ドラえもんはどこへ行ったのか

 兄貴が失踪したと知らされたのは、暑さも真っただ中の季節だった。
 電話をかけてきた母によれば、一晩のうちに兄貴の姿は忽然と消えたという。特に変わった様子はなく、いつも通り部屋に閉じこもって、ぶつぶつとつぶやいたり、たまに泣くように怒鳴ったりしていたそうだ。「夜中に出歩けるような子じゃないんだけどね」と電話の向こうの母が首を捻っているのを感じた。
 それはそうだろうと俺も思った。何せ兄貴は高校を卒業して以来、ずっと就職することもなく家に閉じこもり続けている。俗にいうニートというやつだ。昼間に外出することはもちろん、夜にそうするのも嫌がっているようで、風呂やトイレも両親が目を離している隙にこっそりと済ませるような生活を送っているようだった。
 電話越しの感じ、母は別段慌てている風でもなかったし、「無理に来る必要ないよ。ただの報告だから」とも言ったのだが、俺は何となく気になって、久々に帰省することにした。幸い今大学は夏季休暇中なので、バイトさえ休めば時間の都合などはどうにでもできた。
 実家に帰ると、両親は和やかに俺を出迎えた。まるで家族の失踪なんてないみたいに。
 俺は両親への土産話も程々に、実家の二階にある兄貴の部屋に行った。予想通りというかなんというか、そこはペットボトルやらティッシュやらカップ麺の容器やらで埋まったゴミ溜めのような部屋だった。妙に重たい襖を開けた瞬間、閉め切っていたため充満していた熱気とともに、独特な不快さのある匂いと埃が一気になだれ込んで顔面をはたいてきた。
 俺は手で鼻と口を覆いながら、ゴミ山の上に踏み込んだ。室内を見渡す。ゴミが部屋の五分の一ほどを占拠している以外は何もない、殺風景な部屋だ。ふと部屋の隅に見慣れないものが設置されているのに気づく。小学生が使うような、小さめの勉強机。しかも真新しいのが、そのゴミ溜めの中で異彩を放っていた。その勉強机の上に、一枚の名刺が置かれていた。探偵事務所という文字列が見えた。その名刺は拾ってポケットに入れた。
 俺はひとまず一階に降り、両親に訊いた。まずはあの勉強机のこと。
 父はさっぱり知らないようで、母が答えた。
 なんでも兄貴が唐突に買ってきたものらしい。ネット通販で注文したらしく、宅配便として届いたそうだ。支払いは着払いで、当然ながら母が払ったそうだ。
 次にこの名刺のことは知らないか、と両親に拾ってきた名刺を見せながら訊いた。これに関しては二人とも何も心当たりがないようだった。
「ああ、でも最近二回くらいあの子、珍しく出かけてたことがあるね」と母は言った。「いつ?」と訊くと、「一か月前と、もう一回は一週間くらい前」と答えた。その際に数万円ばかしの金がいつの間にか消えていたとも言った。普通なら大騒ぎだが、兄貴が両親の財布から金を抜き取るのは、学生の頃から珍しいものではなかったので、母は諦めの心で気づかなかったふりをしたという。それはともかく、一か月前と一週間前、兄貴はどうやらこの探偵事務所とやらに行ったらしい。俺はその名刺に書かれている住所に足を運んでみることにした。
 そこは実家からは少し遠くて、あの兄貴がこんなところまで行ったのかと驚きながら、バスに揺られて目的の場所に向かった。その最中、何で俺は兄貴のことについて調べたりしているのだろうと今更な疑問が浮かんだ。
 強いていうなら好奇心だろうか。それも妙な話だ。俺は昔から兄貴なんて興味はない。嫌いという感情すらない。あのぐーたらなダメ人間のことなんぞ、大学に通うために一人暮らしを始めてからはすっかり忘れ、母からの失踪を知らせる電話がなければ、その存在は永久に記憶の墓場に埋められていただろう。それでは自分は何を思って、兄貴の足跡を追っているのか。
期待? 何の脈絡もなく、そのワードが脳裏をよぎった。
何に対しての期待だ? 自分は何を期待して、こんなことをやっているのか。何を知りたくて、こんなことをやっているのか。ただ、兄貴に関しては別に見つからなくてもいいや、と思った。両親もそう思っただろう。その証拠に、失踪届も出していないようなのだから。
 どうでもいいことに思考を巡らせているうちに、俺はいつの間に名刺に書かれている探偵事務所の前に立っていた。といっても、そこにあったのは築五十年はありそうな、ひび割れだらけの薄汚れたコンクリートのビルで、探偵事務所とやらはその三階にあった。
