暁の空

 
 幼い頃の僕は、雲の上には違う世界が広がってるんだって思ってた。僕ら普通の人間が、あくせくして、やっとやっとで生きているこの世界とは、全く別物の、何物にも縛られない、自由な世界があるんだって。ふわふわな雲に包まれて、気兼ねなく笑ってられるんだって。半ば本気で、信じてた。
 雲、といっても、青空にぽかんと浮かんでる普通の雲とは違う、もっと立体的で、何層にも重なってて、その後ろに陽が射してて、光の門みたいなのができてるやつ。隙間から零れ出る光に招かれた人が、その門をくぐって、そこに行けるんだ。でも、その切符を貰える人は限られてるんだ。なんらかの事情で、どうしてもこっちの世界にいられなくなっちゃった人にだけ、この世界を離れた時に、その切符が渡されて、風に乗って雲の世界に辿り着く。でも門が開かれる時間は決まってる、黄昏の時間。僕の中で太陽が1番綺麗に輝く時だったから。
本当に、綺麗なんだ。1日ずっと僕らの世界を照らしてくれた太陽が仕事を終えて、真っ紅になって、青空と交ざって雲に反射して、グラデーションが描かれるんだ。黄に橙に朱に、紫。厚みがあって大きくて真っ白な雲が染まっていく。なのにあっという間に色が落ちて、夜の世界になっちゃう。だからその短い間に、招かれた人だけが足を踏み入れることができる。それに、行きたいから行ける訳でもない。雲の世界はいつも風に吹かれて漂ってるから神出鬼没で、気づいたらふっと天上に現れる。行きたいっていくら願っても、現れない。幻みたいな存在。
 ――あれは、僕にとっての桃源郷だったんだと思う。あの時の僕みたいな子供に降りかかる苦労はたかが知れてるけど。父さんや母さんや、周りの大人はいつも忙しくて、余裕が無かったから。それが悪いなんて言ってはいない。そのおかげで僕らは生きていけるんだって、わかってはいるから。
…でも、外に出ると、本当に些細なことで揉めたりしてる人達をたまに見かける。それが何だか、切なかった。そんな時にふと上を見上げると、空が、雲が広がってた。空はどこまでも終わりがなくて、そこに浮かぶ雲は一度も、一つも同じものがなくて、この世界と真逆だ。そこに幼い僕は憧れを感じたんだと思う。
 大人になった今、勿論僕は雲や空や、その上の宇宙や、そういったものの仕組み、理屈を知っている。今の僕はあの時の大人みたいに仕事に就いて、塵労を感じ日々を送っている。疲れた時、ふとオフィスの窓から黄昏の空を見つめる。
…そうすると脳裏に浮かぶ、あの夏の思い出。僕を成長させた、ひと夏の物語…。



[newpage]


