*星空文庫

未来人への手紙(2)

織部 和宏 作

  1. 第二章 負の肯定、洞察について
  2. (2)

第二章 負の肯定、洞察について

第二章 負の肯定、洞察について(1)(2017/01/02)


さて第一章では、長さつまり対象との距離について述べた
故に最終的には信仰にまで辿り着いたわけであるが、第一章のキーワードは以下の文言となる

万物は対象を求める

物事は如何なるものであれ二つの側面を持つ
それを肯定的に見るのかそれとも否定的に見るのか、または短期的に見た場合と中、長期的に見た場合とでも異なる結論に至るであろう
これは「そこに対象があるから」という理由付けがなされない限り上手く説明できない考え方だ、しかし「万物は対象を求める」を受け入れることさえできれば自分に対して否定的な態度をとる人への対応の仕方もまたおのずと柔軟に変化していくものと推測される
多くの人の場合「対象」とは「利」をもたらすものと解釈されているようだが私の場合ここには「利」ではなく「善」が来る、故に「成功」ではなく「幸福」が人生の目標の筆頭に来るわけであるが、成功は99.9%独力のみでは達成することが不可能であるのに対し、幸福はある程度の工夫が必要になるとはいえほぼ独力でその目的を達成することが可能である、そういう意味では成功は中央集権的つまり都会志向で一方通行であるのに対し幸福は地方分権的つまり地元志向でありインタラクティヴであるとおおよそ定義づけることができるのかもしれない

このことはネット社会とも密接にリンクしており、ネットがほんとうにインタラクティヴを実現できるのであれば、ネットは幸福をこそ志向する人々の良いサポートツールになれると思うのだが、実際にはネットを成功のために使おうと思っている人の方が圧倒的に多いように思えるので、両者間においてかなりの齟齬が生じているようだ
なるほど「対象」が「幸福」を意識する限りにおいてどうやら「信仰」とは無縁ではいられないようだが、天国に預金通帳を持っていける保証がおそらく永遠に不明確である以上私たちは最終的には「成功」か「幸福」かの選択を迫られずにはおられないのであろう
ここは幾分断定的な表現を使っても差し支えないのであろうが、成功者と幸福者とでは以下の存在がやや異なる結果となって現れるかもしれない

良き後継者

例え成功してもそこに幸福がない場合そこには良き後継者は生まれないかもしれない、良き後継者に恵まれるためには第一に彼が幸福であることが求められる、良き後継者は「利」ではなく「理」を引き継ぐ、それは「万人のために」であり、故にそこには「普遍」またはかなりそれに近い理想がある
やや意地悪な言い方になるが環境問題は実にこの辺りのところをうまく人類に示唆しているように思える、まるで神が意図的にそう仕組んだかのようでさえある
環境問題は温室効果ガスの問題だけではない、産業廃棄物の問題、ここにはきっと核のゴミの問題も入る、また海洋汚染の問題もあるようだ
さらに資源の問題が今後急浮上してくるであろう、エネルギーという点で22世紀以降の人々の取り分はうまく確保されているのであろうか?
再生可能エネルギーはほんとうに化石燃料や原子力エネルギーに変わるだけの熱量を21世紀後半以降を生きる人々に供給していけるのであろうか?
人口はもうすぐ80億に達する、食料もエネルギーもそれらの需要を満たすだけの供給を21世紀前半を生きる人々は後世の人々に約束できるのであろうか?
もしできないのであれば私たちは新たな幸福の定義を行う必要性に迫られるのかもしれない、「より速く」「より多く」に変わる何かを、である
それが物理的に可能であるのだとしても火星や木星の四衛星などから人類が使用可能な資源を持ってくることにはやはり慎重でなければならないと思う
なるほどここで「循環」が出てくることになる
「拡大」や「追求」はもしかしたらこれ以上は無理なのかもしれない、それは未来人のためにはならない
「循環」「分配」そして「多様性の尊重」
「より速く」「より多く」から「より慎重に」「より寛大に」への認識のシフト
これはインタラクティヴを肯定する動きであり、故に地方分権となる
だがここでそれに対する抵抗勢力が現れるであろうことは容易に想像できる、いわゆる既得権益を守ろうとする人々のことである
彼らは決して少数派ではない
守旧派と改革派との対立
それは最終的には戦争にまで発展するのであろうか?
そこまでいかないのだとしても人口が今後も増え続けることが危惧される以上そこでは食料とエネルギーの時に醜い争奪戦が繰り広げられるのであろう
だから私の場合「信仰」が出てくる
これは一定以上の感情の動きや瞬間的な情念を抑制することにつながる、だがそれについて述べると膨大な量になるためここではこれ以上述べずに次に進みたいと思う

