月染めのマリートヴァ
月を遙か背にした極小の惑星イミュータの夜は、いつもと違った輝きと、人々の
妙な興奮に満ちていた。今夜、およそ数十年振りにこの惑星をあげての厳かな祭典が催される。
人々は昔からこの奇妙で奇怪な祭事を、「月染めの儀」と呼んでいた。
「もう帷ったら、主役のあなたが遅刻してどうするのよ!」
「ごめんごめん、ちょっと忘れ物しちゃって」
帷・マリートヴァは、さして悪びれたふうな表情を一切出さずに、待ちくたびれた友人たちを見渡した。
少女たちはみな、「きもの」と呼ばれる身体装飾用の衣服を纏っている。
華やかなものから落ち着いたものまで、胸から脚までほぼ全身を覆う「きもの」の装飾は様々だったが、
ただひとつ共通しているのは彼女たちの装飾服を成しているすべてがこの惑星で作られたものであるということである。
惑星イミュータは、かつて太陽系で人類を育んていた奇跡の惑星であった「地球」がそのすがたかたちを大きく変えてしまった千年近く前、
とある文化を移植するためだけに人の棲む星となった。およそ人の目では認識しきれないほど数多の色からなる草木で彩られたこの星が、
染物と織物を生業としていたイミュータの祖先たちにとってどれほど輝いて見えたことか。
性質上、夜が長いこの星できらびやかな極彩色を真に楽しめる時間は少なかったが、それらを複雑に染め出して一枚の
きものに仕立て上げるには十分すぎる夜があった。その美しき装飾は、「地球」を離れてほうぼうの星々に
散っていった人々からの、絶えざる渇望の的となっていた。そのためイミュータのようなごく小さな惑星にしては
珍しく、経済的に困窮していた歴史が殆ど無い。それほど幸運な星だったのだ。
とりわけ高価に取引されていたのはイミュータの名産といってもよい芙蓉帯で、
極彩色の星を象徴するような鮮やかな紅梅色の花をあしらった帯はどんな値がついても買い手が途絶えることはなかった。
その芙蓉帯を得意とする職人の中でも随一の技術を持っているのが、何を隠そうこの帷・マリートヴァの母である。
「わあ、それが例の帯ね」
年上の友人のライラが言うと、みな一斉に帷の帯をまじまじと見つめる。
「うん、母さんが張り切っちゃってね。本人もこれまでで一番の力作だって喜んでた」
照れくさそうに帷が笑う。心なしかその瞬間、帯の中の芙蓉の花が煌めいたように見えた。
「あ! ねえ今その花、きらって光らなかった? 帷さんが笑った時」
幽が目をぱちぱちさせながら叫んだ。
帷を含めたほかの三人は幼い少女の無邪気さに顔をほころばせる。
「ふふ、この子も綺麗に作ってもらえて嬉しくなっちゃたんじゃないかな」
「幽のそういうところ、本当に可愛いわよね」
帷とライラにからかわれて幽は頬を染める。
「ほんとだもん! しとねお姉ちゃん見てなかったの?」
「ごめんねえ、お姉ちゃんわからなかったわ」
幽の姉で帷と同い年のしとねは困った顔で答える。
その時、祭の始まりを告げる花火が大きくドン、と鳴った。
祭事の熱気とは相反するようなやけに重たい音が止んだ、その瞬間。
文字どおりほんの瞬きのあいだ、星中に走った身を切るような静寂を、
帷をのぞいた三人は生涯忘れることができなかった。遙か頭上で月が笑ったような気がした。
「始まるわね、帷」
「なんだか身体に力が入らないわ、わたし」
先ほどまでの気の抜けた会話など嘘だったみたいに、ライラとしとねは
哀しげに帷の方へ向き直る。幽にいたってはしとねの袖を握りしめてうつむいたきりだ。
「――まだ少しだけ時間があるから。どうせならゆっくり本殿を目指そうよ。
幽もわたあめが食べたいって言っていたよね?」
わたあめ、の言葉にぴくりと反応した幽はおもむろに顔を上げる。潤んだ目が帷のやさしい瞳と交差すると、
すべてを決心したように大きく頷いた。
「うん、わたあめもかきごおりも食べたい。ライラちゃんとお姉ちゃんが金魚すくいで競争するのも、見たい」
思いがけない幽の要望に、三人は顔を見合わせるとからからと笑った。
