E4 ~魂の肖像~

序章

 A.D.2070。
 20世紀末から21世紀にかけて、鋭い牙を剥いた地球温暖化の波。それはいつしかうねりを増し、幾つもの国がなすすべもなく海の底に沈んでいった。
 そればかりではない。
 中南米に近い太平洋、あるいは日本の三陸沖から東の地点でも海底火山の爆発や海底内のプレートが地すべりを起こし、日本を初めとした東南アジア諸国は、最大級の地震と津波に見舞われていた。その上、欧米では起こりえなかった地震が各所で頻発し、世界は徐々に混乱の様相を呈していった。
 そこにもって、欧米や中国山間部などでは、世界規模の歴史的火山噴火の余波を受け、地球が表面及び水面下で怒りを爆発させたかのような天変地異が続き、人類は住む場所を求め大移動を始めた。限られた大地には数億もの人類が押し寄せ、我先にと土地を確保しようとして争いが頻発した。
 その間、地球の温度上昇は、火山灰で地球が覆われる中、一旦収束したかに見えたが、太陽の紫外線が差し込むにつれ、その上昇率は悪化の一途を辿ったのである。

 2080年。
 10年に及ぶ第3次世界大戦が勃発。
 米国とロシアはアラビア周辺で代理戦争を繰り広げ、周辺国の死者は8割という惨事となった。EEC合衆国にはアラブ流民が入国したが、アラブ民族同士の争いは止むことが無く、EEC合衆国は今や死地と化していた。
 また2086年、戦争を終わらせるべく、核ミサイルが北ロシアと北中国、EEC合衆国、北米アメリカから発射され、人類の約3分の2と人類が住める環境の地の約半分を放射線に晒すという最悪の結果が待ち受けていた。
 そうした間にも、北アフリカに端を発したHIVウィルスから派生したHIVⅡウィルスが猛威を振るい、次々と人命が奪われていった。HIVウィルスと違いHIVⅡウィルスに対する特効薬はなく、座して死を待つのみといった状況下の中人々はパニックに陥り、世界規模で集団自殺やテロ行為さえもが続発し世界中を震撼させた。

 結果、地球の人口は約5億人にまで減少し、人類は滅亡の危機に瀕していたのである。

 2090年。
 どちらとも勝敗のつかぬまま、10年に及ぶ世界大戦は終結を迎えた。
 勝戦国や敗戦国が入り乱れる中、各国のトップは違う視点から今後の政を見定めていた。
 そして、一つの方向性が提案された。
 国の垣根を越え、皆が協力し合いこの危機を乗り越えようというものである。
 歴史的瞬間。世界が一つに纏まった瞬間である。人口激減の問題を受けた各国は、戦争を止め、現在の人口を維持することを最優先としたのだった。

 ここに、地球政府が誕生した。


 2120年。
 地球政府では旧各国を自治国として認め、人種間及び宗教間での争いを禁じたが、争いの火種が無くなることは望めず、各国は自治国軍隊と警察府を組織した。

 そうした中、世界医学だけは革新的に発達し、個人の細胞から作りだした人工臓器を様々な身体の部分に埋め込む技術が確立された。
 個人細胞から作りだした筋肉を埋め込み義体化した人間たちは、注射による義体化部分の油を指すことと、健康診断でのオーバーホールのみ。心臓までもが義体化された人類も少なくなかった。
 これらはマイクロモビルと呼ばれ、サイボーグに属する人間たちとして新たに存在することとなった。
 それは、スポットブースターと呼ばれる機能増幅器で電気信号を脳に送ることによって電脳化し、身体はオール義体というマイクロヒューマノイドとは一線を画していた。
 スポットブースターの誕生により、マイクロヒューマノイドが人型ロボットという概念は今や過去のものとなっている。
 マイクロモビルもマイクロヒューマノイドも、環境汚染化が進む中その身を守るために必要な技術とされ、瞬く間に地球上に広がった。

 日本は第3次世界大戦とその後の大地震及び火山噴火で本州の殆どが津波を被り、また、東日本から東海、四国と九州の南側が核戦争による放射線に晒され、居住できる土地の約3分の2を失った。1億人いた国民は、戦争や災害が原因で次々と犠牲者が出た。漸く世界が落ち着き日本自治国となった今、人口は半分以下の5千万人ほどに減少するという結果が齎された。
 現在居住できるのは、九州及び本州の旧日本海側と旧北海道のみ。日本に四季があった頃は冬場に雪の積もる地域だったが、地球温暖化の影響を受け、今では雪も降らない。


 旧北日本日本海側に位置する伊達市。其処にある東日本警察特別部隊支援班、通称、ESSS、イースリーエス。                   
 SIT、SAT、ERTと並ぶ日本自治国警察府の主要機関である。旧北日本にある伊達市の警察特別部隊支援班は東日本を管轄し、西日本を管轄しているのは、旧山陰は毛利市にある西日本警察特別部隊支援班。通称、WSSS。
 伊達市と毛利市は、20世紀までは冬になると雪で閉ざされた世界が広がっていたが、地球温暖化の波は顕著だった。両都市ともに冬に雪が降ることもなくなり、日本の四季は今や完全にその姿を消した。
 そして、大地震や火山噴火といった天災及び朝鮮半島を初めとした欧米からの住民大移動を発端とした核戦争により、今や日本の太平洋岸は、住むべき場所としての機能を失った。

 日本では、マイクロモビルやマイクロヒューマノイドの研究が追いつかず、一般国民が交通事故などでパーツを損壊した場合は、個人細胞から再び人工臓器を作り出し、身体に戻すという方法が採られていた。その作製期間は半年とされ、その間、入院が必要とされた。

 ところが心臓だけは、半年待っていられない。それは即ち、死に値することを意味していた。心臓を患った人々は日本自治国に対し心臓の人工臓器を作製しパーツとして組み込むことができるよう、デモ行進を繰り返したが、自治国内閣府では、この案件を承認しようとはしなかった。

 日本自治国内では、研究の一環として警察関係者は心臓を義体化し、事件に遭遇し被災した場合は、当該関係者は予備のパーツを組み込むこととされていたが、皆が皆、それに追従したわけでもない。
 特に、麻薬取締の囮捜査に就く職員や、中華系マフィア等に潜入する職員は、潜入する際にCT検査される場合が多く、心臓を義体化していれば囮としての役目が果たせないというジレンマの中、決死の覚悟で悪の巣窟に入り込むスパイ任務を担うのだった。

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 西暦2122。
 東アジア。

 約40年前に勃発した第3次世界大戦の際、日本は永世中立国と宣言し戦争には参加しなかった。
 第2次世界大戦で敗戦した記憶は、もう国民の間では過去の件(くだり)ではあったが、唯一の戦争被爆国となったが故のジレンマは国民からの戦争参加反対の声を招き、戦争へと踏み出すタイミングを逃していたのも一因である。
 北米からの参加要請をも振り切った結果、日本が北米やロシアと締結していた相互不可侵条約は破棄され、日本は自衛のために自衛隊を軍隊として内外に知らしめるとともに、核爆弾の研究を始めるに至ったが全世界的にその遅れは顕著なものだった。

 西暦2086年、戦争を終わらせるべく、北ロシア、北中国、EEC合衆国、北米から発射された核ミサイルは様々な場所で爆発したが、実はその前年に日本国土の太平洋側上空では、各国の放った核ミサイルが爆発し、日本自治国内にまたしても黒い雨を降らせたのである。

 中立を保ったが故に、そして戦争被爆国であったが故に、アジアの小国であるが故に、第3次世界大戦の核ミサイル着弾標的のテストケースになり国土を核の嵐に晒された恰好になった日本。
 戦争に参加しても参加しなくても、核による被爆テスト国はアジアの小国と決められていたとしか言うほかなかった。

 日本は第3次世界大戦とその後の大地震及び火山噴火で本州の殆どが津波を被り、また、東日本から東海、四国と九州の南側が核戦争による放射線に晒され、居住できる土地の約3分の2を失った。
 その限りでは日本そのものが終息する勢いではあったが、勤勉な民衆は被害を受けなかった日本海側を拠点として日本自治国の再生を図った。
 これが功を奏し、太平洋側は復興しないまでも日本自治国としての体裁を取り繕うことができたのである。

 西暦2090年に戦争が終結し、各国の放った核ミサイルにより国土を荒らされたことによる報復として、日本自治国が移民の受け入れを拒否する施策は30年の間世界的にも認められていたが、地球規模で居住区が不足する中、特に、ここにきて人口増加の傾向が著しい朝鮮半島では移民の受け入れを折にふれては日本自治国に要望していると聞く。
 しかし、日本自治国内に向けて朝鮮半島移民政策が模索されてから10余年を数えるが、日本自治国では頑として移民を受け入れるつもりはなかった。
 そこに登場したのが安室元内閣府長官と壬生前内閣長官である。この2名は日本国民総電脳化と朝鮮半島移民政策を合わせ技で達成しようとした。新興宗教を隠れ蓑にして。
 結局、内部からこの計画は徐々に崩壊し、壬生は暗殺、安室は逮捕された。


 朝鮮自治国。
 現在は旧大韓民国と旧朝鮮民主主義人民共和国が統一され、朝鮮国と名を変えて統治を行っている。
 とはいっても、この朝鮮半島を皮切りに、国全体に多民族が押し寄せ土地を占拠、先住民は旧朝鮮民主主義人民共和国の山間地や寒冷地に少数が住む事態と成り果てていた。
 そこで隣国である日本自治国に移民を送る様決議があったという。移民とは、ゲルマン民族やアラブ民族を指している。これらを一掃し、朝鮮自治国としてのあるべき姿を知らしめる、というのが上層部の狙いらしい。
 
 朝鮮半島の移民政策実施要望には、旧中華人民共和国=中華自治国の思惑も少なからずあったに違いない。
中華国においても、シルクロードと呼ばれた「草原の道(ステップロード)」、「オアシスの道」「海の道(シーロード)」を通してゲルマン民族系の大移動を許す結果になったわけだが、全ての道が通行に適したわけでもなく、陸地を中心として移動してきたゲルマン民族やシーロードを主要な移動方法としたアラブ民族に占拠され、中華自治国そのものも統治困難と成り果てていたのは朝鮮自治国と同義であった。

 これら東アジアの国々からすると、日本自治国はいつまで経っても【勝手な見解を述べるアジアの島国】という意見が大勢を占めていたが、地球政府が設立した国際協議会では日本自治国の対応やむなしという知見で、朝鮮自治国及び中華自治国の意見を取り上げる国は殆どなかった。

第1章  メッセージ

 目の前に広がるコバルトブルーのグラデーションが綺麗な海。
 五十嵐杏(いがらしあん)は紅いタンクトップにデニムのショートパンツという出で立ちで、ホテルの窓から海を眺めていた。
 この景色を見るのは1ケ月前から。
 その前は海の見えないホテルに身を潜めていた。
 3ケ月ごとに何軒かのホテルを回りながら、日本の政治体制が変わるまで、そう、少なくとも現総理の春日井理(かすがいおさむ)が辞職し政権が替わるまでの間、公の場に顔を晒すことはできなかった。

 密航船に乗って訪れたのは、旧大韓民国の済州島。
 この島は朝鮮半島に住む者たちの居住区とは一線を画し、観光業で朝鮮自治国を支えていた。旧大韓民国時代も済州特別自治道を構成していたので、本島からの命令系統もここまでは及ばないのが実情であった。
 一般の日本人観光客が今でも多く、身を顰(ひそ)めるには好都合な場所だ。

 杏はオペラグラスを手にして海を眺めていたが、隣で一緒に海を眺めていた不破を小突いた。
「前のホテルよりは見晴らしがいいわね。あら、剛田さんは?」
 剛田と呼ばれたのは、以前E4で室長を務めていた剛田勝利(ごうだかつとし)。
 杏からオペラグラスを奪取した不破一翔(ふわかずと)は、顔だけ余所を向きながら杏の質問に答える。
「買い出しに行った。本島まで行ったから時間かかるんじゃないかな」
 海を眺めるのを止めて、杏はソファに腰かけ大胆に脚を組む。
「1人で大丈夫かしら」
「俺たちの食料品だけだから荷物にはならない、って」
「ついていけばよかったかも」
 不破は杏の後ろに回り、その眼を両手で隠す。
「日本人観光客も多いし外を出歩いても目立たないけど、食糧だけは足がつくだろ。心配してるんだよ」
「闇市か。ホントに大丈夫かな」
「本島には知り合いいるらしいし、安心しなよ」

 この島には古参のホテルやプライベートビーチを備えたホテルなどが目白押しでありスーパーも何軒かあるが、マイクロヒューマノイド用の食糧は売っていない。あくまで一般の観光客しか受け入れていないというのが朝鮮国の見解であった。
 とはいえ、日本国で春日井総理の下弾圧された試用体やマイクロヒューマノイドたちを実質的に受け入れているのは事実で、本島では闇市に足を運ぶマイクロヒューマノイドも多くいた。「受け入れていない」というのは詭弁ともいえる。
 尤も、闇市を開いているのは朝鮮国の人間ではなく、他の民族が多かったが。

 太陽も西に沈み、夜の帳が辺りを埋め尽くそうかという時、剛田と見たことの無い女性が両手に大きな袋を抱えて戻ってきた。
「帰ったぞ。何か異常がなかったか」
 杏は立ち上がり、ドアのところまで迎えに行き袋を受け取った。不破も女性から袋を受け取る。
「何もないわ。かえって剛田さんが心配で。で、お隣の方は?」
「日本にいた時からの知り合いだ。逢坂美春(おうさかみはる)さんだ」
 剛田と同年代だろうか。スーツを着てきちんとした身なりの女性。こんな知り合いが朝鮮国にいたとは意外だった。
「こんばんは、貴女は五十嵐杏さん、お隣が不破、不破一翔さんね」
 杏と不破が頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
 初めに杏たちを紹介しないということは、剛田はこの女性にかなり信頼を寄せていると杏は見た。礼儀上、杏たちを最初に紹介するのが普通だから。
「何十年ぶりに電話が着たから驚いたわ。大変だったでしょう」
 この女性は杏と不破がマイクロヒューマノイドだということを知っているのだろうか。食糧を買い込んだ、或いは袋を持った段階で杏たちの身体がマイクロヒューマノイドであることを女性は知っているはずなのだが、杏は少々面喰っていた。
剛田と女性の関係が普段冷静な杏の頭脳を霧が覆い隠すようにおぼろげなものにしたのかもしれない。
杏が何も言えないでいると、不破が微笑みながら女性の相手をしてくれた。
「食糧だけが心配の種でして。本当に助かりました」
「いいえ、お安い御用よ。これからは本島に出なくても私が調達してあげる」
「ありがとうございます」

 杏は少しだけ不安になった。調達するということは、こちらの居場所がどこだか逐次把握しているということである。
 もしか、この女性が日本に密告したら、杏と不破は捕まってしまう。

 杏が一瞬不安な表情をしたのを剛田は見逃さなかったらしい。
「大丈夫だ、安心しろ。逢坂さんは俺の親友の奥さんだった人だ」
 剛田の過去を殆ど聞いたことがない杏。
 彼が自分から過去を口にしたのも初めてだった。

 逢坂がうふふ、と上品に笑う。
「主人と私は剛田さんにとってもお世話になったの。日本に居づらくなったときにこちらの国に入れるよう画策してくれたのも剛田さん。私たちの恩人なのよ」
「何十年前の話だよ、逢坂さん」
「あら、歳月(としつき)は関係ないわ。主人が亡くなって、途方に暮れていた私が今こうしていられるのも剛田さんのお蔭。職まで見つけてくださったの」
 剛田はブンブンと手を振る。
「貴女が一生懸命勉強していたから、通訳や翻訳の仕事を薦めただけだ」
「ね、剛田さんは普段無口だけどとてもお優しい方なのよ」

 杏と不破が目を丸くすると、逢坂はまたうふふと笑った。
 剛田が時計を気にしていた。
「逢坂さん、本島に帰る便はあるのか」
 どうやら、フェリーか飛行機のことをさしているらしい。
 逢坂は気にした素振りもなく、杏たちを見つめている。
「あら、そういえばそうね。今日はこちらのホテルに泊まるわ」
 ちゃっかりとポーチの中の化粧道具を杏に見せる逢坂。端から泊まるつもりだったようだ。
 
 杏もつられて笑ってしまった。逢坂は指で「しいっっ」と杏に合図したあと、杏を連れてフロントに向かった。
 ツインベッドの部屋をキープしたらしく、杏に一緒に寝ようという逢坂。
 スパイの線も崩せないといった面持ちで緊張しながらも、杏は逢坂の誘いに乗った。

 逢坂と一緒に、キープした部屋に入ると逢坂は早速ガウンに着替え、ハイヒールを脱ぐ。部屋の冷蔵庫からビールと2つのグラスを持って椅子に座る。
「一杯どう?」
 杏は遠慮するといった顔をして頭を下げる。
「すみません、飲めないもので」
 逢坂は自分のグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干した。
「あら、ごめんなさい。ねえ、杏さん。九条さんてご存じ?」
 急に九条の話をふられた杏は、緊張の糸が張り詰めた。
 本当にこの人は一般人の通訳なのか。
 当たり障りなく、答えなければ。
「はい、向こうも同じような職種でしたから」
「この島に滞在しているのもご存じ?」

 杏は心臓がドキンドキンと鼓動を立て、その音が逢坂に聞かれてしまうような錯覚に捉われたのが自分でもわかる。なるべくポーカーフェイスを装い、声を少し上ずらせながらの返事になってしまった。
「それは知りませんでした」
「九条さんからお手紙を預かってきたの」
 杏は尚更、動揺する。
「お知り合いなんですか」
「私の兄が九条さんの父なの。九条さんは私にとって甥。兄は既に亡くなったけれど、私の旧姓は九条だから」
 
 九条は元華族。となれば、この逢坂美春も華族出身者なわけだ。
 逢坂の夫がどうして日本を追われたのかは知らないが、華族出身者なら日本でもおいそれと手出しは出来ないだろう。
 逢坂は真っ白な封筒を杏に渡した。
 宛名も差出人もない手紙。

 封筒を開くと、PCで打ち込んだ文字が目に入った。自筆だと都合の悪いことがあるに違いない。逢坂が匿っているのは事実のようだが。杏たちと違い、九条はクーデター計画実行部隊としてその身を追われているのだから、どんな細かいところでも、隙を見せないのだろう。

 文章に認められていたのは、旧華族出身のW4は春日井に処刑されることもなく、警察関係の身分剥奪だけで、それ以上の咎めはないから安心して欲しい、という旨の内容だった。よかった、みな無事でいるらしい。
 とはいえ、九条は未だ逃走中である。
 咎めがないなら日本に戻ってもいいはずなのに。
 春日井総理の安室元内閣府長官への私怨は、今も継続中なのだろう。
 華族会が幅を利かせている今の世の中だからこそ、身分剥奪で済んだのかもしれない。
 それにしても、九条が日本に帰らない理由が見つからないことで、W4のメンバーが本当に生きているのかどうか、それはまだ判断がつきかねた。

 これからどうするのかを九条に聞いてみたい気持ちもあったが、逢坂を通すのはこうして秘密裏に事を運んでいる九条に対し失礼な気もしたし、何かあれば逢坂が対応してくれるだろう。
 
 これが、本当に九条が打ち込んだ文章であればの話だが。
 杏は、今はまだ100%逢坂を信用してはいなかった。

 ベッドに入り枕元のライトを消しても、杏は暫く寝付けなかった。九条のことを考えていた。ところで、九条はマイクロヒューマノイドなのだろうか。杏は九条のことを何も知らない。
 逢坂に聞いたところで、話しはしないかもしれない。本当に九条の叔母なら、甥を何としてでも守ろうとするはずだ。


 翌日の朝、逢坂は早々に化粧と着替えを済ませ、杏を起こした。そして杏を連れて剛田の部屋を訪ねた。
 剛田は起きたばかりのようで、後ろの髪が跳ね上がっている。
「剛田さん、よろしくお願いしますね、また連絡します」
 そういって頭を下げると、逢坂は背筋を伸ばし綺麗な歩行姿勢でホテルを後にした。

 剛田の隣に擦り寄って、小声で囁く杏。
「逢坂さん、旧姓九条さんて、ホント?」
「なんだ、昨夜聞いたのか。本当だ。W4九条の叔母に当たる人だ」
「そうなんだ」
「九条が生きていれば、彼女に助けを求めるだろうな」
「ふうん」

 杏は昨夜聞いたことを剛田に話そうかどうか迷ったが、九条の話を出すと不破が五月蝿いので止めた。剛田も九条の生死にさほど興味はあるまい。

 こうして、九条に連絡を取ることもなく、済州島での隠伏は2年に及ぶことになった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 杏の髪は伸びた。肩ぐらいの長さから腰の手前まで。
 不破も髪が伸びたからか、後ろで纏めてゴムで縛っている。
 杏たちは髪を切りに行くことさえしなかった。外出すれば、誰に会うか分らないから。
 何度か日本陸軍の制服を見たことさえある。
 マイクロヒューマノイドを捕縛するため、日本国陸軍から送り込まれたに違いない。
 そんな時は、窓を閉めレースカーテンを引いて、会話さえも小声になった。

 グラデーションが鮮やかな海も、窓から眺めるだけ。
 最初のうちこそ「綺麗」を連発した杏だが、やがて飽きた。
 ホテルを変える度に景色が変わることだけが楽しみだった。
 不破はといえば、ゲーム大国朝鮮国のゲームに夢中になって、杏の相手もしてくれない。いつもゲーム機片手に部屋をうろうろしている。
 杏はセンチメンタルに星空でもみようかと思うのだが、元々が無骨ときているから夜空を眺めても感傷的にはなれない。
 そうなると、必然的にテレビや活字オンラインを見るようになる。
 朝鮮国では、あまり日本に関するニュースを流していない。
 すると、また退屈になる杏。

 そんな時に限って、逢坂が日本の活字オンラインなどを持ってきてくれたり、携帯電話機とポケットルータを持ってきてくれたり。インターネットを探っていくと、日本の現状を知ることができた。
 そうして逢坂が何かと世話を焼いてくれたので、生活に困ることはなかった。

 朝鮮国の物価は日本より安いらしいが、ホテル代などを誰が払ったのかは気になる杏。
「ね、ここのホテルって安くはないわよね、誰が宿泊費支払ってるの?剛田さん?」
 不破はさして気にも留めない様子で返事も上の空だ。
「たぶん」
「聞いてないでしょ」
 杏が不破の前に回って両耳を掴んで上に引っ張る。
「いて、いてて。聞いてるよ、ここの宿泊代だろ」
「2年間もホテル泊まり続けてるのよ、お金いくらあっても足りないでしょう」
「出世払いとかじゃない?」
「あ、それならあるか。日本に戻れば働くしね」
「俺たちの給料から差し引かれるぞ」
「それは困る」
 
 インターネットでニュース報道を見る限り、春日井は、総理としての任期を無期限に伸ばすため法律を改変する準備をしていたらしい。
 国民投票によって、それを叶える第一歩を踏み出したかったのか、精力的に動いていたと見える。
 だが、半年前の国民投票で否決、その野望は潰(つい)えたようだった。
 春日井の人気も翳りを見せ始めているのだろう。
 
 その後任、次期総理候補として名前が取り沙汰されていたのが、マイクロヒューマノイドに一定の理解を示す槇野達郎(まきのたつお)だった。
 槇野は、マイクロヒューマノイドが消えた瞬間から日本自治国の方々で町の治安が悪くなったと行く先々の演説会場で力説しているらしい。
 自分が総理になったらマイクロヒューマノイドを復活させ町の治安を守るとともに、クーデターに繋がるような動きを随時観測できるよう取り計らうつもりだという。
 マイクロヒューマノイドがクーデターを起こしたらそりゃ生身の人間との差は歴然だが、随時観測とは。脳監視でも行うつもりなのかと首を捻る杏。

 実際には春日井が全権を掌握する陸軍にマイクロヒューマノイドは大勢いたのだが、マイクロヒューマノイドを弾圧する施策をとっていた春日井は、軍を治安好転のために投入することはできなかったはずだ。二枚舌もいいところになってしまう。
 そんな春日井総理宛ての書簡は何通も内閣官房に届いたはずだが、独裁を貫く総理に手渡せるものはいなかった。現在内閣府長官の小和田正志(おわだまさし)は、すっかり春日井総理の言いなり、子飼いだったとみられる。
 そこが国民の支持を得られない理由になったのは火を見るよりも明らかだった。

 日本の総理大臣選挙も最終局面を迎え、槇野がそのままレースを引っ張る牽引役になり国民の支持の大筋を得ていると思われた。
 そして、どこから情報が漏れたのか、軍にマイクロヒューマノイドが多数いることが週刊誌にすっぱ抜かれ、春日井総理の人気は地に落ちた。
 春日井が全権を掌握していたころは、週刊誌を発行している出版社は皆発行停止の沙汰を受けていたものだが、今回はそれすら間に合わなかったようだ。
 国会でもこの問題は連日取り上げられ、小和田内閣府長官はおろおろするばかりで何も答えられず、春日井総理は毎度のように論点を外しながらの答弁で逃げ続けたが、最終的に内閣支持率は10%を切り、死に体と化していた。
 
 2年の任期が満期終了し、春日井は総理の職を辞するとともに、心労で入院し政治家を辞めた。
 政治家は都合が悪くなると心労で入院すると、国民の間ではSNSなどを通じ大炎上になった。
 しかし、春日井前総理はそれに応えることもなく、談話が発表されることもなかった。

 新しく総理になったのは、かねてから声のあった槇野達郎。
 槇野は一時的に軍のマイクロヒューマノイドを治安好転の為に町に配置し、春日井によって潰された国立科学研究所の再開を明言した。
 とはいっても、全国に3カ所あった国立科学研究所は建物も壊滅状態だったため、新築するところから事業が始まっていた。地下に隠れていた研究員たちがやっと日の目を見るに至ったのである。
 春日井前総理のマイクロヒューマノイド弾圧政策の終熄を確認、槇野現総理の動きを察知した剛田、杏、不破の3人は、日本に戻る日が近いことを感じていた。

 逢坂に頼みフライトチケットを準備してもらおうと思ったが、生憎パスポートを準備していなかった杏と不破。剛田は出張やらで外国にいくため、いつもパスポートを所持していたが、こうなっては一緒に帰る手立てがない。
 島からの密航船は出ていたが、無事に帰れる保証はなかった。
 それでも、パスポートが無いからには偽のパスポートを作るか、密航船に乗るしかない。
 杏と不破は、密航船を選択した。

 剛田は相変わらず心配性だ。二人に合わせて自分も密航船で帰国するという。
「じゃあ俺も一緒に船に乗ろう」
「やだ、剛田さん。あたしたちだってもう十分大人なんだから大丈夫よ」
「そうですよ。俺等が帰った時に迎えてくれる人がいるほうが嬉しいです」
「それはそうなんだが」
 杏が飛行機で日本へ帰る様、剛田を説得する。
「剛田さんはマイクロヒューマノイドじゃないから、船の中で何かあったら大変だし」
「そうそう。俺達はその点は大丈夫ですからね」

 とうとう剛田は折れた。最初に日本へ戻り、杏たちの帰りを待つという。
「それなら、俺は最初に戻ってE4再生のシナリオを作るとしよう」
「そうね、みんなにも会いたいし」
「お願いしますよ、剛田室長」
「室長になれるかどうかは上層部次第だがな」
 剛田は優しげな目をして、笑った。

 逢坂の準備した航空チケットで金沢へ向け済州国際空港を出発する剛田。それを見送った逢坂と杏、不破の3人は軽いランチの後、逢坂から密航船のチケットを譲り受けた。
「これは」
「私からの最後のプレゼント。元気でね、杏さん、不破さん」
 二人は同時に礼を言う。
「ありがとうございます」
「日本に帰れることになって良かったわ。私もいつか帰るから、その時はよろしくね」
 不破がステキな顔で微笑む。
「任せてください」
「じゃあ、ここでお別れ。二人とも、お元気で」
 去っていく逢坂の背中に向けて杏は挨拶した。
「逢坂さんもお元気で」
 
 密航船のチケットは、その日の夜間に出航する予定だった。
 杏も不破も、いつ日本に帰ってもいいように荷物の準備はしていたし、ホテルの精算も剛田が済ませていた。
 出航まであと8時間。それまでどうやって時間を潰そうか。
 済州国際空港は、昔なら国内線の旅客向けの免税店しかなかったが、地球全土から観光客を呼び込むため、今は国際線旅客向けの免税店がある。免税店で剛田が気に入りそうなものを選んでぶらぶらと時間を潰し、空港内のロビーで昼寝がてらに暇を潰してみたものの、出航まであと何時間もあった。
 島の南側に済州港があり、普段はフェリーが往来している。フェリーに紛れて、密航船も普段なら1週間に1度くらいの頻度で行き来しているという情報を逢坂が拾ってきた。

 港に行こうかと相談し合っていた杏と不破。
「ねえ、不破。ここにいても飛行機乗れるわけじゃないし、港に行きましょう」
「そうだな、港の方が何かあった時でも船に飛び乗ればいいだけだから」
 確か、向こうにもターミナル施設があったはず。もう二人の心は逸っている。
 早く日本の土を踏みたい衝動が、二人を突き動かしていた。
 空港から出てタクシーを捉まえ、済州港まで、と運転手に説明する。朝鮮語は話すことができなかったが、観光パンフレットを持っていたのでうまくコミュニケーションを図ることができた。
 いち早く済州港内に着いた二人は、沿岸旅客ターミナルと国際旅客ターミナル、2つの旅客ターミナル施設の中を見学することにした。
 待合室、特産物販売店、スナックコーナー、食堂、免税店。再び免税店をぶらついたのち、待合室での出来事だった。
 疲れてしまい不意にうとうとしてしまった杏。不破もなんだかんだと疲れていたのだろう、ふと目を閉じてしまった。

 その時である。
 杏の荷物を強引に持ち去ろうとする輩が現れた。
 相手は3人。

 観光客のスーツケースを盗み、中に入っているものやケースそのものをインターネットで売却してしまうのである。パスポートが入っていたりすると始末が悪い。
 杏も、帰れる嬉しさに浸り過ぎたというべきか。
 さして心配せずに、密航船のチケットをケースに入れてしまっていた。

 不破が薄らと目を開けた時には、杏のスーツケースを持ったごつい体格をした若者たちが走って逃げていくのが見えた。
「杏!チケット!」
 不破の一言で杏は我に返った。
 そして、ハイヒールのまま杏は物凄いスピードで相手を追いかけはじめた。
「不破はそこにいて!」
 マイクロヒューマノイドは一般人に比べ足も速い。ところが、相手になかなか追いつかなかった。
 まずい、相手もマイクロヒューマノイドか。
 兎に角、チケットだけでも取り返さないと、日本に当分帰れなくなる。
 杏はギアチェンジして1.5倍の速度で相手を追いかけた。やっと背中に手が届くまでに近づいた。
 杏は反動をつけて一気にジャンプし、3人の前に躍り出る。
「いい子だから、それを返しなさい」
 意外にも、相手は片言ながら日本語を喋った。
「何言ってる、これ俺たちの物」
 カチンときた杏。両手を広げて相手を威嚇する。
「なら何故逃げる」

 杏の恫喝に対し、相手は答えに窮したようで杏に殴り掛かってきた。
 杏は普段拳銃を使って勝負する方なので、E4時代には、肉弾戦は西藤に任せていた。
 しかし今はその拳銃も持っていない。
 仕方ない。素手で倒すとするか。

 相手のパンチを難無く避けて防ぐ杏。
 そして一度だけ深呼吸すると、相手の1人に回し蹴りをかました。回し蹴りをもろに食らった相手はもんどり打って倒れ、他の2人はその場から逃げようとする。

(逃げるだと?そうはさせるか)

 杏は2人目の男の腹を目掛け、パンチを続けざまに3発入れた。その男も膝を折り、その場に倒れた。
 と、最後の1人が逃げ出していた。
 追いかけようとしたところ、相手が何かに躓き転んだのが目に入ってきた。
 
(躓いた?)

