晴明

純文学長編の序章です。

晴明

或る清明の事である。
健二は越後の田舎を離れ、東京に越してきた。大学に通うためであった。
健二は元来(がんらい)阿呆の類であったが、遮二(しゃに)無二(むに)勉強して遂には合格したのである。合格の通知を受けた時、半狂乱になって喜んで、周りからそれは白い目で見られた。また親からもそれは同様であった。何せ今まで一切勉学というものに触れずにいたわが子が、取り憑かれたように勉強し、あまつさえ大学にまで入ったのである。健二の家はお世辞にも裕福とは言い難く、健二の進学は家庭の財政に非常の傷を付けた。しかし、実のところ健二は、大学になど入りたくはなかった。寧(むし)ろ、これからも勉学の方を向いていかねばならぬ事を憂いてさえいた。では何故こうなったかというと、恩義の為である。
健二高校一年の時分、試験の点数が悪く教師から説教をくらっていた為に、帰り道は酷く苛立っていた。教師に対する雑言並び立て(教師の頭髪に対する罵倒が主であった)、路にあった二寸程の石ころを蹴っ飛ばしていたら、地元では名の知れた不良の足にぶつかり、不運な事に前日の雨で石ころが泥塗れであったために、不良を酷く怒らせてしまった。健二は蒼白になり一目散に逃げたが、運動など億劫(おっくう)だというのが性分だった為、すぐに追いつかれてしまった。不良が拳を翳(かざ)し、健二が目を閉じ覚悟を決めたところで、見知らぬ兄が仲裁に入った。この兄が非常の美男子であり、また非常の勇気を持って健二を救った為に、健二にはこの兄が歴史の英雄の如く思われて、憧れの情を抱いた。また健二はこれに強い恩を感じ、この兄が「大学は良いところだから、お前も来い」と言った時には、揚々と返事をしたのであるが、すぐに後悔した。阿呆の健二には勉学の才なぞあるはずもなく、それでも必死に励んでいたのであるが、遂に兄と同じ大学に入る事はなかった(因みに健二に兄弟は無く、兄というのは単なる愛称である) 。
健二の東京暮らしは、借間で始まった。六畳一間の和室で、備え付けの卓袱台と座布団が置いてあった。しかし、この頃の健二は洒落っ気に目覚めていたため気に入らず、初めのうちは便利で使っていたのであるが、すぐに押入れの肥しとなった。
健二の借間は「猪狩(いかり)荘」という宿の二階にあり、健二の他に四人が住んでいた。
健二は決して周囲に溶け込めぬ性格などしていないのだが、大学というのが余りに性に合わぬ為か、友人と呼べる者は殆ど居なかった。それどころか授業に出ても萎縮してしまい、いつも何処かうわの空で、教授からしばしば注意を受けていた。
東京に来てから初めての友人は、猪狩荘の住人であった。名を山川丈夫といい、先の学生運動にも参加するようなやつだった。時に豪胆、時に臆病という小難しい性格の男で、健二としてはこのような所が非常に面白く、よく笑いの種にしていたのであるが、丈夫はこれを自身の恥部の如く思っており(落ち込んでいる時に限るのだが)、健二に茶化される度に機嫌を悪くしていた。これでは直ぐに破綻しそうなものだが、健二の阿呆さ加減が丈夫の精神にとって非常にいい塩梅で、丁度ぬるいお湯に浸っているような心地良さがあり、時折熱く沸くのも、冷えた後の良い引き立てとなり、つまりは丈夫も健二を気に入っていたのである。
二人の出会いは健二が越してきた時分まで遡り、その日は猪狩荘の住人で親睦会を開こうという話になっていた。「猪狩荘」というので分かるかもしれないが、ここの家主は猪狩が趣味であり、もう六十を優に超える歳であるのに、度々山へ赴いては、猪をかついで帰ってくる。住人はその度に鍋を楽しみにしていた。健二の引越しに合わせて狩りに出ていたため、例に漏れずその日も猪鍋となり、健二も早速味わうこととなった。鍋は味噌味で、葱(ねぎ)にエノキ、椎茸、白菜、水菜と人参、鰹節が乗っている。健二は遠慮して白菜から食べ出した。なるほど、美味い。住人が毎度心待ちにするのも納得というものである。周りが遠慮なく猪肉を食らうので、健二も続いて食べた。それからは暫く猪肉のみ食べていた。
「おい、新入り、飲め飲め」
健二の目の前に焼酎の瓶がごとりと置かれた。
「申し訳ないが、まだ十八なのだ。飲めん」
健二が断ると、
「そうか、飲めるじゃねェか」
男はぐいっと酒を煽(あお)って、懐から免許取り出し、見せてきた。それから丈夫と健二は酒を煽って、夜更けまで話し続けた。
日が過ぎる毎に丈夫との関係は深くなり、互いの部屋を行き来し合う仲にもなったが、健二には思うところあり、部屋に一人でいると、段々と丈夫のことが恐ろしく思われてくる。それは丈夫の情熱の為であった。この頃は学生運動の気運高く、大学の広場などに学生が集合して、学生寮を作れだとかゼミナールを増やせだとか口々に言って、時には行進などもしていた。丈夫はこの学生運動の流行に心酔しており、それは感情の浮き沈みが全くそればかりに左右されているのではないかと思われる程である。時には健二に運動の重要性などについて説き始め、少しでも表情に嫌悪を匂わせると、途端に不機嫌になってしまう。普段の剛毅(ごうき)さというか、活力満ち満ちた丈夫を知る健二としては、悪い化生の類いが取り憑いているような気さえして、それで気味悪がっていた。それでも友人の縁を切る気には到底なれず、結局考えないものとして、胸に仕舞い込んだのである。

