*星空文庫

おんなたちの穴

森カラ 作

 娘にも夫にも見られたくはなくて彼らが寝静まるのを待って勝手口から外に出た。
錆びか建てつけのせいか、扉は開けると耳触りな音を立てた。
それがこちらとあちらの境目の役目を担っているようでついここから出てしまう。

今夜も煌々と輝く月が裏庭を白っぽく照らしていた。
以前家庭菜園をしていた猫の額ほどしかない小さな畑に置いたベニヤ板を剥がすときには僅かに緊張した。板の下には私が掘った穴が鎮座している。


穴は細く頼りなく、私一人がようやく入れるものだったが二十日間かけてようやくここまで来た。
きっと夫も娘もこんなところに穴があるとは知らない。
それどころか、私がいつここで茄子やピーマンだのの野菜を作ることをやめたかさえ知らないだろう。

 穴は真上から見る限り私の鎖骨ほどの高さしかないだろうが、一丁前に底の方は暗く深く見えた。
穴から視線を上げると隣にはモチの分厚い緑の葉が月光を受けててらてらと光っていた。

冬は終わり、いつの間にか世界は春の花の香りに包まれている。
そういうもののそばで黒い口を開けて鎮座している穴は一見、ひどく危険で近寄ってはならぬものに見える。

 以前、私のように家の裏庭に穴を掘っていた人がいた。
 母だ。
 それを見たのは十一歳の夏のたった一度のことだ。

穴を掘る母の姿が恐ろしく見えて、それからは見ていない。
彼女は先月、彼女の母であり私の祖母でもある人の文句を泣きながら吐き出し続けて病死した。
母は死が近づくにつれどんどん退行していった。

娘の私の前で、まるで赤子が母を呼び愛情を渇望するように一方的に泣き喚いた。
そこには穴を掘っていた当時の鬼のような形相や迫力はなく、「愛して、愛して」と喚き散らす弱々しさしかなかった。

祖母はとても厳しく、おんなに生まれた私にも「おんなは個を失くし男に尽くすことにこそ幸福がある」と譲らなかった。
母にはもちろんいっそう激しくそれを強いてアイデンティティを奪ったようだ。
母は幼いころから意見や意思を持つことを禁止され、やがて日々の生き方を失い、夫に疎まれ娘の私に憎まれ呆気なく病に捕まった。


 穴の中には何があるのか。
そこが例え危険であっても母を亡くしたらどうしても知りたくて堪らなくなり、そのときにはもう私も掘り始めていた。


 意を決し穴の中に落ちた。
すると見た目からは想像できない、生き物に触れるのに似た生暖かさに包まれた。
穴は生きていて、私という異物を当然のように受け入れたと思えた。

深く長い息を吐くとどうしてか涙が零れた。
穴が、私の戦いを知っているような気がした。
ここでは受け入れられることは許されることであり、私は初めて母としての、あるいはおんなとしての孤独な戦いが理解され、また母の孤独な哀しみを冷静に理解した気になった。

 私もまた誰にも認められない子供だった。
母親に愛されなかった母は私を愛せず、まだ愛してもらうことを諦めきれないでもがいていることを知っていた。
それを強く嫌悪しながら、だが私だって愛されたいと咆えて掴みかかり母を憎んだ。

そう、憎んでいたのだ。
認めるとどうどうと流れだしてくる感情があった。

「私はおかあさんが大嫌い」

 ここなら言えると声に出した感情は世界の何も変えなかった。
穴は変わらず暖かく、あっ、そうとでも言いたげに微かに砂をさらさらと零しただけだった。

しかし言葉に出して、私はようやく氷解に似た解放を覚えた。
これまで苦しかった。そして恐れていたのだ。
消えずに連鎖していくこの痛みを娘にも与えてしまいそうな予感を。

 娘にもいくつかの痕はある。
私はすでに何度か間違いを犯した。自分が強いられてきたことをつい娘にもした。
愛情を強請られれば撥ね退け、彼女を何度か所有し、思い通りにならねばヒステリーを起こした。

彼女にできた痕から芽がでて花が咲き、それがまた再び種を残して次の心の土に根を生やすのは時間の問題だろう。
そうして続いてきたことを断ちきれなかった後悔を夫は知らない。

 この穴は私だけのものではなかった。
そこにはかつての母が、そして私の知らないおんなたちがいる。
そこへ飛び込んだおんなたちは、強大で巨大な敵との戦いに疲れた身体をその温もりでひとたび癒す。
そしてそのたび敵を知るのだろう。敵は誰でもない、自分自身なのだと。

母もきっとこのことを知り、だが結局愛されなかった自分を愛してやれず、憎しみを捨てきれずに倒れた。
でも私は違う。
この広大な日常を、心の四方まで伸びた太い憎しみの根に足を取られて迷わないようにきっとまだ掘る。

何一つ許せなくとも誰も知らない夜の中で穴を掘り続けるのだろう。
それは、きっと、愛のために。

『おんなたちの穴』

ここまでお読みくださりありがとうございます。
このときのTO-BE小説工房のお題が「穴」というまるでフリのようなお題でしたので、また勇んで参加して見事に落選という穴に盛大に落ちて身体を張ったフリ回収さばきを見せてやりましたよっ。(はあはあ
ちなみに誌上に載られた方の穴の使い方が素敵で、主人公たちの心情と作品全体に漂うじっとりとした雰囲気とタイトルがとても合っていてすばらしくどきどきしました。こんな僻地で言ってもですが。

『おんなたちの穴』 森カラ 作

夜毎、おんなたちは穴を掘る。 誰にも見つからないように、人々が寝静まった後に。 まるでさまざまな憎悪を殺すように一心不乱に掘り続ける。 そうして深くなった穴に落ち、ひとり、そこで見るものとは――。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-06-11
Copyrighted

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