
緋色茸
旅姿の侍が一人、山道の脇にある朽ちかけたお堂の扉前でうつ伏している。
どこか悪いのか、時々、ひくひくと右肩が波打つ。
侍は片手に力を入れ、半身を起すと、大きく息を吸った。少し落ち着いたのだろう、ゆっくりと起き上がり、包みの中から瓢箪を取り出して水を飲んだ。
しかし、また、そのまま海老のようにからだを曲げて横たわり、腹の辺りをさすりはじめた。
侍の名は八十朗、使命を担った旅の途中である。
殿から仰せつかった、富山の国のとある名だたる僧医を訪ね、奥方様の病の薬を調合してもらわねばならない。藩おかかえの蘭方医の助言によるものである。
その自分が、今腹痛で臥せってしまった。腹痛の薬は女房のシノが持たせてくれた。それを飲んで一刻も経つが治まる気配が無い。そればかりか痛みは増してくる。
それから半刻ほど経ったろうか、八十朗はいまだに脂汗を額に浮かべ、痛みに堪えていた。
「お武家さま」
どこか遠くから娘の声が聞こえたようだが、あまりの痛さに顔を上げる事もままならぬ、誰であろう。
「お武家さま、このお薬をお飲みください」
ようように八十朗が顔を上げると、十五か十六になろうかと思われる若い娘が、竹筒に入った水と、朴の葉にのせた赤い粉を差し出している。
痛みをこらえ声を絞り出した。
「うむ、それは、なんでござるか」
「痛みを抑え、腹の石を溶かすお薬でございます」
「腹の石とな、わしの腹に石があるのか」
「左様でございます、どうぞお飲みくださいまし」
あまりの痛さに、八十朗は藁をもすがる気持ちで、娘のさしだす赤い薬を口に入れ、竹筒の水を飲み干した。娘の顔を見る余力も無い。ふたたび海老のように丸くなってうなった。
それからどのくらい経ったのだろう。いつしか八十朗は寝てしまったようだ。ふと気がつくと、あたりは暗くなっており、晴れた夜空には星が一面に瞬いている。
腹に違和感が残るが痛みが止まっている。からだを起こすと、ぴくっと腰の辺りに痛みがはしる。
堂の縁に腰掛け、荷物の中から瓢箪を取り出した。今日は山を越えて、町の宿場に泊まるつもりだったのだが野宿になってしまった。
瓢箪の水を飲もうとして、堂の前の杉の木を見た。
杉の木の前にすらりとした娘が立っている。
色の白いふくよかな顔をした娘である。
そこで八十朗はもらった薬を飲んだことを思い出した。夢の中でのうつつかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。空の竹筒が自分のわきにあった。
「薬を飲ましていただいたのですかな」
八十朗が声を掛けた。娘はほんの少しうなずいた。
「かたじけない。痛みがよほどなくなりました」
娘は八十朗に近寄ってきた。
「母が持たしてくれた薬です。ここを通りかかったらお侍さまが苦しそうにしておられましたので、母に申しますと、その薬を届けるように言い付かりました」
「それはありがたかった、お礼申します」
「母は、もう夜も更けたし、我家でよければ一夜をお過ごしくださいと申しておいでと、私をもう一度遣わしたのでございます」
娘は腰を低くして頭を下げた。
「むさい住まいではございますが、夜露にぬれるよりましでございます、近くでございます。いかがでしょうか」
いつもの八十朗であれば、野宿など全く苦にならなかった。だが今の八十朗はやっとの思いで痛みから逃れたところ、申し出はありがたかった。
「かたじけぬことだが、一晩やっかいになるが、よいかな」
「はい、どうぞご案内いたします」
少女はお堂から続く山の頂に通じていると思われる小路を歩きだした。
このような辺鄙な所に居を構えているのはなぜであろう。八十朗は頭の隅で気をつけなければと思いながらも、娘の後をついていった。
