*星空文庫

バイアス

一色亜月 作

それは人魚の恋に似ていた。


ハッピーエンドがふさわしくないのは自分を大切にできないから。それがさようならの代わりだったと思う。



誰も知らないからと案内された部屋の壁は薄くて息をひそめて扉をしめた。
そこでは記憶に残らないような他愛もない話を延々としたり通行人の足音ですぐに途切れたりして、秘密基地のような何も無いその場所が愛しくて、雨の日も風の日もかよった。静かな夜は、ガラス越しにキスをしたり子宮が疼いたりした。


琥珀色の飲み物が好きだから透明の飲み物しか知らなかったわたしは琥珀色を選んで飲んだ。少し背伸びをして遠慮をして、上手には話せなかったけれど、すみずみまで知りたくていつも前のめりになってしまう。同じものを見て同じものを聴いて同じものを感じているだけで幸せだったのに、いつしか生まれてしまった理不尽が情愛を求めた。知らない飲み物を飲んで当たり前のように溢れたヒトの心を授かる。望んだ願いがわたしの面の皮を剥いだけれど、痛みは、簡単に体温で消えた。


あるときから部屋に来るのはわたしだけになった。遊びの約束はしていなかった。日々が忙しくなってアソビがなくなった。
秘密基地にはどちらかが入っては出て、その足跡だけが残るようになった。足跡を指でなぞる。なぞって掌で消した。部屋が秘密基地だとわからないようにするためだった。消えてしまうそれを忘れないように注意をしながら。
入ってくるのを待ち伏せればすむ話だけれど、捕まえてするほどの話などわたしにはなかった。聞きたいことは山ほどあったけれど、忙しい君をよろこばせる自信はなかった。


秘密基地にいかなくなった。


秘密基地の灯りがともっていたら素通りしてしまうほどだった。
何を話していいのかわからなくなった。忙しい君への思いやりではなくて醜いわたしが欲に狂っていたからだ。
投げた言葉は、投げたかったものと違うものを置きざる繰り返しで、そのうち疲れて、わたしは君から笑うことを奪ってしまった。


言葉はうしなった。


ひどい雨の降る日、雨音に紛れてひとり部屋を荒らした。荒れ果てた部屋で君は何を思っただろう。雨がやんで乾いた頬に触れると正気が焦燥をかりたてた。見えなくすれば解決できると思った。見えなくなったのは、存在ではなく君の心だった。ただいるだけで強くなれた過去が無様を嘲笑う。いそいで戻った秘密基地は秘密基地のままで、意図は闇に溶け途方に暮れて、優しい君は荒れたままの部屋をそのままにしていた。


たったひとつ変わったことは、ここが秘密基地ではなくて、主が留守のただの空き部屋になってしまったということ。足跡もなくて、君の匂いも消えていた。見えないようにするのはもう自分の足跡だけだった。


けれどこんなひとりよがりもそろそろ終わりにしないといけない。足跡は重なりすぎた。君は解読の天才だから部屋の変わったところをすぐに見つけてくれるだろうけれどきっと今度は君が逃げ出してしまう。


出会えた海は広くてどこにでも繋がっているしどこにも繋がっていない。ふわふわ浮かんでいたところで目印もないものを見つけることは不可能だからいっそ息の根をとめてわたしを迷子にはしない。けれど、読まれることのない手紙の時間が動き出さないように伝わらない想いは泡になって消えることを君は知っているから君のさようならはどこにもない。ただ、本当の君が嘘をつけない人だと知ってしまったからには、君を待つことは野暮だと心得て気づかないふりでいることがたったひとつのわたしにできること。もしも迷ったときもう岸へあげることはできないけれど、何度でも生まれ変わる泡は寄せるからきっと君はたつ。


だから、さようなら。

『バイアス』

『バイアス』 一色亜月 作

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-28
Copyrighted

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