溶ける舌
はじめに匂いがわからなくなった。次いで何んにも見えなくなる。朝食が乗っていたはずの木製テーブルが目の前にあることを知っているけれど、それが本物なのかどうか、本物だったのかどうかもわからなくなっていた。
「食べないの?」
「――、」
声はすぐ耳元で聞こえるのに、自分の声が聞こえない。記憶をたよりにフォークを探り当て、狙いを外さないよう慎重に構えた左手のフォークで、焼きたての黄金色パンケーキを今、食べようとしているのは誰だろう。フォークの先、鋭利な冷たさが唇を突っ切って舌を掠めてゆく。上手く焼けすぎて膨らんだパンケーキに口の中を好きにされ、勝手に涙があふれ出した。咀嚼と嗚咽。繰り返しているうちに今度は味がわからなくなる。パンケーキだと思っていたものたちはしぶとく口内に残って暴れている。何だかまるでひとの口の中でふわふわと生殖活動を行っているみたいだ。誰が? 僕が。僕があふあふと喘ぐ音だけがすべてになっていた。
最後の欠片を飲み下すと、少しずつ僕は思い出してきた。朝食の支度が整った美しき日曜の朝の光、彼女が作ってくれるバターたっぷりの黄金色パンケーキのその匂いと味。彼女が言う。
「ねえ、美味しかった?」
どうだったの? と微笑む彼女と美しき朝は、僕の答えを待たずに霧散する。これで通算3762回目だ。
フォークの銀色がまず目に入る。栗色の髪をふわふわと揺らしながら彼女が言った。
「食べないの?」
溶ける舌