*星空文庫

伊藤家の忘れ形見

播磨王66 作

  1. 1話:226事件と伊藤史郎の誕生
  2. 2話:史郎のスパルタ教育
  3. 3話:伊藤家の財産分与
  4. 4話:伊藤史郎の大学卒業と就職
  5. 5話:吉川部長宅を訪問
  6. 6話:早苗さんとの出会い
  7. 7話:花火と早苗さんとの出会い
  8. 8話:英語塾とドライブ
  9. 9話:工事現場の初視察
  10. 10話:史郎の海外研修旅行
  11. 11話:現場出張と縄張り争い
  12. 12話:デートとドライブ計画
  13. 13話:早苗さんとお泊まりドライブ
  14. 14話:海外研修旅行と長男誕生
  15. 15話:重症メニエールで倒れ、退職
  16. 16話:再就職に成功
  17. 17話:1級建築士の合格指導教室
  18. 18話:遅れた結婚式場予約と指輪購入
  19. 19話:アクアラインの協議会に参加
  20. 20話:スカGからパジェロへ
  21. 21話:久しぶりの実の母との面会
  22. 22話:実の母の横浜訪問
  23. 23話:海外営業部への配属1
  24. 24話:海外営業部への配属2
  25. 25話:シンガポールのLIMさんとの出会い
  26. 26話:LIMさんからの支援1
  27. 27話:LIMさんからの支援2
  28. 28話:海外営業活動のドクターストップ
  29. 29話:元の1級建築士の教育研修を再開予定
  30. 30話:パソコンの教育担当へ1
  31. 31話:パソコンの教育担当へ2
  32. 32話:パソコンの教育担当へ2
  33. 33話:パソコン専門家の採用試験1
  34. 34話:パソコン教育室の選抜完了
  35. 35話;1級建築士の合格率低下の原因と対策
  36. 36話;1級建築士の合格率低下の原因と対策
  37. 37話:第二アクアライン検討会発足と東日本大震災
  38. 38話:吉川茂紀部長の死
  39. 39話:第二アクアライン工事着工
  40. 40話:史郎の突然の死

あらすじ:
名門のでの伊藤史郎は、226事件で犠牲になった伊藤広重侯爵の家の子供、伊藤和子の息子だ。
しかし伊藤家の血筋も戦後、伊藤史郎だけになってしまった。つまり伊藤史郎が名門・伊藤家の忘れ形見となった。
戦災を逃れて信州・松本に疎開して、厳しい教育を受け、信州の名門・松本深志高校から東大建築学部へ進学した。
その後、以前、伊藤家の金庫番をしていた山本和夫から伊藤家の財産をスイスの銀行に金塊50Kgとして預けてあると話を聞き、母の伊藤和子が松本の豪農の家に嫁ぎ金に困らないという理由で伊藤家の全財産を相続する事になった。山本和夫の息子の山本康男がN證券に就職して、伊藤史郎に投資で資産を増やさないかと言われ、言われるとおりに、株の投資を始めて、為替取引で巨万の富を作り上げた。その後、史郎はゼネコンに入社し、いろんな経験を積み、65歳で定年退職を迎えた。その後、第二アクアラインの計画が遅れたものの、2019年に完成し、その後の首都圏の多くの高齢者問題の対策のメンバーとして、その後、首都圏・老人問題協議会のメンバーに就任して、1級建築士としていろんなアイディア、意見をだして、この問題解決に奮闘していった。まず、千葉のゴルフ場の跡地に、建て替え、再利用可能な、プレハブ、木造の3階建ての老人施設を持つコンパクトタウン計画の立案。首都圏で耐用年数が10年以上15年以下と診断されたマンションを国と地方の資金で耐震工事をして、立て替えできないマンションを耐震化して老人施設として使えるマンションが1000ヶ所ある事を突き止めて30万人分の老人施設を提案して完成させた。協議会で老朽化してゴーストタウン化しているニュータウンの手直しで40万人分の住居が確保できる事を調べた。更に、低年金生活者のために、自分の死後に、残った財産を、入居一時金として使える様に法律を改正して月々の支払金額を減らす事ができるように改善した。そして、金融関連会社、リース業者、建設・不動産会社、個人、団体、法人、特殊法人が老人施設市場に参入できるようにすると老人ホーム市場に多くの企業が参入し、新しい老人ホームができだして、2028年には徐々に、首都圏の独居老人、老老介護、老人施設の不足の問題が解決されていった。

1話:226事件と伊藤史郎の誕生

 主人公の伊藤史郎は、コメディアンではなくて、千円札に描かれた明治の偉人、伊藤○○、旧華族でも最高位の公爵を持つ由緒正しき名家の出である。東京に大きな屋敷を持ち日本の戦後でも不自由のない生活を送っていた。所有する土地は日比谷から新宿までと広大なものだった。父・伊藤広重は貴族院議員に当選した、侯爵で大きな邸宅に住んでいた。

 1936年2月26日、早朝、この邸宅の玄関の戸を激しくたたく音が響いた。伊藤侯爵の奥さんの伊藤絹恵が戸を開けると伊藤広重候は、どこだと兵隊達が聞くと、存じませんと答え、あなた達は、一体何者なんですかと、怒鳴ると、一人の兵士は、何を貴様と言って銃を撃ってしまった。上官らしき男が待てと言ったが時、既に遅く銃弾が伊藤絹恵の眉間に命中し即死した。上官らしき兵隊が貴様、何をしているというと反抗したから撃ったと答えた。その後すぐに伊藤広重候を探し出せと、命令して1人ずつ銃を構えながら別れて、家中を探し回った。数分後、書斎に隠れていた伊藤広重候は見つかり、数発の銃弾を浴びて瀕死の重傷をおい、その後、治療の甲斐なく亡き人となった。

 家に書庫に逃げ込んで中から鍵をかけて潜んでいて、長女の伊藤和子(5歳)と弟の伊藤一郎(3歳)は、見つからず無傷で助かった。その知らせを聞いた、伊藤家の金庫番を仰せつかっていた山下和夫が車で、慌てて駆けつけた。そして子供達に母親の死体を見せないようにして、山下の家に避難した。山下和夫は、MB商事の役員のだった。伊藤博重候の広大な土地を当時の財閥の富豪に売却し売り払った金の一部は山本和夫が預かり残された伊藤和子(5歳)と弟の伊藤一郎(3歳)の生活費として渡し管理していた。その後、伊藤家の住んでいた家・屋敷、車、宝飾品、全て売り払った。

 この時点で、日本の勝利はないと考えた、山下和夫は残った伊藤家の財産を永世中立国のスイスの銀行に全て秘密裏にMB商事の、つてを利用して金塊50kgと28万米ドルにして預けてしまった。その事件後、残された、伊藤和子(5歳)と弟の伊藤一郎(3歳)が山下家のお手伝いさんに大事に育てられた。東京の空襲がひどくなった時に山下家の松本の実家に疎開して学校に通った。1945年8月15日伊藤和子(15歳)と弟の伊藤一郎(12歳)は、食料が乏しい東京に戻らずに松本の農村で何とか食いつないで育った。和子の弟、伊藤一郎は、その後、東京の学校へ入学して勉学に励んでいたが当時流行していた肺結核にかかり病院に入院して入退院をくり返していたが、1950年の冬に帰らぬ人となった。

 その翌年、1951年10月に長女、伊藤和子(21歳)は、松本の大地主、伊藤家の長男、伊藤貞夫(26歳)と結婚した。伊藤貞夫の実家は、昔からの大きな織物工場を数ヶ所もつ大富豪だった。結婚して2年した1953年3月12日、伊藤和子は、長男、伊藤史郎を難産の末、産み落とした。この難産によって、その後、子供を産めない身体になり、伊藤史郎は一人っ子となった。

2話:史郎のスパルタ教育

 1954年の4月に、山本和夫さんから電話で、話があるので松本に行くので会って欲しいと言われた。用件と言うのは戦前、伊藤家の財産をスイス預けた28万ドル(約1億円)を日本に戻したいと言うのだ。具体的には、和子さんに5千万円、と息子の史郎さんに5千万円を送金すると言った。史郎君と和子さんの三菱銀行の口座に振り込むので、後日、銀行口座の番号と名前を知らせてくれと言った。和子さんが早速、史郎の口座を作りますと言った。初めて会う、和子の1歳の史郎を見て、お父さんに似ていると話した。それで用件は全て、終わり、山本和夫さんは東京へ帰っていった。

 数日後、和子は山本和夫さんに自分と史郎の三菱銀行の口座を知らせ、5千万円は1954年6月に送金された。伊藤和子は、伊藤家のしきたり通り、伊藤史郎が話せるようになり、もの心ついてきた3歳頃から毎晩、絵本を読み聞かせ昼間は信州大学の学生に外国語(英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語)を習わせ、音楽、美術も教え、数学、地理、歴史など暗記物は、徹底的に暗唱させて、強制的に身につけさせた。国旗や地図、九九算をみせ、覚えさせたが覚えの早いのに驚いた。四歳になりアルファベットや簡単な英会話の絵本をみせると、英語に興味をもって英語を音で覚えたので英語を話した後に同じ事を必ず日本語でくり返した。耳が良い事がわかりドレミの音階、その後、日本地図、世界地図に興味を示したので、地球儀を買い与えた。五歳で多くの事を覚えた。次に2桁の簡単なかけ算の暗算を教えた。外国語、地図と音程と暗算に特に秀でていた。そこで簡単に日本語と同じ英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語の文を書いたものを家の家庭教師の書生さん話してもらい覚えさせた。

 あまりの厳しさに泣きべそをかくと容赦なく尻をひっぱたくスパルタ教育だった。6歳の頃には、簡単な日常会話文を英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語で言える様になったのには父も驚いた。食欲旺盛で、好き嫌いはなく中でも特に肉類は好きだった。身体の大きくなるのも早かった。また負けず嫌いな子供で、身体が大きい割に足も速かった。その猛勉強の甲斐あって信州大学付属小学校、中学校、松本深志高校とエリート街道を歩んだ。やがて18歳を迎えた年1971年。母が東京大学を受験させる事にして専攻する学問だけは、史郎に任せると言うと、彼は松本城を見て育ち、建築設計をしたいと小さい頃から思っていたと言い、迷わず東大工学部建築学科を受験して合格し、昔から世話になっていた山下和夫さんの家に下宿して、大学に通うようになった。

3話:伊藤家の財産分与

 お祝いの日に、松本から母、和子が東京の山下家を訪ねてきた。その時、山下和夫をまじえて、3人で、伊藤家の財産の件で話をした。まず、母が史郎に、終戦後、おじさんの伊藤一郎さんが肺結核で亡くなって、伊藤家の財産を母と史郎で分けることになったと言った。しかし松本の嫁ぎ先の伊藤家も富豪で、お金に不自由していないので母が私は財産を必要としない。だから史郎に全財産を渡すと言った。史郎は話の内容を理解できたが何故、母さんもらえる財産を放棄するのと不思議そうに聞き返した。すると、それは史郎が私にとって宝物つまり全財産なのよと言い、さめざめと泣いた。  

 そして、昔の話を始めた。あれは、冬の寒い朝のことだった。1936年2月26日、早朝、突然、玄関をたたく、けたたましい音がしたと思うと、大きな口論があり、家の使用人が、私の弟を書庫に入りなさいと言い、内から鍵をかけた。そこして一発の銃声がした。大きな足音がして、数分後、今度は数発の銃声がした。最初の銃声で私の母、伊藤早苗が亡くなり、後の数発の銃声で私の父、伊藤博重が殺されたのよと涙声で言った。本当に悲しく、また、5歳の私と3歳の弟が、残されて本当に、悲し、寂しかったわ。その後、この山本和夫さんの判断で屋敷や車、宝石など財産を売って、こんな危ない日本に、見切りをつけて、スイスにお金を預けてくれたのよ。史郎が、これから、大学の授業料、下宿代などに、必要な時に、このお金を使いなさいと、史郎を抱きしめながら、優しく言ってくれた。

 これには、史郎も山本和夫さんも涙を見せた。わかりました、言われたとおりに手続きをしますと山本さんが言った。1971年8月に、ニクソンショックが起きた。それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減ったことにより、戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えた。山本和夫の長男の山本康男もニクソンショック後に日本円と日本株が必ず上がると言い、特に円に関しては、強烈に上がると考えた。日本株では、豊田自動車とソニー株に注目していると言った。

 翌年、1972年3月、山本康男は一橋大学経済学部を卒業して野村証券に入社した。山下和夫さんが三菱商事か三菱銀行に入社してくれるように言ったが、これからは投資の時代がきっと来ると信念が強く、N証券に入ったそうだ。山下和夫さんは、自分のあとを継いで欲しかったようだが、言うことを聞かなかった様だ。史郎は19才の時には1.48億円が口座に振り込まれていた。総額で1.5億円ほどになっていた。

4話:伊藤史郎の大学卒業と就職

 1973年、山下和夫さんはMB商事を定年退職し、その後、63歳で経営コンサルタント事務所をやっていた。伊藤家の資産管理も体力適に難しくなったので。伊藤史郎さん自身で管理してもらう様になるかも知れないと、寂しげにいった。史郎がもう自分で資産管理しますから大丈夫ですと言うと喜んでくれた。その後、息子の山下康男さんが史郎に名刺を渡しN証券で投資部門にいますので、投資情報が欲しかったら聞いて下さい宜しくと挨拶した。伊藤家の資産の話も知っているようだった。しかし独立心の強い、史郎は家庭教師のアルバイトをしながら映画を見たり浅草六区の漫才、コントを見て回った。たまに金ができるとコンサートを聴いたり、銀座で食事をしたりと、勉強と東京を存分に楽しんでいた。時間があると、ジャズ喫茶で洋楽、シャンソン、ジャズ、ゴスペル、演歌など、多くの音楽を聴いて楽しんでいた。

 学生時代は、学業と家庭教師と、観劇、音楽、東京見物で忙しくしていて、あっという間に4年が過ぎた。この頃は、ちょうど、第一オイルショックで不景気になり、就職もままならない時代となった1973年になり伊藤史郎はN証券に口座を作った。1976年に卒業して建設会社の大手TK工務店に就職が決まった。就職祝いに東京の山下邸を、伊藤和子が訪ねて、就職祝いのパーティーを開いた。彼はパーティーは午後3時に終わり母の伊藤和子が、山下和夫さんと息子の康男さんに息子を宜しくお願いしますと頼んだ。わかりましたと答えてくれ、史郎は母を中央線の始発駅の新宿まで送りホームで見送りに行った。1976年4月にTK工務店に入社し、スーツを3着新調して本社に出勤した。最初の仕事は設計図面を書くことに従事した。翌月に1級建築士の試験を受けるために勉強するように言われ、必要な本を指示され購入した。

 家に戻ると山本和夫さんが伊藤史郎に大金が入ったから車でも買うの家を建てるのと笑いながら言うと、いいえ、今まで通り普通の新入社員の生活をしますと言うと驚いたように偉い。そうでなくちゃーと言った。つまり人間って欲望に勝てなくて大金が手には入れば人が変わって偉そうになったりする人が多いのですが、本当に偉い人は、その周り、日本、世界のために使うべきと自分で判断した時に使うべきだと言い、謙虚に、かつ自分の考えたように生きた金を使いなさい、そうすれば、大事に使われたお金は、使った人の恩に報いるように、もっと増えて戻ってくると言うんですよと教えてくれた。わかりました本当に使うべき時がまで銀行に預けておきますと笑いながら答えた。流石、伊藤家の忘れ形見、素晴らしいと誉めてくれた。

 史郎は、配属された、第一設計部の吉川茂紀部長に2年の実務経験を積めば1級建築士の受験資格を得られるので問題集を買って勉強するようにと言われ了解した。経歴書を見ながら君、実用英語検定1級持ってるんだねと驚いた。小さい頃から語学は好きだったのでと照れ笑いした。免許は持っているのと言われて、いえ、まだですというと現場回りに車を使う場合が多いので早速、免許を取りなさいと言われ、必要なら早退も許可するからと言われた。明日の晩に新人歓迎会をすると言われ了解した。その後、自分のオフィスに入り自己紹介を数分させられた。出身は東京、大学は東大、特技は英語を少し使えますと言うと、どの位と質問され実用英語検定1級というとスゲーと言う声が飛び、さすが東大と冷やかされた。

 最後に、早く1人前の設計士になりたいですと言った。女子事務員がロッカーの場所、机と備品、足らないものがあれば言って下さいと言われた。出張は、まだないと思いますが出張精算書も机に入っていますと言われた。初日は、緊張したせいか、下宿している山本家に帰ると、風呂に入ってすぐに寝てしまった。翌朝、満員電車で20分で会社につくと、早速、簡単な設計図の作成をするように言われ、1日かけて描き上げた。5時に終了し、会社から10分ほどの、居酒屋で史郎の歓迎会が始まった。自己紹介10分で、できるだけ、詳しくと言われ、東京で生まれ、信州、松本で高校までいて、東京に下宿して東大へ通ったと生い立ちを話し、好きなことは、音楽全般、特に洋楽、ジャズ、シャンソン、ゴスペル、ビートルズと答えた。映画、漫才、落語も好きですと言った。

