未来人への手紙(2)

第二章 負の肯定、洞察について

第二章 負の肯定、洞察について(1)(2017/01/02)


さて第一章では、長さつまり対象との距離について述べた
故に最終的には信仰にまで辿り着いたわけであるが、第一章のキーワードは以下の文言となる

万物は対象を求める

物事は如何なるものであれ二つの側面を持つ
それを肯定的に見るのかそれとも否定的に見るのか、または短期的に見た場合と中、長期的に見た場合とでも異なる結論に至るであろう
これは「そこに対象があるから」という理由付けがなされない限り上手く説明できない考え方だ、しかし「万物は対象を求める」を受け入れることさえできれば自分に対して否定的な態度をとる人への対応の仕方もまたおのずと柔軟に変化していくものと推測される
多くの人の場合「対象」とは「利」をもたらすものと解釈されているようだが私の場合ここには「利」ではなく「善」が来る、故に「成功」ではなく「幸福」が人生の目標の筆頭に来るわけであるが、成功は99.9%独力のみでは達成することが不可能であるのに対し、幸福はある程度の工夫が必要になるとはいえほぼ独力でその目的を達成することが可能である、そういう意味では成功は中央集権的つまり都会志向で一方通行であるのに対し幸福は地方分権的つまり地元志向でありインタラクティヴであるとおおよそ定義づけることができるのかもしれない

このことはネット社会とも密接にリンクしており、ネットがほんとうにインタラクティヴを実現できるのであれば、ネットは幸福をこそ志向する人々の良いサポートツールになれると思うのだが、実際にはネットを成功のために使おうと思っている人の方が圧倒的に多いように思えるので、両者間においてかなりの齟齬が生じているようだ
なるほど「対象」が「幸福」を意識する限りにおいてどうやら「信仰」とは無縁ではいられないようだが、天国に預金通帳を持っていける保証がおそらく永遠に不明確である以上私たちは最終的には「成功」か「幸福」かの選択を迫られずにはおられないのであろう
ここは幾分断定的な表現を使っても差し支えないのであろうが、成功者と幸福者とでは以下の存在がやや異なる結果となって現れるかもしれない

良き後継者

例え成功してもそこに幸福がない場合そこには良き後継者は生まれないかもしれない、良き後継者に恵まれるためには第一に彼が幸福であることが求められる、良き後継者は「利」ではなく「理」を引き継ぐ、それは「万人のために」であり、故にそこには「普遍」またはかなりそれに近い理想がある
やや意地悪な言い方になるが環境問題は実にこの辺りのところをうまく人類に示唆しているように思える、まるで神が意図的にそう仕組んだかのようでさえある
環境問題は温室効果ガスの問題だけではない、産業廃棄物の問題、ここにはきっと核のゴミの問題も入る、また海洋汚染の問題もあるようだ
さらに資源の問題が今後急浮上してくるであろう、エネルギーという点で22世紀以降の人々の取り分はうまく確保されているのであろうか?
再生可能エネルギーはほんとうに化石燃料や原子力エネルギーに代わるだけの十分な熱量を21世紀後半以降を生きる人々に供給していけるのであろうか?
人口はもうすぐ80億に達する、食料もエネルギーもそれらの需要を満たすだけの供給を21世紀前半を生きる人々は後世の人々に約束できるのであろうか?
もしできないのであれば私たちは新たな幸福の定義を行う必要性に迫られるのかもしれない、「より速く」「より多く」に変わる何かを、である
それが物理的に可能であるのだとしても火星や木星の四衛星などから人類が使用可能な資源を持ってくることにはやはり慎重でなければならないと思う
なるほどここで「循環」が出てくることになる
「拡大」や「追求」はもしかしたらこれ以上は無理なのかもしれない、それは未来人のためにはならない
「循環」「分配」そして「多様性の尊重」
「より速く」「より多く」から「より慎重に」「より寛大に」への認識のシフト
これはインタラクティヴを肯定する動きであり、故に地方分権となる
だがここでそれに対する抵抗勢力が現れるであろうことは容易に想像できる、いわゆる既得権益を守ろうとする人々のことである
彼らは決して少数派ではない
守旧派と改革派との対立
それは最終的には戦争にまで発展するのであろうか?
そこまでいかないのだとしても人口が今後も増え続けることが危惧される以上そこでは食料とエネルギーの時に醜い争奪戦が繰り広げられるのであろう
だから私の場合「信仰」が出てくる
これは一定以上の感情の動きや瞬間的な情念を抑制することにつながる、だがそれについて述べると膨大な量になるためここではこれ以上述べずに次に進みたいと思う

第一章では「万物は対象を求める」がその理解のための重要な文言となったが第二章では以下の文言がキーとなる

負の肯定

負とは何か?
それは怒りを筆頭とする、憎悪、蔑み、怨恨、嘲り、嘘、暴力、妬み、裏切り、盗み、差別、故意に人を傷つけること、違反していると知りながら法を破ること、本人が望んでいないのにその過去を暴くこと、負の結果が出ることが明らかなのにそのことを当人に示唆しないこと、そのようなことすべてである
私はこれらすべてを肯定するのである
なぜか?
その理由を以下述べていきたい
以下第一章の最後でついにお目見えしたワードである「信仰」がしばしば登場することになるが何卒そのまま読み進んでいっていただけると有り難い
物事は如何なるものであれすべて二つの側面を持つとすでに書いた
これはどのような概念であってもそれと対になる概念が必ずあるのであり、つまりその両者を伴に吟味することなく何事であれ安易に結論を引き出してはならないということである、おそらく私たちは正の結果が出た時にはそれを半ば当然のものとして捉え、しかし負の結果が出た時にはそれを簡単には受け入れられないということが言ってみれば習慣として身についているようだ、だから雨の日には実際にはそれは時に恵みの雨であるはずなのに、運が悪いと考え、しかしその一方で晴れたからといって感謝の気持ちを持つということも少ない、このことは私たち21世紀初頭を生きる者たちが正の要素ばかりを重んじ負の要素をともすれば軽んじ続けてきたことの結果的な表れであるのかもしれない
ここでいう正とは何か?
それは繁栄であり、また時には平和であり、また時に安全であろう、そしてしばしば民主主義であろう
だが僭越ながらここにそれに対立する概念が日常的に現れない限り私たちが今当然と思っているものは徐々に劣化していくのであろう

私は思う
正の対立概念である負はその主体が信仰の重要性に気付いている限り、最終的には後継者に委ねることが可能な何らかの肯定的に評価すべき要素を生み出すことに成功する
ただここで問題なのはそこに存在する肯定的に評価すべき要素が私たちの間において普遍的な価値を有するようになるまでには途方もない時間が必要になるため、ここにおけるすべての実践はおおよそ孤独な戦いになるであろうということである
なるほどここで私のこだわりである「善」が実に「夢」に似ているということがある程度証明されたようだ、夢追い人の隣に常に座っているのは栄光ではなく孤独である、これはすでに一定の成功を収めた者でもおそらく変わりあるまい
孤独はしばしば孤立であり孤立は先に挙げた多くの負の要素の範疇に必ずしも収まるものではないとはいえ日常において私たちが可能ならば敬遠したいもののその上位に来るもののうちの一つであることには変わりがない
夢追い人が知っているものは何か?
それは「捨てる」ことである
「捨てる」ことでその対象が一本化され彼は一貫性のある日常を手に入れる
夢は「あれも、これも」を許容しない、そして確固たる意志は時に犠牲をも厭わない、このことは夢を叶えるということがいかにその意志のみならず同時に辛抱強さと時の運に依るものであるかを私たちに連想させる
また夢を夢見た通りに適える人はきっと多くないとここで言い切ることはもしかしたら可能であるのかもしれない、ほとんどの成功者はどこかで取引に応じ、その結果カスタマイズされた夢の真ん中を走り抜けている人たちであろう
したがってここで以下のように定義することもできるのであろう

『「夢」はきわめて「善」に似ているが、その本質においてもそう言い切れるのは夢をそのままの状態で追い続けている人たちだけである』と(以下、この章ではHとする)

すでに私はNakedという言葉を使っている、ここでこの言葉を再び使うことも可能であろう
なぜNakedになるのか?
それはHに当てはまる人は前章のGつまり「自分が何を好きで何をやりたいか」が明確にわかっているからだ、おそらく自信を失えばそこに迷いが生じる、そして迷いは一定の確立で嘘を呼び込む、嘘は負の要素の一つであるのでそこに「信仰」が生まれない限りそれが正に変化することはない
ここは表現にやや慎重になるべき部分だ
おおよそすべての物事には二つの側面がある
「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」である、そしてこの21世紀初頭においては前者が後者を大きく引き離しつつある、私にとっては悲しむべきものでしかないこの惨状はしかし今や我が国日本においても絶望的な領域に近づきつつある
したがってここで以下のように定義することもまた可能なのかもしれない

この2018年において社会を吹き抜けるいわゆる流行(モード)はほぼ「数えられるものの価値(数値化可能)」によって構成されている(以下、この章ではIとする)

これは私たちが「信仰」から徐々に離れつつあることを如実に示しているのであり、それ故にその本質においては善とは異なる夢がしかし夢という看板は背負ったまま大通りを闊歩し続けているということをもまた同時に表しているのである
おそらくこのままではこの章の重要な文言である負の肯定はほとんど意味をなさない、負の肯定にはどうしても「信仰」が必要になるのだ
なぜ信仰が必要なのか?
善を行うためにはそこに普遍的な対象が必要になるからだ、そこに普遍的な対象がなければ善も夢もいつしか「利」故に外見はそのままだがその本質においてはまったく別物の、つまり「良き後継者」を必ずしも育まない「巨大だが空疎」な対象物として「『今』を知るがしかし『次』を考えない人々」によってのみ引き継がれていくことになる
そして以下のワードが徐々に失われていく

重さ

ここには当然命の重さがまず来るが、同時に長さ=距離の対の概念として当て嵌まるもののすべてが想起されることとなる
目に見えるものも目に見えないものもすべてそこには重さがある、これはそれが有する質量とはまったく別個の論理である、無論、中には限りなくゼロに近いものもあるのであろうが私たちが知りうるもので完全ゼロのものなど何一つない、すべてが何らかの重さつまり価値を有して存在している、だから万物は対象を求めるとなるのである
この概念を絶対的な前提として論述を展開していくとなれば、「在る」ものは常に「二」が最小の単位ということになる、故に重さも「a」=こちら側と「b」=あちら側との合計数が認識されるべき数値ということになる、ここにまた重要なワードが登場することになる

拮抗

「a」 と「b」には無論任意の対象物が入るがいずれにせよその両者はその力関係において拮抗していなければならない、実はここでもっともそのよい例として挙げられるのが政治の世界における与党と野党の関係における図式である
与党と野党とはその力関係において拮抗して然るべきである、なぜならばそうなることで以下のことが実現するからだ

浄化

最も多くの力を持つ者がその次に力を持つ者と(定期的に)然るべき主役の座を交代することでそこで特に精神面での浄化が起きる、ここは目に見えないものに属する範疇であるが、言うまでもなく政権が交代すれば政策に携わる人が変わる、このことは長期的には民主主義の劣化をこそ押し留める効果があると考えられる
なぜならばアメリカ合衆国の歴史がそれを証明しているからだ、Donald Trumpの当選はHilary Clintonの当選によるワシントンの行政府の質の劣化を危惧した人々による通常とは異なる投票行動の結果生まれたものだ、そのような「隠れトランプ」とも呼ばれた人々が否定したものこそ「均一と均質」であった、「均一と均質」は民主主義を劣化させる可能性がある、少なくとも彼らはそのように考えた、では何が望ましいのか?
多様性の尊重である
Donald Trumpが多様性の尊重に気付いているかどうかは私にはわからない、だがもしそうでなくとも言論の自由が確保されている限りアメリカ合衆国の民主主義が劣化することはないであろう、事実アメリカでは実に定期的に政権交代が行われている、このことが示唆しているものはきっと私たちが想像するよりも大きな価値を有しているのではないだろうか

