*星空文庫

地下鉄の怪奇

プロッター 作

 電車に乗って座席に座ると、カズトはいつも眠くなってしまう。
 前夜に夜更かしをしたとか、していないに関係ない。
 癖というか、いつもの習慣なのだ。
 だからこの時もまぶたを閉じ、やがて目を覚ましたのだが、奇妙なことに気がついた。
 朝のこんな時間なのに、車内がいやに空っぽなのだ。
 空っぽというのは文字通りの意味で、キョロキョロといくら見回しても、他の乗客の姿などひとつもない。
「あれれ?」
 車内は不気味に広く感じられ、ただイスだけがずっと並んでいる。
 隣の車両ものぞき込んでみたが、そこも同じだとすぐに分かった。
「いったいどうなってんだろう?」
 不安になって、カズトは窓の外を眺めたが、これは地下鉄なので、通り過ぎてゆくコンクリートの黒い壁以外は何も見ることができなかった。
 突然ドアがガラリと開き、隣の車両から誰かがやってくる気配を感じたのは、このときのことだった。
「あっ、誰か来る!」
 だがその人物の正体に気づいて、カズトはさらに驚いたのだ。
「禅師!」
 それは本当にゴクウ禅師だったが、驚いたのはゴクウ禅師も同じらしく、目を丸くしている。
「おやカズト君、こんなところで何をしているのだね?」
「何って、朝だから僕は学校へ行くところだよ」
「やれやれ。今日は学校で、大切な試験がなければいいがね」
「どうして?」
 ゴクウ禅師はクスリと笑い、
「君は今日、学校を欠席するからさ」
「この電車はどうなってんだい? 誰も乗ってないよ」
「それはそうさ。この電車は地底へ向かっているのだからね」
「えっ?」
「いや、心配することはない。地底といっても、妖怪が住むあそことは違う。危険はないね」
「本当に?」
「ちょっと用事があって、ワシはこの特別電車に乗った。ここまでくると、カズト君もわしと一緒に来るほかないね」
 その言葉にどう答えたらいいのか、カズトは見当もつかなかった。
 明かり一つない中をゴウゴウと走り続け、やがて電車はゆるゆるとスピードを落としていった。
 そして、とうとう停車した。
 音を立ててドアが開く。
 ゴクウ禅師の後をついて、カズトはおそるおそる地底への第一歩を踏み出したのだ。


