恋をした紙魚の話
紙魚、という名前をしたさかながいました。
人間には姿が見えないのをいいことに、朝な夕な路地裏を行き来しては好みの本棚を見つけ、活字を食べ漁って暮らしていました。めったに定住することのない紙魚は物心ついた時から一匹でした。他の紙魚にも何度か出会ったことはありますが、何せお互いに小さいし(人間のおやゆびほどです)、透き通った体をしているので、普段はすれ違ったことにも殆ど気が付きません。稀に他の紙魚と鉢合わせしても、目くばせして通り過ぎるか、お互いの体の中で踊る文字にちらりとまなざしを送るか、といったふうで、紙魚同士の関係は稀薄なものでした。
「これが紙魚という生き物なのだな」と、二年と少しの年月を紙魚として過ごした彼は思っていました。
ある日、いつものように街を回遊していた紙魚は、どこからか美味しそうな活字の匂いが漂ってきていることに気が付きました。暑さが続いた夏とももうすぐお別れ、といった日の夕暮れ時でした。紙魚にもグルメな紙魚と、そうでないのがいます。彼はどちらかと言えばグルメな紙魚でした。例えば小難しそうな哲学書なんかを読み耽っている人の本棚は、辛すぎたり(「懐疑」などは辛くてとても食べられたものではりません)、「而」のようになんだかへんてこな味の活字が多く、食べてもお腹が膨れるばかりでした。紙魚はこども部屋の本棚も好きでした。でも絵本の活字はどうも甘ったるくて柔らかくて、活字を食べた気にはなれないのでした。甘すぎず辛すぎず、柔らかすぎず硬すぎない。そんなバランスのとれた食事を彼は求めていました。そういうわけで、彼好みの活字の香りを察知した紙魚はたいへん興奮していました。
「久しぶりに良い活字を味わえそうだ、」と意気込んだ紙魚は、匂いを頼りにすいすい街を泳いで行きました。しばらくしてたどり着いたそこは、そう新しくはない、小ぢんまりとしたアパートの一室でした。つくえにテーブルに、冷蔵庫。最小限の家具からは浮いたように目立つ立派な本棚。なんだかちぐはぐな畳の部屋では、一人の女性が熱心に(畳に寝転びながら)本を読んでいました。女性はまだ若く、24、5歳とみえました。シンプルな象牙色のワンピースと、胸のあたりで切りそろえられた黒髪が素朴な印象を与えています。――つつつ、と良い匂いに誘われるようにして紙魚は女性が読んでいる本に近付き、品定めするように頁を眺めました。紙魚は唖然としました。漢字とひらがながおよそ3:7という程よい割合で並んだその頁には、食べ心地のよさそうな活字がずらりと揃っているではありませんか。紙魚の好物とも言える「み」「羽」「星」といった活字もいくつか見ることができました。
「ここは天国か何かじゃあないだろうか……」
彼は呟きました。実はここに来る途中で、対向してくる鳥に運悪く衝突して死んでしまったのではないか、とも思いましたが、しっかり尾が付いているのを確認して安堵しました。紙魚は今すぐにでもむしゃりと齧りつきたい気分でした。しかし突然目の前の文字が消えてしまったのでは女性が驚いてしまいます。しばらく様子を見ようと女性の顔を窺った紙魚の瞳には、目を細めて慈しむように活字を眺める女性の、幸せそうな姿が映りました。その時紙魚は、あるのか無いのかもわからない「こころ」のようなものが、きゅうっと掴まれたような気分になったのでした。多くの活字を食べてきた紙魚にとって、その感情に名前をつけることはたやすいことでした。
「これは一目惚れというもので、つまり私は人間に恋をしてしまったのだなぁ」、と紙魚はしみじみ思いました。しばらくのあいだ食事のことなど忘れて、紙魚は女性の周りをぐるぐる泳ぎ回ったり、本棚いっぱいに詰め込まれた本を眺めたりしました。おいしい活字だけが楽しみだった紙魚は、この時はもうそれだけで嬉しい気分になれるのでした。窓からさす陽が陰って来たころ。女性はおもむろに立ち上がると、手にした本を財布に持ち替え部屋を出てゆきました。買い物か何かだろう、と思った紙魚は、自分が空腹であったことを思い出しました。すかさず本の中に潜り込むと、お腹いっぱいになるまで活字を堪能しました。これまでしてきた食事の中でいちばん美味しく、幸せな食事でした。満腹になった紙魚は部屋の隅でぷかぷか浮きながら余韻を味わっていましたが、次第にうとうとし始めました。買い物から帰宅した女性が「あれ、おかしいなぁ。乱丁だなんて、珍しい」と呟く声も、夢うつつの紙魚には届きませんでした。
あくる日の正午、紙魚は女性の話し声で目を覚ましました。
「あの、ですから、ところどころ文字が欠けているページがありまして……、」
なんだか元気のない声、「文字が欠けている」という言葉に紙魚はどきりとしました。
