連載 『風の街エレジー』 序文、1、2

時枝 可奈

  1. 「序文」
  2. 1 「友銀」
  3. 2 「投握」

「序文」

 今は東京にある伊澄の家に足繁く通うようになって、今日で何度目になるだろうかとふと気になった。
 コインパーキングに止めた車内で、使い古した手帳を開いて確認すると、今年平成二十九年七月の段階で三十回を超えている事に気がついて、そこから先は数えるのをやめた。
 個人的な話で恐縮だが、私はこの年の四月に一年という歳月を掛けて臨んだあるバンドへのインタビュー企画をやり終えた後、十年間お世話になった出版社を退社した。今年一杯で日本を離れる事が決まっていた私は、予てよりどうしても書きたいと諦めきれずにいた物語の執筆の為、今年の春から取材で伊澄家を訪れるようになっていた。
 そこから半年が過ぎ、十一月七日。今日の訪問が、最後のご挨拶となる。
 手帳を鞄にしまい、目を閉じ深呼吸で気合を入れ直した時、助手席側の窓ガラスをノックされて危うく悲鳴を上げそうになった。
 見れば伊澄友穂さんが、笑顔で車内を覗き込んでいた。
 コインパーキングから伊澄家への道のりを並んで歩いた。今年六十七歳だという友穂さんは相変わらずお綺麗で、初めてお会いした時は冗談辞抜きで四十代だと思った。四十と言えば友穂さんの息子さんと同じ世代という事になり、お世辞としても破綻してしまう為口に出せないのがもどかしい程であった。
 壮絶な日々を戦い抜いて、生きて来られた。彼女のこれまでの半生を思えば、今こうして若さと生命力に満ち溢れた笑顔で私の隣を歩いている事だけで、込み上げて来る涙を抑える術がない。



 伊澄銀一さんと、友穂さんお二人の半生を、物語として書きたい。
 私が初めて、この構想もへったくれもない手前勝手な願望を御夫婦の前で説明した時、特に友穂さんの旦那様である銀一さんは、全くピンと来ていないご様子だった。
 前提として、彼ら自身はいわゆる芸能人でも、その他の有名人でもない。彼らの一人息子である翔太郎さんは、言わずと知れた世界的ビッグバンドのギタリストであるが、その事と私がお二人に魅かれた理由は直接的な関係がない。(とは言え、そもそも私がご夫妻と出会えたのは翔太郎さんの存在があってこそだ。彼が在籍するバンドへのインタビュー取材を試みた事が、全ての発端と言えるだけに、無関係とは言い切れないのだが)
 銀一さんには、何故出版社でライターをしていた人間が自分達の人生に興味を持っているのか、当初全く理解していただけなかった。当然そこから順を追って説明せねばならず、冷や汗と格闘しながら苦労した記憶が蘇ってくる。
 最も気がかりだったのは、銀一さん、友穂さんの出自がいわゆる被差別部落と呼ばれる土地である事に対し、とにかく話をお伺いする側に特別な配慮の必要性を感じていた事もあり、歩み寄れない距離が私達の間に横たわっているのではと危惧していた。彼らの気分を害する事も、ましてや傷つける事など絶対にあってはならないからだ。
 しかしそれはこちらの先入観に近い一方的な意見でしかなく、彼らは何一つ気負ってなどいなかったし、私の知識不足や勘違いに対しても、注意を受けた事は一度もなかった。お二人は常に、微笑んでいた。
 私は、伊澄銀一、友穂夫妻を通して、差別と偏見の実態を世間に向けて詳らかにしたいわけでは毛頭ない。興味や好奇心という言葉は、この場合マイナスのイメージしか想起させない事を分かった上で敢えて言うが、動機は単純だ。
 伊澄銀一、友穂というお二人の人間に興味があった。彼らの事をもっともっと知りたかったのだ。十年間、他人の話を聞いて記事を書いてきた私は当然、興味を持って事に当たればいずれはそれを形にしたくなる。本にして出版したくなる。どうだ、こんな凄い人達がいるんだぞ、知らなかっただろ。そう言いたくなる。私はそういう人間なのだ。
 動機としては最低の部類に入るだろう。しかし私はそこを胡麻化してまで、彼らから話を聞きたいとは思わなかった。必ず下卑た自分の本性が顔をもたげ、いつか彼らに不快な思いをさせるであろう事は分かり切っていたからだ。
 そんな私の告白に、銀一さんは眉一つ動かさずに、こう仰った。

「ウソさえ書かないんなら、何書いたって構いません。俺らの人生なんて俺らにしか価値はないんだから。そんなもん、漫画でも、小説でも、歌でも、なんでもいいです。ウソさえ書かないんなら、ええ、それで構いませんよ。言うてまあ、…俺は読まんけどな」

 発端は、現在銀一さんの右耳が聞こえないという事を、偶然彼の息子である翔太郎さんから聞いた事だ。生まれつきでも事故でもなく、どうして銀一さんが聴力を失ったのか、その壮絶極まりないエピソードを聞いていなければ、私はこの物語を書かなかったかもしれない。それ程までに強烈だったのだが、後日その話を御本人の口からお伺いする機会に恵まれた時、『右耳』の衝撃を遥かに上回る思い出話をいくつも聞く事が出来た。そして取材を続けながら、やはりお二人の半生を物語として書いてみたいと私が打ち明けた時、友穂さんはたった一つだけ条件を出した。それは次のような事だった。

