8月19日


男の子の小さな手は熱かった。その手を握る おれの、浅ましさや罪の深さは 男の子の親にだけ 勘付かれていて、今は こんなぼくの肩に頭を預けて安らかに眠る男の子も、明日の朝には おれを忘れている。

トンネルを抜けると、高さが不揃いな、だけど色だけは同じ新緑をした雑草が 生い茂っている中を おれを乗せた特急電車が走って行った。その時の おれの頭の中にあったのは、久しぶりに嗅いだ大地の匂いの 懐かしさと 恥ずかしさ、塞ぎ込みたいほど照れていたし、臆病だった。水一滴 飲むのにも 怯えていて、何か失礼は 無いかしらと キョロキョロ辺りを見渡していた。空は おれが思っていた以上に 広く、時折 視線を遮る電線の傲慢でさえ、愛おしかった。そうだ お前はいつも こんな空を見ているんだね、おれは 初めて見たよ、初めてだ、お前と 同じものを 見るのは。

それからの日々を おれは 波のように不安定な情緒に揺さぶられながら過ごした。ある時は、もうここで死のう と考えたし、ある時は、このまま逃げ出してしまおう と考えた。いずれも 決行には至らなかった。理由は おれが 臆病だったから、つまり、おれは 別段 人生に絶望していないんだ、だから お前とわかりあえない。実を言うと、夜の愚かさにかまけて、お前に 声をかけることを企てていたんだ。それも 決行はしなかったし、これからも しないつもりだよ、だって おれは、馬鹿な言い方だけど、これでも お前を愛しているつもりなんだ、馬鹿な言い方 だけどね。

日常に戻るのが 億劫で仕方がなく、おれは 仕方なしに 明日は歯医者に行く日だ、とか、その後は教科書を買わなくちゃ、とか、時間が余ったら美術館に行こうかしら(シャガール、あなた だ)、だとか、そんなことで 慰みを求めてる。(お前は 優しい ね)

8月19日

8月19日

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-19

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