Fate/defective [×××]
僕はわからない。幸せというものが。喜びというものが。
だが、理解はしている。目の前で友人が食べ物を食べて美味しそうに笑っていれば、それは喜びだと理解することはできる。
ただ、自分自身からは酷く遠いもののように感じた。
それらを手に取ろうとしたことはある。しかし幸せも喜びも、触れる前にすり抜けてどこかへ消えてしまった。
悲しいとは思わなかった。そういうものなのだと妙に納得してしまっただけで。
それが、始まりだったのかもしれない。
いや、起源は。運命は、もっと前から僕を取り囲んでいたのだろう。それこそ生まれ落ちたその瞬間から。
微かに声が聞こえる。
随分と昔。それこそ、この身に痕が焼き付く前に聞いた。自分より年上の少女の声。
彼女は、僕の頭を撫でて。そして告げた。
お前は、多くと出会うだろう。多くを手にするだろう。しかし、その全てと“乖離”することになる。
時に自分自身の心さえ。
物も人もすり抜けて、触れることすら叶わぬことも、あるかもしれない。
はっきり聞こえていた声が、遠ざかっていく。
だがな、×××。それを嘆くことはない。離れるということはーーーー
◆◆◆
佑は目を覚ました。寝台の半分ほどに月明かりが差しているのが目に入る。
カーテンは閉めていたはずなのに。
体を起こせば、窓の方に人影が見えた。窓から漏れる月光でその人の姿はシルエットになる。真夜中の影法師は、流石に恐ろしく見えた。
影法師はこちらの気配に気づいたのか、くるりと振り返る。くすんだ色素の薄い髪が、月明かりで控えめに輝いた。
「おはよう。随分と早起きなんだな」
おそらく冗談なのだろうけど。真面目な顔でいうものだから僕は苦笑した。
「まだ夜中だよ。那次。あと三時間は寝ていられる」
壁に掛けられた時計は、丑三つ時を過ぎたあたりを示していた。彼もそれがわからない訳ではないだろうに。
彼の冗談なのか本気なのかわからない言葉に笑っていると、彼の瞳がこちらをじっと見つめていることに気がついた。顔は無表情で眉ひとつ動かないが、僕にはわかる。すこしだけ、不機嫌になったのだと。
「……何度も言うが、僕は“ナツグ”じゃない」
否定。彼とは出会ったときからこの問答が続いている。髪の色も肌の色も。一見何もかもが違うように見えるが、僕は一目で那次だとわかった。
しかし、本人はどうやら記憶を失っているらしく、自分の名前はおろか生前の記憶も思い出せないようだった。それどころか、召喚したばかりの頃は言葉すら忘れていた様子で、その間に敵襲がなかったことは本当に幸運だったと言うほかない。
「真名は……忘れてしまったが。少なくとも、今の僕の呼称はライダーで十分だ。これでクラスさえも判然としていなかったのなら、その呼称でも構わなかったが」
ライダーは名前も覚えていないというのに、それを気にもしていないようだ。
自分の名前なんてどうでもいいと言っているようにも聞こえて、佑は努めて優しく穏やかに彼の名前を呟いた。
「……それでも、那次は那次だよ」
僕が僕であるように。声を聞いたライダーは黙り込んだ。
真夜中の静寂が部屋を包む。しばらく考えるように視線を巡らせた後、ライダーはこちらに聞こえるのもやっとな声量で呟いた。
「ユウは……どうして聖杯戦争に?」
召喚されてから、ずっと疑問だったのだろう。そういえばライダーと会ってから、僕はライダーを気にかけてばかりいる。ライダーからすれば聖杯戦争に参加しそうもなく見える男が、サーヴァントの心配ばかりしていたら。聖杯戦争に参加する理由を訊きたくもなるだろう。
「そうだなぁ、放っては置けなかったから」
僕はすこし逡巡した後、そう答えた。僕の知る聖杯戦争も、そのさらに前に起きた聖杯戦争も。多くの人が犠牲になった。人を救うとか、世界を救うとか。大それたことを考えたわけではない。ただあまりに恐ろしいこの戦争を、どうにか穏便に済ますことができないかと思ったのだ。関係の無い人が巻き込まれることのないようにと。