正と負は拮抗していなければならない、そしてそれらを包含する普遍的な価値をもし私たちの共通の精神的基盤とすることができるのであれば、少なくとも民主主義を肯定する場合、それは「より良い」未来へとつながる可能性が高いのではなかろうか
僭越ながら民主主義の筆頭に来るべき理念とは以下の二つではあるまいか
① 万人に与えられるべき可能な限り平等なチャンスの確保
② 出自またはその属性に一切関係なくその素養及び能力によってのみその人物を評価、判断する

複数の組織、集団がそこにある場合、特定の組織集団に長期にわたって権限が集中することはきっと民主主義のみならず以下のワードの在り方にも影響を与えうるものになると私は思う

幸福

さらに言えば万人のそれぞれの幸福を追求する権利
おそらく権限の集中は長期的には民主主義においてもっとも憂うべき状況と考えられる「公益に対する私益の優先」が最終的には散見されることになるのであろう
私たちは前世代と次世代との橋渡し役に過ぎない、現世代とは常にそのようなものだ、もし私たちが高度な科学技術の発達故に前世代までにはなかったであろう特権をすでに手にしていると考えるのであれば、きっと私たちの中から「私たちだけでここにあるすべての問題の解決を図ろう」とする人が出てくるであろう、だがそれは時に次世代の人々からいくつかの選択肢を奪ってしまうことにもなりかねないであろう、私たちは次世代が引き返すことが可能な地点を確保したうえで次世代にバトンを引き継がせるべきだ、そういう意味では核は要注意である、核は最悪の場合引き返すことが困難になる
社会は1進むことはない、常に社会は0.001ずつ進む、そう、漸進である
ラディカルな動きはラディカルな反動を呼ぶ、そして望ましい結果を得るためには望ましい手続きが重要になる、なるほどこのように考えれば民主主義とは最も理に適った手続きを明文化したものともいえるのであろう、「利」は重要だがそれは「理」と拮抗した状態が最も望ましい、故にある種の制限を権力を有する側に課す必要がある、したがってそこではデータやインフォメーションとほぼ同じだけの影響力を持つメッセージやストーリーが必要になる、そうでなければ「利」と「理」が拮抗することはあり得ない
ここにも重さを見て取ることができる
何の重さか?
言葉の重さである
故にそれは一つの理念として、微調整を繰り返しながら継承されていくことになる、
私たちは日々選択を迫られている、なぜならば救われるべき人の数が尋常ではないほど多いからだ、正直な話そのすべてを救うことはできない
では、どうすればよいのか?
私はこの言葉に一つのヒントがあるように思う

回帰

何処へ回帰するのか?
かつていた場所へ回帰する
そう、故郷へと戻るのである
言うまでもなくこれは原点回帰の考え方と多分に重なる、だがそれをすることで私たちはある地点に近づく

それはゼロ、そう、無一文だった頃の自分である
そのころには何があったのか?
夢?目標?または優秀であったが故の大人たちからの多大なる期待などもあったかもしれない
いずれにせよ、かつての自分を思い出すことでゼロに近い状況にある人間が何を欲しているのかを知ることができる、距離とは「存在」のことであり重さとはその「価値」のことである、この二つは言うまでもなく不可分であり故にこの世に無価値で存在しているものなどないとここで結論付けることはおおよそ可能であろう、ここではリアリズムとロマンチシズムとが至高の均衡を保っている、最高のリアリストとは最高のロマンチスト、ここではそこで展開されるべき言葉が紡ぎ出す理念がほぼすべて曲線的であることが理解できる、なぜならばそこでは比較が成立しないからだ、人生は渦を巻くように曲線的に進行する故に終わりはてっぺんにあるのではなく真ん中にある、だから人生は一周するたびに始点のそばを通過するのである、これは惑星の公転軌道に酷似している(まったく同じではない)
ぐるぐると同じようなところをめぐる、しかし決して上へは行かない、したがってそこでは比較が成立せず、故に勝ち組も負け組も生まれない、そこでは皆が幸福を得るための平等な権利を有する
だが現実には回帰の重要性に気付いている人はほとんどいない、それ故に曲線ではなく直線的に人生を捉える人が大量に増え、そしてそのような人々は比較を肯定することでしか自分の人生の価値を見出すことができないのだ、ここにあるのは「拡大」の積極的肯定であり「循環」の結果的にせよ否定である、そして「より速く」「より多く」についていける人たちだけが得をする世となる

(2)

だがここで私が言う重さは比較を完全否定している
なぜならば命の価値を比較することなどできないからだ、だからゼロへの回帰が必要になる、無一文の人間が何を欲しているのか?
無論、衣食住がその筆頭に来るのだが、これは当然のことである(セレブリティでも衣食住は重要である)ので、その次に来るべきワードを探さなければならない、夢はきっとその筆頭に来てもおかしくないワードであろう
では夢を可能な限り最大に育むために必要なものは何か?
制度としてはここには民主主義が来るが、理念的にはこれが来ることになる

自由

さて自由の反意語とは何か?
ここに来るワードは「安定」ではない、「権威」である
なぜならば夢を基準にした場合の自由とは第一に「選択の自由」を指すからだ
選択の自由とは何か?
これが「人権」である
ここでこの章で登場したすべての重要ワードが民主主義を支持していることがわかる、ここでは「私たちは私たちだけで今ある問題のすべてを解決しようと思ってはならない」が担保となり、漸進が実現する、その結果回帰が俎上に乗り「ゼロ=夢の必要性」を認識する者が、「選択の自由」を最大限に保障させるためにおそらくは民主主義をキーワードに新たな枠組み作りに奔走する
ここでのすべての行為は「命の価値は皆同じ」が絶対条件となっている
では「命」を別の漢字一文字で表すとどうなるか?
答えは「球」である
「球」そこには上下がない、「球」とは完全に平等であるということだ、すべての地点が上であり、すべての地点が下である
完全なる無差別
だが考えてみれば私たちが暮らすこの地球という惑星もまた「球」状ではないのか?
そして「命」はもう一つの論点を浮かび上がらせる
それは「量ではなく質」
命こそ量ではなく質
だから何を為したかではなく、如何に生きたかが問われるのである
前者は成功のことであろう、そして後者は幸福のことであろう
さてどちらを優先させるべきなのであろうか?
無論私たちは食べていかなければならないので現実との間にそのための協調的な一線を引くことが必要になるが、しかしこのことは実は以下の文言を時に想起させることになる

人間としての尊厳

やや大げさな表現になったが、これは21世紀的に考えた場合成功よりも幸福を優先させることが必要であるという認識に至った時に必ずやいつか脳裏に浮かぶ概念であり、「次世代のために」エネルギーを消費しつくさないという引き際の美学にも関連するワードでもある
そしてすべての人が同じ結果を残せるわけではない以上、また経済のパイが長期間にわたって拡大していく保障などどこにもない以上、ここでは以下のワードも認識されることになる

シェアリング

シェアリングとは生活の質を一定の割合で保証していきましょうということである、きっとベーシックインカムなども同じ理念のもとに生まれたワードであろう
人間としての尊厳を最低限維持できるための公共の制度
これはセーフティーネットを連想させるが、もしセーフティーネットが十分に整備されていないのであれば、これは国がその責任においてそれを担っていかなければならないのであるが、それに期待が持てないときは私たち一市民同士が何らかの自発的行動に打って出るべきなのであろう
行政の不備は税の問題も絡むため、たとえそこに不平不満があったとしても実は容易には解決しない、だから市民の力となるのであろう
ここで私は一つの言葉を提唱したい
それはソーシャルヘルパー(social helper)
これは100%個人の主体的行動により構成されている任意の組織であるが故に個々人がそこで認識されるべき社会的な役割を可能な限り合理的に演じ、また頻繁に同じ価値観をもって生きる人々と協力し合い、そこに存在する諸問題(特に社会的な性格の強いもの)を日々解決のために努力する、そのような人々の総称である
だがここでは一つの絶対的ともいえる問題が発生する、彼らソーシャルヘルパーたちは任意の団体であるが故に精神的なバックボーンを最終的には必要とすることになるであろうということである、やはりここでは「信仰」が出てくることになる、無論、ソーシャルヘルパー全員が日本人であるならばここは「道徳」でもよいのだが、世はまさにdiversityの時代である、日本人だけを対象とすること自体やや時代錯誤的な印象が私にはある
だがここでいう信仰には絶対者はいない、唯一の対象として存在するのは神だけである、ここが私の論理の多くの日本人にとってのかなり難解な部分なのであろうが、しかしここで誰か絶対者の登場を暗に期待するのであればすぐにではなくとも彼はいつか多くの支持を得るが故に絶対的な権威を欲するようになるかもしれない、また彼がそうならなくてもその次の代のものがそれを欲するかもしれない、そしてそうなればきっと後戻りできないが故にその組織は内側から瓦解していくのだ
ソーシャルヘルパー=信仰の必要性
だが現時点ではこれは非現実的であるので現時点では日本人だけを対象として道徳をこそ基盤にその運営を一定の社会的地位を持つ一日本人がその指導者として行うべきであろう
これはuniverseに反しているため普遍的な価値を持ちえないが仕方がない、例えば私たちは自宅の半径50m以内に暮らす人々のことを十分に理解しておくべきだ、そこには当然お年寄り、障害者、幼児のいる家庭があるであろう、そしていざ事が起きた場合には彼らの救出に直ちに赴けるように日頃から準備、確認を行っておくべきであろう、広域避難場所はすでにわかっているであろうから、後は人々を非難させるための方法の確保である、無論自動車を使うわけだが、道は混んでいるであろうから二次的な手段も考えておかなければならない、そのように考えると今すぐにやるべきことは案外多い

私たちは過去から学ぶ、だが最も重要なのは明日への備えである

明日救える命が確かにそこにある、問題はそれを認識できているか否かである
そのような意味でも日常生活においても最も重要なのはその質をいかにして上げていくかであり、それは量の確保とは一線を画するという印象がある

Quality of life

ここにあるのは幸福の追求であり利益の確保ではない、故に人権そして自由となるのであるが、ここはprofitではなくbenefitであるべきだ、そういう意味ではprofitもbenefitも「利益」と訳される日本語を使う私たちがこのあたりのところを理解するには多分ひと工夫必要になるのかもしれない
僭越ながら「自由」の反意語が「権威」ならば自由とは「自己を理想的に規律する」と解釈されるべき性格のものだ、だがここにはどうしても信仰の一端が垣間見えるように思える、信仰を知らずして「自由とは何か?」を論ずることができるのか?
そして自由の延長線上にある人権の意識が薄弱なままではソーシャルヘルパーという考え方自体、長期的には衰退していくものと考えられる、しかし自然災害がことのほか多い我が国日本において、制度のみに災害対策の全般が依存することはきっとそこから零れ落ちるものも多いと考えられるのでやはり個人的には私たちの日常の認識を高めていくしかないのであり、故にそこでは量ではなく質の追求、つまりprofitからbenefitへの転換(「利益」と聞いたらまずbenefitが思い浮かぶ)が必要ではないかと思うのであるがいかがであろうか

(3)

さてここからはこの章のテーマである「重さ=価値」を理解するための幾つかの関連するワードを連続して述べていきたい
おそらく読者諸君はここまで読み進んでこられたのだから、すでにここで述べられているすべての論考がある一つの明確な性格を帯びていることに気付いておられるであろう、それは以下のように説明することが可能であるかもしれない

私的幸福論

そう、あくまでも「私的な」幸福論である、だが僭越ながらそれでも尚私がここに自分の観念的と指摘されても仕方がないやや哲学めいたエッセイを書き連ねているのはそこにある種の普遍性が宿っているのではないかと考えるからである
もしこの私の考えに誤りがないのであればすでに記したものも含め、ここに読者諸君が目を通しているすべての論述が最終的にはpublic benefitに精神的な意味で適うということになる、なるほどここで私はやや独善的とも受け取られかねないこれらの論述をさらに記すうえで読者諸君が必ずや得られるであろうbenefit(正の読後感のようなもの)について一言述べなければならないのであろう

想像していただきたい、ここに半分だけ水の入ったコップがある
ここでは以下の二つの考え方が想定される

① まだ半分水が残っている
② もう半分しか水が残っていない

最初に断っておかなければならないであろう、この二つはいずれも同じだけ正しいのである
しかしこの二つは言うまでもなく対照的な性格を備えている
前者はコップの中の水を「ある」部分を認識の真ん中に据えているのに対して後者は「ない」部分を真ん中に据えている、当然前者はまだ残っている水を有効活用しようと試みるであろうし、また後者はどこからか水を持ってきて足りない部分を補おうと試みるであろう、なるほどそういう意味では前者は「静」を後者は「動」を司っているともいえるかもしれない

そして、私は前者の側に立っているのである

「まだ半分残っているではないか」という考えはつまり現状の諸条件の積極的援用を試みようとする考えである、ここでは「足るを知る」と同時に、もうひとつの重要な要素が潜んでいる、すでに私はその言葉を記している

シェアリング

なぜこうなるのか?
シェアリングとは「分配」のことだが、「分配」とは「拡大」の反意語である「循環」と概念的にはその底辺において強く結びついている、ここは大局的には環境問題とも絡む部分なのだがそれをここでは横に置くとしても、ここにある「そこにすでにあるものを(最大限に)活用する」には、これを私的幸福論と位置づけした場合にある一つの精神的な動きを喚起しうるものと考えられるのだ

それは引き際の美学

これ以上進むことはできるしまたその意思もあるのだが、「敢えて」それをしない
ここで確認しておかなければならないのは、これは「最初から諦める」とは明確に一線を画しているということである
「それができるのにしない」
ではなぜこうなるのか?

