イメージダウン
Boowyの曲がBGM
イメージ・ダウン
イメージ・ダウン
イメージ・ダウン・ダウン・ダウン――
肩のライン
肩のラインが完璧な男と付き合ったことがある。肩から首、腕の形から長さまですべて完璧だった。
秋乃はその男と半年付き合った。細長い腕にしがみついて甘えるのは至福のときだった。その男は、ベッドの中では穏やかで力強く秋乃を抱いた。夢のように優しいときをすごしたが、秋乃は別の男のところへ去った。別に彼が嫌いになったわけではない。秋乃は新しい彼氏とも半年付き合い、また別れた。
最終バスに乗り遅れたからもう稲葉の家に行けない。
秋乃は本屋のシャッターの前で雨宿りをした。稲葉の家はバスの終点にある。別にタクシーを呼んでもいいけど、と秋乃は思ったが、そこまでしたくないとも思った。
たまたまバスがきたから気まぐれで乗った。ぼうっとして終点まで寝てしまった。だからついでにちょっと寄ってみた。という体でしか稲葉の家に行ったことがなかったからだ。
迎えに来いと電話することもできるけれど、やはり気がすすまなかった。秋乃は稲葉に電話するかわりに先月出会ったばかりの既婚者の男性にかけた。
「運悪く降られてしまって……」
「傘を持っていくよ」
その男性は同業者だった。秋乃は絵を描く仕事をしている。依頼されてレストランや会社の階段なんかに飾る絵を描く仕事だ。お金になる売れ専の絵を描いて、なんとか食べている状態。それに比べて同業者の彼は何年も海外に留学していて、業界では有名な画家だった。
急に電話なんかして、図々しかったかもしれない。
でもまあいいだろう。お互いに気持ちははっきりしていて、この一カ月どちらから仕掛けようか探りあいをしていたところだ。
秋乃は雨空を見上げた。稲葉の家がある方角はあちらだろうか。
腹
同業者の男性は庄司といった。四十代の男性。スマートで知的な顔をしている。
秋乃はこういうときに気をつけていることが二つある。ひとつは部屋を暗くする前に男の裸を見ること。いくらスマートに見えても腹だけぽっこりと出ている中年の男性は多い。もうひとつは部屋に入っていきなりベッドに座るような、みっともない真似はしないことだ。
「我が城へようこそ」
庄司は冗談めかしてそう言い、マンションの一室に秋乃を案内した。
どうやらアトリエらしい。2LDKで、台所には画材や紙くずが散乱していたが、リビングはきれいなものだった。炊事をしている様子はないから、彼の妻はあまりここには立ち寄らないのだろう。念のためこっそりと部屋を見回してみたが、女性ものの服や化粧品はない。
「ビールとかないんですか」
「悪いけど、俺は飲めないんだ」
と言って、庄司は照れながらウーロン茶のペットボトルを差し出した。秋乃は年上の庄司が可愛くなって笑顔でペットボトルを受け取った。
直に口をつけて飲んでいると、庄司がタオルを持ってきて髪を拭いてくれた。秋乃は偉そうにふんぞり返って世話を焼いてもらった。秋乃は男性にかいがいしくしてもらうのが好きだった。これはただ媚びているようではだめで、できれば地位が高く年上で、結婚している男性がいい。庄司は最高だった。
不倫は悪だから楽しい。
秋乃は庄司の服の襟をつかんで引き寄せた。
すでに熱くなっている。秋乃は庄司のシャツの裾をめくった。庄司も、素直に従って服を脱いだ。服の上からではわからなかったが腹筋が割れていた。庄司はインドア派だと思っていたが、意外にも鍛えているのかもしれない。
庄司は色白で、瞳の色も透き通るような美しい茶色だ。ワンナイトオンリーですませてしまうのはもったいないほどいい男ではないか。秋乃は自分も服を脱いで、甘えるように足をからませた。
「シャワーかりてもいいですか?」
「俺も一緒に入っていい?」
庄司は吹き出してしまいそうなほど子供っぽい表情でそう言った。案外、ロマンティストな男なのかもしれない。
秋乃は庄司の腹筋をなでながらしばらく思案したが、結局首をふって断った。男と一緒に風呂に入るのは、情事のあとと決めている。
爪
爪がきれいだからという理由で男と別れたことがある。
秋乃は二日に一回爪をやすりで削る。もともと爪を磨くのが好きな性分だった。何万円もする高価なやすりを二本も持っている。やすりをかけたあと、紙やすりでぴかぴかに光るまで磨くと心がすっとする。
当時付き合っていた男は、美しい指先を持っていた。あるとき秋乃は一時間かけて男の爪を磨いた。形を整え、熱心にクリームを塗った。男の爪は顔がうつりこむほどぴかぴかになり、秋乃は腹を立てて別れた。
「爪があんまりきれいだったから、妬けたんです」
秋乃はベッドの中で庄司の手を探り、握った。
「理解しがたい感覚だね、それは」
庄司の爪は横に広がっていて武骨だった。秋乃はほっとしてその手に頬ずりした。
「そうですか? 男の人だって、彼女が自分より年収が高かったりしたら、嫌な気分になるんじゃないですか」
「女にとって爪は、男の年収と同じなのか?」
「でもそのときはまだ高校生だったんです。若くて馬鹿で、自分の容姿にしか関心がなくて――」
きょとんとした顔をしている庄司がおかしくて、秋乃は庄司に口づけをねだった。
男性に説明したってわからない、と思ったが、同時にきっと女性でもわかってくれる人は少ないだろうなと思った。
朝がくるまで何度かセックスして、さすがにぐったりして眠ったのが朝方。秋乃はセックスが好きだ。楽しいし気持ちがいい。
庄司の顔を見るとお腹が鳴った。秋乃の脳は庄司を食べ物か何かだと認識したようだ。思う存分口に入れて吸いこんで、腹を満たすと丸くなって眠った。
目覚めたのは庄司のほうが早かったようだ。秋乃はパンを焼くいい香りで目覚め、裸のまま庄司に近寄った。
「庄司さんの髪の毛、私のと長さが同じだから、枕についた毛を掃除しなくてもいいですよね」
秋乃がささやくと、庄司は笑って首をふった。
「そんなに警戒しなくてもいい。妻は、この部屋にはほとんどこないから」
そんなこと言ったってわからない。くるかもしれない。女の勘を甘く見るとひどい目にあうってことを、長い歴史が証明しているのに、なぜ男はいまだに理解できないのか?
