*星空文庫

ふじょ☆ゆり 草稿 ~第五章まで

玉置こさめ 作

  1. 第一章 あしほと蘭
  2. 第二章 スクールジャパンプロジェクト
  3. 第三章 雨に誓って
  4. 第四章 群れる羊 はぐれる狼
  5. 第五章 Out of Blue

電子書籍や同人誌でリリースする前の草稿での公開です。

第一章 あしほと蘭

 豊田あしほは、BLを愛する。
 BLとはボーイズラブの略称だ。男性同士の恋愛を取り扱った漫画や小説の総称でもある。ホモセクシュアルの実際とはかけ離れており、そこには幻想まじりの恋模様が描かれている。
 BLを愛好する女子を腐女子と云う。『婦女子』に自らを蔑む意味合いとしての『腐』をかけた呼称だ。腐女子には恐ろしい性質がある。BL作品ではない作品も、『萌え』を満たす象徴となることが多い。神の聖なる書でも、仏の尊い経典でも、作中に美男や好青年が大勢揃い、彼らの間で一定の友情が築かれていれば、腐女子のBL妄想の呼び水となる。女子の、女子による女子のための文化。公言するのは憚られる趣味だ。
 あしほもまた、己の趣味に慎重だった。
 通学先は厳しい女子高。そこに於いて、模範的態度を示す立場にある。
 学校でのあしほは妖精に例えられている。手足は病的なまでに細く、黒髪は腰まで届く。しかし、痩せている理由は現実的だ。内訳に昼食代が含まれる小遣いの大半をBL趣味に費やすためにほかならない。髪が長い理由も、美容院へ行く代金が惜しくて伸びきった結果。清潔感を損なわないよう、それを梳いてみつあみにしている。
 だが、この日曜日、あしほは黒い髪を高いところでひとつに括っていた。装いもジーンズにパーカーというラフな格好だ。靴もスニーカーを選んだ。身軽さを重視したのだ。
 バスを使い、みっつめの停留所で降りる。アーケードの商店街では、まだ大半の店のシャッターが降りている。そのうちのひとつ、耕文堂書店の前に立つ。
 時間は八時四十分。店の開店は十時。まだ一時間以上あるが、じっとしていられなかった。
 そっとあたりを伺う。誰も知り合いのいないことを確認する。
 学校だけではない。あしほは家でも厳しく監督されている。現在は親元を離れて、その持ち家で暮らしている。しかし、どちらにしても、住居からは娯楽が淘汰されている。ある種の洗脳が強いられるような環境だ。同性愛の表現を詳らかに綴った書籍の所有を許されるはずがない。あしほの隠し方は海賊が財宝を隠すように念入りだった。
 商店街には早朝開店のコーヒーショップがある。そこで待つことにした。
 目当てのタイトルは一般向けの推理小説。あしほにすれば、聖典と言える特別なシリーズだ。カウンターでカフェオレを注文し受け取る。席につく。鞄からこれまでのシリーズのうちの一冊を取り出す。最新刊を手にする前に、今までのストーリーをおさらいしようという考えだ。
  貪り読んでいれば一時間など取るに足りないこと。気が付くと書店の開店時間をすぎていた。コーヒーショップの硝子窓の内側から、書店の出入り口を目視する。店員がシャッターをあげた。あしほは勇んで身支度を整え、コーヒーショップを後にした。
 書店に入ると、無駄のない動作で新刊のBL漫画を二、三冊渉猟する。
 そして、一般書籍の山をハンターの眼差しで射抜く。
 あった。
 山と積まれた宝物を確認する。本命に手を伸ばす。ぱらぱらとその場で頁をめくる。
 このとき、あしほは血に飢えた亡者の目をしていた。
「何読んでるん? 会長」
 思わず、はいと返事をしそうになった。
 豊田あしほは、生徒会長でもあるからだ。
 一人の少女が、あしほの脇に並んで立っていた。
 ブラウンの瞳。肩のあたりまで波打つ天然パーマの髪は金色。付け爪は派手でスカートは短い。通学用鞄には無数のチャーム。耳にピアス。唇は桜色。銀のアイシャドウ。日曜日なのに制服を纏っている。
 あしほの頬が引きしまる。近所の書店でBL本を抱え、聖典を手に目を血走らせている――そのような痴態を決して見られてはならない相手。
 クラスメイトだった。
「みつるぎ…さん…」
 御剣蘭。一言であらわせば、ギャルだ。
 あしほとは出身の中学校も同じ生徒。
 そして、腐女子でもある。
 平生なら中年男性が読むような一般推理小説。それを女子高生のあしほが掲げていることについて、一般の人間なら『文学少女なのかな』で済ませるだろう。しかし、相手は腐女子――それはまるで街中の雑踏で自分と同じカルマを背負う能力者に遭遇したような共感と洞察と驚愕とを互いにもたらす。そして、どう対応するべきかを互いに迫る特殊な事態なのだった。
 例えそれそのものがボーイズラブと銘打たれていない一般書籍でも、ホモセクシュアルを匂わせるような描写があれば、『匂い系』と呼ばれてBLの大枠のうちにカテゴライズされる。そうしたタイトルは腐女子の間では通じやすい記号となる。
 つまり、あしほの手にしている本が一般小説でもごまかしがきかない可能性があった。タイトルを見ただけで、それがどのような視点で手にとられたかを見抜かれる畏れがある。
 ボーイズラブ文化では、受動的な役割を果たす男性を『受け』と呼び、受けに働きかける役割の男性を『攻め』と呼ぶ。この受け攻めの組み合わせをカップリングと呼ぶ。蘭はあらゆるカップリングのボーイズラブを恐るべき悪食を以って網羅している。
 通常は腐った女子といってもさまざまで、ボーイズラブなら全部好きという者ばかりではない。カップリングの指向に対して好悪が分かれることもある。ストーリーを重視する者もいれば、絵柄にこだわりのある者もいる。いちゃついている甘い表現が好まれる一方で、シリアスで逼迫したシチュエーションでなければ読めないというタイプもいる。性描写に対しても、それそのものがNGの人もいれば、重要視する人もいる。千差万別だ。
 しかし、蘭は周囲に公言するだけあって生半可な腐女子ではない。ボーイズラブであれば、アニメだろうと漫画だろうとラノベだろうとその餌食となる。カップリングのテイストとしても、苦手分野はないと言い切るから恐ろしい。
 御剣蘭の目からは逃れようがない。
 だが、退却の道筋が閉ざされたわけではない。
 ここで引いてはならない!
 あしほは相手を見据えた。異能力者同士の腹のさぐりあいが、今ここに開始される。
 生徒会長はまず自衛手段を一考する。
 早い話が、嘘をつこうとした。
「こ、これはね…ええと、そう、家族に頼まれて買いにきたのだけれど…」
 そのときだ。
「『堰内君。世界には』?」
 蘭が、問うた。
「『とけない謎など何もないのだよ』」
「うふふふふ! 今、何て言ったお?」
「はっ…! あ、いや、今のは!」
『世界にはとけない謎など何もない』とは、あしほが手にする『神納堂』シリーズの主人公の名台詞だ。あしほの返答を聞いた途端、蘭の笑顔が輝いた。
 あろうことか、あしほは、シリーズの名台詞を阿吽の呼吸で返してしまったのだ。
 しかし、その名台詞は推理小説好きであれば誰もが知っているほど有名だ。
 まだごまかす機会は残されている。すかさず、あしほは言い放った。
「か、勘違いしないで! わ、私が好きなのは、す、推理小説で…きゃ、キャラ萌えみたいな、さ、寒い読書じゃないんだから!」
 悲しいくらいに噛んでいる。しかも相手は聞いていない。
「会長…日曜朝からBL漫画がっちり持っちゃってるって、相当好きでそ?」
 時すでに遅し。骨付き肉を見つけた犬のように蘭は食らいついてきた。優秀なる生徒会長は今更ながらBL本を背後に隠す。
「これは、ちがっ…やめなさい! にやにやしながら人の頬を人差し指でぐいぐいするのはやめなさい!」
 これだからギャルは苦手だ。あっという間に会長は劣勢に陥る。
「いいじゃん、会長! 『神納堂』シリーズなんて渋すぎだお! 誰萌え? 朝彦萌え? 文筆家の堰内克己? 探偵常盤津雄ニ郎? ま、まさかガチで肉体派刑事の射場丈太郎!? ガチで兄貴萌え? って、蘭うるさい!? 蘭うるさい!?」
「実際うるさあい! 大声でそんな…っていうか、何で根津刑事が好きってことになってるの!?」
「そっか! 違うキャラ!? 当てるから黙って! 会長、若い子が好き?」
「キャバクラに男性客引っ張り込むホストみたいになってきた」
「わかった! 根津の後輩の若手刑事、黄金の眼鏡因果律を有する赤城勘蔵!」
「違ううう!」
 あしほは声を振り絞って叫んだ。
「私が好きなのは常盤津探偵の助手の臼田こうい……! あ!」
「ああ、探偵助手臼田幸一かあ」
「はあうっ! 今のなしいいい!」
 否定したいのは、若手刑事が好きか探偵助手が好きかといったそんな問題ではなかったはずだ。
 にやりと蘭の唇の端がつりあがる。あしほの中で理性の箍が決壊した。ついに萌えキャラの特定を許してしまった。異能力バトルで言えば弱点を掴まれたようなものだ。見当違いなキャラを好きだと思われることは、腐った女子として許容しがたい由々しき問題。その自尊心を突かれた。恐ろしい罠にかかった少女は頭を振りながら膝から崩れ落ちた。
「やめて! 好きじゃない! あんな善良そうなお人よしなのに陰でねちねち何考えてるのかわからない奴好きじゃない!」
「く、詳しい…だと? 相当大好きと見た…」
「あああん! 私を見ないでえ!」
 窮したあしほはついに物理的な逃亡を図る。
 一階から二階への階段を駆けあがる。上へ、上へと。
 しかし、あしほはまだ知らない。腐女子たるものの習性を。

 ――『萌え』には、罠がある。

「会長! 待つお!」
 あしほの肩は揺れた。踊り場に立ち尽くす。
 蘭がゆっくりと階段をのぼる。欄干を叩く。音が響く。
 甲。
「その口調、臼田を受け扱いしてない…でそ?」
 甲。
「一般に受け扱いのキャラを攻めって思っちゃうとつらいよね。王道のカップリングに比べちゃうでそ?」
 甲。
「マイナーカプ萌え…つらかったでそ?」
 甲。
「会長のツボはずばり…『臼田攻めの常盤津受け』だお!」
「いやああああ!」
 屈辱と羞恥心から、あしほは耳を塞いでその場に座り込む。大正解だったがために。
 踊り場に蘭が到着する。あしほの二の腕に手を添える。決定的と思われる呪文を放った。
「あの変態…いいよね」
 この鍵はあしほの扉を解放させた。秘密の維持に執着してきたあしほにとって、それは解放だった。希望とともに、あしほの内なる萌えは外側の世界で承認される可能性を見出し肯定に至る。全ての精気を奪いつくされたような表情を浮かべたのち、その唇がきゅっと引き結ばれた。親鳥を見あげる雛の真摯な光を宿して、あしほは蘭を見あげる。真っ赤になって、
「うんっ…」
 と、頷いた。
 ――落ちた。
 駅前の書店。彼女らが何を言っているのかさっぱりわからないため見て見ぬフリをしてパッキングの作業に没頭する書店員。立ち読みに没入しようと精一杯な客たち。彼らを置き去りに、異能力者バトルは決着した。
 そう。萌えには罠がある。あしほはその毒を知らずに染まりきってしまっていた。
 萌えという毒は――溜まる。
 蘭は、追及する姿勢をとりながら言葉の端々に作品の特徴を織り込むことであしほの趣味への共感を示した。そして、決定打だ。臼田というキャラの変態性の肯定は言い換えれば『激しく同意』という意味だった。
『激しく同意』――これは腐女子の固く閉ざされた心を開く魔の呪文だ。
「お、お願いいい…誰にも言わないで」
「言うわけないお? でも、会長…軽蔑してたでそ? 腐女子のこと」
 あしほは身を強張らせた。蘭の顔が口付けできそうなほど間近にある。ブラウンの瞳。金色の髪。付け爪は派手でスカートは短い。自分が腐女子であることも隠さない。蘭。
 御剣蘭が、いやだった。
 ――あれは中学校のときの話だ。
 けれど、蘭はそのことを忘れていない。そう思わせる眼差しだった。
「それは…その…羨ましくてっ…」
「嘘だあ」
 蘭の声は低く乾いていた。あしほは蘭の笑みが翳りを帯びるのを見た。立ちあがるのを見た。無造作にスマートフォンを取り出すのを見た。シャッターが切られる音を聞いた。
「会長にいいお知らせ。蘭は今日から女王様。会長は下僕だお」
 撮影されたのだ。BL本をしっかりと抱きしめている姿を。
「う、あ…そんな! データ消して!」
 世界が反転する。そんな感覚に突き落とされた。
 誰であっても第三者に見られればあしほの平穏な生活には終止符が打たれてしまう。
「まあまあ。とりあえず蘭とメアド交換するお?」
 意外な言葉に、下僕は顔をあげる。
「え…え? めーる?」
 思わず凝視すると、蘭は何故か赤くなっている。
「だ、だからあ! メールで命令するお!」
「う。…じゃあ…これ…」
 あしほは鞄を開くと、四角く薄いケースを取り出した。その中から一枚の紙片を蘭に差し出す。
「へ?」
 蘭はその厚紙を手にしてまじまじ見つめる。

『豊泉寺女子高等学院生徒会会長豊田あしほ』

 四角四面なフォントがあしらわれた名刺だ。少女らしさのあらわれといえば、蔦のような飾り枠が文字を四角く囲っているばかり。
「…会長は…どこの営業部長なのかにゃ?」
「でも、これ以外に個人用のアドレスは…」
「ちがうお! おかしいお!? おかしいお!? 女子高生なのに名刺て!」
 ぱしんぱしんと紙の表面を叩きながら蘭は会長に迫る。
「赤外線は?」
「周波数の長い電磁波がどうかしたの?」
 二人の間に、ふと沈黙がおりた。
「わ」
 あしほは俯いた。
「わからないの、よく…使い方…」
 蘭は呆然となる。ケータイやスマートフォンといえば、女子高生にとって必需品だ。あしほの表情には羞恥心がありありと浮かんでいる。しかし、蘭から追及の言葉は出なかった。
「じゃ、じゃじゃじゃあ、この名刺、本当にもらっていいお?」
「ど、どうぞ…というより、命令するんじゃないの?」
 妙に緊張している女王様の様子に、あしほは首を傾げる。
「も、もちろんだお? 遠慮なくもらうおっ! 後でメールするけど、アドレス登録はできるでそ?」
「そ、それなら何とか…」
「うひっ。忘れたらだめだお。会長は蘭の下僕だお!」
 下僕。その二文字に支配され、あしほが硬直する。
「う、うううー…」
「また明日ねっ」
 ひらひらっと手をふると、蘭は駆けていく。淡い色の髪が太陽のもとに透けて煌いている。その背中を見送ると、あしほはがくりと項垂れた。
 本日は愛好するシリーズの最新作の発売日。あしほにとって『萌え』の原体験に相当する貴重な作品群だ。シリーズそのものが発刊されない間、あしほの『萌え欲』の飢えを満たすものはBL専門の出版社の漫画のみだった。しかし、それらと聖典の価値は別にある。言い知れないむなしさとも今日でさよなら。ある種の記念日と言える一日だったのだが…別の意味での記念日となってしまった。
 ――忌まわしい記憶が一気に蘇る。
 ああ、何てことをしたのだろう。蘭は恐らく覚えていたのだ。
 しかし、あの頃の自分はそれほどまでに飢えていた。

 ☆

 それは中学二年生の頃。
 予備校の夏期講習の帰り道。
 遭遇したのは、この耕文堂書店だった。
 参考書を買うつもりで足を踏み入れたあしほを、異様な光景が待っていた。
 そう。重厚なその本の詰まれているさまは異質なものだった。
 運命によって与えられた、その一冊…『スルメの夏』は、とにかく厚かった。
 吸い寄せられるように近づき、少女はそれを手に取った。感じられる重みに不思議と魅了された。カウンターへ持参した。代金を払い、包装されるのを待ち、鞄に入れて自転車の籠に詰め込んだ。帰宅すると夢中で読んだ。中身は、完全無敵の娯楽小説だった。息抜きであったはずの読書が、純然たる親の道具だったあしほの意識を歪めた。洗脳の壁に亀裂が入った瞬間だ。
 面白い。面白いのだ。
 それが『スルメの夏』をインターネットで調べようとしたきっかけだ。
 俗に『神納堂』シリーズと呼ばれるそのシリーズは一般向けの推理小説だ。主人公の化野朝彦は『神納堂』という古本屋を営む男で、拝み屋でもある。事件を独特の弁舌で解説するのが特徴だ。シリーズ一作目の『スルメの夏』は初版でたちまち売り切れた。続いて刊行された『農協の箱』『軟骨の夢』なども大ヒット。機能美と呼べそうなくらい複雑に張り巡らされた伏線が一気に収束される物語世界は圧巻の一言に尽きる。もっと、とあしほは思った。もっとこのような小説が読みたい。
 あっという間に少女は一連のシリーズを読み終えた。
 それだけでは飽き足りず、作品について語り合える相手を探してインターネットに接する機会が増えた。そのうちに、あるソーシャルネットワーキングサービスにたどり着いた。そこは、ある意味で少女の終着点だった。腐った魂の生まれる源泉であり、感性の楽園だった。イラスト専用のSNS。少女は、そこで、生まれて初めてファンアートに遭遇した。
 ファンアートとは、二次創作のこと。原作つきのアートだ。既存の公的作品をモチーフとし、原作者でない描き手が独自のテイストを加えて描き出すイラストや漫画の類を示す。
 あしほは難なく『神納堂』のタイトルを示すタグを発見し、わくわくしながらイラスト群を抽出した。ブラウザ上で無数に展開されるイラスト群――それを見た瞬間に、少女の理性は凍りついた。
 あろうことか、そこでは…
 作中の登場人物らが、主に男性同士でひたすらいちゃついたり、いちゃついたり、そして、いちゃついたりしていたのだ。
 これだ、とあしほは思った。確かにそれらの光景は衝撃だった。しかし、求めていたものだと瞬時に理解した。何よりも許しがたいのはこのような甘美な世界のあることを知らずに生きてきた自分の存在。それが何よりも悔やまれた。閲覧者にとっては原作に描かれない空想…いや、妄想の埋め草となるものだ。自分が求めていたものはこれだ。少女の内なる萌芽はその書籍そのものによって促進されたのではない。妄想だ。
 妄想によって、あしほの洗脳は氷解したのだった。
 そして、その瞬間からあしほには秘密ができた。
 秘密は隠されなければならない。
 だから。
 だから、それまで意識していなかった『お仲間』即ち、腐女子やオタクといった人種のことが急激に気になりはじめた。
 特に蘭のことは気になった。御剣蘭は、当時から、自分が腐女子であることを隠さずに生きていた。
 あしほは、蘭や彼女の友人らが、己の趣味をあからさまに露呈するさまを疎んじるようになった。
 それが昂じて、教員に密告をした。蘭の持ち込んだゲームや漫画を没収させたのだ。
 しかも、あしほは、教員の目を盗み蘭の私物を密かに持ち帰った。
 蘭は恐らくあのときのことを覚えている。だから、強気な態度をとったのだろうと思う。
 あしほの目の前は真っ暗になる。
 しかし、人目を忍びながらも宝の山を会計することは忘れなかった。収穫物を貪る気持ちは失われていない。腐った魂の悲しい習性だった。

 ☆

 賑やかな商店街を抜けて車道沿いを少し歩くと、店の数はまばらになる。しかしドライバーを狙った飲食店の数は尽きることがない。そんな店のひとつに蘭は入ってゆく。看板には『喫茶エターナル』とある。しつらえは白木作りをメインとした素朴な造りだ。
 蘭は軽い足取りでその店の扉を押した。明るく軽い音のベルが入店を知らせる。ウエイトレスが振り向いた。
「いらっしゃいま…あ、お帰り! 蘭お姉ちゃん!」
 長い睫。丸みを帯びた瞳。ぽったりとした唇。くるくるの巻き髪をツインテールにしている。ミニスカートからすらりと伸びた足にはフリルとリボンのあしらわれたオーバーニーソックス。フリルブラウスは純白だ。エプロンドレスの胸元は大きく開かれくっきりと胸が強調されている。アイテムは清楚だがデザインが悩ましい。彼女のグラマラスな肢体もピンクな雰囲気を増強させていた。
 ウエイトレスの名は御剣なこと云う。蘭の妹だ。
「ただいまっ」
「もう。お客さんと間違えるから裏口から入ってって言ってるのにぃ」
 なこはぼやいた。
「えへへ。こっちのが早いんだお」
 裏口から入ると居間をまわりこまなければ二階にあがれない。だが、店を抜けて中へ続くドアを開くと、階段はすぐ目の前だ。蘭は横着して正面から帰宅することが多い。客が少ないのをいいことに、蘭はレジカウンター脇のバスケットから、お土産用のクッキーを一枚とって袋を破いた。
「ああ、こら、つまみ食いはだめっ」
「おこづかいから引いていいお」
「もー」
「お帰りなさい、蘭お姉様」
 カウンターの向こうから声がかかる。落ち着いたアルトだ。
「何かいいことあったの? お姉様」
 なことは正反対のクラシカルな制服姿がそこにあった。なこが軽やかな装いであるのに対し、こちらはシックなロングスカート。色も抑え気味で露出度も低いが、シャツブラウスが胸元から覗かれるワンピース。エプロンは腰周りにぴったりと沿って結ばれているだけに、スタイルの良さがかえって引き立つ。長い髪をゆるく編みあげ、ヘアタイをアクセントにしている。控えめな顔立ちだが、黒目がちの瞳が麗しい。
 御剣みか。蘭のもう一人の妹だ。
「あら。チラシでももらったんですか?」
「え? あ、こ、これは…」
 蘭は渡されたまま手にしていた名刺を背後に隠した。
「うひ、ちょっとね」
 肩をすくめる。
「何かの特典? いい単行本でも見つかりまして?」
 蘭がBL本を目当てに書店へ向かったのを、妹たちは承知していた。
「まあねっ。じゃあ作業するおー」
 逃げるような足取りで蘭は二階へあがる。
「はいはい。あとで珈琲持って参ります」
 みかが応じる。
「お、お姉ちゃん、今日もがんばってね!」
 なこが下から呼びかけてきた。
 見下ろすと、ぐっと両の拳を胸元で握りしめている。重そうな胸が腕に押し付けられてせりあがっている。紅潮する頬はいかにも愛らしい。蘭はにっと笑って頷いた。
 階段をのぼり切る。
 じっと名刺を見つめ、頬を緩ませる。つくづくとそのエンボス加工の為された和風の紙の質感を確かめる。
 窓から降り注ぐ日の光に翳した。
「うーん、高級印刷用紙『きらめき』とは渋い名刺だお…」
 階段をのぼってすぐの部屋は三人姉妹の着替え部屋兼寝室だ。
 そこで手早くジャージに着替え、隣の部屋へ移る。
 そこは雑然たる一室だった。壁沿いの本棚にはぎっしりと漫画が並んでいる。その要塞の中央には、向かい合わせに二つの仕事机が置かれている。窓際にはパソコン用机とデスクトップ一式。床にも写真集や画集が相当に積まれ搭になっている。完全に作業専用の部屋だ。
 上等ではない作業机。そこが蘭の席だ。
 その机上では、純白の漫画用原稿用紙が彼女を待っていた。
 粛々とその椅子に腰掛ける蘭の横顔はどこか職人めいている。原稿を脇によけ、カッティングシートを引き寄せて敷く。トーンカッターを取りあげた。カッターの軸には綺麗な細工が施されており、それは文様のように見える。くるりと回転させる。そのまま刃先を振り落とし、その名刺の紙面…少女の名の記された紙へと刺した。
 すると、その手元からかすかな淡い光が生じた。

 ☆

 デザイナーズマンションの並ぶ高級住宅街で、あしほはバスを降りた。
 分けても真新しい設備の建物に入る。エントランスは指紋認証で行き来する人は少ない。最高階へ向かう直通のエレベーターを利用する者は更に限られる。
 昇降機は少女を最高階へ運ぶ。到着すると、宮殿のような一室が待っていた。ワンフロアを使い切ったあしほのための間だ。天井にシャンデリア、床は大理石という豪奢な設え。リビングにはテーブルを四辺に囲むイタリア製のソファ。キッチンもバスルームも流麗な調度品で整えられ、寝室には天蓋付きのベッドがある。
 エレベータの脇にはあしほを迎える者がいた。妙齢の美人だ。
 黒のボタンダウンシャツに、長い胸当てサロン。セミロングの髪を清楚に結いあげている。カフェの給仕を思わせる服装だ。涼しげな目にすっきりしたフレームの眼鏡がよく似合う。
「お帰りなさいませ、あしほ様」
「ただいま、有子」
 口調からは少女への敬意が感じ取られる。
 あしほの家から遣わされた侍女。名を斧田有子と云う。
「お預かりしましょう」
 あしほの荷物を引き取ろうとする。
 少女は慌ててそれを制した。
「あ、これは…いいの。大丈夫。ありがとう」
「…さようですか?」
 有子はキッチンへと戻る。
 あしほは寝室へ入り、慎重な仕草で荷物を置く。彼女の勉強部屋は、同じ建物内のほかの階にある。本日の収穫はそちらへと密やかに収められることになる。
 ワンピースタイプの部屋着に着替えて部屋を出た。有子が茶器をテーブルにセットしながら告げた。
「今日は凪様に時間ができたそうです。試験を仰せつかってます」
「本当!?」
 あしほの顔はたちまち輝いた。
「食事の後になさいますか?」
「今すぐ! ああ…でも、お茶が冷めてしまうかも」
 有能な侍女は艶然と笑みを浮かべた。
「そう仰ると思いまして蒸らし時間の長い茶葉を用意してあります。テストの準備もあちらに」
 リビングを示す。テーブルの上にはA4サイズの紙と筆記用具が準備されていた。
「ありがとう。カウントを任せる」
 あしほは玉座のような長椅子の中央に着席する。有子がその後ろに控える。タイマーを取り出すと合図した。
「開始」
 合図と共にタイマーが押される。紙を裏返すと、あしほは一心不乱に鉛筆を動かしはじめる。本日の題目は物理だ。
「終了」
 声と共に鉛筆を置いた。
 解答用紙を受け取り、採点を終えると、有子は微笑した。
「九十八点。これなら本日は十分お話しいただけます」
「そんなに? よかった! 勉強した甲斐があった!」
 そう。それは試験だ。
 あしほが親との面会時間を得るための試験。点数に応じ時間が伸縮されるよう仕組まれている。
 これが異常であるという自覚はあしほにもある。しかし、試験を受けないわけにいかない。受けなければ、面会すらかなわない。そうするべきだと思っている。この習慣がいつから始まったものかは、もう覚えていなかった。
 ソファの正面には大型スクリーンが掛けられている。その脇のパソコンを有子が操作すると、呼び出し音が室内に響く。スクリーンいっぱいに映像があらわれる。半導体レーザーを利用した最新式のオンラインシステム。そこにあらわれたのはダークスーツの中年男性だ。彼の前髪は撫で付けられ、ネクタイにはタイピンが光る。柔和な表情で画面に向き合っている。
 あしほの父、豊田凪だ。背後には誰もいない会議室が見える。オフィスの設備を利用しての通話だ。
「家訓」
 通話がつながるとともに、室内のスピーカーから父の声が響く。あしほが応じた。
「浄財に感謝してすごすこと」
 家訓のひとつを読みあげると、父は満足そうに微笑んだ。
「うん。久しぶりだね、あしほ」
「ご無沙汰しております、お父様!」
 少女は笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
「ん? あしほ。やつれているようだが…」
「へっ? いえ、あ、あの、だ、大丈夫です」
 まさかボーイズラブな趣味がクラスメイトにばれて脅迫を受けたせいです…とは言えない。つまらない懸念事項を増やして心配をかけたくなかった。
「そうか。順調か?」
「はいっ!」
「うん。おまえはしのぶとは違うからな…」
 それを聞いて苦い思いが生じた。
 しのぶとは、豊田しのぶのこと。あしほの姉だ。
 また姉の話だ。そう思いはしたが、表情に出さずにおいた。
 しのぶは、怪物だ。少なくとも、あしほにとっては化け物のような存在だ。
 彼女とは恒常的に比べられて生きてきた。姉は成人すると同時に株式投資をはじめ、数ヶ月で一財を築いた。しかし、その金は全て親に明け渡して、自らの身を買い取ると言い放ち、『家業』を放擲した。そのままあしほの通学先に教師として赴任した。現在の住居は本家に教えずじまいだ。
 姉がいない以上、家業を背負う立場にあるのはあしほだ。
 姉と違うと囁かれながら、今では期待を寄せられている。
 それは、あしほにとって、かつて渇望していたはずの期待だ。しかし、こんな形で背負いたかったわけではない。
「ところで、あしほ。小遣いの月額一万円を何に使っている? …内訳をすっかり話せというのではない。だが、昼食代もそこに含まれているだろう」
「ぎくり」
「ぎくりと口で言う人間を初めて見たぞ。何ならその金で食材を購入して弁当くらい作ったらどうだ」
 見た目に反して庶民的なことを父が言う。
「有子が学内の活動に関与しないよう言いつけたのはおまえだろう。だったら少しは自立心を養わなければ」
「は、はい…申し訳ありません。お金は…参考書に…勉強の参考書に使ってます」
 一体何の参考書だと云うのか。
「お前に必要か?」
「どきり」
 少女は冷や汗をかいた。
 あしほは勉強ができる。いや、勉強の必要がないほどに優秀な素養に恵まれている。優性遺伝の効能だ。それを承知している凪の前で下手な申し開きをするのは躊躇された。しばし沈黙が四辺を支配する。しかし、少女の父親はふっと息を吐いた。
「ま、いい。しかしもう少しきちんと食べなさい。どんなに多忙でも身の周りの所有物には感謝して常々気を払うように。消しゴムひとつとっても、浄財、財産だからな」
「お言葉ありがたく賜ります」
 あしほは再び頭を下げた。
「ん? 時間を超過したか」
 あしほの傍に控えている侍女に、父親が目を向けた。
「いいえ。時間通りです。凪様」
 有子は恬淡と返事する。
「まあいい…あしほ。また話そう」
「はい、お父様。お時間ありがとうございました」
 通話が切れる。
 通話時間は十分の予定だった。しかし実際に有子の手元のタイムウォッチは十二分を示している。タイムオーバーに気付いていたあしほだが、直接そのことにはふれなかった。もしも下手に言葉にして、この先おまけしてもらえなくなったら困る。だから礼だけを告げる。
「いつもありがとう、有子」
 侍女もまた何も言わずに一礼した。

