砂のやりとり (三題小説)

 嘴の先から、砂が流れ落ちてゆく。
 ニス塗りの木枠に収められた硝子細工のペンギンが二羽、互いに反対方向へ身体を捻りながら、微かな一点で嘴と嘴を重ね合わせ、そこを砂が流れ落ちてゆく。薄いレースのカーテンから差し込む朝日に透かすと、砂粒が淡く光を拡散して、まるでかがやく水のようだ。
 音が聴こえないかと思い、耳にあててみる。何も聴こえない。しかし、無音ではないのだとぼくは思う。砂と砂がこすれあいながら落ちていくその音は、二羽のペンギンを形容する硝子細工の薄い壁によってはっきりと外界から隔てられ、ぼくの鼓膜を揺らさない。無音ではないのだ。それはただ、ぼくの耳には届かないだけなのだ。

 日曜日の朝だ。
 予定はなくなってしまったというのに、目覚まし時計の時刻をリセットするのを忘れてしまった。仕方がないので、ゆっくりと手間をかけて朝食の支度をした。丹念にコーヒー豆を挽き、フライパンでかりかりになるまでトーストを揚げ、厚切りのトマトを弱火でじっくりと焼きあげた。つややかで絶妙な半熟の目玉焼きも用意して、それらを全部重ねてナイフで丸い黄身を静かにつつくと、あたたかな黄身が、もったりとした匂いを発しながら白い皿にどろりと溢れ出た。完璧な朝食だ。
 食後は少しだけ重くなった腹がベッドの温もりを思い出すようで、ぼくはリビングのソファに深く身を沈める。そして、机の上に置いてあったペンギンの砂時計をなにげなく手にとって、日に透かしてぼんやりと眺めながら、いろいろなことを考える。君のこと、朝食のこと、砂時計のこと——そしてまた、君のこと。

 言い訳をするつもりはないけれど、金曜日はほんとうに疲れていたんだ。
 つまらない仕事のトラブルに見舞われ、大幅に退社時刻が遅れた。その処理にぼくは心底ぐったりしていたし、かなりうんざりもしていた。帰りの駅のホームで君からの電話を受けたときにぼくの頭にあったことは、とにかく快適なベッドで、思うぞんぶん眠ること。そして約束や時間に追われることなく、ゆったりと、自分のための時間を使いたいってことだけだった。水族館に行く約束をしたことはたしかに覚えていたけれど、それは来週とか、またの機会でもいいような気がしたんだ。少なくとも、そのときは。

「申し訳ないんだけれど、日曜の予定はまた今度にしてもらえないかな?」
 そうぼくが告げると、深い溜息のあとに、チルチルミチルが迷い込んだ暗い森を連想させる沈黙がやってきた。それはずいぶん長い沈黙で、電話口の向こうでときおり漏れる息づかいだけが、通話がまだ切れていないことを告げていた。君はしずかに、しかしはっきりと、ぼくに対して腹を立てていた。ぼくは言葉を失い、きみの声を待った。ぼくの街に向かう電車が一本通り過ぎ、反対方向のどこかへ向かう電車がさらに一本が通り過ぎたあと、君はようやく、重い口を開いた。

「あなたは、予定というものをいい加減に考えすぎているのよ」と、君は言った。
「先週会ったときに、今週の日曜日に水族館に行きましょうって、きちんと約束したわよね? ツナとオレンジママレードをマヨネーズで和えた、ふたりのお気に入りのサンドイッチと、ポットいっぱいの熱いお茶と、自家製の鶏肉ハムを持って行って、お昼は外の公園の芝生にシートを敷いてゆっくり食べましょう。そして午後は水族館で、ふたりで手を繋いで、大好きなペンギンを飽きるまで日がな一日眺めましょうって、そう約束したわよね?」
 たしかに、した。
「あなたみたいなおばかさんはきっと知らないんでしょうけど、おいしい鶏肉のハムを作るには、四日間かかるのよ? それは五日でも三日でも駄目なの。せいかくに、よっかかん、かかるのよ。塩とか砂糖とか胡椒とか、そのほかにも、今のあなたなんかに教えるのはもったいないようないろいろなものを、ていねいにていねいに擦り込んで、きっちり四日間、空気を抜いたビニール袋の中で熟成させるの。私はあなたと水族館に行くことをとても楽しみにしてたから、毎日、少しずつ熟成が進んでいく鶏肉を冷蔵庫から取り出して眺めては、とっても幸せな気分になっていたのよ? それが無用のものになってしまう悲しさなんて、あなたにはこれっぽっちもわからないんでしょうね。私、悲しくて悲しくて食べられないわよ。だから、捨てるわ。ついさっきまで、私をこんなにも幸せで、あたたかい気分にしてくれたものが、ゴミ箱に入った瞬間に、ただの生ごみになってしまうの。それがどんなに、みじめで、せつなくて、やりきれないことか、あなたにわかるかしら?」
「わかった。申し訳ない。きみの言うとおりだよ。やっぱり行こう」
「そういう問題じゃないわよ」
「じゃあ、どうしたらいい?」
「知らないわよ、そんなこと」
 ブツリと音がして、電話が切れた。これが金曜日の夜の出来事だ。
 土曜日に何度か電話をかけたが、録音された女性のアナウンスが、「お客様の都合」により、君は電話に出ることができないし、出る気もないのだという説明をただ繰り返すだけだった。
 そこをなんとか、とためしに電話口で言ってみたが、もちろん無駄だった。まぁ、あたりまえのことだけれど。