 女の子の趣味はと聞かれると照れながら、あまりもてないのでと言うと答えになってないとヤジが飛んだ。第一設計部の10人が1人5分ずつで自己紹介してくれた。それではと吉川部長がみんなで伊藤史郎君の入社を祝い、乾杯をするので、グラスを持ってと言い、それでは乾杯と言いグラスのあけた。飲むのは良いが飲み過ぎるなよと吉川部長が言った。9時に歓迎会は終了して、山本家に戻り、風呂に入り、床についた。翌朝も30分前に出社し、1級建築士試験の問題集を読んでいると、吉川部長が感心だねと言ってくれた。

5話:吉川部長宅を訪問

 1年目は、とにかく仕事に対する姿勢を身につけて欲しい30分前に出社は基本だが、最近の若者はできてない奴が多いと言った。来月から、新人を含め1級建築士試験合格のためのセミナーが毎週1時間あるので参加するようにと言われた。スケジュールは、黒板に書いてあるから行くようにと言われた。そして、あっという間に3ヶ月が過ぎていった。
 製図を描く仕事ばかりの毎日であった。それでも、上司はきちんと見ているようで、伊藤君は仕事が早い割には、丁寧に抜けや間違いがなくきちんと製図が描けていると誉めてくれた。梅雨が明け、暑くなり始めた7月1日、吉川部長が、来週火曜日空いてるかと、聞くので、ええと答えると、良かったら、横浜の家にビールを飲みに来ないかと誘ってくれた。

 吉川部長が、うちは、女房と娘1人で、男は私一人で、飲む相手がいないので、たまにはつき合ってくれと言った。ハイわかりましたと返事をした。その日も、暑い日で、仕事を終えて東海道線で30分、駅から5分の吉川部長のご自宅へお邪魔した。ついて、半袖Yシャツになった。2人の女性が出迎えてくれ、家内の幸恵ですと言い、長女の早苗ですと、挨拶してくれた。今度、吉川部長の元で働くことにりました伊藤史郎ですと挨拶した。

 奥さんの手料理が出てきた、今晩は、回鍋肉と青椒肉絲という中華料理をつくったのよと言い、美味しいと良いけれどと言った。早速、いただくと、調味料の甘さと旨さが絶妙で最高ですと言うと、お世辞が上手ねと笑った。あともう1品、焼き餃子を娘の早苗と作りましたのと言い出してくれた。醤油にラー油を入れて、召し上がれと言われ、食べ始めると、うまいというと、それは良かったと喜んでくれ、いっぱい作ったのでたくさん召し上がれとすすめてくれた。久しぶりにうまい、餃子ですと、史郎は、いっぱい食べた。吉川部長が、うちの女房は料理上手が取り柄だと言い、娘の早苗が、引き継いでくれると良いのだがと言うと、私も負けてませんよと笑った。30分位して酒が回ると吉川部長が、うちは男が私一人で、いつも肩身が狭いので史郎君が来るのは大歓迎だよと言ってくれた。遅くなっても以前、両親が住んでた、離れの部屋があるから、そこに泊まっていけば良いと言ってくれた。

 吉川部長は、上機嫌で、君のご両親は、良い育て方をした、出社も早く元気に挨拶するし仕事も丁寧で早い。最近の若い者には、珍しいと言った。それは、君の努力と言うよりも、ご両親の小さいときからの躾と、教育のせいだと話してくれた。ご両親に感謝しなさいと言った。わかりましたと答えた。ご両親は、ご健在なのと聞くので、いえ、小さいときに、両親ともなくなり、ある恩人に、育てられましたと答えた。そうか、何か訳ありなんだなと言い、それ以上、詮索する気はないから、無理して話さないでも良いと言ってくれた。

6話:早苗さんとの出会い

 君が、入社して、東大のエリートとは聞いていたが、建築学部で、実用英語検定1級というのには驚いたというと、早苗さんが、ほんと?、すごいわね、英語検定1級というと、パブリックスピーキングといって、試験官の前で、あるテーマについて、英語で発表するですよね、合格率が10%以下という超難関なんですよねと驚いていた。しかし、現在、英語検定よりもTOIECの方が留学のために重要視されるために、受験する人が多いと言った。英検1級というと、TOEIC:950点以上にと言われ、最高位に評価されていると言った。留学する気はなかったのと、逆に早苗が聞き返した。家庭の事情で、全く無理だったと言った。

 しかし3-4歳の頃から、語学も数学も地理も暗記系のものは徹底的に覚えさせられた。その中でも、語学、音楽が得意だったみたいと言った。6歳の頃には、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語で同じ文章を同時に覚えさせられ、抵抗なく、覚えていった。そのイントネーションとか、アクセントとかが妙に面白く思えたと正直に言った。すると、早苗が、4歳の頃から、そんなこと教えたのと、驚いていた。

 ビールが、終わると、吉川部長が奥さんに、あれ持ってこいと言い、ヘネシーと丸い形の瓶のアルマニャックとブランデーグラスを持ってこさせ、氷水も2つ作らせた。この2つの酒を飲み比べて、感想を聞かせてくれと言った。史郎がまず、面白い、丸瓶のアルマニャックを少し口に入れ、味わった。飲んだら、必ず、氷水を飲むと言われたので、その通りに飲んみ、次にヘネシーVSOPを飲むと、甘い感じは同じだが、微妙に違う。また水を飲んで、どっちの方が好きかと聞いた。
どっちもうまいと思うが、私は、ヘネシーと言うと、君は、酒好きだねと笑った。アルマニャックは口当たりがまろやかで、女性に好まれ、ヘネシーは切れ味が良いので、男性に好まれるそうだと言った。本当にうまいですねといい、これ高いでしょと話すと、そうね、1本、酒屋で1万円位かなと教えてくれた。それは高い、飲み屋なら2-3万円するでしょうねと史郎が笑った。そんな楽しい時間を過ごし、ちょっと飲み過ぎ、離れに案内され、すぐ寝てしまった。

 翌朝6時過ぎに起きると、早起きだねと言い、シャワー浴びたら良いというので、身体を洗って、出ることには、御飯と味噌汁と、焼いた魚が用意され、食欲あれば、どうぞ召し上がれと言われ、しっかり、御飯をおかわりした。食べっぷりを見て、若い人は、元気が良いと、吉川部長が笑った。そして、8時半の電車で、東京へ、会社についたのは8時半と、いつも通りだった。吉川部長に、昨晩はご馳走になりありがとうございましたとお礼を言うと、また、時間があるときに、来てくれよと言われ、わかりましたと答えた。

7話:花火と早苗さんとの出会い

 その週も、製図を描いて、1週間を終えた。金曜日に、1976年7月14日の土曜日に横浜の港の花火大会があるが、家の近くの小高い丘からよく見えるんだが来ないかと吉川部長に誘われた。予定がないのを確認して行きますと答えた。
 何時頃にお伺いすれば良いでしょうかと聞くと、予定がないなら、今晩から泊まりくれば良いといわれ、それでは、お言葉に甘えて一緒に帰りましょうと言った。夜7時半に横浜に着いて美味しい料理を肴にビールで乾杯した。長女の早苗さんが忙しそうに書き物をしていた。史郎が何してるんですかと言うと、夏休みは、英語の塾の講師の仕事が忙しく、予定表を書いてるのと言った。人手不足で、大変なのよと言った。猫の手も借りたく位よ言うと猫の手、貸しましょうかと笑いながら言った。あ、そーよね、史郎さんなら講師できるものねと言った。ほんとと言うと土日の昼間とか夏休みは8月の中旬の10日間は夏休みですからと言った。本気で頼んで良いのと言うと僕は構わないよと言った。それを聞いていた、吉川部長が無理しなくて良いんだよと言うと、特に旅行へ行く当てもないし、ちょっと興味もあるから手伝いますよと言った。

 夏休みは、いつ時から8月10~20日が夏休みと言うと一番忙しい時だと言い本当に良いのと再度確認すると吉川部長のOKが出れば構わないよと言った。早苗は、いつも強引だからなと笑いながら史郎君の夏休みだから、会社としては全く問題ないよと言った。お母さんも良いよねと念を押すと史郎さんがOKなら構わないよと言い決定した。帰る前に教える教材のコピーをもらえますかと言うと、もちろんですと答えた。わー助かったと早苗さんは大喜びだった。夕飯を食べて11時前に床について、朝7時に起床し朝食後、早苗さんが、帰るまでに、資料を袋に詰めておきますので宜しくと言った。
 朝食を終えて、くつろいだ後、大きなテーブルに資料を持ってきて中学生には、この資料で、高校生は、この資料と言い、これを一度、講師が読んで、その後、リピード・アフター・ミーといって、生徒全員で復唱するんですと言った。

 試しに2-3つの英語の文章を史郎が試しに読んでみると、発音やアクセント、イントネーションも完璧であり、さすが英語検定1級ねと早苗が言った。そして成績の悪い子には特別にマンツーマンで教えることになってるのですが人手が不足で少ししか、できないのと困った顔で言うと教えるところを見せてと言い、見ると、なる程、A君は、そうか、ここが弱いんだ、B君は、ここかと言い、僕は、こっちの方が得意かも知れないと言うと、これをやってくれれば本当に大助かりなんだと言ったので、わかりました。マンツーマン指導を引き受けましょうと言うことになった。早苗さんが、お金の話をすると、いりませんよ。お母さんの手料理で十分ですと笑った。

 さすが、東大卒って伊達じゃないんですねと、早苗さんが驚いていた。お母さんが、史郎に今日も暑いから、エアコンの効いた離れの部屋で昼寝した方が良いよと言い昼食は簡単に済ませられるように大きな具入りのおむすびと味噌汁にしますと伝えてくれた。おむすびを食べて、午後4時過ぎに、吉川部長と史郎が麦わら帽をかぶって出かけ、小高い丘の一角にブルーシートを敷いて見物場所を確保した。そして、ここで2時間くらい待っていてくれるかと、史郎に聞くと了解しましたと言い文庫本を取り出して読み始めた。6時前に吉川家の3人がやってきて、お母さんが史郎さんすまわないわねーと言ってくれ、手作りのレモネードを飲ましてくれた。たわいもない話をしていると当たりが暗くなり7時から花火が始まり、周りに人が、どっと増えた。

8話:英語塾とドライブ

 海の方から涼しい風が吹き始め、きれいな花火を楽しんだ、30分位して大型のスターマインが打ち上がり、花ひらいた後、ドーンと腹に響く、大きな音がまた、たまらない。何と表現したら良いか、まるで、今、自分が生きてる実感させてくれる荘厳な感じさえした。2時間して最後の大きな花火が終えると、今までの喧噪が嘘のように、あたりが夏の夜のような漆黒の闇と静寂感に包まれた。ブルーシートをたたみゴミを持ち、家路についた。ついて、一息ついて、シャワーを浴びて、みんなでビールを飲んだり今日の花火の話をしたりしてから離れの部屋で、ぐっすりと寝た。翌朝は8時まで、起きられなかった。リビングに行くと、みんな起きており、お母さんが朝食をどうぞと味噌汁と御飯をよそってくれ、いただいた。その後、早苗さんと夏休みの英語塾の打ち合わせをして昼食をいただいて午後4時過ぎに吉川家の人達にお礼を言い、失礼した。

 やがて8月の夏休みになり、吉川家に出かけ1976年8月10日から早苗さんの英語塾を手伝うようになった。早苗さんが生徒の前で文章を読んだり講義をして成績の悪い生徒を史郎が、その弱点克服のために、4人1組になって、教える様にした。10日間で英語で弱点のある子達全員に教えることができた。最終日にテストをしたが、成績の悪かった子達の成績が向上したのを見て、早苗さんが、史郎に、さすがですね、教えるのが上手なんですねと、誉めてくれた。

 お礼に来週の土曜日にドライブに誘いたいのですが、ご予定はと早苗さんが聞いてきた。私は空いてますが必ず、ご両親の了解を得て下さいねと史郎が念を押した。わかってますと早苗さんが笑った。帰ってみんなの前で早苗さんが、ドライブの話をすると良いですけれど、史郎さん車に酔わないでねと、お母さんが言った。早苗は、おてんばに育って車もスカイラン2000GTとかいう速い車で曲がりくねった道をすっ飛ばすんですよ気をつけて下さいねと笑った。史郎がスカG乗ってるんだというと早苗さんが史郎さんも免許持ってるんでしょと聞き返したので会社に入って、最近免許取ったばかりですと答えた。じゃー私の車を運転するのは、まだ早いわねと笑った。史郎が、えー、助手席専門で結構ですと言うと、みんなで大笑いした。

 8月最終週の土曜日、横浜家から保土ヶ谷バイパスで戸塚、藤沢、辻堂、茅ヶ崎、西湘バイパスに入り平塚へ、右に大磯プリンスホテルのプールを見て、遠く前方に霊峰富士、左には、相模湾、涼しい海風が心地よいドライブになった。途中、小田原の魚の旨い店で、昼食をとり一休みして、箱根ターンパイクを上って、途中の見晴らしの良い、休憩所で、眼下に相模湾を見下ろして、風景を楽しんだ。その後、芦ノ湖へついて、遊覧船に乗り、また一休みして、当たりを散策して、午後4時に箱根を後にして帰り道は、まるでラリーのように、下り坂をすっ飛ばして5時半についた。

 吉川部長の家について奥さんが開口一番、大丈夫だったと言うと大笑いとなった。早苗さんが今日は安全運転だったわよねと史郎に聞くと事故や交通違反はありませんでしたと冷静に答えると、お母さんがジョークもお上手ねと笑った。風呂に入ってビールを飲み始め、史郎が早苗さんに車のハンドルを持つと、厳しそー顔になって、雰囲気が変わりますねと冷静に言うと、吉川部長がわかるか、そーなんだよ。もーちょっと、かわいらしさを出して欲しいんだけれどねと言い、そうしないと、もらってくれる人が現れないんじゃないかと、親としては心配なんだよと言った。

 すると、早苗さんが、大丈夫、こう言う私を好きになってくれる人がきっといるから、安心してと言い返した。お母さんが、そうだと良いんだけどねーと言った。そんな話で盛り上がり、11時前には、離れの床についた。翌日は、昼食をいただいて、失礼した。

9話:工事現場の初視察

 9月から、仕事も増えて、忙しく、製図を描いて提出した。その後、吉川部長に呼ばれて、実践勉強のために実際の工事現場を見に行かないかと言われた。仕事をうまくこなして空いた日ができたら行って良いと言われた。9月20日に埼玉のマンション建設工事現場に行き、溶接の火花が出る現場を現場監督に30分程度、案内してもらい簡単な説明を受けた。
 その印象をレポートにして、吉川部長に提出して、交通費を精算した。10月は東京都内の現場を半日で見て回った。
 レポートに、自分の書いた製図が、現場の全員にわかるように描かないとまずいと実感したと書いてて提出したところ、吉川部長に部屋に呼ばれ、これだよ重要な事はと言い、製図を描く者の一番の心得は誰にでも、わかる製図を描くことだと言い、今後、絶対に忘れるなと言ってくれた。11月も現場を見学したが、12月は依頼される製図の数が多く、てんてこ舞いだった。そして1976年が終わり1977年を迎えた。年初の日、突然、吉川部長に話があると言われ呼ばれた。

 実は、まだ内密な話だがと前置きして東京湾に橋を架けるという話があると言った。具体的には川崎あたりから、地下に入り、東京から木更津に世界一長い陸橋を作ろうと計画なんだと言った。そこで日本の大手ゼネコンが1977年に研究会を立ち上げ、建設省と交渉を始めたんだ。今年中に多分、建設省か許可を出して、日本道路公団が中心になって、大手ゼネコンと調査検討しながら、話を進めていくことになるのだが、その企業の調査検討会のメンバーに我が社から、私が選ばれそうなんだと、打ち明けた。まだ、できるかどうか不明である点、また、我が社が建設工事に参加できるかも未定と言うことで、とりあえず代表になって調べてく、逐次報告提出する事になっていると言った。ついては、助手を1人つけて良いと言われも人選も任せると言われたので、どうだ、史郎君、助手をやってみないかと話してくれた。えー、そんな、夢のようなプロジェクトに私なんかで良いのですかと聞き返すと、いや、まだ構想の段階であり我が社が参加することが決まれば、もっと上役の人が出て行くことになると笑った。