ここにはまたこの言葉が続くことになる

Diversity

ではdiversityとは何なのか?
私に言わせれば、これである

待つ

そう、diversityとは「待つ」ということである、だがそう思えないのは、スマートフォンの急速な普及によるネット環境の整備つまり日常生活における(究極の)利便性の蔓延が現時点では私たちの目をそうあるべき方向とはまったく逆の方向へと向けさせているからだ
「IoTの陥穽」ともいえるこの実は歓迎すべきではない現状は、しかしもしこのまま事が想定通りに進行していけば少なくとも当分の間私たちから「待つ」を奪い続けるであろう
この私にすれば悲劇的としか思えない、しかし多くの健常者たちにとっては好ましいものであり続ける「表面的diversity現象」はその一方でそれについていけない人々を置いてきぼりにしたままそれでもなお進行していくのであろう

ここでまた「引き際の美学」が登場する、すでに読者諸君おわかりのようにここでは「理」が「利」を上回っている、故に「量ではなく質」なのである、僭越ながらここに幸福の本質がある、成功をあくまでも望む人々には申し訳ないが、物質的には来るところまで来たと思えるこの2018年において(だからモノではなくコトとなるのだ)、キャリアアップには必ずしもつながらない(つながる)であろうようなことを「敢えてする(しない)」は、人口100億をも視界に入った今人生の根本的な課題を私たちに必ずや想起させる

それは、人はいかに生きるべきなのか?
である

なるほどここを完全に無視して手の届くところにある自分にのみ都合の良い温もりに自分の持つ時間のすべてを充てるということが客観的に見て今間違っていると断言することは誰にもできない、しかしだからこそ個人の選択が意味を持ってくるのだ

人はいかに生きるべきなのか?

だがここでは「如何に生きたか」が「何を為したか」上回らなければならない
私はすでに半分だけ水の入ったコップでは「まだ半分ある」を支持すると書いた、だからこのような結論になるのだが、もし今後も「分配」(シェアリング、ウーバーがそれを体現している)ではなくあくまでも「拡大」を支持し続けるのであれば、この21世紀私たちが直面している二つの課題、貧富の格差問題と環境問題のみならず食糧問題も一向に解決の方向へとは進まないであろう、これは人生の価値の問題でもあり、また命、生活の重さの問題でもあろう、そしてやはりこの角度から検証しても民主主義が出てくる

その出自または属性に一切かかわらずその素養及び能力によってのみその人物を評価しまた判断する

この実に根源的な問いはしかし「命の価値の平等」を唱える時、僭越ながら必ずや想起されなければならないものであろう
なぜ特定の人または特定の組織、団体に属している人々にだけ発言権が与えられるのか?
それはそこに民主主義のルールがあるからだ
故に民主主義とは以下の三要件を満たしていなければならない

① 主権在民
② 言論、表現及び信仰の自由の保障
③ 直接普通選挙の定期的な実施

これは「自由」の反意語が「権威」であるという認識に立ってはじめて成立する定義でもある、そしてここから理想が始まる、それを体現しているのが議会であるがこの私論でそこまで踏み込む必要はないであろう

ではここからは半分だけ水の入ったコップを「半分しかない」と考える人々について考察していこうと思う
すでに「まだ半分残っている」も「もう半分しかない」も両方同じだけ正しいと書いた、したがってここからは私とは違う見解を持つ人々について述べることとなる
まず確認しておかなければならないのは、「まだ半分残っている」(この章では以下aとする)と「もう半分しかない」(この章では以下bとする)の相違点はそこにある負をどのように解釈しているかということである
半分しか水が入っていいないのだから当然全体の二分の一は空である、この空を意識上においてどのように精神的に運用していくかにこの両者の違いのほぼすべてがあるといっても過言ではない、ここでは両者ともにそこにある事実を主体的に捉えまた分析しているという前提で論考を進めるが、もしそうであればbはaよりも多く現状に対策のためのエネルギーを投入していると考えられるということである、なぜならばbは残りの半分を埋めるべく何らかの手段の模索を試みていると考えられるからだ、明らかにbはaよりも多く「ない」を意識している、そして少なくとも「ない」は肯定すべきものではないと解釈している、ここでは二つの言葉が想起される、「結果」と”full”である
またbを支持する人々は一定の割合で「拡大」を意識していると見做すことも可能であると思われる、ここではおそらく直線的思考がその対の概念である曲線的思考を上回っており、それは「上⇔下」または「中央⇔地方」といった暗黙の認識の存在を比較的強くそこに匂わせている
私はaを支持すると明言しているので当然bの支持勢力に対してはやや批判的な姿勢を取らざるを得ないが、思い切った発言を許していただけるならば環境問題が年を経るにしたがって次第により多く取り上げられている現状を鑑みてもaを二十一世紀的な、そしてbを二十世紀的な現実に対するアプローチの仕方であると解釈することも可能であるのかもしれない
だが民主主義を肯定する以上はそこに必ずや存在するであろう守旧派とも記すべき従来の価値観の継承を望む人々の発言権を一方的に遮断することは当然言論の自由という観点からも不都合なことでしかなく、故にここでは両者拮抗という力関係の肯定を是とせざるを得ないのである
やや回りくどい言い方になっているがしかしおそらく相対的に見た場合この21世紀初頭においてbの支持勢力の方が数的優位を保っているのは明白であろう、windouws95以降のIT革命の余波はティーンエイジャーの億万長者を輩出しようかという域にまで達しており、そのような可能性を持つ若者たちがaを支持するとは正直考えにくい、しかしここで私がにもかかわらず長々とこのような考察を続けているのは明らかにaにのみあると思われるある精神の運用の形態をそこに認めることができるからである

それは、抑制

「抑制」は言うまでもなく「拡大」の対象概念である「循環」を支持するものであり、それは「引き際の美学」とも相まって「上⇔下」または「中央⇔地方」という、この21世紀初頭の二つの人類に突き付けられた課題「貧富の格差問題」と「環境問題」の解決を考えたときにマイナスの意味しか持たないであろう現実に対する認識のそのままの形での次世代への継承に文字通り警鐘を鳴らすものとなり得るはずである
「抑制」とはつまり「負の肯定」の一端を担うものであり、またaを”not full”であるにもかかわらずそこに何らかの価値を見出すという、いってみれば以下のワードを想起させる実は重要な意味を持っていると私には思われるのである

Diversity

おそらくここで以下のような論述を試みることは決して無益なことではあるまい

私たちは多くの情報に日々接している(2018/02/01)
それらは一部においては十分な客観性に欠けるものもあるにもかかわらず、私たちの日々の判断材料になるべく少なくともその時点における影響力を多かれ少なかれ発揮しながら私たちの前を通り過ぎていく、また私たちにはそれらが十分な客観的信用性を持っているかを個別に精査することはほぼできないままその発信源の社会的な位置付けだけを頼みにその情報を信用したり、半ば信用したりまたはほとんど信用しなかったりしている、特にネットが社会の隅々にまで普及した現在、本来抑制的であるべきはずの情報の発信という行為がかなり恣意的な形のまままた発信後にそれらが顧みられることのないまま、やり過ごされるという状態が続いているように私には思われる
では本来情報というものはどのように扱われるべきなのか?

おそらく情報だけではあるまい、任意の一個人または一組織から「外」に向けて何らかの力が行使されるときそれらは一定の抑制的な性質を帯びていなければならないと私は思う、そうでなければそれらの力が「内」に入るときにそこに誤解が生じたり、または不必要な感情の動きを誘発させてしまう恐れがあるからだ
つまり情報にせよ行為にせよ力が外側に向けて発せられるときにはそこでは感情を抑えた抑制的な動きによってそれらが為されることが望ましいということになる
おそらくこういうことであろう
情報も行為も、それらは芸術やスポーツも含めてそれらが「外」へ向けて発せられるときにはそれらは「一定の二次元的、無機質的性質」を帯びているべきである、そうすることによってそこには抑制が生まれ、またルールがある場合にはその遵守も生まれる、どんなに感動的な場面でも実況アナウンサーが泣き出してしまってはそれは台無しになってしまう、「外」へ向けて発せられる力は如何なるものであれそれが「内」へ入るときにはその姿を変えることで印象深いものとしてその脳裏に刻まれることとなる
無論ここには少なくとも一つだけ例外扱いされるべきものがある
それは絵本である、絵本はそれ自体が三次元的有機質的性質を帯びているために、心のフィルターがない幼児でも感動することができるのだ

さてそのように考えると、では感動とはどのように人に伝わるのであろうか?

私は思う、明日への糧ともなるべき感動とは実はそれが「外」へと向けて発せられるときではなくそれが「内」へと入って来るときに醸成されるべきものであると
したがってここで必要になるのが心のフィルターである、この心のフィルターは無論善的な要素によって構成されていなければならないがそれについては一旦横に置くとしても、彼がその情報や行為から何らかの正の価値を引き出そうと思うのであれば、彼はそれらの抑制された「一定の二次元的、無機質的性質」であるべきものから、彼の感性によって解釈された「三次元的、有機質的」なものを引き出すその変換を試みる必要がある、ここで頼りになるものとして経験をあげることができるがおそらくそれよりも重要なものがあるであろう
それは彼の個性である
ここでは知識や経験よりも感性や個性の方が優先されるべきだ、なぜならば感性や個性は幸福と同様千差万別のものであるからだ、そこに一万人いたらそこには一万通りの感性と個性があるということになる、そして幸福もまたそこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形があるのである
おそらくこの心のフィルターがなければ芸術というものは、その彼にとってはすべて同じようなものにしか見えないしまた聴こえないであろう、ラファエロもレンブラントもアングルも同じようにしか見えないし、またJ.Sバッハもモーツァルトもブラームスも同じようなものにしか聴こえないであろう
ここで心のフィルターに相通ずる言葉を私たちは想起することができる、それはオリジナリティである、心のフィルターを会得した者は正の感動を知ることでやがて自分だけの世界をその感性のうちに築くことになる、それは当初においては多分に空想的な世界ということができるが、だが彼がそこから経験を多く積むことによってそれは時に現実の荒波に翻弄されながらも彼がオリジナルティを知る者だけが知る理想を失うことがなければ、いつか時を超えて評価されるであろう何か、つまりimaginationとcreationの産物を後世に残すかもしれない