 ☆

「失礼いたします」
 あしほの夕食の準備を終えると、有子はサロンを外して一礼した。
 彼女の住居はこのマンションの別の階にある。パートタイムであしほの世話をする約束だ。一礼してエレベーターに乗ろうとする有子を、あしほは呼び止めた。
「あ、ねえ。有子…あの…中学校のとき、私の同級生だった御剣さんについて、何かわかることはある?」
 平静を装うつもりだったが、顔があげられない。無意識に、少女はワンピースの裾をもじもじと握りしめる。しかし冷静な侍女は顔色ひとつ変えずにデータをはじき出した。
「出席番号二十四で身長百五十センチ体重四十四キロ。家族は妹が二人いて豊島区在住、入試試験の総合得点二百八十六点の御剣蘭でしょうか。あの、一言でいえばギャルの御剣蘭でしょうか?」
「……充分だわ…」
「ご用命でしたら更に詳らかなデータを開示いたしますが」
「いえ、結構よ…何て言うのかしら…ありていに言えばきもい」
「きもい!?  きもいってどういうことですか!?」
「いえ…だって…うん…きもい…」
「二度も!?  言葉を探し言いあぐねた末に二回も同じことを!?」
 有子はあしほの周辺事情に本人以上に詳しい。それが役目といえ、こうまで把握されていると最早ストーカーの域だ。彼女の知識の集積はそのまま豊田の家のあしほに対する監視の威力をあらわす。それを知っているからこそ、あしほは侍女の所有する情報を私的に引き出すことにはいつでも慎重だった。
 従って、侍女は驚きをあらわさずにいられない。
「一体その女生徒がどうなさったんです」
「ど…どうということのほどではないわ」
 あしほは、完全にどうかなさった口調で目をそらす。
 有能な侍女は追及せずに主の関心を満たすことに心を砕いた。
「同じ中学校でしたが、あしほ様に接点はなかったですわね。オタク趣味で、学外では不良仲間が多い一方で学内では文系の女子と連れ立っていることが多くございました。成績はいつも中の上。家の経済状況は厳しく確か妹たちと家計を支えているとか。性格は明るく、一方で短慮とも言えますでしょう」
「も、もういい…気持ちが悪い」
「今度ははっきり言いました!? ここまでは一般の父兄が共有可能な情報です。更に詳しい情報が必要でしょうか?」
「結構。調査なんて望んでいるわけではないの」
「しかし、あしほ様。聞き出す理由はお尋ねしませんが、あなたが関心を寄せた時点で調べずにおれないことはご承知おきいただけますでしょうね。必要ならまたどうぞ、いつでも。私は、問われない限りは口外しません。あなた様にも。それならいいでしょう」
「うー…」
 そこまで言われては否やとは言えない。そもそも興味を示したのは自分の側だ。
「ありがとう、有子。助かる。でも、もう聞くのはやめておきもい」
「語尾みたいに!? 承知しました。では、これで…」
 エレベーターに乗る前、侍女は実に穏やかな笑顔でこう尋ねた。
「本日、いい本には巡り合えましたか?」
「えっ!?」
 あしほは目をぱちぱちさせた。凍り付いて動けない。呼吸が早まる。
「な、何のこと?」
「参考書のことです。では、失礼いたします」
「お、おやすみなさい! また明日!」
 押し込むように侍女をエレベーターの向こうに追いやる。
 扉が閉ざされるが、侍女の唇は笑みをかたどっていた。
 落ち着かない気持ちでそれを見送ると、あしほはソファに倒れこむ。クッションを抱きしめる。
 気付かれている…?
 その可能性を示すやり取りだった。反芻してあしほはひとしきり悶える。
「うー…」
 幼い頃から付き添ってくれていた有子が口外するとは思えない。あの侍女はいつでも自分と姉の味方だった。わかってはいても、やるせない。蘭について得られた情報が思い出された。
「短慮、か…」
 有子はそう言っていた。確かにそうかもしれない。
 自分を脅迫する、取引するなんてことは普通の生徒なら考えもしない。
 いや。交流すらも…
 あしほの眼差しに暗いものが生じた。
 この天空の部屋は綺麗で快適。しかし、これは檻そのものだ。
 そして、更なる堅牢な檻に明日も向かわなければならない。どうして自由を感じられよう?
 ただ、好きなものにふれているときだけが自在な時間だ。
 ただ、それだけが…
 少女はソファに横たわったきり、まぶたを閉ざした。

 ☆

 豊泉寺女子高等学院。
 地下鉄を降りて、勾配の急な坂をのぼると、その総合学園の門が見えてくる。
 かつてこの近辺は寺領を囲む農村地帯だったが、現在では核家族向けのマンションや総合商業施設の立ち並ぶ都会的な街並みだ。学院は、豊泉寺第七十世住職が昭和初期に創設した学びの庭だ。現在では幼稚園・小学校・中等部・短期大学が併設され、総合学園の立場を確かなものとしている。宗教教育を押しつけず、智恵と豊かな感受性を育むことを理念としている。通う生徒の家柄も成績も平均的で、ある特徴を除けば極めて自由な校風と言えるだろう。
 校門をくぐる派手な装いの蘭にも、注意する者はいない。
「おっはおー」
「おはよう、蘭」
 遊歩道を歩きながら、クラスメイトたちに挨拶する。宿題や先生の噂。そこに漫画やアニメの話題が加わることもある。どこにでも見られる登校風景だ。
 そこへ、坂のふもとから黒塗りの車が直進してきた。空気がざわつく。長い車体は磨き抜かれ、陽光に輝いている。その艶やかな車体が門前で静止する。路肩に停められることもなしに、正面に、堂々と。
「生徒会長だ」
 当然のように、生徒たちは道を開いた。萎縮するでもなく、強い関心を寄せるでもなしに。
 豊泉女子高等学院は、けして堅苦しい進学校ではない。
 私財に飽かせた豪奢なお嬢様学校でもない。
 しかし、豊田一族により運営されている旨は特筆を免れない。いっそ、その一言に尽きる。
 同学園の小中学校や短大に比べ、高等学院においてはその点が際立っている。
 まず、学院の生徒会には民主的な選挙がない。生徒会の面子は理事がさまざまの基準に則り指名する。その信任か不信任のみを生徒が投票する。不信任の場合も別の生徒を理事が指名する。そして、豊田の血筋に近ければ近いほど、指名されやすくなる。それは生徒間の争いを避ける制度でもある。しかし、この高等学院は陰で豊田王国と呼ばれていた。
 その王国の皇女にあたるのが、現生徒会長のあしほだ。
 あしほは入学時から電車通学を願っている。こんな大げさな車でなくてもいいのに、と訴える。しかし侍女はそれを許さない。その侍女は運転手もつとめていた。先に降りると、あしほの脇の扉を恭しく開いて声をかける。
「どうぞ足元にお気をつけて」
 恥ずかしそうにあしほは車から降りた。
「つ、次こそは電車に乗るんだから。目立ってしまうから、いいと言ってるのに…!」
「まあ。電車通学なんて許されません、あしほ様。いけませんわそんな清純なお嬢様の体に忍び寄る魔の手が無数に伸びて今公共の密室で彼女をさいなむ快楽の悶絶地獄…なんてことになったら、私…わたくし…わたくし…! ああっ…!」
 ああっ…! ではない。
「何なの? 何を言っているの有子どうしたの本当に?」
 自分を心配する侍女が心配で仕方ないお嬢様だ。
 もはや心配を通り越してただの具体的な妄想となっている。
 顔を伏せて頭を振り妄想に浸っていた有子は、ふとあしほの襟元に目を留めた。
「あら…あしほ様…タイが曲がっていましてよ」
 すっと襟元に伸ばされた掌を、あしほは反射的に叩いていた。
「それはだめっ!」
「どうなさいました?」
「わからないわ。右手が…勝手に…なんだか…それはいけない気がして…」
 まったく不思議な現象だった。なんだかそれはいけない気がしたあしほの右手が、勝手に侍女の手を叩いたのだ。どういう仕組みか解明しがたい怪奇現象だった。
「いいえ。そうですわよね正しいですわあしほ様。今の態度はこの場においてTPOをわきまえていたと言えますわ、さすが私のあしほ様。定番すぎるパロディは避けるべきですわ。登校時に校門の前で少女の制服のタイを直したりなんかしたら、それはもうまずマリア様の面前でロザリオの授受を前提とした特別な姉妹関係もとい絆を結ぶフラグですもの。第一あしほ様の制服にタイはありませんものね。あしほ様から『お姉様』だとか『薔薇様』だなんて呼ばれたら私脳髄が破裂しますもの、パーンて。そもそも発行元もレーベルも違えてはいけないほどに違えられておりますし、第一、私もう成人ですもの」
「有子? 大丈夫? 何の話? 誰と交信しているの?」
 喋りまくる侍女を、さっぱり理解できずにあしほは見つめる。
 そんな少女の髪を優しく撫でるに留めて、侍女は微笑する。
「いいえ、今日もご壮健であられますようお祈り申しあげます」
 一礼する。
「ありがとう…行ってくる」
 電波な侍女に対する不安をいまいち拭いきれないままに、あしほはその場を離れる。
 今日も一日がはじまる。目を伏せて、学校の門をくぐる。
 実質の権利を握っているのは、自分ではない。理事である父だ。そう。わかっている。生徒会長なんて名目も、お飾りだ。陰ではお人形とも呼ばれている。それでもあしほは校舎に向かう。
「おはようございます、会長」
 行き過ぎる生徒たちが遠慮がちに声をかける。
「お、おはようっ」
 あしほは笑顔で律儀に応じた。
 遠巻きに見守りながら歩いていた生徒が、ひっそりとつぶやいた。
「はー。しっかし、疲れないかねえ、あのお姫様も」
「疲れると思うお」
「え?」
「疲れると思う」
 声の発信源は、傍らで自分と同様にあしほを眺めていた蘭だ。
 妙に会長に同情的な蘭を、同級生は訝る。
「…何言ってんの?」
「な、何でもないおっ」
 蘭は我にかえって頭を振った。慌ててその場を離れて立ち去る。取り残された生徒は、いかにも奇妙なものを見たように肩をすくめた。あの生徒会長に関心を寄せるなんて、理解できないというように。
 豊田あしほは、学園の権力体制を代表する存在だ。近づきすぎても、遠ざかってもいけない。まるで空気のように接するのが一番だと、誰もが知っている。
 あしほも、それを自覚している。
 毎朝、律儀に挨拶をする。けれど、それとなく目を背けられてしまう。どの生徒からも。だから、再び俯く。そうするしか、なくなる。
 わかっている。
 わかってはいるけれども。
 このようにして生徒会長の一日は始まる。
 不気味なほど、穏やかに。

 ☆

 予鈴が鳴る。一限目は数学だ。指名されたあしほは、黒板の前に出て数式を解いていく。チョークの音は静かな教室に響き、その間は教員すらも沈黙している。回答に辿りつくと、若い女性の教員は拍手を叩きだしそうな表情でこう告げる。
「よくできました、豊田さん」
 不自然な確率であしほは指名される。彼女の優秀なことを周囲に示すためにはうってつけの確率。まるで教員の間で不文律が成立しているかのようだ。しかし、あしほは何も言わない。
 朝から教室に蘭の姿はなかった。登校していながら何故か授業をサボる。その癖を今まで気に留めたこともなかった。だが、今は違う。
 昨日の記憶が蘇る。

『忘れたらだめだお。会長は蘭の下僕だお!』

「豊田さん…豊田さん?」
 数学教師の声で気が付いた。
「あの、何か…あ、いえ、具合でも悪いの?」
 教員の顔は真っ青だ。伺いを立てるような、いかにも怯えたような。
 それはそうであろう。この学校の財源そのものの機嫌を損ねれば、雇われの身ではどうなるか。
 だからこそ、あしほは完璧であらねばならなかった。学校を運営する人々、生徒、教員たち。自分が支える大衆のために、不安をかきたてる表情を出すことは許されない。
「先生、大丈夫です。何でもありません」
「そ、そう」
 数学の教師は明らかに安堵した。記憶に相違がなければ、彼女はまだ着任して三年目。先日、学生時代からの恋人と結婚したばかりだ。これからという時期に職を失いたくはないだろう。あしほは着席した。あたりの視線が彼女と自分との間を漂っているのがわかる。
 休憩時間になっても、誰も生徒会長に親しくは話しかけない。
 あしほは妖精と呼ばれている。その理由は外見容姿のためだけではない。
 それを見ることは誰でもできる。けれど、それの存在を認識してしまえば、厄介ごとを招きかねない。
 だから。
 妖精と呼ばれている。
 早く。
 今日も早く無事に一日が終ればいい。
 今や彼女はそれのみを日々願っている。

 ☆

 放課後は生徒会の定例会だ。
 灰色の教室。つつがなく終えられる会議。
 そこには熱情も混沌もなく、予め定められた冷静さだけが支配していた。
 会議は終った。だが、あしほの手元にはいくつか片付けるべき書類が残っていた。
 居残りして事務作業をしようとしたあしほに、声をかける者がいた。
「手伝いますよ、会長」
 生徒会の一員の笑顔がそこにあった。
「いいの」
 あしほは笑みを浮かべる。
「そうですか?」
「大丈夫。早めに終らせるわ」
 茜さす夕暮れの教室。
 少女の声は小さいがよく通る。
 支配する者の声だ。命令することに慣れるよう、訓練された者の。
「では、お気をつけて」
 誰ひとり、残したい友もいない。
 手伝いを申し出た生徒は一礼した。社交辞令だったのは承知だ。その生徒には塾があるはずだ。
 塾とはどんなところだろう。他校の生徒もいるという。
 きっと彼女は勉強と共に、もっと大切なものを学んでいく。
 普段は関心を抱かないそんなことが、何故だか今日は気にかかる。
 淡々と、あしほは事務作業をこなしていく。
 気が付くと日が暮れていた。
 帰ろう。
 学校を出ればまた車が待っている。
 必要ないと願っているのは自分だ。
 けれど、無用な気遣いかもしれない。
 誰もが無関心のままに認識し、受け入れ、そして、見ないふりをするのなら。
 そこに月があるのを見ていながら、当たり前すぎて空気のようにみなされる。
 付いてくる月のような威光。

 逃れられない月光ーー

「か、い、ちょ!」
 不意に、下から顔を覗き込まれた。
 あしほは、そこに人がいることを予感していなかった。感覚を遮断していた。
 瞬きする。いつの間に生徒会室に入り込んでいたのか。
 こんなにまで短い期間で、何度も間近に人の顔を見るのは、初めての体験だ。
「みつるぎ、さ…」
「もー、だめじゃん会長、だめだめだめだめ」
「ひひひたいいいいいい!」
 いきなりだめを連呼されながら両の頬をつねられて、あしほは涙目になった。
「何するのっ!」
 その手を払うと、蘭はにへへと笑った。
「蘭ねえ、何度もメールしたんだお?」
「あ、え? め、メール?」
 慌ててあしほは鞄をさぐった。眼鏡をかけてスマートフォンの画面を確かめる。
 確かに、『御剣蘭』からのメールが入っていた。
「そ。気付かなかった? 命令するって言ったじゃん」
「ごめんなさい…その…普段は何日かに一回くらいしか…見ないから」
「じゃあこれからは毎日チェックしてね。命令!」
「う。あ、は、はい」
 思わず頷いてしまうあしほだった。


 珍しそうに蘭はあたりを見まわす。紫檀で誂えられた会議机や、最新式のパソコン機器が揃っている。学生用の一室というより、商社の会議室のようだ。灰色と白だけで纏められた無機質な一室に、蘭の髪は眩く映える。コンクリートビルに野良猫の紛れたような光景。野良猫は少女を振り向くと、にひっと笑みを浮かべた。
「で、あの、な、何の用?」
「もちろん、命令しにきたんだお」
「う、うう…」
「ふふっ。会長、今まで生徒から投じられた施策案は取ってある?」
「え?」
「もっと言うなら蘭が提出した案だお」
 豊泉寺女子高等学院生徒会では生徒の意見が広く募集されている。生徒会のホームページからも、生徒会室の前に設置された『ご意見ボックス』からも、それは寄せられる。
 しかし、施策案と蘭は言った。それは学校の校風や生活を向上させるための具体的な提案であることを示す。そんな言い方にふさわしい案が提出されたとは聞いていない。どんな案を出していたというのか。あしほは、パソコンに向かう。過去の議事録や意見のバックアップを検出し、提示されたそのタイトルに眩暈を覚えた。あまりに非現実的な題目に、額を押さえた。
「私に届く前に否決された提案だわ…そりゃそうよ、こんなの…可決されるわけないじゃない…」
 あしほは言い切った。しかし、蘭は鼻息も荒く腰に手をあてる。天井からスクリーンを降ろした。あしほのそばに寄ると、手元のキーボードとマウスを操作する。室内の照明が落ちて、備え付けのプロジェクタが起動した。ファイルを開く。タイトル画像が、スクリーンに映し出される。

『生徒補完計画 スクールジャパンプロジェクト』

 熟考されなかったことが明らかな色色混ざったタイトルだ。蘭の手書きをそのままスキャンしてPDF化したファイルで、イラストつきの愛らしい雰囲気だ。
「『計画』をあらわす単語が二回用いられている…ですって…?」
 よろめくあしほに対し、蘭は胸をそらした。立て続けにこう告げる。
「命令! この提案の実行を命令するお!」
「なっ…なっ…何言ってるの!」
 さすがにあしほは机を叩いた。
「一生徒の要求を、会議も先生の目通しも全体承認も通さずに施行するわけない!」
「ふむう」
 蘭は腕組みして、あしほを睨み据える。にわかにパソコンを操作する。
 すると、スクリーンにある画像が映し出された。
「この画像をばらまかれて困るのは会長でそ?」
「ひっ…!」
 それはあしほの決定的瞬間、ボーイズラブ漫画をしっかりと抱えている書店での画像だ。
「だ、だめえ! 映さないでええ!」
 スクリーンの前に立って、画像を隠すようにあしほは手をばたつかせる。プロジェクタかパソコンの電源をオフにすれば済むことだが、それすら思い至らない。大写しにされた自分の痴態に冷静さを失っている。思い通りの反応に、蘭は満足げだ。
「まあまあ、会長。こっちきて座るお」
「うああん…」
 蘭は半泣きの会長の肩に両手を置き、スクリーンの正面の席に座らせる。鞄から伊達眼鏡を取り出すと装着し、こほん、と咳払いした。センスの良いアイデアマンの雰囲気だ。ファイルの再生をオートモードにすると、指示棒を手にして器用にまわす。
「蘭のプレゼン、はっじまるおー?」
「強制を前提とした説明はプレゼンって言わないもの…」
「いいからいいから」
 プレゼンテーションとは理解や承認を得るための発表のことだ。スクリーンには計画のねらいが大写しにされた。手書き文字のまわりには、やはり花だの星だのが描かれている。
『計画のねらい:学校を楽しくするため、個人と組織の垣根を解消する』
『計画の概要:会長と生徒の距離感を解消する。生徒全体の会長への特別意識をなくす』
『計画の全貌:生徒全員オタク化する』
 最初の二点はともかくとして、三点目の項目を目にしたあしほはつぶやいた。
「意味がわからない…」
「失礼だお!」
「し、失礼はそっちでしょ! だいたい距離感ってどういうこと距離感って! プロジェクトだプレゼンだって、どんな堅苦しい目的があるのかと思ったら人が気にしていることをからかっているだけじゃないの! っていうか、生徒全員オタク化って…どこのアニメーション学院よ!」
「やっぱり気にしてるんでそ? 距離感」
「き、き、き、気にしてないっ!」
 蘭は彼女の本音を聞き逃さなかった。小憎らしい笑みで問われて、あしほは赤面する。
「わ、私個人のことはともかく…せ、生徒会の人間としては…う」
 蘭に背を向けたところで、正面の画面が切り替わった。例の証拠画像が再び生徒会長の眼前に立ちあらわれる。
「会長のこんな恥ずかしい姿見られたらどうなるかにゃ?」
「う、ううー…どうしてあなたがこんな計画をっ…何が狙いなの?」
「うーん…学校を楽しくするためだお?」
「へ?」
 あしほは、虚を突かれた。
「会長は楽しい? 少なくとも蘭にはそう見えない。会長、第一ボタンまできっちり閉じちゃってるでそ。きちんとお行儀良くして、みんなのお手本で、好きな漫画もこそこそ買って部屋のすみっこで読む。そんなの楽しい青春って言わないお」
「さっぱりした調子なのに濃厚に辛口ね?」
「だからあ。学校の常識を刷新しちゃえばいいんだお。オタク文化を浸透させて、会長と生徒の距離を縮める。そうすれば会長が漫画読んでもいい雰囲気になるかもしれないでそ?」
「そ、そんな…それにしたって文化面を強調しすぎるのは…運動部も委員会からも反感を買うだけよ。第一! この学校はっ…」
「わかってる。お姫様の城砦だもんね。会長の一存より、理事の承認が重要」
 当たっている。
「でも…だからこそ、命令するお。命令は命令。そうでもしなきゃ会長は動かないでそ?」
 あしほには反撃の論旨が残っていない。
 けれど、何か言わなければならなかった。幼い子供のように、あしほは頭を振る。
「だって…だって」
 それは。
「学校をより良く…楽しく…みんなのために…なんて…」
 そんなこと、いつだって考えていた。誰よりも考えてきた。生徒たちと必要以上に親しくしてはいけない。その理由もその立場も自覚している。だからこそ、いつだって配慮してきた。自分が生徒たちの生活を疎外しないように完璧に振舞ってきた。威光なんて示さないように、そのことで生徒たちの生活を風通しよくしようと配慮してきた。
 泣きそうな顔であしほは抗議する。
「わ、私が、せめて…それくらいのこと考えて運営していないとでも言うの!?」
「そうだおっ」
 そこに至り、あしほの嘆きは怒りへと転化される。これまでに溜め込んでいた不満が堰を切って溢れ出す。感じていたいらだちがあらわになる。言ってはいけない。そうわかっていながら、口にせずにいられない。
「あなたとは違うのよ! 私は!」
「蘭と会長の違いって、何だお?」
 蘭は動じない。
「確かに外見容姿も性格も違うけど…実質的な違いって、どこにあるんだお?」
 蘭の顔が間近にあった。そう問われて、あしほは瞬きする。全てが異なる。そう言えるはずだ。
 服装が異なる。出自が異なる。性格が異なる。立場が異なる。けれど、違わない部分を知っていた。それは、何よりも大きな共通点。
 同じものを愛する。
 その点を知っていた。そこが重なるのなら、何も違わないとすら言い切れる共通点。その一致。
 あしほには、反論を言い連ねることができない。けれど、否定しなければ。
「何もかもが違う!」
 こんな粗暴な纏め方が反論とは言えない。あしほにもわかっていた。
 けれど、蘭は一歩身を引いた。ひどく寂しそうに。
 その表情に、説明のつかない痛みが生じる。見なかったふりをして、あしほは目をそらす。
「あ、あなたには、わからないっ…!」
 こんな論旨は完全に弱者の意見だ。わかっていながら、そんな具合にしか言えない。
 しかし、そこには殺気立った空気を木っ端微塵にする笑顔があった。
「だからあ! 何も会長の名前出さなくてもいいんだお。そのために…こ・れ・着・る・お☆」
「それ…何?」
 蘭が差し出したものが何なのか、あしほは知らなかったわけではない。どういう目的でこの場に持ち出されたのか、それを理解したくがないために敢えて問いを発したのだ。
 それは、フリルのあしらわれた魔法少女の衣装。見間違いようのない歴然としたコスプレ衣装だった。
「豊泉寺女子高等学院校則・生活に関する規則・第二条! 服装は清潔にして正しく整える。登校、下校の際は必ず規定および細則に定める制服を着用のこと。学校において私服を着用するときは行事を除き、これを禁ず。もし必要な場合は…!」
「異装届を提出せよ…でそ?」 
 衣服の脇に突き出された書類一式を見て、あしほは目をまわした。
「もう提出してあるお」
 届出の空欄はすべて埋められており、その署名はしっかり豊田あしほとされている。提出内容は認可され、担当教員、校長の押印まで為されていた。あしほの願い出を受理しないわけにいかない。校長に至るまでが雇われの身であることを、知ってか知らずか。蘭は周到だった。
「わ、私の名前で、勝手に…!」
 しかし、蘭はこう励ますばかりだ。
「頑張ってね。会長」
「ふ、う、うんぬぬうんぬーーーー!! ああああ! いやあああん!」
 憤怒と悲嘆に悶え、会長はその場に膝を折って頭を抱えた。

 ☆

 翌朝。
 朝礼のために集まった生徒たちの目の前に、一人の魔法少女があらわれた。
 桜色の衣装に身を包んだ魔法少女の名は、『ハードアクター☆かつや』と云う。
 ある日突然、自宅の地下室から聞こえる声に呼び出され、マジカルで幻な『苦悩カード』を世界に拡散させてしまった男の娘☆かつや。次々に逃げ出したカードを回収するには、肉体を鍛え、危険な巨人の闊歩する非日常空間に身を投じ、回収兵団の一員として戦わなければならない。カードを回収しながら、再び自宅の地下室へ辿りつくためのワイルドでダークネスな冒険が今始まる…
 アクションあり女装あり。そんな魔法少女漫画だ。
 主人公は少年。しかし、彼の心はあくまでも少女。ゆえに魔法少女と称される。
 あらゆる意味でマジカルなこの漫画はアニメーション化されるとともに国民的人気を得た。
 つまり認知度が高い。そのことを踏まえ、蘭によって選ばれた礼装だ。
 しかし、壇上に躍り出た少女は、実際には豊田あしほだ。
 その事実は一目瞭然と言えた。
 講堂内は、俳聖芭蕉が一句詠みそうなばかりに静まり返った。誰が見ても生徒会長豊田あしほの乱心に見える。
 あしほ…いや、その魔法少女は、生徒たちの反応を見るとその静けさに負けない圧倒的な沈思黙考に陥った。そして、震える手で壇上のマイクをオンにする。
「月の力を秘めし鍵よ。真の姿を我の前に示せ。契約のもとかつやが命じる…」
 魔法少女は叫んだ。
「ブリーーーフ!」
 閑けさの支配するホールにしみいる声はハードアクター☆かつやが変身する折の魔法の呪文だ。
「み、みんなの友達、かつやです! こんにちは!」
 幼児番組のお姉さん風味に呼びかける。狂気も針を振り切ると説得力を帯びるので不思議だ。
「今日は、生徒会の総意を伝えるため、会長の豊田さん代理として遊びにきました! みんな、元気かな?」
 こんなハードアクター☆かつやは知らない。誰もがそう思った。
「今日からこの学校はスクールジャパン制度を採用します!」
 はきはきと魔法少女が議題を読みあげる。そんなことを唐突に叫ばれても、誰一人理解を示しようがない。
「えっと…どういう制度かというと…み、みんなが仲良くなるために、エンターテイメントでつながろう! というざっくりした計画です! だ、だから、これからは漫画やDVD、フィギュアの持込みもあり! それから、文化面での才能を育む方針を宣言します!」
 これは蘭の計画の具体案だ。その提示をすることが、今朝のあしほの命題であった。
 しかし、豊田あしほがそれを宣言すればただの強制となる。
 だからこそ、このコスプレ…身分を偽る行為は緩衝材として必然と言える。蘭はそう述べた。
「みんな、だいじょうぶだよ! 絶対だいじょうぶだから、ついてきて!」
 ハードアクターの決め台詞、ピンチのときにかつやが仲間に呼びかける台詞を発する。すると、大丈夫ではないだろう…と言いたげに一同は沈黙した。幼子に呼びかけるような口調にも限度があった。
 あしほの疑念は確信に変わった。
 おかしい。
 これはおかしい。
 突然のフリーダムプランの提案にざわつく生徒たちの反応は、一言であらわせば『引いている』状態だ。
 そして、ステージの袖の緞帳の陰から自分を見守る蘭はどう見ても前屈みで笑いを堪えているようにしか見えない。
「こ、これで失礼するけれど…み、みんな、よろしくね…」
 半泣きの状態で、魔法少女は撤退する。
 舞台袖で拍手と笑顔を以って蘭がそれを迎えた。
 脱力してあしほは蘭を見据える。
「こんなことして…こんなことしたら、もう立ち直れない…!」
「今の姿は動画で収めたお」
「いやああああ!」
 あしほがしゃがみこむ。
 蘭はそのそばに同じようにしゃがんで、その頭を撫でた。
「よくできたお、会長」
「何であなたに励まされないとならないのっ。だいたい、こんなことしてただじゃ済まない…」
「会長」
 蘭は笑った。
「絶対、だいじょうぶだお」
 満面の笑みの蘭を殴らない自分は偉い。生徒会長は心底そう思った。
「あ、あの…会長…」
 生徒会の一人が、おずおずと二人に呼びかけた。
「だ、誰のことかなっ? 私はハードアクター☆かつやだよっ☆」
 語尾に星のマークまで煌かせながら取り繕うあしほからはある程度のコスプレイヤーとしての才能すら感じられる。しかし、誰にもそれを指摘する余裕はない。つい数分前まで彼女を尊敬していた生徒会の一員は残酷な用件を告げた。
「し、失礼しました。ハードアクター☆かつやさん…あの…その、か、会長代理とのことで、会長に伝えていただきたいのですが…」
 この生徒、かなり親切心溢れる人間の範疇に入る。
「先生が…お呼びです…」
 その言葉に、あしほは凍りついた。
「わ、わかった。伝えるが…な、な、何という先生かな?」
「豊田先生です」
「う」
「そのままの扮装…あ、いえ、そのままの姿で来てほしいとのことです」
 とのことです…
 とのことです…
 とのことです…
 伝達された言葉があしほの脳内でエコーする。豊田先生と言えば、この学校では一人しかいない。
 美術担当の豊田しのぶ教員。
 あしほの姉だ。

 ☆

 美術準備室の前で、魔法少女の扮装のあしほはごくりと唾を飲み込んだ。恐ろしい。
 しかし、恐怖心とも異なる恐ろしさだ。それは覚悟に似ていた。
「失礼します」
 扉を開くと、そこには一人の女が待っていた。端正で、あしほよりも大人びた顔立ち。無防備に頬をさらしたショートボブ。体格はコンパクトだが気迫に溢れている。理知的な雰囲気のうちに可憐さを感じさせる女がそこにいた。更に詳らかにすれば、ふんどし一丁で、胸部にさらし、肩に白衣をかけ、扇子を手にした変質者が仁王立ちで立っていた。
 あしほは、静かに扉を閉ざそうとする。
「失礼しました」
「待て待て待て待て」
「出オチお疲れ様…」
「今、禁句を口にしたか? いいから待て!」
「…どうしたの? その格好」
「どうしたんですかと聞いたな?  どうしたんですかと聞いたな!」
 学校公認の変質者は実に嬉しそうだ。見る間にあしほに対して間合いを詰めてきた。
 近い。
 あしほは嫌悪を顔に浮かべる。
「お前の格好こそどうしたんだああ!!」
 びしっと扇子の先を向ける。その扇子をあしほははたいた。
「…もう私の格好、こうなると普段着に見えますよね」
 あなたから指導を受ける謂れはない。暗にあしほはそう言ったのだが、変質者には通じない。
 腕をあしほの腰にまわすと、室内へと押し入れる。
「さあさあ、あがれ、入れ。何があったのか青春の悩みを打ち明けろ!」
「ほかの先生が良かった」
「今朝のあれはいじめか? 罰ゲームか?」
「姉さんこそいじめられてるの?」
「いじめじゃない! 好きで着てるんだ!」
 満面の笑顔。一方のあしほは終始無表情だ。
「ほかの先生が良かった」
「ほかの先生だとこうはいかないぞ!」
 姉が主張した文句により、あしほにしばしの逡巡が生まれる。姉の言う通りだ。雇われた教員では、あしほに指導することもできない。同様に、ほかの人間はここまで変態行為をはたらくこともできないだろうが。
 今、自分の味方をしてくれる者がいるなら、このとんちきな姉しかいない。白衣に袖を通してくれはしたものの、深々とソファに座る身体に付けているものが未だふんどし一丁ではかなわないが。
「…で、何があった?」
「とりあえず服を着て?」
 あしほが要求を繰り返すと、ふんと彼女は鼻息も荒く主張した。
「おまえだけが変な格好だとかわいそうだろう。というか、おまえ…魔法少女って…」
 ぶはっ…と、しのぶは吹き出した。
「高校生にもなって…」
「ふんどしレイヤーに言われたくなああい!」
「失礼な! コスプレではない! 仮装だ、伝統を研究する文化人類学の学術的実践だ!」
「うるさああい!」
 衆目の前でコスプレを強いられた上に、何が悲しくて姉の奇行を目の当たりにせねばならないのか。落ち着かないにもほどがある。
 結局、ぶつくさ言いながらもしのぶは着衣を承諾した。
 あしほは、事情をかいつまんで説明する。もちろん、自分のBL趣味は伏せたままに、知られたくないことを知られたという具合に置き換えて説明した。しのぶは特に追及せず、おとなしく話を聞く。やろうと思えばできる姉だ。
「それで…命令を承諾したのか? そんな輩は今すぐ…」
「手を出したら怒ります」
「…学内の問題でもあるぞ」
 自らが学内の問題のような存在に指摘を受けた。
 あしほには言いたいことがありすぎて過呼吸に陥りそうだ。
 脳内で話すべきことを整理する。最大の論点はひとつだ。
「知ってるでしょう? 姉さん。家に知られたら…」
「あしほ…」
「私は姉さんのように力がないからこそ豊田家に従っているんです。姉さんは自分の自由は保ちながら私への足かせを増やそうというの?」
 豊田の家に知れたなら、脅迫された屈辱を許されるはずがない。
 この場合、家から糾弾されるのが蘭であるなら妥当だろう。しかし、そうはならない。
 咎はあしほにあるとされる。理不尽だが、そういう家だ。
「きっと生じた問題はどうにかしてくれる。でもその分、罰されるもの…」
 対処した分だけ、家に負担をかけた償いをせねばならない。贖いは全てあしほに求められる。加害者ではなく、被害者であったとしても、己の立場を弱きものにしたとして、愚かな行為だとして糾弾される。それがこの姉妹の属する家の方針だ。がんじがらめのあしほに、姉は問う。
「志はご立派だがな…大丈夫なのか?」
 あしほの肩がわずかに揺れた。
「わ、私は平気です!」
 乾いた声で答える。かっとなったのだ。
「姉さんが放擲した以上、跡継ぎは私なんだから、こ、これくらい平気です。自分で対処します。手出ししてほしくないから報告したんです。助けを…助けを求めたわけじゃありませんから!」
 強気にそう言い放って、あしほは立った。
「あしほ! そんな言い方じゃ伝わらない!」
 ひねくれさせたのが自分だと知っていながら、姉は追おうとする。しかし、その眼前で扉は閉ざされた。
 しのぶは肩を落とす。
「私は…おまえを放擲したわけではないものを」
 しかし、肝心の妹に嫌われては、その声も扇子で隠した唇から小さく紡がれるばかりだ。
「御剣蘭、か…」
 教員用の生徒名簿を書棚から引っ張り出して、蘭の項目で手をとめた。顔写真を確認する。違和感が生じた。
「おかしい…」
 しのぶはぼやいた。
「こんな生徒、いたか?」
 見覚えが、ない。
 由々しき事態だった。

