double B side

double B side

裏の裏は、もう表じゃない。

 空の亀裂から現れる有翼の魔物“ニーベルング”の大襲撃により、大陸西部は壊滅。
ニーベルングを排除すべく創設された機関“グングニル”により、人々の安寧はかろうじて保たれていた。

 主人公ナギが所属するのは、グングニル機関の中でも変人揃いで知られる八番隊。
突飛な発想と行動──そして確かな実力で隊を導く隊長サクヤと共に、ニーベルングを狩る日々が続いていた。
そんな中、サクヤは世界の「カラクリ」に目を向け始める。
ニーベルングの目的とは?そして、グングニル機関が生んだ世界の歪みとは──?
 
極彩色の闇を撃つ、ダークファンタジー。

プロローグ

アルバ暦809年、盃の月。 

大陸最西端に位置するムスペル地区、その上空がひび割れた。

空の亀裂から現れたのは、禍々しき暗灰色の翼を持つ巨大な竜「ニーベルング」。

彼らの侵攻と同時に、ムスペル地区は毒の霧「ニブル」に覆われた。


ニーベルングの襲撃、ニブルによる未知の病の拡散。

政府が成す術もなくムスペル地区を放棄する一方で、

ニブルの調査員数名がニーベルング機関「グングニル」を組織しこれに対抗した。

彼らはニーベルングに唯一有効な武器・「魔ガン」を開発し、

魔ガンを使いこなせる優秀な人材を確保、育成し、戦術を確立させた。

ニーベルングとグングニル、両者の勢力は拮抗。膠着状態に陥った。


 アルバ暦826年、聖の月。

膠着状態は突如として崩壊する。これまでにないニーベルングの大襲撃により、ムスペル地区の近東に位置するヘラ地区が一夜にして壊滅。

グングニル西部支部を置き、第一防衛ラインとして機能していたヘラは、

その日を境に高濃度のニブルに覆われ、ニーベルングの巣と化した。

グングニルは、事実上西部からの撤退を余儀なくされたことになる。


 それから十数年が過ぎた。


 ニーベルングは東へ侵攻を続けている。

 空からは鳥が消えた。

 ニブルは大陸各地で発生、隣人は当然のように病に倒れる。


そういう世界が人々の当たり前になろうとしていた。


 834年、冠の月。グングニル小隊第八番隊発足。

 837年、種の月。世界が動く。

episode i 黒い羽根のラプンツェル

アルバ暦837年、種の月。

 アルバ教の総本山がある都市、リベンティーナからの出動要請にグングニル上層部は肝を冷やした。ニーベルングが大陸中にある全ての防衛拠点をすり抜け中央近辺に現れたことは、これまでにも何度かある。ただしいずれも小型で弱りきっていて、孤軍奮闘よろしく突撃してきたというよりは運悪く迷い込んでしまったタイプだ。そういったケースにも普段通り適切な部隊を迅速に派遣することで事なきを得てきた。しかし、今回はいささか事情が異なる。
「……でっかいなぁ。どういう食生活したらああなるんだろ」
 シグは手の甲で太陽光を遮りながら眉根を寄せた。視線の先、上空で南中にさしかかった太陽が標的の輪郭を曖昧にしている。眼つきが悪いのは生まれつきだが、今はより三白眼が際立った。
「少なくとも誰かさんみたいな、すずめの涙定食じゃああはなれそうにないね」
 やはり手の甲を望遠鏡代わりに頭上を見上げるナギ。ほぼ名ざしされたも同然のシグが、今度は唇の端も引きつらせてナギに恨みがかった視線を送る。
「……食べたよ、今朝は」
「オープントマトサンド一切れにカップ半分のコーヒー、超絶ちっちゃいオレンジ一個。一体これで成人男性が必要とするカロリーの何パーセントが補給できたというのでしょうか!」
「……ナギは俺のストーカーかなんかなの」
「八番隊隊長補佐として隊員の健康管理に気を配っているだけでしょ?」
爽やかさ全開の笑みで返されて、シグはそれ以上何も言い返せなくなった。
 少食で偏食のシグをナギは親心と責任感から毎食しっかりと見張って──いや、見守っている。かく言う彼女の今朝の朝食は、バゲット三切れにサラダ、目玉焼き、ベーコン、ヨーグルトとバナナ、オレンジを二つ。締めにカモミールティー。
 得意げに語るナギの横で、衛生兵であるアンジェリカが美しい柳眉を潜めて自分の腹部をさすっていた。
「うえぇ。聞いてるこっちが横腹が痛い。毎日それだけ食べてなんでそんなにガリガリなのよ? とんでもない寄生虫かなんかお腹に入ってんじゃない? 診ようか?」
「ガリガリじゃないっ。必要な筋肉はついてるっ」
「あんたねえ……女子に必要なのは筋肉じゃなくて適切な箇所の適切な量の贅肉でしょうが」
「ほ……ほっといてよっ! だいたい胸は食生活でどうにかなるもんじゃないでしょ!?」
 ついさっきまでシグへ忠告していたはずだったのに、気付けばナギ自身が墓穴をほっていた。シグは上空を見上げたまま両手で自分の耳を塞いでいる。こうしておけばこの手の話題で言われの無いとばっちりを被ることは無い。女同士、特定の部位の「肉」の話がエスカレートする中シグだけは無我の境地で「例の巨大なアイツ」をひたすら見つめ続けた。
 そこへようやく救世主たちのご登場。
「昼間っからなんて話してんだお嬢さん方は……」
 呆れかえった声で合流してきたのはバルト。この隊の最年長、と言ってもまだ四十路に満たない。恰幅の良い彼の後ろから同隊所属のサブロー、リュカ、マユリが上方の標的に感嘆を漏らしながら歩いてくるのが見えた。
「緊張を和らげようと思っただけよ。今回はどうも一筋縄じゃいかなそうだし。……で、隊長は?」
アンジェリカの疑問にバルトは無言のまま親指で後方を指した。各々半ばぼんやりと空を見上げて歩いてくる、そんな部下たちを掻き分けるようにしてその男はやってきた。少年のように瞳をキラキラと輝かせて。
「うわ~報告で聞いたよりでっかいな~。この位置から見てこれだけ圧巻なんだから、間近で見たらもっとすごそうだ」
僅かに頬が紅潮している。そして僅かではなく白い歯がのぞく。半笑いで話を合わせる隊員たちと、自分たちの真上に威風堂々と構えるニーベルングを交互に見やって、その男は満足そうに大きく頷いた。
「……サクヤ」
先刻まで必要な「肉」について熱く論議していたナギも平静を取り戻す。このままこの男を放置するのは得策ではない。長年の経験が警鐘を鳴らしていた。そしてその予測は十中八九正しかった。足取りも軽やかにやってきたこの男の更に後方、この世の終わりを体現したかのように悲壮感漂う司祭がふらふらとこちらへ向かってくるのが見えた。サクヤはお構いなしに、今回の「標的」に夢中であ
る。
「巨体は巨体だけどもっと特徴的なのはこの色だよね。ここまで真っ黒なのは今までいなかったんじゃないかなあ? とりあえず呼称は“カラス”で本部に申請するとして……カラスはまだ使われてなかったよね?」
 ニーベルングは発見次第、対処した小隊の隊長が適当な呼称をつけることになっている。ニーベルングの台頭により絶滅したといわれるかつての空の覇者、鳥の名を付けるということ以外に特に規定はない。規定はないがそれはそれ、暗黙の了解というのが当然ある。先日八番隊が討伐した大型ニーベルングを「ブンチョウ」と名づけて機関上層部から大顰蹙を買ったのは皆の記憶に新しい。
「ナギ、聞いてる?」
「……聞いてる。それよりサクヤ、後ろ」
「後ろ?」
その反応は絶対におかしいだろうとナギは間髪いれず胸中で呟いた。ナギの記憶が正しければ、彼──グングニル小隊第八番隊隊長サクヤ・スタンフォード中尉は、数名の隊員を連れて最低限の状況を把握するためリベンティーナ教会の司祭殿を訪ねたはずだった。おそらくは彼の背後でげっそりしているのがその司祭で、何かしら状況を把握したからこうして現場にこぞって現れたのだろうが。
 サクヤは数秒間凝固した後、取り繕うように咳払いをした。
「失礼、取り乱しました。えーっと、みんな。この方がグングニルに連絡してくださったヴォルフ司祭。直接話していただいた方がいいと思ってお連れした」
その割に思いきり存在を忘れていたようだが、誰も上げ足をとる者はいない。彼は曲がりなりにもこの隊の隊長である。だとかの肩書云々とは全く以て無関係、八番隊隊員は全員サクヤの所業に慣れ切ってしまっているだけのことだ。日常茶飯事にいちいちつっこみをいれる者はいない。
「今僕らの真上に居座ってるのが今回の標的であるニーベルングだ。呼称はカラス(予定)。三日間あそこから全く動いていないらしい。ですよね? 司祭」
「ええ、はい……。正確にどうかと言われると困るんですが……三日間あのような状態です。襲ってくるわけでもない。それが逆に不気味でして……」
 司祭は一瞬上方に視線を移したがすぐに地面を見つめる。血の気は失せ、両目の下には濃いくま、司祭からはおよそ生気といったものが感じられなかった。隊員たちは生返事をしながら、皆思い思いに塔の先端を注視した。
 皆の視線の先にはこの街のシンボルである大時計塔、そしてその天辺を台座代わりに漆黒の翼竜が鎮座している。それは微動だにせず、一見すると彫像のようであった。周囲には禍々しさと神々しさが混ざり合ったような、独特の空気が漂っている。
「それにしても黒いですねぇ……」
「黒いっすねぇ」
 一際若い隊員であるマユリが眼鏡を光らせながらありのままの感想を述べると、それに倣ってサブローも眼鏡を光らせた。意図的にではない。塔を見上げていると必然的にそうなる。
「黒い黒いって、んなの見りゃ分かるんだよっ。他になんかないのか、特徴。横から見ると美形とか、瞳が純粋そうとか」
 腕組みポーズで口をへの字に曲げたリュカ隊員、彼も若い。若いがわけもなく偉そうだ。項まで伸ばした長髪からどうにも軟派な印象を受ける。が、彼の発言はそれなりに受け入れられたようで、眼鏡の男女はそれぞれ対称方向に塔の横手に回りこんだ。神妙な面持ちで一周すると、無念そうに頭を振った。
「ない、ないわ。ただただ黒い。頭から尻尾までひたすら真っ黒」
「っていうか、この距離から瞳がどうとか分かりませんし。リュカさんテキトーすぎ」
 口元を引きつらせるリュカを尻目に、サクヤは別のことを考えているのか黙って漆黒の翼を見つめる。そこへヴォルフ司祭がおずおずと進み出た。
「あの、それで。この後の対応はどうなるのでしょうか。我々はどこかに退避した方が宜しいのでしょうか」
隊長、と呼ばれていたから彼に問いかけたがどうにも不安だ。この隊に限ったことではないのかもしれないが、誰も彼もが年若い。平均年齢は二十台半ばといったところか。
「いえ、それはもう少し情報を揃えてから判断させてください。あそこでああしてるっていうことには、何かしら意味があるでしょうから」
サクヤは一度視線を司祭に戻して、穏やかに微笑んだ。そしてすぐに視線を空へ、黒い塊へ戻す。それは置物のように、初めからそこにあった装飾のように、時計塔と一体となっていた。生きているのかどうかも疑わしい。ここまで微動だにされないと無害のようにも思える。
「ひとつ提案なんですが」
「はい。はい、なんでしょう」
「……もしあれが何もしてこないということが明らかになった場合、このまま新しい街のシンボルとして迎えてみるってのはどうですか」
「……はい?」
 サクヤは至って真面目に、思ったことを口にした。時が止まったかのように司祭の表情が固まる。その二人の後ろで塔を見上げてなにやら熱心に拝んでいる老人がいる。指を差して生き生きと笑う子どもがいる。手を振る幼児もいる。このニーベルングは意外に人気者なのではないだろうか。
「と、とんでもない! ニーベルングを崇めるような真似、できるはずもない!」
サクヤの斬新過ぎる意見は司祭にとっては寝耳に水だったようで、残念ながら検討の余地もないようだった。心底残念そうに肩を落とすサクヤ。瞼を伏せて「そうですか」と悲しそうに呟いた。
「被害らしき被害は確かに、今のところありません。ただ、この場所は困るのです。大時計塔は、このリベンティーナの象徴であり守り神でもあります」
「なるほど。大時計塔に危害を加えてはならない、と」
「そうです。それに毎日真夜中になると咆哮をあげるのが恐ろしくて……。今にも襲ってくるんじゃないかと気が気じゃありません」
「咆哮? 真夜中に?」
「ええ、そうです。遠吠えといいますか」
「それ、正確な時間は分かりますか」
「え。あ、そうですね、他の司祭に確認すれば記録をしている者がいるかと」
ヴォルフ司祭は戸惑った。それと同時に今の今まで一切抱かなかった安堵というやつを多少覚える。目の前にいる男は、つい数秒前まで「ニーベルングニューシンボル」案を頭から拒否されて思いきりしょげていた男と同一人物とは思えない。この隊は若い、しかしそれによる不安を感じさせない異様な余裕がある。それは全てこの隊長に由来するものではないのか。
「毎日決まった時間の咆哮となれば、調べる価値はある。何か重要なメッセージかもしれないし、そうじゃなかったとしても決まった時間に吼えるなら……鳩時計みたいで便利だ」
「サクヤ。冗談はそれくらいに」
ナギが嗜めた。しかしもう司祭には分かる。これは冗談ではない。彼の発言はどれもこれも本気なのだ。咆哮に意味がなければ彼はもう一度「ニーベルング時計として街のシンボルに」などと進言してくるだろう。しかもその際は自信満々にだ。
 司祭は神に祈った。この漆黒のニーベルングが、特別な理由で時計塔の頂上に座し、特別な理由で咆哮をあげていますようにと。
「みんな、概要は聞いての通りだ。と言っても情報は僅少、街の構造も把握しておく必要がある。そこで僕らがまずやるべきことは──」
 部隊長の指示に皆が黙って耳を傾けた。
「観光……!」
 そして皆がおもむろに頷く。今度は機敏に“リベンティーナてくてく散策マップ”なるものを懐から取り出す。事前に手配しておいたものだ。国教の総本山があるこの街は広大な上、路地が複雑に入り組んでいる。歴史ある建造物、伝統ある鑑賞物も多い。巡礼以外でも物見遊山や買い物で賑わう格式ある街である。把握するには絶対に必要なアイテムだった。
「バルトとアンジェリカは二人で東側をまわってくれ。シグ、サブロー、リュカ、マユリはヴォルフ司祭をお連れして教会に立ち寄った後、西側を。日没前、そうだな午後六時にはこの時計塔に戻ってくるように。はい、じゃ各自解散っ」
「了解!」
無駄に歯切れの良い返事が響く。皆が皆、生真面目に迅速に行動に移った。その手にはしっかりと「リベンティーナてくてく散策マップ」が握られている。ヴォルフ司祭もなんだかんだ言って観光案内にノリノリではないか。
 ナギの口からひとりでに嘆息が漏れた。てくてくマップを穴があくほど見つめているサクヤの顔を横から覗きこんだ。
「で、私はどうしようか?」
「ああ、ナギは僕と。ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
まるでそれだけは予め決まっていたような口ぶりだ。決まっていたのかもしれない、彼女は八番隊隊員であると同時にサクヤの補佐官という立場でもあるから必然的に二人きりでの行動も多くなる。という解釈をずっとしてきたが、ここ最近、実はよく分からなくなっていた。
 真意を確かめようと思ったわけではないが、気が付いたらサクヤの顔を凝視していた。気付いてサクヤが笑顔をつくる。一応作戦中のはずだが、この男はどうしてこうもにこにこと笑うのか。今回も謎のまま終わりそうだ。今度は気付かれないように小さく嘆息して、ナギは黙ってサクヤの後ろを歩いた。


 対ニーベルング機関“グングニル”──それが、彼らの所属する組織の名称だ。今から二十七年前、空の亀裂という常識では考えられない場所から出てきた翼竜“ニーベルング”の討伐を専門とする機関である。ニーベルングは固い表面皮膚に覆われ、通常の火器ではその皮膚を貫くことができない。そこで開発されたのが爆発性物質を多分に含む鉱石「ラインタイト」を主原料とした兵器“魔ガン”だった。“グングニル”は、この魔ガンを使いこなすための特殊な訓練を受けた者の集まりである。
 サクヤ率いるグングニル小隊第八番隊は、一言で言うなら色モノだ。サクヤ自らが選出、交渉した隊員たちは皆、機関の中でもひと癖も二癖もある連中ばかり。ただし実力に関しては皆が皆、機関トップクラス。上層部から見ればただただ扱いづらい連中であることは言うまでもないだろう。そんな八番隊にお鉢が廻ってくるのが、今回のような想定枠から見事にはみ出した案件だ。
 中央に大型ニーベルングが現れたというだけでも充分に特殊なケースである。それに加えて大時計塔の先端にオブジェさながらに居座って三日間。普通に考えれば不気味だ。更に更に討伐に当たっては、大時計塔に危害を加えないという条件まで付されている。
「完全に八番隊の案件ってかんじ……」
「何ー? なんか言ったー?」
「なんでもなーい」
独りごちたつもりがしっかり聴こえていたらしい、振りかえってわざわざ立ち止まるサクヤにナギは気だるく切り返した。実際気だるい。二人は今、リベンティーナで一番、いやこの地区で一番高い建物の頂上を目指している。大時計塔だ。延々と続く螺旋の石階段、等間隔に設置された明かりとり用の窓から指す斜光、やはり一定のリズムを刻む足音、それらを繰り返しているだけで充分気が滅入る。作戦前にこんなに体力を消耗して良いのだろうか。今どのくらいの高さで、後どれくらい上らなければならないのか、それが分からないから余計に疲労を感じる。
(みんなは好き勝手に観光に行って美味しいもの食べたりしてるのに、なんで私だけこの苦行につきあわなきゃいけないの……)
数段先を鼻唄混じりに上るサクヤの背中を恨めしげに見やる。鼻唄はこの際放っておくとしても、どれだけ上ってもサクヤの足取りが軽快な点は不愉快だ。現グングニル最強の異名は伊達じゃないらしい。張り合うのもなんだか馬鹿馬鹿しくなって、ナギは立ち止った。
「ねえ、なんでよりによってここなの……」
一定だった足音のひとつが途切れたことで、サクヤも立ち止まった。
「それを僕も考えてた」
「……はい?」
「昼間はどうしたって極端に目立つ。……目立つ必要性があるってことなのかな。どう考えても討伐されるリスクの方が高いのに」
 ナギは一瞬浮かべた青筋を瞬時に引っ込めた。サクヤはどうやらニーベルングの不可解な行動について考察するためにここへ来たようだ。なるほど。いや、待て。納得しかけたが別に自らが上る必要性は全くないのではないだろうか。そもそもそれに付き合う必要はもっとないのではないだろうか。
「ナギなら、どういうときにこれに上ろうと考える?」
そしてニーベルングとナギの思考を照合しようとしてくる時点で、とんでもなく腹が立つ。腹が立つがサクヤは至って真剣だ。ここはもう付き合うしかない。
「いや、私はできればこれには上りたくないけど。高い所に上って、目立たなきゃいけない理由を考えればいいんでしょ? なんだろう……監視、探し物、するには高すぎるか。あとは待ち合わせとか……って誰とって話だね」
あの黒いニーベルングが、デートに遅れた彼女でも待っているのであれば話は別だ。それは危険を冒してでも待ち続ける必要があるだろう。
 ナギはそこまで考えて、自分の空想に自嘲した。ニーベルングがそんなメルヘンな思想の持ち主なら苦労しない。そもそもニーベルングに思想なんてものがあるのだろうか。サクヤの口ぶりからはそれは当然存在するもののように聴こえた。
「待ち合わせ、なら確かに動けないな……」
「ごめん、忘れてそれ。さすがに考えなしだった」
「そうかな。概念はそう外れてないと思うけど……。お」
数段上った先で、サクヤがまた立ち止まった。今までの構造から雰囲気ががらりと変わり、広大な屋根裏部屋のようなスペースに出た。どうやら時計盤の真裏のようだ。今までは単なる通気口でしかなかった明かりとりの穴も格段に大きい。サクヤはそこから身を乗り出して、リベンティーナの街並みを見下ろした。
「いい眺めだ」
「真上にニーベルングが座ってると思うと落ち着かない……」
ナギは本音を漏らしただけなのだが、サクヤは何がおかしいのか軽快に笑った。上空に吹く強い風がほぼそのまま流れ込んでくる。風はサクヤの銀の髪を揺らし、ナギの長い金の髪を真横に流した。
 ここからはリベンティーナの街が一望できる。夕焼けに染まる宗教都市は、荘厳で美しい。真上にいるニーベルングも同じ景色を見ているのだろうか。
「サクヤ。ちょっと、訊いてもいい」
「なに?」
「さっきの。もし、ニーベルングがこのまま居座ってるだけで何もしないって分かったらどうするつもりなのかなって。まさか本気で観光名所化しようなんて思ってないよね」
「うーん……今回は居座ってる場所が場所だけに、放っておくってわけにはいかないだろうね。ただ必ずしも討つ必要はないのかもしれない」
思いのほか真面目に解答が返って来た。しかしそれもサクヤの価値観の中での話だ。グングニル機関は対ニーベルング、すなわちニーベルング殲滅を目的として存在する組織だ。その主義から、サクヤは時折外れた言動をする。無論、時と場合は彼の中で慎重に選別されているようだったが。
「グングニル機関として魔ガンを手にし、ニーベルングを撃つのはあくまで『手段』だ。手段は変えることができる。……と僕は思っている。そこに囚われると大事なことを見落とす気がしない?」
「大事なこと、か」
「これは僕の勘だけど、彼らにとっても街や人を襲うのは『手段』にすぎないような気がする。ニーベルングにも目的があるはずなんだけどなぁ。……とは言え、今は全体の目的よりもこのニーベルングがここに座りこんでる目的を知ることが先決かな」
天井を見上げるサクヤの影が、気付けば随分長く伸びている。沈み始めた夕陽は眼下の街並みだけでなく、時計塔内部も同じように濃いオレンジ色に染めた。
「サクヤ、そろそろ戻らないと。情報があってもなくても、作戦方針を決めないとまずいでしょ」
生返事が漏れる。サクヤは下顎を右手で支えて何やら思案顔である。まずい、スイッチが入ったか。面倒なことを閃く前にさっさと強制連行するに限る。
「下りるよー、置いてくよー」
「……ナギ。ちょっと頼まれてくれないかな」
 遅かったか──ナギの足と笑顔が静止する。ナギにとっては苦行と世間話と絶景スポットの組み合わせでしかなかったこの僅かな時間で、サクヤは何か確信に近い仮説をたてたらしい。形だけ確認をとっているものの、ナギがイエスともノーとも言う前にサクヤは依頼内容(無茶ぶり)をさくさくと説明した。嬉しそうだ。対してナギは、堪え切れず口の端を引きつらせる。
「ねえサクヤさん? 今からこの階段を全速力で下りて、本部に連絡をとって、資料室をこじ開けてもらって、結構優秀な隊員に超高速で調べてもらって報告をもらったとして一時間くだらないよ?」
「そうか、そういう流れになるね。じゃあとりあえず今すぐ全速力でここを下りよう!」
言うが早いかサクヤは既に階段を下りはじめている。軽快を通り越えて神速でタップを踏んでいるかのようだ。
「じゃなくて! 作戦開始時刻は20:00でしょ!? それじゃ間に合わないよねって言ってるの!」
出遅れたナギも神速タップを余儀なくされる。一体これは何の修行なのだろう。そもそもここはそういう塔だったっけ。混乱する脳内に二人分の足音が太鼓のように鳴り響く。
「間に合わないね! 遅らせよう! 言い訳は僕が精巧にでっちあげるから」
悪びれもせず小悪党の台詞を吐くサクヤ。これでも若き八番隊隊長、グングニル最強だとかなんとかよいしょされまくる実力者、ただし見ての通り上層部からはゴキブリのように嫌われる男である。
 ナギはスイッチをオフにした。常識という名のスイッチである。そして今日も自分は精神的にも体力的にも確実にレベルアップしていると無理やり暗示をかけた。


 20:00。サクヤをはじめとする八番隊の面々は宿の談話室に集まっていた。本来であれば既に作戦を開始している時刻だ。
「それではミーティングを始めます。……サクヤ隊長、どうぞ」
 ナギは見るからに疲れ切っていた。ふくらはぎが異常に痛い。サクヤは至って平気そうだから、それがまたどことなく腹立たしくもある。
 サクヤは“リベンティーナてくてく散策マップ”の拡大図とこの地区一帯の地図を長テーブルに広げた。
「作戦開始時刻を遅らせてしまってすまない。司祭の意見を踏まえた上でリベンティーナにとって最善の策を練るには、ちょっと時間が必要でね。おかげで“カラス”が大時計塔の上に居座ってる理由については見当を付けることができた」
「うぉ、マジか。流石というかやっぱりというか」
バルトが広域地図の方へ身を乗り出した。リベンティーナのニーベルング一体を討伐するに当たっては本来不要な代物だ。ところどころに赤インクで印と書きこみがほどこされている。それこそがナギの血──いや、血のにじむような努力の結晶である。
「それについては私から少し。赤丸はここ二週間のニーベルングの目撃情報、日付があるものはグングニルが既に討伐したものです。三日前から明らかにニーベルング全体の進路が統一されているように見えるの、分かる?」
ナギの一言で全員が地図を覗き込む。二週間前の日付は各地、それも中央からは極力離れた山間部などで目撃情報が多いのに対し、三日前の日付からほとんどのものが中央に集中している。更に言えば、このリベンティーナを目指して進路を変更したような軌跡を描いているものもあった。
「偶然じゃ、ないわね」
アンジェリカが口元を覆う。全員が意識した。おそらくこの後、サクヤはあっさりとんでもないことを口にする。皆その瞬間を固唾をのんで見守った。
「おそらくあのニーベルングは、次の拠点づくりのためのフラッグシップなんだろうね。防衛ラインをうまく迂回して、中央に近い割に一番監視が手薄なリベンティーナを選んでる。見事な手腕だよ」
ナギが咳払い、どうせそれだけでは伝わらないからついでに軽く肘鉄。標的を褒め讃えてどうする、隊長。
「まぁ要するに、このまま放っておくと“彼”を目印にぞくぞくとニーベルングの団体さんがここへ押し寄せてくることが予想される。よって僕ら八番隊は、それを阻止すべく動くことになる」
「拠点って、つまりここが次のヘラになる惧れがあるってことですよね」
「可能性の話だけどね」
 シグが口にした「ヘラ」という単語に皆表情が凍った。シグも、サクヤとは別の意味で爆弾をあっさり投げるタイプだ。ひとまずこの単語に対しては他の連中の反応の方が正しいといえよう。
 ヘラは今や地図上にだけ存在する地区の名だ。11年前ニーベルングの大襲撃にあって壊滅し、今は大量のニブルに覆われたニーベルングの別荘地となり果てている。人類に限らずこの世界の生命体はヘラにはもう住めないとも言われている。
「それはちょっときっついだろ。第二防衛ラインだってまだねばってんのに、まるごとショートカットして一気に首都に進出するつもりかよ。礼儀がねー、順序がなってねー、ぶっちゃけ気にくわねー」
湿った空気を一瞬で一掃してくれるのがリュカだ。自分本位な考え方だが思わず口元が緩む。
「で、隊長。具体的にどうすんの。的がでかいとは言え、アレだけを攻撃して時計塔を無傷で残すってのはコトよ」
「うん。まずは“カラス”に時計塔から下りてもらう必要がある。それまではとにかく牽制と誘導に徹するしかない。狙撃ポイントを決めて、序盤はシグに任せることになる」
得心顔で皆がうなずく。指名されたシグも至って平常運転だ。八番隊内で狙撃となればシグの名を挙げるのが定石だ。彼の魔ガンの命中率は記録上99%、狙
撃だけでいえばもはや神のレベルである。
「そういうわけで良い場所の提案がある人はどんどんよろしく。みんなしっかり“観光”はしてきたよね?」
一同顔を見合わせる。苦笑して肩を竦める者はいるが、冷や汗を流す者はいない。サクヤの意図を皆が汲んでいたということだ。ナギだけでなく、八番隊隊員は皆サクヤのやり方に良くも悪くも染まっている連中ばかりだ。アンジェリカがいち早く挙手して勝手に口を切る。
「消去法で申し訳ないんですが、市庁舎屋上からの狙撃はまず無理です。障害物多すぎ、高さもたりません」
「時計塔の真正面にあるアパルトマンも、まあ同じ理由でアウトだな。位置的には申し分ないんだが」
アンジェリカと行動を共にしていたバルトもすぐさま補足する。
「それと……」
バルトはテーブル端に追いやられていたペン立てに手を伸ばし、地図上の市庁舎横に丸印を描きこんだ。
「ここの出店で売ってるヴァーナムミルクのソフトクリームは尋常じゃなく美味い。司祭が一押ししてくるだけはあった」
「そうそう、私ブルーベリーおまけしてもらっちゃった~っ」
「やっぱりそうか……上から見たとき凄い行列ができてたもんな……」
サクヤは今日一番の沈痛そうな面持ちで目を伏せた。できればリベンティーナ拠点説を披露する際にその表情をしてほしかったものである。ともかく今はアイス情報にこれ以上花が咲かないよう軌道修正をせなばならない。補佐官の役目である。
「小時計塔は? 確か大時計塔の次に高いんじゃなかった?」
 リベンティーナにはナギたちが上った大時計塔を中心として3時、6時、9時、12時の方向に四つの塔がある。大時計塔からちょうど全ての文字盤が見えるように向かい合わせに配置されている芸術性も高い塔だ。これにはシグがかぶりを振る。
「あの距離は流石に無理。風に流されて肝心の大時計塔周辺に被害が出る。……って、あ。ちょっと待って。この小時計塔の……」
シグが慌ててペンを執った。珍しい。ナギも思わず息を呑む。
「──下にある花屋。店員がかわいい、タイプ。……ってサブローさんが」
 ぶふっ! ──冷えた紅茶に口をつけた瞬間を狙われた。狙撃手はこの類のトリガープルも抜群のタイミングでこなす。
「シグ! なんだよその情報、要らないだろ! 俺になんか恨みでもあんのかっ」
「えー、俺見逃したなぁそれ。確かになー。サブさんの女の好みはちょっと、なあ? あれだもんな」
「私も見てないですー」
「何よそれ。一周回って逆に興味ある」
 パァンッ! ──発砲音ではない。単に隊長補佐官殿が、意図的に全力で合掌しただけのことだ。脱線、脱線、また脱線。どれだけ切羽詰まった作戦会議でもいつもこうなる。わき道だの獣道だの道なき道だのに喜び勇んで四散する隊員たちを一人一人つまんで、正道に戻す。これも補佐官の仕事、らしい。八番隊に限っての話だが。
「えーっと……サブローのタイプの女性については後日確認するってことで、本題に戻ろうか」
(確認するんかい)
珍しくシグが脱線委員会に加担、むしろ率先したものだから収束もめずらしくサクヤが引き受けた。
「距離で言うとこれじゃないのか。管制塔」
今度はサブローが無造作にペンをとる。そして無造作に大時計塔広場の端に丸印。ようやくペンがまともな理由で活躍した。
「下は市民のちょっとした集会とか勉強会とかに使われてる。住居ではないし、下は開けた広場。狙撃にせよ誘き出すにせよここが妥当じゃないかと思うけど」
「シグはどうだい?」
「任せてくださいって言いたいところですけど、ちょっと遠い、ですね。ヴォータンの威力じゃ不安が残ります」
「ヴォータンじゃなく、遠距離用魔ガンなら?」
「……であればもちろん射程内ですよ。え、まさか」
「決まりだ」
サクヤは満足そうに笑みを浮かべて、早々に席を立った。
「三番隊に応援を頼もう。ユリィならうまくやってくれるはずだ」
 作戦会議は鶴の一声であっけなく終了した。応援要請はサクヤ自らが行うらしい、諸事情によりその方が話が早いからだ。三番隊到着までは再び待機、調整時間と相成ったわけだが各々気だるそうに散開していく中で、シグだけは露骨に嘆息していた。
「出たー。シグ・エヴァンス曹長の必殺技、ヒトミシリっ」
ナギが棒読みで茶化す。振り向いたシグの眉間には、全てのストレス疲れを結集させたかのようにしわが寄っている。
「いい加減慣れないの? 三番隊、結構共闘してるくせに」
「慣れない。苦手。特に緊迫感ゼロのあの補佐官、やかましくて死にそう」
「うちも似たようなもんでしょうに」
「うちは別。だいたいリュカでもあっちの補佐官の五分の一くらいの音量しかない」
 シグの口からまた特大の溜息が漏れる。普段顔色ひとつ変えず魔ガンの引き金を引くシグも、他人が気にも留めないような小さなことで頭を抱えたりもする。今がそうだ。そしてシグのそういう現場をナギは立場上なのか性格上なのか、他の連中よりも多く見ている気がしている。
「取り繕っちゃって。ナギも苦手だろ、ユリィ隊長」
「はい!? わ! ったしは別に!」
「いいなぁ……そのくらい分かりやすいと、相手も察してこれみよがしに避けてくれるもんね」
「え。私そんなに顔に出てる」
「出てる。愛想笑いってこういう笑い方かーっていうお手本みたいな顔してる」
 言葉に詰まる。ここまで断言されると否定しても無意味だ。ナギは確かに三番隊隊長ユリィ・カーター少尉に苦手意識を持ってしまっている。何が理由でと問われると答えに窮するのだが、ありていにいえば嫉妬心なのかもしれない。ユリィ少尉は現グングニル小隊において唯一の女性隊長だ。驚くほど小柄だが身体能力は高く、遠距離用魔ガンの扱いにおいては他の追随を許さない技術を持つ。おまけに美人で冷静沈着、だがナギにとってはこの要素が笑わない精巧なマネキンのような印象を与えている。おまけに、
「同郷同期だったっけ、サクヤ隊長と」
「うん、幼馴染とかなんとか」
「……ふぅん、なんかめんどくさいポジション」
 胸中で同意してしまう自分がいる。様々な要素が絡み合って、なんだか面倒くさいのだ。何故か必要以上の気を遣ってしまう。そしてそれが空回る。結果気まずい空気が充満する。などと予想される展開を思って心底溜息が洩れた。別の理由だったのだろうがそれがシグとかぶる。苦笑まで同時にこぼしてしまい、互いに少しだけ気が紛れたようだった。


 民家から漏れていた温かな光がひとつまたひとつと消えていく中、サクヤは数台のガス燈の明かりだけを頼りに大時計塔を見上げていた。気持ちはその天辺にいるニーベルングを観察しているつもりだ。が、その漆黒の翼は夜の闇に溶け込んで、ぼんやりと輪郭を確認できる程度だ。夜という空間に擬態しているとでも言うべきか。
「そろそろか……」
サクヤは例の遠吠えを待っていた。司祭の情報によればカラスはこの三日間、深夜零時前後に咆哮をあげている。単なる気まぐれにしては出来過ぎている気がした。
「サクヤっ。三番隊到着したよ。ユリィ隊長がすこぶる不機嫌……って何してんの」
報告に来たナギもつられて空を見上げる。刹那──
 オオォォォォォォオオオオオオオ!!!! ──吼えた。上空から押さえつけられたような音の重圧に二人は咄嗟に両手で耳を塞いだ。夜の冷えた空気を伝って咆哮はリベンティーナ中に轟く、おそらく周辺地域の安眠も妨げたことだろう。これは恐怖心云々の前にかなりの大迷惑だ。
「何今の……。ニーベルングってこんなふうに吼えるっけ……?」
「夜に自分の居場所を知らせるための特別な鳴き方なのかもしれない。しまったなー、鼓膜が変だ。ナギは大丈夫?」
今の今までナギの声がしていたからそう呼びかけたのだが、振り向いた先にはナギの姿ではなく闇夜でもよく目立つ金のショートカットの旋毛があった。次の瞬間にはぱっちりとしか形容できない大きな二つの瞳がこちらを凝視していた。
「ユリィ。良かったよ、来てくれて」
「全員じゃない。明日もライン側の警備があるから半分だけ」
「狙撃班から四人も来てくれれば百人力だよ」
ユリィは「そう」と簡素な返事だけをすると視線を上空にずらした。彼女の無表情と抑揚の無い喋り方は通常仕様だ。サクヤもよく知っているからから気にも留めない。
 ナギは一歩さがって二人のやりとりを黙って見守る。いつも通り笑顔のサクヤと、どうやらいつも通りらしい仏頂面のユリィ、そして相変わらず曖昧の極みのような無難な微笑を浮かべる自分。ユリィが到着早々ターゲットの確認をしたいと言いだしたからこうして案内したのだがタイミングが悪すぎた。
「ところで今のサイレンみたいなのが標的?」
「うん。見えづらいけど塔の真上に座ったままだと思うよ。呼称はカラス」
「……見えづらいというか、全く見えない。どう撃つの」
「時計塔先端を狙ってくれればいい。正確な位置と距離を教えるよ。到着早々で悪いけどブリーフィングに入ってかまわない?」
ユリィは初めからそのつもりだったようで、やはり無言のまま首を縦に振った。空気が緊張している。視覚では捉えられない、しかし確かにそこに存在する巨大な脅威に空間そのものが怯えているようだった。
 連れ立って戻ってくるサクヤとユリィを見て、ナギは広場の端で律儀に敬礼をした。
「ナギさん」
「え、はいっ」
「案内ありがとう。助かりました」
予想だにしなかった台詞に反応が一瞬遅れた。ユリィもわざわざそれを待ったりはしないらしい、目を点にするナギの横をさっさと通り過ぎていく。
(てっきり苦言がくるもんだと……。わかんない人だなぁ……)
事前情報無しでジャイ○ンリサイタルさながらの鼓膜への奇襲を受けたのだ、嫌味のひとつやふたつは覚悟していたのだが。すたすたと宿へ向かうユリィの背中を、ナギは小首を傾げながら追った。