 あれは、小学校高学年位の頃だった。その夏、サッカーをやっていた僕はついに、レギュラーを勝ち取った。僕より上手い人も沢山いたし、僕はそれほど体が大きくなかったから本当に嬉しかった。やっと、努力が報われた。そう思っていた。
…でも、どこか浮かれてたのだろう。疲れも溜まっていたのかもしれない。レギュラー決定後の初試合で派手に怪我をした。スライディングでゴールポストに突撃し、ゴールキーパーともぶつかり、頭を打って足を骨折したのだ。すぐに病院へ搬送され、入院となった。幸い特に脳には異常は無かった。勿論レギュラー落ち。行き場のない苛立ちがあった。先生や親、チームメイトの前では虚勢を張ってたけれど、ふと掌を見ると、くっきりと赤黒い爪の痕が残っていた。
…そんな時に、あの子と出会ったんだ。
そう。僕がもどかしさを発散させようと病院の庭で折っていない方の足でボールを軽く蹴っていた時だった。
―足、怪我しているのにサッカーなんて凄いね。でも、大丈夫なの?
そう微笑みながら、僕の方にゆっくり歩いてきた女の子。歳は僕と同じ位で、風になびくわずかに青色がかった髪と、少しはにかみながら見せる笑顔がとても印象的だった。…でも、どこか寂しげな雰囲気も漂わせていた。
声をかけられた瞬間僕は小さく飛び上がった。
―あ。やっぱり止められてるんだね?いけないんだ。…大丈夫、誰にも言わないよ?でも、珍しいものを見たって、私の中にとどめさせてもらおうかな。…いいでしょう?病院に長くいるとね、刺激が足りないの。
―…入院、長いのか?
僕の知る、学校の女子とはどこか違う雰囲気の彼女を前に、調子が狂った。
―つまらないか。まあ、そうだね。来たくて来てる人なんていないものね…
―というか、何?わざわざ声かけてくるなんて僕、そんなに目立ってた?
ついつい、どう返せば分からなくて、返答がぶっきらぼうになってしまった。
…第一印象は良くもなく悪くもなくだったけど、やたらと調子が狂って自分で墓穴を掘っていたな。昔の自分がどこか面白くて、笑ってしまう。まあ、小学生男子なんてそんなものか。
―ちょっと付き合って。このベンチからボールを転がしてくれるだけでいいから。
―いいけど、なら私のお願いも聞いて。私のお友達になって、ほしいの。どうせならこの入院生活、存分に楽しみたいじゃない?
―…いいよ、友達。なってやる。
―本当?ありがとう!断られるのかって、怖かった。ありがとう。本当に、ありがとう!
…あんなつっけんどんな奴だったのに、彼女は、何回もありがとうって言って、喜んでくれた。こっちが恥ずかしくなるくらい、何回も。
それから、ニ人で、色々話した。庭で遊んだ時も、互いの病室に行った事もあったな。彼女のお母さんに会って挨拶をしたこともあった。お母さんはとても優しくて、息子ができたみたいだ、なんて冗談交じりにだけど言ってくれる人だった。
……僕が昔思い描いていた雲の世界を初めて他人に話したのも、彼女にだった。
―…とまあ、小さい頃の僕はこんな事を真剣に考えてたんだよ。可笑しいだろ?雲の上に別の世界が広がってるだなんて、逆によく考えついたよな、僕。笑っていいぜ?…あ、勿論今はそんな事信じていないからな?雲の正体だって知ってるからな、水や空気中の塵の集まった塊なんだぞ!
彼女は僕の話に真剣に耳を傾けてくれた。そして、こんなことを言った。
―雲の世界…ね。どうしてもこっちの世界にいられなくなっちゃった人が招かれて、黄昏の時にだけ門は開かれる…凄い!凄いね、そうか…雲が色々な形や色をして流されて行くのはそのせいだったのね…そっか…だから、空はあんなにもどこまでも綺麗なんだ…
彼女は感嘆しながら僕の言った事を繰り返していた。やっと僕がいることを思い出したかのように彼女は、
―ごめんね?つい。考えたこともない素敵な世界だったから。
……私はね、たぶんそう長くは生きられないの。私、あなたには怪我した理由を訊いたくせに私がここにいる理由を言わなかったでしょう?…生まれつきの心臓病なの。最近は落ち着いていたけど、また発作を起こしちゃってね。それでまた、ここに帰ってきた。この間、先生とお母さん達が話しているのをたまたま聞いちゃったの。以前よりも悪化してるって。自分の事だもん、薄々は気づいてたわ。でもやっぱり辛かった。あぁ、大人にはなれないんだって。うっすら射してた光も、消えちゃった。
…そんな時に、あなたに会った。そして今、雲の世界を聞いた。嬉しかった。だって、この世界で私は終わりじゃないんでしょう?私はその世界で大人になれるんでしょ、未来があるんでしょう?
何も、言えなかった。身体の奥の深い所を、金槌で思い切り叩かれて、全身がじんじんと痺れていくみたいだった。そりゃあ、病院に長くいるって事は、重病なんだろうって事ぐらい気がついていたつもり。でも、死と隣合わせだなんて思ってもみなかった。
そんな僕の様子に気付いた彼女は申し訳なさそうに笑いながら言った。
―ごめんね、あなたにそんな顔させるなら言うんじゃなかったわ…でも、これからも仲良くしてくれる?
…頷くことしかできなかった。

