*星空文庫

夜あるき

北城 玲奈 作

 そこの自動販売機の角を曲がればもう着く。しかし、いまは帰りたくなかったし、明日も別段用事があるわけではなかったから、まっすぐ歩くことにした。

 もう日も落ちて久しい。空はいちめんに暗い。よく見ると、重たくのさばる雲の合間から、濃い藍がのぞいているのがわかる。あたりはいまだ、太陽の熱を孕み続けている。風は鈍く重く、なにも動かさない。道路わきに植えられた樹は、小さな葉をところどころ薄緑に透かしている。灯りは強い。そこから光がのろのろ伸び、路面にぼとりと落ちて広がっている。その上を、タクシーが通る。ヘッドライトが人影を映し出すが、まばらで、あっても、みるみるうちに近づいてき、またたく間に遠ざかっていく。人々は歩くのが速い。時間も時間である。みな駅をめざして急いでいるのだろう、と思った。私もなにか、行く先を決めようとしたが、こうも蒸すので、あれこれ思い浮かべるうちにだんだん、頭の芯のあたりがぼうっと、靄でもかかったように曖昧に輪郭を失ってゆく。こうなると、面倒だなあと思う。なにを考えるにせよ、まず、曇りを取り払うところから始めねばならぬ。私は考えるのをやめた。

 ガソリンスタンドを過ぎると交差点に出る。右手の信号が青かったので、そちらに進むことにした。上り坂である。広めの通りだが、人通りは少ないようだ。歩道の柵の反射で、さっきの信号が赤に変わったのがわかった。私はそれに煙草の火を見いだした。ズボンのポケットからかたちの崩れきった箱を引っ張りだし、指で探ってみた。ない。立ち上る煙を恋しく思って、空を仰ぎながら歩く。知らぬ間に、空のほとんどが街路樹と公園の木々に埋めつくされていた。暗い。肺が、ずん、と重心を低くしたように思われる。息が苦しいので口を少し開いた。歩を進めるやいなや、道の両側から枝が伸びてきて、おびただしい葉の影が藍色をすっかり飲み込んでしまった。夜の神社に忍び込むとしたら、こんな気持ちになるのだろう。全身が、何ものも逃すまいとこわばるので、私は自分の歩幅が狭くなっていくのを感じた。さっきの交差点から離れるにつれ、ますます暗さが塗りつけられていく。鈴虫の声のあいまに、靴の音がくぐもって響き、足元で閉じこもり消えていく。時折、布がすれる音が鋭く聞こえる。研ぎ澄まされた私のからだの隙間から、しめり気と熱気とが絶え間なく侵入してくる。足を止めて、それらを振り払うために頭や腕を動かそうとしたが、車の走る音が近づいてきたのでやめた。

 私はじっと音のやってくる方向を見つめた。神経のすべてが眼球に向かうのがわかる。握った手のひらに爪が食い込む。遠く疼く。くちびるが引き結ばれていく。しだいに道の果てがまぶしく縁どられていき、とうとう光が姿を現した。目がくらんで判断するのに時間が要ったが、タクシーである。客はない。過度の明るさは空間にそぐわなかった。本来あるべきでないところに、それはあったのである。まじまじ眺めると、滑稽にさえ思われるほどであった。私は手のひらを解き放って少し笑った。光はもたついた風をともなって通り過ぎ、一瞬間の破壊ののち、道にはまた闇がたちもどってきた。

 いま、安堵を覚えている。私は光の中におのれの姿を見た。おのれにうつる自分の姿を見た。彼女にうつる私は、闇の中でこちらを見ておびえていた。私は闇に融けこめずにいたようで、実際のところ、闇のただなかから、闇の側に立つものとして光を見る存在になっていたのである。いまや闇は、私の身内であった。