ホンキー・トンキー・クレイジー
まだ雨が降っていた。
秋乃は車の中で曇った窓に庄司の下の名前を書いてすぐに消した。目をこらせば指の油がかすかに残っているのがわかる。これを彼の妻が見つけたらいいと思ったが、彼の家庭を壊すつもりはない。
「もう、このへんで」
「家の前まで送ろう。まだ降っている」
赤信号でとまった車の中で、秋乃は体をずらして庄司の膝の上に座った。
「狭い」
庄司は秋乃の鼻先にキスをした。
「お仕事がんばってくださいね」
秋乃は鞄をつかみ、助手席に戻るとドアを開けて出て行った。
「おい」
後ろでこちらを見ている庄司に手をふって、秋乃は雨の中を飛び出した。
庄司は濡れている背中を見ているだろうか?
秋乃は振り返らずに歩いた。『振り返らないと見せかけて振り返る』タイミングでも振り返らなかった。振り返らない自分を庄司が見ていてくれればいい。
マンションに帰ると、犬のポンタがしっぽをふって出迎えてくれた。
ポンタは秋乃が知人からもらいうけた雑種だ。何と何とのミックスなのかは知らないが、洋犬の血が濃く入っているように見える。中型犬で、艶やかな黒毛だが耳のあたりだけカラカルのような白い毛がちらほらとはえている。
ポンタを抱き上げて画材が散らばっているリビングに腰をおろした。秋乃はときおり自分をなんの下心もなく慕ってくれるのはポンタだけなのではないかと思うことがある。
「ポンタ、ご飯にしようか」
動物であってもいい。誰かに好かれるのはいいことだ。
ドッグフードを皿に盛りながら計算すると、最後に稲葉に抱かれてからもう一週間もたっていた。
いったいいつからこうなったのかわからないし、最初にその衝動を覚えたのがいつだったのかも忘れてしまったけれども、秋乃はここ数年、生理中はのぞいて一日もセックスなしで暮らしたことはない。
そのとき付き合っている人がいるのならそれでいいし、たまに彼氏が途切れているときがあるけれど、そういうときは呼び出しやすい男を呼ぶことにしている。長くこういう生活を続けてきたので、自然に知り合いが増えて今では男に不自由していない。必ず誰かは呼びかけに応じてくれる。
マンションに男を呼ぶのは、寝る前に図書館からかりてきた本を読むかのようだ。そうすることが習慣になってしまっているから、パブロフの犬のようにそうしないと眠れないし落ち着かない。
尻が軽いなりにマナーみたいなものは守っているつもりで、相手は来る者拒まず、去る者は追わずだ。面白くないドラマの再放送のようなセックスにも慣れた。
バッド・フィーリング
天気予報がはずれ、夕方ごろに雨が降り出し、秋乃は開けていた窓を閉めようとリビングの引き戸に手をかけた。たまたまたてつけが悪くなっていて、長い時間ガタガタやっているうちに戸がはずれたのだが、運悪く外側にはずれて地面に落ちた。ガラスが砕け散っている。
ああ、めんどくさいなあ、と秋乃は思った。
雨の中落ちていった窓を拾いに行くのも、散っているガラスを片づけるのも。
こんなときには便利な男を呼べばいい。だが秋乃は都合がつきそうな男を選定して、電話して誘うという一連の行動さえもめんどうだった。いつも何も考えずにやっていることなのに。その原因は雨のせいでこめかみがうずいているからなのかもしれないし、稲葉に最後に抱かれてから一週間もたっているせいかもしれない。
天の助けか。そのときたまたま電話が鳴った。
稲葉かもしれない。飛びつくように受話器を持ち上げれば、相手はつい十時間ほど前に別れたばかりの庄司だった。
「仕事が早く終わったから」
「犬も連れて行っていいですか」
秋乃は財布とポンタだけ持って家を出た。開けっぱなしの窓から雨が吹き込んでいたがどうでもよかった。
別に、濡れて困るものなんかないし。
タクシーに乗って庄司の城があるマンションまで行くと、玄関で庄司が待っていてくれた。
そのほっそりしたシルエットを見るとうれしくなって、秋乃は文字通り飛びついて足をからめた。
抱き合うようにしながらエレベーターに乗り、キスを繰り返して部屋に入った。庄司はポンタを玄関に繋ぎ、秋乃を急かして風呂場に行かせた。
シャワーを浴びて、タオル一枚で出てきてみれば、リビングには食事の用意がされていた。秋乃は早合点した自分に苦笑いして、タオル姿のまま食卓についた。
「パンツくらいはけよ」
「いえ、着替えを持ってくるの忘れたんです」
庄司はぶつぶつ言いながら自分のシャツと短パンを持ってきてくれた。秋乃は偉そうに椅子にふんぞり返って、庄司がかいがしくシャツを着せてくれるのを待った。
足をほうりだして短パンをはかせてもらい、そのまま腰を浮かせて庄司に抱きついた。
「腹減ってるんだろ」
「え」
「さっき、お腹が鳴ったのを聞いたぞ」
もつれ合いながらベッドに入り、思う存分腹を満たしたあと、庄司はポンタに大きな黒い真珠のついたチョーカーをくれた。