 史郎は、是非やらせて下さい。そういう夢のようなプロジェクトに憧れて、建設の道を目指したのですからと喜んだ。
 じゃー決定で良いんだねと年を押すので、もちろんですと答え、ありがとうございますと、吉川部長と握手をした。
 ただし、この話は、今のところ、内密なので注意して欲しいと言われ了解しました他言しませんと約束した。
 1977年4月の企業の調査会に吉川部長と共に出席して、他社のメンバーに新任の挨拶をした。構成メンバーは、清水建設、大林組、鹿島建設、大成建設、TK工務店のスーパーゼネコン5社と、湾岸工事に強い五洋建設、ショッピングモールに強い長谷工の7社だった。その後、1977年8月に日本道路公団に東京湾横断道路調査室を設置された。

10話:史郎の海外研修旅行

 史郎は、来年、1978年4月に1級建築士受験資格が与えられるので、9月から1級建築士受験のための社内セミナーを週に1時間受け始めた。そのため仕事との両立で、忙しい日々を送った。あっという間に12月になり1978年を迎えた。吉川部長に新年の挨拶に行くと、今年の君の目標は1級建築士試験に合格する事だと言われ、頑張れと激励された。

 1月、ちなみに受験のスケジュールは4月初旬に受験申し込みの受付をして6月末迄に受験資格の審査をし、受験票が送られてきて、7月下旬に学科試験、9月初旬に合格者発表、合格者のみ、10月中旬の製図の支店を受けて、製図の試験の合格者12月下旬に発表される。製図の仕事をこなしながら4月中旬に郵送で受験申し込み書を送った。5月になり受験資格判定を心配しながら仕事をこなした。6月下旬に受験票が届き、ひと安心した。7月中旬の試験は冷静に受験できた。
 その後9月上旬の合格者発表で合格を確認した。その後、製図の仕事に加えて、試験のための製図の勉強もするので残業する日が増えていった。10月中旬の製図試験も冷静に受験し12月中旬に合格発表があり、史郎は無事合格となった。

 今年は我が社で133名が受験し105名が合格した。合格祝いの祝宴を製図第1部で行ってくれ、この日は、かなり深酒をしたが、うれしかった。これでやっと正式にこの会社の社員になれたような気がして身の引き締まる思いがこみ上げた。1977年も念願の1級建築士になれて終わりを告げ1978年を迎えた。新年の挨拶に山本和夫さんに会うと、今年2月で68歳でMB商事を定年退職するいわれ、その後、退職後、経営コンサルタントになるために、研修とか、面会とかで1年近く、忙しくなると言った。また、資産運用については息子の康男からアドバイスしてくれるように頼んでおいたと言われた。

 1978年3月にTK工務店で若手社員の恒例の海外研修者が毎年2名選抜されて、米国、欧州と2週間の見学旅行ができる。各部署から1名ずつ推薦されて、部長会で発表され、役員会に諮り、選抜するという形式。設計第一部からは伊藤史郎が選出された。数日後、役員会での結果、今年の海外研修者は、営業第1部の黄川田紘一と設計第1部の伊藤四朗が選ばれた。1978年9月の第3週の水曜日から2週間の旅行が計画された。

11話:現場出張と縄張り争い

 その後、ビルの設計や大きな仕事をかかえて忙しい日々を送る様になっていった。一級建築士の免許を取ってから地方の現場へ出張する機会が増えてきた。東北、新潟、関東と出張の日々が続き、吉川部長の家に伺う機会がなかった。

 春が過ぎ暑くなり始めた。1979年4月3週目に入り九州、四国エリアは設計3部の管轄であったが設計上の問題で上手くいかないと言うので吉川部長に見て欲しいと電話がかかってきたそうだ。伊藤史郎が3泊4日の出張で、最初に、長崎の現場に飛び、設計3部の担当者の設計図をみて、不具合の箇所を聞いて、もう一度、現場に行ってみると設計図の書き方に問題があって現場の人間もその設計図の問題点を理解できなかった様だった。その製図を描いた担当者が、そんなこと位わかるだろうがと、現場担当者にくってかかった。その場に居合わせた史郎が、担当の鬼頭三郎という設計担当者が悪いと言い、誰が見てもわかる様な設計図を書けない1級建築士は、その資格がないと一刀両断に切って捨てた。

 いままで、設計部の方が現場よりも偉いという自負があった様で設計3部の設計担当者の顔が蒼白になったと言う話が広まった。更に悪い事に叱った男の方が5歳年上でエリート意識の強い男だったから始末が悪い。九州のその現場の方々は大喜びだったが史郎が会社に戻ると、廊下を通るたびに上司や先輩から、ちらちら見られるようになった。それに対して、吉川部長が出張から戻ってきた史郎に事の顛末を聞いた。数日後、設計3部の唐沢部長が吉川部長の所に来て、設計グループの異端児の伊藤史郎はいるかと言ったそうだ。我が設計1部には異端児はいないと言い放った。とにかく、伊藤史郎を呼んでくれと言うので、史郎を呼んだ。唐沢部長が、お前か、うちの鬼頭に恥をかかせたのはと言った。いえ、設計図の書き方のまずいところを指摘しただけですと言った。誰が見てもわかる設計図でなければ意味がない。それだけのことですとクールに答えた。

 更に、吉川部長が唐沢部長に、自分の部署で困ったからと言って、管轄外の設計1部に調査依頼しておいて、無礼とは、ちょっと恥ずかしくないですかと言った。設計1部では自分の部署の事は全て自分の所で解決する。他部署に、お願いしたことはないと言った。唐沢部長が、設計2部と3部は仲が良く、わからないところや、問題がある時は、今までも助け合っていると言った。それが第一おかしい。自分達に甘いんじゃないですかと言ってしまった。ちょっと険悪な雰囲気になったので、史郎が、言い方が、後輩のくせに、生意気だったとしたら、話し方の悪かった事は謝りますと言った。しかし、それ以外は、自分の仕事を後回しにして、設計3部のために、この1週間費やしたんですよと言った。感謝されても、怒られる筋合いはないと思うのですが、いかがでしょうと言った。

 お前ら、頭おかしいのとちゃうか、設計の担当者が、現場に奴に笑われたんだぞと言った。設計も現場も上下はない。良い事は良い、悪い事は悪いですと史郎が言った。唐沢が、お前、どこ出たんだというと、東大の設計ですと答えると、一級建築士の免許を持ってるからと言ってつけ上がるんじゃねーぞと言い、吉川さんも吉川さんだ、自由に育てるのは良いが、口の利き方や、社内のルールをよく教えておけと言い、このままじゃ、済まないと思えよと口汚く罵って部屋を出て行った。吉川部長が、彼はたち悪いし関西出身の西川専務に子分になって取り入ってやりたい放題の事をしている男だと言った。史郎が、以前、会社のくだらない仕事とか、矛盾とか、出世街道のことを批判していたがこういう事かと思い知らされた。

12話:デートとドライブ計画

 その後、設計2部と3部の結束が強くなり設計一部は仲間はずれにされていった。これが縄張り争いってやつかと、思い知らされる史郎だった。この騒動が1979年5月頃まで、社内で話題になっていた。

 5月2週目に早苗さんからデートのお誘いがあり、金曜日、夜6時に、JR石川町駅で待ち合わせして食事して、その後、素敵な店で、お酒でも飲みませんかと誘った。早苗さんが、喜んで、お会いするのを楽しみにしていますと言ってくれた。7日の金曜は、5時に仕事を終えて新調した背広に着替えて、オシャレして、会社を出て石川町駅で早苗さんに会い、ゆっくりと、中華街を歩き、マーボドーフと回鍋肉、チンジャロースー、バンバンジーや赤いチャーシュー、シュウマイ、野菜炒めを食べて、冷たい生ビールで乾杯した。その後、折角、中華街に来たのだからと紹興酒を注文した。

 早苗さんと同じ、熱燗して、レモン汁と絞ってもらった。コクがある酒がレモンの爽快感で飲みやすくなっていた。
 食事しながら横浜って素晴らしい、料理屋、本格的なバーも多く本当に良い所よ、また遊びましょうよと言われた。
 食事をいただいて、次に紹介してくれる店はと言うと、ウインドジャマーという、老舗の本格的バー。入ってみると、ジャズが流れ、なんというか、これが、古き良きジャズバーといった感じの雰囲気だ、そして、バーテンダーが何かリクエスト曲はありますかというのでマイルス・デイビスの曲をお願いと言うと雰囲気のある演奏してくれ、しびれた。
 本当に、オシャレな良い店だと言うと、早苗が素敵でしょうと言い、東京にも、こんな本物のジャズの聞けるバーは、少ないと思うわと自慢げに話した。こう言う店は、伊勢佐木町にも5~6軒もありますよと言うから驚いた。
横浜の奥は、深い。昔はホテルニューグランドの地下にあった、シーガーディアンと言うジガーバーは大佛次郎、石原裕次郎などが通った様だ。

 夜10時過ぎたので、タクシーで早苗さん家まで送ると吉川部長が、部屋が空いてるから泊って行けと言い奥さんが熱いお茶を出してくれた。伊藤史郎さんも酔っぱらうんですねと言うと吉川部長が7月毎週3泊4日の出張で全国を飛びまわっていただから、疲れるのも無理はないとかばってくれた。奥さんが布団を敷いてくれ、直ぐに熟睡してしまった。翌朝は、おいしい珈琲とトーストと野菜サラダに、ベーコンエッグと洋風朝食に感激した。その後、早苗さんに8月の夏休みは8月3日から13日と早めに取った事を話した。

13話:早苗さんとお泊まりドライブ

 すると早苗さんが1979年8月に泊まり込みでドライブしながら箱根、富士五湖、八ヶ岳、車山高原、諏訪湖の2泊3日の旅行に行きたいので良いでしょうと、ご両親に話した。早苗一人の運転で大丈夫かと吉川部長が言ったが、それは大丈夫と答えた。お母さんが、史郎さんはお疲れのところ大丈夫ですかと聞いてきたので、私は大丈夫、むしろ気分転換になってよいかもしれないと思っている位ですと言った。泊る所と日程表を書いていくんですよと言い了解してくれた。
早苗さんは、大喜びであった。吉川部長が、早苗は多少無茶なところがあるから注意して見てくれと言い、笑った。

 1978年9月15日に、史郎が早苗さんのお宅に泊り、翌朝、早朝に出発することになった。翌朝4時にケンメリのスカイライン2000GTで出発し、朝7時には、韮崎にICで降りてレストランで朝食をとり長坂方面に向かい、甲州街道にもどり、小淵沢、長野県に入り、富士見、茅野へ向かい、白樺湖畔を少し歩き、蓼科から八ヶ岳を仰ぎ見て、車山公園に向かい、涼しい高原のリフトにのり、頂上に上がった。その後、上諏訪にもどり、昼食をとってから、岡谷へ向かい、鳥居平やまびこ公園で、諏訪湖の景色を楽しんで、午後3時過ぎに、今日泊まる、ホテル紅屋にチェックインした。
部屋に入り、風呂に入り、少し仮眠してから夕方6時に夕食をいただいた。

 翌朝は、朝食後、車で、諏訪大社の前宮、本宮を参拝して、諏訪湖の反対側の、秋宮、春宮をお参りした。その後、喫茶店に入り、御神渡りの神話の話をした。冬に寒い日が長く続くと諏訪湖が凍り、一筋の氷の割れ目が現れる。これは、諏訪大社の男神である建御名方命(たけみなかたのかみ)が、女神である八坂刀売命(やさかとめのかみ)に会いに行くために諏訪湖を渡った道筋と伝えられている神秘的でロマンチックな現象なんですと言った。すると早苗がロマンティックな話ですねと微笑んだ。昼食に旨いそばを食べたが、細い麺だがこしがあり確かに美味しい。

 その後、中央高速で一宮御坂ICから国道137号線で河口湖、富士吉田、山中湖、御殿場を抜けて、箱根に入った。箱根プリンスホテルに午後4時にチェックインして風呂に入り、芦ノ湖を部屋から眺めた。夕食をとり、今日は長旅だたので、早めに、床についた。翌朝は、朝食をとり、ゆっくり10時過ぎに、出発し、小田原に降りて、早川港の名物、アジフライを食べた。その後、西湘バイパスを走り、平塚、茅ケ崎、戸塚を抜けて、午後4時半に横浜の吉川部長の家に早苗さんと帰り、買ってきたお土産を渡した。

今年も楽しい夏休みだった。やがて夏休みが過ぎ9月になった。伊藤史郎は、営業1部の黄川田紘一君と、9月の第1週の水曜日から2週間の会社の研修旅行に出かける。

14話:海外研修旅行と長男誕生

 1978年9月4日から18日までで、まず、サンフランシスコにつき、会社見学し、宿泊し、シカゴ、ニューヨークに行き、4泊してまわる。その後、ロンドン、リスボン、マドリード、バルセロナ、パリ、ベルリン、ジュネーブ、ローマを8泊して回り、12泊14日の計画だ。9月4日に伊藤史郎と黄川田紘一がT建設の2週間の研修旅行に出かけた。内容はほとんど、現地の日系ゼネコンの現場視察と担当者達との会見。一部、名所巡りだった。米国は全て飛行機で巡り、欧州では、高速鉄道を利用したりして、まわった。研修と言うよりも、卓越した仕事へのご褒美旅行と言った感が強かった。かなりの強行軍で、帰る頃には、痩せる人も、脂っこい食事で太って帰る人に別れるようだ。帰ってきた週は、日曜日まで休み。伊藤史郎は、ちょっと太り気味で帰ってきた。いくつか、お土産を買ってきた。

 9月は、体調回復のため、会社で、事務仕事を片付けた。その年の10月、早苗さんが、急に気持ちが悪いと食べたものを戻したので、ひょっとしてと思い、お母さんの君恵さんが婦人科に連れて行くと、妊娠したことがわかった。すぐに、会社にいた、吉川部長に電話を入れた。その週、出張から帰ってくると、部屋に呼ばれて、この話を聞いた史郎は、喜んで、良かったと言い、結婚式は、出産して、早苗さんが落ち着いた時の方が良いでしょうねと、吉川部長に聞くと、その方が安心だと言ったので。結婚式に日取りと場所は、後日、決めることにしますと言い、入籍は、早苗さん聞きいて決めますと答えた。その週の金曜日の晩に、早苗さんに会い妊娠おめでとうと言うと早苗さんは涙を浮かべて抱き付いてきた。入籍はいつが良いと早苗さんに聞くと大きな声で、できるだけ早く、だって幸せを逃がしたくないものと大声で言った。じゃー明日以降というと、そうしましょうと決まり、約束通り、翌土曜日、市役所に届けを出してきた。10月になり毎週金曜日に吉川家に帰ってくるようになった。

 山本和夫さんの息子さんのN証券の山本康男さんと相談して1978年11月6日に50kgの金をスイス銀行で日本円に替えてもらうように、連絡してもらった。2日後の連絡で手数料抜きで24500万円になったと連絡があったと知らせてくれた、その後、日本の伊藤史郎との銀行名と口座名を知らせて24500万円を振り込んでもらう様に手配し、スイスの伊藤の口座を閉鎖するようにお願いした。

 そんなある日、吉川部長が、今、住んでる所から、こっちへ引っ越したらと言われて了解し12月から吉川家の離れで早苗さんと同居することにした。そして1978年は史郎の赤ちゃん誕生という、おめでたい出来事で暮れ、1979年を迎えた。もちろん、初詣では、早苗さんの安産を祈願した。1月~3月までは、今まで通り、仕事を続ける史郎だったが、4月、設計2部と3部に新人8人ずつが配属されたが、設計1部には4人の配属と半分だった。加えて、中堅の雨宮宗一が家庭の都合で退社していった。そのため、史郎の出張スケジュールが大幅に増えて、毎週のように3泊4日の出張の日が続いた。

 やがて、その無理な仕事が、だんだんと史郎の身体をむしばんでいるとは、つゆ知らず、激務を続けていた。1979年5月の連休も、自宅でゴロゴロして、午後から買い物に出かける生活だった。7月になり、赤ちゃんがいつ生まれても、おかしくない時期となり、出産予定日7月20日も生まれず、困っていた1979年7月21日に急に産気づいて、夜8時に2900gの元気な男の子が誕生した。名前を、誠実さが一位番大切という意味を込めて、誠一と名付けた。

15話:重症メニエールで倒れ、退職

 夏休みも、疲れを取ることに専念したかったが、赤ちゃんの世話で忙しかった。その後も、人手不足で、出張し、仕事をミスなく、継続するだけで精一杯だった。そんな、年も押せ迫った12月20日、伊藤史郎は体調を崩して倒れた。
 ひどいめまい発作だった。大学の内科を受診すると重度のメニエール病(自律神経失調症)といわれ、ステロイドの大量療法をするため2週間休みを取ることになった。年が明けて1980年1月6日になり、めまいは収まったが左耳の聞こえが極端に落ちた。耳鼻科の先生を受診すると、耳の聞こえは回復しないと告げられ、重度のメニエール病(自律神経失調症)だから出張は禁止と言われ、1月中は休職して、首から上を冷やさないようにして、安静にて様子を見ようと言われ、長期休暇をとった。