「私らの過去の話を書くのは、別に構わないよ。好きに書いてくれたらいい。うちの人もそう言ってたし、私もそれでいい。だけど、今だよね。今、私らは心から幸せだと思って生きてるから、そこまでちゃんと書いて欲しい。うん、そこまできっちり書いてくれるんなら、あとはあんたに任せるよ。ちゃんとハッピーエンドにしてね」

 そして何故この作品をルポではなく物語として上梓する事にしたのかは、銀一さんのお言葉に起因する。

「四十年以上前の話だから。改めて俺ら以外の人間探してあれこれ取材しようとしたって、ほとんど死んどるよ。だからもう、好き勝手に書いて、こいつ(友穂さん)を笑かしたってくれたら、それが一番ええんじゃない?」


 
 私と友穂さんが伊澄家に到着すると、銀一さんが庭先で水やりをしていらっしゃる姿が目に入った。白のVネックTシャツの上に黒のシングルライダースジャケットという格好で、しゃんと伸びた背筋でホースを振り回す銀一さんもまた、友穂さんと同じくとてもじゃないが六十七歳には見えない。
 今日の訪問が最後である事を告げると、相変わらず事の変化に動じないいつもの微笑みを浮かべて、銀一さんはこう言った。



「なんだよ、もっと面白い話用意してたのに」

1 「友銀」

 九月も半ばを過ぎたこの日は、まだ夕方五時を回っても日が暮れ切っていなかった。
 藤代友穂は仕事を終えて病院を出た時、素肌をなぞる風の温度に冷めたさを感じ、慌てて上着の前を閉じた。夏が既に終っていた事に、今更ながら気が付いた。
 季節の移り変わりに味わう、寂しいという感情が、友穂は好きだった。
 更には一日の終りにふと我に返り、周りを見渡し自分は一人だと再確認すると、安心すら覚えた。
 友穂が看護婦として勤務する病院は町医者をグレードアップした中規模の総合病院で、取り立てて有名でも名医がいるわけでもない平凡さが、却って地域密着型の病院として有難がられている。地元の高齢者やスポーツで怪我をした学生達、風邪や流行病に罹患した幼子などがひっきりなしに集まってくるのだが、手に負えない重篤な患者は他所へ行ってしまう為、忙しい割には平和な病院、というのが友穂の認識である。
 帰り支度を済ませて外に出て、さあ、今日も終わったぞと一息ついて見上げる夕焼け空のオレンジ色は、友穂にとっては不思議と寂しい色に思えた。
 通りを走る車のライトや、チラホラと灯りのともりだした飲食店の光。
 色づく街の光景と自分との間には、遠い隔たりを感じる。
 今、私は何をしていたんだろう。どこにいるんだっけ。
 そんな風に一瞬我を忘れ、自分の立ち位置を見失いながら傍観するオレンジ色と去来する泡沫のような寂しさが、心地良くて愛おしい。
 職場の人間関係や、業務内容に関して悩みを抱えているわけではない。
 しかし、それでも寂しさを感じていたいと願う自分を、友穂は孤独な人間だと思わなかった。
 どちらかと言えば、ずっと孤独になりたかったのだ。
 自分の知っている自分が嫌いだった。
 自分の知らない自分になりたかった。
 そして自分を、好きになりたかったのだ。
 その日、珍しく普段よりも早くに業務を終えると、友穂は導かれるように街へ出た。
 右へ、左へと視線を走らせて歩く。
 翌日が休みだったわけでも、急ぎの用を頼まれたのでもない。
 疲れはあったが、体を突き動かす衝動を押しとどめる程でもなかった。
 しかしその衝動がどこから来るものなのか、その時友穂自身には理解しきれていなかったのだ。