第一章では「万物は対象を求める」がその理解のための重要な文言となったが第二章では以下の文言がキーとなる

負の肯定

負とは何か?
それは怒りを筆頭とする、憎悪、蔑み、怨恨、嘲り、嘘、暴力、妬み、裏切り、盗み、差別、故意に人を傷つけること、違反していると知りながら法を破ること、本人が望んでいないのにその過去を暴くこと、負の結果が出ることが明らかなのにそのことを当人に示唆しないこと、そのようなことすべてである
私はこれらすべてを肯定するのである
なぜか?
その理由を以下述べていきたい
以下第一章の最後でついにお目見えしたワードである「信仰」がしばしば登場することになるが何卒そのまま読み進んでいっていただけると有り難い
物事は如何なるものであれすべて二つの側面を持つとすでに書いた
これはどのような概念であってもそれと対になる概念が必ずあるのであり、つまりその両者を伴に吟味することなく何事であれ安易に結論を引き出してはならないということである、おそらく私たちは正の結果が出た時にはそれを半ば当然のものとして捉え、しかし負の結果が出た時にはそれを簡単には受け入れられないということが言ってみれば習慣として身についているようだ、だから雨の日には実際にはそれは時に恵みの雨であるはずなのに、運が悪いと考え、しかしその一方で晴れたからといって感謝の気持ちを持つということも少ないこのことは私たち21世紀初頭を生きる者たちが正の要素ばかりを重んじ負の要素をともすれば軽んじ続けてきたことの結果的な表れであるのかもしれない
ここでいう正とは何か?
それは繁栄であり、また時には平和であり、また時に安全であろう、そしてしばしば民主主義であろう
だが僭越ながらここにそれに対立する概念が日常的に現れない限り私たちが今当然と思っているものは徐々に劣化していくのであろう

私は思う
正の対立概念である負はその主体が信仰の重要性に気付いている限り、最終的には後継者に委ねることが可能な何らかの肯定的に評価すべき要素を生み出すことに成功する
ただここで問題なのは確かにそこに存在する肯定的に評価すべき要素が私たちの間において普遍的な価値を有するようになるまでには途方もない時間が必要になるため、ここにおけるすべての実践はおおよそ孤独な戦いになるであろうということである
なるほどここで私のこだわりである「善」が実に「夢」に似ているということがある程度証明されたようだ、夢追い人の隣に常に座っているのは栄光ではなく孤独である、これはすでに一定の成功を収めた者でもおそらく変わりあるまい
孤独はしばしば孤立であり孤立は先に挙げた多くの負の要素の範疇に必ずしも収まるものではないとはいえ日常において私たちが可能ならば敬遠したいもののその上位に来るもののうちの一つであることには変わりがない
夢追い人が知っているものは何か?
それは「捨てる」ことである
「捨てる」ことでその対象が一本化され彼は一貫性のある日常を手に入れる
夢は「あれも、これも」を許容しない、そして確固たる意志は時に犠牲をも厭わない、このことは夢を叶えるということがいかにその意志のみならず同時に辛抱強さと時の運に依るものであるかを私たちに連想させる、また夢を夢見た通りに適える人はきっと多くないとここで言い切ることはもしかしたら可能であるのかもしれない、ほとんどの成功者はどこかで取引に応じ、その結果カスタマイズされた夢の真ん中を走り抜けている人たちであろう
したがってここで以下のように定義することもできるのであろう