それから僕は、少しだけど変わった。自分の不注意で怪我してレギュラー落ちしたからって苛立ってる自分が恥ずかしくて、馬鹿らしくて、そんなことをしている暇があるならせめて僕が一緒にいれる時ぐらい、彼女が病を忘れて笑ってられるようにと。
それでもやがて、僕の退院の日は近付いてきた。まだ完治はしてなかったけど大分良くなっていて、先生は良かったな、もうすぐまたサッカーできるぞって嬉しそうに言ってくれた。
…でも先生と一緒には笑えなかった。入院初日にあんなに家に帰りたがっていた自分とあまりに逆で、嘲笑ってしまうくらいだった。
勿論退院も、またサッカーが出来る事も嬉しかった。でも、あの僕にはまだ、やるべき事があったんだ。
診察の後、彼女の病室に行った。遅かったじゃない、待ちくたびれちゃった。わざと少し頬を膨らませる彼女の表情が可愛くて…胸が痛かった。
―ごめん、待たせた。…その上に悪いけど…僕の退院、決まっちゃった。三日後だって…。
彼女の顔が見れなくて俯いたままぼそぼそと告げた。彼女が息を飲むのがわかった。
―…そっかあ、おめでとう。サッカー出来るって事じゃない。喜びなよ。
…あなたは私に色々良くしてくれたから寂しいけれど、大丈夫。あと二日はあるんでしょう?それなら目いっぱい遊ぼうよ。こないだの世界の話も、もっと詳しく聞かせて?ほら、今日は久しぶりに庭に出ようよ。
あの子はこういう時、自分の気持ちを抑えるんだ。前にここはそんなに同い年の子がいないからつまらないんだって、言ってたのに。僕がいなくなったらまた、独りで真っ白な部屋で過ごすんだろうに。

そのニ日間はあっという間に過ぎてしまった。退院日の朝、僕は起きがけに、彼女の部屋に行った。あの子はベッドにもたれながら暁の空を見ていた。
―おはよう。退院、おめでとう。もう怪我なんて、しないでね。
―…おはよう。えっと…今まで、ありがとう。まぁ、僕の暇潰しにはなったよ。…はい、これ。なんていうの、餞別?
―餞別って、逆じゃない?まあいいや、ありがとう、…わあ、ありがとう!雲の写真じゃない!ふうん、これがあなたの思う世界なのね、綺麗…
―よかったら、貰ってみてよ。僕が前に撮ったんだけど、僕はいらないし。僕がここにいる間にはこれってやつはなかったから丁度いいだろ。
―そんなに滅多にないの?厳しいね…へぇ…写真、上手いのね。ありがとう。大事にさせてもらうね。…ごめん。私何も用意してなかったわ…
―…別に、いいよ、たまたまあったからあげるだけだし…それじゃ、僕は行くよ、じゃあな。まあ、楽しかったよ。
―待って!もう少し、時間あるでしょう?最後のお話、させて。…あのね、今の空、綺麗でしょう?暁よ?あなた前、門が開くのは黄昏の時間だって言ったけれど、私は暁の時間にも開くと思うのよ。地平線から出た陽が紅く燃えてるのよ?ほら、あそこ。雲に射してる部分が赤紫に染まってて、でももっと空の上の方はまだ暗くて、よく見れば星まで見える。ほら、絶対開いてるわよ、今。あなたもそう、思うでしょう!
―…暁か。確かに今の空なら、開いててもいいな。…じゃあ、いいよ。暁も開く時に、入れてやる。
―ほんと?やった。私も世界を見れたのね!…あ、待って。これで本当に最後。もうちょっと窓際に立ってて。
そう言っておもむろに立ち上がり、ベッド脇に置いてあったインスタントカメラを手に取り、僕の隣に立った。何かと思いきや、腕を伸ばして二人の写真を撮った。
数分して出て来た写真を満足そうに眺めて、僕に渡した。
―はい。これが本当の餞別。受け取って?我ながらよく撮れてるわ。丁度光の門は見えてていい背景になってるし、あなたも珍しくかっこよく写っているでしょう?
自信あり気に僕に写真を渡して、笑った。
―まだ診察はあるでしょう?病院に来た時はここに寄って。私は、ここにいるから。
…それじゃあ 本当に、さようなら。また、今度。
……そう言って、別れたな。
あの時僕は、ちゃんと挨拶を返せたんだっけか…


[newpage]



もう一度、逢う事は、叶わなかった。
あの別れから二週間位経った時だった。その日は診察の予定日で、朝からどこか浮き立つ僕がいた。久しぶりだ。あの子も喜んでくれるかな。今日は何をしてやろうか…
診察が終わり、廊下を走って、行き慣れた病室を開けた。ベッドの上には―綺麗に折り畳まれたシーツ。皺一つなかった。
脇の棚にはいつかのインスタントカメラと、僕があげた写真が写真立てに入っていた。
最初、僕は状況を理解出来なかった。暫く、立ち尽くしていたんだと思う。背後から声をかけられた。あの子のお母さんだった。
―わざわざ、来てくれたのね。ありがとう。入れ違いになっちゃったのね…
―あの、彼女は…
訊いたらなんとなく予想が真実になってしまいそうで、でも訊かずにはいられなくて、恐る恐る尋ねた。
―今朝の、早朝に、逝ってしまったわ…昨日の夕方、容態が急変して…あの子も頑張ってくれたのだけど…丁度陽の出の頃に…
嫌な予想が、現実になってしまった。どうして…。
確かに、永く生きられないとは言ったけれど、こんな早いだなんて、聞いてない。あれが最期だなんて。なんで、なんでだよ…
彼女のお蔭で消えた掌の爪の痕が、また表れていた。
―本当に、ありがとう。あの子と一緒にいてくれて。あの子は長い入院生活で、友達が少なかったから、あなたがいてくれて、本当に楽しかったのよ。あんなに笑ってたの、いつぶりかわからないくらいだったわ…