「三番隊にはカーター少尉に続いて標的を威嚇してもらう。煽ってけしかけて上手く管制塔に誘導してもらいたい」
 ブリーフィング開始直後にサクヤが告げた作戦内容に、三番隊の隊員は各々顔を見合わせた。彼らの隊長であるユリィはサクヤの傍らで直立不動で佇んでいる。
「いや……随分簡単におっしゃいますけど、あれをこちらの思惑通りに動かすっていうのはなかなか難しいですよ。だいいち狙撃ポイントに向かってくるように誘導って……聞いたことない」
「そのままどこかへ逃げてくれるならそれが一番いい。作戦の本質はニーベルングを大時計塔から排除することだからね。ただし、討伐する必要性が生じた場合は確実に管制塔で仕留めなければならない。そうでなければわざわざ君たちを喚びつけたりしないさ」
口調とは裏腹にサクヤの言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
「ま、そのための布陣だ。うまくいかせる自信はあるよ」
 サクヤが広げた市街地の地図(てくてくマップではなくなっている)には、管制塔の他にも小時計塔、市庁舎、住宅の屋上などの高所に人員配置が示されている。こちらはリュカ、バルトを加えた比較的バーストレベルの高い魔ガンナーを配置、とにかく寄せ付けないことが目的だ。
「万一市街地に侵入してきた場合は、バルトとリュカを中心にここから射撃。その際は絶対に威嚇に留まってくれ。管制塔まで導いてくれれば後はシグと、ナギ、僕でうまく片づけるよ」
「とにかく私たちはアレの交通整理をすればいいのね」
「身も蓋もない言い方をすればね」
ユリィの皮肉めいた言い草にサクヤも苦笑を洩らす。言うは易し行うは難し、あのニーベルングが進撃の旗印としての大役を担っていることが確かならば、手荒な強制退去に黙って従うはずはない。暴走ジェット機の、命がけの交通整理である。
「で、シグにはちょっと特殊な役をやってもらうことになるんだけど──」
 サクヤのあっけらかんとした指示内容を、シグ・エヴァンスは管制塔の中腹階で反芻していた。彼の言う「ちょっと特殊」はいつも極上に厄介だ。今回も例外ではない。渡された「かなり特殊」な弾丸を指先で弄びながら、シグは窓から大時計塔を睨んでいた。午前4時50分、作戦開始まで10分足らずというところだ。仄かにともされた松明の明かりで大時計塔とその先端、つまりカラスの輪郭がぼんやりと浮きたって見える。
 管制塔前の広場ではサクヤとナギが、屋上ではユリィと彼女率いる三番隊の精鋭が待機している。例の補佐官が本部で留守番をしているというのは、シグにとってはこの上ない吉報だった。今回は横で、やれ三番隊に入れだの狙撃を極めろだの勧誘されずに済む。
『シグ、そろそろ時間だ。準備はいいかい』
イヤホンマイクからサクヤの声。
「もちろん、万端です」
三つの特殊バレットの内、一つ目を銃創にこめた。シグの役目は、この弾をニーベルングの羽に命中させること。内容は至ってシンプルだ。
『それじゃあ三番隊に合図を出す。作戦が成功したらみんなでヴァーナムミルクのソフトクリームを食べに行こう』
「サクヤ隊長、それちょっと死亡フラグっぽいですよ」
『え! そうかな! でも司祭も一押しの……!』
『もういいから、そういうの。シグももうちょっと緊張して。分かってると思うけど、チャンス自体は弾の数あるとは限らないんだから』
「言われなくても」
サクヤのすぐそばからナギの声が聞こえる。この二人は持っている魔ガンの性質上、作戦時も行動を共にすることが多い。サクヤの「ジークフリート」とナギの「ブリュンヒルデ」はグングニルの中でも一、二を争う高威力の魔ガンである。威力の高い魔ガンを手足のように使いこなすこの二人が揃っているからこそ、八番隊の討伐成功率は八割を切らないのである。
 シグは自分の手元で黒く光る魔ガン「ヴォータン」に視線を落とした。同じく懐で出番を待っている「ローグ」の感触もジャケットの上から確かめる。これに「フリッカ」を加えた計三丁がシグの魔ガンだ。どれも威力はさほどない。銃身と引き金の軽さがウリだ。
「……時間だ」
 松明と夜明けの幻想的な明かりの中で、大時計の針は厳かに時を刻む。大時計だけではない、リベンティーナの全ての時計が作戦開始時刻を皆に告げた。
 すぐ真上のはずなのにどこか遠いところで弾けたようにユリィの魔ガンが火を噴いた。その後間隔を開けず二発目、三発目が三番隊によって放たれる。この闇の中、この距離で標的を正確に捉えられるのか、一瞬だけよぎった不安はすぐに杞憂であったことが証明される。大時計塔の上で巨大な二枚の羽が大きく広がった。
『こちら管制塔屋上、三番隊! 標的移動するわよ!』
 普段は無口無表情を貫くユリィ隊長も作戦時は声を張るんだな、などとシグは若干呑気なことを考えていた。三番隊にとっては通常作戦時よりも危機感が大きいのかもしれない。彼らがぼやいていたように、狙撃部隊が囮扱いされるなど前代未聞だろうから。サクヤのおかげでその前代も今ここで無くなったわけだが。
『シグ、行ったぞ! ばっちりお膳立てしてやったんだ、うまくぶち当てろよっ!』
小時計塔に配備されていたバルトから不躾な報告が入る。誘導はうまくいったようだ。というより実際見た方が早い。白んできた空に羽ばたく漆黒の翼は、視界の中でだんだんと大きくなった。暴れ牛のように頭部を上下に揺らし、この管制塔に突っ込んでくる。
 シグは二丁の魔ガンを同時に構えた。狙うはこの両の漆黒の翼。命中すれば威力のないこの二丁でも確実にニーベルングの動きを停止、落下させることができる。弾薬の中身はマユリ開発の特殊な蝋成分だ。常温に触れれば一瞬で凝固する。
「墜ちろよ!」
二つ同時に引いた引き金、二つの銃口から弾き出され蝋弾は、そのまま導かれるようにカラスの両の羽に命中した。短い咆哮と共に視界からカラスが消える。筋書き通りだ。後は下で待機中のサクヤとナギにバトンタッチすればいい、と催促の声がイヤホンマイクから響く。
『ねえ! 落ちてこないんだけど? まさか外した!?』
「はぁ? たった今落としたよ! 外すなんてありえないだろ……!」
自信と同時に確かな手ごたえもある。第一この至近距離で外せと言う方が無茶だ。
 シグは確認のために窓から身を乗り出した。そしてつぎの瞬間、予想だにしなかった光景を目にして豪快に噎せた。
『どうしたシグ! どこか負傷したのか!』
サクヤの切羽詰まった声が虚しく響く。負傷、したと言えばしたのかもしれない。百発百中男シグのプライドは、眼下のニーベルングのおかげでかなりの痛手を負った。
 カラスは落ちていない。管制塔の外壁に蝋まみれの爪をたて、ロッククライミング状態を保っている。なんという情熱と根性だろうか、なりふり構わずへばりつく黒い塊にシグはこれでもかとばかりに恨みがかった視線を送った。
「すみません隊長。ちょっと想定外のアクシデントで……まぁとにかく早急にたたき落とします、退避してください」
『叩き落とすってやっぱり落ちてな──……サクヤー! 上、上ー! くっついてる壁にっ! あ~やだぁ~いやすぎるぅぅ! ゴキブリみたいぃぃ』
『ほんとだ、凄い。あの爪だけで全体重支えられるんだなー』
 広場からもカラスの状態が確認できたらしい、嫌悪したり感心したり忙しそうだがシグのやることはひとつだ。崖っぷちに立たされた、いや崖の中腹にへばりついた哀れなニーベルングを外道さながらに突き落とすのみ。覚悟を決めたら後は容赦なく撃って撃って撃ちまくる。下の二人に比べれば威力は低いとはいえ魔ガンは魔ガンだ、命中しては爆発を繰り返し、明け方の空を花火のように照らした。
 そんな、シグとカラスによるド根性劇場をしばらく見上げていただけのサクヤとナギ。
「僕らも上ろう。このままだと管制塔がもたない」
「中から撃つの? でも下手したら市街に魔ガンが当たっちゃうんじゃない?」
「下手しなければ大丈夫だよ」
サクヤはいつもと変わらない爽やか極まりない笑顔で言ってのける。それが不安だからわざわざ広場まで落下させようという話ではなかったのか。
(まあ不安なのは私だけなのかもしれないけど……)
 命中率でいえばナギのそれは中の上程度だ。着弾時の爆発力が凄まじいから多少逸れても標的を仕留めることはできる。が、今回はそれがネックなのだ。多少でも逸れたら、とばっちりを受けたどこかの建物が派手に倒壊する。それが運悪く大時計塔だったりしたら目も当てられないではないか。などとナギが二の足を踏んでいる間に、サクヤはさっさと管制塔の階段を上りはじめた。
 そのタイミングを見計らったかのように、カラスは片翼を外壁に打ち付けた。あちらにとっては軽いノック程度だったのかもしれないが管制塔そのものが大きく揺れる。
『エヴァンス曹長、サクヤ! 一旦退きなさい! 吐くわよ!』
イヤホンマイクからユリィの簡潔すぎる警告が飛び込んでくる。誰が嘔吐しようがこの状況下ならどうでも良い気がするが、そうも言っていられない。誰が何をという要素はこの場合省略しても全員が察知することができた。カラスが無理な体勢のまま、頭部だけ仰け反った。次の瞬間、管制塔3階の開いた窓へ向けて口いっぱいに含んでいたニブル──毒の霧が吐きだされた。人間にとってそれは毒以外の何物でもなく、無防備に吸えば呆気なく死にいたる。が、ニーベルングにとっては大事な活動源、生命線だ。体内に備蓄しているそれを多量に使用してで
もこの場を切り抜けたいのだろう。追い詰められていることは確かだ。
 カラスは今なお、ニブルを放出しながら激しいノックを繰り返している。管制塔への打撃が目的かと思いきや、どうやら両翼にからみついた蝋を振り払っているようだった。
「私が行く! サクヤは三番隊とシグに撤退指示を!」
 管制塔入り口でのんびりマスクを装着していたサクヤを追い越して、ナギは階段を駆け上った。
「落としてくれればいい! 僕が下で撃つ!」
「了解!」
 管制塔内は吐きたてほやほやのニブルが充満している。その中をナギはわき目も振らず走った。捨て身でも暴走でもなく、自分がこの場の適任者だと皆が理解している。ナギのニブルに対する耐性はグングニル一、彼女が現場で重宝される理由のひとつである。
「シグ! 生きてる!?」
3階踊り場にて、ガスマスクをしっかりがっちり装着したシグを発見。明らかに作戦を放棄している。
「ナギ。さすがにマスクつけようよ。なんでそんなすっぽんぽんで上がってくるの」
「変な言い方しないでよっ。シグこそもうちょっと粘ってよね」
「充分粘ったよ。これ以上ちまちま連射したところで逆効果だろ。餅は餅屋に任せる」
「あなたも餅屋でしょっ」
 思いきり肩を竦めた後、ナギを追い払うように手を振るシグ。本当にさっさと階段を下りていってしまった。と、そんなことに腹を立てている場合ではない。先刻までシグが身を乗り出していた窓から、今度はナギが魔ガンを突き出した。
「悪いけど、いい加減落っこちて!」
 まず一発。シグのときとは比べ物にならないほどの爆音と黒煙が周囲に広がる。射撃しているというよりは爆撃していると言った方が近い。「ラインタイト」と呼ばれる爆発性物質を組みこんだニーベルング討伐専用の武器が「魔ガン」、そうでもしないと通常の対人武器ではニーベルングの表皮に傷ひとつつけることができない。逆に言えば、ナギの魔ガン「ブリュンヒルデ」から放たれた弾が着弾すれば、傷ひとつどころか致命傷を負わせることが可能だ。
 そのはずだが、今回は事情が違うようだ。着弾したにも関わらず、カラスは微動だにせず壁に留ったままだ。あんたは蝉かと思わずつっこみたくなる。粘り強さだけでいえば彼が本日のMVPである。
「こちらナギ。落ちませ~ん。アドバイス求めます、どうぞ」
『羽、できれば爪にヒットさせるんだ。こうなったら管制塔の多少の被害には目を瞑るしかない。どうせカラスが結構パンチしてることだし』
「わかった。やってみる」
 一度深呼吸してから魔ガンを構えなおした。集中した視界に、できれば直視したくなかった「現状」が横たわっていた。カラスの動きを封じる目的で放たれた蝋弾はこれまでの集中砲火でほとんどが溶け、マグマ状の物体がそれらしき音をたてて落下していく。ある意味美しいと形容できた羽も漆黒の体もただれ、今や醜い肉塊と化している。
 それでもカラスは懸命にその場に留まろうとしていた。
「……お願いだから次で落ちて」
呟いて狙いを定めた。定まったら躊躇わず撃つ、銃身を支えて引き金は静かに引く。訓練所で習う当たり前の事項が何故か脳裏をよぎった。
 ナギが人差し指を引いた刹那、爆発音と絞り出したような鳴き声が同時にこだました。
『当たった! 落ちるぞ!』
『まだよ、飛ぶ気だわ』
三番隊が実況中継してくれるその下でサクヤは頭上を見上げて静かに魔ガンを構えた。ぼろぼろの肉塊が蝋でただれた羽を広げて宙であがいている。彼が羽ばたこうともがく度に爆風の名残のような熱を帯びた風が吹いた。
「ちょ……サクヤ」
「隊長~……」
 広場に合流したシグとナギが揃って頭を抱える。サクヤは魔ガンを構えるのを止め、カラスの羽ばたきをひたすら見つめていた。むき出しになった骨格だけの羽でカラスは器用に安定を保っている。そのまま徐々に上昇、彼もまた眼下のサクヤを注視していた。
 数秒間ロマンチックに見つめ合った後、カラスは羽を翻して朝日の方向へ飛び立っていった。八番隊隊長(本作戦の責任者)はあろうことか小さく手を振っている。ナギとシグは半眼のまま顔を見合わせた。いつものサクヤなら何のためらいもなく大手を振って見送っている。おそらく三番隊の手前多少気を遣ったのだろう、それでも自主的に見送ったことくらいはばればれである。
「サクヤ」
「追撃はしない。作戦完了だ」
 サクヤの言葉はイヤホンマイクを通じて各隊員に届いているし、そもそも飛び去っていく巨大なニーベルングを見逃す者などいなかったろう。それぞれの拠点から苦笑が漏れる。が、これら一連の流れをいつものこととして片づけられるのは当然八番隊のみだ。
 三番隊のメンツが重い足取りで広場まで下りてきた。ユリィは普段通りの能面だが、後ろの隊員たちは疲労感というか悲壮感とういか、そういう類の切ない表情を隠しきれないでいた。深夜から招集されてバックアップした作戦の結果がこれなのだから至仕方ない。彼らにとって──グングニル本部にとって、本作戦は失敗としか判断しようがないのである。
「や、おつかれ。助かったよ、三番隊のおかげで事態を収拾することができた。仮眠をとったらみんなで食事して帰ろう」
「……遠慮するわ。言ったでしょ、防衛ラインの警備に欠員は出せない」
「そうか、うん。じゃあ今度何か埋めあわせするよ」
「ひとつ聞いておきたいんだけど」
 作戦終了の解放感からか終始笑顔のサクヤとは対照的に、ユリィは終始仏頂面だ。それがサクヤ以外には怒りの沸点に達しているように見える。内心はらはらしているのは当事者以外である。
「八番隊は、ニーベルング愛護団体にでも入ってるの」
ユリィはどこまでも真剣に、純粋にその疑問を口にした。やはり無表情は変わらずだが。サクヤは虚を突かれたのか一拍固まって、堪え切れず噴き出した。頼むからこれ以上三番隊の機嫌を損ねるのはやめてくれ、というのはやはり外野の意見である。
「ははっ、まさか。できるだけ人としての選択をしたいと思ってるだけだよ。僕らまで獣である必要はない」
「よく分からないけど……。サクヤ、そのうちニーベルング語なんかを理解しそうでこわい」
「それはいいね、和平交渉ができる」
今度は思いきり笑い声を響かせた。顔を出し始めた朝日も相まって謎の爽やかさが強制的に場を支配していく。サクヤの半径三メートル程度だけが夜明けの象徴のようにきらきら輝いて見えた。これに釣られて笑ってしまうのが八番隊、サクヤを慕って就き従うグングニルの中でも異色のエリート(くずれ)部隊である。

episode ii 救いのお求めは市場で

 グングニルが本部を構えるアスガルド中央区から50キロほど南に下った片田舎、アルブ地区が八番隊隊長サクヤの生まれ故郷である。父は陸軍少将、そのせいで幼いころから遊び感覚で兵法をたたきこまれた。父が望むように陸軍士官を目指すことが当然だと思っていた。そのための能力も環境も十二分に整っていたことを本人も自覚していた。
 しかし彼は今、陸軍ではなく対ニーベルング機関グングニルで八番隊の小隊長を務めている。きっかけは母の死だった。母はサクヤの幼少時にニブルによる肺病で他界、当時も今も世の中で一番の脅威として認識されているニブルとニーベルングに対して軍も医者も全くの役立たずであった。だから自分が、などというとやけにドラマチックに聞こえるが、単に「軍は自分には合わない」という違和感に忠実に行動した結果が現在の彼の姿なのである。
 良い思い出も悪い思い出も、ここにはそれなりに詰まっている。かといって憂愁に駆られることももうない。定期的に、ある意味で機械的に彼はこうしてアルブ地区を訪れる。


「サクヤくん、いつも突然来るからお茶の準備ができないんだよねー」
 白を基調とした室内に、観葉植物としては巨大すぎるであろう緑が不規則に置かれている。ウルズ大学生態研究所のとある一室、部屋の隅で湯を沸かしているのはフェン教授。大学時代のサクヤの恩師である。項の部分で束ねた少しうねりのある長髪と、型の古いロイド眼鏡を愛用している点は昔から変わらない。
「すみません、たまたま半休がとれたのでつい。お忙しかったですか」
「忙しくても自由が効くのが僕ら研究者の良いところでしょ。忙しいと言えばサクヤくんの方こそそうじゃないの? 最近は都市部にもニーベルングが出るって言うじゃない。働きすぎて体調崩しちゃったんじゃないの?」
「あはは、そういうわけでは」
言いながら先日のリベンティーナでの作戦を思い返していた。正確には作戦後の報告を、だ。前回に限らず、グングニル隊員に課せられた使命は常に「討伐」である。それをいろいろと理由をこじつけてねじまげてきたのがサクヤであり八番隊だったのだが、上層部からは次は無いものと思うように釘をさされた。恩情ではない。サクヤ自身は事実上の最後通告であると受け止めている。今まで曖昧にされてきた罰則も今回ばかりは具体的に提示された。
(西部戦線も視野に入れる、か。分かりやすい脅しだけど、確証の無い信念でみんなを巻きこむことはできないな……)
 西部戦線とは名ばかりで、今はもう突破されてしまった第一防衛ライン周辺を指す。壊滅したヘラ地区に隣接するその拠点で守るべきものはもはやない。「次」があれば、全隊員で仲良く超最前線送りなどと仄めかされれば流石のサクヤも及び腰になるというものだ。
「良くも悪くも相変わらず、ってところですかね」
随分時間を費やして考えた応答は、ありきたりなものだった。苦笑して誤魔化すサクヤの前に湯気のあがるティーカップが差し出される。
「その状況判断は宜しくないね。変化は見えないところでも常に起きている。鈍感になってはいけないよ」
「かなわないですね、先生には」
「とは言っても今の抗ニブル剤では現状維持しかできないからね。君の今の回答は『良い』ものとして受け取っておくとしよう。……っていう世間話は置いておいて! ちょっとこれ見てくれる? これ! 実はサクヤくんが来るの待ってたんだよ~。もう早く見せたくってさ」
優しく諭してくれたかと思ったのも束の間、フェンは興奮を隠しきれない様子で二つのガラスケースを抱えてきた。よろめくフェンを見かねて、わけがわからないままサクヤも運ぶのを手伝う。ガラスケースにはそれぞれ一匹ずつ、マウスが入れられているようだ。手品の小道具のように布が被せられているため断定はできない。
「また何か分かったんですか?」
「そうっ、そうなんだよ。まぁ百聞は一見に如かずだ」
 フェンはニブルが与える人体への影響をいち早く、より詳細に解き明かし一躍生態学の権威となった人間だ。呼吸器を通してニブルを摂取することにより、肺をはじめとする各器官がニーベルングと良く似た組織に変化していく。そうして微量のニブルを長期間摂取し続けることにより肺や心臓が侵され死に至る、というのがいわゆるニブル病と呼ばれるもののメカニズムだ。たったこれだけ分かっただけでも、予防や対処の面では飛躍的に進歩した。
「前回の論文では、ニブルが人体をニーベルング化させているんじゃないかっていうところまで持っていったんだけどね。ニブル病患者のデータだけでは可能性の話で留まってしまった。そこで瞬間的に致死量を超えるニブルを投与するとどうなるかっていうのを試してみたんだ。結果、こうなった」
一つ目のケースの布が取り払われる。ケースの中で我関せずと動き回るマウスの容貌に、サクヤは目を見張った。通常の感覚なら二三歩後ずさるところを、好奇心の方が上回ったらしい身を乗り出してマウスを凝視する。フェンは実に満足そうだ。
「マウス……とは呼べないですね、もう。“コレ”、ニブル耐性は?」
 サクヤが指さしたかつてマウスだったものには、鋭い爪と体よりも大きな羽が生えていた。マウスにはその自覚がないのかガラスケースのあちこちに羽をぶつけながら以前と同じように振舞っている。 
「あるよ。臓器のほとんどはニーベルングに酷似しているし、むしろ定期的にニブルを投与しないと死んでしまうってことまで分かった。触るとカッチカチでねぇ~、魔ガンじゃないと外傷を与えることはできないんじゃないかな」
「先生のおっしゃっていたニーベルング化、がいよいよ実証されたってことですか」
「むふふ、その通り。でもこんなのは序の口でね、見せたいのは次のマウスなんだ」
フェンは嬉々としてもう一方の布を取り去る。鬼が出るか蛇が出るかと身構えていたサクヤの前に、一見してごく普通のマウスが姿を現した。
「これが……?」
「ニブルの大量投与によりニーベルング化が認められたのがマウスA、肺病で死亡したのがマウスC、そして何の変化も認められなかったのがマウスB、こいつだ。外見上はね」
「まさかニブル耐性がある?」
「そう! やっぱり勘がいいね~サクヤくんはっ。マウスAもBも二度目の大量投与では何の変化も起きなかった。しかもBに関してはニブルを投与しなくても生き延びるんだよ。凄いだろう? ということはだね? マウスBの生態が解明できればニブルやニブル病はほぼ解決したといっても過言じゃないだろう? それだけじゃない。ニーベルングの生態システムを鑑みれば自浄と再生を繰り返す……つまり不老不死なんてのも夢じゃないかもしれないっ」
「不老不死、ですか」
 子どもが壮大な夢を語るようなフェンの熱弁に、サクヤは思わず微笑した。全ての少女が一度はお姫様を夢見るように、全ての科学者も一度は不老不死を夢見るものだというのはフェンの持論だ。生態学なんてものに触れていればその熱はより高まるのかもしれない。
「ただ、全てのマウスがBルートの進化を辿るわけじゃない。逆かな、ほぼ全てのマウスがAかCに該当するんだ。今のところBルートで進化したのはこいつを含めて三個体のみ、いずれもアルブマウスだ。関わりがあるかどうかは三個体じゃ何とも言えないけど……」
「アルブマウスのみ……っていっても他の地域のマウスと大した違いはないですよね。ここの土地に、他とは違う特別な要素があるってことか……」
「そう結論付けるには尚早だって話だよ。アルブ以外でBルート進化した例もちゃんとある」
得意気に語るフェンの視界に入らないように、サクヤは苦笑いをこぼした。さっきと言っていることが違うではないかという至極まっとうな突っ込みは胸中に留めておく。
「サクヤくんは、“ヘラの生き残り”についてどう考える?」
 フェンが──客観的事実を誰より愛する学者である彼が──その言葉を口にしたこと自体がサクヤにとっては意外だった。これについては素直に顔に出す。
 ヘラ・インシデント──11年前のニーベルングの大襲撃によるヘラ地区の壊滅を人々はそう呼ぶ。当時グングニルのスーパーエリート部隊と呼ばれた二番隊が決死隊として救助活動に当たったことはグングニル隊員でなくとも知っているような有名な話だ。そういうこともあって二番隊、グングニルそのものが伝説化された節もある。
 高濃度のニブル、辺りを我が物顔でうろつく夥しい数のニーベルング、そんな地獄、死と隣り合わせの環境下で見つかるのは死体ばかり。グングニル本部は隊員の安全を優先し捜索を二週間で打ち切った。生存者ゼロ──その報告に対して、どこからも非難の声はあがらなかった。ひとつの地区がニーベルングに占拠されたという事実は、人々を恐怖と絶望の淵へ追いやった。そんな中、ただひとりの生存者として奇跡的に救出された少女がいるらしいという噂が実しやかに広まった。しかし公式には発表されていない。希望の光としてのデマなのか、事実に基づいた情報なのか今となっては知る由もない。調べようもないというのが実際である。噂は噂として広まりつづけ、十年以上が経った今も“ヘラの生き残り”という存在は希望あるいは絶望の象徴として語られている。
「先生から“ヘラの生き残り”なんて言葉が出るなんて思いませんでしたよ。あんなのは都市伝説だって一蹴するタイプでは?」
「否定にも肯定にもそれなりの材料が必要だろう? 僕はね、サクヤくん。おそらくは肯定せざるを得ない材料をいくつか持っているんだ。そのひとつがBルート進化という現象だといえる」
「ヘラの生き残りである少女は、Bルートで進化したということですか」
「その可能性は高い。……ってあれ? 少年、じゃなかったっけ?」
「そんなものですよ、都市伝説なんて。救助されて以降の情報は全くないんでしたっけ」
「そうそうそうなんだよ。残念だよねー。お目にかかりたいものだよ。だってその子はニブルに適応した体を持っている、つまり人類の次の段階に至ってるってことなんだよ?」
「救助したグングニル小隊が情報を統制するよう計らったのかもしれませんね。本当に存在すればの話ですが」
「まあねー。当時は悲劇と奇跡ばかりが先行してしまって科学的価値は二の次だったしね。今ならその子の無限の可能性に全財産投じる学者もたくさんいると思うよ」
「先生とか」
 熱弁をふるうフェンに対して今日は苦笑を洩らすばかりだ。普段はどちらかと言えばまわり(主にナギ)に苦笑される方だから、たまにはこういう役回りも悪くないと思っている。フェンの話はいつもサクヤに新しい観点をくれるし、何より興味深い。雑談のためだけに訪れてもそれはそれで収穫はあるのだが、サクヤがここを訪れるのは決まって「つまらない目的」のためだった。それを切りだすのが毎度億劫だ。
「先生、そろそろお暇しようかと」
「ああ。申し訳なかったね、つい長話をしてしまった。忙しいようだから少し多めに調合してあるけどむやみやたらに多用しないようにね」
 最近は切りださなくてもフェンが察してくれる。それが余計に虚しく感じることもある。サクヤは手渡された手のひらサイズの瓶、その中に詰まったタブレットを軽く振っていつも通り穏やかに研究所を後にした。


 サクヤがグングニル本部に戻って間もなく、八番隊は揃って中央区の第三主都であるヴィーンガルブ市、そのはずれにあるフォールバングの森の調査任務に就いた。森の中の洋館から夕方になるとニーベルングの鳴き声が響くというのである。
「あのさ~、これって明らかに一番隊の仕事だと思うのは俺だけ?」
 リュカが意を決したように口を切った。森の中に入って皆かれこれ三十分は無言で歩き続けている。何故誰も愚痴をもらさないのか甚だ疑問でしょうがないといった様子だ。
「暗黙の了解とはいえね、それぞれの隊で住み分けしてきたわけっしょー? 調査だの偵察だの地味なやつは一番隊だったじゃ~ん。もう何この不気味ハイキング。暇っ。俺歩きながら寝れる」
 空をすっぽり覆うように育ち切った針葉樹のおかげで昼間だというのにめっぽう暗い。虫の声もなく、当然鳥の声もするはずがなく、生き物の気配が自分たちだけというのも不気味さに拍車をかけていた。麗らかな昼下がり都会のオアシスで森林浴、という雰囲気ではないことだけは確かだ。リュカの言い草であれば、それはそれで不満をもらしそうではあるが。
「正確には調査・討伐。一番隊は百パーセント安全が確保されたところにしか出向かないから、まぁ今回もうちの案件ってかんじ」
「なーんだ、ナギも皮肉もりもりじゃん。そういうのはさーもっとオープンにしていこうぜー。なんでこんな葬列みたいにダークに競歩せにゃならんのよ」
「たった今ハイキングは嫌だって言ったのはどちら様でしたっけ! もしニーベルングが身を隠すのが目的でここを利用してるとしたら、私たちの声で逃げちゃうかもしれないでしょ! ……って出てくる前に確認したじゃないっ」
「あー。したした、した気がする。あれだったよな。名付けて『ニーベルングウォッチング作戦』。こんなに不気味極まりないとは思ってなかったけどな」
高らかに笑い声をあげるリュカと、うっかりペースに乗せられて声を荒らげるナギ。二人セットでバルトから小突かれた。傍から見れば小突かれた、という程度のものだったが二人揃って地面にうずくまる。バルトの拳にはメリケンサックか何かが仕込まれているのかもしれない。
 結局大声で罵りあうリュカとバルトを捨て置いて、ナギは先頭を黙々と歩いていたサクヤの横についた。
「……大丈夫? なんか、元気ないけど」
 思いもよらぬ切り出しに、サクヤが立ち止まる。
「元気? いや、あるつもりだよ。疲れて見えるかい?」
「そういうわけじゃないんだけど。なんとなく……うん、まぁ元気ならそれで」
サクヤは微笑して、立ち止まったまま視線を斜め上方に移動させる。ナギも釣られてそちらを見た。鬱蒼と生い茂った木々の合間から、目的地である洋館が見え隠れしていた。その屋敷を目にしての感想は、全員見事に一致した。
「お化け屋敷!」
追いついて来たマユリが開口一番、興奮した様子で皆の意見を代弁する。今度はバルトも責め立てない。
「否定できんな、こりゃ」
「うぉー! 不気味クライマックス! これ何、住んでんの人。あ、ニーベルングさんか」
リュカの軽率発言にすら否定できる要素がない。外壁の半分は蔦や枯れ草に覆われている上、壁そのものもところどころひび割れを起こしている。四階建ての窓という窓に色あせたカーテンが重く垂れさがっているのが見えた。やけに面積の広い屋根が乗っかっており、元の色が何だったのかも分からないほどに苔むしていた。森同様、およそ生き物の息吹というものが感じられない外見だ。
「夜な夜な洋館の中をさまようニーベルング、か」
サクヤの脳内でもお化け屋敷設定が公式になろうとしている。
「ニーベルングっていうか……別のものが出そう。サイズ的にもその方がしっくりくるし」
「それもそうだね。でもそうなると本当に分野外だなぁ。……祓魔って僕らが依頼しないといけないのかな。ニーベルングの霊とかだと、どっち担当になるんだろう」
 厳かに構えるお化け屋敷、もといニーベルング生息の疑いがある古びた洋館を前にサクヤとナギはいつも通りのテンションを保っていた。対処の面倒さから言えばやや下降気味かもしれない。バルトやアンジェリカ、シグもこの類で、洋館の書類上の所有者である何某の話だのデザインの話だのについてとりとめもなく雑談を交わしていた。リュカとマユリに至ってはお化け屋敷の謎解明に向けてやる気満々である。
 一名。約、一名。ほぼ一名様。どのテンションにも属さない男が大量の冷や汗を流しながら血の気の引いた顔で屋敷を見上げていた。
「サブローさん、大丈夫」
 下痢でも我慢しているのかと思って、シグはできるだけ密やかに声をかけたつもりだった。下痢でないことはすぐに判明する。
「だだだだだだだダイジョウブだとも! お化けって、まさか、そんな、ひひひひ科学的な! いないよ、いるわけないよ、中にいるのはニーベルング! ね! 間違いない!」
眼鏡が曇っているのは高速で蒸発した涙のせいではないだろうか。サブローの必死すぎる自己暗示を否定して良い権利はおそらく誰にもない。シグは全てを悟った。ここは心ある自分がサブローのフォローをしなくては。
「大丈夫ですよ。普通、ニーベルングの方が恐いわけだし。思っているより弱っちいかも」
「何の話だよ! ニーベルングがか!? 今回は小さそうだもんな!?」
「サブさーん、何言っちゃってんのー? あんなフロアの屋根低そうな建物に収まっちゃうニーベルングなんていないっしょー? 現実を見てって……ああっ! あの窓から誰か見てるぅっ!」
「うわあああああ! 無理無理無理無理無理無理! すいませんごめんなさいもう二度としません! 窓とかあぁぁ……窓ぉ……窓? ……全部カーテンついてるじゃないか。リュカアアア、やぁぁぁめぇぇろぉぉぉよぉぉぉぉぉ!」
 手遅れだ。リュカは湿った地面の上でころげまわって酸欠状態である。仰向けになって地面を三度たたく。誰に降参しているのか。一方サブローは恐怖と自己嫌悪で心が折れたらしい、四つん這いになったまま動かない。
「……リュカ」
流石にサクヤも諭さざるを得ない。
「すいませっ……いやでも、隊長っ……サブさん、置いて行った方が良く、ない?」
息も絶え絶えのリュカの提案は内容としては一理ある。サブローは思案顔のサクヤの視界に躍り出てきて鬼気迫る勢いでいやいやを繰り返した。
「サクヤ隊長……後生ですから俺一人置いていくのだけは勘弁してください。ニーベルングなら、ニーベルングならじゃんじゃんばりばりじゃんじゃんばりばり狩りますから……!」
「そんなに出ないと思うけどなあ」
「え、どっちの話?」
「どっちとかねえって言ってるだろぉぉがあああ!」
再び涙を流しながら笑い果てるリュカ。暇だ暇だとアピールした甲斐あってか、ここにきて一気に遊び要素が目白押しである。今回はなのか、今回もなのか、とかく八番隊の緊張の糸というやつはたるみきっている。
「ひとまず入ってみないことには始まらないな……。みんな作戦の主旨を忘れないように、気を引き締めていこう」
 返事だけは良かったが、皆玄関の扉をくぐる頃にはアトラクションに入るとき特有の高揚感や期待感を垂れ流していた。入るなり感嘆や驚嘆をあげる面々を背景にして、ナギだけは未だに扉の前に突っ立って洋館の屋根付近を注視していた。それに気づいてシグが玄関前で立ち止まる。
「どうしたの」
「ん、何ていうか……。うまく説明できないんだけど、なんか変、じゃない? この家」
「まあ普通ではない」
「うーん、そういうことじゃなくて『家』としてなんか欠けてるっていうか、逆になんか無駄があるっていうか」
「よく分かんないな。違和感の正体が分からないなら注意して進むしかないよ」
一旦は納得してシグの後に続くナギだったが、玄関の扉をくぐる前にやはりもう一度見上げてしまう。この屋敷の違和感はおそらく古さではない。全ての苔や蔦をとっぱらったとして市内の荘厳美麗な邸宅のようにはならないだろう。何か根本的な部分が妙なのである。
 形ばかりの玄関ホールを中心として左右に廊下が伸びている。右の廊下に扉が三つ、左の廊下にも三つ、その奥に上がりの階段が見える。各出入り口を常に警戒しながら、二人一組で扉を開けていった。どの部屋にも共通していたのが埃かぶった調度品と簡素な机、その割に少ない椅子。本棚がある部屋もあったが、本自体が残っているものはひとつもなかった。
 一通り一階を探索し終えると、全員玄関ホールから階段に続く廊下の途中に集まって所狭しと円を組んだ。
「みんなはどう思った?」
上がり階段を見つめながらサクヤ。こういうときに真っ先に意見を述べるのはいつもシグだ。
「……リュカじゃないですが、いよいよ俺たちの範疇外って印象です。ここ、住宅とか別荘じゃないですよね」
「普通は一階にリビングだのダイニングだのがあるからな」
バルトも補足で参加する。一階にある六つの部屋は均一化された小奇麗な牢といった印象だった。今いる廊下にはこれでもかというほど窓があるのに、部屋の中には一切ない。ナギの持つ家に対する違和感は早々に皆に伝染することになった。
 サクヤは一度大きく唸って天を仰ぐ。
「気になることは五万とあるけど、僕らが調査すべきなのはあくまでニーベルングの鳴き声についてだ。それを念頭に置いた上で調査を続行しよう。ただし警戒レベルは最大限に」
各々異議なしとばかりに何度か頷く。
「ここからは分かれて探索する。シグには出入り口の見張りと屋敷周辺を任せる」
「了解」
「二階はバルトとリュカ、三階は僕とアンジェリカ、四階はナギ、マユリ、サブローの三人で。もしニーベルングを発見した場合は空砲後速やかに応戦。但し屋敷内での魔ガンの使用は極力控えてほしい。……破壊しちゃうからね」
「案外骨が折れるな。またどこそこに誘導ってことか」
「気に留める程度で構わない。いるとすればかなり小型のニーベルングだと思うから、僕やナギが撃たなくても何とかなるはずだ。ただ、もし部屋いっぱいに、ぎゅうぎゅうにでかいニーベルングが詰まってたとしたら……そのときは、玄関ホールに集まって対策を練ろう」
サクヤは至って真面目である。五メートル四方の部屋に箱詰め状態のニーベルング、意図は不明だがあり得ない話ではない。先日も時計塔の先端でオブジェ化しつつある訳の分からないニーベルングの対処にあたったばかりなのだから。
(二階の部屋全部がニーベルング祭りってこともなくはないか……)
広がる想像に唸り声をあげながら思案するサクヤ。彼らは自ら室内に? それとも新手の虐待なのか? それとも習性──
「サクヤ。ニーベルング以外のものが出た場合は? どうすればいい?」
ナギも至って真剣だ。サブローが顔面蒼白でびくついていようが、リュカが笑いを噴き出そうがお構いなし。
「え? ああ、何か気になるものを発見した場合ってことかい? そうだね、そのときは空砲二発で対処しよう」 
「なになに。ナギもひょっとして何か出るって感じちゃってる?」
「そういうわけじゃないけど。あり得ないとは言い切れないから」
リュカが面白半分、いや面白全部で擦り寄ってくるのを避けながらナギは淡々と返す。サブローは耳を塞いだ状態で謎の発声練習に勤しんでいた。
「……いやあ、ここ出ると思うよ、俺。隊長、そのときは空砲三発ね。サブさん聞いてる~? 三発撃つのよ~?」
「うるっせえな! 聞いてるよ! リュカお前帰ったら覚えてろよ……!」
温厚冷静なサブローを苛立たせることに限ってはリュカの右に出るものはない。そしてそのリュカを黙らせる手腕に至ってはバルトが一級である。
 ゴチン! ──鈍い、そして情けない音が響く。本日二度目のメリケンサック(勿論仕込んではいない)を脳天にくらってリュカは無言でうずくまった。
「そんじゃあ俺とリュカはこのまま二階を周る。サブローも両手に花なんだから、ちったぁ気合い入れろよ」
脳天を押さえたまま引きずられていくリュカ、サクヤの班分けはいつも様々な状況において適切である。バルトたちに続いて他の者たちも、細心の注意を払いながら振り分けられたフロアへ向かった。


 森の中の屋敷内、三階。一階とほぼ同じつくりで廊下が伸び、部屋が並ぶ。サクヤは自分で言いだしたはずの警戒心という言葉を、階段途中で放り投げてきたらしい。少なくともアンジェリカにはそう見えた。サクヤは閉め切られたドアのひとつひとつを実に無造作に開けていく。予想に反してどの部屋にもニーベルングはつまっていなかった。半ば残念そうに嘆息して、かび臭い室内に入る。
「この分だと二階も同じかしら?」
「たぶんね。何かの施設なんだろうけど……」
ほとんど空の整理棚と机の引き出しを物色する。アルバ教の経典が一冊、羽ペンが一本、動いていない置時計がひとつ。古い屋敷ならどこでもありそうなものが出てくるばかりだ。危険は無さそうなのでアンジェリカと手分けして各部屋を周ることにした。
「サクヤ隊長! ちょっと!」
隣り合った部屋にそれぞれ分かれた直後に肘を思いきりひかれる。片足でリズムをとりながらアンジェリカの指さす先を覗き込むと、次の瞬間には二人で顔を見合わせていた。その部屋の中央にある机にはレコードプレーヤーが残されていた。円盤が一枚、今の今までまわっていましたよとばかりに乗っている。実際そうなのかもしれない、ほとんど埃をかぶっていなかった。
「合唱同好会の練習施設っていうオチなら平和的でいいんだけどな」
冗談っぽく笑いながらサクヤはプレーヤーの針をとった。
「聴くんですか」
「内容によっては皆を集める必要があるかもしれないしね」
「素敵なゴスペルだといいんですけど」
そうは思えないから顔の筋肉がひきつってしまう。建物と調度品の古さと、このプレーヤーと円盤の時代はいかにもずれている。違和感の正体が露骨に顔を出したことに警戒心を抱かずにはいられなかった。針は静かに、レコードの上に乗せられる。刹那。
 オオォォォォォォオオオオオオオ……! ──犬の遠吠え、ではない。魑魅魍魎の嘆きの声でもない。確信を持っているくせにサクヤは再び針を戻して、ニーベルングの咆哮を再生した。興味津々に同じ行動を何度も繰り返す。その都度ニーベルングの雄叫びが室内に轟いた。
「あの、お気に入りのところ申し訳ないんですけど……そろそろ私、頭が変になりそう」
「ちょっと、ちょっと待って。この鳴き方……」
「サクヤ隊長……ついにニーベルング語まで手を広げたんですね……」
 連続再生十回目でようやく針が外された。サクヤは一人で思考を巡らせている。口元を手で覆うのは考え事をしているときの癖らしい、ナギがそんなことを言っていたのを思い出してアンジェリカは思わずサクヤの顔をのぞきこんだ。
「隊長ー? 私席外しましょうかー?」
「いや、ごめん。ちょっと考えがまとまらないな……思っていたよりまずい状況なのかもしれない」
「どういう意味です?」
「僕の記憶が正しければ、この鳴き方、リベンティーナのときとほとんど同じなんだ。つまり他のニーベルングを招集するための咆哮。洋館から聞こえるニーベルングの鳴き声っていうのはこれのことなんだろうけど……。録音にしろ再生にしろ、人の手が入らないと無理、だよね」
「……空砲撃ちます?」
「そうしよう、二発で」
アンジェリカが魔ガンを取り出した直後だった。
 パァン! ──少し遠くで空砲が鳴る。既に緊張していた二人の空気がここで更に張り詰める。
「ニーベルング!? おそらく四階、ナギたちです!」
 パァン! ──言うが早いか二発目が轟いた。ということはニーベルングそのものではないらしい、切羽詰まったのが台無しだ。判別しがたい間隔にアンジェリカが青筋を浮かべる。ほっとしたのも束の間、予想外の三発目が鳴り響いた。
「……幽霊?」
「そんなわけないでしょう、でも何かあったのは確かです。レコードの件は一旦置いて合流しましょう」
 廊下を走っていると踊り場にシグの姿が見えた。空砲を聞いて玄関から突っ走って来たらしい、一瞬だけこちらに視線を移して階段を駆け上がっていく。サクヤとアンジェリカもすぐにその後を追った。
「サブローさん!」
 四階の廊下に出て真っ先に目に入ったのは、中央付近で楽しそうに万歳をするサブローの背中だった。楽しそうというのは先行したイメージの話で、実際彼が置かれた状況は絶体絶命という非常に分かりやすいものだった。両手を挙げたサブローよりも更に前方に数名の人影が見える。
「先住民がいたのか……」
呟くシグの横には先に到着していたバルトとリュカ。サクヤとアンジェリカもすぐに合流を果たした。見ただけで分かるのは、サブローがサンドイッチ状態である時点で完全にこちら側は不利だということだ。相手方は何か銃器を構えているようだが、それがハンドガンなのか魔ガンなのかここからでは判断できない。いずれにせよこちらからは手出しできない。今撃てばサブローごと廊下が吹っ飛ぶ。そんなことは全員が承知しているはずだがリュカはしびれを切らして懐に右手をいれた。
「どこの馬鹿か知らねーけど、先手必勝じゃねえの? サブさん避けて天井あたり一発撃てば……」
「駄目だ。魔ガンは使うな」
間髪いれずサクヤが制する。珍しく語気を強めたのはシグやバルトに対する牽制でもあった。
「使うなって、じゃどうすんのっ。相手銃こっち向けてんのよ? 正当防衛ってやつでしょーよ!」
「わけは後で説明する。とにかく“彼ら”相手に魔ガンは使えない。……ナギとマユリは……?」
「分からねぇな、俺たちが着いたときには既にこの状態が出来上ってた。まぁサブローが丸腰お手挙げ状態ってことは、とっつかまったんだろ。……ドジ踏んだな」
バルトが苦虫をつぶしたように顔を歪める。
「で、どうするよ隊長。睨みあってても埒が明かないどころか、こっちが不利な状況は変わらねぇ。策はあるのか」
「策は無い、というより一旦退いて情報整理する必要がある。……サブローは五十メートル何秒だったっけ」
「そういうの記録してるのはナギなんで分かりませんよ。劇的に遅けりゃ体に穴が空くだけの話です」
 指示を待たずして、シグは懐から通常のハンドガンを引き抜いた。サクヤの回りくどい言い方は今に限ってはシグを苛立たせるものだった。いとも簡単に隊員全員を窮地に追いやってくれたサブローの迂闊さにも充分に腹が立っている。この期に及んで魔ガンを撃てない理由すら把握していないリュカなんかは論外だ。
「俺とバルトで弾幕を張ります。隊長とリュカはサブローさんの援護を」
「分かった。二階まで下りて全員窓から飛び下りるんだ。昼間使用したポイントまで退避する」
 各々口の中で返事を済ませる。合図はなかった。突如シグの狂ったような連射が始まり、絶え間ない銃声と硝煙の臭いが廊下に充満する。
「サブロー、横だ! 飛べ!」
舞いあがる埃と容赦の無い銃弾の雨を掻き分けるようにして、サブローはがむしゃらに窓を突き破って落ちて行った。きちんと受け身をとれば死にはしない高さだ。素人じゃないのだからそこまで面倒は見切れない。人影は応戦するでもなく、頭を低くして一番奥の部屋へ逃げて行った。シグとバルトの弾が切れるころには四階廊下には敵も味方もきれいさっぱりいなくなっていた。
「シグ、俺たちも退避するぞ。分かってるだろ。優先すべきは情報整理だ」
シグの胸の内を見透かしたようにバルトが先手を打ってきた。バルトは粗雑なようでいて隊員の心中の機微には誰より敏感だ。そのおせっかいも今は極端に鬱陶しく感じる。
「……分かってるよ。命令は“退避”だ」
棒立ちのバルトを追い越して、シグは階段を走り下りた。