『「夢」はきわめて「善」に似ているが、その本質においてもそう言い切れるのは夢をそのままの状態で追い続けている人たちだけである』と(以下、この章ではHとする)

すでに私はNakedという言葉を使っている、ここでこの言葉を再び使うことも可能であろう
なぜNakedになるのか?
それはHに当てはまる人は前章のGつまり「自分が何を好きで何をやりたいか」が明確にわかっているからだ、おそらく自信を失えばそこに迷いが生じる、そして迷いは一定の確立で嘘を呼び込む、嘘は負の要素の一つであるのでそこに「信仰」が生まれない限りそれが正に変化することはない
ここは表現にやや慎重になるべき部分だ
おおよそすべての物事には二つの側面がある
「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」である、そしてこの21世紀初頭においては前者が後者を大きく引き離しつつある、私にとっては悲しむべきものでしかないこの惨状はしかし今や我が国日本においても絶望的な領域に近づきつつある
したがってここで以下のように定義することもまた可能なのかもしれない

この2018年において社会を吹き抜けるいわゆる流行(モード)はほぼ「数えられるものの価値(数値化可能)」によって構成されている(以下、この章ではIとする)

これは私たちが「信仰」から徐々に離れつつあることを如実に示しているのであり、それ故にその本質においては善とは異なる夢がしかし夢という看板は背負ったまま大通りを闊歩し続けているということをもまた同時に表しているのである
おそらくこのままではこの章の重要な文言である負の肯定はほとんど意味をなさない、負の肯定にはどうしても「信仰」が必要になるのだ
なぜ信仰が必要なのか?
善を行うためにはそこに普遍的な対象が必要になるからだ、そこに普遍的な対象がなければ善も夢もいつしか「利」故に外見はそのままだがその本質においてはまったく別物の、つまり「良き後継者」を必ずしも育まない「巨大だが空疎」な対象物として「『今』を知るがしかし『次』を考えない人々」によってのみ引き継がれていくことになる
そして以下のワードが徐々に失われていく

重さ

ここには当然命の重さがまず来るが、同時に長さ=距離の対の概念として当て嵌まるもののすべてが想起されることとなる
目に見えるものも目に見えないものもすべてそこには重さがある、これはそれが有する質量とはまったく別個の論理である、無論、中には限りなくゼロに近いものもあるのであろうが私たちが知りうるもので完全ゼロのものなど何一つない、すべてが何らかの重さつまり価値を有して存在している、だから万物は対象を求めるとなるのである
この概念を絶対的な前提として論述を展開していくとなれば、「在る」ものは常に「二」が最小の単位ということになる、故に重さも「a」=こちら側と「b」=あちら側との合計数が認識されるべき数値ということになる、ここにまた重要なワードが登場することになる

拮抗

「a」 と「b」には無論任意の対象物が入るがいずれにせよその両者はその力関係において拮抗していなければならない、実はここでもっともそのよい例として挙げられるのが政治の世界における与党と野党の関係における図式である
与党と野党とはその力関係において拮抗して然るべきである、なぜならばそうなることで以下のことが実現するからだ

浄化

最も多くの力を持つ者がその次に力を持つ者と(定期的に)然るべき主役の座を交代することでそこで特に精神面での浄化が起きる、ここは目に見えないものに属する範疇であるが、言うまでもなく政権が交代すれば政策に携わる人が変わる、このことは長期的には民主主義の劣化をこそ押し留める効果があると考えられる
なぜならばアメリカ合衆国の歴史がそれを証明しているからだ、Donald Trumpの当選はHilary Clintonの当選によるワシントンの行政府の質の劣化を危惧した人々による通常とは異なる投票行動の結果生まれたものだ、そのような「隠れトランプ」とも呼ばれた人々が否定したものこそ「均一と均質」であった、「均一と均質」は民主主義を劣化させる可能性がある、少なくとも彼らはそのように考えた、では何が望ましいのか?
多様性の尊重である
Donald Trumpが多様性の尊重に気付いているかどうかは私にはわからない、だがもしそうでなくとも言論の自由が確保されている限りアメリカ合衆国の民主主義が劣化することはないであろう、事実アメリカでは実に定期的に政権交代が行われている、このことが示唆しているものはきっと私たちが想像するよりも大きな価値を有しているのではないだろうか

