プチプクくんに関するわたしの知っている 二、三の事柄

プチプクくんに関するわたしの知っている 二、三の事柄

   







   



 1990年代前半の関西サブカルチャーシーンを支配していたのは「ノイズ音楽」であった。

 ボアダムスというバンドが登場して以来、ノイズをやらないミュージシャンは「平家にあらずば人にあらず」状態だった。バンドのリーダー、ヤマツカ・アイはカリスマ的存在であった。

 あらゆる青少年が彼の風俗を模倣し、彼の絶叫ボーカルをおのがものにせんとした。彼がボアダムス以前にハナタラシというユニットを組んでいたことに因んで、わざわざ冬の寒中にティッシュも携帯せず鼻水をたらして歩く者さえ出現した(というのはわたしの説だが)。

 ハードコアならまだしも、まちがってもパンクをコピーしようものなら「ダサい」という10~20代の青少年がことごとく恐れる烙印を押された。ましてや「先輩やっぱロックっすよ、このリフ、サイコー、うっす!」などという輩は初めから存在すら黙殺される状況だった。

 このような状況であったから、自主映画などというプチ文化活動を嗜んでいた当時大学生のわたしが、実はアシッド・ジャズが好きであったにもかかわらず、本意ではないノイズ小僧の仮面をかぶらざるを得なかった屈辱を、あなたがたに想像してもらえるであろうか? 

 上記のような文化状況をご理解いただいた上でわたしは、ノイズ野郎が巷を謳歌する街の狭間で出会ったプチプクくん(一人ユニット名、本名不明)という一人の少年との接触に関する3つの事柄を証言するのである。



   







   



1,プチプクくんは目立たないノイズ少年だった。



   







   



 自主映画に頼みもしないノイズ音楽をサントラ提供してもらった縁で、わたしはある日、望みもしないノイズ・ミュージシャンたちのライヴ後の打ち上げに招かれた。

 あれは忘れもしない、大阪はウメダのとあるショットバーでのことである。全身レザーで、厚底ブーツ(当時は単にロンドンブーツと呼ばれたが)で現れたわたしの出で立ちは、当然のことながら、浮いた。・・・・・・と書くと奇異に思われる方もあろう。しかし当時のノイズ・ミュージシャンはともかく地味であった。

 ベルボトムのジーンズに、単純なロゴがプリントされたTシャツ、その上に長袖のチェックを羽織れば、即、ノイズ戦闘体勢に入れるのがノイズ・ルックだった。なぜこんなに地味であるのか? ボアダムスとその友人格アメ公バンドのソニック・ユースが地味だったからである。

 わたしはあまり身近になりたくないその連中の集いの中を器用に泳ぎ渡った。適当に飲み、食い、話し、えへらえへら笑いをする。これが限界点に達すると「エヘヘ、飲みすぎちゃって・・・・・・」と断ってトイレにダッシュ。休憩。齢20年でわたしが学んだ飲み会テキトーに逃走術であった。

 そんな中でわたしに話し掛けてきたのがプチプクくんであったのだ。彼は他のノイズ連中と同じく地味であった。しかしとりわけ彼がこの集団において目立たない存在であったということは、目立たないように振る舞い時間を潰していったわたしが最後に到着した人物が彼であったという事実が、証明しているであろう。

 無表情な顔、訥々と喋る声、緩慢な動作、こってり太った体型が彼の特徴であった。

 「・・・・・・はー・・・・・・チェルシーさん(・・・・・・当時のわたしの通り名)・・・・・・よろしふ・・・・・・」。実際はよろしく、と発音しているのだろうが、どうしても、ふ、で聞こえてしまう語尾、そう、プチプクくんは「ハ行の人」だった。

 彼は他のノイズ少年の例に漏れず、いかにして自分がノイズと出会い、いかに自分の人生にノイズが重要な意義を持つかを無表情な抑揚のない顔で語るのだった(ハ行文で)。

 わたしは夢中で語る彼の話をほとんど聞いてなかった。彼の下腹のでっぷり具合を観察するのに夢中であったからである。それは太鼓腹でも三段腹でもなかった。強いて言うなら「ちょっとだけ断層膨張腹」とでも命名すべきや、うまいぐあいに腹のたるみがせり出しており、またそれが愛らしいのである。ぷちぷちした感じだからである。プチプクとは誰が名づけた己が名づけたか、まさに言いえて妙に、彼のこの愛らしい下腹を忠実に表現している。