 その方向を見ると、なんと九条が男の足を引っ掛け転ばせたのだった。男は、杏のスーツケースを置いたまま、何処かへ消え去っていく。
 ケースさえ戻れば、別にこれ以上追う必要もない。
 九条に近づき、スーツケースを手にしながら礼を言う杏。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 杏はふぅと息を整え歩きながら九条の横顔を見る。
「逢坂さんから手紙もらったわ。日本に帰るの?」
「ええ。ただし僕もパスポートがないから非正規の方法で帰るしかないんですよ。美春さんがチケットとってくれたので助かりました」
「甥っ子なんですって?」
「そうですよ、あんな男と結婚したばかりに、日本を追われて。叔母は可哀想です」
「あら、なんのこと?」
 苦々しげな表情に変わる九条。
「逢坂というのは通名でしてね、いや、偽名と言った方がいいか。本名は本木。やつは生粋の日本人じゃなかった。叔母は騙されて結婚したんです」
「剛田さんが昔助けた、って聞いたけど」
 九条は驚いたように杏を見た。
「逃がしたのは彼でしたか。叔母を軟禁したんです、本木にに会えないように。なのに、いつの間にか姿を消していた。一度だけ手紙が届いて、無事であることが分ったんです」
 杏は吹き出した。
「なんだ、剛田さん悪いことに一役かってたのね。どうりで詳しく言わないはず」
 九条もつられて笑い出した。
「もう本木も私の父も死にましたから、昔の話ではあるんですが。日本に戻れば、といっても聞き入れてくれない」
「たぶん、思い出がこちらの国に詰まっているんじゃないかしら。いつか帰るって、そう言ってた」
「そうですか。叔母には叔母の人生がありますから」

 思い出したように立ち止まって、九条を見つめる杏。
「ところで、九条さんはマイクロヒューマノイドなの?」
 一瞬目を大きく見開き、意外そうな顔をした九条。首を傾げながら杏の質問に答えた。
「ええ、W4では僕だけだった。だからクーデターを抜きにしても日本にはいられなかったんです」
「そういうことだったのね」
「さて、この辺で僕はお暇(いとま)しましょう。お宅の家人が凄い目でこちらを睨んでる」
 九条の指差す方を見ると、不破が不機嫌そうにこちらを見ていた。杏はどういう顔をしていいか分らず、九条にあらためて礼を言った。
「本当にありがとう。これがなかったら帰れなかった」
「お互い様ですよ、では、ここで」

 九条と別れ、不破の下に行く。不破は本当に不機嫌になっている。
「なんであいつが此処にいる」
「スーツケース取り返すのに協力もらったのよ、感謝」
「いいや、ここにいる理由」
「あたしたちと同じ。密航船に乗るみたい」
「なんで、どうして」
「パスポート持ってないらしいわ」
「やっぱり、あいつもずっとこちらに隠れていたのか」
「逢坂さんの甥っ子。さっき本人に聞いたら、マイクロヒューマノイドだって言ってたわよ」
 不破は2度吃驚したように目を瞬(しばた)かせる。
「そうか、逃げ回っていたのはクーデター計画の首謀者だからだとばかり思ってた。実際はマイクロヒューマノイドだったのか」
 不破の機嫌が漸く直り、杏は不破の横顔を見ながら、ほっと一息吐いた。


 フェリー埠頭の待合室も、電気が消える時間になった。
 杏と不破は一度外に出て、港の周囲を散歩する。荷物を持ちながら同じように散歩したり地べたに座り込んだりベンチにどっかりと寝ていたり。
 皆、マイクロヒューマノイドに違いないと杏は当たりを付けた。
 もうすぐ密航船が到着する時間。

 夜9時。時間通りに密航船が港に到着した。
 何人もの客がタラップを上がる。さきほど寝ていた人物も船に近づいてきた。
 密航船に乗る客の中には、杏や不破、九条の姿もあった。

 乗組員が周囲に注意を払いながら、中で何か指示されているように見えた。
 そして、船は静かに港を離れ、日本へと向かった。

第2章  インスパイア

 翌々日の昼、密航船は無事に伊達市の港に着いた。
 乗客の3分の1ほどが降りる。
 これから金沢市と毛利市を経由し、また済州島に向かうらしい。
 槇野総理が、それまで行われていたマイクロヒューマノイドの弾圧を止めたことで、国外に逃げ出していたマイクロヒューマノイドたちが続々と日本に戻ってきているのだった。

 誰かが迎えに来ている者もいれば、そのまま1人で歩き出す者もいた。
 迎えに来たのは家族だろうか。
 マイクロヒューマノイドは独身の1人住まいと思われがちだが、実際には家族がいる者も多い。
 結婚後にマイクロヒューマノイドになる者も結構いるのだ。

 杏と不破は、タラップを降りながら剛田の車を探していた。
 剛田が船の発着場に愛車のスカイラインGT-R32型で迎えに来ていた。
 二人を見つけるなり、剛田の車は船に近づいた。窓を開けて、後ろに乗れといわんばかりに親指で後部座席を指す。
「遅かったな」
 二人は剛田の車に乗り込んだ。開いた窓から吹き込む風に、杏は伸びた髪をなびかせている。
「普通でしょ?何もトラブルなかったし」
 ふん、と顔を顰(しか)める剛田。
「そうか、どうにも心配でな」
 杏は運転席の方に身を乗り出す。
「あたしたちを心配してくれるのは剛田さんだけよ」

 3人は2年前に後にした家に戻った。
 ちょっぴり荒れ果てたような家の中。
 フローリングには埃が溜まり、窓は雨風を受けて汚くなっていた。
 完全密閉がゆえに白カビが発生している場所もあった。
 剛田は溜息とも何とも言えない息を吐き、家中を見回る。
「2年もそのままだと家も傷むようだ」

 不破は片付けるのが面倒なのかもしれない。気軽に言ってのける。
「別のアパルトモン借りますか?」
「いや、片付ければ何とかなるだろう。まず、窓を開けて換気するか」
 次々と部屋の窓を開け、換気していく剛田。

 北斗のワンルームの部屋がお気に入りの不破は、残念、という目つきで剛田の後を追う。
 杏はのっけから、掃除機ロボットが欲しいと叫びながら各部屋の掃除を始めた。
 やっと掃除が終わったのは夕方だった。
 元いた家に、また帰れる。
 杏は心の何処かで帰る場所がまたできたことに魂が戻る場所があったような喜びを感じていた。

 剛田が不意に不破の前に立つ。
「ところで」
 不破は驚いた様子で剛田を見つめた。
「なんですか」
「魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである」
「あ」
「考えてなかったな。2年も猶予を設けたのに」
「すみません、ゲームに夢中で」
「五十嵐はどう思う」
 杏は持論を展開した。
「肉体をもった人の魂は、その肉体にあり続けるうちは本能的に生きるのに対し、意識は、ある種凝り固められたパッシブな生き方であり、必ずしも肉体を伴わない。というのが、あたしが導き出した答え、かな」
「不破は今の言葉を聞いてどう思う」
「今の今では何とも言えませんけど、杏の言葉は魂の本質をついているような気がします」
「こちらに戻ってE4が再生したら、皆にも聞いてみようと思う。さて、どれだけの人間が思い出せるか楽しみだな」

 翌日、3人は伊達市にある第2国立科学研究所、通称第2科研に足を運んだ。2年もの間オーバーホールをしていなかったため、オーバーホールが可能か、どこまで研究所が再建されたか確認に来たのだった。
 研究所は仮設の建物で研究を続行していた。春日井の弾圧で地下に潜り込んだ研究者たちが続々と地上に現れ、マイクロヒューマノイドのオーバーホールはいつでも可能だという。

 杏と不破は、今日中にもオーバーホールが出来るということで、研究所内の準備を待つことになった。
 杏が不破に本音を漏らす。
「昔はね、オーバーホールの度に魂を削られる気がしてね、嫌だった」
「実のところ、俺も」
 二人は笑い声をたてないように、お互いを見て笑った。

 研究員たちから最初に不破が呼ばれる。
 不破を見送ったあと、杏は研究所の外に出た。
 杏がいつも膝を抱えて座っていた場所は、もうなかった。軍が建物を破壊したときに玄関さえも皆吹っ飛ばしたのだろう。
 新しい気持ちでオーバーホールを受け入れろと言われているような気がした。
 外に出たまま深呼吸していると、剛田が後ろから現れた。
「もう、過去のお前は消えた。これからは魂の趣くままに、意識を感じるままに生きればいい」
「覚えててくれたのね、ありがとう」
 剛田は照れ笑いしているように見えた。
「今日を境に、みな忘れよう」

 1時間もすると、不破が研究室から出て、今度は杏の番が来た。
 ああ、また魂を削られるのか。
 やはりオーバーホールは嫌いだった。
 しかし、2年もの間身体を放っておいたわけだから、MAXのパフォーマンスができるよう、オーバーホールで身体を取り替えなければならない。
 今回はプラスαの装備も無く、やはり1時間ほどでオーバーホールは完了した。
 
 あとは自宅に帰るばかりだ。
 剛田は何処に行ったのか、姿が見えない。
 その時だった、玄関ロビーにいる杏と不破に後ろから剛田の声が響いた。
「五十嵐、不破」
 二人が後ろを振り向くと、なんとそこにはレディバグとレディビートルが1機ずつ、足を振りながらこちらを見ている。
 杏は思わずバグとビートルに駆け寄った。
「バグ!ビートル!」
「ハアイ、アン」
「フワモイッショナンダネ」
「ホクトハ?」
 思いがけないことで涙腺が緩んだ杏。はらはらとその頬に涙が光る。
「ああ、北斗も今度会いに来るから」
「マタイッショニオシゴトデキルノ?」
「頼んでみる。また一緒に仕事をしよう」
 研究員の一人が近づいてきて、杏にICチップを見せた。
「2年前に頂いたこれをもとに、フルカスタマイズしました。もう、試用機ではありません」
 杏は涙を拭いて頭を下げた。
「ありがとうございます。もし一緒に仕事ができるなら、これからはフルに稼働させます」
「コキツカウノハヤメテネ」
 また、涙が溢れる杏。
「馬鹿者。北斗の為に働くんだ、我慢しろ」
「ハアイ」
 
 2機を研究所に頼み、杏たちは帰り支度をする。
 剛田の運転で研究所を出た杏は、何度も涙を拭うのだった。
 車の中で、剛田は真剣な口調で杏と不破を呼んだ。
「五十嵐、不破。俺はもう一度E4を立ち上げようと思う。勿論、以前のメンバーも呼ぶし、バグやビートルも研究所から引き取る」
 不破が安心したように笑った。
「北斗に会いたがっていますからね、早く会わせてあげないと」
 E4の再開には、まず、警察府に申請しなければならない。それと同時に、全メンバーを現部署から引き抜くことも必要になる。
「日本自治国警察府監理官の西條来未(さいじょうくみ)、覚えているか?彼がE4存続に尽力してくれている」
 杏は一度きりしか会っていないが、覚えやすい容姿だった。
「あのお公家様みたいな人?」
 剛田の話によれば、済州島での生活資金も、西條監理官が警察府に掛け合って出してくれたから、2年も済州島で暮せたのだという。
「そうだったの?」
「頭が上がらないぞ、警察府のマイクロヒューマノイドを国外に逃すとともに、生活費を支援していたんだ」
 剛田は振り向くことなく、杏たちに告げた。
「明日から俺は忙しくなる。食事は2人で食べててくれ」
 杏と不破が同時に車の中で敬礼する。
「了解」
 いつになったらマイクヒューマノイドは1日1回の食事で済むことを覚えるのだろうと、杏は可笑しくなる。それだけ心配している証拠でもあるのだが。

 
 ここに、剛田はE4の再設置を警察府に正式申請することとした。

 細かな提出書類を揃えるため、剛田は1週間ほど自宅には戻らなかった。
 倖田、西藤、八朔、北斗、設楽の5人を現部署から引き抜くための根回しも必要だったのだろう。2年満期で異動させたわけではなかったから。

 警察府SAT、特殊急襲部隊に属した倖田は、仕事ぶりは評価されていたもののスナイパーが飽和状態であることを理由に、SATからの異動は容易くOKが出た。
 警察府ERT、緊急時対応部隊に異動していた西藤は、殆ど出番がなく直ぐに内示が出た。
 警察府SSS、通称スリーエス。SATを支援する特殊部隊支援班に異動した八朔と北斗。八朔はすんなりOKが出たが、北斗は勤勉さを買われE4への異動に難色を示された。
 そこで西條監理官のお出ましとなり、北斗も何とかスリーエスから異動することが決まった。
 警察府SIT、特殊事件捜査班に異動していた設楽。向こうでも口数は減らなかったようで、技術と見合う働きができないという理由書をぶら下げて、E4に戻ってくることになった。


 西條監理官の口添えで人事異動は進み、その他にも西條監理官はE4立ち上げのために奔走してくれたという。
 ESSSの隣にあるビルの49階と地下1と地下2階。今迄根城にしていたビルを押さえることができたのも西條監理官のお蔭だった。
 第2科研に預かってもらっていたレディバグとレディビートルは、地下を押さえた翌日に、杏と不破が第2科研に迎えに行った。今回は2機。必要があれば、増産してくれるという。業務にどれくらい須要か見極めた上で、再度第2科研に依頼することになるだろう。
 今回、バグたちがカメレオン部隊のオーバーホールまで終わっていたのも、即戦力として十分すぎるくらいの出来だった。

 それから1週間が過ぎた。

 49階に集められた設楽、八朔、倖田、西藤、北斗、不破と杏。
 相変わらずお喋りなIT担当の設楽快斗(したらかいと)が雄たけびを上げている。
「チーフ、不破。よくぞご無事で。もう、嬉しいっすよ」
 ITサブ担当の八朔聖都(ほずみせいと)は涙を流す。
「2年間、この日を待ち続けてました」
 狙撃担当の倖田祥之(こうだよしゆき)は自前のライフル、ヴィントレスを持参していた。
「これからまた、このメンバーで仕事ができるんですね」
 肉弾戦を得意とする西藤均(さいとうひとし)も半泣き半笑いで頷く。
「この2年、E4が懐かしかったです」
 スパイ専門の北斗弓弦(ほくとゆずる)は、銃を片手にしていた。
「あれから、練習続けてきました。命中率もあがったんですよ」

 杏や不破は、皆と固い握手をしてハグしあい、再会の喜びに浸った。
 今日、剛田はいない。西條監理官と一緒に、金沢の警察府に挨拶に行くと言っていた。
 杏は皆をまじまじと見つめた。
「皆、これまでご苦労だった。西條監理官や剛田室長のお蔭でやっと再生に扱ぎつけた」
 設楽がオーバーに表現する。
「え?あの目の細くて背の高いお公家様ですか?」
「そうだ、彼の尽力無くして、E4の再生はありえなかったそうだ」
 八朔は涙を拭いて鼻をかんでいる。
「また挨拶来ますかね。敬礼しないと」
 杏はふっと笑う。
「たぶん、今日か明日辺りくるぞ。酒は飲むなよ」
 設楽と八朔はバツの悪そうな顔をしている。そんな二人を見て、周りが笑う。

 杏は、次に北斗の名を呼んだ。
「北斗、お前に手土産がある」
「なんでしょう?」
「おい、不破。地下に案内してくれ」
「了解」

 不破が先頭に立ち、足早に地下室を目指す。北斗は射撃訓練の何かだと思ったらしい。
「僕の腕、ご披露しましょうか」
 不破は笑って手を振った。
「その前に、地下2階に行こう」
 エレベーターで地下2階に降り、不破は思い切り力を込めてドアを開けた。

「キャッ、ホクトダ!」
「ホクト~」
 レディバグとレディビートルが北斗目掛けて走り寄ってくる。
「バグ!ビートルも!」
 北斗は途端に、顔を真っ赤にして号泣した。
 2年前、最期にさえ立ち会えず泣くばかりだった。
 ああ、そのついでに誘拐もされたっけ、と2年前を振り返りながら泣く北斗。

 また試用体ではないかという疑念が湧きあがる北斗は、心配そうな目で不破を見た。
 不破はまたもやステキ顔になる。
「あの時のICチップでフルカスタマイズしたそうだ。もう試用機じゃない」
「よかった・・・」
 北斗はそのまま、地下でバグやビートルと追いかけっこをして遊びだした。
 不破は1人で49階に戻った。

 杏が戻った不破に声を掛ける。
「どうだ、サプライズだっただろ」
「しばらくこちらには来ないんじゃないですか」

 聞きたがりの設楽。
「北斗へのサプライズ?何です?僕たちにサプライズは?」
「今回は北斗専用だ」
「で、何なんですか」
 杏はニヤリと口元を上げる。
「バグとビートルだ」
 

第3章  バグ

 49階、地下1階と地下2階の設備は、2年前と同様に設置されていた。
 勿論、最新鋭の設備も付加して。
 設楽と八朔はいそいそとIT室に入っていく。そしてまた雄たけびを上げていた。
「チーフ、この定点カメラ、最新式ですよ!なんだ、僕たち向けのサプライズもあるじゃないですか!」
「そうか、良かったな」
 設楽の独り言は2年前と変わっていない。
「これ、弄ってみたかったんだよなあ」
 八朔はまたもやVRで遊んでいる。
 倖田はソファに腰かけてライフルのオーバーホールを始めるし、西藤はソファに横になる。
 2年前の光景と、何も変わらない。

 ただそこには、紗輝の姿が無いだけだった。
 杏はしばし感傷に浸った。
 元気で無事にやっているだろうか。元々あいつは公務員として向いてなかったからだが、何となく危なっかしいところがあった。今も元気でやっていればいいが。

 E4に属していた時には厄介なヤツだと不満をもったものだが、やはりいないと、魂が揺らぐような錯覚に捉われる杏だった。

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 みな、2年前のあの日のようにだらけている。
 そこに剛田が戻ってきた。あの日のように、後ろを歩いてきたのは監理官の西條来未(さいじょうくみ)だった。
 
 杏は皆に声を掛ける。
「皆、出てきて」
 執務室にいた倖田、西條、不破、杏の4人は、すぐさま敬礼する。奥のIT室にいた設楽と八朔も、バタバタと執務室に出てきて敬礼した。
 剛田が杏に尋ねる。
「北斗は?」
 まさか、バグたちと遊んでいるとは言えない。何か嘘をつかねば。ぴんと閃く杏。
「地下の片づけをしています」
「そうか」
 剛田は西條監理官から挨拶をもらうといい、皆はピシッとした姿勢で腕を後ろに組んだ。
「今回はマイクロヒューマノイドの関係でE4の活動を一旦中断していたが、このたび再始動することが正式決定した。皆、心して業務に励むように」
「はい!」
 皆が再度敬礼すると、西條監理官と剛田室長は再びドアを開け廊下に消えた。
 
 設楽がまたもや皆を遮ってお喋りを始める。
「緊張しますね、今回の一件に監理官が絡んでるとなると」
 杏は、久しぶりに設楽を無視しない。
「監理官がいなければE4の存続は難しかっただろう。皆、心して業務に励め」
「チーフも相変わらず変わっていませんね。変わったのは髪型だけだ」
「まあな」
 不破も、後ろで纏める髪型が気に入ったのか、髪を切ろうと思っていないようだ。
 特に業務に差し支えさえしなければ、どんな格好でもいい。これがE4だ。

 30分ほどして、剛田室長が1人で戻ってきた。
 皆、また剛田の前に集まる。
「皆、今迄ご苦労だった。もう少し早く帰国したかったが、マイクロヒューマノイド弾圧政策が本当に終わりを迎えたのか見極める必要があってな」
 設楽が身振り手振りを交えて解説者と化した。
「そりゃもう、この2年間は最低最悪でした」

 八朔も口を揃える。
「軍にマイクロヒューマノイドが何体もいるはずなのに、それらを不問に処してるんですから。汚いですよ」
 あとからこっそりと戻ってきた北斗。滅多にこういった会話には口を挟まないが、バグとビートルを傷つけられ、その怒りは頂点に達していたようである。
「春日井元総理はそれなりの制裁を受けるべきだと思うんです。何万人ものマイクロヒューマノイドが命を落としたことは、日本にとって大きな損失になりました」

 不破はE4にくると冷静でステキな男になる。
「社会的な制裁すら受けないで病院に雲隠れじゃ、国民は納得しないですね」
 この意見に、西藤と倖田がうんうんと頷く。
 西藤は不破の意見に同調し、言葉を繋ぐ。
「それでいて任期が永久になるよう画策してたっていうんですから、話になりませんよ」
 倖田が言葉を引き取った。
「国民投票の結果があれですから。日本国民はバカじゃなかった、ということですね」

 杏は自分達3人が潜伏していた事実を、遥か遠くのことのように感じた。

 剛田が低い声で言い放つ。
「朝鮮国や中華国にとってはおいしい政策だったはずだがな」

 世界的には、日本の動きを報じるメディアはさして多くはない。
 ましてや、マイクロヒューマノイド弾圧などという世界では類を見ない政策は、剛田のいうとおり朝鮮国や中華国的には美味しい策戦だったに違いない。
 戦争をしかければ楽勝できる。
 春日井が、いかに世界の動きを把握していなかったか、自分の周りに警察という強大な権力を置いておきたくなかったかが分る。
 特に、自分の指揮命令下にあったとはいえ、E4とW4は目の上のたんこぶ状態だったのだろう。W4のように、いつ裏切るか分らない。どちらも解散状態に追い込み、したり顔でいたはずだ。

 それでも、春日井の裏をかきマイクロヒューマノイドを扶翼した者たちが警察府には多くいた。
 公務員でマイクロヒューマノイドといえば、警察府や国立研究所の研究員、海軍、陸軍や空軍などの軍隊が主だった。公立学校の教師にも多かった。
海軍を初めとした軍隊は春日井の指揮命令下にあったはずだから、日本を追われたのは研究員や警察府、教師たちということになる。
 研究員たちはその殆どが地下に潜り研究を続けていた。警察府では地下に潜って時を待つことをせず、上層部の意向により半島に逃がしたのだろう。
 教師は、捕まった者が殆どだったと聞く。生徒や保護者からの密告が多かったらしい。

 半島との複雑な距離感。
 杏は、春日井の政策が2年で終わりを迎えたことに安堵の気持ちがあった。
 これ以上長引いたら、悲惨な結末が待っていたかもしれない。


 皆が言いたいことを口にしたあと、今度は剛田が皆に問いかけ始めた。
 不破や杏が聞いた設問と同じだった。
「お前たちに2年前に問うた、『魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである』この意味がわかったか?」

 初めに降参したのは設楽。
「いくら考えてもわかんなかったっす」
 八朔や倖田も首を振る。
「難しすぎますよ」
 西藤は、次のように解釈したようだった。
「魂は肉体がなければ生命の源になり得ないわけですよね、一方意識は・・・あれ?肉体がないのに意識があるって変ですよ」
 剛田が笑いながら西藤の肩を叩く。
 そして設楽の方に目を向けた。
「設楽、お前は大体にして考えてなかっただろう」
 剛田に芯を突かれた設楽は顔が真っ赤になる。
「すみません、今言われるまで忘れてました」

 笑い声がそこらじゅうに響く。
 最後に、北斗を前にした剛田が同じ質問をした。
「壁に貼っていたんですが、見ても分からなくて。ただ、麻田導師の教えとは真逆だと思ったことだけは覚えています」
「麻田の教えとは?」
「確か、『魂は肉体に宿らず。尊厳ある死こそが高尚な意識の全て』だったかな」
「なるほど、真逆だな」


 E4室内で皆が寛ぎ始めると、剛田が杏を呼んだ。剛田について、廊下に行く杏。
「どうしたの?」
「E4回線を遮断しろ、ダイレクトメモで話す」
「了解」
 杏もダイレクトメモの準備に、時計右端のボタンを1回押す。
(何?大事(おおごと)なの?)
(考えていることがあってな。九条をE4に引き入れようか迷っている)
(あら、彼W4の人たちが生きてるって。あ、でも警官身分剥奪っていってたわよ)
(だからこそのE4だ。暗殺部隊ではなく、テロ制圧行為なら総理も許すだろう。それに)
(それに?)
(春日井が一条や三条たちを見逃したとは思えない。自分を裏切った奴を許すはずがない)
(でも、華族会が黙ってないでしょ、殺したら)
(処刑すればな。自殺で片付けたとしたら)
(華族会も何も言えない。死人に口なしだものね)
(九条はまだ表立って顔を晒せる時期ではない。俺が行って調べてくる)
(もし生きてたら?)

 剛田は口角を上げニヤリと笑った。
(皆まとめて面倒見るさ。さるかに合戦も終わる)


 剛田はそのまま出かけてしまい、夕方まで戻ることはなかった。金沢市か毛利市まで足を運んだのかもしれない。
 夕方、またE4回線を遮断したダイレクトメモが杏の下に届く。
(九条に会って、勧誘してみる)
(了解)

 E4室内では、何もないということで皆時間とともに帰っていった。設楽と八朔は、明日以降、各種ロボットを整備するという。北斗はもう少しバグたちと遊んでから、戸締りをして帰ると言いながらオイルを持って地下に降りた。
 
 杏は設楽たちとともに室内を出て、帰路に着いた。杏と剛田の行動を不信に思ったのだろう、不破が後から追いかけてくる。
「何、剛田さん、なんだって?」
 不破に隠しても仕方のないことだった。
「九条さんをE4に引き入れたいそうよ。あとは、他のW4メンバーがどうなったか調べるって」
「なんでまた」
「さあねえ。こっちでは紗輝がいなくなった後、誰も加入してないしね」
「みんな生きてたら?」
「みんなまとめて面倒見るって。ただね・・・」
 不破は不機嫌そうな顔こそしていたが、反対を示す態度はとらなかった。
「ただ?」
「春日井が裏切り者を許しておくわけがないって」
「処刑したということ?」
「そう。それを調べるために、金沢と毛利に行くって。今日明日は戻らないみたい」
 
 その晩、ベッドに横になった杏は、また九条たちW4のことを考えていた。
 春日井総理は怖い人。九条はそう言ったことがある。
 本当に、そうなのかもしれない。
 捕まった一条、三条、四條、六条。何らかの処分があるだろうが、身分剥奪で済むわけがないのか。
 春日井は軍を手中に収めていた。杏と不破ですら陸軍にさんざん追われたし、研究所は跡形もなく破壊された。
 陸軍に追われたなら、捕まるのは時間の問題だっただろう。 
 問題はその後だ。
 九条は皆元気といったが、果たしてそうなのだろうか。
 旧華族出身のW4は春日井に処刑されることもなく、警察関係の身分剥奪だけで、それ以上の咎めはないから安心して欲しい、と九条は手紙に書いていたが、杏たちを安心させるためだとしたら。
 軍の拷問は、それはもう過酷だと聞く。耐えられず自殺する者も多いとか。
 剛田の返事を聞かないことには現状も知り様がないのだが、それでも心配していた杏だった。


 翌々日の正午。
 やっと剛田がE4に姿を見せた。
 杏は何故か、気が気ではなかった。
 剛田が顔を出すなり、廊下に引っ張っていく。
「どうだった?」
「まず九条に会ってきた。今は金沢で知人の家に厄介になっているそうだ」
「安室の件があるから?」
「今じゃクーデター首謀と見做されているから、毛利市には行きづらいのだろう」
「他の4人は?」
「居所が掴めない。いるとすれば刑務所のはずなんだが、名前が無い」
「九条さん、どうするって?」
「W4の皆が生きていると信じたいから、今はまだどこにも属したくないそうだ」
 
 ちょっぴり残念な思いを抱く杏。
 九条に興味があるのは確かだったから。

「五十嵐。今はこれくらいにしてくれ。北斗に行ってもらわねばならん案件ができた」
 剛田は杏の肩をポンポンと叩いて、そこから離れE4のドアを開ける。
 室内にはいるなり、活字オンラインを読んでいた北斗の名を呼ぶ。
「北斗。早速だが出番だ。中華系の料理専門学校があるのだが、裏に中華系のマフィアが関わって覚醒剤やらを扱っているらしい。どうだ、行ってくれるか」
 北斗が剛田の前に走ってくる。
「承知しました。で、いつから」
「職員採用の面接があるそうだ。それからになる」
「了解」
「表向きは学校だが、敷地内で大麻を栽培したり、輸入した覚醒剤を溜めておく部屋があると聞く。そこを探るのが今回の仕事だ」
「はい」
「ところでお前、料理は得意か」
「男の一人暮らしですからね、料理には自信あります」
「万が一だが、調理師免許はこれからとる予定だとでも言っとけ。食品衛生責任者養成講習くらいなら、都道府県の講習で済むのだろうから」

 北斗は、明日からの任務に備え、バグやビートルと挨拶を交わしたのち、E4を後にした。専門学校や調理人などを勉強するため、本屋に寄って帰るという。
 剛田が安心したといった風体で椅子に腰かける。
「あいつは本当に真面目だな」
 設楽が剛田の視界に飛び込んだ。
「僕も真面目ですよ」
 剛田は上目遣いに設楽を見る。
「今回はバグやビートルも配置する。バグたちは夜も残って敷地内で証拠を探ってもらう予定だ、で、お前か八朔にバグたちが見た様子を解析してもらう。2人交代で、徹夜で監視しろ」
「うげっ、チーフより人遣い荒いですよ」
「うだうだ言う前に準備しろ」

 剛田と北斗の会話も、設楽との会話も耳に入らず、杏はW4のことを考えていた。
 もし、皆が生きていたとしても、警察官としての身分は剥奪された。W4としてこれからも一緒に仕事をすることはできない。
 万が一亡くなっていたと仮定するなら、組織上、九条は一人ぼっちになってしまう。
 究極として、名前を変えて生きている可能性はある。それなら、身分の剥奪も関係ないから一緒に仕事ができるだろう。
 氏名を変えることを華族会が許すかどうかわからないが。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 一方の北斗は、食品衛生責任者養成講習を受けるための準備に、活字オンラインを購入した。何も勉強せずに入り込んでもいいのだが、ここはあくまで心証をよくするために。
 もう一冊、中華料理の本も買いこんだ。日本の中華料理と本場のそれは、全然違うだろうが。見てないよりはいいだろう。
 
 日本の反社会勢力、所謂ところの暴力団は、近頃ではおれおれ詐欺の大元や覚醒剤等の売り込みで生計を立てていると聞く。それは昔から変わりのない構図なのかもしれないが。
 中華国のマフィアもそんなところだろうが、中華国圏内ならそれなりに人口も多いし、何も日本に来てまで、と思う。
 どうやら、原住民族が売り込んでいるにも拘らず、土地を占領しているゲルマン民族やアラブ民族はそういったものを別民族からは買わないらしい。
 どこからでも買うのは、平和ボケしている日本自治国の国民だけ。島国故に、周囲が見えてなく、すぐ騙される。
 今や日本では、住宅地のど真ん中で一般人が覚醒剤を購入しているのだとか。バイヤーは、ほとんどが中華国の息が掛かった人間ばかりだ。

 今度の任務も、もしかしたら麻取と呼ばれる厚生省の人間が囮捜査を始めているかもしれない。警察府が合法的に囮捜査を行えずE4に丸投げするのとは対照的に、麻薬取締官は、合法的に囮捜査を行うことができる。
 警察府と厚生省は、どちらが元締めをあげるかどうかでせめぎ合いだ。勝ち負けの世界と化している。
 今回も麻取であげてくれるなら、別に構わないと北斗は思っている。悔しさなど、囮捜査には何も関係ない。
 ただ単に、誰がミッションをクリアするか、それだけの話。
  