「いや、大したものじゃない。昔、金に困ったおばが借金を申し込んできたことがあって、その担保としてもらったんだ。安物だよ」
「奥様にあげればいいじゃないですか」
「妻には内緒で貸した金だ」
こんな高価なもの、犬にやるなんてもったいない。秋乃はチョーカーをポンタからとりあげると、自分の首に巻いた。
「似合う」
庄司はほほ笑んだ。
「明日は会えます?」
「どうかな」
庄司はそれ以上しゃべらない。秋乃は寡黙な男が好きだ。
甘える自分を、かいがいしく世話してほしいし、突き放してほしいとも思う。庄司は今後、どちらを選んでいくだろう。
「帰らないと」
秋乃はカーテンを開けて外を見た。まだ降っている。梅雨が始まったらしい。
「泊まっていけよ」
「泥棒がいるといけないし……」
別に、盗られて困るものなんかないけど。
秋乃は庄司にかしてもらったシャツと短パンのまま、タクシーを呼んで乗り込んだ。
「服を忘れてるぞ」
「またとりに行きますから」
そう言って、タクシーが出発してから、秋乃は自分の失態に気付いた。
部屋に私物を残していくなんて愚の骨頂ではないか。きっと庄司も呆れたに違いない。不倫をするのは初めてではないのに、こんなことに気付かないなんてとんでもない馬鹿をした。
きっと疲れているんだ。秋乃は頭を抱えた。すぐに取りに行かなければいけない。このままUターンしようかとさえ思ったけれど、それはさすがにかっこうが悪い。
悶々としたまま家に帰ると、泥棒のかわりに宇都宮がいた。例の、完璧な肩のラインを持つ男だった。
ピエロ
カーラジオからB’zの『ピエロ』が流れてきて、秋乃は背筋が凍る思いだった。
秋乃にとって交際というものはおおむね楽しいものだった。キスは好きだし、セックスも気持ちがいい。秋乃は生まれつき嫉妬という感情を持っていなかった。だから相手が浮気しても別になんとも思わないし、自分も好きなだけ浮気した。
宇都宮との交際は短期だったが楽しかった。秋乃は恋愛の楽しい部分だけをつまみ食いしてきた。交際が深みにはまってきて、距離が縮まってくるともう次の人を探している。宇都宮と別れたのはそんな理由だった。
宇都宮が怒ったから秋乃は連絡をとらなくなった。電話番号をかえ、男の家に引っ越しして話し合うことを拒否した。一度だけ本屋でたまたま再会して、お互いの顔を引っぱたきあって喧嘩したが、そのような記憶は思い出さないようにしている。実際、宇都宮に髪をつかまれて無理やり車に乗せられるまで忘れていた。
宇都宮の人目を惹くきれいな顔、完璧な肩のラインなど、本棚からお気に入りの本を取り出すように、美しい思い出だけ取り出して反芻していた。
「その犬、名前は?」
ハンドルをきりながら宇都宮が尋ねた。
緊張と怒りで、秋乃は返事をしなかった。
「まだこんな生活を続けてるんだな」
宇都宮は独り言のようにつぶやいた。
「こんな?」
「エイズや性病が怖くないのか? 手当たりしだいにセックスして、妊娠したら出産する覚悟があるのか?」
宇都宮は教師か牧師のような口調でつらつらと言い募る。秋乃は返事をしなかったが、反論したいことはいくらでもあった。
エイズは怖い。もちろんだ。だからコンドームなしでセックスしたことはないし、検査も月二回受けている。ピルも飲んでいるし、正体不明の男とセックスする禁忌を犯したことはない。
だが、なんと言おうと宇都宮は納得しないだろう。馬鹿が言い訳していると思うに決まっている。誰だってそうだった。
「でもいいんだ、俺は。そんなことを怒ってるんじゃない」
「ウツ……スピード、落とせ」
深夜の高速道路、宇都宮は恐ろしいほど加速していく。
「お前がやっていることは、自分を切り売りしているだけだ。お前は男をかしずかせてモテていると思い込んでいるんだろうが、ただ売女に落ちているだけなんだよ」
宇都宮の言っていることは耳に入っていた。だが、猛スピードの恐怖で、脳が理解するまでには至らなかった。
「俺は本気だった。マジでお前が好きだったのに、お前はただセックスのための道具としてしか俺を思っていなかった! そうだろう?」
宇都宮はだんだん苛立ち、口調が激しくなっていった。秋乃は体を板のようにしながら胸の前で手を握った。
宇都宮は危うい運転で前の車を抜かしていく。すでに四方八方からクラクションが鳴らされ、いつ事故になってもおかしくない。誰かが通報してくれればいいのに。秋乃は祈った。
「なあ、お前、本当に俺を愛していたのか?」
宇都宮が何か言ったが、秋乃はもはや聞いていなかった。宇都宮はまるで追突するかのようにトラックの脇を通り抜け、飛ぶように走っていく。警察でもくればいい。この暴走車をなんとしても止めてくれなければ、いつスリップしても不思議ではない状況なのだ。
