子どもの頃は

すごろく

 「子どもの頃は」と、大人になるとみんなよく言う。やれ「気楽で良かった」とか、やれ「何も悩みがなくて楽しかった」とか、昔を美化する懐古語りだ。確かに大人は責任という厄介なものがついてまわるようになるし、面倒くさいことも多々ある。しかし、本当に子どもの頃というのはそんなに頻繁に「戻りたい」などと思うほど良いものだったのか?
 よく大人対子どもの構図の創作物がある。しかし、そういった作品の場合、必ずといっていいほど敵も悪者も大人だ。大人は子どもを支配しようとし、子どもはそれに抗うという定番の構図。誰もこれに疑問を呈さないのが、私には少々疑問だ。なぜ大人は子どもにとって絶対的に悪者でなければならないのか。時には子どもが悪者であったとしても構わないではないか。しかし、よしんば子どもが悪者のような描写があったとしても、それは親の教育が悪かったとか、社会や環境がその子を生みだしたとか、当然のように大人の責任のような話がついてまわるのである。大人は汚れていて、子どもは綺麗で、もしくは大人の手によって汚される、この考えはなぜだか世界共通で存在しているように思える。これを大人も子どもも受け入れている。つまり大人にとって子どもは純真な存在以外の何物でもなく、子どももまた自分たちをそういった存在であると自己認識しているということだ。
 なぜそのようなことをみんな信じて疑わないのか。それはとにかく子孫を大切して残さなければという生物的な本能がなせる技なのか、子どもが邪悪な存在などということはあり得ないという人間が歴史の中で築いてきた倫理観がなぜる技なのか――と、ここまでよくわからないことをつらつらと並べてきたが、ようは私が言いたいのは、「子どもの頃なんて、そんな美化することなんかなかっただろ」ということである。
 子どもなんてのは今から考えると虫を平気で潰して笑ったり、学校のトイレで大便したやつを一年中「うんこ」などと低俗なあだ名で呼べたりするような生き物だったわけで、自分の醜さを周りに合わせて隠せる大人の方が遥かにマシだろうと思うのだ。
 大体、子どもの頃にそんなに良い思い出があるというのか? 子どもの頃なんぞ、特殊な環境で育ちでもしない限り、食って遊んで寝て勉強を丸投げするくらいしか大抵の人はしていないだろう。これのどこに美化する要素があるのだ。獣みたいだろう、こんな生活は。
 と、なぜ私がこのような不毛な愚痴を書き捨てているのかというと、ようするに子どもの頃を美化しているのがむかつくという一点に限る。私の子どもの頃に戻りたくはない。何か嫌な思い出があるわけでもない。私はごく普通のどこにでもいるクソガキで、いじめられていたわけでも、虐待を受けていたわけでもなく、誘拐されたこともない。でも良い思い出もない。だから戻りたいとはこれっぽっちも思わない。
 私の子どもの頃の一番の思い出は、神社の境内にいたときのものだ。正確には神社のお社の後ろのじめっとした裏庭みたいなところである。昔は神社で遊ぶ子どもなんてのもいたらしいけれど、私の頃にはすでにテレビゲームやらが普及していて、そんなお外で元気に遊ぼう、みたいな子どもは減っていた。そもそもそういう元気な子どもは公園に行くし。
 私もその神社には遊ぶために行っていたわけではない。ただぼーっとするために行っていた。お社の後ろの裏庭みたいなところの湿った柔らかい土の上に座り込んで、長いときは半日ほどそこでぼけっとしていたのだ。理由は謎だ。いつもそこは雨が降った後のような匂いがするから落ち着くとかそんな感じだった気がするが、よくは憶えていない。しかし、そこに座り込んでいると、ひどく安らかだったのは憶えている。
 それでも私はあそこにもう一度座りたいとは思わない。あそこに座っていたとき、安らかであったのと同時に、「すべてはこんなものか」と思ったのだから。
 間違いなく、私の世界が広くなったのは大人になってからだ。「すべてはこんなものか」と世界を狭いものと決めつけて諦めていた私にとって、大人の世界は目から鱗が落ちていくもののオンパレードだった。私は大人になっておかげで、あの神社で得ていた偽りの安らぎではなく、本物の安らぎを、自分の手で獲得する術を知ることができた。少なくとも私はそう思っているし、大人という今に満足している。
 だから私はうーんと年を取って、誰かに昔のことを訊かれたらこう答えてやるのだ。
「私の子どもの頃は、くだらなかった。すべてが狭苦しかったよ」
 そう言えたとき、私の胸の内はどれだけすーっと晴れることか。
 そんなことばかり夢見ている、まだ十代のガキだ。

子どもの頃は

子どもの頃は

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