 俺はその蜘蛛の巣が張った汚いドアをノックした。ほどなくして、受付らしき不愛想な女が顔を覗かせた。「どうぞ」と抑揚のない声に案内されるまま、俺は探偵事務所の中に足を踏み入れた。これがミステリー小説ならば、きっと劇的な展開がこれから待ち受けていたのかもしれない。兄貴の失踪にとんでもない陰謀が絡んでいたとか、そんな安っぽい大長編ストーリーが繰り広げられたのかもしれない。しかし、そんなことが起こりえないことは俺が一番よく知っていた。兄貴はどこにもいるような平凡な無職で、そしてその存在の有無は、じつの家族にすら大した影響を与えないのだった。
 俺は応接間らしき部屋に通され、湿った匂いのするソファに座らされた。しばらくすると、背広をだらしなく来た中年の男性が出てきて、向かいに座った。
「本日は何の用でしょうか? ご依頼ですか?」と男性は笑顔で言った。俺は兄貴が失踪したことを伝えた。ここの名刺が部屋にあったことも。男性は黙って聞いていたが、最後まで聞くと困ったように頭を掻いた。
「うちは関係ないですからね?」と念を押すように言った。「もちろんわかってます」と俺は頷いた。男性はまた逡巡するような顔をしたあと、兄貴が何の目的で探偵事務所に来たのか教えてくれた。
「丸山誠一って人を探してくれって頼まれたんですよ。おたくのお兄さんに」
 丸山誠一。その名前には聞き覚えがあった。中学生の頃の兄貴の同級生だ。家が近くて、兄貴とはそこそこ仲が良かったと思う。だが、なぜかある日から兄貴は丸山と遊ばなくなった。当時の俺も不思議に思って何度か訊ねたが、「あんなカスと仲良くする方がどうかしてる」と兄貴は何かに相当ご立腹のようだった。大方しょうもない理由だろうとは思うのだが、とにかく兄貴はそれを境に丸山とはほとんど接触していないようだった。そのうち、丸山は親の仕事の都合かなんかで引っ越していった。それから俺も丸山のことはだんだんと忘れた。兄貴もそうだろうと思っていたのだけれど――何で今更丸山誠一を?
「一応理由は訊きましたけど、なんかドラえもんに会えたのか訊きたいんだって。正直わけがわからなかったんですけど、まあ依頼なんで。ちゃんとしたところは相手の身元とか事情とかしっかり調べるんでしょうけどね。うちみたいな弱小はそんなの気にしてられないんですよ。それで前金をもらって、そんで調査して、とりあえず結果は出たんで連絡して、事務所にお越しいただいてそれを伝えた。それだけですよ。それ以外は何も知りません」
 ドラえもん。覚えがあった。確か丸山誠一は大のドラえもんファンだった。
「で、丸山誠一は見つかったのかのかって? 生憎丸山さん自体は見つからなくてですね。一応住所とかは突き止めたんですよ、もうそこにはいませんでしたけどね。丸山さん、失踪しちゃってんですよね、一年ほど前に。ご家族にも友人にも何も伝えずに、急にね。そういうの、なんというか、話を聞く限り、その、おたくの・・・・・・」
 兄に似ているわけですか、と先回りして言うと、男性は苦々しげに頷いた。
「ええ、そうですね。だからどうってことはないですよ。あの、お兄さんの捜索とかは」
 依頼するつもりはないですよ、これも予測して言った。
「は、はい。ありがとうございます。その、こんな商売ですが、面倒な厄介事は御免なので」
 丸山誠一さんについてですが。
「はい?」
 本当に突然失踪したこと以外に、気になるようなことはありませんでしたか?
「あ、ああ、そうですね。一つだけ。一つだけありますよ」
 それは何ですか?
「丸山さんね、失踪する三日前くらいに、ご友人の一人に妙なことを言ってたらしいんですよね。満面の笑みで、ついにタイムマシンに乗れるんだって」
 タイムマシン?
「そう、タイムマシン。そのご友人の証言によると、一緒にお酒を飲んでいたらしくて、酒に酔った勢いでそんなとんちんかんなことを言ってるんだと思っていたそうなんですが。もうそれは嬉しそうにしてたんだそうです。ようやくだと」
 ・・・・・・もしかしてなんですが。
「もしかして?」
 もしかして丸山さんは失踪する前に勉強机を買ってはいませんでしたか?
「ええーっと、すいません、そんなことは訊いていなかったもので・・・・・・。あ、でも、ご近所の方の証言で、何か大きな荷物が宅配便で届いていたようだと・・・・・・」
 ・・・・・・それを兄には?
「話しました。そしたらおたくのお兄さん、血相かいて――」
 俺は男性の話を最後まで聞かず、ソファから立ち上がった。
「え? あの」
「お金は必要ですか?」
「あ、え、いえ、結構ですが」
「それでは失礼させていただきます。お話、ありがとうございました」
 俺は一目散に探偵事務所を飛び出した。不躾だとか失礼だとか、そんな礼儀やコミュニケーションのことを考える余裕はなかった。