***

ゴゴゴゴゴ、ガガガガガといった工事音が喧しく、健二は休日だというのに七時頃起こされて、甚だ不機嫌であった。不機嫌ついでに掃除などして仕舞おうと思い、玄関の靴整えて、下駄箱を箒で掃いていると、丈夫が訪ねてきた。
「ちょいと、付き合ってくれ」
落ち着き払った様子で、別段怪しむような所もなかったのであるが、健二は何か嫌な感がして、少し身震いした。
「いやすまん、今掃除しているから、暫く待ってくれ」
丈夫は結局、半時間程じっと待っていた。
猪狩荘の近くには公園がある。これが存外大きく、中には池もあり、その周りに二人掛けのベンチがあって、健二らはよく其処で話した。公園に行くまでに工事している土地があって、とはいえ猪狩荘から随分と離れているのに、健二はしつこく睨め付けていた。丈夫は一切気付かず、そのまま通り過ぎた。
本日快晴、池の水面は白く輝き、子どもは半袖着て走り回る。二人は人を避け、少し薄暗い所のベンチに腰掛けた。池を見ると鯉がゆらり泳いでいる。健二は釣り好きであったから、今手元に竿が無く、しかもその鯉が飛び切り大きいのが無念でならなかった。
「結局、何の用だ」
健二は訊ねるが、丈夫は話さない。
「おい、丈夫」
丈夫は一向話さない。
ただ薄ぼんやりと池を眺め、時折風が吹きつけても瞬きせず、それどころか焦点合っておらず、動かない。
健二は多少むっとしたが、何かやむにやまれぬ理由があってそうしているのだろうと思い、黙った。
暫くそのまま時の流れを待ったが、健二は段々と退屈に身悶えしてきた。元来じっとしている性分でなく、海の鮪が止まれば死ぬように、動かねば心が病んでくる。何か紛らわす物などないかと探すと、池の岸際に鳥の群れを認めた。鴛鴦(おしどり)のように見え、二羽で羽震わせ、身を擦り寄せて、睦まじ気に泳いでいる。この時健二の中の残虐性が首をもたげて、今だそうだ、足元の石を投げつけてやれ! 片方にだけぶつけてやるのだ! と囁きかけてきたが、罪悪感からか寸でのところで思い止まった。唯何もしないのも面白くないので、やはり石掴み上げて、鳥とは別の方に投げてやった。石は葦(あし)むらに当たった。がさっと音がして、周りの鳥は飛んでいった。無論鴛鴦も飛んでいった。然し何やら、葦むらの中に動じないものがいる。薄灰色の羽を持ち、嘴は黄、目も黄色ぽくて、遠くを見つめている。その様子は何かに思い悩んでいるような、洒落(しゃれ)た喫茶に一人座っている淑女(しゅくじょ)のような、物憂げな印象を与えた。健二はそれが何鳥か分からなかったが、気になって後で調べたら、それは鷺(さぎ)らしかった。それも青鷺という格好いいやつだ。餌を探しているのか、それとも手負いで傷癒しているのか知れないが、兎に角じっとして動かない。はて、この顔この様子、どこかで見たなと考えて、健二が横を向いてみると、鷺面(さぎづら)の丈夫がいた。周りが清澄(せいちょう)な雰囲気で静かで、落ち着いているのがまた面白く、然し丈夫が真剣なため笑えもせず、必死に堪えようとしたら、喉辺りからぐぅという間抜けな音が出た。
健二があまりにぐぅぐぅ言うので、終に丈夫が怪訝そうに
「どうした、何か面白いことがあったか」
と訊ねてきたから、
「お前の神妙な顔が鳥に見えたのだ、見ろ、あれだあの鳥だ」
健二が指差すと、丈夫もつられて笑い出した。
「やはりお前ェは、阿呆だ」
丈夫はベンチから立ち上がって歩き出した。
「おい、まだ用が済んでないだろう」
「いやァ、いいんだ、これでいいんだ。今度、寿司でも食いに行こうか」
寿司というのは健二にとって、随分高級に属すものであった。飛び上がって首肯すると、丈夫はくつくつ笑ってまた歩き始めた。健二はもう、丈夫の神妙顔など覚えていなかった。