 2月20日、吉川部長が設計部の不公正人事を調査してみると以前、設計3部ともめた事があったが、その時、激怒した唐沢部長が、取り入ってる西川専務に言って決まった人事だそうだ。君も僕も、この会社では厄介者になっているんだと教えてくれた。だから君の将来を考えたら、転職した方が良いと思うんだと言った。僕は、もう少しで60歳定年だし、君も将来を考えたら転職した方が良いと思うと言った。

 東京湾の橋の協議会でも史郎君の働きは評判で、実は幹事のSM建設の山下専務が史郎君のような優秀な人が欲しいと、飲んだ席で言っていたんだと教えてくれた。TK工務店は、大型ゼネコンの中では最下位で、SM建設の方が格上で、海外でも、特にトンネル工事の技術水準は、今や世界一だと言った。そこの専務が、君を欲しいと言っているんだ、もし良かったら、話してやるよと言った。そこで、史郎は意を決して、わかりました。転職の件、宜しくお願いしますと言った。翌月の協議会の後、吉川部長がSM建設の山下専務に転職の件をお願いした。

 TK工務店での給料と賞与も知らせると2割増しで引き受けると言ってくれたそうだった。その話を吉川部長が家に帰って史郎に話してくれた。史郎が、今後、どんな風にふるまえば良いのか聞いてきた。今まで通り、通常通りにやっていれば良いと言った。手はずは、全部、私がやるからと言った。翌々月の7月が、吉川部長の定年であり、その日付でSM建設への史郎の転職とい言う手はずで行く事になった。6月に辞表を書いて、私に提出しなさいと吉川部長に言われた。梅雨が過ぎて、1980年7月7日、吉川部長が退職した。その日、史郎は、会社を休んだ。吉川部長が人事部の池山部長に部下の伊藤史郎の退職願を先月もらい説得したが、彼の決心が堅く阻止できなかったと話した。池山部長は困った顔をしていた。

16話:再就職に成功

 史郎は、翌日、手はず通りSM建設の山下専務の部屋に行き、これからも宜しくお願いしますと挨拶した。君の熱心さ、実力は良くわかった。うちで存分にその実力を発揮して欲しいと言われ歓迎された。その後、TK工務店から電話がかかってこないか心配していたが、遂に電話はなかった。その後聞いた話によると、東京湾の橋梁建設にTK工務店は参加できなくて協議会から脱退したようだ。その後、SM建設ではドラフター(製図版)のある個室を与えられて係長という肩書ももらった。ほとんど毎日定時、夜7時前には帰宅できるようになった。

 そして、1980年8月になり、SM建設は、2週間の休暇が有り、1歳になった誠一とゆっくりと遊んで、過ごす毎日が続いた。T建設の時は、毎晩9時近くで出張ばかりの仕事だった。1980年9月になり仕事は現場視察でなくて設計の仕方の指導ばかりになった。若手が来ては、実際に設計図を書いて見せて、やらせて指導する方法が、一番身につくようで好評だった。その他は、協議会の資料づくりとか広報の仕事を頼まれてはワープロで書く仕事が増えていった。
会社では、大学の建築学部を出たばかりの新入社員を次々に史郎の部屋へ来させて、1日、午前、午後、1人ずつ、毎日2人に教えて言った。製図の書き方だけでなく、どういう気持ちで書くべきかとか、誰が見てもわかりやすい製図の書き方を懇切丁寧に教えて行った。いつしか伊藤設計教室と呼ばれるようになり社内でも有名になった。

 1980年も11月になり、風邪やインフルエンザが流行してきた。家に帰ると義理の父が具合が悪く熱が37度を超えたので翌日は、午前中、休暇をもらい、義理の父を近くのKU病院に連れて行った。熱を測ると38.2度と上がっており、インフルエンザ陽性だろうと言われ緊急入院した。お母さんに、午後から出勤する事を話し、会社に出かけた。その日の夕方、仕事を終え、父が入院してる部屋を訪ねると寝ていたので、そっとして家に帰った。翌日は史郎は、いつも通り会社に出かけた。帰る途中で父の病室を訪ねると、お母さんがいて36度台まで熱が下がり食欲も出てきたので数日後に帰れそうだと言った。翌々日には退院して自宅療養になった。

 11月も終わりを告げて12月のクリスマスパーティーは可愛い住人が一人増えて喜びいっぱいのパーティーだった。1980年が終わりを告げて1981年がやってきた。年末年始の休みも10日あり以前の会社が嘘のように待遇が良かった。

17話:1級建築士の合格指導教室

 東京の山本家に新年の挨拶に行くと、山本康男さんと今後の政治・経済の話をした。
 仕事始めの日、会社の山下専務の所に年始の挨拶に行った時に、伊藤君の伊藤設計教室は、評判が良いみたいだと言い伊藤設計教室から一人でも多くの一級建築士、一級建築施工管理技士が増えれば、すぐに課長に昇進させると言ってくれた。昨年は新たに100人が一級建築士、一級建築施工管理技士に合格した。今年は、どれだけ、増えるか楽しみだと言ってくれた。1981年2月には、教室で使う教材を史郎自身が作成し、建築士試験の過去の問題集を調べ上げて、傾向を考えてまとめ上げた資料と、合格するためのモチベーションを高める、心得を書いた資料の2種類を並行して学習してもらう様に考えた。これが合格に早道になる方法だと信じて熱意を持って生徒を教えるように心がけた。

 史郎自身も、自分のこの会社での目標が決まり、その道をまっしぐらに突き進む決心がつき俄然やる気が上がった。毎日、5人ずつの生徒を午前、午後に分けて3時間ずつ教えるスケジュールで、関東の各支店の建築関係者が対象でその数は入社1年生から3年生までを対象とすると1000人を越える数であり、目標の資格を取ると終わりになる。一応、月に1回ずつの勉強としていつので、月25日として250人が研修できる。この仕事は専門職であり、教育者手当が欲しいと単刀直入に言ったところ言いたいことはわかる。だから君を今年の春、1981年4月に課長にするつもりだと年始に話したわけだと言った。それに対して史郎は、その話は、ありがたいと思っていますが、この仕事は出世と言うよりも特殊な技能が要求される専門職であり特殊手当の方が妥当だと思いますと言った。今後、私の後に続く人間のためにも、そう言う考えの基に処遇された方が合理的で良いと思いますと続けた。確かに、君の言うことにも一理あると言い、わかった専門職と考えて処遇することにしようと決めてくれた。それで幾ら欲しいのかと言われ、専門職手当手として基本、月に10万円、その他に成果によってボーナスの査定と昇進を考慮していただきたいと言った。

 すると、確かに、その方が合理的かも知れないと頷いてくれた。総務部長に専門職手当と業績査定は、ボーナス査定と昇進と言うことで、伊藤君の言った通りの条件で処遇するように指示しておくと約束してくれた。その後、1981年の4月に教育研修課長に昇格した。

18話:遅れた結婚式場予約と指輪購入

 1981年5月、転職して、仕事も決まったので結婚式をしようと言う事になって早苗さんと打ち合わせ、結婚式場はホテルニューグランドと決めた。早苗さんが随分、待たされたんだから、婚約指輪も買ってと言われ、了解した。今週の土曜日に、元町に、お母さんと一緒に行きましょうと言われ、出かけた。子供は、お父さんに預けて2時間ほどで帰ると約束して出かけた。

 元町のスタージュエリーに入り、早苗さんに婚約指輪と結婚指輪、日頃お世話になっている、お母さんに、何か気に入った1品を買ってあげると言った。お母さんが、まー悪いわといいながら、満面笑顔で、ありがとうと言ってくれた。
 史郎は、くっついてまわるのも変だと思い、店内の喫茶店で、待つことにした。1時間ほどして、決まった様で、見せに来た。婚約指輪が金の指輪、結婚指輪は、内側に名前のイニシャルと結婚する日を刻印できる指輪にした。お母さんは、以前から欲しかった青のトパーズのネックレスに決めた。精算の時、ダイナーズカードで決済した。それを見ていた、お母さんが、すごいカード持ってるのねと驚いた。親に作ってもらったのですと軽く笑った。

 その後、近くのウチキパンのイングリッシュブレッドとポンパドールのフランスパンと調理パンを買って帰った。家に帰り、珈琲と紅茶を入れて、美味しいパンを選んで、ゆっくりと食べた。買ってきた、婚約指輪と、お母さんのトパーズのネックレスをお父さんに見せると、えー、お母さんにもプレゼントしてくれたのかいと、驚いて、悪いに、大きな散財させてと言った。いいえ、今までの恩返しですよと、史郎が笑った。

 お父さんが、50万位したのかと言うと、早苗さんが100万円位したのよと言うと大丈夫か史郎君と肩をたたいた。すると、早苗さんが史郎さんて名家の出で、お金持ちらしいから大丈夫でしょと言った。また、お母さんがダイナーズのゴールドカードで支払ってくれたのよと付け加えた。あのカードは1千万以上持っていないと作れないと、以前、聞いたと驚いていた。まー、みんなが喜んでもらって良かったですと話をそらすように史郎が笑った。お母さんが、史郎さんて、秘密が多い様で、まるでゴルゴサーティーンみたいねと笑った。調子に乗って、早苗さんが、結婚したら、その正体を暴くわよと言うと、大笑いとなった。

19話:アクアラインの協議会に参加

 アクアラインの協議会に参加した時の君は、このプロジェクトの協議会にも積極席に参加して、意見を述べていて会議をリードしていた。その姿に惚れ込んで我が社に引き抜いたんだよと山下専務が話してくれた。史郎は話のわかる、山下専務に感謝し、ありがとうございますとお礼を述べた。その時、君の実力の高さは、吉川部長の言っていったとおり素晴らしい、今後の活躍を期待してるよと、肩をポンとたたいてくれた。SM建設に入ってもアクアラインの協議会に参加して欲しいと言われて、出席するようになった。1981年11月には、日本道路公団が「東京湾横断道路の調査概要」をまとめ、翌年の1982年8月に第9次道路整備5カ年計画案において「調査を完了し、建設に着手する」と明記されたが、なかなか工事着工されなかった。その後も、史郎は、SM建設で教育研修課長として、一級建築施工管理技士に養成のための教育を担当していた。

 1981年が終わり、1982年が開けた。1982年になって、合格者を増やす様に、教育研修課に50代のベテラン1級建築士3人が配属されて、教育の仕方を1ヶ月教え、4人で分担していく様になり、毎日定時に帰り、3歳になった伊藤誠一に、絵本を読んであげたりしていた。1982年も12月になり、1983年を迎えた。1983年になり、教育研修課の仕事も4人で分担することになり、報告書など事務仕事が増えてきた。その後も、毎月の様に、東京湾横断道路のゼネゴンの協議会に参加して、各会社の情報交換とどの仕事を、どの会社が担当するとか、分担も決めるようになってきた。仕事は、定時に帰り、3歳になった息子の誠一に、地理、英語、数学で覚えることを始めた。家に帰ると、毎日の様に、熱心に教えた。1983年も暮れ、1984年を迎えた。久しぶりに、東京の山本和夫さんのお宅に新年の挨拶に行くと、和夫さんの経営コンサルタントの仕事も増えて、忙しく飛び回っていると話してくれた。少しして、康男さんが来て、新年の挨拶語、別の部屋で政治・経済の話をした。

 1984年の仕事始めの日、山下専務に新年の挨拶に伺った。君が教育研修課で研修始めて、1級建築士の合格率が上がったようで、助かったと言い、昨年から3人の教育担当を増やしたので、今年も1人でも多くの合格者を出してくれと言われ、頑張りますと答えた。この年も、教育研修の仕事で、身体は楽だが、仕事の充実感がなく、満足仕切れない気持ちが芽生え始めた。

 今年の夏休みは、家族5人で、北海道旅行へ行き、レンタカーを借りて、7日間、札幌、旭川、北上して稚内、東海岸を南下して、網走、知床、釧路、帯広と回り、温泉に入り十分楽しめた。奥さんの早苗さんも、今年から息子の誠一を保育園に出して、英語の塾を再開したいと言ってきたので、定時に帰れるので、手伝えることは協力すると言った。9月から試し保育を始める事にした。お迎えを、お父さんとお母さんにお願いし、誠一が保育園に行き始めた。

 12月になり、今年は、沖縄旅行を計画し、5人で3泊4日で出かけた。沖縄は暖かく、過ごしやすく、レンタカーで、一番北の岬まで行き、景色のきれいな名所巡りを楽しんで、那覇のステーキハウスや、国際通りで買い物をして、帰ってきた。費用は全て、史郎がもった。

 やがて年末を迎え、1985年を迎えた。今年も、例年通り、教育研修と、関連書類作成と、授業をして、定時に帰る生活が続いた。息子の誠一のお勉強も手伝い、英語も覚え始め、九九算も暗記し、歴史の年号、日本と世界の地理、国の名前と国旗、首都の名前を教えた。縦笛や、エレクトーンも買い与え、練習させた。誠一も史郎に似て、耳が良く、音感も優れているようだ。

20話:スカGからパジェロへ

 1986年4月に、息子の誠一が小学校1年生にになり、登校し始めた。大きなランドセルを背負って、うれしそうに出かけていった。5月の連休に、ゆっくりと、車で、伊豆の修善寺、伊東、熱海の温泉に3泊4日のドライブ旅行に出かけた。スカイラインも5人で狭くなったので、今年は、大きな車に乗り換えないかと早苗さんが言った。史郎が、スカGも古くなったしねといい、早苗さんが決めて下さいとお願いした。その後、塾の帰り道、トヨタのランクル、ハイエース、三菱のパジェロなど、見て回り、パジェロのロング7人乗りのガソリンエンジンが良いなと言い、息子の誠一を両親に、預けて、近くの三菱自動車を訪れて試乗させてもらうことにした。実際に見ると、確かに人気があるだけにかっこよい、また室内は広く、7人まで乗れる。ディーゼルターボとガソリン車を試乗させてもらい、奥さんがやはり、ガソリン車が良いという事になった。

 すると、ケンメリ・スカイランGTを売りに出すと言い出し、家に戻り、洗車して、最初に日産に行き、下取り価格を聞き、次に、三菱自動車で下取り価格を聞いた。ちなみに、日産では下取りするとい250万円で下取りすると言いもし、日産自動車のサファリを買ってくれるなら300万円で下取りすると言ってくれた。

 次に、三菱自動車へ行き、ケンメリ・スカイランGTを日産で300万円で下取り、サファリを買ってくれるなら350万円にしてくれるといっているんだけれど、日産自動車から三菱自動車に変えることも考慮して380万円で下取りしてくれないと交渉した。三菱自動車の担当者がいくら、ケンメリのスカGといってもそれは厳しいと困った顔をしていた。すると、早苗さんが、史郎を呼んで、ひそひそ話をして、少ししたら、少し怒った顔して、もー良い、トヨタのランドクルザーのが世界的には格上なんだから、ランクルにしようと席を立ってと言った。

 すると営業所の所長と思しき恰幅良い、品のよさそうな男性が呼び止めて、少し離れた席に、史郎を呼んだ。話はわかりました、それでパジェロ最高級車とケンメリ、スカGと交換という事にしましょうと言ってくれた。それを奥さんに伝えると、にっこりして小さくガッツポーズ、やったと小さい声で言った。すぐさま、三菱の、その男性の所へ聞き、その条件で行きましょうと言った。すると、直ぐに書類を作成してきた。間違えのない様に史郎が書いてハンコを押した。

 早速、パジェロのエンジンをかけると、良い音だと言い、ちょと、第三京浜で試し運転したいと言い、三ツ沢から玉川ICまで、加速感やハンドリングを試しながら、かっ飛ばした。車体が重いから早い感じはしないが、安定感があってオフロードには良さそうねと言いながら、ご満悦だった。

21話:久しぶりの実の母との面会

 やがて、10月になり、涼しくなって、気がつけば12月、徳子ちゃん誕生の年もクリスマスパーティーで華やかで、長男の誠一は小学生2年で、可愛い徳子を大事に可愛がってくれた。また、1988年がやってきた。初詣では、徳子の無事出産のお礼と、健やかな成長を祈願した。この年、本当に久しぶりに、伊藤史郎の母が、第2子出産の連絡を、山本康男さんから聞いて、