 職員採用面接は3日後。
 北斗はある程度の知識を頭に叩き込まねばならない。
 E4には顔を出さず、活字オンラインとにらめっこの毎日だった。

 面接の日がやってきた。
 背広にネクタイを締め、アパルトモンを出る。
 以前隣に住んでいた警備員の男性は、北斗誘拐事件のあと、消えた。FL教に拉致されたのか、自分から出て行ったのかは知らない。
 誘拐に加担したのが怖くなったのかもしれない。
 今は、同年齢くらいの女性が住んでいるようだった。なぜ知ったかと言えば、化粧品や香水の臭い。お世辞にも良い香りとは言えなかった。香水もふりすぎ。
 でも、本心はなかなかどうして、言ったらセクハラ扱いされるかもしれない。いや、痴漢扱いもあり得る。やはり、口出しはやめておこう。

 今日は雨。いくらか土の臭いが立ち込めている。女性の香水の香りはほとんど消えていた。
 傘をさして専門学校まで歩いた北斗。家からちょうど20分。近いところにあって良かった。
 面接の為に事務室を探す。
 生徒用の玄関はあるのだが、どこが事務室の入り口か分らない。
 困っていた北斗に、女神が現れた。
 
 2年前、いつもE4に花を活けてくれていた女性だった。
 設楽と八朔がNシステムを引き伸ばし、紗輝の車に同乗していたので、顔を覚えていた。
「あの・・・事務室がどこかわかりますか」
「事務室でしたら、反対側になります」
「ありがとうございます」
 彼女から香ってきたのは花の匂い。今も花屋さんを続けているのか。こんな場所まで大変だな、というのが印象に残った。学校辺りでも生け花は必須なのだろう。
 今日、紗輝は一緒ではないのだろうか。
 聞こうとしたが止めた。プライベートを覗くような気がして。

 事務室をようやく見つけ面接会場に赴いた。
 職員としての業務はどちらかといえば用務員的な仕事で、校舎内外の清掃、草むしりやゴミ出しといった内容。
 北斗は内心ほっとした。
 警備員を辞めた理由を聞かれたが、昼に仕事をしたいとお茶を濁した。

 採用はその場で決まり、3日後から出勤することになった。
 よし。
 第一段階クリア。
 校舎内外の掃除をすると聞いて、内偵の仕事がやり易いと踏んだ北斗。
 今回は通勤なのでE4への連絡が取り易いことも幸運には違いなかった。

 校舎内外を他のスタッフとともに清掃する日々が続く。
 傍らにカメレオンモードのバグとビートルを侍らせて。
 ニューバージョンのバグたちには、録音及び撮影機能が付随されていた。
 その中で北斗は、何がしかの証言を得ようとしていた。

 証言の相手は、一緒に掃除をするスタッフが主だった。
「ここの敷地は広いですよね、学校とは思えない」
「色々栽培してるからな」
「料理用の野菜とかですか?」
「まあ、そんなところだ」
 ということは、その中に大麻があってもおかしくはない。北斗はそれ以上の追及を止め、清掃に精を出す。
 何事も焦ってはいけない。炙り出すためには、時間を必要とする。

 別の日には、開かずの部屋があるらしいとも聞いた。
「校内の実習室も充実してますね、何部屋もある」
「ああ、でも中には開かずの間があるって聞いたぜ」
「開かずの間?」
「俺達が掃除できない部屋があるんだとさ」
「へえ、なんだろう」
 北斗は、輸入した覚醒剤を溜めておく部屋だと当たりを付けた。場所を知りたかったが、このスタッフが知っているとは限らない。まして、聞きたがりは往々にして墓穴を掘りかねなかった。
 自分で校内を歩きながら、北斗は場所の特定を急ぐことにした。
 バグとビートルは、一日中カメレオンモードで北斗のあとをついて回るほか、北斗が家に戻る夕方から早朝に掛けては校舎外で異物がある場合や声がした場合、撮影及び録音に携わっていた。

 そんなある日のこと。昼休み、北斗は庁舎内を散歩していた。
 また、花屋の女性が校舎内にいるのを見つけ、思わず独り言が口を吐いて出た。
「あ、あれ」
 バグが北斗の独り言に気付いて声を掛ける。
「ホクト、ドウシタノ」
「紗輝の彼女」
「エーーーーーーーーーッ」
「騒ぐな」
「シャシントローット」
 バグやビートルは興味津々で女性の写真を撮る。
「学校内で花を活けてるんだろ、きっと」
「サキハ?」
「いないみたい」
 バグが足をバタバタさせる。
「ナンダ、ザンネン」

 その晩、家に着いた北斗はE4にいる杏に当てて電話した。
「チーフ。大麻の製造はまず間違いありません。広い敷地ですから、野菜と一緒くたにして栽培しているようです」
「そうか、他に何か収穫はあったか」
「開かずの間があるんだとか。たぶん、覚醒剤の隠し場所でしょう」
「わかった。怪しまれないよう引き続き頼むぞ」
「了解です」

 半月後、ビートルの録音機能にヒットした音声があった。設楽が監視していた夜間の時間帯だった。普通なら、もう学校には誰もいない。校舎内は機械警備の設備があったが、校舎外には設備がない。それでバグたちも容易に動けたのではあるが。E4側にとってはラッキーなザル設備だった。

 ビートルが録音した音声は途切れ途切れだったが、少なくとも男性2名、女性1名がいたという事実を示していた。
(海兵隊・・・)
(本国・・・)
(新潟・・海岸・・)

 会話は日本語ではなかったが、設楽が翻訳機に突っ込むとその単語がヒットした。
 その日は杏もE4に残り、設楽たちとともにバグやビートルの動きを監視していた。
「設楽、八朔。あの学校はどこが出資しているのか洗え。マフィアというよりも中華国本国かもしれん」
 設楽はすぐに口答えする。
「えー、今ですら24時間営業なのに、仕事増やすつもりですか、チーフ」
 杏は呆れかえって物が言えない。
「お前たちは普段遊んでるだろうが。仕事がある時ぐらいちゃっちゃと稼げ」
 横を向いてぼそぼそと口答えをする設楽。
「北斗だって同じじゃないですか。仕事ないときはバグたちと遊んでばかりいますよ」

 杏が設楽の耳を上に引っ張り上げる。
 痛さのあまり、ごめんなさいを言い続ける設楽。
「北斗はバグたちの寝床まで掃除してるぞ。お前が文句言える相手じゃない。なんなら、これからはお前が専門学校に潜入するか?」

 設楽は心の底から北斗に謝り、そのままIT室で24時間営業することになった。
 それに伴い、杏は設楽と八朔に命じ新潟市海岸沿いの定点カメラを重点的にマークし国籍不明の船舶がいないかどうか確かめさせた。
 今はまだ、そのような船舶は見つからなかった。
 今、日本にいるとは限らない。これから日本にくる船から覚醒剤を受け取る可能性もある。または偽装しているかもしれない。
 杏の指示も段々声が大きくなっていく。
「日本船舶に化けてる可能性もある。二人とも気を抜くな」

 それから1か月。北斗は毎日の清掃を重ねるにつれ、学内で一カ所だけ毎回通り過ぎる部屋があることに気が付いた。
 知らないふりをして、清掃スタッフに聞く。
「あれ、ここは掃除しなくていいんですか」
「ここはいいんだ、いつも施錠してあるし。俺たちの鍵じゃ開かない」
「そうなんすか」
 
 大凡の部屋の目星はついた。
 あとは、大麻栽培の場所である。昼休みに、ぶらりと校舎を出た北斗は、野菜栽培のコーナーへと足を向けた。
 ビニールハウス形式の野菜栽培コーナーは、全部入口に野菜の名前が記されていた。
 その中でひとつだけ、名前の無いビニールハウスがあった。

 ここだ。北斗の直感が働く。
「バグ、写真を撮ってくれ」
「アイヨー」
「大体の場所がわかるように、もっと引いたところからもお願いするよ」
「ハイハーイ」

 その時後ろから声がした。
「キミ、何を呟いているんだ、まるで会話しているみたいに」
 声のした方向を振り返る。
 相手は、どうやら教師のようだった。
「あ、いえ、これだけ広い栽培室で、何が栽培されているのか興味がありまして」
 相手はかなり訝っていたようだが、北斗が野菜の名前を続けざまに出したことで、ハウス内に一緒に立ち入って説明してくれた。
 無論、疑義のあるハウスには立ち入りもしなかったが。

 内心ばれたかと思った北斗だったが、教師らしき人物はそのまま校舎の方に歩いて立ち去った。
 辺りに人影は無くなった。もう一度周囲を見回して、誰もいないのを確認する。
「ふう、ばれたかと思った」
 バグが北斗に注意する。
「ホクト。カイワキンシ」
「そうだな、これからは気を付けないと」
「クチブエフイタラシャシンサツエイシテアゲル」
「マンマエトジャッカンヒイタトコロカラサツエイスルネ」
「ありがとう」

 翌週、北斗はまた例の開かずの間近辺を清掃することになった。清掃はスタッフ2名がペアを組んで行うが、その日、相棒のスタッフは風邪で休んでいた。せっせと掃除しながらも、部屋のことが気になる。
 北斗は、鍵の掛けられている部屋を、間違えたふりをして手持ちの鍵で開けようとした。やはり開かない。
 すると、北斗は部屋の前に佇んだまま、短い口笛を1回吹いた。


 やはり、ここは覚醒剤を隠している部屋に違いない。たぶん、夜間に事を進めているのだろう。夜間、僕はここにいない。
 バグかビートルが外からこの部屋の写真を撮ったところで、中まではとることが出来ないだろう。どうにかして中を撮る方法がないものか。
 そう思いながら、北斗はしばし部屋の前から離れなかった。

 その様子を、廊下の影から見つめる怪しい影にも気付かず。

 その日の夕方、清掃や草むしりのルーチン業務を終えて休憩所にいた北斗を呼び止めた人物がいた。
 先日の教師だった。
「ちょっときてほしいんだが」
「仕事ですか」
「そんなところだ」
 講堂裏に連れて行かれた北斗。そこには4人の教師らしき人物が立っている。
 北斗は、何か不穏な空気が流れているなと感じた。バグとビートルも後ろをついて来ているはずだが。

 と、急に北斗の腹を蹴る教師たち。
「お前、一体何をしている」
 あくまで知らぬふりをする北斗。
「仰る意味が解りません」
 北斗の胸ぐらを掴む教師もいた。
「なぜあのビニールハウスやあの部屋を気にする」
「どちらにも名前が無くて。ビニールハウスは草むしりもしてないようですし」
「じゃあ、鍵で開けようとしたあの部屋のことはどう言い訳する」
「いつも一緒にいるスタッフさんが開け閉めをするので、間違えて鍵を差しただけです」
 何分続いたろうか、北斗を殴る蹴るの暴行。
 北斗は黙って受け入れていたが、急に教師が引きずられて後ろに飛ばされた。全員、投げ飛ばされたように周りからいなくなった。
 どうも、カメレオンモードのバグとビートルが怒って教師たちを投げ飛ばしたらしい。

 ビートルは北斗を背に乗せると、スピードを上げてその場から立ち去った。バグもついて来ていた。

 帰宅した北斗は直ぐ杏に電話し、潜入・調査していることが教師たちの一部にばれて、講堂裏にて暴行を加えられたことを報告した。
 バグやビートルが怒ってカメレオンモードのまま相手を投げ飛ばし、北斗を連れて逃げたことも。
 杏がくすっと笑う。
「お前が暴力を振るわれて見ていられなかったか。あいつらはお前のことが大好きだから」
「明日から針のむしろですね」
「何とでもなるさ、成り行きに任せろ」

 翌日の朝。
 北斗が学校に出勤しようと身支度を整えている時だった。家の電話が鳴る。番号登録していない相手。
 朝っぱらから誰だろうと不審に思う北斗だったが、一応出てみることにした。

 電話の相手は、専門学校の校長だった。何を言われるのか緊張した北斗。
「あなたを昨日付けで解雇しました。もう来ないでよろしい」
 昨日の今日で、何という対応の速さ。北斗は食い下がる。
「どうしてですか。急に解雇するのは法律で禁止されています」
「理由はわかっているはずだ」
「告訴する権利が私にはあります」
 相手の声は、1オクターブ下がった。
「そんなことをしたら、命が無いものと思え」
 
 ガチャン!
 物凄い音で電話は切れた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 北斗はE4に戻ることになった。
 アパルトモンを出て、周囲に気を配る。
 どうやら、誰かが自分を見ている気配はない。

 そこからタクシーを拾い、一旦ESSSのビルに入り、地下通路を使ってE4に行く。
 地下2階にはいつもならバグとビートルがいるが、今日は2機ともあの学校に仕事に行っている。
 今回の任務は失敗に終わった。
 どこが悪かったのかは自分でもわかっているつもりだった。

 焦りすぎ。その一言に尽きる。

 たらればを言っても仕方ない。
 あの学校から出回る覚醒剤のルートを解き明かすまでが今回の任務だった。
 悔しい。情けない。
 
 やや沈痛な面持ちでE4のドアを開ける北斗。
「おはようございます」
 剛田が出勤していた。
 その前まで進み出ると、北斗は頭を下げた。
「室長、すみません。クビになってしまいました」
 剛田は机の上で掌を組んでいた。
「しかたあるまい」
「情けないです、何もできなかった」
「また機会はある。覚醒剤密売においては、売買ルートから炙り出す線もある」
「そちらに回していただけますか」
 剛田は組んでいた掌を口元に持っていく。
「お前は顔が知られてしまった。今回はもう休め」
「すみません」
「バグとビートルを飛ばして教師たちの映像を送らせる。どいつがお前を殴ったか、あとで確認してくれ」
「というと?」
 剛田は真剣な顔を崩さない。
「あの部屋に興味を持たれたくない人間の顔を知っておきたい」
「あ」
「そうだ。たぶん、そいつらは密売に関与しているはずだ」

 北斗は頭を下げた。
「本当に申し訳ないです。すみませんでした」
「お前に危害が及ぶことが一番気がかりだからな、これでいいんだ」

 その日の午後。
 IT室に篭っていた八朔が何枚かの写真を持ってきた。
「この中に北斗さんを殴った野郎はいますか?」
 じっと見る。
 写真は7~8人の男性。

「あ、この人」

 北斗に声を掛け、ビニールハウスを案内し、殴るときにも声を掛けてきた人物。
「確か、教員だと思うんだけど」
「こいつは中華系の覚醒剤バイヤーなんですよ」
「そうなの?」
「他にはいますか」

 北斗はなおも写真を見つめたが、残念ながらあの時北斗を殴った男たちは見つからなかった。
「いないようだね」
「そうですか、じゃ、もう少しバグたちに当たらせますから待っていてください」

 自己嫌悪に陥る北斗。
 バグたちの方が余程働いている。

 ここで待つしかないのだろうか。
 自分が出来ることが何かないだろうか。

 北斗は覚悟を決めて、珈琲を飲んでいる剛田に話しかける。
「室長。何か僕にできることはないですか。ここで待つしかないのでしょうか」
「焦るな。今、あの学校内にいる教師たちを洗っている。何名かバイヤーがいるはずだ。たぶんお前を襲った奴らがバイヤーだ」
「では、それらが見つかったら、何かすることはありませんか」
「面が割れている以上、お前に出来ることはない。少し休め」
「はい・・・」

 北斗は猫のように身を丸めて歩き出す。
 ソファに座っていた杏が北斗の背中を叩いた。
「あたしたちが仇とってあげるから。木の船に乗ったつもりで待ってなさい」
 不破が脇から口を出す。
「チーフの乗ってるのは、泥船だぞ。北斗、気を付けろよ」
「何よ不破。何か言った?」
「別に何も。それより、北斗は出歩いて大丈夫なんですか、室長」
「アパルトモンはばれている可能性も否めないからな。暫くここに寝泊まりするといい」
「ばれているでしょうか」
「告訴したら殺すと言われたんだろう?」
「はい」
「ただの恫喝ではあるまい」

 アパルトモンに帰ることも許されず、バグたちと遊ぶ時間もなく、落ちこみながら活字オンラインを見る毎日になるようだ。自分に対して情けなさが募る北斗。
「北斗、射撃練習でもしないか」
 不破の誘いにも興味は出なかったが、こんな時こそ一心不乱になるべきだと、不破は北斗を地下の射撃練習場に無理矢理連れて行く。
 心乱れているせいか、北斗の出来は散々だった。
 こんなときなんだから、ほっといてくれよ、と益々落ち込む北斗。
 不破はまるで北斗の心の中を見透かしたように頭をぽんぽんと叩く。
「どんな時でも、どんな場面でも、僕たちは絶対に敵を倒さなくちゃいけない。北斗の命中率があがるまでここに拉致するから」
 
 そういって、半ば強制的に射撃練習は続けられた。


 三日後。北斗は漸く少しだけ自信を取戻し、射撃の成果も出てき始めた。
 不破からも解放してもらい、49階のE4室内で北斗は活字オンラインを見ていた。
 そこにまた八朔が現れた。そして、何枚かの写真を北斗に見せた。
「北斗さん、これ」
「あ、写真ね。どれ、あ、こいつとこいつ。こいつもだ」
 IT室から八朔に付いて来た杏が北斗の背中を叩く。
「ほとんど見つけたじゃない。成敗しに行きましょうよ」
 北斗は一瞬、目を丸くした。
「僕がですか?」
「やあねえ、成敗するのは、あ・た・し」
 おーっほっほっほと不気味に笑う杏。
 その声に不安な物を感じ取ったのか、剛田がこめかみを押さえながら、席を外し廊下に出た。

 途端に杏の言葉遣いが変わる。
「おい、北斗。危ない橋だが渡るか?」
「はい、僕に出来ることなら」
「取引成功だな。今日の夜辺り、こいつらが出回りそうな辺りを散歩するとしよう」

 剛田は定時に席を立ち、帰って行った。E4回線を遮断し、一言だけダイレクトメモを杏に送る。
(やりすぎるなよ)
 杏はその後ろ姿をバイバイと手を振りながら見送ると、北斗の方を見る。
「作戦決行」
 それを聞いた不破が杏を否す。
「北斗に危ない真似させる気か?」
 杏は物ともしない。
「私が1人で歩いててもこいつらが寄ってくるかわからんだろうが。北斗なら、もしかしたら覚醒剤漬けにできるかもと思って寄ってくるはずだ。先日も北斗はやられっ放しだったからな」
「あの時はあれしかできなかったんですよ、対抗して喧嘩したら腕の一本も折りかねなかったし」
「それはそうだ。お前の体術は西藤仕込みだからなあ」
 西藤が嬉しそうに寄ってきた。
「みんなで北斗を囲んでいきませんか」
 不破は、こめかみを押さえている。
「あー、もうこうなったら、みんなでついて行って取り押さえるしかないだろ」
 杏が倖田の方を向いて誘う。
「倖田、お前も来るか」
「狙撃じゃないなら・・・と思うんですが、何か楽しそうですね。行きます」


 夜8時。北斗が1人、住宅街を歩いていた。
 近くに電話ボックスがある。電灯が寿命のようで、チカチカと光が交差している。
  
 北斗が電話ボックスを通り過ぎようとした時だった。
 専門学校のあの教師らしき人物が、ボックスの陰からぬっと顔を出した。
 そして、驚く北斗の右腕を引っ張った。
 その先に見えたのは、注射器。
 
 なるほど。絡繰りが見えた。
 最初にこうして覚醒剤を注射し、禁断症状が出てくる頃合いを見計らって袋入りの覚醒剤を売るというわけだ。

「あっ」
 
 北斗は叫び声をあげようとした。
 相手は、そうさせまいと北斗の後ろ側に回った。

 瞬間。
 注射器は地面に叩き落とされ、相手の腕は捻じ曲がる。
 そして、うめき声にも似た悲鳴が上がった。
 サイレンサーのついた銃から発射された弾が、相手の右掌を貫通したのだ。

 身体を捩(よじ)りながら泣き呻(わめ)く男。

「はい、一丁あがり」
 カメレオンモードで姿を隠していた杏が、男を見下してハイヒールのまま蹴り上げると、北斗がにっこりと笑った。
 所轄に連絡した北斗は、その場を立ち去った。警察に見つかると五月蝿いから。

 
 こうして、毎日のように散歩する北斗だったが、そうそうバイヤーに出くわすものではない。
 確かに出没場所として警察府もマークしている場所なのだが、1人が逮捕されたとなると、バイヤーも臆するらしい。


 そして、先日は北斗が相手を撃ったわけではなかったので、余計に詮索する機会を与えてしまったようだ。
 それは、中華系のバイヤーが如何に情報交換をしているかを意味する。

 今晩もまた空振りに終わり、E4に戻った杏たち。
「やっぱりまずかったか、この方法は」
 不破が激しく頷いている。
「私が1人で歩いたらどうだろう」
「絶対に寄ってきません」
「どうしてだ」
「チーフは殺気がムンムンしてます」
「なら、淑やかに振舞えばいいさ」

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇ 

 北斗を前面に押し出して、はや1ケ月。
 ついに再会の時が来た。
 さすがに相手も考えたもので、全員そろって北斗を迎えにやってきた。
 3人のバイヤーが全員で注射器を持って、とにかく北斗を覚醒剤漬けにしてしまおうという荒業。
 
 これには杏たちも驚いた。
 覚醒剤バイヤーさまご一行など見たこともない。
 たぶん、北斗の隣に1人、透明人間なる者がいるとだけ思っていたのだろう。
 全員が北斗目掛けて雪崩をうつ。

 杏、不破、西藤が1人ずつお相手し、まず相手から注射器を叩き落とした。
 そこまでは良かった。

 なんと、バイヤーの一人が、北斗を盾にナイフを構えてきた。

「あら、どうしましょ」
 杏はカメレオンモードを解いて姿を現した。
 他の3人も次々とカメレオンモードを解く。
 不破が至って真面目な顔をする。
「困りましたねえ」
「ほんと、困ったわ」
 目が本気の倖田。見かけだけならヤクザと変わりない。
「どうします」
「そうねえ」

 相手は、もう必死のようで、北斗を人質に取る者あり、また注射器を持つ者あり、カメレオンモードを目の当たりにし腰砕けになる者あり。
 3者3様である。

「さて、そろそろね」
「そろそろですね」

 のらりくらりとする杏たち。
 相手は、こいつがどうなってもいいのかと夜の住宅街で叫ぶ。
「うるさーい。静かにして」
 杏が言ったその時。
 北斗は左ひじをガツンと相手のみぞおちに入れ、少し距離をとったところで、相手の襟を取り、背負い投げを披露した。
「あら、すごーい」

 杏の声とともに、他の3人が動き出す。
 不破は注射器を持った男にかかと落としを決め注射器を振り落とし、西藤は腹に4,5発パンチを入れ、杏は回し蹴りで相手を追い込んだ。
 それを見た倖田が相手の右掌を至近距離から銃で撃ち貫通させる。

「コイツ、ただのひ弱人間じゃなかったのか」
「お前ら一体何者なんだ」
 全員が警察の御厄介になるまいと逃げだす構えを見せるが、最後に倖田が愛用のサイレンサー付き拳銃で1人ずつ足首を撃つ。これで相手は逃げられない状況に陥った。

 杏は高らかに笑い、負傷した相手3人の足をハイヒールで踏みつけた。

第4章  ピースエンフォースメント

W4のメンバー。
 一条芳樹(いちじょうよしき)、三条卓(さんじょうたくみ)、四條正宗(しじょうまさむね)、六条詩織(ろくじょうしおり)、九条尚志(くじょうひさし)。

 剛田はまず、刑務所に足を運んだ。九条を除いた4人の名前は揃いも揃って無かった。WSSSにも出向いた。警察官としての身分を剥奪された証拠だけはサーバーに残っていた。
 警察府管轄のWSSSでは埒が明かないと踏んだ剛田は、その足で毛利市役所を訪れた。一条たちの戸籍を調べる。皆、特に変化はない。
 本当に生きているのかいないのか、それだけわかれば十分なのだが。
 と、市役所の中で九条を見かけた。
 おや?と首を傾げる剛田。彼は金沢市にいたはずだが。

 静かにその方向に足を向け、俯いて椅子に座っている九条に声を掛けた剛田。
「九条くん。何か調べに来たのか」
 一瞬驚いたように、九条は剛田を見つめる。
「私はE4の剛田だ。W4の他の人たちの行方を追っている」

 安心したように、それでいて哀しみを引き摺ったような九条の表情。
「何かわかったんだな」
 剛田の質問に、軽く頷いて淡々と答える九条。
「皆、命は無事でした。ただ」
 剛田が聞き返す。
「ただ?」
「陸軍に放り込まれて激しい拷問を受けたそうです」
「もしかしたら、春日井の命令で」
「そのようです。一条と三条は、四肢に異常もなく今は金沢でリハビリしています」
 あとの2人はどうしたのか。剛田は読めたような気がした。
「四條君と六条君は」
「四條は拷問の際に脊髄を痛め車椅子生活になりました。六条は辞めたいとだけ話があり、それ以上は何も告げません」
 剛田も九条も、何かを察しているようだった。
「何か相当な理由があったのだと僕は推測しています」
「そうか」
「2人からは、もうW4では活動できないと連絡がありました。WSSSからは何も指示がありません」

 剛田は、九条の肩を何度か優しく叩きながら立ち上がった。
「何かあったらE4に顔を出してくれ」
「ありがとうございます」

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 西暦2122年。
 第3次世界大戦が終結し日本自治国が生まれて32年を迎えるこの年。

 今まで移民受け入れを拒否してきた日本自治国。
 永世中立国だったにも関わらず、戦争終結直前に再び核の嵐が吹き抜けたことから、日本自治国として、移民を受け入れない政策をとり続け、世界もそれを許容し続けてきた。
 
 しかし、世の中は変化していくものであると言わねばなるまい。

 八朔がバタバタと廊下を走ってE4室内に入ってきた。
「モ、モニター」
 お定まりで、何かビッグニュースがあると八朔は走る。

 西藤がモニターの電源を入れると、そこに映っていたのは槇野首相と中華国の李余暉(リ・ヨギ)首相。両者にこやかに握手をしていた。
 やや掠れ声の女子アナがニュースを読み上げている。
「・・・中華国の李余暉首相は、槇野首相に対し移民推進政策を速やかに実行するよう要望したということです・・・繰り返します・・・」
 槇野首相に中華国から政策強制執行の強い要望があったというダイナマイトニュース。
 それは日中首脳会談での出来事だった。
 2年前の朝鮮半島移民政策の中華国版。
 地球政府や国際協議会では日本自治国への移民を殊更推進してはいなかったが、朝鮮国と中華国の内政は衰退の一途を辿っており、両国は国民の目を誤魔化すため、外政に力を入れはじめていた。

 その一端を担ったのが、日本自治国への移民推進計画だった。

 中華国では、西~南西及び北東部では地震が相次ぎ住める状態ではない上に、ゲルマン民族やアラブ民族が大移動し中華国や朝鮮半島をほぼ占領することになった結果、現時点で中華国は国土の4分の3が多民族の棲家と化していた。

 日本自治国への移民政策を強硬に主張する中華国は、日中首脳会談という公の場で、現首相に猛烈にプッシュしてきたのである。

 日本自治国内では、当然のように反対の立場をとる政治家が演説を繰り返し、移民推進計画の阻止を訴えていた。
 そうはいっても、首相会談の決定を覆すには、それ相応の理由が必要だった。
 日本自治国が移民を拒む理由は、戦争参加していないにも関わらず、核ミサイルを何発も打ち込まれたこと。天災が重なり居住できる土地の約3分の2を失ったこと。
 十分すぎるくらい説得力のある理由ではあるのだが、中華国はそれでも日本自治国の現状を認めようとはしなかった。

 毎日のようにテレビでも活字オンラインでもこの話題が繰り返され、国民の関心を呼んでいた。
 いつもは世の中に興味を示さないE4でも、トピックとしての議論は尽きない。
 設楽はあまりニュースを信じていないようだ。
「ほんとにやらかすんですかね」
 西藤が珍しく設楽のお喋りに付き合っている。
「でも、両国首脳の会議で決まったことだろう、いつかはやるんじゃないか」
 北斗は以前中華系の学校で用務員的なことをしていたが、その時にはこういった話を一切耳にしたことはないという。
「まあ、一応学校の体裁がありますから政治的なことは話さないでしょうけど」

 杏は腰に下げた拳銃を弄りながら、2年間の逃亡生活を思い出していた。
 ホテルの窓からしか眺められなかった海。
 午前11時にチェックアウトしてから、ホテルのロビーや展望室で時間を稼ぎ、3時になると真っ先にチェックインした。ホテルのロビーから日本陸軍の制服を垣間見た時もあった。
 あの時ばかりは、流石に、生きた心地がしなかった。

「2年前に安室と壬生が朝鮮半島から移民を受け入れていたら、今頃どうなっていたのか知りたいものだな」
 そう杏が呟くと、設楽がもっともらしい目つきで杏を見る。
「春日井はもっと早く総理の座を追われたんじゃないすか」
「そうか?ガチンコになったらどっちが強かったんだか」
「その前に、2年前の移民イコール日本人総電脳化だったじゃないですか。今頃FL教が町中闊歩してますよ」
 
 なるほど、それはそうだと杏も気付いた。
 日本人が総電脳化されて、危ない新興宗教が街を覆い尽くす場面を思い描く。
 それを踏まえれば、中華国相手の方がまだマシかもしれない。

 2年前に安室元内閣府長官と壬生内閣府長官が日本自治国総電脳化計画と朝鮮半島移民政策を、時の春日井総理を押し切る形で進めたが、最終的にその計画は頓挫した。
 安室が自爆に等しい行動をとったからこそ、麻原や壬生は暗殺され、安室は逮捕された。あのトライアングルが正常に機能していれば、電脳汚染に始まるクーデターは見事に奏功し、春日井をこの国の頂点から引きずりおろしたことだろう。
 
 とはいえ、日本国民は電脳汚染の脅威を思い知らされたわけではなかった。警察の取り調べ段階で、FL教幹部からそのような世迷言は口を吐いて出ただろうが、警察からの発表に電脳汚染の4文字は含まれていなかった。

 国民はいつも大きな情報に蓋をされて生きている。
 
 移民推進計画の話題を皆に振るのはいつでも設楽。
「こないだ安室の計画を潰したばかりじゃないですか」
 八朔がこれに続くのもいつものシチュエーション。
「あれから2年経ちますからね、槇野総理はどっち寄りなんです?」
 設楽は本当に政治を知っているのか分らない発言をする。
「マイクロヒューマノイドの政策しか知りませんよ」
 北斗は大人しめに自分の意見を言う。
「内政が落ち着いていれば、支持率は落ちないだろうから」
 西藤が重い口を開いた。
「結構ヨワカスなのかも」
 倖田は西藤の言葉が理解できないらしい。
「ヨワカス?」
「ビビリ屋といえば早いかな」
 不破が最後に皆を脅す。
「軍に捕まるぞ」
 皆一斉に口を閉じた。
「勘弁してください」
 

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
 
 日中首脳会談から半年を数えたある朝のこと。
 街中では、号外が溢れかえっていた。

「槇野総理、方向性を転化。移民計画推進へ」

 街角では、号外を受け取り、立ち止まって目を通す人が少なくなかった。
 杏はたまたま号外を受け取ったものの、立ち止まるまではいかない。
 E4に号外を持っていくと、剛田を除いた全員が号外を受け取っていた。