縦軸に心のフィルターがあり横軸にオリジナリティがある、前者は感性であり後者は個性である、この二つが揃って初めてそこに彼の幸福につながる道の入り口が彼におそらくは暗喩(メタファー)的に示される、ここで強調しておかなければならないのはここで彼に示されるべきものは如何なるものであれ数値化不可能なものであるということである、だが現実には感性や個性を磨くことよりも重要なことがあると大人たちによって錯覚させられた若者たちが多数を占めているために、理想を知る者こそが少数派、いや時には異端として排除の一歩手前に甘んじなければならない残念なこととなっている(2018/02/05)
この21世紀初頭の現実は日々変化しつつある、二十歳前後の若者が老後を案じても誰も嗤わない、「来年の事を言えば鬼が笑う」は過去のものとなりつつある、当然長寿とは喜ばしいことなのだが、しかしその一方で「老い」は必ずやってくることを考えるとそこには悲喜こもごもの状況がすでに垣間見えているようだ

感性プラス個性は数多の紆余曲折を経てそこにおける彼にしかわからない法則の発見につながる、ここは重要なところだ、私は感性プラス個性からチャレンジが生まれると考えている、しかもそこには感動があるため、それは損得勘定を抜きにした純粋な個の確立である
この感性プラス個性を私は「骨格」と呼んでいる、そしてこの骨格は14歳から21歳くらいまでの最も感受性の強い時期にこそ育まれるものであり、彼が「将来の自分=大人の期待」を脱し、「夢=なりたい自分」を獲得したときにその最初の形成期に突入する、これはこれからの超高齢化社会を考えたときに「私たちにとって幸福とは何か?」にも直結する問題であると考えられるので僭越ながら今十分すぎるほど議論のテーマになりうる問題であると思う
なるほど骨格の先にあるものは幸福であって成功ではないという意見はおおよそ正しいと言い切れるのであろう、したがって結果第一論者からすればまったく考慮されるべき視点ではないと
このような反駁がそこにあったとしてもどうやら私にはそれに論理的に抗するための材料はまったくと言っていいほどないようだ、この書自体が「私的幸福論」的な性格を強く帯びているがためにそうであったとしてもそれは当然のことであるのだが、しかし読者諸君の中にこの「感性+個性=骨格」の方程式に潜む内省的な精神の動きにこの21世紀初頭の世界の動きを読み解くためのヒントのようなものを見つけることができる人がいるのであれば、それは最終的には何らかの普遍性を帯びた言葉を彼の後継者たちに残すことができるのかもしれない
ここはかなり大所高所からの意見のようになっているがしかしこの私論においての核心部分の一つでもあるので思い切って強調させていただいた
特にネットの普及によって情報氾濫の時代ともいえる状況を呈している今「骨格」は「自分を見失わない」ための重要な精神的要素であると確信する
だがここである一つの言葉がにもかかわらず私の中でこの骨格について思いを巡らすときにはついて回るのである

それは孤独

決して「孤立」ではない、おそらく夢追い人たちにとっては避けては通れないのであろう「自分が何を好きで何をやりたいか」を自分自身の裡において確認するための作業はしばしばそこに「孤独」を引き連れるために、明確に未来の自分を想像できない若者たちはそこから自ら離脱していくのであろうが、だがそれでも私は「孤独を恐れずに骨格を維持する」方を支持したい
なるほどここは多くのティーンエイジャーたちにとっては、「孤独」→「孤立」と容易に判断されるべき箇所であるので、「骨格の維持」が「絶対幸福」に結びつくと断言できない以上は、そこに人生で一度しかない感受性の豊かな時期の真っただ中にいるにもかかわらず「現状の追認」に心ならずも従うことしかできないのだとしてもそれは仕方がないことなのかもしれない
情報氾濫はしかし「心のフィルター」を備えることで、発信源からの「外」へと向かう力が個の「内」に入るときにろ過され、つまり情報奴隷状態に陥ることから救われることになる、無論ここには善の要素が入り込まなければならない部分であるので結果的にせよ「信仰」が顔を覗かせなければならない箇所であるのだが、その情報が如何なるものであれ外からやってくるものに対してそれらのある種の格付けのようなことをすることは「健全な」時間の確保という点でも重要なことであるのかもしれない
情報を客観的に自分にとって重要と思えるものから順にA、B、Cとランク付けしていくのである、ここでは「信仰」と「骨格」が左右の両輪となって「面白いもの」の集団から必要なものだけを選別しさらにその贅肉を削ぎ落していく
なぜそれが必要なのか?
私たちの持つ時間には限りがあるからだ、ましてあっという間に終わる青春時代なら尚更であろう
私たちがその一生で経験できる情報の限界値を巷に溢れる情報量はとっくに大幅に超過している
だから選別が必要になるのだ
そこでものをいうのは彼にしかわからない法則が作り上げた彼にだけ通用する尺度である、そこでは「結果」ではなく「過程」が重視されることで彼は夢または目標を知る者だけがそれを「追い続けること」からのみ発生する充実感を得ることができる、ここでは「面白い」が「強い」を上回っている、無論ここでいう「面白い」は「愉快」という意味ではなく「こうなればいいな」という意味である(だから「信仰」が出てくる)が、彼が彼だけの唯一無二の世界を作り上げることでそこから彼だけが発することのできる言葉が生まれるのだ
(2018/02/06)

(4)

では「感性+個性=骨格」の反意語は何か?
それは予定調和である、ここでまた日常に氾濫する情報が出てくる、これは高度情報化社会の副産物のようなものなのであろうが、私たちは日々接する情報の多い少ないではなくその情報の内容に高い関心を持って暮らしている、そこでは自分の周りの(それは実は18歳の少年少女でもかなり限定された範囲でしかないのだが)、ごく少数の友人たちによる小さな輪の中の流通量の多い少ないによってその情報の価値を決定づけている、そこではほぼ100%の確立で「集団」が「個人」を上回っており、そのことが一個人の意思決定をにもかかわらず集団的なものと混同させるような現象が日常的に発生している、したがって厳密にはそこには「彼独自」の判断というものはほとんどなく結果的にせよ「周囲(しばしば大人たちも含まれる)」の判断というものが彼の決定(時に重要なものもあるのだが)をおおよそ常に左右する、ところがここが驚くところなのだが、進学や就職といった重大な事柄であっても、たとえそこに一個人の裁量に関する能力の限界のようなものは認めるにしても、それが社会通念やまたは数値化された情報などのみを頼りにしばしば恣意的に決定がなされていることがあり、さらに言えば、にもかかわらず多くの少年少女たちはそれに一切の疑問すら感じていないように見えるということである
ここではすでにある多くの情報によって定められた明らかに一方通行の単一の尺度によって、実際には集団的な意思決定が個人の意思決定にすり替えられているのである、だがそう見えないのは誰もそのような現状に対して異を唱えないからである(それどころか一部はそこに居心地の良さを感じている風でさえある)
これは私に言わせれば主体性の維持の危機でありそれはAIがすでに登場し始めているこの2018前後においては僭越ながら少年少女のみならずもっと幅広い世代共通の精神的な意味での共通の関心事にならなければならないと思うのである
その対象(例えば大型テーマパークなど)から与えられるべき情報のすべての価値はそれらを経験する以前にすでにおおよそ定まっていることであり、またたとえそれが否定されたとしてもそれは「彼の」判断ではなく「彼ら」の判断によるところが大きいと私には思われるのである
ここでは個性はほぼ消滅している、ただ集団心理にも通ずる明確な意志と行くべき場所を持たない、そして時に海月のように浮遊するしかない焦点の曖昧なままの幾つかの個の集まりがただ鰯のように群れているだけである
このように考えてくるとやはりAIは私たちの日常に深く侵入するや否や、私たちがそれを少なくとも半ば肯定している間に私たちのそのような曖昧な焦点故の隙間に(実に巧みに)入り込み私たちの意識をあっという間に乗っ取ってしまうであろう、そしてそうなればきっと少なくともその世代は後戻りができなくなる、なぜならば社会自体がそのようなモードに迎合していくであろうから
甚だ僭越ながら時代が大きな転換期を迎えつつあることが明らかなこの21世紀初頭このことはもっと感覚的に敏感な人々によって顧みられるべき論点であると私は考える、これまではそれが曖昧なまま過ぎ去ったとしても特に景気が拡大の傾向を呈していた時は深刻な状況に到ることはなかったのである、個が精神的に成長することによりそこにある矛盾は解消されていった、つまり一個人がその人生の主導権を失うということはなかった、おそらくは人類史上初めてであろう、この前提が覆ろうとしているのである
だがAI、そして情報通信革命には多様性社会の尊重や超高齢化社会に対する対策を考えたうえでも相対的に見た場合得るものの方が多くしたがって今現在進行中のこのような現象は今後加速することはあってもその逆はないと想像される
ではどうすればよいのか、どうすれば私たちはその人生におけるイニシアティヴを失うことなくつまり裁量の自由を維持したままより望ましい人生設計ができるのであろうか?

きっとそのためのキーワードはこの言葉の中にある

やはりこの私論においてこの言葉は「信仰」と同じくらいの重要度を持つようだ
夢とは何か?
第一には感受性が最も豊かな青春時代において、つまりその持てる可能性と感性の両方において、また経験が少ない分より多く無条件で空想を膨らませることができたその許されるべき環境において、「自分が何を好きで何をやりたいか」を見つけるためのその羅針盤の役割を果たすべきもの
そして第二に五十歳を越え「老い」に突入したその最初の時期に、人生百年の時代において新たな目標を見つけるためにかつての最も感受性豊かな時期を確認するためのその灯台の役割を果たすべきもの(2018/02/09)
なるほど信仰は9~12歳程度の小学生ではそれを明確に認識し理解することは難しいであろう、だが夢ならばどうか、夢ならば小学生でも11~12歳であってもおおよそ理解可能であるかもしれない、そういう意味でも夢を持つことの重要性を幼い時から認識しておくことがいかに大切であるかをややしつこいくらいここで繰り返すこともこの人生百年時代目前の今僭越ながらたそがれの扉を開けた人々は明確にその認識を時に改めることも必要なのではないかと思う
だがここで一つの問題が浮かび上がる、夢を見つけるにはまず大人たちが夢を追うための糸口のようなものを子供たちに与える必要があるが、しかし大人たちができるのはここまでで後は子供たち自身がそれぞれの感性に従ってその入り口以降の部分を柔軟で豊かな感受性ならではの想像力(しばしば空想的)を駆使して前進させていくしかないということである、実はここで子供たちは二通りに分かれる
それは以下の言葉を認識できているかどうかで決まる

捨てる

これは「犠牲」とも通じる言葉である、皆と同じ青春を選んだのでは残念ながら夢は叶わない、多くの選択肢からそのうちの一つを選び、「皆と同じ」を捨て、故に「孤独」に甘んじることも厭わずにしかしただひたすらに夢を追い続けた者だけが到達することのできる世界がある、彼は少なくとも「皆と同じ」青春を犠牲にした、彼はそれを半ば運命であるとも受け取っているのかもしれない、だがいずれにせよ振り返ってみれば自ら選択した道なのになぜか「負」の思い出ばかりしかないその青春の数ページは実は夢を追い続けることをやめた三十代以降になって初めてその輝きを増し始める
彼はその時になってようやく人生の参考書の最初の一ページに記されている文言の意味を知るのである、無論それは人それぞれによって異なるものだがしかしそれ故にそれは彼のオリジナルなのである
彼は100回諦めただろう、しかしチャレンジした回数はその数倍である、涙は時に意志を上回ったが、そのたびに彼は戻ってきた

果たして諦めきれなかったのか、それとも何か別の要因があり故に彼は諦めさせてもらえなかったのか?