 私はすっかり心を解き放ち、闇と一緒くたにして歩いた。なんという良い夜だろう!信号に照らされて、歩道沿いの柵が赤くあやしく光っているのを視界の隅でぼんやりととらえた。今や目に映るものは自分の手と、足と、アスファルトのみである。腕を振る動きのためか、血液が末端にとどまって手の甲に静脈が浮かび始めた。押すと、やわらかい皮膚の下に弾力を感じた。そのまま押し続けると先の方の血管が膨らんでいき、私の手の甲を離れ一種の生物になった。なんとなく中指の調子が悪くなってきたような気がしたのでやめた。いくつか小さな交差点にでたが、そのうちのひとつで、サイレンを鳴らさぬ救急車を見た。至極のんびりしていた。この夜にふさわしいと思った。

 大きめの通りに出たと思えばT字路である。右手の信号が青かったのでそちらに進む。今までとは打って変わって空がひらけ、街灯も多く明るいので雲の形まで見て取れる。この通りの雲は薄くやわらかく、大きかった。空は光をうつして藍から青に色を明るくしていた。交番の前に差しかかる。誰もいない。中を少し覗くと、黒板に中し送り事項が書いてあった。図書館の定休日である。暢気なものだなあと思った。小さな鏡に自分の姿を認めるか、認めないかのうちに人とすれ違った。相手はランニング中であった。ふと目をやるとタクシーが道路わきに規則正しく並んでいる。運転手は仮眠をとっている。仰向けでハンカチを目に当てる人、横向きで腕を枕にする人、上体を起こしたまま俯く人、眠り方はそれぞれであった。アパートが道の両側に立て続けに現れたのでそれも覗く。ほとんどがカーテンを閉めていたが、またほとんどが電気をつけていた。ステンドグラスの原理で、赤青黄、緑、茶、カーテンがさまざまに建物を彩っていた。そのなかに、窓を開け放した部屋を見つけた。畳敷きの部屋で、男か女かわからないが、短いズボンをはいた人がひとり、寝っ転がって手のひらを見つめている。

 道が下りはじめたので、視線を前に向けることにした。反対側の歩道を、向こうからスーツ姿の男が石を蹴りながらやってくる。彼のほうの岸ではアパートは途切れ、見覚えのある景色が広がっていた。どこなのかは思い出せない。さだめて、新宿だろう。背の高い影が白っぽい光に点々と包まれ、先端は赤くまたたいている。
商店が軒を連ねはじめ、遠景は閉じた。どこもシャッターを下ろしている。向こうから学生らしき二人組が歩いてきたのに女の話し声で気づいた。女性の声はよく通る。男のほうの声はまだ聞こえない。しかし盛んに身振り手振りしているところを見ると、何かしゃべっているのだろう。ビニールの袋を提げているので、このあたりにコンビニでもあるのかなと思った。早速対岸にそれは煌々と姿を現した。運転手が数人、駐車場で煙草をのんでいる。

 いつのまにか道からは闇が消えていた。繁華街へ出たのである。しかしいまだ心は闇に包まれていた時と同様、穏やかであった。なぜなのかはわからない。どれだけ光があふれようとも、それでいいという気持ちである。人がどれだけいても、何をしていてもいい。私は、動物園や水族館、美術館、そんなような場所を思い出した。展示されているものがいくつであれ、なんであれ、人々は眺め、そして去ってゆく。興奮し、感銘を受けようとも、結局はただ来て、ただ帰るだけの行為である。言いかえれば、展示物の面白みがさっぱりわからなくても、自分が行った、帰ったという経験だけは、決してゆらがない真実なのである。ああ、とため息をついた。私の、われわれの存在はこうして保証されるのだ、と思った。ずっとこれを待ち望んでいたのかもしれない。闇がなくとも、私はいま、歩いている。少し冷えてきた風がほてった体をさわやかにする。良い夜は続いていく。

『夜あるき』

『夜あるき』 北城 玲奈 作

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-07-12
Copyrighted

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