 久しぶりにある実の母1月来ると連絡が入った。1月10日に横浜駅で待ち合わせた。母は、年を取り、やつれたが、すぐに本人とわかり、抱き付いた。母が、ごめんね、松本の伊藤家の祖父母が寝たきりになって、その面倒をみるので、来られなかったとわびた。すぐに、私論のすんでる家へ案内した。大きなリビングで、早苗さん、吉川夫妻、を紹介し、孫の誠一と生まれたばかりの伊藤徳子を紹介した。史郎の母は、特に孫を見て、可愛い子達だねと、涙を流して喜んくれた。前日、大きな荷物が届いて、中には、信州そばと、安曇野のサンふじリンゴがたくさん、入っていた。早速、リンゴをむいたものを見ると、中に密がたっぷりで、本当に甘くて、みずみずしくてうまい。その後、早苗さんのお母さんが、お得意の中華料理を作って、夕飯に出してくれた。史郎の母は、回鍋肉、青椒肉絲をみて、驚いたようだったが、箸をつけて食べてもらうと、美味しいと喜んでくれた。

 その晩は、和室に泊まってもらった。横浜は、松本に比べ、暖かいですねとしみじみ言った。こんな、立派な家に、住まわせていただいて、本当にありがとうございますと、史郎の母が、お礼を言った。すると、早苗さんのお父さんが、私は、以前、彼の上司だったんですが、素晴らしい青年に育てましたねと言うと、感極まった様でまた泣いた。226事件の話は、お聞きになったと思いますが、史郎の祖父母、私の両親が殺されて、その後の太平洋戦争、東京の空襲での信州、松本への疎開、苦労ばかりの時代でしたと、昔を思い出したようで、ハンカチでぬぐってもぬぐっても、あふれ来る涙が止まらなかった。それを見ていた、みんなももらい泣きをするほどだった。

 少しして、お風呂に入ってもらい、早めに布団を敷き、寝ていただいた。翌日は、久々に、実のお母さんと、お食事でも楽しんでくればと言われ、タクシーに乗り、山下公園を案内して、ホテルニューグランドの海の見えるレストランで、洋食をゆっくりと食べながら、母の近況の話を聞いた。松本の伊藤家は、戦後の農地解放で、田んぼ、畑は、近くの小作農家に分け与えて、大きな養蚕工場、製紙工場は、地元の味噌会社やスーパーマーケットに土地を貸したり、一部は売ってしまい、本家とその周辺の3件の分家の回りの土地くらいしか残っていないといった。そして、祖父母が90代で、寝込んで、10年近く、身の回りの世話に負われて、史郎の所へ来れなかったと言い、山本和夫さんや、康男さんに、あなたの近況を聞いていたと話してくれた。史郎が、お金が必要なら言ってくれと言うと、金に不自由はしてないが、やはり、育った、東京が忘れられなくて、嫁いでからも、しばらく、枕を濡らす日々が続いたと言った。

 だた、史郎だけが、私の救いだった。あなたを産んだときは、ひどい難産で、一時は、助からないかも知れないと医者から言われたんだが、史郎のために、絶対死ねないと思ったら、神様が助けてくれたんだとしみじみ言うと、史郎の目にも大粒の涙が浮かび、やがて流れ出した。そんな、思い出話をしながら、食事を終え、珈琲か紅茶どっちが言いと聞くと、母が、久しぶりに、うまい紅茶が飲みたいねと言い、飲むことにした。出てきた紅茶を飲むと、さすが、一流店だね。こんなうまい紅茶、久しぶりだよと、大喜びしてくれた。

 その後、これは、孫の出産祝いだと、のし袋をくれた。すると、史郎が、その封を開けると、現金を母に渡し、気持ちだけで良いよ。だって、財産全部くれたのだからというと、また泣きだした。本当に良い子に成長したねと、しみじみと泣いた。本当にうれしいよと、ぽつりとつぶやいた。昼食を終えて山下公園を散歩すると、本当に綺麗な所だねと言い、史郎が、向こうに見えるのが、横浜港ですと教えた。ここから、昔は船が手で、アメリカ、ヨーロッパに行ったんだねと言った。

 もう十分楽しんだから、帰ると言ったので、お母さんの荷物を持って、東神奈川から一緒に電車に乗って、八王子まで行き、中央線の特急切符を買ってあげ、実の母を見送った。母は、史郎の姿が見えなくなるまで、窓から手を振ってくれ、それを見ていた史郎の目には、涙がたまり、やがて流れ落ち、ハンカチで拭けども拭けども、涙が、止めどもなく流れてくるのだった。

 少し落ち着いて、八王子から横浜の家に帰った。家に戻ると、お母様は、お帰りになったのと言われてので、ええ、と答えた。もう少しゆっくりしていかれれば良かったのにと、早苗さんのお母さんが言った。本当に優しい、良い、お母さんですねと言ってくれた。そして、孫の出産祝いと早苗さんに、10万円の入った祝儀袋を渡した。お返しを返さないとと言うので、また時間があるときに、私が中華街でシュウマイと中華菓子、まんじゅうのセットを探して送りますよと言った。

22話:実の母の横浜訪問

 そんな1988年2月に、松本の伊藤和子さんから2月15日から夫婦でお邪魔して良いかと電話が入った。そこで、楽しみに待ってますと答え、2月15日の午後2時に、史郎の家にやってきた。翌日は、史郎と早苗さんが、元町を案内して、中華街で食事をしようととすると、突然、獅子舞があらわれ、伊藤和子さんは、驚いたが、史郎がこれが、中国の旧正月・春節のお祭りですと教えた。その後、聘珍樓で昼食を食べた。いつもにぎやかで良いねと笑った。帰ると、長女の徳子が、おばさん、私のピアノを聞いてと言い、弾いてあげると、目を細めて喜んで、頭をなでてくれた。旦那さんの伊藤芳裕さんが、素敵な家族ですねと言った。その後、夕飯の時になり、長男の誠一が降りてきて、伊藤和子さんと芳裕さんに、ご挨拶をした。帰ってきてから、ずっと勉強してたのと言い、すごいわねと言った。

 夕食は、お母さんが、近くの魚屋で新鮮な魚を刺身にしてもらい、皿に盛って来た。すごいご馳走ねといいながら、刺身をいただいた。ことしは、信州そばをいっぱいお土産に持参してくれた。翌日は、横浜から車で、三崎まで行き、魚センターを見て回り、名物のマグロを刺身と焼き魚でいただいた。その後、城ヶ島や、油壺の水族館を見て、鎌倉へ向かい、大仏を見たり、銭洗い弁天に行ったり、鶴岡八幡宮をお参りして、横浜に戻ってきた。

 2泊して、翌日の朝9時に、実の母の伊藤和子夫婦が松本に帰っていった。3月が過ぎ、4月に、史郎の長女、徳子が、近くの幼稚園に入園した。毎日、両親が送り、迎えをするようになり、幼稚園になじんでくれた。長男の誠一は、相変わらず、全国模試の成績を気にしていたが、毎回30位以内になるのだが、まだ1位を取れてないのが不服そうだった。昨年の全国3位が最高の成績だった。彼の通ってる進学塾では、毎月、全国模試が行われていた。史郎が、誠一の相談にのると、2年生になって、不注意ミスが多いのが悔しいと嘆いているので、できるだけ早く、問題を解く様に訓練して、見直しの時間を多く取れるようにすれば良いのではとアドバイスした。その後も、毎日熱心に、問題集を解く毎日が続いた。そして6月に500点満点で492点の成績で遂に念願の全国1位になった。この日は、大きなケーキを買ってきて、彼の頑張りを褒めた。

 そして、高校は、父の入った、筑波大付属駒場高校か、藤沢の湘南高校か、栄光学園、横浜の翠嵐高校のいずれかに入りたいと言った。今年も8月の最終週に、松本の伊藤家へ行き、山岳ドライブを楽しんだり、安曇野の堀金村のきれいな川で泳いだりして、楽しんだ。2泊3日で、横浜に戻った。息子の誠一は、9月、10月も毎晩、猛勉強の日々が続いた。そして、毎年恒例のクリスマスパーティを楽しんで、1992年が終わり、1993年を迎えた。

 今年の初詣では、長男、誠一の高校受験高額祈願をした。2月、遂に、受験の日を迎えて、最終的に受験校を翠嵐高校と栄光学園に絞った。東京へは、通学ラッシュを嫌い、近い進学校に決めたそうだ。2月2日に栄光学園の受験が行われ、2月5日に合格通知が届いた。続いて、2月14日に翠嵐高校を受験し、17日に合格の通知が届いた。その晩に、史郎と早苗さんと誠一が話し合った。史郎が学費の心配はいらないから、どっちでも良いと言った。すると、栄光学園はボストンカレッジ夏期研修があり、それに参加したいと言い、栄光学園にしたいと言うので、両親とも了解した。海外研修も行けば良いと、史郎が言うと、是非、参加するつもりだと笑った。

 自宅から約30分で栄光学園に着き、ラッシュの東京とは反対の方向なので、東海道線の電車に座って通学できると喜んで学校に通ってくれた。入学して、5月に遠足に沖縄へ行き、父母会には、両親で出かけるようにした。8月は山のキャンプ、9月の体育祭、10月の長距離徒歩、12月のスポーツ大会と行事が多い学校だった。そして、大学は東大をねらうと、最初から両親に断言していた。今年も早いもので1995年も12月になり、あっという間にクリスマスイブ、毎年恒例のパーティーを開いて盛り上がった。奥さんがスカイラインGTから、雪道、悪路に強い、パジェロに乗り換えた事も大きな出来事だった。また、除夜の鐘を聞いて1996年を迎えた。初詣で、長男、浩一の健やかな成長を願った。

23話:海外営業部への配属1

 1995年1月に人事部へ行き、今後の予定表をもらった。まず、海外営業部へ行って、英語の読み書き、筆記試験と会話試験をしてもらい、弱いところを補強するプログラムを組んでもらいますと言った。
 1995年2月にドル円だ80円になったのでN証券の山本康男さんに依頼して3億円分を37500ドルに替えた。

 次に仕事の内容を聞いて、伊藤史郎さんにしてもらいたい仕事について勉強してもらいますと言った。8月に2週間ほど、社内の英語教室に毎日、1時間通い、最初から最後まで英語づけの体験をしてもらい、外国でも使える実力を習得してもらいますと言った。担当の先生の合格をもらって卒業となり、1995年4月から、海外営業部の人と実際に交渉の場に出てもらいますと言い、ただ、これは最短で行けた場合であり1ケ月位、遅れる場合もありますと言った。その後、海外営業部へ挨拶に行き挨拶してまわった。下島部長が山下専務から君のことは聞いたよ、期待してますので宜しくと言ってくれた。肩書きは下島部長付の課長だた教えられた。

 早速、今晩、近くの店で君の歓迎会を開くから宜しくと言われた。座る席は、課長の横に1人用の机をもらった。山崎第一課長から読んでもらいたい資料が、机の中に入っているから読んでおいてくださいと言われた。お茶を飲んで、早速、資料を脇目もふらずに、速読すると、回りの人が、興味深そうに、ちらちら史郎の方をみたが、一心不乱にどんどん読んでいくのを驚きのまなざしで見ていた。1時間半で、全部読み終わると、山崎課長に読み終わりましたと言うと、ほんとですか?、今日のあなたの仕事は、あの膨大な資料を読んでもらう事で、明日までに読んでもらおうと思ってましたと驚いた。試しに、内容について質問しても良いですかというので、もちろん結構ですと答え、次々と質問に答えた。わ、ほんとに内容を読んでると言った。

 それでは、最近1年の海外営業部の仕事の実績についてを読んで下さいと言い、一部英語ですが良いですかと聞いた、多分、大丈夫だと思いますよと答えた。若手社員に言って台車で隣の資料室から資料を運ばせた。すると、それを机の左右に積んで、静かに読み始めた。昼頃には、全て読み終えて、終了しましたと山崎課長に報告すると、実は、今、机の中の資料と、今、読み終えた資料が、あなたの今週いっぱいの仕事だったのですと困った顔をした。

 すると、それなら、我が社の英語教育担当の英国人のサリーさんに電話して、空いてる時間を聞いて英会話の勉強に行って良いですかと、構いませんと答えた。早速、サリー先生に電話をすると、これからランチに行きますが一緒に行きませんかと誘われて、出かける事にした。会社の1階の受付の横で待ち合わせた。合うなり、サリーがこれから全部英語で良いですかというので、もちろんですと史郎が答えた。サリーの第一声、レッツ・ゴー、ウイズ、ミー、史郎がOKと答えた。5分ほど歩くと外人の経営の喫茶店に入り、サリーが、メニューを見て、食べたいものを指でさした。そして、オーダー、プリーズと言った。マスターが来て、何か言おうとするとサリーがイングリッシュ、オンリー、プリーズと言うと、ニヤッと笑って、英語で何を注文したいか聞いてきたので、サリーがサンドイッチと紅茶とサラダ、史郎がカレーと珈琲とサラダを注文した。食事を終えた後、珈琲を飲みながら、サリー先生に自己紹介をした。内容は伝わった様たった。食事を終えて英語で雑談を続け、1時10分前になったので会社に戻りサリー先生の部屋へ入った。

24話:海外営業部への配属2

 何か英語のライセンスを持っていますかと聞かれて英語検定1級を持っていると言うとTOEICは受験した事がないのか聞かれたので、ないと答えた。それなら、すぐにTOEICを取りなさいと言われて了解した。1995年6月23日のTOEICに間に合うから申し込んで下さいと言われ、すぐに申込書を書いた。サリー先生が多分あなたなら、すぐ800点取れるでしょうと言い目標は900点以上と言われてテキストと問題集1セット渡しておきますので、自分で勉強してみて下さいと言われた。午後は、これを使って自習して下さいと言われた。史郎は昔から目標が決まると徹底的に勉強するタイプなので自宅へ帰っても答えを暗記する位に何回も復習した。

 その後、海外営業部の今までのプロジェクトの交渉記録をもっと有利に交渉する方法を教えてくれた。それをヒントに、次のプロジェクト交渉の結果から、問題点と対策を考えよと言われ、考えたがわからなかった。それもそのはず、例えば、サウジアラビアなら相手の面子をつぶさないようにこちらのペースに持ってくるとか、東南アジアの場合は、相手の話を否定せずに、こっちに有利な方向へ持ってくる方法などを考えろと言われた。一応、10年前から4年前までの資料をもらい、残りの最近の4年間について、今週に考えて、答えを出すように言われた。あっという間に1ケ月が過ぎて、海外営業は、相手の国の状況を理解した上で、こちらに有利になるような交渉術しかないと言うことがわかった。

 遂に6月23日、TOEICの試験日を迎えた。多少緊張したが、話す言葉は完全に聞こえ理解できたので、かなりの高得点が期待された。数日後、正式に915点という結果が出た。これを知った、サリー先生がエクセレントと言い、もう私が教えることはないと言い、人事部、海外営業部に報告すると言った。海外営業部の下島部長が、英語検定1級持っていて、TOEIC915点といったら、この事業部でもトップクラスの成績だと驚いたように言った。そして、来月、インドネシアでの交渉(1995年7月6~10日)について行ってくれと言われた。わかりましたと言い、7月最終週だけは、用事があるので夏休み取りますので、出張は勘弁して下さいと言うと了解したと言われた。8月になり、海外営業部の仕事を学びたいので、入札に加わるプロジェクト提出する資料作成や、後方支援の方法などを知っておきたいので、年内は、内勤業務で、海外営業部の全体の仕事の流れを勉強させて欲しいと言うと、確かに、その方が、海外で営業していく上で、役に立つかも知れないと言われた。

1993年は、息子の誠一の大学受験の年。1993年3月に、早稲田の理工学部情報通信学科に2月20日に受験に出かけた。東工大の工学部情報通信学科2月25日、26日に受験に出かけた。2月28日に、早稲田に合格して、3月9日の東工大の入試の発表を見に行き、合格を確認して、電話してきた。最終的に東工大に入学することを決めたと連絡してきた。3月10日に、合格祝いのパーティーを開いた。ステーキを焼いて食べて、デザートのショートケーキをいただいた。史郎が、誠一に、どんな会社を目指したいと聞くと、NTTか、NTTドコモ、KDDIを目指したいと、教えてくれた。

 1996年、10月、11月、12月と3つのプロジェクト案件の交渉資料作成、実際に交渉するメンバーの会議に出席して、交渉のノウハウを身につけてきた。12月には、おぼろげながら、全体像が見えてきた気がした。1996年もシンガポールの交渉へついていった。1997年にインドネシアでの交渉に参加した。その後、1998年8月にオーストラリアへの交渉についていった。1999年には、再度、シンガポールのリムさんの所へ、地下鉄工事の件で交渉に出かけた。

