インソムニア

僕の友人と、彼女の大切な人に、この物語を捧げます

 真夜中を過ぎた。今日もいつもの話し声がする。彼女は会話の主たちに挨拶した。
「人間だ」
 黒猫が首を上げた。
「俺たちの言葉が分かるのか」
 白猫は体を伏せて、彼女を警戒している様子だった。
「人間の何人かはね。猫がいつも私たちの悪口を言っているのがちゃんと分かっているんだよ」
 猫たちは無言だった。
「でも言葉が分からないふりをしているだけ。あなたたちと同じ」
 二匹は口々に、にゃあにゃあと抗議の声をあげた。
「今日はそんなことを言いに来たんじゃないから。探してる人がいるの」
 彼女は白い手で、猫たちの頭を押さえた。
「俺たちの仲間には人間に用のある者などいないぞ」
 黒猫は彼女の手を振り払おうと、前足を振り回しながら言った。
「行ったところでお前に会う者などいないぞ」
 白猫はされるがままに頭を伏せながら、警告を発した。
「会うはずだよ。契約があるんだから」
 契約、という言葉を聞いて、二匹とも毛を逆立てた。
「……止むを得ぬか。取り次いでやろう、人間の女」
「結見(ユミ)それが私の名前。人間には見えないものが見えるようにと、お祖母ちゃんが付けてくれたの」
「それはなんとも、厄介なことを」
 二匹は互いに、にゃあにゃあと愚痴を言い合った。
「カフロ=ベル=ラビエラルに会いたいの」
 その名を聞いて、猫たちは二メートルほど後ろに飛び退いた。
「北極星閣下にお目通りだと。なんと畏れ多い」
「だから、契約が」
「分かった分かった」
 契約の履行を妨げればどんな罰が下るか。ましてや相手は有力者なのだ。猫たちはようやく結見の言うことを聞く気になったようだった。
 黒猫が歌うように鳴くと、青い光を放ちながら一匹の蝶が現れた。
「そいつについて行くといい。くれぐれも閣下に無礼のないようにな」
 結見は二匹に礼を言って、蝶に従って歩き出した。
「あの女、何か変じゃないか」
「ほら、足元を見てみろ」
「ああ、そうか。影が」
 二匹はすっかり猫の威厳を取り戻し、にゃあにゃあと笑った。
 結見は聞こえないふりをして、蝶を追ってもう一つの世界への入り口を通った。

 人間の世界には、もう一つの世界に続く入り口がいくつかある。そこには人間が迷い込まないよう、必ず猫が見張っているのだ。それでも人間が入り込んでしまうことは、わりあい頻繁にある。猫は雨の日の見張りは嫌がるし、すぐに他のことに気を取られてしまうのだ。
 もう一つの世界は、一見すると人間の世界とそっくりだった。けれど道のずっと先はオレンジ色の空と交じり合って、継ぎ目がない。道路や建物を人間の世界に似せて造っているのも入口の近くだけで、やがて景色は様変わりする。昔から何人もの人間がそこに迷い込み、それを絵や物語に現わしてきた。時代が下って、人間がこの世は自分たちだけのものだと思うようになった頃、もう一つの世界に住まうものたちは人間が攻めてこないよう、入口の見張りを厳重にした。
「でも今は」
 結見は独り言ちた。
「今はもう一つの世界を見た人がいても、誰も本気で相手にしない。今の人間はもう一つの世界を畏れる気持ちも、征服しようという害意すら持たなくなってしまった」
 結見は虹色の川に掛かる橋を渡り、草原に出た。草は結見の足首くらいだったのが、あっという間に彼女の背を越え、次の瞬間にはしおれて縮み、それを延々と繰り返していた。
 青い蝶は、結見の肩に止まった。彼女はいつの間にか草原を抜けて、円陣状に並んでいる大きな石のちょうど真ん中に立っているのに気づいた。
「カフロ=ベル=ラビエラル」
 すると蝶はひときわ激しく青白い光を放ち、結見の目の前に白いドレスをまとった女性の姿があった。
「お前が結見か」
 はい、と答えると、ラビエラルは微笑んだ。
「よく来たな、マリカの孫よ。お前の祖母は数少ない、信頼できる人間であった」
 しかし、その微笑みはたちまちのうちに、嘲笑に変わった。
「その息子。お前の父と違ってな」
「父の愚かさは、娘の私が一番良く分かっています」
 結見はラビエラルを睨んだ。
「我らへの借財のかたに、娘の影を売り渡した男だ」
 すると周りに並んだ十二の石が、口を開けて笑い出した。「愚かな男」「影を失くした娘」
「父は売ったのではありません。十八になるまで私の影を差し押さえさせたのです。だから私はここへ来たのです」
 十二の石は、再び元の石に戻った。
「ラビエラル、私は十八歳になりました。私の影を返してください」
 ラビエラルは結見の肩に手を置いた。永遠を思わせるくらい、その指は冷たかった。
「結見よ、影にはどれほどの価値があるか。祖母から聞いておるな」
 結見は唇が震えて声が出せず、頷いた。
「人間の世にある様々な災いを、影は身代わりとなって引き受けているのだ。それを持たぬお前は、今まで多くの苦しみを得てきたのだろう」
 ラビエラルの手に温かみがこもった。結見の震えが止まり、代わって涙が、彼女の頬を伝った。
「契約に従いお前に影を返そう、結見」
 結見は安堵のため息をついた。しかし、
「あの者が従うのならな」
 ラビエラルの視線の先に、影が立っていた。
「お前は結見の影として、人間の世界に戻りたいか」
 ラビエラルが聞くと、
「いいえ、私はずっとここにいたいのです、北極星閣下」
 かつて結見の影であったものは答えた。
「いかに私でも無理強いはできぬ」
「バカなこと言わないで。あいつは私の影でしょ。私の一部、私のものじゃない」
 結見は今夜はじめて声を荒げた。
「お前はなんの権利があって、影の所有を主張するのだ」
 影が結見に向かって言った。
「何の権利って、私の影が私のものって、そんなの当たり前でしょ」
「影のみならず、肉体も魂も、お前は何を根拠に所有を主張するのだ」
 十二の石が再び口を開いていった。「その眼も」「髪も」「白い肌も」「吐息も」
「私がそれらの所有を主張するのは」
 結見はラビエラルの目を見つめた。
「私が主でありたいと願っているからです」
 今この瞬間も未来においても。結見はようやく決意したのだった。
「そうか。ならば結見よ、お前自身の意志によってしかるべくあるように」
 ラビエラルは告げ、影は結見の元へ戻った。
「さあ、人間の世界に戻るがよい、結見。我らと人間の世界を結ぶ者よ」
 結見はラビエラルに、祖母の面影を見たのだった。

 そして結見は、青く光る蝶に再び導かれ、目覚めた。

インソムニア

インソムニア

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-06

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