 わたしがこの下腹をキュッッッと触れ抓ってみたい衝動を懸命に堪えていたその時、「チェルシーさん・・・・・・はー・・・・・・胸、おおひいでふね」と無表情な声。はん?いつから話題はそっち系に向かっていたのだ? わたしが話題の進路を転換すべくそのまた話題を考案していたが、その間髪入れず「・・・・・・さわっていいでふか?」。

 プチプクくんがそう言い終えてからわたしの鉄拳が彼の鼻腔へ衝突しお猪口一杯程度の血液が弾け飛ぶまで、一呼吸置かなかったであろう。わたしは極真空手をたしなんでいて、しかも当時は口より拳が早い瞬間湯沸し機女だったからである。

 場が静まった。騒ぎが沈黙に変わった。目立ってしまった・・・・・・わたしが後悔しようというモードに切り替わるのも待たずして、プチプクくんは殴られる前と一切変わらない無表情でゆっくり告げた。

 「・・・・・・はー・・・・・・おっぱい・・・・・・もみまふよ」。有言実行・・・・・・モミ、モミ。彼は肩を揉むのと同じ緩慢な速度で衆目がハイスピードで血走る沈黙の中、会場中の人間の面前でわたしの両乳房を揉んだ。みな毒でも食らったように注目する中、わたしの鉄拳が再びプチプクを襲うことはなかった。なぜならわたしは半ば失神しかけていたからである。これがわたしの知るプチプクくんの第一の事柄である。



   







   



2.プチプクくんは目立たずクラブで踊っていた。



   







   



 ・・・・・・「ウメダ・パイ揉まれ事件」から半年が過ぎた頃であろうか。依然としてノイズ小僧らめの地味フェチ集団は一向に巷から減少する兆しはなく、むしろ信者の増加の一歩を辿っているかのように思われた頃だ。あれは忘れもしない、京都はマルタマチのとあるクラブでのことであった。

 クラブと言ってもオヤジがネエチャンと酒飲んでケタケタ満悦する場ではないことを承知されたい。わたしが言っているのは青少年がテンション高い音楽でエナジー高く踊る所の方である。一人の隠れアンチノイズ野郎(アンチノイズ野郎は隠れていなければならなかった)の女友達A子からそのマルタマチ某クラブでアシッドジャズ・デーのイベントが入っていることを知らされたわたしは、日頃のノイズッ気を浄化すべく、A子とともに気合を入れてクラブへ潜入したのであった。

 会場入りするやいなや、もうそこには重く低いベース音の饗宴に煽られ体を無造作・不整脈に揺らし続けるいたいけな青少年らがすでに場を埋め尽くし、トランス状態とエクスタシーの虜となった彼らの肉体が発するイカ臭さとキナ臭さが空間を蔓延していた。

 わたしはこう見えても(どう見える)シャイな女である。シラフではとてもではないがこのような情景に参加できない。そこでまずはフリードリンクでジンビームを一杯。重ねてジンをロックで一杯。ああ、もう、目が虚ろ、ああ、もう、腰くだけ。これであとはすでに兇徒と化した連中の間で体を無造作・不整脈に揺らすだけである。イカ臭・キナ臭に交わって連中の体に揉まれるように己の体を揺するのみである。

 みなさんはクラブへ行かれたことがおありだろうか? あのテの場所ではいかに誰よりも早く自己陶酔オンリーにステージを高めるかで快楽のレベルが決定する。そして半端な闇と不健全な照光の下で、周囲の人間たちと体をすり合わせるのが、プチ悦楽を高めるのである。白日のもとでは絶対にありえない他の人間とのボディ・アタッチメントが蕎麦だしに味りん程度の微小かつ際どい卑猥感をにわかダンサーたちに提供する。後年のレイヴに繋がる醍醐味はすでにこの頃芽生えつつあったのである。

 もっともこの醍醐味は己の恋人を同伴し、恋人と体をすり合わせ、別の異性とも体をすり合わせ、となってくると公然スワッピング・プレイの様相を呈し快感は最高の高みへと昇り果てる・・・のだが、今に始まったわけではない男レス症候群のわたしはだからA子と来たわけなのである。

 わたしはイカ臭直下で人々と体をすり合わせた。こっちで「スリッッ」、・・・・・・あっちで「スリッッ」・・・・・・うりゃ、そっちで「スリッッ」・・・・・・ア、コリャ、また、こっちで「スリッッ」・・・・ホレ、また、あっちで「ドシッ」、はい、ごめんなさいっ、と、
おおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!! プチプクくんっっっっっ!!!

