夢をついばむ

 真夏の夜が、君に悪い夢を見せる。     

 いま君が身体を横たえているのは、あの巨大な蟻塚を思わせる高い塔の一室――おそらくは、四階から十三階くらいまでのあいだの、どこかの部屋だ。塔には無数の窓が等間隔に穿たれているが、それらはみな均質的に無個性で、君がいま、この寝苦しい夜を何とかやり過ごそうとしているその正確な位置を、私たちは知らない。けれども、とにかく君はそこにいる。そして眠ろうとしている。心の底から眠りを求めている。私たちはそのことを知っている。

 外気はまだおそろしく蒸し暑い。
 それでも二十三時を廻った頃から、ようやく生温い風が、ほんの微かに、遠くの雑木林から君の住む街へと流れはじめたところだ。そのささやかな風量は私たちにひとときの清涼をもたらすが、いっぽうの君にとっては、それは不充分きわまりないものだ。君たちは誰もがみな、快適な睡眠のための最も適切な設定を求めて空調機の操作に躍起になっている。だがこの夜に、その最適解を見出せる者は誰一人としていない。誰もが狂おしいほどの気怠さをその身に抱えながら、やり場のない溜息混じりの寝返りを幾度となく繰り返している――そんな夜だ。その夜に、いま君は包まれている。

 君には三つの選択肢しか残されていない。 
 そのことを君はとてもよく理解しているが、それでもまだ、君はそのどれひとつとして選ぶことができない。だが、君が迷っているそのあいだにも、夜は、まるで砂粒のようにとめどなく、君の掌から次々とこぼれ落ちてゆく。もちろんそのことも君は本当によくわかっている。だから結局のところ、遠からず、君はどれかひとつを選ばなければならない――たとえ最初から、その全てが間違いであったとしても。
 
 狭苦しいベッドの上で何度も姿勢を変えながら、君はゆっくりと数を数えるように、手持ちの選択肢のひとつひとつを慎重に検討しはじめる。ひとつ――網戸を残して部屋中の窓という窓を開け放ち、この夜に微かに漂うわずかな涼をたよりに、浅い眠りへの小さな手掛かりを慎重に手元へとたぐりよせること。ふたつ――つけたまま眠るには効きすぎる冷房に何度も安眠を妨げられながら、断続的な眠りと覚醒を翌朝まで繰り返すこと。みっつ――眠ることそのものを、きれいさっぱり諦めること。
 
 少なくとも君にとって、最後の選択肢だけは論外だ。
 ベッド脇に置かれた君の鞄――その中に収められたよく使い込まれた手帳には、君が明日こなさなればならない予定の数々が、小さく几帳面な文字でびっしりと書き込まれている。睡眠不足の重たい頭では、きっと君は、そのどれひとつして満足にやり遂げることはできないだろう。そのことは、君自身がいちばんよくわかっているはずだ。だからこそ君はいま、安らかで深い眠りを心から必要としている――本当に、そしてなによりも。

 やがて君は決心する。
 そして、この夜に抱かれたすべての者たちが行うのとまったく同じ仕草で、空調の設定を弄りはじめる――二十八度。午前二時半にオフ。午前五時半にオン。それが君の弾き出した答えだ。君は、君の身体にかろうじて残された今日一日の最後の力を振り絞ってタイマーをセットするが、その命令を確定させる直前にふと、漠然とした不安にとらわれる――果たしてこれが正解なのだろうか? と。
 そこにはもちろん答えなんてものはない。あるのはただ、結果だけ――夜の帳が明けるまで、誰ひとりとしてその答えを知ることはできないのだ。君も、そしてもちろん私たちも。
 
 タイマーの設定を完了したあとの君には、もう指一本動かす力すら残されていない。君は消耗しきった身体をベッドの上に再び投げ出すと、君の指示通りに低い唸りを発しはじめた冷房のモーター音にそっと耳を澄ます。そしてその暗い響きの中に、君はようやく、つかのまの安息へと続くかもしれない、ほんの小さな手掛かりの、そのひとかけらをかろうじて見出し、追いかける。

 いま時計の針は、ちょうど午前零時を指したところだ。夜は短い。君の身体がその疲弊を完全に吐き出すまでに必要な本当の時間に比べれば、君に与えられた夜は、あまりにも短すぎる。

 案の定、君の試みはそう上手くはいかなかったようだ。
 零時から二時半までのあいだ、君は効き過ぎた空調の放つ冷気に身体を震わせて何度も目を醒ますはめになる。そして二時半から五時半までのあいだには、今度はうだるような蒸し暑さに耐えかねて、同じように君は幾度となく目を醒ます。

 断続的な覚醒を挟んだ浅い眠りのひとつひとつは、君にさまざまな夢を見せる。あいにくとその全てはもれなく悪夢だが、来るべき朝を迎えたそのときには、きっと君は最後に見た夢のひとつしか覚えていないことだろう――なぜなら、終わった夢は、ひとつ残らず私たちがついばんでしまうのだから。
 
 もちろん君はそのことを知らない。
 私たちはいつでも君のそばにいるが、君が私たちの存在に関心を払うことはけしてない。私たちが最後に食い残した終わりかけの悪夢――それが君にとっての、この夜のすべてだ。
 
 私たちは、君自身よりもはるかに克明に、君が見る夢のひとつひとつをなぞりとることができる。君たちが夢と呼びならわしているもうひとつの世界――それは私たちにとっては、いま君が苦しげに寝返りをうっている世界とまったく変わることのない、継ぎ目のないひとつながりの、親密で実在的な、現実のひとつに過ぎないからだ。