この短時間で頭の中がほつれた糸のように複雑に絡まってとっ散らかっている。落ち着け、と自分に念じて少しずつ整理する。
 丸山誠一。ドラえもん。タイムマシン。
 先述した通り、丸山誠一は無類のドラえもん好きだった。いつぞや「あいつはドラえもんの話になると早口になる」と兄貴が笑いながら愚痴っていたことがある。「いつかドラえもんに現実で会うことが夢なんだってさ。どうやっても無理だろ? 中学生にもなってなんだそれ。幼稚園児じゃあるまいしさ」と。当時の俺は特に興味もなくて、何となく聞き流していたのだけれど――。
 帰路へのバスに乗る。まだ考える。
 なぜ兄貴は仲違いした友人を、わざわざ探偵に頼ってまで探したのか。ドラえもんに会えたか訊きたかった。何で急に、そんなこと。そしてそれを知って、どうしたかったというのか。失踪した理由は、兄貴が失踪したのは――。
 ふと、実家の兄貴の部屋の様子が思い浮かんだ。ゴミ山がいくつも連なる殺風景な部屋。その部屋の隅の、小学生用の勉強机。兄貴がネット通販で買った勉強机・・・・・・。
 唐突に背筋に何か冷たいものが這い上がった。それは冷気のようにひんやりとしていて、また粘土のように貼りつくような感触があった。なぜだが指が少し震えていた。
 俺は実家の近くのバス停で停まったバスを降り、いてもたってもいられず、実家に向かって駆け出した。実家に飛び込むと、母や父の声も無視し、階段を駆け上がり、兄貴の部屋の襖を壊れるくらい強い力で開けた。熱気とゴミの匂いのミックスがまた俺の身体をなでた。一気に全身から汗が噴きだして、一瞬のうちに服や髪がびしょ濡れになる。
 喉がひどく乾いていた。でもそんなことを気にしている余裕はなかった。俺はほかには何も目をくれず、一直線で勉強机へと向かった。
 初めに兄貴の部屋に入ったとき、見過ごしていたのだ。勉強机の引き出しの存在を。文房具くらいしか入らなさそうな、狭い収納スペース。しかし、ひとたび開けてみれば、あちこちに時計の模様を貼りつけた、異空間が広がっていそうな――。
 俺は勉強机の引き出しに手をかけた。開けようとして――一瞬手が止まった。
 背中に貼りつく冷たいものが、ぐにゃぐにゃとまるで生物のようにうねるのを感じた。暑くて汗みどろだというのに、そんなのはお構いなしといった具合にそれは自己アピールしていた。指の震えが激しくなっている。
 こんなときに俺は――期待していた。
 何を? わからない。でも、俺の脳裏には先ほどから一つのビジョンがある。
 この引き出しを開けた瞬間、そこから青い頭がぽんと飛び出すのだ。そしてその青い頭は丸い全身を出して、そして俺に言う。「ぼく、ドラえもん。未来から来たネコ型ロボットなんだ。さあタイムマシンに乗って冒険へ出かけよう!」俺はそれを聞いて、二度返事でドラえもんについていく。一緒に引き出しの中へ。引き出しの中は、引き出しの向こうは――。
 俺はそのビジョンを恍惚と眺める。そして、それに促されように引き出しを――開けた。
 ほんの一瞬、時間が止まったようだった。外界の蝉や蛙の泣き声だとか、耳元に飛び回る蚊や蝿の羽音などの雑音が、一気に鼓膜に流れこんできた。
 俺は、引き出しの中を見た。
 そこには何冊かの漫画――女子高生のキャラクターが筋肉隆々の男に犯されていたり、何人かの不良にレイプされていたりする絵が表紙になっている、いわゆる成人向けの――が重ねられて置かれており、その上には一枚のくしゃくしゃのメモが添えられていた。それらはもう何年も放置されているように、大量の埃を被っていた。あるのはそれだけだった。
 メモには、字を学びたての子どもが走り書きしたような文字が、青色のクレヨンで書かれていた。
『ありがとう、ドラえもん』
 文字のそばには、ドラえもんらしき顔と、兄貴の似顔絵らしきものが、これまた青色のクレヨンで書かれていた。どちらも子どもの落書きのように下手くそなものだった。
 俺は茫然と引き出しの中を覗き込んでいる。
 ただ確実に、兄貴はもう帰ってくることも、見つかることもないだろう。その事実だけが、真っ白な俺の思考の中で揺らめいていた。
 窓から差し込む西日が、ゴミ山を茜色に染め上げた。

ドラえもんはどこへ行ったのか

ドラえもんはどこへ行ったのか

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-14

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