何かのタイミングで宇都宮がブレーキを踏み、タイヤが耳を塞ぎたくなるような音をたてて滑った。
秋乃は頭を抱えて座席の上にしゃがみこんだ。
そして、恐怖で気を失った。
くらげ女
夢を見た。
ごく普通の会社員の家に生まれて、特に不自由もなく育ち、子供のころはモテた。小学六年生のときに幼い恋人ができて、中学一年生で初めてキスをして、中学二年生で初めて体を重ねた。別に恐怖もなく、それからただ流されるように数多のセックスをこなしたが、その恋人とは、彼の爪がきれいだったから別れた
長く付き合いすぎたのだ。名前さえ知らない関係だったら長続きしたはずだ。
結局、秋乃は昔から、そんなふうに生きていた。
両親の反対を押し切って上京したが、仕事がなくて貧乏をした。友達を通じて紹介された男に奢ってもらったり、お小遣いをもらったりして生活した。男から男へ。体を開きさえすればお金が稼げるから女は得だなあと思った。だいたい、生活費のほとんどをパチンコで使って、あとはベッドの上で抱き合うだけ。セックスは気持ちがいい。ゆらゆらと流れるのは楽しい。
世の中の人は、なんて真面目なんだろう。
真面目に働いて子供をつくるなんて、とても想像できない。そんなことをするくらいなら、爪をぴかぴかに磨いたり、化粧品を買ったり、服を選んだりすればいいのに。
稲葉は考え方が似ているから好きだ。稲葉といると楽しい。だが、なぜかむなしい。稲葉は秋乃と同じ流れに身を任せているくらげだが、稲葉のほうが四つも年下だし、やっぱり愛してくれない人といるのは辛い。秋乃は、自分は愛さないくせに愛してほしかった。自分を棚にあげて――でも、女なんて多かれ少なかれそういうものだと思っている。
稲葉は茶色く美しい目をしている。それから女のように華奢な腕を持っている。セックスはするが、お小遣いはいらないし、奢ってもらえなくてもいい。プレゼントもいらない。ただもっと愛してほしかった。
でもそんな大それたこと、言えるわけない。
車がガードレールを突き破った瞬間、宇都宮の腕が伸びてきて秋乃の肩をつかんだ。
――痛い!
異様な握力で、骨がきしむ音がして、目の前に空を飛んでいるかのような認識しがたい光景が広がっていたが、夢だったかもしれない。
もう何年も前のことになるが、秋乃は高校生のとき、お小遣いほしさに近所の家に忍び込んだことがある。当時は外出するときに鍵をかける家は少なかった。お勝手から入り込み、いろいろと探ったが金目の物はなかった。
物音がして家人が戻ってきた。あわてて逃げようと窓を飛び越えたが、そのとき、いつも着ていたお嬢様のようなひらひらしたドレスの裾がひっかかり、派手にこけて御用となった。秋乃は近所中の笑い者だ。逃げるように上京した。
それ以来、故郷では「ひらひらさん」と呼ばれている。
モラル
夢を見た。
小学生のとき、登和子ちゃんという子がいじめられていた。どんな子だったのかもう顔も忘れてしまったけれど、いじめていた子はよく覚えている。沙織ちゃんという子で、大きなお家に住んでいて、いつもきれいな髪型にしていて、成績優秀だったので教師からの受けもよかった。
毎日、放課後になると、沙織ちゃんは仲間を集め、登和子ちゃんを中心にして明日はどんな風にいじめようか相談したものだ。
だいたい、取り巻きの子が提案し、最終的に沙織ちゃんが決めた。みんな沙織ちゃんに気に入られたくてどぎついことを提案するから、いじめは日に日にエスカレートしていった。秋乃もその他大勢の取り巻きの人だった。
男子の受けがよかった秋乃はいつも女子の目に怯えていた。特に沙織ちゃんに目をつけられるのはたまらない。たとえばクラスの女子の中にカースト制度があったとして、間違いなく秋乃は登和子ちゃんのひとつ上という位置だった。登和子ちゃんの次は自分の番だと思うと恐ろしく、秋乃は必死で沙織ちゃんの機嫌をとった。
たとえば、朝までトイレに閉じ込めてやろうかしら。
男子の前で裸にして、自慰をさせてやろうかしら。
援助交際でもさせようかしら。
服で見えない部分を、バスガーナーであぶってやろうかしら。
ぎょっとするほど凄惨な意見が飛び交う。登和子ちゃんは顔を真っ青にしながらそれを聞いている。満足そうな顔の沙織ちゃんが見ている。
(笑え)
秋乃は防衛本能が告げるままに笑い、ときおり意見を出し、沙織ちゃんの命ずるままに行動した。
(嫌だ嫌だ)
ある日突然、本当に突然なのだ。例の『会議』のときに秋乃の頭の中に、BOOWYのモラルという曲が流れて、とまらなくなった。
人の不幸は大好きさ
人の不幸は大好きさ
人の不幸は大好きさ
秋乃はこの教室にいる女どもの醜さに耐えられなくなった。女王のようにふるまう沙織ちゃんもそうだし、女王の影に隠れて、盾の後ろから手を出すかのような卑怯な自分自身も。そして、ただ泣いていることしかできない脆弱な登和子ちゃん。見て見ぬふりをするすべての人。
