リラの花が咲く頃に 第8話
「リラの花が咲く頃に」第8話、かなりおまたせ致しました、申し訳ございません( ̄▽ ̄;)
今回は前編後編と続く感じです。
ではどうぞ。
「仲間のピンチを乗り切る為に大切なことは」前編
佳奈子は夕方見たみゆの恐ろしい姿が脳裏に焼き付いて離れなくなってしまい、思い出す度に恐怖で怯え動けなくなっていた。
坂内家の玄関フードからピエロの様な狂った笑みをこちらに向けていたみゆ…。あれが本当の彼女の姿ならば、明日からどう向き合えば良いのか。そして、今一緒にいるはずの諒はーー。
諒の身の安全性を考えると、幼馴染としてとても心配になった。佳奈子は心の中である人物に向けて念ずる。
(早く…坂内のおばあちゃん帰ってきてあげて…!)
諒が一番に心を許し、みゆからの危険から彼を救えるのはおばあちゃんだけかもしれない。佳奈子はそう思い、助けを求めた。
そして気になることが一つ。その諒の事だ。
昨日までの約10年間、脈なしの佳奈子に執着心を見せた。嫉妬心の塊となってストーカーと化し、未遂ではあったが強姦もあった。なのにすぐにみゆに心が傾いてしまうものなのか。恋愛経験の少ない佳奈子には理解ができない。例え自分が今付き合っている聊斎(りょうさい)先生とこの先仮に別れたとしても、すぐに他の人に乗り換えることはできるのだろうか。できたとしても、そんな自分の愛というものを疑ってしまうだろう。
みゆへの恐怖心が薄れたところで佳奈子は夕食を作ろうと野菜の下ごしらえを始めた。しかし、みゆへの恐怖から諒に対しての怒りの感情にシフトしていた。
(あんなすぐに心変わり出来ちゃうなんて…諒ってなんだか最低っ!私が煩わしく思っていた10年ってなんだったの?)
怒りに任せながら里芋を切っていると、里芋を滑らせて左手薬指の先を深く切ってしまった。
「いったぁ…」
指先から流れて行く血がまな板の上に雫となってポタポタと落ちた。佳奈子はすぐに下ごしらえ作業の手を止めてキッチンペーパーで止血しながら救急箱の中にあるはずの消毒液を探した。小さな傷口ながらも深いため、見つけた消毒液で消毒するとかなりしみる。しみる度にまるで、2人に傷口を抉られる、佳奈子はそんな感覚に苛まれた。
ちょうどその頃、先程恐怖の笑みを浮かべていたみゆも夕食を作っていた。
愛する人のために作る夕食…白い割烹着姿のみゆは下ごしらえにも余念はなく愛情を込める。
土鍋に火をかける。火にかけた土鍋の中では野菜などと一緒に入念に下処理した真鱈と白子が仲良く顔を覗かせている。早く諒に食べさせたくて口元には無意識に不気味な笑みが浮かぶ。
一方で諒は2階でゴミ箱の中などを漁っては焦っていた。
…ゴムがない…あるはずのゴムがないのだ。行為中に付けたはずのゴムがないのだ。あの行為中につけたはずのゴムが…ーー。ゴムを見つけて自分の中で安心したかった。しかしゴムがない。
諒は焦る心を落ち着かせるために一旦深呼吸した。数回深呼吸をし落ち着いたところで1階に降りて台所に向かった。
「あっ諒くん、お鍋火にかけたばかりだから少し待ってて」
台所に入ってきた諒を見つけてすぐさま待つよう指示を出したみゆの様子は、いつもと変わらずに落ち着いている。
(聞いた方がいいのかな…でもどうやって聞けばいいんだよこんなとき…)
ゴムの在り処を聞くべきか聞くまいか…迷いながらテレビをつけると大泉洋と木村洋二が博士とメカに扮して何かをやっている。「1×8いこうよ!」の再放送だろうか。しかし、今の諒には彼らには悪いが全くと言っていいほど内容が入ってこない。それほど内心焦っている。
理由は当たり前だが、ゴムを付けない交渉は妊娠してしまう可能性が高いからだ。初めてだった諒にはゴムの在り処を知るまで卒業した喜びなどではなく、ただただ後悔ばかりが募っていく。
しばらくして傍らで火にかけている土鍋がぐつぐつと音を立て、いい香りを漂わせるとともに、みゆが声をかけてきた。
「どうしたの諒くん?探し物が見つからなかったって顔してるよ?」
諒はドキりとして体をビクッと震わせた。
「えっ、あ…そうだけど…?」
(何でわかるんだ…?)