 1998年の3月には375万ドル、1ドル147円で売却し55125万円を得て残金が55125万円となった。

 1998年4月に史郎の長男の誠一がのKDDIに入社して、インターネット通信の仕事に就いた。

25話:シンガポールのLIMさんとの出会い

 そして1999年が終わりを告げ、新しい21世紀の始まりの2000年を迎えた。翌年2000年には、サウジアラビア、ロサンゼルス、タイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、ベトナムと7つのプロジェクトがあった。しかし、時代は、バブル絶頂期で、史郎は、バブル崩壊を予感していたが、その通りになり、多くのプロジェクト中止が発生してきたのであった。主なる原因は、急激な円高であった。1998年秋のドル円の147年から1999年には110円、2000年1月には101円の円高になったのだ。円換算で、費用が40%も増えた事になるので、決まったプロジェクトも、米ドル決済の者が多く、我が社の儲けが、円換算すると、赤字になってしまった。

と言う事で、2000年1月から、交渉するつもりのプロジェクトで価格競争力がこの短期間の超円高によりなくなってしまい、他の海外勢に、多くのプロジェクトをもっていかれた。そのため、2000年は、海外営業部の大きな海外のプロジェクトは、連戦連敗の日が続いて史郎も交渉のための出張の機会が訪れなかった。それでも2001年に入り再び円安方向に動き出し110円、120円迄切り返した。2001年10月に、史郎は、シンガポールへプロッジェクトの入札合戦の交渉に、3人と共に出かけた。前もって、交渉相手の名前と、最も裁量権のある、上司の名前と、趣味、嗜好を調べ上げた。幸いなことに、シンガポールのリム(LIM:中国系)交通局長が、主席で、日本びいきで、日本旅行にも、たびたび来て、我が社でも接待していた様であった。

 今回も、交渉に当たり、博多人形と最高級の玉露茶を手土産に持っていった。今回、我が社の交渉のトップの霧島部長はリム部長に入り込んでいて、我が社に有利な交渉となっていた。我が社の地下鉄、地下、掘削技術は世界でもトップである事をプレゼンテーションする仕事を、史郎が任せられて、スライドを見せながら、説明していた。終わりに近い頃、東京湾アクアラインの地下工事の18mのトンネル掘削工事のスライドの時、ちゃっかり、そのシールドマシン(掘削装置)を背にして、史郎が、記念写真を撮ったスライドを見せると、リムが、あれに、映ってるのは、お前かと、史郎の顔を見て笑った。エクセレントと言い、プレゼンテーションを終えた。すると、拍手しながら、霧島部長が良くやった。リムは、むずかしい話より、こう言う面白い話の方が好きなんだと良い、後は任せろと言った。

 今晩の我が社主催の晩餐会にも出席した時、リムが史郎に微笑んでくれた。数日後、シンガポールの地下鉄工事を我が社が入札できたとの報道が流れた。この時、史郎は、この会社に入って始めて鳥肌が立つほど感激した。何という充実感だ。また頑張っていこうという、やる気がみなぎってきた。その後、霧島部長に呼ばれて、君は、個性的な性格であり、君に会った、海外の有力者をリストアップして、その有力者の名前と所属や関連情報を送っておくから、頭にたたき込んでおけと言われた。

26話:LIMさんからの支援1

 2001年の成功後、2002年は、ベトナム、マレーシアと回り、以前、世話になったシンガポールのリムさんに会いに言った。面会していると、2006年から、地下鉄工事が5件計画されているので、2年前くらいから、行動を取った方が良いよと、耳打ちしてくれた。2002年の10月、会社に戻り、海外営業部で史郎の聞いた、地下鉄工事の事を調査し始めた。そして、シンガポールに駐在してる、宗田義男さんにも、この情報を知らせた。

 こうして、2002年が終わり、2003年があけた。新年の挨拶に山下専務に面会したところ、シンガポールで手柄を上げたようだねと言い、おめでとうと言ってくれた。現在は、東南アジア中心だが、2005年以降は、中東の産油国のインフラ整備が本格的に、動きだす。彼らの方がお金を持っているから、仕事の規模もでかい。数年後は、中東が、ゼネコンの主戦場になるだろうと話してくれた。海外営業は、出張も長く、厳しい環境だ、くれぐれも体調管理に気をつけて、良い仕事をしてくれと言った。史郎が、ご期待に添えるように頑張りますと言い、失礼した。

 2003年の4月に、シンガポールのリムさんの所へ、韓国の連中が押しかけるようになったとの情報が入った。
 6月に、欧州、フランス、スペインも訪問し始めたと知らせがきた。我が社も7月に霧島部長と伊藤史郎、他3名が、手土産持参で、リムさんの所を訪問した。リムさんが、どうしたと、聞いてきた。そこで、他のゼネゴンが動き出してきたので、何か、大きな工事があると見たのですがと言うと、笑いながら、そんな話が、議会で出たという段階だよと、まだ、先の話だと言った。

 史郎が、リムさん、その後、お元気でしたかと、巧みに、話し込んで言った。すると、娘が結婚するんだと聞き出し、できたら、結婚祝いに立派な日本人形でも欲しいと思っているんだと言った。結婚式は、いつですかというと、2004年3月だと教えてくれた。史郎が、早速、日本に帰って、日本人形作りの名人を探して、素晴らしい、日本人形を作らせますよと言った。本当か?、名人の日本人形か、それは良いなと、笑った。

 地下鉄工事の情報をいただけないでしょうかと言うと、まだ、機密情報で、もらすわけにはいかないと言った。
 そう言って、立ち上がって、応接室の奥の本棚の方へ、歩いて行った。そして、目配せで、ある場所をみた。
 そこには、何か、コピーのようなものが数枚、表を向けておいてあった。何かの図面のような者だった。
 史郎は、さっと、カメラを取り出して、失礼しますと、すぐに、その資料を写真に収めた。

2003年、史郎の長女の徳子は、近くの進学塾に通って猛勉強の末にフェリス女学院高校を目指して勉強し合格した。

27話:LIMさんからの支援2

 すると、リムさんが、史郎、おまは何て手の早い奴だと笑いながら言い、それで良いだろうと微笑んだ。私は、何も渡してないし話してない。これで面会は終わりと言った。帰る時に、リムさんが、史郎に、立派な日本人形を期待しているぞと、笑って、軽く肩をたたいた。

 すぐに、我が社の駐在所に戻り、写真を現像した所、何と、地下鉄工事の図面だったのだ。路線が5つあり、予定する駅も印がついていた。これは、特ダネだと言い翌日の日本便に乗って霧島部長が日本に戻り、この情報を本社に戻って、説明することになった。史郎は、クアラルンプール、バンコク、ホーチミン、ハノイを回って、5月の中旬に、日本に戻った。5月下旬から休暇をとって、箱根の高級ホテルと温泉に奥さんと、子供と友に、3泊した。

 6月入って、リムさんに渡す最高級日本人形を調べ出すと、まず、ひな人形は、埼玉県岩槻市が有名で有り、岩槻の高級店を3日かけて、多くの店をまわった。豪華ひな人形もあったが、ひな人形は、雛祭り専用であり、ひな祭りの風習のない国には、合わなと考え、断念した。6月15日、博多人形と言うことで、博多に飛んで、博多人形商工組合を訪ねた。すると、焼き物で、日本美人や、子供、風神雷神、可愛い女の子、力士、祭りの踊りの像、赤ちゃんを背に抱く日本美人と、いろんな人形があり、この中から、数点選び出した方が良いと考えた。協会の方に、中華系のシンガポール人の娘さんの結婚式に、持たせる人形が欲しいと言い、一緒に探してもらった。縁起物の大黒様、歌舞伎もの、童、ひな人形、武者、力士と、博多美人の7つが良いのではないかと言われ、仮押さえと言うことで、借りていって会社で検討させていただいて良いですかと聞くと、結構ですと言われたので、7つ博多人形を包んでもらった。その他、麒麟、龍、鳳凰も特別注文した。価格は、どの位というので、最高級品だと、幾らぐらいと質問すると、1つ当たり15万円程度なら、有名な職人に、依頼できますと言った。そこで、特注品はイメージ画を送るから作成して欲しいと依頼した。納期はと言うので2013年中に取りに来ると伝えると十分間に合いますと答えてくれた。

その後、2003年12月に博多へ行って特注品を確認して購入してきた。そして2004年、人形持参で、シンガポールのリムさんに、博多人形10体を持参して面会して、渡すと大喜びしてくれた。その後、シンガポールで一番長い、路線工事の獲得に成功した。

28話:海外営業活動のドクターストップ

 2005年は、長女、徳子の大学受験で、母と同じ、上智大学の英米文学科を目指すと言った。
 2005年に、サウジアラビアと、ドバイを訪問して、人脈作りに奔走、ドバイでは、高級レストランでウエイトレスと仲良くなり、以前、サウジアラビアの王族のおめかけさんだった事がわかり、王族との接触を試みた。2005年、もう一息の所で、サウジアラビアの海水の淡水化事業のプロジェクトを日本の他のグループに取られてしまった。その年の秋の会社の健康診断で、史郎の肝機能以上が見つかった。そういえば、出張から帰ってきても、なかなか疲れが取れない日々が続いた。寝汗もひどく、困ってしまった。肝炎の試験もしてもらったが、B型、C型肝炎のテストもマイナスで、ひと安心した。内科の先生から、以前、メニエール病とか、自律神経失調症をしましたかと言われ、10年以上前にかかりましたというと、あなたは、極寒、猛暑の地域へは行かないで下さいと言われてしまった。

 仕事で、営業など、ストレスのきつい仕事を避けて、体力的に、きつくない、内勤の仕事に配置転換してもらいなさいと言われた。無理し続けると、肝炎、肝硬変になりますと言われた。先生が、診断書にそう書いておくので、会社に提出してみて下さいと言われた。会社に戻り、2005年10月5日に診断書を提出した。そこで、海外営業部の書類作成、ファックス送信などの仕事をするように言われ、出張禁止となった。

 10月に2週間の長期有給休暇をもらい、奥さんと2人で、電車で東北の温泉に行き、ゆっくりとした。最初に、青森の酸ヶ湯温泉に4泊して、奥さんの早苗さんに、もう、出張したり、あまり無理をしないように言われた事を説明した。すると、奥さんが、随分頑張ってきたから、仕方ないじゃないと、慰めてくれた。今後の人生、ゆっくりと楽しめば良いじゃないの、お金も十分あるんだからと言ってくれた。そう言えば、女房と、2人きりで、こんなにゆっくり話し時間もなかったと過去を振り返った。その後、鳴子温泉に4泊、秋保温泉に4泊、蔵王温泉に3泊して家に戻った。家に帰り、お父さんに言うと、もうそろそろそろ後進に道を譲る年になってきたのかも知れないねと言った。11月になり、内勤業務を続けて、パソコンは使えるので、書類作成の日々が続いた。11月18日に、急に、山下専務から呼び出され、部屋を訪ねると、伊藤君、肝臓を壊したんだってと言われ、君には、まだ活躍してもらいたいと思っていたが、出張ができないと医者から言われたのだから仕方がない、また他の部署で頑張ってもらおうと言った。。

29話:元の1級建築士の教育研修を再開予定

 2005年11月、人事部に行くと、また以前通り、伊藤設計教室を再開したらどうかと言われた。そこで、山下専務に面会すると、海外営業で成功したので期待していたが、ドクターストップじゃー仕方がない、また、伊藤設計教室を再開してくれと言われ、了解した。我が社も社員数が増えて教育研修課の人数が足らなくなっていたので、ちょうど良いと笑った。

 有給が2ケ月近く残っていると聞いたが、どうだ12月いっぱい、休んで英気を養って来年(2006年)から教育研修課の課長として再び勤務してくれと言われた。伊藤史郎は、山下専務には、前の会社から引き抜いてくれ、その後も、お気遣いいただき、本当にありがとうございますと言い、堅く手を握った。それでは、十分に休養を取って、また、来年会おうと言っていただき、史郎は、お言葉に甘える事にした。帰って家族に話すと奥さんが家の事や買い物も手伝ってねと言った。料理も教えるから、たまに作ってとまで言った。

 その頃も、趣味としてパソコンを買い換えていた。2005年11月の土曜日、秋葉原へ行って、NECパソコン、VALUESTARの据え置きタイプのパソコンで一式で25万円もするのだった。パンフレットを自宅に持ちかえり近いうちに、これを買うからねと奥さんに告げると、信じられない!、こんな訳の分からないものに大金を払う神経がわからないと非難されたが、唯一の趣味だからという事で勝手にしたらと言われた。その年に、伊藤家では、この地区で最初の家庭用インターネット光通信「auひかり」をKDDIと契約した。

 その後、史郎は、インターネットの幕あけを、他の誰よりも手に入れた満足感に浸っていた。20005年の年末を迎え2006年は、また伊藤設計教室で内勤業務が始まる。今年も初出社の日に年始の挨拶に山下専務の部屋を訪ねた。挨拶を終えた後に、今年から、建築士試験の先生に復帰だねと言われた。その後、あ、そーだ、伊藤君は、昔から、パーソナルコンピューターをやっていたよねといわれ、最近、光インターネットも家にひいて、楽しんでますと言うと、山下専務が詳しいことはわからないんだが、総務や人事で、40歳以上の社員でパソコンが苦手な者が多くて困っているらしいんだが教えられるかと言われた。どの程度のレベルの要求されてるんでしょうねと言われ、専務もわからんと言い、とにかく、人事部に詳しいのが数人いるはずだから、話してくれと言われた。もしパソコンの先生ができるなら、建築士とパソコンの両方の先生をやってくれと言われた。協力できるなら、協力させていただきますと言い、人事部へ向かった。

30話:パソコンの教育担当へ1

 2006年1月に人事部に行くと、山下専務から電話が入っており、山田英雄係長(33歳)が、史郎に挨拶して、いつごろから、パソコンやってるのですかと聞くのPC8001の頃からと答えると、驚いたようで、じゃーBASICの時代ですかと聞くのもちろん、その後、一太郎、マルチプラン、ロータス123、エクセル、データベースⅡ、Ⅲ、アクセス、オフィスパックというと、すごいの一言。人事部にあったパソコンを試しに使うと山田君が完璧と言い、是非、パソコンの先生をやってくださいと言われた。パソコン苦手な40代以上の上司が多く困っているんですといわれたので了解した。もちろん、専門手当も考えてもらいますので宜しくお願いしますと言われた。そこで、会社で使ってるパソコンソフトの教科書を見せてもらった。解説書のページをコピーしてつなぎ合わせたようなものであり、これじゃ、わかりにくいよと一言いうと、伊藤課長に全部お任せするので宜しくと言われた。もし、部下が欲しければ行ってくださいとまで、いってくれた。

 山田君が、自分の先輩たちに気を使いながらパソコンを教えるのが、嫌だと顔に書いてあった。関係資料をもらい。
 更に、教科書、備品、その他の費用は、人事部に請求してくれれば出しますと言った。史郎はパソコンなら検定試験もないし、得意だから楽だと内心思った。今週中に、研修のプログラムと日程表を策定しておきますから来週から1クラスの定員が10名に程度ですから、1時間ずつ、午前2回、午後2回の4回、4時間の講義をお願いしますと言われた。
 テキスト、教育法は、全てお任せしますと言われた。そこで、一番最初に、教えるのはと聞くと、一太郎かワードのワープロソフト、次がエクセル、パワーポイントですと言った。最終的に、メールを受け取ったり、返信したりできるようにしたいと言ったかと思ったら、まー、一度には無理だから、ワープロソフトを教えてくださいと本音を言った。

 受講者のレベルをみて、また、クラス替えして、Aクラス(ワープロ使える。),Bクラス(パワーポイントでプレゼンテーションができ、エクセルもデータの内容を理解できる。)Cクラス(エクセルを使って、計算表をつくれ社内文書を作成し、メールでやり取りできる。)分けして、Cクラスを終了と考えますと言った。まず、一人でも多く、報告書を見たり、書けるようになったりしてほしいと言った。そこで、山田さんに、ワード、パワーポイント、エクセル、インターネットエクププローラー、メールの入門書を指示して25セットずつ、買っておいてくれと言った。翌週の月曜日、2006年1月18日に新しい教育研修室を1部屋をもらった。その他、大きな会議室を研修室として使ってくださいと言われた。パソコン、プリンター、プロジェクター、大型ディスプレー2台が、そこに設置してあった。もちろん自分の部屋にもNECのパソコン・セットが置いてあった。