 こんなぼくにも言い分はある。
 君だっていままでに、ずいぶんひどいかたちでぼくの気持ちを裏切ったことは、これまで何度もあったじゃないか? 忘れもしないのは去年の夏の出来事だ。ぼくたちは大好きなサッカーチームの応援をしにスタジアムに行く約束をずいぶん前からしていて、チケットだって買ってあった。それなのにきみは、仕事上で付き合いのある相手との大事な会食が入ったと言って、一方的に予定をキャンセルした。きみはもう覚えていないかもしれないけれど、あれは結構辛かったんだ。

「大事な取引相手で、とても大切な契約を控えているのよ」と君は言った。
「先方が私のことを個人的にとても気に入っていて、ほとんどセクハラみたいなものなんだけれど、どうしても一度休日に食事をしたいって。私はもちろんずっと断り続けてたんだけど、今進めてる契約を実現するためには、じつにたくさんの人が関わってるの。恩のある上司からは頭を下げられるし、このプロジェクトの成否によっては左遷されかねない人もいるし、ほんとうに、にっちもさっちもいかないのよ。取引先の社内で発言力のある立場の人だから、そうむげにもできないし。御願いだから、わかって」
 たしかに仕事なら仕方ないと思うし、そういうこともあるだろう。ぼくはもちろん嫌な顔ひとつ君に見せなかったつもりだ。サッカーは君の分まで応援しておくから大丈夫だよ、と言ってあげさえした。理不尽な要求を突きつけられた君の気持ちが、すこしでも和らげばいいなと思ったからね。
 だからと言って、ふたつ並んだ指定席のぽっかり空いた左側が気にならなかったわけはない。「ほとんどセクハラまがいの会食」をまさにその瞬間、君が他の男としていると知れば、なおのことだ。
 実際、ぼくはその日一日を最低の気分でやりすごした。売り子が運んできたビールは不愉快なほどぬるく、贔屓のチームの選手たちは集中力を欠いたミスパスばかりを繰り返し、全てのシュートは枠を大きく外れ、試合は惨敗。おまけに後半からは夕立ちまで降りだして、まったく最悪の日曜日だった。さらにぼくを苛立たせたのは、結局君は相手の勧めるままに酒まで付き合って、帰りは終電間近だったということだ。どうしても断りきれない流れがあって、仕方なかったのよ、と君は言った。確かにそういうこともあるだろう。それはわかる。大丈夫だよ、とぼくは言ったし、立場を利用して女の子をデートに誘う相手の男の卑劣さを、君と一緒にさんざん罵りもした。でもそれは、ぼくの気持ちとはまた別の話だ。

 てのひらの上で、二羽のペンギンが静かに砂のやりとりを繰り返している。ときどき、ちょうど砂が半々になったところで砂時計を横にしてみるが、なかなかうまくいかず、よく見ればどちらかが多くて、どちらかが少ない。そんな暇つぶしの手遊びをぼんやりと繰り返しながら、とりとめもなく、日曜の朝が過ぎていく。
 
 ぼくたちはまるでこのペンギンのようだと、ふいに思う。
 片方が満たされているときには、片方はからっぽ。
 きっちり半分ずつに分け合えたらいいのだけれど、いつもどちらかが多くて、どちちかが少ない。くるくると位置を入れ替えながら、決して分け合えないかもしれないなにかを、わけあおうといつも必死なんだ。
 
 もし君が電話に出てくれたらそんなことを話したいなと思って、ぼくはソファから身を起こす。
 砂時計を静かに置く。砂が流れ出す。電話機へ向かう。受話器をあげる。番号を押す。「お客様の都合」は問題ない。最初のコールが鳴る。胸が高鳴る。二回目のコールが鳴る。君に会いたいと思う。三回目のコールが鳴る。ぼくのなにかが君と繋がる。息が漏れる。言葉を発する。

 でかけよう、まだまにあうよ。

砂のやりとり (三題小説)

のお題は、「ペンギン」、「砂」、「電話」だったかも?(……よく覚えていません)。

昨日、ある心ある方が丁寧に保存して下さったものを、入手しましたので、投稿します。

砂のやりとり (三題小説)

砂時計の砂のような男女の感情のやりとりをえがいた話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-20

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