歩くたびに軽い痛みが腰に走る。まだよくなっていない。
月の薄明かりの中、娘の白いうなじだけを頼りに後をついていく。
娘は、大きな杉の木が立ち並ぶ林の中の道を少し登ると、脇にそれ小路に入った。
そこから少し行くと草地に出た。湧水があり、山脇にかやぶきの家がひっそりとたたずんでいた。障子からもれる光が木々の葉をほんのりと照らしている。小さな池には家の明かりがぼんやりと映っている。
娘が戸を開けた。
「どうぞお入りくださいまし」
八十朗がそれでは遠慮なくお邪魔すると足を土間にいれると、部屋では燈された行灯の明かりの中で、娘とよく似た女たちが、思い思いのいでたちで、草をつぶしたり、水で何かをねったりしている。なんと遅くまで働いていると八十朗は思った。
女たちが一斉に八十朗を見た。
「お母様、お連れしました」
なかで一番年かさがあると思われる女が微笑みながら、手を休め立ち上がった。
「よくおいでくださいました。むさくるしいところですが、部屋はございます、どうぞおくつろぎくださいまし」
その背の高い女性は深々と頭を下げた。
「薬をいただいたばかりではなく、一晩厄介になれるとは、ありがたいことでござる、八十朗と申します。役目をもった旅なれば、路銀は十分にござるので、一晩の宿をお願いいたしたく存じます」
八十朗が頭を下げる。
「わたくしはこの家の主人、緋夏と申します。案内をさせましたのは一番下の娘、緋美でございます。ここにおりますのは緋美の姉たちでございます」
土間の奥から、桶に水を満たして娘の一人が現れた。
「一番上の娘、緋草にございます」
娘は八十朗の足元に桶を置いて中腰になった。
八十朗は上がり框に腰掛けるとわらじを脱いだ。
娘の白い手が八十朗の足を桶の中ですすいだ。
娘の白いうなじが八十朗の目にしみた。娘が手ぬぐいで足を拭くと、八十朗を見上げた。八十朗は礼を言った。
「かたじけない」
女主人は八十朗を奥の部屋に案内した。
すでに布団が敷かれている。
「お疲れでございましょう、この薬をお飲みください。疲れもとれます。今日はもう夜も更けております。どうぞお休みになられましてくださいまし」
枕元には水が用意されている。八十朗は先ほどから、眠気に襲われている。
「何から何までかたじけのうござる、この薬はなにでござるかな」
「私どもは、山の草木から薬をつくっております」
「おー、薬師でござるか、私も薬を求めての旅でござる」
「そうでございますか、私どもは薬師ではございませぬ、とある僧医にたのまれ、薬を作る仕事をいただいております」
「して、この薬は何でござるかな」。また聞いた。
「これは、からだから悪いものを追い出し、良く眠れる薬でございます」
「おー、眠り薬でござるな」
「はい、眠り薬というより、心がゆったりとする薬でございます。それだけではございません、からだの精がよみがえります」
緋夏は続けた。
「八十朗さまのお腹にできた石がまだ外に出ておりませぬ。今お食事は召し上がらないほうがよいと存じますが、この薬は食事をしたのと同じほどからだに活力をあたえ石を押し出します。痛みも和らぎます」
「それはすばらしき薬でござるな」
「私どもに伝わる薬の一つにございます」
八十朗は薬を飲んだ。
「石がでるまで、どうぞ、ご逗留くださいまし」
その声が聞こえたか聞こえないかのうちに、八十朗はそのままの姿で布団に倒れこんでしまった。
あくる朝、八十朗は気持ちよく目を覚ました。下腹の一物が硬くそそり立ってしまっている。久しぶりに力を感じた八十朗は、いつの間にか布団に寝ているのに気がついた。頭のところには脇差がそろええてある。
やっと昨晩のことが思い出された。
その時、襖が開くと女主人の緋夏と一人の娘が入ってきた。