「放って置けない?」
「うん。とても危ないものだから。関係ない人が巻き込まれないための、監視役……みたいなものなのかな」
「お人好し」
その言葉を聞いたライダーは呆れた様子だ。口の端も眉も大きく動くことはないが、僕にはライダーの様子がよくわかった。
「うん。僕もそう思う」
聖杯戦争に巻き込まれることになったと知ったアリアナたちには、呆れと心配を含んだ怒りの声を散々聞かされた。何故僕なのか。命を懸ける理由があるのかと。
「でも、それで君に出会えたっていうなら。この聖杯戦争に感謝しなくちゃいけないな」
これから命を懸けた戦争に臨む人間とは思えないような、穏やかな声が出た。ライダーは僕の声に訝しげな視線を向ける。
「……すぐに別れの時は来る。なのに何故殺し合いに感謝するんだ」
ライダーの声は。呻くような、すこし苦しそうな声に聞こえた。
その声の温度には聞き覚えがあって。僕は泣きそうになった。
「那次は……本当は。別れるのが怖かったんだよね。だから、初めから人を遠ざけていた。別れがわかっていたから。でも」
いつか会えなくなるから、出会ったことを喜べないだなんて。そんなのは悲しすぎる。彼は僕たちと過ごしていながら、そんなことをいつも考えてきたのだろうか。
いつか来る別れを怖がらないで。
こうして会うことができたことを幸せだと、感じて欲しかった。
「別れても、一生会えなくても。出会わなければ良かったなんて、思わない。思えないよ」
だから、感謝するんだ。出会いを与えてくれた運命に。
「……よく、わからない」
ライダーは首元を手で擦って俯いた。彼にとっては、僕らもいつかは別れる人々の一部だったのだろうか。那次にとっては。ライダーにとっては。
それとも“そういうことにしている”のだろうか。
「わからなくても、いいよ。ただ、君に……ライダーに会えて良かったって思ってるんだ。それだけは、伝わって欲しい」
会わなければ、気づかなかった。知らなかった。彼のこのような姿を、存在を。
今この世界に、那次が二人いることになっているのが不思議で仕方がない。だが、英霊とは過去も未来も関係なく選出されるものらしい。ならば、きっとライダーは未来の那次だ。この聖杯戦争がなければ、未来の彼がこんなにも擦り切れた人形のようになってしまうことなど知らなかったのだ。この未来が確定事項かもしれないなんて、思いたくもないけれど。
笑いかけた僕の顔を見て、ライダーは自信なさげに呟いた。
「……戦力としては期待しないでくれ」
「そういう意味じゃないよ。うん、やっぱりそういうところが那次らしいな」
「だから、僕はナツグという奴ではない」
表情はぴくりとも動かなかったが、微かに逸らした視線が彼の戸惑いを物語っていた。
言葉の意味に気づいていても。気づいていなくても。好意だけは無意識に避けている。見た目や境遇が変わろうとも。性質だけは変わることはない。
僕の知る那次が、思ったよりも色濃く残っている、 僕の“二人目”のサーヴァント。
何故、英霊になっているのか。何故、僕のことを覚えていないのか。謎は尽きないけれど。
戦いが始まるまでは、それらを忘れてライダーとの何気ない会話を噛みしめていたかった。
彼の中に、少しでも温かな感情を与えてあげたかった。
◆◆◆
もう、十分だろう。
あいつらは、十分に辛い思いをしてきた。
優しすぎる×も。
素直じゃない××××も。
遠くへ消えた××××××も。
これ以上苦しむことなんて、ない。
でも僕なら。痛かろうが、辛かろうが構わない。
それらには、すっかり慣れてしまったから。
あいつらが苦しんでいることの方が、痛いから。
だからーーーー
「連れて行け。何処へでも」
地の果て、海の果て。世界の果てでも何処へでも。
そして、どこかであいつらが笑っているのであれば。
もう、それだけでいい。
Fate/defective [×××]