 あとから出勤してきた剛田が皆を呼び寄せる。
「電脳を使え」
 北斗を除いた各々が、耳たぶ部分についているアクセサリーを1回、強く押した。イヤホン型の線がアクセサリーから伸びる。その線を耳の鼓膜に押し当てるという、初期型の電脳線。
 最新式に取り換えている八朔や設楽は電脳線を小脳に繋ぐパターンで線が伸びてくる。それを耳に押し当てるわけだが、どちらも同じような構造なので、特に違いは見受けられない。
 剛田が皆を見回した。
(号外は見たな)
 設楽が応答する。
(はい、見ました。移民計画を推進するということは、そういうことですよね)
(そうだ。ただし、中華国に暮らすゲルマン民族だけを対象としている)
 八朔が首を捻る。
(どうしてゲルマン民族だけなんですか)
 剛田はしかめっ面になる。剛田は、もう少し勉強しろとでも言いたげに八朔を見た。
 不破はこのような時、一番冷静だ。
(移民が来るとして、どこで引き受けるんですか、まさか山の中とはいかないでしょうし)
(ここからは外部に漏らすな。毛利市近郊に居住区を設けるということだ。そして一番厄介なのが、移入民族総電脳化だ)

「えっ」

 設楽は思わず声を上げていた。
 剛田は構わず続ける。
(そうだ、日本にいるゲルマン民族は死ねば席が空くということだ。そうすれば、空いた席の分、移民を受け入れることになる)
 杏も思わず腕組みを解いていた。
(なるほど、中華国から一定数、毎年のように受け入れが可能ということね)

 西藤は普段このような場面で口を出さない方だが、よほど驚いたケースのようだ。以前の日本人総電脳化計画でも驚いた態度は見せなかったというのに。
(電脳化したゲルマン民族は監視対象になるのでは?日本人の計画時もそんな話ありましたよね)
 剛田が杏を睨みながら西藤の問いに答えた。
(脳監視を実施するのは確定だろう。WSSSでやるだろうからE4には関係ないが)

 倖田は、ただ黙って聞いていた。色々と思うところはあるのだろうが、考えなしにモノをいう男ではない。

 不破も段々眉をひそめてステキ顔をパーにする。
(実際、どれだけのゲルマン民族が海を渡ってきますかね)
(それもわからん。第1次移民計画、第2次、第3次と続くらしい)
(もう居住区は建設されているんですか)
(まだだ。核の犠牲になった日本を色眼鏡で見ている外国人は多いからな)

 杏はひとり電脳を外し、号外に目を通した。
 総理が外圧に耐え切れず、移民を受け入れる方向性に転化した。いままで移民を受け入れてこなかった国民は激しいデモを繰り広げると予想される、とある。
 そして、中には移入民族を奴隷化しようという運動が起きる可能性がある、と結んでいた。

 北斗が杏に向かって電脳で何を話したかと杏に問う。
 実は、声はあげてみたものの、ほとんど話を聞いていなかった杏。
「ゲルマン民族を移民させる条件として、皆電脳化するらしい」
「自分たちの時代で血が途切れることを知って、日本に来ますかね」
「老人や、子どもが欲しくない人は来るだろうさ。割合はわからないが。あとは、放射線が怖い人はこないだろうな」
「何人くらい来るでしょう」
「わからない。条件をオールクリアするゲルマン民族がどれくらいいるのか、それはそれで楽しみじゃないか」

 翌日から、予想通り日本人の大規模なデモが金沢市、伊達市、新潟市、毛利市で起こった。日本中から人が集まっているのではないかというくらい激しいデモ。
 流石の事態にE4も出動させられ、主としてデモ隊から外れていく人間をデモ隊の中に押し戻していく。
 小さないざこざは警察府に任せるとして、今日は槇野総理が金沢市で演説を行う予定だったが、急遽キャンセルとなり、E4は仕事をキャンセルされた。総理は余りのデモ参加者の多さに、危険を感じたらしい。

 ゲルマン民族の中でも、移民として日本に渡りたい者もいれば、何が何でも大陸に残りたい、そういった者もいたらしく、中華国でも色々な運動が起きたらしい。

 だが、槇野現総理はゲルマン民族を電脳化して脳監視を続けることで事の収拾を図ったのだった。脳監視を続ける。この一言をもって、他民族までもが流入するのを少しでも抑えたかったのだろう。
 ただし、今の段階で毛利市に居住区を定めることについては箝口令が敷かれたとみえ、メディアも居住区がどこになるのか、といった論調でしか計画の詳細を語ることはできなかった。

 とはいえ、噂はどこからか漏れるものである。どこがリークしたのかは分からなかったが、活字オンラインを通し、移民計画=平和強制は国民の目に触れることとなった。
 国内で1,2位を争うほどの激辛論調を載せる週刊誌が、毛利市近郊に外国人居住区が作られていることをすっぱ抜いたのだ。
 毛利市の住民たちは激怒し、昼夜を問わずデモ行進を行った。デモは昼間限りと定められていたが、無視するものが続出。抗議の電話が鳴り響いた毛利市役所は火消しに追われたが、住民の不満は一挙に爆発した形になった。
 これにメディアも追随し、ついには日本国内全ての地域で暴動が起きたのである。
 E4も暴動を治めるために伊達市、金沢市、毛利市と国内を飛び回った。
 普段ならIT室で作業をすればよい設楽や八朔まで駆り出され、カメレオンモードのレディバグやレディビートルも出ずっぱりである。

 設楽は杏と一緒に金沢市に出向いていたが、愚痴が止らない。
「チーフ。ほとんど電脳化してない僕や八朔を引き摺りだすって、何かの罰ゲームですか」
 杏は無視したかったが、今度ばかりは設楽の気持ちが分らないでもない。
「そうだな、暴徒化する恐れもあるこの民衆を押さえるのは至難の業だ」
「暴徒化したら、真っ先に逃げますからね、僕は」
「その前にバグが拾ってくれるさ」

 当然のことながら、槇野内閣の支持率は急降下し、危機ラインと呼ばれる支持率30%前後でなんとかぶら下がっている状況だった。
 それなのに槇野総理は内閣総辞職を拒み、表面上、粛々と移民計画を実行に移していた。

 半年後。
 ゲルマン民族は厳戒態勢の中、毛利市郊外に居住区を得た。第1次の移民として日本自治国に渡ってきたのは、ゲルマン民族凡そ1000人。それですら、居住区の確保が難しく、民族内で抽選を行う失態を招いたという。
 

第5章  使徒、襲来

 第3次移民が毛利市近郊の居住区に入って3か月。第1次の移民開始から半年が過ぎていた。
 移民総数は1万人を越え、ほとんどの移民は市内中心部から8キロ程度離れた仮住まいの宿舎で暮している。それとは別に、区画整理された山麓で立派な戸建てやまるでホテルのようなアパルトモンで暮らす高所得層もいるのが実情だった。
 毛利市は元々人口500万の町だが、その生活環境は移民と従来からの毛利市民、お互いにとって必ずしも芳しい状況だったとは言えない。
 外国人を相手にするスーパーや医者、ブランド旗艦店などは盛況であったし、元来からの高所得層は、毛利市内に多額のお金を落していく。

 だが、全部が全部そういう恵まれた人々ばかりではない。
 移民でも日本国民となったからには納税の義務はあったが、移民として日本国に渡ってきたものの仕事に就けない者も多くいた。すると生活保護を受給する家庭が一気に増え、毛利市の財政は瞬く間にパンクし財政再生団体に転落した。俗にいう財政再建団体、会社でいえば倒産である。
 民間会社の倒産は民事再生法等によって会社整理をするが、財政再生団体は復活のパターンが違っている。そもそも、倒産破産で市町村が無くなることはない。どこか周辺の市町村と合併すれば話は別だろうが、借金だらけの町を吸収してくれる市町村は無いに等しい。

 従来から毛利市に居住する市民は、税金が高い割に受けられるサービスが低下したと言って再びデモ行進を繰り返した。そんな中で移民居住区に入り込み放火を繰り返す輩も出てきて、治安が徐々に悪化していった。
 槇野総理は国からの財政優遇措置を通常よりも厚遇するとともに、マイクロヒューマノイドを100体ほど投入し、町、特に移民居住区の治安維持を図ったが、政策を打ち出せば打ち出すほど、市内や居住区の治安は反比例するように悪化の一途を辿った。

 毛利市民の中には、一大決心をした者も多い。
 未だ移民に関係のない金沢市や伊達市、新潟市や青森市、九州市、札幌市などには、毛利市を離れた一般市民が転居し始めていた。新しい仕事が見つからなければ、生活保護を受給する憂き目に遭うと知っていたのかどうか。
 いずれ、毛利市は益々財政的に安定しない町へと変貌しつつあった。
 
 現在は、転勤などで引越しする際にはリロケーション(転勤者の留守宅を一定期間賃貸する)業者に依頼し、安全安心と収入の一石二鳥で転勤生活を謳歌する家庭が多いが、毛利市に元々居を構え、別都市に移った住人はリロケーションすら出来やしない、と肩を落として嘆く。

 金沢を境に西日本の要所として栄えている毛利市には、警察府や各種公的機関、国立第3研究所など多くの公共機関がある。そのなかで何千人もの公務関係者が業務に携わっていたが、家族を他の都市に移し、自分だけが毛利市内で単身赴任をする者が増えていた。
 だが毛利市は元々、華族の町である。華族はどんなに治安が悪くなろうとも、自腹でマイクロヒューマノイドを調達し、税金を納めていた。まるで、サービスには興味がないと言った風情で。
 毛利市が消滅しなかったのは、公共機関の多さや、そういった華族のプライドがあったからかもしれない。

 そんな国の中の事情などお構いなしのE4。
 設楽が定点カメラを見ながら、一緒に見ていた杏に話しかける。
「今のところ、新潟に動きはありません」
「そうか」
「他の地域の定点カメラも確認しますか?」
「どうしてそう思う」
「いや、僕なら新潟に目を向けさせて、別の場所に海兵隊を呼ぶかなと思って」
 八朔も設楽に同調した。
「あの日の会話だけが全てじゃないですよね。北斗がミスったことで、やっこさん、計画内容を変えたかもしれない」

 二人の話を聞いて、至極尤もな意見だと想察する杏。
「そうだな。でも北斗には言うなよ。だいぶ凹んでいるからな」
 E4に戻って以来、バグやビートルと遊んでいる時間の多い北斗に会うため、杏は地下に降りようと部屋を出た。
 地下2階で起動させている掃除ロボットは、人工知能(AI)で悪いところばかり身に着けたのか、未だに四角い部屋を丸く掃く。
 設楽や八朔がメカチームの仕事を放棄しているわけではなく、AI自体のの操作性能の問題だという。

 掃除ロボットの怠慢を見るたび、杏の脳ミソは沸騰する。
 研究所に頼んで、別の掃除ロボットを貰おうかとさえ本気で考える杏。
 すると、北斗が遊びを一段落させ、杏の方に寄ってきた。
「どうしたんですか、チーフ」
「いや、何でもない。上にいても暇だしな」
 北斗はやはり例の学校のことで今も凹んでいるようで、頭を掻きながら下を向いて杏に詫びた。
「あの部屋、覚醒剤があると思って急ぎ過ぎました。でも、後悔は役に立たないなって思います」
「元々あそこには麻取の囮捜査官が入っているとも聞く。覚醒剤はそっちに任せようじゃないか」
「それならいいんですが」
「それよりも、私はバグたちが録音した内容が気になる」
「本国、海兵隊、新潟。簡単に考えれば、本国から海兵隊を新潟に送る。ですよね」
「どう思う」

 そういいながら、杏が鋭い視線を床を見つめるままの北斗に向ける。
 すると北斗はすぐに顔を上げ杏の目を見て、間髪入れずに杏の疑問に答える形をとった。

「あの時点では、新潟にマフィアの船が来る予定だったのだと思います」
「中華国そのものが動いたとは思わないか」
「今迄の経験上、あの国が動いたのは見たことがないし動く動機もありません。国内からゲルマン民族1万人を日本に向けて追い出したばかりですから」
「李首相にとっては鼻高々というところか」
「あとは、もっともっと日本に向けて移民を送り込むつもりかと」
「毛利市は財政破綻したじゃないか」
「他の市には送らないと思いますよ、政府としても」
「財政破綻が目に見えているからな」
「電脳化は国の事業ですけど、ライフラインその他諸々の整備は地方自治体ですからね」
「脱線したな。もし、新潟以外の場所に船が接岸する心当たりがあったら、教えてくれ」
「わかりました、チーフ」

 結局、毛利市は国直轄の地方自治体となった。昔通りの税金とサービス。
 それであれば、と戻った人もいれば、新しい環境に慣れたので戻らない人もいた。
 金沢市に通勤している人は高速を使って通勤できるので戻らない人が多かったし、新しい土地で仕事を得られなかった人たちは、比較的毛利市に戻った率が高いように感じられた。
 国としては例外を防ぎたかったに違いないのだが、毛利市の場合は、国が推し進めた事業でもあり、責任は国にあったと言わざるを得ないだろう。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 毛利市が国の直轄となって3か月。
 国中がやっと落ち着いたかと思われた、その日。
 空は青く澄み渡っていた。

 金沢市のとある中学校で、教師が1名、謎の電脳障害を起こした。周囲が見て分かったのは、呼吸困難の症状があったということだけ。肺炎かとも思われたが、その教師は体育科が専門で、全身を義体化しており、前日まで普通の生活を送っていたということだった。
 看取った病院を通じて厚生省から文部省に連絡が入った。若くて元気な教師がなぜ急に呼吸困難になったのか死因が不明であることから、解剖して死因を究明したいとの申し入れだったが、文部省ではこれを拒否し、家族の意向で直後に遺体を荼毘に付したという。

 しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。

 金沢市に本拠地を置く野球チームの人気投手と控えの野手が、やはり急な呼吸困難の末に命を落とした。
 野球チームの選手たちは、揃いも揃って電脳化し、その殆どが全身を義体化している。そもそも怪我を防止するためで反則とは見做されておらず、禁止薬物のように身体をボロボロにする危険行為とはされていない。

 その後も教師やスポーツ選手の電脳障害は続き、野球を初めとしたスポーツ界では何かの伝染病ではないかという噂が流れ、ストライキに入る団体も見受けられた。

 金沢市内におけるスポーツの祭典が半年後に迫る中、練習も行えず、さりとて電脳障害に対し動揺を隠しきれなかった選手たちを巡って、活字オンラインやテレビなどは取材しようと試みたが、選手たちは一様に狼狽しており、一刻も早い原因及び治療法の解明が急務とされた。
 西藤は自身がアメリカンフットボールやラグビーを経験しており、E4で起きているときはいつもスポーツ観戦。
 なんでも、軍隊上がりの友人や知り合いなどが出場しているのだという。
「そこだ!走れ!」
「なにやってんだー」
 と独り言をぶちまけながら楽しんでいる。
 なのに、テレビ中継がほとんど無くなってしまった。
 
 西藤は三白眼になったまま、杏の前に立つ。
「チーフ」
「なんだ」
「これって偶然なんでしょうか」
「何が」
「スポーツ選手や教師の電脳障害です」
「というと」
「共通項があるように思えます」
 
 西藤は誰に話すわけではなかったが、この一連の出来事を自分なりに推理していたようだった。
 亡くなったスポーツ選手や教師は、全身を義体化したマイクロヒューマノイドだったという。全身を義体化している場合、免疫抑制剤を服用している場合が多い。今回の電脳障害も、教師とスポーツ選手の間に何か共通項があり、呼吸困難を引き起こし死に至るのではないかと。
 いわゆるところの電脳汚染ではないのか。
 北斗が青森の山中で聞いたあの言葉。
 あれが実際に起こっているのだとしたら。

 電脳障害事件が起こってから2か月後、金沢市にある第1国立科学研究所=第1科研がひとつの仮説を打ち出した。
 亡くなった教師やスポーツ選手たちは、カビ=真菌が血管内に侵入してさまざまな臓器を侵し、電脳を狂わせる侵襲性肺アスペルギルス症を発症したのではないかというものだった。
 免疫抑制剤や長期のステロイド内服剤を使用し免疫が極度に落ちている、免疫に問題がある電脳関係者の場合、使用していない一般人に比べ格段に侵襲性肺アスペルギルス症を発症しやすいという。
 死亡率は30~70%とも見積もられており、予後はかなり悪い。
 治療法としては抗真菌薬を服用していくというものだが、やはりそれでは足りずにステロイドをそのまま続ける場合もあるといわれる。

 一般人でも罹る可能性のあるアスペルギルス症は、アスペルギルス(アスペルギルス・フミガーツスともいわれる)というカビによって発症する。
 通常元気な人に対しては病気の原因とはなりにくい菌であり、抗真菌薬やステロイドを服用するなど、近年治療法が格段に進歩したため死の病ではなくなっていた。

 勿論、他の細菌などが原因であると結論づける識者もいたが、呼吸困難になるという部分で肺が冒されていることをまだ証明できないでいた。

 だが、第1科研の見解が示されると、電脳障害=電脳汚染は一般人にも容易に移るというデマが国内で流れ始めた。
 国民はパニック状態になり、スポーツ界は一切の試合を止めた。
 すると今度は、スポーツ選手、あるいは教師などを狙った傷害事件なども発生し、国全体が混乱の渦に巻き込まれていったのだった。

 剛田がE4の皆を呼び寄せる。
「今日はオンラインメモで話す。北斗は活字オンラインを見ろ」
「わかりました」
 北斗を除いた皆は、腕に付けている時計の右端にあるボタンを押した。
(金沢で起こった電脳障害だが)
 杏が剛田を遮った。
(結局、なんだったの)
 剛田が口を挟むなと言わんばかりに2回、咳払いをする。
(第1科研の仮説どおり、侵襲性肺アスペルギルス症と判明した)
 設楽はおおおっと叫んでいる。
(それって通常は10万人に1人か2人にしか感染しませんよね)
 剛田はしかめっ面で頷いた。
(設楽の言うとおりだ。だが今回は1000人以上の感染者を出し、うち600人は亡くなった。慢性呼吸器疾患の患者も多いからだが)
 今度は八朔が口を挟む。
(金沢だと1000万人いますから、100人~200人計算ですか)
 剛田がまた頷いた。
(そう思うと、この患者数が異様なのがわかる)
 不破もそういった情報を活字オンラインで見聞きしていた。
(感染しているのは、免疫力のありそうな教師やスポーツ選手。亡くなる前日まで皆ピンピンしていたとか)
 剛田は何故か杏を見つめる。
(そうだ。これを単なる電脳障害とみるか、さもなくば電脳汚染と見るか) 
 杏は思い出した。
(FL教の電脳汚染・・・)
 西藤も友人たちの状況を心配していた。
(ただの電脳障害ではないような気がします)
 
 杏が西藤の右腕を突(つつ)く。
(どうだ、久しぶりに青森まで行く気はないか)
 不破が右手を上げる。
(僕も行きましょう。倖田はどうする)
(狙撃の機会はないように思うから、今回はパス)
 剛田が最後を締める。
(では、五十嵐と西藤、不破は青森の旧FL教研究所に急いでくれ。今は何もないはずだが、もしかしたら何か見つかるかもしれない)
 北斗がその時手を上げた。
「自分はあの研究所の概要を知っていますし、拳銃も撃てるようになりましたから連れて行ってください」
 杏がさも残念そうに北斗を見る。
(北斗、あの研究所は春日井の出した軍により、たぶん全部吹っ飛んでる)
(あ、そうですか)
 それでも剛田は北斗の肩を2度、優しく叩いた。
(いや、北斗がいて助かることがあるかもしれん。では、4人で行ってくれ)
 嬉しそうに頬を染める北斗を初めとして、杏たちは立ち上がって敬礼した。
(了解)

 4人はすぐさま地下1階に降りた。射撃練習場の隣にある銃器類の保管庫からオートマチックの銃を手にする杏と不破。リボルバーが好きな杏としては物足りないのだが、万が一に備えて、オートマチックも持っていた方が無難ではあるため致し方ない。
 北斗も一緒に拳銃を持つ。
 西藤は拳銃を持つことは持ったが、接近戦で素手を使うのが彼の得意技。
 しかし、相手の出方が分らない以上、持たないわけにもいかない。

 不破が2000GTを地下の車庫から出し、杏は助手席に乗る。北斗はNSXを運転して、西藤が助手席に座った。
 不破がいつもどおりギャギャギャッとタイヤを鳴らし走り出したかと思うと、北斗はスムーズにアクセルを踏み、ギアを操作する。
 FL教の麻田導師の運転手を務めたこともあり、北斗もかなりの運転技術を持っていた。
 剛田から、バグとビートルを任務遂行のため出撃させるよう49階からダイレクトメモで指示があった。
(こういう時に出動し、使用頻度を高めねばならん)


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 ビルから出た4人と2匹は、かなりのスピードで青森を目指していた。
 杏がダイレクトメモを流す。
(西藤、北斗に伝えてくれ。不破に付いて来なくてもいい。不破はスピードの出し過ぎだ)
(こちら西藤。北斗の運転はとても心地いいです。さすが麻田導師の運転手を任されただけはありますよ。それなりにスピードも出てますし。この道を随分通いましたから、と言ってます)
(そうか、無理だけはするなよ)
(バグ、お前はどうだ。疲れないか)
(ホクトノタメナラナンノソノー)
(ビートルは?)
(バグニオナジー。スピードデテテオモシローイ)

 ダイレクトメモを切って横で運転している不破を見る杏。
 運転好きな不破だが、今日は珍しく眉間にしわを寄せている。
 向こうでまた、何かあるのかと緊張しているのだろうか。
 それとも、アクセル全開でハンドルを持つ手に集中しているのか。

 不破は顔もいいし皆の前ではシャープでクールだが、本当は違うんだよなと杏は笑いが込み上げてくる。
「何笑ってんの」
 不破には、杏の笑った横顔が見えているらしい。
「くっそ真面目に運転してるな、って」
「八朔のチューンナップが甘いせいで、ハンドルがぶれる。帰ったら説教しないと」
 E4では、車の整備も設楽と八朔が担当している。主担当は八朔だ。
 不破はかなりご立腹らしいから、八朔は首を洗って待つよりほかあるまい。

 途中休憩を入れて3時間ほど走っただろうか。
 もう跡形もなくなっているかと思われた、あのFL教の研究施設に着いた杏たちは、目を疑うこととなった。

 なんと、研究施設は蘇っていた。
 杏と不破が春日井から弾圧を受けた際にこの場所で陸軍に応戦したため、元々の研究施設は壊滅状態に追い込まれた、そう、そのはずだった。
 だが今は、昔のようにSRC構造ではなかったけれど、こじんまりとした平屋建ての研究棟が何棟か並び、中では研究員たちが白衣を着て研究に没頭しているようで、杏たちの車に気が付く様子も無い。

 これには杏も驚いたようで、直ぐに拳銃に手を伸ばしダイレクトメモを流す。
(拳銃を持て。私が最初に入る。向こうが応戦するようなら足を撃て。北斗以外はダイレクトメモを使え)

 杏はゆっくりと玄関を開けようとした。鍵がかかっているものだとばかり思っていた研究棟は、鍵すらなかった。
「随分不用心だな」
 杏の独り言。

 ダイレクトメモで話すと、杏の言葉に不破と西藤が呼応する。
(やはりFL教の残党が残っていたとみるべき、だな)
(てことは、FL教による電脳汚染か)
(でも、オリジナルは拘置所の中ですよ)
 北斗も目の前の景色が違っていたことで頭が混乱したのか、茫然とした表情で施設を見ていたが、視点は皆と違っていた。
「まだ人の脳を弄っているのかもしれない」

 北斗にとってあの瞬間は、魂を揺さぶられるようなモノだった。
 次々と研究棟に運び込まれる公務員関係者。それらは皆、脳を切り取られ戻って行ったという。W4の三条、彼は非常に冷静だったが、何発も研究員を撃つような真似だけはいただけないと思った記憶が鮮明に蘇ってくる。
 その三条も今は活動できない状態だと聞く。

 北斗がいたため全員がカメレオンモードになることもできないが、研究員くらいなら制圧できる。逃げるやつは外のバグやビートルが捕縛してくれるので問題ない。
 そんなことを頭の隅でふっと考えた杏。
(不破と西藤は別の施設を制圧しろ)
(了解)
「北斗は私についてこい」
「了解」
(バグ、ビートル。お前たちは外に逃げ出した研究員を捕縛せよ)
(ハーイ、ガッテンダー)

 バグたちの緊張感の無さに一抹の不安を抱える杏だが、廊下をそっと5mほど歩きながら、ドアの前に着く。
 足でドアを押す。
 やはりドアにも鍵は掛けられていなかった。
 
 ドン!!

 杏がドアを蹴破った。
 拳銃を手に、研究員たちに告げる。
「皆、立ち上がり手を頭の高さまであげて、後ろで組め」
 
 蹴破る音と杏の恫喝めいた声に驚いた研究員たちは、すぐさま言われた通りに立ちあがった。
 どうやら、この部屋には拳銃武装している者はいないらしい。
(不破、西藤。今一度言う。拳銃武装している者がいたら足を撃て)
 直ぐに不破から返事が来る。
(あと少しで研究室内に到着予定)
(こちらは武装している者はいないようだ)
(じゃあ、こちらも大丈夫ですかね)
(いや、充分に用心してかかれ)

 北斗は杏の後ろにいた。
 以前の研究所で働いていた顔は、見渡す限りどこにもいない。
 後ろから杏に囁く。
「以前の研究員たちはこの中にはいません」

 杏は、一番近くにいた研究員に尋ねた。
「お前たち、ここで何をしている」
 研究員は口をもぐもぐさせていたが、杏が拳銃を突きつけると震えだした。
「何をしているか話せ」

 研究員は、他の研究員たちを振り返る。皆観念したようで、首を縦に振る。同意を得たようだった。
「マイクロヒューマノイドの研究です」
「マイクロヒューマノイド?」
「はい、電脳汚染に侵されないマイクロヒューマノイドの研究をしています」

 杏は一旦拳銃をおろし、後ろで銃を構えていた北斗にも命じる。
「一旦お前もおろせ」
 北斗は未だ相手がFL教の研究員と信じているようで、声が掠れていた。
「いいんですか」
「ああ、何かあれば私が撃つ」

 そして再び研究員を見る杏。
「国立科学研究所の者ではないな」
「はい」
「どこに雇われている」
「それが・・・」
「早く言え」
 
 拳銃を顔の高さにまで上げる杏を見て、研究員たち全員が震えるような態度を見せた。
「わからないのです」
「なんだと?」
「スポンサーが誰か分らないのです」

 杏は辺りを見回した。皆、研究員のいうことに賛成とでも言わんばかりに押し黙っていた。
「パトロンが誰かわからず、どこから資金を得ている」
「施設あての通帳に毎月お金が振り込まれています」
「金額は?」
「毎月1億ほど」
「1億?」
「はい」
「お前たちの給与はどうしている」
「1億の中に含まれています」
「研究費は毎月どれぐらいになる」
「給料を差し引くと、研究費は毎月7千万ほどになります」

 ダイレクトメモで不破や西藤に確かめる杏。
(こちらではパトロンを知らないそうだ。そちらで知っている者がいるかどうか確認しろ)
 暫く、不破達の返事を待つ。
 1分もしないうちに、不破の声がした。
(こちらでも判らないようです)
(そうか、あと2棟ほど研究棟があったな。そっちもパトロンを調べてくれ)
(了解)

 杏は再び研究員を睨む。
「FL教ではないのか、お前たちのパトロンは」
「違うと思います。そういった方方はこの施設にはお見えになっていません」
「それは、誰か顔を出す人間がいるということだな?」
「いや、その」
「何だ、知っていることがあったら言え」
  
 杏は研究員の額に拳銃を突きつける。研究員は真っ青になり他の者たちに助けを求め、手を振る。
 そこに女性の研究員が名乗り出た。
「毎週花屋さんが来ます。その方々に研究成果報告書をお預けしているだけで、それがどこに流れているのか、全くわからないんです」

 杏はダイレクトメモで不破に告げる。
(女はこういうときに強いな)
(うちのチーフもそうですから)
(笑い話はあとだ。そちらで同じことがあるか聞いておけ)

 女性研究員に近づいた杏は、なおも男性研究員に拳銃を額に押し当てたままだった。
「花屋とは、男性か、女性か」
「両方の時もあれば、片方だけの時もあるし・・・」
「人相は」
「特徴のある顔ではありません、その辺に転がっているような普通の顔立ちです」
「さっき言っていた【電脳汚染に侵されないマイクロヒューマノイド】とは、どんな研究内容だ」
「いえません」
「ここにいる全員の脳が吹っ飛ぶぞ」

 その途端、恐怖のあまり手を頭の後ろに回したまま、逃げようとする輩が出てきた。
 瞬間。
 杏の拳銃から研究員の足首目掛けて弾が飛んだ。
 痛みに耐えきれず、その研究員は大声を張り上げる。
「そんなに逃げたいなら、黄泉まで逃がしてやろうか?」

 全員がその様子を見て、杏の言葉を聞いて、逃げ切れないと判断したらしい。
 先程まで額に銃を突きつけられていた研究員が、ぼそぼそと語りだした。

 マイクロヒューマノイドは免疫抑制剤を使用しているため、真菌=カビによる侵襲性肺アスペルギルス症になり得る要素があること、侵襲性肺アスペルギルス症の致死率は50%前後であること、侵襲性肺アスペルギルス症を治療するためには抗真菌剤を投与するしか今のところ手立てはないこと。

「これが我々の見解であり、このカビを身体の中で繁殖させないために、オーバーホールの際に何かできないか、あるいは免疫抑制剤をカビに強いものに精製できないかというのが我々の研究内容です」

 杏は拳銃を降ろした。
「本当にパトロンはわからないんだな?」
「はい、知りません」
「そうか」

 杏は部屋を出るよう北斗に促し、自分も後から部屋を出た。
(こちらではパトロンを知らないようだ。そちらで、花屋が出入りしているという話は出ているか)
(はい、2つの研究棟で同じ証言が取れました)
(では、残りのひとつは私と北斗が行く)

 残り1棟。
 そこでも、証言は同じだった。
 花屋に研究報告を渡している。パトロンは知らない。そこで行われていたのは、国立科学研究所をも凌ぐマイクロヒューマノイドの研究。

 その花屋とは一体何者なのか。

 杏たちは研究棟を出て、4人で集まった。
 その時だった。
 北斗が何か考えていた。

「どうした、北斗」
 杏の言葉が耳に入っていないかのように考え込む北斗。
「どうした」
 はっと気が付いたように前を向いた北斗は、バグとビートルを呼び寄せるよう杏に頼む。
「それは構わないが、どうしたんだ」
 少し恥ずかしそうに躊躇う北斗。
「関係ないとは思うんですが」
「何だ」
「このまえ追い出された学校にも花屋が出入りしてました。あの、紗輝の・・・」
 バグが叫ぶ。
「サキノカノジョーーーーーッ」
 北斗がバグの口を塞ぐ。
「そんなに大声でいうなよ。彼女の写真を撮っていたんです、こいつらが」
「学校に出入りすること自体は、まあ、営業だからな」
「それはそうなんですが。紗輝の写真は手に入りますか?」
「不破、設楽に連絡して紗輝の写真を転送させろ」
「了解」

 杏は腕を組み、空を流れていく雲を見つめていた。
 北斗は、紗輝と花屋の女性、2人を疑っている。
 杏も少しだけ北斗の意見が真実味を帯びているような気がした。

 不破が杏に必要事項のみ伝える。
「紗輝の写真、バグとビートルにも送りました、両名分印刷します」

 ジジ、ガガ。
 バグは紗輝の顔を、ビートルは花屋の女性の顔を。
 両名分印刷し終えると、杏たちは1棟ずつ研究室に入り、顔写真を見せた。
 3棟目まで見せ終えた。
 皆、知らないという。

 北斗の考え過ぎか。
 しかし、残りあと1棟ある。

 杏はさして気にも留めず、4棟目の建物に入った。
 そして、紗輝と女性の顔写真を研究員全員に見せた。

 すると、研究員の中で、1人だけ目が泳いだ者がいた。100人近くいる研究員の中で、たった一人。
 これをどう見るべきか。
 研究員が紗輝を見たことがあると言うだけで、別に紗輝を疑っているわけではない。
 杏は心の中で自分に言い聞かせる。