そして、僕に封筒を手渡した。
 ―あの子が、あなたに渡しておいてくれって。できれば読んであげてね。
重ねて僕に礼を言って、お母さんは立ち去った。僕はずっと立ち尽くしていた。暫くしてから、僕はふと、渡された封筒を開けた。中からは便箋数枚と、何かの植物の種と、インスタントカメラで撮ったらしい写真が出て来た。写真には全て、大きな雲が写っていた。僕は立ったまま、種と写真をベッドの傍らに置き、手紙を読み始めた。
――久しぶり。久方ぶりのお家やお友達はどうだったかしら?こちらは、あなたが退院してから、毎日がつまらないわ。特に面白いこともないから、これを通してあなたに話し相手になってもらおうと思います。読んでくれたら嬉しいわ。
あなたがあの話をしてくれてからね、一人の時、よく窓の向こうを見つめて考えるの。いいなって思ったものは写真にするの。でも、なかなかあなたを超えられないわ。一緒に入ってるのは、一応の自信作なのだけれどね。こないだは暁も門が開く時間だって言ったけれど、その他にも色々思い付いたのよ。
まずね、青空にぽかんと浮かぶのは違うってあなたは言うけれど、私は違わないと思う。 
向こうのひとが少し遠くに行きたい時、雲の世界の一部をちぎって風に乗っていく、舟なのよ。それで、向こうのひとにとって青空は私達の世界で言う海みたいなのよね。
こちらの世界も捨てたもんじゃないって思うの。あの世界の外観を見れるのは、こちらにいる人達だけだから。こちらの世界で頑張ってきたからこそ、向こうの世界のありがたみがわかるの。理想郷じゃ、駄目なの。厳しい事を言うようだけど、こちらの人生を簡単に投げ出しちゃう様な人に、あの世界行きの切符は絶対に与えられないわ。どの世界だって、楽して得られるものなんてないし、あったとしてもそれはにせものの何かよ。だって、あなただってレギュラーになるために沢山練習したんでしょう。あなた手足にあざ残してたじゃない。練習なしにレギュラーになれるだなんてありえないから、そんなに練習したんでしょう?
ところで、一緒に入ってる種が気になっていると思いますが、なんだかわかる?それね、朝顔と夕顔の種なの。この花はそれぞれ、暁と、黄昏に咲き始める花よ?誰よりも先に、あの世界の扉が開く瞬間を見ているわ。だから、私達が見れない時でもきっと、代わりに見てくれると思います。そしたら絶対に、見逃さないわ。私達は日常に追われ、見れない時もあるから…。なぜかお兄ちゃんがもらってきたらしくて、いらないとか言うから、譲ってもらっちゃった。そのうち半分は、あなたに持っててもらいたいの。今から育てればぎりぎり夏の終わりには間に合うでしょ。私は昨日植えたわ。一時帰宅日だったので、家の庭にまきました。世話はお兄ちゃんがやってくれるって言ったから、頼んじゃった。だからね、花が咲いた時、お互いにどんな形か、どんな色か教えあおうよ。楽しみ。花が咲くのも、あなたとその話をするのも待ち遠しくて仕方ないわ。あ、言い忘れてた。朝顔と夕顔の花言葉知ってる?知らないでしょ。男の子だものね。朝顔は『固い絆』、夕顔は『逆境に克服する力』。どう?ぴったりじゃない?固い絆、私とあなたの間にあるって信じてるんだけど。逆境に克服する力は、元気が出たわ。まだまだこれからだものね、私も、あなたも。やるべき事が、あるものね。
話したいことは他にも沢山あるのだけれど、便箋がなくなりそうなのでそろそろ終わりにします。あ、いつの間にか陽が落ちちゃった。早速今日の黄昏を見逃しちゃった。これは早く夕顔たちに育ってもらわないとね。
では、今日はこのへんで。おやすみなさい。次は会えるのを、心待ちにしています。――
途中から視界がゆがんで、ろくに読めなかった。手紙を握っていた手に力が入り、便箋は音をたててくしゃくしゃに潰れた。そこに頭を押し当てて、僕は嗚咽を漏らしていた…
…あの時、久しぶりに泣きまくってたなぁ。
男が涙なんて格好悪い。そう思う年頃で、怪我した時も全く泣かなかったのに、あの時だけは涙が止まらなくて、手紙がぐしょ濡れになって、後で皺を伸ばしながら必死に乾かしてたっけ。
…でも、あの後、逢えたから、もう、泣かないって決めた。
俄にはとても信じられないけれど。
 ひたすらに泣いて、泣き疲れた僕はふらふらと家へ向けて歩いていたんだと思う、多分。何せ俯いたまま歩いてたからか、気づいたら僕の周りに靄のような、霧のようなものが満たされていて、視界がとても狭くなっていた。そこで普段と違うことを察した僕は辺りを見廻した。視界は白く霞んでいくばかり。僕は焦って、まだ完治していない足を無理矢理に動かせ走った。何なんだよこれ、誰かいないのか、誰か…
全く人の、いや生きものの気配がしないことが余計に僕を焦らせ、でも脚は思うように動かなくて、ついに僕は脚を絡ませ転んでしまった。でも―
痛く、ないのだ。驚いて、うつ伏せに倒れたままでいたら、頭上から聞き覚えのある笑い声が降ってきた。