正と負は拮抗していなければならない、そして私たちはそれらを包含する普遍的な価値をもし共通の精神的基盤とすることができるのであれば、少なくとも民主主義を肯定する場合、それは「より良い」未来へとつながる可能性が高いのではなかろうか
僭越ながら民主主義の筆頭に来るべき理念とは以下の二つではあるまいか
① 万人に与えられるべき可能な限り平等なチャンスの確保
② 出自またはその属性に一切関係なくその素養及び能力によってのみその人物を評価、判断する
複数の組織、集団がそこにある場合、特定の組織集団に長期にわたって権限が集中することはきっと民主主義のみならず以下のワードの在り方にも影響を与えうるものになると私は思う

幸福

さらに言えば万人のそれぞれの幸福を追求する権利
おそらく権限の集中は長期的には民主主義においてもっとも憂いうべき状況と考えられる「公益に対する私益の優先」が最終的には散見されることになるのであろう
私たちは前世代と次世代との橋渡し役に過ぎない、現世代とは常にそのようなものだ、もし私たちが高度な科学技術発達故に前世代までにはなかったであろう特権をすでに手にしていると考えるのであれば、きっと私たちの中から「私たちだけでここにあるすべての問題の解決を図ろう」とする人が出てくるであろう、だがそれは時に次世代の人々からいくつかの選択肢を奪ってしまうことにもなりかねないであろう、私たちは次世代が引き返すことが可能な地点を確保したうえで次世代にバトンを引き継がせるべきだ、そういう意味では核は要注意である、核は最悪の場合引き返すことが困難になる
社会は1進むことはない、常に社会は0.001ずつ進む、そう、漸進である
ラディカルな動きはラディカルな反動を呼ぶ、そして望ましい結果を得るためには望ましい手続きが重要になる、なるほどこのように考えれば民主主義とは最も理に適った手続きを明文化したものともいえるのであろう、「利」は重要だがそれは「理」と拮抗した状態が最も望ましい、故にある種の制限を権力を有する側に課す必要がある、したがってそこではデータやインフォメーションとほぼ同じだけの影響力を持つメッセージやストーリーが必要になる、そうでなければ「利」と「理」が拮抗することはあり得ない
ここにも重さを見て取ることができる
何の重さか?
言葉の重さである
故にそれは一つの理念として、微調整を繰り返しながら継承されていくことになる、
私たちは日々選択を迫られている、なぜならば救われるべき人の数が尋常ではないほど多いからだ、正直な話そのすべてを救うことはできない
では、どうすればよいのか?
私はこの言葉に一つのヒントがあるように思う

回帰

何処へ回帰するのか?
かつていた場所へ回帰する
そう、故郷へと戻るのである
言うまでもなくこれは原点回帰の考え方と多分に重なる、だがそれをすることで私たちはある地点に近づく