表面だけぴかぴかに飾り、影ではどんな醜いことも平気でする。
表面だけきれいにして――。
秋乃は筆箱(象が踏んでも壊れないというやつだ)を取り出すと、沙織ちゃんに殴りかかった。沙織ちゃんは頭から血を流して倒れ、恐れをなした他のクラスメイトも散っていった。
その事件はあっというまに広まり、秋乃は親にかなり絞られたが、まったく後悔していなかった。翌日から秋乃は猛烈にいじめられるようになったが、情けなく倒れた沙織ちゃんのいじめなど痛くも痒くもなかった。登和子ちゃんはやたら媚びるように近づいてきたけれど、秋乃は一切相手をしなかった。別に登和子ちゃんを助けようとしたわけではない。
それから秋乃は大っぴらに男子と親しくし、恋人をつくり、キスをしたり、セックスをしたりした。女の嫉妬は怖い。だが開き直ってしまえばどうということはない。嫌な女は、男に頼んでぼこぼこにしてやった。それ以来、秋乃は恐れられて遠ざけられた。
表面だけを取り繕って陰湿なことをする女たち。女の醜さを嫌いながら、その表面の美しさに惹かれて集まってくる男たち。すべて一緒くたに呑みこもうと決心し、秋乃は男とも女とも寝た。
頭の中が痺れたように何も考えられなくなり、駆け引きとセックスの技術だけ向上した。
目を覚ますと、目の前に稲葉の白く細い手首があって、泣きそうになった。
手首
秋乃は稲葉の華奢な手首をじっと見つめた。
目覚めて最初に見たものがこの手首でよかったと心から思った。それから手首、手のひら、指を見た。稲葉の指は女性のように細く、握ったら折れるんじゃないかと思うと怖くて、強く力を入れることができなかった。
「電話があってさ」
稲葉は低い声でそう言い、ベッドの秋乃をのぞきこんだ。
「あんたの親から電話があって。びっくりしたよ。お父さんもお母さんもすごく心配していた。今は事務所の人と話をしてるよ、呼んでくる」
秋乃は振り向いた稲葉の服の裾をつかんだ。
「もうちょっと」
案外、普通に声が出せて驚いた。
「もうちょっといろって? いいよ。でも俺驚いたよ。あんた、俺のことご両親に言ってたんだね」
突然の事件に困惑しているのか、稲葉は妙に饒舌だった。
秋乃は首をかしげた。秋乃はいつも複雑な家庭に育ったんだろうとか、虐待されたんだろうと思われる。とんでもない勘違いだ。両親は優しく、家族関係は良好だ。両親を稲葉に会わせたことはないが、いつだったか『友人』と言って一緒に行った海外旅行の写真を見せたことがある。両親は、当然のように『恋人』と認識したようだった。特に否定はしていない。
きっと両親は秋乃の携帯電話から稲葉の名前を見つけ出し、連絡をとったのだろう。
「迷惑だった?」
稲葉は片手をふった。
「いいや。でも警察がきてて、いろいろ聞かれて焦ったけどね。一応恋人って答えておいたけど、よかったよね?」
稲葉は何か他意を含んだような言い方をする。
「宇都宮は?」
手に汗を握りながら秋乃が尋ねると、稲葉は動揺したように目を動かした。
「言ってもいい?」
秋乃はうなずいた。
「あの人は死んだよ。即死だった」
――ああ、やっぱり。
秋乃は思わず手で顔を覆った。
「……でもよかったね。あんたは脳震盪だけで。頭を打ったみたいだけど、幸い大した怪我じゃないって」
脳震盪? 秋乃は自分の手を見た。
たしかに、今のところ体にはなんの異変もなかった。ただ宇都宮に掴まれた肩が痛んだが、気にしないようにすればさほどのことはない。
生き残ったのか。あれほどの大事故だったというのに。
「ガードレールを突き破ったのに」
「あいつがあんたを庇ったみたいだって警察の人が言っていたけどね。あいつは原型ないくらいらしいよ、もちろん見てはないけど」
稲葉は早口でしゃべりまくる。稲葉の宇都宮に対する呼び方が、あの人からあいつに変わっていた。
「……そう」
「もうちょっと休めば。俺はここにいるから」
稲葉はベッドサイドの椅子に座り、秋乃の手を握った。
「もう一個聞きたいんだけど」
「何?」
「ポンタは? 生きてる?」
稲葉は一瞬驚いた顔をしたが、ひとつ小さくうなずいて言った。
「ポンタのことは何も聞いてないよ。ポンタが車に乗っていたんだね」
秋乃は目を閉じた。
死体が出ないということは、きっと無事なんだ。でも逃げてしまったのだろう。退院したら探さないといけない。
きてくれたのが稲葉でよかったと秋乃は思った。両親は秋乃の生活を知っているので、秋乃は他の男も何人か友人と言って紹介していたのだ。
こんな状況じゃなかったら、間違いなくベッドに誘っていたのに。そういえば独り寝をするのは数年ぶりだ。セックスしなくても眠れるのかどうか気になったが、目を閉じて、気付いたときには数時間たっていた。
目を開けたとき、稲葉がまだいた。