「お目覚めでございますか、家の裏に湯の湧くところがございます。朝のものをお召し上がりになる前におつかいくださいませ、これは中の娘、緋鳥でございます」
娘たちはみな色が白い。娘が手ぬぐいを手にして言った。
「ご案内いたします」
よく晴れた朝だ。昨夜は気付くことがなかったが家の裏は岩山であった。湯気が岩の間から立ち登っている。硫黄の匂いも漂う。
「ここでございます」
岩に囲まれた小さな野天湯があった。
「どうぞ、ごゆるりとお入り下さいまし」
緋鳥は八十朗に手ぬぐいを渡して戻っていった。
「かたじけない」
八十朗にとって、久しぶりの湯浴みである。
岩の間に溜った湯に入ると、茶色に濁った湯がぴったりとからだにまとわりつく。腰の辺りの痛みがすーっと引いていく。八十朗の口からため息が漏れた。
林から鳥のさえずりが聞こえる。朝の冷たい空気が顔を包む。
しばらく浸かって、ふと脇を見ると、隣の岩の窪みには透明な湯が湧き出ている。
八十朗はそちらにも浸かってみた。からだにぴりぴりときたが、さっぱりしていく、と同時に気持ちが和らいでいった。
湯から上がると、部屋には朝餉(あさげ)が運ばれていた。からだを気遣ってであろう、柔らかなものが用意されている。
娘たちが食事の後をかたづけると緋夏が部屋に来た。
八十朗は今までの礼を言い、旅の目的を話した。
「そうでございますか、八十朗さま、しかし腹の石がなくなるまで、ご滞在いただいたほうがよいかと存じます。富山まではかなりの道のりでございます、
もし、奥方様の病の様子をお教えいただければ、私どもでお薬をお作りしてみてもよろしゅうございますが、いかがでございましょう」
「そうでござるな、あまり外には漏らしてはならぬものかもしれぬが、もしよい薬ができるというのであれば、それもよいのであろう、では内分に願いお聞きくだされ」
八十朗の殿の奥方はお子様が生まれたあと、部屋から出るのが怖くなられた。気の病である。自分でからだを傷つけたりなさり、周りの者たちは気の休まるときが無い。殿は屋敷牢など作りたくないと申され、いつものように暮らす中で何とか病を治してやりたい、と仰せであった。城の医師も優秀な蘭方医であったが、からだの病の医者で、気の病は手に余ると、名の知れた富山の僧正にして、薬師に相談するよう殿に進言した。そこで八十朗にお役が回ってきたという次第である。八十朗は自らも調べ、若くまだ名が広がってはおらぬが、心の中の仕組みをよく知る若い医師も富山にはいることがわかり、それらの薬師に会うため富山に向かったのである。
その話を聞いた緋夏はうなずいた。
「その薬なら、時間はかかりますが、お作りすることができます。そのような気の病に効く薬分を含む草を集めなければなりません。山の奥にある草片なども必要でございます」
「だが、できるのですな」
「はい、必ずお作りします」
「ではお願いすることと致す、よろしく頼みます」
自分の静養もかね、ここにしばらく逗留し、できた薬をもらってから富山に行くのでも遅くはなるまい、そう思い、八十朗はしばらくその家にいることにした。
それから、緋夏を頭として緋美、緋草と八十朗も山の中を歩き、緋夏の指示する草を籠に集めた。緋鳥は家の中のことを任せられ、薬草集めには行かなかった。
かなり歩き回ったのだが、薬がよく効いたのであろう、八十朗の腹は痛まなかった。
「歩いたほうが、早く石が出るのでございます」
緋夏は八十朗に言った。
採ってきた草の一部は乾燥させ、粉にし、器にためた。一部は煮詰めた煮汁を皿に入れ乾燥させ粉にした。
八十朗に薬草の知識は無いが、毒草と思しきものも入っていたことに気がついており心配になっていた。
夕餉のときに、それとなく採ってきた草の話を持ち出した。
「私には分からぬが、採ってきた草には毒もありましょうな」
「はい、その通りでございます。かなり毒の草が混じっております。良く申しますように,毒ほど薬に向いたものはございません。量さえ間違わなければ、病にはとてもよい薬になります」
「そうでござるか、出来た薬はどのくらい飲めば、奥方様の病気はよくなるものであろうか」
「はい、気の病は時間がかかります、飲む量や仕方につきましては、書き付けたものをお持ちいただきます。まず、短くとも一年はかかるとお思いになられたほうが賢明でございます。薬は二年分お作りいたします。気の病は薬で完治するものではなく、飲みますと病状は軽くなります。その時にいつものような気持ちをお持ちくださってお暮らしいただければ、やがて薬を飲まなくてもよくなります」
「そうでござるか」
「明日は山奥の茸類を採りに参ります」
「お手伝いいたす」
「お願いいたします」
次の日、朝早く四人は籠を背負うと山道を登っていった。
山を二つほど越えたところで、さらに大きな山が聳え立った。
緋夏が歩みを止めて八十朗に言った。
「この山の奥に、不思議な茸が採れる場所がございます。」
「このように奥深いところこと良く知っておられるものでござるな」
「このあたりは庭のようなもの、子供の頃より歩き回っております、それに亡くなった主人がその道の者でございました」
「そうでござったか」
「主人の家は、代々の薬草採りでございます」
八十朗はうなずいた。
勾配がかなりきつい林の中を歩いていくと、楠の木に囲まれた広場に出た。下草の中に赤い傘をもった茸がいたるところに生えていた。
「この茸でございます、毒でございますので食する事はできませぬ」
皆は籠の中に次々とこの茸を放り込んだ。
八十朗も茸を採ると籠に入れた。もろい茸で籠に入れると必ず折れた。
「折れてしまいますが、いかがですかな」
「かまいませんどうせ潰してしまいます、とれるだけたくさん採ってくださいまし」
「承知いたした」
八十朗は籠一杯に茸を入れた。
「戻りましょう、昼前には戻ってすぐに潰さなければなりません」
山道を下りながら緋夏がなにげなく言った。
「これだけの茸があれば、何百人も殺すことが出来ます」
「恐ろしいことですな」
「はい、しかし、茸の汁から取り出したものを少し薬に混ぜれば、気の病の薬になります、この茸もほんの少し食べますと気持ちが楽になり、楽しくなるものでございます。奥方様の病を治すための薬の芯となります」
「そういうものでござるか」
家に帰りつくと、緋鳥が準備をして待っていた。緋夏たちは茸を大きな鍋にいれ、擂粉木に似た棒で押しつぶした。鍋の底には紅い汁が溜まった。
汁を湯飲み茶碗ほどの器に移しいれた。
「あれだけの茸で、たったこれだけでございます」
見ている八十朗に緋夏が器の紅い汁を見せた。汁は紅くきれいに澄んでいた。
緋草が白い粉をもってきて、緋夏が差し出す器に入れた。
「何の粉でござるかな」
「これは、ある花の種からとりました粉でございます」
茸の紅い汁は白い粉に吸い取られた。
緋夏はそれを手にとってよく練ると、白い陶器の四角い皿の上にのばした。
緋草がそれを持って軒下にいき、日陰の棚に置いた。
「これで、乾くまで置いておきますと、明日か明後日には粉になります。それから、今までに薬草から取り出した粉に混ぜます。それで出来上がります、この作業でほぼ終わりました。二、三日後には薬が出来上がります」
「それは、嬉しいこと、早く富山にいき目的を果たして城に帰りたいものです」
「富山にいかれますか、この薬があれば、必ず奥方様はよくなりますが」
「そうでござるか、それなれば、このまま帰ってもよいのでありますな」
「どうぞ、ご安心くださいませ」
「ずい分早く帰ることが出来る、殿も驚かれるであろう」
「この先は、八十朗様にお手伝いいただくことはございません、私どもはいつもの薬作りにはいります、八十朗さまは、湯に入るなどごゆるりとお過ごしくださいませ、何か御用がありましたら、緋鳥にお申し付けください」
「あい、わかった、かたじけない」
八十朗は部屋に戻り、今までの様子を紙にしたため、湯に入りに行った。
ここに来てどのくらい経ったか、ずいぶんいろいろなことをした。だがまだ七日か八日ほどしかたっていない。役目を負って家をでて半月である。半年はかかるだろうと思っていた旅が、たったの一月で目的が果たせたとなると、殿ばかりではなく、みなお喜びになるだろう。湯に浸かりながら不思議な出会いであったことをしみじみ感じていた。
朝早く目覚めた八十朗は、外に出て湯に入った。もどるときに軒下の棚を見ると、四角い皿の上に赤っぽい粉ができあがっている。
八十朗は奥に声をかけた。
「緋夏どの、茸の汁が粉になった様子、いかがであろうか」
八十朗の声で、緋夏が軒下に来た。
「はい、八十朗さまのおっしゃる通りでございます。陽が良かったのでしょう、一日で乾きました、今日、他のものと混ぜ合わせ調合いたします。夕方には奥方様の薬は出来上がります」
「それは、ありがたい、とすれば、明日でも国に帰るとしたいが」
「お気が早いことでございますが、確かに奥方様には早くにお飲みいただいたほうが良いかもしれませぬ」
その日は緋鳥も加わり、みなで八十朗の薬の調合に精を出した。
夕方になり部屋にいた八十朗のところに緋夏が来た。
「失礼いたします、お薬ができました、どうぞお納めください」
緋夏の手には大きな布の袋があった。
「この中に、二年分の薬がございます、一日一袋、一回ずつお飲みいただければよろしいかと思います」
「おお、かたじけない、ここに、薬の代金をおきます」
八十朗は荷物の中から富山の僧医に払う金を取り出し前に出した。
「それでは多ございます」
緋夏は前に置いた金子の中からほんの少しとった。
「これでも多いくらいです、ありがたくいただきます、これで一年暮らせます」
「遠慮なさらなくともよいでござる、どうぞすべてを」
「いえ、本当に十分でございます、長い間お待ちいただきました、今日一日でお別れとは名残惜しゅうございますが、これも八十朗様のお仕事、無事お薬をおとどけくださいませ」
「いや、富山に行っておれば半年や一年では帰れなかったかも知れぬ、一月も経たないうちにことをなすことができたのも、緋夏殿や娘さんのおかげ、感謝申します」
「八十朗さまとも今日が最後、夕餉はみな一緒にいただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「おお、もちろんでござる」
「それでは、仕度ができましたら呼びに参ります、湯などお使いいただいてお待ちくださいませ」
そう言うと緋夏は下がっていった。
外の湯に行って部屋に戻ると、緋鳥が呼びに来た。
「ご用意できまし、どうぞいらしてくださいませ」
「いや、かたじけない」
奥の間に食事が用意されていた。
緋夏が待っていた。
「どうぞ、あちらの席へ」
八十朗は床の間を背にして膳の前に座った。
「お酒を用意しておきました、野草のおひたしもございます。娘たちはすぐまいります、どうぞお召し上がりください」
緋夏は酒を注いだ。
「かたじけない」
八十朗は久しぶりに酒を口にした。
「もう、八十朗さまのからだも、元に戻られたご様子、どうぞ存分に召し上がってください」
「腹から石が出るというのはいつになるのでありましょうか」
「腹の石は知らぬ間に出ることが多いのでございます、すでに出てしまったと思われます」
「そういうものですか、自分のからだもよくなるし、薬も手に入るし、何と私は幸せ者か」