 ・・・・・・あまりに安直かつ明快な表現の手抜きの如き登場と受け取られそうであるが、まさにこのようなシチュエーションでわたしはプチプク少年と再会したのであった。

 うぬ、ウメダでパイ揉まれたが半年目、あの遺恨覚えてかぁ!まずはこの極真かかと落としを・・・・・・などという思考は「・・・・・・なんで、あんたここにおるん?」という心の呟きに消され、わたしの頭は呆然としていた。彼が真剣に踊っていたからである。以前ウメダで見知った彼を逆ベクトルにおいたようなプチプクくんがそこにいた。

 緩慢な動作・否!敏捷なスウィング、無表情な顔・否!飽くなき渇望の精悍、ぷちぷちした体型・否!スリムなテレコンボデー。

 「・・・・・・おい、おい、あんたはノイズやったんとちゃうんかい!」という突っ込みも心の呟きで終わり、わたしの頭は呆然+自失が加わった。彼の踊りが奇怪であったからである。それをどう形容すればよいだろう?・・・・・・そう、TVの「古畑任三郎」の第2シリーズの最終回(犯人は女優Y・Tさんでしたね)、自律神経失調症の今泉がフラワーアレンジメントの発表会で見せた、あの、呪術的なサンバと暗黒舞踏を足したようなやつ、あれである。それを以前ウメダで見知った彼にニトロをぶっ放したような激烈な躍動感でプチプクくんは踊っていた。

 なぜこのような呪術的サンバ舞踏で周囲の人間はわたしも含め誰も気づかなかったか? 解答2つ。自己陶酔オンリーの集団はボディ・アタッチメントに夢中だったから、また彼が唯一半年前と変わらない点として地味だったからである。コム・サからピンクハウスまで会場を彩る数々の風俗の中で、地味ノイズルックで固めたところにプチプクくんの頑ななノイズッ子魂の片鱗があるのだろうか、しかし、なぜにアシッド・ジャズにいるか、おまえは・・・・・・。

 恐る恐る、わたしはプチプクくんに声をかけた。「・・・・・・プチプクくん?」・・・・・・反応がない。依然として呪術サンバ。産婆、いやサンバに夢中なのか? それとも鉄拳の痛みが再燃し、わたしを恐れ故意にシカトしてるのか? 「・・・・・・わたしのこと、憶えてるぅ?」・・・・・・サンバにトランスしているようだ。わたしの顔など見もしない。どうやらわたしの影なぞアウト・オブ・眼中。時々、サンバの合間に小声で何か呟いている。

 「・・・・・・んぱっ・・・・・・んぱっ・・・・・・」

 「(・・・・・・へん・・・・・・)」

 わたしの頭に二文字が宿った。どうしたっ!プチプク!ノイズ聞きすぎて、頭ショートしたんかいな?ええっ!!わたしはついに叫んだ。「プチプクくーんッ!たのしいィッ一?!」

 ・・・・・・しばらくして彼がようやく答えたのは、虚ろな、彼岸の向こうから聞こえてきたような、

 「・・・・・・ふん(うん←推定)」だった。

 ああ、あなた、ハ行は、そのまま、だった、のね・・・・・・。その後再びわたしがプチプクくんのサンバを目にすることはなかった。なぜならわたしはジンの飲みすぎで泥酔し記憶が飛んだからである。

 後日、わたしはあの日連れだった女友達A子から、ノイズ野郎連中の間でのもっぱらの噂として、どうやらプチプクくんがS(エス=メタアンフェタミン=カクセーザイ)に手を出したらしいということを伝え聞いた。彼がミナミの繁華街の地下ゲーセンでSを売人から渡されるのを見たという目撃談すら上った。・・・・・・これがわたしの知るプチプクくんの第二の事柄である。



   







   



3.プチプクくんは目立たず雑誌デビューした



   







   



