イヌワシに対して想いを馳せる鼠のそれを、恋と呼ぼう。
講義中の隅々にまで響き渡る声をもってして、教授は私たちに宣言する。人の気を引く事に長けた技術に、生来のいい声を存分に発揮して。スーツをスリーピースでさらりと着こなし、今はその上着を脱いだ姿を披露して、体躯の良さが一目で分かる。受講する学生の八割を占める女子が、そこを正しく評価する。スレンダーな大型犬に喩えられる教授の、オスガタ。同じく女子であり、またその内の残り二割に該当する真面目な受講生を自認する私は、教授の魅力に抵抗しつつ、教授の宣言を吟味しようと、ぱくぱくと口を動かした。さながら水に親しむ魚、浮かぶイメージは剥がれ易い鱗を隠し泳ぐ、銀の魚。遊びに行った水族館の中のガラスの壁に頬っぺたを引っ付けていた私が抱く、あの個体、この個体、その個体。私を見ないで横切る泳ぎ。すいすいすいっと溢れ出る、私の頭の中の作業の一部始終を知る機械的な冷房は、教室内に効いて唸って、笑う。広い空間の自由な世界。覚めている私の夢想の足を引っ張っているかのよう。罫線、螺旋、ブーン。手に汗握る攻防戦。
海中のプランクトンを盛大に頬張る、あのクジラ、とまではいかなくても、捕獲可能なこの確かな方法。しかしあまりやり過ぎると、上と下の唇が一文字に引っ付いて離れなくなる。一方で、それを気にして、口を開くための努力を無理にすると、開いたときに間抜けな音が出る、素敵な楽器となってしまうから注意しなくてはいけない。ここには、口笛のアンサンブルを奏でてくれる、小粒で気の利いた楽隊がいない。囃し立ててくれる小人が居ない。お花が咲いたり、虹が生まれたり、恋の形が無数に生まれない。学ぶべき室内において、その一言は裸でそこに置かれる。両目の観察から上がる手は少なくないだろう。「好き」という言葉は、そこで初めて心の底からほんのりピンクの色に染まるという、経験をする。
なら、飛び込め。カルガモは水面に浮かび、嘴から水につけ、顔、頭、そして胴体と潜る。銀の鱗を見つけては食み、水上に持ち帰る。明かしたい鼻を鳴らし、カルガモの嘴の中の尾が跳ねる。力強いそれは、カルガモの細い首を唸らせる。生きのいい獲物、ううん、生きのいい言葉。
別の喩え。次に顔を出すとき、私が一匹の成魚でなれたのなら、肺呼吸を試みた瞬間、魚を捕食するために旋回していた海鳥の格好の狙いになるだろう。食べられてから初めて気付くか、食べられたために、何にも気付けないか、いずれにしろ迎える私の終わりを、魚の私は迎える。厳然な命のやり取り。魚の私の口がぱくぱくと動いて、発しようとする。愛してる?愛してる?ああ、いけない。これじゃいけない。表現が連れて行く筋書きに、そのまま連れて行かれてしまっては、「魚の私」は終わってしまって、教授に、あの教授に二度と会えなくなり、私はまた後悔する。
最低限の道徳や倫理などを真面目に守って、卒業後の私は、あの胸の中に顔を埋めているはずなのだから。私は事実と一緒にいなければならない。叶えたい願いのように。これぐらいの喩えを使うぐらいのことを、自分自身に許しながら。この事実に、あの事実。私とシャープペンシルは一体となる。顔を上げて!さあ、私。さあ、教授!一体、どういう事なのですか。
講義室内の隅々までその意思を行き渡らせ、時計の針と沈黙の息づかいを利用し、教授は、私たちをじっと見つめる。期待しているようでいて、吟味しているようでいて、私たちはドキドキする。私はドキドキしている。教授は認めてくれるだろうか。
ああ。横書きのノートに惑わされて、ハート型の小石を運ぶ。ヤドカリの脚のように、一つずつ、こつこつ。こつこつ。ああ、また。
転がっていく。