悟られた恐怖で寒気までしてきた。
自分は一切探し物をするなどみゆに言っていなかったはずだ。しかし何故…?疑問に思っていると、みゆはぐつぐつと煮立つ土鍋から白子を取り皿に取り分けながら言う。
「大丈夫だよ諒くん」
「…え?」
恐ろしさで毛穴という毛穴から汗がドッと溢れるように出てくる。
(変な汗出ちまうな…まだ鍋喰ってねーのに)
みゆはそんな諒の姿を見、ニヤリと口元を歪ませる。
「だってねーー」
白子などを取り分けた皿を諒に渡すと、みゆは自分の取り皿から箸でよく煮えた白子を摘んで食べ始めた。口からはみ出ると舌で器用に、艶かしく口内に持っていき満足げに食す。
ーーゴクッ
白子が美味かったのかみゆはゆっくりと笑みをこちらに向ける。しかし、その笑みは全くかわいさを持っていない、どこかピエロを匂わす不気味な笑みで諒はひどく凍りついた。
「出した後のゴムなら…私が貰ったからゴミ箱漁っても出てこないよ」
そう言うと、白い割烹着のポケットからクリアパックに入ったゴムを取り出して諒に見せる。
「ほら大丈夫でしょ?それに私日頃ピル飲んでるから。ねぇ、冷めないうちに食べようよ諒くん」
諒は何かがサーと引いていくのを感じていた。自分1人だけが避妊したかどうかなんて気にして焦っていたのに途端にどうでもよく感じられた。今はそれ以上にこの目の前にいる女の方がよっぽど怖い。
勧められるがままに箸をつけ食べ始め一口、
二口と口に運んだ。
「諒くん美味しい?」
みゆは優しく微笑んで見せるが、やはり怖い。
「うん…美味しいよ」
「よかったぁ、いっぱい食べてね」
しかし、本人は怖いが料理の味つけは生前諒の母が作った手料理と変わらず美味い。
それに佳奈子ほどではないが、アンティークな球体人形の様な繊細で整った顔立ちと体型、しかしそのわりに胸とお尻に関してはみゆは出るとこは出ているスタイルで惚れ惚れする。
(こんな俺でも好きって言ってくれるんだから、責任とって彼女として付き合った方がいいのかな…)
諒の心は少しみゆに恐怖を感じながらも、心は佳奈子からみゆにシフトし惹かれ始めていた。
その後、20時頃に祖母は近所の人の車で旅行から帰ってきた。ちょうど帰り支度を整え帰宅しようとするみゆと会う。
「あらぁ!諒!こ、この綺麗な子はなんだの⁈」
あまりに綺麗すぎる美少女の登場と、留守中に孫が知らない女の子を上げていたことに祖母は戸惑いを隠せない。
「こんばんは。初めまして、桜間みゆ(さくらまみゆ)です。諒くんとは中学の時の同級生で、今は諒くんのバンドでキーボードをやってます。で、今回は諒くんがひとりだと聞いて心配だったんで食事作ってあげたりしてました。…勝手にお邪魔してすいませんでした…」
きちんと挨拶をし正直に答え謝る姿、そして美しい容姿…。祖母にはみゆの第一印象は完璧だった。
「ばあちゃんっ勝手に上げた俺が悪いんだごめんっ!」
みゆが叱られてしまうと思った諒は居間から飛んできた。
が、もはや孫の声は祖母に届いていなかった。
「みゆちゃんっていうのかい?いやぁこれはたまげたもんだ。諒、佳奈子ちゃんもよかったけども、まぁたいい娘さん連れてきたもんだね。でも、勝手に女の子家(うち)にあげるもんでね!今度はばあちゃんのいるときにしな!わかったか?!」
祖母が「こぉんのっばかたれがっ!」と諒の頭を勢いよく叩くと「いでっ」と諒から声が漏れた。
「ごめんなさい…ばあちゃん」
謝る諒の声は情けなく少し涙声だ。昔から諒の頭を叩くばあちゃんの力強さは変わらず痛い。
「みゆちゃん、またおいでね。今度はわっちの作ったごはんごちそうしてあげるからね」
「はい、また来ます」
丘珠の夜は街灯が少なく人も全くと言っていい程歩いていない。
「お邪魔しました」と一礼し帰ろうとするみゆを祖母は引き止めた。
「みゆちゃんっ!こんな遅い時間に丘珠はひとりだと危ないよ!」
「え…でも」
「大西さん!ちょっと!」
共に旅行し送り届けてくれた大西さんの家のインターホンを鳴らす。大西さんと呼ばれるその女性は「はいよ」とすぐに出た。
「なしたのさ?」
「ちょっとね、この子をさ家まで送ってやってけれない?諒の中学の時の同級生だっていうのさ」
「あら、夜遅いもんね。いいよ、車で送ってあげるわ」