 

第二章 スクールジャパンプロジェクト

 かくして、『スクールジャパンプロジェクト』はぎこちなく発動された。誰の口にものぼることではなかったが、ハードアクターが豊田あしほである以上、女神様もびっくりの強烈な強制力が働いた。生徒会の面子は各々その方針を了解し、文化方面を活発にさせるための議案と予算案の折衝に余念がない。教員も生徒らが持ち込むホビー関連の私物に寛容になりつつある。これならば、実際に生徒会長が堂々とボーイズラブ漫画を生徒会室で広げる日も夢ではなさそうではある。
 しかし、あしほは乗り気ではない。
 実際的に独裁の実行だ。運動部の代表者も、各委員会も黙している。それは豊田あしほの名がそこにあるからだ。文化方面の活動だけが活発化を促されることには、あしほ自身、抵抗がある。そもそもが最初のコスプレ朝会だけでもいっぱいいっぱいだったというのに、蘭の命令によりその忌まわしき儀式は定例化されつつあった。先週は魔法少女かと思えば今週はダークファンタジーの兵士。そして来週は特撮もののヒーローだという。拷問だ。
 妙な扮装で衆人環視の前に立たされる上に、本意ではない計画の具体案を定期的に発表する。これが例え学校のためになるのだとしても、少なくとも自分のためにはならない。また、この王国の制度が誰も彼女に突っ込みを入れることを許さないのだから始末に終えない。つくづくと吐息しながら、あしほは弁当の包みを開く。
 昼休みの生徒会室にあしほのほかに人はいない。入学当初は、あしほの威光に授かろうとするクラスメイトや生徒会のメンバーが押し寄せていた。だが、彼女らの間には時に応じて静かな軋轢が生じ、結果としてあしほは一人で取り残された。そうならずに済んだかもしれない仮定法の過去に思いを巡らせるのが、先日までの生徒会長のランチタイムだった。だが、近頃ではそうした感傷に浸る暇すらない。
 だっだっだっと遠方から上履きで走ってくる足音。勢い良く扉が開かれる。
「グッドイーブニーーング! かあいちょおおお!」
 授業はエスケイプするくせに、昼休みになると、蘭はきっちりかっきり生徒会室にあらわれる。一応仮にも生徒会長のクラスメイトでありながら、そのことを少しも悪びれない。今日も今日とて、あしほの向かいの席につくと、スクールジャパン計画の具体案のノートを広げる。
「今日はね! 図書室の活用方法を考えてきました!」
 通販番組の司会の体で元気にはきはき蘭は語りはじめる。
 げっそりした顔でその案に耳を傾けつつ、あしほは尋ねた。
「どうして御剣さんはそんなに熱心なの?」
「え? だって、蘭は…つく…」
「ん?」
 あしほが顔をあげると、目があった。
「…も、ものをつくる人たちを応援するんだおっ」
 蘭はにひっと笑みをかたどる。
 赤いウインナーを箸で摘んだまま、あしほの動作が静止する。
 蘭はよく笑う。友達も多い。それなのに、自分なんぞと昼飯を共にするほどに、この計画は大切なものだろうか? 素直にその疑問をぶつけると、蘭は呆けて、いきなりあしほの掌を握りしめた。
「な、何するの?」
「会長は友達いないからそういう発想になるんでそ? 蘭が友達になるお!」
「い、いらない! 必要ありません!」
「命令。蘭と友達になる!」
「命令って…その時点で友達じゃない気がする…」
 握られた掌を引こうとしたが、蘭の握力は強くて逃げられない。その眼差しはあまりに真摯でまっすぐだ。信用していいものだろうか。あしほがじっと蘭を見返すと、蘭は何故か頬を赤く染めて席を離れた。 
「いつ見ても豪華な設備だにゃあ。『生徒暴君!』みたいだお」
 しみじみと生徒会室の設備を見まわして、世間話などをはじめる。
「うっ。ふ、ふも。さんのでしょう? あっ、あれ、あの、いい、よねっ…」
 蘭の反応を不思議に思いはしたが、大好きな漫画の名前を引き合いに出されて、あしほは喰らい付いた。
『暴君』と呼ばれるその作品群は、BL漫画界のヒットシリーズだ。さる学園の生徒会を中心とした淡い恋の物語。主人公の属する生徒会は学園の予算や私財を投入したゴージャスな生徒会室で執務に恋に励むという内容だ。舞台は当然のように男子校だ。
 もちろん、この生徒会室が、その漫画をモデルにして設計されたわけではない。しかし、その漫画の作中のインテリアとこの生徒会室の設えにはどこか共通点がある。不意にそんな話をふられ、あしほは挙動不審になる。以前から自分も同じように感じていたからだ。
 同じ感覚を共有できる喜びと、一抹の興奮。そして、萌えを共有するという淡い背徳感。BL趣味をわかちあえる同志がいないだけに、その共有が、耐え難い感興をあしほにもたらす。
「会長は、学園ものが好きなの? こないだもどっさり買ってたお」
「う…す、す、好きっていうか…」
 すごく好き、だ。好きすぎて迂闊に声に出せない。
「好きな作家さん、いる?」
「う、ううう…い、いる」
 あしほは赤くなる。
「あ、天野ガクさん…板橋夕伍さん…あ、あと、さっきの、ふも。さん…」
 くぐもった声で好きな作家の名前を告げていく。ボーイズラブの作家の名前はセクシャリティを感じさせないのが特徴だ。女性性を排除したものや、ライトなものが多い。
「ふも。さん、好きかお?」
 蘭が敏感に反応した。
「え、う、うん…一番好きかも」
 ふも。とは、あしほの好きな『神納堂』シリーズの二次創作同人誌を発行していた作家だ。その作品が編集者の目に留まり、ボーイズラブ作家として商業デビューした。現時点で『神納堂』を出自としてプロになった作家はふも。と云う作家のみ。あしほのお気に入りだ。例え好きなジャンルの二次創作活動をしていても、好みに合致しない作家はいる。ふも。は、絵柄もストーリーテリングも作風も好みだった。
 そうした希少性の高い作家にはまさに『神』のような品位と風格がある。
 商業作家としてはまだ中堅どころだが、一定数のファンに粛々と支持されているのだった。
「じゃあ。いつか会わせてあげるお」
「え? え…??」
 あしほは、目を白黒させた。
「し、知り合い、なの?」
「だおっ」
 あしほの指が震えはじめ、握りしめていた箸が折れた。
 涎をたらさんばかりの勢いで会長は身を乗りあげる。
「本当に、ふも。さんと!? 私、デビュー前から存じあげていて、ファンレターもアンケハガキも欠かさないし、雑誌企画の抽選のサイン色紙はハガキ五十枚投入してゲットしたの! ふも。さんの描くモノローグとか、気の強い女王様受けが好きすぎてつらいっていうか…ファンなの! ファンなの! ファンなの! 大好きなの! 愛してるのおおおお!」
 ライオンがシマウマの尻に飛びつくときでも、もう少し冷静だろう。山賊に襲われるのかとばかりに圧倒されて、蘭は身を引いた。あしほの瞳は狂人のようにピュアな輝きを発している。蘭を押し倒さんばかりの勢いだ。
「お、落ち着くおおお、会長!」
 蘭が叫ぶと、あしほは、はっと正気を取り戻した。乱れた制服を正す。
「し、失礼したわっ。ご、ごめんなさい。御剣さん、大丈夫?」
 自分の下でのけぞらんばかりの体勢になっていた蘭に、あしほは手を差し伸べようとした。
「平気だおっ!」
 ぱしん、と弾かれた。
「そ、そ、そう…」
 あしほは戸惑う。
 あのような狂気寸前の取り乱しようを見ては、いくら腐女子同士でも――引かれて当然だ。
「ご、ごめんなさい。私、その…う、嬉しくて、興奮してしまって…み、御剣さんみたいに、いつも語れる相手がいるわけじゃなくって…」
「あ、ち、違うおっ! びっくりしたんだお。蘭にとっても、ふも。さんは特別な作家さんだから…嬉しかったお。だから、その、引いたとかじゃないから…ご、ごめんお?」
 申し開きをすると、蘭は慌てる。真正面からこちらを覗きこんでくる頬が明るい。真っ赤だ。
「いいえ。私こそ…ところで熱でもあるの? 御剣さん、顔が…」
 あしほが指をその額にぴたりと付けた。
「ひっ」
 蘭は息を呑んだ。
「大丈夫だおっ!」
 飛び退る、と言えそうな勢いであしほから遠ざかった。取り繕うように腐女子トークを展開させる。
「ふも。ってさ…昔の連載は中年男性受がメインのアダルティな物語ばっかりだったでそ…でも最近は爽やか学園ストーリーものがメインで、美少年系姫系受を好む会長の趣味にはホームランでそ?」 
 蘭の様子がおかしいと思いながらも釣り込まれるあしほだ。
「む、昔の作風は気にしてないわ! だ、だって、やっぱり、神納堂の影響が色濃く出てたっていうか…でも、どうして急に変化しちゃったのかなっとは思うけど…」
「ま、まあ、ファンの要望に応えたんじゃないかお? 学園好きなファンがいる…とか」
「そうなのだとしたら、そのファンさんとお友達になって夜明けまで語りたいものだわ…」
 そのときだ。窓外から騒がしい声が聞こえてきた。
「きゃあっ。やめてください! 何するんですか!」
 ただごとではない悲鳴だ。
 あしほと蘭は窓辺に駆け寄り見下ろした。生徒会室は四階建ての建物の二階にある。そう離れていない真下、中庭の隅だ。不良少女の一団に取り囲まれている、真面目そうな生徒の姿があった。
「あれは…奨学金の支援を受けている子たちだわ」
「え?」
「…手を出さない方がいい」
 ひどくそっけない態度で窓から離れようとするあしほの腕を、蘭が掴んだ。本能的に、咎めるようにして。
「命令。あの騒動を解決する」
 その言葉を劣等生が放ったとき、あしほは、羨望すら覚えた。同時に、本心からの怒りを覚えた。なんて無邪気なんだろう。そう感じた。
 そう、御剣蘭は劣等生だ。しかし、彼女は他人に迷惑をかけない。授業をサボり、制服を着崩してはいる。だが、他人の財布を渉猟するような真似はしない。彼女たちとは違う…そうだとしても!
「御剣さん! あなたは…!」
「奨学生の問題は蘭も知ってるおっ!」
「だったら、わかるでしょう!」
「けど、会長が手出ししないなら…誰がするの?」
 まっすぐな眼差しに気圧される。命令には逆らえない。
 どうして、こう逆鱗に触れる言動しかしないのだろう。御剣蘭は!
 知っていながら堪えてきたことを、今更どうやって解決しろというのか。肩を震わせるあしほの前で、蘭はノートを取り出した。ぱらぱらと頁をめくり、大きな字でこう書き込んだ。
『不良更正計画』
「実行するお!」
 蘭は、向日葵みたいに全開の笑顔だ。
「う、うううう」
 あしほは、本日も逆らえない。

 ☆

「やっぱり違うな。優等生は」
 奪った鞄を漁りながら、一団のリーダー格が嘲笑う。
「や、やめて。あなたたち、そんなことして許されると思ってるの!?」
「言えるもんなら言ってみな…」
「そんな…ひ、ひどい」
 恐らく訴えたところでどうにもならないだろう。少女にもわかっていた。
 奨学生の素行不良は、豊泉寺女子高等学院に根付く深い問題だ。学院には奨学金の制度がある。家庭の事情により進学が困難な生徒を特に奨励して学費を免除する制度だ。しかし、その生徒たちには、勉学に割く時間的猶予も経済的猶予もない。結果として学内で問題を引き起こす。
 問題はその悪事ではない。悪事の隠匿される仕組みにあった。
 奨学生が悪事を働こうとも、被害者の父兄の訴えを学校側は認めない。奨学金制度の審査は万全だった、その制度を疑われることになるためだ。学校側は必死で隠す。従って、この学校の父兄は被害そのものを訴えたことがないのが実情だ。
 中庭でその集団に囲まれているのは、一人で行動することの多い生徒だった。そうした者は狙われやすい。少女の鞄から貴重品が抜き取られようとしたときだ。
「ま、まっ…待ちなさ…待てえええええい!」
 今一つ定まらない掛け声と共に、正義のヒーローがあらわれた。
「あ、あああ、ああ、あ、あ、あ、あたし、参上!」
 全身を特殊なライダースーツに身を包み、フルヘッドの仮面を身につけたヒーローだ。
「……」
「……」
 沈黙する一同。
「えっ…どなた様ですか?」
 敢えて静寂を破ったのは、襲われていた少女だった。
「被害者に問われた!? ふ、普通ここは不良の加害者側が正体を問うべきじゃないの!」
「何慌ててんだこいつ。自分から登場したのに」
「参上って」
「惨状じゃねえの…すげえ安定のどもりだったし」
 不良たちはひそひそと当人の前で話し合う。
「引かないでええ! しょ、正体を問いなさい、ほらあっ! お、おまえは誰だ!? とかなんとか!」
「どうする? 付き合うか?」
「いや…あれ、あの声さあ…朝礼で見るからわかるけど…あとこないだもコスプレしてたしさ…なんつうかつまり会長だろ?」
「ぎくっ…」
「ぎくって口で言ったぞ」
「せ、正義の味方を差し置いて、ぼそぼそ話し合うな悪の手先どもおおおお!」
 ぶんぶんと腕を振りまわしたのち、ヒーローは持参のテープレコーダーを足元に置いた。スイッチを入れた。敵と対峙したときのエキサイティングなバックグラウンドミュージックが流れ出した。バトルシーンに突入したいという意思表示だ。
「うわ、テレコって今時」
「備品が余ってるのがこれしかなかったんだから仕方ないでしょ! ち、ちがっ…え、ええと、こら! わ、悪いことはやめなさい!」
 ちょいちょい素の表情の覗かれるヒーローだ。
「で、でないと、悪の正義っ…いや…月の味方…ええっと…つ、つきの、えと、あ、う…」
「ぶれぶれな上に噛んでる…」
 ひそひそひそひそ。
 不良の批判する陰口が耳に届いて、あしほ…いや、正義の味方は誰にも正体のばれないはずの鉄壁の仮面の裏で涙目だ。
 しかしやがて不良どもの密談はこのような話の流れになっていった。
「どうする? 会長が相手じゃ厄介じゃね? とりあえず引きあげるか?」
「引きあげるっておまえ、この空気どうすんだよ。このままじゃ会長が寒いだろうがよ!」
「寒い寒いってでかい声で言うな、聞こえたらどうすんだよ」
「や、ほら、会長がやってるのってあれだろ? 日曜の朝のヒーロー番組じゃん」
「え、まじ? わかるなら、おまえ、やってみろよ。あたしらそれにあわせるから」
「よ、よし」
 不良の一人が居ずまいを正して正義の味方に対峙する。大仰に声を張りあげた。
「うわあ! 出たな、月の守護者、正義の味方、仮面ライター疾風王!」
 狼狽する演技は意外にもさまになっている。
「……! ……!」
 仮面の裏で会長…疾風王の顔が喜色に溢れるのが不良たちにも被害者の少女にも感じ取れた。
 だが、一同はぐっと堪えた。
 面倒くさい…そのような共感が彼女たちを取り巻きはじめていた。
 仮面ライター疾風王とは、日曜朝から放映されている実写のヒーロー活劇だ。主人公はうだつのあがらないゴーストライター。しかし、事件の匂いを嗅ぎ付けると取材と称してその場に駆けつけ怪人に鉄拳を下す。そして、颯爽とその場を去り、何事もなかったかのように情けない記者のふりをして日常に戻っていく。ニューヨークのアンダーカバーも真っ青なギャップが萌えるという理由で、子供だけでなく主婦層にも人気の番組だ。
「そ、そうだ! 私が疾風王だ! 月は東に日は西に! 北は寒冷南に巡礼! ……! ……!」
 決め台詞を続けざまに詠唱したところで、仮面ライター疾風王の声が途切れた。不良たちは再び身を寄せ合って会議する。
「忘れたんだ、台詞忘れたんだ!」
「ぐだぐだなら最初から出てこないでほしいよな」
「言うなってそういうこと。ほら、決め台詞教えてやれって」
「あたしたちが言うって変じゃね?」
 いよいよ雰囲気が妙な具合になっていく。疾風王の立場もなくなっていく。
 場の気温がこれ以上ないほどに下がっていったときだ。被害者の少女がつぶやいた。
「華麗に代筆・仮面ライター! です…!」
 疾風王の背筋が伸びたのは言うまでもない。
「そ、そ、そう! 華麗に代筆・仮面ライター!」
 疾風王はグッジョブと言いたげに親指を突き立てる。被害者の少女は笑顔でスマートフォンを背後に隠した。決め台詞を検索したのだ。疾風王の背後では、被害者に対して不良たちまでもが親指を突き立てている。
 さっきまで諍いを起こしていた間柄だが、今では妙な連携が生まれていた。会長に不満を残せばこの問題は必ずや表沙汰になろう。不良たちはそれを避けたい。一方で被害者少女としては純粋に助けが入ったことはありがたい。親への訴えを考えても、学校側は取り合わないだろう。この場を逃れるにはこの会長…いや、仮面ライターにすがるしかない。従って、方向性は異なるが、加害者と被害者の間にはひとつの目的が共有されていた。この俄仕立ての寸劇を通じて、会長に満足してもらうこと。その一点だ。
「わ、私が来たからにはもう安心だ! く、くらえ! 徹夜明け・ライターキーック!」
 疾風王は猛然と突っ込んでいくと、不良たちの代表格の脇腹にへろへろと持ちあげた足で蹴りを加えた。
「うっ…地味に痛えけど、全然きかねえ…何だこの微妙にリアクションに困る感じ!」
「ばか、倒れろ! 倒れろ!」
 少しの密談ののち、間が生じ、代表格の少女は地に崩れ落ちる。
「ああ! なんて強烈な蹴りだ! これがゴースト因子のパワー!」
 公式設定そのままの威力説明をそらんじると、疾風王はそれを受けて声高らかに言い切る。
「見たか、仮面の力! これに懲りたら二度と悪事を働くのはやめろ!」
 遠巻きに壁の陰から見ていた蘭は、ぼそりとつぶやいた。
「会長、素質あるお…」
 演技力のことではない。非常に気持ちよさそうに演技するあたりに『なりきり』の素質が見られる。
「あんなに大きな声出してる会長は見たことがないおっ」
 くすっと笑うと、スマートフォンのカメラを起動させる。もちろん、この顛末も録画するつもりだ。

 ☆

「なるほど、そういうことでしたか…これはクライシスですよ」
 有子は断じた。
「そうか? カタルシスだと思うね、私は」
 しのぶが返す。
 その草庵は学内にある。茶道部や華道部のための建物で、時には来賓のもてなしにも用いられる。本格的な庵だ。ご丁寧に日本式の庭園が付随している。その池の周囲を巡りながらしのぶは微笑する。
 何ということはない。しのぶは現在学校の施設に起居している。ただ、あちこち場所を変えながら生活しているため、この広大な学園で彼女の居所を探るのはなかなかの骨折りだ。
 有子が対面できるのも、しのぶの側から招致されるときだけだった。
「あの金髪少女…使えそうだ」
「しのぶ様…使えそうとはどういう意味です」
「カタルシスだよ。言っているだろ」
 以前よりも学内の風紀が乱れつつあるが、生徒らはそれに比例して活気付いている。
「選挙制度は戦時中からはじまった習慣だ。何もない時代に必要だったんだろうさ、規律の保持は。坊主も檀家も男どもはみんな徴兵されていった。老人子供女しかいない世界で当時の住職が血縁を尊重した理由は察して余りあるさ。徴兵を免れた例もあると聞いているが、それも稀な例。だが、今は真逆だ。豊かさのなかで奪われゆくもの、それを守護するには古いしきたりでは間に合わないというのに…いつまでも頑なにお嬢さんを真ん中に据えたがるこの小さな王国ってのは良くないね。この学園で理想とされるのは争いのない平和、平穏…そして平均化。そういうことだろう? 競争のない代わりに民意もない箱庭だ」
「しのぶ様」
 思想を語り変化を肯定しようとする。その口調に呑み込まれるのを防ぐかのように、侍女は声を発した。
「あしほ様が初めて同級生に興味を示したとき、私も確かに妙に感じました。けれど、何故、あなたが御剣蘭について私にお話しになるのです。家に知らせるなというのがあしほ様の意向だと仰りながら…」
「どうせもう調べているくせに。情報は共有しあおうじゃないか。おまえは家には知らせない」
 有子の間近にその顔を近寄せて、怪物は笑う。
「私の不利益になることはしない。邪魔なんかしない。私の望みを…」
「あなたの望みとは何です」
「おまえと同じだ」
「そんなはずはありません。有子にはわかります。あなたの望みは…私と真逆です」
 しのぶは肩を揺らして笑う。有子が手を伸ばすと、それから逃れた。
「触るんじゃない。わかるだろう?」
「しのぶ様!」
 有子は、無理にその掌を取った。
「あなたは私を信頼するべきではありません」
 しのぶは振り向かずに、手を払う。
「自惚れるな」
 軽く唇を噛みしめるしのぶの表情は、暗がりのうちにあって、侍女からは見えない。
「信じていない。いつだっておまえなんか侮っているだけだ。それより、あの御剣蘭だ!」
「ただの小娘が何だと仰るのです」
「あしほから目を離すな。あの少女、記録にはあるが…」
 言うべきか。いや。言わずに済ますわけにはいかないだろう。しのぶは承知している。この駒を信じてはいない。しかし、有子の存在は必然だ。規範の体現。それがこの侍女だ。実際、家との因縁を絶とうとしている自分には、有子だけが豊田との唯一の連絡手段だ。明かしておくべきだろう。
「私の記憶にない」
「……」
 その意味を吟味し、有子はゆっくりと面をあげた。
「記憶にない? あなた様の…記憶にない…ですって?」
 それでは。
 それでは、まるで、化け物ではないか。


 数週間後、学校はあしほの噂でもちきりだった。

「ねえ知ってる? 会長の奇行。何でも夢遊病だとか?」
「えーっと、何だっけ…パンがどうとか…? パン…保管計画?」
「スクール水着を普及させるんだっけ? 全身タイツみたいな格好してたよ?」

 このように生徒と会長の意識の乖離は著しい。
 今日も今日とて昼休みの生徒会室で、あしほと蘭は対座している。生徒会の面々が密かにリサーチした報告を受けての会議だ。蘭が重苦しいつぶやきを発する。
「うーん…会長の奇行が知れ渡るばかりで肝心の垣根がなくならないお…」
 あしほは、顔面に青筋を立てる。そして、頭を抱えて机に伏す。
「奇行って言わないで、あなたがあああ!」
「まあ、会長の人気は出てきたけど…」
 蘭の思惑とは外れる反応だったが、奮闘する姿に心打たれたのか、あしほに声をかける生徒が増えてきた。といっても、友情を感じているわけではない。女子高に特有の同性間の憧れをあらわしたものだ。朝礼の前後や放課後、手紙や贈り物を押し付けてきたり、サインを求めてきたりというファンまがいの行動だ。蘭にとっても、あしほにとっても、意外な反応だった。
「あ、あんなの、からかってるだけよ」
 あしほは顔を赤くする。
「そうだにゃー。なあんか、蘭が思っていたのと違う感じがするにゃあ」
「そもそも教室にいる私を直接訪れるってことは…正体がばればれってことじゃない…」
 会長の声は段々小さくなっていく。
「ふむう」
 蘭は思案顔だ。珍しく考え込んでいる。
「なあんか、いやだお…」
「え?」
 あしほが顔をあげると、蘭は目をそらす。そのまま別の話題にすりかえた。
「いつも思ってたけど、会長のお弁当ってどうして冷凍食品メインだお?」
「反省してくれるのかと期待した私がばかだったわ…」
 蘭はあしほの弁当箱をじっと見つめる。あしほのいらだちに気付く様子もない。
「安あがりで手軽なスタイルを選んだらこうなったの。有子…いえ、お世話してくれる人もいるけれど、日中のことは自分でするって決めているから」
「漫画のお金がかかるから?」
「ま、まあ…その…」
「ふうん。会長、お金使い放題じゃないのかお?」
「逆よ。制限されてる」
 蘭の瞳は真摯だ。こんな質問をしていても、あしほの金まわりの良さを期待しているのではないとわかる。だから、つい口が滑った。
「私と友達になっても何の楽しみもないの。ものを奢ってあげたり、いろんなものを貸してあげたり、そういうこと、できない。そう気付いた人から順番に離れてくの。小学校でも、中学校でも…こ、今回だって、きっと…」
 早口で喋り、せわしなく口に料理を詰め込んでいく。
 吐露しながらもその事実から免れるような性急な仕草だ。
「かーいちょう!」
 シュウマイを口に放り込もうとしていたあしほの手を、蘭は握りしめた。
「あーん」
「え?」
「蘭も! あーん」
 幼子のように口を開くので、あしほは眩暈を覚えた。そのお気楽さに呆れたのだ。ほだされたわけではない、と思いたい。恐る恐るその口にシュウマイをそっと押し込んだ。小さな生き物のようにたちまち食べ切ると、蘭は破顔する。
「会長、夜は暇?」
 さしたる予定は入っていない。学校の課題くらいだ。そう告げると、蘭はこう命じた。
「命令。今日は蘭と一緒に帰る」
「かまわない、けど…」
 最初から選択肢は用意されていない。
 否応もなく、あしほは頷いた。

 ☆

 放課後、喫茶店に連れて行かれるとは思っていなかった。
 喫茶エターナル。その店内に入ると、好きな席につくよう言われた。蘭は一旦奥に引っ込んだ。
 おろおろしているうちに再びあらわれた蘭を見て、あしほは仰天した。
 ウエイトレスの制服に身を包んでいる。くるんと巻いた髪を結いあげている。そのままあしほの前にずらずらと皿を並べると、向かいに着席した。
「御剣さん…バイトしてるの?」
 蘭が瞬きする。
「バイトじゃなくて家業だお」
「そうそう。お姉ちゃんは無料奉仕です」
 短いスカートから眩しい足を覗かせるなこが、あしほの前に特別サービスのパフェを置いてにっこり笑った。その笑顔たるや、天使のような可憐さだ。
「初めまして、あしほさん。私、御剣蘭の妹のなこと云います。どうぞよろしくお願します」
「いもうと、さん? じゃあ、ここって…」
「私たち御剣の家の住居兼店舗です。どうぞ、ようこそ」
 奥からあらわれた品の良さそうな少女が恭しく一礼する。
「私はみか。姉がいつもお世話になっています」
「と、豊田あしほです。こちらこそ、いつもお世話になっております」
 あしほは立ちあがり、深くお辞儀した。
 有子の言葉が思い出された。