 後に藤代友穂の夫となる伊澄銀一とは、この時既に出会っている。
 銀一とは同じ年で幼馴染のような関係だったが、昔から取り立てて仲が良かったわけではなかった。
 友穂は窮屈で居心地の悪い故郷を出たくて自立を志し、看護婦になるという目標を叶えると同時に家を出た。
 銀一はそんな彼女に何を言うでもなく、街に古くからある小さな神社で買ったお守りを持たせてくれた。
 それまでも彼女の中で銀一の存在が膨らむ事はあったが、自分の気持ちをはっきりと意識したのはこの時が最初だった。しかしそれは同時に、別々の道を生きると決めた別れの日でもあった。
 生まれ育った街に愛情がないと言えばウソになる。親も、長年共に生きた飼い犬もいるし、思い出もたくさんある。仲の良い女友達もいる。苦く辛い経験をたくさん乗り越えた。それらを一斉に振り返って、大嫌いだと罵れる程友穂は強くなかったし、薄情者でもなかった。
 しかし過去というしがらみを捨て、自らの力だけでこの先の人生を切り開いていける喜びは何物にも代えがたいと感じていたし、そう思わせる程度には、生まれ育った故郷は友穂に苦汁を舐めさせ、そして深く傷つけた。
 (それは、彼も同じだった筈だろうに)
 この街へ来て二年、看護婦として働き出してから初めて思い出す感情だった。
 何故なら今日、急患として運び込まれたのは幼馴染の彼、伊澄銀一だった。
 救急車のストレッチャーに乗せられた意識のない銀一と再会した時、懐かしさと衝撃で言葉を失った。代わりに、記憶が閃光のように蘇って来るのを感じた。
 銀一の傷ついた様を見て、この状況がどういった経緯によるものかを考えるよりも前に、心臓を鷲掴みにされた。それは、恐怖という名の感情に違いなかった。
 交通事故の急患として運び込まれた銀一は、診察の最中突然意識を取り戻し、医師や看護婦の静止を振り切って処置室を飛び出したという。別の患者についていた友穂が同僚に呼ばれて院内を探しに向かう途中、「外、外」という入院患者の指さす方向を見ると、走り去る彼の背中が一瞬だけ見えた。頭から血を流す彼を見ていた同僚は、その瞬間悲鳴に近い声を上げたが、しかし同じく怖かったにも関わらず、隣で友穂は少しだけ笑ってしまった。
 (変わんないなー)
 そう思ったのだ。
 友穂が思い出せる銀一の一番古い思い出も、彼の背中だった。いつも走っていた。まだ、小学校低学年の頃だったと思う。
 幼い頃から体の小さかった友穂は、よく同級生からいじめを受けた。陰惨ないじめというよりは、体のサイズをあからさまに揶揄する歌や、力任せに体を掴んで振り回されるなどの暴力がほとんどで、生来より気の強かった友穂はいつも果敢に立ち向かおうとした。親から受けた教育もそうであったし、性格上、黙ってされるがままで居られる人間ではなかったが、年端も行かぬ年代で、体のサイズがミニマムなのがそのまま弱点だった。しかし自分の思うように反撃を食らわすことが出来ない時などは、呼んでもいないのに銀一と、同じく幼馴染である竜雄、春雄、和明の四人が猛スピードで走って来て、自分をいじめる人間をボコボコに蹴り倒して駆け抜けていくのだった。そして 友穂は決まって、ありがとうを言う間も与えず走り去る彼らの背中を、茫然と見送るしかなかった。
 それは銀一達が中学に入ってからも変わらなかった。確かに家は近所だった。あまり覚えていないが、小学校に入るまではよく一緒に遊んでいたらしい。しかし物心ついた時には銀一達四人と友穂が一緒になって遊ぶ事はなかったし、小学校に上がってから仲良く話をした記憶もない。もちろん顔見知りだとか幼馴染だとかいう関係は理解しているから、挨拶ぐらいは当然交わすし、お互いを避けるような険悪さがあったわけではない。だが己に向かって、彼らは友達か?と問えば、首を横に振る他なかった。幼馴染と友達の違いはよく分からないが、他にもっと気心の知れた人間がいた事には違いないからだ。
 そんな不思議な距離感だったにも関わらず、いつも自分のピンチには銀一達が助けてくれていた。そういう絆と呼べるような温かい思い出は、友穂の記憶にはっきりと残っている。そして長年友穂を苦しめる痛みの記憶もまた、銀一達の思い出と同じ場所に刻まれている。



 まだスマホはおろか携帯電話も、ポケベルすらもない時代の事だ。
 血塗れのまま病院を飛び出した、危なっかしく目立つ男とは言え、街に溶けてしまえば簡単に探せるわけはない。
 友穂は日の沈み始めた街をあてどなく彷徨いながら、それでも注意深く視線を走らせた。
 もし今日見たあの男が間違なく伊澄銀一ならば、まだこの街にいる気がした。
 確信はないが、今日の再会がただの偶然だとは思えなかったのだ。
 ふと意識が誘い込まれた先で、救急車が一台音を立てて通りの反対側を走って行く。
 (もしかして、あの車に乗っているのが、彼なんじゃないだろうか)
 しかし病院を出る時、もしまたあの男が運ばれて来たら、知り合いかもしれないので必ず引き留めて欲しいと同僚に伝えて来たものの、仮に今目の前を通り過ぎる救急車に銀一が乗っていたとしても、今それを確かめる術はなかった。頃合いを見て病院に電話を掛けてみるしかない。
 (見つかるわけないよ。もう帰ろうか)
 そう思った時、友穂はいきなり右手首を掴まれて路地裏に引きずり込まれた。叫び声を上げる暇すらない程の勢いだった。だが次の瞬間には友穂の体はもといた歩道に押し戻されていた。突き飛ばされたと言っていい。
 自分の体に何が起こったのか理解出来ずに振り返ると、狭い路地裏の向こうに走り去る二人の人影が見えた。一人は間違いなく銀一の背中だと分かった。
「待って!」
 思わず叫んでしまい、行き交う通行人が振り返った。友穂はすぐ向こうに反対側の歩道が見えている路地裏に足を踏み入れ、混乱したまま、立ち止まった背中にもう一度声を掛けた。
「人違いじゃないよね? なんで逃げるの?」
「…」
 背中は困ったように溜息をつくと、後頭部をぼりぼりと掻いた。そしてその手に付いた、恐らく血を見つめて、また溜息をついた。
「何で黙ってるの? 銀一でしょ?」
 言いながら友穂は背中に向かって歩みより、手を伸ばした。
「もうちょっと待って」
 背中はそう言うと、振り返らずに走り去った。その声は、二年前別れ際にも聞けなかった、懐かしい銀一の声に間違いなかった。
「ぎ!」
 名前を呼ぼうとした時には、銀一の背中は既に見えなくなっていた。