それはゼロ、そう、無一文だった頃の自分である
そのころには何があったのか?
夢?目標?または優秀であったが故の大人たちからの多大なる期待などもあったかもしれない
いずれにせよ、かつての自分を思い出すことでゼロに近い状況にある人間が何を欲しているのかを知ることができる、距離とは「存在」のことであり重さとはその「価値」のことである、この二つは言うまでもなく不可分であり故にこの世に無価値で存在しているものなどないとここで結論付けることはおおよそ可能であろう、ここではリアリズムとロマンチシズムとが至高の均衡を保っている、最高のリアリストとは最高のロマンチスト、ここではそこで展開されるべき言葉が紡ぎ出す理念がほぼすべて曲線的であることが理解できる、なぜならばそこでは比較が成立しないからだ、人生は渦を巻くように曲線的に進行する故に終わりはてっぺんにあるのではなく真ん中にある、だから人生は一周するたびに始点のそばを通過するのである、これは惑星の公転軌道に酷似している(まったく同じではない)
ぐるぐると同じようなところをめぐる、しかし決して上へは行かない、したがってそこでは比較が成立せず、故に勝ち組も負け組も生まれない、そこでは皆が幸福を得るための平等な権利を有する
だが現実には回帰の重要性に気付いている人はほとんどいない、それ故に曲線ではなく直線的に人生を捉える人が大量に増え、そしてそのような人々は比較を肯定することでしか自分の人生の価値を見出すことができないのだ、ここにあるのは「拡大」の積極的肯定であり「循環」の結果的にせよ否定である、そして「より速く」「より多く」についていける人たちだけが得をする世となる

(2)

だがここで私が言う重さは比較を完全否定している
なぜならば命の価値を比較することなどできないからだ、だからゼロへの回帰が必要になる、無一文の人間が何を欲しているのか?
無論、衣食住がその筆頭に来るのだが、これは当然のことである(セレブリティでも衣食住は重要である)ので、その次に来るべきワードを探さなければならない、夢はきっとその筆頭に来てもおかしくないワードであろう
では夢を可能な限り最大に育むために必要なものは何か?
制度としてはここには民主主義が来るが、理念的にはこれが来ることになる

自由

さて自由の反意語とは何か?
ここに来るワードは「安定」ではない、「権威」である
なぜならば夢を基準にした場合の自由とは第一に「選択の自由」を指すからだ
選択の自由とは何か?
これが「人権」である
ここでこの章で登場したすべての重要ワードが民主主義を支持していることがわかる、ここでは「私たちは私たちだけで今ある問題のすべてを解決しようと思ってはならない」が担保となり、漸進が実現する、その結果回帰が俎上に乗り「ゼロ=夢の必要性」を認識する者が、「選択の自由」を最大限に保障させるためにおそらくは民主主義をキーワードに新たな枠組み作りに奔走する
ここでのすべての行為は「命の価値は皆同じ」が絶対条件となっている
では「命」を別の漢字一文字で表すとどうなるか?
答えは「球」である
「球」そこには上下がない、「球」とは完全に平等であるということだ、すべての地点が上であり、すべての地点が下である
完全なる無差別
だが考えてみれば私たちが暮らすこの地球という惑星もまた「球」状ではないのか?
そして「命」はもう一つの論点を浮かび上がらせる
それは「量ではなく質」
命こそ量ではなく質
だから何を為したかではなく、如何に生きたかが問われるのである
前者は成功のことであろう、そして後者は幸福のことであろう
さてどちらを優先させるべきなのであろうか?
無論私たちは食べていかなければならないので現実との間にそのための協調的な一線を引くことが必要になるが、しかしこのことは実は以下の文言を時に想起させることになる

人間としての尊厳

やや大げさな表現になったが、これは21世紀的に考えた場合成功よりも幸福を優先させることが必要であるという認識に至った時に必ずやいつか脳裏に浮かぶ概念であり、「次世代のために」エネルギーを消費しつくさないという引き際の美学にも関連するワードでもある
そしてすべての人が同じ結果を残せるわけではない以上、また経済のパイが長期間にわたって拡大していく保障などどこにもない以上、ここでは以下のワードも認識されることになる