『家の経済状況は厳しく確か妹たちと家計を支えているとか』

 まさか飲食店を経営しているとは思わずにいた。責任者は別の者であろうが、なこもみかも制服姿が堂に入っている。
「そ、そう、だったの…ここがおうちだったのね…」
 にひいっと蘭は笑う。
「喫茶エターナルへようこそ! だお!」
 三姉妹は揃ってお辞儀する。三人三様に美貌の主だ。華やかさは限りもない。一瞬、あしほは見蕩れてしまった。
「素敵な制服ね…三人とも違うの?」
「体形や雰囲気に合わせてみかが縫製してくれたんだお。みかは料理裁縫家事全般万能だからね。会長のコスプレ衣装もみか特製だお」
「そう、だったの? そう言われてみれば着心地はどれも良かったけれど…」
「本当ですか? よかったです。蘭お姉様ったら急に言いつけるものだから時間がなくて、どれも急ごしらえで心配だったんです」
「い、いえ、その…」
 安心した顔で言われてしまっては、あしほも抵抗しようがない。
「わ、私のために、ありがとうございました。で、でも、あの、もう、彼女が頼んでも…」
 これを機会に、コスプレ衣装の受注生産の中止を求めようとした。
 だが、にこやかに近づいてくるみかの視線は喜色に溢れている。
「ああ、本当にスタイルがいいんですね…」
「え? え?」
 あしほの手を握りしめると、潤んだ瞳で少女を見つめた。
「私、あなたのように美しい方のために服を作ったり、着せ替えたり、アクセを選んでさしあげるのが大好きなんです」
「そ、そうなんですか…あの、でも別に、私、美人では…」
「いいえ。お美しいです。ですから、これからもよろしくお付き合いくださいませ。あしほさん」
 ぎゅうっと両手を握られて、あしほはどぎまぎする。そうまで言われてしまって断るのは難しい。
「あーっ。ずるい、みか姉ちゃん! なこも、あしほさんにくっつく!」
 ぎゅっぎゅと脇から割り込み、なこが、あしほに抱きついてきた。自然と二人を隔てるサイズの胸が押し付けられてくる。
「あしほ会長、この度はお近づきになれて光栄の三回転ジャンプです!」
「え? えーっと…」
 会長と自分を呼ぶということは同じ学校の生徒だろうか? あしほが蘭を見やる。蘭が応じた。
「なこは、うちらと同じ学校の後輩だお」
「そ、そうなの? えーっと…なこ、さん?」
「どうぞ、なこって呼んでください、会長! なこは会長のこと昔からリスペクトしてたんですよ。蘭お姉ちゃんと仲良くしてくださるなんて、もう光栄の北極星です~! 会長、近くに寄るといい匂いがするっていうか、美しすぎて息ができないっていうか、ミスiDっていうか、お近づきになれて光栄のビッグバンが今はじまる…ですううう!」
 言い募られて、あしほは苦笑いする。
「それにしても会長っておっぱい綺麗ですよね。揉んでみていいですか?」
「え? え? え?」
 人懐こいを通り越して犯罪に至ることを言いながら、なこがわきわきと両手をあしほの胸に近づけてきた。
「そこまでだお!」
「ふおおお! でっか…会長のおっぱい、でっか…って、蘭お姉ちゃんやないけ!」
 立ちはだかった蘭の胸をそのままがっつり鷲づかみにしておいて、己の間違いに気付くと、なこは関西弁まじりに不服を述べた。
「何するの、お姉ちゃんのばかあ! ここはいかにも無邪気系妹キャラを醸し出しつつもスケベ心たっぷりのなこが会長の清楚な雰囲気を覆す手つきでおっぱいをマッスァージして、『きゃん☆ なこちゃん、らめえ…もう本当にいたずらっこなんだからあ☆』ってゆりゆりしい場面を提供するところでしょーーー!!」
「何するのはそっちだお! 会長のキャラ崩壊させるようなこと言うのはやめるおーー!!」
 蘭ですら突っ込みにまわる暴走っぷりだ。
「だいたい、序盤からそんなゆりんゆりんな場面を見せるわけにはいかないでそ…」
「あー! 言ったわね、蘭お姉ちゃん! じゃあ後半には期待できるの!? そこまで言うからには後半に乞うご期待!」
 なこが誰への配慮かわからない何かを期待させるような惹句を織り交ぜながらまくしたてる。
「誇大広告は控えるおおお! だいたい、か、会長の、む、むむむ胸を触るなんて何たる不謹慎だお。極刑だお。岩壁に裸でつながれてコンドルに心臓を食われるがいいおっ」
 本音の覗かれるぼやきを発した。
「おやおやあ? デレなの?」
「ジェラスゥィーですかしら?」
 顔を寄せ合いひそひそと話しあう妹たちに、蘭は焦りを隠せない。あしほに言い訳する。
「あ、あああの二人の言うことは気にしないでいいお」
「…ミスiDって何?」
「そこ!? そこから!? そこに戻るのかお!? いいから黙って会長は女子の定番パンケーキでも食べてるがいいお! それからこれでも読んでるがいいお!」
 蘭は、あしほの前にパンケーキ十段重ねを置いた。その脇に会長が未読であろう秘蔵コレクションのシリーズを積みあげた。
「こっ…これは…」
 燦然と輝くそれらのカバーとタイトルに注視し、あしほは思わず口元を両手で覆う。神聖なものに出くわしたときの女子特有の驚きの仕草だ。通常はボーイズラブ漫画に対して発現されるべき仕草ではない。
 しかし、それが名シリーズと謳われながらレーベルの都合により既に絶版となり復刻もされないままの貴重な作品群ともなれば、腐った心が疼かずにいられない。
「入手困難な『ああっ! 王子様』じゃないの…!」
『ああっ! 王子様』はエブリデイ・マジックと称される良質なファンタジー漫画だ。平凡で友達の少ない青年が間違い電話を通じて呼び出した異界の王子様に、『ずっとそばにいてほしい』とお願いしたところ、友情の意味合いであったにも関わらず同性愛的な意味として解釈された上で受理されてしまい、魔的な強制力によって彼と常にすごす羽目になるという『いやよいやよも好きのうち』タイプの物語だ。
「くうっ…出て来るタイトルの全部ぜんぶがビッグネームすぎて震えが止まらないおっ」
「どうしたの? 冷や汗が止まらないみたいだけれど、御剣さん」
 意味不明のつぶやきを発する蘭に、あしほが身を近寄せる。我にかえって、蘭はぶんぶん手を振る。
「だ、大丈夫だお! いいから食べてて!」
 会長の口にパンケーキを詰め込む蘭の指は震えている。
「もっ…ぐうっ…やめ…ん…」
 不用意に口に入りきらないものを詰め込まれて、くぐもったうめき声を発するあしほに蘭の手はとまる。
「このタイミングでセクスィーを発揮するのは番狂わせだおおおお!」
「なっ…もぐ…うう…」
 あしほは、どうにかパンケーキを嚥下する。
「何がしたいの、あなた方はああああ!」
 もぐもぐ喘ぎという新しい技を開発されたのちに、的確な突っ込みにまわるあしほは律儀だ。
「何って、一緒においしいごはんを食べるお!」
「ご、はん…?」
 あしほは首を傾げる。
「そ。これから忙しくなる時間だから、それ読みながら待っててほしいお」
「か、かまわないけれど…どうして?」
「もー。また会長の悪い癖だお。『どうして』はなし」
 ぶにゅっとその頬を両方の掌で挟むと、蘭は命令した。
「命令。理由を考えないこと」
 しかしこの生真面目な優等生は視線をそらさずこう尋ねた。
「……でも…そんなこと言われても気になるもの。どうしてなの? どうして、御剣さんは…私にかまうの?」
 真摯な眼差しで射抜くようにして、問いを発する。蘭は見返そうとして、できずに、俯いた。
「会長が、会長だからだお」
「え?」
「物を貸すとか、驕りとか。いらないお。会長が会長だから…それじゃ理由にならない?」
「わ、私が私…だから? 存在意義の話? も、もう少し詳しく…あの…意味がわからないわ。どうして…」
「う、えううう! も、もういいおっ!」
 確かめようとして蘭の顔を覗き込んだとき、あしほは瞠目した。蘭の頬がかすかに明るく熱って、その瞳が潤みを増したので。悲しみともいらだちともつかない情動的なものを感じさせる。あしほは、しばし思考を失った。
 見蕩れたのだ。
「いいえ、エターナルバージョンのときのリボンは平生の魔法少女姿のときよりもスリムなラインであるべきね。劇場資料集よりも出版社の公式『魔法美少女セーラールーン 漫画版設定資料集』を参考にすべきだわ」
「くっ…なこは漫画よりアニメ派だもん! 後藤田監督の作画を愚弄するのなら許さないんだからああ…!」
「いい感じになりかけていたのに、邪魔するんじゃないおおお!」
 黙って見つめあいかけていた二人の背後からオタク全開トークをお届けしてくる妹たちに向けて、蘭は遺憾の意を表明した。
「何よっ。次のあしほさんの衣装の打ち合わせしてたんだからっ」
「そうそう。心外ですわ」
 二人のぷんと膨れる様子を見て、あしほはずっと気になっていたことを尋ねる。
「ふ、ふたりとも、漫画とかアニメとか、す、すきなの?」
 それは、今まで自分から他人に発したことのない問いかけだった。恥ずかしくて、怖くて、聞けずにいたこと。けれど、今なら。
 この人たちなら…
 あしほの声の震えに気付いたろうか。少女たちは、もちろんと言いたげに笑みを返した。
「私はガールズラブ系が好きですっ」
 と、なこが返事する。
「私は乙女ゲームを好みますの」
 と、みかが返す。
 あしほは、そうなんだ、と小さくつぶやいた。嬉しすぎて途方に暮れてしまったのだ。
 蘭はその横顔を見て、そっと笑った。

 ☆

 賑やかに語りあう三姉妹と生徒会長の光景を窓外から眺めている者たちがいた。
「会長だろ? あれ」
「え、まじ!?」
「気付けよ、おまえ」
「何してんだあの人…」
 ぼそぼそぼそぼそ。
 肩を寄せ合って語り合うのは、先だって疾風王に退治された奨学生たちの一団だ。たまたま喫茶店に憩いの場を求めようとしたところ、そこに生徒会長の姿を見つけ、驚いて遠巻きに眺めているのだった。
「会長と…御剣蘭?」
「変な取り合わせだな」
「や、ていうかよ。最近会長のそばに必ずあいつがいるらしいぜ」
「は? 会長は御剣と…どういう関係だ?」
「いやあ。なんか噂では一方的に御剣が会長をふりまわしているとか…」
「御剣が会長にオタク文化を推奨させてたってことか?」
「それって…どんな関係だ?」
「大丈夫なのか? ほら、変な奴らが黙ってねえんじゃねえの?」
 少女たちは顔を見合わせた。ある一定数の者たちを思い浮かべる。
 決して、会長自身は知りようのない者たちの存在を…

 ☆

「文芸部・美術部漫画コースの選択者及び、アニメ研究会漫画研究会の諸君。本日はよく集まってくれたのだ」
 学院の地下一階には特別教室がある。その一室、美術・家庭教室に集う生徒たちの影。
 黒板にはあしほのブロマイドが貼られている。
 その脇にはこう記されている。
『第十三回 腐女子アンダーグラウンド会議』
 回数から、慣習化されていた会議だとわかる。この会議は文化部の一部のメンバーが部を越えて寄り集まり、アニメや漫画、主にボーイズラブ系のコンテンツについて語り合ったり、創作物を見せ合ったりすることを目的としてきた。その日までは。
 現在、生徒会の施策に対して、彼女たちは危機感を抱いていた。
「われらがオタク文化が汚されつつある!」
 壇上に立つのは文芸部の部長だ。ショートカットの似合う真面目そうな少女だ。平生は日となり陰となりこの場をそれとなく牽引する纏め役にすぎなかった。しかし、彼女の面は今や責務を負った者の厳しい顔つきとなっている。それに向き合う生徒たちも同じだ。
「生徒会の突然の宣言は由々しき事態なのだ! オタク文化はフォークロアでなければならない。マイノリティでなければならない。断じて大衆の目にさらされるポップカルチャーであってはならないのだ! 密かな楽しみを奪われてはならないのだ!」
「そうだそうだ!」
「そんなのはオタクとは言わない!」
「あくまでもわれらの愉悦は隠匿されねばならないのだ。白日のもとにさらされて何がオタクであろう?」
 黒板に大きな字でこう書いた。
『打倒・生徒会』と。
 オタク文化はあくまでもひっそりと育まれるもの。むしろそれが秘密であることにこそ愉悦が見出されるのであり、大多数の賛同を得ればその文化はただの大衆芸能と成り下がる。つまりは自分たちだけに共通の暗号を、生徒会の方策として用いる姿勢が鼻持ちならない。
 これは彼女たちにとって自然の反感であった。
 秘密結社のような一団の議論が意識の共有化の前に熱を帯びたときだ。
 教室の扉が開き、一同ははっとする。視線がそちらに集まる。
 そこには、剣道部の部長が立っていた。ポニーテールに袴姿が麗しい少女だ。
「話は聞かせてもらっちゃいましたああ」
 剣道部だけではない。背後にはソフトボール部、テニス部、バスケットボール部、陸上部など、各運動部の部長たちが集っている。
「生徒会の横暴は私たち運動部にも気持ちのいいものではありませんねええ。不本意ながら、この集まりに参加させちゃってもらえませんかああ?」
「お、おまえら…」
 文芸部部長は眩しげに目を細めた。
「良かろう。普段から激しく運動を行う連中など、何が楽しいのかわからないと思っていたが…なかなか話のわかる奴らだったのだな」
「くっ…私たちとしても、文系の連中が地下でいじいじと寄り集まって何が楽しいのかと思っていましたがああ、共通の見解がある以上は仲良くしちゃおうじゃありませんかああ」
「なんだとこのスポーツ馬鹿」
「何ですってええ、根暗オタクううう」
「まあまあ部長方」
「まあまあまあまあ」
 いきなり険悪な雰囲気の運動部と文化部だったが、こうして一種の同盟は成立した。
 そこへ、涼やかな声が響いた。
「楽しそうですね、皆様」
 教室の入り口にあらわれた美女。一同はその人物を見て仰天した。
「あ、あなたはああ…?」
「な、何の用なのだ! 告げ口するか貴様!」
「いいえ、いたしません」
 その女は妖艶に微笑む。
「それよりも標的を間違えているようでしたから、教えにきたのです。あなた方の狙うべき人物は…」
 あしほのブロマイドの脇に、その女はもう一枚のブロマイドを貼り付けて指で示した。
「こちら。御剣蘭…彼女こそが諸悪の根源です」
 何故彼女がそんな情報を提供するのかわからない。少女たちは固唾を呑んだ。
「それは…確かなのですかああ?」
「われらを霍乱させるための作戦ではないのだろうな!」
「何を仰るの。よく考えればわかるはず。どうしていきなりあの生徒会長があのような施策を提唱したのか…不自然だと思いませんこと?」
「そ、そう言われてみれば…」
 一同はどよめいた。
「この少女の入れ知恵と考えれば筋が通るのではありませんこと?」
「確かに御剣は忌むべきオープン・オタクだからな」
「すみませええん。オープンオタクってえ、何ですかああ? オタクはイミフな言葉遣いが多いですうう。リアルに充実しちゃってる私たちには意味がわからないですうう」
 息巻く文芸部の代表に、剣道部代表が問う。いらだって舌打ちする部長を宥めて、文系女子の面々が解説した。オープン・オタクとは彼女たちの造語だ。オタクであることを隠さない恥知らずという意味で用いられている。
「つまり、あなたにとっても御剣の存在は不都合だ…ととらえて良いのだな?」
 文芸部部長が女に歩み寄る。
「ええ」
 その女は理解を得て満足げに笑みを浮かべた。
「その通りですわ。皆様」

 ☆

「ふはあああ。ごっくらくうう」
 銭湯・兎の湯。
 喫茶エターナルの近くにある銭湯だ。
 その女湯の大風呂に深く身を沈めて、蘭はおっさんのようなことを言いながら息を吐きだす。その脇には恥ずかしげに湯殿に漬かっているあしほの姿があった。
「私、銭湯って初めて…」
「え? 一度も来たことないのかお?」
「え、ええ…修学旅行でクラスメイトと大きなお風呂で入浴したことはあるけど…」
 あしほはあたりをきょろきょろしながら、顔を真っ赤にして頷いた。
「ほ、本当に知らない人たち同士で裸でお風呂に入るのね…」
 ほう、と感心しきっている。
「御剣さん。どうして鶴の絵が描いてあるのかしら?」
「んー? おめでたいからだお? 鶴は千年亀は万年」
「なん…ですって…? 私の知る限り野生のタンチョウでも二十年程度が平均で…」
「今額面通りに受け取ったでそ? そおじゃなくってええ! 鶴は千年亀は万年生きるっていう言い伝えが昔はあって、縁起がいいとされていたおっ」
「え、縁起がいいから描かれているの?」
「だお」
「どうしてかしら…」
「んー…」
 会長の『どうして』を封じたにも関わらず、珍しく蘭は怒らない。腕組みして考えた。
「長く愛されるためでそ。この場所が」
「この銭湯が、ってこと?」
「っそ! ながーくいろんな人に利用してほしいから寿ぐんだお。どんなものでも、長生きするのはいいことだお。ものが長く生きるためには、人に愛されないとならないんだお」
 その言葉を聞いて、あしほはくすっと笑う。
「ものが長生き…?」
「あっ。何が可笑しいんだお。笑うところじゃないお。蘭は真剣だお」
「嘘うそ。からかったわけじゃないの。でも…ものなら可能よね。万人にまんべんなくながーく愛されるなんてことも…あるのかもしれない」
 その言葉が自嘲に近い響きを帯びたので、蘭は何か言おうとした。笑顔で口を開いて、しかし、あしほと目線があうと沈黙した。
 あしほがまたすぐに人のいい笑みを浮かべたので。
 実に大人びた完全な笑みを。
「…ものはもので大変だお」
 俯くとそうぼやいた。
「え?」
 あまりに小さな声で、生徒会長には聞き取れなかった。

 ☆

「うーん…それにしてもいいスタイル…」
「みかお姉ちゃん、じろじろ見るの良くないよ」
 洗い場でもしゃもしゃと体を洗いながら、浴槽のあしほをガン見するみかを、なこが咎めた。しかし、そのなこもまた目線の方向は同じだ。
「もちろん蘭お姉ちゃんの大きな胸も魅力的だけれど、あしほさんの丁度いいサイズの胸の形の良さは神がかっているよね。だからってじっと見るのは失礼だと思う」
「あなたのが見てる上に涎まで垂らしてるじゃないの。私はただ素敵な服を纏うモデルとして見ていたんだから」
 妹の頭を軽く叩いて、みかは吐息する。
「ねえ…蘭お姉様、おかしなこと考えたりしてないわよね?」
「何が?」
 至って無邪気ななこはやはり気付いていないようだ。みかは声のトーンを落として、そっと囁くように告げる。
「まさか彼女と縁を結ぶつもりでは、と心配しているの」
 それを聞いたなこは狼狽した。
「! だだだめだよ、そんなの! 全力で止めるよ!」
 顔が真っ青だ。
「もう…変なこと言わないでよ、みかお姉ちゃん…」
「あなたを泣かせるつもりはなかったの。必然はないはず…お姉様の力は順調に貯まりつつある」
「そ、そうだよ…」
「でも…何か厭な予感がするの」
 涙目の妹を宥めるように言いながらも、みかは付け足した。
「私たちは、気まぐれな存在だから…」
 そう言って睦まじげな二人に視線を向ける。あしほはしきりに照れているし、蘭は銭湯に不慣れなあしほをからかう。二人は充分親しげな仲として目に映るのだった。

 ☆

「お帰りなさいませ、あしほ様」
「ただいま」
 帰宅したあしほは、有子の艶然たる微笑を見てほっとする。
 しかし、その笑顔にどこか翳りが感じられた。
「どうかしたの?」
「ええと、その…あしほ様…今日はあかし様からのご連絡があります」
「叔母様から!? 今すぐ試験をするわ」
「いいえ。試験の必要はありません」
「え? それっ、て……」
 あしほは、厭な予感を覚える。
「ええ、お察しの通り」
 侍女はなるべく気を持たせないようににこやかに告げた。
「お達しがあるようです…」
「ま」
 あしほは青くなった。
「まじで…?」
 思わず普通の若者言葉が発される。
 侍女は律儀に頷いた。
「まじ、ですわ」
 試験免除されるということは、その必要がない…つまり、直接の通達がある場合を示す。
 十中八九、それはお叱りである可能性が高い。
 あしほも青ざめようというものだ。

 ☆

 あしほは床に直に正座してその画面と向き合っていた。指先はわずかに震えている。
 厳しい顔つきの叔母の背後には床の間が映っている。落ち着いた佇まいの和室だ。それは寺社でなければありえない広さを呈する。
 豊泉寺の当主はこの豊田あかし。僧名は灯菫と云う。
 しのぶとあしほの叔母であり、即ち二人の母親の妹にあたる。
 豊泉寺はまごうかたなき尼寺だ。しのぶが放擲し、あしほが期待される家業とはこの寺の継承にほかならない。しのぶは高校を卒業すれば得度して髪を落とす予定だった。その義務を放擲したがために、あしほが目されるようになった。
 豊泉寺を継ぐ者には必ずその兆候があらわれる。この豊田の一族で資格があるのはあしほとしのぶの姉妹だけだ。当代の住職であるあかしには子供がいない。親戚筋には同年代の子らもいるが、その資格がない。
 資格は厳しい修行の末にあらわれるといったものではない。生まれつきの素養だ。
 科学の進んだ現代で、素養も資格もあったものではないとしのぶは切り捨てる。だが、この叔母には通用しない。しのぶやあしほに与えられた資格を神仏からの思し召しだと言い切る。そんな生き方をしてきた厳格な僧だ。
「最近の様子はどうです?」
 あしほは、極度の惧れを感じていた。
「あ、あの…」
 とめどない冷や汗が額を頬を伝い落ちていく。
 尼僧はあしほを見据える。幾枚のレンズを透過されようとも、どんなに離れた地域間の通信であろうとも同じことだ。その眼力。その威力にあしほは動けない。
「どうもここのところ、妙な噂を耳にしましたからね」
「み、妙な噂、と仰いますと…」
「得体の知れない格好で、学内を駆けずりまわっている、といった噂ですよ」
「ひっ」
「びくびくするのはおよし。問いに答えなさい」
「あの」
 どうする?
 認めれば追及は免れない。しかし、ごまかしは見抜かれる。あしほの判断は早かった。
「も、申し訳ありません。叔母様」
 彼女は深く頭を下げた。ひれ伏すように。
「確かに私はここのところ…こ、こすぷ…いえ、妙な扮装を学内で…していましたが…けして遊んでいたわけではありません」
「ふむ。それはよくわからないあの金髪の娘が原因でしょうか?」
 あしほは息を呑む。
 もうそんなことまで知れているのか?
「あれは邪悪な匂いがします」
「そんなっ。御剣さんは…」
「何です?」
「あの…でも、あの…あ、う…クラスメイト…で…学内でもおかしなことばかりしてますが…彼女は…学校を愛する…重要な生徒です…」
「それはおまえと親しくするに足る人物なのですか?」
 そうはっきり問われると、あしほは弱る。
 彼女が親しくするに足るかどうか、などと確かめる暇もなしに親しくしてきたのだから。
「重要な人物であることは確かです…」
 そうとしか言えず、あしほは俯いた。
 弱みを握られて命令を受けるようになったという状態では、擁護する言葉が出てこない。迂闊な表現をすればBL趣味が露呈されてしまう。それを避けようとすると、うまい言葉が出ないのだった。
「なるほど。大した人物ではないが、その重要な金髪娘によって、おまえは妙な扮装をするようになったということですね。しかし、立場が違いすぎる…おまえはその差異に惹かれたのですか? 大方カルチャーショックに基づく共依存ではないのですか?」
「そ、それはっ…」
「あの娘は除籍しましょうか」
「待ってください!」
 あっさりと重大なことを決めようとする叔母の横暴は今に始まったことではない。叔母は、あしほやしのぶの育ての親だ。身の周りのことについて決定するだけの権限がある。それだけの間柄だ。だからこそ、しのぶは膨大な財産を築いてそれを明け渡さなければならなかった。
「いずれにしろ今ではおまえこそ、この寺を継ぐ身。剃髪も卒業まで待つという約束ですが、こんな悪影響を及ぼすようでは…」
 そのときだ。
「あかし叔母さん、いい加減にしないか」
 聞き知った声が背後から届き、あしほは慌てて振り向いた。
 誰あろう、己が姉の姿をそこに認めてあしほは狼狽した。普通にあらわれてくれればいいものを、クローゼットから作務衣姿で出てきたのだから当然だ。
「あああ有子! これはどういうこと?」
「はい、あしほ様。しのぶ様がどうしてもあしほ様の部屋にあがりこみ、あかし様との面談を邪魔したいと仰るため従ったまででございます」
 内容はまるきりあしほの意思を無視したものだが、はきはきと丁寧に伝えられた。
「どうして一言私に言わないのよ!」
「しのぶ様がそうしろと仰られましたもので」
「私への配慮は!?」
「申し訳ありません。私も精一杯引きとめようとしたのですが、それ以上の誠意をしのぶ様に見せられましたもので…」
 有子は深く頭を下げた。その身に纏うビジネススーツとブラウスシャツに隠されるべき胸元が大きく覗かれ、隠しようもない乳房の隙間に札束が挟まれているのをあしほは目撃した。これ以上わかりやすい誠意もないであろう誠意だった。
「実は…情けないことにしのぶ様から袖の下を…」
「いやいいわ聞きたくないし一目瞭然だもの袖の下じゃなくて胸の谷間じゃないのこの雌豚」
「雌豚!? ちょっ…言いすぎではありませんか? いくら何でも!」
「静粛になさい」
 あかしの声が響き渡る。
 しのぶがあしほを庇うように一歩進み出る。
「何です、しのぶさん。あなたは二度とこの寺院と学院に関わる資格はないのでは?」
「あしほは私の家族だ」
 強い眼差しでしのぶは言い切る。
「寺や家を捨てようとも、己が自由を買い取ったまでのこと。あしほを捨てた覚えはない」
「姉さん…」
 あしほは瞬きする。
「都合のいいことを言うものではありません」
 あかしがその顔を険しくする。しかし、しのぶは微笑すら浮かべて返す。
「こうしようじゃないか、叔母様。この子は文化祭で昨年度の寺院への寄付金の倍額を稼ぎ出す。この約束を果たす」
「ね、姉さん!? 何を言って…」
「黙るんだ、あしほ」
 姉の口調の強さに、あしほは声を失う。
「それは金髪娘も併せての効果として、だ。そのことが証明できれば、彼女らの関係が子供の戯れでなく社会へ貢献する良きつながりであると認めてくださるだろう?」
「や、やめ…勝手に!」
「良いでしょう。できるのですね? あしほ」
「やれるな? あしほ!」
 二人の怪物から睨まれて、あしほは身を固くする。
「は、は、はい…」
 小さくなって頷いた。

 ☆

 叔母との通話が切れた後。
「すまん」
 額を床にこすりつけんばかりにして、しのぶはあしほに詫びた。
 半ば放心しているあしほに対して、悪いことをしたという自覚はある。
 あしほは、大きなため息をどふううと吐いて恨めしげに姉を睨んだ。
「すまん! だがな、あしほ。これくらいのことをしなければ、おまえはっ…」
「勝算があるのね」
 忌まわしげに、けれども聡明なこの妹は確かめる。負ける確率が高い賭けはしないものだ。この姉は。
「だから提案した。そうでしょ?」
「まあ…おまえ次第といったところか」
「そ」
 あしほは瞠目する。
「そんな不安定な条件に姉さんは賭けたの?」
「いいや。おまえを信頼している。近頃のおまえなら、何かしてくれそうだ」
 それはあしほ一人でなく、御剣蘭の存在を遠からず指している。言外に彼女からの影響を指摘されて、あしほは黙る。
 叔母よりも近くにいる者として、姉からはどう見えるのかが知りたかった。
「姉さん。さっきの、『カルチャーショックに基づく共依存』…て、どう思う? あれが叔母様の実感なのだとしたら…」
「……おまえはどう考えている?」
「困っているの、私」
 あしほは正直に答えた。
「御剣さんのことが気になって気になって仕方ない。情緒的に不安定に陥る。何なのかわからなくて困ってる。心理学の本を調べてもわからなくて…この気持ちが何なのか…」
 堅苦しく告げるあしほを見て、しのぶはようやく立ちあがる。ぼりぼりと頭を掻く。
「おまえ、そういうところがさ…」
「だいたい、叔母様の診断で合ってると思う」
「診断て、そんな言い方…他人の評価を礎にするのか?」
「私にとって絶大です。姉さんがそうでない理由と同じよ」
「痛いところを」
 家庭における比較対象。コンプレックスを根付かせてきたのは家だけではない。この姉自身でもある。
 互いに仮想敵として研磨してきた者同士。
 しかし、もはや怪物は自在だ。家庭の枠に収まらずに社会的な生き物となりつつある。
 あしほを家に置き去りにしているのが自分だと、しのぶも、わかってはいる。
「おまえの考える通り、おまえにしてやれることはもうあまりに少ないよ」
「だからあんな大きな賭けに出たのね。これが最後の贈り物?」
「そんな言い方するんじゃない。姉妹なんだ」
 あしほの頬を両方の掌で挟むと、その額を額にくっつけた。
「母さんが死んでからおまえは変わった…昔はもっと素直だったよ」
「…今は違うと言うの?」
「難しくはあるな」
 あしほは俯いた。
 そう。
 幼くして二人は母である人を喪失していた。
 あしほは、母が死んだ頃のことをよく覚えていない。
 まだ幼かった頃の話だ。もう小さな子供ではないのだから、変わってしまうのは当然ではないか。そう思いはしたが、姉が言いたいのはそういうことではないはずだ。それを知っている。
「今日、御剣さんの家で夕飯をいただいたの。小さな喫茶店で…カウンターの向こうで妹のみかちゃんが料理して、なこちゃんがお皿を運んでくれて。ごはんを食べたの。狭いテーブルだけれど、近くて…とても楽しくて、なんだか、あったかくって…」
 父も母もいない。その点は共通していた。けれども全く別物だった。
「カルチャーショックだったし、確かに依存しそうになるくらいに、足りないものを何なのか自覚させられた。でも、そういうふうにふりわけてほしくない」
 少女の声は澄んでいた。
「私、楽しかったの。今日は、とても」
 あしほはしのぶに請う。自ら何かを願うのは初めてだった。手を差し出す。
「失いたくない…絶対…絶対に失わないよう努力するから、手を貸して」
 当然のようにその手を取ると、しのぶは妹を強く抱きしめた。
「わかってる」
 しかし、しのぶの目には厳しい光が宿っていた。
 あしほからは見えない位置に立つ有子に、その視線は転じられる。
 無言の確認に、有子は恭しく頭を下げる。しかし、恭順の意をあらわしながらも、侍女はこう申し出た。
「その計画、有子も微力ながらお手伝いさせていただきますわ」
 その言葉にしのぶは瞬きし、何か言いかけた。だが、それよりも早くあしほは反応していた。
「お願いね、有子!」
 お日様のような笑顔だ。邪気のないその笑みに、思惑も懸念も吹き飛び、二人の女は言葉を失う。
 一拍の間が置かれた。有子が右手の拳を心臓の位置の前に置き、左手は肘を軽く曲げて背後へまわしたのち、背筋を伸ばした。
「はい。私の心臓をあしほ様のために!」
「おまえの心臓なんぞ妹はほしがらないけどな」
 浮かれきった新兵のような侍女に、冷たくしのぶは言い放った。

 ☆

 銭湯を出てあしほと別れ、三姉妹は店に戻ってきた。
 しかし、扉の前で足を止めていた。
 店を出るときには消灯していたはずなのに、窓から明かりが漏れている。
 三人は顔を見合わせた。
 照明だけではない。
 感じられる人の気配。そして、妙に怪しい雰囲気。
 蘭は顔を険しくした。
「二人とも、下がってて」
「蘭お姉ちゃん…」
「蘭お姉様…」
 なこは不安そうに、みかは店内への不信感をあらわにしながらも、視線を交わして頷きあう。蘭が扉の前に立つ。
 すると、実に睦まじく囁きあう声が聞こえてきた。
「ふふっ。くすぐったいったらたらあ☆ 鷹取い」
「ははは。いいじゃないか、月夜。誰も見ていないんだからな」
 蘭は勢いよく扉を開く。
「ひとんちで何をしているんだお、このホモップル」
 そこには、背後には花が飛び散らんばかりの、まさにボーイズラブな光景が顕在していた。
 鷹取と呼ばれたのは黒髪黒目の精悍な青年だ。一方で月夜と呼ばれたのは金髪碧眼の紅顔の美少年。二人は閉店後の喫茶店内のシートを占領していた。あろうことか青年の膝上に美少年は横座りになり、誰がどう見ても近すぎる位置に身を寄せ合い、頬を寄せ合い、今まさに唇をも寄せ合わんとしているところだった。
 しかし、BLを愛好してやまないはずの蘭から発されたのは、感激でも感嘆でも感謝の声でもなく、ただひたすら平坦な指摘だった。
 普通、営業終了後の店に勝手にあがりこんでいちゃついているカップルがいようものなら怒られる。不法侵入で通報されても反論できない行為だ。
 蘭の平然たる声音には揺るがない強さがある。
「何しにきたんだお」
 かつて、このような光景に初めて相対したときには動揺した。しかし、そのときですら、蘭は彼らに対して『萌え』を覚えたわけではなかった。
 むしろ狼狽し、落胆し、その後…激昂した。
 今でもその怒りが根ざしていることを知らせる厳しい目で少女が二人を睨む。
 月夜が小さく悲鳴をあげて、鷹取の背後に隠れた。庇うように青年は立ちあがったが、そもそもが闖入者は彼らの側だ。それを忘れて邪魔が入ったかのような冷たい眼差しだった。
「契約はしたのか?」
 開口一番青年は蘭に問いかけた。
「まだだおっ」
 いらだちを隠さぬ態度で、蘭は腕組みして堂々と答えを返す。しかし、青年は目ざとくその手元を注視した。つかつかと蘭に歩み寄ると、その掌を無理に握り指先を見つめる。
「ふーん…面白そうな指輪してるじゃないか。紙でできているな?」
「!」
 軽蔑の眼差しで見下ろされ、蘭は突然の不躾に対応しきれない。
 だが、蘭の前になこが進み出る。両手を広げて通せんぼするようにして、青年をきっと睨んだ。
「お、お姉ちゃんに触らないで!」
「ふん」
 男は嘲笑する。
「さすが百合娘。男に厳しいときた。では、君はどうかな?」
 最初からなこは眼中に入らない様子で、青年はみかの前に歩み出た。しかし、みかはにべもない。
「ごめんなさい。私、確かにノーマルですけれども…その分、男の容姿年齢肩書きと財力の格付けは厳しい社会派ですの」
「おや、それなら揃って…」
「ゲイは眼中に入りません」
「くっ…」
 青年は初めて悔しそうな顔をした。
 蘭は彼の言動を信じられないという面持ちで見据える。
「まだ…蘭から何か奪おうというなら承知しないお」
 激しいいらだちが可視化されたかのように、大気が震えた。
 電光が弾け、ある種の磁場が蘭の足元から生じる。
「お姉様。こんなことに力をお使いにならないで!」
 みかが慌てて蘭の両脇を掬いあげて後退させる。
「そうだよっ。せっかく貯めてきたのに、もったいないよおっ!」
 みかも蘭の正面から抱きついて押さえ込む。
「うにゅうううっ」
 蘭は悔しげだ。
「蘭お姉様っ」
「蘭お姉ちゃんっ」
 みかは焦り、なこは泣きそうだ。そんな二人の様子に、蘭はふと肩の力を抜いた。
「…何しにきたんだお」
「監視しにきたのさ。わかってるくせに」
 青年が肩をすくめる。蘭から、剣呑な空気が失せる。
 四辺の物理法則を変容させるほどの力がおさまった。
 二人の妹がほっと脱力する。
「鷹取、大丈夫?」
「ああ、気にするなスイートハート…」
 いじらしく駆け寄った月夜の髪を安心させるように撫でて、青年は微笑する。
「ふん…そんなに後生大事に持っているなら、さっさとその女と縁を結べばいいじゃないか」
 青年が皮肉を言うと、蘭は初めて優越の表情を見せる。
「何もかも征服することでしか確かめられないおまえと一緒にするんじゃないおっ」
「言うじゃないか。だが、いいのか? そいつは…」
 その女は、と、彼はわざわざ言い換えた。
「俺たちの贄だ」
「知ってるお」
 何を今更、というように蘭は相手を睨む。
「わかっていて選んだのか? 愚かな…まあ、人を好きになるのは悪いことじゃないけどな。かなっても、かなわなくても」
 からかいたっぷりに青年が薀蓄を述べる。
「おまえらは自分が守護する存在の価値をわかってないんだお」
 不敵に少女は言い切る。
「あの子は…あの子たちは、魔法少女でも乙女でもない。ただの少女だお…それが腐女子だおっ」
「っ……」
 蘭の言い切りは効を奏した。青年は絶句する。己よりもその存在について熟知する者などいない。しかし、真理を思い知らされたかのように、彼は閉口する。
 何故、目の前の蘭が落ち着いているのか、その真意を見抜いたからだ。
「なるほど…そういうことか。裏切り者を輩出させようというわけだな」
「そんな具合に何もかも敵か味方かで判断するおまえは間違ってるお! 蘭は…蘭はおまえとは違う!」
 青年を、そして少年を蘭は睨み据える。
 青年は彼女を睨み返すが、少年は目をそらしてしまった。そして、愛しい男の背後に身を隠してしまう。
 そうして、蘭は失望する。
 ああ。わかっている。今ではもう失ったものが取り戻せないことを。
 わかってはいても、信じ続けることしか出来ない。
「痴れ者め」
 青年が更に蘭を翻弄する言葉を発しようとしたときだ。
「ねえ」
 小さな、ほんの小さな声が彼の背後から発された。
 青年は驚いた。蘭もまた目を見開く。
 なこもみかも、固唾を飲んだ。
 懐かしいその声に蘭は呼吸を失いかける。
「あ…」
 場違いを自覚してか、注目されたのを恥じ入ったのか、周囲の目線から逃れるように少年は鷹取の背に隠れてしまい、それでもおずおずと顔を覗かせる。
「ただ一瞬会っただけの奴に…命を賭けるの?」
 青年と対照的に、その声はどこか蘭を気遣うような声だった。
 なあんだ、と蘭は思った。
 笑いたくなる。
 泣きたくなる。
 そんなことか、と。
 そんなことを心配しているのか、と。
 そんな程度のことが気になってわざわざ問いかけてくれたのか、と…
 しかし、生じてしまった一抹の寂しさを断ち切るように、蘭は胸を反らした。
「そうだおっ」
 彼女は笑ってみせた。
 誰よりも強気に。

第三章 雨に誓って

 翌日の昼休み。
 相も変わらず、対面してランチを広げる会長とギャルな腐女子の姿があった。だが、生徒会室は妙な沈黙に支配されていた。
 おかしい、とあしほは思う。いつもならば、のべつまくなしに生徒オタク化計画を詳らかに提唱しているはずの蘭の唇。それが固く閉ざされている。
 おかしいと蘭は思う。
 いつもなら自分の話は半分どころか一割ですら真面目にとるのを躊躇する生徒会長が、来訪した時点から背筋を伸ばして自分を待ちかまえていた。迷惑そうな顔も、うっとおしそうな表情もなしだ。どういう気持ちの変化なのか。しかも、自分が机を動かし、会長の向かいの席について、弁当を広げるまでの一連の動作を、まるで何かの特務機関の最高司令官であるかのように、顔の前で手を組んで凝視している。
「か、会長?」
 目の前で蘭が掌を閃かせる。
「ど、どしたお? なんか悪いものでも食べたかお?」
 すると、あしほはようやく正気づいたかのように正面を見据え肩を揺らした。しかし、その瞳は爛々と輝いていた。腰を浮かせ、そのまま勢いよく蘭の両手を握りしめた。
「御剣さん」
「ふ…ふえっ!?」
「あのっ…」
「え、え、え」
 間近にあしほの顔が迫ると、何故か蘭は赤面する。しかし、その反応も眼中に入らない様子だ。あしほは自らの鼻先を蘭の鼻先にこすりつけんばかりの距離で迫る。
「お願いがあるの」
「え」
 常日頃命令する立場である側の蘭は、お願いと聞かされて瞬きする。
「と、とりあえず、落ち着こっ。会長」
「あ、そうね。ごめんなさい」
 冷静でなくなっていた己に気付いて、あしほは蘭の手を離す。居ずまいを正して席についた。
 蘭が小さく笑った。
「会長は、普段は澄ましているけど、案外子供っぽいところあるお」
「そんな」
「今だってそうだお。周りが見えなくなっちゃう感じ」
「そうかしら」
「だおっ」
 そうかしら、と半信半疑に頬に手を添えてあしほが考え込む。その隙に蘭はぷいと顔をそらして、熱っている頬をなんとか宥めようと掌で扇いだ。
 あしほは咳払いして向き直る。しかし、いざとなると、どう切り出したものか。そもそも蘭との関係性の影響で文化祭に自らの学生生活を賭さなければならなくなったとは言いづらい。しかも、蘭が退校をほのめかされた、などとは言い切れるものではない。非常識の固まりのような叔母の思考をそのまま伝えることは躊躇される。それがあしほ自身のエゴだと誤解される畏れもある。
 しかし、伝えるしかない。
 あしほの思い切りは無意識に為されたものだった。
「お願いっていうのはね…その…もうすぐ文化祭があるでしょう? それを踏まえて、その…あ、あなたの計画を拡大化させたいの。早い話…文化祭の演出を手伝ってほしいの」
「蘭が?」
 淡い瞳を揺らがせて、蘭は瞬きする。
「そ、そ、そう…あの…実は…私の叔母…実質的にこの学院の長である人が、そ、その、私のことを…その」
「まさか」
 蘭は目を見開く。
「ぼ、ボーイズラブ趣味のことがばれたのかおっ!?」
「え…」
 あしほよりも慌てて、今度は蘭が迫って尋ねた。
「い、いえ…違うわ。ただ、その、私たちの関係が…」
「ああ、なあんだ! よかったあ。会長の秘密がばれたら大変だおっ」
「……」
 解せないものを見る眼差しで、あしほは蘭を見つめた。
「不思議なことを言うのね、御剣さん…だって、あなたは、その…私の趣味が公然たるものとなるように尽力しているのではなかったの?」
「それは生徒たちの間のことだお。家族のことは、会長が決断するものでそ? 蘭はそこまで立ち入るつもりはないお。だから焦ったあ…」
 意外な思いがした。
「変だわ、そんなの。だって、あの画像を収めて脅してきたのは御剣さんじゃないの」
「それとこれとは別だおっ」
 蘭は眉間に皺寄せた。家族に知られるのと、友人に知られるのとでは、確かに深刻さが異なる。そうした常識は弁えているということだ。
 あしほは、もう、どうしてとは思わなかった。
 蘭はこういう人なのだ。
 おせっかいで、破天荒で。
 けれど、妙なところで気を遣う、こういう人なのだ。あしほは、胸に火の点るような感覚にとらわれた。けれど、それを何というのだったか…
 どうしても思い出せない。それが何故だか苦しい。
「会長、どしたの?」
「あ…な、何でもない」
 俯きかけると、いつものように無邪気に蘭が覗き込んでくる。
 もうこの距離感にも慣れてしまった。そのくせ、彼女は自分が接近するとはねのけようとしてしまうけれど。
 深く考えないことにして、あしほは微笑する。
 蘭が困りそうな解説は省いて、正直に、事の次第を説明した。
 可及的速やかに叔母の思惑への対策を立てる必要があること。姉が協力を申し出ていること。文化祭の収益はもともと学院のものとされるが、その結果次第であしほの交友関係が制限される可能性があること。
 自分や蘭の学籍まで関わってくるとは言えなかった。
 それから、と、前置きする。
「そ、その…あなたの計画は、今までの、その…影響を見る限り、無意味ではないと思ってるの」
 それを聞いた蘭は、明らかに瞳を輝かせた。
「でそ? でそ? 蘭、偉い?」
「う。え、偉いかどうかはともかく…だ、だから…協力してほしいの。改めて正式に学園祭をプロデュースしてくれたら嬉しい。けれど、今までは私が命令に従って唯々諾々と流されていただけだから…これをお願いする以上は、対等な関係でなければならないの」
 あしほが席を立つのを、蘭は見た。
「力を貸してください。お願いします」
 頭を下げるのを見た。
 しばし、あたりの大気が静まった。蘭はあしほのつむじを見たきり、身を固くしていた。
 不審に思ったあしほが顔をあげる。
「あの…だめ、かしら?」
「う、ううんっ」
 蘭は首を振った。否定する。
「会長のお願いなら、もちろん。きくお」
 少しだけ泣きそうな声だった。あしほは、眉間に皺を寄せてしまう。
「つ、都合が悪いなら…」
「大丈夫、任せて!」
 急いたように、遠慮がちなあしほの言葉を断ち切るように蘭は言い切った。
「嬉しい」
 掌を差し出した。
 あしほは自然にそれに応じる。
「会長が、蘭に、お願いしてくれて嬉しい」
 その喜びようの異様なことに、何の疑問も抱かず…
 その掌を握ったことを覚えている。
 確かに、その手をつないで、握りしめて、それから。
 全身の血の巡りが急激に早まるように、感じた。
 体が何かに包まれるように感じて…
 あしほは、その場で意識を失った。
 足元から力が抜けてただ人形のように倒れこみそうになる。
 その瞬間、その身に、ある力が作用した。あしほの体はふわりと浮きあがる。
 その力は彼女の肢体をゆっくりと床に横たえた。
 残るのは静寂ばかりだ。
 教室内は純白の光に包まれている。
 蘭の瞳は潤んでいる。
 そうして、ただ、確かに今あしほとつながった己の掌を、自分の指に宿った白銀のその指輪を見つめた。
 蘭はあしほのそばにそっと寄りそう。痩せた体に抱きつくようにして起こしてやる。
「ありがとう、会長…」
 つぶやきは誰の耳に届くこともなく、響いて消えた。

 ☆

 雨が降っていた。
 冷たい雨だ。
 灰色の路地。
 何ということのない街角に、小さかった頃の自分がいる。その子はあるものを街の隅に見つけ出して、顔を輝かせ、それから泣きそうになる…
 遠い昔のこと。まだ幼い頃のことだ。
 けれど、やけに鮮やかに思い出された。
 目が覚めて、感覚が取り戻される。視界には無機質な天井。
 あしほはあたりを見まわした。
 清潔な寝具にカーテンの衝立。その向こうに誰かがいる。
「御剣…さん?」
 ここは保健室だ。さっきまで生徒会室にいたはずだ。不思議に思いながら身を起こす。
 思わず蘭の名を呼んでいたが、衝立の向こうの人物が彼女とは限らない。無意識につぶやいていた名前が、その人の耳に届いてしまったかと口元を押さえた。
 あしほは、そっと寝台を降りた。
 足元にはきちんとあしほの上履きが揃っていた。それを履いている間も、衝立の向こうの人は静かだった。
 あしほを待っている。そんな気がした。
 映像、匂いや音、感触。そんな具合に体に刻まれる記憶よりも、もっと別のところにある感覚で覚えている。
 そうだ。
 彼女と会ったことがある。
 けれど、どこで?
 あしほは幼年期からこの学院の箱入りだ。御剣蘭は中等部から一緒になった生徒だった。クラスも委員会も部活動も重なることはなかった。まして、あしほは生徒会の業務にその頃からかかりきりだった。
 それが、ボーイズラブ系の本を好むようになってからは、蘭を妙に意識するようになった。
 あしほは、衝立をまわり込んで、そちらを見た。
 グラウンドに面した窓際に蘭が立っている。
 蘭はこちらに背を向けている。明るい髪が月のようだ。
 彼女は、以前からボーイズラブを愛してやまないと公言する存在だった。
 あしほは、かつて、蘭との密かな共通項を周囲に悟られることを畏れた。
 もともと接点はなかったものを、意識的に避けるようになった。それがやがて危機感となり、いつしか排他の欲求へと転化していった。そして、先生に告げ口をした。
 書店で弱みを握られたとき、あしほの告げ口を、蘭は承知していると思った。だから、屈してしまった。実際に理不尽な命令ばかりされているので、意趣返しが目的だという懸念は拭えない。けれど、彼女の態度や言動そのものからは、あしほに仕返しをしてやろうとか、意地悪をしてやろうといった鬱屈した気概は感じられない。ただ楽しくて人を振りまわしている。無邪気な子供のようなのだ。
 窓の向こうには、霧のような雨が降っていた。
 いつでも蘭は灰色の場所に立っている。そんな錯覚に陥りかける。
「やっと起きたあ、会長!」
 蘭はこちらに気が付くと、振り向いてぱっと笑う。
「ごめんなさい。よく覚えていないけれど、迷惑をかけてしまったようね…」
 本当に覚えていないのだが、倒れてしまったことは、あしほにも自覚されていた。
「びっくりしたおっ。大丈夫? あ。保健の先生はね、今、豊田先生のところにいるおっ。貧血みたいだから、起きたら豊田先生と帰宅するといいって」
「でも午後の授業が…」
「だめだお。体は大事にしないと」
 蘭は元気だ。けれども、どことなく遠く感じる。
「あの…あのね、御剣さん。さっきの話だけれども」
「やるおっ。学園祭プロデュースでそ?」
「あの…そんなに安請け合いしていいの?」
「へ? どして?」
 蘭の顔から光が失われる。
「だって、その…迷惑ではないの?」
「ぜーんぜんっ!」
 むしろやる気しかない、という具合にガッツポーズを見せ付ける。力こぶなどできるはずのない細い腕だが、がぜん張り切っている。
 あしほは、少し迷ってから口を開いた。
「でも、私は…」
「会長。もしかして、昔、自分のしたことを気にしてる?」
「!」
「会長は昔から先生しか味方がいなかった…そのことを言ってるんでそ」
「やっぱり…」
 あしほは震えた。
「私のしたこと、わかってたの?」
「だおっ」
「じゃ、じゃあ…」
「でも、それとこれとは別。ぜーんぜん、別。蘭は最初から怒ってないお。むしろボーイズラブとか、会長がケーベツするのあたりまえだお。だってそれがまともだから」
「え…」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 蘭はあのときのことを覚えていた。けれどそれに怒って自分に嫌がらせをしているわけではなかった。それは嬉しいしありがたい。けれど、軽蔑するのを自然だと認識しているとはどういうことか。
 そう思っているのなら、彼女が公然と趣味を喧伝するのは矛盾ではないか。
「蘭はね。まともでいらんなかった。まともでいらんないくらい、ボーイズラブにのめりこんだお。だから、まともでいられる子は羨ましいって思ってた。普通に恋愛して、部活や委員会、勉強して青春する子たちは…」
 背徳的な趣味という認識は蘭にもあった。だから。
「怒ってないお」
 蘭は繰り返した。
 あしほは、何と返していいかわからない。
 蘭が自分をさらしている。その相手が自分であることを幸福だと思った。
 彼女に共感できるのが自分で嬉しいと思った。
「…ご、ごめんなさい…あのときは…」
「わかってる。謝ってほしいんじゃないお」
 あしほの焦燥に満ちた謝罪を、蘭はやんわり遮る。
「ただね、ただ寂しかったお。だって、会長も好きなら、それなら、もっと別なふうに仲良くなれたんじゃないかって…蘭、あのときから気になってた。ずっとずっと気になってた。けど、会長が、自分の趣味を周りに知られたくないのもわかってるから…だから、学校を良くする計画立てたんだお。それを一緒に実行できて、嬉しいお」
 こういう場合、どうすればいいのだろう。
 素直に喜んでしまえばいい。歓喜に身をゆだねて、それから…
 それなのに、紡がれたのは不器用な問いかけだった。
「御剣さん…あの、その…前から聞きたかったの」
「ん?」
「わ、私といて楽しい…の?」
「何言ってるの? 楽しいおっ」
「私も」
 ゆっくりと息を吐き出すように、あしほは告げた。
「あなたといるのが楽しい」
「うひっ」
 蘭は妙な声を出して笑った。
「絶対成功させるお! 台風がきても雷が鳴っても、ぜったい絶対だおっ!」
「うん」
 両手を掴まれて、あしほは頷く。
「よろしくね」
 彼女を頼りにしている。心からそう感じた。
 そのとき、指のあたりに触れる冷たいものに気付いた。
「…指輪?」
「あっ」
 会長が首を傾げると、蘭は慌ててそれを引っ込めた。そう言えば彼女はいつでも紙でできたような玩具じみた指輪をつけている。それが今日は本格的なシルバーになっていたので、この生真面目な会長は吐息した。
「貴金属はだめだっていうのに。まあ御剣さんの校則違反は、今に始まったことではないけれど…」
「まあまあ。いいんだお」
「良くない」
「えへえ。これは大事な指輪なんだおっ」
 でれっと眦を下げるので、あしほは何も言えなくなった。
 もしかしたら、恋人や何かからもらったものだろうか?
 それを考えたとき、何故か、少しだけ呼吸が苦しくなった。

 ☆

 定期考査が終ると、学校は夏休みに入る。その間に生徒たちは学園祭の準備を進めることになる。
 だが、長期の休みに入ってしまえば、生徒全体の集合する機会は失われる。
 だからこそ、企画の提案は定期考査前の時期を活用する必要があった。
 例年の学園祭といえば、模擬店や教室内での催事や展示。それから講堂のステージを利用したプログラムが組まれる。軽音からブラスバンドまで、クラブごとの演奏披露や、有志劇などだ。生徒会は予算組みや場所取りの調整といった事務処理にまわり、裏方に徹するのが常だった。学園祭の全体をプロデュースするような派手な立ちまわりはしないのが従来の方針だった。
「やると言ったはいいものの、一考の余地はありまくるわ…生徒会が学園祭に介入することを認知してもらうのも課題ね…」
 蘭とあしほは向き合って座っている。しかし、生徒会室ではない。
 放課後の喫茶エターナルだ。
 話し合いのため、あしほが御剣家の住居権店舗に学校帰りに立ち寄る機会が増えていた。
「そもそも利益重視でのイベントなんて学校の文化祭の本質と真逆だから抵抗がある…」
 生徒会長は苦悩する。
 蘭は、何か考えているのか、何も考えていないのか、みかの淹れたアイスティーをちるちるとストローで吸っている。
「豊田先生は何て言ってるお?」
 そもそもが発端となったのはあしほの姉のしのぶの発言だ。彼女は投資もするし、リスクも負うと言い切った。
 ただ、さすがに、既に学院に学費を投じ、あるいは寄付金をつけて、大切な子女を預けている保護者たちの財布を軽くさせることはしたくない。その抵抗感はしのぶも否定しなかった。道義に反するし、第一、彼らから期待できる収入そのものに限度がある。
「姉さんも概ね同じ考えよ。だから、実際的にお金を払う人たち…学外からの入場者を増やそう、いつもより派手に広範囲な広告を打とうって言っているの」
「広告?」
 あしほに珈琲を運んできたなこが、首を傾げた。なこもまた同じ学院の生徒であり、何よりも姉と会長のために協力を惜しまないと宣言した。
 調理台に向かっているみかも、学外の者ではあるが、何か出来ることがあればと申し出た。カウンターの向こうで耳を澄ませており、なこに続いて疑問を投じた。
「どんな広告ですか?」
「それをこれから決めるの。姉さんが提案してくれた案は使えないものばかりだったから。テレビやラジオでCMを流そうとか、この街の商店街をジャックして看板を学園祭の告知で占拠しようだとか、この学校を舞台に映画撮影をさせようだとか、いくら出資してくれるとはいえ誇大広告なのよ、あのふんどし」
 あからさまな罵倒で話をしめくくる。
「うー…適正な範囲で広範囲に影響のある広告かあ…難しいお」
 蘭は腕組みした。
「確かに宣伝は大切なの。一般客の方が圧倒的に、その…金銭面でも期待できる」
「…でも、会長は乗り気じゃないでそ?」
 問いかけられて、あしほは頷く。
「こうなった以上、手段は選べないと思うけれど…一般の人たちよりも、学園全体のなかで収益を増やせないかと考えたの。ほら…うちの学園は幼稚舎から短大まで及んでいるのだから、その界隈からの父兄や生徒も招ければ、もう少し…と思ったのだけれど」
 ふう、とあしほは吐息した。
「けれど、毎年、学園規模での宣伝はしているし、高等部の学園祭を行う時期にはそれぞれの学部も何らかの催しや試験があって、結局集客率は毎年同じになるのよね…そのあたりは、学院に集中するように交渉してみるけれど、限度があるわ」
「ふむう。ところで、会長…」
「なあに?」
「板橋先生の新作読んだ? 雑誌の応募者全員サービスどうする? 『暴君!』ドラマCD応募する?」
「ああっ、あれいいわね。カフェの従業員とオーナーの恋でしょう? 舞台が絶対吉祥寺よねそれは萌えるわよねあれは萌えるわよね。全プレは楽勝で応募するわ」
「声優がまたさあ」
「外してないわねぴったりだもの絶対に主人公は岩肌哲矢さんでミットど真ん中だと思うわ」
「お二人とも」
 自然な流れで腐ったトークを展開させはじめた二人の背後に、冷気が漂った。
「文化祭のお話は?」
 引きつった笑顔のみかが立っていた。
「あ、そうだったお!」
「失礼したわっ」
 このように、話が煮詰まると萌えトークを展開させるのは初めてではない。その都度、みかやなこが突っ込みにまわっている。
 もっと言ってしまえば、近頃では放課後に二人きりで生徒会室にいても終始萌えトークに花を咲かせておしまいということがあった。
 これではいけないという危惧を抱いたあしほが、第三者のいる喫茶エターナルを合議の場に選んだのも自然なことではあった。
「あしほさんのお姉様の考えは間違いではないと思われますが、経営の経験はおありでしょうか?」
「へ?」
 みかが憂いを帯びた表情で、蘭の隣に腰掛けた。もちろん他に客がいないからできることだが、すぐに立つつもりらしく座りは浅い。
「姉が何をしているか詳しくはないけれども、そう言われてみれば、あまり…」
 しのぶは、経営者というより投資者だ。
「お金を出す側ではあるけど、会社の品質管理だとか、経営については別の人がやっているはず…」
「なるほど、それでは考えが及ばないのも自然かもしれませんが…問題はコストではないでしょうか。結局のところ宣伝費用にお金がかかっては、収益からその分差し引かれてしまいますわ。利率が下がるばかりです」
「お、おおー…」
 蘭が拍手する。
「喫茶店の会計を任されているだけあるでしょう?」
 みかは得意げだ。
「さ、さすが、みかお姉ちゃん。社会的精神的に自立した乙女は言うことが違う…」
「ありがとう、なこ。褒めても何も出ないけれどね」
「ああん、残念」
 きゃるん、となこは肩をすくめた。
「で、でも、お金かけないで宣伝なんて難しいんじゃないかなー」
 泣き言を言うなこに、みかは微笑みかける。
「そんなことないでしょう。お金をかけないでも宣伝できる逸材が、学院には大勢いらっしゃいます」
「! それは…」
 察しのいい会長は、みかの言わんとすることを見抜いた。
「人脈、ね?」
「ええ。生徒たちの手を借りるのがいいと思います」
「でも、クチコミでは限度があるわ。やっぱり学園祭の中身を盛りあげるテーマというか、目玉が必要になってくるはずだし…」
「もちろんそれは後の課題として、宣伝させたくなる引き金が必要ですが…昨今、生徒たちはクチコミだけで交流を行っているのではないのではありませんか? 例えば動画作成やブログ、イラストのSNSやインターネットラジオ…」
「確かに色色とツールはあるお」
 蘭がぽんと手を打った。
「思いついたお! 賞品だけで…最低限の出資で済む方法!」
「賞品? そうか!」
 あしほも瞳を輝かせる。
「なあに? わかんない」
 なこは拗ねた顔をする。
「私、わかりました」
 みかが得意げに胸をそらすと、更に頬を膨らませた。
「何よう、みかお姉ちゃんずるい。乳首つねる!」
「おやめなさい!」
 本気で腕を伸ばしてくるなこをガードしながらも、みかは教えてやる。
「コンテスト! そうですね? お二人とも」
 交互に二人の顔を見る。あしほと蘭は頷いた。
「宣伝コンテストを開くんだお。絵が描ける人からは文化祭のイメージキャラクターを募集するだとか、そういう具合に部門ごとに設けるとよさそうだお。賞品はなるべく生徒たちが欲しがりそうなものにして」
「宣伝合戦ってこと?」
 なこはようやく理解した。
「そういうこと。何でもいいから文化祭の宣伝において効果をあげたと思われる技能を発揮した生徒に賞品を出すの。賞品以外にも何か少し特別な栄誉を与えるのもいいかも。MVPには、文化祭をフリーパスで遊べる権利を、とか…」
「あしほさん、素敵…」
 きらきらとなこが熱視線を会長に送ると、その視界を蘭がコースターで遮った。
「邪魔しないでよう、お姉ちゃん」
「見すぎだお! 見すぎだお、絶対! それに発案者は蘭とあしほだお!」
 興奮気味に抗議する蘭と不機嫌に陥ったなこを尻目に、みかとあしほは話を詰めていく。
「あとはね。どうせなら隣接しているお寺に人を集められないかなって思ってるの。本山ではないけれど、憩いの場にもなるから、学園祭のときは毎年有志主催のお茶屋さんを出すの。ここのお賽銭が増えれば税金もかからない分利率がいいし…それに直接的に学内で商売っ気を出すのはやっぱりためらってしまうから、もう少し生かせないかなって…甘いかもしれないけど…」
「いいと思います。こういうのはどうですか? 寺院の敷地にブースを用意して均等な面積で各団体からの宣伝スペースを設ける。それを見て来訪者が行きたい催しを選べるようにする…というのは?」
「あ、それはいいかも」
 熱が入ってきた二人に取り残されまいと、蘭もはいはいと挙手した。
「とにかく人が訪れればいいお? 蘭、たまに同人誌の即売会で参加することあるけど…こういうのは? 学園内の要所要所にスタンプを置いて、そのスタンプの個数に応じて景品を渡すお。その台紙と景品の受け渡し所をお寺にすれば…」
「スタンプラリー? そっか、名案かも!」
 それなら参拝者も増やせる。その上、ラリーを設置する箇所を模擬店などの収益の多く見込まれる地点に絞れば相乗効果が期待できる。文化祭のメインイベントとして宣伝材料にもなる。
「うひっ。蘭、偉い? すごい? 腐っているだけあるお?」
 からかい気味に蘭が会長の顔を覗き込む。
 すると、今までにない反応をあしほが見せた。
「うん。ありがとう、蘭!」
「え」
 ぎゅっと抱きしめられて、蘭は固くなった。
「あ…」
 あしほははっとして、慌てて蘭の両肩を掴んで身を引いた。
「ご、ごめん。つい…」
「う、ううん。嬉しいお」
 蘭は真っ赤になりながらも、あしほから視線をそらさずに告げる。
「会長が名前呼んでくれて、嬉しいお」
「そう? よかった…」
 照れくささに二人は目をそらした。
「それでね、みかお姉ちゃん。セーラールーンの変身アイテムはやっぱり二期からのティアラが神だと思うの」
「あれはディテールが素晴らしかったわね。でも再現するなら一期のロッドの方が断然正しいわ」
「どうしておまえらはそう台無しにするんだお? 台無シストかお?」
 仲が深まったところでまたしてもオタクトークで邪魔をされて、蘭はぼやいた。けれど、あしはは笑うばかりだ。
「ありがとう、三人とも…設備は私が生徒会に交渉します。資金は姉さんが負担してくれるって言ったけど…私たちのものにしたいもの」
 あしほの言葉に、三姉妹は頷いた。


 青い空。青い海。
 そして輝く太陽のもと、その屋外広場にはさまざまな服装の人たちが集っていた。
「なこ、ぐうかわ! 『お弁当一緒に食べるです?』ってお言いなさい! あと目線はこちらへ!」
 みかが冷静に指示を飛ばしながらもカメラのシャッターを連続的に切りまくる。
「ららら、蘭…『れとさむ?』って言ってみてくれない?」
 あしほも震え声で蘭に懇願する。
「れとさむ?」
「「ぐ、ぐうかわあああ!」」
 みかとあしほの声が重なる。そこへ一声。
「きわどーーーい!」
 冴え渡る突っ込みは、斧田有子から発せられた。
 定期考査をつつがなく終え、あしほたちは、夏休みを迎えていた。あしほの特訓のおかげで、普段は成績のよろしくない蘭もどうにか補講を免れた。
 八月の半ば。さる大規模展示場に彼女たちは立っていた。
 その会場には唯一無二のキャラ愛に生きる者たちが、炎天下を更にヒートアップさせる情熱を胸に結集していた。この展示会の名はコミックサミットと云う。略してコミサとも呼ばれる同人誌即売会だ。
 三十年以上の長きに渡り愛されてきた有志の集いで、開催は年に二回。お盆と正月に行われる。会場に於いて企業利用がないピンポイントな時期が選択されるため、極度に過酷な真夏と真冬がその開催日となる。
 規模は年々大きくなり、会場も何度か変わってきたが、現在では東京湾に接する国際展示場に拠点が置かれている。
 海をはるかに眺める位置の会場だが、中身はみっしりと隙間なく隅々まで文化系の催し。時期的には夏休みであるものの、当然、水着姿も見受けられない。だが、それを補って余りある愛らしい格好で、なこと蘭はそこに立っていた。西側の屋上展示場に集うコスプレイヤーの群れのなかだ。
 水着ではない。しかし、きわどい。
 色色な意味できわどい格好でそこにいた。
 付き添いでやってきた有子が、地面の上に悶えながらもんどりうつという状態に陥るほどに。
 なこは髪をふわりとおろして、両脇を赤い大きなリボンで留めている。白いブレザーに、やはり大きめで薄淡い色のリボンタイ。スカートはミニのプリーツで、白地に薄手の赤と水色のチェックが入っている。ローファーに黒いガーターストッキングという絶対領域が必然的に眩しく輝く制服。そして、両手にはハートのあしらわれたフラグを持っている。どこから見ても愛らしいお嬢様がそこにいた。
 蘭の金色の髪はエクステンションでいつもよりボリューム感のあるシルエットが演出されている。フリルの愛らしいヘアタイとエプロン。首にはリボンのタイ。肩の出るドレスワンピース。腕の付け根の膨らんだ袖。ワンストラップシューズにレースの靴下。そして、尖った耳のレプリカをつけている。どこからどう見てもハーフエルフのメイドさんがそこにいた。
「きわどい! きわきわ! 非常に! きわどい!」
「す、スカートの丈が…?」
 あしほが首を傾げた。
「ではなくてではなくて!」
「か、かわいくないですかあ?」
 なこも頭上に疑問符を浮かべている。
「かわあいいのお! でえ、はあ、なあ、くううううう!」
 有子はその場でゴロゴロする。まるでだだっこだ。
 すぐにスタッフが飛んできて、注意指導を受けた。会場は企業イベントではないため参加者一人ひとりの良識に基づいて運営される。そのため、あからさまに往来する人々の邪魔になり、混雑を更に招くような迷惑行為は即刻強制退去されてもおかしくない。ひとしきり反省を促されたのち、スタッフが去ると共に有子は補足する。
「なお、この物語はフィクションであり実在の人物・団体には一切関係ありません。また、床に転がるような行為は真似なさらないようご注意願います」
「誰と交信しているの?」
 今日も今日とて侍女の独り言が心配でならないあしほだ。
 蘭があしほをこの大規模な集いに誘ったとき、あしほは二つ返事で頷いた。一度は参加したいと思っていたのだから当然だ。己の趣味をクローゼットに仕舞いこんでいるがために、同伴できる友もおらず、未成年であるため一人きりで参加するのも躊躇され、切ない思いで見送ってきた催しだ。
 もちろん遊ぶためだけではない。
 いくつかの大義名分がある。
 ひとつには、文化祭の運営に参考となりそうなヒントを探すため。
 もうひとつは、みかの『女の子コスプレさせたい欲』を満たすため。
 コスプレは、自己表現だ。コミサの本質はあくまでも同人誌即売会であるが、自己表現の一環として公認されている行為であり、そのコスプレイヤーを目当てとする一般参加者も少なくない。発祥時は、同人誌を頒布しない者の表現に対して否定的な意見も多かった。賛否両論あるものの、現在ではコミサに馴染み深い文化として定着している。
 蘭もなこも楽しそうだ。
 実はみかの欲求を満たす対象として、あしほも、さる学園小説の生徒会の会計で探偵もこなすキャラのコスチュームを着てくれないかと頼まれていた。だが、あしほは丁重にお断りした。学外でのコスプレが躊躇されただけではない。付き添いがいる以上は、断るよりほかになかった。
 そして、最後のひとつが、あしほにとって最も重要なことだ。今日の第一の目的はコスプレではない。あしほは自然とそわそわしてしまう。
「うん? 会長、どしたお? おしっこ?」
「ち、違うったら。だ、だって…スペース離れて全員で来ちゃって大丈夫だったかなって…」
「ああ」
 蘭は頷いた。
「確かに早く戻った方がいいお」
「ですから有子めが留守番を申し出ましたのに」
「大丈夫ですよお。お金は持ってきてるし、布はかけてありますしっ」
 なこが有子の腕にじゃれつきながら宥めた。
 今回のコミサ行きにあたり保護者として付いて来た有子を、なこは一目で気に入ったようだ。
「そうそう。それに、会長のストーカーさんには頼みたいことがあるお」
「私の名前は斧田有子と申しますのよ、蘭様」
 笑顔で有子は蘭に諭した。
 朝からこの訂正を数回は繰り返している有子だ。あしほの送り迎えや、保護者代理の用向きのある折に、豊泉寺学院を行き来することの多い侍女だ。蘭もその人を見知ってはいたが、改めて対面するのは今朝が初めてだった。
 しかし、待ち合わせ場所と定めた駅の改札前にあしほが有子を伴ってあらわれたとき、その同伴を知っていたにも関わらず蘭は攻撃的な態度をとった。終始、有子をこう呼ぶのだ。
「わかったお、ストーカーさん」
「うふふ、蘭様ったらこのクソガキ」
 一触即発の空気に、ほかの少女たちはごくりと唾を飲む。
「ちょ、ちょっと…蘭。いい加減になさいな。有子も落ち着いて」
 あしほが間に入ると、蘭はむーっと押し黙る。
「どうして有子をそんなに邪険にするの?」
 あしほが諭しても、もじもじ俯いてしまうばかりだ。
「蘭お姉様は嫉妬しているだけなんです。姉が申し訳ありません」
「蘭お姉ちゃん、あなたが羨ましいんです…有子さん、ごめんなさい」
 妹たちがこもごも庇い、謝罪を述べるので、有子も強張った頬を緩めるしかない。
「蘭様はあしほ様が余程お好きでいらっしゃいますのね」
「う、うるさいおっ」
 蘭は耳まで赤く染めて怒った。
「か、会長、今のは気にしないでいいお」
 ごまかすように笑いながら会長に目線を転じると、今度は会長が俯いていた。
「会長?」
 不安になって覗き込むと、あしほもまた顔を赤く染めている。それから顔をそむけた。
「会長…」
 照れている。
 その反応に蘭は呆けてしまう。
「ひゅーひゅー、お二人さん、熱いぜ」
 慣れない口調、即ち棒読みだが、みかが野次を飛ばすと、なこも便乗する。
「ひゅーひゅーだぜ!」
「今時その冷やかしはどうなんです…」
 呆れるばかりの有子の両手を、不意に蘭が握りしめた。
「蘭が悪かったお、斧田さんってちゃんと呼ぶお」
 会長の反応に気をよくしたのだ。
「嬉しいですわ、蘭様」
 ほっとして、有子は微笑んだ。
「ところで、有子もここに連れてきた理由って?」
 二人の様子に安堵して、あしほが問う。
「あ、そだお。写真!」
 蘭はぽんと有子にカメラを渡した。
「四人集まったところは、五人目がいないと撮影できないでそ。お願いしたいお」
「そういうことでしたの」
 有子は納得して、撮影にちょうどいい位置を探しはじめる。
「わあい、写真! なこ、写真大好き!」
 なこが蘭とあしほの手を取る。みかがその脇に立つ。
「え、え、え」
 あしほはわらわらと自分の周囲に集い身を寄せる三姉妹に問う。
「で、でも、お邪魔じゃ…家族水入らずのが」
「何言ってるお。それも撮るけど、まずはみんなで撮影するおっ」
 蘭の声があしほの脳内で反響する。
 みんなで。
 みんな。
 その中に自分が含まれていることを知って、あしほはぽうっとなった。
 その陶然とした表情のうちに、有子が合図を送り、いつの間にかシャッターが切られていた。会長は大慌てだ。
「わ。私、ぼーっとしてたかも」
「じゃ、もう一回撮る? 蘭とツーショット!」
 蘭がぎゅっとあしほにくっついた。なことみかが、二人から離れる。
「え」
「ほら、笑顔笑顔」
 蘭がその頬を摺り寄せる。くすぐったい感触に戸惑いながらも、会長は笑みを浮かべてみせる。
「はい、チーズ!」
 有子の掛け声とともに、青空にシャッター音が響いた。
 代わる代わるに、色色な組み合わせで少女たちは記念撮影をする。最後には有子もまじえて、華やかな撮影となった。
「あ、あとで、焼き増ししてもらえる?」
 ホール内の自分たちのスペースへ戻る道すがら、おずおずとあしほが尋ねる。
 蘭は笑って頷いた。
「もちろんだお!」

 ☆

 スペースに大勢でいてもすることもないし、少女たちの隙間に座るのが気恥ずかしいからと、有子はあたりの視察へと向かった。もともとはそれが目的だったので、あしほも行くと申し出たが、スペースでの定点観察を楽しめばいいと甘やかされてしまった。
 自分たちのスペースに近づくにつれて、あしほの顔には緊張と興奮がないまぜになった顔つきになっていく。
 コミサを開催期間中に訪れる人々の数は一日あたりでものべ二十万人を越える。通常は三日間開催されるため、合計すればおおよそ六十万人。現在は企業形態をとっているが、開催者は有志組織であり、切り盛りするスタッフも全てが無報酬。規模が大きくなるにつれ、その草分け的な精神が希薄になり、企業に求めるようなサービスを要求するお客様意識の強い参加者も増えている。だが基本的に参加者は全員が有志とみなされる。
 会場内にスペースを確保して同人誌を頒布する側は、サークル参加と呼ばれる。一方で、創作物を発行せず開場に併せて入場する参加者は、一般参加と呼ばれる。彼らの間に金品の授受はあるものの、サークル参加者による創作物の提供は販売でなく頒布とあらわされる。
 あくまでも、コミサは営利目的でなく表現を目的とする場だ。
 その表現手段の要…同人誌がこれから戻る場所にある。
 それだけであしほはときめきが抑えきれない。
 午前中も三姉妹の後ろで頒布の手伝いはしたものの、まだその興奮が冷めやらない。
 朝、この広い空間に、延々と机の並ぶ開場の中から自分たちの居場所を探すだけでもときめいた。森閑たるホールに、これから自分と趣味を同じくする人たちが集うと思うだけで感無量だった。机の上にどっさりと詰まれた印刷所のチラシを片付ける作業も、印刷所から届いたばかりの新刊の詰まった箱を引き取りに行く作業も、何もかもが新鮮だった。
 そう。一般参加ではなくサークル参加をすること。これが最も重要な目的だった。
 サークル参加は、同人誌の頒布を目的としている。
 このコミサへのサークル参加は数ヶ月前からの申し込みと入金が必須だ。例え申し込んでも必ず受かるとは限らない。サークル参加に対する倍率は高いので、スペースの確保は抽選となる。抽選式だから、スペース確保できることは当選と言うのだが、コミサではそれを『当たる』ではなく『受かる』と云う。
 つまり、サークル参加するにあたり、事前に申し込みをしており、夏のコミサに『受かって』いた人物がいるのだ。
 スペースに近づくにつれて、あしほの足は早歩きになる。会場内を走ることは禁止されている。とはいえ、後ろから付いてくる蘭たちも心配になる競歩のような速度だ。
 誰よりも早くあしほはそのスペースに戻ると、机の下を覗き込んでダンボールの蓋を開いた。
「あ、良かった」
 ほっと、あしほは一息ついた。
「そんなに心配しなくても大丈夫お」
「でも、盗まれちゃうこともあるっていうから」
「ほら、お姉ちゃんが脅すから」
「ごめんおおお」
 追いついた蘭たちが話しかけて、場は一気に賑々しくなる。
「良かったあ、ふも。さんの新刊っ…」
 いとおしげにあしほは目を細めた。
 そう。
 そのスペースは、彼女の愛好する作家『ふも。』の確保したものだった。蘭から、彼女の確保したスペースで売り子をしてほしいという話を聞かされたときは興奮した。軽く涎を垂らさんばかりに、目を輝かせた。生憎、本人は参加できず会うことはかなわない。だからこそ売り子をしてほしいという依頼につながったのだから、複雑な心持ちでもあったが。
「しっ。今回は『ふも。』さんの名前は秘密お」
「あ、そうか」
 蘭が唇の前に指を立てる。あしほも口に手を当てる。
「たまたま今回はボーイズラブの本じゃなくて良かったでそ?」
「ええ。有子に付き添いを頼めないところだったもの」
 顔を寄せ合って、二人はひそひそと話し合う。
 平生は『ふも。』という名前で活動している作家だが、今回はペンネームもジャンルも変えてのお忍び的なサークル参加だった。基本的には大手と呼ばれる人気作家だ。大手サークルは行列ができるため、壁際に配置されることが多い。そうなると売り子も大量に用意されなければ頒布の行列は捌けない。
 しかし、今回の参加は『ふも。』という商業利用のペンネームは利用せず、あくまで趣味としての参加だった。大仰な頒布は行われないため、その状況があしほらの目的にも合致した。蘭を含めた三姉妹は即売会への参加も初めてではないが、あしほは初体験だ。初心者にとって夏のコミサは過酷な環境であり、刺激も強く、注意事項も多い。平生の参加状況であれば折りよく売り子に入らせてもらうことはかなわなかったかもしれない。
 けれど、今回はむしろ目立たない方がいい。
 あしほたちの参加目的にも同意してくれた上での売り子の依頼となった。利害の一致だ。
 荷物を見ていると申し出てくれた隣のサークル参加者に、少女たちは御礼を述べながら席に戻った。一日きりの催しとはいえ、長時間ひとつの場所に陣取るのだから隣人との交流や挨拶は大切だ。迷惑をかけないようにするのが基本だが、蘭たちの外出に関する相談を聞いて、全員行ってらっしゃい、見ていてあげると送り出してくれた隣人には感謝するばかりだった。
 蘭は、机上にかかっていた布をおろした。スペースの机は裸だと味気ないので、テーブルクロス代わりの布を持参する参加者がほとんどだ。この布が案外と重宝される。留守中に本の上に覆いとしてかけておけば、訪れた人が見ても留守にしていることが一目瞭然だし、一応の防犯にもなる。
 外の様子を隣の参加者と話しながらお菓子を交換し合ったり、仕舞っていたおつり用の小銭入れを出して、再び頒布の準備をしていたときだ。
「君っ! かわいいね! 撮影させてよ!」
 机の前にあらわれた男性が、蘭の腕を取って話しかけた。まるで通り魔のようにそうしたのだ。あしほには何が起きたかわからない。既に彼はカメラをかまえて、撮影の体勢を取っている。
 挨拶も何もなしだ。
 あしほの胸は凍り付いた。言葉をなくして立ち尽くす。
 反射的に、なこが蘭の前に立ち塞がった。
「ホール内でのコスプレ撮影は禁止ですよっ。禁断のレインストームです!」
「うるせえな! おまえには声かけてねえよ! こっちの子だよ!」
「すみません。ルールは守ってください」
 みかも加勢するが、男は蘭の前から立ち去ろうとしない。それどころか平然とシャッターを切ろうとする。
 考える暇はなかった。
 動物には動物的な反応で対処するしかない。
 あしほは、勢いのある仕草で腕を伸ばし、カメラを彼の胸に掌で突き押した。
「うぐっ!?」
 押し付けたのは遠心力で密着させてカメラが壊れないようにするためだ。男はあしほが身を屈め、自分のそばに擦り寄ってくるのを見た。次の瞬間、軽々とあしほに背負われていた。空中で一転する。風景がまわる。
「か、かいちょ…!?」
 強張っていた蘭がようやく反応して声をあげる。
 柔術だ。
 胸や尻が膨らみはじめた中学生の頃、防犯のためにしのぶから教わったものだ。
 今まさに男は背中から地に叩きつけられそうになる。しかし、その背を固いアスファルトから救い、その体躯を両腕で受け止める者がいた。
「危ないな」
 強張っていた蘭の形相がたちまち険しくなる。
「! お、おまえっ…」
 その人物は蘭に目もくれずに、あしほを一瞥して微笑む。
「油断ならないレディだね」
 誰あろう、鷹取の姿がそこにあった。
「な、何だ。お、お、降ろせ!」
 いきなり少女に背負い投げをかけられ、次の瞬間、屈強な青年に抱きとめられ、男はパニック状態に陥った。お姫様抱っこの格好で抱えあげられてしまい、周囲から参加者たちのひそひそ声や笑い声が聞こえてくる。
 しかも、青年が熱のこもった眼差しで見つめてきた日には震えあがるしかない。
「いけない坊やだ。僕を撮影してみるか? 歓迎するよ」
 青年は、いかにも攻め攻めしい重低音ボイスでそう諭した。
 少女たちが主たるスペースを占める場所で息を呑んで見守られながら、彫りの深い顔立ちの男に頬を撫でられ耳元に吐息混じりに囁かれる。この状況に脳の認識が追いつかず、男は一瞬ぼうっとなった。あたりには薔薇の花が咲いたような空気が漂う。
 しかし、それも刹那の出来事だ。
「ややややめろおおうううう! 俺にやおい趣味はねえええ!」
 やおいとはボーイズラブと等値の言葉だ。ボーイズラブという言葉が浸透してからはあまり用いられていないが、やはりコミサから輩出された文化だ。主にアニメパロディを描いたホモ同人誌が発祥時にやおいと表されていた。やまなし、おちなし、いみなし、の略だ。ストーリーはなく、男同士の懇意なさまを描いているだけなのでそう呼ばれる。
 その言葉を用いたことから、男のコミサへの参加歴の長いことが伺われる。
 だが、コミサへの参加歴とルールへの理解は必ずしも比例しない。その悪しき一例だった。
 男は水からあげられた鯉のようにもがいた。青年は彼を降ろしてやる。
「き、気持ち悪いんだよっ! どうせ腐女子目当てだろうが! ホモ気取りのナンパ野郎! イベントを汚すんじゃねえ!」
「ああ。悪いけど僕はガチだ。最近そういう人たちもいるみたいだけど」
 青年は苦笑いする。
「何自慢げに笑ってんだ! ガチホモかよ、余計に気色わりい!」
「自慢してるように見えたら錯覚だよ。僕にはこれがただの自然現象で真理の摂理」
 青年は威圧的に言い放った。
「だが、そっちこそ子種は残せないんじゃないか? 下種野郎」
「ぐっ…」
「さっさと行け!」
 端正な顔立ちに野生的な迫力があらわれる。その目ですごまれ、カメラ男はそそくさとその場を離れた。人ごみに紛れて逃げて行く。誰が見てもみっともないことをしたと自覚したのだ。
「災難だったね。サークル『永久』さんはこちらかな?」
「は、はい、確かに、そうですけれど…」
 突然あらわれた青年に、あしほは頷いた。
「大丈夫? いけないよ。いくら何でも衆人環視の前であんな技をかけたら…スタッフから後で確認が入るだろうね」
 これだけの人が見ているのだから、危険を察知した参加者が既にスタッフに伝えているかもしれない。だが、その到着を待っていたら、蘭に対する本意でない撮影を許していたはずだ。
 それは悔しい。
 そう感じはするものの、あしほは俯いた。それは全て感情のことだ。
 この催しの全体のことを考えれば彼が正しい。いきなり柔術をかけるよりは、スタッフを呼んで助けてもらう。そうするべきだっただろう、と。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
 きちんと御礼を述べて、あしほが頭を下げる。いいんだよと青年は微笑する。
 彼の傍らには綺麗な顔立ちの少年がいる。
 あしほは改めて二人を見つめてしまう。何のコスプレかはわからないものの、王子と騎士の格好で、青年はいかにも大切そうに少年を背後に守っている。つまり要するに主従を想起させる空気感が、とてもホモホモしい。
 あしほたちのいるジャンルはボーイズラブがメインではないが、コミサにいる以上、その手の組み合わせを嫌いな者は少ない。あたりのスペースに着席してる女子たちや通りすがりの者すら目で見送るほど、彼らには雰囲気があった。あしほは、束の間凝視してしまう。
「ん? 僕らに興味があるかな」
 彼が傍らの少年の肩を掴みぐっと引き寄せる。すると、周囲の少女たちから、きゃあきゃあと黄色い声があがる。今度は自分が撮影をお願いしたくなってしまいながらも、あしほは振り向いた。
「い、いえ。失礼しました。ほら。みんなも御礼…」
 御礼を言わないと。そう言いかけたが、あしほの声は途切れた。
 三姉妹は応じない。それどころか、野犬か、というくらいの形相で青年を睨んでいた。
「そいつに近づいたらだめだおっ」
「あしほ様、こちらへ」
 みかが手早くあしほを匿う。
「何しに来たおっ」
「つれないことを。君らのサークルの本を求めてきたんじゃないか」
「嘘をつくなっ!」
「随分だ。ここは感謝してほしいところだな。危ないところだったじゃないか、お姫様」
「うるさいおっ! 関係ない!」
 どうやら知り合いらしいと、あしほにも察せられる。しかも、いい関係が築けていないようだ、とも。あしほには柔らかな面差しを向けていた男が、あからさまに冷淡な態度をとることからもそれは伺えた。
「おや」
 青年は不意に蘭の手に目を留める。強引にその掌を掴んで引き寄せた。
「へえ。形だけでもさまになってきたじゃないか」
「離せっ!」
 青年の視線から逃れるように蘭は掌を引っ込める。青年から、先刻までの親切心は一向感じられない。圧迫感しかない。
 あしほは、固唾を呑んで見守る。
 すると、青年はそちらに視線を転じた。
「あなたは彼女のご友人で?」
 あしほは、問われてきょとんとなる。
 友人か? そう問われるのは初めてではない。
 蘭が固くあしほの掌を握りしめてきた。彼らからは見えない位置で。
 ――震えている。
「蘭…」
 途端にかあっと血がのぼるのがわかった。
 事情はわからない。
 けれども、蘭が困っている。いや。怖がっている…
 それを実感した途端に、頭のなかが真っ白になる。こんなにまで怯えている彼女は、見たことがない。胸にいらだちを覚えた。冷酷と言えるような、ほの暗い怒りを覚えた。
 あしほは、蘭の掌を強く握り返す。蘭が驚いて振り向く。その隙にあしほは青年の前に立った。
「どういうご関係かわかりませんがお引取り下さい」
 この言い切りの口調に、蘭も青年も瞠目する。
「か、会長…?」
 決然たる眼差しで、あしほは相手を見あげる。
「さっきはありがとうございました。それについては御礼を申しあげます。けれども、彼女は私の友人です。意地悪するならいくら恩人でも許せません」
「へえ。許さない、ではなく、許せないときたか」
 あしほの強い眼差しにも動じず、青年は嘲りの笑みを浮かべた。それにどういう違いがあるのか。あしほは、いらだった。
「上出来だ。なあ、お姫様…」
 またしても彼は蘭をお姫様と呼ぶ。そこに含まれる完全な軽蔑に、あしほはもう怒鳴りそうになった。
 しかし、青年は唐突に不遜な態度を改めた。綺麗な仕草で一礼したのだ。
「どうやらお邪魔したようです。ボーイズラブを愛好する心は失われないよう…またお会いするかもしれませんね」
 騎士の格好の青年はさりげなく王子の肩に腕を添えると、踵を返した。王子の格好の少年はこちらを気にするように振り向いた。だが、何も言わずに彼に導かれるままに歩いていく。
「ま、待って! どうして、私がBLを好きだって知って…!」
 思わず追おうとするあしほの前に、蘭が正面から立ち塞がる。
「行っちゃだめだおっ」
 縋るような顔つきだ。蘭のこんな表情は初めて見る。
「追わないで…あの男は、絶対」
 そう言いながら、不安げに抱きついてくる。
「ら、蘭?」
 もちろんあしほの行く手を遮るためだとわかっているが、泣いているようにも見えてあしほは焦る。
「追わない…あなたが言うなら」
 何だかひどく目まぐるしい状況を切り抜けた気がする。まだあしほも胸が動悸していたが、今は蘭の気持ちを尊重したかった。そんな顔しないでと、あしほは笑ってみせた。この場にいられることが一番大切だ。
「私、あんな酷い参加者や、あなたが会いたくない知り合いがいるなんて思わずに来てしまったの。ごめんね…彼は、見られたくない相手だったのでしょう?」
「ら、蘭も、あいつらがいるなんて思わなくて…えう…でも、あいつらは、その…う、うまく、い、言えないけど…巻き込んでごめんおっ」
「蘭」
 蘭が混乱しているのは、わかった。
 会いたくない人に会って動揺している。
 それがあしほに敬意を示したものだから慌てている。あしほの前で険悪な空気を醸してしまったことを言い訳しようとしている。全部、全部があしほには伝わっていた。
「あなたに感謝してる。あのとき、書店で会えてよかった。色んな命令してくれて、お願いを聞いてくれて、今日ここに来れて嬉しい」
 そっと蘭を抱き寄せて、あしほはずっと言いたかったことを告げた。
「だから何も聞かない。それより一緒にスペース巡ろう?」
「う、うん。ま、まままだこれからが本番だおっ」
 蘭は熟れたトマトのようになる。
 なことみかは、それを見守りながらも、互いの顔を見交わした。
 弱りきった表情で。

第四章 群れる羊 はぐれる狼

「こう考えようーー在るものは、実は非在く、非在いといわれるものが、実は在る。バイ、ルーバイヤート」
「しのぶ様、仏教から引用しないでよいので?」
「固いことを言うな」
 満足げにしのぶはあたりを見渡す。肩に掛けているのは白衣ではなく法被という浮かれきった装いだ。付き従っている有子は部外者だが、本日は堂々と校内を闊歩している。
「大成功だな、妹の為したことは。たこ焼きもうまい」
 文化祭当日だ。
「しかし、スタンプラリーの賞品の代金だけとは…あれだけのローコストでこれだけの効果をはじき出すとは思わなかった」
 美術教員は、ビニールパックからたこ焼きをひとつ口に放り込む。
 二人は寺院の敷地内を見てまわっている。
 既に文化祭は二日目の一般公開日を迎えていた。初日の参加者は生徒たちのみの学内開催であったため、あしほにとっての勝負は本日が本番だ。学園祭は、予想以上の盛況を呈していた。
 あしほはコミックサミットの後も何度も御剣姉妹と協議を重ね、夏休み期間中も宣伝コンテストの動向に気を配っていた。
 夏休みが明けると、コミサの経験を生かし、運営委員会の教育を徹底して行った。生徒会では、各クラスや部活動、有志グループ間の動向や準備の進捗状況が見えるように俯瞰的な広報活動に力を入れた。それぞれの催事もしくは展示の内容がばらばらでも、協力しあえるところはそれができるよう、各自の情報交換をしやすいようにと配慮した。コミサスタッフたちの尽力やサークル間の連携など、あしほはきちんと日本最大の文化的催しから学んでいた。
「コミサへの参加は思った以上の収穫だったようです」
「よろしい。これで叔母様からの妨害工作でも入らなければな…」
「あかし様を疑うようなことを仰るのは感心いたしません」
 そのように咎めてくる侍女を、何とも言えない表情でしのぶは見遣る。
「或いは、おまえが何もしなければ」
「何を仰いますの?」
 有子は微笑んだ。
「私は何もいたしません」
「…おまえは、そうだろうとも。おまえ自身は」
「信じてくださらないと?」
「言ってるだろ。信じない。そう決めてる…」
 しのぶは肩をすくめた。
「おまえも、誰も」

 ☆

 校内の廊下を突っ切るように会長は歩いていた。それぞれの教室の前を通る度に、呼び込みの生徒たちに声をかけられる。
「会長! 綿あめ食べて行かれませんか?」
 法被姿の少女が、白い綿菓子を両手に掲げてきらきら笑いかけてくる。ありがとう、あとでね、と笑顔で応じる。
「会長! お化け屋敷! いかがです? うーらーめーしーやー」
 白い浴衣に特殊メイクでお岩さんを装った生徒が、愛らしく脅してくる。わ、怖い。あとでね、とにこにこ返す。
「会長! 古本のバザール、覗いていきませんか?」
「会長! 科学部の実験カフェ、いかがです?」
 ありがとう、ありがとう。
 あとでね、あとでね。
 何度繰り返したか知れない御礼と断りは、もはや魔法の呪文のよう。くるくると目がまわりそうだ。自分に声掛けしてくれる生徒の多さにくすぐったいものを覚えていた。もしかしたら、こんな日を待っていたのかもしれない。
 宣伝コンテストの効果だ。宣伝しただけの名目に恥じないようにと本番にも気合が入った。生徒会が各団体の状況をわかりやすく周知していたのも、生徒たちの連帯感を深めた。
 コンテストへの応募人数は予想を上まわり、宣伝方法も多種多様だった。何よりも参加者全員がやる気に満ちていたことが、あしほたちを喜ばせた。
 意外に思ったのは、宣伝コンテストの参加者に、ちらほらと奨学生の名が織り込まれていたことだ。蘭の画策で、正体がばればれの茶番劇に付き合せたことは記憶に新しい。てっきり、彼女たちとは対立してしまったと思っていた。あしほの意図を汲んでくれたものか、あるいは賞品目当てかはわからない。だが、とにかくも生徒会の名が銘打たれている企画に名乗りをあげてくれたことはほんのりと嬉しい出来事だった。
 ただ、一方で気になることもあった。
 一部の文化部の生徒たち、特に熱心に部活動を行っている生徒たちがまったく反応を示さなかったことだ。学外の作文コンクールなどで賞を得た実績のある文芸部員や、漫画原稿を量産する技能のある漫研など、文化系のクラブからの立候補が期待されていた。彼女たちの賛同を得るには退屈なテーマであったのかもしれないと思う。そもそも、この『スクールジャパン』の仕組みにより、生徒会は文化系を贔屓する印象を与えてしまった。スポーツを行う生徒たちもいるものを。
 いっそ、これでよかったのかもしれない。学園祭は、所詮は学内の行事だ。本格的に活動を行う者にはあわなかった、ということだろう。
 それにしても申し合わせたようにクラブ員たちから一人も名乗りがあがらなかったのは少々不自然だ、とは思う。
 蘭が命令したから。叔母と姉が命題を与えたから。
 お飾りの自分はただ従順に、ここまでのミッションをこなしてきた。
 けれど、それで良かったのだろうか?
 彼女たちの未登録、名乗りを挙げない行為は反感を示すものではないのか?
 ふと、文化祭当日に際して、そんなことを邪推してしまった。
 実情では利害関係が絡んでいるお祭りだ。それに終始して、本当に学園祭を楽しめる立場にある人たちの気持ちを置き去りにしてはいなかっただろうか? 
 杞憂ならよいが、美術系や文系の展示スペースを重点的に見ておこうと思い立った。
 だが、そこに辿りつくまでがなかなかに骨折りだった。放り込まれる各種問い合わせや、予想外のハプニングは、お祭りにつきものだ。それらに追われているうちに、見まわりの時間は大幅に削られてしまった。
 開催の宣言をしたのが朝の九時。講堂から生徒会室に移り、そこに詰めたきり、ようやく解放されたのは昼過ぎになってしまった。生徒会室を出たら出たで各団体からのお声掛けが無数に待っていたという次第だ。
 そういえば今日はまだ蘭の姿を見ていない。あしほは拗ねたような気持ちになる。
 準備段階で力を大いに借りた分、当日に於いて、あの無邪気な演出家の出番はないに等しい。期間中は羽を伸ばしていいと伝えてある。今頃、祭りを満喫しているはずだ。
 それでも諸問題に追われている自分を冷やかしに顔を覗かせてくれてもよさそうなものだったが。自然にそんなことを考えている自分に気付いて、苦笑いする。どうやら望みすぎているようだ。今日は来ないでいいと告げたのに、あの金色のお日様みたいな友が闖入してくれるのを、引っ掻きまわしてくれるのを、いつの間にか期待するようになるとは。
 これも蘭の策略だろうか? 彼女にいつしか魅了されていることは…
 コミサのとき、初めて蘭の弱っている姿を見た。あのときから、あしほは己のうちの変化を自覚しつつあった。
 蘭に対して、どうしようもない保護欲にかられている。
 蘭には事情を話さないでいいと告げたものの、本心では知りたくて仕方がない。彼らは何なのか。蘭とどういう関係なのか。
 けれど、聞けるはずもない。そばにいれば、強引に質問してしまいそうになるので、この学園祭の前のひとしきりの慌しさは救いでもあった。
 蘭はコミサの後も変わりなく元気だ。
 けれど…それが本当の素顔だろうか?
 どうして、こんな疑いを抱いてしまうのかわからない。
 信じたいのに。
 自分は彼女をどれだけ知っているだろう?
 まったく、何も知らないのでは?
 いいや。
 あしほは、そうして立ち止まった。
 知らされて、いないのでは。
 そのときだ。校内の随所に設置されたスピーカーから、マイクのスイッチの入る音が聞こえた。
 雑音と共に、声が響き渡った。
『生徒諸君!』

 ☆

「あたしらさ、何だってこう…一番会いたくねえ連中に出くわしちまうんだろうな…」
「とりあえず消すか」
 少女たちは煙草の火を校舎の壁にこすりつけて消す。褒められたものではない行為だが、賛同ほしさに喫煙していたわけではない。
 体育館裏の昇降口付近、プールに面した遊歩道。
 学校敷地内でも最果ての地にあたる場所。
 奨学生の一団の姿がそこにあった。学校行事に生き生きと参加するような少女たちではない。寄り集まって、くだらない話に興じ、だらだらとすごしていた。とにかくも公の催しには参加しない。それがアウトサイダーとしての生き様だ。
 いや、以前であれば、文化祭は渉猟の地とばかりに、往来する中等部の生徒や外部からの来客の財布を軽くさせるよう狙いを定めていたかもしれない。
 だが、学園全体が、主に生徒会が妙に張り切っている。
 またあの間抜けなコスプレ茶番劇に巻き込まれる可能性を考えると、付き合いきれない。真正面から叱責されれば、まだ気合の入りようもある。しかし、あのへなちょこへろへろキックを相手にして以来、悪事を働くのが馬鹿らしくなってしまったというのが本音だ。
 それでも生徒会の介入を快く思ってはいないので、こうして校舎の隅に群れを為している。
 平和だ。退屈だ。誰も口には出さないが、そうした空気は否めない。
 それでも邪魔される心配のないテリトリーで居心地よく過ごしていた。
 そこに、異変が起きた。
 一人の少女が、声をあげて立ちあがった。
 一同はそれにつられて、視線を転じた。
 そこには、文系の部の幹部たちや、運動部の統率者たちによって、無理に体育館裏の倉庫に引っ張られて行く御剣蘭の姿があった。どう見ても親しげな雰囲気には見えない。
 明らかに無理強いされている。
 不良たちは悪事に慣れている。その禁忌の線引きを弁えている。だから、部の幹部たちの行為の理不尽さも、見た瞬間に理解された。
 しかし、すぐに反応するほど素直ではない。
「けどよ…あたしら、御剣には何の義理もねえしさ。あいつがいなけりゃ、会長が張り切ることもなかったんじゃねえの?」
「まあそうだな。そりゃそうだよな」
「ほっとけ、ほっとけ」
 意見が纏まりかけていた。その直後だ。校舎の片隅まで校内放送が声高らかに響き渡ってきたのは。
『生徒諸君!』

 ☆

 あしほの交渉が効を奏して、高等学院の文化祭の日の午後は中等部の授業も休みとなった。生徒たちは学園祭に参加して、先輩たちとの親睦を深め学内を見学するよう促されていた。
「あっ! 有子さんだっ」
「あら、本当」
 なことみかが、渡り廊下を行く有子としのぶに遭遇するのも不思議ではなかった。なこは中等部の制服姿。みかはワンピースを纏っている。なこがぶんぶんと手を振る。有子が応えて立ち止まり、お辞儀する。
「なこ様、みか様も。お揃いで」
「こんにちは!」
 子犬のように駆け寄って、なこは有子に抱きつく。
「すごいですね! 高校の学園祭は初めてじゃないですけどっ、こんなに人が集まってるの、なこも見たことないです!」
「ええ。あしほ様と皆様の功績ですわ」
「そちらの方は、先生ですか? あしほ様のお姉様でしょうか」
 みかが穏やかに微笑みかける。
「勘がいいな」
 しのぶは頷いた。
「わあ! 豊田しのぶ先生ですね! お会いできて興奮のサイクロンですっ」
 じゃれついてきたなこの様子に目を細める。しかし、不躾にしのぶの指はその顎をとらえた。
「私も君らにお会いしたかったぞ。御剣の妹。感激のレインボウだ」
「きゃ…」
 上向かされて、見据えられ、なこは赤面する。
「いやあん、先生大胆ですっ。そんなに見つめられたら、なこ、羞恥のブラックホールがあいちゃいますう」
 理知的な面差しに見つめられ、なこの瞳にはハートマークが浮かぶ。しかし、しのぶの背に漂う緊迫感に、有子は背筋を伸ばした。
「し、しのぶ様っ」
「やはり見たことがない、この顔も。有子」
 厳しい声が、あたりの喧騒と彼女たちとを隔てる。
 なこは、はっと目を見開いた。みかも硬直したように動けなくなる。
「私は目を離すなと言ったはずだ。馴れ合えと言った覚えはない」
「あ、あ、あのう? な、何のお話ですかっ。そ、そんなに熱い視線で見つめられたら、なこ、なこっ…激愛のメテオライトが降り注いじゃいますよっ?」
 てへへっとなこが笑ってみせる。
 しのぶはその明るい空気にも取り込まれず、しばし少女を凝視する。
「御剣なこ。所属クラスは?」
「ちゅ、中等部三年のA組ですっ」
「そうか。この高等学院の学園祭は初めてではないと言ったな。…何回目だ?」
「そ、それは、あの、三回目、です。その前は、公立の小学校でしたからっ」
「…へえ。それで君は狐か? 狸か?」
「しのぶ様!」
 有子が鋭く声を発すると、美術教員は笑みを浮かべて解放した。
「失礼したな。御剣の妹」
 なこは硬直して、ぶんぶんと首を横に振った。どうしていいのかわからない、というように。
「なこが、何かお気に障りまして?」
 みかが警戒心をあらわにする。
「君たちは、何者だ? まるで、そこに実在しないかのようだ…そんなものは、私も初めて遭遇するぞ」
「な、何を仰っているんです、しのぶ様」
「そのままだ。よもやと思って、今日に限定して、けだものの類、悪霊の類は入れないように結界したものを」
「あなたは! あしほ様の前にあらわれないと思ったら…そんなことに時間を費やしていたんですか!」
「あたりまえだ。学校全体を結界するんだから時間が必要だった。私の目を欺いてきたものだぞ! しかし、こいつらはそれをすり抜けてきた。御剣蘭も恐らく学内にいる」
「しのぶさん…あ、あなたは、一体…」
 みかが問う。答えが得られるとは思っていなかった。だが、しのぶはこう返した。
「私の記憶力は常人に比べると箍が外れているようでね。忘却を知らない」
「忘却を知らない…?」
「そう。だから、中学生であれ高校生であれ、記憶にない顔の生徒が豊田の築いた学び舎に存在するはずはないんだがな…」
「!」
 いたいけな姉妹は絶句した。
「しのぶ様、おやめなさい。挑発されるのは」
「いいか、有子。こいつらからは何も感じない…ただ見える、ただ聞こえる、ただ触れる…それだけだ」
「何…ですって?」
 有子が怪訝な表情をする。
 しかし、しのぶは微笑した。
「まあいい。今日はハレの日だから妹に免じて許してやる…どうせならもっとうまく化けてくれ。次に来たときには耳や尻尾を探してやるぞ」
「きゃあん、困っちゃいますっ」
 歓声をあげつつも、なこはみかの背後にそっと隠れた。
 わずかにみかの眉間に皺が寄る。
 重い沈黙がおりたときだ。
 ガガッ、と雑音を響かせながら、校内のスピーカーがオンになった。
 そして、声が敷地内に響き渡った。
『生徒諸君!』
 それは紛れもなく文芸部部長の声。
 生徒会に反旗を翻す者の声だった。
『われわれは、生徒会長豊田あしほ、及びに生徒会の行使したスクールジャパンプロジェクトに反対を表明する! ひいては、この学園祭の中止、プロジェクトの中止をここに要求する! まずは、要となる展示、及び催しの妨害を予告する!』
 そして、と彼女は続けた。
『生徒会長豊田あしほは、後にするわれわれの架電に応じよ。さもなくば、御剣蘭の安全は保障しない!』

 ☆

 あしほはそこに呆然と立っていた。
 たった一人きりで。
 やはり。
 やはり、恨まれていたのだ。しかし、こんな形で発露されようとは考えてもいなかった。
「なあに、今の…?」
「ちょっ、やばくない?」
「会長どうするのかなあ」
「しっ…私たちは黙ってようよ」
 ひそひそと、あたりの教室から届く囁き声。
 あしほは、立ちすくむ。
 さっきまで。
 さっきまで、まるで世界が自分に味方してくれていたかのように錯覚していた。
 ああ、錯覚だ…!
 状況次第で人の気持ちが変わることなど、熟知していたはずだ。それを忘れていようとは。
 どこまで世話を焼かせるのか、御剣蘭は。
 いや。
 どこまで呆けていたのだ、自分は!
 スマートフォンへの着信音が鳴り響いて、あしほは肩を震わせる。
 画面を確認する。それは、しのぶからの着信だった。あしほの通話機能にはキャッチホンがある。反乱した一同からの着信があっても切り替えれば大丈夫だろう。そう判断して、あしほは応じた。
「姉さん?」
「あしほ。校内放送は聞いていたか?」
「どうしよう、姉さん、蘭が…こ、こんなの…」
「落ち着け。まだ事件は起きていない」
「なっ…」
「事件と呼ばれる前に解決するんだ、あしほ。これは命令だ。学内の不祥事は許されない」
「……!」
 これが。
 これこそが、命令と云うのだ。
「いつも、姉さんや…叔母様は…そうやって…! あの学校へ入れこの成績を保て、あれしろこれしろって…私はもう子供ではありません!」
「子供でないと言うなら、この責任を何とする? そもそも誰が招いたことだ?」
「っ……!」
 見透かされている。そう感じた。
「今どこにいる? すぐに行く。おまえは首謀者の話を聞く義務がある」
「…新校舎の二階。今から昇降口に向かいます」
「うん。御剣の妹たちを偵察に行かせた」
「なこちゃんとみかちゃんがいるの?」
「そうだ。アジトはわかりきっている。早いところ御剣蘭を取り戻せ。文化祭の中止などありえんぞ。おまえが築いたものだろう?」
「姉さん…」
「それから有子に頼るな。あいつはおまえを探しに行くと言って離れたが…意図に気付かなかったんだ。間抜けだったよ。行かせるべきではなかった」
「え?」
「遭遇しても耳を貸すな。いいな?」
 通話はそこで途切れた。
「どういうこと…?」
 有子に頼るなとは何事か。
 相変わらず、姉の言うことは不可解だ。
 あたりが急に騒がしくなった。
 ばたばたと少女たちの足音が響いてくる。
 生徒会の一同が駆けつけてきたのだ。
「会長! こんなものが生徒会室に…」
「…地図?」
 差し出された紙を開くと、学校の校内図だ。
 至る所に×印がしてある。
「私たち、一番近い印の場所にすぐ向かってみたんです。そしたら、こんなものがっ」
 あしほは息を呑む。
「そ、そそそれはっ…!」
 それは『生徒暴君!』の連載誌付録のポスターだった。二人の美少年が紙面の上で仲睦まじく寄り添っている。どこからどう見てもボーイズラブなイラストが大きくあしらわれたA3サイズの特大版だ。
 いたずらにしては、度がすぎる。
「だめよ…こんなことするなんて思ってなかった…」
 あしほが悔しげに顔をしかめる。
 生徒会のメンバーは会長の沈うつな表情に同調し俯いた。
 と、同時に会長の手元に目を留める。
「会長、どうしてポスターを丁寧にくるくる丸めてるんですか?」
 尋ねずにはいられなかった。
「こ、こんなもの! こんな危険なもの! 公共の場で明らかにするにはふさわしくありません! 没収です! こ、これは責任を以って私が処分いたします!」
「な、なるほど! さすがです、会長!」
「あんな恥ずかしいポスターを自ら処分なんて…やっぱり会長は勇ましい人です!」
「ふ、ふふ、まあね」
 幸か不幸か、コスプレを重ねるうちに、あしほの演技力は板についてきた。この場合は虚勢そのものであったが。
「これは多分、威嚇行為だわ。でも、もしも万が一にも十八歳未満には見せられないようなものが混ざっていたら…」
 そう言いながらも、ポスターの端をとんとんと綺麗に揃える。没収というわりには丁寧な仕舞い方だ。
「会長? 持って帰るんですか? そのポスター」
 生徒会メンバーの素朴な疑問は聞かなかったことにする。そこらに備品として置いてあったポスター収納用の長細い筒に、折れないようにそれを慎重に仕舞いこんだ。そして、きちんと蓋をする。
 そののち、あしほはぐっと拳を突き出した。
「健全な文化祭を汚そうという輩…許されることではないわっ!」
「何だか釈然としない行動を目の当たりにした気がしますが、その通りです、会長!」
「敵は本能寺にあり!」
 それはむしろテロリストの側のスロウガンだったが、熱く叫び、生徒会の面々は一致団結する。
 彼女たちもまた、ある意味で蘭の影響を受けていた。この夏休みの間、通常業務に加えて、イレギュラーな仕事が増えた。不満を抱いて然るべきところだ。だが、お飾りであるはずの生徒会長が珍しく見せた意欲的な表情に、彼女たちはむしろ好感を抱いた。以前のように無機質な存在であった会長よりも、現在のように千差万別の表情を見せるあしほに、今では厚い信頼を寄せていた。
 反旗を翻した一団は、あくまでもこの文化祭を惑乱させるのが第一の目的ということだ。破壊活動の宣言をしたものの、公序良俗を乱すことがきわどい行為であると承知しているのだろう。だから、ポスターという視覚的テロリズムで訴えた。
 あしほは、相手の手強さを実感した。
 一般人には理解されがたいポスターを至る所に張り出すことの危険性は承知しているはずだ。むしろ、こうした文化を公道で詳らかにされることを畏れての抵抗であるはず。彼女たちは禁忌を敢えて犯すことで、生徒会の施策の矛盾を摘発しているつもりだ。地図を置いていったことからも、そのことが伺える。
 妨害そのものというよりも忠告だろう。
 つまり、これは宣戦布告だ。
 事件にする前に、と、しのぶが言った理由がわかった。
 彼女たちはわかっていない。自分のしていることの罪深さを。
 危険で、責務を負わねばならない行為だと知らないのだ。だからこんなことができてしまえる。
 しかし、十八歳未満禁止の描写が入っていないとしても、これは充分に悪質な妨害だ。折角コンテストを通じて準備したポスターまでも、テロリストたちは取り去っていったのだから。
「まずは手分けして文化祭に関係ないポスターを回収なさい。それから各団体に口頭でこう伝えて。一旦活動を停止して、身の周りに異常がないか確認するように!」
 あしほは指示を出した。
「か、会長、でも、生徒たちは怖がっちゃうんじゃ…」
「もう怖がっているはずよ! だから、伝えるの。それから、文化祭と関係のないポスターを見つけたら生徒会が報償を約束すると言いなさい」
「え?」
「これは生徒会が一部の生徒たちの手を借りて仕掛けた宝探しのイベント。あの犯行声明の放送もそのパフォーマンス。そういうことにするの」
 生徒会の一同は顔を見合わせた。
 確かに、あしほの提案は生徒たちを動揺させずに危険物を取り払う案に思われた。ごまかしきれるとは限らない。しかし、それが唯一残された妙案だろう。
「さあ、行って! 一年生は一年生に、二年は二年に。三年には三年!」
 あしほが手を打つと、生徒会の一同は頷いて散会した。
 あしほは、階下に向かう。放送室には何か痕跡があるかもしれない。しかし、姉と合流するのが先決だろう。
 階段に、こちらに向かってくる頼もしい人の姿を見つけた。
 あしほは頬を緩めた。彼女は、あしほの意図を汲んでこう告げた。
「放送室はもぬけの殻でしたわ、あしほ様」
「有子…!」
 あしほは、侍女の到着に安堵する。しかし、有子は沈うつな面持ちだ。
「要求を呑みましょう、あしほ様!」
 あろうことか、彼女は、あしほが最も聞きたくない言葉を口にした。

 ☆

 体育館の裏の倉庫。
 バスケットボールや、古くなったマットが詰まれている庫内に、各文系クラブの代表者や運動部のリーダーが集まっていた。ほかのメンバーは、各自、威嚇用のポスターをセットしに向かわせた。一部は伝令のために、そして、時に応じて展示や催事を妨害できるよう要所要所に人員を密かに待機させている。
 放送室はグラウンドに面した一階にある。少女たちは放送を終えると、すぐにグラウンド側の窓から抜け出て追っ手から逃れた。ほかの生徒や教員らは、ぽかんとするばかりで手の打ちようがない。その心理状態を見込んでの放送室ジャックだった。
 このアジトに結集して、蘭を囲い、あしほの出方を伺う。ここまでは良かった。
 一同はなんとなくげっそりしていた。
 人質がとにかくうるさいのだ。
「うぬううう!」
 蘭は自分を縛る縄をほどこうと必死だ。
「無駄なのだ」
 文芸部部長が忠告する。
「うんぬううう!」
「無駄ですうう」
 剣道部部長も吐息する。
「それにしても、何かこう…卑猥な縛り方ですうう…」
「参考文献がこれしかなかったのだ」
 文芸部の部長が手にしているのは、一冊の参考書だ。といっても、学問の書物ではない。
『メンズカップル・ポーズ集 ~緊縛編~』だ。
 そこには男性の体にさまざまな緊縛を施し、あらゆる角度から撮影した画像が掲載されている。BL漫画を描く少女たちのために用意された、男性の肉体のポーズ集だった。
 実際に御剣蘭を拘束しようとロープを用意したはいいものの、縛り方がいまいちわからず、挙句の果てに引っ張り出されてきたのは漫研の少女たちが持参していたこのポーズ集だ。従って、蘭は今横たえられた状態で亀甲縛りにされている。
「くううううっ…まさかボーイズラブの雑誌が点々と道端に置かれているのを拾っていったら掴まってしまうとは不覚だお!」
「いえ、あれには逆にこちらもびっくりしましたああ」
「わかってないな、剣道部部長。あれは全て今月発売されたばかりの最新号だったのだ」
「基準がわかりませええん」
 蘭はがんじがらめの縄から抜け出そうとがんばってみるが、力を入れれば入れるほど食い込んでくる。
「痛いおおお!」
「いや普通にしてるのだ。力を抜けばいいのだ」
「やだお! やだお! 帰る! 会長のところに帰るおおお! こんなことしたって、あしほは動じないおっ! もうやめるお! どうして、あんたたちがこんなことするんだおっ! 会長は…会長は、がんばってるのに!」
 文芸部部長は、腕組みして蘭を見下ろした。
「御剣蘭。聞きたいことがあるのだ」
「何だおっ」
「どうして会長を唆したのだ? いや…そもそも『スクールジャパン』の提案者がおまえだというのは本当なのか?」
「そうだお?」
 蘭は隠し立てしなかった。何も考えずにべらべら答える。
「あれは蘭の考えだおっ。だから会長は関係ない! こんなことするのは間違いだお、早くやめるお!」
「御剣。わかっていないようなのだ」
「うっ…」
 蘭の喉元に、文芸部部長は上履きのまま足を載せた。
「この文化祭を台無しにするつもりは最初からないのだ。そんな危険をおかすほど馬鹿ではないのだ」
「じゃ、じゃあ何が目的だお!」
「私は個人的におまえの首をへし折ってもいいくらいに怒っているのだ」
「そ、んな」
 暗い瞋恚が灯る瞳に、見下ろされた。
「おまえみたいにチャラチャラ着飾った生徒がBLを愛好すると吹聴したり、オタク趣味を伝播させるために会長を操作するなど、不届き千万。本来は隠されるべき秘密の趣味、暗号であるべきだろう? それを何なのだ! 特殊な趣味で粉飾することで、自らを特権階級のように腐女子という特徴を単なる属性として周囲に呼称させ、ただのファッションのように他者との差別化のアイテムに用いるとは言語道断! おまえの腐った魂はそれでいいのか!」
 蘭を囲む生徒たちも、少女の言説に聞き入っている。ここにいて沈黙する文系の少女たちは、多かれ少なかれ彼女の意見に賛同している。
「引いては、おまえが嫌いなのだ。御剣蘭」
「ら、蘭、だって」
 蘭は泣きそうな声で訴えた。
「蘭だって…おまえらなんか、キライだお!」
 声を張りあげて訴えた。
「おまえらはまだいいおっ! 友達がいるんだから! こうやって結束して共謀できるパワーがあるんなら、もっと別のことに使ったらどうだお!? 友達どころか、監視されて、満足にBLのことを語り合えない子だっているんだおっ! む、無理に脅しでもしなければ…友達になってくれない子だって!」
 それを聞いた文芸部部長は首を傾げた。
「それは誰のことを言っているのだ?」
 蘭は喋りすぎたことに気付き、口を噤む。
「う…だ、誰だっていいお。とにかくキライだお! か、会長は、待ってたのに…」
「…何をだ?」
「お、おまえらが、宣伝コンテストに申し込んでくれるのを…待ってたのに…申し込むどころか、こんな…こんなつまらないこと画策して…許さない…」
「な、何だ?」
 蘭の瞳が輝く。
 冴えた、獣のような輝きだ。
「許さないお!」
 どん、と倉庫全体が揺れた。
「きゃあああ!」
「な、何なのだ!?」
 あたりの備品が揺れ、床から突きあがって来た振動で窓硝子が震えた。
 しかし、衝撃は一度きりだ。少女たちが怯えて身を寄せ合っている間に静かになった。
「地震、か…?」
 よろけて蘭から離れてしまった部長は、蘭を見遣って、びくりと肩を震わせた。冷たい眼差しで睨まれていた。思わず怯む。
「に、睨んでも無駄なのだ。安心しろ。おまえや豊田会長に生徒会の権力を私的に用いないと約束させたら解放してやるのだ。実際、会長だっておまえから解放されてほっとするんじゃないか?」
 何気なく口にしたことだったが、それは蘭の瞳を曇らせるのに充分だった。
「そ、そんなこと、おまえらがしなくても…いずれ…」
「…何だ?」
「余計なお世話だお!」
「何なのだ? ふん。そうか。やはり実際には会長に邪険にされているのだな」
「違う!」
 確信していいはずの関係。
 誇らしげに主張できるはずだった。
「会長は、蘭にとって、天下無敵の唯一無二の友達だお!」
 高らかにそう叫んだが、蘭の瞳はわずかに潤んでいた。

 ☆

「何て言ったの? 有子」
「足掻いても無駄です。蘭様に何かあったら、どうするのです?」
 一瞬、あしほは何を言われているのかわからなかった。
 蘭。そう、蘭が大変なことにならないように尽力している。けれど、要求を呑めば。
 要求を呑んでしまえば、楽になる。
 楽に。
 それを知っている。
 けれど、それは嘘だ。ごまかしだ。
 楽になど、ならない。
「彼女たちは本気だと申しあげているのです、あしほ様」
「でも」
「さ、もうお遊びはおしまいにして、こちらにおいでなさい」
「……」
「今日は凪様もいらっしゃいます。それなのに、こんなことがあってはもう手遅れです」
「いやっ」
 有子が伸ばした手を、反射的にあしほははねのけた。
「どうして急にそんなこと言うの?」
「あなたがあんまり聞き分けのない子供だからです。それともあなたの大切なコレクションのことを叔母様に知られたいのですか?」
「有子」
 どうして。
 失意に陥り、あしほが立ちすくむ。
「あしほ様。さあ…こちらへ」
 有子が手を伸ばしてくる。
 あしほは、それを見つめる。
 この手をとれば楽になる。
 楽になるとは、どういうことか。
 この要求を呑み、文化祭を取りやめにし、そして。
 叔母との賭けに負ける。
「あなたは…」
 あしほは、よろけた。壁を支えにして、大きく息を吐いた。
「誰の味方、なの?」
「私は」
「耳を貸すなと…」
 有子の真上に、あしほは輝くものを見た。
 光を帯びて煌く、雪駄の裏側。
 校内で雪駄を愛用している者など一人しかいない。それは即ち豊田しのぶの足の裏だった。それが高く掲げられ、有子の脳天に踵から落とされる。
「言ったろうが!」
 美術教員は、有子の頭上高くから足を振り下ろす。
「ふわっふう!」
 奇矯な悲鳴と共に、有子はその場に崩れ折れる。しのぶが、その背を容赦なく蹴倒す。侍女の上に馬乗りになり、あしほを睨みつけた。
「体育館裏の倉庫だ、行け!」
 言いたいことも聞きたいこともたくさんある。
 しかし、あしほは頷くと身を翻して階段を駆け下りて行く。
「あしほ様!」
 尚も有子は追おうとする。だが、見た目に反して筋力のあるしのぶはそれを許さず、跨ったきり動かない。
「まだ勝手な真似をするつもりか」
「私のどこが勝手だと仰るのです! 誰のためにっ…」
 有子はしのぶの腕の関節を掴むと、思い切り力を込めて握りしめる。
「誰のためだと、思ってるんですかっ」
「ぐっ、あ」
 痛みに呻いて、有子の肩を押さえていたしのぶの肘が浮く。その隙に腕を払おうとした有子だが、しのぶは腿を滑らせた。その腋下を腿で強く押さえつけた。地に縫いとめるように。
「おまえという奴は!」
「邪魔なさるなら、あなたを殴りますよ!」
「やれるもんなら」
 充分に妹の足音が遠ざかるのを耳で確認しながら、しのぶは身を屈めた。
 侍女は瞬きする。
 しのぶの意図が汲めない。いや、何をしようというのか、何をされようというのかは、わかった。ただ、どういう気持ちでそれが為されるのかが読めない。
 しのぶの気持ちがわかったことなど、一度もない。
 何故、殴りますなどと言ったのか、それだけは自覚していた。
 あなたは何者かと、あしほは尋ねた。
 あしほになら答えることはできただろう。
 しかし、この女の前では。
 この変人に対しては、わからないとしか言えなくなる。
 しのぶの唇がこちらの口に押し付けられるのを感じた。柔らかい感触。それはすぐに離れた。
 殴りますと言う前に殴っていただろう。それができたなら!
 往来する生徒たちは、激しい攻防を前にして、その場から距離を置いて見つめていた。だが、豊田教員と、その家の侍女の唇が触れ合うのを見て歓声をあげた。
「あなたは…人前で!」
「今日は見世物だらけだ。私も提供してみたくなった」
 有子の目元に朱がさしている。それを見て、しのぶはにやけた。
「効を奏したな」
「あなたはいいのですか、それで! あしほ様が逃れれば、必ず再びあなたに目が向けられるのでふよ! ひたたたたた! ひたいひたいひたい!」
 後半はつねられて声にならなかった。
「一部の生徒たちを唆したのはおまえだろう?」
「私ではありまへん!」
「素直に言ったらもう一度ちゅーしてやる」
「私がやりまひた!」
「ふん」
 素直すぎる侍女の頬から指を離して、しのぶは鼻白む。
「しのぶ様! この有子、素直に白状しましたわよさあご褒美のちゅーを! これ以上ないくらいに素直でしたわよ私今! さきほどは不意打ちでしたが今なら心の準備を! いいえこうなればむしろ私から熱くて深い大人の情熱チッスをお見舞いしてやりますわああああ!」
 股下から持ちあがろうとしてくる侍女の上体を、しのぶは、物憂げな目で見据えた。
「無礼者」
 その頬を打った。
「ひ」
 有子は涙目だ。
「ひどい! 嘘つき! 鬼! ふんどし!」
「やってくれたな、おまえは本当に」
 いくら泣かれてもしのぶは動じない。
「おまえの目的は存分に果たされるだろうよ。嬉しいか?」
 既に祭りは破綻した。そのことを告げている。
 ぴたりと泣き止んで、有子は仰臥する。
「何故、あなた様は」
 その手を動かしても、しのぶは邪険にしなかった。
「何故、悲しまれるのです…」
 しのぶの頬に、侍女は触れて問う。
「おまえはそんなに妬ましかったのか? 妹と金髪娘が」
「いいえ」
 泣きそうな笑顔で侍女は白状した。
「あの二人…仲睦まじい二人を直視できないあなたのためにしたことです。だからあなたは夏中あしほ様の前にあらわれなかったのでしょう?」
「結界の作業はそれだけかかるんだが、単に」
「素直になればキスしてさしあげます」
「いらん。間に合ってる」
 有子から戦意が喪失されたことを確認し、しのぶは立ちあがった。
 悔しいことだが、侍女の計画は成就するだろう。
 目的は文化祭の中止などではない。
 来訪者、特に父兄の前でトラブルが起きることが必要だったはずだ。
 それによって、あしほから奪われるものが何であるのか。
 ひとつしかない。
「知らんぞ、祟られても」
「何です?」
 有子も乱れた衣服を直しながら、上体を起こした。
「御剣蘭、恐らくあれは」
 しのぶの唇がその推測を紡ぐ。
 有子は、目を見張った。

 ☆

 蘭の監禁を目の当たりにした直後、校内から流れてきた放送を耳にしたヤンキーの一団は顔を見合わせていた。
「お、おい、どうする」
「どうするって…関係ねえだろ」
「でもよお」
「面白くねえな」
 少女たちの動揺を、リーダー格の少女が一言で総括した。
「あたしら、別に生徒会も御剣も好きじゃねえけどよ…けど、親に出資してもらった道具を振りまわして部活動やってるお嬢さん方が妙な目立ち方をするってのは、ちょっといただけねえな」
 赤く染めた髪のリーダーが、そうつぶやきながら煙草をようやく揉み消した。
「ああ、そ、そうだよな」
「なあ、スルーしようって言ってたけどよ」
「ああ」
「そうだな」
 喧嘩のプロでもないお嬢様方が、それの真似事をして喜んでいるような姿を見過ごすほど懐は広くない。矛盾するようだが、アウトサイダーは筋の通らないことが大嫌いだ。
「な、なあ、あたしさ…」
 一団の一人が、おずおずと手をあげた。
「じ、実はよ…ちょっと応募してみたんだ。宣伝コンテスト」
 その告白に、一同はざわめいた。
「ま、まじか?」
「ああ」
「まじでか」
「な、なんつうか、別に大した意味はなかったんだけどよ。ほ、ほら、うち、もうすぐ妹が誕生日でよ。賞品があったら丁度いいかなって感じでよ…当選しても匿名希望はそれでいいらしいからよ」
 一人がその少女の肩を親しげに叩いて告げた。
「実はあたしも出したんだよな。やっぱ賞品目当てだけどよ」
「え、まじ? あたしも。ゲーム機ほしいよな?」
「おまえも出したっつってたよな? 学園祭のテーマフレーズ部門」
「あたし、看板デザイン部門」
「実行委員のTシャツ部門」
「実は、あたしもだ」
 はいはい、と挙手しているうちに、少女たちのほとんどが宣伝コンテストに応募していたことが判明した。
 残る一人は壁に凭れているリーダーのみだ。
 少女たちは固唾を呑んで、纏め役を見つめた。
 赤髪の少女は、しれっとして小さく手を挙げた。
「イメージキャラクター部門」
「一番目立つやつううう!」
「さすが!」
「採用された」
「な、なんだってーーー!?」
「じゃじゃじゃあ、今回のイメージキャラ『まなびの・その』ちゃんってヘッドが考えたんすか!?」
「あれ、かわいいっす! 髪がふわふわしててかわいいって思ってたっす!」
「おおおお! じゃあ賞品のマウンテンバイク獲得じゃねえっすか!」
「まあな」
 どよどよと少女たちはひとしきり盛りあがった。そのうちに一人がこんなことを言い出した。
「あの茶番劇以来、廊下ですれ違っても豊田の奴、ごまかしやがって、目をそらしたり俯いたりしてたんだけどよ。最近よ。あからさまにすれ違いざまににこにこしてきやがんだよな…」
「あ、あたしも、実は」
「ああ、あたしも」
「う、嬉しかったのかな…」
「…じゃねえ?」
 しん、と少女たちは静まり返った。
 リーダーは彼女たちの様子に目を細める。
 彼女は悪事を統率する者でもあったが、だからこそ善悪の境を知っている。
 その人からの指示が必要だった。
「…御剣のことは前から気になっていた」
 淡々と少女は語り出した。
「うちらよりもギャル寄りだからな。毛色が違いすぎるし、あいつは友達が多いわりに一匹狼タイプで、群れはつくらねえ。生意気だとは思ってたが、ちょっと認識を変えることがあってな」
「認識?」
「あたしはな。ほんとは美術がやりたかったんだけどよ。金がかかるからできねえんだ。でも、あたし、偶然、御剣のノートの落書きを見たことがあってよ…自分が間違ってるんじゃねえのかなって。絵に金が必要だって考えはよ…だって、なあ、あいつの絵を見たことあるか? あいつんち、親がいねえはずなのに」
 そのときの衝撃を思い出したのか、うっとりするような口調だった。
「べらぼうに、あいつの絵はうめえんだ」
 そのとき、プールサイドの遊歩道を向こうから歩いてくる生徒が見えた。
 彼女は、ならず者の一団を見かけると、驚きと恐怖に足を止めた。しかし、少女たちはそれを見逃さなかった。
 その手にしている、ポスターを。
「おい。こんな隅っこまで何の用だ? あんた」
 リーダー格の状況判断は素早かった。
 恐らく、その生徒は、御剣蘭を閉じ込めた側の一員だ。
「そりゃあ、何だ? …見せてみな」
 ポスターを手にした生徒が身を翻した。
 それが合図だ。もう意思確認は必要なかった。
 不良の一団は、ハイエナのように走り出す。
 退屈を、吹き飛ばすようにして。