 その夜、念のために病院へに電話を掛けて確認した所、やはりあれ以降誰も運び込まれてはいなかった。
 そのまま久し振りに実家へ連絡を取ってみると、元気そうな母から父の愚痴と惚気を聞かされた。覚悟はしていたが、やはり少しだけ煩わしかった。
「変わった事ない?」
 友穂自身、なんて大雑把な質問だと思ったが他に言い方が分からなかった。
「なーんも。相変わらずよ、こっちは」
 明るい声で、母・朋は答える。
「そっか」
「どうしたの、元気ないね。振られた?」
「誰に?」
「そりゃこっちが聞きたいよ。良い人くらいいるんでしょ?」
「母さん」
 自分の口から出た「母さん」という言葉に呆れた感情が含まれている事に、友穂自身が首を傾げる気持ちになった。母にしてみれば、妙齢の娘に対して当たり前の話しかしていないだろう。何故自分は、恋愛の話をされて呆れてしまったのだろうか。いつから自分は、恋愛を縁遠い物だと感じていたのだろうか。
「いないの?」
「…うん、いない」
「なあんでえ?」
 心底驚いている母の声に、思わず笑い声が出た。
「なんでだろうね」
「あんた昔っからモテたじゃない」
「…誰にー?」
「誰にってそりゃ…」
「…」
「知らないけどさあ」
 久し振りに、大声を上げて笑った気がする。
 確かに、友穂は幼少の頃からモテた。体が小さい為からかわれる事も多かったが、同じ分だけ人から愛された。色が白く、整った容姿に明るい性格、分け隔てない気立ての良さに、何よりコロコロとよく笑う優しい声。そしてよく告白もされた。だがそんな思い出も、遠い昔のような気がする。全てが都合の良い妄想だったんじゃないかと、自分では思っていた。
 友穂は開け放った部屋の窓から夜空を見上げて、少しだけ母という存在の有難味を素直に受け入れようと思った。
「適当な事ばっかり、言ってさ」
「父さん、あんたの話ばっかりしてるよ」
「ふふ、それで母さん、ヤキモチ焼いてんでしょ」
「なんであんたなんかにヤキモチ焼くかね。それよりあの子よ、イッチャンとこの子、良い人がいるって正式にご両親に紹介したらしいよ。それ聞いてからあんた、父さん煩くってもう。友穂はどうなっとんだってそればっかり」
「イッチャンとこの子? それ誰の事?」
「ほら。昔近所に住んどった池脇さんトコの竜雄君よ」
「…ああ、竜雄。うん、え、正式に紹介って何、結婚したの?」
「籍はまだ入れてないんやけどね、どうもそういう気持ちはあるらしいよ」
「へー!そりゃびっくりだ。ああ、びっくりだ。あの竜雄がねえ。荒くれ者のあいつがねえ」
「人の事言ってられる立場じゃないでしょうが」
「へえ、へえ」
「でも気になったからちょっと聞いてみたんやけどね。銀の字は、今だ誰とも、らしいわよ?」
「…銀の字…」
「え、分からん? 伊澄さんとこの銀一君だけど」
「分かってる分かってる。分かってるよそんなの。え、何をどういう風に聞いたって?恥ずかしい真似してないでしょうね」
「ううん。そういうんやないけど…」
「…なんで急に、そこでしおらしくなるのよ。…母さん?」
「最近、あんまり顔見んねって、銀一君とこのお母さん、リキちゃんと話してさ。その流れで竜雄くんの話にもなったんやけどさ。でも聞いたら本当に銀一君、家に戻っとらんのだって」
「え?」
「銀一君もさ、もう子供じゃあないから、別に、家に帰らない事自体は構わないけどさ。仕事を何日も休んどるんだって。職場の人らも大分気にしてるって。ほら、無口でちょっとおっかない所もあるけど、礼儀正しい真面目な子やろ。無断で何日も仕事休むなんて考えられないって、あちらさんの方から心配してリキちゃんところへ行方を聞きに来る始末でさ」
「結構、おおごと?」
「捜索願、出した方がいいんかなぁって」