大西さんは家からキーを持って来て戻ってくると、家のことは旦那さんに任せて車を出してくれた。
「ほらぁ乗んなさい」
「ほんとにいいんですか?」
みゆが問うと2人は「いいんだぁ、いいんだぁ」と繰り返し黄色のマーチの扉を開け乗せた。
「すいません、ありがとうございます」
礼をいい手を振ると黄色のマーチは発進した。
みゆを見送った祖母は玄関フードを開けて家に入る。
「ほんとにごめん、ばあちゃん」
諒は祖母の顔を見るなりもう一度謝った。
「もういい。お前はバカだけども、根はいいからいい娘ばな連れて来るべなとは思ってんだ。大事しなさい」
祖母はそう言い諒の左肩をポンポンと叩くと、つっかけのサンダルを脱いで仏間に行って手を合わせた。いつもの日課である。
それにしても、滅多に他人に心を許さない祖母があっさりと一目でみゆを許してしまうなんて…。
諒は疑問に思ったが、祖母が許したのならばみゆを大事にしようと思った。これからはただの同級生のバンドメンバーではなく、“彼女”として。
だが、みゆを完全に許したことが、これから起こる大事件に繋がってしまうなど知らずに…。
それから数日が経ったある日。
札幌は秋も深まり、冬に向かって気温も下がり始めていた。
佳奈子はバイトの帰り道に環状通東バスターミナルで偶然小学校と高校が一緒だった同級生・菱川直樹(ひしかわなおき)と再会した。
「あれ?菱川くんじゃない?」
「おっ、猫宮か…?」
直樹は少し耳が隠れるほど伸ばした黒髪に猫のような切れ長の目、真っ白な肌を持ち、身長165㎝の細身と160㎝の佳奈子とはあまり変わらない体格の男だ。
「元気だった?今日はまたなんで環状通東なんか…」
彼は栄町に住んでいるので普段はあまり来ないはずだった。
「元気だったよ。ここのところ調子は悪くないから今日はアリオにライトノベル見に来た。近所のとこはあまり変わり映えしなくて飽きちゃってさ」
「菱川くん、昔から本読むの好きだったもんね。あとゲーム?」
「そうそう。それより、猫宮こそ耳は大丈夫なの?」
小学校入学時からほとんどクラスが変わらなかったこともあって、佳奈子の真珠性中耳炎についてはよく知っていた。
「それがね、今年再発しちゃってさ…でも、手術2回受けたから今はもう大丈夫」
「そっか…やっぱり、再発したんだな」
「え?」
「いや…実は高校の時にわかちゃんがさお前の病気のこと気にしててさ」
「わかちゃん…そういえば話した…」
わかちゃんとは2人が高校の時に家庭科教科担任だった女性教師である。先生の実姉が真珠性中耳炎を患っており、将来的に聴力を失ってしまったという。
「手術してないってことは完治してなければ再発の可能性は高いし、将来的に聞こえなくなることはありえるって…なんか、ごめんな」
「ううん、大丈夫。でもね…実はもう右耳は聞こえないんだ。補聴器も考えてるんだけど、今は専門学校の学費のこととか家のこととかあるからーー」
2人が病気のことを話している頃、偶然道路を挟んで真向かいのセイコーマートからバイト中のみゆが見ていた。
「あれは…ふーん」
そう言いながらジーンズのポケットからiPhoneを取り出すと連写モードで佳奈子たちを撮った。
「17歳も年上の医者を捕まえておきながら…隅に置けない人…」
遠くからiPhoneを片手にシャッターをきる者がいるとは佳奈子は知らずにいた。
「うっ…」
「菱川くん…大丈夫?」
直樹は突然痛みを感じて胸を押さえた。彼もまた心臓に持病があるのだ。
「大丈夫…少し休めば。猫宮も…周りに注意しねーと、あぶねーよ」
「そうだね…取り敢えずベンチに座ろう?」
本当に気をつけなければならないのは周り、そして身内である。佳奈子はそのことに気づいていなった。こうしている間にも道路を挟んだところでみゆはズームで写真を撮っていた。
「これは…聊斎先生にチクリがいがある…ってもんでしょう」
みゆはiPhoneをポケットに戻して店に戻った。
一方で直樹とバスターミナルに入った佳奈子は、直樹の心臓が落ち着くまでそばにいた。軈てしばらく休むと痛みは治まったのでそれぞれのバスが来るまでたわいのない話をして別れた。
年が明けて2013年。