そこへ浴衣を着た三人の娘がめいめいの膳を持って部屋に入ってきた。
「おそくなりました」と、膳を八十朗の前にならべた。
「ご一緒させていただきます」
三人はもう一度部屋から出て行くと、他の料理をそろえ運んできた。
緋夏は日本では見ることもできないギヤマンの瓶をもってきた。その中には真っ赤な酒が入っており、小さな茸の傘が一つ浮いている。
緋夏が八十朗の隣に膳を持ってきて座った。
「これは、南蛮のお酒です、葡萄で作られた美味しいものでございます」
八十朗は中の茸があの毒の茸であることに気がついた。
「その茸は先だって我々が採った茸では」
「はい、そうでございます、乾燥させた茸でございます。この葡萄のお酒に入れますと、とても美味になります。小さいものですので毒にはなりません、ためしに私が少しいただきます、それから八十朗さまもお召し上がりください。娘たちにも少しいただきとうございます」
緋夏は小さなギヤマンの杯に赤い酒を注ぎ、自分で一口飲んだ。
「さあ、八十朗さまどうぞ」
八十朗の目の前の杯が赤い酒で満たされた。
八十朗は赤い酒を一口飲んだ。
それは酸味と甘味のある初めて飲む酒であった。
「なかなか美味なもの」
「お口に合いましたでしょうか、私どももいただきます、慣れると癖になるものでございます」
緋夏も,緋草も、緋鳥も、緋美も赤い酒を飲んだ。
「この酒はどうなされたのか」
「はい、この地のお殿様出入りの薬師からいただいたものでございます。私どもの薬を高く買ってくださる養生所の薬師でございます。お殿様から何本も拝領したからとくださいました」
八十朗は皿の上にのっている白い塊を見た。
「これは何でござるかな」
「どうぞ召し上がってみてください」
口に入れた八十朗は、これもうまい、この酒にあうと赤い酒を飲んだ。
「それは醍醐というもの、ヤギの乳から作ります」
「おーこれが醍醐か、聞いた事はあるが食したのは初めてでござる」
「私どもは時々村からヤギの乳をもらい、作っております」
「ほー、珍しきものばかり」
娘たちの顔がポーっと赤くなってきた。
やがて、八十朗もほろ酔いになり、からだがふわふわして、柔らかい真綿にくるまれ、さすられているような気持ちになり、あまりの気持ちのよさに床の上に横たわってしまった。
気がつくと、八十朗の頭は女の膝の上にあった。女の唇が八十朗の唇を吸った。若い女の手が八十朗の衣服をはぎ、女が肌を触れ合わせてきた。八十朗の右手が乳房に触れ、左手が別の女の首筋に触れた。いつしか三人の若い女たちとまぐわい、幾度となく精を放ち眠りについた。
山道の脇にある古びたお堂に、一つのしなびた緋色茸がついている。その脇には若い三つの大きな緋色茸が生えていた。三つの緋色茸の脇から次々と小さな緋色茸が生え、お堂の屋根からすべてのところを被い尽くした。まるでお堂が赤く燃え盛っているように見えた。
堂の前に事切れている侍の亡骸があった。手には薬の処方を記した紙と一緒に、薬の入った袋が大事そうに抱えられていた。
通りかかった旅人の知らせで、侍の遺体は番屋に運ばれ、八十朗という身元の明らかな者であり、腹の病のため亡くなったことが知れた。八十朗の遺体はお堂の近くに葬られた。持ち物は国元に送られ、薬は無事に八十朗の仕える城に届いた。
城の奥方様は快方にむかい、この功績から八十朗の妻は生涯の糧を与えられ、安寧の日を過ごしたということである。
葬られたところには立派な墓石が立てられた。
緋色茸に覆われたお堂はやがて朽ちはてて、脇にあった八十朗の墓石に緋色茸が生えるようになった。緋色茸で覆われた墓石は今でも真っ赤に燃えるように輝いている。
緋色茸
私家版第六茸小説集「茸童子、2020、一粒書房」所収
茸写真:著者 筑波植物園 2016-8-25