「ええ!? 大丈夫なんじゃないの? 銀一だよ。あれはそんな簡単にどうにもなんないって」
「そうだと思うけどねえ。何か厄介ごとに巻き込まれてなけりゃいいけどね」
「厄介ごとって?」
「もともと品の良い土地じゃあないでしょ。それに加えてなんだかさ、最近あんまし見かけない連中が近所うろついてたりするんよ。父さんも良く思っとらんみたい」
「どういう連中なの?」
「分からん」
「…ふーん。父さんも気が短いから、あんまり嗅ぎ回ったりしないでって、注意しておいてね」
「この街に長い事住んどるからね、そこらへんは心得てるよ」
「なら良いけど」
「それより、もし彼の方からあんたんとこに連絡あったら、ちゃんと教えるんよ?」
「私の連絡先なんか、知ってるわけないじゃない」
「病院の名前くらいは知っとるでしょう?」
「いや、言ってないけど。それこそ竜雄は? 和明とか、春雄は?」
「うん。…あんまり心配かけるとアレだからって、黙ってたんやけどね。実は今、誰とも連絡取れてないみたいなんよ。あの四人、誰とも」
「どのくらい?」
「少なくとも、ひと月は経つねえ。あの子らがいなくなった途端、見かけない連中がうろうろし始めたって、父さんそれを気にしとるみたい」
「見かけない連中ねえ。…え、でも待ってよ。今お母さん竜雄が結婚するかしないかみたいな話してたじゃない。それなのに今、竜雄もそっちにいないの?」
「あなたねえ、一体ご自分がいつぶりに連絡を寄越したのか、ちゃんと分かっていらっしゃるの? 前回電話掛けてきたのなんかあなた、正月以来よ? 半年以上前なのよ?」
「ごめん、ごめん。悪いとは思ってるよ」
「久っさしぶりに声聞いてみりゃあ、どえらい東京かぶれした喋る方しよるもん、母さん自分がどこの人間やったー、分からんようなってまったもんでねえ」
「あはは! 器用にまあ、どこの方言よそれ?」
「竜雄くんが良い人連れて来たのなんて、それこそ夏が来る前の話よ」
「そうなんだ、それはまたどうも、どうも。え、でもそんなの、皆仕事してるんだから、家を空けるなんて事は普通にあるんじゃない? 銀一以外三人とも、長く家に戻れない仕事してたでしょ。春雄なんかは特に、今はそっちに住んでなかった筈じゃない?」
「そりゃそうだけどさ。でも、連絡が取れないなんて事は、今までなかったんやって」
「その、誰だか知らないけど、竜雄の良い人っていう方とも、連絡が付かないわけ?」
「うん。チヨノさんって言うんやけどね。竜雄くんとこの親御さんとチヨノさんは連絡取り合ってるみたいやけど、竜雄くん本人は捕まらないって、リキちゃん言ってたよ」
「へえ、そうなんだ、なんだろうね。分かった。私も、当たれるトコ当たってみるよ」
「そうしてくれる?」
 友穂がこの時母に対し、故郷から遠く離れたこの街で、二年振りに銀一の後ろ姿を見かけたと話をしなかったのは彼女なりの思いやりと言えた。銀一の背中を路地裏で見かけた話をするだけなら、どこかのタイミングで言えたかもしれない。たまたま自分の働く病院に、交通事故の急患として運ばれて来た事などは、笑い話にさえ出来たかもしれない。
 しかし、変った事など何もないと笑って話していた母の声がだんだん深刻になり、切っても切れない絆で結ばれた、銀一の幼馴染達三人の姿もあの街から消えたと聞いた時、言いようのない不安が胸中で渦巻いたのを感じたのだ。
 そんな事態になっていながらも母の方から電話をかけて来なかったのは、忙しく立ち働いている娘への遠慮にも感じられたが、元来能天気な彼女の事だから、まだそこまで大事だとは思っていない可能性もあった。そうなると、友穂自身靄が掛かって見えている今日の出来事を、安易に母に話して聞かせる事は出来なかった。
 母との電話を切った後、友穂は少しだけ考え溜息を付くと、再び受話器を持ち上げた。
 