慌ただしく1月が過ぎ、季節は寒さが最も厳しい真冬の2月に突入した。札幌は雪まつりで賑わっている。
仕事は忙しくも、2月は閑散期。
1月まで順調だった先生との恋愛も、2月に入ってから急に歯車が狂い始めた。先生からの連絡が途絶えたのだ。
休憩中、佳奈子はロッカールームでLINEにメッセージが来ていないか確認した。
「今日も既読つかないの?」
様子を見かねたれなが入ってきた。
「うん」
長年の親友であるれなには相談していた。
佳奈子よりも恋愛経験のあるれなは男性というものをよく知っている。
「先生は大人だしお医者さんだよ?ただ本当に忙しいだけかもしれないし…でも、先生に限って可能性は低いかもしれないけど、先生も男だから他にいい女性(ひと)ができちゃったのかもしれない…」
「それって…浮気ってこと?」
「残念だけどね…あまりにも年の差があるし、遊びだった可能性もないわけでもないよ。佳奈子は初めてだったわけだし。もしそうだとしたら先生は男としてはただのクズってことになるけど」
「ただの…クズ」
「お医者さんはいっぱい勉強してプロのお医者さんになるわけだし、なったらなったで普段は仕事の忙しさで押さえつけられてるわけじゃん?滅茶苦茶変態らしいよ?既婚者でも風俗に行って奥さんじゃあ味わえないプレイ堪能したり、患者さんと遊びで付き合って愛情ないからゴムなしやって孕ませちゃったりするわけだ…」
佳奈子の表情はどんどん暗くなる。
「佳奈子に言うと落ち込んじゃうから今まで黙ったし、聊斎先生は違うかなって思ってたから言わなかったけど…お医者さんはそうなんだよ。お金あるし。
まあ、まだ確定じゃないんだから気長に待とう?本当にただ忙しいだけかもしれないよ?」
「そうだよね、れな」
「うん。また何かあったら教えてね?さて、仕事戻ろうよ」
しかし、それから3日、4日、5日…1週間経っても先生から連絡はなく、既読すら付かなかった。佳奈子は日に日に元気を失い、やつれていった。
いつもの作業すらミスが増える。
「お姉ちゃん、お釣り間違えてるよ?」
「あ…申し訳ございません」
「ちょっと、これセブンスターじゃん。赤ラークだっつってんじゃん赤ラーク」
「申し訳ございません」
「ったく、使えねーブス」
客が帰ったのを見計らい、背後かられなが肩を叩いた。
「佳奈子、ちょっと」
れなが事務所に佳奈子を連れて行こうとしたその時だった。
棚の陳列作業をしているみゆがクスクス笑っているのがれなの視界に入った。れなはそれが許せず、頭に血が上っていくのを感じながら佳奈子の恋愛が上手くいかなくなった原因がみゆではないかと思った。
諒との一件の時からこいつは変だと思っていたが、まさか佳奈子が不幸になることで笑うやつだとは思っていなかった。が、みゆだとすれば今までのことと結びつく。
佳奈子を事務所に連れて行き、「ちょっとここで待ってて」と言い残してまた店内に戻った。
さっきまで人のミスを見てクスクス笑っていた女が、今ではいつもの無表情で客に向かって「いらっしゃいませー」と言って作業をしている。れなはそのすかした態度にさらに怒りを覚えた。
「ミュウ」
れなは怒りを抑えた低い声で小さくみゆを呼んだ。
みゆも小さく返す。
「なんでしょうか?仕事中なのでその呼び方はやめてください」
「じゃあ桜間さん」
みゆはいつもの淡々とした口調で陳列作業する手を止めない。
「なんでしょうか?」
「あんたさ、聊斎先生になんか言ったりしたの?佳奈子と連絡断つようにとかさ」
一瞬みゆの手が止まった。しかし、口調は変わらない。
「なんにも?佳奈子さんの自業自得じゃないですか?」
「なによ?佳奈子の自業自得って」
「男性に対してのぶりっ子の酷さ、男性限定の特殊営業、つまり「枕」とかしてそうじゃないですか?そして聊斎先生というものがありながら浮気ってね…それが全て先生にバレちゃったから連絡取れなくなっちゃったんじゃないですか?あ、あと、あの酷い作りもんみたいな整形美人?フフフッ」
事実でない、まるで風俗の掲示板に書かれている様な悪口を言って笑うみゆは狂ったピエロの様でれなは寒気がした。
「佳奈子は浮気なんかしてない、ずっと今でも聊斎先生だけだよ?…まさかあんたそれ聊斎先生に言ったわけ?そんなひどい嘘ーー」
みゆは嘘だと否定されて血が上ったのか、激昂し喚いた。
「事実じゃないですかっ!私浮気の現場見た!第一あの女のクッソ笑える媚びのおかげでこの店の売り上げは成り立ってーー」
れなは暴走するみゆの口を手で塞いだ。
店内を買い回りする客の視線が全て注がれる。
「ちっ、違いますっ!この店の売り上げはみなさまのご愛顧のおかげで成り立っています!どうぞごゆっくりお買い物くださいませ!」
れなの必死の訂正も虚しく、塞いでいる手から「違うのー!違うのー!」と喚くみゆの声が漏れる。更に手を噛もうとしてきたのでれなは必死で抵抗する。しかし今度は目の色を変えて殴りかかってきた。
「ひゃあっなにすんの?!私殴る気?」
れなは殴ろうとする左手を右手で上手くキャッチし隙を見、170㎝の長身の体を上手く使ってみゆを後ろ手に締め動きを止めた。
「痛っいっ」
「あんた私に勝とうたってダメだよ、空手やってたんだから。それと、営業妨害するなら辞めてもらうから!」
「…はい」
みゆが弱ったところで解放し業務に戻った。
客が減る時間を見計らい、みゆの解雇についても母に話さなくてはならないのでれなは事務所に戻る。
「ごめん佳奈子…待たして…疲れた」
佳奈子はれなの母の腕の中で泣き噦っていた。
「お母さん、さっきの騒ぎ聞こえてた?」
泣き噦る佳奈子の頭を撫でながら母は顔を上げる。
「なんか…みゆちゃん喚いてなかった?」
「うん。佳奈子と店の悪口をね…」
「え…?みゆちゃんが?」
「とりあえず、今は落ち着いたみたいだから店任したけど。…てか、佳奈子、ずっとこんな?」
「うん、そう。年上の彼から連絡途絶えてるんでしょ?まあ、心から好いてる相手ならこうなるわよね。元から細いのに頬こけちゃって」
「待つしかない?」
「待つか、諦めるか…。まあ、れなには話した通り男の人って浮気する様にできてるから。お金と権力が余裕があるわけでしょ?況してやお医者さんならなおさらね。でも、それを理解した上で愛してあげることも大切なの。もしそれができないなら…他の人を探すのもありかな。何万人も男の人なんているわけなんだから」
泣きながら聞いていた佳奈子が顔を上げる。
「そうなんですか…?」
佳奈子は納得しかけた。が、れなは否定した。
「聊斎先生は違うかもしれないよ?」
「れな…それ、どういうこと?」
問われたれなは近づいて、2人だけに聞こえる声で話す。
「ミュウが、佳奈子の悪口を先生に言った可能性がある」
佳奈子は声を失った。代わりに母が声を上げる。
「それ、もし言ってたとしたらみゆちゃん最悪ね、店の悪口まで言うし」
「佳奈子がミスしたときあの子陳列作業しながらクスクス笑ってたし、さっき私と話した時にキレて大声で悪口言うわ、私を殴ろうとするわで…あんなの友達じゃないし従業員じゃないよ」
母は少し黙っていつもは吸わないセブンスターの箱に手を伸ばし「ちょっとごめんね」と火をつけた。
「お母さん、3年前にやめたのに」
「…吸わずにいられなかった。みゆちゃんは解雇しましょう…家にも置いておけないから出て行ってもらう。ショックだわ、信じてたから」
ショックを受けながらタバコを吸う母の目はぼぉっと遠くを見つめている。
「佳奈子ちゃんはもう終わろう。とりあえずそんなにやつれてつまんないミスしちゃうくらいなら体調整えたほうがいいわ」
母は店長として佳奈子に休むよう指示した。
「そうだね。お母さんの言う通り体調整えてからまた仕事しよ?精神的も休んだほうが」
「そうする…」
母から離れて立ち上がろうとする佳奈子に母は最後に
「あと、彼のことはあまり気にしないで待つか忘れちゃうか…佳奈子ちゃん自身が判断すべきよ。プライベートのことは早めになんとかしちゃいなさい?」
「はい、わかりました…ご心配おかけしてすいません」
母の目は相変わらず遠くを見つめている。
れなは空気を読んで「佳奈子、行こう」と佳奈子を事務所から連れ出した。
着替えて帰り支度を済ませ店を出ると、真っ暗な空から雨が降り出し、信号待ちをする間にも雨足は強まっていく。
(雨かぁ…天気予報で降るとか言ってなかったじゃない…)
傘を持ってきていなかった佳奈子は青になると直ぐに走り出した。しかし、そこで視界がぐらりと歪み始めた。目眩だ。
(こんな時に…!)
