横浜港大さん橋国際客船ターミナル百合小説
玉置こさめ
そこらの勤め人よりも余程早起きして、私は毎朝散歩に出る。
姉とその配偶者の犬を連れていくのだ。
私は今職がなくて姉夫婦の家に身を寄せている。
行きどころがないわけでもないし、貯金もあったのだけれども、失職したときに、姉はしばらく同居しないかともちかけてきた。
新婚夫妻の家に身を置くだなんて、そんなこと!
そう言って断ったけれど、二か月間、彼女の配偶者は海外に行くのだという。
それだけあれば充分でしょう、と彼女は言った。
どうせあんた一人じゃ家事しないだろうけど、犬の面倒くらいみなさいよと私を甘やかした。
確かにその時の私は何もかも捨て鉢な気持ちで暮らしていた。
料理も洗濯もする気力が出ない。
かと言って死ぬほどの元気もない。
死ぬほどの元気、というのも妙な言い方だけれども。
死にたいというのも一種の欲望で、根底に怒りとか嘆きがあって初めて浮きたつものだと思う。
それくらいに私の心はからっぽだった。
ただ、姉の飼い犬はかわいかった。
朝の6時には目が覚める。そいつが私を起こすのだ。
顔を洗って着替える。姉の朝食の準備を手伝いもしないで犬の相手をする。
姉は朝食とお弁当を作る。私はそれをひとつ持たされて、姉の出勤にあわせて部屋を出る。
ごめんね、お姉ちゃん。そう言っても、いいわよ別にと笑われる。
彼女は人生が楽しくてならないのだ。
姉の人生。
私を甘やかし続けることができるほどの、まっとうな人生。
横浜港の方へと私は犬を連れて歩く。
いや、もう犬に連れられて歩いているのだ。
今日、あの子はいるだろうかと思った。
前に。
その港沿いのデッキ式の桟橋で。
その海に面した風のあたる場所で制服の少女を見かけたのだ。
学校に行く時間ではないのか。
そんなことを思いもしたのだが、悠然と彼女は風に顔を向けてぼんやりしていた。
私は休憩所で缶コーヒーを買って、何となくその少女の背を眺めていたのだ。
けれどやがて彼女は振り向いて私に気付いた。
それから犬を見るとにこにこして近づいてきた。
「かわいい…お姉さんの犬ですか?」
私のものではないけれど、ええまあ、と頷いた。
驚くべき美しい少女だったので、私はどぎまぎした。
それがきっかけで、何となく彼女と話をするようになった。
ただ、毎日見かけるわけではない。二、三日に一度くらいだ。
出会ってすぐのときは何とも思っていなかった。
私は彼女とお話しできる自分に驚いていた。
何となく吸い込まれるところがあって、その清廉な笑顔に逆らえなかった。
あるいは犬のおかげだろう。
こげ茶色の毛並みを撫でながら、彼女はとてもずれたことを言うのだ。
驚かないでくださいね、と言われたのはまだ会って二回目のときだ。
お姉さん、秘密にしてくださいますか?
などと初対面の少女に問われたのは初めてのことだった。
つづく。
横浜港大さん橋国際客船ターミナル百合小説