シェアリング

シェアリングとは生活の質を一定の割合で保証していきましょうということである、きっとベーシックインカムなども同じ理念のもとに生まれたワードであろう
人間としての尊厳を最低限維持できるための公共の制度
これはセーフティーネットを連想させるが、もしセーフティーネットが十分に整備されていないのであれば、これは国がその責任においてそれを担っていかなければならないのであるが、それに期待が持てないときは私たち一市民同士が何らかの自発的行動に打って出るべきなのであろう
行政の不備は税の問題も絡むため、たとえそこに不平不満があったとしても実は容易には解決しない、だから市民の力となるのであろう
ここで私は一つの言葉を提唱したい
それはソーシャルヘルパー(social helper)
これは100%個人の主体的行動により構成されている任意の組織であるが故に個々人がそこで認識されるべき社会的な役割を可能な限り合理的に演じ、また頻繁に同じ価値観をもって生きる人々と協力し合い、そこに存在する諸問題(特に社会的な性格の強いもの)を日々解決のために努力する、そのような人々の総称である
だがここでは一つの絶対的ともいえる問題が発生する、彼らソーシャルヘルパーたちは任意の団体であるが故に精神的なバックボーンを最終的には必要とすることになるであろうということである、やはりここでは「信仰」が出てくることになる、無論、ソーシャルヘルパー全員が日本人であるならばここは「道徳」でもよいのだが、世はまさにdiversityの時代である、日本人だけを対象とすること自体やや時代錯誤的な印象が私にはある
だがここでいう信仰には絶対者はいない、唯一の対象として存在するのは神だけである、ここが私の論理の多くの日本人にとってのかなり難解な部分なのであろうが、しかしここで誰か絶対者の登場を暗に期待するのであればすぐにではなくとも彼はいつか多くの支持を得るが故に絶対的な権威を欲するようになるかもしれない、また彼がそうならなくてもその次の代のものがそれを欲するかもしれない、そしてそうなればきっと後戻りできないが故にその組織は内側から瓦解していくのだ
ソーシャルヘルパー=信仰の必要性
だが現時点ではこれは非現実的であるので現時点では日本人だけを対象として道徳をこそ基盤にその運営を一定の社会的地位を持つ一日本人がその指導者として行うべきであろう
これはuniverseに反しているため普遍的な価値を持ちえないが仕方がない、例えば私たちは自宅の半径50m以内に暮らす人々のことを十分に理解しておくべきだ、そこには当然お年寄り、障害者、幼児のいる家庭があるであろう、そしていざ事が起きた場合には彼らの救出に直ちに赴けるように日頃から準備、確認を行っておくべきであろう、広域避難場所はすでにわかっているであろうから、後は人々を非難させるための方法の確保である、無論自動車を使うわけだが、道は混んでいるであろうから二次的な手段も考えておかなければならない、そのように考えると今すぐにやるべきことは案外多い

私たちは過去から学ぶ、だが最も重要なのは明日への備えである

明日救える命が確かにそこにある、問題はそれを認識できているか否かである
そのような意味でも日常生活においても最も重要なのはその質をいかにして上げていくかであり、量の確保とは一線を画するという印象がある

Quality of life

ここにあるのは幸福の追求であり利益の確保ではない、故に人権そして自由となるのであるが、ここはprofitではなくbenefitであるべきだ、そういう意味ではprofitもbenefitも「利益」と訳される日本語を使う私たちがこのあたりのところを理解するには多分ひと工夫必要になるのかもしれない
僭越ながら「自由」の反意語が「権威」ならば自由とは「自己を理想的に規律する」と解釈されるべき性格のものだ、だがここにはどうしても信仰の一端が垣間見えるように思える、信仰を知らずして「自由とは何か?」を論ずることができるのか?
そして自由の延長線上にある人権の意識が薄弱なままではソーシャルヘルパーという考え方自体、長期的には衰退していくものと考えられる、しかし自然災害がことのほか多い我が国日本において、制度のみに災害対策の全般が依存することはきっとそこから零れ落ちるものも多いと考えられるのでやはり個人的には私たちの日常の認識を高めていくしかないのであり、故にそこでは量ではなく質の追求、つまりprofitからbenefitへの転換(「利益」と聞いたらまずbenefitが思い浮かぶ)が必要ではないかと思うのであるがいかがであろうか

『未来人への手紙(2)』

『未来人への手紙(2)』 織部 和宏 作

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-07-11
Copyrighted

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