だが夢を追うとはそういうことだ、そこには「行きつ、戻りつ」があるのだ、だが社会、いや社会のモードに無抵抗な大人たちほどそれを認めようとしない、「皆と同じ」に背を向けた時点で彼は異邦人となる
ここにこの日本の現代社会の問題の根源の一つがある

はみ出し者は排除されなければならない

この危険な考え方はにもかかわらず多数派を形成し、メインストリートの真ん中を歩いた経験のある者たちを次から次へと取り込むことに成功し、「多様性の尊重」の真逆にある考え方「均一と均質の肯定」を社会に押し付けようとする
もうおわかりであろう、ここに来るべきものが「ポピュリズム」である
ポピュリズムとはつまり「アンチ夢」なのである
この私の歯痒さを何卒理解していただきたい、AIが日常生活に深く入り込むことによる一部の人々の主体性の喪失はしかしその一方でポピュリズムを支持する人々にとってはこの上ないほどの好条件をポピュリスト及び守旧派に提示するのである
幸福のためのツールであるはずのAIが報復のためのツールに早変わりする、だが社会がそれに気づくのは遅れるであろう、なぜならばすでに書いたように相対的にはAIの導入によってminorityの暮らしの質は向上するからだ(自動運転自動車で障害者や高齢者も車を運転できる)
やや意地悪い言い方をすればここには現実に頻繁に見られる現象の一つ、つまり「そうしなければ致命傷に到ることにはならないにもかかわらず目の前にある利に目が眩み、その時々のモードについ流されてしまう」がある
すでに「一個人の意思決定をにもかかわらず集団的なものと混同させるような現象が日常的に発生している」と書いたが、その逆つまり、「実はそれは個人の意思とはほぼ無関係な集団の意思によるものなのだが、それにその当人はまったく気付かずにそれどころかその決定に(時に盲目的に)従うことに何ら疑問すら抱いていないようだ」も散見されるのである
なるほど服従が必ず損失(負)をもたらすとは言い切れない、ただ先を行く者に着いていっただけなのになぜか利を得てしまったという事象は些末なものまで含めれば日常に溢れかえっている、無論この私論ではネット時代が行き過ぎることによる主体性の喪失がこの21世紀初頭の二つの国際的な問題、貧富の格差問題と環境問題の両方の解決を遅らせ、さらにimaginationとcreationの劣化(カスタマイズの減少故の個性の軽視)など様々な負につながるということに論点を絞りたいと思うが、いずれにせよAIの登場によって日常がさらにハイスピードになっていくであろうことは間違いなく、それは夢を追い続けることによる副産物である「捨てる」や「孤独を受け止める」を認識すること、または「皆と同じ」ではない道を歩むことによる「相違を認め合う」必要性の認識の欠落につながるであろうと私は想像しているのである
ではimaginationにcreationを加えると何になるか?

答えは文明である

無論ここは創意工夫でもよいが、ズバリ「文明」と言い切ることも可能ではないかと思う、「imagination+creation」が文明であるのであれば、私たちは自分が「何を好きで何をやりたい」をきちんと認識できていなければならない、そのためには最も感受性の強い時期つまり14歳から21歳くらいまでの間にいろんな経験をし自分自身を自分自身の尺度で測る必要があるのだ、そのために読書がありスポーツがあり、楽器を演奏するまたは絵を描くなどがあり、また旅をするがある、そのような経験をすることで当然そこに感動が生まれこれが生まれる

自立心

ここはきっと自律心でもよかろう、つまり「自分が何者であるかを知る」である
ここは「自分探し」という言葉の方が一般的かもしれないが、「自分探し」は実はその時のためではなくたそがれの扉を開けた後のためにこそ必要なものである、なぜならば人生は渦巻き状に曲線的に進むため一周すると必ず始点のそばを通過することになるからだ(2018/02/15)、すでに人生=螺旋階段説を私はとらないと明言している、これは人生における「比較」の否定であり、「オリジナリティ」の肯定である、ここでは「拡大」が否定されており、「循環」故に生じる可能性のある「不足」からこそ生まれるべき「工夫」の肯定がある
なぜ「安定」した人生を歩んでいる者がまたは将来に対する不安のない者が工夫(カスタマイズ)に腐心するであろうか?

ここでまたAIが出てくる、ネット社会は任意性の幅を極端に広げ逆に独自性の活躍可能スペースを極端に狭める
ネットにあるものはdirect & time free
Direct & time freeとは?
最も合理的で都合がよいということ
それはどういうことか?
AからBへの移動が必要な時、その手段と金銭的条件及び物理的側面(時間など)のその両方で最も理に適っているということ
それはよいことではないのか?
Direct & time freeを完全否定することは難しい、だがそれが強まれば強まるほどあることから私たちは遠ざかることになる
それはドラマの再現
これは必ずしも理に適っていないもの(ここでは簡単に手間と表現する)やカスタマイズから生まれるものでありその代表的なものが旅である、旅では予約しておいたホテルの部屋が予約と違っていたり(シングルを頼んでいたのにツインだった)、言葉が通じずに買い物などが手間取る(ヨーロッパでも英語が通じない場所はある)、や地下鉄の乗り方がわからないなど、どんなに準備万端でも必ずやそこでは想定外のことが起きる、これは国内旅行でも海外ほどではないというだけで諸事情は似たようなものだ、だがこの「手間がかかる」や「想定外の事態に遭遇する」からドラマは生まれる、不都合承知でスケジューリングを組む人は特に海外旅行の場合はまずない、当然完璧ではないにせよ準備は怠らないのが普通だ、しかしこの「にもかかわらず想定外のことが起きる」ことも承知の上で手間(ホテルや飛行機のチケット予約など)をかけることからドラマの再現は始まる
面倒臭いことを嫌っていたらきっと旅などとてもできないであろう、だがそれではドラマの再現を人生に期待することはできないため、合理的だが退屈な日常から脱することなくマイナスは少ないがしかしプラスもない、つまり後継者に残すべき言葉を見つけられないまま老いていくことになる
旅とは反direct & time freeである
私は思う、IoTは日常生活(life)の究極の姿を人類に提示する一方で、合理主義の限界のようなものもほぼ同時に見せつけることになるのではないかと
すでにAIがもたらす主体性の喪失はポピュリストたちにとっては都合の良いものでしかないと書いたが、究極の利便性がもたらす超合理的社会(無人コンビニ、ドローンによる24時間宅配サービスなど)は、隙間を失った私たちの意識のなかにある種の負のウイルスを培養させるかもしれない、それは第一に私たちの睡眠時間を奪い故にこれまで当然とされてきたライフサイクルを狂わせ、故に夜型の少年少女を増やし、また年齢的に見て知る必要のない情報を安全に得られることで知らず知らずのうちに帰還不可能な領域に踏み込んでいく若者を増やし当然それらは犯罪の増加にもつながる(仮想通貨で決済する)であろう
AIの普及によりこう思う少年少女たちは必ずや増える
情報の不足は情報によって補うしかない
だがこれは誤りである
なぜならば私たちにとって情報とはいついかなる場合においても手段でしかありえず目的にはなれないからだ、情報が目的化すると私たちはあるものを失う

それは夢

夢とはすでに多分に空想的なものだと書いた、そこでは非合理的な、しかし豊かな感受性故にimaginationとcreationにつながりうる、つまり新しい文明のための萌芽になりうるようなものが醸成されていく、そしてそれは情報不足からくる意識の隙間を想像力や個性が埋めていくことで少しずつ完成に近づく、何割かの読者諸君はここですでにお気づきになっているかもしれない、ここではcreatorが肯定されマーケティングを得意とするproducerが否定されている、故にここでは「数えられないものの価値」が「数えられるものの価値」を上回っている(2018/02/17)
おそらくこのように考えることは可能であろう
右に商業主義があり左に精神主義がある、商業主義は「共通」の価値を思考の中心に置き、「数えられるものの価値」を重視する、精神主義は「個別」を思考の中心に置き、「数えられないものの価値」を重視する、そして元来感受性豊かで故に理想に目覚めた若者たちは、その中間点の模索を試みてきた、きっと1960年代はそのような志向性を持つ若者たちが大量に現れた時代であり、ビートルズはその象徴的な存在であった、ビートルズを例に取れば商業的な成功は目指すが魂を売り渡すことはしないことが彼らの理想であったはずだ、だから”Can’t buy me love”となるのである、だが商業主義と精神主義の中間点とは極めて狭い範囲内にとどまっており、僅かにぶれただけでそれは商業主義に傾く、ジョンもポールも伴にラブソングにこだわっていたことからも、精神主義的な立ち位置だけは変化させたくなかったのは明白である、だがそれでは商業的な成功は覚束なくなり故に後継者のための地ならしができなくなる、当時、ロックミュージシャンの社会的地位はかなり低かったはずだ、だから彼らは自分たちだけのためではなく同じような状況下にある他のミュージシャンたち(そのほとんどは労働階級出身者たちであったであろう)の待遇が改善されることをも視野に入れて活動していたはずだ、だがジョン・レノンがビートルズ解散後に”Dream is over”と歌っていたように、彼らの努力ももしかしたらそれほどうまくはいかなかったのかもしれない、この21世紀初頭そのような商業主義と精神主義の中間点を模索するような若者たちのcreativeな活動というものはあまり見られなくなっているような印象がある、結局は商業主義に傾くことになるのだからというやや諦めにも似た観念が十代にしてすでに備わっているのかもしれない
だがここでの「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」(以下Jとする)は現実的には成功する確率が極めて低いことが社会的にも確認されたが故にであろうか、ネット社会の進化(深化でもあろう)によって結果的にせよ主体性を喪失する特に若者たちが増えることによる反動的な大人たちにとって都合の良い状況の現出と蔓延は確実に社会から「多様性の尊重」というこの21世紀最も重要な標語の一つの価値を減少させていくことになるであろう
このことは民主主義のあるべき未来というものを考えたときにもしかしたらどこかで致命的な欠損を先進国に暮らす人々の意識に起こさせ、最悪の場合そのシステムにも何らかのマイナスの影響を与えるかもしれない、これは無論私見ではあるがしかし独善的な考えではない、すでに「imagination+creation=文明」と書いた、そして文明とは民主主義によってこそ進歩しまた醸成されていくものである、それはすでに歴史が証明していることだ、ならば特に感受性豊かなそして独創性溢れる若者たちがJを失うのであれば、それは先進国に暮らす一市民の周囲のみならず、もっと幅広い意味においても負の因子の拡散にしかならないのかもしれない、この辺りはもう少し時間をかけて論点の整理のための情報収集に努めなければならないが、だがポピュリズムという言葉が新聞等で散見されるこの2018年の現実はきっと私たちの楽観主義を戒めるには十分すぎるほどのものなのであろう
なるほどこのような前提である種のシミュレーションを行ったときには、今後の人生百年の時代、平和と繁栄と評価の三拍子が揃った望ましい民主主義の社会を作るためにもっともその影響力を行使すべきは五十代から六十代の人々ということになるのかもしれない、これはこの21世紀初頭の若者たちに多くを期待できないということよりも、人生百年の時代であるが故に「老い」を知るつまり青春の喪失を知るしかしまだcreativeな活動が可能な人々にこそJの概念を遍く広めるためのその旗振り役を務めていただくことの方が現実的であるということなのかもしれない
Donald Trumpの当選は偶然の産物ではあるまい、しかしそこにワシントンの均一化と均質化を危惧する真の民主主義者の憂いがあったのだとしても、それは一定の反動勢力の「動的な」人々(若者たちだけではない)に対する警戒感が強くあったことの結果であるということはきっと否定できないのであろう、そしてそのような動きを過小評価することはあるべき民主主義の未来を模索する人々にとっては場合によっては後戻りできない事態を招くことにもなりかねないであろう
「後戻りできない」これも二十代の若者たちには理解しにくい概念だ、だが五十代であれば容易に理解できる、このようなことはすでに十分すぎるくらい経験しているはずだからだ
「いつでもやり直せる」、「何度でも挑戦できる」
なるほどこのようなメッセージは特に十代の若者たちのうち、必ずしも良い成績を残せていない少年少女たちにとっては極めて強い価値を持つのかもしれない、だが真の理想とは美学の内ではなく懐疑の内にこそある、そしてそれを気付かせてくれるのが「信仰」である、確かに己の美学を貫徹せんと社会に果敢に挑戦する人は不安に怯える少年少女たちには「模範的」以外の何物でもあるまい、だが「個の確立」は必ずしもそこに善の意識を伴っていないのもまた事実なのである
おそらく彼らは私たちは生きているのであり生かされているわけではないと訴えるのであろうが、時代が反動化していくことが予想されるのであれば、「信仰」を知る懐疑派たちは少し神経質になるくらいでちょうど良いのであろう
(2018/02/21)