 でもその事実は明確に、紗輝がこの現場に出入りしていることを物語っている。
 一体、何のために。
 パトロンと紗輝の繋がりは。

 とにかく、一刻も早く伊達市に戻らねば。
 もしも何かしら危ない集団に属しているとしたら、紗輝が危ない。
 杏の魂が激しく揺さぶられている。

 ダイレクトメモで不破たちに話しかける杏。
(急いで伊達市に戻る。紗輝が心配だ)
 北斗には西藤が伝えた。

 不破と杏、北斗と西藤、バグ、ビートル。
 2台の車が、空が紅く染まる高速道をフルスピードで駆け抜けていった。

第6章  ラスト・ステージ

 伊達市のアパルトモンに住む紗輝。
 E4を辞めてからの紗輝は、女性が勤める花屋に自分も勤め、二人で花を運んだり営業に携わる日々だった。
 女性の名は、羽田李華(はたりか)。

 別に李華と交際するわけでもなく、ただ寄り添い、李華のために自分も働いていたいというのが偽りならざる本音だった。
 自分が義体化していることを隠したかったのも手伝って、一般人のふりをしている紗輝。
 オーバーホールすべき部分もあったが、研究所等には行かずほったらかしだった。
 ある程度電脳化している紗輝は、非子孫繁栄プログラムも組み込まれており、人間の本能を圧抑するようプログラミングされているため、一般男性に比べ相手を思う気持ちしか自分にはないと思っていた。もし恋心が成就したとしても、一般人のようには暮らせない。
 
 紗輝は、李華の気持ちがわからないでいたし、それで構わないと思っている。紗輝自身、普通の平和な生活はできないのだから。
 彼女の気持ちを聞いたとしても、自分が応えられるか、自信はなかった。
 だからこそ、花屋というツールで彼女を助けてあげられれば、それでよかったのである。
 
 花屋の仕事は、右腕を義体化している紗輝にとっては疲れるということが無かったのは大きい。
 今はビルなどの会社めぐりをして、玄関ドアまでは紗輝が花束を持ち、中で活けるのが李華の仕事になっていた。
 なぜか、E4への納品はない。
 そういえば、マイクロヒューマノイドが弾圧された時期があった。
 その時にE4は解散したのかもしれない、そう思った。
 E4が解散しようがしまいが紗輝にとっては関係なかったが、杏や不破が元気でいるのかどうかだけは、少しだけ心配だった。

 今の配達経路で、一番遠い納品先は青森。
 過去にFL教の研究施設があったところだ。
 紗輝はFL教の施設が青森にあったことは知っていたが、FL教も麻田導師を失って求心力は低下していたと記憶していた。
 2時間余りのドライブで、結構な種類の花を運んでいた。
 女性を隣に乗せ、冗談を言い合いながら、時に愚痴を聞きながら。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・◇


 ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ
 Certain things, they should stay the way they are. You ought to be able to stick them in one of those big glass cases and just leave them alone

『ライ麦畑でつかまえて』で有名なフレーズ。
 その言葉が杏の中に再び木霊する。
 第2科研に行けば、義体はまだしも非子孫繁栄プログラムを解いてもらえるかもしれない。普通に恋愛をして、普通に結婚をして、普通に子どもの父親になりたい。
 紗輝はそのように願いE4を辞めたのではないか。

 杏は今まで、そう考えていた。
 そう。昨日までは。

 あの女性が何のために報告書を持たされるのか、今はまだ判明していない。もしかしたら、本当にメッセンジャーとしてのみ仕事を請け負っているのかもしれない。
 設楽と八朔に高速道及び青森市内のNシステムを探らせているが、たぶん、紗輝は女性と行動を共にしているはずだ。
 紗輝は何かに気付いているのか。

 杏の魂は再び疼いた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 紗輝は、いつものように、休日を兼ねて李華とドライブを楽しんでいた。
 笑い、愚痴り、また笑う。
 それだけで紗輝の心は満たされた。
 義体化のことを言わなければいけないだろうか、いつまで嘘を吐き通せるだろうという心配だけが、紗輝の頭の片隅にはあった。

 ドライブを終え、李華を家に送ろうとしたが、李華は花屋まででいいという。今迄もそうだった。家に送ったことはない。
 花屋の方向にハンドルを切ろうとすると、李華が紗輝の左腕を掴んだ。
「あなたの部屋でお話したいことがあるの」

 こういうシチュエーションは今までなかったため紗輝は少し驚いたが、言われるままにハンドルを戻し直進した。
「部屋、少し汚いかも」
「いいわ、そんなの関係ないから」
 
 紗輝の部屋に入るまで、李華は一言も発しようとはしなかった。紗輝も、何も聞かない。
 何の話か聞きたい気持ちはあったが、聞かせない雰囲気の李華がいた。
 李華の顔はとても真面目で、何か悩みがあるのだろうとは紗輝にも推測できた。

 玄関ドアにキーを差し込み、ドアを開ける。
 紗輝が最初に入り、家の中を見回した。
 良かった、確か一昨日掃除したばかりだった。
 廊下で待つ李華をリビングに入らせた。
「綺麗な部屋じゃない」
 李華が笑う。
「そうかな」
 紗輝は照れ笑いを浮かべ、李華をソファに座らせた。

「で、話って、何?」
 紗輝の言葉にも、しばらく李華は口を開こうとはしなかった。
 二人とも、無言の状態が5分ほど続いた。

「珈琲にする?紅茶にする?」
 シンと静まりかえった部屋の中に、紗輝の言葉が響く。
 李華が初めて口を開いた。
「ありがとう。じゃ、珈琲で」
「インスタントしか置いてないんだ、ごめん」
「気にしないで」

 インスタントコーヒーを入れたマグカップを2客、テーブルの上に置く紗輝。
 紗輝から話を振った。
「何か話があってここにきたんだろう?」
「うん、実はね・・・」
「何?」

 また少し、李華は押し黙る。
 3分くらい、静寂が辺りを包む。
 暇というわけではないが、何かしていた方がいいかもしれない。
 じっと李華を見つめれば、李華も話しにくいだろう。そう思って、紗輝は『ライ麦畑でつかまえて』を手に取った。

 その様子を見ていた李華が、漸く口を開き始めた。

「実はね。私、あなたに隠していたことがあるの」
「うん」
 家にも送らせないし、何かあるのだとは思っていた。
 まさかの三角関係?と、やや焦りを感じる紗輝。

 隠し事なら自分にもあるんだ、と常日頃から思っている紗輝。
 自分も今、秘密にしていたことを話すべきなのだろうか。
 
 しかし、李華の話は紗輝の思いとは全然違っていた。

「わたしね、中華国のスパイなの」
「そうなんだ」
 紗輝自身、三角関係でなければ別によかった。
 スパイの3文字にも動揺はしなかった。
 紗輝はライ麦畑の本を開きながら微かに頷いた。
 
「でもね、紗輝さんに会ってから、スパイの仕事が嫌になったの。嘘を吐き通すこともできないし、かといって抜ければ死が待っている」
「逃げることはできないの?」
 珈琲を淹れたマグカップを持つ、李華の手が震えている。
「あの国のスパイ組織は、狙った獲物を逃さない」
 紗輝はそっと、震える手に自分の手を添えた。
「どうしたい?」
 しばしの深閑。
 李華は、か細い声で言葉を絞り出した。
「私は逃げられない。でも、紗輝さんを巻き込むことはもう嫌。お願い、私と心中して」

 紗輝が、ふっと笑った。
「いいよ」

 紗輝の顔を見て、李華は驚いたようだった。
「ほんとに?いいの?」 
「うん。今の世に未練などないから」
 李華の頬から床に滴り落ちる涙。
 紗輝は、一つだけ李華に願い出た。
「最初に僕を殺して」
「どうして?」
「僕にキミを殺させないで欲しい」
 李華の目から、再び涙が零れ落ちる。
「私もあとで薬を飲むから」

 紗輝は、心中にあたっての最後の願いを李華に伝えた。
「この本を読みながらでもいいかな。最後に目に焼き付けておきたい」
「本?最後に見るのが私の顔じゃなくて?」
「涙に濡れたキミを見たくないから」
「紗輝さん、気障だわ」
 少しだけ、李華は笑った。

 紗輝はソファに座った。
 そして『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。

 李華は、一言だけ紗輝に伝えた。
「ごめんなさい」

 そして、両手に白い手袋を嵌めると、紗輝の正面に座り、その首を絞めた。凄い力だ。まるで、義体化しているかのような。
 頭に凄い圧力がかかる。
 
 それでも紗輝は首に力を入れながら、本の何ページかをビリビリと破き、ソファの下に落とした。
 李華の目に本は入っていなかったし、目に入ったとしても、たかが本だった。

 実は、紗輝は上着のポケットの中に拳銃を仕舞っていた。E4から持ってきたものだ。
 彼女を撃って自分をも撃つ心中方法がないではない。
 しかし紗輝はそれをせず、目を瞑り、李華の凶行を受け入れた。

 紗輝は一瞬間、肖像が見えたような気がした。目くるめく感情を映し出した万華鏡みたいな肖像。
 それは、紗輝の魂だったのかもしれない。
 

 ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね
 I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be

「ライ麦畑でつかまえて」の一節を頭の中で復唱しながら、紗輝は、幸せの中で一生を終えた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 紗輝を最初に逝かせた李華。

 部屋を物色し、何かを探していた。
 チッと舌打ちをしながら、苦々しい表情で、自分で持ってきたバッグの中から薬剤の入った小瓶を取り出し、自分の指紋を拭き取り、紗輝の指紋を付けるため握らせると、紗輝の前に放り投げた。

 そして、紗輝の身体を探すと、拳銃が1丁見つかった。
 ニヤリと不気味に笑い、李華はそれをバッグの中に隠した。

 そして少し涼しげな顔に戻った。

「邪魔だったんだよ、お前は」
 李華は、もう息をしていない紗輝を睨みつける。
「E4にいたからこそお前は役に立つはずだったのに、辞めて花屋なんて。情報も持ってないし、いらねえよ」

 李華は玄関を開け、辺りを見回す。誰もいないことを確認して、紗輝の部屋を出た。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 その日の夕方だった。
 杏と不破が紗輝の家に辿り着いたのは。

 まず、おかしなことだった。
 部屋が施錠されていない。
 紗輝は忘れっぽい奴ではない。家の施錠くらいしているだろう。
 杏と不破は、そっと紗輝の部屋に入った。拳銃を握りしめながら。

 廊下をつたい、リビングに入る。

 そこで見たのは、だらりと右腕をソファから出して寝ているような紗輝の姿。
 杏はすぐに紗輝の下に向かい、呼吸を確かめる。
 紗輝は、もう呼吸をしていなかった。
 死後硬直が出始めているものの末梢神経辺りは硬直していないことから、死後4~6時間前後と思われた。
 不破は喉元の異状を確認した。何かで絞められた跡が見受けられる。ロープのような形状ではなく、人間に絞められたような形状。
 しかし、男性のような手ではない。手の大きさからして、首を絞めたのは女性とみるのが妥当だった。
 扼殺。

 杏たちは、部屋の中を捜索した。
 毒物の入った小瓶が紗輝の近くに投げ捨てられている。
「毒?扼殺じゃないの?一体どっちなの!」
 杏はいつもより確かに冷静さを欠いていた。
 少しナーバスになっている杏を見て、不破も心配になったらしい。
「杏。E4を通して第2科研に遺体を運んでもらおう」
「司法解剖するの?」
「毒薬と扼殺、どちらが死因かわからない」
 不破はオンラインメモを使い、E4に接続した。
 出たのは倖田だった。
「不破か。どうした」
「紗輝が殺害された。第2科研に遺体を運んで司法解剖して欲しい」
「わかった。そちらまで20分はかかるだろうから待っていてくれ」

 不破は、一般でいうところの警察は呼ばなかった。
 紗輝はE4を辞めたとはいえ、警察府関係者だったのは事実だ。
 警察府関係者の場合、死亡した際には国立科学研究所に遺体を運び司法解剖がなされていた。
 電脳障害で亡くなった可能性も捨てきれないため、である。
 
 
 杏は、ソファの下に『ライ麦畑でつかまえて』の部分が、ちぎられ散乱していたのを見つけた。

 紗輝が破ったものか、紗輝の命を奪った者が破ったのかはわからない。
 破られていたのは、約3ページ分あった。

 ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。
 馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね
 I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be

 死んでから花をほしがる奴なんているもんか。一人もいやしないよ
 Who wants flowers when you’re dead? Nobody

 僕が死んだときには、川かなんかにすててくれるくらいの良識をもった人が誰かいてくれないかなあ、心からそう願うね
 I hope to hell that when I do die somebody has the sense to just dump me in the river or something

 杏は、この中に紗輝のダイイング・メッセージ(dying message)が残っていると直感した。

 紗輝は自分の一生を予測していたのだろうか。

 杏は、泣いた。
 号泣してはいけないと思いつつ、紗輝が可哀想でならなかった。
 花屋に勤めていたあの女は、紗輝がE4にいたからこそ近づいたのだろう。
 いや、犯人があの女とは限らないのだが、何故か杏はあの女が紗輝の死に関わりがあるような気がしていた。

 そう思うと、悔しくてやるせなかった。
 不破に一言だけ伝える。
「花屋に行ってくる」
 不破が杏の右腕を掴み、止める。
「今はまだ証拠がない。今行ったら紗輝は無駄死になる可能性が高い。もう少し待て」
「死んでから花をほしがる奴なんているもんか。一人もいやしないよ。Who wants flowers when you’re dead? Nobody。これは、紗輝の残したダイイング・メッセージでしょう?」
 不破も頷き、同調する。
「俺もそう思う。でも、これだけじゃダメだ」
「じゃあ、どうすればいいっていうの」
「証拠を見つけなければ。本人が自白するような」
「証拠なんかなくたっていい。あの学校に入り込んで覚醒剤を焼き払う」
 不破が折れた。
「それならいいんじゃないか」
「研究所も潰してやる」
「OK」
 杏は拳を握りしめた。

第7章  Xデーの真実

 金沢市で起きた電脳障害=電脳汚染。
 電脳汚染は、安室元内閣府長官をオリジナルとしてFL教が実験を繰り返していた事件だ。
 
 電脳汚染の実態を解明しようと、設楽や八朔はIT室に篭っていた。
 北斗が青森のFL教研究所で見た、1人のホームレスらしき人物。
 一般人が、と驚いた北斗だったが、相手がホームレスということで、写真を撮ることはおろか「一般市民に電脳化施術成功の模様」と生半可な報告しかE4に伝えていなかった。
 一般人でここに来るのはホームレスくらいのものだろうし、ホームレスは人物検索に引っ掛からないことが往々にしてあるからだ。
 そこにもって、2~3か月の定期報告の末FL教に捕まってしまった失敗もあった。
 
 設楽が杏にダイレクトメモを送る。
(チーフ。北斗の見たホームレスなんですが、人物検索をかけたいと思いまして)
(それは構わないが。北斗自身、相手の顔すら忘れたんじゃないか)
(それがですね、今回のサプライズで色んな実験が出来るようになったんですよ)
(何が出来るんだ)
(記憶領域の再生。凄いでしょう)
 杏も身を乗り出す。
(それで北斗の記憶領域を遡って調べるというわけか)
(はい、3年以上前の記憶ですが、青森の施設を見せればホームレスの記憶が出てくるかもしれません)
(よろしく頼む)

 杏は深く溜息を吐く。
 記憶領域を調べれば、自分が実験の為に作製された試用体だということが分るだろう。
 
 今どき、最先端の機器は杏の魂を消し去るかのように緻密だ。
 杏はもう一度溜息を吐き、廊下に出た。


 設楽はITにおいては充分にその力を発揮する。お喋りさえなければ有望な人材だ。
 北斗を実験台にするのは好ましくないが、FL教の電脳汚染には、今や北斗の力を借りるしかない。
 地下でバグたちと遊んでいる北斗に連絡する。
「北斗、設楽の言葉に従ってくれるか」
「はい。もとはと言えば、僕が写真なりを撮っていなかったことが問題でしたから」
「あの状況では難しかったさ。今から行うそうだ。こちらに来てくれ」
 北斗が地下2階から戻ってきた。
 ミーティング室で北斗の頭に微弱な電流を流し、記憶を辿る手法らしい。

 杏は49階のE4部屋で、成り行きを待つことにした。

 設楽はミーティング室にいる北斗にあれやこれやと命令し、八朔がサブを務めていた。
 すぐに効果が出るものではないだろうと思っていた杏だが、思いのほか、時間はかからなかった。
 設楽からダイレクトメモが届く。
(チーフ、ビンゴですよ。青森の実験場や麻田導師、はてはW4の一条、三条や九条まで見せたら、すっかり記憶を辿れました)
(凄いな)
(これを使って、人物検索始めます)

 設楽は、今迄こんなに真面目に仕事に取り組んだことがあろうかというほど、目をぎらつかせ人物検索システムとにらめっこしている。
 4~5時間は経っただろうか。
(よっしゃー)
 設楽が何かを持って走りながらIT室を出てきた。
(見てください、ヒットした人物です)

 杏もどれどれと覗き込む。
 ・・・?・・・

 設楽はしてやったりとほくそ笑んでいるが、杏には意味が分からない。それほど、渡された2枚の写真は似ても似つかぬ風貌だった。
(設楽。2枚あるが、この2人は似てないぞ)
 設楽はメトロノームのように指を動かす。
(だからこその人物検索システムじゃないですか。ほら、ここ、見てください)
 設楽が指差す方向を目で追う杏。
 どうやら、顎のラインらしい。

(顎のラインと目鼻立ち、目のくぼみや眉毛との間隔。これらを総合するとこの2名は同一人物であることが99.9%の確率で証明されました)
 杏は不可解な眼差しで設楽を見る。
(ホントにホントなのか?)
 設楽は口を窄めながら抗議する。
(新しい技術で、正確性は9割以上なんですよ、チーフ)
(ああ、わかったわかった。で、こっちの立派な身なりの人間は誰だ)
 設楽はそう言う意味ではすぐに機嫌が直る。
(えーとですね、緑川純斗(みどりかわすみと)。教員です)
(教員?)
(はい。金沢市で教鞭をとっているようですね)

 杏は、北斗を呼ぶよう八朔に命じた。
 北斗が小走りでミーティング室から戻ってきた。
 杏が一枚の写真を北斗の目の前にぶら下げる。
「北斗、この顔に見覚えがあるか?」
「あ、これこれ、青森にいたホームレスです」
「じゃ、こっちは?」
 そういって、人物検索システムでヒットした顔を見せる。
「同じ顔ですね、でも、ホームレスじゃない。ホームレスになる前の顔ですか?」
 杏は北斗の顔の覚え方、そしてその正確さに驚いた。
「よくわかるな。私はからきしダメだったのに」
「潜入捜査の賜物ですよ、チーフ」

 設楽と北斗と杏が3人でソファに座り、設楽は周囲に対し満足げにシステム自慢をしている。
 杏と北斗は、それを半分無視してホームレス像を語りだした。
 ホームレス姿で青森の実験場に姿を現した緑川。元々はホームレスではなかったのだろう。あの時だけ、周囲に見破られないようホームレス姿になったのに間違いあるまい。
 人物検索システムによれば、現在も金沢に住んでいることになっている。
 金沢に行けば、何か得られるものがあるだろうか。
 直接緑川本人に聞くしかないか。
 無論、こっれぽちも話はしないだろうが。

 杏は、E4室内で剛田の帰りを待った。
 剛田は近頃忙しい。あまりE4にも顔を出さず、何かやんごとなき用事で動いているらしい。家に帰っても、剛田は何も話さない。
 話さないのが分かっているから、杏も不破も何も聞かない。
 
 杏はテーブルに両肘をついて手で頬を覆う。そして不破に声をかけた。
「不破。北斗のホームレス、あれ、行ってみる価値はあると思うんだが、どう思う」
 不破もその辺は気になっていたようで、杏と同じようにテーブルに両肘をついて座った。
「あの緑川が誰と繋がっているのかわかれば問題解決ですね」
「そうだな」
「金沢に行きますか」
「勤めてる高校はわかるが、行っても何も出来ないだろう?」
「尾行すればボロ出すんじゃないかと」
「それもそうか」
「バグとビートルも連れていけば。撮影録音できるのはすごいですよ。使える」

 その日、剛田はE4に顔を出さず、夜になって杏と不破は連れだってE4を出た。
 自宅で金沢行の話を詰めていた。
「やっぱり行こうよ、不破」
「賛成。ただ、剛田さんが許してくれるか、だな」


 翌日、E4に揃った杏と不破。
 剛田がくるなり、その前に立って敬礼する。
「なんだ、お前たち。突然」
 杏と不破はお互い小突きあった。結局、不破が剛田に話すことになったらしい。
「室長。金沢に行かせてください」
「どうしてだ」
 不破は、設楽が人物検索システムでヒットした顔が青森のFL教実験棟に入って行ったホームレスと酷似していたことを話した。
「で、その教師を尾行すれば、何か手掛かりが掴めるんじゃないかと思って」
 杏が最後の美味しい部分を補足する。
 
 剛田は少し考えているようで、顎を撫でながら唸っている。
「ダメ?」
 杏がダメ押しをする。
「1週間やる。それまで見つけられなかったら、他の方法を考えろ」
 杏は握り拳を高々と上にあげる。
「よし!」
「五十嵐。今回は金沢で勝手知ったる我が家とはいかないだろう、皆を引き連れていけ。バグとビートルもだ。北斗は顔を見られていないとは限らないから、留守番だ」
「じゃ、西藤と倖田、あたしと不破がコンビを組みましょ」
 剛田が思い出したように杏を呼ぶ。
「五十嵐。新型のオスプレイがE4に配備されることになった。向こうの警察府には私から話す。伊達空港からオスプレイに乗ってくれ」
「了解」
 皆が立って、剛田に敬礼する。
 
 金沢に行く杏たち。車で行けないこともないが、オスプレイは色々な意味で便利である。オスプレイの操縦をできる者は今、E4にはいない。ESSSから操縦士を調達して、金沢に飛んでもらうことにした。
「今日は一日天気がいいし風もないから」
 操縦士はそれだけ言うと操縦に没頭し、杏たちが何を聞こうが答えない。
 新型っていうけど、どこが新しいんだろう、と杏は首を捻る。でもまあ、これも西條監理官がお膳立てしてくれているのだろう。
 有難い。
 
 金沢まで30分~45分の予定で伊達空港を飛び立ったが、金沢空港に降り立ったのは40分後、午前10時だった。
 市内までは警察府の車を借りる手配がなされていた。
 これも西條監理官からのサプライズだろう。

 金沢市の警察府に到着後、杏たちは2手に別れ、警察府車両に乗せられバグとビートルを1機ずつ従えてカメレオンモードになる。
(いいか、勤務しているのは市立金沢西高校。自宅は金沢市能登町3-4-4だ)
 西藤の声が聞こえる。
(どちらに行きますか)
(私と不破は高校に。西藤と倖田は自宅を見張れ。ビートル、お前は不破の後ろにつけ、バグは西藤の後ろだ)
(了解)
(ラジャー♪)
 相変わらず緊張感のないバグたちだが、撮影録音機能は別格だった。それがあるのとないのとでは天と地ほどの差がある。
 以前のバグたちをパワーアップしたようで、彼らにも今は魂が宿っているのではないかと思う杏だった。

(今なら高校にいるはずだ。西藤と倖田は少し休め)
 そして杏は不破とビートルを従えて高校へ急いだ。
 こちらも今のところは動きがないだろう。
 正門に杏とビートルが、裏門に不破が張りつく。
(昼休みになったら一度校内に入るぞ、不破。ビートルはこのまま待機)
(了解)
(リョウカイー)
(ビートル。少し緊張感を持て)
(ダイジョウブー)

 張り込み出したのが午前11時。
 1時間が経った。校内に昼休みのチャイムが鳴り響く。
(不破、入るぞ。生徒にぶつからないよう気を付けろ)
(了解)

 二人はそれぞれ校内に入り、教員室を探す。
 最初に辿り着いたのは杏だった。
 そして廊下に張り出されている教員室の席辞表を確認する。
 
 あった。緑川の名前。
 第一目標、クリア。

 不破も校内に入り、緑川本人を探していた。
(教員室に入った様子もないし、今日は非番ですかね)
(どうかな。取り敢えず、あとは校門と裏門に回るぞ)

 昼休みの喧騒は、チャイムとともに静けさを取り戻す。
 午後の授業が長く感じる杏。
 高校に行った経験のない杏は、授業とは如何に退屈かを思い知らされた。

 午後2時半。やっと授業が終わった。
 チャイムと同時に、生徒が走り出す。
 帰る者あり、部活動に出るため着替える者あり。
 生徒がいなくなった教室では、教員たちが見回りして残っている生徒に部屋を出るよう促していた。
 その中に、緑川の姿は無かった。
 教員室はほとんど扉が開くこともないから、そこで突っ立って待っていても無駄のような気がした。
 正門からも、裏門からもあの写真の男は現れない。

 杏は、手ぐすね引いて待っているというのに、本人が出てこないため癇癪を起こしそうになっている。
(やはり今日は休みか?)
(学校は警察と違って平日に非番はないはずですよね)
(教員室が見える窓はあるか?)
(探してみます)
 不破が校舎を出て教員室が見える窓を探している。
(ありました。あの席辞表の机に座っている人物はいません)
(こっちは不発に終わったか。おい、西藤、倖田。そちらはどうだ)

 倖田が声を低くしている。
(こちらにも戻っていないようです、どうします?)
(夜になったら私と不破が交代するから、酒でも飲んで来い)
(チーフたちは?)
(マイクロヒューマノイドに食事なんぞいらん)
(では、お言葉に甘えて。今は自宅サイドにいますので)

 杏はふと気づいた。
 警察車両でも何処かに隠しておくんだった。緑川の自宅まで何キロあるんだ?
 流石に走りっぱなしでは、マイクロヒューマノイドと言えども疲労蓄積の憂き目に遭う。いざという時、MAXのパフォーマンスが出来ない可能性もある。
 では、一旦ここは警察府に出向くとするか。
(不破、警察府まで走れるか)
(いやあ、自信ないですね)

 警察府まで、ダッシュで走り続けて30分。もう外は暗くなりかけていた。
 西藤たちも腹が減ったことだろう。
 警察府に入って剛田室長にダイレクトメモを送り、室長から警察府車両を2台借用できないか交渉してもらった。
 あまりいい顔はされなかったが、電脳汚染関係ということで特別に古い覆面パトカー車両を借りることが出来た。

 こうして、2台の車を緑川の自宅近くの駐車場に止め、西藤や倖田と張り込みを交代した。
 緑川は、夜遅く午後11時過ぎに家に戻った。
 家の中で、奥方らしき女性と喧嘩している声が聞こえる。
 話す内容までは全部は聞き取れなかった。
 学校に電話でもしたのだろうか、今日は休んでいると言われて奥方は半ギレ状態らしい。
 別に、給料さえ手にすればいいじゃないかと杏は思う。
 働いてないなら手も口も出すな、というのが杏の持論。
 とはいえ、互いにDVはいけない。
 暴力は暴力を生むだけで、なんら解決の糸口が見つかるわけではないから。


 1週間の1日目は、不発に終わった。

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 2日目。土曜日。
 緑川は家から出ようとしなかった。
 西藤と倖田を午後まで車の中で休ませ、杏と不破が家の中外を見張っていた。
 午後になったら西藤と倖田に張り込みを頼む。
 日がな一日、緑川邸を見張っていたが、動きは無かった。


 3日目。日曜日。
 奥方の要請であろうか、緑川と奥方が連れだって車で出かけた。
 西藤と倖田を緑川邸に残し、杏と不破は車を追った。
 ディスカウントスーパーでの買い出しのようで、緑川がカゴを持ち奥方はかごの方を見向きもせずに食材を入れていく。
 この二人の関係性が分る出来事だ。
 要は、二人ともお互いを嫌っていることは確かなのだが、離婚といった大事(おおごと)までは持っていきたくないらしい。
 同じ空気を吸ってられないと離婚する夫婦が多いのだから、これくらいならまだマシか、と杏は不破に囁く。
 

 4日目。月曜日。
 緑川は午前7時に家を出た。
 高校まで車で30分。
 車での尾行は、ただ後ろに付けばいいというわけではないから難しい。
 離れてみたり、追い越してみたり。
 そうこうしているうちに、勤務先の高校に着いた。
 車の車種や色、ナンバーは全部バグとビートルに記憶させた。あとは、高校敷地内にカメレオンモードで入り、杏がGPSを車の真下に取り付けた。
 これで仕事がやり易くなった。
 帰宅は午後7時。
 そこからは西藤と倖田に任せ、杏と不破は深い眠りに落ちた。


 5日目。火曜日。
 車を換えてまた杏と不破が尾行する。
 前日と同じで、この日も午前7時に出て帰宅時刻も同じ。
 特にかわった点は見られない。
 
 剛田室長から言い渡された1週間の期限まで、あと2日。
 杏は少々焦りつつあった。


 6日目。水曜日。
 朝の5時。
 バグが車のドアを叩く。杏も不破もまだ深く寝入っていた。
(う、ん。どうした、バグ)
(GPSガウゴキダシタヨ)
(なにっ)
 西藤と倖田は、半落ちしていた。
(西藤、倖田!緑川の車が動き出した!本人かどうか確認するため、尾行しろ!)
 その言葉で叩き起こされた2人は、慌てて緑川の車を追いかけた。

(不破、起きろ!)
 1日12時間の尾行で、疲れていたのだろうか。不破はまだ目を覚まさず運転席を占領していた。
 あー、めんどくさい!
 後部座席で横になっていた杏は、運転席の方に回り込み、後ろから耳元で叫んだ。
「不破―、起きろーーーーーっ!!」

 驚いた不破が、きょろきょろと左右を確認している。
(GPSが動いた。西藤と倖田に尾行を頼んである。こっちも付いていくぞ)
(ふえーい、了解・・・)
(まだ眠いか、なら、私が運転しようか)
 不破は途端にシャキッと起きた。
(チーフに運転されたら寿命が100年縮まりますから。僕が運転します)
(それならお願いするか)
 不破は口にしないが、杏の運転は反則級だ。急発進、急ブレーキと急ハンドルがセットになっている。乗った者は皆、寿命が縮まると嘆く。
 だから、絶対に運転させない。
 あの剛田でさえ、杏の運転する車には乗りたがらない。渋々乗っているが。
 それを気にしていないのは杏だけだ。いや、わかっていて脅しているのかもしれない。
 普通どおりに運転も出来るはずだ。確か傷心の北斗を乗せて走ったことがある。

 杏はなおも西藤たちと連絡を取り合っていた。
(西藤、緑川はどこに向かっているんだ?)
(たぶん、ゴルフ場だと思います、このカーナビに寄れば)
(古い車だからな、カーナビも古いんじゃないか)
(さあ、どうでしょうね)

 GPSを付けた緑川の車は、本当にゴルフ場に向かっているらしかった。
 知らないふりをして、西藤たちの車もゴルフ場に入る。
 一足遅れて、不破の運転する車もゴルフ場に入った。

 緑川の車が見える場所に車を停め、カメレオンモードで緑川に近づいた杏。
 次の瞬間、あまりの驚きに心臓が止まるかと思ったほどで、思わず身震いしてしまった。
 そこにいたのは、紛れもない、安室玲人(あむろれいじ)元内閣府長官だったのである。