鼻の頭を地面に擦り付けることにすら気を留めず、雄鹿は骨を口に咥え、落とすことなく運んで行く。その骨はどれも太く、似たような形状であり、大きさからはおそらく、成体のものなんだろうと分かる。その形状には、特定の部位を構成するものの特徴が表れている。左右は不明。少なくとも、外観からは。こうして、手に取ることが出来ないため、無個性に映る。いつまでも変わらずに残っているのは、他の骨と繋げば取り戻すことが可能になりそうな、骨としての機能性だけのように思える。理に従えば、確かにこう言える。しかし雄鹿にとって、骨を運ぶことはそういうことではない。それがどういうことか、人の身を持つ者として、具体的に言うことが叶わない、しかし言えるのは、「そういうことではない」。このことが、唯一の手がかりとなる。そのことを、忘れてはいけない。
雄鹿は数十頭といる。しかし、骨を運ぶのは一頭、一頭で行っている。列を組むなどのような、運び易い手段を講じてはいない。一
頭、一頭が鼻の頭を地面に擦り付け、そこにある骨を口に咥え、落とすことなく運んで行く。漲る力を秘める体躯の、必要な分のみを使い、歩み、歩み、辿り着く所は穴でもなんでもない。ただの別の地面である。雄鹿に咥えられていた骨は、そこに確かに置かれる。したがって、結果だけを見れば、その行為は雄鹿による骨の移動である。もっとも、骨が再び地面に置かれる所には、墓守りの役を担っているように見える、雌鹿が必ずいる(一頭の場合も、数頭の場合もある)。しかしこれも、本当にただそこに、雌鹿が居るだけかもしれず、また雌鹿の方が、予め決められている、雄鹿が骨を置く地点に、近付いているだけかもしれない。だから儀式性なんて、初めからないのかもしれない。雄鹿はただ運びたいだけかもしれない。いや、欲求もないかもしれない。雄鹿にとって、自律してから続けてきた、ただの行為なのかもしれない。そうじゃないかもしれない。かもしれない。
抜け出ることができない可能性。極めて大きな揺り籠は行ったり来たりを繰り返し、見られる夢を見させてくれる。
そのままそこに留まりたい、例えるなら、目覚めたくない幼児のよう、しかしそれを許してはくれないのが、一頭一頭がその場に置いていく骨の音である。地面にぶつかる音、そこに置かれた骨に、上から重なるようにぶつかる音、ぶつかる音。ぶつかる音。
背景としてある冬の朝日を置かずとも、その場には、連綿と続く世界がある。誰も及ばない世界。ワタシもキミも、ボクにも、雄鹿の営為の邪魔はできない。雌雄の鹿じゃないものは触れられない。
他方で、退けられることもない。雄鹿の傍に立ち、目を凝らして見つけては、歩き、見つけては歩くを続けていくと、冬の枯れ木の間が途切れ、雪が無理なく落着しては、広がる一面に逢着し、足を踏み出し、踏み出したそこを踏み固め、息は白く吐かれる。連綿と続く地に地。覆われる表面。未だ踏んでいないそこを手で掬い、雪玉は作れるだろう。人がすることとして。雄鹿の目には映らないものとして。
二本の足で立っている。ならばここに至って、雄鹿が口に咥えた骨を別の場所に移動させることについて、記述を続けるのは、次の、これに尽きる。
雄鹿が進む世界の中の、昇る沈むを繰り返すもののうち、朝陽に照らされて浮かび上がる、あの姿が見たい。そう思うワタシにワタシ。これはワタシの「総意」に基づくものだ。雄鹿のように、歩いて歩いて、重なることはあっても、互いに一度も打つかることのない、影が正しく、長く細く、伸びていく。勇ましい姿。
だからこれは、個人的な日記に近い。



「そこにありました。」
そう聞こえた気がして、そう言うのを繰り返す。

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-09-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted