ふじょ☆ゆり 草稿 サンプル
玉置こさめ 作
第一章 あしほと蘭
豊田あしほは、BLを愛する。
BLとはボーイズラブの略称だ。男性同士の恋愛を取り扱った漫画や小説の総称でもある。ホモセクシュアルの実際とはかけ離れており、そこには幻想まじりの恋模様が描かれている。
BLを愛好する女子を腐女子と云う。『婦女子』に自らを蔑む意味合いとしての『腐』をかけた呼称だ。腐女子には恐ろしい性質がある。BL作品ではない作品も、『萌え』を満たす象徴となることが多い。神の聖なる書でも、仏の尊い経典でも、作中に美男や好青年が大勢揃い、彼らの間で一定の友情が築かれていれば、腐女子のBL妄想の呼び水となる。女子の、女子による女子のための文化。公言するのは憚られる趣味だ。
あしほもまた、己の趣味に慎重だった。
通学先は厳しい女子高。そこに於いて、模範的態度を示す立場にある。
学校でのあしほは妖精に例えられている。手足は病的なまでに細く、黒髪は腰まで届く。しかし、痩せている理由は現実的だ。内訳に昼食代が含まれる小遣いの大半をBL趣味に費やすためにほかならない。髪が長い理由も、美容院へ行く代金が惜しくて伸びきった結果。清潔感を損なわないよう、それを梳いてみつあみにしている。
だが、この日曜日、あしほは黒い髪を高いところでひとつに括っていた。装いもジーンズにパーカーというラフな格好だ。靴もスニーカーを選んだ。身軽さを重視したのだ。
バスを使い、みっつめの停留所で降りる。アーケードの商店街では、まだ大半の店のシャッターが降りている。そのうちのひとつ、耕文堂書店の前に立つ。
時間は八時四十分。店の開店は十時。まだ一時間以上あるが、じっとしていられなかった。
そっとあたりを伺う。誰も知り合いのいないことを確認する。
学校だけではない。あしほは家でも厳しく監督されている。現在は親元を離れて、その持ち家で暮らしている。しかし、どちらにしても、住居からは娯楽が淘汰されている。ある種の洗脳が強いられるような環境だ。同性愛の表現を詳らかに綴った書籍の所有を許されるはずがない。あしほの隠し方は海賊が財宝を隠すように念入りだった。
商店街には早朝開店のコーヒーショップがある。そこで待つことにした。
目当てのタイトルは一般向けの推理小説。あしほにすれば、聖典と言える特別なシリーズだ。カウンターでカフェオレを注文し受け取る。席につく。鞄からこれまでのシリーズのうちの一冊を取り出す。最新刊を手にする前に、今までのストーリーをおさらいしようという考えだ。
貪り読んでいれば一時間など取るに足りないこと。気が付くと書店の開店時間をすぎていた。コーヒーショップの硝子窓の内側から、書店の出入り口を目視する。店員がシャッターをあげた。あしほは勇んで身支度を整え、コーヒーショップを後にした。
書店に入ると、無駄のない動作で新刊のBL漫画を二、三冊渉猟する。
そして、一般書籍の山をハンターの眼差しで射抜く。
あった。
山と積まれた宝物を確認する。本命に手を伸ばす。ぱらぱらとその場で頁をめくる。
このとき、あしほは血に飢えた亡者の目をしていた。
「何読んでるん? 会長」
思わず、はいと返事をしそうになった。
豊田あしほは、生徒会長でもあるからだ。
一人の少女が、あしほの脇に並んで立っていた。
ブラウンの瞳。肩のあたりまで波打つ天然パーマの髪は金色。付け爪は派手でスカートは短い。通学用鞄には無数のチャーム。耳にピアス。唇は桜色。銀のアイシャドウ。日曜日なのに制服を纏っている。
あしほの頬が引きしまる。近所の書店でBL本を抱え、聖典を手に目を血走らせている――そのような痴態を決して見られてはならない相手。
クラスメイトだった。
「みつるぎ…さん…」
御剣蘭。一言であらわせば、ギャルだ。
あしほとは出身の中学校も同じ生徒。
そして、腐女子でもある。
平生なら中年男性が読むような一般推理小説。それを女子高生のあしほが掲げていることについて、一般の人間なら『文学少女なのかな』で済ませるだろう。しかし、相手は腐女子――それはまるで街中の雑踏で自分と同じカルマを背負う能力者に遭遇したような共感と洞察と驚愕とを互いにもたらす。そして、どう対応するべきかを互いに迫る特殊な事態なのだった。
例えそれそのものがボーイズラブと銘打たれていない一般書籍でも、ホモセクシュアルを匂わせるような描写があれば、『匂い系』と呼ばれてBLの大枠のうちにカテゴライズされる。そうしたタイトルは腐女子の間では通じやすい記号となる。
つまり、あしほの手にしている本が一般小説でもごまかしがきかない可能性があった。タイトルを見ただけで、それがどのような視点で手にとられたかを見抜かれる畏れがある。
ボーイズラブ文化では、受動的な役割を果たす男性を『受け』と呼び、受けに働きかける役割の男性を『攻め』と呼ぶ。この受け攻めの組み合わせをカップリングと呼ぶ。蘭はあらゆるカップリングのボーイズラブを恐るべき悪食を以って網羅している。
通常は腐った女子といってもさまざまで、ボーイズラブなら全部好きという者ばかりではない。カップリングの指向に対して好悪が分かれることもある。ストーリーを重視する者もいれば、絵柄にこだわりのある者もいる。いちゃついている甘い表現が好まれる一方で、シリアスで逼迫したシチュエーションでなければ読めないというタイプもいる。性描写に対しても、それそのものがNGの人もいれば、重要視する人もいる。千差万別だ。
しかし、蘭は周囲に公言するだけあって生半可な腐女子ではない。ボーイズラブであれば、アニメだろうと漫画だろうとラノベだろうとその餌食となる。カップリングのテイストとしても、苦手分野はないと言い切るから恐ろしい。
御剣蘭の目からは逃れようがない。
だが、退却の道筋が閉ざされたわけではない。
ここで引いてはならない!
あしほは相手を見据えた。異能力者同士の腹のさぐりあいが、今ここに開始される。
生徒会長はまず自衛手段を一考する。
早い話が、嘘をつこうとした。
「こ、これはね…ええと、そう、家族に頼まれて買いにきたのだけれど…」
そのときだ。
「『堰内君。世界には』?」
蘭が、問うた。
「『とけない謎など何もないのだよ』」
「うふふふふ! 今、何て言ったお?」
「はっ…! あ、いや、今のは!」
『世界にはとけない謎など何もない』とは、あしほが手にする『神納堂』シリーズの主人公の名台詞だ。あしほの返答を聞いた途端、蘭の笑顔が輝いた。
あろうことか、あしほは、シリーズの名台詞を阿吽の呼吸で返してしまったのだ。
しかし、その名台詞は推理小説好きであれば誰もが知っているほど有名だ。
まだごまかす機会は残されている。すかさず、あしほは言い放った。
「か、勘違いしないで! わ、私が好きなのは、す、推理小説で…きゃ、キャラ萌えみたいな、さ、寒い読書じゃないんだから!」
悲しいくらいに噛んでいる。しかも相手は聞いていない。
「会長…日曜朝からBL漫画がっちり持っちゃってるって、相当好きでそ?」
時すでに遅し。骨付き肉を見つけた犬のように蘭は食らいついてきた。優秀なる生徒会長は今更ながらBL本を背後に隠す。
「これは、ちがっ…やめなさい! にやにやしながら人の頬を人差し指でぐいぐいするのはやめなさい!」
これだからギャルは苦手だ。あっという間に会長は劣勢に陥る。
「いいじゃん、会長! 『神納堂』シリーズなんて渋すぎだお! 誰萌え? 朝彦萌え? 文筆家の堰内克己? 探偵常盤津雄ニ郎? ま、まさかガチで肉体派刑事の射場丈太郎!? ガチで兄貴萌え? って、蘭うるさい!? 蘭うるさい!?」
「実際うるさあい! 大声でそんな…っていうか、何で根津刑事が好きってことになってるの!?」
「そっか! 違うキャラ!? 当てるから黙って! 会長、若い子が好き?」
「キャバクラに男性客引っ張り込むホストみたいになってきた」
「わかった! 根津の後輩の若手刑事、黄金の眼鏡因果律を有する赤城勘蔵!」
「違ううう!」
あしほは声を振り絞って叫んだ。
「私が好きなのは常盤津探偵の助手の臼田こうい……! あ!」
「ああ、探偵助手臼田幸一かあ」
「はあうっ! 今のなしいいい!」
否定したいのは、若手刑事が好きか探偵助手が好きかといったそんな問題ではなかったはずだ。
にやりと蘭の唇の端がつりあがる。あしほの中で理性の箍が決壊した。ついに萌えキャラの特定を許してしまった。異能力バトルで言えば弱点を掴まれたようなものだ。見当違いなキャラを好きだと思われることは、腐った女子として許容しがたい由々しき問題。その自尊心を突かれた。恐ろしい罠にかかった少女は頭を振りながら膝から崩れ落ちた。
「やめて! 好きじゃない! あんな善良そうなお人よしなのに陰でねちねち何考えてるのかわからない奴好きじゃない!」
「く、詳しい…だと? 相当大好きと見た…」
「あああん! 私を見ないでえ!」
窮したあしほはついに物理的な逃亡を図る。
一階から二階への階段を駆けあがる。上へ、上へと。
しかし、あしほはまだ知らない。腐女子たるものの習性を。
――『萌え』には、罠がある。
「会長! 待つお!」
あしほの肩は揺れた。踊り場に立ち尽くす。
蘭がゆっくりと階段をのぼる。欄干を叩く。音が響く。
甲。
「その口調、臼田を受け扱いしてない…でそ?」
甲。
「一般に受け扱いのキャラを攻めって思っちゃうとつらいよね。王道のカップリングに比べちゃうでそ?」
甲。
「マイナーカプ萌え…つらかったでそ?」
甲。
「会長のツボはずばり…『臼田攻めの常盤津受け』だお!」
「いやああああ!」
屈辱と羞恥心から、あしほは耳を塞いでその場に座り込む。大正解だったがために。
踊り場に蘭が到着する。あしほの二の腕に手を添える。決定的と思われる呪文を放った。
「あの変態…いいよね」
この鍵はあしほの扉を解放させた。秘密の維持に執着してきたあしほにとって、それは解放だった。希望とともに、あしほの内なる萌えは外側の世界で承認される可能性を見出し肯定に至る。全ての精気を奪いつくされたような表情を浮かべたのち、その唇がきゅっと引き結ばれた。親鳥を見あげる雛の真摯な光を宿して、あしほは蘭を見あげる。真っ赤になって、
「うんっ…」
と、頷いた。
――落ちた。
駅前の書店。彼女らが何を言っているのかさっぱりわからないため見て見ぬフリをしてパッキングの作業に没頭する書店員。立ち読みに没入しようと精一杯な客たち。彼らを置き去りに、異能力者バトルは決着した。
そう。萌えには罠がある。あしほはその毒を知らずに染まりきってしまっていた。
萌えという毒は――溜まる。
蘭は、追及する姿勢をとりながら言葉の端々に作品の特徴を織り込むことであしほの趣味への共感を示した。そして、決定打だ。臼田というキャラの変態性の肯定は言い換えれば『激しく同意』という意味だった。
『激しく同意』――これは腐女子の固く閉ざされた心を開く魔の呪文だ。
「お、お願いいい…誰にも言わないで」
「言うわけないお? でも、会長…軽蔑してたでそ? 腐女子のこと」
あしほは身を強張らせた。蘭の顔が口付けできそうなほど間近にある。ブラウンの瞳。金色の髪。付け爪は派手でスカートは短い。自分が腐女子であることも隠さない。蘭。
御剣蘭が、いやだった。
――あれは中学校のときの話だ。
けれど、蘭はそのことを忘れていない。そう思わせる眼差しだった。
「それは…その…羨ましくてっ…」
「嘘だあ」
蘭の声は低く乾いていた。あしほは蘭の笑みが翳りを帯びるのを見た。立ちあがるのを見た。無造作にスマートフォンを取り出すのを見た。シャッターが切られる音を聞いた。
「会長にいいお知らせ。蘭は今日から女王様。会長は下僕だお」
撮影されたのだ。BL本をしっかりと抱きしめている姿を。
「う、あ…そんな! データ消して!」
世界が反転する。そんな感覚に突き落とされた。
誰であっても第三者に見られればあしほの平穏な生活には終止符が打たれてしまう。
「まあまあ。とりあえず蘭とメアド交換するお?」
意外な言葉に、下僕は顔をあげる。
「え…え? めーる?」
思わず凝視すると、蘭は何故か赤くなっている。
「だ、だからあ! メールで命令するお!」
「う。…じゃあ…これ…」
あしほは鞄を開くと、四角く薄いケースを取り出した。その中から一枚の紙片を蘭に差し出す。
「へ?」
蘭はその厚紙を手にしてまじまじ見つめる。
『豊泉寺女子高等学院生徒会会長豊田あしほ』
四角四面なフォントがあしらわれた名刺だ。少女らしさのあらわれといえば、蔦のような飾り枠が文字を四角く囲っているばかり。
「…会長は…どこの営業部長なのかにゃ?」
「でも、これ以外に個人用のアドレスは…」
「ちがうお! おかしいお!? おかしいお!? 女子高生なのに名刺て!」
ぱしんぱしんと紙の表面を叩きながら蘭は会長に迫る。
「赤外線は?」
「周波数の長い電磁波がどうかしたの?」
二人の間に、ふと沈黙がおりた。
「わ」
あしほは俯いた。
「わからないの、よく…使い方…」
蘭は呆然となる。ケータイやスマートフォンといえば、女子高生にとって必需品だ。あしほの表情には羞恥心がありありと浮かんでいる。しかし、蘭から追及の言葉は出なかった。
「じゃ、じゃじゃじゃあ、この名刺、本当にもらっていいお?」
「ど、どうぞ…というより、命令するんじゃないの?」
妙に緊張している女王様の様子に、あしほは首を傾げる。
「も、もちろんだお? 遠慮なくもらうおっ! 後でメールするけど、アドレス登録はできるでそ?」
「そ、それなら何とか…」
「うひっ。忘れたらだめだお。会長は蘭の下僕だお!」
下僕。その二文字に支配され、あしほが硬直する。
「う、うううー…」
「また明日ねっ」
ひらひらっと手をふると、蘭は駆けていく。淡い色の髪が太陽のもとに透けて煌いている。その背中を見送ると、あしほはがくりと項垂れた。
本日は愛好するシリーズの最新作の発売日。あしほにとって『萌え』の原体験に相当する貴重な作品群だ。シリーズそのものが発刊されない間、あしほの『萌え欲』の飢えを満たすものはBL専門の出版社の漫画のみだった。しかし、それらと聖典の価値は別にある。言い知れないむなしさとも今日でさよなら。ある種の記念日と言える一日だったのだが…別の意味での記念日となってしまった。
――忌まわしい記憶が一気に蘇る。
ああ、何てことをしたのだろう。蘭は恐らく覚えていたのだ。
しかし、あの頃の自分はそれほどまでに飢えていた。
☆
それは中学二年生の頃。
予備校の夏期講習の帰り道。
遭遇したのは、この耕文堂書店だった。
参考書を買うつもりで足を踏み入れたあしほを、異様な光景が待っていた。
そう。重厚なその本の詰まれているさまは異質なものだった。
運命によって与えられた、その一冊…『スルメの夏』は、とにかく厚かった。
吸い寄せられるように近づき、少女はそれを手に取った。感じられる重みに不思議と魅了された。カウンターへ持参した。代金を払い、包装されるのを待ち、鞄に入れて自転車の籠に詰め込んだ。帰宅すると夢中で読んだ。中身は、完全無敵の娯楽小説だった。息抜きであったはずの読書が、純然たる親の道具だったあしほの意識を歪めた。洗脳の壁に亀裂が入った瞬間だ。
面白い。面白いのだ。
それが『スルメの夏』をインターネットで調べようとしたきっかけだ。
俗に『神納堂』シリーズと呼ばれるそのシリーズは一般向けの推理小説だ。主人公の化野朝彦は『神納堂』という古本屋を営む男で、拝み屋でもある。事件を独特の弁舌で解説するのが特徴だ。シリーズ一作目の『スルメの夏』は初版でたちまち売り切れた。続いて刊行された『農協の箱』『軟骨の夢』なども大ヒット。機能美と呼べそうなくらい複雑に張り巡らされた伏線が一気に収束される物語世界は圧巻の一言に尽きる。もっと、とあしほは思った。もっとこのような小説が読みたい。
あっという間に少女は一連のシリーズを読み終えた。
それだけでは飽き足りず、作品について語り合える相手を探してインターネットに接する機会が増えた。そのうちに、あるソーシャルネットワーキングサービスにたどり着いた。そこは、ある意味で少女の終着点だった。腐った魂の生まれる源泉であり、感性の楽園だった。イラスト専用のSNS。少女は、そこで、生まれて初めてファンアートに遭遇した。
ファンアートとは、二次創作のこと。原作つきのアートだ。既存の公的作品をモチーフとし、原作者でない描き手が独自のテイストを加えて描き出すイラストや漫画の類を示す。
あしほは難なく『神納堂』のタイトルを示すタグを発見し、わくわくしながらイラスト群を抽出した。ブラウザ上で無数に展開されるイラスト群――それを見た瞬間に、少女の理性は凍りついた。
あろうことか、そこでは…
作中の登場人物らが、主に男性同士でひたすらいちゃついたり、いちゃついたり、そして、いちゃついたりしていたのだ。
これだ、とあしほは思った。確かにそれらの光景は衝撃だった。しかし、求めていたものだと瞬時に理解した。何よりも許しがたいのはこのような甘美な世界のあることを知らずに生きてきた自分の存在。それが何よりも悔やまれた。閲覧者にとっては原作に描かれない空想…いや、妄想の埋め草となるものだ。自分が求めていたものはこれだ。少女の内なる萌芽はその書籍そのものによって促進されたのではない。妄想だ。
妄想によって、あしほの洗脳は氷解したのだった。
そして、その瞬間からあしほには秘密ができた。
秘密は隠されなければならない。
だから。
だから、それまで意識していなかった『お仲間』即ち、腐女子やオタクといった人種のことが急激に気になりはじめた。
特に蘭のことは気になった。御剣蘭は、当時から、自分が腐女子であることを隠さずに生きていた。
あしほは、蘭や彼女の友人らが、己の趣味をあからさまに露呈するさまを疎んじるようになった。
それが昂じて、教員に密告をした。蘭の持ち込んだゲームや漫画を没収させたのだ。
しかも、あしほは、教員の目を盗み蘭の私物を密かに持ち帰った。
蘭は恐らくあのときのことを覚えている。だから、強気な態度をとったのだろうと思う。
あしほの目の前は真っ暗になる。
しかし、人目を忍びながらも宝の山を会計することは忘れなかった。収穫物を貪る気持ちは失われていない。腐った魂の悲しい習性だった。
☆
賑やかな商店街を抜けて車道沿いを少し歩くと、店の数はまばらになる。しかしドライバーを狙った飲食店の数は尽きることがない。そんな店のひとつに蘭は入ってゆく。看板には『喫茶エターナル』とある。しつらえは白木作りをメインとした素朴な造りだ。
蘭は軽い足取りでその店の扉を押した。明るく軽い音のベルが入店を知らせる。ウエイトレスが振り向いた。
「いらっしゃいま…あ、お帰り! 蘭お姉ちゃん!」
長い睫。丸みを帯びた瞳。ぽったりとした唇。くるくるの巻き髪をツインテールにしている。ミニスカートからすらりと伸びた足にはフリルとリボンのあしらわれたオーバーニーソックス。フリルブラウスは純白だ。エプロンドレスの胸元は大きく開かれくっきりと胸が強調されている。アイテムは清楚だがデザインが悩ましい。彼女のグラマラスな肢体もピンクな雰囲気を増強させていた。
ウエイトレスの名は御剣なこと云う。蘭の妹だ。
「ただいまっ」
「もう。お客さんと間違えるから裏口から入ってって言ってるのにぃ」
なこはぼやいた。
「えへへ。こっちのが早いんだお」
裏口から入ると居間をまわりこまなければ二階にあがれない。だが、店を抜けて中へ続くドアを開くと、階段はすぐ目の前だ。蘭は横着して正面から帰宅することが多い。客が少ないのをいいことに、蘭はレジカウンター脇のバスケットから、お土産用のクッキーを一枚とって袋を破いた。
「ああ、こら、つまみ食いはだめっ」
「おこづかいから引いていいお」
「もー」
「お帰りなさい、蘭お姉様」
カウンターの向こうから声がかかる。落ち着いたアルトだ。
「何かいいことあったの? お姉様」
なことは正反対のクラシカルな制服姿がそこにあった。なこが軽やかな装いであるのに対し、こちらはシックなロングスカート。色も抑え気味で露出度も低いが、シャツブラウスが胸元から覗かれるワンピース。エプロンは腰周りにぴったりと沿って結ばれているだけに、スタイルの良さがかえって引き立つ。長い髪をゆるく編みあげ、ヘアタイをアクセントにしている。控えめな顔立ちだが、黒目がちの瞳が麗しい。
御剣みか。蘭のもう一人の妹だ。
「あら。チラシでももらったんですか?」
「え? あ、こ、これは…」
蘭は渡されたまま手にしていた名刺を背後に隠した。
「うひ、ちょっとね」
肩をすくめる。
「何かの特典? いい単行本でも見つかりまして?」
蘭がBL本を目当てに書店へ向かったのを、妹たちは承知していた。
「まあねっ。じゃあ作業するおー」
逃げるような足取りで蘭は二階へあがる。
「はいはい。あとで珈琲持って参ります」
みかが応じる。
「お、お姉ちゃん、今日もがんばってね!」
なこが下から呼びかけてきた。
見下ろすと、ぐっと両の拳を胸元で握りしめている。重そうな胸が腕に押し付けられてせりあがっている。紅潮する頬はいかにも愛らしい。蘭はにっと笑って頷いた。
階段をのぼり切る。
じっと名刺を見つめ、頬を緩ませる。つくづくとそのエンボス加工の為された和風の紙の質感を確かめる。
窓から降り注ぐ日の光に翳した。
「うーん、高級印刷用紙『きらめき』とは渋い名刺だお…」
階段をのぼってすぐの部屋は三人姉妹の着替え部屋兼寝室だ。
そこで手早くジャージに着替え、隣の部屋へ移る。
そこは雑然たる一室だった。壁沿いの本棚にはぎっしりと漫画が並んでいる。その要塞の中央には、向かい合わせに二つの仕事机が置かれている。窓際にはパソコン用机とデスクトップ一式。床にも写真集や画集が相当に積まれ搭になっている。完全に作業専用の部屋だ。
上等ではない作業机。そこが蘭の席だ。
その机上では、純白の漫画用原稿用紙が彼女を待っていた。
粛々とその椅子に腰掛ける蘭の横顔はどこか職人めいている。原稿を脇によけ、カッティングシートを引き寄せて敷く。トーンカッターを取りあげた。カッターの軸には綺麗な細工が施されており、それは文様のように見える。くるりと回転させる。そのまま刃先を振り落とし、その名刺の紙面…少女の名の記された紙へと刺した。
すると、その手元からかすかな淡い光が生じた。
☆
デザイナーズマンションの並ぶ高級住宅街で、あしほはバスを降りた。
分けても真新しい設備の建物に入る。エントランスは指紋認証で行き来する人は少ない。最高階へ向かう直通のエレベーターを利用する者は更に限られる。
昇降機は少女を最高階へ運ぶ。到着すると、宮殿のような一室が待っていた。ワンフロアを使い切ったあしほのための間だ。天井にシャンデリア、床は大理石という豪奢な設え。リビングにはテーブルを四辺に囲むイタリア製のソファ。キッチンもバスルームも流麗な調度品で整えられ、寝室には天蓋付きのベッドがある。
エレベータの脇にはあしほを迎える者がいた。妙齢の美人だ。
黒のボタンダウンシャツに、長い胸当てサロン。セミロングの髪を清楚に結いあげている。カフェの給仕を思わせる服装だ。涼しげな目にすっきりしたフレームの眼鏡がよく似合う。
「お帰りなさいませ、あしほ様」
「ただいま、有子」
口調からは少女への敬意が感じ取られる。
あしほの家から遣わされた侍女。名を斧田有子と云う。
「お預かりしましょう」
あしほの荷物を引き取ろうとする。
少女は慌ててそれを制した。
「あ、これは…いいの。大丈夫。ありがとう」
「…さようですか?」
有子はキッチンへと戻る。
あしほは寝室へ入り、慎重な仕草で荷物を置く。彼女の勉強部屋は、同じ建物内のほかの階にある。本日の収穫はそちらへと密やかに収められることになる。
ワンピースタイプの部屋着に着替えて部屋を出た。有子が茶器をテーブルにセットしながら告げた。
「今日は凪様に時間ができたそうです。試験を仰せつかってます」
「本当!?」
あしほの顔はたちまち輝いた。
「食事の後になさいますか?」
「今すぐ! ああ…でも、お茶が冷めてしまうかも」
有能な侍女は艶然と笑みを浮かべた。
「そう仰ると思いまして蒸らし時間の長い茶葉を用意してあります。テストの準備もあちらに」
リビングを示す。テーブルの上にはA4サイズの紙と筆記用具が準備されていた。
「ありがとう。カウントを任せる」
あしほは玉座のような長椅子の中央に着席する。有子がその後ろに控える。タイマーを取り出すと合図した。
「開始」
合図と共にタイマーが押される。紙を裏返すと、あしほは一心不乱に鉛筆を動かしはじめる。本日の題目は物理だ。
「終了」
声と共に鉛筆を置いた。
解答用紙を受け取り、採点を終えると、有子は微笑した。
「九十八点。これなら本日は十分お話しいただけます」
「そんなに? よかった! 勉強した甲斐があった!」
そう。それは試験だ。
あしほが親との面会時間を得るための試験。点数に応じ時間が伸縮されるよう仕組まれている。
これが異常であるという自覚はあしほにもある。しかし、試験を受けないわけにいかない。受けなければ、面会すらかなわない。そうするべきだと思っている。この習慣がいつから始まったものかは、もう覚えていなかった。
ソファの正面には大型スクリーンが掛けられている。その脇のパソコンを有子が操作すると、呼び出し音が室内に響く。スクリーンいっぱいに映像があらわれる。半導体レーザーを利用した最新式のオンラインシステム。そこにあらわれたのはダークスーツの中年男性だ。彼の前髪は撫で付けられ、ネクタイにはタイピンが光る。柔和な表情で画面に向き合っている。
あしほの父、豊田凪だ。背後には誰もいない会議室が見える。オフィスの設備を利用しての通話だ。
「家訓」
通話がつながるとともに、室内のスピーカーから父の声が響く。あしほが応じた。
「浄財に感謝してすごすこと」
家訓のひとつを読みあげると、父は満足そうに微笑んだ。
「うん。久しぶりだね、あしほ」
「ご無沙汰しております、お父様!」
少女は笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
「ん? あしほ。やつれているようだが…」
「へっ? いえ、あ、あの、だ、大丈夫です」
まさかボーイズラブな趣味がクラスメイトにばれて脅迫を受けたせいです…とは言えない。つまらない懸念事項を増やして心配をかけたくなかった。
「そうか。順調か?」
「はいっ!」
「うん。おまえはしのぶとは違うからな…」
それを聞いて苦い思いが生じた。
しのぶとは、豊田しのぶのこと。あしほの姉だ。
また姉の話だ。そう思いはしたが、表情に出さずにおいた。
しのぶは、怪物だ。少なくとも、あしほにとっては化け物のような存在だ。
彼女とは恒常的に比べられて生きてきた。姉は成人すると同時に株式投資をはじめ、数ヶ月で一財を築いた。しかし、その金は全て親に明け渡して、自らの身を買い取ると言い放ち、『家業』を放擲した。そのままあしほの通学先に教師として赴任した。現在の住居は本家に教えずじまいだ。
姉がいない以上、家業を背負う立場にあるのはあしほだ。
姉と違うと囁かれながら、今では期待を寄せられている。
それは、あしほにとって、かつて渇望していたはずの期待だ。しかし、こんな形で背負いたかったわけではない。
「ところで、あしほ。小遣いの月額一万円を何に使っている? …内訳をすっかり話せというのではない。だが、昼食代もそこに含まれているだろう」
「ぎくり」
「ぎくりと口で言う人間を初めて見たぞ。何ならその金で食材を購入して弁当くらい作ったらどうだ」
見た目に反して庶民的なことを父が言う。
「有子が学内の活動に関与しないよう言いつけたのはおまえだろう。だったら少しは自立心を養わなければ」
「は、はい…申し訳ありません。お金は…参考書に…勉強の参考書に使ってます」
一体何の参考書だと云うのか。
「お前に必要か?」
「どきり」
少女は冷や汗をかいた。
あしほは勉強ができる。いや、勉強の必要がないほどに優秀な素養に恵まれている。優性遺伝の効能だ。それを承知している凪の前で下手な申し開きをするのは躊躇された。しばし沈黙が四辺を支配する。しかし、少女の父親はふっと息を吐いた。
「ま、いい。しかしもう少しきちんと食べなさい。どんなに多忙でも身の周りの所有物には感謝して常々気を払うように。消しゴムひとつとっても、浄財、財産だからな」
「お言葉ありがたく賜ります」
あしほは再び頭を下げた。
「ん? 時間を超過したか」
あしほの傍に控えている侍女に、父親が目を向けた。
「いいえ。時間通りです。凪様」
有子は恬淡と返事する。
「まあいい…あしほ。また話そう」
「はい、お父様。お時間ありがとうございました」
通話が切れる。
通話時間は十分の予定だった。しかし実際に有子の手元のタイムウォッチは十二分を示している。タイムオーバーに気付いていたあしほだが、直接そのことにはふれなかった。もしも下手に言葉にして、この先おまけしてもらえなくなったら困る。だから礼だけを告げる。
「いつもありがとう、有子」
侍女もまた何も言わずに一礼した。
☆
「失礼いたします」
あしほの夕食の準備を終えると、有子はサロンを外して一礼した。
彼女の住居はこのマンションの別の階にある。パートタイムであしほの世話をする約束だ。一礼してエレベーターに乗ろうとする有子を、あしほは呼び止めた。
「あ、ねえ。有子…あの…中学校のとき、私の同級生だった御剣さんについて、何かわかることはある?」
平静を装うつもりだったが、顔があげられない。無意識に、少女はワンピースの裾をもじもじと握りしめる。しかし冷静な侍女は顔色ひとつ変えずにデータをはじき出した。
「出席番号二十四で身長百五十センチ体重四十四キロ。家族は妹が二人いて豊島区在住、入試試験の総合得点二百八十六点の御剣蘭でしょうか。あの、一言でいえばギャルの御剣蘭でしょうか?」
「……充分だわ…」
「ご用命でしたら更に詳らかなデータを開示いたしますが」
「いえ、結構よ…何て言うのかしら…ありていに言えばきもい」
「きもい!? きもいってどういうことですか!?」
「いえ…だって…うん…きもい…」
「二度も!? 言葉を探し言いあぐねた末に二回も同じことを!?」
有子はあしほの周辺事情に本人以上に詳しい。それが役目といえ、こうまで把握されていると最早ストーカーの域だ。彼女の知識の集積はそのまま豊田の家のあしほに対する監視の威力をあらわす。それを知っているからこそ、あしほは侍女の所有する情報を私的に引き出すことにはいつでも慎重だった。
従って、侍女は驚きをあらわさずにいられない。
「一体その女生徒がどうなさったんです」
「ど…どうということのほどではないわ」
あしほは、完全にどうかなさった口調で目をそらす。
有能な侍女は追及せずに主の関心を満たすことに心を砕いた。
「同じ中学校でしたが、あしほ様に接点はなかったですわね。オタク趣味で、学外では不良仲間が多い一方で学内では文系の女子と連れ立っていることが多くございました。成績はいつも中の上。家の経済状況は厳しく確か妹たちと家計を支えているとか。性格は明るく、一方で短慮とも言えますでしょう」
「も、もういい…気持ちが悪い」
「今度ははっきり言いました!? ここまでは一般の父兄が共有可能な情報です。更に詳しい情報が必要でしょうか?」
「結構。調査なんて望んでいるわけではないの」
「しかし、あしほ様。聞き出す理由はお尋ねしませんが、あなたが関心を寄せた時点で調べずにおれないことはご承知おきいただけますでしょうね。必要ならまたどうぞ、いつでも。私は、問われない限りは口外しません。あなた様にも。それならいいでしょう」
「うー…」
そこまで言われては否やとは言えない。そもそも興味を示したのは自分の側だ。
「ありがとう、有子。助かる。でも、もう聞くのはやめておきもい」
「語尾みたいに!? 承知しました。では、これで…」
エレベーターに乗る前、侍女は実に穏やかな笑顔でこう尋ねた。
「本日、いい本には巡り合えましたか?」
「えっ!?」
あしほは目をぱちぱちさせた。凍り付いて動けない。呼吸が早まる。
「な、何のこと?」
「参考書のことです。では、失礼いたします」
「お、おやすみなさい! また明日!」
押し込むように侍女をエレベーターの向こうに追いやる。
扉が閉ざされるが、侍女の唇は笑みをかたどっていた。
落ち着かない気持ちでそれを見送ると、あしほはソファに倒れこむ。クッションを抱きしめる。
気付かれている…?
その可能性を示すやり取りだった。反芻してあしほはひとしきり悶える。
「うー…」
幼い頃から付き添ってくれていた有子が口外するとは思えない。あの侍女はいつでも自分と姉の味方だった。わかってはいても、やるせない。蘭について得られた情報が思い出された。
「短慮、か…」
有子はそう言っていた。確かにそうかもしれない。
自分を脅迫する、取引するなんてことは普通の生徒なら考えもしない。
いや。交流すらも…
あしほの眼差しに暗いものが生じた。
この天空の部屋は綺麗で快適。しかし、これは檻そのものだ。
そして、更なる堅牢な檻に明日も向かわなければならない。どうして自由を感じられよう?
ただ、好きなものにふれているときだけが自在な時間だ。
ただ、それだけが…
少女はソファに横たわったきり、まぶたを閉ざした。
☆
豊泉寺女子高等学院。
地下鉄を降りて、勾配の急な坂をのぼると、その総合学園の門が見えてくる。
かつてこの近辺は寺領を囲む農村地帯だったが、現在では核家族向けのマンションや総合商業施設の立ち並ぶ都会的な街並みだ。学院は、豊泉寺第七十世住職が昭和初期に創設した学びの庭だ。現在では幼稚園・小学校・中等部・短期大学が併設され、総合学園の立場を確かなものとしている。宗教教育を押しつけず、智恵と豊かな感受性を育むことを理念としている。通う生徒の家柄も成績も平均的で、ある特徴を除けば極めて自由な校風と言えるだろう。
校門をくぐる派手な装いの蘭にも、注意する者はいない。
「おっはおー」
「おはよう、蘭」
遊歩道を歩きながら、クラスメイトたちに挨拶する。宿題や先生の噂。そこに漫画やアニメの話題が加わることもある。どこにでも見られる登校風景だ。
そこへ、坂のふもとから黒塗りの車が直進してきた。空気がざわつく。長い車体は磨き抜かれ、陽光に輝いている。その艶やかな車体が門前で静止する。路肩に停められることもなしに、正面に、堂々と。
「生徒会長だ」
当然のように、生徒たちは道を開いた。萎縮するでもなく、強い関心を寄せるでもなしに。
豊泉女子高等学院は、けして堅苦しい進学校ではない。
私財に飽かせた豪奢なお嬢様学校でもない。
しかし、豊田一族により運営されている旨は特筆を免れない。いっそ、その一言に尽きる。
同学園の小中学校や短大に比べ、高等学院においてはその点が際立っている。
まず、学院の生徒会には民主的な選挙がない。生徒会の面子は理事がさまざまの基準に則り指名する。その信任か不信任のみを生徒が投票する。不信任の場合も別の生徒を理事が指名する。そして、豊田の血筋に近ければ近いほど、指名されやすくなる。それは生徒間の争いを避ける制度でもある。しかし、この高等学院は陰で豊田王国と呼ばれていた。
その王国の皇女にあたるのが、現生徒会長のあしほだ。
あしほは入学時から電車通学を願っている。こんな大げさな車でなくてもいいのに、と訴える。しかし侍女はそれを許さない。その侍女は運転手もつとめていた。先に降りると、あしほの脇の扉を恭しく開いて声をかける。
「どうぞ足元にお気をつけて」
恥ずかしそうにあしほは車から降りた。
「つ、次こそは電車に乗るんだから。目立ってしまうから、いいと言ってるのに…!」
「まあ。電車通学なんて許されません、あしほ様。いけませんわそんな清純なお嬢様の体に忍び寄る魔の手が無数に伸びて今公共の密室で彼女をさいなむ快楽の悶絶地獄…なんてことになったら、私…わたくし…わたくし…! ああっ…!」
ああっ…! ではない。
「何なの? 何を言っているの有子どうしたの本当に?」
自分を心配する侍女が心配で仕方ないお嬢様だ。
もはや心配を通り越してただの具体的な妄想となっている。
顔を伏せて頭を振り妄想に浸っていた有子は、ふとあしほの襟元に目を留めた。
「あら…あしほ様…タイが曲がっていましてよ」
すっと襟元に伸ばされた掌を、あしほは反射的に叩いていた。
「それはだめっ!」
「どうなさいました?」
「わからないわ。右手が…勝手に…なんだか…それはいけない気がして…」
まったく不思議な現象だった。なんだかそれはいけない気がしたあしほの右手が、勝手に侍女の手を叩いたのだ。どういう仕組みか解明しがたい怪奇現象だった。
「いいえ。そうですわよね正しいですわあしほ様。今の態度はこの場においてTPOをわきまえていたと言えますわ、さすが私のあしほ様。定番すぎるパロディは避けるべきですわ。登校時に校門の前で少女の制服のタイを直したりなんかしたら、それはもうまずマリア様の面前でロザリオの授受を前提とした特別な姉妹関係もとい絆を結ぶフラグですもの。第一あしほ様の制服にタイはありませんものね。あしほ様から『お姉様』だとか『薔薇様』だなんて呼ばれたら私脳髄が破裂しますもの、パーンて。そもそも発行元もレーベルも違えてはいけないほどに違えられておりますし、第一、私もう成人ですもの」
「有子? 大丈夫? 何の話? 誰と交信しているの?」
喋りまくる侍女を、さっぱり理解できずにあしほは見つめる。
そんな少女の髪を優しく撫でるに留めて、侍女は微笑する。
「いいえ、今日もご壮健であられますようお祈り申しあげます」
一礼する。
「ありがとう…行ってくる」
電波な侍女に対する不安をいまいち拭いきれないままに、あしほはその場を離れる。
今日も一日がはじまる。目を伏せて、学校の門をくぐる。
実質の権利を握っているのは、自分ではない。理事である父だ。そう。わかっている。生徒会長なんて名目も、お飾りだ。陰ではお人形とも呼ばれている。それでもあしほは校舎に向かう。
「おはようございます、会長」
行き過ぎる生徒たちが遠慮がちに声をかける。
「お、おはようっ」
あしほは笑顔で律儀に応じた。
遠巻きに見守りながら歩いていた生徒が、ひっそりとつぶやいた。
「はー。しっかし、疲れないかねえ、あのお姫様も」
「疲れると思うお」
「え?」
「疲れると思う」
声の発信源は、傍らで自分と同様にあしほを眺めていた蘭だ。
妙に会長に同情的な蘭を、同級生は訝る。
「…何言ってんの?」
「な、何でもないおっ」
蘭は我にかえって頭を振った。慌ててその場を離れて立ち去る。取り残された生徒は、いかにも奇妙なものを見たように肩をすくめた。あの生徒会長に関心を寄せるなんて、理解できないというように。
豊田あしほは、学園の権力体制を代表する存在だ。近づきすぎても、遠ざかってもいけない。まるで空気のように接するのが一番だと、誰もが知っている。
あしほも、それを自覚している。
毎朝、律儀に挨拶をする。けれど、それとなく目を背けられてしまう。どの生徒からも。だから、再び俯く。そうするしか、なくなる。
わかっている。
わかってはいるけれども。
このようにして生徒会長の一日は始まる。
不気味なほど、穏やかに。
☆
予鈴が鳴る。一限目は数学だ。指名されたあしほは、黒板の前に出て数式を解いていく。チョークの音は静かな教室に響き、その間は教員すらも沈黙している。回答に辿りつくと、若い女性の教員は拍手を叩きだしそうな表情でこう告げる。
「よくできました、豊田さん」
不自然な確率であしほは指名される。彼女の優秀なことを周囲に示すためにはうってつけの確率。まるで教員の間で不文律が成立しているかのようだ。しかし、あしほは何も言わない。
朝から教室に蘭の姿はなかった。登校していながら何故か授業をサボる。その癖を今まで気に留めたこともなかった。だが、今は違う。
昨日の記憶が蘇る。
『忘れたらだめだお。会長は蘭の下僕だお!』
「豊田さん…豊田さん?」
数学教師の声で気が付いた。
「あの、何か…あ、いえ、具合でも悪いの?」
教員の顔は真っ青だ。伺いを立てるような、いかにも怯えたような。
それはそうであろう。この学校の財源そのものの機嫌を損ねれば、雇われの身ではどうなるか。
だからこそ、あしほは完璧であらねばならなかった。学校を運営する人々、生徒、教員たち。自分が支える大衆のために、不安をかきたてる表情を出すことは許されない。
「先生、大丈夫です。何でもありません」
「そ、そう」
数学の教師は明らかに安堵した。記憶に相違がなければ、彼女はまだ着任して三年目。先日、学生時代からの恋人と結婚したばかりだ。これからという時期に職を失いたくはないだろう。あしほは着席した。あたりの視線が彼女と自分との間を漂っているのがわかる。
休憩時間になっても、誰も生徒会長に親しくは話しかけない。
あしほは妖精と呼ばれている。その理由は外見容姿のためだけではない。
それを見ることは誰でもできる。けれど、それの存在を認識してしまえば、厄介ごとを招きかねない。
だから。
妖精と呼ばれている。
早く。
今日も早く無事に一日が終ればいい。
今や彼女はそれのみを日々願っている。
☆
放課後は生徒会の定例会だ。
灰色の教室。つつがなく終えられる会議。
そこには熱情も混沌もなく、予め定められた冷静さだけが支配していた。
会議は終った。だが、あしほの手元にはいくつか片付けるべき書類が残っていた。
居残りして事務作業をしようとしたあしほに、声をかける者がいた。
「手伝いますよ、会長」
生徒会の一員の笑顔がそこにあった。
「いいの」
あしほは笑みを浮かべる。
「そうですか?」
「大丈夫。早めに終らせるわ」
茜さす夕暮れの教室。
少女の声は小さいがよく通る。
支配する者の声だ。命令することに慣れるよう、訓練された者の。
「では、お気をつけて」
誰ひとり、残したい友もいない。
手伝いを申し出た生徒は一礼した。社交辞令だったのは承知だ。その生徒には塾があるはずだ。
塾とはどんなところだろう。他校の生徒もいるという。
きっと彼女は勉強と共に、もっと大切なものを学んでいく。
普段は関心を抱かないそんなことが、何故だか今日は気にかかる。
淡々と、あしほは事務作業をこなしていく。
気が付くと日が暮れていた。
帰ろう。
学校を出ればまた車が待っている。
必要ないと願っているのは自分だ。
けれど、無用な気遣いかもしれない。
誰もが無関心のままに認識し、受け入れ、そして、見ないふりをするのなら。
そこに月があるのを見ていながら、当たり前すぎて空気のようにみなされる。
付いてくる月のような威光。
逃れられない月光ーー
「か、い、ちょ!」
不意に、下から顔を覗き込まれた。
あしほは、そこに人がいることを予感していなかった。感覚を遮断していた。
瞬きする。いつの間に生徒会室に入り込んでいたのか。
こんなにまで短い期間で、何度も間近に人の顔を見るのは、初めての体験だ。
「みつるぎ、さ…」
「もー、だめじゃん会長、だめだめだめだめ」
「ひひひたいいいいいい!」
いきなりだめを連呼されながら両の頬をつねられて、あしほは涙目になった。
「何するのっ!」
その手を払うと、蘭はにへへと笑った。
「蘭ねえ、何度もメールしたんだお?」
「あ、え? め、メール?」
慌ててあしほは鞄をさぐった。眼鏡をかけてスマートフォンの画面を確かめる。
確かに、『御剣蘭』からのメールが入っていた。
「そ。気付かなかった? 命令するって言ったじゃん」
「ごめんなさい…その…普段は何日かに一回くらいしか…見ないから」
「じゃあこれからは毎日チェックしてね。命令!」
「う。あ、は、はい」
思わず頷いてしまうあしほだった。
珍しそうに蘭はあたりを見まわす。紫檀で誂えられた会議机や、最新式のパソコン機器が揃っている。学生用の一室というより、商社の会議室のようだ。灰色と白だけで纏められた無機質な一室に、蘭の髪は眩く映える。コンクリートビルに野良猫の紛れたような光景。野良猫は少女を振り向くと、にひっと笑みを浮かべた。
「で、あの、な、何の用?」
「もちろん、命令しにきたんだお」
「う、うう…」
「ふふっ。会長、今まで生徒から投じられた施策案は取ってある?」
「え?」
「もっと言うなら蘭が提出した案だお」
豊泉寺女子高等学院生徒会では生徒の意見が広く募集されている。生徒会のホームページからも、生徒会室の前に設置された『ご意見ボックス』からも、それは寄せられる。
しかし、施策案と蘭は言った。それは学校の校風や生活を向上させるための具体的な提案であることを示す。そんな言い方にふさわしい案が提出されたとは聞いていない。どんな案を出していたというのか。あしほは、パソコンに向かう。過去の議事録や意見のバックアップを検出し、提示されたそのタイトルに眩暈を覚えた。あまりに非現実的な題目に、額を押さえた。
「私に届く前に否決された提案だわ…そりゃそうよ、こんなの…可決されるわけないじゃない…」
あしほは言い切った。しかし、蘭は鼻息も荒く腰に手をあてる。天井からスクリーンを降ろした。あしほのそばに寄ると、手元のキーボードとマウスを操作する。室内の照明が落ちて、備え付けのプロジェクタが起動した。ファイルを開く。タイトル画像が、スクリーンに映し出される。
『生徒補完計画 スクールジャパンプロジェクト』
熟考されなかったことが明らかな色色混ざったタイトルだ。蘭の手書きをそのままスキャンしてPDF化したファイルで、イラストつきの愛らしい雰囲気だ。
「『計画』をあらわす単語が二回用いられている…ですって…?」
よろめくあしほに対し、蘭は胸をそらした。立て続けにこう告げる。
「命令! この提案の実行を命令するお!」
「なっ…なっ…何言ってるの!」
さすがにあしほは机を叩いた。
「一生徒の要求を、会議も先生の目通しも全体承認も通さずに施行するわけない!」
「ふむう」
蘭は腕組みして、あしほを睨み据える。にわかにパソコンを操作する。
すると、スクリーンにある画像が映し出された。
「この画像をばらまかれて困るのは会長でそ?」
「ひっ…!」
それはあしほの決定的瞬間、ボーイズラブ漫画をしっかりと抱えている書店での画像だ。
「だ、だめえ! 映さないでええ!」
スクリーンの前に立って、画像を隠すようにあしほは手をばたつかせる。プロジェクタかパソコンの電源をオフにすれば済むことだが、それすら思い至らない。大写しにされた自分の痴態に冷静さを失っている。思い通りの反応に、蘭は満足げだ。
「まあまあ、会長。こっちきて座るお」
「うああん…」
蘭は半泣きの会長の肩に両手を置き、スクリーンの正面の席に座らせる。鞄から伊達眼鏡を取り出すと装着し、こほん、と咳払いした。センスの良いアイデアマンの雰囲気だ。ファイルの再生をオートモードにすると、指示棒を手にして器用にまわす。
「蘭のプレゼン、はっじまるおー?」
「強制を前提とした説明はプレゼンって言わないもの…」
「いいからいいから」
プレゼンテーションとは理解や承認を得るための発表のことだ。スクリーンには計画のねらいが大写しにされた。手書き文字のまわりには、やはり花だの星だのが描かれている。
『計画のねらい:学校を楽しくするため、個人と組織の垣根を解消する』
『計画の概要:会長と生徒の距離感を解消する。生徒全体の会長への特別意識をなくす』
『計画の全貌:生徒全員オタク化する』
最初の二点はともかくとして、三点目の項目を目にしたあしほはつぶやいた。
「意味がわからない…」
「失礼だお!」
「し、失礼はそっちでしょ! だいたい距離感ってどういうこと距離感って! プロジェクトだプレゼンだって、どんな堅苦しい目的があるのかと思ったら人が気にしていることをからかっているだけじゃないの! っていうか、生徒全員オタク化って…どこのアニメーション学院よ!」
「やっぱり気にしてるんでそ? 距離感」
「き、き、き、気にしてないっ!」
蘭は彼女の本音を聞き逃さなかった。小憎らしい笑みで問われて、あしほは赤面する。
「わ、私個人のことはともかく…せ、生徒会の人間としては…う」
蘭に背を向けたところで、正面の画面が切り替わった。例の証拠画像が再び生徒会長の眼前に立ちあらわれる。
「会長のこんな恥ずかしい姿見られたらどうなるかにゃ?」
「う、ううー…どうしてあなたがこんな計画をっ…何が狙いなの?」
「うーん…学校を楽しくするためだお?」
「へ?」
あしほは、虚を突かれた。
「会長は楽しい? 少なくとも蘭にはそう見えない。会長、第一ボタンまできっちり閉じちゃってるでそ。きちんとお行儀良くして、みんなのお手本で、好きな漫画もこそこそ買って部屋のすみっこで読む。そんなの楽しい青春って言わないお」
「さっぱりした調子なのに濃厚に辛口ね?」
「だからあ。学校の常識を刷新しちゃえばいいんだお。オタク文化を浸透させて、会長と生徒の距離を縮める。そうすれば会長が漫画読んでもいい雰囲気になるかもしれないでそ?」
「そ、そんな…それにしたって文化面を強調しすぎるのは…運動部も委員会からも反感を買うだけよ。第一! この学校はっ…」
「わかってる。お姫様の城砦だもんね。会長の一存より、理事の承認が重要」
当たっている。
「でも…だからこそ、命令するお。命令は命令。そうでもしなきゃ会長は動かないでそ?」
あしほには反撃の論旨が残っていない。
けれど、何か言わなければならなかった。幼い子供のように、あしほは頭を振る。
「だって…だって」
それは。
「学校をより良く…楽しく…みんなのために…なんて…」
そんなこと、いつだって考えていた。誰よりも考えてきた。生徒たちと必要以上に親しくしてはいけない。その理由もその立場も自覚している。だからこそ、いつだって配慮してきた。自分が生徒たちの生活を疎外しないように完璧に振舞ってきた。威光なんて示さないように、そのことで生徒たちの生活を風通しよくしようと配慮してきた。
泣きそうな顔であしほは抗議する。
「わ、私が、せめて…それくらいのこと考えて運営していないとでも言うの!?」
「そうだおっ」
そこに至り、あしほの嘆きは怒りへと転化される。これまでに溜め込んでいた不満が堰を切って溢れ出す。感じていたいらだちがあらわになる。言ってはいけない。そうわかっていながら、口にせずにいられない。
「あなたとは違うのよ! 私は!」
「蘭と会長の違いって、何だお?」
蘭は動じない。
「確かに外見容姿も性格も違うけど…実質的な違いって、どこにあるんだお?」
蘭の顔が間近にあった。そう問われて、あしほは瞬きする。全てが異なる。そう言えるはずだ。
服装が異なる。出自が異なる。性格が異なる。立場が異なる。けれど、違わない部分を知っていた。それは、何よりも大きな共通点。
同じものを愛する。
その点を知っていた。そこが重なるのなら、何も違わないとすら言い切れる共通点。その一致。
あしほには、反論を言い連ねることができない。けれど、否定しなければ。
「何もかもが違う!」
こんな粗暴な纏め方が反論とは言えない。あしほにもわかっていた。
けれど、蘭は一歩身を引いた。ひどく寂しそうに。
その表情に、説明のつかない痛みが生じる。見なかったふりをして、あしほは目をそらす。
「あ、あなたには、わからないっ…!」
こんな論旨は完全に弱者の意見だ。わかっていながら、そんな具合にしか言えない。
しかし、そこには殺気立った空気を木っ端微塵にする笑顔があった。
「だからあ! 何も会長の名前出さなくてもいいんだお。そのために…こ・れ・着・る・お☆」
「それ…何?」
蘭が差し出したものが何なのか、あしほは知らなかったわけではない。どういう目的でこの場に持ち出されたのか、それを理解したくがないために敢えて問いを発したのだ。
それは、フリルのあしらわれた魔法少女の衣装。見間違いようのない歴然としたコスプレ衣装だった。
「豊泉寺女子高等学院校則・生活に関する規則・第二条! 服装は清潔にして正しく整える。登校、下校の際は必ず規定および細則に定める制服を着用のこと。学校において私服を着用するときは行事を除き、これを禁ず。もし必要な場合は…!」
「異装届を提出せよ…でそ?」
衣服の脇に突き出された書類一式を見て、あしほは目をまわした。
「もう提出してあるお」
届出の空欄はすべて埋められており、その署名はしっかり豊田あしほとされている。提出内容は認可され、担当教員、校長の押印まで為されていた。あしほの願い出を受理しないわけにいかない。校長に至るまでが雇われの身であることを、知ってか知らずか。蘭は周到だった。
「わ、私の名前で、勝手に…!」
しかし、蘭はこう励ますばかりだ。
「頑張ってね。会長」
「ふ、う、うんぬぬうんぬーーーー!! ああああ! いやあああん!」
憤怒と悲嘆に悶え、会長はその場に膝を折って頭を抱えた。
☆
翌朝。
朝礼のために集まった生徒たちの目の前に、一人の魔法少女があらわれた。
桜色の衣装に身を包んだ魔法少女の名は、『ハードアクター☆かつや』と云う。
ある日突然、自宅の地下室から聞こえる声に呼び出され、マジカルで幻な『苦悩カード』を世界に拡散させてしまった男の娘☆かつや。次々に逃げ出したカードを回収するには、肉体を鍛え、危険な巨人の闊歩する非日常空間に身を投じ、回収兵団の一員として戦わなければならない。カードを回収しながら、再び自宅の地下室へ辿りつくためのワイルドでダークネスな冒険が今始まる…
アクションあり女装あり。そんな魔法少女漫画だ。
主人公は少年。しかし、彼の心はあくまでも少女。ゆえに魔法少女と称される。
あらゆる意味でマジカルなこの漫画はアニメーション化されるとともに国民的人気を得た。
つまり認知度が高い。そのことを踏まえ、蘭によって選ばれた礼装だ。
しかし、壇上に躍り出た少女は、実際には豊田あしほだ。
その事実は一目瞭然と言えた。
講堂内は、俳聖芭蕉が一句詠みそうなばかりに静まり返った。誰が見ても生徒会長豊田あしほの乱心に見える。
あしほ…いや、その魔法少女は、生徒たちの反応を見るとその静けさに負けない圧倒的な沈思黙考に陥った。そして、震える手で壇上のマイクをオンにする。
「月の力を秘めし鍵よ。真の姿を我の前に示せ。契約のもとかつやが命じる…」
魔法少女は叫んだ。
「ブリーーーフ!」
閑けさの支配するホールにしみいる声はハードアクター☆かつやが変身する折の魔法の呪文だ。
「み、みんなの友達、かつやです! こんにちは!」
幼児番組のお姉さん風味に呼びかける。狂気も針を振り切ると説得力を帯びるので不思議だ。
「今日は、生徒会の総意を伝えるため、会長の豊田さん代理として遊びにきました! みんな、元気かな?」
こんなハードアクター☆かつやは知らない。誰もがそう思った。
「今日からこの学校はスクールジャパン制度を採用します!」
はきはきと魔法少女が議題を読みあげる。そんなことを唐突に叫ばれても、誰一人理解を示しようがない。
「えっと…どういう制度かというと…み、みんなが仲良くなるために、エンターテイメントでつながろう! というざっくりした計画です! だ、だから、これからは漫画やDVD、フィギュアの持込みもあり! それから、文化面での才能を育む方針を宣言します!」
これは蘭の計画の具体案だ。その提示をすることが、今朝のあしほの命題であった。
しかし、豊田あしほがそれを宣言すればただの強制となる。
だからこそ、このコスプレ…身分を偽る行為は緩衝材として必然と言える。蘭はそう述べた。
「みんな、だいじょうぶだよ! 絶対だいじょうぶだから、ついてきて!」
ハードアクターの決め台詞、ピンチのときにかつやが仲間に呼びかける台詞を発する。すると、大丈夫ではないだろう…と言いたげに一同は沈黙した。幼子に呼びかけるような口調にも限度があった。
あしほの疑念は確信に変わった。
おかしい。
これはおかしい。
突然のフリーダムプランの提案にざわつく生徒たちの反応は、一言であらわせば『引いている』状態だ。
そして、ステージの袖の緞帳の陰から自分を見守る蘭はどう見ても前屈みで笑いを堪えているようにしか見えない。
「こ、これで失礼するけれど…み、みんな、よろしくね…」
半泣きの状態で、魔法少女は撤退する。
舞台袖で拍手と笑顔を以って蘭がそれを迎えた。
脱力してあしほは蘭を見据える。
「こんなことして…こんなことしたら、もう立ち直れない…!」
「今の姿は動画で収めたお」
「いやああああ!」
あしほがしゃがみこむ。
蘭はそのそばに同じようにしゃがんで、その頭を撫でた。
「よくできたお、会長」
「何であなたに励まされないとならないのっ。だいたい、こんなことしてただじゃ済まない…」
「会長」
蘭は笑った。
「絶対、だいじょうぶだお」
満面の笑みの蘭を殴らない自分は偉い。生徒会長は心底そう思った。
「あ、あの…会長…」
生徒会の一人が、おずおずと二人に呼びかけた。
「だ、誰のことかなっ? 私はハードアクター☆かつやだよっ☆」
語尾に星のマークまで煌かせながら取り繕うあしほからはある程度のコスプレイヤーとしての才能すら感じられる。しかし、誰にもそれを指摘する余裕はない。つい数分前まで彼女を尊敬していた生徒会の一員は残酷な用件を告げた。
「し、失礼しました。ハードアクター☆かつやさん…あの…その、か、会長代理とのことで、会長に伝えていただきたいのですが…」
この生徒、かなり親切心溢れる人間の範疇に入る。
「先生が…お呼びです…」
その言葉に、あしほは凍りついた。
「わ、わかった。伝えるが…な、な、何という先生かな?」
「豊田先生です」
「う」
「そのままの扮装…あ、いえ、そのままの姿で来てほしいとのことです」
とのことです…
とのことです…
とのことです…
伝達された言葉があしほの脳内でエコーする。豊田先生と言えば、この学校では一人しかいない。
美術担当の豊田しのぶ教員。
あしほの姉だ。
☆
美術準備室の前で、魔法少女の扮装のあしほはごくりと唾を飲み込んだ。恐ろしい。
しかし、恐怖心とも異なる恐ろしさだ。それは覚悟に似ていた。
「失礼します」
扉を開くと、そこには一人の女が待っていた。端正で、あしほよりも大人びた顔立ち。無防備に頬をさらしたショートボブ。体格はコンパクトだが気迫に溢れている。理知的な雰囲気のうちに可憐さを感じさせる女がそこにいた。更に詳らかにすれば、ふんどし一丁で、胸部にさらし、肩に白衣をかけ、扇子を手にした変質者が仁王立ちで立っていた。
あしほは、静かに扉を閉ざそうとする。
「失礼しました」
「待て待て待て待て」
「出オチお疲れ様…」
「今、禁句を口にしたか? いいから待て!」
「…どうしたの? その格好」
「どうしたんですかと聞いたな? どうしたんですかと聞いたな!」
学校公認の変質者は実に嬉しそうだ。見る間にあしほに対して間合いを詰めてきた。
近い。
あしほは嫌悪を顔に浮かべる。
「お前の格好こそどうしたんだああ!!」
びしっと扇子の先を向ける。その扇子をあしほははたいた。
「…もう私の格好、こうなると普段着に見えますよね」
あなたから指導を受ける謂れはない。暗にあしほはそう言ったのだが、変質者には通じない。
腕をあしほの腰にまわすと、室内へと押し入れる。
「さあさあ、あがれ、入れ。何があったのか青春の悩みを打ち明けろ!」
「ほかの先生が良かった」
「今朝のあれはいじめか? 罰ゲームか?」
「姉さんこそいじめられてるの?」
「いじめじゃない! 好きで着てるんだ!」
満面の笑顔。一方のあしほは終始無表情だ。
「ほかの先生が良かった」
「ほかの先生だとこうはいかないぞ!」
姉が主張した文句により、あしほにしばしの逡巡が生まれる。姉の言う通りだ。雇われた教員では、あしほに指導することもできない。同様に、ほかの人間はここまで変態行為をはたらくこともできないだろうが。
今、自分の味方をしてくれる者がいるなら、このとんちきな姉しかいない。白衣に袖を通してくれはしたものの、深々とソファに座る身体に付けているものが未だふんどし一丁ではかなわないが。
「…で、何があった?」
「とりあえず服を着て?」
あしほが要求を繰り返すと、ふんと彼女は鼻息も荒く主張した。
「おまえだけが変な格好だとかわいそうだろう。というか、おまえ…魔法少女って…」
ぶはっ…と、しのぶは吹き出した。
「高校生にもなって…」
「ふんどしレイヤーに言われたくなああい!」
「失礼な! コスプレではない! 仮装だ、伝統を研究する文化人類学の学術的実践だ!」
「うるさああい!」
衆目の前でコスプレを強いられた上に、何が悲しくて姉の奇行を目の当たりにせねばならないのか。落ち着かないにもほどがある。
結局、ぶつくさ言いながらもしのぶは着衣を承諾した。
あしほは、事情をかいつまんで説明する。もちろん、自分のBL趣味は伏せたままに、知られたくないことを知られたという具合に置き換えて説明した。しのぶは特に追及せず、おとなしく話を聞く。やろうと思えばできる姉だ。
「それで…命令を承諾したのか? そんな輩は今すぐ…」
「手を出したら怒ります」
「…学内の問題でもあるぞ」
自らが学内の問題のような存在に指摘を受けた。
あしほには言いたいことがありすぎて過呼吸に陥りそうだ。
脳内で話すべきことを整理する。最大の論点はひとつだ。
「知ってるでしょう? 姉さん。家に知られたら…」
「あしほ…」
「私は姉さんのように力がないからこそ豊田家に従っているんです。姉さんは自分の自由は保ちながら私への足かせを増やそうというの?」
豊田の家に知れたなら、脅迫された屈辱を許されるはずがない。
この場合、家から糾弾されるのが蘭であるなら妥当だろう。しかし、そうはならない。
咎はあしほにあるとされる。理不尽だが、そういう家だ。
「きっと生じた問題はどうにかしてくれる。でもその分、罰されるもの…」
対処した分だけ、家に負担をかけた償いをせねばならない。贖いは全てあしほに求められる。加害者ではなく、被害者であったとしても、己の立場を弱きものにしたとして、愚かな行為だとして糾弾される。それがこの姉妹の属する家の方針だ。がんじがらめのあしほに、姉は問う。
「志はご立派だがな…大丈夫なのか?」
あしほの肩がわずかに揺れた。
「わ、私は平気です!」
乾いた声で答える。かっとなったのだ。
「姉さんが放擲した以上、跡継ぎは私なんだから、こ、これくらい平気です。自分で対処します。手出ししてほしくないから報告したんです。助けを…助けを求めたわけじゃありませんから!」
強気にそう言い放って、あしほは立った。
「あしほ! そんな言い方じゃ伝わらない!」
ひねくれさせたのが自分だと知っていながら、姉は追おうとする。しかし、その眼前で扉は閉ざされた。
しのぶは肩を落とす。
「私は…おまえを放擲したわけではないものを」
しかし、肝心の妹に嫌われては、その声も扇子で隠した唇から小さく紡がれるばかりだ。
「御剣蘭、か…」
教員用の生徒名簿を書棚から引っ張り出して、蘭の項目で手をとめた。顔写真を確認する。違和感が生じた。
「おかしい…」
しのぶはぼやいた。
「こんな生徒、いたか?」
見覚えが、ない。
由々しき事態だった。
ふじょ☆ゆり 草稿 サンプル
電子書籍や同人誌でリリースする前の草稿での公開です。