 ・・・・・・「呪術サンバクラブ事件」から3年が過ぎた頃であっただろうか。ネズミの繁殖のように街に散乱したノイズ小僧たちは、ネズミの集団自殺でも起こったのか?、いつのまにか街から綺麗さっぱり一掃されていた。ボアダムスも活動中止かなんかしらんようになり、ヤマツカ・アイは改名してヤマタカ・アイになった。

 もうライブハウスに行っても以前のような耳を劈く轟音は聞こえない、天井を仰いでおもむろに言語不明の絶叫をする少年はいない。ガスマスクをつけて鉄パイプでステージの床を打ち付ける少女の姿もない。地味ノイズルックス小僧はただの地味坊に成り果て、嘲笑された。いや、嘲笑する者すら見あたらないほど、すべての関西の若者の生活圏から「ノイズ」が消失した。

 わたしがそんな時世の世間に哀愁を覚えても仕方あるまい。あれは忘れもしない、秋の京都・キタク・某私大のキャンバスでのことであったのだ。わたしは自分が部長を務めるあるサークルの部室(BOXと呼んだ)で気だるく窓からの秋風を浴びながら、FM802から流れるピチカート・ファイヴの『モナムール東京』を聞いていた。何のサークルかって?聞かないでほしいなあ、聞いた奴で即座にわたしに向かって大爆笑しなかった奴は皆無だからさ・・・・・・。

 野宮さんのボーカルにたそがれ、ついでに小腹も空いた頃、女部員B子がBOXに入室してきた。

 「チェルシー先輩(・・・・・・お恥ずかしいがこう呼ばれてた)、先輩にセクハラしたっていうノイズやってる人ってこいつっすか?」彼女が手にしてきたものは雑誌「クイック・ジャパン」!

 皆さんはご存知であろうか・・・・・ガロ系の漫画家やビャッコシャとかいう暗黒舞踏集団、ノイズ・ミュージシャンはともかく、三代目魚のエラがなんとかいうアーティストの亜流まで、とにかくマイナー・ムーブメントばかりに焦点を当て、おどろおどろしい特集を組むマイナー雑誌である。

 個人的には読みたくない雑誌であったが、これを読まないと「すかしやがった」プチプチ文化人学生の仲間入りができず、わたしは時々、すかしオタク学生のB子が読み捨てたものをパラパラ読みしていた代物である。B子が見開きのまま渡してくれたその「クイック・ジャパン」には、
おおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!! プチプクくんっっっっっ!!!

 ・・・・・・あまりに安直かつ明快な表現の手抜きの如き登場と受け取られそうであり実際手を抜いたが、なんと、プチプクくんが特集されていたのだ。小腹も野宮も吹っ飛んで目を点にして読んだ。

 見出しにはこうある。「大阪ミナミが生んだ次世代インダストリアル・メタル・テクノ・コアの旗手、個人ユニット『プチプク』がついに狼煙を上げた!!」。

 「・・・・・・狼煙?・・・・・・次世代?・・・・・・??・・・・・・インダストリアル?メタル?テクノ?コア?・・・??????」

 「おい、おい、あんたはノイズやったんとちゃうんかい!」という突っ込みも心の呟きで終わった。雑誌の紙に向かって声に出して突っ込むほど劇画人生は歩んでないからである。

 それにしても・・・・・・どうして、どうして、三度目だからついでに、どうして・・・・・・こうもプチプクくんは集団の中のみならず雑誌のページ群の中においてまで、目立たないのであろうか? 「クイック・ジャパン」での彼の記事は目立たなかった。なぜか?解答1個だけ。「クイック・ジャパン」の印刷がザツで粗かったからである。視力2.0を15年やってるわたしですら文字を読み取るには集中力がいる。しかもまた写真が小さい。小さい上にぼけている。雑誌前半の特集で三輪車で遊ぶヤマタカ・アイの写真とは雲泥の差である。

 小さい写真の中ではこってりぷちぷちしたプチプクくんがなんかスピーカーを抱え、それを壊している(らしい)過程が連続ショットで並んでいた。

 「・・・・・・うぅーっ・・・・・・プチプクくん、Sとは手を切ったのね、おまけにノイズ魂を忘れてないじゃない・・・・この心配させちゃって・・・・」という心の呟きは標準語であったのでもちろん口にはしなかったが、わたしは安堵した・・・・・・のだったがコメント記事を見てその安堵はあっけなく一転闇に消えた。ほとんどの記事の文章は記者のインダストリアルなんとかの紹介文で埋められていたのだが、ほんの数行、プチプク少年のコメントはあった。それが「こんな街、もう飽きた、大阪、焼いて、火の海にしたるねん」。