 杏は西藤と倖田に事情を聞く。
(どうして安室がここにいるんだ?逮捕されて刑務所の中じゃなかったのか)
(チーフが向こうに行っている間に、保釈金を積んで釈放されたんです)
(有罪判決だったと記憶しているが)
(それは春日井が地裁や高裁、メディアを脅したからで、最高裁では一転無罪判決が出ました)
 杏が観た朝鮮国のニュースでは確かに有罪判決なはずだったのだが、本当のことが放送されなかったのだろう。適当なニュース番組に騙されたというわけだ。
 まさかここで安室と会うとは思わなんだが、会ってしまったものは仕方がない。今日は愛人連れではないらしい。
 別れたか。

 杏が皆に今日の行動を指示する。
(事情は分かった。皆、安室や緑川の周辺でカメレオンモードのまま、会話を聞いてくれ)
(バグ、ビートル。二人の顔が分るような撮影と、会話内容の録音も頼む)
(アイアイサー)
(くれぐれも、ボールの邪魔はするなよ)

 緑川は、酷くビクついているようだった。
「安室先生。近頃また、校内や自宅周辺に誰かいるような気がします」
 安室と呼ばれたその男は、中肉中背で白のポロシャツに紺のパンツを穿きピンクのベストを着用していた。一見優しそうな目鼻立ちをしているが、奥に光る眼光は鋭く、春日井と1対1なら負けてはいない、そんな雰囲気が辺りを包む。
 実際、春日井は政治生命を絶たれたが、安室は引退しただけ。今でも後輩政治家に対し何がしかの影響力を持っているのだろう。

 その安室が、緑川に何か告げた。杏のいる場所からは見えなかった。
 早速、ダイレクトメモを使う杏。
(今、安室は何と言った?陰に隠れて見えなかった)
 倖田がベストポジションをキープしているらしい。
(そんなに心配するな、といったようです)
 杏が口角をあげて笑う。
(心配事か、金沢市の電脳汚染のことだったりしてな)
 杏は3人にプレーが終わったら知らせるように指示を出し、自分は緑川の車に向かった。GPSを取り外すためである。
(私はGPSを外す。おい、設楽。聞こえるか)
 杏は遠く離れたE4のIT室に篭る設楽を呼んだ。
 何度呼んでも返事がない。
 オーバーホールしていないからか?と怪訝な顔をする杏。
(む、はあい。こちら設楽)
(寝ていたな)
 設楽は途端に声を1オクターブほど下げる。
(チーフ。そんなことありませんよ、ほら、隣の八朔が寝てるんです)
 八朔が設楽に反旗を翻した。
(嘘だあ、寝てたのは設楽さんです)
 呆れ顔の杏。
(どっちでも構わない。緑川と亡くなった教師たちの接点を探りたい。調べろ)
(え、亡くなった教師って、ゆうに100人超えますよね)
(それがどうした)
(え、いや、調べます)
(いいか、寝る暇があったら調べろ。私たちは明日伊達市に戻る予定だ。その時まで調べ上げとけ)
 設楽はすぐに根を上げる。
(無理ですって、チーフ)
(口答えする暇があったら手を動かせ)
 杏は首を横に振りながら考える。
 設楽は、技術は普通以上の物を持っているのに、なぜあんなにグータラなのか。あれでは八朔も引きずられるに違いない。
 北斗のように生真面目になれとは言わない。せめて、西藤や倖田くらい真面目にやってくれればどこからでもオファーがくるだろうに。
 そんなことを考えつつ、緑川の車を探す。
 
 あった。緑川の車。
 結構な死角になっている。杏はカメレオンモードを外そうか迷ったが、万が一を考えてカメレオンモードのまま、車の下に潜った。

 取り付けた場所はわかっていた。杏自身が取り付けたのだから。
 車の中央部下。運転席側から潜ったまま手を平らにしてGPSを探す。
 
 ない。見つからない。

 杏は焦って、車の下を全部手で弄(まさぐ)った。
 どこにも見当たらない。
 ここに来るまでは取り付けられていたはず。
 西藤と倖田がここに来れたのもGPSがあったからだ。

 まさか、バレたのだろうか。
 いや、今はプレー中で緑川がここに来た様子もない。
 もう一度下に潜るか。

 今度は助手席側から顔だけ潜って手を伸ばす。
 やはり見つからなかった。

 その時だった。
 カツカツと足音がした。
 段々高くなるその音。

 誰かがここにくる。

 直感的に、緑川本人だと当たりを付けた。緑川は、助手席側の後部座席に用があるらしく、ドアを開ける。
 そして何かを探していたようだったが、無かったのだろう。諦めてプレーに戻るのかと思ったら、今度は運転席のドアを開け、エンジンをかけた。
 助手席スレスレに身体を寄せた杏だったが、このままでは轢かれてしまう。
 緑川は車をバックで発進させた。
 ドン!と音がする。
 緑川は不審に思ったのだろう。運転席から出て、周囲を見渡した。
 何も転がっていないのを確認し、また運転席に戻る。
 
 土壇場で、杏は手で車を持ち上げ顔を出し、手を離したのだった。

 結局、緑川の車からGPSを発見することはできなかった。
 さて、どうしたものやら。
 明日、緑川が高校に車通勤すれば、またその時に取るとするか。

 杏はプレー場にいる3人にメモを飛ばす。
(緑川は帰ったようだが、何か揉め事でもあったのか)
 不破が出た。
(特には。ただ、安室が緑川に「俺達は運命共同体じゃないか」と言っていました)
(他に会話は?)
(緑川が風邪気味だったらしく、安室が風邪薬を渡していましたね)
(それでプレーを中止したのか)

 今度は倖田から返事があった。
(GPS、取り外しましたか)
 杏が困惑気味に語る。
(それが、なかった)
(ない?)
(全部調べたんだが、なかった)
(下に落ちたのでは)
(緑川の車があった場所を探しているが、落ちてない)
(すぐ戻ります)
(ああ、皆も戻ってくれ。安室一人なら会話もないだろう)
(了解)

 皆が駐車場に戻ってきた。
 安室の独り言を録音するためバグとビートルをゴルフ場に残し、4人は2台の車に分乗する。
(バグ、ビートル。安室のプレーが終わったらすぐに緑川邸に戻れ)
(ハーイ)

 ゴルフ場を出た杏たち。
 GPSを起動したが、反応は無かった。
(安室側が気付いたとは思いにくいんだが)
 杏の言葉を引き取る西藤。
(そうですね、破壊されているようです)
(それならそれでいいか。緑川がビビらない程度に)
(尾行がついていることを勘付いたのでしょうか)
(わからん。誰か他に追い掛け回しているやつがいるのかもな)

 緑川邸に戻った杏たち。
 時刻は午前11時30分。
 車は車庫に入っている。また家の中から奥方のヒステリックな声がする。
 どうやら、緑川はもう出掛けないらしい。
 今日も高校は休み、というわけか。

 翌日。
 杏たちは緑川を追うことを止め、帰りもオスプレイで伊達市に戻った。

 安室と緑川の接点が見えた。
 あとは、どうやって電脳汚染を広げたか、核心に迫るだけ。
 麻田の言ったオリジナルとは、安室が考えた策だったということか。
 実際に動いたのは、たぶん緑川。
 安室は共謀共同正犯。
 共謀共同正犯とは、共同で行った犯罪ながらも意思決定にのみ絡み、実行を別の人間に行わせる形態の共同正犯とされる。

 安室は、どう転んでも自分に捜査の目が行かないように画策していたというわけだ。
 本当に小賢しい。
 緑川が事実を語りそうになったら、また殺す気ではあるまいな。

 杏の心は、近頃いつも独り言オンリーだった。

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 
「おはよう」
 珍しく、眠そうに起きてくる杏。
 不破はもう起きていて、剛田は出勤の準備をしている。
「剛田さん、いってらっしゃい」
「杏。お前も着替えなさい。向こうで眠そうな顔はするなよ」
 剛田の一言で、杏はしゃっきりと覚醒する。
「了解。ここを出るときはいつもの五十嵐杏になるから」
「ならいい。二人とも、気を付けて行きなさい」
 剛田がドアを開けて外に出ると、杏は肩を竦める。
「まるで子どもに言い聞かせてるみたい」
 不破が口を挟む。
「俺たちのことを心配してるのさ」

 杏と不破は、お互い着替え終わったのち、E4に向けて歩き出した。片道3キロ。30分あれば着く。
 歩きながら、杏は金沢での一週間を振り返っていた。
 緑川発見、安室との接触確認。
 オリジナルの意味。
 突如として消えたGPS発信機。
 共謀共同正犯。
 まず、案を練ったのは安室。それを持ってオリジナルと称したのかもしれない。

 そして、実行犯は麻田導師と緑川。スポーツ選手の中にも誰か実行役がいるのだろうか。いるとしても、そいつの正体はまだわからない。もしかしたら、そいつも一緒に侵襲性アスペルギルス症を発症して死に至ったのかもしれない。
 ただ、生き残るケースもあり得ないではない。
 その場合、闇は法の下に筒抜けになるだろう。
 何とかして葬り去らねばならないはずだ。

 緑川は、安室に命令されホームレスに化けて青森の実験場に入り、アスペルギルス・フミガーツスを手に入れた。そして実験場では電脳化されている者にカビと免疫抑制剤を投与し、汚染させられるかどうかの実験を重ねたに違いない。
 何体かの電脳済人間をカビと免疫抑制剤で死亡させ、或いは脳を弄(いじ)ってカビを植えつけたのかもしれない。
 あの実験棟から出てきた人間は、殆ど脳が減ったとしか思えない体重変化だったという。
 いずれにしても、緑川は、実験を成功させたのち金沢に戻っていた。
 緑川自身はアスペルギルス・フミガーツスを隠し持ち、免疫抑制剤を自分に投与することなく生活、教師たちに向けた電脳汚染のXデーを待っていたと思われる。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

「おはよう」
 いつもどおりの低い声と黒の革パンに白のJジャンを羽織った杏がE4室内に入った。不破も一緒に。

「チーフ、調べましたよ、調べましたとも、ええ」
 設楽の恨み節が聞こえる。
 幻聴では無さそうだ。

 設楽が八朔まで巻き込んで調べた教師の死者100人余り。
 それら死者たちは、緑川と接触した者が殆どだった。
 多分、カビと免疫抑制剤をコーラか何かに入れ、さもなくば風邪薬に混入させて飲ませ、最終的には免疫抑制剤を飲んでいる状況と同様にしていたと考えられた。
 風邪薬は往々にして苦いものだ。カビっぽいと分っていても、ほぼほぼ全員が飲んだことだろう。
 いや、風邪薬はカプセルも多いから、カプセルに両方を入れてしまえば済む。

 風邪薬、免疫抑制剤・・・。
「しまった!」
 皆がキョトンとする中、杏が不破、西藤、倖田に確認する。
「安室が渡したのは、風邪薬だったな!」
「そうです」
「安室は緑川を始末する気だ!」
「なんだって?」
 西藤が急ぎ室内のモニターをつける。
 ちょうどニュースの時間帯。
 全国ニュースでは、金沢市で再び教師が電脳障害を起こし死亡したことを伝えていた。

「・・・亡くなったのは、金沢市能登町に住む緑川純斗(みどりかわすみと)さん、46歳です。緑川さんは、昨日午後2時ごろ急に呼吸困難に陥り、病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。これで金沢市の電脳障害死者は・・・」

 ドン!!
 杏が拳を壁に叩きつける。
「昨日のうちに気が付いていれば・・・」

 活字オンラインで詳細を追う北斗。

 緑川は、風邪気味と言ってゴルフを止め午前中に家に戻り、午後1時ごろに風邪薬のカプセルを飲んだ後、午後2時を過ぎたあたりに、急に呼吸困難に陥った。
 そして国立金沢大学病院に救急搬送されたが、病院に着いた時には既に心肺停止状態だったという。
 市販の風邪薬を飲んだということで、成分を検出するために司法解剖が行われたが、妙なことにかなりな量の免疫抑制剤が検出された。
 金沢市警察府では、事件の可能性もあると見て捜査本部を立ち上げたが、風邪薬をどこから調達したのかが分らず、捜査は足済み状態が続いている、とのことだった。

 西藤が活字オンラインを見ながら独り言ともつかぬ発言をする。
「これは迷宮入りになりそうですね」
 あの時一番解り易い場所にいた倖田が様子を伝えた。
「カプセルを渡したのは、キャディーさんもいないときだったから」
「安室にしてみれば、実行役がビビッて何かを話そうとする、まあ、麻田導師も同じ何ですが、それを肌で感じるのかも知れない」
 杏も口を挟む。
「麻田のときのように先手を打つな、安室なら」
「今回はW4がいないから狙撃できなかったんでしょう」


 その時、剛田室長が部屋に入ってきた。
「皆、電脳を繋げ」
「了解」
 皆が耳たぶを押す。
(今一度、事件を整理する)
 剛田は時系列で事件の概要を整理し、皆の意見を求めた。
(まず、青森の実験場から事件は始まっていた)
(北斗が見た通り、ホームレス姿で実験場に出入りしたのは緑川に間違いなかろう)
 北斗に同意を求める剛田。
「な、北斗。何回くらいホームレスを見た」
「僕が見たのは1回きりでした」
 たまたま北斗が見たのは1回だったようだが、きっと緑川は何度も青森の研究所に出入りしていたに違いない。
 そして、命令されアスペルギルス・フミガーツスを持ちだした。
 その後、電脳化している公務員関係者を引き摺りこみ、電脳汚染できるかを実験した。
 実験は成功したと見える。麻田導師たちが喜んでいたことからもそれが窺(うかが)える。
 実験成功を受けて、緑川は金沢に戻った。


 次に設楽から説明があった。
(亡くなった教師たちは、皆、緑川と何らかの形で接触していました)
(ゴルフが趣味だったこともあり、毎週のようにゴルフにいったり、教師の集まりがあると必ずと言っていいほど顔を出していたそうです)
(そこで、カビと免疫抑制剤が投与されたわけです)

 杏が手を上げて設楽に質問する。
(どうやって?)
(ビタミン剤を砕き一度バラバラにして混ぜて、免疫抑制剤を固めたものと一緒にもう一度混ぜて、瓶に入れていたようです)
(今回の緑川殺害方法のように、風邪薬として渡したこともあるらしいです)
(飴玉と混ぜる方法もあったみたいです)
(渡しても口に入れなかった人は助かっていました。警察は内偵してたらしいですよ)

 杏がもう一度手を上げる。
(なぜ自分が使った方法なのに、安室からもらった風邪薬を飲んだのかしら)
(自分だけは殺されない、と高を括っていたんじゃないですかねえ)
(どの事件でも、子飼いを殺(や)るのは常套手段よね)
(確かに)

 今度は、西藤が剛田や設楽の顔を見る。
(スポーツ選手の電脳汚染が解明できていません)
 設楽は満面の笑みを浮かべ、杏に拳骨を食らう。
(スポーツ選手の寮の近くで不審者情報が浮かんでいます。ここでは、飲料水の自動販売機の取り出し口にペットボトルを置いていました)
(プロたるもの、飲まないだろう。今のご時世禁止薬物だって出回っているのに)
(それがね、そうでもないんですよ。志の高い人は飲まないんですけど、どうも、そこまでいかない人はラッキーと言わんばかりに飲んじゃうそうで)
(でも、恥ずかしくて言えないな、助かったとしても)
(そうなんです、痛いところを突いてくるんですよ)
(そのばら撒きも緑川の仕業だと?)
(FL教が無くなりましたから。本当だったら、FL教が担うべき役割だったようです)
(なるほど)

 杏は電脳を解いて、北斗に事の次第を説明した。
 北斗は、設楽が昨日大声で自慢したと苦笑する。

 杏は背を椅子に真っ直ぐに伸ばしながら、考えていた。
 安室はカビを体内に取り込んでいるのだろうか。いや、共謀共同正犯である安室のことだ、自分の身だけは守っていることだろう。

 この金沢市の電脳汚染こそが、安室元内閣府長官が目指していた電脳汚染であり、Xデーの解禁。
 侵襲性アスペルギルス症という重篤な病気を蔓延させ、電脳関係者に、自分への忠誠を誓わせるつもりだったはず。
 一般人で健康な人は掛からないわけだから、年寄りの始末にも役立つ。
 赤ん坊は、死ぬときは死ぬくらいにしか考えていない安室。
 W4が解散同様になったのはいたいが、またどこからか引き抜いてくればいい、そんなことはどうにでもなる、と考えているに違いない。


 犯罪のトップが分かっているにも関わらず、安室を挙げる手立ては今のところない。
 緑川の証言が不可欠だったのに、その緑川さえもが安室によって葬り去られた。

 E4の捜査も空しく、事件は長期化の様相を呈していた。
 緑川が死んだことで、金沢の電脳汚染は終息しつつあった。
 E4では、ゴルフ場でのやり取りと写真を警察府に提出した。

 警察府上層部は、それを証拠にするつもりだったのか、電脳汚染の共謀共同正犯として安室元長官を再逮捕した。
 取り調べで、総てが明かされる。国民の目が金沢に向いたその時。
 なんと、安室は警察府のビルから出ようとしたところをどこから狙ったかわからないスナイパーに射殺されたのである。

 今回の狙撃に、E4は関わっていない。
 もしや、W4の面々。
 E4の誰もがそう信じた時。
 九条と一条、三条がESSSに現れた。

 杏が九条に尋ねる。
「どうしたの、こんなところで」
 飄々とした九条。
「取調べです、先日安室元内閣府長官が狙撃されたでしょう」
「あれは、あなた方の手法なの?」
 苦笑しながら答える九条。
「まさか。我々はあのような暴挙には出ません」

 どこからも犯行声明は出なかった。射殺犯も炙り出せず、射殺理由さえ不明。
 真実が世に出ないまま情報は錯綜、金沢市は混沌とした空気の中、捜査も膠着したにかに見えたに思われたが、槇野総理は、全ての責任を安室元内閣府長官に被せ、早々に幕引きを図ったのだった。

 

第8章  ノスタルジック・メモリー

 九条から剛田に、逢坂が日本に戻ってくると連絡が来た。
 約20年ぶりの帰国だという。

 逢坂が朝鮮国に渡ったのは2110年。
 まだ朝鮮国が統一される前のことだった。
 
 逢坂は、日本に来て九条家に世話になるのも嫌だからと、九条を伊達市に呼び寄せてホテルに滞在していた。
 杏とも話をしたいということで、部下の手前もあるというのに、杏は勤務をほったらかしにしてホテルに向かった。

 伊達市にも、国外からの旅行客向けのホテルが何軒かある。
 逢坂はそのうちの一軒に滞在することにしたようだ。
「帝国ホテル伊達までお願いします」
 タクシーを拾ってドライバーに告げる杏。
 
 ホテルは50階建。
 1階と2階はブランドショップが入り、ホテルフロントは3階にある。
 エレベーターで3階に上がると、フロントで逢坂の滞在する部屋を尋ね、前もって訪問する旨のアポを取る。

 逢坂の滞在している部屋は、20階。
 エレベーターで20階まで上がり、逢坂が滞在している2010号室を目指し歩き始めた。

 杏は部屋の前に着くと、ドアをコンコン、とノックした。
 当然、逢坂が出てくるものだとばかり思っていた。

 ところが、ドアからぬっと顔を出したのは九条だった。
「ようこそ」
 にこやかに向か入れる九条に、杏は少し面喰う。
「あなたも呼ばれていたのね」
「僕は叔母の隣に部屋をとっているんですよ」

 杏を中に招き入れる九条。物腰が柔らかく、洗練された動き。やはり華族の出を彷彿とさせている。
 ホテルは、それなりに街の表情を映し出していた。
 ESSSが入るビルより少し背が高いので、20階でも街を一望できた。

 杏は、街を一望できる窓に一瞬だけ目をくれた後、逢坂の前に近づき挨拶した。
「またお会いできて嬉しいです。向こうにいる間は、本当にお世話になりました」
 逢坂はうふふ、と笑う。
「他でもない剛田さんのお願いだったもの。あなた方も大変な思いをしたでしょう」
「逢坂さんがいなかったら、と思うと。陸軍に捕まっていたかもしれません」

 九条も同じ意見だった。
「あの島にも陸軍が来ていたので僕も驚きました。叔母が食糧など身の回り品を持ってきてくれたから助かったようなものだ」

 逢坂はまた、うふふと笑う。
「あなた方は日本にとって必要な人材だわ。私が助けるのは当たり前のこと」

 杏はまた、頭を下げる。
「生活全般に及び色々とお気遣いいただきました。2年間、短かったと言えば嘘になりますけど、逢坂さんのお蔭でハッピーな2年を過ごせたと思っています」

 九条ももっともらしく頷く。
「叔母様はとても気遣いの素晴らしい人だから。僕は小さい頃の思い出しかないけれど」
 ふふふと笑う逢坂。
「尚志(ひさし)くんは暴れん坊だったわねえ、昔から」
 九条の顔と耳が赤みを帯びる。
「叔母様、あれは昔の話ですよ。こんなところで言わないでください」
 杏は逢坂の耳元に素早く移動し、囁く。
「九条さんはどんな子どもだったのですか」
「5歳の頃だったかしら、家にある大きな木に登ってしまって、降りられなくなったの」
「それで?」
「消防車に来てもらってレスキューしていただいて。あのときは私と義姉(あね)しかいなかったから、二人とも木登りなんてしたことないでしょう?パニックよ、みんな」

 ほほほと笑う逢坂。
 杏はぷぷぷと息を殺して笑う。反対に九条は、少し怒ったような表情を見せつつ、口角を上げながらも白い歯を見せている。
「叔母様はそういうことばかり覚えているのですね、僕だって大人しくしている時が多かったのに」
「そうね。九条の家は窮屈だったもの」

 そういったまま、逢坂は遠くをみるような目をして溜息を吐いた。

 九条も察するところはあったのだろう。
 何も喋らない。
 杏は5歳と聞き、自分が生を受けたとする年齢と重なり、研究所での嫌な思い出が次々と蘇った。

 逢坂は、剛田から聞いていたのかもしれない。
 杏の5歳当時のことを、何も聞こうとはしなかった。
 九条は杏が試用体として生まれたことを知っている。だから何も話そうとしない。
 
 杏は複雑な感情が心の中に入り乱れた。
 こんな立派な家系と、あたしのような試用体。
 神が本当にいるのだとしたら、なぜ今、究極の2つを同じ空間の中に置き去りにするのか。
 これがあたしのとっての試練だとでも言いたげに。
 試用体であることを卑下するべきではないと剛田や不破は言うけれど、杏は誰にも試用体だった過去を告げていない。
 剛田と不破以外にそのことを知っているのは、たぶん、W4にいた九条と、IT担当だった四條くらいのものか。
 三条は知っていれば顔に出そうだが、今のところそういった目で杏を見ることはない。

 なぜ、この空間にあたしは居る・・・。
 

 逢坂が杏の思いを吹き消すように席を立った。
「2人とも、ランチに付き合ってちょうだい。お腹が空いたわ」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 こちらのホテルのランチは好評だ。
 ビュッフェ式のランチゆえに、杏や九条などのマイクロヒューマノイドがいてもあまり違和感がない。
 マイクロヒューマノイド用の品もあったが、二人とも手は付けなかった。
 ここで、自分たちがマイクロヒューマノイドであると明かしたくないからだった。

 逢坂は結構大きな胃袋を持っているようで、次々と皿に取り分ける。
「食いしん坊なの、私」
 そう言って、またうふふと笑う。
 剛田を呼ぼうかと杏が提案したが、大食らいのところを見せたくないとまた笑った。

 逢坂は、現在の朝鮮国の動向や周辺の人々が日本をどう思っているかなど、小声ながらもあけっぴろげに話す。
 杏は剛田との出会いを聞いてみたかったが、ウインクされた。
 九条の前では聞くなという意志表示と捉えた。

 それにしても、夫が亡くなってなお朝鮮国に留まり続けるのは何故なのか。
 九条も疑問に思っていたから杏に話したに違いない。
 今聞いても逢坂は話しやしないだろうが、いつか聞いてみたいと思う杏だった。

「またいらしてね」

 ランチも終わり、ホテルのロビーで別れた逢坂と杏たち。
 九条は一旦毛利市に帰ると言う。
 逢坂が日本にいることをばらすのかと杏が聞くと、九条は眉をしかめデコピンの真似をする。
 この人は、そんなことをしない。
 杏は九条を信じていた。一方的かもしれないが。

 毛利市に帰る理由。
 一条と三条。彼らに今後もW4で働く気があるかどうかを確認するのだという。
 そういえば、W4は陸軍に捕まり、かなり酷い拷問を受けたと聞いた。
 漸く傷も癒えたというところか。
 でも、心の傷は癒えていないかもしれない。四条や六条はもうW4に参加しないといっていたらしい。
 身も心も、もうボロボロになったのだろう。


 万が一、あたしが同じ立場に立ったらどうするだろう。
 ま、仕事をしていないあたしはあたしじゃない。
 ミッションをいかにクリアするかだけを、5歳から10歳までの5年間、研究所で叩き込まれた。
 もう、血が、魂が、闘うことを切望している。

 杏は少々気難しい顔をしながら、E4へと向かっていた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 二日後。
 まだ朝の6時だというのに、電話が鳴っている。
 不破か剛田が受話器を壊してくれないかなと思いながらベッドで杏はごろごろしていた。
 誰かが電話をとったらしい。
「なんだって!」

 あ、受話器を取ったのは剛田だった。
 あとで叱られるだろうな、ちゃんと起きてとってくれ、老人をいたわれ、と。

 と。
 剛田が叫んだということは、かなり切羽詰まった状況を示している。
 基本、剛田は家の中でも騒がない。

 杏も不破も、剛田の声が気になって、ベッドから起き上がりリビングへと歩き出した。
「わかった。こちらでも心当たりを尋ねてみる」
 そういって、電話を切ったようだった。

「どうしたの、剛田さん」
「そうですよ、らしくない。叫ぶなんて」

「お前たちか。逢坂さんがいなくなったらしい」
 杏も不破も目を見開き、眠気がすっ飛んだ。最初に言葉を発したのは杏だった。
「今の電話、九条さんから?」
「そうだ、毛利市から戻って、朝の挨拶をしようと思ったらいなかったそうだ」
「どっかに出掛けたんじゃないの」
「ええ、あのホテルの近くにはコンビニありますし」
 
 剛田は部屋を行ったり来たりとかなり焦っている。
「あの人は出掛ける時に必ずフロントに断って鍵を預けていくクセがあるんだ。それがどんなに近くでも。今回はフロントに行っていない」
「コンビニの線は消えたというわけね」
「誰か知り合いに会いに行ったのでは」
「伊達市にいる知り合いは、俺だけだ」
「毛利市に行ったんじゃないの」
「毛利市なら、尚更鍵を預けていく」

 剛田は部屋の中をずっと歩き回っている。何年も一緒に暮らしているが、こんな剛田を見るのは初めてだ。

「誰か心当たりないの」
「あの人が朝鮮に行ってから、付き合いのある人は聞いていない」
「九条さんは何て言ってたの」
「毛利市関係を当たって見るそうだ。もう、隠れて訪日などと言っていられまい」
「兎に角、あたしたちも探してみましょう。不破、あなたはE4に行って」
「俺も探しますよ、顔知ってるし」
 剛田が不破に深々と頭を下げる。
 E4ではありえないことで、不破も驚いたらしい。
「済まない。今日は何かあったら西條専門官に裁量してもらう」
「そうね、何もないことを願うわ」

 
 杏と不破は、急いで着替えると、朝市の場所や山下公園、闇市の場所など、比較的人が集まり易い場所に顔をだす。写真を持っていないから、年代と凡その顔貌を述べるのみだったが。

 剛田は、古き良き時代の友人たちに電話をかけまくっていた。
 しかし、逢坂から連絡を受けた人間はいなかった。

 杏と不破が10時ごろに一旦自宅に戻ったが、剛田はまだ知り合いに電話中だった。
 手帳に一気にバツ印が増えていた。一体、何軒電話したのやら。

 昼を過ぎた頃、九条から再び電話が着た。
「どうでしたか」
「面目ない。こちらではまだ手掛かりがない」
「僕、今ホテルにいましたので、従業員の方々に話を伺いにいってまいります」

 不破は普段九条絡みだととっても冷たいのだが、今日は世話になった逢坂さんが行方知れずとうことで、一緒に探してくれている。
 もしかしたら不破は、九条も一緒に暮らすことになり家族が増える、ましてそれが九条だとなると杏との関係性が崩れるのが嫌なんだろうなと思うが、はっきり言って、杏は恋愛センスはマイナスだ。ゼロより酷い。

 
 その間、剛田はNSXに乗り市内を爆走していた。
 誰かに連れさられた事件なのか、あるいは自分から姿を消したのか。
 犯行声明も無ければ、書置きもない。
 今の時点では、どちらともつかぬ様相が渦巻いていた。
 
 杏はあることに気が付いた。
 E4の設楽は、確か人物検索システムがあるといった。
 人物検索システムと生イヌさえいればいいのではないか。
 取る物も取り敢えず、E4に出掛ける杏。
「ほら、あななたちも一緒に行きましょう」
 少し狼狽気味の九条や不破も、次いでに連れて行った。

 E4に着くと、やおら大声を出して設楽を呼ぶ杏。
「設楽、八朔。九条さんから受け取った写真を人物検索システムにかけてくれ」
「これ、誰ですか」
「お前たちは知らなくていい」

 杏の言葉を遮り、九条が設楽と八朔に頭を下げる。
「僕の叔母です。朝鮮国から帰国していたんですが行方が分からなくなりまして」
 九条の顔を見てW4の人間だと察したであろう設楽も八朔も、それ以上は何も言わず、すぐにIT室に篭った。
 早速、人物検索システムに九条から受け取った写真を読み込ませる。写真そのものは、空港に降り立った逢坂をスマホで撮っただけだが、できると豪語する設楽。
 人物検索システムが構築されたのが2115年。
 だから逢坂の職業や住まいなどは、今回認識できない。

 ただ、Nシステムや定点カメラ解析、そして警察犬などを組み合わせれば、かなりの確率で現在逢坂がいる場所が判明するという。

 新兵器を作動させてから3日が過ぎた。
 警察犬を投入したが、ホテルの近辺でその足取りは途絶えていた。
 タクシーなどの車両で移動したものと見られる。
 夜は定点カメラを赤外線バージョンに切り替えて探すのだが、日本海に沿っての捜索はかなり広範囲になる。流石の設楽や八朔でも、なかなか見つけるのは難しかった。
 杏や不破は、夜中になるとE4で眠りに落ちていた。ずっと寝ていないのは、九条と剛田、設楽、八朔だけである。

「あ、いた」
 設楽が情けない声を出す。
 九条と剛田は、声をシンクロさせて同じことをいう。
「いたか?」
「この人でしょう?」
 そういったまま写真を剛田に渡し、設楽は目を閉じて椅子から崩れ落ちた。
 八朔も、設楽の様子を見て椅子から立ち上がりソファに向かうとすぐさま横になった。
 
 写真を見た剛田は、直ぐに九条に写真を見せた。九条も頷く。
「間違いない。叔母です」
  
 見つかったのは、毛利市内の海岸だった。
 剛田と九条が直ぐに剛田の運転する2000GTに乗り込み毛利市に向かった。
 伊達市から毛利市まで、最低でも4時間以上かかる。
 取るものもとりあえずと言った体で、剛田はアクセルを全開にして高速道を走っていた。
 
 毛利市、海岸。
 もしかしたら、もう息が無いかもしれない。
 剛田と九条は運転を交代しながら爆走する。
 九条は写真の背景から、どこの海岸か、凡その察しがついたらしい。
 毛利市に入るとすぐに剛田と運転を交替し、海岸のほうへ向かう。

 波にうちあげられたようにびしょびしょの状態で砂浜に倒れていた逢坂。
 犬の散歩をしていた男性が見つけてくれ、警察や消防に電話したらしい。
 身体が冷たくなるのは、人間にとって非常に危険なサインである。
 九条が運転している間に、剛田は車の中から凄い勢いで走る救急車を見つけた。