「……わかりました。出版社のほうへ問い合わせてみます、お手数をお掛けしました」
電話を切った女性は、はぁ、と気だるそうに深いため息をつきました。その日は朝から小雨が降り続いていて、どんよりした空気はいっそう彼女をアンニュイな気分にさせるのでした。そんな彼女の姿を見て、紙魚は初めて、「心が痛む」という思いをしました。おいしい活字の山、それを愛する彼女の姿を見て浮かれていた昨日の自分が馬鹿みたいに思えました。自分が食べてしまった活字のせいで、彼女が悲しんでいることは明らかでした。紙魚はときどき、本の文字が消えたことに驚く人間をみて楽しい気分になっていましたが、そのことを強く後悔しました。
「わざわざ替えてもらうのも面倒だし、このまま読み進めるしかないかなぁ」
そう独りごつと、女性はまた本の頁をめくり始めました。昨日のように慈しむような表情は見られませんでした。彼女もまた紙魚のように、活字のことを愛してやまない一人なのでした。
紙魚は葛藤していました。紙魚がお腹を満たせば満たすほど、彼女を悲しませてしまうのです。「どうして私は人間ではないのだろう。もし人間だったら、彼女と一緒に本を楽しめたかもしれないのに」と、どうしようもないことに思いを巡らせていました。もちろん、ここを離れれば思う存分活字を食べられます。それでも紙魚は彼女のそばを離れたくはありませんでした。昨日の幸せ以上のものを感じることができるとは到底思えなかったのです。
それからというもの、紙魚の食事は次第に質素なものになっていきました。はじめは本棚の中からとりわけ分厚い本を選び、彼女に見つからない程度に活字を食べていました。しかし、ことごとく彼女はそれを見破ってしまうのでした。幸か不幸か、紙魚と女性の好みは驚くほど一致していました。ますます悲しげな表情を見せる彼女を見て、紙魚はもう本のことをすっかり諦めました。広告や不要な葉書に印刷された文字を食べるようになったのです。本の異常がぱったりと納まったのを機に、女性は元気になってゆき、またあの日のようにきらきらと幸せな表情で本を読むようになっていました。
「ああ、あの時の彼女に、また会うことができた」
幸せそうな彼女の姿に、紙魚は心から嬉しく思いました。紙魚が初めてここを訪れた日から数週間が経っていました。あんなに求めていた活字ではなく彼女の幸せを糧に生きてきた紙魚は、もう長いあいだ浮かんでいることさえままならなくなっていました。広告や葉書に書かれた活字などでは、彼は衰弱してゆく一方でした。「彼女の傍にいられるならば、それで……」、いつしかそう思うようになっていました。これがただのエゴだということは分かっていましたが、紙魚は彼なりの幸せを見出していたのです。
季節はやがて晩夏から秋へと移ろい、いつの間にか蝉の声も聞こえなくなっていたその日。紙魚は決意を固めました。朝から出掛けて行った彼女が机の上に残した一冊の本。栞の挟まれた頁に潜り込んだ紙魚は、
「これで、最後にしよう。私はあなたを愛していました」
誰に聞かれるともなく告白すると、愛おしむように一文字だけ口にしました。それから眠るようにして、紙魚は意識を閉ざしてゆきました。
夕方帰宅した彼女は、晩御飯も早々に読みかけの本を手に取りました。栞を挟んでいた頁を開くと、すぐに違和感を覚えました。
「うそ、『愛』がなくなってる……?」
その本は彼女が何度も読み返してきた本です。彼女の記憶が正しければ、頁の中央にぽっかりと空いた空白には、「愛」という文字が入っているはずです。忘れもしない、主人公が意中の相手に告白するというたいせつな台詞の一部でした。本の文字が欠けるというあの経験を忘れかけていた彼女は、無性に懐かしさを感じました。ふと抜き出した栞を見ると、何の変哲も無かった栞には、まるで初めから印刷されていたかのようにさかなの影が浮かんでいました。さかなの形で滲む紺色のインクと、抜け落ちた「愛」の文字。言葉では言い表せない柔らかな感情が彼女を包みました。このさかなを、彼女はどこかで見たような気がしてならなかったのですが、彼女は思い出すことができませんでした。涼しげな秋の風が、窓際の仕舞い忘れた風鈴をチリリン、と鳴らしました。
「今なら、書ける気がする」
彼女は久しぶりに机に向かい、しばらくお別れしていた原稿用紙を引き出しから取り出しました。そうしてお気に入りの万年筆を手に取ると、マスを文字で埋めていきました。滑らかなペン先は、こんなふうに書き出します。
――あるところに、絵本の文字をたべては、子どもたちにいたずらをするこまったさかながいました。
これは、にんげんの女の子にこいをしてしまった、とあるさかなのお話です。
恋をした紙魚の話