 昭和四十六年。
 後に伊澄友穂となる彼女の人生が大きく揺らぎ始めたのは、彼女が二十二歳になったばかりの、その年の事であった。

2 「投握」


 生まれ育った街に幼馴染と呼べる人間が幾人かいる中で、伊澄銀一にとって藤代友穂という存在は特別だった。時に腹が立つ程がさつで暴力的な男連中とは違い、友穂には人として当たり前に備わっているはずの柔らかさと優しさが感じられた。幼い頃から周囲より体の小さかった彼女を、同じ年ながら妹のように感じる事もあったし、力任せでしか前に進めぬ馬鹿な自分達には無い、思慮深さと思いやりで道を切り開く柔軟な強さを併せ持つ友穂を、銀一は尊敬の眼差しを持って見つめても来た。
 時代が高度経済成長を迎えていた、銀一が十三歳の時に祖父が他界した。彼らの住む赤江という街、あるいはその周辺において、好景気の恩恵は一部を除いてほとんど皆無だったに等しい。しかし貧しさは取り立てて不幸と呼べる程の事ではなかった。自分達だけではない。全員がそうだったからだ。しかし例えそうであったとしても、育ち盛りの子を抱えた銀一の両親は、己の限界を顧みず身を粉にして働き、持てる体力と休息を全て差し出し僅かな日々の糧を得ていた。
 親の心子知らず、自然と、銀一はおじいちゃん子になった。厳しい人ではあったが、言葉少なだった祖父の教えと実直な生き様を側で見ていれば、若い銀一ですら人間の信頼とはこうして積み重ねてゆくのが正解であろうと自ずから感じ取るようになり、銀一はそんな祖父が自慢であり、大好きだった。そんな祖父がこの世を去った時、通夜に訪れた友穂は銀一よりも大声を上げて泣いた。傍から見ればきっと友穂こそが孫なのだと、そう見られたに違いなかった。
 しかし翌日の葬式では、昨夜の涙はなんだったのかと見紛う程の毅然とした態度で祖父を見送る友穂の姿があった。銀一は面食らったものの、その日の夕刻、物陰でひっそりと泣く友穂を見つけ、頭の下がる思いがした。祖父の性格を思えば、きっと涙で送り出されるよりも、成長した孫の強い眼差しこそを欲したであろう事は、容易に想像出来たからだ。
 小学生の頃、よくからかわれていじめられていた友穂を目撃したものだが、十三歳になった彼女にそんな面影はなかった。思えばその頃から、銀一は友穂が好きだったのかもしれない。
 やがて友穂が二十歳になりこの街を出ると知った時、悲しい気持ちと、嬉しい気持ち両方が銀一の胸にあった。
 彼女を待っているこの先の幸福を思えば、こんなドブ臭い街からとっととおさらばするのが良いと前々から思っていた。しかしそうは思えど寂しいものは寂しい。そんな銀一の気持ちを察してか、幼馴染である幾人かの友人が計画して、友穂と二人並んだ写真を撮影してくれた。
 それはこれから別々の人生を歩んでいく二人にしてみれば、どんな顔をしてよいのか分からない時間だったが、それでも銀一にとって忘れられない幸福な時間であった。現像されてきたその写真を銀一は半分に折り、友穂が映っている部分だけ見えるように額に入れて飾った。
 