 フォールバングの森の中腹、大きな“洞”を二つも持つブナの樹があった。視線よりも上、高い位置の洞は何かの鳥が営巣しているらしい、作戦終了後にじっくり観察して帰ろうと思っていたポイントだ。低い位置にある大きな洞の横にサクヤは腰を下ろした。ナギとマユリを除く八番隊の面々は皆、疲労困憊といった様子でよろよろと枯葉の絨毯の上にくずれこむ。
「サブロー、怪我は?」
「え、ああ無いです、掠り傷です」
四階から無我夢中で飛び降りたにしては、確かに生傷が少ない。受け身が上手いのか、運がいいだけか。
「じゃあ分かってる範囲で状況を説明してくれ」
「……屋根裏っていうか、隠し部屋があったんですよあの屋敷。四階の一番奥の部屋がそれに繋がってて、連中はその部屋に潜んでて俺たちの様子を伺ってたってわけです。それを迂闊にマユリが見つけちまったもんで……まあ後は芋づる式に」
マユリを盾にナギが、その二人を盾に自分が丸腰お手上げ状態を余儀なくされたということだろう。想像通りとは言え何とも不甲斐ない話である。
 シグは屋敷の外観を見たときのナギの印象を思い出していた。彼女が言っていた足りない部分とは五階であり、余計な部分とはそれをカモフラージュするための巨大な屋根だったのだ。もっと慎重に頭を働かせていれば気付けたのかもしれない。今さら悔やんでも後の祭りなのだが。
 紅一点になってしまったアンジェリカ、露骨に眉を潜める。
「その屋根裏にずっと潜んでたってこと? 何よ、盗賊かなんか……?」
「可能性はなくはない、けど彼らが持っていたのは魔ガンじゃないかと思う。憶測でこんなことを言うのはまずいんだけど、この場所でこんなふうに魔ガンを所持してニーベルングの咆哮を録音再生する連中に……心あたりが無いこともない」
「ひょっとして、今話題のニーベルング信仰団体……?」
 口にしたのはシグだったが、全員が頭の隅で考えていたことだった。
 ニーベルング崇拝を教義とする新興宗教はヘラ・インシデント以来徐々にその数を増やし、近年では各地に支部を構える大規模な団体も存在する。そのひとつが、彼らが話題に挙げた“レーヴァテイン”である。ニーベルングを神の遣い、あるいは神そのものとしてただ細々と崇てくれる分には一向に構わないのだが、件の団体はいわゆる過激派、反グングニルを教義に取り入れ度々妨害・暴力行為をはたらいている要注意組織だ。
「レーヴァテイン、か。良い噂は聞かねぇな。グングニル隊員を拉致ってるとか、裏ルートで魔ガンをかき集めてるとか……っておい」
「現在拉致されてる隊員が二名、隊長の見解が正しければ奴らが所持していたのは魔ガンで、屋根裏部屋に他にも仲間がいる可能性は高い。憶測とは言っても限りなく黒に近いグレーってかんじだね」
バルトとシグが揃って溜息をつく。面倒なことになった、というのが二人の共通認識だった。
 彼らはグングニル隊員であり、ニーベルング討伐を生業にしている。そして彼らが特別な訓練と特別な許可を得て使用しているこの“魔ガン”は当然対ニーベルング専用兵器であり対人に用いることを許可されていない。規約違反などという生易しいレベルではない重罪になる。サクヤが血相を変えてリュカを制したのはそういう理由からだ。
「過激派といっても一般市民だ、そもそも僕らには交戦権がない。下手に闘り合えば中傷の的になるだけだし、彼ら相手に魔ガンも使えない」
「何だ、どうすんだ。ほんとにお手上げじゃねえか」
片眉をあげて首を竦めるバルトに対して、サクヤは悪戯っぽく笑う。のんびり腰をあげて少し離れたところでこそこそ作業をしていたサブローに確認をとった。
「魔ガンが駄目でもすべての武力が封じられているというわけじゃないさ。八番隊の良いところは、隊員から魔ガンを差し引いてもただの人間にならないところだ」
 既に物理的な意味で魔ガンを差し引かれているサブロー、どこからどう見ても「ただの人(役立たず)」だが、最低限の仕込みは施していたらしい。サブローは奪われた自身の魔ガン「フライア」に盗聴器と発信機を仕掛けていた。親機のレーダーにはしっかりと座標が表示されている。
「なぁんだサブさん、やることはやってんじゃんっ」
「妙な言い方するな。とりあえずあっちの状況をある程度把握しとかないと動けないからな。隊長、いいですか」
サクヤが黙って頷くと、サブローの周りに隊員たちが寄り集まる。小型スピーカーから雑音混じりに人の会話が漏れてきた。主に喋っているのは穏やかな、いや穏やか過ぎて不快を誘うねっとりとした口調の男だ。
「サブローが接触した奴に声の主はいるかい」
「いえ、どいつでもないと思います。でもどっかで聞いたことあるような……」
そういえばという顔をして耳をそばだてる面々。無音の不気味な森は、こういう状況下では実にありがたいものだ。スピーカーからは朗読でもしているのかとつっこみたくなる抑揚のある声が流れつづける。
「分かった。俺、分かっちゃったわ。こいつ代表だよ、レーヴァテインの。この間ラジオでこのねばねばボイス垂れ流してた」
リュカがうんざり顔で立ちあがった。否定する要素はない、皆合点がいったように小槌をうつ。元々の性分なのか演説口調なのかは分からないが、とにかく一言一句が大げさだ。
「シスイ・ハルティアね。レーヴァテインのカリスマ代表。まだ若いし、そこそこの二枚目だって話じゃなかった?」
「知るかよっ。なんだ、そこそこの二枚目って。余計な情報を混ぜてくるな」
勢い余って強気に返したバルトだったが、アンジェリカの冷めた笑顔の上には青筋が浮いている。リュカやサブローには強いバルトもアンジェリカには頭が上がらないようだ。小さく「すみません」と呟いて口ごもった。
『それで、ニーベルングを集めて……? どうするの。ニーベルング園でも運営するつもり?』
「ナギだ」
ねっとりボイスを遮断するような形で、ナギの嘆息混じりの声が響いた。心なしかいつもより早口だ。シスイと思われる鼻で笑ったような吐息がかぶさる。魔ガン「フライア」は彼が持っているか、そうでないとしてもかなり近くにあるようだ。 
『私たちは、あなた方グングニルのようにニーベルングを捕えたり、ましてや傷つけたりなどしません。人類にとってそれは何の益ももたらさない。どうですか? あなたはニーベルングを狩りだして何年? ニーベルングによる強襲は減ってきましたか? ……答えはノーだ』
 シスイの言葉には迷いがない。サクヤは無意識に口元に手をあてていた。この男と自分とでは立場も行動も、ついでに足すと口調もまるで反対だ。それなのにどこか似たような論理の組み立てをする。言葉の端々にそれを感じることができる。もうしばらく黙って、彼の講釈に耳を傾けることにした。


 屋根裏という手狭なイメージとはほど遠い、屋敷の五階部分は四階までの古臭さが嘘のように美しく磨き上げられ、必要な調度品が揃えられていた。オレンジ色の柔らかな明かりの間接照明、小さめの窓がひとつ、装飾の夥しいティーテーブルが一軒、そこから少し離れた長椅子にナギは座っていた。マユリの姿は無い。後ろ手に縛られるという何とも古風な方法で拘束されているが、これが案外きつい。長いこともがいていたが縄が緩む気配は一向に無かった。
 目の前のテーブルには淹れたばかりの紅茶が二つ、そして魔ガンが三丁。ティーカップの一つに口をつけている端正な顔立ちの男がシスイだ。所作のひとつひとつに気品や優雅さがある。緩くひとつに結った腰まである長い髪はしなやかで、後ろ姿だけ見ると女性のようでもある。ただ華奢ではない。見た目だけで判断できる人物ではなさそうだった。
「ニーベルングを喚ぶための決まった鳴き声というものがあります。もっと細かく何のためにどこまでの範囲を招集するという風に鳴き方を分けるそうですが、我々が録音できたのは一種類だけです。目的は対話のため」
「……対話? ニーベルングと」
「想像もつきませんか。グングニルにとってニーベルングは害虫と同じですからね、発見次第息の根を止める。シンプルで分かりやすい、それなりに達成感もあり多くの人に喜んでもらえる。だから少しばかり矛盾や齟齬があっても目をつむっていたくなる。考えることを放棄したくなる」
「矛盾してるのはそっちでしょ。グングニルが嫌いなら何で魔ガンなんかをそんなに集めてるの。それはニーベルングを殺すための兵器よ」
「だからです。グングニルが天狗になっているのは、一重にこの魔ガンの開発技術と使用権利を独占できているからだ。あなた言いましたね、これは兵器だと。ニーベルングにしか効果がない? こうやって人に向ければその瞬間に対人兵器でしょう」
シスイはティーカップを持つのと同じような流れで、ごく自然に魔ガンの銃口をナギに向けた。微動だにしないままナギは息を呑んだ。この男は、魔ガンの扱いに慣れている。撃たれないと分かっていても冷や汗が背中を伝った。
「……失礼。あなたを脅かすつもりはありません。私は魔ガンも嫌いですよ、人が持つには過ぎた代物だ。こういうものがあるから、世界の頂点は人間だと錯覚したくもなる。ナギさん、あなたはどうです。この世界の頂点は我々人間だと思いますか?」
「宗教勧誘のつもり……なら無駄、ですよ」
 答えながら何かとてつもない違和感に駆られた。焦燥にも似た、通り過ぎてはいけない何かを見過ごした感覚。シスイは眉ひとつ動かさず穏やかな微笑を携えたままだ。
「単に世界の頂点は人間ではなかったと、認めてしまえばいいのです。ニーベルングという我々よりもはるかに高尚な、神格とも言うべき存在にきちんとその座を譲る。その上で共存する道を進む、それが我々人間に与えられた正しい選択肢です」
耳触りの良い言葉が並ぶ。しかしそれが本当に耳触りが良いだけの中身の無い言葉なのか、ナギには判断しかねた。共感してしまう自分もいる。過激派といわれるレーヴァテインの行動理念は、実はどの新興宗教より──グングニル機関よりも軸のぶれないものなのかもしれない。
「ナギさん」
シスイの唇が自分の名前の形に動く。それを目で追って、ようやく気がついた。
 私、この男には名乗っていないはず……──冷や汗が大量に背中を伝う。身分を証明するものは何ひとつ身につけていない。そもそもシスイは自分に触れてもいないのだから、あったとしても用を成してはいないはずだ。だとしたら初めから知っていて、理由があってマユリと部屋を分けられている──?
「あなたは人類で唯一、ニブルヘイムに住むことを許された人だ」
「は……?」
「その選ばれし資質で私たちを導いてもらいたい。いや、そうしてもらう必要がある。あなたは共存の要、人類を正しく導く巫女なのだから」


 フォールバングの森、ブナの木の下に座りこんだまま八番隊はただただ沈黙を守っていた。スピーカーからは未だに詩吟のようなシスイの講釈が流れている。サブローが意を決して勢いよく立ちあがった。
「なんか話がトリッキーな方向に爆走してたけど……なんだ、ニブルヘイム? ニーベルング王国ってことか?」
「さあな。その辺はレーヴァテインさんにきちっと寄進して教えてもらいな。俺にはわけのわからん屁理屈でナギを口説いてるようにしか聞こえなかったがな。……理屈がどうだろうと、ぶっとんでる連中だってことは確かだ、正攻法じゃまずいんじゃねえか」
話の途中から口をへの字に曲げていたバルト、傍聴を打ち切ったサブローに胸中で称賛を送る。耳の穴をほじりながら視線は未だに考察中のサクヤに向ける。今回はどうもテンポが良くないようだ。かといって自分に良い案があるというわけでもないから困る。待つしかないかと腹をくくった矢先。
 黙って弾込めをしていたシグが立ちあがる。
「俺がもう一度潜入して二人を救出に行きます。あっちが仕掛けてきたんだ、応戦できないなんて馬鹿げてる」
目が座っている。シスイの言動やらサクヤののんびりした対応に我慢の限界が来たらしい、シグは案外しびれを切らすのが早い上にこうなったら手がつけられない。皆が呆気にとられている中でいち早く我に返ったバルトが慌てて制した。
「待て待て待て待て待て、早まるなっ。おい、隊長……っ」
 サクヤは膝やブーツに着いた枯葉を落としながら、やはりゆっくりと立ちあがった。
「駄目だ。許可しない」
そして静かに諌める。シグは厳しい眼差しで次の言葉を待ったが、サクヤはそれきり口をつぐんでいる。
「あいつらは普通じゃない。殊グングニル相手だと、見せしめのためにあり得ないことまでやる。二人に何かあるのは、俺は嫌です。行かせて下さい」
「……シグ。二度は言わない」
「何でですか! 規定なんかいつも平気で破ってるくせに……! なんでよりによって今それにしがみつくんです? 今さら保身に走るなんてどうかしてる!」
「シグ! わきまえろ!」
バルトの怒声が飛ぶ。サクヤは顔色を変えず、シグがただイエスと言うのを待っているようだった。その無言の威圧を撥ねつけるように、シグも黙ったままサクヤを睨みつけた。
 意地の張り合いで一分が経過、折れたのはサクヤの方だった。
「……グングニルとレーヴァテインの関係は思ってるよりシビアなんだ。どちらも世論を味方につけようと躍起になってる。そんな中で八番隊が引き金になるようなことがあったら、今までのように僕個人への勧告だけじゃ済まない。……全員で西部戦線への異動願いを書くことになる」
 西部戦線、ニーベルングに占拠された形ばかりの防衛線。グングニル内ではタブーの一つとされるその単語に、場は一瞬凍りついた。八番隊の規定を破っての好き放題が許されているように見えるのは、一重にサクヤの手腕によるものだ。そんなことは隊員全員が知っている。今回のケースはその領分を越えるということなのだろう。
 シグは奥歯を噛みしめた。書けと言われれば西部戦線への異動願いくらい書くし、行けと言われれば、言ってさえくれれば一人でだって二人の救出に向かう。しかしサクヤが絶対にその手の命令をしないことも知っている。今にも走りだしそうな感情と、留まれと両脚で踏ん張る理性がシグの中で巨大なジレンマとなって渦巻いていた。
 そんな折、晴れていた空が急に翳る。思わず顔をあげた面々、視界を悠々と横切って行った例のアレの姿に、鳩が豆鉄砲をくったような顔になる。今回もなかなか立派な羽を持つニーベルングのご登場である。屋敷の方角で好戦的な雄叫びが何度か轟いた。
「隊長。流石にアレ相手では魔ガンなしだと我々は『ただの人』です」
丸腰のサブローが半分涙目で肩を竦める。そんな彼とは対照的に、サクヤはニーベルングの姿に光明を見出した。今回ばかりは奴は最強の助っ人かもしれない。
「いや、好機だ。便乗しよう」
「は?」
先刻の一触即発ムードもどこへやら、サクヤとシグは揃って機敏に魔ガンのチェックを始めた。ニーベルングが屋敷の方へ飛んで行ったのは明白、おそらくレコードの咆哮に呼び寄せられてやってきたのだろう。
「なんてことだ。やはりこの森にはニーベルングが潜んでいたんだな。屋敷を襲撃してるようだ。全員で包囲して、できるだけ派手にやっつけよう」
サクヤがいきなりミュージカルの台詞でも読むように状況説明を始める。棒読みで。
「そうですね。屋敷は四階建て、できれば屋根付近に追いやって集中砲火を浴びせたいところです。そう言えば今日は調子が悪いので、結構ガンガン外すかもしれません」
シグも合わせたつもりなのだろう、素知らぬ顔で「五階を爆撃」発言。彼に言わせればそれは全てたまたま行われるらしい。偶然に偶然が重なってミルフィーユ状になった結果、ニーベルングに当てようと思った弾がほとんど全て五階付近に着弾する予定である。
 一番肝を冷やしていたバルトが、くっくと忍び笑いをこぼす。
「こっちはニーベルングと交戦中。流れ弾に当たっても責任は持てないっと」
「いや、流石にそれはまずいよバルト。バルトとリュカは極力いつも通り応戦してくれ。ニーベルングには申し訳ないけど、なるべくだらだら長引かせてほしい」
「隊長、私は?」
「アンジェリカとサブローはナギとマユリの救出を優先、僕はどちらにも対応できるようにシグの攻撃後に屋根から応戦する。対象は……あ! そうだ大事なことを忘れてた!」
作戦指示が軌道に乗って来たところで自ら腰を折るサクヤ。神妙な顔のまま数秒固まる。
「ミミズク……森だから。ミミズクにしよう! 決まりだ! 今回の討伐対象は“ミミズク”、八番隊の仕事にしては時間がかかる予定! 各自作戦の本質を肝に命じて行動してくれ、散開!」
 小気味の良い返事の後隊員たちは森を駆ける。先刻しっぽを巻いて逃げてきた洋館に向かって、ある者は鼻唄混じりに。ある者は魔ガンのセーフティーコックでリズムをとりながら。


「今回もでっかいじゃないの~。相手にとって不足なしってねー!」
 リュカの「ヴェルゼ」はバーストレベルの高い魔ガンだ。サクヤ、ナギ同様小型のニーベルングであれば一撃で致命傷を負わせることも可能な威力がある。ただしそれはあくまで数値上の話だ。実践ではニーベルングは縦横無尽に飛び回る上、賢い者は防御態勢もとるから一発で撃沈させるのは到底無理だ。
「ごちゃごちゃ言ってないで、いい塩梅で当てろ。……っていう細かい調整はお前には無理か」
「バルトだってそんなに当たんないだろー! 俺は普段通り撃ってればだいたい手足に当たるようになってんのっ、だから普段通りでいいのっ」
表面積の広い、例の屋根付近を旋回し続けるニーベルング“ミミズク”。図体の割に機動性に長けているようで、リュカの渾身の一撃を踊るように華麗にかわす。
「あれー……っかしいなあー……」
「どけ、俺が一発──」
「バルト、リュカ、どいて。中身あぶりだす」
シグが二丁の魔ガンを素早くコッキング、構えたかと思うとほとんど狙いを定めず撃って撃って撃って撃って撃ちまくる。一発一発微妙に照準をずらして五階の壁をまんべんなく爆破した。さながら人力ガトリングだ。威力は低めだからフロア倒壊には至らない。シグが宣言したように中身に恐怖心を植え付ける程度だろう、それで十分だ。
「グングニル……! どうなってんだよ、あいつら撃ってきたぞ! 一般人には攻撃しないんじゃないのか!?」
「気でも触れたんだろう! 避難しようっ、このままじゃ殺される!」
「ニーベルングはどうするんだよぉっ。あんなにお怒りに……これじゃあ対話が……」
 屋根裏の窓は全て割った。そこからレーヴァテインの構成員と思われる市民の声が次々と漏れてくる。シグならこの窓を通して中にいる標的を仕留めることは可能だ。数値上の話ではない。混乱し不規則に逃げ惑う一人一人を狙い撃つことも、シグにとってはさほど難しいことではない。
(あんなのにいちいち構ってたら金がいくらあっても足りないだろ)
魔ガンの弾は高い。原料であるラインタイト自体が希少価値が高い上、特殊な加工に莫大な技術料が上乗せされる。シグが連射した十発でこの屋敷くらいは買える額の金が爆音と共にぶっとんでいったことになる。
 シグは最後に一発、空に向かって空砲を撃ち放った。それを合図代わりにサクヤが外壁を伝ってずたぼろになった屋根に降り立つ。少し離れた位置で旋回していたミミズクに向けて魔ガンを構えた。
「サクヤ隊長! 窓!」
シグの攻撃でただの窓枠となった穴、その内側から体をねじこませて脱出しようと試みる人影。サクヤも思わずミミズクから目を逸らしそちらに銃口を向けた。撃つつもりは無論ない。条件反射と言えばそれまでだったが、這い出てきた人影はサクヤと目が合った瞬間情けなく眉尻を下げた。眼鏡の奥の瞳が涙に滲む。
「ひ、ひどいよぉ~隊長ぉ! 確かにドジ踏んだけど、いきなりそんな極刑だなんてぇぇぇ」
「ご、ごめん。反射的に……」
安堵と驚愕が入り混じった複雑な笑みが漏れた。上半身だけ飛び出してきたマユリの手をとって引き抜く。混乱に乗じてうまく逃げだしてきたようだ、残念ながらその手に魔ガンは無い。
「うっわ、攻撃されてるーって思ったけどコイツが原因か。今回もデカイっすねー」
「落ち着いてないで下に行ってシグたちと合流してくれ。ナギは一緒じゃないんだな?」
「うん、ナギちゃんだけなんかちょっと偉そう? な感じの人に連れてかれちゃって……あー! 魔ガン! あたしのノルニルぅぅぅぅ!」
シグたちが絶賛応戦中の最中にまったり落ち着いていたかと思えば、手ぶらな自分に今さら気がついて発狂、頭を抱えて懺悔したり祈ったり忙しい。こんな状況なのにサクヤの口からは苦笑がもれてしまった。
「僕が行く。ナギと全員分の魔ガン、ちゃんと助けてくるから」
「うわあああ! 隊長がかっこよすぎるううううう! 大好きですぅぅ隊長、愛してるぅぅぅ!」
何でもいいから早く安全な場所に移動してほしいのだが、マユリは指を組んで目の前にいる神様(サクヤ)を号泣して拝み倒している。ちなみにマユリが本当に愛しているのはサクヤではなく魔ガンである。
「何やってんだマユリ! 邪魔で仕方ねぇ! さっさと下りて来いボケ、タコ、メガネ!」
下ではリュカが喚き散らしているのを受けて、マユリはフグ口を作りながらもようやく降下してくれた。五階から、直に。「とうっ」という簡素な掛け声を残して。
「うわああ! 何やってんだあいつ! 馬鹿かぁっ!」
リュカが絶叫して駆けつけるも、マユリは屋敷内で見つけた簡易パラシュートを開いて美しく着地する。使ってみたかったらしい。恍惚の表情を浮かべて一人余韻に浸っていた。
「居たぞグングニル! 地上から撃ってる! あいつらにニーベルングを撃たせるな!」
 屋敷内からは勇敢な、あるいは無謀な戦士たちが湧いてでてきた。よくぞこの人数潜んでいたものだと感心してしまう、二十名弱のレーヴァテイン構成員、その中の数人は魔ガンを所持しシグたちめがけてまっしぐらだ。
「また面倒くせぇ展開に……」
上空のニーベルングと迫ってくるレーヴァテインを交互に見ながらバルトが後頭部を掻きむしる。優先すべきはどちらか、考えている内に撃たれた。
「バルト! 飛べ、死ぬぞ!」
シグが言うが早いか転がるように茂みの中にダイブした。バルトも訳も分からずそれに倣う、直後二人が元居た場所の地面が爆音と共に吹き飛んだ。地雷が埋まっていたわけではない。レーヴァテインの構成員が撃った弾が地面に着弾しただけのことだ。バルトは尻もちをついた状態で目を丸くした。視界が砂煙で黄土色に濁る。
「ど……どちくしょうがぁ! 素人の手出す代物じゃねーんだよ!」
「人に向けて撃たないでくださいって取説に書いてあるんだけどな。読まないのかな。それとも不正に入手したから説明書がついてなかったか」
シグは皮肉を漏らしながら、連中に向けてヴォータンを構えた。
「シグ、おいっ」
「ここまできたらもう正当防衛だ。グングニルと撃ち合いたいんだろ? ニーベルングよりこっちの蠅の方が百倍目障りだ……!」


 何度となく轟く爆発音と地鳴り、そして揺れる屋敷。おそらくニーベルングと八番隊が交戦しているのだろうが、それにしてはやけに手際が悪い。自分がここで無様に捕らわれていることと無関係とは思えないからやるせなさが募った。
 ナギとシスイだけが残る五階の一室。今にもくずれそうな勢いで攻撃されているのに、シスイは少しも動揺を見せない。小刻みに揺れるティーカップの方がよほどこの場にふさわしい反応である気がした。
「あなたは逃げなくていいの……?」
「私ですか? まだその段階までは時間があります。さっきの魔ガンの攻撃も、どう考えてもバーストレベルの低い威嚇という感じでした」
「よくご存じ」
皮肉を言ったつもりだったが、シスイは嬉しそうに微笑んだ。
「それに、本題をまだお話していませんでしたから」
ナギが胸中で身構えたのを見透かして、シスイはまた穏やかな笑みを作った。安心させるためだったのかもしれないが、それがひどく不気味だった。
「あなたとは随分昔に一度きり、とある特殊な場所でお会いして以来です。……特殊な状況といった方が正しいかもしれません」
「人違いじゃないですか。私はあなたのことをレーヴァテインの代表ということくらいしか知らない」
「私もですよ。今のナギさんについては、ほとんど何も知らないと言っていい。声も今日初めて聞きました。声が出るようになったという事実を知れただけでも大変喜ばしい」
 ナギの中で、一度大きく心臓が跳ね上がった。
「……は……?」
耳鳴りがする。遠くで、近くで金属を引っ掻いているようなとんでもなく不快な音が脳内に響き渡る。警告音なのかもしれない。これ以上、この男の言葉に耳を傾けるなという本能からの警告。
「あなたが私のことを覚えていないのは仕方ありません。生きるために必要な措置だったのでしょうから。しかしもうその段階は終わった。考えてみてください、あなたの存在は全人類が求めているもの、世界に還元すべきチカラだ。何故あなただけがそのチカラを持つのか、偶然か、必然か、その謎が解明すればこの世界の混沌は解消される」
「言っている意味が、分からない」
「逃げるのですか?」
 一定の距離を保って会話をしていたはずが、いつの間にか目の前まで詰め寄られていた。この男は良くも悪くも人の心を揺さぶることに長けているのだろう。理解はしていても対処ができない。シスイの言葉と自分の鼓動がたたみかけるようにナギの頭に鳴り響いていた。
「あなたはもう充分に逃げた。この上まだ猶予が必要ですか。恐怖? 欺瞞? いずれにせよ自己犠牲精神が欠落していると言わざるを得ない。確かなことは、あなたが巫女として選ばれたということ。それを自覚すべきだ」
「なるほど。あなた方の言う巫女っていうのは生贄と同義みたいですね」
 暗示でもかけているようにスローモーションで発せられていた言葉の中に、突如としてあっけらかんとした感想が乱入してきた。扉の前にサクヤが立っていた。よりにもよって魔ガンの銃口をシスイに向けて。
「サクヤ・スタンフォード中尉、ですか。御高名はかねがね、うかがっていますよ」
サクヤは聞いているのかいないのか無反応を貫いた。一瞬だけナギに視線を送って、その様子の不自然さに僅かに眉を潜める。
「彼女に何を?」
「何も。手足は拘束させてもらいました。ゆっくり話がしたかったので、その点だけご了解いただけ──」
「十秒待つ。彼女から離れろ」
不躾に言葉を遮られたことにシスイは目を丸くしている。のんびりと肩を竦めている間にも、サクヤは問答無用にカウントダウンを続ける。
「我々はニーベルングとの共存の可能性を探っています。中尉の思想はグングニルよりは我々レーヴァテインに近いものだと聞いています。話をすれば分かりあえると思うのですが」
「僕もそう思っている。だからもう一度だけ言う。“彼女から離れろ”」
そのフレーズだけを強調した。言いながら手元ではセーフティを解除している。どういうつもりなのか、ナギでさえサクヤの行動の真意が読めず固唾を呑んだ。
 サクヤの魔ガン「ジークフリート」を今ここでぶっ放せば、間違いなくフロアごと粉々になる。知っている者ならまさかこの場で撃ちはしないだろうと高をくくることができる。できるはずだがナギは確信が持てずにいた。寧ろ逆の可能性の方が信頼度を増してきている。
「やれやれ……本当にどなたもエゴイストだ」
シスイがナギから一歩距離をとったその瞬間──サクヤは狙いを定めて引き金を引いた。高をくくっていたのはシスイの方だったらしい、瞳孔が開いたまま凝固した彼の横を、目を背けて歯を食いしばっていたナギの斜め上を、ジークフリートから放たれた弾が通り過ぎていった。
そして窓の外で口内いっぱいにニブルを含んでいたニーベルングに見事に命中する。花火が弾けたような轟音と光の中、巨大な翼竜が墜落していく一部始終をナギは訳も分からず眺めていた。そう、訳が分からないことだらけだ。混乱した思考を整理する間もない。
 サクヤは当事者たちが放心しているこの機に乗じて、てきぱきとナギの拘束を解く。
「本当に大丈夫?」
「へ、あ、うん? 大丈夫。ありがとう。えっと……」
「話は後だ。ひとまず下の皆と合流しよう」
 シスイは、炎を纏い喘ぎながら墜ちていくニーベルングを無機質な瞳で見送っていた。小さな窓に切り取られた小さな空に、無数の火の子が舞いあがる。視界はどこか幻想的だったが、鼻をつく肉の焦げる臭いと熱風が生々しい現実をつなぎとめている。
 ナギは部屋の入り口に立ち、一瞬だけ振り返るとシスイの眼を見た。燃えるニーベルングを眺めてはいるが、憐みでも敬いでもない空虚な目だ。視線に気づいてシスイもこちらを見たが、去っていくナギにも、サクヤにも執着していないように見える。不敵に笑っていた。
「私は特に急いでいるわけではありません。いずれ、そう遠くない日にあなたはレーヴァテインの門をたたくことになるでしょう。あなたが望む望まないに関わらず、世界はそういう方向に動いている」
「……ナギ、行こう」
サクヤが背中を押すので何も言わずそれに従った。五階部分も四階も、シグの煽りのおかげか
人っ子一人残っていない。二階の踊り場で、ほとんど出番もなく待機していたサブローとアンジェリカ、そして合流してきたシグと鉢合わせした。シグに限って言えば、何故か不機嫌そうだ。
「あれ、下のレーヴァテインは?」
「あれっ、て……上から焼きミミズクを落としてきたのはサクヤ隊長でしょう。戦意喪失、解散しましたよ。せっかくこないだ伝授してもらった“必殺・目で殺す”を試してる最中だったのに」
 無自覚の良いとこどりは、なかなか腹立たしい。下で気を遣いながら奮闘していた自分たちが馬鹿みたいである。シグは冗談という風でもなく顔を背けて嘆息した。
「あははっ、試したの? それは見たかったな。僕よりシグの方がそういうのは向いてるのかもしれないね」
 よく言う──ナギの開いた口が塞がらない。自分の隊の、それも隊長に魔ガンで撃ち殺されると思ったのはグングニルに入隊以来さっきが初めてだ。
「何ですそれ、嬉しくない……。それより、そっちのお嬢さんは五体満足なんですか。うすらぼんやりしてるけど、ねっとりボイス漬けで脳みそ揺れてるんじゃないの」
 姿を見た途端言いたい放題だ。揃ってドジを踏んだサブローもマユリも、一足先にシグの嫌味の洗礼を受けたのだろうと思うと気の毒だ。サクヤだけは何故か小さく笑っている。
「ご迷惑をおかけしましたぁー……」
「そう思うならのんびりしてないでさっさと下りてきなよ。事後処理、報告、補佐官殿のメイン業務が待ってんだからさ。っていうか隊長、ミミズクまだ燃えてますよ。消火活動」
最後の方は振り向きざまに言い捨てて、さっさと階段を下っていくシグ。ナギは言い返すこともかなわずフグ口をつくってとぼとぼと後に続いた。
「まだ笑ってる」
不満のはけ口が見当たらないので、とりあえず後ろでにこにこしているサクヤに当たってみる。
「ごめん。シグもまだまだだなぁと思って」
「? もう意味がわかんない。シスイといいサクヤといい……もうちょっと具体的にしゃべってほしい」
 思い出して少しだけ気分が悪くなる。巫女だのニブルヘイムだの、世界に還元すべきチカラ? ──冷静に考えてみると気持ちの悪い単語ばかりだ。思いきりかぶりを振る。サクヤはそ
れを見て何かを察したらしい、もう微笑していなかった。
「国家としての、あるいは世界としての“ニブルヘイム”が存在するかどうかは現段階では断言できないよ。空の亀裂からニーベルングが出てくるのは事実だけど、それは“ニブルヘイム”の存在の根拠にはなりえない」
「グングニルは……間違ってると、思う?」
「考えることをやめなければいい。それは僕らにもできることだ」
 サクヤは穏やかに言った。肯定も否定もしなかった。グングニルはシスイの言うとおり矛盾も齟齬も含んだ組織だ、そして現状社会から一番必要とされる組織でもある。
 考えることをやめたくはない。でも考えた先に見えるものが、望んだ結論で無かったら? ──サクヤならどうするのだろう。
 答えが欲しくて顔をあげた。そこにはいつも通りの微笑を携えたサクヤがいた。

episode iii 家畜に首輪を与えてはならない

 久しぶりに夢を見た。
暗い、暗い、広いのか狭いのかも分からない、ただ真っ暗な空間にうずくまって座っている。しかし私はその場所をよく知っているような気もするのだ。だからどうしなければならないのかも何となく分かる。一言もしゃべらず息を殺し、目を閉じ、耳を塞いで死体のように静かにじっと待てばいい。今までもこれからもそれで良いはずだ。
 だけどこれだけはよく思い出せない。──私は一体、何を待っていたんだろう。


 *


 中央区の第二主都、グラスハイム市の全景を見下ろせる高台のそのまた上に、対ニーベルング機関(グングニル)の本部がある。魔ガンの管理開発を担う整備塔、本部所属の小隊の執務室や室内訓練場のある演習塔二つ、医務室、図書室、食事室、ついでに娯楽室まで完備した隊員宿舎塔三つが、司令部のある主塔を取り囲むように配置されている。
 その主塔にあるグラント少佐の執務室に、サクヤは早朝から呼びつけられた。少佐は一番隊隊長と、本部所属の小隊すべての統括責任者を兼任している。各塔に執務室を持つ彼だが小隊への司令は概ねこの主塔で言い渡す。
「……なんだその顔は。何か不明点があるか」
 次の作戦概要を言い渡された結果、少佐が受け流せないほど露骨にサクヤは間の抜けた顔を晒すことになった。
「はあ。不明点といいますか……そこは確か、随分前に居住放棄した地区では」
少佐の机の上に申し訳程度に広げられた地図、やけにざっくり丸がつけられている箇所に視線を落とす。中部、ヨトゥン地区は二―ンベルングの基地化が進行している現在の「最前線」である。提示された地域はその先、例の「西部戦線」に心なしか食い込んでいるように見えるのだが。
「それが何かね」
そうどっしりと居直られると何も言えない。食い下がっても意味がないどころか寧ろ逆効果だろう、反論はしないことにした。が、少佐はそんなサクヤの胸中を的確に読んだ。
「いいか、我々の目的はニーベルングの『殲滅』だ。人がいようがいまいが関係はない。ニーベルングがのさばっているところへ行って、粛々とそれらを片づけてくる。今さらその作戦内容に何の疑問がある」
「いえ、ありません」
「であればさっさと出動したまえ。能力に見合った活躍を期待している」
 サクヤは短い返事をして執務室を辞去した。廊下を歩きながら思いきり溜息をつこうとした矢先に、少佐の執務室の前に立った人影を目にし吸いこんだ息をそのまま呑みこむ。
(まるで伏魔殿だな……ここは)
 元帥の右腕ともいわれるメイガス大佐がノックの直後に室内に入っていく。今回の作戦立案にはおそらくタカ派の彼が関わっている。それが知れているからといって──執務室に入る大佐の姿を見送って──どうすることもできないというのが実情だ。
 今度こそ小さく溜息をついて、サクヤは重苦しい回廊を八番隊執務室に向かって早足に進んだ。


 第二防衛ラインに向かう貨物列車に便乗して二時間、八番隊は大陸中部のヨトゥン地区へやってきた。かつての第一防衛ライン(西部戦線)に隣接するヨトゥン地区の二割は、既にニーベルングの基地と化している。今回八番隊が赴いたのは、その二割に該当するかしないかという瀬戸際の地区だ。目指すのはイーヴェルの街──現在は、そういう名前の無人の廃墟群に過ぎないが、かつては農業の盛んな比較的活気ある街だったようだ。一年前、ニーベルングの大襲撃を受けてここも壊滅している。
 第二防衛ラインから街外れまでの移動手段は徒歩しかないから、今回もいつものように緊張感無くてくてく連なって歩いていた。
「眠そう」
 定期的にあくびを漏らすシグ、その瞬間をとらえたナギが下から覗きこんできた。
「昨日あんまり寝てない」
「知ってる。遅くにどっか出掛けてたでしょ。非番の日の生活リズムがめちゃくちゃ……」
あくびの名残の涙目のまま、シグはあきれ顔のナギを見つめ返した。
「また俺のストーカーしてる……」
「そうじゃなくて心配してる」
軽くからかったつもりだったが、ナギは乗ってこなかった。
 シグの知る限りでは、ナギはいつも誰かの心配をしている。こう言うと極度の心配性のように聴こえてしまうが、隊員全員のことを細かく気にかけているのは確かだ。満遍なく、平等に、分け隔てなく八番隊の精神面を支えてくれる。それがシグには時に鬱陶しく感じられるのだが、顔に出すと五倍面倒なのでポーカーフェイスで乗りきる。サクヤのように愛想よく「大丈夫だよ」などとは口が裂けても言えない。
「気にしすぎ。作戦に支障は出ないから」
作戦、と口にしてから無性に気持ち悪さを覚えた。何をどう解釈しても今回の司令はレーヴァテインとの交戦の件に関する当てこすりだ。西部戦線送りとまではいかなくても、かなり近いところまでわざわざ緊急でない討伐に派遣される。大変露骨で嫌味な処置ではないか。
「殲滅って言われてもな。何をもってミッションコンプリートとするかが謎すぎ」
独り言のつもりで呟いたのだが、これにはバルトがくいついてきた。
「いいとこ二三体狩って、泊まると経費かかるから日暮れ切り上げで退散。要は真面目に従順に仕事をやりましたよってアピールをすればいいわけだ」
「更に言えば、グングニルが第一防衛ライン復帰のためにちゃんと動いてますよってアピールにもなる。こっちは世論向けだがな」
サブローも眼鏡を光らせて補足してくる。説明を求めたわけではないので、シグは生返事をしただけで話を広げようとはしなかった。
「それにしても静かだよな。建物があるのに完全な無人っていうのも、フォールバングとは別の意味で不気味というか」
 サブローの言うとおり、郊外であるからちらほらという感じではあるが住宅や商店がほとんど倒壊せずに残っている。作物はないが畑も。時折目に留まる主のいない三輪車や転がったままのボールなどがここで確かに生活していた人の、生き物の証のように思えて胸が痛んだ。
 そういう無機物たちをどこか別世界のモノのように眺めながら、リュカは堪え切れず、先頭を歩くサクヤを呼びとめた。黙っていることに疲れたわけでも、愚痴を言いたいわけでもない。ヨトゥンに来たからには一言でも二言でも話しておきたい事柄があった。サクヤもそれを待っていたように振り返る。
「隊長はここに来て、ひょっとしなくてもリュートのこと考えたりしちゃってる?」
とぼけたようにふるまうリュカに合わせて笑ってやりたかったが、サクヤはあえてふるまわなかった。
「……こんな郊外までやってきたとは思えないけどね。どういう風に戦ってどういう風に散っていったか……いや少し、違うかな。最期に何を見て何を思ったか、考えてるよ。ここに来なくてもたまに」
「うわ暗っ。そんなの考えても無駄っすよ、インテリぶっててもな~んも考えてない奴だったでしょ」
「そういうところが気が合ったんだろうなー」
「……それは、そうかも」
 リュカが話題にあげたのは彼の兄。グングニルきってのエリート部隊二番隊の隊長を務めた男で、サクヤの親友で、二年前このヨトゥン地区で隊ごと壊滅して死んだ。第二のヘラ・インシデントとも言われる想定外のニーベルングの大襲撃に対し、一個小隊で迎撃に出たのがリュカの兄・リュート率いる二番隊だった。そして鎮圧している。但し誰ひとりとして帰っては来なかった。
「サクヤ隊長はちょっとさ、いやかなり? リュートに似てると思うんだよね。頭いーのに変なとこ適当だったりぶっとんでたり。二番隊ってそんなのばっかだったの」
「うーん? どうかな、逆に八番隊に似てるような気はするけど……」
「じゃあやっぱり、変なのばっかじゃん」
 リュカが力なく笑う。こんな風にリュートの話ができるのは、グングニルではおそらくサクヤだけだ。皆が知っているのは「エリート部隊二番隊隊長、リュート・バークレイ」という英雄であり虚像である。二番隊壊滅から、リュートの死から二年が経った。最近はもう笑って話せる。
 昔話も交えながら歩いているといよいよイーヴェルの市街地が見えてきた。ぽつぽつと建っていた住宅が密集するようになり、広大だった畑の面積も小さくなる。小さな公園があり、教会があり、家々の前には花壇があった。そしてその予想外の光景に、まずはサクヤが目を見開いた。
「う、わ……何これ。なんかの花だよね……?」
次いでナギも。眼前に広がる異様な世界に口元を覆う。住宅の花壇にも、教会の片隅にも必ずと言っていいほど漆黒の花弁を持つ花が咲いていた。良く見ると葉や茎まで黒いものもある。風が吹くたびに首をもたげるように揺れ、静かに、厳かに、無人の廃墟に咲き乱れる。
 圧倒される隊員たちを尻目に、サクヤは花のひとつに顔を近づけてよくよく観察した。そして割に早い段階で気付く。彼はこの花を知っていた。大抵の植物の知識は大学の頃に頭にたたきこんだが、それとは違う意味でよく知っている。
「ユキスズカだ。見たことない色だけど」
「なにその意外性たっぷりのかわいい名前……。どこをどう見ても“ユキスズカ”って感じじゃないけど」
「いや、僕が知ってるのは白い花だよ。花弁もがくも、葉の形状も一致する。寒冷な高地に咲く季節を問わない花なんだけど……」
「黒いよそれ。真っ黒。こわいくらい」
花を見て心が和まないどころか鳥肌が立ったのは生まれて初めてだ。突然変異で一本生えちゃいましたというならまだしも、そこら中でゆらゆら揺れているからこの上なく不気味である。
 サクヤは口元に手を当てて何かを考え込んだ結果、意を決したように一株まるごとを掘り返した。あろうことか根まで黒い。絡みついた土を払い落しながら視線の位置まで掲げてまじまじと凝視する。このあたりの一連の行動を止める者は生憎八番隊にはいない。変人隊長が奇行に走るのはある意味で普通のことだ。心行くまで根っことのにらめっこを堪能させておくが吉である。
 しばらくは放置する予定だったが、サクヤが周辺の土掘りに精を出し始めたところで流石にナギが待ったをかけた。このまま放っておくと彼は平気で日暮れまで土いじりをしかねない。
「サクヤー、みんな待ってるよー? 興味があるのは分かるけど、ひとまずそのくらいに」
「ナギっ、見て!」
サクヤが気色満面で披露してきたのは、彼の手のひらの上で踊るミミズ。しかもでかい。あんたは小学生男子かという至極まっとうな突っ込みは何とか喉元で留めておいた。
「これだけ大きなミミズがいるってことは、土が健康な証拠だ。つまりニブル汚染されていないってことになる。じゃあなんで黒いユキスズカ草が咲くのかっていう──」
「サクヤ」
 口には出さないまでも、ナギの諭しかたは小学生男子に対するそれだった。熱弁を振るう、いや振るいかけたサクヤも一瞬で黙る。他の連中は少し離れた位置から二人のやりとりを見守っていた。この手の隊長あるあるは、ナギに丸投げするのが一番だというのが全員の共通認識である。
「はい、とりあえずその黒い花はしまいましょう。ミミズも戻す。今は優先すべきことが他にありますね? 作戦の本質を忘れないように」
いつしか八番隊の合言葉のようになったサクヤの決まり文句を、ナギが悪戯っぽく流用した。
「だね。一旦どこかでブリーフィングに入ろう。このままニーベルングと遭遇しないっていうのが一番困る」
気恥かしそうに微笑をこぼして、サクヤは黒い花をハンカチでくるむと大事そうに懐にしまった。さあ、作戦の本質とやらにようやく回帰かという矢先。
「……ナギ、どうしたの」
「わ、分からない。でも何か……いる、と思う」
 ナギは一人、自分の背後に魔ガンを向けていた。全身の毛が逆立つような恐怖感がある。振り向いて魔ガンを抜くほんの数秒の間に背中も脇も冷や汗で濡れた。ナギが注視する先にサクヤも視線をこらした。黒い花の揺れる、古い教会の入り口。
「ちょっと! 何? ニーベルング!?」
アンジェリカが。
「おい、紛らわしい行動はよせよ……またサブローがびびってんだろ」
バルトが。
「ナギちゃん探知機発動中? 総員要警戒せよ~」
マユリも、言うまでもなくサブローもリュカも気がつかない。感じないのならその方がきっと幸せだ。ナギの呼吸が乱れる。合流してきた中でシグだけが、ナギと同じように血相を変えて魔ガンを引き抜いた。
「何かいる! ……おいっ、言ってることが分かるなら出て来い! でなけりゃ撃つ!」
魔ガンを向けているということはニーベルングである可能性を視野にいれているということになるのだろうが、もしそうなら言葉が通じるとは思えない。逆に人間なら構えるのは魔ガンである必要はない。自分でも理屈に合わないことをしている自覚はあったが、腕を下ろす気にはなれなかった。
 やがて誰にも分かる確かな物音が響く。予想に反して、小動物が動くような微かな音だった。教会の入り口を中途半端に閉ざしていた両開き扉が、ゆっくりゆっくり内側から開かれた。
「冗談、だろ」
リュカが半笑いで後ずさった。そういう反応ができただけマシな方かもしれない。他は皆、ただただ自身の眼を疑って息を呑むしかなかった。
 扉の前に子どもが立っていた。骨と皮しかないような痩せこけた体に薄汚れた服と伸びきった髪が不釣り合いに乗っかっている。
 シグは教会入り口から目を背けて魔ガンを下ろした。対してナギは、視線も腕も動かせないでいた。子どもの顔全体を覆い尽くすような前髪、その隙間からのぞく生気の無い眼に自由を奪われているかのようだった。
「ナギ……下げるんだ。ニーベルングじゃない。人だよ」
サクヤが静かに諭す。見たままを敢えて言葉にして説明しなければ心が理解しない。それでも動けずにいるナギの前に出て、突きだされていた腕を上から押し下げた。
「アンジェリカ、あの子を頼めるかな。ナギとマユリも一緒に。分かってると思うけど刺激しないように」
「お任せを」
「僕らはこのままここで話すから、大丈夫なようなら呼んでくれ」
「分かりました。そちらも何かあれば呼んでください。ナギは……大丈夫?」
「うん、ごめん。大丈夫」
ナギは自分の動作を確認するように、しっかりと魔ガンのセーフティロックをかけた。神経質すぎたのかもしれない。結果自分の行動で隊を煽ってしまった。他の二人には見えないように小さく嘆息したつもりが、アンジェリカから即座にでこピンを食らう。
「あんたが気付かなかったら誰も気付かなかったかも。そう考えたらお手柄じゃないの?」
「まあね。そうしとこうかな」
「そうしときなさいよ。あの子が死ぬほど恐がってるとしたらナギにじゃなくて、シグにだから」
冗談にならない冗談だが思わず笑ってしまう。しかしそれも自ら中断してしまった。
 教会の入り口で、少年は微動だにせず突っ立ったままだった。死ぬほど怯えているようには見えない。そしてナギたちの存在を歓迎しているようにも見えない。こちらを見ているのに何も見ていないし、そこに居るのに居ないようでもあった。アンジェリカも同じように思ったのかもしれない、一瞬目を伏せると長い睫毛が影を落とした。
「行くわよ。私たちは私たちのやるべきことを」
 アンジェリカに続いて、ナギとマユリも教会へ向けて歩き始めた。
「さて。物凄いことになったが」
 女性陣が教会に入ったのを見届けて、バルトは砂埃の舞う乾いた地面にお構いなしに胡坐をかいた。それに倣って他の連中ものろのろと座りだす。サクヤも口元に手をあてたままスローモーションで着座。
「完全避難区域だよな。リアルすぎる亡霊じゃない限り、あの子はここで一人で生き残ってしまった、っていう解釈でいいのか」
「サブさんの口から亡霊って言葉が出たことに俺は感激してる」
「馬鹿か、茶化してる場合じゃないだろ……。考えてみろ、イーヴェルが墜ちたのはいつだ? ちょうと一年前? ……一年前からグングニルはあの子を放置してきたってことだぞ」
「あー、あれか。名誉挽回に来てまた踏むしかない地雷に囲まれてるパターン」
「何を他人事みたいに……」
サブローは頭を抱えてうずくまった。二番手はバルト。どっかり座って落ち着き払っているのは、哀しいかなこういう状況に耐性ができてしまっているからだ。諦めと言ってもいいが。
「生き残った、なんてのはそもそもあり得んのか。孤児かなんかが流れてきて、たまたまここに住み着いたってのは考えられないか」
「十キロも歩けばウトガルドがあるのに? あそこはグングニルの支給が届いてるし、そういう施設だってある」
シグは立ったままでバルトの考えを一蹴。バルトはそれもそうかとあっさり引き下がったが、シグは自分で言いながらどうにも腑に落ちない点を抱えていた。それを口にしていいかどうか、実は少し前から迷っている。
「ってなるとあれだよなー。まるで“ヘラの生き残り”みたいになっちゃってるってことだよなー。なんだかんだで壊滅したとこには、こんな感じで生き残りが……って、何。俺なんかまずいこと言ってる?」
 自分の発言に一切迷いを抱かない男、リュカ・バークレイ。言ってから吟味する(残念ながら手遅れの場合が多い)のが彼のやり方だ。シグの胸中と内容的にはほぼ同じことを、随分あほくさく紹介してくれた。シグは諸々の理由からくる嫌悪感の全てを、一発の嘆息に詰め込んで吐きだす。
「あっさり言ってくれるけどなあ……」
それ以上は口に出すまいと決めた。リュカだからというわけではない。問題の複雑さや深刻さをここで説いてみたところで、無駄な労力と時間を消費するだけだ。それらを多少なりとも理解している輩は先刻からずっと小さく唸りっぱなしである。サクヤも無論、その部類だ。
「正直、状況は限りなく近いかもしれない。実質僕らが考えなければならない問題も一致している。あの子は保護する、これはいいね? ……ただ、公式にか非公式にかは少し考える必要がある。人としては迷いたくない選択なんだけど」
苦笑するサクヤ、皆が同意を示す中でシグだけは少し違うことを考えていた。サクヤの中では揺らがない部分にシグはもうひとつの選択肢を設けている。これについては口にするかどうか全く迷わない。シグは皆と同じように頷いてサクヤに同意を示した。
 結局その後しばらくは無意味ともいえるシミュレーションを繰り返した。何を話しても憶測の域を出ないから、どうしてもそこに自己の感慨みたいなものを足してしまう。画期的な結論も出せないままに沈黙の時間が長引くようになった。そこへようやく救いの手。教会の扉がぎこちなく開かれた。中からマユリが派遣されてくる。八番隊一ゆるいのがメッセンジャーということは、少年の懐柔は概ねうまくいっているというところか。
「どうだった」
学生の談合のように地べたで円になっていた男性陣、サクヤがいち早く立ち上がる。
「どうというかねー……。隊長? あの子、喋らないんだよ。喋れないのかもしれないけど。あと、たぶん眼が見えてない。……アンちゃん曰く、テンテンテイ? かニブルの影響かは分かんないって」
サクヤは座ったままの連中と顔を見合わせた。予定と違う。マユリの緩い口調で緩い報告を聞くはずが、どうにもそぐわない内容だ。アンジェリカはおそらく先天性と言ったのだろうが、もうそういうレベルの突っ込みが追い付かないほど状況が駆け足で悪化している。
「何か情報はないの」
「見た方が早いと思う。凄いんだよ教会の中さー、地下、シェルターになっててね。なんていうんだっけ、……カタコンベ? ってやつ。食糧とか最近まであったっぽいんだよね」
「……“イーヴェルの生き残り”説、いきなり超有力じゃん」
「見た方が早いんだろ、行こうぜ」
バルトが爺臭い掛け声とともに立ち上がる。その隣ではサブローが思い出したように考え込んでいた。
「おい、サブロー。聞いてたか?」
「うん? いや、どうしても考えちゃってさ。あんな子どもがたった一人生き残るってのは……どうなんだろうなって。幸運と呼べるのものなのかな」
「……やめとけ。そういうのは当事者以外が考えだしたらアウトだ。経験した者にしか分からない世界の観え方ってのがある。外野がどうこう判断するものじゃねえよ」
「そうなんだけど、さ」
バルトの言葉が重い。自分たちも少なからず、他人と共有できない特殊な経験をしてきている。それぞれにに、だ。だから彼の言い分は骨身にしみて分かるはずなのだが、言うほどさっぱり割り切れないのもまた事実だ。バルト自身も自らに言い聞かせているようだった。
 サクヤが教会の重々しい扉に手をかける。その瞬間に何かが脳裏をよぎったらしいマユリが小槌をうった。
「あ、それと。ナギちゃんダウンした」
「はあ?」
これにはシグが反応。内容もさることながら、どうしてこうマユリの優先事項はことごとくず
れているのか。サクヤも思わず扉に手をかけたまま一旦静止する。
「暗くて狭いところは駄目なんだって」
「なんだそれ初耳……閉所、いや暗所恐怖症ってやつ?」
ニーベルングは当然といえば当然だが、幽霊も爬虫類も害虫諸々全く恐がらない大自然系女子に恐いものがあるという事実が、皆には意外だったらしい。心配より驚きが先行した。
「状況によっては、あの子を保護してそのまま帰還っていうのも視野にいれておく必要があるか」
今回の作戦の本質を思い返すなら、できればそれは避けたい。ジレンマを抱えたままでサクヤはようやく手をかけたままだった扉を押し開いた。
 内部は思いのほか明るかった。大きな天窓から太陽の光がさんさんと降り注ぎ、礼拝堂を照らしていた。ただ羅列した長椅子や床板はおそろしく埃っぽく、中に入るやいなや黴臭い陰気な空気が鼻の粘膜をついた。中央にある説教台の位置が意図的にずらされている。足元に見える地下への階段が「カタコンベ」の入り口なのだろう。こちらからは明かりと呼べそうなものは一切もれていない。緊急時に救いを求めて下るはずの階段は、客観的には地獄への入り口のようにしか見えなかった。興味はあったが今は生き証人の方を優先する。
「アンジェリカ。その子、少し話せるかな」
入ってすぐに目に入ったのはアンジェリカと例の少年だ。説教台の横の長椅子に二人で腰掛けている。
「隊長ならまあ……大丈夫だと思いますけど。会話になるかどうかは」
「アンジェリカも居てくれた方がいい。それと、ナギは?」
アンジェリカはサクヤの後方、つまり入り口側を指さした。長椅子の最後尾、一番端にナギは置物のように座っている。
「サブローとリュカは周辺を見張ってくれ。バルトとマユリは二階から監視、シグはナギを頼む」
「は……俺ですか」
よりにもよって──指示を出したサクヤをはじめ各自機敏に行動を開始する中、シグは一歩も二歩も出遅れた。こういうときの適任であると思われるサクヤとアンジェリカが最重要参考人につきっきりなのだから仕方ない。視界の端で少年への質問が投げられているのを気にしつつ、シグはナギの隣に無言で腰掛けた。最初の言葉が見当たらない。いつも通りの直球ストライクでいくのがまずいことだけは何となく分かっているのだが。
「前回に続き役立たず過ぎてぶっちゃけ引く」
いきなりかなりの辛辣な言葉が飛び出した。シグが思わず眼を剥く。いやいやいやいや、自分はまだ一言も発していない。死人のような顔をしてナギが呟いたのだ。
「……とか思ってるでしょ、絶対」
「俺をどこまで人でなしだと思ってんの」
ナギは青い顔で悪戯っ子のように笑った。シグはしまったと思った。励ますとか元気づけるとか、とにかくそういうフォロー的な役割を期待してサクヤは自分に指示をしたのだろうがこれではまるで逆である。
「暗いの……とか、狭いのが駄目なわけ? それとも、ここ限定?」
シグの視線の先で、地下への穴がぽっかりと口を開けている。
「どっちも揃うと、かな。そういうところに自分が居ると、何か取り返しのつかないことが起こる気がして凄く、怖くなる。……古い教会は警戒してたんだけどな。シェルター代わりにしてるカタコンベが多いから」
「俺が問題だと思うのは──自覚があるのに、ナギがそれを誰にも知らせていなかったってとこじゃないの。隊長でもアンジェリカでも……別に俺でも、知ってれば防げた。一人で頑張りすぎ。マユリとかサブローさんとかもっと見習えば?」
つまり、自分の弱みは最大限周囲にアピールしておくという点でだ。
 シグは淡々と話しながら、途中で大きく嘆息した。これは自分に対してだ。偉そうに説教するつもりは毛頭無かったのだが、どうしても根拠のない「大丈夫」だとか「気にするな」だとかの常套句が出てこない。ナギはそんなシグの胸中を察して、申し訳なさそうに小さく笑いをこぼした。
「そうだね、気を付けないと。一人で何でもこなせるわけじゃないから、私たちはチームを組んでるんだもんね。そういうシグの弱味も把握しておこうと思うけど、何かある?」
「……探せばあるんじゃない。思いついたら、まぁ、報告するよ」
「それずるい……。あ、じゃあ一個質問。教会に来て思い出したんだけどシグってさ。どうせずっと寝てるくせに必ず日曜のミサに出るでしょ。あれって、何でなの? 単に習慣ってわけじゃないでしょ」
少しは調子が戻ったのだろうか、血の気の失せていた顔にナギらしい活発な表情が出る。何かをかなり期待しているようだが、シグは片眉をあげてその期待を粉砕した。
「いや別に、単に習慣。っていうか逆。ミサに行ってるんじゃなくて、寝に行ってる。俺が寝てるときにあっちが勝手にミサやりはじめる」
「素敵なご趣味をお持ちで……じゃなくて、何でよりによってわざわざ教会で寝るの……?」
「え? 何でって……」
シグにとっては思ってもみない質問だったらしい。間髪いれず応えようとして凝固した。本人が言うように習慣に特に理由などない。しかし傍から見たら特殊な習慣であることは確かだ。
「なんか、落ち着くから。ここだけがちゃんと綺麗な場所のような気がするから。……それだけ。特に意味なんかないよ」
「落ち着く、か。そういうものなのかな。私はなんか……逆なんだよね」
「興奮するってこと?」
「……馬鹿じゃないの」
半眼のシグよりも更に眼を座らせて、ナギは小さく掛け声をあげて立ち上がった。
 天窓から降り注ぐ太陽の光、それを反射するステンドグラス、ラインタイトを貼りめぐらせた神像、美しいと言えば美しい。穢れの無い神聖な場所であると言えばこの上ない場所なのだろう。しかしナギにはどうしても、単純にそう思えない何かがあった。カタコンベの闇がナギの不安や恐怖を具現化したかのように、視界の端に禍々しく存在している。しかしいつまでも怯えているわけにもいかない。説教台の傍に座りこんでいるサクヤたちのもとへ足を進める。
「ナギ、大丈夫なの」
「うん、まあ何とか。それよりどう? 何か分かった?」
かぶりを振るアンジェリカの横で、少年は微動だにせず床を見つめていた。単に俯いていたと言えばそれまでなのだが、声のする方へ顔をあげるだとかの積極的な動作が彼にはないようだった。誰が何を問おうが、あるいは自分にどんな形で触れようが、さほど気に留めていないように見える。
「サクヤ。提案があるんだけど」
「うん?」
「今回は、このままこの子を連れて引き上げられないかな。この子に今一番必要なことって、あったかい食事とあったかいベッドなんじゃないかと思う」
「そうだね。僕も、そう思うよ」
 ここは寒すぎる。いくつかの割れた窓からは絶えず隙間風が入ってくるし、地下のカタコンベは単純な外気の冷たさとは違う独特な冷気が充満している。唯一の希望の光のように見えるこの天窓からの光も、この少年には見えていないというのならなおさらのことだ。
 ナギはゆっくりとひざまずいて少年の鶏がらのような体を抱き寄せた。
「いろいろ質問攻めにしちゃってごめんね。ずっと一人で頑張ってきたんだもん、ゆっくり休みたいよね。しっかり休んで、体調を万全にして、そうしたら少しだけ話を聞かせて?」
少年からの返事は無い。頷くでもかぶりを振るでもない。その代わりに、ひどく弱々しい力でナギの体を抱き返す。それが少年が初めて見せたまともな反応だった。サクヤとアンジェリカが顔を見合わせる。
「ハグか。盲点だった」
惜しげもなく舌打ちするアンジェリカ、これはサクヤも苦笑いで制する。
「撤収しよう。シグ、アンジェリカ、皆に連絡を──」
 バンッ! ──招集するまでもなく、サブローとリュカがなだれ込んできた。劣化した扉を全く気遣うことなく開け放つ。アンジェリカが呆れかえって文句を言おうとしたのも束の間、リュカが入って来た時とは打って変わって丁寧に丁寧に扉を閉めた。
「どうした」
「まずいよ、囲まれてる。俺たちの目視だけで三体だ、たぶんもっと出てくる」
サブローの息が早くも上がっている。体力不足からではなく極度の緊張からだ。何が、に当たる肝心な情報はサブローの口から発せられなかったが、ここにいる誰もがその必要性を感じてはいなかった。
「三体、か」
「サクヤ隊長~上~上来て~! ヤバイかもよ~、見た方が絶対早いからっ」
マユリが階段の手すりから身を乗り出して大手を振っている。言われるまでもなく、サクヤは既に階段を二段飛ばしで駆けあがっていた。二階の小窓から覗いた先、ニーベルングが住宅屋根の上を旋回していた。それも二体。
「……五体」
「目視だ、当てにはならんぞ」
バルトは早くも魔ガンの装弾を確認していた。サクヤは直近の自分たちの行動パターンを模索、反芻しながら今度はゆっくりと下りてきた。最期の一段を踏むのと同時にあらかた方向性を定めて頷く。
「ナギ、本部に信号を打って最寄りの中隊に応援要請。どれだけかかるか分からないけど、その間に二体……いや、三体は確実に片づけよう」
「了解」
「ナギはそのまま、その子と教会に残ってくれ。シグは教会周辺の守備。残りは時間稼ぎもかねて撃って出る。ここを拠点としてバルト、マユリは西側、リュカ、サブローは北側、アンジェリカは僕の補佐を頼む」
「うえ~、了解」
マユリが苦虫をかみつぶしたような渋い顔で敬礼、それを見たバルトが顰めつらを晒す。
「うえ~はやめろ。傷つくっ」
「違うよぉ。バルトじゃなくてニーベルング。団体さんは嫌だなーって」
「俺は寧ろ相方に不服。リュカ、いいか? 当てろよ? 何の撹乱もパフォーマンスも一切いらないからな?」
リュカは気だるい生返事だけして自らの魔ガンの調整に集中していた。
 八番隊の誰にしても、サクヤが想定していた以上の動揺を見せる者はいなかった。それには少しだけ安堵してしまう。通常は一体のニーベルングに一個小隊で討伐にあたる。複数なら一個中隊で、それ以上となると既に通常の域を脱してしまっているが支部総動員という態勢をとる。いずれにせよ、今が八番隊単独で対応すべき状況でないのは確かだ。
「行こう。ただ、みんな無茶はしないでくれ。応援が到着するまで最低限やるべきことをやっておくだけだ。いいね?」
皆がしっかりと頷くのを確認して、サクヤは微笑んだ。
「それじゃ、各自散開。できるだけ無傷でまたここで会おう」
「隊長、だからそれ死亡フラグですって」
シグが笑いを噛みしめる。手元では二丁の魔ガンをコッキングしながら、視線は既に扉の先の光景を見越して研ぎ澄ませておく。といったふうに、かなり器用に独立した運動を同時並行させている。軽口をたたきながらも脳内ではまた別のことを考えているのだろう。
 サクヤが扉を開けた。たった数分前まで風の音だけしかしなかった死んだ街は、獣の雄叫びがあがる廃墟のジャングルと化していた。


 戦闘開始の狼煙はサクヤの魔ガン・ジークフリートから上がった。教会を出てすぐ前方、民家の陰に潜んでいた一体が悲鳴をあげながら長い首を上下左右に振りまわした。直撃したらしい、体中を勢いある炎が取り巻いている。花壇に踏み入って、昼間サクヤが採取していたどす黒い花を蹴散らしていた。
 それから各自持ち場に分かれて、それぞれの場所で魔ガンの轟音が響き渡るようになると教会に残っていたナギはテキパキと救援要請信号を送った。本部の指令室から中部支部へ連絡がいくまでそうかからないはずだ。問題は、各部署がどんなに迅速に動いたところで一個中隊規模の応援が到着するには一時間以上が要されるということだ。
「後は神のみぞ知る、か……」
 ナギは斜め上から見下ろしてくる神像を見上げた。人々が祈りを捧げるための神を模した白い像。中は石膏と少量のラインタイト、つまり空っぽだ。神や神の御使いが、この像をより代に降臨してくる、らしい。それも気まぐれに。イーヴェルが崩壊したとき、神は不在だったのだろう。そして今、この石膏像の中に神は宿っているのだろうか。
「真面目に祈ってもないのに、それは虫がよすぎるか」
埃かぶった神像に向けて、ナギは独りごちて自嘲の笑みを浮かべた。ここにはカタコンベに守られていた少年と、記憶にある中ではミサに参加もしたことない女と、先刻まで合わせればそのミサで爆睡する男が集っていただけだ。もちろん皆、特別神を冒涜するような真似はしないしそういう意識もない。ただこの石膏像を崇めても救われなかった経験を、皆それぞれの胸に抱えてしまっているというだけの話で。
 神像は天窓から降り注ぐ太陽の光を一身に浴びていた。ナギは照らされる神像を見つめ、少年はそのナギを見上げていた。戦闘が始まったことは察しているはずだが、不思議なことにカタコンベに逃げ込もうとはしない。ナギとしては助かる判断だった。
「もしニーベルングがここへ来ても君はじっとして椅子の下に隠れてて。大丈夫、こういう明るいところでならお姉ちゃんこう見えて、けっこう強いんだからっ」
精いっぱい笑って、大してない上腕二頭筋をひけらかした。少年の眼に見えてなくても別にそれでいい。彼はナギの方に顔をあげていたから、それだけで伝わるような気がした。この石膏像もそれくらいの気は利かせてくれるかもしれない。
『こちら北東側サブロー。大変珍しく、早々にリュカが一体やりました。どうぞ』
『大絶賛希望~! どうぞ!』
 通信機にサブローの冷めた声と、リュカの弾んだ声が入る。ナギは待った。誰か、大変に余裕と優しさと慈しみのある誰かがきっとこの通信に応えてくれるはずだ。そう思いながらまたもや神像を見上げてしまった。
『うるせえええ! くだらねぇ報告で通信乗っ取るんじゃねえよ! 場ぁ弁えろ馬鹿どもがあっ! こっちは! 二体! びゅんびゅん……びゅんびゅん……飛んでニブル吐いてますどうぞ!』
大変に余裕の無い、優しさと慈しみを戦闘中に投げ捨てたバルトが叫んでいる。最後の方は生々しい実況中継のようだ、やけにリズム感満載。
『バルト。監視塔から見える位置に煽ってくれ。二体まとめてこっちで何とかする』
『は? はあぁ? ちょ、隊長っ。これ以上こっちに集めないでください、相方私ですよ? 分かってます?』
『墜とすだけならジークフリートだけでやれるよ』
アンジェリカの奇声は、暗に「ナギの援護はないけど、そこんとこ分かってんのか」という主旨である。通信を通してこれでもかという嘆息を全隊員にお届けしてくれるアンジェリカ、お疲れ様というかご愁傷様というか。
 ナギは横目で少年を見ながら通信機を手に取った。アンジェリカと代われるならその方が良いのではないかと思ったからだ。しかしサクヤが彼女をここに留めたことには意味があったし、実際サクヤが想定していた最悪の状況に事態は少しずつ進んでいた。
『ナギ! いるよな! 戦闘準備はできてるか』
 シグの声が珍しく弾んでいた。リュカのように嬉しさからではない。話しながら二丁の魔ガンを連射しているらしく、彼の通信は爆音で聞きとりづらいものになっていた。
「できてる。どうぞ」
『隊長すいません、何体か教会方面に逃がしました。ナギに指示を』
「何体かって……、ちょっとシグ! 一人で何体相手してんの!?」
『うるさいな! さっき自分で言ったばっかだろ、自分の心配してくれ! こっちはもう後ろに構ってる余裕なんか一切ないんだよ!』
 ナギは二階に駆け上って入り口側にある窓から爆音のする方へ目を凝らした。砂煙がもくもくと立ち昇るばかりで視界が悪い。
『ナギ、二階入り口側に開閉式の小窓がある』
「今見てる」
シグとは対照的にサクヤの指示は静かな口調だった。
『そこからで構わないから応戦してくれ。君がやるべきことは、その場所に一切のニーベルングを入れないことだ。他のことはいい、頼めるね?』
「……もちろん」
ナギは小窓から銃口を突きだして、黒い吐息を吐きながら迫ってくるそれに照準を合わせた。形だけ守ってみても、シグやユリィ隊長のように一撃必中というわけにはいかないだろう。無茶はするなと言われたが、多少の無理と背伸びはしないと切り抜けられない状況にはなっているようだ。
(一撃で仕留める……)
そうでなければ「何体か」が寄り集まってしまう。砂煙が晴れたところを見計らって、ナギは静かに引き金を引いた。次の瞬間には教会前の広場で大爆発が起き、火だるまになったニーベルングが虫の息で横たわっているのが見えた。自画自賛している暇はない。火柱の立ち上がる後方から更に二体、巨大な羽を翻して合流してくるのが見えた。
「何体こそこそ隠れてたのよ……冗談じゃないっての」
 合流してきた二体は、炭になろうとしている仲間の死を悼むようにその場に留まった。
(チャンス!)
ナギの魔ガン・ブリュンヒルデなら一か所に固まった二体を同時に爆撃することは不可能ではない。狙いを定めて後は引き金を引くだけ、そういう段階でナギは射撃体勢を解除した。窓から一歩、また一歩身を引く。
 小窓の外の世界で、最初に仕留めた一体が消し炭になろうとしていた。それを見守るように二体が囲む。そして彼らが報せでもしたかのように一体、また一体と集まってくるではないか。
「な……んなの、この数」
知らぬ間に大量の汗が頬を伝って床に落ちていた。震える手で通信機のスイッチを入れる。
「なんか凄い数、集まってきてるんだけどみんな……生きてる、よね?」
『そっちの守備はシグだろ!? おい! 生きてんのかシグ、なだれ込んでるってよ!』
バルトの怒声にも反応がない。
「シグ……ちょっと冗談でしょ」
『なんだよシグ! とっとと応答しろって! 集中できねーってかこっちがやられるっ!』
『シグ!』
しまいにはサクヤまでが切羽詰まった声で叫んでいた。シグの通信端末からはもう魔ガンの連射音がしていない。その代わり古い扉を開く音と「うるせ……」という二日酔いのおっさんみたいなぼやきが小さく漏れる。ナギは一階にかけ下りた。音は通信機とこの教会の一階からと、同時にしていたからだ。
「シグ!」
「だから、うるさいんだって……。閃光弾使って耳が……」
魔ガンを握ったままの手で右耳を塞いで、シグはふらふらと教会内に退避してきた。
『無事なんだな?』
サクヤの端末からは未だに絶え間なく爆撃音が鳴っている。アンジェリカの悲鳴やニーベルングの絶叫がそこへ覆いかぶさって来た。
「すみません、勝手な判断で一旦退避しました。言っておきますけど教会の南側はもう手に負えないですよ」
『分かった。サブローたちと合流することはできるかい』
「可能です。サクヤ隊長、あの」
シグはちらりとナギを横目に入れて喉元まで出ていた言葉を呑みこんだ。サクヤも戦闘に集中しているようだから断りをいれてそのまま通信を切った。
「何、今の」
他人が見送る僅かな言動の変化も、ファインプレーで拾いにくるのがナギだ。知っていたのに迂闊だった。シグが応える前に、また別の通信が乱入してくる。
『西側バルト・マユリ組負傷です~。接近戦突入、バルト負傷したんでこそこそ隠れてます~。指示求む、どぞ』
『私が行くから現在地を教えてっ。隊長は!? どうします!? ここでぼっちで粘りますか? そろそろ食われますよ!』
アンジェリカが言葉を選ばなくなってきた。語気が強いのは爆発音だけのせいではない。やけに近くでニーベルングがギャアギャア鳴いている。
 シグはこちら側の音声が切れていることを確認してナギに向き直った。
「外、見たろ。討伐とかなんとかの次元じゃない。ここはもう完全に基地化してるんだよ、そこへ俺たちがのこのこ足を踏み入れた。まともにやり合えば全滅だ」
「そうならないために応援要請したんでしょ」
「それ、本気で言ってる?」
「どういう意味……」
「ナギはどこまでが“偶然”だと思ってんの。俺は“偶然”応援が来ない方に一票。サクヤ隊長もうっすらそう思ってるからサブローさんたちに退路を確保させてるんだろ」
 口ごもるしかできない。こういうとき、決まって信じたい方を無意識に、盲目的に選びとっている自分がいる。より正しい方を、より美しい方を、より倫理的な方を。それらが真実だった試しは数えるほどしかなかったにも関わらず、だ。
「とりあえず、俺もう行くから。この子、さ。隣の小部屋に移動させといた方がいいよ。ここ目立つから」
ナギは同意を示したものの動こうとはしなかった。仕方なくシグが少年の背中を押す。少年は抵抗することもなく案内されるままに歩いた。その後ろ姿が、従順すぎる奴隷のようにも見える。痩せ衰えた骨と皮だけの生き物は、物置小屋のような薄汚れた床板に躊躇なく座りこんだ。
「あのさあ……寒いとか、お腹すいたとか、そういうのなんかないの。ここお前んちじゃないだろ。うちに帰りたいとか家族に会いたいとか、なんでもいいんだけど」
少年はシグの突然の問いかけに、顔だけを声のする方へ上げた。伸びきった前髪の下で光のない瞳がどんよりと揺れる。
「お前、どうしたい」
 少年はその声のする方へ、ひたすら顔を上げ続けた。答えを持っていたからではない。寧ろその逆で、シグが問う当たり前の内容が異国の言葉のように聞こえたからだ。
「どう……って、なに……? どう、すればいい、の?」
シグは一瞬だけ目を見開いたが、驚愕を極力表に出さないように努めた。少年が絞り出した声は甲高く、年齢よりもずっと幼く聞こえた。
「それはお前が決めていいことだろ」
シグは懐に手を入れ「選択肢」を取り出すと、静かに彼の足元に置いた。


 援軍要請してから、どのくらいの時が経っただろう。この街は、とりわけこの教会の中は時間の流れが狂っているように感じる。戦闘に入ってから半日以上経ったようにも思えるし、まだほんの数十分のようにも思える。確かなのは、グングニルに入隊してから今までで一番の討伐数を記録していることくらいだ。小窓から応戦しているだけで三体仕留めた。その内一体が粘りに粘ってナギ目指して飛んできた挙句、力一杯ニブルを吐きだしてくれたものだから流石に応える。接近戦で辛いのは、撃った魔ガンの爆撃に自分も少なからず巻きこまれるところだ。
 「バン」という不躾な音で、ナギはそのときが来たのを知った。二階の踊り場で一度深呼吸。扉の前にニーベルングがひしめき合っていた。巨体の首が詰まっているのかなかなか中に入ろうとはしない。
「誰が入っていいって言った? ここはあんたたちが土足で踏み入っていい場所じゃない」
ブリュンヒルデの固い引き金を引く。首だけを覗かせていたニーベルングはその瞬間に弾けとび、爆風と煙だけが礼拝堂の中になだれ込んできた。
(暑い……)
滴る汗をぬぐう間もなく、ナギは二発目、三発目を入り口扉に撃ち放った。舞い上がった砂煙で標的は見えない。ただそこにいるだろうという予測で撃てば、次々と悲鳴が上がる。八番隊に転属してからこっち、ここまで雑に戦うのは初めてだ。サクヤはいつも的確に作戦と指示をくれたし、それはいつもどこか整然としていた。
 五発目。扉周辺の壁が崩壊する音で、奇しくも集中を取り戻す。
(やばい!)
怒り狂ったニーベルングが低い体勢でナギめがけて突進してきた。鰐のように大きく口を開けてニブルを吐く、その口内にほとんど零距離で一発を撃ち放った。くぐもった破裂音、ワンテンポ遅れての爆風に煽られてナギは後方に倒れこんだ。暑さと疲労で意識が朦朧とする。
 パンッ──魔ガンの轟音とニーベルングの悲鳴に慣れ過ぎた耳に、そのシンプルな音はひどく異質に聞こえた。だからその音が単純な銃声であることに考えが及ぶまで、数秒を要した。
(え……銃声、って何で)
思考が鈍い。暑さと疲労と耳鳴りと、とにかくそういうもののせいだと思った。
 新手のニーベルングが侵入してこないことを横目に確認しながら、ナギは銃声のした方へ歩を進めた。隣室の扉を開ける瞬間には、おそらく自分でも全てを察していたと思う。それでも目の当たりにした光景を理解できず、ただ茫然とした。
 少年は埃だらけの床にうつ伏せていた。頭から血を流して、左手に拳銃を握って。ナギはぼんやりとした意識で、ああ彼は左利きだったのかなんてどうでもいいことを考えていた。そしてどうしてこうなったのかは分からずに、その冷たくなった体を眺めた。見慣れた銃だった。普段はジャケットの内ポケットにねじ込まれている、シグのハンドガン。
 思考が止まる。今自分がどこに居て、何のために何をして、どうして血だまりの床を見つめているのか、答えが出ているはずのもの全てに疑問がわいてきた。
(合流……した方がいいのかな)
 遥か遠くの方でガラスの割れる音がした。未だに割れてない窓があったのか、などとまたどうでも良いことが頭をよぎる。振り向いた先で、一際図体のでかいニーベルングが首をもたげていた。天窓を突き破って降って来た悪魔は、夕陽に照らされてどこか神々しくもある。
 反射的にあがるはずの腕が石のように重かった。狙いを定めたら躊躇わず撃つ、引き金は静かに引く──反芻したのは脳内だけで、体は全く動いてくれなかった。
 ギャアアアアア! ──撃ってもいないのに爆発音と熱風、そしてニーベルングの悲鳴が轟いた。
「ナギッ!」
珍しく切羽詰まった声でサクヤが乱入してくる。首だの羽だの突起物を振りまわしてのたうちまわるニーベルング、神像が倒れ、ステンドグラスが弾け、整然と並んでいた長椅子の木片が辺りに飛び散った。
 サクヤは動じず次弾を放つ。いくら暴れていようが的が大きいので、冷静さを欠かなければまず外すことはない。装甲が厚いタイプなのか、直撃を受けてもほとんど炎が上がらなかった。その代わりに肉のこげた臭いとニブルの独特な刺激臭が広がる。
「大丈夫かい? ちょっと離れて……」
小走りに駆け寄って来たサクヤの眼に、開け放したままの小部屋の光景が映った。優先順位はすぐに決まる。今は隣で呻いている瀕死のニーベルングにとどめを刺すことの方が先決だ。サクヤは躊躇なく、ニーベルングの口内に魔ガンを突っ込んで引き金を引いた。
 ナギはその一部始終を全てぼんやりと眺めていた。臨場感が無い。サクヤがこういう戦い方をするのも初めて見るような気さえした。
「ごめん……」
それだけ言うのがやっとだ。サクヤは何も言わない。ナギを見ても、少年の亡骸を見ても一度頷いたきりだ。
「……しっかりするんだ。君までそんなでどうする」
 部隊長らしい一言だと思った。その通りだ。切り替えて今後の補佐に全力を投じるべきである。
「……援軍は」
頭の中で考えていたこととは全く別の台詞が口をついて出た。サクヤは黙ってかぶりを振った。
「私たちは……切られたんだね」
「今はよそう。どこかで足止めをくってるのかもしれないし、悲観的になってもはじまらないよ」
「何それ。どこまでおめでたいのよ、あなたは……! 笑って全滅しろって言うの? これが偶然でも何でもないって分かってて? ……私はもう撃てない! 誰も守れないよ!」
 限界まで張り詰めていた虚勢の糸が音を立てて切れた。より正しい方を、より美しい方を、より倫理的な方を──サクヤはいつもそれらの幻想を滅茶苦茶な論理と行動で真実にしてくれる。それなのに今回に限って何故そうじゃないのか、そんな理不尽で自分勝手な理屈が胸中でどろどろと渦巻いていた。一方頭の隅では、これが無意味なやつ当たりだと分かってもいる。分かっているからなおさら──目を伏せた反動で涙がこぼれた。
 その涙をせき止めるように優しく、頬に何かが触れた。それがサクヤの左手だと認識した次の瞬間には唇が触れていた。ただただ優しく触れるサクヤの口づけ、その数秒はナギの混乱した頭の中を真っ白にするには十分すぎるほどの長い時間だった。時が一瞬だけ止まったようにも思えた。思考も、呼吸も、意思に反してこみ上げていた涙も魔法のように止まる。
 唇がゆっくり離れ、ナギが思い出したように瞬きをすると、睫毛に溜まっていた涙の雫がサクヤの手の甲にぽつりと落ちた。いつの間にか抱き寄せられている。
「大丈夫、全滅なんてしないさ。生きて帰ろう。僕が殿を引き受ける。その間は君が隊を引っ張るんだ、いいね?」
「え、あ、はい。了解」
耳元でサクヤの穏やかな声が響く。訳も分からずいつのもの癖で返事をした。サクヤは微笑んで、少女をあやすかのようにナギの頭を優しく撫でた。不思議なことにそれだけで、何とかなるような気がしてきてしまう。醜く弱くその上単純な自分に呆れ果てると、一番シンプルな答えで満足できるようになるらしい。彼の言うとおりひとまず、生きて帰ろう。
 サクヤは大穴となった天窓に向けて信号弾を発射した。撤退合図の赤い狼煙が、緩やかに弧を描きながら空へ空へとのぼっていく。それを見送りながら通信機に向けて声を張り上げた。
「八番隊はこれより戦場を放棄、撤退する! 全隊、身の安全を最優先に北北東に退路をとれ!」
『了解。サブロー以下三名先陣切ります』
「ナギです。バルトたちの退路を開きます。合流ポイントを教えてください」
『アンジェよ。管制塔の真下にトラップ張ってあるからそこで構わない?』
「了解、すぐ向かいます」 
 ナギはいつものように毅然とした声で応じた。置かれた状況も考えたことも、おそらくそう変わらないはずの八番隊メンバーは誰ひとりとして諦めてなどいない。だから何とかなる。サクヤ・スタンフォード率いるグングニル小隊第八番隊は、グングニル最強のエリート(くずれ)の集まりなのだから。
「サクヤは……後から、来るんだよね……?」
「さっき言った通りだよ。僕はこの辺りをあらかた片づけてから最後に合流する。心配しなくても──」
「心配は、してない。合流地点でみんなと待ってる」
あまりにもきっぱり言われたせいか、それはそれで微妙に不服そうなサクヤ。ナギがきびきびと補弾する様子を苦笑を漏らしながら見守った。