***

健二が漸(ようや)く大学に慣れ、勉学も軌道に乗り出した或日、大学内がそれはもう酷い騒ぎになり、健二は唖然としていた。大学へ入った所で呼び止められ、捲(まく)し立てるように何事かを教えられたが、あまりに唐突だったのでさっぱりわからなかった。広場へ行ってみると、黒い海苔を切り貼りしたような文字で「ふざけるな」だとか、「全共闘」だとか書かれた看板を学生が持って、口々に怒声をあげている。その中には普段から広場にいて、健二が密かに侮蔑の眼差しを投げつけているやつもいた。ああ、また学生運動か。そうであるとしたら、何処かに同じく丈夫もいて、こんな声を張っているのだろうか。そんなことを考えると、健二にはやはり丈夫が恐ろしく見えて仕舞うのだ。駄目だ、丈夫は心許せる友ではないか、疑ってはいけない。そのような事を考える自分の方が、悪いやつだ。理由がどうあれ、信念持って志高く、何かを成そうとしている者に、これという信念もない野郎が、頭ごなしに恐ろしいとか言ってはいけないのだ。自身の器を恥じ、健二がそこを離れようとすると、馴染んだ声に呼び止められた。ああ、なんてこった!
振り返るとやはり丈夫であった。頭には鉢巻つけており、息を荒くしている。
「健二、丁度よかった。これから通りで行進するンだ、お前も来い」
口元は醜悪(しゅうあく)に引き攣(つ)り、目は何かに憑かれたように焦点あっておらず、憑かれていると言うよりは寧ろ、今の丈夫が実は怪異そのものなのではないかと思われる程、健二が普段接する丈夫とは違っていた。
「授業があるんだ、行けないよ」
「そうか」
丈夫は吐き捨てるように言って、ずんずん歩いて人の群れに紛れてしまった。先程自身を恥じたばかりであるのに、いやそれだからこそ、健二は深く疑念を抱いてしまった。
本当に、あいつと友人でいていいのだろうか。俺は何もしていないのに、何か大事に巻き込まれ、終いには何処か恐ろしい場所へと誘われないだろうか。人には、勿論言えぬ。そして言っても理解されないだろう。寧ろ嘘を吐(つ)いて親友の誘いを断るなど、醜態(しゅうたい)晒(さら)しだ。間違ったことに相違ないのである。高校の時、地元の友人の誘いを断ったことなど、一度たりとも、無い。初めての事だ。それも相手は、丈夫だ。至極短い付き合いではあるが、学生運動の話に辟易した時もあるけれども、親友だ。あいつは、いいやつだ。本来決して疑ってはいけない類の人だ。しかし俺は今、丈夫を恐ろしく思っている。堪らないのだ、先程のあれが丈夫だとは、到底信じられぬ。もしこれが俺の思い違いで、あれが偶然俺の名を知っている他人だとしたら、どんなにいいだろう! 丈夫を化生の如く思った事を一人後悔できるなら、どんなにいいだろうか!
健二の疑念に明確な答えが与えられることは終(つい)ぞ無く、猪狩荘に戻った丈夫は普段と変わらぬ様子だったので、健二の抱える懊悩(おうのう)は苛烈(かれつ)を極める事となった。
その翌日、小試験を終えて夕方、健二が猪狩荘に帰ると、
「おう健二、寿司行くぞ」
丈夫に声を掛けられた。健二はあまりに気乗りしなかったが、なるべく普段通りを装って、丈夫に自らの下賎さを悟られないように、大きく首肯した。
猪狩荘を出て右に逸れると、大通りがある。普段から人々が多く行き交い、飲食の場など膨大で、値段も殊(こと)の外安く、健二には慣れた場所である。はて、と健二は首を捻った。呑み屋麺屋数あれど、寿司屋がこの通りにあるなど見聞きしたことがなかったのである。しかし丈夫は進んでいく。大通りの中ほどまで来ただろうか、丈夫はぴたりと止まって、
「ここを曲がるンだ」
なるほど、健二が知らぬのも無理はなし、公園での薄暗さとは全く異質な、怪しげな路地があった。そこがあんまりにも薄暗く怖いから、健二の内の疑念が鎌首(かまくび)もたげてきて、くそ、やっぱり恐ろしい所に連れてこられた! 俺は何にもしていないのに!
