあしい事言うとるんじゃ!警察がと場の厄介もん捕まえて、何抜かす! 恥を知れボケが!」
「痛い!もう!殴る事ないでしょう!」
 そんな二人のやり取りを黙って見ている余裕があるはずもなく、春雄は銀一を真正面から抱き止めた。
「今はやめとけ! あんな安い挑発に乗るな!」
 彼らを振り返った若い男性刑事は、先程まで無表情に近かった銀一の、火の付いたような鬼の形相を見て一気に青ざめた。もうあと一歩の所まで引き返して来ていた彼の拳は、成瀬の頭上でブルブルと震えていた。
「見てみい、これがこいつらの本性や」
 成瀬は一向に怯える素振りを見せず、低く唸るような声でそう言った。
「ジイさんいい加減にしてくれ。俺はダチを殺人罪でムショ送りにしとうないんじゃ」
 怒気を押し殺した声で春雄が言うと、
「やれるもんならやってみい。老い先短いワシの命でお前ら赤江の極道モンしょっ引けるなら本望じゃ」
 と成瀬はやり返す。どう足掻いてもこの老人は矛を収める気がないらしい。若い男性刑事がなんとか成瀬の肩を掴んで下がらせ、言葉ではなく表情で春雄に「もう行け」と促した。
 春雄はそのまま銀一を坂の上へ向かって押し続け、しばらく歩いた所で、こう言った。
「あいつ有名なジジイだわ。まだガキだった頃の藤堂捕まえて、結果的に親指詰めさせたのがあいつらしい」
「…」
 銀一はそんな話などどうでも良かったが、藤堂の名前が出た事で若干冷静になれた。ヤクザの使いっ走り。そんな苛立ちを思い出したせいで、成瀬に対する怒りが少しだけ冷めたのだ。銀一は春雄に肩を組まれてようやく前を向いた。そして西荻家の門を見やりながら、
「あのジジイ、次会うたら絶対うちのハンマーで…」
 と言おうとした、その時だった。背後で、成瀬さん!と叫ぶ若い声が聞こえた。驚いて振り返ると、先程の老刑事、成瀬が不格好な駆け足で銀一達を追って来るのが見えた。しかし、かなりの鈍足だ。
「っはあ!」
 半ば喜んでいるような声を上げ、春雄が笑った。
「ただモンやないなー」
「馬鹿馬鹿しい、行くぞ」
 呆れたような顔で首を振り、銀一は歩き出した。
「待たんかい貴様ら!どこ行くつもりじゃコラ!」
 後ろでは相変わらず成瀬が叫んでいる。しかし銀一達は既に西荻家の門の前まで辿り着いていた。
 鋼鉄製の門扉のすぐ向こうにはだだっ広い庭があり、その中で取り立てて特徴のない一人の男がなんの騒ぎかと不思議そうな顔をして立っていた。恐らくは四十代、身なりからして西荻家お抱えの庭師だと思われるその男に、春雄が声を掛けた。
「あのー、平助君に会いに来たんですけど。入ってもいいですかねえ?」
 言われてその男は初めて銀一達に目を止め、
「…へえ、どうぞ」
 とだけ言って、また背後の騒ぎへと視線と移した。
 銀一と春雄が敷地内に入った所で、成瀬が追い付いた。
「お前ら何しとんじゃ!はよ出て来い!」
「成瀬さん、だからまずいですって!さっき追い返されたばかりやないですか!」
 若い刑事の言いように、銀一達は思わず顔を見合わせた。
「関係あるか!ワシは小便がしたいんじゃ!おい、お前、ワシも入れろ!便所かせ!」
 成瀬はぼーっと突っ立っている庭師に脅すような声でそう言った。
 庭師はまたもや気のない顔で、「へえ」とだけ答えた。
 それを聞いた銀一と春雄は、慌てて家の中へ駆け込んだ。

連載 『風の街エレジー』 6、7、8

連載 『風の街エレジー』 6、7、8

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-05

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  1. 6 「豚喰」
  2. 7 「険雄」
  3. 8 「渋爺」