草木に囲まれた星とはいえ、さほど多くない人口のほとんどが暮らす居住区はそれなりに整備されている。
星を治める長、カガリ老の城を囲むようにして立ち並ぶ家々は、かつての先祖たちが暮らしていたという赤瓦の屋根を
持つ低くて平たいつくりが目立つ。文明とはかけ離れた、伝統だけを象った意匠である。
城から伸びる大通りでは久しぶりの「月染め」を祝って笛や太鼓の音が鳴り響き、多くはないが屋台も見られた。
どれもこれも太古の地球に実際に存在したと言われているものだが、今目の前にあるのはただのイミテーション。
それでも人々は、身体に刻まれた遺伝子が呼応することから逃れられず、この「祭」を楽しんでいるようだった。
それでも帷たちが大通りに着くと、みな息を潜めて一行を眺め、中には拝みだす者までいた。
「これだから嫌なんだよねえ」
「ちょっと帷、聞こえるわよ」
ライラが軽口をたしなめる。これではまともに屋台を楽しめそうもない。
二人でため息をついていると、どこへ行っていたのか幽としとねが駆けてきた。
「はい、わたあめ買ってきたよ」
「かき氷もね。わたしはいちご味で、めろんとおれんじもあるんだよ!」
いつの間に手に入れたのか、姉妹はいかにも人工的な甘い匂いをこれでもかというほど漂わせながら
わたあめとかき氷を二人に手渡す。
大通りからそれた路地を抜けて、ひとけのない開けたところで味見をした。
金魚すくいは諦めた。帷とのお別れが迫っていることを、この時はだれもかれもが忘れていた。
大通りをさらに進むと、冗談みたいな大きさの赤い門ーーカガリ老がトリイ、と呼んでいるのを
聞いたことがあるーーが見えてきた。本殿はすぐそこだ。
喧騒と熱狂はいつの間にか姿を消していた。代わりに聴こえるのは夏の夜風にさらされた木々のゆらぎと、
よにんぶんの足音だけだった。
「あ、あった」
ライラの声を合図に前方を見やると、初めてそれを見る四人にもひしひしと伝わる厳かな
造りの社が大樹に囲まれながら佇んでいた。
「なんか、こわいね……」
幽がまたしとねにしがみつく。
本殿のうしろから、カガリ老、そして帷の母が現れた。
「待っていたわよ帷。いよいよ、なのね……」
長い髪を結い上げ、自らも美しいきもので着飾った帷の母は、歩み寄ると帷を抱きしめた。
うやうやしげにカガリ老が語りかける。
「月はもうじき目覚めます。自らその身体を贄とすることに名乗り出たこと、本当に感謝いたします」
ライラたちは少し離れた場所から今にも泣きだしそうな顔で帷を見つめることしかできなかった。
突然、飛び出すように幽が帷のもとへ駆け寄った。
「あのね、帷さんがお月さまのところにいってもね、幽たちは見てるから」
「ん、ありがと幽、それとライラもしとねも。ここまでついて来てくれてありがとうね。」
帷の言葉に耐え切れず、二人も帷のもとへ駆けていく。
「わたしも、幽ちゃんとふたりで毎日祈るからね」
「私は毎日なんて無理かも、そんなに眺めたら泣いちゃうでしょ。帷が」
普段と変わらない友人たちの姿に安心した帷は、覚悟を決めて月を睨み付けた。
「帷さん、前に私に、お話してくれたでしょう? お月様に行ったお姫様のこと」
そんな帷を見て不思議そうに幽は続けた。
「あのお姫様って、すごくすごく、」
「……僕に似てる、って?」
「そう! まるで帷さんって、お月様のことを――」
幽がそう言いかけた時、突然ものすごい強さの風が過ぎ去っていった。
それぞれが飛ばされないように必死に身を抱く。
「来ました、月です」
カガリ老の低い声が聞こえたかと思うと、そのあとは一瞬だった。
「月」は、細く伸びた粒子の連なりを手のように操り、帷を飲み込んだ。
あまりに一瞬のことだったので、地上に残されたライラ達には、帷が目の前から消え去ったようにしか映らなかった。
月は、地球がその姿を変えてしまってから数百年の後、後を追うように異形の星になっていた。
帷が目を覚ますと、球体であることを辞めた異形の月がそこにいた。
いたというより、その異形に帷は取り込まれつつあった。
「ふふ、ねえ、この時を僕がどれだけ待っていたと思う?」