 君が見た最後の夢のあらましについて話そう。

 夢の中の君は、村一番の大男がかろうじてひと抱えできるほどの大きさの、一個の巨大な、ほんとうに巨大な玉葱だ。君は大男の両腕に抱かれて村の中央にある広場へと運び込まれる。君を抱える大男の後ろには、無邪気に笑う子供たちや、物珍しげに君を眺める男たち、そして夕食支度前の女たちが、果てしなくぞろぞろと列をなしている。誰もがみな、君のおこぼれにあずかることを期待しているのだ。
 広場に着くと、君はまず一番外側の茶色い薄皮を取り除かれ、そして一枚一枚、丁寧に層を剥ぎ取られては、列を作る人々のひとりひとりに順繰りに手渡されてゆく。誰もがみな、その表情に満面の笑みをたたえて君の一部を受け取る。最初のうち、君はとても幸福な気分だ。他人に何かを分け与えることができるという事実に君は、少なからず満足している――少なくとも、最初のうちだけは。

 だが君は、やがて異変に気付く。
 それは君が十三番目くらいの層を剥ぎ取られた頃のことで、そのとき君は、もうすでに最初の半分くらいの大きさになっている。君は本当に大きな玉葱だったから、もう村民の大半は君のかけら――家族四人が二日間、お腹いっぱいシチューを食べられるくらいの量だ――を受け取っていたが、それでもまだ、長蛇の列は幾重にも、まるで大蛇のように円形の広場にとぐろを巻いている。どうやら君の噂は近隣の集落にまで広がったようだったし、一度貰った君のかけらを家へ持ち帰ると、早々にそ知らぬ顔でもう一度列に加わる人々も少なくなかったからだ。そして待ちくたびれた人々は口々に不平を漏らしはじめる。
 ――まだか?
 ――もっと!
 最初は小声で呟かれていた不満は、次第にその声量をいや増していく。やがてそれが罵声混じりの怒号へと転じるまでに、大した時間はかからない。

 君は際限なく毟り取られてゆく。
 ひとつの層が剥かされるたびに、それとまったく同質の層がその下から現れるが、そのたびに君は少しずつ、少しずつその姿を擦り減らせてゆく。人々は思い思いに小刀で君を切り裂き、無遠慮に絶え間なく君を持ち去り続ける。君はみるみる小さくなっていくが、君を剥ぐ人々の群れはけして絶えることがない。
 
 そのとき君はある事実に気付き、そして恐怖する。
 君がその姿を徐々に小さなものにしてゆくと同時に、人々の群れもまた、まるで君の姿に呼応するかのように、ひとまわり、もうひとまわりと徐々に小さくなってゆくのだ。今では君はもう、肉眼では殆どその姿を捉えることができないほどに微小だ。だがそれでも、手に手に小刀を携えた小人たちの列に終わりはない。君は永遠に剥ぎ取られ、奪われ続ける――どれほど小さくなっても、また、どれほど時が流れても、君はその意識を明晰に保ったまま、果てしなく永遠に、無限小へと漸近してゆくのだ。
 
 君はたまらずに叫び声を発するが、その絶叫は、けして君の夢の中の空気を揺らすことはない。そのかわりに君の声は現実の叫びとなって、君が眠る小さな寝室の、現実の空気を激しく揺らす。その言葉にならない叫びと恐怖が君の身体をひとたび大きく痙攣させ、その刹那、君は目醒める。

 これが、この夜に君が見た最後の悪夢に関するすべてだ。

 早鐘のように脈打つ鼓動を沈めようとして、君はゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。何度か深呼吸を繰り返したあと、壁に掛けられた丸い時計の、蛍光で塗られた二本の針の位置を確認する。いまは朝の五時四十五分だ。まだその姿を現しきっていない太陽の遠い光が、カーテン越しに君の部屋を一面の薄青に染めあげている。そして秒針の刻む音だけが、君の部屋の中でやけに大きく響き続けている。君はもう眠くないし、眠りたくもない。そして何より――君にはもう時間がない。
 
 あと十分もすれば太陽は、君が住む街並みの向こうから徐々にその姿を現すだろう。それは新しい一日のはじまりの合図だ――君にとっても。そしてもちろん、私たちにとっても。
 
 君はいそいそと支度を整える。シャワーを浴びて、顔を洗う。トーストと牛乳だけのごく簡単な朝食を用意して、ひとりで食べる。服を着替え、靴を履き、玄関の鍵をしっかりとかけて駅へと向かう。君は大勢の人々の流れにひっそりと身を委ね、周囲の誰をも刺激しない独特の作法でしっとりとそこへ交わってゆく。そして西にある大きな街へと続く列車に乗り込むと、昇りゆく太陽に背を向けて、君は長い移動をはじめる。
 混み合った列車の中でようやく吊革に手を掛けることができたとき、君はもう、最後に見た夢については、ぼんやりとした輪郭程度しか記憶に留めていない。いま君が考えているのは、今日こなさなければならない予定と、次の夜を迎えるまでにやり過ごさなければならない長い長い時間のこと――それだけだ。

 ちょうどその頃、私たちは黒々とした羽根を大きく羽ばたかせて、君の住むあの蟻塚のような塔から遠く離れた雑木林のねぐらから、一斉に空高く舞い上がる。そして真新しい朝の光を存分に艶やかな背で受けとめると、君の住む街並み、遠ざかってゆく列車を眼下に確認したそのあとで、太陽のふもと、光り輝く水辺へと、朝いちばんの清らかな水を求めて私たちの群れは旅立つのだ。

夢をついばむ

夢をついばむ

夢をついばむものたちと、夏の世の悪夢にうなされる人の話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-16

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