―来てくれたね?ありがとう。いつまで転んでるの?痛くないでしょう?
そう言って手を差し出してくれた。痛くなくても脚は治ってないんだよ、と言い訳をしながら手を借りて立った。…ああ僕、いつの間にか死んだんだ。哀しくて死んだなんて、まるで兎だな。今の僕はとても飛び跳ねられないのに。…それでもいいか。もとからさしてめちゃくちゃやりたい事なんてなかったし、、、
―何考えてるの。私の顔も見ないで。折角逢えたのに。あ、もしかしてあなた、自分も死んでしまってこちらに来たと思ってる?
―そりゃ、そうだろ。僕は、死んだんだな。あったんだな、この世界。てっきり僕と、君の妄想の中にしかないと思ってたのに。
―ちょっと待って。色々言いたいことがあるのだけれど、まず。勿論あるわよ。私達があんなに考えて、願ってた世界がない訳ないわ。 それに、あなたは生きてるわ。私は残念だけどもうあちらの世界には戻れない。でもあなたは今、一時的にここにいるだけなのよ。
―それこそ訳がわからないよ。一時的にいるだって?
―ええ。どうやらここでは最後の最後に、1人だけ、本当に逢いたいひとと逢えるの。私は最後に、あなたに逢いたかった。病院で出来なかった、お話をしたかったから。
そこで僕は初めて、自分がずっと手に握っていた物に気付いた。彼女が遺してくれてた、手紙だった。もうしわくちゃの上に、汗だの涙だのでいつの間にかぐしゃぐしゃになってしまっていた。
―その様子なら、読んでくれたんだ、それ。もしかしたら、泣いてもくれたのかな。あなたは、優しいから。
―なんで、その…最後に呼んだ、のが、僕なの?他にいるだろ?家族とか…
―家族なら、皆に逢えたわ。お父さん、お母さん、お兄ちゃんにも。ちゃんと、お別れだって言えた。私が最期に逢いたくて、でも逢えなかったのはあなただけなの。あなたに何も言えずにあちらを離れるのは、嫌だった。
―僕は、そんな大層な奴じゃないよ。少なくとも、最後に呼べる1人に選ぶべきじゃ…
―何言ってるの?怒るわよ!?あなたはそんなに私に逢いたくなかったの?
僕の胸を叩き彼女は怒った。悔しそうに呟きながら。彼女は感情をあらわにするような性格じゃなかったから、僕は只々目を見張っていた。
―…あのね、手紙には、まさかあれで最後だなんて思ってなかったから書いていないけれど、私はずっと、雲の世界と一緒に自分の死について考えてたの。もうそんなに永くないって、感じていたから。もしこの世界に来れなかったら、どうなるんだろう。ブラックホールみたいな所へ吸い込まれて消えちゃうのか、それとも地獄に堕ちちゃうのか…怖かったわ。これこそが死への恐怖なんだって。だからね、最期に思わずお兄ちゃんに訊いちゃった。あ、ごめん、雲の世界のこと、お兄ちゃんだけには言っちゃったの。あなたとはどことなく雰囲気が似てる気がして…もしかしたらわかってもらえるんじゃないかって思って、つい。…私は、雲の世界に逝けると思う?って。お兄ちゃんは、行けるって、強く頷いてくれた。それでちょっと安心して、無事来れた訳なの。
―もう、こっちに来れたから大丈夫なのか?その、不安とか…
―勿論、平気な訳ない。もう、一緒に過ごせないんだもの。淋しいわ。でも辛くない。悲観もしてないわ。ほら。見てみて?あそこ、ちょっと雲が薄くなってるでしょ?ああいう所からね、皆の世界がうっすらと透けて見えるの!そりゃあ一挙一動までは無理っぽいけど、皆と繋がっている気がするのよ。どんなに細い糸でも、繋がってることが大事。そんな感じなのかな。
―そうか。なら…
―あなたの事も見ているわ。あなたがレギュラーで出るサッカーの試合も、見せて頂くわ。
そう言って、笑う。もう、翳りのないその微笑みが嬉しいようで、でももう僕とは明らかに違う世界に行ってしまったことを示していた。全身が沢山の細い針でブスブスと刺されてるみたいだった。
―あなたは、あなただけは、何があっても投げ出さないで。どんなに辛かろうと、苦しかろうと、絶対に、早くこちらに来たいだなんて思わないでね。思ったら最後、決してここには来れないから。今のあなたを見てると、ちょっと不安だけど…でも、私はあなたが本当は強いって知ってるわ。だから、あなたに托したいの。私が見れなかった世界を、見て。聞こえなかった音を、聴いて。触れられなかった全てを、代わりに。そしていつか、遠い日に。また逢って、教えて?それまで私はのんびりと、ここの舟を漕ぎ続けるから。
……もう、時間が無いや。本当の最後に。とても短い間だったけど、あちらの世界であなたと逢えて、過ごしている時間は、とてもあたたかかったわ。そろそろ、これ以上引き留めたら、あなたが還れなくなっちゃうから…それじゃあ、またいつか、いや、よぼよぼのおじいちゃんになるまで、決して来ないでね!…………!
―あ、おい、待て、待てよ、おいっ…!
僕の周りに一層濃い靄が取り巻き、風が渦を巻いた。それを最後に、目の前が真っ白になった―

