*星空文庫

トロンプルイユの話

槙野京 作

 トロンプルイユ、あるいはトリックアートというものがある。もっとわかりやすく言うなら騙し絵だ。想像してみてほしい。あなたは今、とある美術館にいる。額縁のない難解な絵画を見上げて、これは何のモチーフだろうと頭を悩ます。青年期の葛藤、いや、現代社会の資本と幸福に関する矛盾か……。などと考えていると、その絵画がやけに薄べったいことに気づくだろう。そう、それは絵画ではなく、壁紙の模様だったのだ。
 まず自身への怒りがこみ上げてくる。そこそこの金を払って入場したのに、見たかった絵画より壁紙に時間を割いてしまった。ひょっとしたらそういうアートなのかもしれないが、それにしたってもっと見るべきものがあるだろう。あなたはため息をついて、自身の審美眼を疑いながらその場を離れる。
 ふと、窓の向こうに青々と茂る灌木が目に入る。朝は雨が降っていたから、まだ水気を帯びているのか、日差しを受けて眩いほどだ。この窓の構図はいい、さすがは高名な美術館だ。あなたは窓に近づくだろう。ところが、ガラスには雫の伝った跡はおろか、埃一つ見当たらない。指で縁をなぞってみようとすると、突き指をしかける。思っていたよりもはるかに平らだ。そう、これは精巧に描かれた絵画だった。
 またやられた。あなたは肩をすくめて「窓」から離れる。今日はなんだか目の調子がおかしいのかもしれない。少し休憩を入れよう。確かミュージアムショップの隣に喫茶店があったはずだ。あなたは階段へと足を運ぶ。
 ところが、あなたは「階段」の前で鼻を押さえて尻餅をつくことになる。あなたが階段だと思っていたのはやはり陰影まで緻密に再現された絵画だったのだ。薄い透明な額縁に鼻っ柱をやられたあなたは、怒りが次第に困惑へと変わってくるのを感じる。これはどうしたことか。確かにこの階段から入ってきたはずなのに。
 あなたは不安になって、近くで絵画を眺めている女性に声をかけた。スケッチブックと画集を持っている。美術系の学生だろうか。勉強の邪魔をするのは申し訳ないと思いながらも、ちょっと伺いたいのですが、と発するはずだった口が固まった。彼女もまた絵画だったのだ。
 こうなったらもう混乱と恐怖が交互に押し寄せてくる。スティーブン・キングの作品にでも迷い込んだ気分で転げ落ちるように走り回る。人、いや、絵画。案内板、いや、絵画。自動販売機、いや、絵画。
 この話に出口はない。なぜって、この話自体がトロンプルイユなのだから。

『トロンプルイユの話』

『トロンプルイユの話』 槙野京 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-07-10
Copyrighted

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