 
 二年前へ遡る。昭和四十四年。某県、某市、赤江地区。
 この街には古くから流れている、ある噂があった。
 それは子供の寝かし付けや躾の為、大人達が考え出した戦後の怪談話だという説もあれば、まだ幼い学童らがひそひそと囁き合っては震えて盛り上がるのに丁度良い、大昔からの言い伝えだとする説もあった。
 『投げる者』、あるいは『握る者』という呼称で呼ばれる事が多かった。
 その噂話自体に物語としての題名はなく、登場するのは決まって一人で、共通しているのは怪物の如き男の存在だった。親の言う事を聞かない悪い子の元へ現れては『高い場所から放り投げる』、あるいは『物凄い力で掴まれる』といった内容だった。
 作り話の域を出ず、他に具体性のあるエピソードが伝わっているわけでもない。もちろん年代によっては尾ヒレがついて脚色される事もあったが、日常のいかなる場面でも起こり得る平凡な設定であるがゆえに、誰もが想像力を駆り立てられては恐怖し、必ず一度は震えあがったものだった。
 友穂が故郷を出た昭和四十四年、銀一達の住まうこの街で、ある殺人事件が起こった。
 街の外れの大きな日本家屋に先祖代々暮らして来た西荻という苗字の男だった。名を平左という。この街に古くからある大地主で、数年前から地上げの憂き目に合いながらも、一族総出で抵抗し続けているという話だった。西荻が家を失えば彼から土地を借りている者達も職や住む場所を失いかねない為、外からの圧力に対して身内同士団結し、ほとんど高圧的とも言える態度で抵抗を続けているらしかった。
 昭和四十四年の話である。戦後まもなくGHQ指導の下行われた農地改革により、わずか数年で日本の地主制度は崩壊したと言える。そこから二十年が過ぎようとする今も、この赤江では現実問題、西荻の土地を当てにせねば生きていかれぬ家が多く存在した。タダ同然で土地を手に入れた小作農民達はまだ良かったが、西荻が所有していた土地は農地だけとは限らなかったからだ。言わば、形骸化しつつも望まれた、資本主義としての地主制度が生き残っていたと言える。
 所がだ。この時聞こえて来たのは、地上げとは言え暴力団介入のない都市計画事業の一環であり、相手は法的な手段を用いて正面から買収の話を持ちかけているだけなのに対し、先祖代々の土地を失うわけにはいかない西荻の過剰とも言える抵抗姿勢に、もはや相手方を憐れ不憫に思いやる声であったという。
 もちろん、わが身可愛さから西荻の味方をした人間もいるにはいたが、古くから『肥溜め』と言われ続けた閉鎖的な街の事である。インフラ整備が進み、生活基盤が向上するのであれば、それに越した事はないと考える者も当然出て来る。
 だが街の幸せと引き換えに住む土地を失い、幾何の金銭を手にして他所へ移れという話では、当人達にとって釣り合う話ではなかろう。それは少なくとも、この街に古くから住まう諦めの付いた住人達にはある程度理解されていたようで、どちらに加担する事も出来ず傍観しているほかないのが部外者側の現状であった。
 しかし聞く所によれば、西荻の家は都市化が進む隣街との境に農地解放の対象外であった小さな山を三つ所有しており、そこも含めて買収が進めばかなり多くの土地をひとまとめの区画として整備出来、そうなればおそらくは国鉄が走り、新しい駅が作られる事になるだろうと噂されていた。当時の街の人間にすれば夢のような話である。肥溜めの側を電車が走る。街は美しく整備され、外からも人がやって来る。そうなれば街は活気づき 景気は向上し、差別や貧困も少しはましになるだろう。
 そんな夢見る改革推進派対、現実主義の保守派との間でキナ臭い空気が漂い始めた折、西荻平左が死んだ。
 警察は他殺だと断定した。
 死体を発見したのは西荻の所有する土地でネジ工場を営む、磯原という男だった。ほとんど現役を引退している老齢の磯原は、毎朝工場を開ける準備の為だけに早起きするのが日課となっていた。その日も一人でまだ薄暗い工場に鍵を開けて入り、事務所として使っている玄関の灯りを付けた途端、背後からドサリと聞こえたその音に腰を抜かす程驚いたと言う。音はたった今自分が入って来た、玄関のすぐ外から聞こえた。何かが倒れたとか、ぶつかったという音ではなかった。明らかに重たい何かが上から降って来た音だと分かったそうだ。恐る恐る引き違いの戸を開けて外を確認すると、まだ仄暗い地面の上に人の体が転がっているのが見えた。心臓が口から飛び出そうになるのを手で抑え目を凝らすと、それが見慣れた西荻当主の体であり、明らかに首の折れ曲がった死体である事が分かったという。
 もちろん第一発見者である磯原は警察に連行され取り調べを受けたが、齢七十を超えた老人には到底真似のできない殺害方法であった。死因は、頸部の骨折。しかしそれは高所からの落下による衝撃で折れたものではなかった。当時そこまで検死解剖の技術が進んでいなかった時代でも、それは一目瞭然だった。何故なら遺体となった西荻の首にはくっきりとした人間の手形が残されており、尋常ならざる力でもって縊り殺された事は明白だった。もちろん、痕がつく程の力で首を絞められた後、高所から投げ落とされた線も無いではない。だがどちらにせよ死因は他殺で間違いなく、磯原にはそのどちらも全く不可能な犯行であった。
 戦前から続く『嫌悪の坩堝』、と誹られ続けたこの地においても、西荻の怪死は不穏な空気を充満させた。それは一般的な疑心暗鬼や殺人事件に対する恐怖から来るものではなかったし、この地が古くから被差別部落とされてきた事とも関係がない。
 誰もが、幼少より聞かされ続けたあの噂を思い出した事がその理由だった。実際子供たちは口々に『投げる者』『握る者』と騒ぎ始め、目に見えない恐怖は瞬く間に伝染して行った。
 しかし時が一年と経つ頃にはやがてそれも薄まり、流行り言葉のようであった例の呼称も人々の口に上る事はなくなった。ただ、その後も犯人は特定されず未解決のままである。その為、ほんのりとした陰惨な余韻が住民の心の隅に、いまだ僅かな影を落としている。それを拭い去る為の口実として、口さがない街の住人達は噂話に余念がない。
「あれから話の途絶えた開発事業はどうなっただろううか」
「当主が急逝した西荻の家は、ボンクラと言われた長男が家督を継ぐ以上、先細りだろうな」
「死に方が死に方だ。存続したとしても、ロクなもんじゃない」
「やはり肥溜めは肥溜めだったか」
「あの家、呪われてるんじゃないのか」
 そんな陰湿極まりない言葉もあれば、
「好景気、高度経済成長、夢のまた夢」
「愛しき悪臭! 我らがボロ屋!」
 といった、乾いた自嘲までもが風に乗って聞こえて来ていた。
 


