溶けゆく日々の
兄の部屋はいつも静かで、しんとした気配が夏でも冷ややかに肌を掠めるような、ある種の孤独が作り出す青色に満ちた不思議な空間だと、幼い頃からそう思っていた。記憶の中のいちばん古いところから遡ってみても、五つ歳の離れた兄はいつでも優しく、それでいて優しすぎるということは決して無かった。
常に自分よりも先を行く兄の気を引きたくて、子供じみた下らない悪戯をする度に真面目に怒ってくれたが、今になって思えば自分に構ってほしいという想いがあの人には筒抜けだったのだろう。
兄には何でもお見通しだった。お見通しのはずなのに、「悠はどっちがいい」「悠はどうしたい」と口癖のように言っては僕の本心を探ろうとするのだったが、そう訊かれるのをいつしか期待するようになっていたし、兄に甘えることは僕にとって最大の快さとなって身体にも心にも溶けていった。
それがいつから始まったのか正確には覚えていないけれど、兄が高校受験を控えていた冬のことだったと思う。
「お兄ちゃん大変そうでしょう、あんた毎日部屋にこれ持って行ってあげなさい」
「なに、それ」
はみがきを終えて寝ようとしていたところで母に持たされたのは、作りたてのホットココア。魅惑的なチョコレートの香りが鼻をくすぐる。
兄のお気に入りのミントグリーンのマグカップを木製の、すこし重さのある盆に乗せたのを母の手から受け取ると、思った以上にずっしりと両手に乗るので驚いた。あの不思議な重さを今でも鮮明に思い出せる。キッチンから廊下へ出て、階段をひとつひとつ丁寧に上がり兄の部屋の前へ来ると、途端にどうしたらいいのかわからなくなってしまった。ノックをして入るべきか、このまま声を掛けるべきか、迷っていたら兄の方から声を掛けてきた。自室のドアとまったく同じデザインのドアが中から開かれる。
「悠、なにしてるの? 寝たんじゃなかったのか」
「これ、母さんが持って行けって。勉強大変そうだから……。入ってもいい?」
「ん、ありがとうな」
冬になると兄の部屋はいっそう静けさに包み込まれているようで、それが心地よくもあった。大きな本棚と寝具と箪笥。自分の部屋と同じような家具しか置いていないのに不思議でならなかった。もしかしたらそれは部屋そのものへの印象なのではなくて、兄に対するイメージをそのまま部屋に投影しているせいなのかもしれなかった。
すこし冷めてしまったであろうココアを机の上に置く。参考書やノートやらで埋め尽くされた机を見て、どうしてだか、兄が遠くへ行ってしまう気がして悲しくなった。そんな僕の小さな心の動きにもこの人は敏感で、何も言わずに頭を撫でてくれるものだから、母に言われた通り毎日ココアを届けに行こうと心に決めたのだ。
この冬の習慣は兄が高校へ入学してからも、地元の大学へ進学してからも続いた。いつの間にかココアを作るのも僕の役目になっていて、とにかく甘くてミルクをたっぷり入れたものを好んだ兄のために自分でも味を確かめながら、完璧なココアを作るのが楽しみになっていた。いつ入っても整った装いを崩さない兄の部屋。机の上にマグカップを置く時のコト、という音、その手ごたえ。僕が高校生になってからも必ず頭を撫でてくれた柔らかい掌。それが兄との日々のすべてだった。
そんな習慣がある日突然終わりを迎えた。
大学をもうすぐ卒業するという時になって、兄はいきなり僕と母に「用ができた、そのうち帰るから」と言って家を出て行った。まだ雪の残る寒い日のことだった。僕は完全に習慣になってしまったココアを自分のために作るしかできないことに耐えられなくて、それでも兄を待つために作り続けていた。
そうして一年と少しが経った春の日、ぬるい午後の空気を断ち切るような突然さで、兄はなんの便りもなしに帰ってきた。出て行った時とさほど変わらない、背の高い整った顔立ちの兄の、その隣には小柄な女性が並んでいた。どう見ても海の向こうで生まれたとしか思えない、色素の薄い髪とエメラルドの瞳を持ったその人は、玄関であっけにとられている僕と母に優しく微笑むだけだった。
「何もかもが急でごめん、今夜ここを発つことになってるんだ……この人と暮らすから。悠、元気にしてるんだよ」
兄は遠い国の名前を口にした。僕の隣で母が呆れながらも、まるでこんなことになるんじゃないかと最初からわかっていたみたいに冷静だった。今にも泣きそうな気持ちになっていたのは僕だけ。兄は困ったような顔で僕を見ている。おもむろに兄の隣で微笑んでいた女性が近付いてきたかと思うと、僕の耳元で何か囁いた。英語なのか他の国の言葉なのかさっぱりわからなかったが、見かけによらず中性的でトーンの低い声に僕がはっとしているのを見て今度は悪戯っぽく笑った。
「たまに帰ってきてくれるよね」
「うん、手紙も出すから。母さんも無理しないで悠に頼ってね。それじゃあ」
そう言って兄とその恋人らしいひとは、玄関を出て行った。
「はい、もう泣いていいわよ」
兄と一緒で何でもお見通しの母が抱きしめてくれるので、涙を堪えることができなかった。
あの日からもう何年も過ぎていたが、兄からは時々手紙が届くくらいで、いっこうに帰ってくる気配は無い。いっそのことこちらから押しかけてやろうかとも思ったが、やめておきなさいと母に止められてしまった。それでも冬は毎年めぐってくるので、もう兄のためにココアを作る日がやってこないとわかっていても僕は相変わらず当たり前のように毎日ココアを作ってしまう。
「前から思ってたけど、悠の作るココアってかなり甘いよね。美味しいのは認めるけどさ」
「え、そうかな」
「俺はもう少し薄いほうが好きだよ」
「わかった……ちょっと研究してみる」
恐ろしいことにこの習慣、もとい兄とのやり取りが、僕の嗜好に多大な影響を与えていたのだとあとになって気が付くことになる。今は隣で微睡むこの人に喜んでもらえることが僕の一番であり、あの日々を溶かすみたいにして、今日もココアを作っているのだった。
溶けゆく日々の