 
 管制塔で予定通りアンジェリカたちと合流、バルトは負傷といっても利き腕とは逆の左肩から手首にかけて大火傷を負ったくらいで、最悪多勢のニーベルングに囲まれた場合は応戦可能な状態だった。というのはバルトとの合流直後にナギが抱いた感想であって、当人と手当てにあたったアンジェリカは割と重症のつもりでいる。
「面目ねぇ。情けねぇ限りだよな、女三人に守られて撤退ってのは」
「またそういう古臭い発言する。わけわかんないこと言ってないで、自分で体重支えなよ。アンジェつぶれちゃうでしょ」
「お、おう……」
ナギの一喝に返す言葉もなく押し黙るバルト。その巨体を支えながらアンジェリカは堪えていた笑いを噴き出していた。小さくなっているバルトも面白いが、泣きはらした目で普段通りを装うナギもなかなかの痛い産物だ。涙の理由は聞かなかった。話したければナギが自分からそうしてくるだろうと思ったし、何より今はそれどころではないというのが本音だ。
 索敵はマユリがやってくれる。いつになく眼鏡を光らせてぬかりのない良い仕事っぷりだ。
「ナギちゃーーーん! 1時の方向、イーグル級!」
「先制しよう。マユリ、援護お願い」
「あいよっ」
ナギのサイドテールとマユリのポニーテールが文字通りぴょんぴょん揺れるのを、バルトは生温かい目で見ていた。気分は娘を見守る父親、と決め込みたかったのだが視線の先には一切の容赦なく魔ガンをぶっ放す鬼神さながらの二人がいる。ガンナーズハイとでもいうのか、マユリが嬉々として魔ガンを撃つのはいつものこととして、今日のナギはいつもに増して集中しているようだった。威力に頼らず、精密にニーベルングの頭部を狙う。
「なんか、あったんだよなあ、あれは。隊長もナギにいろいろ要求しすぎじゃねえのか」
「それバルトが気をもむ必要全くないから。それより重い。何よっかかろうとしてんの、殴るわよ」
またも押し黙るバルト。彼の仕事はとにかく黙って自らの体重を支えることくらいだ。
 言い合いをするくらいしかやることのないバルトとアンジェリカの眼前で、また一体ニーベルングが沈んだ。どこにそんな元気が備蓄されていたのか、マユリは無邪気にガッツポーズ。そして誰に促されずともまた眼球を光らせて索敵に戻る。
 その後も彼女の的確な索敵と、ナギの柔軟な判断で四人は指定された退路まで辿り着くことができた。建物らしき残骸は数えるほどになり、開けた野原に整備されたとは言い難い農道が曲がりくねって通っている。これをひたすら辿れば、ヨトゥン地区の主要都市にあたるウトガルドへ続く街道へ出られるはずだ。
 膝下ほどまで伸びた雑草に埋もれるように、先着三名が疲労困憊といった様子で座りこんでいた。息を切らして歩いてくるナギたちに気づいてサブローが力なく両手を振る。シグものっそりと立ち上がった。リュカは座っているというより、帰宅後のベッドの上といった感じでくたばっている。静かにしてくれるならその方がいい。サブローが心底安心した、そんな深い嘆息で出迎えてくれた。
「良かったよ、とりあえず合流できて。バルトも。……隊長は?」
ナギが勇ましく先陣を切ってきたから、サブローは彼女に向かって労いの言葉をかけた。が、ナギはそんなサブローを素通りして脇目もふらず目的の場所を目指す。無言のままシグの胸座を掴んで思いきり平手打ちをした。魔ガンのそれとは違う、凄まじい音が静寂を裂いて鳴り響く。全員が唖然とする中、シグだけは分かっていたように少しだけ眉をしかめた。
「どうしてあんなこと!」
ナギはもう押さえなかった。懐からシグの銃を取り出して投げつけた。銃身と引き金に、小さな手の赤黒い血の跡がはっきりと残っている。シグはおもむろにその銃を拾い上げた。
「……死んだのか、あいつ」
「シグ、お前まさか」
成り行きを見守っていたサブローも、思わず口を挟む。ここまで状況証拠を揃えられたら察するしかないではないか。何より、ナギたちの中に少年がいないことが全てを物語っている。
「あいつは生きたくて生きてたんじゃない。手段を知らなかっただけだ」
「手段……? 手段って何!? それであの子に銃を渡したってこと!? こうなるの分かってて!」
堪え切れず、ナギは再びシグの胸座を掴んだ。今度はそこにサブローが割って入る。
「よせ、ナギ! 俺たちだって考えたことだっ。シグが悪いわけじゃない、ナギだって分かってるだろ」
「分かりたくないよ! ……助けたかった、エゴでも何でもいいから助けてあげたかった。なんでよ……シグ、なんで」
シグの襟を両手で握りしめたまま、怒りと悔しさで溢れてくる涙を止めることができなかった。ここに辿り着くまでかろうじてつなぎ止めていた平静がシグの姿を、声を聞いた瞬間にもろくも崩れ去った。
「は? ちょっと、ちょっとちょっと。何? なんでナギ泣いてんの? サブさん……? 何やらかしちゃってんの、何うちのナギ泣かしてくれちゃってんのコラ」
状況をよく理解していない状態で、リュカ参戦。とりあえず一番うろたえているサブローが、よく分からないが諸悪の根源なのだろうと判断した。たぶん間違ってない。いや、間違ってなどいない!
「ありえねえ! サブさんの分際で!」
「違う! よく見ろシグだ! たぶんこいつが全部悪い!」
「は? 怒らせたのは俺ですけど……泣かせたのはサブローさんでしょ」
「待てよっ、おかしいだろ!? なんで俺が混ぜられてんだよ、とばっちりだろう? 仲裁に入ってんだよ俺はっ」
「いや、だから。仲裁に入った結果、サブさんが俺を庇うような発言をするからナギが傷ついてるんでしょ?」
シグはこれが正論だと言わんばかりに極端に片眉を上げて対抗した。リュカはよく状況を掴めていないので、この期に及んでも「それっぽい」ものに賛同する。男三人がナギを囲んで論点のずれた口論を繰り広げる締まりの無い喧噪の中、ナギの滲んだ視界にもうひとつの人影が映る。
「……サクヤ?」
ナギの呟きで、喚き散らしていた男どもがぴたりと黙る。農道を辿って、老人のように弱々しい足取りで歩いてくる人影。こちらに気づいてやはり弱々しく手を振った。
「サクヤ隊長~! いぇ~い、生きてるか~い?」
リュカの興味はナギからサクヤへ瞬時に移る。満面の笑みで両手を振ると、サクヤもそれに応えて彼らしい笑顔をこぼした。
「なんだよ隊長、ぼろぼろじゃねえか」
「たいちょー! おかえりー!」
一人では立っていられないバルトからどつかれる。加減を知らないマユリからジャンプで抱きつかれる。一週間ほどどこかでサバイバルしてきたような煤けた肌と焦げた制服を見て、アンジェリカが悲鳴をあげ、バルトを放って怪我の有無を丹念にチェックし始める。
 サクヤは自己申告通り、ニーベルングが隊員を追わないように教会周辺に敢えて留まってしばらく戦闘を続けた。そして限界をきちんと見極めて、こうして無事(とは言い難いが)に帰還した。隊員からの手荒な労いの儀式を一通り終えると、問題児二人の方へやってきた。すなわち、涙目のナギとそのナギに襟元をぐっしゃぐしゃにされているシグだ。
「そうだ隊長! シグの野郎がっ。」
先手必勝とばかりにサブロー。それを受けてリュカも思い出したようにサブローを指さした。
「隊長、あいつです。ぼく見てました。キサラギ准尉が話をややこしくしたと思われます」
「……その点については、俺も同意」
シグもなんだかんだでサブローも巻きこんでおきたいようだ。
 サクヤは当然何がなんだかわからずに後ろ手に頭をかく。思っていたより緊迫していないことに拍子抜けし、ひとまずナギの出方を伺うことにした。
「目、赤いよ」
「……違う。これは、その、さっきでっかい虫が突撃してきて、もう問題ないから」
もう少しまともな言い訳はなかったものだろうか、自分でもそう思うが思いつかなかったものは仕方がない。サクヤもそれを採用してくれるようだ。何度か適当に頷いて──
「……え!?」
目を剥いて驚いた。え?とは。一体全体その反応は何なのか。
「眼球に直接ダイブしてきたってこと? それってニブル汚染してるんじゃないかな……アンジェリカ、すぐ洗浄──」
サクヤの混乱した心配は、あえなく中途半端に終わることになる。彼は高速で振り返り、そのまま電池が切れたように草むらに倒れこんだ。
「ちょっと! サクヤ隊長っ」
「ほんと、いい感じに空気を読まない人だな……」
派手にダウンしたサクヤに駆け寄って青ざめるアンジェリカと、悠長に構えるサブロー。外傷はないのだから後者の反応の方が適当な気がするが。
「頭部を強打してきたんじゃないかしら……。なんかまた、馬鹿な発言が際立ってた……」
「いや、アンジェリカ。それ通常仕様」
今度は二人揃って神妙な面持ちで頷き合う。いずれにしろ体を張って殿を務めた部隊長にする仕打ちではない。全てを終えて泥のように眠るサクヤ、彼の寝顔に毒気を抜かれてナギは深々と長い溜息をついた。


 *


 その日の夢はいつもと少しだけ違った。
 暗く深い闇の中、私たちは何かを待っていた。そして私は温かな光を、あの子は冷たい銃を渡された。どこに違いがあったのだろう。私たちは、それぞれに望んだものを手に入れたのだろうか。
 暗く深い闇の中、目を閉じると渇いた銃声が蘇った。

episode iv 弓張月の夜

 アルバ暦837年、詩の月1日──カレンダーの日付を目にしてナギは小さく溜息をついた。八番隊がイーヴェルから帰還して三日経つ。経ってしまったというべきなのかもしれない、日にちを気にしている余裕も無いほどにこの三日は慌ただしく過ぎた。
 サクヤは作戦終了と同時に電池が切れたように倒れ、大げさに言えば昏睡状態というやつで本部まで運ばれた。医務室長に言わせれば「三日間睡眠無しの労働に相当する肉体疲労と精神疲労」らしく、とにかく寝かせておけば良いということなのでそれに従っている。大量にこさえた裂傷だの火傷だのの治療も同時進行するために、広い医務室の一番奥を陣取ってサクヤは今も死んだように眠っている。そう思いこんで開けた間仕切り代わりのカーテンの奥で、サクヤはベッドに横になったまま横着に読書に励んでいた。見ての通り三日三晩完全に寝たきりと
いう風でもない。
 ナギの二度目の嘆息もなんのその、サクヤは痛めた脇腹を庇いながら笑顔で上半身を起こした。
「おかえり。どうだった?」
「どうって……想像通り? あくび堪えるのに必死だった。はい、これはあなたの分ね。」
ナギはベッドボードに置いていた手のひらサイズの木箱から黄金色に光る勲章を取り出した。
「特別功労賞、グングニル小隊八番隊隊長サクヤ・スタンフォード殿」
半眼棒読みで手渡された勲章を苦笑交じりに受け取るサクヤ。
「口止め料にしては高すぎる気もするけどね。みんなには面倒な仕事を押し付けてしまったみたいだ」
 本部に帰還した後、ナギはイーヴェル地区で起こった全ての出来事について包み隠さず上層部に報告した。これはサクヤの指示だ。あのイーヴェル区から八番隊全員が生還したことも、「生存者」が存在していたことも上層部にしてみれば大きすぎる誤算だったに違いない。そしてそれはサクヤたち八番隊にとっては絶好の交渉カードになりえた。
 それを見越して上層部がとった対応が、この「特別功労賞」なる異例の表彰というわけである。全くの「想定外」であったイーヴェル地区大襲撃に見事に対処し、最小限の被害で多大なる功績を残したというのが表彰の表向きの理由だ。口八丁のサクヤが出張ってくるのを避けたかったのか、表彰式は彼の回復を待たずして慌ただしく執り行われた。
 ベッドの脇にある椅子に腰かけたまま、ナギは何となく沈黙を守っていた。そして何となくサクヤとは視線を合わせずに、何となく窓の外を見ていた。よく晴れた夜空に半円の月が我が物顔でのさばっている。いつもはただ単純に綺麗だと思うのだが、今夜は少しだけ自己主張が強い月を残念に思ってしまう。詩の月1日は“誓願祭”──その土地土地を守る天の使いが、歌に乗せて神に報告をする日と言われ、できるだけ多くの良い報告をしてもらおうと各地で天使をもてなす宴を開く。宴には報告のついでにちょっとした願いや祈りを届けてもらおうとい
う意図もあって、聖歌に乗せて星に願い事をするというのが“誓(星)願祭”の醍醐味でもある。
 グングニル機関もこの日ばかりは市街と同じくお祭り気分に浸る。隊員宿舎塔の空中庭園を開放し、家族や恋人、友人たちと過ごせる時間を設けている。八番隊は専ら隊の親睦会といったふうで、毎年行われる花火やバーベキューには決まって全員で参加する。そういうこともあって今日という日が訳の分からない表彰式でつぶされるのは、ナギにとって望ましいことではなかった。ただし今年はそれがあろうがなかろうが大差なかったのかもしれない。
 少しだけ視線を戻すと、サクヤも同じように窓の外を眺めていた。読みさしの分厚い本を再び手に取る。流石に庭園でどんちゃん騒ぎ、という体調ではないか。
「もうじき花火が始まる時間だ。今年は場所取りしてる余裕が無かったけど……ナギが行かないと連中がつまらないんじゃない?」
 ナギは生返事。行く気はある。誓願祭は大好きな行事のひとつで、花火もバーベキューも滅多に楽しめるものではない。昼間楽しめなかった分、夜はしっかり取り戻したいとも思っている。ただそのためにはいくつか片づけておくべき問題が残っていた。
「ひとつ、聞いておきたいことがあって」
「何だい?」
いくらかの勇気を絞り出して切り出したナギに対して、サクヤは完全に平常運転だ。それがナギの緊張に拍車をかける。
「……その」
「うん?」
言葉は予め選んできたはずだったが、土壇場になってそのいくつかがどこかへ旅立っていってしまった。口ごもったら最後、たぶんもう二度と話題にあげない自信がある。しかしそれだけは駄目だという危機感もちゃんとある。だから何とか顔をあげた。
「イーヴェルでの、あのときのキ……キスに……特別な意味があったかどうか」
 口にした瞬間に窓から飛び降りたくなった。間違いなく日常会話で使用する単語じゃない。少なくとも自分にとってはそうだと確信できた。しかしこれ以外にどう言っていいか分からないのだから仕方が無いではないか。
 窓からと言わず断崖絶壁から飛び降りるような気分で、ナギはサクヤを見た。彼は、鳩が豆鉄砲でも食ったような顔で固まった後、その場で思いきり悩み始めた。一旦ナギから視線を外し口元に手を当てる徹底ぶりだ。珍しく眉間にしわを寄せている。サクヤはサクヤで、言葉を選ぼうという意思が垣間見えた。
「……ない、けど」
選んだ結果こうなった、らしい。一番シンプルな回答。サクヤにしては珍しく言葉を濁した。ナギの顔色を伺うように視線をよこすのも、やはり彼らしくなかった。
 ナギは深々と嘆息して席を立つ。
「あーはいはいっ。分かってる、っていうか分かってた。確認だけっ」
「ちょ、ちょっと待って。それは単に君を好きだってこと以外に何か特別な意味合いが付加されていたかどうかって質問だよね? それって例えばどういうシチュエーションなんだろう、……画期的というか斬新というかそういう類の暗号として、とかしか思いつかないけど……それだと日ごろから訓練を積まないといざっていうときに理解不能だし、訓練するにしてもちょっと不謹慎のような気がするし……」
 腰を浮かせたままの状態で今度はナギが固まった。サクヤが怒涛の勢いで展開してくれた持論、どこをどこからどんなふうにつっこめばいいのかもう分からない。暗号? 訓練を積む? この男の脳内は一体全体どういう構造になっているのか、しかも最初から最後まで大真面目だから始末が悪い。考えだしたら頭が痛くなってきた。
「そんなふざけた暗号があってたまるもんですか……! どうしてあなたってそう……」
「〝おめでたいのか"?」
サクヤが先取りした台詞は、あのとき教会でナギが口にした言葉だ。あのときも、今も、当然彼はふざけてなどいない。そんなことはナギも百も承知だ。それでもサクヤがどこまでも楽観的で何も考えていないかのように見えるのは、どういう状況下にあっても深刻にならないことを彼が徹底しているからだ。ただ深刻になって思考と行動が立ち行かなくなることをサクヤは何より嫌う。
 窓の外で一発目の花火が咲いた。薄暗かった医務室の中が、瞬間華やかに照らされる。
「特別な意味はない。ただ君を守りたいと思った。僕が生きている限りはずっと」
 ナギは理解した。思い出したと言った方が正しいかもしれない。最初から最後まで、サクヤは至って真剣に話を進めていたわけだから答えは出ていたのである。理解した途端に指の先から耳まで赤くなったのが自分で分かった。
「質問の意図は、それで合ってる?」
まだ不安そうなサクヤに何とか応えようとして、ナギは何度も何度も頷いた。何か言わなければと思うのだが、言葉が尻ごみして出てこない。そんなナギの代わりに、花火は次々とあがり夜空に弾けて溶けていく。
「……ありがとう」
考えた末に素直な気持ちを述べると、そういう言葉がこぼれて出てきた。
「どういたしまして」
サクヤがようやく安心したような、満足そうな顔で笑った。その穏やかな笑顔にナギもつられてしまう。
 明るすぎた月を覆い隠すように、色とりどりの花火が咲いて、散って、また咲いた。その繰り返しを二人は黙って小さな窓から見続けた。
「ナギ、遅かったわね──って、言ってくれたら迎えに行ったのに。バルトが」
 夜空を見上げていたアンジェリカが、ナギに気付いて手を振った。ナギは両手で怪我人を支えていたので愛想笑いだけを返した。傍らにはぎっくり腰でもやらかした老人さながらによろよろとサクヤ。結局二人そろって皆のいる空中庭園におりてきた。
「お、なんだ起きたのか。隊長もナギもまぁとりあえず呑めよ。年に一回きりなんだ、しっかり楽しんでおかねえとな」
バルトも怪我人というカテゴリに属するはずだが、それを本人も周りも忘れるほどに機敏にグラスを回してくる。既にほろ酔い気分のようで首から上が仄かに赤らんでいた。アンジェリカが見張っていたのなら適正量ではあるのだろう。
 ナギはグラスを受け取るついでに辺りに視線を走らせた。空中庭園には八番隊のみならず、本部所属の小隊のほとんどとその家族、恋人たちが普段とは違う穏やかな表情で笑いあっていた。開発部だの管理部だの、普段は塔内部に積極的にひきこもっている部署も揃って夜空を見上げていた。
「他のみんなは?」
「その辺りにいないか? ほら、リュカはあっちでマユリの尻追いかけまわしてるし、マユリは肉のある方肉のある方に移動していってるし、肉は……」
「肉はいいんだけど」
「シグなら叙勲式の後から見てないわよ。街の方に出たんじゃない」
遠回しなナギと察しないバルトに苛立って、アンジェリカが直球を投げた。
「何? 違った? 殴り合いの続きがしたいんじゃないの?」
「殴り合いなんて最初からしてない……」
「そうだった。ナギが一方的にぶん殴ったんだったわね、こりゃ失礼」
アンジェリカは悪びれもせず、実に生き生きとした笑顔を作る。言い方に棘があるだけで全く事実無根というわけでもないから何も言い返せない。
 シグとは二日間顔を合わせていなかった。三日目の今朝、叙勲式で見かけはしたものの会話らしい会話はかわしていない。ナギとしては誓願祭までにこの状況を打破しておきたかったのだが、そういうのも自己満足である気がして態度に出すのは気が引けた。
「あいつは今日はもともと予定が入ってるって結構前から言ってたよ。だいたいナギを避けるような図太い神経の持ち主でもないだろ。そう気に病むな」
「分かってる。ありがとう」
バルトはやはり、この手のさりげないフォローが上手い。八番隊に来てうまくなったというわけではないだろう、そういう気遣いができる気質なのだ。だから何となく皆、バルトには甘えてしまう。
 少し気の抜けたシャンパンに口をつけた。花火が終わっても、さあ引き上げようと言う者は少ない。ここから見下ろせる街の灯も今宵は長く眼下を照らしてくれそうだった。視界には羊肉と牛肉の串を振りまわしてご満悦のマユリとリュカが映る。放っておいてもここの空気はどんより沈むことを許してくれそうにはなかった。
「こうやってみんなで誓願祭をお祝いするのももう四年目かあ。長いような短いような」
「その前から付き合いのある奴も混じってるしな、しかし……そうか、もうあの“公開プロポーズ”から四年も経つのか……」
 羊肉を噛みちぎっている真っ最中にバルトがとんでもないことを言いだした。ナギは噎せながらシャンパンを流しこんだが両方の味も風味もよく分からなくなっていた。遠い目のバルト、笑いを噛みしめるアンジェリカ。何のことか分からずに疑問符を浮かべているサクヤ、この人が当事者なのだが。
「四年前って八番隊発足当時? え、誰かそういう予定の人がいたっけ……」
「いや。いやいや隊長、居たんですよ凄いのが。支部長の娘さんを自分の隊に引っ張ってくるのに、全隊員の前で『娘さんを僕にください』つって頭下げた馬鹿が」
「あれ、それどっかで聞いたことあるな……」
「あなたですよ、サクヤ隊長……」
アンジェリカの冷静なつっこみにサクヤの電池がまた切れる。が、今度はすぐに思い当たった模様、痛む脇腹を押さえながら声を出して笑いだした。
「そうだ、そうだったねっ。あれからしばらくレイウッド大佐にはろくに口きいてもらえなくて難儀して……なつかしいなー。よくみんな知ってるね?」
 グングニル、特に現場となった中部第二支部と本部では知らない者を探す方が難しいほど有名な話だ。知らぬは本人ばかりといっても限度というものがある。当事者のもう一人は芝生に体育座りで突っ伏したまま、もう息が無い。
「そういえば大佐にもしばらくお会いしてないけど相変わらず元気に……ナギ? どうしたの?」
ナギは突っ伏したまま無言で羊串を差し出した。これでも食べてもう黙ってくれ。誓願祭なのだからこの程度の願いは聞き入れてもらってもばちは当たらないだろう、そういう切実な願いを込めた。サクヤはよく分からないまま串を受け取って、固めの羊肉を懸命に攻略し始めた。
「俺のときもまぁ凄かったけどな。射撃場に、整備塔に、大浴場にも毎日つきまとってきて」
「あら、私のときはスマートだったわよ? サクヤ隊長は命と、私自身の尊厳の恩人」
アンジェリカの目配せに対して、軽く否定しておく流れだったがサクヤは何の反応もままならず羊肉をしゃぶっていた。この羊は案外強敵である。
 アンジェリカはもともと医療部隊である五番隊から某少将の秘書官として引き上げられた経歴を持つ。根腐れした上層部に公私共に長く浸かりすぎた結果、情報という名の兵器が図らずとも彼女のもとに集まるようになった。そうなれば人間、欲も出るし駆け引きもしたくなる。その結果「少将にニブル毒を盛った嫌疑」をかけられ、査問にかけられる一歩手前まで背中を押された。無論、陥れられたのだがアンジェリカ自身は自業自得だとも思っている。
「僕は単に、居てほしいと思った人に声をかけていっただけだよ」
「でもあんたの元を誰も去らない。みんな隊長が好きで、信頼してるからだ。そうでなきゃイーヴェルで……どっかの時点で反論が出たさ。色ものばっかり集まってんだ、突き詰めりゃ全員考えてることなんか違う。それでもあんたの指示に背こうとは思わない。……シグでさえな」
 バルトは語り口調に入ったかと思えば、分厚い牛串と泡立ちの良いエールを交互に口の中に放り込んで照れ隠しに突入。これはたぶん冷やかさない方が懸命だろう、肩を竦めてアイコンタクトを取り合った。そんな矢先。
「あーらーらーらーら! これはこれは、とっくべつでスペシャリティで大変プレシャスな功☆労☆賞! を受賞なさった八番隊のみなさまじゃないですか~っ! どうもどうも! 三番隊の翻訳機ことミナト・オーウェル補佐官でぇすっ、お久しぶりっ」
宿舎塔の回廊から庭園へ出る、ちょうど入り口のところで男が──赤茶けた長髪をハーフアップにした大変軽そうな男が、ウインクしながらピースサインを決めていた。八番隊の四人はとりあえず半身だけ振り返る。男の後ろに隠れてしまっていた小柄な女隊長の姿を見つけて、サクヤが微笑んだ。
「ユリィ。めずらしいね、来てたの」
「医務室に寄ったらここだって言われたから」
「つまりぃっ! うちのちび魔女……じゃないユリィ隊長は、お宅のスタンフォード隊長にわっざわざ会いに来た! ってことになんのね? やだっ、妬けちゃうっ、ミナトしょっぱい!」
頭を振りみだしていたかと思えば、自分の両腕を抱え込んで空に向かって嘆きの一言を発するオーウェル補佐官。ちなみにサクヤは無意識に彼を視界から外す癖がついてしまっている。嫌いなわけではないがいかんせん会話の邪魔になるからだ。
「何あれ……押し売りミュージカルかなんか?」
「ミュージカルに失礼だよ、アンジェ。知らない? シグがこの世で一番苦手な三番隊隊長補佐」
「シグじゃなくてもあんなの三分でお腹いっぱいよ」 
女性陣は惜しげもなく、どこか爽やかささえ携えて嫌悪感をアピール。ナギは定例会議で頻繁に顔を合わせるので対処には慣れている。そんなナギを見つけて、オーウェルが瞳を輝かせて全速力で走って来た。怯えたのは隣に居たアンジェリカの方だ。
「ナッギさぁぁぁん☆ イーヴェルはあれだね、オ・ツ・カ・レ様だったね! 聞いたよ~隊長の代わりに撤退を先導したんでしょ? ほんと俺たち補佐官の仕事って多種多様で参っちゃうよね~!」
「そうだね。とりあえず顔、近いかな」
にじり寄ってくるオーウェルに合わせてナギも軽やかに後退する。顔の前に手の平シールドを展開するのも忘れずにだ。
 自称翻訳機(無駄機能搭載)が暴走しているのを横目に見つつ、翻訳対象のはずのユリィはいつも通り無表情でサクヤの両腕に巻かれた包帯を凝視した。
「大丈夫なの、からだ」
「ああ、こっちはただの火傷で問題ないよ」
「そういう意味じゃないけど、まあ……いいわ」
「それより脇腹が……って言っても折れてはいないから大事ないんだけど、笑うと痛いんだよね」
言いながら癖で笑って苦しむサクヤに、ユリィは特に声をかけるわけでも支えるわけでもなくただ見ている。痛がり終わるまで待つというのが彼女のスタイルだ。
「カリンが会いたがってた。帰らないの」
「あ、行ったの? 顔は見せるつもりだったんだけど、まぁこんなだから。ユリィが行ってくれたならカリンも喜んだんじゃないかな。兄さんも」
「……私とサクヤでは意味が違う。私はあの二人の家族ではないから」
「らしくないこと言うね。兄さん、なんか言った?」
「アカツキは関係ない」
間髪入れず否定するユリィに、サクヤは困ったように笑う。おそらく兄がまた無頓着に何か言ったのだろう、もしくは意図的にかもしれなかったがそれはどちらでも良かった。ユリィがふてくされて自分のところへやってくるときは、大抵兄がらみだ。ちなみに彼女がふてくされていることが分かるのはグングニル内ではサクヤくらいのものである。
 相変わらず載せやすい位置にあるユリィの頭の上に、そっと手を置いた。
「うおおおぉっと! 何しやがる、じゃない何しやがるんですかスタンフォード隊長ぉぉうっ! うちの隊長は小動物じゃありません! 返してぇっ!」
最後の方は、よくもそんな甲高い声が出せるものだと感心するくらいに跳ねあがっていた。ユリィを強制的に引きはがして、サクヤを威嚇するオーウェル。面倒だ。半眼のままオーウェルに引きずられて退散していくユリィを、サクヤは手を振って見送った。
「あの人、ユリィ隊長命だから」
「いいじゃない。補佐官の鑑」
先刻までナギの隣にいたはずのアンジェリカは、対岸の火事とばかりにいつのまにやら数メートル距離をとっていた。どこかへ避難していたバルトもへこへこと合流してくる。
「何がすげぇって、あれに意外になじんでるカーター隊長がすげぇな……」
「俺もあの人苦手なんだよなぁ。戻ってきたりしないよな」
バルトの陰からサブローがひょっこり登場。片手には手土産とばかりに大皿に積み上げたシュークリーム。庭園の端は白いクロスがかけられた簡易テーブルが並んでいて、グラスハイム市街各地から取り寄せた菓子で埋め尽くされている。女性隊員が群がるスイーツバーに物怖じせずに割り込むのは甘党のサブローならではのスキルかもしれない。ナギとアンジェリカも勿論、小さく歓声を上げてサブローの周りに群がった。
「あーたんまたんまっ。マユリも食べるんじゃないか? 呼んできた方が」
ナギは既にひとつ頬張っている。口の中が忙しいのでサブローへの返答は指先だけで済ませた。ナギの指さす先でマユリとリュカが夥しい量のシュークリームを鉄串に貫通させてはしゃいでいた。
「ナギちゃーん、アンちゃーん! 見てみて~。夢のシュークリーム串だよ~うへへへへっ」
「うへへって……分かったからせめて座って食べなよ」
マユリは素直に芝生の上に座りこんで早速シュークリームにかぶりついた。リュカが作った「シュークリーム串」も合わせて、シューは計八個になるがまさか一人で完食するつもりだろうか。
「珍しく仲良くやってるかと思えば、ろくなことしないなお前ら」
サブローは想像で胸やけを起こしたらしい、渋い顔つきで元凶のリュカをたたく。
「珍しくねーし。基本俺たちは仲良しなのっ。同じレベルの視点で世界見てるっつうの? 通じ合う言葉でない何か? みたいなのがあるわけよ。まぁサブさんには分かんねーかなぁ」
「同じ(バカ)レベルの視点ね。価値観を共有し合えるのは大変結構なことだと思うけど、とりあえずお前らの世界観が全く理解できない自分が久しぶりに誇らしいよ」
「え? どゆこと? なに、なんか俺らのおかげでいー気分になったってこと? ……何だよ! 良かったじゃん! 感謝してくれよ~サブさ~んっ」
「……ありがとう、ございます」
思っていたのと違う結末に辿り着いたが、酔っ払い相手に必死になるのも馬鹿らしい。加減無しに背中をたたいてくるリュカに、されるがままのサブロー。視界の片隅では二本目のドリームシュークリーム串に突入するマユリ。──平和だ。三日前とは雲泥の差である。信頼する仲間たちと共に笑い、はしゃぎ、好きなものを好きなだけ飲んで食べる。その特別さが身にしみる夜になった。もらった勲章よりもずっと貴重で、美しい夜。
 庭園の中央で、この日のために喚んでいた聖歌隊が厳かに歌い始めた。「これまで」と「この先」を神に報告する天使の歌、その荘厳な歌声にグングニル隊員たちは皆黙って耳を傾けた。そして「これまで」と「この先」に思いを馳せた。そうして祭りの夜は、静かに更けていった。


 誓願祭から一夜明けたグングニル本部。夜明け前から降り始めた雨が、強まるわけでも弱まるわけでもなく細々と続いていた。宿舎塔にある食堂、いつもと同じ窓際の席に座りシグは灰色一色の外の景色を眺めていた。景色といっても見えるのは空ばかりだ。今日は雲といった方が正しいのかもしれない。
「早い昼飯だな。……ん? まさか遅めの朝飯か?」
バルトとアンジェリカがそれぞれコーヒーカップを手に、同じテーブルの椅子を引く。
「どっちにしろもっと食べなさいよ。ほんと思春期の女子みたい」
「ご忠告どうも」
シグは気にせず目の前にあるトマトサンドにかぶりつく。皿に乗っているのはこれだけだ。それとすっかり冷めたコーヒー。ちなみに朝食と昼食を兼ねた量である。
 食堂には彼らの他に、開発部と整備部の休憩組、本部待機中の五番隊のメンバーなどが点々と座っていた。八番隊はというと、今日までは正式に休暇であったからシグのようにのんびりぼんやりブランチをとっていても全く問題はない、はずなのだが。食堂内はどこか緊張した雰囲気に包まれていた。
「ミドガルドには六番隊が応援にいくみたいだな」
バルトがコーヒーをちょびちょびとすすりながら切り出した。彼は豪胆な見た目に似合わず猫舌だ。
「まあ妥当だろうね。行けって言われたところでサクヤ隊長もバルトも故障してるわけだし。そういえば隊長とナギは、まだ会議中?」
「そろそろ戻ってくるだろ。ったく、ニーベルングってのはどうしてこう空気を読まないんだろうな。誓願祭明けくらい大人しくしてろってんだ」
「お祭り気分は翌日まで引き摺るなって戒めじゃないの」
 そういう意味では、この鬱々とした雨も一役買っているように思えた。この分厚い雲がどこまで続いているのかは分からないが、六番隊を快く送り出してくれそうにはない。
 この雨が降り始める前、つまり夜明け前にグングニル中部第一支部から本部に緊急応援要請があった。第二防衛ラインの内側、中部の主要都市ミドガルドにある第一支部。本来彼らに課せられた使命は第二防衛ラインの警備とヨトゥン地区の基地化阻止である。その「通常業務」の範疇を超える状況が、本日未明に起こってしまった。ミドガルド市のはずれにある小さな町を、十数体のニーベルングが強襲。数もさることながら、一番問題視されたのはそれが「第二防衛ラインの内側」であったという事実である。
「寝てる間に突破されちゃいましたってことなのかねえ……」
「迷い込んだっていう数じゃないからね」
冷めたコーヒーが極端にまずい。そうでなくても食堂のコーヒーは風味も何もないのに。シグは結局カップ半分を飲んだだけで、後は一切手をつけようとしなかった。
 バルトとアンジェリカのコーヒーも底が見え始めたころ、食堂の入口にナギが顔を出した。
「あ、いた。三人だけ? もー……全員固まってくれてればいいのに」
あからさまな愚痴を漏らす。そのまま面倒オーラを放出しつつ、窓際のテーブルに合流した。椅子は引かない。長居するつもりはないらしい。
「ミドガルドの件、正式に六番隊が動くことが決まったから。私たちは通常通り本部待機。って言っても予定通りほんとに休んでていいみたい。それと、サクヤは午後は完全に非番。何か調べ物があるとかなんとかで外すって」
「ちょっと。隊長が非番なのは全く問題ないっていうか寧ろ推奨されることだけど、調べ物って何? そこは休ませとかないとだめでしょ、補佐官さん」
「言ってはみたけどどうせ聞かないし。それに塔内に残しとくと何かしら仕事し始めるから、追いだしとくのもひとつの手かなって」
「なんだそりゃっ、うちの補佐官は荒療治だな。俺はひとつ優しく労ってほしいもんだ」
バルトが笑いを噛み殺しながら席を立つ。空になった自分とアンジェリカのカップを片手でつまみ上げた。
「ほんじゃ、俺とアンジェリカは他の三人に伝えにいくから。あとよろしくな」
「あとよろしくって……」
 後に残ったのは底の方に沈殿物の溜まったコーヒーカップがひとつと、シグが一人。気まずい。ナギが座らずにいるとシグの方が椅子を引いて立ちあがった。
「ナギ、この後なんか予定ある」
「え、ううん特には」
「じゃあ久しぶりに付き合わない?」


 シグについてやってきた屋内射撃練習場は、思いのほか空いていた。というより実質二人きりだった。雨天にも関わらずここまで人気がないのは、この練習場が他と違って対人射撃を想定した施設だからだろう。一番広い屋外射撃場と他の室内射撃場は当然と言えば当然のことながら、ニーベルングを想定した馬鹿でかい的を採用している。グングニル隊員はニーベルング殲滅のための組織なのだから時間を割いて対人射撃を練習する者はごく僅かだ。シグはその人気の無さを好んで、この射撃練習場をよく利用する。
 二人は横並びのレーンに陣取って、かれこれ二十分は黙々と弾を撃ち続けている。シグのトリガープルのタイミングは機械のように正確だ。まるで頭の中にメトロノームでもあるかのように同間隔で引き金を引く。そうして放たれた弾は的に吸い寄せられて、いつも決まったところへ命中する。ナギはそれを横目で見ながら一足先に自分の的を引き寄せた。概ね80点ゾーンに弾は集まっている。及第点といったところか。
「うわ……へたくそ」
シグもやはり、横目でナギの様子を伺っていた。そして口をついて本音が漏れる。何か見てはいけないものを見てしまったような、憐みの眼差しも添えて。
「うるさいなーっ、いいの私はこれで。そっちこそどう──」
シグが引き寄せた的は100点ゾーンが綺麗さっぱり無くなっていた。同じところに着弾し続けた結果、こぶし大の穴ぼこになったらしい。ナギは青ざめた。シグとは違う観点で、見てはいけないものを見てしまった気分だ。
「気持ちわる……。もうそれ人間業じゃないよね……? 凄いとか素敵とか、そういうの飛び越えてぞっとする」
ナギはナギで言いたい放題だ。しかしシグは素知らぬ顔。新しい的に切り替えて、先刻よりも気持ち上向きに魔ガンを構えた。撃鉄を起こす。引き金を引く。ゆっくりと腕を下ろす。当たり前の動作にナギは魅入っていた。シグの射撃は一切の無駄がなく、美しい。
「何で見つめてくんの。気持ち悪い」
シグは前方を見たままで吐き捨てた。言いながら全くのぶれも無く引き金を引く。すぐ隣で熱い視線を送られようとも睨みつけられようとも、極端な話、寄り目で見つめられたとしても射撃の精度には全く影響しないらしい。かわいくない。当のナギはまさかの気持ち悪いカウンターをもろに食らって言い返す言葉もない。
「綺麗なフォームだなと思って見てただけでしょ」
「そりゃどうも。で、おたくはいつ本題に入ろうと思ってるの。叙勲式のときから何か言いたそうにしてたからわざわざ声かけたのに」
「え? ああ……うん、まあ、あるにはあるんだけど、完全にタイミングを逃したっていうか」
「イーヴェルの件なら、ナギに謝るつもりはない」
ナギが煮え切らないから、結局シグの方から本題を切り出した。それでも手元はずっと同じ動作を繰り返している。コッキング、トリガープル、クールダウン、コッキング、トリガープル、クールダウン。
 ナギはただ呆気にとられている様子で、結局シグの弾が尽きるまで話は進まなかった。引き寄せた的、今度は80点ゾーンに全ての弾痕が集中している。無論、意図的にだ。シグはつまらなそうにそれを確認すると、ようやく半身をナギの方へ向けた。
「……でも正当化するつもりもない。正しかったなんて俺だって思ってないし、正しくあってほしくもない」
「それは……私にも分かんないよ。結局、選んだのはあの子自身だから。今さらシグを責めたいわけじゃないし。……ただ、殴ったことは謝ろうと思って」
今度はシグの方が、あからさまに意外そうな顔をした。ナギは弾込めをしていた手を止めて正面からシグの目を見る。
「感情的だった。ごめん」
「いや、別に気にしてないけど」
「ほんとは昨日の内に言いたかったんだけど遅くなっても帰ってこなかったから。花火はみんなで観たかったのに」
「え、ああ、なんか……ごめん」
「いえ? 別に気にはしてないですけど」
どうしてほんの僅かな間に形勢逆転されているのだろう、混乱したままシグはとりあえずという感じで謝った。ナギは気が済んだのか、憑き物が落ちたような晴れやかな表情で射撃練習を再開。シグも小首を傾げながらそれに倣う。
 二人の知らないうちに雨は上がっていた。それでも暗灰色の分厚い雲は隙間なく空を覆い、雷鳴を伴っては時折生き物のように蠢いた。それはニーベルングの群れのようにも見えた。不穏な空の下、グングニル第六番隊は中部第一支部に出向。後の報告から全部隊に開示された情報は、中部第一支部との共同戦線において計十三体のニーベルング討伐が行われたという結果のみであった。