足元が覚束ない。そして地面は雪を被っただけのブラックアイスバーン状態であったのか、足を滑らせて転んでしまった。
「ひゃっ!」
雨と雪でぐちゃぐちゃになった地面に倒れこんだと同時に左折してきたトラックが飛沫をあげながらこちらに迫ってきた。佳奈子は目眩と迫り来る危機による恐怖で動けない。
(し、死んじゃうっ‼︎)
トラックはあと数センチというところまで迫ってきた。佳奈子は死を受け入れた。このまま先生と永遠に会えなくなってしまうことも…ーー
何もかも受け入れ覚悟した佳奈子は目を閉じた。あと数秒もすれば轢かれてしまうだろう…
ーーキキィーッ‼︎
ああ…もう私は…そう思ったのもつかの間、轢かれたはずの体に何か大きなものが覆いかぶさり、自分を守った様だ。
ゆっくりと目を開けて見上げるとその人物と目があった。
「せ…先生…?」
佳奈子を身を呈して守ったのは、連絡が途絶えている先生だった。
先生は雨に濡れて、スーツに身を包んだ全身はびしょ濡れになっている。
「起き上がれるか?すぐ渡らねーと俺ら確実に次は死ぬぞ」
「う…うん」
暖気の入った2月の空気の中で先生に支えられて起き上がり、お姫様抱っこで抱えられながら歩道の野次馬をかき分け赤い車に乗せられた。
佳奈子を轢こうとしたトラックはそのまま逃げてしまっていた。
ー先生の自宅。
このままでは佳奈子が風邪引いてしまう、そう思った先生は佳奈子に冬場は常時車に置いているブランケットを掛け真っ直ぐ自宅に向かうと、佳奈子をシャワーに行かせた。
「先生…シャワー、ありがとうございます」
シャワー上がりの佳奈子は緊張しながら先生の顔色を伺う様に礼を言った。もしかしたら、連絡をくれないのは何か怒っているからではないかと思ったからである。
佳奈子がシャワーに入っている間、先生は彼女におかゆを作っていた。味見をしながら礼を言う佳奈子にいつもと変わらぬ口調で言葉を返す。
「なんも。よく温まったか?」
「はい」
コートから何まで着ていたものは全て濡れてしまったので佳奈子はタオル一枚の状態だ。
先生はクローゼットから白いワイシャツを取り出して佳奈子に着せた。そして優しく手を添えると、上を向かせて佳奈子の瞳を見つめた。見つめられた佳奈子はぽっと赤くなり瞳を潤ませ全身が火照っていくのを感じると、恥ずかしさで目を逸らした。
「佳奈子」
「はい…」
佳奈子は頬を染めたままゆっくりと視線を先生に向ける。
「…俺のこと、好きか?」
「うん、好き」
「信じて…いいんだよな?」
「うん」
「じゃあ、みゆちゃんの話は嘘か?」
「え…?」
先生はスマホのLINEトーク画面を開いて佳奈子に見せる。トーク画面はみゆとのものだ。
「…これ…」
トーク画面には何枚か写真が送られていて、被写体は佳奈子と直樹、去年の秋に環状通東バスターミナルの前で偶然会ったときのものらしかった。しかし、何故こんな写真をみゆが…?