(5)

果たして私たちは「生きている」のか、「生かされている」のか?
ここでは以下この論点を軸に論考を進めていきたい
このような論点をその中心に置くというのはすでに述べたように、少なくともこの21世紀前半においてはJの概念を遍く広めまた前進させていくには二十代の若者たちよりもすでに青春の喪失を経験している五十代の人々がその全体的な役割を担っていく方がよいのではないかと私が考えているからである
言うまでもなく1960年代ジョン・レノンやボブ・ディランが果たした社会的役割とは世界的にも歴史的にも過小評価されるべきものではない、彼らは高学歴でもなくまた名家の出でもない、さらには時にヒッピーのようでもあったであろう、彼らは背広にネクタイといった風貌が似合わない若者たちであり、故に一歩先に多様性の尊重を地で行く若者たちであった、そこには時代的な背景もあったのであろうが、進歩派が保守派を蹴散らすにはおそらく千載一遇の機会でありまた概ね彼らの挑戦は現時点でも好意的な評価を得ている
無論この2018年においても1960年代の若者たちのような反保守の立場を明確にする二十代の人々が登場するのを期待したいところだが、AIをその筆頭とする時代のあまりにも急激な変化は、社会全体が勝ち組と負け組に明確に分かれつつある現在、ラディカルであるべき人々をも飲み込み時代の変化に負けないように自らも急激に右旋回を始めたようだ、だがこれは見る角度を変えれば高度情報化社会から超高度情報化社会への転換期において、90%を超える人々が数値されたデータにより多くの信頼を置き始めた結果であるともいえるのかもしれない、なるほど情報操作されていないのであれば、データ化された世界には嘘はない、そこに嘘がない以上特に若者たちがそこに価値を見出そうとするのはむしろ当然のことであるのかもしれない

記憶より記録

これは「重要なのはレガシーではなくメモリー」という最近の世界の流れに反するものであるのかもしれない、事実、2028年の夏季オリンピック、パラリンピック大会の開催地に決まったロサンゼルス市は全競技施設のうち97%を既存施設の改修で対応すると発表している
データの反意語は何か?
それは個性である
また「好き」という感情かもしれない
たとえ高い数値がそこに記録されていてもそれを好きになれない人はいるし、またその逆もある
だがデータが担保するものもある
それは「安定」である
学生が就職先を検討する時、まずその企業またはその業界がどれほどの数字を残しているかを知りたいと思うだろう、そしてそこにあるプラスの数値が好ましいものであればあるほど多くの学生がその企業またはその業界に属する企業に願書を出すであろう
では「安定」の反意語は何か?
無論「自由」もあるが、ここはそれではなく別のワードを挙げたい
もうおわかりであろう、ここに来るのは「夢」である
Jは夢を知る若者たちによってこそ担われるべきなのである
だがAIは社会をデータ一色に染めていくであろう、そしてそこには少なくとも勝ち組を目指す人々にとってはメリットも多くあるのである
ではそのメリットとは何か?
究極の合理化、省コスト化された社会または企業の未来の形
無駄を省くにはそこにどれだけのプラスとマイナスがあるのかを迅速に計算し、またその結果が得られた時点で再び迅速に判断をしなければならない、当然ここにはマーケティングも入る、コスト削減が売り上げ増に結び付かないのであればそれは評価の対象とはならないからだ
だがここに一つのからくりがある
本来データ分析やマーケティングは「安定」の部類に入るものなので「夢」とは対照的な位置づけにならなければならない、だがこの21世紀初頭、どうやら夢を追うということがデータ分析やマーケティングの後塵を拝すという事態が続出しているようだ
これは悲しむべき事態である、たとえそこに類稀な個性が現出しても、AIが「ヒットの可能性30%」と結論を出せばその個性は明日には帰郷を迫られる、本来ITのメリットの一つにはインタラクティヴがあるのだからこのような事態に到っているのは個人的には納得がいかないのであるが、そのように考えるともしかしたらAIは一部の人々の最終利益を過去最大にするその半面で夢追い人の活躍できるスペースを二十世紀よりも狭めてしまうかもしれない、ということは誰かがそのような現状を変革していかなければならないはずだが、だとするとそれは誰の役目なのか?
青春の喪失を知る五十代以降の人々の役目である
ここで先にキーワードを挙げておこう

大いなる無駄

一個性が本来持っている才能を存分に発揮するためには、「効率性」の逆を一定の時間結果的にせよ経験する必要があるのだ、では効率性の逆とは何か?

多様性である(2018/02/23)

ここではもしかしたら少し思い切った表現を用いる必要があるのかもしれない、多様性(diversity)の尊重は数字的にはむしろマイナスをしばしば記録する
だが理想とは民主主義も含めて数値化されるべき価値に関しては「当初はマイナスに振れるにもかかわらず優先されるべきもの」をこそ指す
更なる強い表現が必要なのか?
神は一念発起した者にこそ試練を課す
「拡大」や「順調」は多くの人々に肯定的に受け入れられるにもかかわらず(いや、だからこそなのか?)、理想を追求する者の立場からすれば、それは正と負は本来拮抗すべきであるという理想の持つ一義的要素から社会の中心を大きく後退させることにしかつながらないのではないかという気がする
つまり好意的にそれを受け入れる人々が多いということは裏を返せば理想の本質を見据えることができていないかまたは理想そのものが現実の前に蔑ろにされているということなのかもしれない
ここでまたJが出てくる
「商業主義と精神主義の中間点を模索するcreativeな活動」とは骨格(個性+感性)が大衆に譲歩可能なぎりぎりの線まで行って引き返すということであり、そこでは数字は一般社会でいうところの半分の価値しかない
どうやらJにこだわる限りにおいてネット社会のdirect & time freeは必ずしも有効な結果を提供してくれそうにないようだ、手間、カスタマイズの延長線上にあるものはドラマの再現である、そして旅がその代表的なものと言える
そして手間やカスタマイズの結果生じる都合の悪いもの(旅の途上におけるトラブルなど)をにもかかわらず受け入れることで私たちは真に成長することができる
なぜならばその「手間やカスタマイズの結果生じる都合の悪いもの」をしばしば私たちはこう呼んでいるからだ

運命

なるほどこれは良い意味で使われることもある、だから「都合の悪いもの」とのみ断定することはできないが、だが運命とはそれを如何に捉えるかによってその性格を大きく変えるのもまた事実だ、その「都合が悪いもの」を成長のための糧になりうるものと捉えることができれば、それだけ反direct & time free的なものが価値を持つことになる
無論手間やカスタマイズを施す人が負の結果を期待しているわけはなくここは「にもかかわらずの負」が「如何にそれを捉えるか」を経て最終的には個別の範囲内に留まるとはいえ彼にとっての納得のいく失敗につながるということであろう
ここで夢に話を戻さなければならない
以上の論理で行けば夢もまた結論としては反direct & time freeということになるはずだが、その辺りのところを少し考察してみよう
「夢」とは私の論理で行けば「安定」の逆なので「好き」を奉じ故に「自由」を愛するということになる
この「夢」と「安定」をもう少し大衆的な観点から分析してみよう
夢は不安定なので曲線を描く、逆に安定は少なくとも直線的な微増を目指すと言えるであろう、夢は消費を促進し安定は貯蓄を促進する、また夢は「個別の想い」のことなので満足度は必ずしも客観的に数値化されないが、安定は「共通の尺度の優先」のことなので満足度は結果が明確に数字として表れないと上昇していかないということになる
ここで「夢」を「数えられないものの価値の優先」と、そして「安定」を「数えられるものの価値の優先」と一義的に捉えることは概ね可能なのではなかろうか、だがここで以下のように言うことも可能なはずだ
人生とは渦巻き状に曲線的に進むものであるために一周する度に始点の近くを通過する、したがって安定を優先した場合一周して戻ってきた時にかつての自分を確認する材料を見つけることができないかもしれない、またここでいう直線とは緩やかな右肩上がりを指すのでその保証が十分でない場合彼は目指すべきものを見失うが故の何らかの不安に端を発する神経症状を訴えるかもしれない
それは鬱?不眠?それともED?
夢とはおそらく叶えることではなく追いかけることによってこそ輝く、なぜならば夢こそが五十歳を過ぎて人生を振り返るときにその始点(青春時代の任意の時期またはその瞬間)を辿るための唯一の材料であるからだ、まして人生百年の時代目前である、五十歳を過ぎ死を意識してもしかし死の準備をするにはまだ早いのである

人々が「拡大」や「順調」を歓迎するのはそこに「保障」があると思っているからである、だが今後二つの要素がそれを破壊していくであろう、一つは超高齢化社会でありもう一つはAIである、そして私はこの二つの不安材料をうまくかわすためのその手段として夢の重要性をここで取り上げているのである
夢を追い続けなければならない、そうでなければ五十歳を過ぎてから確認ができなくなるのである
何の確認か?
社会との一体感の確認である
私たちは何に属しているのか?
会社、学校それとも何らかの組織、団体?
何れも誤りである
私たちはそれぞれが暮らす市区町村にこそ属しているのである、したがってその市区町村との一体化こそが最も重要な精神的課題であるのである、そして夢とはまさにそのためのものでなければならない、故に夢とは地域を選ばずしたがって必ずしもその結果は問われないのである
でも夢を叶える必要がないのだとしても夢を追いかけるには何らかの具体的な目標がそこに必要なはずだが?
なるほどしかし任意の目標についてはここで私が縷々申し述べる必要もなかろう、それよりももっと重要なのは彼が持つべきオリジナリティである、きっとこう言えるであろう、オリジナリティはそれ自体が一定の負(協調性に反すると受け取られるため)を有するためにそれがオリジナルのものであれば彼は自己ベストを記録した時点でその目的を達成したことになる、故にここで夢を追い続けるとは「共通」の結果ではなく「個別」の結果を優先させることであると言い切ることができるのかもしれない、このように考えると最も悲劇的な状況とは叶えた夢と願った夢が乖離しているにもかかわらずやり直すことができないことだと言えるのかもしれないが……

「骨格」を「共通」に優先させることで時代が大きく変化したとしてもいわゆる「ブレ」や不測の事態発生の結果としての保障の喪失による「行き詰まり」感を最小限にすることができる、特にAIが普及するこの2020年代以降社会の大幅な変革はおそらく私たちの想像をはるかに超えたスピードと規模で進行する懼れがある(ビジネスとしてそれが莫大な利益を生むと推測されるからだ)、そういう意味では直線的につまり緩やかな右肩上がりを前提に人生設計することはやはり徐々に難しくなってきているのではなかろうか
柔軟性をより多く担保する
だがそのためにはおそらくこれが避けられないのだ

大いなる無駄

ようやくここで再登場となった、無論、そこでは完璧なスケジューリングが組まれなければならない、またそれに基づいた100%の努力による実践も必要であろう、だがそれでも尚この大いなる無駄なしに理想の実現は不可能であろう
この2018年における理想の筆頭に来るべきものは何か?