 サクヤがグングニル本部に戻ったのは深夜も過ぎ明け方にさしかかろうかという時刻だった。本人いわく適切な仮眠を摂って、現在時計の針は午前八時半をまわろうとしている。彼は既にいつもと変わらない制服姿で八番隊執務室の長机の上の書類とにらめっこをしていた。その正面、数歩離れたところでナギが背筋を伸ばして立ち、同じ書類を読み上げている。
「──以上が今週のスケジュール。ひとまず合同演習の段取りを今日中に詰めて、明日中には提案書をまとめておきたいところです。それまでの訓練メニューですが隊長とバルトに関しては大幅に修正を……って、ねえ? 聞いてる? っていうより起きてる?」
堅苦しい報告内容と言葉遣いを断念して、ナギはあきれ顔でサクヤの顔を覗き込んだ。始業時と終業時の連絡くらいはせめて折り目正しく行おうというナギの勝手な方針なのだが、それもこんな風に割とあっさり崩壊したりする。サクヤとしては今さらどちらでも構わないのだが。
「聞いてるよ。演習の方はそこまで急がなくてもいいんじゃないかな、どうせ変更事項も五月雨式に出てくることだし。今日明日は少しのんびりしておこうよ」
「えー……もう充分のんびりしたと思うんだけど。サクヤとバルトは勿論もう少し休養が必要だけどね?」
ナギは暇が嫌いだ。じっとしているのが、と言った方が的確だろうか──その割に事務仕事の速さと丁寧さはピカイチだから有難い──不満顔のナギを見て、サクヤは苦笑いをこぼした。
「みんなにも君にも、休暇は必要だよ。街に出て買い物したり芝居を見たり、グングニル以外の人と会って話すことも大事だしね」
「それはまあ、そうだと思うけど……」
休暇丸一日を塔内射撃場でグングニル同隊の人間と過ごしてしまったナギとしては耳の痛い話だ。ここまでピンポイントで当てつけがましいと、どこかで監視されていたのではないかと疑いたくなってくる。
「そういうわけで今日はのんびり目に事務作業を進めよう。備品の発注と演習プログラムのたたき台ができれば充分かな」
「先方からイーヴェル襲撃を模した状況をプログラムに加えてくれってきてるけど、そっちはどうしようか?」
応接ソファへ移動しようとしたところでナギがそんなことを言うものだから、腰を浮かせた状態のままで一瞬静止してしまった。考えるまでもなく答えは決まっている。ナギもそれを把握しているから書類を持ったままで肩を竦めていた。
「適当に流そう。必要なら僕が出るよ」
「了解。大丈夫、こっちで何とかなるわ」
 ナギはある程度の交渉事なら卒なくこなす。発言力があり、そこそこの権力を行使できるのは無論サクヤの方なのだが、そういうものが出張らない方が上手くいく局面も少なくは無い。彼女はそれを良く心得ているし、その逆にサクヤの力を必要とする局面も誤らない。
 優秀な補佐官だ──随分前から知っている周知の事実を、サクヤは何故か胸中でつぶやいていた。だから第二支部長に頭を下げてまで八番隊へ引き抜いたのだ。そう確認しながら、それだけではなかっただろうなと当時の自分を振り返る。広いグングニル機関内、優秀なだけの補佐官はいくらでもいる。それだけではない何かがナギにはあった。
「ちょうどお湯も沸いたし、お茶にしよっか?」
 ナギはいつもの台詞をいつものように笑顔で言う。お湯が沸くまでに朝の打ち合わせを終わらせるというのが、いつの間にか定着した二人の間のルールだ。全隊での朝礼までに生じた僅かな隙間時間を、ナギが淹れた紅茶を飲みながら他愛の無い話で埋める。打ち合わせの続きをすることも間々あったが、大抵はナギが話す特に意味の無い噂話や近況報告で終わる。サクヤはこの時間が好きだ。ナギが笑って話をするのが好きだ。
「そういえば調べ物って言ってたけど、昨日どこまで行ってたの? 体調万全じゃないんだからあんまり遠出してほしくないんだけど」
淹れたての紅茶の香りと湯気が柔らかく上る。ティーカップをサクヤの前に差し出しながら、ナギは内心詮索し過ぎかなと思っていた。心配も必要以上にはしないよう心掛けているつもりだが、殊サクヤに関してはつい口をついて出てしまう。彼の体調はただでさえ気にかかるのに、今は重傷(治りかけ)だ。
「アルブまで帰っただけだからそこまで遠出ってことはないよ」
サクヤは特に気にした様子もなく紅茶を味わいながら穏やかな空気を保っていた。
「アルブって、実家の方?」
「いや、大学にね。師事した先生がニーベルングやニブルについて研究してて、少し話をするだけのつもりだったんだけど盛り上がってしまって」
「なんか、サクヤらしいね」
 何の話をしたのだとか、割と頻繁にアルブに帰ってるよねだとか話を掘り下げるのはやめておいた。聞けば答えてくれるのだろうが、彼は毎度の帰郷をそこまで楽しみにしている風ではないからだ。積極的に話そうとは思わないことなら、この場では聞かないでおくのがいい。
「ナギは、実家には帰ってるの? そこまで大がかりな休暇があるわけでもないけど」
「私? 節目節目には一応帰ってるけど……あ、今の時期は帰らないよ? 帰っても忙し過ぎて休めないどころか、手伝わされてよれよれで戻ってくることになっちゃう」
「ああ、そうか。毛刈りの時期?」
「そう。去年また二十頭買い付けたとか言ってたから、絶対人手が足りなくて今頃戦争みたいになってると思う」
ナギは想像するだけでぞっとできるのに、サクヤは他人事とはいえ声をあげて笑っている。
 ナギの実家は中部二ダ区で牧場を営んでいる。ニダは丘陵と森林に囲まれた自然豊かな土地で元々畜産業が盛んな地区だ。レイウッドファームは中でも一、二を争う屈指の大牧場で、羊120頭、乳牛50頭、豚50頭、馬10頭がのびのびと(若干野性的に)飼育されている。父であるディラン・レイウッドはグングニル中部第二支部で支部長なんて大層なものを任されているが、実家に残る兄と兄嫁は羊毛刈り最盛期の今、文字通りのてんてこ舞いを踊っているはずだ。
 ナギは兄と共に幼いころから手伝いをしてきたので、牧場の仕事は一通りこなせる。こなせるというより、羊毛刈りに関しては地区の大会で優勝、ソーセージづくりに関しては牧場一の速さを誇るという圧倒的実績を持つ。ニーベルングが世界から消えてグングニル機関がお払い箱になったとしても、ナギが働き口に困るということはないわけだ。
 そういういきさつを少なからず知っているサクヤだからこそ、ナギが毛刈りの話題で身ぶるいするのは面白い。
「他人事だと思って……ほんとに凄いんだから。立ちこめる獣の臭気、羊たちの悲痛な叫び、そして貧相な皮だけになった彼らとうず高く積み上がった薄汚い毛、毛、毛……」
サクヤの笑いは止まらない。ナギが神妙になればなるほど面白おかしいらしい。子どもか。
「いいね、見てみたい。ニダはニブル汚染もほとんどないし、動植物も多種多様だ。いいところなんだろうな」
「サクヤは好きかもしれないね。なんかよく名前の分かんない謎の虫とかもいっぱいいるし」
 サブローなんかは都会育ちだから駄目そうだ。アンジェリカはマユリはどうだろう、案外喜ぶのかもしれない。シグは──どうかな、分からない。家畜と戯れるシグは想像するのが難しい。
「今度帰ったら、お土産にソーセージでも作ってくる」
「それは楽しみだ。……あ、そうだ。お土産と言えば僕も君に」
サクヤは立ちあがって、執務机の下からごそごそと何かを取り出してきた。煉瓦色の小振りの鉢に純白の花、自らの花弁の重みにあらがうように首をもたげて咲いている。その花弁のひとつひとつは絹のように繊細で羽のように柔らかい。
「アルブでは珍しくない花なんだけど、こっちの方ではあまり知られていないみたいだね。これはもう咲いてしまっているけど蕾が開くときに鈴の音みたいな綺麗な音が鳴る。……ところで、どっかで見た花だと思わない?」
「待って。それを今一生懸命思い出そうとしてる」
サクヤに言われるまでもなくナギはその花を知っているという確信があった。開花を告げる鈴のような音とやらも、とかく聴いたことがある気がする。しかしながら鉢植えの一輪とはいえ、曲がりなりにも男から花をプレゼントされておいて全力の顰め面で対象を睨みつけるのはいかがなものか。
「イーヴェルには黒いのが咲いていた。これが本来の、っていうのも違うのかもしれないけど白い方の“ユキスズカ草”。アルブには黒いユキスズカの分析に行ったんだ。実はちょっと面白い結果になって──」
「思い出したっ!」
 既に種明かしに入っていたサクヤを遮って、ナギはティーテーブルに半身を乗りあげた。流石のサクヤも面喰らって押し黙る、そして仰け反る。ナギはうろこが落ちたとばかりに瞳を輝かせた。
「“ノウヤクイラズ”だ、これ! ……え? “ユキスズカ”ってこれなの? ノウヤクイラズだよね? ……え?! そんなかわいい名前?」
「ナギが知ってるのはその名前なの?」
 何と言うか、愛らしい容貌にそぐわない色気の無い名前ではないか。おそらく「農薬要らず」からきているのだろうが、それにしても身も蓋もない。
 ナギは今一度全神経を研ぎ澄まし、目の前で揺れる純白の花を見つめた。雪のように白い花弁、縁は天使の羽のようにふわふわした繊維質。そして記憶の片隅を通り過ぎる、鈴の音のような開花の合図──どれをとっても“ノウヤクイラズ”はあんまりだ。自身の田舎娘ぶりを最大限アピールしたような気がして、ナギはそのまま赤面して項垂れた。
「いや……なんかおばあちゃんの知恵袋的なことだと思うんだけど、この花にね? 殺菌力とか滅菌力とかそういうのがあってね? 植えとけば土を綺麗にしてくれるぞーみたいな。家の裏にもよく咲いてたし、そうだ。母さんが煎じてお茶とかにして……」
もごもごと言い訳じみた、あやふやな知識を披露している内にやや鮮明さを欠いた母の笑顔が脳裏をよぎる。不思議な気分だった。こんな風に子ども時代を懐かしむということ自体がナギにとっては新鮮だった。頭の中で、記憶の中で、閉じ込めておいた暗く狭い思い出の匣の中で、鈴の音が鳴る。いくつかの優しい記憶がその度に弾けて溶けた。
 ナギが一人勝手に邂逅している間、サクヤは黙って口元に手を当て何かを考えていた。
「咲いてたって……ニダの牧場に?」
「え……? うん。……そう、だけど」
ナギの歯切れの悪い回答を得た後、再び沈黙に徹する。サクヤは自分の持てる全ての情報と、この場所にある「何か」を、頭の中でひとつひとつ丁寧に照合している。その中にナギの発言や仕草や表情までもが含まれていることを察するのは、そう難しいことではなかった。
 頭の中で鈴の音が鳴る。優しい記憶を呼び覚ますためではなく、警告音として静かに厳かに。
 サクヤは自分の中で一応の結論を見出したらしい、一度大きく頷いて意を決したように顔をあげた。 
「……今から僕がする質問にイエスかノーかで答えてほしいんだけど」
 鈴の音が鳴る。それは耳鳴りのようにけたたましく響き、ナギを非難する。──間違えた。ということだけは分かる。ナギ・レイウッドであるために守らなければならなかったルールを、知らぬ間に犯してしまったのだろう。サクヤの有無を言わさぬ口ぶりが、胸中をかき乱す。
「ナギ、君は──」
「たーいちょおー! ナギこっち来てなーい? 整備記録が俺のだけ届いてないんだけ……ど」
 所属隊の執務室だからといってノックも無しに乱入してくるのはリュカくらいのものだ。そこそこ重いはずの両開き扉が、何の意味もなさず軽快に壁にたたきつけられた。
(……超取り込み中じゃん)
状況だけは一瞬で察知した。間の悪い自分に同情するも、ここまで派手に登場しておいて引きさがるのも変だ。瞬時に空気だけは読んだが、ふさわしい対応というやつはひとつも思い浮かばず、リュカはひたすらその場で凝固していた。そうこうしている内にナギが立ちあがる。
「全員分まとめて私が持ってる。ヴェルゼの分を出せばいい?」
「ん? えーっと、うん、そんなかんじ」
「朝礼の後渡すから、先に行ってていいよ。ついでに皆のも返さなきゃ」
 ナギは言いながら、自分の分のティーカップと書類の束を持って執務室を出た。サクヤは引きとめなかった。寸断された言葉の続きを継ぎもしない。ナギの態度から答えを導き出すことは難しいことではない。炙りだしで書いた子ども騙しの暗号のように、じわりじわりと滲み出た真実をなぞった。そして今さら、間違えたなと思った。
 嘆息でユキスズカの花が揺れる。今やただの色のついた水と化した紅茶に口をつけ、サクヤはブリーフィングルームに向かった。

episodev 魔女は琥珀の涙を流す 

 グングニル本部塔内にある広大な図書室。吹き抜けになっている1階から3階の壁という壁に余すところなく書棚が敷き詰められ、そのひとつひとつの棚には、やはり余すところなく本が整列している。蔵書数だけ見ればピカイチのグングニルの図書室は、隊員たちの娯楽施設というかサロンの用途も兼ねているから、蔵書の内容に関しては「だだっ広くどこまでも浅く」である。
 そんな見掛け倒しの図書室でも利用者は一定数いる。六人掛けテーブルを一人で陣取って文字通り頭を抱えている開発部の隊員がそうであり、魔ガンの専門書をジェンガのように積み上げ斜め読みしている整備部の隊員がそうであり、嘆息しながら回廊をうろうろしているどこかの隊の補佐官がそうだ。
 ナギはそんな隊員たちに混ざって、分厚い背表紙が並ぶ書棚の前に突っ立っていた。開いているのは一番新しい植物図鑑。踏み台をテーブル代わりにして、他にも二冊ストックしてある。彼女が見つめる頁には、白い可憐な──しかし絶対的存在感のある──花が載っていた。

 ユキスズカ草。
 スズカ科。花は真っ白で、鳥の羽のような独特な質感。また、開花の際に揺れる胚珠から鈴のような美しい音が鳴ることからこの名がつけられた。
 
 ナギの記憶にある「ノウヤクイラズ」という花は、やはり図鑑には「ユキスズカ」という名で収められていた。もしかしたら、非常に良く似た別の花が存在するのではないかと淡い期待も抱いていたが見事に粉砕する。
 分布地域の項をなぞった。そして、静かに溜息をついて静かに背表紙を閉じた。


 午後二時を過ぎた塔内の食堂で、アンジェリカは遅めの昼食を摂っていた。他人から見れば遅めなのかもしれないが、彼女にとってはいつもの時間だ。混雑を避けてゆっくり食事を摂ろうと思えば必然こうなる。いつもなら向かいの席にナギがいて、山盛りのサラダと1.5人前程のパスタに囲まれている時間なのだが、今日は珍しく一人だ。
「あれ、アンジェリカ一人かい?」
 黙々とパンを食べながら顔をあげるとサクヤが立っていた。彼の食事時間は日によってまちまちだがアンジェリカと共に食事を、という風ではない。八番隊隊員なら、この時間この場所にくれば大抵はナギとアンジェリカに遭遇できることを知っている。隊長殿は今日に限って不在のもう片方をご所望だったのだろう。
「ナギなら午後までに調べておきたいことがあるとかで。珍しいですね、サクヤ隊長がナギを見失うなんて」
「タイミングが悪かったみたいだね。特に片付けなきゃならないレポートは無かったと思ってたけど……」
 からかうつもりでナギの名前を先に出したつもりだったが、サクヤは一切動じない。というより通じていない。この手のカマをかけて期待通りの反応をくれるのは、ナギの専売特許のようなものなのでアンジェリカも特に残念がったりはしなかった。困り顔で突っ立ったままのサクヤに座るよう促す。
「急ぎでした?」
「いや、応援要請の手続きをとってほしかったんだけど……まぁ仕方ないか」
本音を言うと、手続きと根回しだ。手続き自体はサクヤがやっても何ら問題はないのだが、彼が挨拶に出向くと要請される側の隊、特に今回応援を請う六番隊なんかは心の底から嫌悪感を顕わにしてくれる。彼らのような常識が服を着て歩いているようなタイプにとって、破天荒の代名詞のような八番隊は鬼門なのだ。ナギならそういう連中との交渉もうまくやってくれるのだが。
「ナギの仕事でしょう。私から伝えますよ」
「……そうしてくれると助かるよ」
 食後のコーヒーに口をつけながらの何でもない提案だ。その何でもない提案に、サクヤは一瞬躊躇ってから乗った。
 アンジェリカには、そのサクヤの反応が特に意外なものではなかった。ここ最近のナギとサクヤ、二人の間に流れる空気が妙に緊張していることには気づいている。とりわけナギの方が顕著だ。サクヤと視線を合わせようとしない、二人きりになるのを全力で回避しようとする、ぼんやりしているかと思えばサクヤの一挙一動に過剰反応したりもする。これだけ派手にやって当人が気づかないはずがないから、サクヤも避けられている事実を分かっているはずだ。アンジェリカとしては、それを良い意味に捉えるか悪い意味に捉えるかという解釈に迷っている
ところである。
「隊長何か、やらかしました?」
そういうわけで、直接本人にアタック。
「うーん……どう、かな」
曖昧に濁された、ようだがこの回答で十分だ。とりあえずあっけらかんと否定できない何かは起きてしまったのだろう。ナギにしろサクヤにしろ、仕事と私事を綺麗に分ける性格ではないから二人が四六時中ぎくしゃくすれば当然、作戦にも支障が出る。というか既に出ている。輪をかけて鈍感な隊員たちが全く気づかないだけで。
「まあ詮索はしないでおきますけど。ちなみに早期に解決します?」
「うーーーーーーん……。どうかなあ……」
(この朴念仁……)
アンジェリカが胸中でなじる。そうとも知らず、サクヤは眉をハの字に下げて大きく唸っていた。それも数秒の間で、深呼吸のような嘆息をひとつして切り替えるとおもむろに懐に手をいれた。出した手の中に四つ折にした小さな紙切れが握られている。
「ナギの方はひとまず置いといて、こっちは、君に依頼したいことなんだけど。その筋の人たちに少し探りをいれてくれないか」
 周囲に人はいなかったが、アンジェリカはそれでも顔色を変えないように努めた。サクヤの手の中のメモを受け取って、やはり自分の手の中で手早く広げて目を通す。
「あら……この手のオカルトに興味がおありでしたっけ?」
「最近ね。ただの可能性も情報に格上げしておけば、いざというとき武器になると思って」
「それは承知しているつもりですけど、発想が穏やかじゃないですね。いざというとき、ですか」
「深い意味はないよ。単なる興味本位と保険、かな」
そう言っていつものように穏やかに笑うサクヤ、その笑顔にアンジェリカは逆に不安を抱くことがある。今がそうだった。
 サクヤ・スタンフォードは、グングニル機関で何を成そうとしているのだろう。その断片におそらく自分は触れている自覚がある。では他の隊員は? ナギはどうなのだろう──席を立つサクヤに合わせて、アンジェリカは思考を遮断した。


 翌日の昼、サクヤ率いるグングニル八番隊は、六番隊と共に中央区の最西端にある町、ビフレストに入った。一昨日の夜までに二件、この街でニーベルングによる殺人事件が起きている。更に昨夜三件目が発生、つまり一夜に一人ずつ犠牲者が出ているということだ。
「ジャージャーン! ニーベルングサスペンス劇場! ……ってこと? これ」
 大所帯で隊列を組んで(深刻そうな顔で)歩くのに飽きたらしい、リュカが前触れもなく謎の効果音を発した。周りにいた六番隊の何人かが怪訝そうに振り向く。
「っていうか、殺人鬼じゃなく? 切り裂きなんとかでもなく? 俺たちほんとにこんな大名行列組んで仰々しくやってきちゃって大丈夫?」
「一番隊の先行調査では、ほぼ確実ってことだったでしょ。全ての現場から多量のニブル反応が検出されてるし、遺体は噛みちぎられて損傷してるし、みたいなことが長々書いてあったじゃない」
 ナギが今朝方目を通した報告資料の内容を噛み砕いて抜粋。要点はこれで事足りると思っている。素人目でも判断できそうな内容をじっくりねっとり時間をかけて調査した上で、一言でまとまる状況を一頁に渡って解説してくれるのが一番隊の報告スタイルだ。ナギはいつも、遠回しに皮肉を漏らす。リュカも納得するどころか鼻で笑い飛ばす始末だ。
「ニブルなんか細工すればどうとでもなると思うけどねー。噛みちぎられてってどの程度よ? 凶暴な野犬って可能性もあんじゃん?」
「遺体の損傷の程度なら写真にあったけど」
「わー待った待ったっ。そういうのノーサンキュー! いいです、ニーベルングがかじっちゃったってことでいいです。詳細とかいらないから、マジっ」
全力拒否するリュカに、ナギはもう何も言わない。毎度お決まりの、ただ言いたいだけの愚痴なのだろうから、ある程度相手をして後は放っておくのが良い。と思っていたのにサブローが横から口を挟む。
「三件目……昨日のは目撃者がいたんだろ? 『とにかくでかかった』ってのは嫌な情報だよなぁ。まさかとは思うけど、アルバトロス級がこんな街中に入り込んでたってなると機関としては相当な大失点だ」
「サイズに関係なく既に大失点よ」
 昨日の事件に関しては間が悪かった。調査のためにビフレスト入りしていた一番隊、よりにもよって彼らが駐在している最中に三件目が起きてしまった。市民にしてみれば当然、グングニルは何をやっていたんだという話になる。非難の的になるはずの一番隊は直後にとっとと撤退、彼らの報告を踏まえて討伐を任されたのが八番隊である。任されたというかまわされたというか、丸投げされたというか。
「要するにいつも通りなわけだけど……」
 ナギがぼやく通り、全ては通常運転で進められている。隊長であるサクヤが率先して隊列を乱し現場を逐一再確認するのも、予定調和のひとつだ。
 現場となった民家は全て、彼らが行列を成して歩いている石畳の道沿いにあった。サクヤは立ち入り禁止を示すロープを跨ぎ、ひょいひょいと侵入しては室内を見渡して疑問符を浮かべる。また何か面倒なものを見つけてしまったのか。ナギも外からその動向を見守った。
「とにかくでかかった……か」
それをそのまま鵜呑みにすると、どうにも腑に落ちない点がある。サクヤは小さく唸りながら、四方八方に飛び散った血の跡を眺めまわした。
「少なくともイーグル級より上の仕業だとして、ドアも窓も破壊せずに屋内に侵入するっていうのは可能だと思うかい?」
傷一つない木製扉を開けたり閉めたりしながら、イーヴェルでの戦闘を思い返していた。あそこに集結していたイーグル級ニーベルングは、教会の巨大な両開き扉でさえ通れずに体を詰まらせていたのだ。完全な興奮状態にあったことを差し引いても、標準身長の人間様がやっと通れるような民家の入り口扉を彼らがすり抜けられるとは到底思えない。
「……実は優れた伸縮能力を持ってる、とか。……どう思う? ナギ?」
「え! うん!? 私!?」
 ナギの場違いな大声に、六番隊隊員がまた振り返った。サクヤも呆気にとられている。
「ごめん……えっと、伸縮? ……ハムスターみたいにぎゅぎゅってなるかってこと?」
「うんまあ。かなり噛み砕くとそういうことかな」
「ど、どうだろうね。ニーベルングって皮膚カッチカチだし、あんまりイメージ湧かないかなって気は……する、かな~」
「そうだね。頭部だけをうまくねじ込ませたって考える方がしっくりはくる」
 仮にそれが正しかったとして、何のために? ──次々と湧いてくる疑問に、サクヤがまた悠長に唸りはじめる。標的を仕留めることが目的なら、巨体を生かして建物ごと潰した方が手っ取り早い。そうでなくても屋内の家具や調度品をここまで無傷に保つ必要はないはずだ。全ての現場で争った形跡と呼べるものはなかった。遺体だけが異物のように転がっていただけ、らしい。今現在サクヤの眼前にあるのは、それを想像させる血痕だけなのだが。
「一夜に一人の犠牲者っていうのも、そもそも合理性に欠けるというか……」
考えながら、そして言いながら癖でナギの反応を待ってしまった。そしてそれは、今回は期待できないことを先刻自ら確認したはずだった。ナギは黙って市街の景色を見ている。サクヤも切り上げて隊列に合流することにした。
「ねえ、鬱陶しいったらないんですけど」
サクヤが隊の前方に急ぐのを見送って、アンジェリカ。苦情の矛先は無論ナギである。
「え、何。天気?」
「本気で言ってるなら殴るわよ。ナギがそんなだと隊がまとまらないでしょう? ぎくしゃくしてくれるのは勝手、と言いたいところだけど作戦中以外でお願いできます?」
そういう器用な真似ができるなら、おそらくこの苦言も必要ないのだろうが。
「そうだね、ごめん」
「隊長からプロポーズでもされた?」
「は……?」
「一生僕だけの補佐官でいてくれ」
「ア、アンジェ?」
「違うの? 彼、そういうちょっとずれたこと真剣に言うタイプでしょ。あ、逆に直球? 『結婚しよう! ずっと君を守るよ!』」
ナギがいきなり勢いよく噎せた。そのせいなのかは定かではないが耳まで赤い。
「何言ってんの!? あるわけないでしょ、馬鹿じゃないの!」
「だったら何なのよ。どうせその感じだとニアピンでしょ? 好きだ? 愛してる? ああいう手合いは息するみたいにその手の台詞を吐くんだから、いちいち動揺してたらきりないじゃない」
「だからっ! そんなんじゃないって言ってるでしょ! 分かったからちょっと放っておいてよ!」
「ちょっと放っておいた結果こうなってんでしょうが。いい? この作戦中になんとかなさい。それ以上は待たないわ。居心地が悪いのはごめんなのよ」
アンジェリカの静かなる迫力に負けて、ナギは押し黙るしかなかった。その威圧は八番隊他メンツにもしっかり波及している。全ての会話が聞こえながら一切我関せずを貫く彼らの判断は正しく、賢い。知らぬは本人、いやここではサクヤを含めた当人たちばかりであろう。


 三つの現場が密集する住宅街から繁華街へ。その中心部にある荘厳なオペラ座の屋上にサクヤ、ナギ、リュカにバルトが立っていた。それぞれが四方に分かれ索敵に勤しむ。今回は、ここを物見台代わりにして、ニーベルングを迎撃する手はずになっている。残りの四人はのんびんりと市内の巡回だ。
「しっかしさー。俺たちも貧乏くじ専用ってのが板についてきたけど、六番隊も相変わらず不憫っつーか」
 ビフレスト上空は至って平穏だ。下方より少しばかり風が強いくらいである。それだからリュカが胡坐をかいて世間話を始めるのも致し方ない。独り言になるのは嫌なので、気持ち声量は大きめに。そうでないと時折吹きすさぶ突風にかき消されてしまう。珍しくバルトが話に乗った。
「頭数が多いんだから人海戦術に駆り出されるのは当然だろ。人数の割には単発で作戦がこなせるほどの粒も揃ってねえ。結果、増援専用みたいになっちまう。ま、それはそれで必要だけどな」
 その癖プライドばかりが高いから応援要請時に要らぬ気苦労が増える、という愚痴をナギが胸中で付け足した。六番隊の所属人数は五十名弱。可もなく不可もなく、言い方は悪いがこれといって取り柄の無いグングニル隊員の集まり、というのが他の部隊員たちの印象だ。バルトの辛辣な意見も、的は射ているということになる。その六番隊には市民の避難誘導にあたってもらい、その後各エリアの警護についてもらうことになっている。
「まあねぇー、分からんでもないけど。ビフレスト広いし、ややこしいし」
 リュカの言う「ややこしい」は、街の特徴のことを指しているのだろう。中央区最西端に位置するビフレストは、交易の拠点として古くから栄えてきた街だ。中央区の玄関口であるという立地と、街を端から端まで網羅する運河の利便性が、ビフレストの産業と繁栄を支えている。運河の至るところに羽橋が架けられ、舟の往来に合わせてひっきりなしに上がったり下がったりと忙しい。日中は橋が動く音が断続的に聞こえ、そのせいで「運河の街」ではなく「橋の街」
と呼ばれる始末だ。
 四人はここでこのまま、突風に煽られながら夕暮れを待った。ゆっくりのんびり沈んでいく太陽が西の空を幻想的な紫色に染めていく。それに歩調を合わせたかのように、市街のガス燈がひとつ、またひとつと灯る。一旦暮れはじめると夜の舞台は急速に設えられた。普段なら民家の明かりも夜景の美しさに一役買うのだろうが、全ての住民が避難した今、通りのガス灯の頼りない光以外はただ黒い。人気の無い住宅地というものは、どのような所以であれ妙な不気味さを帯びている。
「さて、ここからが正念場かな。今日中に現れてくれるのか、深夜か、最悪明け方か。見張りは交替で立てて僕らも体力を温存しよう」
「うへ~……てっぺん越えは避けてーなー。ここは空気読んで早めに決行してくれると助かるんだけ……ど……ってサクヤ隊長」
リュカが真顔でサクヤの背後を指さす。サクヤもすぐさま振り返った。遠く山の端と空の境界線はもう区別がつかない。その暗黒の世界で、一際濃い暗灰色の物体が羽ばたいている。そう、翼を上下に振って羽ばたいていたのだ。四人が何となく反応せずに凝り固まっている間に、ニーベルングは悠々自適にオペラ座上空まで滑空してきた。
「はやーーーーーーい!! ふざけんなっ、空気読めよ! 今から飯食って仮眠摂ってみたいなこっちの流れはまるで無視かよっ」
リュカが全力で青筋を浮かべている間に、ようやく他三人が臨戦態勢に入る。ナギの初弾が見事に宙を切った。
「御託はいい! これを片づけて皆で夕食摂ればいいでしょ!」
「思いっきり外しといて偉っそうに! 説教は当ててからにしてくれませんかね~え?」
リュカの初弾──発砲音だけが響く。やはりこれもお空の彼方にすっ飛んで行った模様。視界の悪い中でナギとリュカは互いに口をへの字に曲げて睨みあった。その頭上でニーベルングは闇夜を背景に優雅にダンシング中だ。
「いい動きするなぁ。あの巨体でここまで軽やかって、体幹トレーニングかなんか──」
「ど・う・で・も・いい! ネーミングとかも当然後だからねっ!?」
サクヤの動きがまた止まる。ニーベルングの動きに感心する一方で、なんとかその俊敏な動きになぞらえてぴったりな名前をつけてやれないか思案していたところだ。何故ばれたのだろう。それを考えている猶予も無いようなので、サクヤも仕方なく魔ガンを構えた。
「俊敏だけど……一挙一動がやけに大げさだな」
オペラ座の屋上を端から端まで、暗灰色の翼を翻しながら駆け抜ける様はさながら舞台俳優である。どこか優雅でどこか滑稽でもあるニーベルングの動きに、どうも目を奪われてしまっていたが、おかげで狙いは定まった。次の動きを予想した上で大幅に着弾点をずらす。サクヤの魔ガンの軌道上に吸い寄せられるようにニーベルングは自ら当たりにやってきた。
 爆発音と共に、静観な夜空で野暮な花火が咲く。そしてこの屋上部分へ真っ逆さまに落ちてきた。
「よっしゃ! ナイスだ隊長! このままたたみかけるぞ」
言うが早いかバルトの魔ガン「ハーゲン」が火を噴く。爆煙も晴れきっていないところへ、二発目三発目が立てつづけに放たれる。ニーベルングは中心部で悲鳴をあげて燃えていた。標的が動かないのだからナギもリュカも流石に外さない。いわゆるタコ殴り状態がしばらく続いた。ラインタイトが尽きる前に、リュカが爆心地へ突進。動かなくなったニーベルングの首を足蹴にして魔ガンを高々と掲げた。勝利のポーズ、のつもりらしい。なかなかに外道である。
「うわ、最低……」
ナギの口から思わず本音が漏れるが、突風と爆音の残響の中で上手い具合に掻き消えた。
「じゃじゃじゃじゃ~んっ。駆けつけ五分で標的撃沈! 一重に俺たち八番隊のチームワークの賜物ってやつだよねー。でもとどめの一発撃ったのは間違いなく俺だと思う」
「はいはい。それでいいから。とりあえず消火しない? このままだと天井に燃えうつっちゃう」
 ナギも(適当に)認めてくれているようなので、リュカはご満悦で何度か頷く。サクヤもバルトも苦笑を漏らしながら魔ガンを収めた、刹那──遠くで爆発音が鳴った。
「おい、なんだよっ。魔ガン、だよな今のは」
バルトの疑問を確認すべく、サクヤは飛び降りラインぎりぎりまで身を乗り出して眼下へ視線を走らせた。市街の一画で、ガス燈とは明らかに異なる激しい光の点滅が起きている。その点滅に合わせて爆発音は鳴っていた。僅かに移動している。
「バルトとリュカはここで待機。ナギは僕と。巡回組と落ち合って状況確認しよう。もしかしたら、僕らは敵の策にはまったのかもしれない」
「は? 策? ……ってサクヤっ」
既に階段を駆け下りているサクヤの後を、わけもわからないままナギが追う。物見台であるこの場所を空にするわけにもいかないからバルトとリュカは仲良く留守番だ。街中で、あがるはずのない花火を見下ろしながら、二人は肩を竦めて気だるく手を振った。


 サクヤたちがオペラ座を後にしたその数分前、ビフレスト市内は特にこれといった異変もなく、巡回に当たっていたメンバーに退屈を覚えさせるほど平和だった。
 シグはこれみよがしに欠伸を漏らす。これみよがしだろうがひっそりだろうが、この暗がりと互いの距離なら何をやっても咎められることはなさそうだ。50メートルほど先をサブローが生真面目に歩いている。シグの後方50メートル地点にはマユリが、その更に後方にアンジェリカが控えているはずだ。互いにフォローが効く程度の距離を保って巡回する、というのがサクヤが唯一出した指示だった。似たような距離間で街中を六番隊皆さんがうろついている。無人の住宅街を一定距離を保って行脚するグングニル隊員、考えようによっては気味が悪い。
(サブローさんでも脅かして遊ぶか……)
 何度目かの欠伸に瞳を潤ませていると、ふとそういう悪さもしたくなる。足音を忍ばせて小走りに近づいて、ちょっと一声かけるだけ。サブローなら、それで充分肝を冷やしてくれるはずだ。思いついたら即実行、完璧に気配を消してサブローの背後に忍び寄る。残り10メートルというところで異変はあっさり起きた。
「ぎゃああああああああ! で、出たぁっああああああああ!」
悲鳴。しかも汚い。発生源はシグの10メートル前方、つまりサブローだ。おっと、派手に尻もちなんぞついているではないか。
「はあ? なん……だ! よ!?」
座りこんだサブローの横から何かが凄まじいスピードでこちらへ突撃してくる。それ、いやそれらは軽やかな足取りでシグの両脇を通り過ぎて行った。予想外すぎる事態に思考がついていかない。だからシグは、その二体のニーベルングを何の妨害もせずに通してしまった。
「ニーベルング!? って、バーディ級……!?」
 シグが口にしたのは、ニーベルングの等級の中でも最小の部類だ。想定外の超特大サイズをコンドル級、一個小隊で討伐にあたる限界サイズとされる特大のアルバトロス級──但し八番隊は悉く例外を作らされる──それから一番遭遇率が高い中規模サイズのイーグル級、そして成人男性より一回り大きいかそれ以下といったサイズのバーディ級。グングニル機関は、ニーベルングの等級を大雑把にそのように規定している。たった今シグの横を疾風さながらに駆け抜けて行ったのが、ニーベルングに面立ちの良く似た不細工すぎる人類でない限りはバーディ
級だと判断せざるを得ない。
「“とにかくでかい”んじゃなかったのかよ……っ」
シグが苦虫を噛み潰しながらヴォータンとローグを引き抜く。住宅街で魔ガンをぶっ放すのは御法度だ。が、悠長に構えている場合でもない。
 躊躇したのも束の間、オペラ座上空で小汚い花火が上がった。威力からしてサクヤかナギが魔ガンを直撃させたとしか思えない。あちらでも戦闘が始まっているということだ。
(どうなってる……どちらかは陽動、ってことか……?)
 どちらでも同じだ──今あの二体を取り逃がすことが一番まずい。シグは迷わず引き金を引いた。よく動く小さめの的だが、全く外す気がしない。シグの二発の初弾は追撃機能でも付いているかのように走行中のバーディ級二体を背後から撃ち抜いた。ここまでは想定通り。想定外だったのは連中の装甲皮膚の堅さだった。
「マユリ! 後方アンジェリカと合流して迎撃しろ!」
一体が脇目も振らずマユリ方面にひた走っているので、もうそう指示するしかない。一体は癪に障るがこちらに興味を持ってくれたようだ。勿体ぶった動きで振り向いてシグの方へ引き返してくる。
「とりあえず一体」
「ちょ! 馬鹿! 痛い死ぬっ! 死ぬって!」
 サブロー方面(というより後方にはもうサブローしかいない)から、愛犬と戯れるときのような気の抜けた声が聞こえる。それでもシグは向かってくるバーディ級ニーベルングに二発をたたきこんだ。着弾し、爆発もしたのに倒れてはくれないらしい。足止めになった程度か。
「くっそ! どれだ、優先順位!」
とりあえず、後方の気の抜けた空気読まずに文句を言うのが先決だと思われた。が、鬼神のごとき形相で振りかえった直後に、シグは顔をひきつらせて一歩後ずさった。小さく「うわぁ……」などと憐憫の声も漏らしてみたが、サブローには聞こえてはいないだろう。
「シグっ。見てないで助け、ろ、よっ。って痛い痛い痛い痛い痛い! いやなんか冷てええ!」
 サブローは腰を抜かしていたわけではなかった。ニーベルングに押し倒されていろいろな意味で危機一髪状態だったのである。これで三体だ。これ以上増殖されると本格的に手に負えなくなる。
「マウントとられてれば逆に外さないでしょう。寧ろそっち任せます」
「こっんの、言ってくれるけどなあ!」
ニーベルングの胴と自分に胴の僅かな隙間に、懐から抜いた魔ガンを無理やりねじこませる。この状態で撃ったら反動で自分もただじゃすまないのではないだろうか。いや、確実に重症を負う。ほとんど自爆ではないか。などと半泣きになっていると、シグの援護射撃がこちらのニーベルングに直撃する。視界が白くなった。同時に全身、燃えるように熱い。
「あっちい! シグぅぅぅぅ!」
「撃ったら撃ったでやっぱり文句言うじゃないですか」
「言うに決まってんだろ! っていうか今だわっ今しかないわ、反撃チャンス!」
 今度はサブローの方がニーベルングにがむしゃらにタックル、馬乗りになった。全身を灰で塗りたくった暴れ馬に跨っている気分だ。蹴られる前に容赦なく魔ガンを連射する。零距離で撃つことに変わりはないが自分が跨っている分には巻き添えで重傷ということはない。一発。二発。三発。
「おいおいおい、いい加減落ちようぜ……!」
四発目。腹部に押し当てて引き金を引いているのに、貫通していないのか。であれば、照準を変えるしかない。五発目は一呼吸置いた。そして起き上がろうとするニーベルングの口内に向けて引き金を引いた。爆発して、ニーベルングだったものが四散する。
「あーきっついなこれ。久々の、もろに生きもの殺してる感覚」
グングニル隊員の大半はこの感触を「手ごたえ」だと言う。
「いつもは死体でも撃ってるつもりですか? あ、初弾しか撃たないか」
 サブローは八番隊所属以前、自らの誤射で同僚を撃ち抜いたことがある。以来、対ニーベルングであっても率先してとどめの一発を放たない癖がある。グングニル中で有名という話でもないが八番隊メンバーは当然事情を知っているし、サクヤは承知の上で八番隊に引き抜いてくれた。
「初弾しか、は言い過ぎだろ」
 ふらふらと立ちあがる満身創痍のサブロー。シグの皮肉に全力で反論する精神的余力が残っていない。
「まぁ後は引き受けますから、目立たないところでゲロ吐いてていいですよ」
「かわいくね~。とか言って早速取り逃がしてるじゃんか」
 もともとシグが相手取っていた一体は気付けば全力逃亡中。それを追うは我が隊きっての人間離れ女子マユリ。鋭い眼光、いや鋭い眼鏡反射で相手を威嚇しつつ距離を詰め──られるわけもない。路地に積み上げてあった廃棄トマトをぶちまけ、干しっぱなしのまま忘れ去られていた洗濯ものを撒き散らし、それでもなおニーベルングは止まらない。
「無理だろ、普通に」
「マユリー。そのままこっち誘導してー」
シグが気だるく手をあげる。
「かったいぞ、あれも」
「分かってますって。二連でだめなら十六連」
さらりと言ってのけた後に、何食わぬ顔で両の魔ガンを連射、連射、鬼連射。その全てが一片の狂いなくニーベルングに着弾して爆発する。ようやく焔がメラメラと音をたててあがり、火柱となって周囲を照らした。火柱の中心は先刻のサブローよりも一段とふらふらした様子でこちらへ歩み寄ってくる。
「オーライ、オーライ」
シグは優しく誘導。橋の先端で優しく、渾身の力で以て蹴落とした。撃って燃やして運河に落とす、まさに外道の所業である。暗がりの水面から、肉の焦げる臭気と蒸気が立ち込めた。
 つい、心の底からの疲労の溜息が出てしまう。それも二人揃ってだ。
「何とか片付いた、って言いたいところだけどな。状況は芳しくないな……」
 ガス燈の光が、今夜の凄惨な現場を煌々と照らし出す。散らばった衣類、路上に広がる赤い液体(トマト)、つぶれた肉(トマト)、頭部の無い焦げたニーベルング一体、炭になりかけた血濡れのニーベルング一体。
「シグさんお疲れでーす。えーと……一匹捕り逃がしちゃってたりします?」
あれだけ走りまわっておいて息も切らさずマユリが合流してくる。そして何の躊躇もせず現状を的確に再確認させてくれる。
「シグ……お前今何考えてる」
「責任の所在はどこかってことですかね」
 今宵、ビフレストの住人から新たな被害者は出なかった。仕留められたニーベルングは、オペラ座のイーグル級を含め三体。視認されたニーベルングは、四体である。それは「今宵」を終われない理由には充分すぎるものだった。