 気づいた時、僕は近所の公園のベンチに膝を丸めて居た。そこは、僕がもっと幼かったいつかの日に、雲を見あげていた所だった。僕はそこで、もう一度天を仰いでみた。すると、真っ紅な陽が傾いて、僕らを照らしていた――



[newpage]



 …本当に、信じられない話だ。とても他人には言えない。僕自身だって、あれは夢じゃないかって思う。雲の中にあるのは、水と空気中の塵。それだけだ。…でも、いるんだ。あの子は、あの先に。これはきっと、理屈じゃない、科学とかを越えた所にあるんだ。…だから、信じてる。あの時の僕も、今の僕も。どんなにこの世界に失望したとしても、逃げてなんかやらないさ。
……君は、あの花の色を知らない。お兄さんに世話を頼んだという君の花も、僕の花も。君に貰った種はあの夜、少し蒔いて、残りは袋に入れて、君の写真と手紙と一緒に、僕の部屋のコルクボードに刺してある。蒔いた分は綺麗で立派な花をつけた。その花は、押花にして、ラミネート加工で、栞にした。手帖を開けば、いつだって見れる。色かたちを、早く伝えたくて仕方ない。でもまだ、辛抱だ。君が待っててくれるから、僕もゆっくりいくよ。…心残りと言えば、君が最後になんて伝えたかわからなかったこと。でもそれはいつの日にか、君に訊けるよね?
………君は、知っていただろうか。朝顔にも夕顔にも、『儚い恋』という花言葉が別にある事を。あの幼い僕にとって、君は多分に初恋だった。君が僕の事をどう思ってようと構わないけれど、僕は君を好きになってしまっていた。苦くて甘い、僕の初めての恋。もはや決して叶わないあの恋を、君がくれた全てと共に、抱えるから。
…今日もまた、陽が落ちた。夜は紺碧の空だから雲の世界はこちらからは見えにくくて、少し切ないけれど、また日は昇る。さて、もう一仕事。こっちの世界で塵労に暮れるのも、それもまた、いいかもね。………君が僕を、見ていてくれるから。

暁の空

暁の空

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-06

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