シルエット
ああ、肩が痛い。
秋乃は宇都宮に捕まれた肩をさすった。体は完全に回復したが、肩の傷だけはまだ治らない。むしろどんどん酷くなっているように思う。ぞっとするような指のあとが赤黒く残っているのだ。
宇都宮は憑いてでもいるのだろうか。でもそれならそれでもいい気がする。老若男女、生きているものでも死んでいるものでも、すべて呑みこんでやろう。
警察には、ドライブで事故をしたと説明した。宇都宮に無理やり乗せられたとは言わなかった。すでに死んだ人だし、そうなった経緯を説明するのが嫌だったからだ。
稲葉が日中ほとんどそばにいてくれたので何も怖くなかったが、宇都宮の両親が目を腫らしながら会いにきたときは、さすがに辛かった。
罵倒されるのも覚悟でいたのだが、意外にも宇都宮夫妻は優しく、秋乃に謝罪の言葉をかけて帰って行った。入院費も払ってくれるという話だ。あの夫婦は、きっと何も知らないのだろう。哀れに思ったが、なおさら真実を話すわけにはいかなくなった。
大事をとって養生していたが、体はまったく悪くないので早々に退院することになった。稲葉を帰らせ、両親と一緒に荷物をまとめていると、稲葉が持ってきてくれた荷物の中に黒い真珠のチョーカーが出てきた。
「ここにあったんだ……」
なくしてしまったとばかり思っていたから、感動ものだった。さっそく首に巻きつける。
退院前に散歩でもしようかと思い、病室の外に出た。今夜は稲葉を呼びだそう。両親は今夜田舎に帰るそうだし、こういう状況で一番スマートに秋乃の相手ができるのは稲葉しかいないだろう。稲葉は不思議な男で、秋乃が黙っていてほしいときは一日中黙っているし、しゃべってほしいときはずっとしゃべっている。
秋乃は階段をおりて、スリッパをぱたぱたさせながら自動販売機の前を通った。
入口の自動ドアのすぐ前、すりガラスに透けて、痩せた男性のシルエットが浮かんでいた。その背筋はどこか切り立った崖を思わせた。
「庄司さん――」
震えながら進みより、自動ドアを開けると、庄司は腕を組んだまま振り返ってほほ笑んだ。
「心配した」
寡黙な彼らしく、それだけ言った。
心が沸き立ってくるような思いになって、秋乃は目頭をおさえた。
「ずっと待っていてくださったんですか」
「君の職場の人に話を聞いたものだから」
「病室に、入ってこられたらよかったのに」
うれしさのあまり、知らず知らずのあいだに秋乃の口調が丁寧なものになっていた。庄司は、いつ出てくるかもわからない秋乃をこうして扉の前で待っていてくれたのだ。寒い中ずっと――。
「いや、彼氏がいたから、邪魔をすると悪いと思って」
庄司は少年のような顔で照れた。秋乃はそんな顔を見るともう居てもたってもいられなくなり、人目もはばからず庄司に抱きついた。
「無事な姿を見たかっただけだから。もう帰るよ」
「庄司さん、今日で退院なんです。今夜私の家にきてください」
「いいのか?」
「予定があるんですか?」
「いや、ないけど。でも俺でいいのか?」
秋乃の脳裏にちらっと稲葉の顔が浮かんだが、首をふって打ち消した。稲葉は誘わないと会いに来てくれない男だ。こうして会いに来てくれた庄司の気持ちが、今は何よりもうれしい。
「親が帰ったら電話しますから」
「そう。じゃあ待ってる」
最後に堅く抱擁して、秋乃は庄司のシャツに頬をこすりつけた。
エゴイスト
ああ、肩が痛い。
何かをしていればまったく気にならない。だがふと気を抜いたときや、一人になったときなど、まるで存在を主張するかのようにきりきりと痛みだす。宇都宮は、俺を忘れるなと言っているのだろうか。あの肩のライン以外、顔も髪型も忘れてしまったのに。
両親を駅まで送って行ったあと、秋乃は携帯電話に飛びついて庄司にかけた。
「今からいいですか」
「空を飛んでいく」
庄司はそう言って笑いながら通話を切って、およそ数分でインターフォーンが鳴った。まさか本当に空を飛んできたのだろうか。
「実は、この近くの駐車場にいたんだ」
庄司は目を丸くしていた秋乃にそう説明して、恋人同士がやるように秋乃の腰を抱いてリビングを歩いた。
裸になり、ベッドサイドのランプはつけたままで抱き合った。ベッドの中で、庄司が秋乃の肩をなでた。
「この痣はどうした。指の形だな」
「昔の男の……」
秋乃は指を胸の前でくねくねさせながら言い訳した。しどろもどろになって、どう説明すればいいのか思いつかない。
「昔の男にひどいことをされたんだな。可哀想に」
庄司は慈愛にあふれた顔で秋乃を抱きしめた。
「いえ、私がひどいことをしたんです」
「今回のことは大変だったな。俺が送ってやればよかったんだ」
このくらいの年の男性は、ほとんどと言っていいほど浮気相手の女性の話などまともに聞いていない。何を言っても無駄だと思い、秋乃は口を閉ざした。