 救急車が海岸に着くのと、剛田や九条が海岸に現れたのは、ほぼ同時刻。
 救急隊員は、息をしているか確認した。微弱ではあったが、呼吸が確認できた。隊員が救急病院に運ぶ手配をする。
 そして救急隊員は、身分証明になる物を探していた。
 そこに九条が名乗り出た。
「僕はこの人の甥です」
 多少訝る気配を見せた隊員たちだったが、九条はおろか剛田までが警察府の人間であることを確認すると、態度が軟化した。

 救急車には親族である九条が同乗することになった。
「何かあったら連絡を」
 それだけ言い残し、剛田はまた激走し伊達市に戻ったのだった。


◇・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 3日後。九条から剛田あてに連絡が来た。
 剛田は、頷きながら九条と話をしている。
 杏はとても気がかりで、剛田の電話が終わるのを待っていた。

 やっと、電話が切れた。
 剛田に突進する杏。
「容体、どうだって?」
「一応意識は取り戻したらしい」

「らしいって、変な言い方ね」

「記憶が欠落している部分があるようだ」
「欠落?」
「九条家に居た時のことは覚えているようだが、夫の逢坂のことや、韓国、今は朝鮮国だが。そこで暮した事を全て忘れているようだと」
「どうしたのかしら。電脳化したわけでもないでしょうし」
「それでもな、本人は朝鮮語や英語を覚えていたらしくて、朝鮮に関係ある職に就いていたのだろうと話しているそうだ」

 毛利市における大学病院に搬送され、1か月の入院を経ても逢坂は記憶を取り戻すことはなかった。九条の家に居た時のことは覚えているため、退院後は毛利市の九条家に戻ることになったという。
 
 逢坂が毛利市に転居するのと同時期に、九条がE4に現れた。
「僕は、叔母に危害を加えた者を許せない。朝鮮国でのこととはいえ、叔母には大切な記憶だったはずです」
「気持ちはわかるわ」
「どうです?今回、組みませんか?」
「うーん」
 剛田の方をチラチラと向く杏。剛田は知らんふりを決め込んでいる。痺れを切らした杏は、直談判に行った。
「逢坂さんの件、調べてもいいかしら?」
 剛田からの返事が無い。
 もう、行く気満々の杏。
「好きにしろ」
「ありがとう」

 剛田にハグすると、テンションを上げた杏が部屋から出ていく。
「じゃ、みんな。ヨロシク」

 杏は廊下を歩きながら横を歩いている九条に聞く。
「で、どの辺りから崩していくの」
「本木と名乗っていた男から」
「時系列で整理しましょう。近くのカフェにでも行って」
「そうですね」

 二人は、ESSSにほど近いカフェに足を運び、マイクロヒューマノイド用の珈琲を頼む。この2年の間の世界的な技術革新で、マイクロヒューマノイド用の食品が充実し始めた。
 レストランでの会食やコンビニ飯、カフェで飲む飲料水など、様々な物が外国から輸入されるようになったのである。

 九条は奥に陣取り、杏が持っている手帳に、時系列で逢坂の人生を書き込もうと提案した。

「生まれは2072年、第3次世界大戦中です」
「20歳の頃は何をしていたの」
「2092年か。大学4年生です」
「そのあとは」
「家事手伝いという名のプータローですね」
「そこまで言わなくても・・」
「で、叔母は本木に出会った」
「それは何年?」
「2100年前後です」
「何歳ごろ?」
「28歳くらいじゃないですか」
「嫁には行かなかったの」
「確かに行ってない」
「韓国に行ったのは?」
「2102年です。忘れもしませんよ」
「剛田さんが犯人のように聞こえるから、忘れてちょうだい」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

2072年       毛利市で出生
2088年  18歳  大学入学
2092年  22歳  大学卒業
2093年~ 23歳  家事手伝い
2100年~ 28歳  本木と逢う
2102年  30歳  韓国に渡る

◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 手帳には書かれていないが、重要な点が2つある。
 なぜ、二人は名字を変えてまで韓国に渡ったのか。
 なぜ、韓国~朝鮮国になってからの記憶だけが無くなったのか。

 本木の証言は得られっこない。もうとっくの昔にあの世にいると聞いた。
 であれば、本木の家族が日本に残っていないだろうか。
 九条は、本木が実は生きていて妻の美春に知られたくないことを知られたため、記憶を消そうと試みたのではないかという推論を杏に伝えた。そして、E4のIT室に行きたいといい出した。
 そこでなら、人物検索や全国民の情報データをハッキングできるという話をW4時代の四条から聞いたことがあるという。

 設楽がむっとする展開が読めないでもないが。

「じゃあ、最初に剛田室長に断りましょう」
 杏はそう言って九条を宥め、剛田にオンラインメモで話し掛けた。
(室長、こちら五十嵐。IT室で統計府にハッキングかけてもいい?)
(どうしてそうなった)
 杏は、九条が本木犯人説あるいは怪しい説を唱えているため、本木の家族に会いたいと言っており、そのために全国民の情報データが欲しいのだ、と素直に話した。
 雷が落ちることを覚悟して。


 向こう側にいるはずの、剛田の大きなため息が漏れ聞こえる。
 やっぱり、ダメかしら。
 暫く考えているようだったが、剛田の返事は違っていた。
「私がそちらに行く。今、どこだ」
「ESSSの近くのカフェよ」
「5分待ってくれ」

 5分きっちりの時間で、剛田が現れた。
「私が疑問に答えよう」
「わかりました」
 九条はそう言うと、剛田に向け質問を重ねながら次々と核心に迫った内容を解き明かそうとする。
 たまに声を荒げて。

 なぜ、二人は名字を変えてまで韓国に渡ったのか。
 
 これは、20年前に遡らなければならなかった。
 22年前に本木と美春は出逢ったが、決してお互いの第一印象が良いわけではなかったらしい。何でも、タクシーを拾いどちらが先に乗るかで大喧嘩をしたという。
 次に出会ったのは電車の中。
 痴漢に遭い声を上げようか悩んでいた美春に、本木が相手の腕をねじ上げて鉄道警備隊に渡したとか。
 二人にとって、最初こそ酷い出逢いだったが、2回目は心温まるエピソードだったようだ。
 何度か会ううちに恋心も芽生え、将来を誓い合うお付き合いを始めた。
 しかし、元華族である九条の家の壁は厚かった。
 出自が生粋の日本人ではないと言う、その理由だけで本木は人間以下の扱いを受け、九条の家の出入りを禁じられた。
 美春がどんなに『今どきそんなことなど関係ないと言うのに』と言っても、元華族たる九条家では考えを変えようとはしなかった。
 そして、本木の仕事は危ない橋を渡るも同然のもので、それは美春にも告げられなかった。今も美春は20年前の本木の本職を知らない。

 本木は、日本と韓国の二重工作員(スパイ)だった。
 日本の機密情報を韓国に流すふりをして、韓国の最重要機密を日本に持ってくるのが使命だった。
 韓国に知られれば、一発で銃殺刑になる身の上。

 だが、日本にいても美春と結婚できるわけもなく、本木はどんなにか悲しかったことだろう。
 本木は、結婚できずとも美春を影ながら見守ることを決意したらしい。
 リスクを伴う工作員という仕事をを辞める決意をし、当時公安にいた剛田に相談した。
 剛田は美春と別れることを勧めたが、二人を引き離すことはできなかった。

 それで、家に軟禁されていた美春を剛田が連れだすことになった。
 剛田が宅配業者の身なりをして、家人が宅配便につられて外に出た隙に、美春が裏門から出て偽の宅配便に乗り身を屈めて隠れたのである。

 二人は公安が使うような手で名字を変え、偽のパスポートで北米に渡った。
 剛田は、一旦海外に渡り整形手術を施した後、日本でも韓国でもなく、永久に北米で暮す案を提唱したが、最終的に本木は断った。
 スパイを辞める選択をした『本木』は、北米で整形し、教員免許をとり、『逢坂』として北米では朝鮮語と日本語の講師を続け、5年後に剛田の助けで何食わぬ顔で朝鮮に入り、英語、日本語などを教えていたという。

 美春は、夫が別人に見えるような整形手術をしたとき、「カッコよくなりたいのね」くらいにしか考えなかったのだという。強心臓のお嬢様である。

「私はこの計画のほぼ全てに関与した」
 剛田が頭を下げると、九条がとりなす。
「あたまを上げてください。僕は過去ではなく未来を見て歩いていますから」


 2つ目の疑問には、3人とも頭を抱えるだけだった。

 なぜ、韓国~朝鮮国になってからの記憶だけが無くなったのか。
 剛田は、確実ではないとしながらも、一つの計画を九条や杏に知らせた。

『朝鮮国の秘密組織の中には、脳を弄り長期記憶や短期記憶を司る分野を調製する組織があると聞く』


 美春を連れ去った犯人はわからずじまいだったが、九条はもはや本木レベルではなく、朝鮮国の秘密組織ではないかと想像していた。
 それなら、記憶分野を必要以上に弄るのも分かる。

 杏にとっては驚くばかりの内容だったが、いつの日か、美春が逢坂との幸せな日々を思い出してほしいと考えずにはいられなかった。

第9章  電脳汚染終息宣言

 金沢市での電脳汚染事件は緑川がいなくなった今、表面的に決着したかに思われたが、約3か月後、なんと今度は遠く離れた毛利市で再び電脳汚染が始まった。
 今回の汚染場所は、電脳化したゲルマン民族居住区内であった。
 第3国立科学研究所員が現場へ急行し、侵襲性アスペルギルス症かどうかを確認したが、確定診断とは至らず、引き続きカビの種類を特定することとされた。急ぎ研究が進められてはいたが、免疫力の落ちたお年寄りや免疫抑制剤を使用している人々が次々と亡くなっていく。
 その事実は、毛利市の住民はおろか、メディアを通じ日本国全体を震撼させることとなった。

 カビを持っていたのは金沢市に居住していた緑川だけではなかったのか。
 安室亡き今、真実を語れる者はこの世にはいない。
 金沢のアスペルギルス(=真菌)と違うとすれば、汚染源(=真菌)は何なのか、汚染源のオリジナルはどこなのか。
 皆目見当もつかない状況で、研究所でも大混乱を起こしているという。

 パンデミック(世界的大流行)だけは避けなければいけない。
 だが毛利市から金沢市への移動者は以前にもまして増えていた。金沢市での電脳汚染の際も行われなかったロックダウン(都市封鎖)を強行する大義名分がない今、内閣府の中でも意見は割れていた。

 ゲルマン民族居住区では、移民たちがパニック状態となり、町に出て暴徒化するものさえ出てきていた。
 今回の電脳汚染は教師やスポーツ選手などとの共通項も無く、感染経路は全くもって謎。
 ミステリーの世界に足を突っ込んでいるかのごとく、成り行きを見守ることしかできないE4の面々をあざ笑うかのように致死率のペースは上がっていった。
 
 陸軍から杏と九条に要請があるとすれは、暴徒化する市民あるいは移民を押し黙らせる役割。
 金沢で経験済みの杏だが。あれは真面目に語っても脳が吹っ飛びそうな悪しき感覚を齎すものだった。

 そんなある日のこと。
 剛田が朝早く家から出た。
 まだ眠りの中にいた杏と不破は、剛田がカギを掛ける音で目が覚めた。剛田が自分たちを起こさなかったことを不思議に思った杏がベッドから抜け出す。ベッドから転げ落ち物凄い音を立てた不破も、何食わぬ顔でついてきた。
「早いわね、剛田さん」
「うん、どこに行ったんだろう」
「毛利市」
「それはない」
「そうかしら?」
「なんか嫌な予感がするな、俺」
「出撃準備だったりして」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 E4の朝。
 皆が出勤したのち、ミーティング室に呼び出された杏たちE4は、西條監理官の脇に陣取る剛田から元W4の九条、一条、三条を紹介された。
 3人の簡単な自己紹介が終わると、西條監理官が一歩前に出た。
「先般の電脳汚染の深刻化に鑑み、E4及び特別部隊として元W4の3名を毛利市に派遣する。個々の挨拶は後程。早速現地入りするように」
 剛田が代表して答える。
「了解しました」

 杏も少し驚いた。
 まさかW4がE4と一緒に派遣され、同じ業務を任せられるとは思っていなかったからだ。
 派遣とは名ばかりで、事実上の組み込みではないのか。
 そうなると、杏にとっては心配な点もある。
 E4はテロ制圧部隊として、なるべく相手の命を取らないのが信条である。これに対し暗殺部隊として暗躍してきたW4は、すぐに相手を殺してしまう。
 不破がW4の九条を快く思っていないのは、その面であり、杏だってわかりすぎるくらいにわかる。
 他の連中も、心のどこかでE4に対し壁を作っているかもしれない。

 果たして、うまくやっていけるのだろうか。

 そんな杏の心配を吹き消すかのように、剛田から指令が降りる。
「設楽、八朔はIT室にて今回の電脳汚染源を特定しろ。北斗は毛利市役所に詰めて、情報を集めろ」
 杏が首を傾げながら剛田に尋ねた。
「私たちは」
「今から指示する」
 剛田は少し怒ったような顔をして杏を睨んだ。
「五十嵐と九条は陸軍とのパイプ役を果たせ」
 

 え?
 あたし出撃しないの? 
 どうして?
 それも九条と一緒に、陸軍の下で働けと?
 あんなに恨み深い陸軍と?


 杏は通常、任務の時は常にポーカーフェイスだが、流石にこの時ばかりは思いが表情に出てしまったらしい。
 2年前のマイクロヒューマノイド掃討作戦により陸軍に拒否反応を示している杏の魂は風前の灯である。意識がしっかりしていたからこそ立っていられたが、ふとした拍子で倒れそうなくらいぐらついていた。
 たぶん、この時の杏は怒るというより気概が無い顔をしていたに違いない。

 剛田がまた杏を睨む。
「なんだ、五十嵐。文句があるのか」
「いえ、別に」
 杏の声は怒りというよりは、自分への情けなさに震えていたものだった。
 隣を見ると、九条は落ち着き払っている。
 四條と六条を使い物にならなくされたのに、どうしてこの人はこんなに飄々としていられるのだろう。
 悔しくはないのだろうか。
 もしあたしが九条なら、悔しくて悲しくて、この任務は引き受けられそうにない。

 そんな杏の前で、剛田が指示を続けていた。
「不破と西藤は陸軍総本部の命を受けて死者の埋葬を手伝え。倖田と一条、三条は陸軍総本部の命を受けて感染者の隔離を手伝え。防護服は陸軍総本部にて準備するそうだ。以上」

 皆の顔をじっくりと見まわしていた西條監理官が最初に部屋から出ると、剛田室長はそのあとを追い、そのまま二人で部屋から出ていった。

 杏は、自身への憤怒のあまり、場を纏めきれないでいた。
 設楽が杏の目の前で手を振る。
「チーフ。珍しいですね、何も喋らない」
 杏は、はっと我に返ると設楽を睨んだ。
「設楽。電脳汚染源はいつまでだ」
「はい?」
「いつまでなら特定できる」
「科研よりは遅いかと」
「たわけ。それなら現場に連れて行くぞ」
「そんなー。室長が汚染源の特定って指示出したじゃないですか」
「あれは科研より早く特定しろという意味だ」
「むちゃくちゃですよ」
「前回同様カビなのか、他の細菌なのかくらいは判断できるだろう」
「チーフ。なんで怒ってんのか知りませんけど、僕たちに当たらないでください」

 九条が腹を抱えて笑い出した。
「クール・ビューティーでも八つ当たりする時があるんですね」
 杏の顔がみるみる真っ赤に染まる。
「いや、これは、その」
「僕たちが一番分かっていることです。たぶん、剛田室長は僕とあなたの力を陸軍に見せたくないのでしょう」
 それを聞いて、赤みを帯びていた杏の肌が、元に戻っていく。

 (なるほど、そういうことか)

 剛田さんがあたしを理由なしにミッションから外すわけもない。
 不破も首を竦めながら頷いた。
「そうですね、僕も九条さんの意見に賛成です。チーフの力は陸軍にとって脅威ですから」
 そういいつつも、不破の目の奥には炎が宿っている。九条を意識した発言には違いなかろう。

 陸軍のマイクロヒューマノイド掃討作戦のとき、杏と不破の力は十分に発揮したはずで。
 不破もいたし杏だけが脅威なのではあるまいが、陸軍だって、あれが杏本来の力とは思っていないだろう。
 杏があれこれ考えている間にも、周囲は毛利市出発の準備を整えている。
 結局、杏は何もしないまま、その身ひとつで毛利市に入ったのだった。

 九条たちとのオンラインメモが巧く作動しなかったため、剛田や設楽、八朔も同行し、毛利市の第2国立科学研究所、通称第2科研で剛田を含め全員がオンラインメモのオーバーホールを受けることになったた。
 オンラインメモも順調に作動し、電脳の連結も良好に機能した。

 陸軍は、応援部隊に任務を丸投げしようとしているらしく、指示らしい指示すらない。
 ゲルマン民族居住区では移民たちのパニック状態が深刻な局面となり、町に出て暴徒化する者の数は増える一方だった。
 今回は教師やスポーツ選手などとの共通項も無く、全くもって謎、ミステリーの世界に足を突っ込んでいるかのごとく、成り行きを見守ることしかできないE4+元W4の面々。
 
 そんな中、陸軍から杏と九条唯一指示があったのは、暴徒化する市民あるいは移民を押し黙らせる役割。
 やはり、そうきたか。陸軍は杏と九条の秘められた力を分析でもしたいというのか。
 陸軍に自分自身の力を解き放つことなど絶対に御免だ、杏は心の中で繰り返していた。

 一条は、朝から身体がだるそうにしていたが、午後になり、突然激しい呼吸困難に見舞われた。目の奥も、心なしか蒼い。一条はほぼ健康体で基礎疾患もない。このような目の異状は初めてで、万が一、ということで一条は毛利市にある第3科研研究チームに引き渡された。
 一条を診た医師を含む研究チームは、電脳汚染の汚染源が金沢市でのそれとは違う特殊な新種のカビであることを突き止めたのである。
 そこで、第3科研では感染者に対しオーバーホールし電脳汚染された人々の電脳線を切り、侵食された肺などの当該部位を切除し薬剤投与する手法を勧めた。
 勿論脳を除いた限りだったが。

 これにより電脳汚染は半月を待たずして沈静化していった。

 しかし、悲劇はこの後訪れた。
 第3科研にオーバーホールに行く途中だった一条が、一般人に絡まれ、電脳化していたがために暴行を受け絶命したのである。
 相手は一条の脳を執拗に攻撃し、亡くなった後に司法解剖した一条の他の部位にはほとんど外傷が見られなかった。
 W4でスナイパーの役割を担っていた一条は右手と心臓を義体化していたが、相手が一般人のため手を出さなかったものと思われる。

 一条が息を引き取った日の夕刻。九条は、WSSSのビル屋上から、赤く染まっていく空を見ていた。
 何か嫌な予感がして、杏は九条を探していて屋上に辿り着いた。
 後ろから杏が来たのが分ったように、九条は低い声で話し出した。
「陸軍の拷問でさえ耐え抜いたのに、こんな形で命を落とすとは思ってもみませんでした」
「大変なことだったわ」
「相手が陸軍なら報復してる。復讐してやる。でもね、相手が一般人では復讐すらできない」

 九条は、哀しみとともに、相手が一般人だから復讐することもできないと嘆いた。
 杏も同じだ。E4メンバーがもし怪我でもするようなことがあれば、復讐に向かう。でも紗輝のことは、今、敢えて話さなかった。

 その時、設楽から杏にダイレクトメモが届いた。
(チーフ。八朔と話していたんですが、一条さんの件で)
(何かあったのか)
(ええ。今、一条さんの事件があった場所の定点カメラ解析していたんですが、やっぱり脳ばかり狙って暴行してるんですよ。脳ばかり狙うの、おかしくないですか)
(というと)
(一般人同士の喧嘩なら、大抵、頬に殴り掛かるか腹を蹴るとかですよね、鉄パイプでも持ってない限り頭に殴りかかることはないと思うんですけど)
(そういえばそうだな)
(ましてや一条さんは、電脳化してるとは言え、見た目一般人に見えます)
(そうだな、この格好なら)
(なぜ執拗に脳を狙ったんでしょうか)
 九条が設楽と杏の会話の間に割って入ってくる。
(もしかしたら、ただの喧嘩ではないと?)
(はい。その可能性もあるかと。もう少し定点カメラ解析を続けます)

 九条はダイレクトメモの会話を終えたあと、杏の方に向き直った。
「あなたの部下は優秀ですね」
 杏は笑っていいのか分らず、一言だけ発した。
「そうかも」
「ああ、そういえば」
「何?」
「GPS」
「GPS?」
「ええ。緑川の車に付けていたGPS」
「ああ、失くしたやつ」
「僕たちが外したんです」
「なにっ?」
「安室を尾行してまして」
「で、なんでGPSがわかったの」
「勘ですよ。安室と緑川との関係はわかってましたから」
「ほんとに?」
「嘘です。ハウリングしましてね。緑川の車に取り付けてたやつとウチのとが。だから外させてもらいました」

 杏は思い切り吹き出した。
「ああ、よかった」
「どういたしまして」
「緑川に持っていかれたか、途中で落としたかって気が気じゃなかったから」
 
「でも、どうして安室を尾行していたの」
「安室は必ずどこかでボロを出す、と思っていたからです。E4のアニマルが欲しいくらいだった」
 杏はちょっぴり意地悪そうな顔をする。
「あいつらはね、基本、北斗のいうことしか聞かないの」
「え?あの囮専門の?」
「そう。北斗は真面目だから。バグやビートルの部屋まで掃除するのよ」
「うちではそこまでやれる人間はいないな。E4は退屈しない。個性的な人物ばかりですよね」
「それは褒めてもらってるのかしら」
「もちろん。カメラ解析、少しでも進展することを祈ってます」
 
 九条は、それ以上、口にはしなかった。
 苦楽を共にしてきた一条への弔いなのだろうか。
 それはそうだろう。
 安室に加担したばかりに陸軍に追われ掴まり、激しい拷問を受けたはずだ。
 やっと立ち直って任務に就こうとした矢先に起きた今回の事件。
 九条が一番居たたまれない気持ちでいるに違いない。
 自分が誘った側なのだから。


 1週間後。
 まだ毛利市内で陸軍のテントにいた杏の下に、設楽からダイレクトメモが流れてきた。
(チーフ。一条さんの件なんですけど)
(どうした)
(凄いことがわかりましたよ!)
(何が分かった)
(一条さんを襲ったのは、一般人ではありませんでした)

 設楽曰く、定点カメラ解析に加え人物検索システムを使い4人の身元を探ってみた。
 その結果、日本人ではなく、また、日本国籍を持ったアジア人でもないことが分ったという。
 憂慮すべきは、人物の一人、頭からフードを被りサングラスをかけていた女性が、紗輝の件で重要参考人である女性と同一人物であるということだった。
 
「なんだと?」
 杏は思わず叫んでいた。周囲には陸軍の兵士たちが多くいるというのに。
 慌てて、もう一度時計の右端ボタンを押す。
(本当なのか)
(はい。一条さんを襲った犯人の一味に女性がいたんですが、人物検索システムにかけたところ、頬骨から顎のラインが、Nシステムで撮った紗輝の車に同乗していた女性と、それからバグたちが専門学校で撮った女性と99.9%の割合で同一人物であるという結果が出ました)
(名前は?)
(日本人の中には見当たりませんでした)
(不法入国者?)
(そのようです)
(スパイか)
(かと思われます)
(引き続き、どこに潜伏しているのか当たってくれ)
(了解)


 拳をぎゅっと握りしめる杏。

 紗輝を手に掛けたはずのあの女。
 今度は一条までをも。
 許さない。
 逃げようったってそうはさせない。日本中はおろか、世界のどこまででも追いかけて2人の仇をとってやる。

 杏の顔が余りに真剣だったのだろう、テントの反対側にいた九条が寄ってきた。
「何かわかりましたか」
「少しだけ。やはり一般人ではなかったみたい。それどころか、日本人でもないようよ」
「アジア圏のスパイ、ですか」
「どうやらそうらしいわ」
「にしては、顔が鬼のようですね」

 今迄、紗輝のことは九条に話す気も無かったが、殺害に関わったと思われる人物が同一だとすれば、話さないわけにもいくまい。

「うちに昔、紗輝というスナイパーがいてね」
 
 紗輝は純粋だった。
 それゆえにE4では扱いにくかった。
 紗輝は花屋の女性を見初め、E4を去った。
 その末に、扼殺され亡くなった。
 重要参考人として花屋の女性が浮上したが、今はまだ何も証拠がなく、捕えていない。
 その女性が、今回の一条殺害にも関与している。
 素性はまだ、わからない。

 九条は黙ってその話を聞き入れていた。


 3日後の夜、設楽から続報が入った。
(チーフ。こないだの一条さん殺害の件なんですが)
(進展があったか)
(花屋の女性もそうなんですが、定点カメラ解析で軌跡を辿ったところ、全員が北斗の潜入していた専門学校に出入りしています)
(やはりあそこはスパイの隠れ蓑だったか)
(はい、男性たちはまだ氏名が分りませんが、女性は判明してます)
(なんという名だ)
(羽田李華(はたりか)です。花屋の方で確認を取りました。花屋は辞めたそうですが)
(辞めた?)
(はい、なんでも親の介護で毛利市に引っ越すとかで)
(今は毛利市にいる、というわけか)
(そのようです)
(男性たちの名を調べろ、早急にな)
(了解です)

 羽田李華、なんともスパイらしい名だ。
 あの女は中華国のスパイに間違いあるまい。
 しかし、何の用があって毛利市に来たのだろう。
 今回の電脳汚染だろうか。
 もし、汚染の元凶が中華国だとしたら。
 あり得ないことではない。

 今度は剛田からダイレクトメモが届いた。
(第2科研からフルカスタマイズバージョンのバグとビートルが各2機、E4に届いた)
(あら、嬉しいこと)
(そちらで必要なら回すぞ)
(陸軍に盗られちゃから、今はまだいいわ。あ、ただ)
(なんだ?)
(北斗が潜入してた専門学校にバグたちを置いて、録音機能だけ働かせてちょうだい)
(わかった。どうだ、そちらは)
(思ったより早く終息しそうよ。一条さんのことは残念だったけど)
(設楽から連絡が届いているだろう)
(ええ。こっちで終息が宣言されたら、一度伊達市に帰るわ)


 杏は、不破達にダイレクトメモを送る。
(皆、聞いていたか。一条さんの件に関わっているやつらは、北斗が潜入していた専門学校に関係があるらしい)
 不破が応答してきた。まだ仕事中のはずだが。
(チーフ。こちらの業務も直(じき)に終わりそうです。すぐに引き揚げますか?)
(終息宣言が出るまで、放してはもらえないだろう、それまで待ってくれ)
(了解)

 杏は、毛利市における電脳汚染終息宣言が出るのを辛抱強く待っていた。いつものように指令も力も出さないため、身体が固まるような錯覚に捉われる。
 こういう時は、オーバーホールもいいかもしれない、とさえ思う。
 そういえば、伊達市に戻ったら、オーバーホールが待っている。

 カビなどが混入していないか確認する作業もあり、今度のオーバーホールは時間が長引きそうだ。
 それでも、ここにいて陸軍のパイプ役を務めるよりはよほどマシだと杏は心底思っていた。

第10章  掃討作戦

 2週間後、毛利市における電脳汚染は一応終息の目途がたった。
 約1か月での終息宣言は、槇野総理にとってもご満悦だったらしく、現場を訪れたほどだと聞く。
 E4を初めとする先鋒隊はその任を解かれることになり、九条らW4の特別隊2人を含めた杏たち7人は毛利空港からオスプレイで伊達市に戻った。
 一条の亡骸は、毛利市内にある一条本家に引き渡された。
 九条は、未だに一条の死を引き摺っていたようだった。新種のカビだったのだから仕方がないと三条が慰めても、自身を責め悩んだらしい。
 E4では何もできず、ただただ一条の冥福を祈るばかりだった。

 伊達空港に着くと、剛田が空港に迎えに来ていた。
 E4に戻る前に、全員が第2科研にて検査を受けることとされた。カビが体内に悪影響を及ぼしていないか確認するためである。
 杏、不破、九条の3人はマイクロヒューマノイドとして、オーバーホールが行われた。
 その他の人間は、検査が終わり次第E4に戻っていた。

 オーバーホールが終わった3名を、剛田が運転してE4に戻る。
 剛田は、運転席から皆に聞えるように声を掛けた。
「オーバーホールご苦労だった。早速だが、バグたちが録音したところによると、2週間後に新潟市の南岸に中華国の海兵隊一個中隊200人余りを呼び寄せる計画があるらしい。覚醒剤の運搬と、新種のカビのサンプルを持ち込む予定のようだ」
 九条が驚いたように前に身を乗り出した。
「中華国が新種のカビを作っていたということですか?」
 剛田が小さく頷く。
「そうだ。毛利市における電脳汚染も、向こうで精製されたカビを持ち込んだ上での人体実験だとみていい」

 杏が低い声で怒鳴り気味に剛田に食って掛かる。
「スパイたちは?羽田李華を初めとした」
「五十嵐、そう怒るな。設楽たちが定点カメラで常時居所を追っている。今はまた伊達市に戻っている」
 不破が溜息を吐く。
「室長、カビも専門学校がすべて保管していると思います。今度は新潟市で電脳汚染を企んでいるのでは?」
「恐らくそんなところだろう」
 杏は車の中で暴れ出す。
「焼き討ちにすればいい!スパイも銃殺刑だ、特に羽田は!」
 九条が驚いて後ずさりしている。
「僕らは暗殺主体だから気にしないけど、E4においてその発言は・・・」
 不破が杏を思いやる。
「元仲間が悲惨な形で亡くなりましたから。それは九条さんも同じか」

 九条は、しばし真剣に考えていたようだったが、どうやら意を決したようだ。運転席の剛田に話しかける。
「本来は剛田室長の指示に従うべきところですが」
 剛田に向けて前置きした九条。
「お願いがあります。五十嵐さんと僕で、スパイ掃討作戦を決行させてもらえませんか」

 剛田の顔が渋くなった。
「君の気持ちはよくわかるし、どうにかしてやりたい気持ちもある。だが・・・」
 杏も九条に加勢する。
「別に皆殺しにするわけじゃないわ。口を割らせる必要だってあるだろうし、その辺は大丈夫よ」
 剛田と不破が大きく溜息を吐く。
「その、『大丈夫』が一番心配なんだよ、俺は」
「俺も、室長に一票」

 杏が拗ねる。
「じゃあ、不破も一緒に。ならいいでしょ。海兵隊が来るまでにはケリつけるから」
 剛田はなおも溜息交じりに運転していたが、OKのサインが出た。
「不破を必ず連れて行け。それなら許す」
「剛田さん、ありがとう」
 杏が後部座席から運転席目掛けてハグをしようと試みる。ハンドルを持つ剛田の腕が揺れた。
 不破の機転によってその手は取り払われ、事故の災難を免れることが出来た。
 もちろん、杏が剛田と不破からどえらく怒られたのはいうまでもない。