そんなことなどまったく意に介さない帷は、何とも言えない快楽に満ちた表情で笑う。
月が異形となったあの日、イミュータは呪われた。イミュータの美しき装飾は月の目に留まり、
いっとう美しい帯を纏った少女が無慈悲に喰われてしまった。月がなぜそのようなことをしたのか
誰にもわからない。ただ、喰われた少女が身に付けていた帯の煌びやかな模様は、
ひと時の眠りに就いた月の表面を鮮やかに彩っていた。
そして月が気まぐれに眠りから目覚めるたび、イミュータでは一人の子が贄となっていった。
幼い頃からその話を聞かされてきた帷は、周りの子供たちが恐怖に震える中、一人しずかに興奮していた。
帷は月が大好きだったのだ。まるであのはるか大昔に語られた月姫の物語のように、月にひどく魅せられていた。
これまで月に喰われたのが「少女」であったことを聞いて、帷は自分の運命を呪った。
イミュータでは他の星と同様に、あるべき時になるとストックから子どもが作られる。
その性別も数も時期も、すべてを星がコントロールしている。
イミュータで男が生まれることはごく稀なことだった。
美しい帯を織ることに関しては卓越した技術を持つ母のもとに産まれたのが少女でなかったことを
何度も悔やんできた帷であったが、成長するにつれてその心配はなくなった。
何故なら彼の、帷・マリートヴァのその透き通った夏の花弁のようなかんばせは、纏った芙蓉帯に
勝ると言っても過言ではないほど美しかったのだ。
そして今、焦がれてやまなかった月が、目の前にいる。
月はいくらか動揺していた。これまでの少女たちと目の前の人間がどこか一致しないその奇妙な感覚に。
「僕を喰うつもりなんだろうけれど、そんなことは許さない。お前を喰らうのは僕でしかあり得ないのだから」
帷の強い語気に反抗するかのように、月はいっそう力強く彼を取り込もうとする。
「……っ、お前がどうしてここまでしてこの帯を欲しがるのか、僕は知っているんだ。
お前が何を恐れているかも、僕にはわかる。お前は怖いんだろう、自らに注がれる人々の視線が途絶えてしまうことが――」
その瞬間、異形の月は急速に収縮し始めた。図星か、と帷はほくそ笑む。
「この芙蓉帯はね、特殊な加工をあしらっているんだ。僕の感情そのものがこの子に影響する。
お前が僕を喰らうなら、この帯が輝くことはもう無いだろう。」
月は、帷の言っていることがうまく飲み込めずにいた。ただ、これまで見た中でもとびぬけて美しい
彼の帯をここで手に入れないわけにはいかないと、そう思った。
「そう、だからね、僕を受け容れて欲しいんだ。僕に喰われることを許してくれるなら、お前は永遠にこの
芙蓉帯の美しさを纏うことができる。……君は永遠に、誰かの視線を浴び続ける。これでどうかな」
帷は確信した。月は、とうとう僕のものになる。僕がいなければ輝くことも人々に見られることもない、
かわいそうなお月様。異形の月の粒子は細く細く帷の身体を浸食する。なんという心地の良さだろう。
幾度となく月と一つになることを夢想してきた帷は、この時ばかりは己の卑しい欲望を恥じた。
月のすべてが手に取るようにわかる。月は泣いていた。気が付いたら以前のかたちを忘れてしまっていたこと、
元に戻ろうにもうまく象ることができなくて、ひどく醜い星に成り果てたこと。誰も自分を見てくれないことに
耐えられなくなり、ついにイミュータという小さな星に手を出してしまったこと。そのすべてを、月は嘆いていた。
「もう泣かなくていいんだよ。君は永遠に、僕だけを見ていればそれでいい」
優しく愛撫すると月は再度膨張を始めた。ゆっくりと自分のかたちを思い出しているらしい。
月の中で帷は、すでに人がどんなかたちをしていたかを忘れはじめていた。
けれどそんなことはもうどうだっていいのだ。
球体に戻った月が、帷を喜ばせるみたいに浮遊する。
紅梅色の花を散らした美しい帯を模した粒子を纏った月は、いつまでもその煌めきを絶やすことがなかった。
月染めのマリートヴァ
*молитва(マリートヴァ)
ロシア語で「祈り」の意