 それから2006年には、史郎の長女の徳子が、フェリス女学園高校から上智の英文科に受験して合格した。そして、英語の仕事に就くのを夢に見て勉強に励んでいた。

31話:パソコンの教育担当へ2

 教育研修のスケジュール表を取りに行き、見ると、月曜から金曜日まで20クラス(200名以上)、教習は、週に一度づつ、なので月4週として800人。本当に大丈夫かと思った。そこで山田係長に、ほんとに大丈夫かと聞くと笑いながら、わかりませんと言った。ちょっと、無責任じゃないかと笑いながら答えると伊藤さんの思った通りやってレベルアップさせて下さいと頭を下げた。史郎は、自分の部屋に帰って、受け取ってきたパソコンソフトの入門書に目を通した。
 最初は、緊張したが、なるようにしかならないと開き直って何とかなるさと気分を切り替えた。ゆっくりの紅茶を飲んで、9時半の講習を思い描いた。授業開始、10分前、9時20分に教室に入ると、人事課の4人の女性が待機していた。あいさつ後、テキストの本を1セット5冊を各机に、おいてくださいと指示した。その後、数人ずつ、中高年の男性が入ってきた。その中に山下専務までいたので驚いた。10時になり、全員、規律、例と言って、史郎が、皆さん宜しくお願いしますというと、受講者たちが宜しくお願いしますと言い、着席した。そして開口一番、パソコンは、難しいと思わず、文房具とお考え下さい。簡単に言うと、鉛筆、ハサミや定規の様なものです。

 ワードは、鉛筆でラブレターを書いたり、社内文書を書いたりするのに使います。今日は、最初なのでワードで恋文の書き方を勉強しましょうと言うと、笑い声がした。ソフトウェアというものは、人間が作った仕事を効率的にこなすためのツール(道具)でしかないと、簡単に考えてください。そうすると、少しは肩の荷が軽くなりますからというと、また、笑い声がした。パワーポイントは、スライドやOHPに文書、表、図、写真をはめ込んで、プレゼンテーションに使うものです。エクセルは、数式をいれて、数字を入れれば、計算したり、数字を入れたものを、表ににしたりできるソフトウェアで、表集計・計算ソフト言います。メールは、ラブレターを書いて、相手に送るためのソフトです。たまに、彼女にふられて、失恋のメールが戻ってくる場合もあるので、読めなくては困りますと言うと、また、うけて笑いをとった。好きでもない人からの多くて困るのでメールの宛先(アドレス)まとめて管理して、デートの申し込みをする順番に、曜日を変えて送るとかするのに、ヤフーメール、Gメールなどのメール管理ソフトが必要なんですと話した。ソフトウェア習得というのは、できるまでに個人差が多いようですが、完全に使えるようになるまで勉強してくださいね。そうしないと、すぐ忘れてしまいます。ただ、一度、理解すれば、なんてことはありませんから大丈夫、また、使い方忘れたら、知ってる人に、気軽に来てください。パソコンやソフトは、あくまでもツール(道具)で、本質的な仕事ではないですから、これらは、あくまでも自分の仕事をスムーズにこなす為の道具だと言いう事をよく覚えておいてください。たとえて言えば、車の運転みたいなものです。仕事を効率的に進める道具ですと言った。

 ちょっと前置きが長くなったの、本論のワードのテキストを開いてください。その前に、もし、パソコンをやっていて、一太郎というソフトをお使いの人がいたら、ワードの代わりに使えますので、ワープロとして一太郎を使っても全く問題ありませんと言い、使っている人はいますかと聞くと2人が手を挙げた。その後ワードのローマ字変換、部分確定、縦文字、横文字、大文字、小文字、特殊文字の入力方法を押して、最後に、ファイルデータとしてパソコンのハードディスクにデータを書き込むことを忘れない事を十分注意したい、一晩徹夜して書いた書類をうっかり書き込まずに終了すると人間と同じで、すっかり忘れますからねというと、また受けた。こうして、始めての1時間の授業を終えた。最後にまた起立して、全員で、ありがとうございましたと言い終了とした。

32話:パソコンの教育担当へ2

 2006年4月、終えるとすぐ、山下専務が来て、今日授業を終えたら、専務室に来て欲しいと言われたので了解した。10分休憩で10時40分から、次のクラスを同じ様に講義した。午後4時過ぎに山下専務に電話をすると来客中と秘書から言われ、空いた時に、電話していただくように、お知らせしておきますと言われた。5時過ぎに、専務から電話が入り、今晩、一緒に夕食をとりながら、話をしたいのだが、6時半に会社の玄関に車を待たせておくと言われ、了解した。約束の時間に、玄関に行くと、専務の車があり、後部座席に乗り込んだ。すると、すぐ、専務が、伊藤君、芸は身を助けると言うが、君のパソコンの知識は、本物だと言ってくれた。

 一体どういう訳なのだと聞くので、史郎は、日本にパソコンが最初に(1976年)発売されたTK80(ワンボード・コンピュータ)と言うNECのマイコンキットを買った友人がいて、それを見て、マイコンに、俄然、興味を持ったのです。1979年9月末の頃、マイコンは、秋葉原で20万円で無理した買ったのです。その当時は、ゲームマシンとして、BASICでソフトを作ったりして、遊んでましたと、話し、それ以来、3~5年、周期で新しい製品に買い換えてますと言った。

 東京駅近く大きな中華料理やに着き、個室に案内された。山下専務が、寒いときは、紹興酒を熱燗して、飲むのが大好きだと、史郎にも注いでくれた。つまみは、チャーシューとメンマが合うのだと言い、美味しくいただいた。実はね、パソコンを駆使して使えれば、非常に便利なことはわかっているんだが、我が社の40代以上の管理職連中が、パソコンを苦手とする者が多く困っていたんだ。なにせ、従業員数が多く、どうしたものかと総務部、人事部で苦慮していたんだ、そこに、君が昔からパソコンをやっていたと言う事を思い出して、応援を頼もうと思いついたんだと明かしてくれた。

 これから毎日50人から80人くらいになるが、是非、早くパソコンを使えこなせる様に鍛え上げてくれと言われた。
 これが、うまく言ったときには今度は部長にする様に働きかけてあげるからと言ってくれた。もちろん、手当も十分、出すつもりだと言ってくれた。料理を食べながら、思い返せば、東京アクアライン建設の協議会で会った時の事を思い出すと言い、あの時、君を見た時の印象は、若いのに、言いたいこと言う生意気な奴だと言うのが正直な気持ちだった。
しかし、自分の意見に自信を持って、力説する姿を見て、こいつ、もしかして、すごい奴なんじゃないかと思い始めたというのだ。その直感が、ずばり当たり、我が社に引き抜いてからは、君の幅広い、能力で、専門的な仕事をやってもらった。今回の事も、大いに期待していると肩をたたいてくれた。

 外国営業部でも、活躍したが、無理できない身体だという事がわかり、専門職で、残業、出張なし、残業なしで良いから君の持ってる専門的知識を我が社で大いに発揮してくれと言われた。一生懸命、期待にそえる様に、頑張りますと言い、失礼した。その翌日から、大勢の人を相手に、講義をしたが、特に、大変と言うこともなく、淡々と仕事をこなしていった。もしかしたら、私、自身、人に教える方が、むいてるのかも知れないと思う程だった。パソコン使ってる人は、1週間で、要領の良い人は、2週間で卒業していったが、年言った人ほど、最初に理屈で理解しないとなかなか、前に進めず、4週間から6週間の人も一部見られた。

33話:パソコン専門家の採用試験1

 今年2006年からは、定時に、帰ってくるので、6時半には、家にもどり、風呂に入り、食事をするという健康的な生活をくり返し、ストレスもなく、快適に過ごしていた。たまに、近くの駅で待ち合わせて、夫婦で洋服を買ったする時間も取れた。5月になり、桜の時期には、土日だけでなく、夜桜見物にも出かけられ様になった。車で、1泊旅行も毎月のように出かけ、家族も喜んで暮れた。5月の連休は、朝早く横浜の港へ行き、散歩して、混む前に、帰ってくる様にした。6、7月が過ぎ、夏休みが近づいてきた。

 夏休みは、自由に10日間とれるので、2006年8月17日から26日まで家族全員で、パジェロで新潟へ行き、カーフェリーで小樽に上陸して、北海道一周旅行を計画した。小樽~札幌~旭川~美瑛町~富良野~帯広~釧路、釧路から帰りは、道東自動車道(高速道路)で一気に札幌へ戻り、小樽港から新潟港へ高速フェリーでもどり、高速道路を使い、横浜へ帰ってきた。小樽で食べた、寿司、その中でも馬ふんウニがうまかった。美瑛の広々とした丘の絶景には圧倒された、富良野のラベンダー畑も素敵で、また、帯広の豚丼もうまかった。霧の町、釧路もロマンチックな町だった。夕飯にいただいたザンギ(骨なしの鶏肉のから揚げ)がうまかった。

 夏休みを終えて職場に戻ると人事部の山田係長がパソコンの授業を終えた午後4時に来てエクセルの便利な、我が社用のテンプレート作成も手伝って欲しいと言われた。空いてる時間ならOKと言った。翌日、金曜日に、山下専務から呼ばれて部屋に入ると、建築士教育研修室の方の成績が、最近芳しくないと言われ、やはり、佐藤慶君36歳だと、なめられるのからと、ため息をついた。そこで、来年には、伊藤君に、パソコン研修室と建築士教育研修室の両方を面倒見てほしいのだと言われた。そして、建築士もパソコンの方も最低2人、できれば5人程度の同程度の能力のある教育研修担当者を育成してほしいと言われた。そうしないと、建築関連の資格者の数が、足りないと言われた。

 また、パソコンも同業他社ではCAD(製図作成ソフト)を使って製図を書きだしているので負けてはいられないのだと訴えた。パソコンの教育研修探傷車の候補は、一応、人事部の山田英雄係長(1970年7月8日生)を考えていると言った。伊藤が、山下専務に対して、パソコンの方は、パソコンのマイクロソフト。オフィス検定試験に合格した、若い人を新卒で採用したほうが早いと言った。どれくらい採用させたらよいかと聞いたので最低5人、できたら10人欲しいと言った。それだけのスタッフがいれば、パソコンの方は、やっていけると思うと言った。

 難しいのは、やはり建築関連の資格、取得の教育研修の方だと言った。50代以上でも構わないから、資格を持っていて、第一線から退いた人を探してくださいといった。年上の人の話の方が真剣に聞く可能性が高いかもしれないと言った。それで何人、必要かと言われて、やはり、5~10人と答えた。わかった、総務と人事部と相談してみると答えてくれた。

 すると翌週の水曜日、(2006年10月31日)人事部から、パソコンのマイクロソフト・オフィス検定に合格した資格保持者は、男、女どちらが良いかと聞かれて、別に性別は関係ない、能力と、教える能力に優れた人が欲しいと言った。人事部が調べたところによると、資格所有者(MOS:マイクロソフト・オフィス・スペシャリスト)、最上級資格者(マイクロソフト・オフィスマスター)があり、マスターが上級者であり、10人募集して、応募者数が多い場合は、面接試験という事したら良いという事になり、2006年中に、応募を受け付けたいと、山田係長が言った。翌週から、35歳以上50歳以下の男性と募集開始すると、応募1週間で8人の応募があり、年内で、13人の応募がある、応募締め切りを2007年1月10日までとした。試験日を来年の年1月18日とした。最終的に16人の応募があった。面接試験は、伊藤課長、山田係長、山根課長、内川専務の4人が面接官になることが決まった。

34話:パソコン教育室の選抜完了

 2006年が終わり、2007年が到来した。今年も、年始の挨拶に山下専務を訪問すると、いよいよ、パソコンの専門家の面接試験が近づいたが、伊藤君は、応募してきた人の、どんなところを見て、判定するのかと言いて来た。そこで、ソフトウェアの使い方だけでなく、応用経験があるかどうか、また、社会人としての最低限の資質があるかどうか、なた、忍耐強さがあるかどうか、この3点をみて、合否を決めますと言った。もし、やる気があるかどうか疑わしい時には、山下専務の方からも質問してやってくださいと伊藤が言った。山下専務が、全員の化けの皮をはがして、本当の実力を見ようと言うわけだなと笑った。そうです、わが社にふさわしくない人間は、いくらスキルがあっても、駄目という事ですと伊藤が答えた。わかった、その線で面接試験の合否を決めようと、専務が言った。

 試験当日、10時から、小会議室で面接を開始した。最初に来たのは、パソコンスクールを経営している48歳、男性だった。面接最初に、山田係長が、あなたは、マイクロソフト・オフィスの中で、どれが一番得意ですかと聞くと、全部得意ですと言い、だから、マスター試験に受かったのだと言った。次に、伊藤課長がなぜ、パソコンの専門家になりたかったのですかと質問すると、その質問は、この仕事と何か関係あるのですかと逆に質問してきた。それに対して、モチベーションの問題です。つまり、好きでやってれば、応用ができるが、資格にしがみついているだけでは、応用力が期待できないと思うからですというと、そうでしょうかね?、ソフトウエアは単なるツール(道具)であり、そこまで必要なんでしょうかね、むしろ使う腕が本物かどうかのが大切じゃないでしょうかと言い返してきたので、そうですか、そういうご意見ですかと、伊藤が言い、そういう人は、わが社では、必要ありませんと言い切り、お引き取り下さいと言った。

 その男は、びっくりした様に、席を立った。1人、最大20分の持ち時間で面接試験をしたが、5分以内で、不合格となった人が4人おり、合格者5人で終了した。終了後、すぐ解散したが、伊藤課長が、山下専務に呼ばれて、部屋に入ると、パソコンのソフトウェアの達人と言っても、そんなにたいした奴はいないねと山下専務が言った。伊藤課長が、好きで上達した人でなければ、人を教えられないと言うのが、私の個人的な信条であり、それを変えるつもりもなし、多分、王道だと思いますよと言った。建築士関連とパソコン関連の教育研修は頼んだよと言った。2007年2月から、教育研修課として、16人入れる部屋をもらい、佐藤慶係長と、新しく吉田佳代子さんと清水真弓さんの2人が入ってきた。先週のパソコン教育関連の試験で合格した5人が来月からこの部屋に入ってくる。合格者は斉藤進さん(40歳)と内藤一雄さん(33歳)真田めぐみ(28歳)木村恵子歳(26歳)倉田康子(25歳)の五名、建築士教育の佐藤慶(37歳)と川田広(29歳)の10人の所帯となる。

35話;1級建築士の合格率低下の原因と対策

 2007年4月に史郎は、佐藤と川田君を呼んで、最近の建築士関連の試験の合格率が、落ちてる利用の説明を求めた。2年前から、試験資格が、変更になったことで、試験を受けられる人数が増えて来た事が1番の原因だと言った。つまり合格者を分子とすれば合格者数は増えています。しかし受験者を分母とすると、その数が、かなり増えてきて、合格者数は増えても、合格率は下がっているという事なんですと佐藤慶が言った。確かに合格者数は多少だが増えていた。
 次に、不合格の人が、仕事の関係で、何回も受験して、不合格になっている点もあると言った。4回以上、不合格の者は、配置転換するとか、退社してもらうとかペナルティーを与えた方が良いとも言った。確かに、理屈は通っている。史郎は、逆に、合格率、合格者数をもっと上げるにはどうしたら良いかと聞いてみると、スタッフを増やして講義するだけでなく、模擬試験を増やしたら合格者を増やせるのではないかと言った。具体的に、何人欲しいのか、また、研修のやり方をどう変えたら良いのか書面で今週中に提出する様にと佐藤係長に言った。わかりましたと言われて話は終わった。

 翌週、提出された書類を見ると、研修で勉強を教えるのをやめて積極的に模擬試験を増やして研修の1回を短くして、授業時間を1時間から45分にして、1日あたりの授業の回数を増やし、少人数制にし、その人の弱点を見つけ強化させる方が実力アップには良いと書いてあった。実地試験(製図の提出)は、会社の規定の時間外に課題の製図を書かせて、提出させて、評価と、問題点を話し、克服させる方が、合格の早道だと言った。もし何回も不合格問題の社員がいたら、その問題点を書いた書類を人事部に回して配置転換、または、適性がないと言っても構わないと思いますと佐藤係長が言った。史郎が、わかった、その案で人事、総務部に当たってみると答えた。

 2007年6月に、教育研修部に、斉藤進さん(40歳)と内藤一雄さん(33歳)真田めぐみ(28歳)木村恵子歳(26歳)倉田康子(25歳)の5名が入ってきた。史郎は、斉藤進さんと、内藤一雄さんを呼んで、今後のマイクロソフト・オフィスの教育担当として、やっていく場合、どのような授業が良いか尋ねた。すると、前もって、授業の範囲を言い渡しておいて、その範囲で、講師が受講生に質問して答えてもらう様にして、知識をつけさせる事。授業の最後に、次回までの課題として、宿題を出して次回の授業で答えさせる形式の方がが身につくと言った。時間は、30分、教えるソフトウェアは、1研修で必ず1つで、ワードかエクセルかパワーポイント、アウトルック、アクセスのどれかとする。一定の単元を終えた段階で、模擬試験をして、習熟度を確認していくようにした方が、早いと思うと言った。