 夕食なのか夜食なのか、まさか朝食ということはないだろうが、とにかくよく分からない食事を黙々と摂っていた。ソーセージ、オリーブとレタス、薄切りハム、それらを適当にバゲットに乗せて頬張る。ナギはいつものように全部載せのゴージャスパンだが、シグは兎のようにレタスだけをもしゃもしゃと千切って食べるし、サブローに至っては食欲がないとかで一切手をつけていない。時刻は午前二時。本来なら今頃しっかり睡眠を摂れていたはずだ。草木も眠ると専ら噂のこの時間帯に、よもや冷えたソーセージを食すことになろうとは。
「確かに、バーディ級なら民家の戸口を破壊せず侵入することが可能だ」
サクヤがオリーブを摘まみながら、どこか感心した風に言ってのける。それから自嘲したように苦笑を漏らした。
「まさかニーベルングから陽動を食らうとは思ってもみなかったけどね」
「でも全くの盲点ってわけでもなかったんだろう? だからこその入念な見回り態勢だったわけで」
バルトの視線がちらちらと巡回組四人に向けられる。遠回しに彼らを非難しているのだろうが、当の四人は皆わざとらしく視線を逸らして直風を回避していた。
「いや、一杯食わされたのは事実だよ。巡回班は上手く対応してくれたと思う。ただ、作戦の性質上今回は一体でも逃走させるわけにはいかない。朝までには残りの一体を仕留める必要がある」
「仕留めるったってなあ……そもそもそのバーディ級はどっから湧いて出てきたんだ?」
「それについては心当たりがないことも無い……けど憶測の域を出ないからなんとも」
「ひょっとして運河、ですか」
あっけらかんと提案するサブローに対して、サクヤの方が慎重を期していた。
「どうしてそう思う」
「どうしてというか単純に消去法です。市街は隅から隅まで念入りに調べましたし、あの厳戒態勢の中で外部から侵入されれば、いくら囮が効いていても気づきます。それに……これが一番の理由ですけど、濡れてたんですよ。俺を押し倒してきたニーベルング」
「サブローを、押し倒したニーベルング」
「……いや、復唱すべきとこそこじゃないです」
サブローの控え目な突っ込みは、サクヤをはじめ全員から無かったことにされる。
「何それ。ほとんど決まりじゃない」
「水陸両用ニーベってとこですか。斬新ですねー」
 すぐさま同意を示すアンジェリカとマユリをよそに、シグは一旦自分の記憶と照らし合わせてみることにした。が、先刻の記憶を遡ってすぐにそれが無駄だと悟る。接近戦とはいえ、自分は常にある程度の距離を保って応戦していたし、例え濡れていたという事実の補強ができたとしても、それがニーベルングの潜伏先を決定づける要素にはならない。それに、後押しがあろうがなかろうが、次の一手を決めるのはサクヤの仕事だ。
「確証はないけど、それ以上に時間も無い。やるしかないだろうね」
「何か策が?」
意外だったのか、シグが半音高い疑問符を浮かべる。サクヤはまたもやオリーブを頬張りながら不敵に笑った。
「市街の警護は朝まで六番隊に任せて、僕らはこれから手分けして、運河各所の水質検査を行う。ニブル濃度が基準値を大幅に超えてなければそれでいい。その後の編成は……そうだな、立候補制でいこう。この中で泳ぎが得意な人!」
 サクヤのけしかけに、八番隊の面々は凝固した。数秒後に各々顔を見合わせる。誰も手を挙げないし、まさか推薦する者もいない。皆、本能的にこれだけは察しているのだ。手を挙げたら最後、地獄を見る羽目になる。
「ゼロかぁ……じゃあまあ仕方ないけど、この間の能力測定データを取り寄せてもらって」
「……いい。覚えてるから、私」
ナギが諦めたように深々と嘆息し、自ら挙手。その視線の先では、やはり自覚があるバルトが死刑宣告でも言い渡されたかのように堅く瞼を閉じて俯いていた。


 東の空が白んできた。
 あれから八番隊は、市内の運河24か所にポイントを定め水質検査を実施、全てのポイントでニブル濃度が(かろうじて)基準値以下であることを確認した。つまり、汚染はされているが、すぐさま死ぬようなレベルではないということだ。この結果はナギとバルトにとっては、非常に残念なものだった。
「必要な準備は整った。“フィッシング作戦”についてもう一度確認するけど、二人ともいいかい?」
二人とも──ナギとバルトは、生気も無く生返事だ。気力と体力が無いのは何もこの二人に限ったことではない。サクヤの言う「フィッシング作戦」の直接の遂行者に抜擢されなかった者たちも、不眠不休が祟ってひたすら省電力状態。深夜から今の今までひたすら市内巡回を続けている六番隊なんかは、ほぼウォーキングデッドだ。徹夜明けでハイになっているのはサクヤくらいか。
「僕とナギ、バルトはそれぞれ指定の三か所に分かれてニーベルングを文字通り“釣る”。バルトの餌は『人間』、つまり君自身だ。今までの被害者に年齢や性別の偏りはなかったから、バルトでも問題ないと思う」
 一睡もしていないのはサクヤも同じだ。思考は冴えているのだろうが、いつにも増して鮮やかに辛辣だ。後方で聞いていたリュカが笑いを噴き出す。彼にはまだそんな体力があったらしい。
「ナギはこれ。……申し訳ないけど、君しか適任がいない」
ナギが渡されたのは、小指大の試験管二つ。ひとつひとつが緩衝材を張り巡らせた厳重なケースに収納されている。グングニル機関が特別な管理体制の元所持する、ニブルの水溶液だ。ナギの知らない間に規定が改定されていない限りは、これの取得にも使用にも膨大な手続きが必要なはずだ。夜中の数時間で手に入る代物ではない。出所を問い詰めたかったが、聞くだけ疲れそうなのでやめておいた。世の中には知らない方がいいこともある。ぼんやりした頭で適当に納得すると試験管を受け取った。
「水中に流していいのね?」
「うん。ただし、さっき確認した位置からは絶対に動かないでくれ。効果が無いと分かったら水門を閉じる。その判断は僕の方でするから、ナギは合図を待ってくれ」
 ナギは黙って頷いた。
 ニーベルングは彼らの生命線であるニブルに寄り集まってくる。人間で言うところの酸素が、ニーベルングにとってはニブルというわけだ。一度補充したニブルは体内で長期間備蓄が可能で、彼らはその備蓄分をを生命活動に当てている。自分たちの生命線が、人間にとって猛毒たりえることが知れた現在では、惜しげも無くニブルを吐きだしてくる好戦的なタイプもいる。何にせよ、この「餌」はナギにしか扱えない。並はずれたニブル耐性を持つ彼女しか、ニブルの水溶液に浸かるなんて真似はできないからだ。
「俺は人身御供で、ナギはニブル漬け。こういっちゃなんだけど、随分危ない橋を渡ってんじゃないか、今回。加えて隊長自身があれだろ……」
顰め面のバルトの視線の先には、真っ黒なゴミ袋を二つ抱えたサクヤの姿がある。どちらもそれなりの重量があるようで、立ちあがる際に「よいしょ」なんて爺むさい声が漏れていた。中身に関してはこの場にいる全員が承知している。故に全員が揃って後ずさる。サクヤは隊員たちの反応などお構いなしに、きびきびと魔ガンのチェックを始めた。
 ブリーフィングを終え、バルトもナギもそれぞれの「餌」を持って所定の位置に向かう。六番隊には、街中に潜伏しているであろうバーディ級ニーベルングをおびき出したたく、という作戦の概要のみを伝えてある。それだから早朝一番、ざぶざぶと水路に入っていく三人の姿は奇怪なものにしか映らない。皆、訝しげに顔を見合わせていた。
「う~……。ニブルどうのこうのの前に風邪ひきそう……」
 ジャケットを脱ぎ、シャツだけになったナギが、ぶつくさと独りごちながら運河の真ん中まで進む。つま先立ちでぎりぎり顔が水面に出るくらいだから、バランスを崩せばすぐさま頭まで水に浸かることになるだろう。それだけは避けたい。運河の水質はニブル汚染度を抜きにしても、お世辞にも綺麗とは言い難い。
 可能性は低いだろうと思いつつも、ナギは渡された試験管の中身をぶちまけた。たいして美しくもない水面は、広がるニブル水溶液のおかげで更にどす黒く変色していく。この光景だけで、もりもりと罪悪感が湧いてきた。それを遮断して、橋の上に待機しているシグに視線を投げる。後は獲物が網にかかるのを待つだけだ。
 一方、オペラ座に程近い運河では、バルトがヤケクソ気味に波をきっていた。橋の上にはリュカとマユリ。餌であるバルトには適度な味付けが必要だとかなんとかで、塩コショウだのトマトソースだの思い思いに案を挙げてくれる。楽しそうだ。そして究極的に鬱陶しい。和気あいあいと調味料トークを繰り広げている二人を睨みつけながら、バルトは手持ちのナイフで左ひじから手首にかけて浅く切り込みを入れた。間髪いれず橋の上で悲鳴が上がる。
「うわあああ! バルトぉっ! 何でこの状況で壮大に自決しようとしてんだよっ」
「いやあああ! バルトさんが死んじゃうよぉぉ! ……それ困る! まだ『死後、ハーゲンはマユリちゃんに譲ります』って遺言書いてもらってないから!」
二人仲良く手すりから身を乗り出して、バルトの死を悼んでくれる。否、どこか愉快そうだ。こいつらは、橋上で静かに待機という子どもでも守れる指示が守れない。バルトの額に特大の青筋が浮かび上がった。
「すっこんでろ、このボケナスコンビが! 釣りは静かにやるもんだろうが! お前らのおかげで来るもんも来なくなっちまう……っ」
運河に輸血しながら鬼の形相で仲間を威圧。ボケたナスのコンビは揃って静かになったが、餌本人が一番の騒音をまき散らすのだから本末転倒である。リュカとマユリは橋の手すりよりも低くしゃがみこんで耳打ちしあう。
「あれだろ? とりあえず人間の餌っつったら、血流しとけば何かしら寄ってくるみたいな短絡思考ってことだろ? ニーベルングが血液大好きっていつ聞いたよ? 初耳だっつーの」
「仕方がないじゃないですか。餌がそもそもバルトさんなんですよ? 本人も付加価値が必要だと考えたんじゃないでしょうか」
「冷静に考えてみろって。血ぃ垂れ流してるバルトと、垂れ流してない美女だったらどっち選ぶ?」
「美女ですね」
「な? あの垂れ流し攻撃に何の価値があるってのよ」
「血迷ってるということでしょうか」
「お! さすがマユリっ。うまいこと言──」
 リュカの背中に悪寒が走った。恐る恐る手すりから頭だけをのぞかせる。と、眼球を血走らせたバルトが仁王立ちでこちらに銃を向けていた。徹夜明けのバルトはやることなすこと直球すぎる。リュカは何も言わずに両手を挙げたが、時すでに遅し。バルトの銃は腹いせとばかりにあっさりと火を噴いた。


 遠くで微かに聞こえた銃声に、サクヤは顔を上げた。橋の上で肩をすくめるアンジェリカと目が合う。これが魔ガンの発砲音だったなら血相を変えたところだが、今はアンジェリカと同じ反応で留めておく。
「隊長ー。ここから落としていいんですねー?」
アンジェリカの横からサブローが顔を出す。先刻サクヤが抱きかかえていた黒いゴミ袋二つを掲げる。心なしか、顔全体が引きつっているように見えた。サクヤが頷くのを待って、ゴミ袋の中身を運河にぶちまける。どす黒い漬物石のようなものが、二つ、結構な音と水しぶきをあげてサクヤの横に落ちた。サブローもアンジェリカも、やはり砂利を噛んだような渋い顔つきだ。サクヤだけが、平常通り。胸まである水から守るために、魔ガンは頭上で構えたまま静止する。
「聞ける雰囲気じゃなかったから黙ってたけど……あれでニーベルングが寄ってくると思う?」
「さあ? 少なくともサクヤ隊長は思ってるんでしょ。だったら私たちが口出す余地はないんじゃない?」
「まあそうなのかもしれないけど……。なんでこういう発想に辿り着くのかが俺にはさっぱり分からないっていうか。根拠があるんだよな、きっと。なんかこう、サクヤ隊長とかの、一部の人間は知ってる事実みたいな」
サブローの遠回しな言い草に、アンジェリカは思いきり不快を顕わにして半眼を晒した。
「……サブロー、あなた結局何が言いたいわけ? サクヤ隊長の頭の中がぶっ飛んでるのは今に始まったことじゃないし、その根拠が何だろうが私は知らないし興味も無い。……そのあたりを詮索するならそれなりに覚悟を決めなさいよ」
予想以上に攻撃的な切り返しをみせるアンジェリカに、サブローは思わず後ろ手に頭をかいた。普段は中立を装うから忘れていたが、アンジェリカの隊長崇拝レベルは随一といっていい。
「いや、違う。そういうつもりはない。単純な好奇心ってやつだよ。たまに確認いれないと、自分の感覚が一般的なのかどうか怪しくなってくるだろ。特にあの人といると……」
 薄汚れた運河の真ん中で、サクヤは先ほど投げ入れられた塊の配置に頭を痛めている。凝るべきところは絶対にそこじゃない。あ、顎先に右手まで当てがっている。かなり真剣ではないか。
「その点においては、サブローの意見に賛成ね」
アンジェリカも呆れたように嘆息して、唸るサクヤを見下ろす。あの塊を何の躊躇も無く「餌」にしようなどという発想は、まず自分たちにはない。サブローが不審がる(というより不安がる)のも無理はない気がした。
 サクヤの両脇に沈められたのは、昨日シグとサブローが仕留めたバーディ級の肉片である。ほとんど丸焦げ状態だったそれから、できるだけ焼けていない部位を選別して解体したのはサクヤだ。その時点で常軌を逸している。徹夜明けの疲れた思考回路でなければ、何人かが全力で制しにかかったと思うのだが、結果的にはこの状況になっただろう。ニーベルングは共食いしない。もっと言うなら、人間を食糧とするといったイメージもでっちあげだ。彼らが行う破壊と殺戮はそれそのものが目的であり結果である。そうは思ってない人の代表があそこで肉片
と共に運河に浸かっているわけだが。
「サブロー、アンジェリカ。悪いけど退路を塞いでくれないか」
前触れも無く、緊張も無く、当然焦燥も無く、サクヤが声だけを張る。聞き返すまでもなく二人の体は条件反射で動いていた。動いてから眼前の光景に目を奪われて、とりあえず噎せる。妙な器官に酸素を目いっぱい送りこんでしまったようだ。
 サクヤの前へ、浮島がゆらりゆらりとにじり寄ってくる。さながら鰐の頭蓋だ。それが何であるかは確認するまでもなかった。
「隊長!」
このまま水中で下半身を噛みちぎられでもしたら洒落にならないな、とじっくりのんびり想像してから足元に一発威嚇射撃を放った。必要以上に火力があるから、それだけでとんでもない水柱が聳え立つ。運河の底が一瞬顕わになった。水柱の中央に、ニーベルングの陰影がちらつく。
 グギャアアアアアアア! ──猛る。猛り狂うその黒い影に、サクヤは心を奪われた。目の前の獣は怒りに我を忘れている。哀しみに押しつぶされている。思い込みではなく、そうとしか捉えられない淀んだ瞳に、冷徹に魔ガンを構える自分の姿が映し出されていた。
「……すまない」
重くこぼれ出した言葉とは裏腹に、指先は既に引き金を引いている。
「こういう手段をとりたかったわけじゃないんだ。ただ、僕らにも守らなければならないものがある」
 言いながら大層な量の返り血を浴びた。ジークフリートの威力を以てすれば、バーディ級の頭部など跡形も無く消し飛ぶ。例の強固な皮膚が防御壁となって、周囲にはほとんど衝撃がもれなかった。ただ巨大な風船を力の限り押しつぶしたような軽快で不快な破裂音が轟いただけだ。
「ほんとに出た……」
サブローはただ唖然としている。それを改めて認識する前に標的は塵芥になった。残った尾だけが異常に元気に跳ねまわっている。巨大なトカゲの尻尾切りのようだったが、その実は逆の現象である。
 後始末という一番億劫な作業が残っているが、サクヤは一旦何も考えず運河から出ることにした。何か途方も無い疲労感と嫌悪感がのしかかってくる。達成感が無いのはいつものことだが、こう鬱屈とした気分も久しぶりかもしれない。深く、ただ深く息を吐く。
 どれくらいそうして瞑想していたのか、気がつくと方々に散っていた八番隊隊員は全員事後処理のために集まっていた。
「お疲れ様」
 ナギの声と差し出されたタオルで我に帰る。そうだ、ナギとバルトには結果的に無駄足を踏ませている。そうでなくても全員不眠不休で空腹だ。部隊長がこんなところで立ったまま寝ているわけにもいかない。考えるべきことは後でいい。今はやるべきことを優先させよう。
「六番隊に撤退指示を出してくれるかい。ここの後始末が済んだら、僕らも帰ってきちんと休もう」
「市民誘導はどうするの?」
「僕の方でやる。多少説明もしないとまずいし、まあどうせ日を改めてもう一度来る必要はあるだろうけどね。そうだ、ナギは……体の方は何ともない?」
ごく自然に、おそらく無意識にサクヤはその心配を口にした。高濃度のニブル水溶液にどっぷり浸かること数十分。ニブル病を発症するには充分すぎる時間である。他の隊員なら、否、他の全ての人間だったら今頃生死の境をさまよっているはずだ。
 ナギは困ったように笑って小さく嘆息した。大丈夫だと、何ともないと言って流していい会話だったのだと思う。それがナギ・レイウッドの取り柄で、他者とは一線を画すグングニル隊員としての強みだ。そう信じて生きてきた。そう信じて、周囲全てを欺いてきた。そのことにサクヤはもう気付いている。
「大丈夫。何ともないよ。それよりバルトがなんか謎の怪我してる」
「え? なんで?」
 ナギが指さす先で、冷えと失血で青ざめたバルトがアンジェリカからこっぴどく叱られている。その後方でリュカが腹を抱えて笑っているが、彼は一体全体どこにそんな体力を隠し持っていたのか疑問である。
 ひどい睡魔が襲ってきた。山積みとはいかないまでもまだ仕事が残っているから、こんなところで悠長に立ち話をしているわけにもいかない。ナギも自分の職務に戻ろうと踵を返した。そこへ──。
「ナギ」
 呼ばれ慣れたその名が、誰か見知らぬ他人の名のように聞こえた。心の奥で、そんなことはないとかぶりを振った。
「何?」
「帰ったら、君の淹れた紅茶が飲めると嬉しい」
 虚を突かれた。大仰に呼びとめて、いつもとそう変わりないことを言うサクヤ。しかしそれも少し違うとすぐに気づく。彼はたぶん、話をしようと言っているのだろう。サクヤとの付き合いも長い。これくらいの主旨が読めなくて何が補佐官か。そんな風に考えると無償に笑いを誘った。だからこみ上げてくるままに笑顔をつくった。
「じゃあ、とびきり香りの良いのを」
 ナギの機嫌が訳も分からず良さそうなので、サクヤも訳が分からないままつられて笑った。睡眠も食事も、単純な休息も足りていなかったが、とにかく今は早く帰っていつものようにナギの淹れた紅茶の香りに包まれたかった。


 ビフレストの事後処理は、いつにも増して熾烈を極めた。大所帯の六番隊を速やかに撤退させる、それだけで普段の倍の時間と労力を費やした。ゾンビさながらになるまでこき使った代償は高い。今後しばらくは廊下ですれ違うたびに舌打ちくらいはされるだろう。それに加えて、ビフレストの市長がとにかく話の通じないタイプだった。破損、汚損した運河とオペラ座の修理費に、グングニル滞在期間中の商業利益の損失分まで上乗せして申請してくるものだから一向に話に折り合いがつかない。この処理に関しては一番隊に丸ごと投げた。彼らの要領の悪い初動調査がビフレスト市民の反感を買った発端でもあるのだから、これくらいは受け持ってもらうのが筋である。後は、どこからともなく現れたニブル水溶液の出処や、その使用を誤魔化す方法を考えたり、討伐後のニブルの死体を解体した事実をうまくねじまげる出まかせを考えたりと、まあ最後の方は自業自得の類なのだが。
 それらをある程度片づけたときには、窓の外にはすっかり夕焼け空が広がっていた。八番隊隊長執務室の窓から見えるその色は、テーブルに並んだ淹れたての紅茶の色に似ている。カップからはのんびり湯気が立ち上り、それと同時にシナモンの香ばしい薫りが室内に広がった。
 サクヤは黙ってティーカップに口をつける。香りと、温かさを堪能しているようだった。このままソファーに横になれたらどれだけ心地が良いだろう。知らず、深い吐息が漏れていた。
「リラックスしてるとこ、こういう話もなんなんだけどさ……。今回どうして、ああいう方法に出たのかちょっと気になってるんだけど」
「方法? ああ、“餌”のこと?」
直接的な表現は憚られるので、その都合の良い単語を用いることにする。
「そうだね。まず、一晩に一人ずつ殺されるっていうのが始めから気になってた。夜間に徹底されてるのも、必要以上に無残に殺されてるのも、ひっくるめて辿り着く動機がひとつしか思い当たらなかった」
「動機? ニーベルングの動機、って意味?」
また耳慣れない言葉が飛び出した。
「そうだけど……何かおかしいかい?」
「いえ。どうぞ、続けて」
「イーグル級以上のニーベルングは破壊活動に突出してる。一体で街ひとつは壊滅させられる、言ってしまえば分かりやすい脅威だ。じゃあバーディ級以下はどうするのか。同じように脅威となろうとするなら工夫が必要だ。だから彼らは陽動とチームワークを駆使して、僕らに“得体の知れない恐怖”を与えることに徹した」
「待って。待って待って。なんでそこで恐怖心? 結果的にはそうだったよ? 気味が悪くて皆怯えて……でもそれって何の意味があるの。ビフレスト市民全員やっつけるにも相当な日数と労力が必要になるじゃない」
「……君はどういうときに、相手に恐怖心を植え付けようって思う」
 あ、また。その質問。──以前もそんな風にして、自分ならどうするかと問われた。あれはリベンティーナの時計塔でだったか。何故この男は毎度毎度なんの疑問も抵抗も無く、ニーベルングを人間に照らし合わせようとするのか。
「思いませんっ。そんなまどろっこしい真似しようと思ったこともない」
「ナギらしいね」
サクヤが思わず顔を背けて笑いをこぼす。
「前にも言ったけど、彼らの行動はあくまで手段だと僕は思ってる。破壊や殺戮そのものが目的じゃない。今回の件で、その輪郭が少し確かなものになった気がする。……僕らはどうも、ニーベルングからひどく憎まれているんじゃないかな」
 憎悪には必ず理由がある。それこそがこの世界を歪めている根幹ではないのだろうか。
「今回はその憎悪を逆手にとらせてもらった。僕らにとってあれは単なる死骸でも、彼らにとってあれは……同胞の亡骸だ。冒涜していいものではない。なかったんだ、本当は」
あの行為は人道から大きく外れている。そんなことは承知の上で実行した。あのとき呟いた通り自分たちにも守るべきものがあり、それを最優先させただけのこと。後悔は無い。ただ嫌悪感だけが今も渦巻いている。ニーベルングの眼は、怨念に満ちていた。そうさせたのは外でもない自分である。
 ナギはナギで、イーヴェル戦での光景を思い出していた。先頭のニーベルングを討ち取った際、その死を悼むように後から後からニーベルングが湧き出てきたのを覚えている。あれは生物の本能的な行動ではなかった。もっと理知的で、感傷的ではなかったか。
「……ひとつ、訊いてもいい? サクヤが思うように、ニーベルングがそういう……人間の情の部分を持ち合わせた存在だったとして、その憎まれている対象の“僕ら”っていうのは、人類っていう意味? それとも……グングニル機関?」
サクヤは曖昧に笑って、誤魔化すように紅茶をぐいと飲む。事実は不確定でも、少なくともサクヤがどう考えているかは承知することができた。それと同時に言いようのない不安が脳裏をよぎる。その思想は果たして自分たちが抱いて良いものなのだろうか。
「僕もひとつ、君に訊きたいことっていうか、確認しておきたいことがあるんだけど──」
 サクヤはただ何の気なしにティーカップを置いただけだ。その所作ひとつで場の空気が変わった。殊ナギの周辺で、空気は気体ではなくなっていた。息をとめたその一瞬で溺れそうになった。
 鈴の音が鳴る。リンと鳴る。弾けるように、歌うように、何かを祝福するように優しく鳴る。おめでとう。良かったね。貴方は解放される。貴方という偽りから自由になれる。
(ああ、それでも……)
できればもう少し、偽りに酔っていたかった。積み上げてきた虚構があまりにも幸せで貴いものだったから、許される限りすがっていたかった。それも今日でおしまい。はじめからそう覚悟して、この部屋に来た。
 サクヤの唇は動いてほしくない形に動き、発してほしくない音を発する。
「ナギ、君は、……ヘラに住んでいたことがあるよね?」
 鈴の音が鳴る。リンと鳴る。素敵なオペラの終幕を、讃えるように鈴が鳴る。
 ナギの唇は彼女の意思に反して、何とも往生際の悪い台詞を吐いていた。
「調べたの……?」
「いや? ナギに聞けば済むことだから」
その通りだと思った。聞けば一瞬で済むことを、ナギはわざわざ調べたのだった。

 ユキスズカ草。
 スズカ科。花は真っ白で、鳥の羽のような独特な質感。また、開花の際に揺れる胚珠から鈴のような美しい音が鳴ることからこの名がつけられた。

「……じゃあ、違いますって言ったら、それで納得する?」
「ナギがそう言うなら、そうなんだと思うよ」

 内陸の寒冷な平地に根付きやすいようだが、その生育条件は厳しく解明されていない点が多い。現在分布が確認されているのは中央・アルブ地区の一地域と西部・ヘラ地区のみである。
「……嘘ばっかり」
 サクヤの優し過ぎる嘘が、なんだか嬉しくて哀しかった。笑わないとなと思って口元を緩めるときちんと笑顔をこぼすことができた。サクヤは怒っているわけではない。憐れんでいるわけでもない。ただ穏やかな微笑を携えて、ナギの言葉を待っている。
 ユキスズカ草は、事実アルブにしか咲かない。ヘラという土地にも咲くと図鑑には書いてあった。その土地の名には注釈が付されていた。「826年のニーベルング大襲撃により壊滅し、現在は存在しない地区名」だそうだ。そういうアスタリスクが必要な地「ヘラ」が彼女の生まれた場所だった。家の周りには年中ユキスズカが咲いていた。群生地もところどころにあって、その景色は絵画のように美しく、開花の鈴の音は常にどこかで鳴っていた。
 忘れえぬ光景。忘れてはならない記憶。と同時に心の深い深い奥底に閉じ込めてきたもの。優しく気丈で美しい母、穏やかで聡明で正義感の強い父、たくさんの友達、初恋の男の子、大好きだった全ての思い出──実を言うと、もう鮮明には思い出せない。記憶を辿ると、強烈な吐き気と恐怖に襲われる。今もかろうじて思いだせるのは、冷たく暗いカタコンベでうずくまっていた自分に手を差し伸べてくれたグングニル隊員の柔らかな笑顔だけだ。
 彼女はそうしてただ一人、ヘラ・インシデントから生き残った。そしてナギ・レイウッドという人生を新しく積み上げることにした。世界は「ヘラの生き残り」という奇蹟を血眼になって探していたけれど、自分には無関係だと思った。全ての人間が死に絶えるような毒の霧ニブルの中で、全ての人間を食らい尽くそうと闊歩していた何百というニーベルングの中で何故生き残ることができたのか──人々はそれを奇蹟だと言った。希望だと言った。人類の導き手だと言った。しかしそれらはナギ・レイウッドには関係がないことだ。ナギは、ニダ区の牧場で生まれ育ち、父でありグングニル支部長であるディランに憧れてグングニル隊員になる。そういうありがちな人生を歩んできた少女なのだから。
 ああ、それでも「ナギ」という人間のこれまでの歩みは自分には勿体ないくらいに輝いていたと思う。温かい家族に恵まれた。信頼できる仲間と巡り合えた。そして──。
「私、もう八番隊にはいられないね……」
 ぽつりとこぼす。琥珀色のシナモンティーに儚げな波紋が広がった。ゆらりと自分の顔が揺れる。サクヤの反応が無いのが気にかかって、ひとまず顔を上げた。彼はというと、
「え!? どうして!? 転属したいの!?」
ワンテンポ遅れてのこの反応である。サクヤは大きく眼を見開いて、嘗てないほどの危機感に襲われていた。わけがわからないのはナギの方である。この人、今まで寝てたんじゃないだろうななどと仕様のない疑いを抱かざるを得ない。
「は? だ、だって……“ヘラの生き残り”なら、最前線とか、研究所とか、そういうところに行って責務を果たすのが筋ってもんでしょう?」
「うーん、規定はないんじゃないかなあ。それに“ヘラの生き残り”の少女は、その後の消息は一切不明らしいし、ある意味都市伝説みたいな存在だよね? ツチノコとか河童とか口裂け女とかと同じレベルの話だと思うんだけど」
「あのねぇ……」
何と言う馬鹿馬鹿しい例えだ。サクヤの脳内では“ヘラの生き残り”という存在は珍獣に等しいらしい。からからと笑うサクヤの前で頭を抱えるナギ。と、その笑い声が止む。何とも言えない無音の間があった。サクヤは小さく吐息をつく。それは意を決するための儀式だ。
「……その子は重荷を背負うために生かされたわけじゃない。その子に課されるとすれば、幸せに生きることそのものなんじゃないかな。僕は、その子が今幸せに過ごせていればその場所でいいんだと思う」
ナギはただ言葉を呑んだ。呑みこむしかなかった。サクヤの言葉に新鮮味はない。この手の解釈を繰り返し正当化していなければ立っていられなかったのだから、当然と言えば当然だ。何の新鮮味もない、ありきたりな赦しだ。そしてそれを今まで誰も口にしてはくれなかった。
 ナギは言葉を呑んだ。何か言わなければと思ったが喉を通らない。
「っていうのは“ヘラの少女”の話であって、僕が聞きたいのはナギ・レイウッド曹長が八番隊から転属したいのかっていうことだよ。補佐官のいきなりの転属願となると、既に地に落ちてる上層部の僕への評価もダダ滑りなわけで、いろいろ弊害が出てくるんだけど……」
そこまで矢継ぎ早に、崖っぷちの現状と想定される今後の分析を披露したところでナギが噴き出した。いや、待ってほしい。サクヤとしては心外極まりないのである。今の生真面目な解説に笑いどころはひとつとしてないのだから。
「ナギ、今は結構真面目な話をしてるところだよ」
「分かってるっ。結構も何も、あなたいつだって真面目でしょう?」
 サクヤの中では“ヘラの生き残り”は間違いなくツチノコと同等で、幸せに暮らせるならどこに居て何をしていても良い存在なのだ。そんなことよりも今一番問題視すべきは、絶対の信頼を置いている補佐官の突然の転属発言であり、それを何とか説得して回避するということである。サクヤはここ一年で一番と言っていいほどに焦っていた。そういうサクヤも珍しかったし、何より、自らの評価が地に落ちていることをそれとなく自覚しているあたりも、ナギにとってはかなりツボだったのだが、これ以上笑いをかみ殺すのもかわいそうだ。
「……問題ありません隊長。レイウッド曹長、今後もサクヤ隊長の補佐官として八番隊に所属を希望します」
それがナギの、心からの願いだ。それが叶うなら、他の物は何もいらないと思った。ここに居ていいと──居てほしいと──ただ言われたかった。
 サクヤは笑ってくれた。いつもの穏やかな微笑ではなく、目尻を目いっぱい下げて「ありがとう」と言ってくれた。その笑顔が夕陽に照らされて、とても綺麗だったから悲しくもないのに涙が出たんだと思う。その雫が、ぱらぱらと雨粒みたいに落ちてティーカップに吸い込まれていった。
 室内は鮮やかなオレンジ色。シナモンの香りに包まれて、ただ涙が止まらなかった。

episode vi ジェリービーンズを7つ

 ナギは通りを眺めていた。朝と言っても日が昇って久しいこの時間帯は、緊張した面持ちでオープンカフェの一画を陣取っている彼女のような存在の方が異質である。目の前の通りには、それぞれの一日をそれぞれの形で始めようと行き来する人々で溢れかえっている。そんな賑わう街角から切り離されたかのように、ナギは一人、唇を真一文字に結んで座っていた。
 視線をテーブルに落とす。二杯目のミルクティーが底を突こうとしていた。
「午後は雨になりそうだね」
 突然振って来た声よりも、突然ひかれた向かいの椅子の音にびくついた。当然のように座る男は、寄って来たウェイターにコーヒーを頼むと、抱えていた紙袋からスモークサーモンのサンドイッチを取り出した。朝食は摂っていなかったらしい。悪いことをしたなと、ナギは胸中で詫びた。
 緊張の理由はいくつかあったが、そのひとつは間違いなくこの状況にある。非番の日に、私服で、グングニル塔外でサクヤと会うというのは、そうそうあることではない。なんてことをいちいち気にしているのは相変わらずナギの方だけで、サクヤは通常運転だ。コーヒーを運んできた無愛想な給仕に、にこにこ御礼を述べている。
「それで……その、どうだったの?」
「残念だけど、ヘラ・インシデントの前後一年の記録だけがまるまる抜けてたよ。第二層以下に保管されているか、そもそも無いかのどちらかだ。僕らが思っているより隠匿されているみたいだね」
予想していたのか、サクヤは何でもないことのように淡々と事実だけを述べた。ナギも調子を合わせて気の無い返事をするが、胸中では派手に嘆息をかましていた。
 ナギがサクヤに依頼したのは、11年前、即ちヘラ・インシデント当時のグングニル第二番隊についての情報だ。崩壊したヘラで、唯一の生存者を救出した二番隊──ナギが知りたがったのは、命の恩人についての情報で、他意はない。塔内の図書室には過去5年間の記録しか保管されないから、それ以前の記録は一般隊員の入室が許可されていない地下の資料室にあるのだろうと漠然と考えた。そういうわけで意を決して、サクヤに地下へ赴いてもらったのである。但し、彼の権限で閲覧できるのも地下第一層まで。僅かな希望も、ここで手詰まりというわけ
だ。
 ナギは改めて、深々と嘆息した。あてつけのつもりはない、気持ちを切り替えるためだ。
「まあなんていうか……絶対知っておかなきゃってわけでもなかったし、いいんだけど……でも、ちょっと気持ち悪くもあるよね。たった11年前のことなのに、誰も何も知らなくて、そこだけぽっかり情報が抜けてるっていうのも」
「そうだね。ちょっと気持ちが悪いというか、吐き気がする程度には」
サクヤは先刻と変わらぬ調子で強烈な皮肉を吐く。彼にとって、それが何であるにしろ「情報が隠ぺいされている」というのは、容認しがたい状況なのだろう。妙なところに火を付けてしまったようだ。
「それはそうと、もうひとつ気分の悪い報告があるんだけど聞くかい?」
「えーと……そうだね。とりあえず、サクヤの食事が終わってからにしようかな……」
 サクヤもその通りだと言わんばかりに大きく頷く。食事は美味しく楽しく。たとえ、天気がぐずぐずで遠雷なんかが鳴っていようが、休日にふさわしくない物騒な話題しか持ち合わせていなかろうが関係ない。サクヤは手早く最後のサーモン片を呑みこむと、追加のコーヒーを二人分注文した。
「レーヴァテインの代表、覚えてる?」
 サクヤの切り出しに、ナギは反射的に眉を潜めた。覚えているもなにもない。
 大陸最大規模のニーベルング信仰団体“レーヴァテイン”──ニーベルングを神格化し、共存を図るのが彼らの教義であり目的。その目的達成の要として、代表であるシスイ・ハルティアは何故かナギを指名してきたのだ。それもかなり手荒な手段で。
「覚えてるもなにも……選ばれただとか、人類を導く巫女だとかなんとか。なんだったっけ、還元すべきチカラ? を私が持ってるとか……」
いや──それだけじゃない。何か、根本的に妙なことがあのときあったはずだ。その気持ち悪さに似た違和感は、その後しばらくつきまとっていたはずなのに何故かすっかり抜け落ちている。思い出せ。シスイは何か、とんでもないことを口にしたのではなかったか。
「声が、出るようになったとか」
心臓が早鐘を打つ。シスイは、ナギの名前を知っていた。ナギの声が、かつて出ていなかったことを知っていた。そして、随分昔に一度会ったことがあるとも。──とある特殊な状況と場所で。
 体中からさざ波のように血の気が引いて行くのが分かった。口元を覆う。気持ち悪い。気持ちが悪い。吐き気がするほど綺麗にパズルピースがおさまっていく。
「シスイ・ハルティアが……あのときの二番隊に居た、ってこと?」
「断定はできないけどね。インシンデントより五年前の隊員名簿には彼の名前があった。入隊当初は一番隊だったみたいだけど、その後転属した可能性は否定できない。彼が、当時の二番隊にいて、“ヘラの生き残り”を救出した一員だと仮定すれば──」
「つじつまは合うね。確かに、気持ち悪いくらい」
苦虫をかみつぶしたような渋い顔で、ナギはなんとか苦笑いをつくった。
「声が出るようになったんですね、とか言ってたんだよね。……そのとき気付くべきだったのかも。私が、“声が出せないショック状態”にあったのは、ヘラ・インシデント直後から半年くらいだったから。……っていうことは、あの男は私が“ヘラの生き残り”だってことを初めから知っていたってこと、よね?」
「だと思うよ。要するに、ニブル環境下に完全に適応する能力に目を付けたんだろう。目を付け続けていた、っていう方が正しいのかな」
「待って。それ、本当に気持ち悪いから」
言いながら全身総毛立つ。ナギは、変質者を眼前にして身動きがとれなくなった少女のように両腕を抱えた。ちなみに眼前にいるのはサクヤであってシスイでも変質者でもないのだが。
「うわー……そっか、いろいろ分かってきた。あいつが言ってたのは、私が持ってるニブルの適応力みたいなものを、人類に提供しなさいって意味よね? って言ったって、自分でもどうしてそうなってんのか分からないんだからしょうがないじゃない」
「突然変異、生まれつきってことなら原因を探るのは難しいな。……ご両親は、どうだったの」
「両親? 父さんと母さんは──」
 その単語ですぐに頭に浮かんだのが、ディラン・レイウッド。引き取り手であるレイウッド家の家長、グングニル中部第二支部の長、ニダ区を統べる牧場主、ナギの名付け親で育ての親。──いやいや、違う。遺伝の話をしているのだから今は実の両親の話だ。と、意識的に頭を切り替えたはずが、すんなり出てこない。その記憶の扉には厳重に鍵がかかっていて、何故かすぐ近くで鈴の音が鳴るだけだ。
「……ナギ」
 リンと鳴る。鈴の音。ユキスズカの開花の音。美し過ぎる、警鐘。
「ナギ」
サクヤの声は落ち着いていた。ただ、軽く揺さぶったつもりのナギの肩は案外に激しく揺れた。
「ごめん。今のは考えなしの質問だった」
「え、ううん。こっちこそ。ごめん。うまく……出てこない、けどニブル耐性とかは無かったと思う」
 それを証明する出来事があったはずだが、それについては思い起こすのを止めた。その一連の手順に罪悪感を抱く自分がいる。うろ覚えの母の笑顔、おぼろげな父の背中。鍵つき扉の前に佇むのは靄のかかった嘘か誠かも分からない虚像だ。
「サクヤはどう思う? 本当にこれが“チカラ”だと思う……? 今の世界構造を変えるような……?」
「さあ、どうかな……。重要なのは君がどう考えるかだし、それに、僕の意見は前に言ったとおりだよ」
 ──その子が今幸せに過ごせていればその場所でいいんだと思う──良くも悪くも世界の一構成員でしかない人間が、その一個人が世界に対して権利だの義務だのを持ちだす方がどうかしている。そう思うから、サクヤが言ったことは嘘いつわりの無い本音だ。ただ、そうは思わない者が多いのも事実である。
(シスイ・ハルティアもそうだけど、フェン先生も……知れば目の色変えて手に入れようと思うだろうな)
 悪意の無い残酷さを持っているところが、恩師の良いところであり恐いところだ。ナギが自分の居場所に罪悪感と恐怖心を持つのは、暗にそういう人種の存在を知っているからだろう。そんなことを思っていると、嫌な考えが脳裏をよぎる。
(僕は……“ヘラの生き残り”がナギでない誰かだったら、同じ台詞を言ったんだろうか)
幸せならその場所に居ていいと、言えただろうか。結論が、望まぬ方向で出ようとしていたから考えるのを止めた。悪意の無い残酷さなら自分も持っている。それは随分前から知れたことだ。
 サクヤは一度天を仰いで大きく嘆息した。
「そんなあからさまに溜息つかなくても」
「え、違うよ。これは自分にというか。……いや、まあいいか。とにかく止めよう、この手の話はどうも休日向きじゃない」
 そうだ。話題も天気もとかく休日向きでない。雷も遠くの空でしつこく、誰それの腹の虫のようにごろごろと鳴りつづけている。このままだと午後を待たず、最初の一粒が降ってくるだろう。立ち上がったサクヤ、またもやナギは椅子を引く音に驚いて顔を上げた。
「あ、帰る?」
「え? 帰るの? 予定があった?」
立ち上がったのはサクヤの方なのに、何故かオウム返しされる。わけがわからない。ナギは素直に特大の疑問符を作りつづける。
「ないよ? でもさっき休日向きじゃないって」
「うん。だから休日らしいところにどこか寄り道しよう。せっかく外に出てきたんだし、雨が降らないうちにね」
 ナギが呆気にとられている内に、会計は済まされてしまった。やっぱりわけがわからない。グングニル隊員としては、本日の話題はかなり際どいラインだと互いに了解し合ったから、必然、塔外で落ち合おうということになったのではなかったか。で、その本題は今しがた強制終了した。理由は明確、休日向きじゃないから。
 鼻唄混じりに歩きだすサクヤの後を、ナギは小首を傾げながら追うしかなかった。深く考えるのはやめよう。雨が降るまで、休日を楽しむのも悪くない。