 駅を離れ、歩いてトンネルの中に入ると、そこは真っ暗な場所だった。
 目をこらしても、自分の手さえ見ることができない。
 カズトは思わずキョロキョロしたが、かすかな光の点さえ目に入ることはなかった。
「カズト君、心配することはない。わしは懐中電灯を持っている。さあスイッチを入れよう。おや、これは何かな?」
 カチリと音がし、暗闇の中にやっと光が差したかと思うと手を伸ばし、ゴクウ禅師は何かを拾い上げたのだ。
「なんだい?」
「カズト君、なんとこんな地底にテントウムシがいたよ」
 本当にその通りだった。
 ゴクウ禅師がカズトの手に乗せたのは、口紅のように明るい赤色をして、黒い点々を背中に飾った小さな虫だったのだ。
 懐中電灯の光を反射して、宝石のようにキラキラ輝いて見える。
「へえ、テントウムシって地底にもいるんだね」
「いや、きっとカズト君の体にくっついて、地上からまぎれ込んだのだろう。あとで地上まで連れ帰ってやろうよ」
「うん」
 ハンカチに包んでテントウムシをポケットに入れ、ゴクウ禅師と並んで、カズトは再び歩き始めた。
 しばらくはトンネルが続いたが、広い場所が見えてきたのは数分後のこと。
 野球場のように丸い形をし、大きさも同じほどだ。
 トンネルが終わると、突然目の前にパッと広がった感じである。
「ああいたいた。カズト君、わしはあれに会いにきたのだよ」
「えっ?」
 ゴクウ禅師が指さす方向を目で追い、カズトは思わず悲鳴を上げそうになった。
 ゴクウ禅師の視線の先にいたのは人間ではなく、ヘビだったのだ。
 しかもそのサイズときたら、持ち上げた鎌首は大人の背よりも高く、カズトの目には一瞬、大理石の石像かと思えたほどだ。
 紙のように白い色をして、とぐろを巻いている。
 もちろん生きたヘビで、しかも2人の姿には気づいているようす。
 口の中へ舌を2、3回出し入れするのが見えた。
 それだけでも十分にカズトを驚かせたが、そのヘビのとぐろの下に下敷きにされて、誰かが押さえつけられていると気がついたときには、さらに驚いた。
 それは本当に遠慮のないやり方で、うつ伏せになった人間の背中の上に、ヘビの巨体が重石のように乗っかっているのだ。
 しかもカズトの驚きが、ここで終わるわけはなく、下敷きにされている者の姿が、これまた問題だった。
 この日までカズトは、本物の鬼を一度も見たことがなかったのだ。
 鬼といっても、体のサイズは普通の人間とあまり変わらない。
 だが頭には2本の角があり、ヒゲもじゃの口中には長いキバ、毛深い手足にはデコボコした筋肉が浮き出している。
 指もペンチのように太く、ツメは動物のようにとがっているのだ。
 そういう鬼が、巨大な白ヘビのとぐろに下敷きにされていたのである。
 あの様子では、鬼は腕一本動かすことができないに違いない。
 あまりの光景にカズトは呆然としたが、ヘビが口を開いたのは、このときだった。
「おや、これはゴクウ禅師ではありませんか。ずいぶんお久しぶりですね」
 ヘビの口から出てきたのは、意外にもはっきりした、やわらかな声だった。
 その声に、ゴクウ禅師も気軽に言葉を返したのである。
「あんたも変わりはないかな」
「ええ禅師。そのかわいい人間の坊やは誰です?」
「これはカズト君といって、わしの友人じゃよ。先ほど電車の中で偶然出会って、一緒にやってきたのさ」
「そうですか」
 勇気を奮い起こし、やっとカズトは口を開いた。
「ねえ禅師、この鬼はどんな悪いことをしたんだい? だから罰として、このヘビに押さえつけられているんだよね?」
 この質問には、ヘビが答えてくれた。
「この鬼は本当に悪いやつで、人間の子をさらってきては、殺して食べてしまうのです。これまでに何十人もが犠牲になりました。だからこらしめのため、ここで押さえつけているのですよ」
「それはいつまで続くんだい?」
「この鬼が反省するまでですから、100年や200年ではすみそうにありませんね」
 その言葉に、カズトは目を丸くした。
「まさかあんたは、それまでずっと座っているつもりかい?」
 ヘビはクスリと笑い、
「他にやり方がないではありませんか。この鬼を殺す方法はありません。世の子供たちを守りたければ、こうやって誰かが押さえつけていなければならないのですよ」
「どうして殺すことができないんだい?」
「子供の肉を食べると、妖怪は寿命がうんと延びるからです。あまりにもたくさんの子供を食べたものだから、この鬼は寿命が無限に伸び、もう殺すことが不可能になってしまいました」
「だからあんたが貧乏くじを引いたわけ?」
「ええ、貧乏くじといえば、そうかもしれませんね。でも私はここに座り、地上から聞こえる子供たちのはしゃぐ声や足音、笑い声を耳にしているだけで幸せなのです。子供たちの幸福を守るために、私はここにいるのです」
「ふうん」
 ふと思いついたふうに、ヘビがまばたきをした。
「それはそうと禅師、今日は何の御用です?」
「ああ、あんたに少し伝言があってね。ある人から頼まれたのじゃが、はて、これはちと困ったぞ」
「どうなさったのです?」
「それがその…、カズト君の耳に入っては都合の悪い内容だった。いま気がついたよ。どうしたものか」
 カズトは口を開いた。
「じゃあちょっとの間、僕は離れていようか?」
 ところがゴクウ禅師の表情は、まだくもったままである。
「いや、それがね…、よく考えると、その鬼の耳に入っても困る内容だったよ。だからカズト君、少し相談なのじゃが…」
「うん」
 頭をかきながら、ゴクウ禅師は説明を始めた。
「ええっ?」