「君には悪いことをした。お詫びに入院代くらいは払わせてくれ」
「え――あの、それはいいです」
「遠慮しなくていい。俺は見ての通り、もう若くない。中年男性は金を出すものだ。体が治るまで生活費も出すよ」
「そういうことは――」
「別に君を縛ろうとは思っていない。今まで通り、好きに彼氏と付き合うといい」
そこまで言われるとなんとも言い難く、秋乃はもじもじしながら視線を右往左往させた。
「私は別に、そういうつもりでは」
「わかっている。俺のお詫びの気持ちだ」
やると言っているものを受け取らないのは、失礼にあたるだろう。
秋乃は腑に落ちない顔をしつつ、その提案を受け入れた。これは世に言う愛人契約というやつだろうか。金銭を受け取ることによって、恋愛が仕事になるのかと思うと妙に寂しい気にもなった。
なんとなく続けてもう一回セックスする気にもなれず、庄司の腕枕でまどろんだ。
そのとき、インターフォーンが鳴った。秋乃は心地いい浅い眠りから覚めたくなかったので無視をした。
「彼氏かもしれないぜ」
庄司は笑い、裸のまま起き上がってモニターを覗き込んだ。マンションについているカメラは、こちらからは見えるが相手からは見えないつくりになっている。
インターフォーンの画面をのぞきに行った庄司は、相手を確かめるとあわてて戻ってきて言った。
「噂をすればだな」
「え? 稲葉ですか?」
秋乃は起き上がった。他の男たちならともかく、まさか稲葉が連絡もなしに尋ねてくるなんて、そんなことをするわけがない。
「名前は知らないが、病室にいたやつだ」
やはり稲葉だ。秋乃は驚きのあまり頭が真っ白になった。
「お前を心配してきたんだな。出てやったらどうだ」
言いながら、庄司は素早く服を着ていく。
「でも……」
「俺は帰るから」
動揺する秋乃を見て、庄司はくしゃっとした顔で笑った。
「心配するな。窓からでも適当に帰る」
まるで冗談のように言い放って、庄司は窓を開けた。雨の日に壊れてしまったが、秋乃の両親が入院中に修理してくれた窓だ。
「そんな……やめてください。稲葉を帰しますから」
各階のベランダを伝って下へ行くつもりなんだろうか。マンションの構造的に難しくはなさそうだが、庄司くらいの年齢の男性にそんなかっこう悪いことをさせるわけにはいかない。そういうことは独身の秋乃がやることだ。
「俺も昔、浮気相手の女の子を窓から帰したことがある。うまくやってみせるから心配するな」
そう言って、庄司はまるで映画スターのように窓枠に足をかけた。
「待ってください! 危ないですから」
もう一度チャイムが鳴り、秋乃は思わず玄関のほうを振り返った。
「早く出てやれ。また電話するよ」
庄司はふわりと下の換気口の上に降り立ち、足をのばして隣のベランダに移った。それから器用にベランダの柵につかまり、下のベランダのヘリに足をつける。そんな調子で、ものの数分で地面にたどり着いた。
秋乃はそのあたりにあったワンピースを頭からかぶり、インターフォーンに出た。
「ああ、よかった。なかなか出ないから、いないかと思った」
カメラのむこうで、稲葉が笑っていた。
エゴイスト
なぜ稲葉はアポなしでやってきたのだろう。自分が同じことをされたらきっと怒るくせに。入院中ずっとそばにいたから、今夜は当然会えるものと理解したのか。
あいるは――庄司の言う通り、本当に心配してきてくれたのか。
「ごめんね、いきなり」
稲葉はさほど悪いと思っていない顔でそう言い、秋乃の痣が残る肩に手をおいた。
「……痛い」
「あ、ごめん。まだ治ってないんだ」
稲葉はそっと秋乃の背中を抱き寄せた。
「シャワーかりようかな」
「どうして?」
思わず冷たい台詞が口をついて出ていた。
稲葉はまさか、秋乃を抱くためにここを訪れたのだろうか。入院中はあんなに優しかったのに。それが若さだとでもいうのか。
「いや、嫌ならいいけど。ちゃんと夕飯食べたか気になって」
稲葉はテーブルにコンビニの袋をおくと、秋乃のほうを振り返ってほほ笑んだ。
相変わらず、男女問わず、美しい人の笑顔はずるい。秋乃はすがるように稲葉の腕をつかんだ。
「あんた、今まで男と一緒にいた?」
稲葉はそう言い、犬のように秋乃の首筋に鼻をよせた。
「においでわかる」
でも、まあいいか、と稲葉は本当にどうでもよさそうにつぶやいた。
「肩が――」
秋乃は肩をおさえた。
肩が痛い。突然、きりきりと絞めつけられるように肩が痛みだし、秋乃は倒れこんだ。
「どうしたの? 大丈夫?」
稲葉は秋乃を抱き上げてソファに寝かせた。ああ、肩が痛い。宇都宮につかまれたときのようだ。
「稲葉」
秋乃は稲葉のシャツを握りしめた。突き動かされるように数々の台詞が頭の中に湧いてくる。
あんたどうして突然訪ねてきたの?
どうして入院中ずっとそばにいてくれたの?
どうしてそんなきれいな笑顔を見せるの?
