オールドソング



ボクの毛を舐めながら、彼女が夜通ししてくれる話には、いつも幽霊がいる。役割は勇気溢れる主役であったり、三角形の恋敵であったりと、配役は異なるけれど、必ず幽霊は現れる。幽霊だから、姿形は具体的に語られない。人の姿をしているかもしれないし、また、接近を悟られないよう、猫であり続けているかもしれない。そういう想像をすることを、爪を研ぐ彼女は許している。でも、本当にそうなのかは分からない。幽霊は、ただ幽霊と語られる。話の中で、幽霊は幽霊のまま話し出し、幽霊のまま活躍し、幽霊のまま恋に涙して、幽霊のまま、夜明けを迎える話とともに消えていく。そんな不確かな存在であるにも関わらず、唯一の聞き手であるボクの心を打つ理由は、幽霊に命を与える彼女の方にあることを、ボクはつい最近知った。彼女が語る幽霊には、彼女にしか語れない表情があり、彼女にしか見えない迷いがあり、彼女だからこそ分かる覚悟がある。彼女を通して足を動かし、話に出てくる様々なものに触れ、そして大事な場面でこちらを見て、そのまま口を閉ざす幽霊は、ボクの中のヒーローであり、ヒロインである。その幽霊にこちらから触れようと手を伸ばすこともしょっちゅうある、ボクのことを叱る彼女には、こちらからは見えない幽霊との約束というか、決まり事があるらしい。アンタッチャブルな境界線は保たれてこそ、「場」としてのその機能を十全に発揮するのよ、と彼女は小難しく説明する。よく分かったような、分からないような顔を隠さずに、首を傾げるボクの頭を撫で回す彼女の笑顔には、いつも斜めな影が差す。お互いに裸のまま、真新しい月光の下に晒されて、ひとの姿を保てるボクと過ごす日には、生まれてしかるべき現象がある。まん丸い明かりは遮られて、瞼の裏より暗い住処はいつも生まれている。ひとの姿である時のボクは短くなった牙を仕舞い、慣れない腕を動かして、それを獲る。影はぴちぴちと跳ねて、そのうちじっと動かなくなる。彼女はそれを悲しがる。ボクは影の匂いを嗅ぐ。影はくすぐったそうにぎょろ目を現し、にこっと笑ったよ、と伝えるように、糸のように目を細める。息絶えたわけではないとボクも彼女も知っているからこそ出来る、悪ふざけのような影との遊びには、けれど別の色の、真剣な意味が混じることもあって、そんな時にふざけ続けるボクの事を突き放す彼女は牙を出し、首にある鈴を鳴らして、ボクのことを追い出す。追い出されたボクは、文字通り、尻尾を巻いて逃げ出さなきゃいけなくなる。ベランダからベランダへと飛び移り、低い屋根を蹴って、くるりと周るボクの、月明かりの下での本来の姿。風のように地を疾る。力を込めて先を蹴り、長い尾っぽがそれに続く。ふっふっと息を吐き、胸を膨らませるとき、ボクは喉を鳴らし、鳴き声を伸ばしたくなる。丘を探して、顔を上げたくなる。夜半を唸らせるメッセージ。脚で踏み出す不可視の領域。すっかり影になった街を飛びながら、彼女に舐められていたところの毛が風に吹かれて乾いていき、耳に残る数々の話の中、いつもそこにいる確かな存在は、話し言葉から始めて、ケタケタと笑い、身振り手振りを交えて、姿を変えて、ボクの身体に溶けていく。次第に、同じ務めを果たした、行き先を共にする同志が集まり、降り立った広場で互いの身体の匂いを嗅ぐコミュニケーションを済ませるいつもの夜の終わりを迎えるとき、幽霊の心は、確かにボクの手足を震わせる。喜び、嬉しさ、悲しみ、慈しみ。ひとが口にするそれらの形を想像して、ボクら同志は世界を歩く。より強い明かりとなる光源の気配を察して、影がカーテンのように裂かれて、ボクらの姿は消えていく。彼女が言うには、毎日の朝が始まる頃、ボクが居た所には猫が居る。ふわーっと口を開けて、寛ぐ猫は最初の眠りに入る。彼女はそれを見て、人の生活を始める。幽霊は出てこない。話を聞くボクがいない。だから、彼女は仕度というものを始め、鈴を外し、箱という箱に蓋をする。ないものはない、見えないものは見えない。秘密なんて、そこにあるはずがない。
割り振られた役割に従って、改札口というものが動き出し、投げ捨てられたゴミ袋というものを突くカラスが、何かを見つけて飛び去る。文字が書かれた紙束がバサバサっと捲れて、カラフルな傘がカシャンと落ちる。嘴を長くしたような道具を使って、缶、というものを拾う人がいる。ボクらに似たような姿をしたものが、立ち止まったまま、こちらに向かって吠える。プルルっと世界が鳴って、喋り出す。歌い出す。回り出す。
次の夜が準備する。
絹のように優しい、という聞き慣れない言葉を持ち帰り、ざわめきが静かに広がるオオカミ。今夜の最後に彼女が口にした台詞を、ヒトでない姿で噛み、味わう。こんなボクを演じる幽霊は、見えない尾っぽを追いかけて駆ける。遊ぶ。

オールドソング

オールドソング

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-08-11

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