 だが本当の話、ゴクウ禅師のいうとおりにするしかないだった。
 カズトはしぶしぶ首を縦に振ったのである。
 ゴクウ禅師の説明によると…、
 この鬼にはある呪文がかけてあり、押さえつけておくのに、何も何十トンもの重さが必要なわけではない。
 どんなに体重の軽い者であっても、鬼の背中の上に乗りさえすれば、呪文の助けを借りてしっかりと押さえつけ、身動きを封じることができるとのこと。
 それは本当に誰でもよく、つまりカズトであってもかまわないわけだ。
 鬼の背中に乗りさえすれば、呪文の力が鬼を押さえつけてくれる。
 だからカズトは、この役を引き受けることにしたのだ。
 他にやれる者はいない。
 ヘビは体を脇に寄せ、カズトが乗ることのできるスペースを空けた。
 そして呼吸を合わせ、カズトとヘビはさっと交替したのだ。
 交替はうまくゆき、鬼は身じろぎさえできなかった。
 まるで岩の上の灯台のように、カズトは鬼の背にまっすぐ立つことができたのである。
 だけど暗い地底で、カズトの声は少し心細そうに響いた。
「ねえ禅師、できるだけ早く戻ってきてよね」
「ああ、わかっているよ。3分もかからないさ」
 軽く手を振り、ヘビと一緒にゴクウ禅師は暗がりへ消えてしまった。
 懐中電灯はカズトの手の中に残されていた。
 スイッチを切る気などもちろんない。
 かといって、床や天井を照らしていても仕方がない。
 自然とカズトは、鬼に光を向けることになった。
 今のところ、鬼はおとなしくしているが、呪文のせいでそうするしかないのだ。
 何度かそっと足を踏み変え、カズトは立ち続けた。
 だけど次の瞬間、鬼が口をきいたのだ。
「おい、カズトとかいったな。ヘビとゴクウ禅師がいま何を話しているか、おまえは気にならないのか?」
 鬼の声は太く低く、どこかサビついた車輪を思わせる。
 ツバを飲み込み、カズトは返事をした。
「どうしてだい?」
「のんきな奴だなあ。もしもこのまま、あの2人がいつまでも戻ってこなかったらどうする? おまえはそこに永久に立っているつもりか?」
「禅師が帰ってこないなんて、ありえないよ」
「なぜわかる?」
「だってさ…」
「おまえには、あれが本物のゴクウ禅師だという自信があるのか?」
「えっ?」
「電車の中で偶然出会ったのだろう? 妖怪が化けた偽者でないとなぜわかる?」
「まさか」
「妖怪の中にはな、変身して化けるのが得意な者もいるのだよ」
「本当に?」
「疑うんなら証拠を見せてやるさ。さあカズト君、わしの姿をよくごらんよ」
 次の瞬間、カズトは思わず口をぽかんと開けてしまった。
 何かの呪文を口の中でつぶやいたかと思うと、鬼はあっという間に姿を変えてしまったのだ。
 それは本当に思いがけない変化だった。
 気がつくと、カズトの足の下にいるのは鬼ではなかった。
 ゴクウ禅師だったのだ。
 黒い石でできた床の上に、ゴクウ禅師が横たわっている。
 その体つきといい服装といい、見間違いではない。
 鬼と同じようにうつぶせになっているが、カズトはその背中の上に立っているのだ。
 カズトが声を上げたのも無理はない。
「禅師!」
「やあカズト君」
「なぜこんなところにいるんだい? ヘビと一緒にあっちへ行ったんじゃなかった?」
「あれは本物のわしではない。わしそっくりの姿に化けた妖怪なのさ」
「どうして?」
「昨日わしは、ここへあのヘビを退治しに来たのじゃよ。だが逆にやられ、呪文をかけて鬼の姿にされてしまった。あとはカズト君も知ってのとおりさ」
「あのヘビが言ったことも、すべてでたらめかい?」
「もちろんそうさ。ああカズト君、頼むからわしの背中から降りてくれないかね。痛くてたまらんよ」
 カズトがすぐに従ったのは、もちろんだ。
 それどころか、かがんで手を貸し、ゴクウ禅師を助け起こそうとした。
 ところが何かがおかしいのだ。
 手を貸しても起き上がるどころか、汚い言葉を口から吐き、ゴクウ禅師は突然わめき始めたではないか。
「くそ、どうしてオレは立ち上がることができないんだ? 立ち上がるどころか、頭を起こすことだってできねえ。くそう、何がどうなってるんだ?」
「禅師、どうしたんだい?」
 本当にゴクウ禅師は、ほんの5センチ頭を持ち上げることさえできない様子だ。
「ああ、何がどうなってるんだ。子供がすぐそばにいるのに、食うこともできねえ。せっかく手の届くところにいやがるというのに」
 なんということか、ゴクウ禅師はジタバタと苦しそうに暴れ続け、でもどうしても起き上がることができないのだ。
 そしてあっという間に再び姿を変え、元の鬼の姿へと戻ってしまった。
 悲鳴に似た声を、カズトは思わず上げた。
「お前は禅師じゃなかったのか?」
 だけど鬼は答えない。