やはりこうなる
多様性の尊重

Donald Trumpはなぜ斯様に不人気なのか?
どうやら「多様性の尊重」はもっともリベラルな若者たちの間では「流行」しているのではなくすでに「定着」しているようだ(2018/02/27)
だが「多様性の尊重」とは私個人の考えではあるがそれは資本主義社会におけるビジネスとしての望ましいモデルの逆をいくものだという印象がある、なぜならば多様性の尊重とは第一に「待つ」ということだからだ、「待つ」は間違いなく効率性重視に反する、多様性の尊重はしばしばtime is moneyを否定する、故に従来の価値観に囚われてビジネスモデルを構築しようとした場合必ずやどこかで破綻が生じる
ではなぜアメリカの若者たちは「多様性の尊重」を叫ぶのか?
それはこれが出てきたからだ

AI

このAIが「効率性重視」と「多様性尊重」との間に強くそして深く存在する溝を少しずつ埋めていくと期待されるからだ、どうやらアメリカ合衆国に端を発する第二次産業革命とも呼べるであろうIT革命(ここではインターネットサービスを中心としたハードとソフトその両方を包含するwindouws95発売後急速に進行した通信革命のことを指す)はここにきて人類史上最大の発明であるAIと結びつくことによって世界の在り方をその根本から見直すことを人類に迫る、それほどまでの大きなムーブメントになりつつあるようだ
やはり私はここでAIを含むIT革命が「精神的」「物質的」その両方において、その両方がよりその質を互いに高めあうその過程において実に重要な役割を果たしていくのだということを一層強調せざるを得ない
AIをうまく使うことができればきっとJを達成することができる、だが素直にそれを喜べないのはAIを中心に生じるであろう国際的な巨大マーケットが更なる貧富の格差をもたらすに違いないという憂いを孕んでいるからだ
だがここを否定したら多様性の尊重は中途半端なまま22世紀へ持ち越すということになる、ここは医学、生理学の進歩とも絡む部分なのであろうが、しかし私たちは少なくとも民主主義を支持しそれをさらに進歩させなければならないと考えているのであれば、ここにある千載一遇のチャンスを粗末にしてはいけない、いずれにせよ資本主義社会はそれがその根底から覆されない限り、良くも悪くも一方的に進行する、つまりいずれにせよ貧富の格差は拡大するのだ
ならばそこにある負には一定の譲歩をしながらもしかしその一方で高邁な理想の実現のために良識あるセレブリティたちと連携し(時には彼らを支えさえする)、つまり現実的な取引を敢行しながら理想の実現のために前進(しばしば漸進であろう)していくべきだ
無論ここ数十行において私が書いたものはこの2018年の日本においてはほとんど理解されえぬものであろう、だがそれでもいつか一任意の人物がにもかかわらず歩み出て、その100年後から見れば「歴史的な」と評価されるであろう最初の足跡を刻む、私はそこに賭けたい

諸君、今日は2018年3月2日である、来週から平昌パラリンピックが始まる、リオデジャネイロ・パラリンピックもかなり盛り上がった、きっと平昌パラリンピックも同じくらいの関心を集めるであろう、いまやオリパラといえば皆すぐにオリンピック+パラリンピックのことだと理解できるようになった
なるほど世界は私たちが知らない間であってもその未来への歩みを留めてはいないようだ
きっと理想の針が大きく正に振れる時、それとまったく同じだけの圧力が負の側にもかかる、したがってそこに何もなければいくら時代が進歩しても結局はプラスマイナスゼロで何も変わらないということになる、だが私たちには知恵がある、また私たちは信仰を知ることができる、この「信仰」も「本能」と同様AIからは感じ取ることのできないものだ、知恵はただそれだけでは負に振れることもあるであろう、だがそこに信仰がプラスされればもしかしたら「正、にもかかわらず負に振れることはない」という奇跡的な状況を作り出すことができるかもしれない
よく考えてみればAIとはつまり人類にとってのまさに「劇薬」なのかもしれない、うまく使えば最高の結果を導くことができるが、そうでなければそこに待つものは「死」でしかない
神はこうなることを承知の上で人間に知恵を与えた?
ならばAIについてはこのように定義することも可能なはずだ

人類史上最大のテスト

無論、試験官は神である

薬にも毒にもなるこの時に厄介なヘルパーを「ホモサピエンスよ、おまえたちならどう扱う?」そう、神は仰っているのかもしれない
人類が石器を扱い始めた時点でこの結果はきっと予測できていた、なぜならば人間はあまりに不完全で、故に相互間の信頼関係をその間に何も入ることがなければうまく築くことができなかったからだ、きっと言語も最初から複数あったに違いない
私たち人と人との間、つまり人間のためのツール、それを古代から人々は熱望していたに相違なかろう、それはなかなかうまくいかなかったがようやくここへきて完成を見た

AIは相棒?でも時に泥棒

だからそこではルールが必要になる

AI法

でも誰かが必ず抜け駆けをする、なぜならばAIの先には大金が埋まっているからだ
この書は実利主義に基づく精神の過度な世俗化にストップをかける目的で書かれ始めたものだが、それを象徴する存在であるAIとの良好な関係を模索する必要があるという結論にここで至った
この第二章のテーマは重さつまり価値のこと、そしてその価値とは命の価値でありまた生活の重さである(2018/03/02)、だが命の価値、重さを数値化することなどできはしない、また試みることも許されないはずだ、ここでまた「信仰」が顔を覗かせることになるがここではそれを横において話を進める
命の価値、重さとは量ではなく質である、だがAIの登場は短期的にはそこをこそ曖昧にするに違いない、AIは自動車とも結びつくが同時にきっと宇宙産業とも結びつくに違いない、スペースビジネスが現時点でどれほどの利益を生み出すものであるかはまったくもって想像の域を出ないが、しかしテラフォーミングを考えたときに火星に一番乗りするのは人間ではなくAIであると現時点ですでに容易に推測できることからも、AIがスペースビジネスと結びつく可能性は低くないように思う、そういう意味でもここでAIについての考察が「思考上の安易な量へのシフト」から「命の質(quality of life)の再考」へとうまくつながるような工夫が必要になるのであろう、言うまでもなくこれ以上の貧富の格差の拡大は9.11の再現という想像するも恐ろしい第二の悪夢にしかつながらないように私には思える、ならばAIの登場が可能な限り多くチャンスであり、そしてそこにあるリスクを最小限にするためにも今私たちに問われていることは実は決して小さくはないのである

ここで私は論点をもう少し前進させる必要があるようだ、量ではなく質であるということを今一度確認するためにも、つまり「半分だけ水の入ったコップ」についての判断の両方が同じだけ正しいのだとしても、「まだ半分残っている」という考えの方に優位性を与えるためにも、私たちはそこにある隙間を埋めるための何らかの積極的な精神の動き、主体性の確認を試みなければならない
何の隙間か?
それは善と悪であり、また信仰と情念であり、また理性と感情であり、またしばしば正と負であろう、すでにAIは良くとらえれば人間と人間との間にうまく入り込み(その都度)調整を行うであろうと書いたが、AIがその調整を行う機能を柔軟に果たせるのであれば、特にminorityの人々がうまく表現できないヘルプをAIが代行することで社会の潤滑油的な役割を中長期的には担っていくことになるのかもしれない、だがここで気を付けなければならないのはAIが高機能、多機能化すればするほど人間のAIへの依存度が高まりそこに「本来人間こそが担うべき役割の結果的にせよその放棄」(以下Kとする)が生じる恐れがあるということだ、大都市の駅の自動改札機は「人(利用する側)と人(利用される側)との間における潤滑油的な役割を担うべき」工業製品(やや陳腐な表現ではあるが)の在り方というものを実にシンプルに私たちに教えてくれている
すでにimagination+creationが文明であると書いた、つまり人類が生み出した発明品で今日まで残っているものはすべて「人と人の間にうまく入り込み社会的に潤滑油的な役割を果たすことに少なくとも成功しているもの」と定義することができるのかもしれない
それらを「役に立つもの」の一言で片づけることは不可能ではないのであろうが、もしそうだとしても「質から量へのシフト」、私風の表現を用いれば、「数えられないものの価値から、数えられるものの価値へのシフト」が行き過ぎないように何らかの「数値化できないものの範囲内」での工夫が必要であるように思う、無論AIの普及は「多様性の尊重」の観点からも避けられないものであり、短期的には「絶対善」的な意味付けをされるであろうことは甘受せねばならないのであるが
ここで一応断っておかなければならないのであろうがここに述べている私見はAIの部分否定であって全面否定ではない、だがすでにAIは人類史上最大の発明であろうと書いた、そして私たちは9.11を知っている、ならば人間とAIとの適切な中間線を模索することはむしろごく自然なことのように思えるがいかがであろうか?
私がここで問題にしたいのは万能と思えるからこそAIの普及後にもしかしたら非短期的に訪れるかもしれない、過度のAIへの期待がもたらすKの蔓延である、人間の理性は数値化不可能だが感情はもっと数値化不可能である、したがって「人と人の間を埋めるべき社会的に潤滑油の役割を果たすもの」(以下Lとする)をその細部に至ってまでもAIで補おうとすることは現時点ですでにやや無理があるのかもしれない
ここからがこの第二章の核心部となるが、AIの登場による究極の効率性の世界は「にもかかわらず貧富の格差」「にもかかわらず地域間格差」そして「にもかかわらず勝ち組と負け組の固定化」、そして結果的にせよ効率性の逆の概念である多様性の尊重の後退につながらないか否か、ではそうならないために私たちが講ずべき措置とは何か?
ここではそれを精神的な部分に限定して以下論述を試みようと思う(2018/03/05)

(6)

私は思う、もし子供たちが夢を抱くことが当然の年齢においてその出自や属性及び暮らす地域などの理由によってそれができないのであるならば、いったいこの人類の文明の進歩とは何のためだったのであろうかと
ここには僭越ながら現在の民主主義が持つ矛盾が露呈されている、だからきっとポピュリストたちは民主主義者たちにとって最も耳の痛い部分を強調することでこれまでの民主主義の在り方を変えようとしているのかもしれない
ここは十分に気を付けながら筆を進めなければならないがきっとこういうことなのであろう
現行の民主主義には欠陥がある、故にそれは正されなければならない、だがだからと言って私たちが私たちだけでその結論を導き出しまた何らかの決断を行うべきではない、私たち現世代が行うべきことはそこに問題があることは認めつつも自分たちですべての結論を出そうとせずに然るべき秩序に則った改革を行った後は私たちの後継者にバトンを受け継がせ、彼らにも議論の余地を残しておくことだ、正直に言えばだが原子力発電所の事故などはまさにこの範疇に入る、そこに前世代しか判断できないような要素が多く関わっていたことは認めるにしても、どうやら原発は一度稼働を始めたら現世代はそれに関する是非の決定権を取り戻すことが難しいようだ、したがってそれが重要な判断であるならば尚更のこと私たちには適切な手続きを踏むということが求められるということになる、無論これから生まれてくる人の意見を直ちに聞くことは不可能だ、だが推測することはできる、そしてそのために選挙がありまた議会があるのだ、私たちにできるのはベストを尽くすということだけだ、そして然るべき時が来たら次の人々にバトンを渡す、しかしAIが出てきたためにこの辺りがやや錯綜しているようだ、つまり今は特別な時代である、故に火星移住の可能性も現実味を帯びてきた、ということは今を生きる私たちはかつての人々はできなかったことができるということだ、したがってある種の特権がそこに発生してもそれは許されることであると
ここに私は強い危機感を覚える、確かに人類はルネッサンス期のようにある時期突然に急成長することがある、これは人類を基準にした場合でもまた個人でも法人でも同じかもしれない

予想外の急成長

だがそこには特権は発生しない、テラフォーミングが実現したのだとしても現世代の役割は変わらない、ただ前世代より引き継いだバトンを少なくとも文明を劣化させない状態で次世代に受け継がせるだけだ、ここにはAI誕生によるリスクのうちの50%があると言い切ってもおそらくそれほど差支えはあるまい
産業革命後の帝国主義の時代のセシル・ローズの言葉、「可能ならば惑星をも併合したい」は今でも十分負の価値を持つべきものだ、故にイギリス産業革命をも凌ぐであろうAIとそれ続くAI革命は歴史を知らない者たちのうちにある種の驕慢さを生み出すことに成功するかもしれない、そしてきっとこうなる