路地を行くと普通の寿司屋があった。健二は拍子抜けして仕舞い、途端に快活になった。
暖簾(のれん)をくぐると大声で歓迎され、健二は余計に舞い上がってしまった。意味もなく緑茶を飲み干して、
「アガリ、おかわり」
と言ってみたりした。丈夫は隣で笑っていた。
「こりゃあ、旨い」
 最初に注文していた鉄火を口に放り込んで、健二は満足げに頷いた。東京の寿司屋には初めて訪れたし、地元では「東京の魚は臭くてかなわん」などと言われていたからどんな味かと思ってみれば、旨いではないか。店内も五月蠅い客はいないし、水槽の真鯛(まだい)も伸び伸びしているように見える。初めは恐ろしいところに連れてこられたのかと冷やとしたが、恐ろしく居心地のいいところに連れてこられたらしい。
 健二が二度目のアガリを頼むのと時を同じくして、丈夫がお手洗いに行った。店を訪れてから暫く経っていたし、それ自体別段不自然なことではないから、健二は特にどうとも思わなかった。戻ってきた健二は少し頰が赤かった。
「健二、俺ァ猪狩荘を出るよ」
 健二は口からアガリを垂らした。
「どうした、なんか宿に不満でもあったのか。それとも住人か、俺か」
 健二は決まり悪そうに、左手で首を撫でた。
「いやァ、違うさ。また運動の話だ。全共闘の奴等で部屋を借りることになってな、随分遠くに行かねばならんが、俺も本気だ、参加しないわけにいかない。一週間後にでも発つ。そうだ、俺ァ本気だぞ、健二。本気で大学を変えようと思ってる。あんな汚い奴らに任せていては、駄目だ。脱税なんてのは、大学の最たる汚点だ、大恥だ。負けては、いけない。俺たちで変えるンだ。健二、やはりお前も来い。今日は別れの挨拶にするつもりだったが、惜しい、あまりに惜しい。こんなにも仲を深めた友を手放すなぞ、耐えられん。どうだ、健二よ、やはり共に行こう」
 ああ、なんて残酷な問いか! 疑念と孤独が脳を縛り上げて、健二は何も言えなくなってしまった。しかし答えというのは、元より決していたのである。健二に足りなかったのは、覚悟だ。自己の返答がたとい親友を失わせたとしても、尊厳を守り抜こうとする覚悟が足りなかった。丈夫にとってその場所は、大義を一にする友を抱いた桃源郷なのだろう。しかし、自分はどうか? その大義を今日現在までに、侮蔑(ぶべつ)の的としたことはなかったであろうか? この問いだけで、結論を出すには十分足るはずだ。健二もきっと、それは分かっていた。分かっていたとしても、やはり覚悟が無ければどうも出来ぬ。
結局健二は、未熟であった。最もいけない答えを出した。そして、阿呆であった。どうしようも無い阿呆であった。
「すまん、また今度にしてくれ」
 この時の丈夫の失望を、健二は生涯忘れない。

***

 丈夫は結局、三日後に出て行った。それ以来会ってはいない。
 以来健二はこの時期になると、毎度後悔するのだ。共に行かなかったことでは、断じてない。或いは丈夫も、分かっていただろうと思う。後悔しているのは、自己の思いを伝えなかったことだ。親友にこそ正直な意思を、断固とした決意を、伝えるべきであった。

「俺は、悪いが行けない。しかし丈夫よ、お前を応援しないわけでは無いのだ。また連絡しよう。離れていても、親友だ。それは変わらないさ」

 丈夫の訃報は、同年九月に伝えられた。

                           了

晴明

晴明

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-16

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