 苦しそうにわめきながら、のた打ち回るだけだ。
 この鬼にかけられている呪文とは、相当強力なものに違いない。
 その光景をカズトは呆然と眺めていたが、突然意味がわかった。
 いつの間にポケットからこぼれ落ちたのか、さっきのテントウムシが鬼の背の上にいるのだ。
 6本の小さな足を伸ばし、鬼の黒い毛にしっかりとしがみついている。
 この虫がいたから、カズトが降りてしまっても呪文は働き続け、鬼は起き上がることができないのだった。
『誰かが背の上に乗っている限り押さえつけられ、立ち上がることができない』
 という呪文なのだ。
 こんなテントウムシのことなど、カズトはすっかり忘れていた。
 だけど偶然にも、彼を助けてくれることになったわけである。
 テントウムシがいなければ、いまごろ大変なことになっていたに違いない。
 鬼の言葉にあざむかれ、カズトの命はなかっただろう。
 カズトはもう一度、あわてて鬼の背に飛び乗った。
 テントウムシはそっと拾い上げ、ポケットの中に戻した。
 そしてそこへ、ヘビと共にゴクウ禅師が戻ってきたのだ。
「カズト君待たせたね。大丈夫だったかい?」
 ごくりとツバを飲み込み、カズトは答えた。
「うん大丈夫。何も起こらなかったよ。禅師のお話はすんだかい?」
「すんだよ。ご苦労だったね」
 ヘビもカズトに言葉をかけた。
「ええカズト君、本当に助かりました。ありがとう」
 すぐにカズトに代わり、再びヘビが鬼の背中に体を乗せた。
 このとき、本当のことを言おうと何度か口を開きかけたが、結局カズトは勇気を出すことができなかった。
「ではカズト君、地上へ戻ろうか?」
「うん…」
 ときどきうなり声を上げるばかりで、もう鬼は何の言葉も発することがなかった。
 くやしさのあまり、物を考えることができないのであろう。
 歩き出しかけたカズトたちの背中に、ヘビが声をかけた。
「禅師はご苦労様でした。カズト君も、気が向いたら、いつでもここへいらっしゃい。私は歓迎しますよ」
「うん…」
 そう答えて手だけ振り、カズトはゴクウ禅師と共にトンネルを後戻りしていった。
 さっきの駅で、電車はまだカズトたちを待っていた。
 2人が乗り込み、ドアが閉まるとすぐに走り始めた。
 やがて電車は駅へとさしかかり、停車してドアを開くたびに車内に乗客の姿が増えていった。
 何駅か過ぎたときには、もう普段の車内とまったく変わらなかった。
 いつもの駅で、カズトとゴクウ禅師は電車を降りた。
 手を振ってゴクウ禅師とは別れ、カズトは家へ向かって歩き始めたのである。
 ポケットの中にいるテントウムシのことを思い出したのは、もうそろそろ家の玄関が見えてくるころだった。
 カズトの家には小さな庭があり、母親が趣味で花壇を作っていた。
 この庭で昨日、母親とちょっとした言い合いをしたことを、このときカズトは突然思い出したのだ。
 母親が花壇の世話をしているところに、カズトが通りかかった。
「お母さん、何してるんだい?」
「私の花にまたテントウムシがついたのよ。いやねえ」
「テントウムシ?」
「ああ枝に触ってはだめよ。今から殺虫剤をまくから、手につくわ」
「どうしてテントウムシを殺すのさ? こんなにきれいなのに」
「テントウムシであろうが何であろうが、私は花に虫がつくのが嫌いなのよ」
 母親はもう殺虫剤の容器を手にしていた。
 すんでのところで手を伸ばし、カズトは葉の上からテントウムシを救い出すことに成功したのだ。
 この出来事を思い出して、カズトは立ち止まってしまった。
 ポケットから取り出したテントウムシを、カズトはもう一度しみじみと眺めた。
「これは昨日のテントウムシなのかなあ」
 殺虫剤の魔の手から救い出したあと、テントウムシをどうしたのだったか、カズトは記憶がなかった。
 きっと空へでも飛び立たせてやったのだろう。
 もしそうなら、カーブを描いてぐるりと飛んで、知らないうちにカズトの背中にくっつくなど、小さな虫には難しいことではない。
 だけどよくわからない。
 カズトはこの虫を放してやることにした。
 指先にとまらせると、紙よりも薄い羽をさっと広げ、テントウムシは飛び立っていった。
 そしてあっという間に見えなくなったが、今日経験したことがあの小さな昆虫の恩返しであったのか、それともただの偶然だったのか、結局カズトには結論を出すことができなかった。

『地下鉄の怪奇』

『地下鉄の怪奇』 プロッター 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-14
Copyrighted

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