(今すぐ素直になれ)
秋乃の中でそんな声がした。心の奥底から湧き上がってくる衝動に耐えきれず、秋乃は稲葉の手首を握りしめた。
折れるんじゃないかと思うと、強く力を込めることができない。
「あたし、稲葉のことが好き」
秋乃はまるで中学生の女の子のように、顔を真っ赤にしながらそう言った。
「あたし、稲葉のことが……」
最後まで言えず、頬に手をあててみれば涙が流れていた。秋乃はあわてて顔を手で覆ったがもう遅い。
秋乃は稲葉の顔を見ることができず、不器用にうつむいたまま涙を流した。稲葉の手首が脈打っている。その温かさだけを感じてこの気まずいときをすごした。
「俺……」
稲葉は額に落ちていた前髪をかきあげ、秋乃の腹に触れた。
「俺、帰るね」
稲葉はやるせなさそうな笑みを浮かべて玄関のほうへむかった。
涙はとめどもなく溢れてくる。秋乃は咄嗟に稲葉の背中にすがりつこうとしたが、そんな無様なことはとてもできなかった。まるで杭を打ち込まれているかのように肩が痛む。
「あたし、稲葉が好き」
ドアを閉めようとする背中に大声で叫んだが、稲葉は秋乃のほうを見なかった。
なぜ言ってしまったんだろう。本当はわかっていたのに。
ありったけの思いをぶつけたって稲葉は去っていくだけだ。秋乃だって、他のどうでもいい男からこんなことを言われたら縁を切るだろう。ベッドの中の睦言ならともかく。
稲葉のことは自分のことよりわかっていたのに、退院後訪ねてきたりするから、我を忘れてしまった。稲葉が悪かったんだ。
稲葉が悪い、宇都宮が悪い、帰ってしまった庄司が悪い。誰もかれもが悪い。
秋乃は自分以外のすべてを悪者にして、悪態をつきながらベッドに倒れこんだ。だけど、どんなに自分は悪くないと言っても、今は一人なんだ。今は一人なんだ。
骨にまで染み込んでくるほど、孤独というものは辛く耐えがたい。孤独を感じるくらいなら、頭のおかしい男と真夜中の高速で無理心中したほうがましだった。秋乃は髪をかきむしりながらむせび泣いた。
体だけで繋がっている男たちは、こちらから呼びつけないと誰も来てくれない。
それから秋乃はかなり長い間泣きまくった。翌日は泣きながら起きて、泣きながら寝た。目の周りが赤く腫れても涙がとまることはなかった。あまりにひどい顔なので誰にも会えず、また仕事をする気にもなれず、ただ丸まってしんしんと泣いた。庄司からの電話も無視した。
稲葉のことが本当に好きだった。稲葉のためなら便利な男たち全員と手を切ってもよかった。だけどどうしようもない。稲葉は入院したときにきてくれたけれど、そんなことはなんでもないことだったのだ。
秋乃は泣いて泣いて、そして貧血で倒れた。目が覚めたとき、体中が干からびて塵となり空気中に舞っていく夢を見た。
ミッシング・ピース
結局、あれから、秋乃は相変わらずの日々に戻っていた。
あの泣きまくった日々はなんだったのだろうと思うけれど、毎日を涙にくれて生きるわけにもいかない。腹は減るし、寝る前のセックスもしたくなる。
初めて付き合ったあの人と同じで、名前も知らずただ体を重ねるだけの関係ならいつまでも長続きしたのだろう。唯一違うのは、今度は振られたのは秋乃のほうだったということだけだ。
かわったことといえば、年をとるにつれてさすがに毎日は行為をできなくなったことだ。多くて週に三、四回に減ってしまったが、不思議と寂しくもなくぐっすりと眠れた。
庄司とはまだ続いている。毎月のお小遣いも頂いて贅沢をさせてもらっているが、例の黒い真珠がついたチョーカーは返した。というのも、あのチョーカーは実は安物ではなく、何百万もする高価な品だったと判明したからだ。あまり強く愛されてもいいことはない。
大昔、まだ歴史が存在する前のことだが、人は頭が二つ、腕が四本、足が四本で、背中合わせにくっついており、樽のように地面を転がって暮らしていたという。人の力を危惧した神が人を雷で真っ二つに割り、今の体にした。それから二度と一緒にならないように洪水でばらばらに押し流した。
それから人は、その失われた相方を探すために生きることになった。
秋乃はずっとカタワレは稲葉だと思っていたが、稲葉のカタワレは秋乃ではなかったようだ。稲葉でなかったのは残念だが、探し続ければ、いつか本物に出会えるかもしれない。
数年後、秋乃は庄司と手を繋いで街を歩いていた。宇都宮の事件後、秋乃は暇を見つけてはポンタを探して歩いているし、インターネットで呼びかけたり町内の掲示板にビラも張ったりしたのだが、まだ見つかっていない。死んだか、保健所に連れて行かれたか、誰かに拾われたか。頭のいいたくましい犬だったから、案外一匹で強く生きているかもしれない。
ポンタ、強く荒野に生きるのだ。
この日も庄司とデートがてらポンタを探して歩いていた。
ポンタが行きそうな場所など検討もつかないが、こうして歩いていればいつか出会えるような気がする。
「いないね」
「ああ」
そんな会話が恒例となった。あと一年探しても見つからなかったら、庄司が新しい犬を買ってくれるそうだ。
二人で映画を見てホテル街にむかって歩いていたところ、偶然にポンタ、ではなく、稲葉を見つけた。
秋乃は歩みをとめた。
稲葉は女性と腕をからませて歩いていた。稲葉はその女性に笑いかけながら、ちらりと横目で秋乃を見た。
二人が見つめあっていた時間は一秒もない。稲葉は大げさなほどはしゃぎ、女性の頬にキスを繰り返しながらこちらにむかって歩いてくる。
秋乃もまた庄司の腕にすがり、声高に映画の内容を話し、これからどんなホテルに行くのか尋ねた。
ああ、痛い。肩が痛い。
今までなんともなく治ったとばかり思っていた肩が、突然刺すように痛みだした。万力で絞められているかのようだ。秋乃はしゃがみ込みたくなったが、なんとか歩いた。
混雑する道の中で、不思議と人々の往来がいったん途切れ、秋乃と稲葉が向かい合うことになった。
二人はしっかりとお互いを見つめあいながら、それぞれのパートナーにぴったりと寄り添って、すれ違った。
「いいのか」
庄司は尋ねた。秋乃は「いいの」と言って、けして振りかえらなかった。運がよければ、カタワレにもポンタにも、いつか出会えるかもしれないし。
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