「これ、去年バスターミナルの前で偶然に菱川くんに会った時の…でもなんでみゆが…」
「“菱川くん”って?」
「小学校入学の時からの同級生で、高校も一緒だったの。菱川くん、私の真珠腫のこと知ってるし、彼自身は心臓があまり良くないみたいなの。友達であってそんな関係じゃないよ」
「そっかぁ、同級生かぁ…」
「…それ気にしてLINE返してくれなかったの?」
「うん、ごめんな。この時期は忙しいのもあるけど」
「私も先生もしかしたら私のこと好きじゃなくなっちゃったのかなとか考えちゃって、大好きなごはんでさえ食べられなかったよ」
これまでの数日間、大好きな白米でさえ佳奈子は喉を通らなかった。大好きな人に無視される悲しみは計り知れないものだ。
「本当にごめんな…佳奈子が好きすぎて浮気なんか考えられねーよ。第一、好きじゃなかったらトラックに轢かれるってわかってて飛び込んでまで守ったりしないから」
確かにそうかもしれない。
今回以外にも先生は佳奈子が倒れるたびに助けてくれた。童話の勇敢な王子様みたいに。
「ほら、おかゆ作ったから食べな?そんな頰こけてじゃあ、かわいい顔が台無しだ」
佳奈子専用に置いているマイメロディの器におかゆを盛り付ける。おかゆの上に梅干しと鮭フレーク大さじ一杯がのる。
「ありがとう」
スプーンに手を伸ばそうとすると先生が先にスプーンを取り、優しい笑顔で佳奈子の口へ運んできた。
「はい、あーんして?」
「恥ずかしいってばぁ」
「いいから、はい、あーん」
佳奈子は照れながら大きく口を開ける。
「…あーん」
おかゆは作った本人と同じく優しい味がした。繊細で、それでいてちゃんとした芯の強さがある様な、そんな味。
猫舌の佳奈子の為に完全に出来たてではなく、少し冷ましてくれていた。嫌われてなどいなかった…おかゆの中に彼の愛情が溶け込んでいるのを感じ、佳奈子は安心した。
佳奈子はおかゆを完食したあと、本能的に彼のぬくもりにも触れたくてその肩に手を添えてキスをした。
「んっ」
「先生ありがとう…大好き」
「俺も」
唇を重ねる度、互いのぬくもりが唇から伝わってもっと目の前の大切な人が愛おしくなる。
「私…先生じゃなきゃ、嫌だぁ」
「俺も…俺も佳奈子じゃなきゃ嫌だよ」
「もう、LINE返さないとかしないでね?」
「あぁ、もうしない」
「約束だよ?」
「わかったぁ…」
2人は約束を交わすと誓いの証とばかりに再び口づけ、軈ては互いを貪るように求めた。
唇だけに飽き足らず、徐々に下へ下へと口づけが佳奈子の体を降りていき、先生の手でワイシャツとタオルは脱がされる。一糸纏わぬ姿になると先生は佳奈子をベッドに運び、着ていた衣服を脱ぎ捨てて2人は生まれたままの姿で愛を確かめ合った。
時刻は21時を回っていた。
佳奈子は先生の匂いが微かにするベッドで目を覚ました。
「お目覚めか?お姫様」
「うん…」
「知世さんには連絡入れといたからな。かなり心配してたぞ?」
「…おばさん」
おばである知世には心配かけてばかりだった。
佳奈子申し訳なく思い、こちらからも電話連絡しようとスマホに手を伸ばした。
しかし、知世は出ず留守番電話サービスに繋がってしまう。残業またはお風呂の可能性があるので佳奈子は留守番にメッセージを残し切った。
「あれ…?」
ふと気づいた。自分は裸ではないことに。
先ほど着ていたワイシャツがまた着せられていたのだ。ワイシャツからも微かに先生の匂いがし、また更に彼の優しさが愛おしくなる。
「佳奈子」
「ん?」
抱きついてきた先生は仕事していたのか黒縁のPC眼鏡を掛けている。そしてタバコ吸ったのかあのホットケーキの様な甘い匂いがした。
「お仕事してたの?」
「うん。疲れたから甘えていいか?」
「いいよ」
ベッドに横になって抱き合う。その際外される眼鏡を佳奈子はスッと取り上げて自分もかけてみせた。
「似合うじゃん」
「似合う?」
「うん」
「度がきつくないか?」
「ちょっときついけど見えるよ?」
「視力下がったか?」
「うん、絵の描きすぎで下がったかも」
「たまには目を休ませろよ?」
「そうする」
先生は優しく頭を撫でると佳奈子はぽっと頬を赤らめる。
と、そこへ仲睦まじくする2人の時間を割く様に佳奈子のスマホが鳴る。着メロは北出菜奈の
「月華」である。
「おばさんかな?」
スマホの通話画面に表示されているのはれなだった。佳奈子はとても嫌な予感がした。
先生に出ていいかアイコンタクトを取り電話に出た。
「も、もしもし」
〈佳奈子っ!今どこ?家だよね?!〉
「それが、今いろいろあって先生のとこに…」
〈え?!本当?何があったの?後で教えて?!