 ☆

「あしほさん!」
「こっちです、会長っ!」
「二人とも!」
 グラウンドへ走り出ると、なことみかが駆け寄ってきた。二人を伴い、あしほはまっしぐらに体育館を目指す。その姿に生徒たちが声をかけた。
「会長だっ」
「会長! 大丈夫ですかあっ」
「会長、頑張ってえ!」
 あしほは驚いて立ち止まりそうになった。だが、手を振って応えるに留めた。
 そうか。さっきの反応は、強張っていただけなのだ。こうして指示を出して、手を入れてやればちゃんと生徒たちも応援してくれる。
 自分の殻に閉じこもっていては見えなかった、人の気持ち。それはひどく移ろいやすいけれども、だからこそ。
 前を向ける。
 あしほに併走しながら、みかがこんな問いを発した。
「あしほ様、あなたのお姉様は何者ですの? 蘭お姉様の居場所をすぐに見つけ出しました…まるで千里眼の主のよう」
「あ」
 あしほの駆ける速度が緩んだ。軽く口の端を噛む。その様子に、みかも口を一度噤んだ。
「…私たちが自らのことを明かさないのに、あなた様のお身内のことを知りたがるのは卑怯でしょうね」
「み、自ら、って?」
「うふふ。何でもありませんの。失礼しました。今は蘭お姉様が先ですわ」
 何か秘匿しているみかが気になった。しかし、確かに蘭の救出が先だ。
「…ありがとう」
 追及されないことに、今は礼を言うばかりだ。
 体育館裏の倉庫がぐんぐん迫ってきた。そこに乗り込む前に、あしほはみかとなこの手招きに従い体育館に入る。館内の倉庫に一旦身を隠した。
「あしほ様、こちらを着用してください。これは今までのコスプレ衣装と格段に異なる出来です」
「え、ええ!? 悪いけれど、今、そんな暇は…」
「事件にしないように言われているのでしょう?」
「う。ま、まあ、でも、あれは姉のエゴで…」 
「だったらショウタイムにしましょう」
「絶対に似合うから着てみてください!」
「高級な布地で縫ってありますの」
 ぐいぐいと衣装を進めてくるなことみかに、あしほはたじろいだ。
 彼女たちの理屈はあしほにもわかる。
 あしほがポスター探しを宝探しに置換したのと同じ理由で、蘭奪還の過程をパフォーマンスに仕立ててしまえばいい。
 観客がいないとしても、少なくともそれで首謀者たちの罪は軽くなるはずだ。
 その考えに彼女たちが応じてくれれば、だが。
 あしほは逡巡する。
 問題は蘭を取り戻せるか、その一点ではない。
 あしほが置き去りにした者たちの心を取り戻せるか、だ。
「あしほさん」
 みかが、一歩進み出た。
「姉がご心配をおかけして申し訳ありませんがよろしくお願いいたします」
 深々と頭を下げる。なこにそれも倣う。あしほは、その真摯な妹たちの姿に抗えなくなる。
「…わかった」
 手を伸ばし、その衣装を受け取った。
「妹って、苦労するものなのよね」
 蘭やしのぶが聞いたら反論するであろうと思いながらも、あしほはつぶやいた。
「本当、その通りですわ」
「同感のスノウスマイルですっ!」
 無邪気に妹たちは笑いあった。

 ☆

 スマートフォンが鳴る。
 会長は通話ボタンを押して応じた。
「はい」
「豊田あしほ会長だな。決心は固まったか?」
「ええ」
「ふん。所詮、その程度でしかなかったのだな。貴様らの計画はそもそもが矛盾していたのだ。秘匿されるべき趣味を衆人環視のもとにさらしても意味がないのだ」
「蘭は」
 あしほは、その首謀者の言葉を断ち切るように問う。
「蘭は、無事でしょうね」
 冴え冴えとしたその声の響きに、通話機の向こうの首謀者がしばし言葉をなくした。
「ふ、ふん…まあ安否確認くらいはさせてやるのだ」
 気を取り直して、移動するような気配が感じられた。すぐに聞き慣れた声があしほの耳を打った。
「会長! 蘭…ごめんなさい…ごめんお、蘭が迷惑かけてっ…」
 ああ。
 たった半日会っていなかっただけなのに、と、あしほは思った。
 少しだけ笑う。それから頬を引きしめて、こう叱った。
「本当よ。台風がきても雷が鳴っても、絶対成功させるって言ったくせに…あなたは!」
 受話器の向こうで、蘭が息を呑む。
 それへと、問いを発した。
「『堰内君。世界には』?」
 それは暗号だった。
 蘭は、すぐに応じた。刷り込まれた犬のように覚えている。
「『とけない謎など何もないのだよ』」
 居場所は、わかっている。
 そういうことだ。
 テロリストの一味は、その倉庫の扉が開くのを驚きを以って眺めることになる。
 それは、外側から開かれた。
 軽快なミュージックと共に。
「セーラールーンセラセラルーン…」
 すっとミニスカートから伸びる脚。
「ルーンキャッシングエラー…」
 胸元にはリボン。髪はツインテール。
「ウェイクアップ!」
 額にティアラ。掌にはロッド。
「ツケに代わって押し入りよ☆」
 一言一句過たず、あしほは諳んじた。
 クレジットカードの借り入れ審査からはじかれたせいでツケを払いきれなくて強盗になったような文句だが、公式の文句なので間違いではない。魔界で借金を重ねた少女が人間界に降りて強盗を重ねていたところ、その身のこなしを生かして魔法少女にならないかと魔的小動物が声をかけるところから物語が始まるのがこの『魔法美少女セーラールーン』だ。
 もうその人には迷いも無く、ポージングも完全で美しい。
 そこには、完全無欠の魔法少女が立っていた。

第五章 Out of Blue

「何が」 
 文芸部の部長は眉間に皺を寄せた。
「セーラールーンなのだ、ふざけるなあ! っていうか、謝るのだああ! とにかくいろんな人たちに謝るのだああ!」
 ポージングを静かにおさめて、あしほは真顔になる。
「そう、ですよね…」
「オタク文化をさらけだすなと言っているそばからコスプレでご登場とは何事なのだああ!」
 頭を掻き毟りながら、地団太を踏む。指先で背後の蘭を指し示して、文芸部部長は怒鳴った。
「御剣はわれらの手の内にあるのだぞ!」
 示された先の蘭を見て、あしほは瞬間無表情になった。頬を火照らせて目をそらす。
「ごめんなさい。お楽しみなら邪魔しない方が良か」
「この縛り方は趣味ではなくてこれしか資料がなかったのだああっ!」
「会長、馬鹿言ってないで助けるお!」
 蘭が訴えると、あしほは笑ってみせた。
「それは無理」
「諦めた!? 何しにきたお!?」
「だって」
 ぐるりとあたりを見渡して、あしほは穏やかに微笑む。
「私は一人だけれど、相手は大勢いるし、腕力では剣道部部長の竹下さん、知力では文芸部部長の松平さんにはかなわないもの」
「冷たいおおお!」
 蘭は泣きそうだ。
 名を呼ばれた剣道部の部長、竹下みおは笑ってみせた。
「あらあ、ご自覚があるのはいいことですうう」
「ええ。降参します、コスプレネーム華蓮さん」
「は」
 みおの顔が凍りついた。
「それから、オリジナルBL小説サイト『真夜中』の管理人ハルカさん」
 まっすぐに目を見て言われた文芸部部長、松平悠美は強張った。
「ひ」
「な、何のことですのおお!」
「まったく何を言い出すのだ、貴様ああ!」
 二人は恐慌状態に陥った。
「ごまかす必要はないわ。こっちが華蓮さんの夏のコミサの写真」
 あしほは、胸の隠しから、ゲームのヒロインのコスチュームに身を包んでいるみおの写真を取り出した。あたりのメンバーがざわめいた。
「部長!?」
「憧れの部長がコスプレイヤーだったなんて…」
「や、やめるですうう! わわ私の、それは、ちょっとした、あの…違うですうう、妹がレイヤーなものだから、夏と冬のコミサは付き合わされちゃうんですうう!」
 ひそひそと囁きあいながら、部員やほかの生徒たちがみおの周りから引いていく。
「ちょちょちょっと何ですのおお!」
「剣道部部長、隠すことはないのだ」
「うあうああ! やめてくださああい! 私はそんなんじゃありませえん! あなた方みたいに男同士の恋愛漫画や恋愛小説で喜ぶ趣味はないんですからああ!」
「大きなお世話なのだ!」
 あしほは、更に隠していた文庫本を取り出した。
「これが夏のコミサでハルカさんのサークルが発刊していた新刊。文庫版って結構印刷代がかかると聞いているわ。人気があるのね」
「男同士のラブに萌えて何がいけないのだ、何がいけないのだ、いいじゃないか別に!」
 分が悪いと知った途端に、ハルカ、もとい悠美は開き直った。
 きっと二人はあしほを睨んだ。
「愚弄するなら許さないのだ!」
「仲間割れさせようという魂胆ですわねええ!」
「いいえ」
 あしほは堂々と声を張りあげた。
「私は、豊泉寺女子高等学院生徒会会長です。生徒たちに関して知らないことはありません」
「だ、だ、だからと言って、人の弱みを握るなんぞ卑怯極まりないのだ、この外道!」
 己を棚にあげるとは、このことだ。
「ごめんなさい」
 あしほは、頭を下げた。その一言に、少女たちが静まる。
「見守るという、その名目で、あなた方のことを掌握するのが仕事だと思ってました」
 それは、あしほにとって、当然で、あまりに自然すぎて、改めて詮議することすらしてこなかった行為だ。
「だけど、その趣味を弱みだなんて言わないで下さい。私は、憧れていました。あなた方に…学外で、自由に創作をして、自分を表現して、そんな風に趣味に打ち込める皆さんに」
 あしほは、スマートフォンを取り出す。画面を操作し、それを掲げた。
「これが私の書斎です。ご確認ください」
 少女たちは、その画像を見て静まり返った。
「こ、これは…い、異常ですうう!」
「この量…もう書店の域なのだ!」
 書斎と呼ばれたそれは金庫室に相違なかった。びっしりとボーイズラブ関連の漫画や小説が並べられている。その規模と量が尋常ではない。悠美はうろたえた。
「も、もしや、貴様…」
「ええ。こんな格好で言うのもかなり極っているようで恥ずかしいけれど…私も、松平さん、あなたと同じ腐女子です」
「何…だと…」
 少女たちは騒然となった。それ以上に一驚したのは蘭だ。
「か、会長…いいのかお!? よ、よりによって、学園祭で…こんな形でみんなに知られちゃうのはっ…!」
「いいの。蘭。ありがとう。あなたが勇気をくれたから大丈夫」
 あしほは凛々しく言い放った。
「あなた方の秘密を暴くような気持ちではありませんでした。けれど、謝ります。申し訳ありませんでした」
 悠美たちに対し、深く頭を下げた。一同はあしほの思いがけない従順さに動揺を見せる。しかし、竹下みおがその雰囲気に抗議するように腕組みした。
「いい度胸ですう、会長。誠意を見せてくれるというなら、要求を呑んでくれちゃうというわけですかああ」
「いえ、それはできません」
「お、おい、竹下…」
「松平さん…いいんですかあ? 私は許せないですうっ。いいですか、みなさあん! こんな人を許していいと思うんですかあっ! いくら学校を統括する権限があるとはいえ、私たちの秘密をどこまで把握しているかわかったものではありませえん! 人の秘密裏の楽しみを暴いて、何が憧れですかああ!」
 みほは、スマートフォンを取り出した。
「学園祭を中止しないなら、最後の手段を実行しちゃいますうう!」
「竹下さん!」
「いざというときのためにい、十八禁のポスターを貼る準備をさせちゃってますうう!」
「だめ! 小さい子が見たりしたら大変だわ!」
「会長は人がオタク趣味を隠すためにい、どれほど気を使っちゃっているかあ、わかるんですかあっ! 私はあ、コスプレのためにい、スタイルを維持しちゃいながらあ、レイヤーであることを隠しちゃうためえ、リア充を装ってきちゃいましたああ! 苦労を踏みにじっちゃうような真似をしちゃったのはあなたですう! みんなの宝物を政治利用しちゃおうとしたのはあ、会長ですう!」
 オタク趣味を完全に秘匿してきた分だけ、みほの怒りは激しかった。表面上では押し込められ、潜伏していた不満が爆発したのだ。
「今すぐ指示を出しちゃいますうう!」
「だめえっ!」
 あしほが腕を伸ばす。みおが逃れようとする。スマートフォンの通話ボタンを押しながら倉庫の外へとまろび出た。しかし、その足はその場から動かなくなった。
「御苦労さん」
 その扉の外には、奨学生の群れが待ちかまえていた。みおたちのやりとりを聞きながら動向を探っていたのだ。不良たちはそれぞれ腕にポスターを抱えていた。すべて、最初に捕まえた生徒からしめあげて場所を吐き出させ回収してきたばかりだ。みおは、不意を突かれて立ち尽くす。
「な、何ですかああっ!」 
「人のことは言えねえけどよ、あたしも。あんまり迷惑かけるんじゃねえよ。つまんねえだろ、そんなの」
 赤い髪の少女が、みおの手から安々とスマートフォンを奪った。
「く、くうううっ! こんな兵隊を用意しちゃっていたとは卑怯ですう、会長うう!」
 みおを追いかけて出てきたあしほも呆然となる。
「…あ、あの…あなた方は」
「勘違いすんな」
 あしほの真摯な眼差しに耐え切れないのか、不良の筆頭は目をそらした。
「祭りを見まわるのは反社会的組織の義務だからよ」
 それから、みおを睨み据えた。
「いたずらがすぎるんじゃねえのか」
「くっ…あなたたちいいっ」
 ヤンキーと生真面目な生徒の相性は悪い。ぎりぎりと睨みあう。
 だが、後に引けなくなったみおに声をかけた者がある。松平悠美だ。
「竹下」
「な、何ですかあ、腐った部長さあん」
「腐ってて悪かったな! いいから、もう、やめにするのだ。どう見ても私たちの負けなのだ」
「け…けど、それはああ…悔しいですうっ」
「それにな」
 のんびりと、文芸部部長は告げた。
「私は、もう少し、おまえのレイヤー活動について伺いたいのだ」
「…は」
 みお含め、一同は意外な言葉に静止する。
「いいじゃないか。おまえの艶姿。何だ、その。私は見劣りする容姿だから自分では行わないが、実を言えばイベントでそうした人を見かけると許可を得て撮影させてもらうこともあるのだ」
「え? え…そ、そうなの…ですかああ? い、意外ですう…」
 自分の趣味を文芸部員が肯定した途端、みおは目をくるんと見開いて素直な反応を見せる。コスプレイヤーという自らの体を張る趣味の主には生物としてのプライドがかかっている。BLを愛好する一方、コスプレイヤーを撮影することもあるという悠美の一言には真実味があった。だからこそ、みおをぽおっとさせた。怒気がたやすく霧散していく。
「…いいじゃないか。私たちが仲良くなれたってことで」
 それを聞かされたみおは、戸惑いを隠せない。
「松平さん…私と友達になりたかったのおお?」
「さぁ…よくわからん。イヤ…違うな…」
 どうやら二人の世界にはまりこんでいる様子を見て、あしほも、奨学生たちも、ほっと胸を撫で下ろした。
「良かった…蘭、大丈夫?」
 すぐに会長は友人のもとに駆けつける。
「大丈夫だおっ。それより会長、似合ってるお。セーラールーン! さまになってたおっ」
「あ。あはははは」
「うひひっ」
 縄を外すと、途端に蘭はあしほにぎゅっと抱きついてきた。
「ありがとう、会長! 大好きだおっ!」
「ちょ、ちょっと、ばかっ」
 あしほはよろけながらもその身を受け止めて、抱きしめ返した。
「良かった、あなたが無事で。蘭」
 少し涙ぐんで、そうした。
 二人を遠目に見守る赤髪の少女に、仲間たちが声をかける。
「一件落着ってとこっすかねえ」
「まあな…ん?」
 ざわり、と少女たちが色めき立った。体育館裏の遊歩道を悠然と歩いてくる者がある。ダークスーツに撫で付けた髪。生徒でないのは一目瞭然の中年男性だ。学外から訪れた者でもなかった。
 豊田凪。あしほの父である、その人だった。
 どの者よりも真っ青な表情で、あしほはそれを出迎える羽目に陥った。何しろ、身に纏っているものは、誰が見ても浮かれきった魔法美少女戦士の格好そのものなのだから。
 娘の前で歩みを止めると、豊田の婿養子は半ば呆然としながらもこう問う。
「……わからんな。何故おまえはコスプレをした?」
「……。……。……」
 答えに窮した末に、枕詞に追従する句のように少女は返した。
「……それは……なにゆえ人は服を着るのかという話でしょうか?」
 ひゅう、と親子の間を冷え切った風が吹きぬけた。

 ☆

 教員たちは久方ぶりに姿をあらわした理事長を、手厚くもてなしたがった。
 それを一切断ると、凪は応接室に蘭とあしほを通した。
 本皮のソファに座り、対面する。
「あしほと仲良くしてくださって、ありがとう」
「そ、そんな、御礼を言われることじゃないおっ」
 お叱りを受けると思いきや、開口一番礼を言われた。正面から理事長に頭を下げられて、蘭はぶぶぶと掌を振る。しかし、次の一言に凍りついた。
「だが、これきりにしていただきたい」
「へうっ」
 妙なしゃっくりのような声をあげて、蘭は黙った。凪はあしほに向き直る。
「アニメや漫画を好むことについて、私は追及しないよ。あしほ」
 語りかけられて、あしほは顔をあげる。
「で、では…」
「しかし、学校の方針にそれを用いようとしたのは良くなかった。脅されてそうなったというのも良くなかった」
「そ、その言い方はおかしいお…? ら、蘭が…蘭が悪いお!」
「御剣さん、あなたのことは伺っていました。しかし、責められるべきはその隙をつくったわが娘。わが一族の後継者のご友人をつとめていただくにはあなたでは荷が重いと伝えています。私ですら檀家であるから許された婿養子だが、直系の娘は生涯を捧げる身。お友達としてのお付き合いはありがたいが…これきりご勘弁ください」
「ご、ごかんべんって…何言ってるお?」
「あなたにはご両親がいないと聞いている」
 紙片と、ある書類を凪は机上に置いた。
 相当の額の小切手と、遠方の私立学園への編入手続きの書類一式だった。
「これ以上、わが娘がご迷惑をおかけしないよう、あなたはこちらの学校に入っていただきたいと願います。もちろん、あなた一人とは言わない。妹さんも一緒に編入させるし、学費は豊田が負担する。それから、少ないですが、こちらは生活費だ。当面、あなた方が卒業して社会人として自立できるようになるまで生計の助けとなる額です。あしほが、ご迷惑をおかけしました」
「な、な、な、な…」
 わなわなと蘭は震えた。
「ふざけるんじゃないおおおっ! 憤慨のボルケーノだおおおっ!」
 強烈な怒りをあらわにする。思わず妹の口癖が飛び出て、土石流火砕流が四方八方に飛び散りそうだ。
「ら、蘭が脅したのに、どうして、父親が会長の代わりに謝るんだお! 第一、こんなお金っ! だいたい蘭から見たらおかしいお! 好きになったらいけないものなんかない! 友達に条件つけられたりする人間が、なんの教えを説けるんだお!? どんな苦しい修行をつむのもお経を読むのも、そんな束縛に比べたら道楽みたいなもんだお! 会長の現実の苦しみに一滴だってかなわないお!」
 蘭はその小切手を引っつかむと、勢い良く破り捨てた。
「では、あなた様はわが娘の身代わりになると仰られる」
「お父様!」
 あしほは驚いて、立ちあがった。
「私や姉さんの身代わりなんて、誰にもできません!」
「いいや、あしほ。その御方は、どうにも怪しい術をお持ちのご様子」
「え…?」
 あしほは、訝しげな目をして蘭を見た。そうしてしまった。思わず、危機的な状況に於いて、余裕を失っていたがために、そうしてしまったのだ。視線が絡んだ。
 蘭は、悲しげな目をして、笑った。
 あしほは自覚する。そのような目で見てはいけなかった、と。
「蘭…」
「な、何のことだおっ? 蘭は蘭だおっ」
 それはいつもの蘭の口調だ。わがままで身勝手で強引な、蘭だった。あしほはわずかに安堵する。
 しかし、少女たちが考えるよりも父親は冷酷だった。蘭の手から免れた書類を、人差し指でとんと叩いた。
「御剣さん。あなたはこの紙の文字がどのようにお見えになりますか」
「ふえ? 何の話だお?」
 蘭は首を傾げた。
「お父様…おやめください!」
 あしほが制止しようとするが、凪は尚も言葉を重ねた。
「わが娘には、この文字に色がついて見える。それだけではない。付属して音が聞こえ、人の気配に付属する光や色をも目視する」
「…え? え?…」
 蘭はあしほを振り返る。あしほは俯いた。
「その色や音を感知する感覚、現代では共感覚といって解明されつつある現象です。しかし、科学がそこまで発達していなかった時代、私たちの一族に代々その感覚を有して生まれた者は寺の住持をつとめる素養があるとされ、そのように義務付けられてきた。その方針は変わりません」
「だ…だからって、会長が、そんな…」
「わが寺の経典を正しく読むのに必要な感覚です。これは重要なことだ。私たちの寺の檀家には国家の中枢にある方々もおられ、一族間の関わりは深い。その寺宝をないがしろにして、そこらの馬の骨に経典を読ませれば、寺の信用に関わる不祥事となりえます。信者の皆様にとっても、これは大切なこと」
「き」
「しのぶが立場を放擲した以上、適しているのはあしほだけとなります」
「気色悪いお…そんな選び方…だって、だって、それじゃあ本人の意志はどうなるおっ!」
 蘭が青ざめてそう言い募ると、あしほはさっと顔を背けた。誰よりも自分がそう感じているために。
「か、会長…会長は、それでいいの?」
「……」
「会長…ねえ、会長…」
 小さく何度も繰り返し呼びかける蘭を充分に眺め、凪は席を立つ。
「本日一日くらいは容赦しよう。あしほ。おまえが陶冶されれば学園は無事で済む。そのお友達も…喫茶店も」
「お父様…」
「最後の祭りを楽しんでおきなさい。当然、おまえも家に戻るんだ」
 扉が閉ざされた。
 廊下に出た凪は、向かい側の窓辺で待っていた人物とそのまま対峙する。
「何もしてくれるな、しのぶ。おまえにはわからんよ。俺の立場では、あかりの妹や檀家のお歴々には逆らえん」
 敢えて邪魔をせずに待っていたあしほの姉は、一刀両断する。
「わかりたくもない」
 険しい表情でそれだけ伝えると、彼女は身を翻し足早に去る。聡明な長女が既に胸のうちで画策しているであろう何事かを、愚かな婿養子は察することもできない。
「いい加減、報酬なしにお家の伝書鳩というのも、うんざりだな…あかり」
 もういないその人の姿を求めて、彼は窓越しに空を仰いだ。

 ☆

 地下鉄に乗りたい。
「地下鉄に乗ろう」
 これが最後になるかもしれないなら、と。
 蘭はそう言った。
 長く深い地下を自動的に下るエスカレーター。
 前後に乗っている人はほとんどいない。のぼりのエスカレーターにはまだちらほらと学園祭に向かう親子連れや、他校の学生らしき人たちが乗っている。祭りのあと、大概の生徒たちはそのまま打ちあげという名目の体育館内で行われる懇親会に参加する。まだ帰る者はほとんどいなかった。
 何歩分か先に、蘭の背中がある。
 ああ、灰色だと、あしほは思った。
 忘れていた。
 関わりはじめた頃もまた、灰色が彼女と自分を取り囲んでいた。
 明るい色、鮮やかな色に取り囲まれるようになっていったのは、いつからだっただろう。
 忘れていた…どうやら自分はその灰色に戻る。それだけだ。
「私たちの違い、あなたは聞いたよね。いつだったか」
「こういうことだ、って言いたいの? 会長」
 その金色の髪が優しくかかっている肩が、小さく遠く見える。
「小さい頃から、文字に色が付いて見えたの。それが不思議なことだと思わずに大きくなって…ある日、知らされたの。うちの寺では殊更にそれが大切なしるしなんだって」
「豊田先生も一緒かお?」
「姉さんはもっと特別。音や光が具体的に私より鮮やかに見えるみたいなの。壁に遮られている向こうの空間でもその人の色や光が透視されたり、もう立ち去っていても、しばらくそこにいた人の声なんかがずれて聞こえるの。幼い頃はそれで悩まされていたみたい…私よりも長じているということもあって、周囲の期待を背負って…それで修練に励んでいた時期もあるのだけれど」
「…それで、先生は蘭の居場所も当ててくれたお?」
「そうだと思う」
 ずっと、こんなふうに蘭といられたらいいな。そう思う。
 いや、今までもそうしてみたかったのかもしれない。
 朝待ち合わせて、同じ場所に向かって発進する電車に乗り、帰りも時間をあわせて一緒に帰る。ずっと一緒にいる。そんな具合に、いつから望みはじめていたのだろう。
 かつて、御剣蘭のことは苦手だった。
 だから、あの日、先生に指摘して私物を回収させた。
 それをこっそり持ち帰った。
 そうする前から気にかかっていた。
 何も包み隠さず、趣味を恥らうこともなく、誇り高くて、わがままで…
 だから。
 あれ、と、あしほは思った。
 その前。その前のことはわかる。気にかかる存在。苦手な理由。
 それから、雨だ。
 灰色の、雨が降っていた。
 あれは、いつのことだったろう?
 初めて会ったのは、中学に入ってから。そのはずだ。
 けれど、何かがおかしい。何かがあしほの内側で噛み合わずに軋んで唸った。
 何かを、自分は忘れている…
「かーいちょう!」
 気が付くと、蘭がこちらを振り返って顔を覗き込まれていた。
 エスカレーターで降り向いたら危ない。いつもならそう注意していただろうが、できなかった。
 空白の時間の真ん中にいて、蘭はこちらを見ていた。まだ降りきるまでには充分な時間がある。だからあしほは注意しない。蘭を見下ろす。もういっそ抱きしめたいような気持ちで。
「蘭、今日は渡したいものがあったんだあ」
 にひいっ、と蘭は笑った。
「こないだのコミサのときの御礼だって。本当は今日の学園祭が終ったら、渡そうと思ってたんだけど…今渡しておくお」
 蘭が鞄から取り出し、抱きしめているのはスケッチブックだった。
「はいっ」
 差し出されて、あしほはそろっと受け取る。
 ぱらぱらとそれをめくっていくうちに、少女の瞳は輝き出した。
「こ、これ…こんなもの…どうしたの」
 それは、あしほの好きな『ふも。』直筆の絵が綴られたスケッチブックだった。軽いタッチだが、あしほの好きなキャラクターばかりが描かれている。
「売り子してくれたバイト代に、って」
「そんな…だって、あの日は、いいっていうのに交通費やお昼代まで負担していただいて、新刊までくださって…こちらが御礼を言いたい方だったのに」
「会長は特別だお」
「でも」
「これは!」
 蘭は急に声を張りあげた。
 そっけなく弧を描く高い天井に、その声は反響した。
「これは会長が生まれて初めて自分の気持ちに応じて動いて得た報酬だお!」
 怒っているような。
 泣いているような。
 そんな声だった。
「自分の気持ちに…応じて…」
「だから受け取る権利があるお」
「権利…」
「ね? だから受け取ってほしいお」
「それは…命令?」
 あしほは、冗談にしようとした。くすりと笑ってみせた。
 すると、蘭は本気にして頬を火照らせた。
「ち、ちがうお。会長に、自分の意思でちゃんと選び取ってほしいんだお」
 あしほの意地悪な反応に傷付いたのが明らかだった。
 あしほは、離別の予感に神経質になっている己を知る。本当は意地悪を言うつもりじゃなかった。無意識に腕を伸ばしていた。蘭の肩を掴んだ。
「蘭…一緒にいよう。このまま、電車に乗って最後まで行こう」
 蘭が息を呑む。
「一緒に逃げて。何でも…何でもするから」
 エスカレーターはそうしている間にも二人を運んでいく。
「だめだおう、会長…そんなことできないお…そのお願いは…きけないお…」
「どうして!? 好きなのにっ… 好きなだけなのにっ…お父様も叔母様も酷い! 私から、好きなものを、学校を、友達を奪って…!」
「誰も会長にあげなかったキラキラしたもの、蘭がたくさんあげるお」
 蘭は、ぽんと会長の頭に掌をのせた。
「だから泣かないで。今会長の心は真っ黒で…怒りに染まっている…それじゃ…」
 あしほは、蘭が苦しげに顔を歪め、こちらに身を預けてくるのを抱きとめた。
「う、うう…」
 蘭が呻吟する。
「蘭? どうしたの?」
「あ、あのね…会長は会長でいてほしいお…蘭ね、蘭もね、お願いがあるお」
 蘭はポケットを探り、スマートフォンを掴んで取り出した。そして、あしほの目の前で操作すると、かつてあしほが恥ずかしいと思っていた画像を消去した。
「会長は、これで自由」
 これでおしまいだ、と言われた気がした。
「もう一人じゃないお。みかや、なこや、有子さんやしのぶ先生。ハルカちゃんや華蓮ちゃんがいるから…」
「そんな、の…いらない。蘭」
「会長、諦めないでほしいお。蘭みたいに…相手を追い詰めて急いで賭けに出たらだめだお。蘭ね。蘭、それでも嬉しかった。会長を選んで良かったお。ずっと死にながら生かされているみたいな日々のなかで、最後にひときわ大きく輝いている星みたいだった」
「い、いやだ…蘭…」
「会長、蘭を」
「やだ」
「忘れないでね」
 それは薄淡い光だった。
 月にかかる雲のような、淡い光を見た。しかし、その光はたちまち膨大なものへと成長する。
 確実な強い発光に目を射抜かれて、まぶたを閉ざした。ふと、体が軽くなる。
 蘭の体重が失せたのだ。
 いや、体重だけではない。
 蘭そのものが。
 少女は瞬きした。
「蘭…!?」
 いない。
 蘭のいた場所に、彼女の衣服も鞄も靴も残っていない。金色の髪の少女のいた風景そのものが、この世から一切取り払われていた。
 最初から一人だったかのような感覚に陥り、あしほはあたりを見渡す。
 みるみるうちに改札へ続くコンコースが迫ってくる。
 あしほは、小さく強い白銀の光に気付いた。
 それは指輪だ。指輪だけが残っている。地下へ飲み込まれはしないものの、下へくぐるエスカレーターの振動に震えている。降りる寸前にそれを拾いあげる。唯一、確実に残っているそれを握りしめた瞬間、確認させられたような気持ちになる。蘭が、これを残して消えてしまったこと。
「ど…して」
 泣きながら、あしほは今降りてきたエスカレーターを見あげる。のぼりの側にも、くだりの側にも、その人の姿は無い。
「何なの…いやだあっ…」
 あしほは、その場に膝を折ると、小さな子のように嗚咽した。
「蘭…」
 物理的に人ひとりが消えることなどありえない。突然にそのような異常な現象に取り込まれた困惑もある。しかし、そうではない。
 そうではなかった。
 完全な混迷と絶望が少女の手足を掴み、心臓を握りつぶす。
「蘭…やだ…やだ、いやだ! やだあっ!」
 その人がいない。
「やだああああっ!」
 そのことが。
 乗客が連れてきた駅員は、少女を宥めるのに苦労した。
 蘭だけではない。
 翌日から、あしほの姿もまた、学院のどこにも見られなくなった。

『ふじょ☆ゆり 草稿 ~第五章まで』

『ふじょ☆ゆり 草稿 ~第五章まで』 玉置こさめ 作

電子書籍・同人誌で販売中の作品のサンプルです。 全貌は作品本編でお読み頂けます。 特設ページ:https://peraichi.com/landing_pages/edit/286973 

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更新日
登録日 2018-05-25
Copyrighted

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