 2週間後に海兵隊が呼ばれたということは、そろそろ出航準備に取り掛かるはず。
 そろそろキツネを仕留めなければ。

 E4に戻った杏たちは、設楽や八朔から事の次第について、事細かな報告を受けた。

 まず、羽田李華。
 Nシステムで追跡したところ、彼女は紗輝が亡くなった日に、自ら車を運転し青森の研究所に出掛けていた。運転免許すら持っていないと紗輝に告げたことも嘘だった。
 設楽が3人を集めて電脳を繋ぐと言う。
 杏の心は近頃逸り気味だ。
(設楽。スパイどもは今日、どの辺にいる)
(やつらの根城は専門学校の一角です。生徒がいなくなった夜に集まっています。昼間は仕事をしたり情報収集、或いは本国との情報交換に使っていますね)
(面倒だ。夜に一気に始末する)
 杏はそう言って、九条と不破を見る。
(九条さん、どう思う)
 不破は即答した。
(昼間にドンパチはまずいかもしれない)
 九条は考えあぐねていて返事をしない。おびき出す手がないかと考えていたのだろうか。
 杏は設楽を突(つつ)いた。
(おい、あの女、今は働いているのか)
 八朔が設楽と変わった。
(今はカフェで働いています)
(なら、不破、お前行け。ステキ顔でE4の自慢して来い)
(げっ、なんで僕なんですか)
(お前のステキ顔を苦しみに変えるのがあの女の使命だろうが)

 九条が杏を見て大笑いを始める。
(それとも三条に任せますか。イケメンだし、若いですよ)
(あいつらはE4の情報が欲しいから紗輝を狙った。どうやったらあいつらにとって最低最悪の始末をつけられるか、だ)
(五十嵐さん、随分言葉遣いが変わりますね)
(ビジネス用だ、気にしないでくれ)

 九条は笑いが止まらないようで、腹を抱えてその笑い声は大きくなるばかりだった。
 これには杏も流石に恥ずかしくなる。
 これは、その。チーフとして皆を取りまとめる為には必要不可欠なのだと説く。
 それでも九条の笑いは止まらない。
 九条につられてか、設楽や不破まで笑い出した。
 不破が笑いながら杏をからかう。
(もう、女言葉辞めたらどうです?)
(そういう問題ではないんだ、この場合)

 杏も半分可笑しくて、口角が上がってきた。
 だが、やはり言葉遣いは改まらない。
(さ、ご愛嬌は此処までだ。九条さん、不破。計画を詰めよう)
 
 専門学校にいるスパイは4名。
 毛利市で一条に危害を加えた人物だ。
 設楽たちのお蔭で、男性3名の氏名が判明した。ま、偽名かもしれないが。

 一番執拗に脳を揺さぶっていたのは、下野啓太(しものけいた)。
 頭にハイキックをしていた、村井洋介(むらいようすけ)。
 倒れた一条の脳目掛けて蹴りを入れていたのは、浅野幸三(あさのこうぞう)。
 唯一の女性が、羽田李華(はたりか)である。

 杏は脳内で記憶を整理している。
 スパイ4人のうち、羽田はE4に出入りしていたのだが、E4が一旦解散したためそちらから情報を得ることは叶わなくなった。
 また、唯一会話のあった紗輝はE4を自ら辞めてしまった。
 最初はそれでも何かしら情報を持っていると踏んでいたようだが、E4に興味の無かった紗輝の本心を知るや、掌を返し紗輝を殺害した。
 事実関係は、そんなところだろう。
 
 一条はどうして襲われたのか。
 E4、あるいはW4に対する宣戦布告。
 最初から何かを聞き出そうとした節はない。
 カビを身体に取り入れたからには第3科研で隅々まで検査されたことだろう。
 それを嫌って殺害に及んだ可能性はある。
 
 いずれ、スパイたちは杏の逆鱗に触れた。
 命あっての物種という趣旨の諺を、スパイたちは知らないのだろうか。
 もう、ここまで来たらお前たちの命はいただく。

 不破は違う考えを持っている。
 殺す以前に、命は助けるから知っていることを皆話せというタイプ。

 杏と不破は、どこで考えがクロスするようになったのか。
 それは、沸点の違いかもしれない。
 杏はどちらかと言えば怒りっぽい。
 不破は違う。自分の中で溜めて溜めて、ついには爆発する。
 不破の方が厄介この上ないのは明らかだが、そんな些末なことを考えていても仕方がない。
 杏としては、夜に学校に入り込み、開かずの間を焼き払ったうえでスパイたちを皆殺しにするつもりでいた。
 不破は反対するだろうが、九条はどうか。
 考えていても答えはでない。杏は九条ではないのだから。
 本人に聞いてみるのが一番だ。

(九条さんは、どうしたい)
(僕ですか・・・もう、だめですね、今回の場合。陸軍の拷問の方がまだマシだった)
(不破。2対1でお前の負けだ。これ以上、口を出すな)
 不破は文句が言いたげだったが、紗輝と一条を失くしたことには一定の配慮をみせてくれた。
(今回ばかりは僕の負けですね。殺すなとは言いません。新潟市にくる海兵隊のことを洗いざらい吐かせて、それが済んだら煮ようが焼こうが好きにしてください)

 新潟市に来る中華国海兵隊。
 カビとともに覚醒剤やらなにやらを持ってくるに違いない。
 一定期間であれば、スパイから連絡が入らなくてもどこかの海岸に船をつけるだろう。

 しかし、スパイからの連絡が途絶え2週間も音信不通になれば、船は引き返すかもしれない。
 この機会を逃してはならない。
 1週間、いや、せめて3日。
 スパイとの連絡が3日くらい不通になったとしても、それくらいなら海兵隊はすぐそこまで来ているはずだから、日本国海軍が出て行けば拿捕できるだろう。

 最終的にどうするかは別として、今は伊達市にいる4名のスパイを泳がせておくとするか。
 3人が学校方面に交代で張り込んでいたところ、羽田は八朔の言葉どおり、カフェで働いていた。
 下野は無職らしくたまに競馬場に出掛けるくらい。
 村井は学内で教鞭をとっている。
 浅野はコンビニでアルバイトをしているようだ。

 そこで、不破を羽田の勤めるカフェに派遣、競馬場には三条を、コンビニには北斗を回し様子を見させる。
 不破は偶然を装って羽田との会話に成功したらしい。
 なんとも不破らしい。
 羽田も、不破の顔は覚えていたのだろう。
 すぐに思い出したふりをしたのだとか。

 杏は言葉にして言霊に乗せていく。
 待っていろ。
 お前もじきに紗輝の下へ送ってやる。
 いや、羽田、お前がいくのは黄泉~所謂ところの地獄だ。

 張り込みはローテーションを組んでいたが、カフェだけは、羽田がE4の面子を知っているため、不破の他は、三条が行くしかない。九条は最後に登場するメインキャラなので、今は顔を出さなかった。
 三条は余程胆が据わっていると見え、羽田とすぐに仲良くなったとか。
 北斗はすっかり驚いていた。
 村井だけは校門や裏門を張るしかない。倖田と西藤に役割を頼んだ。勿論、カメレオンモードになって。
 村井は一旦学校から出ても、真夜中には戻ってくるらしい。その間は、羽田のいるカフェで時間を潰しているという。

 1週間、相手を見逃さないようにしていたE4だったが、羽田の動きだけは男性では追いにくかったらしく、たまに見逃す時もあった。
 それでも、最後には学校に戻る。

 残り6日。

 残り5日。

 残り4日。
 
 明日は、杏と九条の出番である。
 皆からの報告を受けながら、時間との勝負を感じる杏。
 絶対に逃がしはしない。

 
 ところで、槇野総理には今回の中華国海兵隊出動の一報が入っているはずだった。
 しかしニュースでは海軍を新潟に集結させるような話は聞かない。ESSSにも出動命令はでない。出動させる気もないのだろう。
 若しくは、報道規制。
 設楽に調べさせたところ、メディア間の報道規制は敷かれていなかった。
 
 槇野総理か。
 国内政策は、ある程度順調に推移しているが、移民政策平和強制といい、新潟市で起ころうとしている中華国海兵隊への海軍不出動といい、どうも外政は不得意と見える。春日井、槇野。二人とも国外には弱い総理のようだ。
 だから安室のような国際的感覚を重視している輩に寝首をかかれるような屈辱を味わうのではないのか。槙野は安室が死んだことで安心しているようだが、直ぐにそういった心配をせねばなるまい。いや、もう心配しているか。

 今更ながらに、この国はトップを選ぶ基準が曖昧かつ甘すぎると切って捨てたくなる杏だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 海兵隊の日本到着まで、あと3日。
 杏と九条、不破、3機のレディバグと3機のレディビートルはいずれもカメレオンモードになり授業時間が終わると同時に校内に入った。
 夜に4人が入ってくる裏門は、カード式キーで開くらしい。
 杏たちは学内に人がいなくなると、すぐに警備室に入り込んだ。
 不破が機械式警備を全てOFFにして、敷地内にはバグやビートルを随所に待機させている。

 北斗が学校の内面図を準備してくれたので、どこが覚醒剤等の隠し場所か、4人の寝る部屋は大体どの辺かなど、すぐに把握できた。
 
 その日も、スパイ4人はバラバラに専門学校に戻ってきた。
 カフェで働いている羽田と、その客の村井は一緒に戻るのかと思いきや、時間差攻撃を使ってくる。
 
 皆が寝入る時間に合わせ、杏が覚醒剤部屋のドアを針金で器用に開ける。
 九条は目を見張っていた。
(すごい。そっちの方面でも食っていけそうだ)
(九条さん、チーフの逆鱗に触れるからやめてください)
(二人とも、何か言った?)
(いえいえ、何も・・・)

 校舎の2階にある、20畳弱の部屋。やはりそこには覚醒剤や大麻などがどっさりと保管してあった。
 第1のミッションは、ここを焼き払うこと。
 杏は近くにあった紙に火を付けると、5段ほどの棚に全部火を回し、最後に室内の火災報知機を銃で何度も撃ち壊した。
(バグ!大麻草のビニールハウスに火を放て!)
(ハイハーイ)

 杏たち3人は素早く廊下に出ると、すぐにドアを締めて、窓を開けた。どうやら防火仕様の部屋らしく、煙はまだ外に漏れてこない。
 まあ、火災報知機が鳴るのは時間の問題なのだが。
 消防車が到着するまで、あと10分というところか。
(バグ!ビートル!お前たちは退避!E4に戻れ!)
(ハーイ)

 そのとき、叫びながら誰かが廊下を走ってくる音が聞こえた。
 「誰だ!」
 一番最初に到着したのは、浅野。
 一瞬のことだった。
 九条が、銃を取り出し脳幹に1発撃ち込んだ。浅野は血を吹いて仰向けに倒れた。
 不破が慌てて止めに入る。
「話聞いてからの約束じゃないですか」
「ん?あと3人いるでしょ」
 九条は悪びれる様子もない。

 次に到着したのは、村井。
 九条はまたもや脳幹目掛け1発放ち、村井はすぐにこと切れた。
 不破はまたしても、という表情で九条に文句を言う。
「あー、また!あと2人しかいないんですよ」
「どうにかなるって」

 下野が誰かに電話しながら覚醒剤部屋に向かって走ってくる。
 九条は手元を撃つ。
 電話は壊れ、下野は手を負傷した。
「い、痛い」
「こっちはそれより痛い目に遭ったんだ。それくらい我慢しろ」
 九条の拳銃は、下野の脳幹にぴったりと当たっている。
「どこに電話していた」
「・・・・・」
 下野は口を割らない。
「おまえらの国の海兵隊は、いつこちらに到着する」
「・・・・・」
 九条は少し笑いながら、浅野と村井の死体を蹴った。
「こうなりたくなかったら、話せ」
 二人の死体を見て、相当驚いたに違いない。
「あ、あ」
「早く言え、こちらに来るのはいつだ」
「明後日」
「そうか、本当だな」
 微かに頷く下野を見て、九条は銃の引き金を引いた。
「ほら、喋ったでしょ」
 不破の出る幕もない。
 最後に歩いてきたのは羽田だった。
 3人が息絶えている姿を見ても、叫び声を上げるでなく落ち着いた行動。
 九条が銃を構えたのを見て、杏はその右腕を掴み降ろす。


「こいつはあたしの獲物」
 そういって、杏は銃を構える。
 対して羽田は、ヒヒヒと笑っている。
 E4に来るときとは180度違う。同人格とは思えない厭らしさがあった。
「あたしは全身を義体化したの。青森の研究所でね。マイクロヒューマノイドになったあたしは強いよ」
 そう言って、羽田は杏の拳銃をキックで打ち落とした。
 パンチやキックを多用し、杏を後ろに下げる羽田。
 杏はそれを凌ぎながら対応する。
「あの研究所のパトロンは中華国か」
「当たり~」
「一条が感染したカビは、お前たちが持ち込んだものか」
「そうだよ。本国で作製した電脳汚染サンプル。効力みるためにゲルマンの居住区でばら撒いたの」
「なぜゲルマン居住区だった」
「決まってんじゃん。いくらか殺して、本国からもっと日本に送るため」
 杏は深く一度深呼吸して、今までよりも眼光鋭く羽田を見る。
「なぜ紗輝を殺した」
「紗輝?」
 そういったまま、言葉を濁すのかと思った羽田は、大声で笑い出した。
「何が可笑しい」
「だって、心中しようっていったら『僕を最初に殺して。キミの涙を見たくない』なんて、可笑しくて笑っちゃうよね」
 ひっひっひと卑屈に笑う羽田を見て、杏の沸点は完全に上がりきった。
「お前もあの世へ行け」
 紗輝の最期を知った杏。
 なおも紗輝を嘲笑い続ける羽田を見て、腰に付けていたもう一丁の拳銃を取り出した。
 怒りに任せて本気で羽田のこめかみに押し当てる。

 紗輝はどんなに悔しかったことだろう。
 信じていた女に裏切られて。
 そう思うと、一気に殺す気さえ起きなかった。
 じわりじわり、相手を見る。

 不破が必死に杏を諭す。
「こいつだけでも生き証人として捉えないと。殺すな、杏」

 杏は揺れた。
 紗輝のことを考えれば、直ぐにでも殺してしまいたい。
 なぜこいつだけがのうのうとして生きていられる。
 このままでは、交換条件としてこいつは本国に強制送還されるだけだろう。

 そんな時だった。
 羽田が紗輝から奪った銃を腰から取り、杏の脳幹にピタリと当てた。
「どっちが早いか試してみる?」
 羽田はどうやら本気らしい。
 杏との間で、じりじりとした時間が流れる。

 それは突然のことだった。流れを破る音とともに、羽田が無言で床に蹲った。
 杏が周囲を見渡す。
 九条が羽田の右手を撃ち拳銃を弾き飛ばしたのだった。
 
 床に落ちた拳銃を、杏は拾い上げた。
 紗輝の、形見。
 すぐに腰に仕舞い込むと杏は、拳銃に黄燐焼夷弾を装填した。
 それを見た羽田は何事かと押し黙り杏を睨んだ。

 その一瞬だった。

 杏は焼夷弾を羽田の両目に立て続けに打ち込んだ。
 悲鳴を上げる羽田。
 徐々に顔全体が火傷し膨れていく。
 皮膚や呼吸器を侵食し、もう話すことも息をすることすら叶わず、羽田はもがき苦しんだ。

「お前は永遠に魂を失くせ」

 杏はそういうと、羽田の最期を見届けることなく、歩き出した。

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 辺りが騒がしくなってきた。
 3人はカメレオンモードになり開けた窓から飛び降りた。そのまま門に向かって走っていく。裏門は比較的昇り易い。
 最初に不破が飛び上がると、次に九条が飛びあがり外へと姿を消した。
 杏がどうしようか迷っていると、そこにバグが現れた。
「ノッテー」
 バグは羽ばたき、門の外へ杏を運んだ。
「ありがとう、バグ」
「ドウイタシマシテー」


 学校の外には消防車が何台か集まり、消火活動に入ろうとしていた。

「バグ、お前はE4に帰れ。私たちは北斗のアパルトモンに向かう」
「ハーイ、ホクトニヨロシクー」

 杏たちはカメレオンモードを解かずに、北斗の家まで歩く。北斗は歩いてちょうど20分と言っていた。
 20分後、3人はカメレオンモードを解いて北斗の部屋に上がり込んでいた。
 北斗がクンクンと杏たちの拳銃の匂いを嗅ぐ。
「チーフの、なんとなく匂いが違う」
「少量の黄燐焼夷弾を実装したんだ。直ぐには死ねないようにな」
 不破が溜息を吐きながら杏を諭す。
「チーフ。それって殺すより酷いかも。ましてや、相手は女性ですよ」
「女性も男性もあるか。あいつは紗輝を殺した。それだけがあいつがこうなる理由だ」
 九条は笑い出した。
「五十嵐さんは男前ですねえ。僕なら一発で殺してしまうところだった」
 不破は首を捻り、九条を見る。
「いや、男前とかそういう問題じゃないと思う」

「北斗、シャワーを貸してくれ。こんなに血の匂いがしてたら警察の御厄介になりかねん。それと、E4まで送ってくれないか」
「いいですよ、チーフ。お安いご用です」

 不破がきょとんとして杏を眺めた。
「E4に戻って何をするんです?」
「明日青森に行って、研究所を破壊する」
「まさか、研究員も?」
「嘘つきは嫌いだからな。そうしたいところだが、足を撃つくらいで止めておく」
 不破はコメントを欲しそうに九条を見た。
「九条さんは?」
「僕は研究所に関わりが無いので。明後日新潟に来る海兵隊掃討の準備でもしています」
 北斗が活字オンラインを見ている。
「本当に海軍は出ないんですかね」
 九条は常に飄々としている。北斗との会話ですら。
「出さないと思う。国防は軍隊、国内治安は警察の任務のはずだけど、E4は国防までをも任される事態となるのだろうね」

 明け方、北斗にE4まで送ってもらった杏と九条、不破は、剛田に全てを語った。
 一条の復讐、そして紗輝の復讐。
 青森の研究所のパトロンが中華国であること。
 第2の電脳汚染が、中華国にいるゲルマン民族を日本に向けて一掃することで中華国の存続を狙った電脳汚染だったこと。

 剛田は一言だけ、杏と九条に告げた。
「何をしても、死者は蘇らない。五十嵐、九条。お前たちは常に前を向け」

 杏は話を聞いていなかったのか、今度は青森に行くと剛田に告げた。
 
 ゴン!!
 拳骨をくらう杏。
「いったーい。あの研究所は危ない。あたしの魂が呼びかけるのよ、潰せって」
「前を向けと言ったばかりだろうが」
「向いてるわよ、だから行くの」

 剛田は呆れ果ててモノが言えないといった雰囲気だった。
「言い出したら聞かないからな、お前は。仕方ない、誰か1人くらい連れて行け。あとの人間は新潟に急行しろ」
 不破が1人だけ手を上げた。
 杏は珍しく礼をいう。
「ありがとう」
「青森の件が終わったら、お前たちも新潟に行け。わかったな」
「了解」

 夜が明けた。
 太陽が眩しい。
 昨夜の作戦が終わったことで、新潟の海兵隊到着に何か支障はないだろうか。
 海軍すら出ない今、200名の相手を6人プラス6機で行うことは非常に難しい。
 かといって、今の総理は中華国とお友達にでもなるつもりなのか、海軍のかの字も言おうとはしない。

 とにかく、ひとつひとつ、片付けるしかない。

 杏と不破が2000GTに乗って青森の研究所に急ぐ。
 不破に2000GTを運転してもらいながら、杏は紗輝がこの世に未練を持っていなかったことを哀しく思った。
 自分だって、そういう部分はあるけれど。
 誰かの為に死ねない、そんな思いがあるからこそ、今もこうして生きている。
 それは、剛田であり、不破であり、家族と呼べる者たち。

 紗輝は死ねないと思わせるほどの誰かがいなかった。
 あの女はそれを利用した。
 やはり許せなかったし、あれでいいんだと今も後悔していない。

 そうこう思っている間に、車は研究所に近づいていた。
 ライフルを10丁、拳銃を20丁ほど準備してきたから、二人でも何とかなる。焼夷弾で焼き尽くせば早い。

 車を入口近くに止め、施設内に入っていく杏と不破。
 互いに頷き合い、室内のドアをドン!と蹴った。

 驚く研究員たち。

 前回同様、研究員たちのこめかみに銃を当て、足を撃ち、もう一度こめかみに銃を当てた。
 それでも言うことが理路整然としない連中はいた。
 不破が、相手の肺付近に2,3発入れた。マイクロヒューマノイド以外なら死んでしまうだろう。
 だが、彼らは生きていた。
 研究員の話から、全員がマイクロヒューマノイドであると実証された。
 杏は、脳幹目掛けてリボルバーで5発、撃ち抜いた。
 5人が血を吹きあげながら床に倒れた。

 不破が注意する。
「みな殺さないように。話をさせないと」
「大丈夫、100人いるもの」
 やはり、どの部署でも裏切り者はいる。
 杏がある研究員の脳幹に銃を当てると、研究員は観念したように腕を降ろした。

 羽田李華は紗輝を殺す前から手足を義体化していたという。
 もしそれが本当だったとすれば、紗輝は物凄い力で首を絞められたことになる。
 可哀想な紗輝。
 そして紗輝の扼殺は成功し、その後、羽田はこの研究所でマイクロヒューマノイドになった。杏たちとの戦闘を予想したものと考えられる。
 
 いくら聞いても、それ以上の情報は出てこなかった。

 杏は、反抗的な態度をとった研究員だけは脳幹に向けて銃を構え、引き金を引いた。
 何人かの研究員は、床に崩れ落ちた。
 
 最後の施設のドアを開けた。
 杏は肩に掛けたライフルを一発窓に向けて撃ち、窓が割れ研究員たちが怯んだところを、足下目掛けて拳銃をぶっ放す。
 一部屋に20人から30人ほどの研究員がいたが、研究員の足を次々と撃って逃げられないようにした後、辺りに焼夷弾を撃ちこんだ。
 悲鳴が上がり、騒ぎ声が大きくなる。
 そんなことはお構いなしに、研究員たちを見れば足を狙い、次々に倒していく。
 辺りにはパン!パン!パン!と乾いた音が響く。
 
 およそ30分で研究所内は焼夷弾で焼き尽くされた。
 研究所には100人からの研究員がいたはずだ。
 中に人がいようがいまいが、何人生きようが死のうが、杏にとっては全てどうでもいいことだった。

 こいつらは、カビに負けないマイクロヒューマノイド作りと言ったが、実際にはカビを作る研究でもしていたのだろう。
 お前たちの行いは、人道にもとる行為なのだ。
 甘んじて、罰を受けろ。

 杏は目を細めながら、研究所を振り返ることなく車に向かった。
 不破は、アクセル全開で新潟へとハンドルを切る。


 海兵隊が到着するのは、明日。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 新潟の南に位置する海岸は、時々半島からの船が接岸されているという。
 海兵隊が来るとすれば、ここに接岸するに違いない。

 E4では、倖田がオスプレイに乗り込み、空から船を捜索していた。
 すると、海上に何か場違いな船団が発見された。
 ダイレクトメモを飛ばす倖田。
(室長、それらしき船団が見えます)
(ご苦労。一旦こちらに戻ってくれ)
(了解しました)
 倖田が一旦E4に戻り、海域のどの辺りかを剛田に知らせ、また高速道を爆走して新潟へ向かう。

 剛田から、皆にダイレクトメモが飛んだ。
(明日朝には、10隻ほどの船団が新潟市南岸に到着する。中華国の海兵隊と思われる。海軍からの爆撃許可も下りた。本日これより、中華国海兵隊掃討作戦を実行に移す)
 
 
 日本ではオスプレイに攻撃の役割を持たせている。
 設楽も、E4のIT室で武器搭載システムを起動させ、オスプレイに射撃装置を搭載した。
 西藤がオスプレイに乗り込み、明日朝6時、空からの攻撃を始める予定だ。

 地上では、杏、不破、倖田、九条、三条がそれぞれバグとビートルに乗った。
 バグとビートルは羽根があり、垂直に離着陸できるよう設計されている。
 杏はバグの背に乗り、立って海兵隊の方に向かっていく。
 元々バグは主に守備補助、ビートルは攻撃補助を担っていたが、陸軍に破壊されたICチップから再生したバグやビートルは、守備補助も攻撃補助も担えるように設計し直された。

 それにしても、海軍は爆撃許可を出すくらいなら何故自分たちで稼ごうとしないのか、杏は不思議に思いながらも、今はそんなことを考えるより目の前の敵に向かっていかなければならないと頭を振る。
 
 西藤は、船団の中央にいる船目掛けて上空から爆撃を開始した。
 それと同時に、バグやビートルに乗った杏、不破、九条、三条がカメレオンモードになり縦横無尽に動き回り、1人あたり2~3隻の船と船員たちを壊滅させる算段だ。
 倖田は焼夷弾を活用し、主として船団のひとつひとつに焼夷弾を撃ちこんでいく。

 九条と三条は早々に相手の船に乗り込み、次々と船員を一発射殺していく。
 不破は快く思っていないようだったが、一番手っ取り早い方法は、船員の一発射殺だった。
 不破も船に乗り込み船員の足と肩を銃撃、動けないようにするが、やはり一発射殺のほうが弾を有効的に使える。
 仕方なく、不破も一発射殺に切り替えた。
 杏は最初から船員の脳を狙い定めて一発射殺していたが、相手からの砲撃がたまたま杏が乗っていたバグに当たってしまった。
 海上に落ちていくバグに乗ったまま、如何ともし難い状況に陥った杏。
 バグは、海上スレスレのところをやっとの思いで飛んでいる。
 待機していたもう1機のバグが、杏を迎えにいった。怪我をしたバグは、波ギリギリの線状を全速力で地上へと帰っていく。
「大丈夫か・・・」
 不破の声が空を切る。
 
 10隻の船団からなる攻撃力は、E4の力をもってしても敵うものではなかったが、杏たちの奇襲が功を奏した格好になり、船は殆どが焼野原の状態となって海兵隊は殲滅(せんめつ)した。
 バグやビートルへの負荷軽減のため武器類も最小限にしていたため一人当たりオートマチック4~5丁までしか身体に備え付けることが出来なかったが、九条たちの一発射殺が首尾よく事が運んだ一因だった。

 その時だった。
 汽笛とともに、海上保安庁の船団が現れた。

(海保だ、逃げるぞ)
 杏の一言で、皆は陸地を目指し始める。
 三条と九条は、素早くビートルに乗り、海兵隊の船から離れていく。同時に不破もバグに乗り杏の下に行き、一緒に地上に向かった。
 倖田もそのまま海上を離れた。

(Japan Coast Guard=日本国沿岸警備隊)のロゴを付けたその船団は、中華国海兵隊を取り囲み、船の中を検閲し始めた。
 コーストガードは、諸外国からすると軍隊同様の力を持つと言われる向きもあり、中華国海兵隊と言えども危害を加えて良い船艇ではない。
 日本国の経済水域に侵入したとして、海兵隊船団は海上保安庁に拿捕されることになった。あとで聞き及んだところでは、このとき覚醒剤が船内の倉庫の一番下から見つかり、中華国VS日本自治国では経済的な問題にまで発展したらしい。

 バグに乗りながら伊達市に戻る杏。ダイレクトメモを全員に飛ばした。
(このまま伊達市に戻る。西藤、お前も伊達空港に飛べ)
(了解)
 不破が杏に向かって話しかける。
(チーフ、海軍ではないけど、似たようなのが出てきましたね)
(海軍は出さないが海上保安庁は出したわけだ)

 大声であははと笑う杏。
 一方の九条と三条は無口だった。一切押し黙ったまま、伊達市まで戻っていく。
 まるで、E4の働きを認めていないかのようだった。
 

 伊達市に着き、E4に入った杏たちは、皆一様に疲れ果てていた。
 九条と三条を除いては。
 2人は剛田に頭を下げるとE4を後にし、毛利市に行った。一条の墓前に報告するためだという。

 杏は攻撃をしている時から九条たちを見ていたが、流石に暗殺部隊と呼ばれたチームは動きに無駄がないと思った。
 E4が特段劣るわけではないが、テロ制圧部隊と暗殺部隊とでは、ここまで思い切りが違うのだなと参考になる。緊張感なら暗殺部隊にも負けないが。
 九条はすぐ毛利市に帰ってしまったから議論することもできなかったけれど。

 これから一緒に仕事をする機会があれば、タフさを教えて欲しいと願った。

 やっと、総てが終わった。
 紗輝の仇もうった。
 専門学校のあの部屋も火の海にした。
 青森にあった研究所も破壊した。
 本国海兵隊も殲滅させた。

 
 それにしても、杏にはわからないことがひとつだけあった。
 金沢市内で起きた安室射殺事件は迷宮入りの様相を呈していた。
 一体、誰が、何の為に。

終章

 全てが終わった。

 中華国本国海兵隊の船は手榴弾と焼夷弾で甲板を焼かれ、船長室には無数の弾痕が残り、見る影もないほどに朽ち果てていた。海上保安庁に捕まったことがニュースになったらしいが、杏は見ていない。
 八朔がまたモニターモニターと騒いでいるのを聞いたが、別にモニターを見る気はしなかった。
 珈琲サーバーに溜まった、少し苦い珈琲をほんのちょっと口にした。

 本国では、今、杏たちが破壊した船を自国の物だとは認めないだろう。
 勿論、死んでいった兵士やスパイが自国の民などとは、口が裂けても言えないはずだ。
 それだけ、中華国と日本自治国のエセ友好関係を崩すわけにはいかない大人の事情があるには違いないのだろうが。
 杏にはそれを天秤にかけることすら馬鹿馬鹿しい気がしてならない。


 あの殲滅から、1週間。
 杏たちE4のメンバーは、伊達市海岸近くの教会で紗輝の葬儀を執り行った。
 参列者は、E4のメンバーだけ。

 紗輝の信仰していたカトリックの葬式では、故人の罪を神に詫びて許しを請い、永遠の命を得られるように祈る。
 聖書朗読や神父の説教を行う「言葉の典礼」、パンやブドウ酒を祭壇に奉納する「感謝の典礼」からなるミサが行われるのだそうだ。
 祭壇に花を捧げる献花を執り行い、皆が白いカーネーションを捧げた。
 最後に一同を代表して、剛田が言葉を添えた。
「紗輝君、君の安らかな眠りをお祈りします」


 杏は、羽田から取り返した拳銃と、紗輝の部屋から見つけたAK-47を花とともに棺に入れた。
 『ライ麦畑でつかまえて』の本と一緒に。

 北斗が肩を落としながらも紗輝の遺影に向かって叫んだ。
「キミには、この言葉が一番似合ってるよ!」

 ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。
 馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね
 I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be


 教会を出て海岸に向かった杏。
 お前はシャイな奴だったんだな。
 本当の姿に気付いてあげられなかった。
 私を許してくれるか?

 紗輝が不憫でならなかった。


 杏は、もう一冊持っていた『ライ麦畑でつかまえて』を唐突に掴み、紗輝が破いたページをビリビリと破り、海に投げ入れた。バグやビートルも、海岸の淵でライ麦畑の一節を呟きながら紗輝を見送った。
 
 でも、紗輝は最期、苦しそうな顔ではなかった。今思えば、あの時、寧(むし)ろ笑っているようにさえ見えた。
 紗輝にとって何が一番良かったのか、今でもわからない。
 
 杏はいい方向に捉えようと笑顔を作る。
 紗輝の魂も、それを望んでいるように思えたから。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 同時刻。
 ESSSでは、西條監理官が立って何かを話している。相手は、九条及び三条。
「あそこは基本、暗殺部隊ではない、テロ制圧部隊だ。キミたちも心してかかるように」
「了解しました」
 九条と三条が敬礼した。

E4 ~魂の肖像~

E4 ~魂の肖像~

杏と不破、剛田は2年間の潜伏を経て、日本に帰りE4を再生した。 彼らに待ち受けるものとは・・・。 E4シリーズ第2弾。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第1章  メッセージ
  3. 第2章  インスパイア
  4. 第3章  バグ
  5. 第4章  ピースエンフォースメント
  6. 第5章  使徒、襲来
  7. 第6章  ラスト・ステージ
  8. 第7章  Xデーの真実
  9. 第8章  ノスタルジック・メモリー
  10. 第9章  電脳汚染終息宣言
  11. 第10章  掃討作戦
  12. 終章