でね本題っ!ミュウにさっき解雇を命じてそのあと先に帰したの。したっけさうちにある通帳、全部持って行った上に放火したみたいで、帰って来たらうち全焼してた…〉
「えっ?それ…解雇されたからって大佛家への恨み…?てか、家の中に家族はいなかったの?みんな無事?」
〈みたい。もうあいつ最悪だよ…電話しても出ないから探したけどどこにもいないしさ…うちの家族は全員出かけてたから無事だよ〉
「よかったぁ…それにしても、どこにもいないって…諒のとこにも?」
〈それが…諒も行方不明みたいでさ。バイト行ったきり1週間も戻ってこないから坂内のばあちゃんが警察に届けだしたみたいなんだ。これって、何か関係してると思わない?最近ミュウも坂内のばあちゃんのとこに一緒に寝泊まりしてたし〉
みゆの通帳の持ち逃げと大佛家宅放火、諒の失踪…。諒のことが好きなみゆのことだから何処かに連れてーー
(…ん?)
佳奈子の記憶の中で微かに引っかかるものがあった。
以前出勤時にロッカーで着替えていたみゆの豊満な胸元に金色のネックレスが輝きを放ちながらが揺れているのが一瞬見えた。
それは、佳奈子が幼少期に一度だけ両親にお飾り同然に連れられた宗教施設で両親も周りの大人たちも首から下げて身につけていたネックレスにそっくりだったのだ。
まさかと思った佳奈子はその場で身構えたのを確かに記憶していた。もしかしたら、みゆは両親と同じーー
〈もしもーし、佳奈子聞いてる?もしもーし〉
気づけば、れなの声は佳奈子の耳から遠ざかっていた。
もしかしたらみゆは両親と同じ新興宗教の会員で諒に耳障りのいい話をして騙した上、山の上のあの場所へ…ああ、なんとも危険すぎる!
我に返った佳奈子はかなり危険であることを伝える。
「れなっ!」
〈はっ、はい⁈〉
「もしかしたらミュウは諒と一緒にいるかも」
〈やっぱり⁉︎ちなみに、どこにとかはさすがにーー〉
「山の上にある宗教施設だよ…うちの親たちが年に何度か行ってるところだと思う」
その一言に側で横になっている先生が顔を上げた。
れなは電話口で「え…」と言ったきり固まってしまった。
「前にロッカーで一瞬見えたの…ミュウの胸元にうちの両親が首から下げてる金色のネックレスと似たものがミュウの首にも下がってるの。もしかしたらミュウは…」
狂信した会員だとすれば、盗んだ通帳を全額下ろして一口5万円、10万円などの高額の御布施に使うはず…佳奈子はそう考えた。
〈それじゃあ…ミュウが会員だとしたら、通帳の全額全部教祖への御布施にしちゃうわけ?うわー、うち燃やされた上にお金戻らないじゃん。…諒はそこでどうなるの?〉
「諒は…下手したら宗教の教義に洗脳されちゃう。」
しかし、そこだけに関してれなは否定した。
〈あいつバカだから頭になんか全く入らないと思うよ?そこが唯一の救いじゃない?〉
「バカって…でももし監禁でもされてたらってこともあり得るから助けてあげないと」
〈だよね…あいつバカだけど根はいいからそばにいないとなんだかんだ寂しいしーー〉
れなのスマホにキャッチが入った。
噂のバカ、ではなく諒からだ。
東区の空はどす黒い雲に覆われ、狂ったようなピアノの旋律が流れているのを佳奈子は聴力を失ったはずの右耳の奥で感じていた。
リラの花が咲く頃に 第8話
今回も最後までお読みいただきありがとうございます。
後編もお楽しみいただけましたら幸いです(^^)