 ・・・・・・なんだというのだ、この毒の吐きようは?・・・・・・しかもハ行でないのは記者の怠惰か情けなのか? なにがどうしてあの緩慢で無表情で、訥々喋りで、ゆったりわたしの胸を揉んだプチプクくんに、このような罵詈雑言を言わしめた? 彼に一体何があったのか?・・・・・・。
わたしは暗鬱となり「クイック・ジャパン」を見開きのままBOXのテーブルに置いた。ラジオのボリュームを上げる。秋風が舞い込んで「クイック・ジャパン」のページを散らす。B子は窓を閉める。わたしは目を閉じる。野宮真貴は歌う。




   


      
「ひとりぼっちであてもない 街をさまようわ・・・・・・」



   


   
   
 その後、プチプクくんが再び「クイック・ジャパン」紙上に現れることはなく、大阪が火の海になったという話も聞かない。プチプクくんのホラだったか妄想だったか未遂だったかで終わったのであろう。これがわたしの知るプチプクくんの第三の事柄である。


   


   

   
 それから数年たった。わたしは二度とプチプクくんと会うことはなかった。彼のその後の消息も知らない。


   


   

   
 ただ、わたしには一日中あまたの伝票整理に追われたり一日中あまたの車に給油したり、といった生活を送っているプチプクくんの現在を、想像することができない。なぜなら彼にはキャラがあったから。目立たない、無名の若者ではあったが、プチプクくんには向き合って対面した者にこそ発する、強烈なキャラのオーラが満ちていた。そしてそれは恐らく、一般社会で下手をすれば烙印を下される、よくある「社会不適応者」のレッテルと表裏一体の彼の危ういパーソナリティであったのだから。

 誰でも人生で一瞬、天才・鬼才・キャラ才になれる時期がある。その多くは若い時期にやってくる。人はその若さゆえのイリュージョンを堪能し、あらゆる欲望を充足させる。しかし20代の後半にもなれば彼らの多くは失速し、減退し、イリュージョンの消滅を認知する。そして今度は社会に覚悟して自らを対置させる事業を開始する。しかし、一部のイリュージョンの残り火から逃れられない者たち、ある種の自己への貞操を守ろうとする者たちへは、社会はすさまじい迫害を展開し、その残党を根絶やしにしようとする。

 そのような憂き目を見た仲間を、わたしはどれだけ見てきただろうか? 消費者金融で資金を調達し写真スタジオを開設したがペイできず逃亡した者、ノイズ仲間の打ち上げでは場を盛り上げ皆に慕われたが自分の曲は全く作りえずSで頭をやられて病院送りになった者、ヤクザの親から家出し、わたしが身元引受人になった住み込み旅館のバイトで働いてWEBデザイナーを目指していた途中で自死した者・・・・・・。

 わたしは歳を若干取った。そしてくたびれた日常の現在にいるが、何とか生きのびたのである。今の若者が何を流行としているかなど関心がない。この頃日々思いが強くなっていくことは、かつてのイリュージョンをともに過ごした仲間への記憶である。そしてわたしは想像する、いまもあらゆる各所の大都市でかつてのわたしやプチプクくんのように命ギリギリの限界線上をさまよい戦闘的な年代と対峙する若者の影、それが地下水のようにゆっくり呼吸するその儚げな音を・・・・・・。



   


   
   
 ああ、プチプクくん、そして他の連中、みんななんて面白い奴だったことだろう!なんて当たり前のようにいい奴らだったというのだ!


   

   
 「・・・・・・ときどき彼のようなホンモノに会いたくなる。それにしても歌にもあるではないか・・・・・・みんなどこ へいったんだ?」 
  C・ブコウスキー著 『飲み仲間』より



   


   


   


   

プチプクくんに関するわたしの知っている 二、三の事柄

詩ではなく、小説。2003年ごろに書いた。
語り手を女性に設定した以外は、ほとんど自分の体験に基づいている。ある程度の脚色を除けば、ほぼ私小説。
1990年代の関西で流行していたサブカルチャーを背景にしているので、読みづらいかもしれない。

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プチプクくんに関するわたしの知っている 二、三の事柄

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-26

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