 エクセルは、実際に仕事に関連するデータを使い、計算式を入れたり、表を作成したり、データ入力と同時にグラフを作成したりする実戦的な宿題を出して、仕事でソフトウェアを応用する技術を身につけさせる方法が良いと語った。史郎が、カリキュラムは任せるから、できあがったら見せて欲しいと言った。早速、斉藤さんと、内藤さんに講師になって授業をしてもらい、史郎が見学する事にした。今日中にカリキュラムの原案を作成してもらい、史郎が明日、をれを見て問題なければ、その話を総務部に報告して、2日後から、ソフトウェア勉強会を開始する事にした。その話を終えた後、佐藤慶係長の話した建築士関連のカリキュラムの変更を総務部に説明しに行った。総務部長に了解してもらい、翌日の建築士関連の勉強会から、変更したカリキュラムを実行する事となった。そうして2007年が終わり2008年を迎えた。

36話;1級建築士の合格率低下の原因と対策

 2008年4月、帰って佐藤慶係長に話すと、上層部とのパイプが欲しかったので、伊藤課長に戻ってきて本当に助かったと言ってくれた。真田めぐみ、木村恵子、倉田康子の3名には、総務、経理、人事、営業、海外営業など、全部署をまわってもらい、パソコン活用上の問題点を聞き出し改善策を考えることを命じ、その後、改善策を各部署で実施して、仕事の効率化を助ける仕事をお願いした。改善が進んだ後で仕事で使えるテンプレート作りをしてもらう仕事を依頼した。GWを終えた頃から、建築関連の教室でも、ソフトウェアの教室でも厳しいとか内容が難しくなったとかとの評判が会社の各部署から出る様になってきた。講師も指示した宿題してこない生徒には、厳しく接して言い訳、無用にした。この結果、6月にマイクロソフト・オフィスのスペシャリスト検定試験での合格者が一気に増えた。これは専門家を講師として採用して、初めての目に見える成果だった。そしてスペシャリストが10人を越えた段階で、マイクロソフト・オフィス・エキスパート検定を受けさせる事も考えた。

 20008年7月、8月、9月で300人以上がマイクロソフト・オフィス・スペシャリストに合格した。その後、仕事の関係で30人を選抜して、マイクロソフト・オフィス・エキスパート試験に挑戦するカリキュラムを考えて教室を開く様になった。年内にマイクロソフト・オフィス・スペシャリストが350人を越えた。そして、12月の試験でマイクロソフト・オフィス・エキスパートが3人合格した。これには、史郎も、講師の斉藤進と内藤一雄さんが大喜びした。その頃には、その他の女性3人も総務、人事、設計、営業、海外営業、研究、開発の部門で使える、便利なエクセルテンプレートを作成したり、その部門に適したアクセスを使ったデータベースとデータベース管理ソフトを作成して、会社の仕事の効率化に大きな貢献をした。

 年も押し迫った2008年12月20日に、一級建築士の合格発表があり、合格者数が15%増えてきてカリキュラムの変更の効果が出てきた。その年の教育研修部の忘年会には山下専務が飛び入りで、参加してくれ各担当者に労をねぎらってくれた。そのために教育研修部のスタッフの意気が上がったのは言うまでもない。その年のボーナスの査定評価が高くなり、冬のボーナスも以前よりも、かなり増えた様だった。

 そして2008年も終わり、2009年を迎えた。2009年の年始挨拶に、山下専務の部屋へ行き、挨拶後、専務の方から、昨年の教育研修部の活躍は、すごかったねと言われ、今年の4月に伊藤史郎君の部長昇格を役員会に諮って、昇進させる様に働きかけると約束してくれた。昨年、結局、ソフトウェア教育グループの成果が順調であり、最終的に383名のマイクロソフト・オフィス・スペシャリストが誕生した。今年は、1000名の合格をめざそうと計画した。更に、今年は、マイクロソフト・オフィス・エキスパートを10人以上、誕生させる目標を立てて、我が社の各部署で最低1人以上、総務、人事では将来的に10人マイクロソフト・オフィス・エキスパートという、壮大な計画を話し合っていた。

 全社員が15000人以上いるので、教育担当者を増やして、一気に、増やす検討も始めたのだった。昨年の試験マイクロソフト・オフィス・エキスパート試験で合格した3人、山下和子、山田達夫、姫島康男の3人は、パソコン教育研修チームに配属して、パソコン教室の会場を増やして5教室ずつ、開催することにしたいと言ってきたので、総務部に、会議室の予約状況をみて、空いてる時間には、できるだけ、パソコン教育研修に使わせてくれる様にお願いした。

 1級建築士受験指導グループは、今年の試験から、研修のカリキュラムと時間、やり方を改良した成果が出てくるので、楽しみに待つことにしたい。パソコン教育研修は、授業の講師の数を2人→5人→10人(最大、会議室の空きぐあいによるが・・)と増やすことによって、スペシャリストの数は、倍々ゲームで増やしていきた。実際に、毎月100人を越える、合格者が出てきた。そして、4月に、業績が認められて、2009年8月1日付で、伊藤史郎が、教育研修部長、就任が役員会で決定した。その他、最初から講師を務めた、斉藤進と内藤一雄も係長に昇格した。その後も、パソコン教育研修の成果で、2009年9月末日で、スペシャリストの合格者が500人を越えた。また、エキスパートも8人が合格した。こうして、2009年がおわり、2010年を迎えた。

37話:第二アクアライン検討会発足と東日本大震災

 2010年9月15日、山下専務に呼ばれて、専務室で面会すると第二アクアライン(千葉県富津岬から横須賀の走水の岬)について、水面下で検討会議が始まったと告げられた。第一回総会が20010年10月12日に我が社の大会議室で行われる事になったと教えられた。関連する企業38社で、以前アクアライン建設工事に携わったゼネコン6社から3人ずつ、他は、責任者1名の50人が出席する事になったそうだ。国の建設省の役人と、大臣も出席する様だ。その会議に伊藤君も出席してもらいたいと言われ、喜んでと答えた。我が社から、その他、営業部の谷川部長も参加する予定だと聞かされた。

 本来は2013年に東京オリンピックの開催をもくろんでいたのだがブラジル・リオデジャネイロに持って行かれた。
 次回の2020年、オリンピック開催に再挑戦する予定であるが開催できるか未定だ。第二アクアライン(千葉・富津岬と横須賀・走水の間、約7km)に橋を架けて、今のアクアラインの特に土日の激しい混雑緩和と、東京に住む団塊の世代が、全員75歳を越えるために、その人口を分散させるために、関東でも人口密度の少ない地域への分散させる目的で作ろうという訳だった。千葉のゴルフ場の跡地に老人が多く住む、病院、行政、商店などを使いやすくしたコンパクトタウンを20以上つくり、東京の高齢者を移住させようと計画した。

 その場合、埼玉の郊外、茨城、千葉県・房総半島から、第二アクアラインの橋を渡り、横須賀に入り、関東の郊外を一周する大きな環状道路ができ郊外と都心を短時間で結ぶことができるようになる。完成予定は2018年と考えている。その10年前に第二アクアライン建設準備委員会を立ち上げたと言う訳だ。第1回では、総工費と工事予想期間が話題の中心で有り、総工費は、アクアラインの1/3、工期は5年(アクアラインの半分)と見積もられた。3つのゼネコンでは4年で完成できると話していた。工事着工開始を2011年7月1日と決定した。

 ところが2011年3月11日午後2時47分、東日本大震災が起きて工事着工開始の2011年7月1日が当分延期となった。東京の中心街の震度は5弱で、交通網がマヒして、徒歩で帰宅する人の長蛇の列が各幹線通りにおきた。そこで、わが社では、帰宅困難者のために、大震災の日の晩に、東京の本社を開放して、会議室で寝たり、備蓄していた食料品と水を分け与えたりした。20011年の夏から、余震の続く、東北へ、ボランティア活動へ若い社員が出かけた。2011年から我が社でも東北復興のための建物設計、マンション、工場の免震化工事を始めた。

38話:吉川茂紀部長の死

 2011年の東日本大震災を経験してから、義理の父の吉川茂紀さんが、生きる気力をなくした様になった。
 4月に病院で調べともらうとアルツハイマー型痴呆がひどくなっているようだと言われた。5月の連休を過ぎると食事も取らなくなり痩せてきて、KU病院に入院する事になった。脳梗塞の症状も強くなり6月30日に、あっけなく亡くなってしまった。内輪だけの家族葬で父、吉川茂紀さんの葬儀を終えた。

 奥さんの君恵さんは、あまりに突然の死に混乱して現実を受け入れないようで、悲嘆に暮れる日々が続いた。それが2週間も続いたので、気になって、KU病院を受診すると、彼女も痴呆の症状が出ていると言われた。夏が過ぎて、毎日、庭を眺めては、寂しそうな顔をしていた。そこで、娘のが、この家は嫌いになったの?と聞くと、茂紀さんの思い出が多すぎて、嫌だと言い始めた。そこで、老人介護施設に入りますかというと、入所しても構わないから、ここから出たいと言った。そこで、どういう所が良いかと聞くと、花があって、暖かい温泉がある施設が良いと話しくれた。そこで、その晩、史郎が帰ってきたときに、その話をすると、家から、それ程離れてなくて、温暖で、温泉がある所というと、房総半島の温泉か、箱根、熱海、山梨・・、車ですぐに行けるところと言うと、熱海か、房総半島の温泉のどちらかが良いと言う事になった。熱海は、行楽地で車の渋滞が激しく、アクアラインを使って房総半島の方が良いかも知れないと言うことになった。この話をすると、房総は、冬でも、一番先に花が咲くきれいなところねと言い、母が、承諾してくれた。

 外房の鴨川の老人施設に入所することになり、手続きを取り、2011年10月に、史郎と奥さんとお母さんの3人で出かけた。その老人施設から亀田病院まで、近く、何かあった時でも安心できそうなので、史郎も奥さんも、お母さんも納得した。そうして、毎年、史郎家族が、お母さんの所を訪ねてた。その後、年に2回(1月と10月)早苗さんと2人で、南房総・鴨川の早苗さんの母が入所する老人ホームを訪問して、いろんな話をして、楽しんだ。そして、2013年4月に、伊藤史郎も60歳になり、KS建設を定年退職した。

 2013年6月にドル円が77円なり、4億円で519万ドルを買った。その2年後2015年4月にドル円が125円に近づき、125円で519万ドルを売って83250万円を手に入れ、残金が153200円となった。

 入所して6年目の冬、早苗さんの母が2018年12月20日に風邪をこじらせ肺炎を併発して帰らぬ人となった。
その後、伊藤家の家族4人と親戚8人の12人で早苗さんのお母さん幸恵さんの葬儀を執り行ってお別れをした。
 2011年に徳子が上智大学の英米文学科を卒業して、地元横浜のWOWOWに入社し、洋画の日本語訳の仕事を始めた。

39話:第二アクアライン工事着工

 そうして、2014年の4月15日に計画された第二アクアラインが2019年4月に完成した。まず、工事費を安く上げるために、距離が短くする事が第一条件。具体的には、千葉県富津岬から横浜横須賀道路の最東端、走水の岬までの、約7kmが最短距離であり、そこに、橋を渡そうした。館山自動車道の木更津南ICか新日鉄君津の前を通り富津公園、富津岬から橋を渡し、横浜横須賀道路の終点の走水とつなげて、高速道路同士をつなげようとする計画だった。

 この第二アクアラインをつくる目的の1つは、川崎からのアクアラインの渋滞解消のために計画された。実は、もう1つ、大きな目的があった。それは、首都圏の75才以上の高齢者を東京都心の下町エリアなどから、関東でもまだ人口密度の低い房総半島、三浦半島へ分散させて、そこにコンパクトタウンを作り、行政、スーパー、医療機関がバスで移動して巡回してまわろうと考えたのだ。またその地域に、木造3階建てのアパート形式の一般的な価格の老人施設と低価格のプレハブに断熱材を入れた長屋形式の老人施設を考え、低い年金生活者のための安価な老人施設をつくろうと考えた。そして、各階に病院のナースステイションのように、各部屋の老人めいめいの体温、脈拍、心拍数を1箇所で見られるように、より少ない人数で健康管理できるような施設を考えた。更に、各部屋に監視カメラを置き行動の変化にも対応できるようにした。

 特に、房総半島、三浦半島の空いてる土地に、そう言う施設をつくろうと考えた。そして、銀行、行政、商店、洗濯、理容、美容室などのインフラをつくるのではなく、バス、またはトレーラー、トラックを改造した形で、施設の方から、老人施設を巡回してもらうシステムにする。これにより、無駄な、インフラ施設が必要なくなる。その後、2020年のオリンピックを終えて、千葉のゴルフ場の跡地に、建て替え、再利用可能な、プレハブ、木造の3階建ての老人施設を持つコンパクトタウンが次々とできた。その他、首都圏で耐用年数が10年以上と診断されたマンションを国と地方の金で耐震工事をして、その空いた部屋に、老人を安く入居してもらい、各部屋に監視カメラをつけて体調変化に対応できるようにし、各階に、病院のナースステーションみたいに、老人の温度、脈拍、心拍数を1箇所で見られるように、より少ない人数で管理できるような施設を考えた。

 この法改正で、新たな企業が老人ホーム市場に参入してきて、首都圏の独居老人、老老介護の問題が徐々に解決されていった。もちろん、伊藤史郎も会社を立ち上げて、自分の資産で、IFホームと協力関係を結び、この事業に10億円を投資した。史郎は房総半島に8ヶ所の老人施設と三浦半島の西部に8ヶ所の老人施設を作り、16の老人施設を経営した。

40話:史郎の突然の死

 その後、首都圏・老人問題協議会のメンバーに就任して1級建築士としていろんなアイディア、意見をだして、この問題解決に奮闘していった。協議会で老朽化して立て替えできないマンションを耐震化して、老人施設として使えるものが1000ヶ所ある事を突き止めて30万人分の老人施設を提案して完成させた。その他、ゴーストタウン化しているニュータウンの手直しで40万人分の住居が確保できた。更に、低年金生活者のために、自分の死後に、残った財産を、入居一時金として使える様に法律を改正して月々の支払金額を減らす事ができるように改善した。そして、金融関連会社、リース業者、建設・不動産会社、個人、団体、法人、特殊法人が老人施設市場に参入できるようにした。これにより空き屋が取り壊され、次々に3階建ての木造老人ホームができ、リフォームしたマンションも含め、新しい老人施設70万人分ができた。この様な対策で2028年までに、東京で100万人分、神奈川、千葉、埼玉で100万人分、山梨、群馬、栃木、茨城で100万人分の老人施設が完成した。これらの対策で2025年には首都圏の老人問題は、徐々に解決の方向に向かった。

 また、関東でも、名水がおおく、簡単な消毒処理で、飲料水になったり、未処理の川の水も生活用水として利用でき、風力、小水力、太陽光発電などを利用して、できるだけ、自前で水、自然エネルギーを利用する施設も増えていった。そうして、今ある鉄道やエネルギー、その他のインフラ施設を大事に修理しながら継続使用することを心がけて行った。
 社会貢献に積極的な企業も多くなり、相互扶助の社会が日本に蘇ってきた。2033年になり、団塊の世代の人達が、多く亡くなり、老人施設が余ってきたので、その施設の再利用の方法を協議会で審議していた時、史郎は、急激な頭痛に襲われ病院に担ぎ込まれた。診断の結果、脳梗塞と判明。奥さんの早苗さんと息子の誠一が病室に来てくれた。そうして数日後からリハビリの訓練を始めた。薬物治療の効果も出て少しずつ回復していった。3週間後、若干の麻痺が残ったが、退院することになった。

 家に帰ってから、息子の誠一に、現在経営している老人ホームの決算書などを見せた。もしできれば経営をの継続をお願いしたいと行ったところ、急に決められないので検討すると誠一が言った。父、史郎の資産の残金は5.3億円だと言う事も打ち明けた。誠一が、それなら経営を継続しても良いと言ってくれた。2033年5月8日、快晴の行楽日和の日に、誠一の運転で、史郎の経営する房総の老人施設を訪ねた。そこの施設長に、状況報告をうけ、スタッフ達と、やっと日本も昔の様に、人を慈しむの社会に戻りましたね、本当に良かったですねと笑っていたが、また、史郎が、強烈な頭痛に見舞われ、救急車で近くの亀田総合病院に担ぎ込まれた。

 運び込まれた病室のクリーム色のカーテンが海に沈む夕日の赤で、ビロードの赤のように染まって、史郎の人生という映画の幕が下りたような感じがして、早苗の目に涙が浮かんだ。そして史郎の満足そうに、笑っている様な、史郎の顔が見えて、早苗は、感情を抑えられなくなり、泣き崩れた。(終了)

『伊藤家の忘れ形見』

『伊藤家の忘れ形見』 播磨王66 作

最終章で、2025年問題、高齢者の東京一極集中の問題について、触れた作品です。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-16
Copyrighted

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