 西荻が殺され、そして藤代友穂が街を出てから一年が過ぎた、秋風の吹くある日の事。
 夕暮れの路地を行く、仕事終わりの銀一を呼び止める声があった。
 振り返るとそこには、今まさに人を殺して来たんじゃなかろうかと見紛う程眉間に皺を刻んだ幼馴染、池脇竜雄の姿があった。彼のそんな顔は、ほとんど生まれつきと言っていい。百八十センチ近い大柄な体躯は二十歳を越えた今も成長し続けており、どこと言わずすべての部位が大きく骨太な印象で、この街を闊歩するヤクザ連中が思わず二、三歩後ずさる程の威圧感に満ちている。
「帰りか」
 と竜雄。
「おお。臭いぞ。風呂入らせろ」
 一瞬振り返ってそう言うと、銀一は向き直って家路を歩いた。銀一もまた、威圧感という意味では竜雄といい勝負であった。身長は彼程高くはないが、首筋から肩にかけて、胸板から両腕の筋肉が大きく発達しており、いかにも典型的な肉体労働者のそれであった。ただ竜雄と違うのは、普段の銀一はどこか涼しさを湛えた優しい目をしている。昔から女性人気が高いのも、彼の方だった。
 竜雄は二、三歩弾むように歩いて銀一に近寄ると、彼の背後で話を始めた。
「歩きながらで構わん、聞いてくれ」
「何」
「昨日よ。平助に泣きつかれてほとほと困ったわ」
 銀一は一瞬立ち止まり、そしてすぐまた歩き出した。
「…相当来とるんか」
「みたいやなぁ。完全になんつうか、塞ぎ込んでるんじゃと」
「仕方ない。じいちゃんがあんな死に方して一年経つのに、まだ犯人が捕まっとらんし」
「あ? いや、塞ぎ込んどるんは平助やない、親父の方」
「…ああ」
 竜雄の言う「平助」とは苗字を西荻という。つまりは殺害された西荻家当主、西荻平左の孫にあたる。彼の父親の名は、幸助。平左亡き後、西荻家の後継ぎとなった。
「まあ、どっちにしても同じ事やろ。世間じゃもう既に色々言われてるみたいやけどな」
 溜息混じりにそう言う銀一の後に続き、竜雄は周囲を伺いながら頷く
「昔からの顔馴染みがああなっても、言う奴は言うよな。呑気なんか、バカなんか」
「阿呆なんじゃろうな。俺にはよく分からんよ」
「…平助が言うにはよ」
「ああ」
「親父がずっと塞ぎ込みながら、次は俺の番だって、ぶつぶつ言いながら震えとんだって。あいつ、見てらんねえわって泣きながら俺んトコ来てよ、どうにかしてくれんかって。そう言いやがんるよな」
 銀一は再び立ち止まり、振り返る。俯いていた竜雄とぶつかりそうになり、銀一は右手で彼の腹を押した。トラックのタイヤみたいな腹筋だなと思った。
「おおっと」
「お前、…変な事考えてないじゃろうな?」
「変な事って、何よ」
 真剣な顔の竜雄をしばらく見つめ、銀一はまた歩き始める。
「俺やお前に出来る事なんて何もない。別に警察だって一年やそこらで捜索をやめたわけやないやろうし、幸助さんの気持ち考えりゃあ…」
「分かってる」
「俺もお前も、この街の人間は皆『そう』思い込んでも仕方ないわ。俺だってたまに思い出してはうなされるよ」
「あんな死に方はないよな…」
「…出来る事があるとすりゃあ、平助の話黙って聞いてやるぐらいじゃろうな」
「ああ」
「変な事考えんなよ」
「だから変な事ってなんじゃ?」
 そこへ背後から自転車のベルが鳴り響く。振り返った銀一と竜雄は夕焼けの強さに思わず視線を外した。こちらへ向かって自転車をこいで来るのが誰だか分かる前に、声が聞こえた。
「珍しいじゃねえのよー、竜雄くん。まだおったのー?」
「和明か?」
「おお、そこにおわすは銀の字でありますな? お勤めご苦労さんです」
 自転車はそのまま風に乗ってフラフラと銀一と竜雄の側まで来て、止まった。ほっそりとした体は不安定な自転車の上でしなやかにバランスを取り、その上には銀幕スターのように爽やかで整った顔立ちがちょこんと乗っかっている。優しく澄んだ微笑み。彼らの幼馴染、善明和明である。
「魚クセー!」
 竜雄が笑って言うと、銀一が怒って彼の肩を突き飛ばす。和明は全く意に介さない笑顔で自分と銀一を交互に指さし、
「ここの魚臭と獣臭半端ねえわなー」
 と言って笑った。和明の仕事は漁師、銀一の仕事は食肉加工業、いわゆる屠畜業である。
 筋肉の発達した竜雄と銀一の間に立つと分かり辛いが、細いとは言え和明の体つきもかなりの物だ。竜雄の筋肉がパンパンであれば、和明のそれはミッシリであろう。銀一ならばギチギチ、といった所であろうか。全く動じない和明を見て、からかわれた銀一は馬鹿らしくなって笑い飛ばし、また歩き始めた。
「今晩出るって? トラック」
 和明が自転車にまたがったまま、大きなハンドルを握る真似をする。竜雄の仕事は長距離トラックのドライバーだ。
「いや、明日んなったわ」
「そ。春ちゃんも明日帰って来るって」
「いつ?」
「時間までは聞いとらんなあ」
「すれ違いかもしれんな、俺は午前中には出るから」
「そっかあ。あ、銀ちゃんどうよ、一杯行こうや、この後、三人で」
 一人先を行く銀一は立ち止まりも振り返りもせず、
「風呂!」
 と声を上げた。
 彼の背中を見つめていた和明の顔から、不意に微笑みが抜け落ちた。
「竜雄、聞いてっか?」
「ああ? 何」
「俺もよく分からんのやけどな。聞いた話、例の、西荻のじいちゃん殺った奴、また、この街来とるらしいよ」
「…はあ?」
「どうやら街の何人かは犯人に目星がついてて、敢えて警察には言うとらんらしいわ」
「なんで」
「例の、西荻が持ってる土地の件が絡んでるらしいが、そこまでは俺も分からんな。何か聞いてない?」
「…あー、いや、関係あるかどうか分からんけど。実はよ、平助がな…」
 周囲を見渡しでも自分達の他に人の姿はない。それでも自然、竜雄は声のトーンを落としていた。

連載 『風の街エレジー』 序文、1、2

連載 『風の街エレジー』 序文、1、2

戦前から「嫌悪の坩堝」と呼ばれた風の街、『赤江』。 差別と貧困に苦しみながらも前だけを見つめる藤代友穂と、彼女を愛する伊澄銀一の若き日の物語。 この街で起きた殺人事件を発端に、銀一達とヤクザ、果てはこの国の裏側で暗躍する地下組織までもが入り乱れ、暴力の嵐が吹き荒れる! 前作『芥川繭子という理由』に登場した人物達の、親世代のストーリーです。 直接的な性描写はありませんが、それを思わせる記述と、残酷な描写が出て来ます。

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