トップダウン

だが多様性の尊重をほんとうに重視するのであればここはボトムアップでなければならない
ここでまた「待つ」が出てくる
「待つ」は多様性の尊重に合致するが、効率性の追求には合致しない、そしてAIは現時点では後者に主に重きを置いている
甚だ僭越ながらここに横たわる深刻なるジレンマから目をそらしてはいけない、ここでそれをすればこれから生まれてくる人は私たちの倍苦しむことになるであろうと思われるからだ、そう原子力発電所の建設ラッシュの頃と同じことが繰り返されるのだ
人生は渦巻き状に曲線的に進む、故にゴールはてっぺんにではなく真ん中にある、だから漸進になるのだが、この前提を覆しそうな勢いを持つのがAIである
たとえゴールが真ん中にあるのだとしても直線的に進めばあっという間にゴールに辿り着くではないか、なぜ渦巻き状に進むのか?
このような発言はその過程で手続き上の不備が生じる虞もありかつては説得力を持たないものであったが、しかしこれからは変わるであろう、きっとデジタルネイティヴ第一世代はすでに気付き始めているに違いない
これまでと違う方程式を用いることでかつては不可能だったことが可能になる
これは電灯や電信電話が登場した時にも用いられた言葉であろうが、デジタルにはアナログにはない特徴がある
それは多様性の尊重の実現
人類はその歴史において一貫して合理性、効率性を追求してきたといっても差し支えない、だがそれ故に多様性の尊重は置き去りにされてきたのだ、それが今変わろうとしている、だからAIに恐怖を感じたとしてもそれを全面否定することはできないのである
そこにあるのは急進(時に急伸でもある)の陥穽
すでに一時的にせよAIは絶対善として扱われるであろうと書いた、だからそこに落とし穴があってもプラスマイナスではプラスの方が多いのだからという理由でそれは見過ごされてしまう
そしてこうなる

隙間の消滅

隙間とは何か?
それは文明の要素であるimaginationとcreationを生み出すためのいわゆる精神のアソビのための空間
AIのおかげで障害者スポーツはその全盛を迎える、だから政治も経済も、文化芸術も科学技術ももろ手を挙げてAIを歓迎しているのである、だがきっとそれは長続きしない、なぜならば後継者たちがいつか警鐘を鳴らすからだ
AIは隙間ともう一つのものを私たち少なくとも私たちが暮らす都市から奪う

それは脈絡

だがimaginationとcreationにとって最も重要なのがこの「隙間」と「脈絡」である、この二つがあるが故に工夫とオリジナリティが生まれるのだ
AIとは何か?
それは究極の利便性の実現を可能にするもの
だがその究極の利便性の実現こそが新たな負を生む
それが急進の陥穽
AIの登場によって少なくとも私たちが造る時計は神の時計よりもほんのわずかだがより正確になったのだ、だが急進の陥穽に嵌った時きっと私たちの感性は悲鳴を上げる、「究極の利便性の実現」がAIにより「多様性の尊重」をも併せて実現可能になったが故に起きた理想の決壊
私たちはクリーンと完璧を目指しすぎたのだ

合理的なものは常に人と人との間に生じる強く深い溝を埋めるためにこそ発明開発されそして普及してきた、そしてそれはこれまでは概ね一定の矛盾を孕みながらも合格点を与えられるだけの効果を発揮してきたのだ、私たちのその歴史において、だがこの法則が今徐々に通用しなくなり始めている

きっとこういうことだ

「より多く」「より速く」から「より寛大に」「より慎重に」への移行

そしてこれが必要になる

可能であったとしても前進しない、またはわざと崩す

これは何のなせる業か?
これこそこの第二章の核心を突く言葉

洞察

もしかしたら私たちはこの洞察の重要性を他ならぬAIから教えられることになるのかもしれない

自分が造ったものによって滅ぼされる、これ以上に悲劇的かつ喜劇的な事象はない、だが私たちは核を造った、核は私たちの身体を滅ぼした、今度は精神の番だ
甚だ僭越ながら1945年8月6日以前に語られた哲学はすべて今や限定的な価値しか持ちえない、それほどまでに核というものは人類の歴史を変えたのだ、そして今第二章の幕開けである(2018/03/06)
「洞察」によってこそ私たちは「隙間」と「脈絡」の喪失による精神的、社会的欠損状態を担保することができる、逆に言えば洞察がなければ私たちの精神は究極の理想をおそらく想定よりも少し早く実現するが故にその均衡を失う、そしてもしかしたらこうなる

ポピュリズムの更なる台頭

これは民主主義の危機であるが同時に文明の危機でもある、早すぎる理想の実現により生じるつまり「急進の陥穽」による混乱を収拾するためにおそらく優秀なリーダーが必要とされることになる、だがこここそリスクが最大になる瞬間でもあり、つまり独裁者が現れるかまたはその優秀なリーダーが過信の結果独裁者化する、いずれにせよ今最も恐れなければならない事態の現出となる
2000年代版十字軍だけは御免被りたい、歴史を知る者ならば11世紀からの200年間に七度起きた十字軍による混乱から世界がまだ十分脱し切れていないことを認識できていないはずはない、もしここで誰かが引き金を引けばこの1000年間に繰り返されてきたことがまた別の形で繰り返されることになる
9.11の時13~14歳だった少年少女はあまりのショックからついに立ち直ることができなかった、そして彼らは「隠れトランプ」となった
負は連鎖する
だがもしAIがそこに何らかの既存の方程式の変更のための方策(無論正の価値に向けての)を打ち出すことができるのであれば、尚更私たちはAIと慎重に接するべきであろう、性善説を支持するような人たちだけがAIを上手に操るわけではない、果たしてSNSはテロリストたちにとって想定外のコミュニケーションツールになっていない(これからもならない)だろうか?
きっとAIに道徳を説くことは難しいだろう、しかしAIの恩恵はそれが善的なものであるならば万人のためのものでなければならない、それはもしかしたら民主主義の影響力を超える、民主主義に否定的な人もAIの可能性を否定することはできないように思えるからだ

民主主義(ここでは西欧型と断るべきか?)の影響力 < AIの影響力

おそらく信じられないほど頭脳明晰な若者たちはここに可能性以外の何物をも見出さないのであろうが私は違う
なるほどここには「新秩序」がある、それは否定できない、またそれ故にであろうか「価値の逆転」もある、これまで恵まれてこなかった人々に新しいチャンスが与えられる、だから信じられないほど頭脳明晰な若者たちは「大歓迎」となるのである
しかしそれを認めるにしても私がここに見出すものは以下の二つである

混沌と二極化

変化についていける人とそうでない人、当然両者間に生じるであろう空間(格差)を埋めるための諸々の施策により引き起こされる混乱
だがAIを完全否定できない以上、ここでは持続可能な精神の運動が確認されなければならない、それがこの言葉の中にある

洞察

すでにこの第二章は命の価値、その重さについての考察であると述べている
ならば何がその価値、重さを測るのか?
人間の洞察力である

これは根本的には個々人で習得するべきものであり他人から手取り足取り教えられるものではない、そしてこれは「信仰」よりはむしろ「感性」によるものであり、また時に道徳とも関連するものである
命はリセットできない、だがAIはリセットできる、そしてAIの影響力はおそらく民主主義の影響力をも上回る
だから何かがそこに生じる急進の陥穽が生むリスクを補わなければならないのだ(2018/03/09)
リセット、これもAIについて考える時のキーワードの一つになるのであろう
AIにあるのは然るべきソフトのアンインストールとインストールだけである、彼らに死はなく故に彼らが信仰に目覚めることはない、だから信仰は人間がその主体性を失わないための最も重要な要素となる、無論本能もまたDNAを持たないAIにはないものだが、本能は信仰とは違い選択できないものだ、故に後天的なものとしては唯一信仰が人間とAIを分け隔てるための最重要要素ということになる
だがAIはそれがない時代であれば「利」に縁遠いはずの人々にもチャンスを与えることにきっと成功する、だからAIは地球の隅々にまでその影響力を及ぼしていくのだ、究極の利便性とは究極の効率性のことだ、したがってそこでは正確なデータのためにあるものが犠牲になっている

それは個性

これを命の重さ、価値に準ずるものとして扱うことは可能である
個性とは何か?
それはそこに一万人いたら一万通りの個性があるように命をかけがえのないものとして考える時「なぜ?」の答えになるべきものだ
なぜ命はかけがえのないものなの?
そこにはこの世にたった一つしかない個性があるから
そしてその個性は代替が効かないものであり故に彼が亡くなればその個性を取り戻すことは永遠に不可能となる
個性とは人類の財産でありそれは貨幣では決して補うことができないものだ、だからこそ命が奪われるということは決してあってはならないし、また自ら命を絶つことも許されないのだ
そういう意味では個性は幸福に似ている
幸福もまたそこに一万人いたら一万通りの幸福の形があるのである、愛する人を失ったとき誰も彼、彼女に代わることができないのだということを私たちは知る、だから私たちは祈るのだ、祈りを知るとはそこに代替が効かない価値があるということを認めるということだ、そして祈りとは信仰の最も原初的な形態のことである、事実「私は神を信じません」という人でさえ祈ったことすらないというわけではあるまい、神を信じぬ者でも個性が持つ意味は理解できているのである
命を蔑ろにするとは個性を蔑ろにするということでありそれは直ちに人類の財産を蔑ろにするということである、なぜならば命と同様個性とは「つながる」ことで初めてその真価を発揮するものであり、その「つながり」を断ち切るということはその先にあるものの可能性の一部を傷つけることにしかならないからである
人間はコミュニケーションがすべてだと言われる、ならば「つながり」を失ったときに彼の個性は衰退へと向かう、彼は対象を失ったのだ
スマートフォンは見事なまでにその「つながり」の不具合を修正してくれる、だから「コミュニケーションがすべて」の人間たちはいつか老若男女問わずスマートフォンに依存することになるのである
AIのスタート地点をスマートフォンの中に見ることは容易である、合理性を追求すればするほど人と人の間に入るべきもの(アプリを含む)の数は増えていく、そこでは「面倒臭い」が否定され「直ちに得る」が肯定されている、たとえインスタントなものはインスタントな価値しか持ちえないのだとしても、「モノ」から「コト」への意識の移行が、いつしかより高まっていく新しいツールの簡易性と相まって若者たちからも「工夫」の余地を奪っていくのであろう
そしていつしか誰もこの言葉を顧みなくなる

洞察

ここに私は二十一世紀ならではの文明の特徴を見る、「本来人間こそが担うべき役割の結果的にせよその放棄」故の陥穽をその時々の最新のデジタルツールが埋めていく、大部分はそれで事足りるため実際にはツールでは補えないはずの細やかな精神的なゆらぎも過度なツールへの依存故に見過ごされてしまう
だがこれはこれに反しているのだ

多様性の尊重

何ということであろうか、ついさっきAIは多様性の尊重に合致するため、それに疑問を持つ者もAIを完全否定できないと書いたばかりではないか
そう、それはこれの価値が否定されていないことが絶対条件だったのだ

洞察

洞察がなければAIは最終的に「多様性の尊重」ではなく「均一と均質の肯定」につながってしまう
これはこの第二章の結論と言ってもいい部分である

これは障害者だけではあるまい、大災害の被災者もまた同様であろう、彼らのケアで最も必要なのは洞察力であり故に主体性のある行動である、おそらくその最終地点における一定の範囲内においてAIの出番はほとんどない、だが恐ろしいことにそれを人間に告げるのは他ならぬAI自身であろう

おまえは人間なのにどうしてこれがわからないのか?

いつかAIがこう言う日が来る、AIは瞬間的に人間を超える、だがその時にこそ人類最大のチャンスが訪れるのだ、そしてこうなる

引き際の美学

可能であったとしても前進しない、またはわざと崩す

人類史上初めて合理性、効率性の追求は絶対善であるという前提がその時崩れる、だがこれは良いことなのだ

これはこういうことである

霊の復活

見えるもの、数えられるものの価値には限界がある、真の幸福はそれに霊的な何かをプラスすることでより完成に近づく

そして人々はこうなる

帰郷

皆故郷へ帰るのだ

誰でもそうだが出かける時は急ぐ、そして用事が終わればそれぞれゆっくりと家路につく
私たちが幸福になるためには未完成の個性を磨くための隙間が必要になる、そしてそこからメッセージが生まれ、それによる意思決定がいくつかの行動につながりそれが脈絡(ストーリー)を生む、そして個性が感性と一つになることで骨格が生まれそれが人生における数多くの判断のための基準となる
命とは重さだが人生とは長さであろう
縦軸に重さがあり横軸に長さがある、そして命の価値はその年齢にかかわらず一定であるために人生とは量ではなく質であるということになるのである

ここで前半部分第一章と第二章は終了である
(2018/03/12)

未来人への手紙(2)

未来人への手紙(2)

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第二章 負の肯定、洞察について
  2. (2)
  3. (3)
  4. (4)
  5. (5)
  6. (6)