 一方、グングニル本部塔八番隊執務室。主不在のため室内はひっそり、ということもなく、いつにもまして「ギャアー!」だとか「うわああ!」だとかの奇声が飛び交っていた。発生源はチェスボードを囲んでいるバルトとサブロー、とりわけバルトの方が定期的に絶叫をあげる。彼らに限ってはチェスも、優雅さだとか聡明さだとかは無縁の生き汚いゲームに成り下がる。
「非番の日まで職場に来ちゃって、ほんっと暇よねー」
呆れ気味にアンジェリカが覗き込んできたが、対戦中の両名は彼女の嫌味に構っている余裕はない。盤上では、明らかに力押しのバルトの駒と、技巧に凝り過ぎた貧弱なサブローの駒がちぐはぐと熱戦を繰り広げていた。
「ねえ、そこ。ビショップ効いてるんじゃないの? その二手先で、ナイト捨てることになるけど」
「ぬあああ! うるっせえなあっ。分かってるっつーの! 邪魔すんなっ、あっち行けっ、しっし!」
 大混乱中のバルトは見ていて面白いので、今回の暴言は聞き流してやることにする優しいアンジェリカ。この二人は度暇になるとこうやってチェスで対戦を始める。二人の目標は実は同じで、最終的にはこの部屋の主を打ち負かすところにある。サクヤはアンジェリカが知る限りでは連戦連勝引き分けなし、文字通り無敗の帝王だ。
 そうこうしている内に勝敗が決したようで、サブローが静かにガッツポーズ。今回は技巧派に軍配が上がったらしい。
「あー、バルト相手だと絶好調なんだけどなー。こりゃちょっと格上と練習しないと隊長までの道のりは遠いかもな」
「言ってろ言ってろ。そんでまた瞬殺されて俺たちに笑いを提供してくれ」
「そういやサクヤ隊長は? ここに居ないって珍しくない?」
「隊長なら朝方街の方に下りてったわよー。もっと早くに出かけてったのもいるから、今頃仲良く過ごしてるんじゃない?」
駒を並べなおしていたサブローの手が止まる。ここに居ないのは、朝から教会のミサに(寝るために)参加しているシグと、おそらくまだ寝ているだろうリュカ。マユリは今まさに隣で、床に座りこんで魔ガンのカスタマイズに夢中になっている。前者二人はあり得ないから、そうなると一人しか該当者がいない。そもそもそんな消去法は用いなくても辿り着く結論なのだが、サブローは派手に、力強く、腹の底から「え!」などと叫んでいた。
「仲良くって……うわ、え、マジ? そんななってんの? なってたの? いや、そうなのかなあとか、そうなるのかなあとか思ってはいたけど」
 今度はサブローがそわそわとうろたえ出す。それよりは幾分落ち着いて、というよりどこか困ったように頭をかきながらバルトが口を挟む。
「隊長と……ナギは、その、結局そうなのか」
「さあ?」
間髪いれずアンジェリカ。肩まで竦めて、我関せず。
「さあってなぁ……」
「だって知らないもの。本人たちから聞いたわけじゃないし。ただ前と、空気が違うから勝手に私がそう決めつけてるだけ」
 アンジェリカの「決めつけてるだけ」は逃げの言葉であって、当てにはならない。バルトにしてみてもそれを知ってどうこうという気はないのだが、中途半端に明かされると態度に困る。勝手に想像して勝手に赤面しているサブローが一番悩みがなさそうだ。
「でも休日の朝に二人で街まで出かけてんだろ? しかも若干こそこそ」
「どうかしらね。お互い戦地に出戻る敗戦兵みたいな顔してたけど。デートではないんじゃない?」
「だからどっちなんだ、結局。だいたいよくもまあ、一人一人出て行くところチェックしたもんだな、暇人か!」
「うるさい。暇人はあんたでしょ」
アンジェリカが中指と親指ではじいたルークの駒が、バルトの顎にクリーンヒットする。謎の技術におののいてサブローが仰け反った。と、できれば参加してほしくなかった人間が、ここ一番でタイミングを見計らったかのように登場する。両開き扉は、その名のとおり両の扉を軽快に開け広げるもの! というくだらない持論を展開するリュカのお出ましだ。
「いやあ~! 俺はもう、二人は絶対デキてるにステーキランチ賭けてもいいね!」
 ノックなどしない。ドアの前に誰かが立っているかもしれないだとか、考えない。役職や階級や所属を名乗るなどもってのほか。執務室のドアは渾身の力で開け放つもの。おかげさまで反対側の壁には痛々しいほどの打ち付け傷ができている。
「五月蠅いのが起きてきたな……」
開口一番、サブローのご挨拶。
「なんだよなんだよっ、なんで俺が起きる前にそういう面白すぎる話しちゃうの? いいじゃん、めでたいじゃん、ハッピーじゃん。祝う? こう盛大に、ぱーーーーっっと!」
白い歯をのぞかせて心底嬉しそうに両手を広げるリュカ。とめない、誰も。バルトでさえ午前中からそこまでのテンションは発揮できない。リュカはこれで寝起きだというのだから、末恐ろしい。
「だから。そういう余計なことをすんなって話だ。……ちょっと放っておいてやれ。アンジェリカもサブローも、本人たちに余計なことは言うな。……マユリもだぞ、聞いてるか」
「聞いてるよ~? 放っておくに決まってるじゃない。二人ともいい大人なんだし、だいたい好き同士なんでしょ? だったらそれだけでいいじゃん、めでたいじゃん、ハッピーじゃん」
 マユリが作業をしながら歌うように言った格言に、「いい大人たち」が顔を見合わせた。最年少に完璧に窘められてはぐうの音も出ない。
「それに──私たちだってそうでしょー? 好き同士ここでこうしてるんだから同じでしょ? 誰にも何にも言われなくたって、私ここにくるもの。そういうことだよー」
「お……おう。そういうことかもな」
 まさかの人材が場をまとめてくれたおかげで、バルトもすごすごとソファーに落ち着きなおした。
 チェス第二戦が始まっても、バルトはどこか上の空でいた。サブローがちらりとその表情を盗み見る。たぶん──考えていることはここにいる全員、そこまで大差ないのだと思う。アンジェリカは元より、リュカやマユリでさえ「そのこと」を除外したりしない。ただ、バルトはそういうのがあからさまなだけだ。事はそう簡単じゃない。簡単じゃないからできるだけ単純であるように、祈るだけだ。


「思ったより大降りになったなぁ」
 どこか他人事のように呟いて、どす黒い空を見上げた。普通の声量だったのかもしれないが、屋根に、窓に、地面にたたきつけられる雨音でかき消される。ぶらりと立ち寄った雑貨店を出てすぐこのありさまだ。店の軒下にはいるが、この雨量と勢いだとあまり意味はないのかもしれない。
「ねえ……大丈夫? 中に入った方がいいんじゃない?」
「いいけど息苦しいと思うよ。ニブル中毒の前に酸欠になりそうだ」
 突然の豪雨で難民化しているのは当然サクヤたちだけではない。狭い雑貨店の中には雨凌ぎの人々がひしめき合っている。新装開店の賑わいと言えば聞こえはいいが、その大半は明らかに客ではない。
 サクヤはナギよりも街路側に立っている。ナギが雨に濡れないように気を遣ってくれているのだろうが、そういう彼の無意識が時折とんでもなく腹立たしい。逆だろう、とナギは手加減なしにサクヤの腕を引いた。雨に濡れて死ぬ奴はいないが、大気中のニブルを一身に背負って降ってくるこの雨は別だ。
「私がそっち、立つから」
有無を言わさず立ち位置を逆転させる。それだけで肌寒さが一気に増した。灰色の雨。空だけでは飽き足らず、見える景色全てを一様に暗灰色に染めていく。足元で撥ねる泥さえ、ただただ毒の色だ。
「……ひょっとして、怒ってる?」
「は? 怒ってない。ただなんでこういうときだけ頭が働かないんだろうと思って。それとさっきの、冗談でもああいうこと言うのやめて。笑えない」
(怒ってるな……)
 ナギの回答はそっちのけでサクヤはそう独断した。彼女の「大丈夫?」が始まったら注意が必要だ。「大丈夫だ」と答えてもむっとするし、曖昧に笑って誤魔化そうとすればそれだけで逆鱗に触れる。ともあれ、まさか「大丈夫ではない」という回答ができるはずもないから、要は正解のない問いなのだ。
 暫くは無言でいることにした。雨脚は強くなる一方で、どうせ下手に喋っても怒鳴り合いみたくなるのがオチだ。だったらぼんやり薄汚い雨を眺めているのもいい。雨がここまで汚染されているということは、雨上がりには少し清らかな空気というやつが拝めるかもしれない。サクヤはそんなことを一人考えていた。
 死の雨か、恵みの雨か──雨自体に悪意などあろうはずがないのだから、決めるのは降られる側だ。ここにも悪意の無い残酷がひとつ。
「なんだか……空にぎっしりニーベルングが詰まってるみたい」
 唐突に、とんでもない比喩で沈黙を裂いたのはナギの方だった。
「ごめん、私の方こそ不謹慎だね。あ、しかも休日にふさわしくない」
「こだわるね、それ」
「サクヤが言ったんだよ」
「……じゃあ忘れてほしい。塔内では話せないから、今できる限り君に話しておきたいことがある」
 空気が変わったのは、雨脚が弱まったからじゃない。サクヤがこの瞬間に、あるひとつの選択をしたからだ。正確には、既に済ませていた選択──それをナギに話すかどうかは決めかねていた。その決断をしただけのこと。
 ナギは知らず息を呑んでいた。サクヤはそれを了承ととった。
「……ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい?」
「────」
「じゃあ二年前のヨトゥン大襲撃は」
「何故って……都市の壊滅を図るのは侵略者の常套手段じゃない。それに、西から徐々に東へ侵攻してきてるのは明らかなんだし、ヘラもヨトゥンもその軌道上に──」
「イーヴェル区は?」
 言葉に詰まる。サクヤは糾弾するかのように容赦なくたたみかけてくる。ナギが黙ったのを確認してから、サクヤはおもむろに口を開いた。
「あの場所にあれだけのニーベルングが集結してたって事実がどうしても引っかかる。イーヴェル区は確かに第一防衛ラインにもウトガルドにも近接した場所だけど、あそこを基地化するメリットがまるで無いんだ。ルートから大きく外れてる」
「ルートって……たまたまでしょ、そんなの」
「東へ侵攻してきてるってのはたった今、君が言ったことだ。ニーベルングの行動には必ず意味と確固たる法則がある。イーヴェル区の壊滅だけが、そこから妙に浮いてるんだよ」
 ナギは黙った。何をどう言っていいのか分からない。更に言うなら、サクヤが何を言おうとしているのかもよく分かっていない。
「記録では、イーヴェル区が落ちたのはヨトゥン大襲撃が鎮圧された半年後。……リュートたち二番隊が鎮圧した後にも関わらず、何故内部で湧いて出てきたようにあれだけの数が集結できる? しかもあそこにいたニーベルングは全く東を目指そうとしていなかった。あれらは、他のニーベルングとは全く別物と捉える方がしっくりくる」
「別物……? でも……」
「イーヴェル陥落の際に出動した中部第一支部の隊員に話を聞きに行ったんだ。ほとんどが殉職してて探すのに苦労したけどね。……彼の証言と、僕の見解が一致したから確信した。あの場所には、そこにあるべきものがひとつも無かったんだ」

 ──綺麗だったよ、不自然なほどに。あんたならこの意味が分かるだろ? ──
 
 何か違和感は無かったかという問いに、男は半ば投げやりに答えた。イーヴェルが避難区域に指定されたのは、陥落した後。避難する住民が既にゼロの状態で、だ。このあたりの記録をどう改ざんしたところで矛盾は生じる。避難命令が先なら、全国のどこかに相当数のイーヴェル出身者が残っていなくてはならない。しかし“イーヴェルの生き残り”には終ぞ出会うことはなかった。あの日、教会で自決したあの少年が唯一のイーヴェル区民だったのだ。
「遺体が、無かったって言いたいの?」
ナギが喉から絞り出すように声を出した。サクヤは何も言わない。頷きもしない。それなのにそれが肯定だと分かる。
「ねえ、はっきり言って。イーヴェル襲撃時に殺された人はいなかった、避難した人もいなかった、じゃあ何? そこで生活してた人たちはどこへ消えたっていうのよ」
「僕は──“ファフニール”が使用されたと思ってる」
ほとんど食ってかかるような勢いだったナギの思考が止まる。思考が止まれば表情も無論固まる。反応するまでに随分間があった。
「ん? はい? ファフニール? ってあの……魔ガンのプロトタイプの……?」
 聞いたことがある、程度の単語だった。だから脳内を検索するのに時間を要した。
 グングニル発足当時、眼には眼をニブルにはニブルを、という明快な理念のもとでニブルを素とした魔ガンが作られたことがあるらしい。極限まで濃縮したニブルを弾丸代わりに撃つ。それがニーベルング撃退には逆効果でしかないことに気づくまでそう時間はかからなかっただろうし、当然後継機は開発されなかった。今現在、グングニル機関が「魔ガン」と称するそれは、可燃・爆発性物質ラインタイトを素とした弾丸を撃てる銃火器のことだ。
「魔ガン・ファフニールは、発砲すると半径5キロ圏内に濃縮ニブルが拡散する。対ニーベルング兵器としては何の役にも立たないどころか、対人兵器としては間違いなく史上最悪のレベルに当たる。致死量の数十倍とも言われるニブルに晒された人体は、あまねくニーベルング化するわけだからね」
サクヤは、予め用意していた台本を読むかのように躊躇なく言葉を口にする。
「世界は一枚岩じゃない。“ファフニール”を使って、ニーベルングを意図的に増やしている人間がいる。僕らグングニルは、その後始末をしているだけの存在だ」
 ナギは台本を持っていない。だから慎重に言葉を選ばねばならない。言葉のみならず、その立ち位置を選ばねばならなかった。サクヤは、あるかないかも定かではない“ファフニール”の関与を確信している。そして、イーヴェル区のニーベルングが『人為的につくられた』ものだと主張する。
 反芻して、まず襲ってきたのが吐き気だった。そして膨大な量の疑問符。何故? 誰が? 何の為に? その所業は人間が成せるものなのか? それを人間と呼べるのか? 私たちはそもそもその疑念を持つことが許されるのか? ──そして何故、目の前の男はそれらを平然と口にできるのか。
 こみ上げてくる胃液を留めるために手のひらで口元を覆った。それからナギは、できるだけ冷静になれるよう丁寧に呼吸を繰り返した。
「悪いんだけど……奇想天外というか、突拍子もなさすぎるというか……今回のはちょっと」
 雨はほとんどやんでいた。重苦しい鉛の雲が狂信者のようにただただ流れていく。意志も無く、救いも無く、光も無いその方向へ列を成して。
「だけど実際あるべき『死体』がない。どう説明する?」
死体はあるべきだと彼は言う。そこにあって然るべきだと。
「それに、ここのところ僕らが行く戦場も不自然にきれいだ」
「それも“ファフニール”で嵩増しされてるから?」
 ナギは口の端から、どうしようもない笑みがこぼれるのを止めることができなかった。嘲笑だったと思う。サクヤに向けての、あるいは自分に向けての、積み上げてきたもの全てががらがらと音をたてて崩れていく軽快さと爽快さに対しての。
「ねえ。今、自分が何を言ってるかサクヤ、分かってる? 要するにあなたは、グングニル隊員の中に……それもごく近しい人間の中に、“ファフニール”を撃っている人間がいるってことを言いたいんでしょ?」
「……そうは言ってない、可能性の問題だよ」
「同じことだよ。分からないの? あなたがそれを少しでも考えた時点で、私たちの信頼関係は崩れてるんだよ」
「……そういう、ことになるのかもしれないね。でも──」
 もう、駄目だ。もう、我慢できない。血液だとか胃液だとか、たぶん涙も、感情を乗せて吐き出せそうなありとあらゆる成分が頭部に駆けあがってきた。
「仮にそういう魔ガンがあったとして! 街単位で人間をニーベルングに変えてしまうような代物なんだよね!? そんなことを意図的にやって誰の得になるっていうの? だいたい物理的に無理でしょう、撃てる人間がいない。それとも毎回ガンナーは使い捨てとでも?」
「違うとは言い切れない。そもそも撃てる人間がいない、っていうのも断言は……できないよ」
 嗚呼、可笑しい──後から後から、笑いがこみあげてきてたまらない。まさかこんな台詞を自ら言う羽目になろうとは誰が思うだろう。毎度のことながら、それくらいにサクヤの言い回しは遠回しなのだ。突拍子もなく結論から話し始めるときもあれば、理屈を並べてじわじわ相手の気力を奪うのも得意、婉曲表現で堀から固めて完全包囲、なんてのも常套手段。
 だから自分は要点をまとめて、簡潔に伝えてやるのが仕事になる。
「……そうだね。私だったら、撃てるだろうから」
それがこんなに滑稽だったなんて。 
「そういうことを言いたいんじゃない、僕は──」
「あなたは昔からグングニル機関を疑ってた。良かったじゃない、その証明の糸口が見つかったんだもの。“ファフニール”があって、それを撃っている人間がグングニル内にいる。後は確証が得られれば完璧だね。あなたなら、きっとできると思うよ」
 驚くほどすらすらと言葉が出てくるのは、もはやこみ上げてくるものが何ひとつ無いからだ。体も心も乾ききっている。それとは切り離したところで、人は言葉を紡ぐことができるものなのだと、知りたくもない事実を知った。
 雑貨店の軒下から、ナギは霧雨の舞う街路へ踏み出した。ニブルの雨。毒の雨。自分には関係がない。今ここで“ファフニール”を撃っても撃たれても、自分だけは悠々と生き残る。
「……先に帰る。サクヤは、ちゃんと雨が止んでからゆっくり帰ってきて? それと、悪いんだけど、この件はサクヤ一人で動いてくれないかな。そうじゃないと、私が“黒”だったとき困るでしょ?」
 サクヤは黙っていた。──都合がいい。
 街路には誰ひとりいない。──都合がいい。
 ほんの数秒雨に濡れただけで、髪が、服が、頬がしっとりと濡れた。──都合がいい。
 ナギは踵を返すとそのまま走り去った。街は死んだように静かで、色が無い。その光景が蜃気楼のように聳えるグングニル塔まで続いている。どこかで鐘が鳴っていた。ナギはただ、無人の街路をひた走った。


 ついてないなと、シグは胸中でぼやいた。いや自業自得か、とも。
 目に見えて雲行きが怪しかったから、今日はミサが終わったらそのまま帰るつもりでいた。そういう日に限って思いきり寝過ごす。覚醒したときには、ミサはとっくに終わっていて、礼拝堂はがらんどうと化していた。神父はいつもそうするように、今日も慈悲深く、シグの爆睡を咎めることなく見守ってくれたらしい。
 どうせ誰もいないならと、顔をくしゃくしゃにして力の限り欠伸をした。続いて両腕を掲げて伸びをする。視界を埋め尽くす天井絵には、神とその御使いが祝福の種を蒔く様子が描かれている。度が過ぎるほどに荘厳美麗な光景は、何度見てもどうも居心地が悪い。だというのに、やることもなく、帰ることもできないからぼんやりそれを見ていた。傍からは、さぞ信心深い教徒に見えることだろう。実際は、眠れずに羊を数える子どもと大差ない。
 シグは再び瞼を閉じた。居眠るつもりは無いが、視界に不要なものがない方が落ち着くことに気付いた故である。雨音も、教会の中では静寂に色を添える音楽のように響く。その静寂を裂いて、重厚な扉が押し開かれた。シグは飛び起きて、やけに警戒して振り向いた。このニブルの雨の中、ミサの終わった教会を訪れるのは自殺志願者か盗賊くらいのものだ。が、訪問者はそのどちらでもなかった。
「ナギ? なんで」
 片眉を上げて訝しがるシグ。扉の前に立ったナギは、それ以上に驚いた様子で言葉も無くこちらを見ていた。
「なんでって……言われても」
黙っていたのは、理由をあれこれ考えていたからだったが結局この場にふさわしいものが思い浮かばない。叱られた子どものように目を伏せるナギに、シグはどこからかバスタオルを持ちだしてきて投げ渡した。暫く行方をくらましたかと思うと、またどこからか紙コップに入ったあつあつのコンソメスープを持って帰ってくる。勝手知ったる、にしたって知りつくし過ぎだ。タオルを首にひっかけたまま、ナギも唖然としていた。
「ここ、シグの実家じゃないよね……? って、これ勝手に飲んでいいの」
「いんじゃない? ミサの後に配ってるやつだし。……で、こういう場面に運悪く遭遇したからには、一応何があったか聞くべき? それとも見なかったことにすべき?」
シグには心配も興味も特にないようだった。それが今はひどくありがたい。
「見なかったことに……してほしい。いくらなんでも、ニブルの雨の中走り回ってたなんて知られたら、みんなに心配かける」
「雨は関係ないと思うけどね」
言い捨てて踵を返すと、もともと座っていた定位置に腰をおろした。前から三番目、説教台に続く中央通路側。通路を挟んだ反対側の椅子を、突っ立ったままのナギに勧めた。
「シグは何してたの、こんな時間まで。教会、誰も残ってないのに」
「は? 見てわかんない? 寝過ごして途方にくれてんだよ。誰かさんと違って、毒浴びながら無理やり帰る度胸は無いし」
「刺々しいなぁ……」
「生憎、余分な優しさは持ち歩かない主義なんで」
「そう」
思わず微笑がこぼれたのを誤魔化すために紙コップに口をつけた。シグの基準では、このバスタオルもスープも優しさにはカウントされないらしい。ついでに言うなら、何も聞かずにこうして雑談してくれるだけで十二分に助かっている。その雑談も懸命に話題を探す必要はどうやらなさそうだった。ナギが黙ってスープを飲めば、シグも黙って大して興味も無い天井絵を眺める。彼は常にそんな感じだが、殊この場所では普段より一層落ち着いて見えた。
 また雨脚が少し強まったようだった。聖堂内に反響する雨音が、静けさに拍車をかけた。
「今日の雨は……やけにニブル濃度が高い……」
ナギも天井絵を見上げて、独り言のように呟いた。
「じゃあ誘われてニーベルングが寄ってくるかもな。今来られても、ローグもヴォータンも置いて来たから、まぁ黙って食べられるしかないんだけど」
「ローグも、ヴォータンも……」
固い長い椅子の背に首を預けて天井を眺めていると、無性に眠たくなる。おぼろげな思考のまま、シグの台詞を復唱していてあることに気付いた。そのままシグの方へ頭を傾ける。
「ねえ。まさかと思うけど、今この場に三本目の魔ガンなんか持ってきてないよね?」
「? フリッカなら持ってるけど。でもこれは──」
「呆れたっ。非番の日は魔ガンは携帯しないのが規則でしょ。よくもまぁ、教会にそんな物騒な代物持ちこむ気になるね?」
「言っとけど、これはバーストレベル1のお飾り魔ガン。撃ってもニーベルングどころか教会の窓も割れるか怪しい。暴漢が襲ってきたら威嚇にはなるだろうけど」
「いるいる。そういう言い訳する人。『ただ持ってるだけで使いませんから』みたいな」
 確かに、バーストレベル1の魔ガンは、練習用か初心者向けとしてか用を成さない。シグが持っていても箸にも棒にもならないだろう。事実、シグが実戦でフリッカを使用しているところは見たことがない。
「これはお守りみたいなもん。使わなくても、持ってれば俺にはそれなりに意味がある」
ナギは鳩が豆鉄砲をくったような顔。その理由は分かる。シグも察したから、半眼で顔を背けた。
「シグでもそういう、ジンクスみたいなの信じるんだ」
「はいはい、どうせ不似合いでしょうよ。ナギが知らないだけで、俺にだって自分ルールは結構あるよ」
「朝はトマトしか食べないとかでしょ……」
「ねじりパンは、ほどいて食べるとかだよ」
「意味が分からない……。ねじってあるからねじりパンなんじゃない」
「だから、ねじる意味がそもそもないだろ。気持ち悪いんだよ、あのくねくねしてる感じが」
(じゃあ食べなきゃいいのに)
 言われてみれば、こちらには覚えがある。その時限りの手遊びだろうと気にも留めていなかったが、まさかそれがシグの中でルール化していようなどとは夢にも思わなかった。
「気持ち悪いんだよな……」
そんな風に改めて言いなおすほどだったとは。などと呆れを通り越して感心していたが、どうも対象はねじりパンではないようだった。
「……何が?」
「そう言う風に具体的に言われると困るんだけどな。たまにこう、なんか全部、ねじれてんじゃないかって思うときが……ない?」
逆に訊きかえされて、反応に戸惑う。胸の中に漠然とした不安が広がっていく。シグの言う気持ち悪さが、ナギがたった今まで感じていたそれと同じものなら、ナギの世界は「ねじれて」いたのだろうか。仮にそうだったとして、ほどく術を知らない。知っていたとして、一度ねじれたものが元通りになるとは思えない。
「ま、別に……真剣に考えるようなことでもないし」
黙りこんだナギを見かねて、シグは話を切った。触れないと約束した核心にうっかり手を伸ばしてしまったらしい。
 子ども騙しだとは思ったが、何もしないよりはマシだろうとポケットに忍ばせてあった手のひら大の菓子箱を取り出す。
「手出して」
 ナギはおそらくまだ、先刻の無意味な質問の答えを探している。訝りながらも通路に伸ばされた手のひらの上で、シグが菓子箱を振った。ぽろぽろと三粒、空色のジェリービーンズが転げ出てくる。ナギは伸ばした手のひらを見つめたまま固まっていた。対するシグも何故かばつが悪そうだ。
「いや、青以外も残ってると思うんだけど……」
再び箱を振ろうとするシグを、ナギは静かに制す。
「これでいい。ありがと」
自然に笑みが漏れた。非番の日まで魔ガンを持ち歩くようなシグが、同じポケットにジェリービーンズを忍ばせていたことも、それをナギを慰めるために取り出したことも、上手い具合に同色が転がり出てきたことも、全てがちぐはぐで妙に笑いを誘う。
「元気のない子に空色ビーンズ」
 ナギは言いながら手のひらの三粒のうち、一粒を摘まんで高々と掲げた。
「……え」
「知らない? ジェリービーンズの歌。ちっちゃい頃に流行ったじゃない。優しいキミには桃色ビーンズ、素直なあの子に真っ白ビーンズってやつ」
「さあ……そうだっけ。聴いたことあるような気はする」
「シグはそういうの興味無さそうだもんね。子どもの頃さ、お手伝いとかやるとこうやってジェリービーンズがもらえてね? そうやって歌の通り七色全部集めると、虹色ビーンズが手に入るんだーなんて方便信じて、一生懸命集めてた。でもいっつも空色だけないのよ」
「元気がないことがないから?」
「そうっ。なんか笑っちゃうよね。それで今、図ったみたいに空色ばっかり出てくるんだもん」
 天井に描かれた、あるいは祭壇の上に佇む神が気を利かせてくれたのだろうか。もしそうならと試してみたくなって、シグから菓子箱を受け取る。役割を交換して、今度はナギがシグの手のひらの上で菓子箱を振った。鮮やかなオレンジ色が、ころりと一粒躍り出た。
「あ、やっぱり」
ここにご滞在中の神は、気配り上手なのか。
「オレンジは、なんなの」
「“がんばり屋さんにお日さまビーンズ”」
「なんだよ、それ」
得意気に指を立ててくれたナギには悪いが、どうも自分には不似合いのような気がして笑いを噴き出した。
「何がやっぱり、なんだか」
「いいのいいの。私がそう思ってるだけだから、シグには分からなくても」
謎の自己完結と上機嫌で以て、最後の一粒を口に放りこむ。シグも合わせて、オレンジ色の粒を口に入れた。噛んでも甘さが口内全体に広がることはない。その場所だけでひっそり甘い、そういうところがシグのお気に入りだった。
 ナギが深い嘆息をひとつして立ちあがる。シグは視線だけを一瞬そちらへ向けたが、理由も行方も聞かないでおく。通路の方へ歩いて行ったから、雨の中を突っ切って帰るなんていう無茶な真似はしないだろう。
 シグは自分の手のひらに向けて、もう一度菓子箱を振った。
「嘘吐きさんには、泥色ビーンズ」
転げ出てきた鉛色のジェリービーンズを、シグは食べずに箱の中へ放りこんだ。


 アルバ暦837年、風の月 10日。朝から少し、肌寒い風が吹いていた。ジャケットに袖を通して汗ばむことも減った。短い夏の終わりともっと短い秋の訪れの気配は、いつも唐突でどこか気まぐれだ。
 あれから一週間、何の変哲もない日々を過ごしている。朝一番に執務室を訪れ、天気の良い日は窓を開ける。前日のまま少し散らかった机の上を整理して、代わりに本日のスケジュールを記した紙をセット。必要な書類は右端に揃えて置く。
 規則正しく、機械的に、ナギはルーチンワークをこなしていた。その中で意図的に止めたものがある。ポットを火にかけること。キャビネットの中から気分に合った茶葉を選ぶこと。その分できた隙間時間で窓際にある枯れかけた花の調子を見る。天使の羽と称される白い花弁は、端々が茶色く痛んで頭を垂れていた。アルブとは生育環境が著しく異なるのだから、元々長くはもたないものだ。それを承知の上で、一日でも長く──花が咲こうとする限り──この窓際に置いておこうと決めた。
「おはよう。今日も早いね」
 お決まりの朝の挨拶と共に、サクヤが入室。「おはよう」と返して、ナギが細密なスケジュールを説明する。朝のミーティングはそれで終わり。それ以上に話すことが、もはや無い。
「演習準備があるから私は先に行くけど、取り立てて何か注意すべき点はある?」
 サクヤがスケジュールを見つめたまま微動だにしないので、何か不備でもあったのかと遠回しに訊いた。数秒、間があって、
「ああ、いや。特にないよ」
そういう返答だったから、ナギも気に留めず執務室を後にした。この後午前中いっぱいは、ユリィ率いる狙撃スペシャリストの三番隊と合同演習を行う。狙撃技術の向上と連携の確認が主な目的の、言ってしまえばやり飽きた演習だ。特別な準備も対策も別に必要ない。
 10時前になると、三番隊と八番隊のほぼ全員が屋外訓練場に揃っていた。簡単な説明の後、肩慣らし程度に射撃を始める。訓練用の弾はラインタイトを用いていないから、着弾しても爆発することはない。その代わりにかなり細かい点で着色されるため、命中の精度が一目で分かる。ユリィやオーウェル補佐官の鮮やかな射撃に、毎度のことながら感嘆を漏らしてしまうのが八番隊で、それに引けを取らないシグの射撃に盛りあがるのが三番隊連中だ。
「相変わらずの化け物アベレージね」
 自分の身長とほぼ変わらない銃身のライフル型魔ガン“クリエムヒルト”を肩に担いだまま、ユリィが隣に腰掛けてきた。ナギがちまちまととっていた記録用紙を無表情のまま覗き込む。
「三番隊も、バーストレベルを引き上げる話が持ち上がってるとか」
「そうね。私とミナトは持ち替えるつもりはないけれど。狙撃だけじゃ、隊としての汎用性は無いから」
ユリィは記録用紙を覗き込んだままで早口に答える。その話は今関係ないと言わんばかりの素っ気ない口調だ。嗚呼、やっぱりこの人だけはどうも苦手──などと涙目になっているところに、初めて視線がかち合った。ユリィのビー玉のような大きな目が、こちらを見つめている。
「調子、悪いの?」
「え?」
ユリィが顎先で指し示した先には、ちょうど今射撃を終えたばかりのサクヤの姿があった。記録用紙に目を落とすと、確かに前回よりもアベレージを下げてはいるが許容範囲ではある。調子が悪い、とまではいかないのではないか。それとも体調面の方だろうか。何となく、嫌な予感がしてナギはおもむろに腰を上げた。
 サクヤは、射撃後の余韻に浸るかのように立ち尽くしていた。その“間”が、明らかに妙だった。ここからではよく見えないが、何か口元をぬぐうような仕草。その後、また暫く微動だにせず地面を見て立っている。
「隊長……っ」
横から駆け寄ったのはアンジェリカだった。振り向いて苦笑いするサクヤの顔がただただ白い。アンジェリカの叱咤が続いているようだが、サクヤはもういつもの調子に戻って困り顔で対応していた。ナギは、何故かここでまだ突っ立っている。すぐ隣でユリィが立ちあがる気配だけがあった。
「サクヤ、もう休ませた方がいいわ。訓練で無理させる必要、ある?」
返す言葉がない。ナギが言葉を返せないのは、ユリィの指摘が的を射ていたからじゃない。
「……余計なお世話かもしれないけど、ナギさん。サクヤの様子にそもそも気づいてた?」
後頭部を鈍器で殴られたような、重い衝撃があった。答えない──答えられないナギの後ろ姿に、ユリィが小さく嘆息する。
「勘違いしないで。あなたを責めてるわけじゃない。サクヤの体調管理は、私もサクヤの家族から頼まれてることだから」
「……いえ、こちらが鈍感でした」
それだけ口にするのが精いっぱいだった。何もかもが彼女の言うとおりなのだ。サクヤの様子──? 気付くはずがない。今日、ナギは一度だってサクヤの顔をまともに見ていないのだ。昨日も、一昨日も、その前も、もうずっとサクヤの顔を見ていない。自覚があってもどうしようもないではないか。
「失礼します」
 サクヤは、たぶんアンジェリカと共に医務室に向かったのだと思う。追うのはやめた。行ったところで、自分に治療ができるわけでもない。気まずさと惨めさを味わうだけだ。そんなのはもういい。もう充分だ。
 そうして、なし崩し的に終了した演習。サクヤ不在の午後、ナギは一人黙々と机仕事に専念した。こういうとき補佐官で良かったと思う。忙しいふりが、それほど難しいことじゃない。その間に、砕けたいくつかの平静を取り繕う必要があった。


 一切の雑念も無く、無心でまとめた報告書は夕刻には仕上がっていた。それを結局のところサクヤに一度提出しなければならない。迷った末に、ナギは八番隊執務室の両開き扉の前に立っていた。主不在を狙ったつもりだったが、サクヤは既に医務室からこちらに戻っていたようで中から話声が聞こえる。ノックの手を寸止めして無意識に耳をそばだてていた。低音が二つ、談笑しているようだった。
「ここんとこずっと覇気がねぇなと思えば、これだもんな。若いのがみんな心配してるぜ。ナギとなんかあったんじゃないかってな」
 ごふっ! ──ティーカップに口をつけた絶妙なタイミングを見計らったおかげで、サクヤが珍しく派手に動揺してくれた。口元をぬぐいながら咳き込むサクヤを見て、バルトは豪快に笑い飛ばす。
「はっはっは! っていう冗談はまぁこのあたりで置いといて、だな。……体調、良くないんだろう。アンジェリカに聞いた、薬の量を増やしてるみたいだってな」
「アンジェリカも、バルトには安心していろいろ喋るんだなぁ」
「茶化すなって。そういうふうに中途半端に誤魔化すと周りはいろいろ勘ぐる。そうでなくても、俺たちゃあんたに無関心でいられない」
「いや、参ったな。誤魔化してるつもりは全く無いんだけど……とにかく、心配はいらないよ。体ももうこれで慣れてる。みんなにもそう──」
「そう振舞わんでもいいじゃねぇか」
バルトの嘆息は、ちょっとした呆れと、感心と、多くは心配という成分で構成されていた。普段は部下として、八番隊の一隊員として振舞うバルトもこういうときには兄貴面。サクヤの良き相談役として立ち回る。
「確かにあんたは優秀だが、まだ若い。先があるんだ。こんなところで無理する必要はないだろ」
サクヤは脳裏をよぎったいくつかの言葉を、選別して飲みこむ。バルトは暗に、こんなところ──グングニル機関を離れることを選択肢に入れろと言っているのだろうか。確かにここで魔ガンを手にする限り、自分はこの、ままならない体と付き合っていくことになる。かと言って、ここから遠ざかったところで結果は同じだ。体内を侵食し続けるニブルが、綺麗さっぱり消えて無くなることはない。
「ありがとう。でも本当に大丈夫だ」
「……それならいいんだ。体もだが、ナギとのことも早く何とかしてくれよ。やりにくくって集中できやしねー」
適当に応答しながらサクヤは笑っていた。バルトはこう見えて、ナギのことに関しては探りを入れてきている。アンジェリカから含まされたのか親心からかは分からないが、下手をうつわけにはいかなかった。
「チェック」
「ぬおっ。……待てっ、いや待ってください。今のは話しながらだったから無しだっ」
「いいけど、五手戻しても結果は同じだと思うよ」
バルトの沈痛な唸り声が響く。どうやら二人はチェスボードを囲んで話をしていたようだ。
 ナギはそこまで立ち聞きして、静かに踵を返した。長い廊下の途中で、気付けばジェリービーンズの歌を口ずさんでいた。元気の無い子に空色ビーンズ、嘘吐きさんには泥色ビーンズ。


 別に珍しい例ではない。十人集まれば三人はニブル病患者がいる世の中だ。重軽度の違いこそあれ、自分がその三割だったからといって不運だと思ったことはない。ニブルによる肺病で長く床に伏した母、その最期を看取ったのも自分だ。サクヤにとって、ニブルは随分と身近な脅威で、ある意味で彼の人生にぴったりと寄り添ってきた存在でもあった。
 病状を正確に把握し、終わりを客観的に見極め、そこから逆算していけば、自らのとるべき行動は非常に分かりやすく理にかなったものになる。ニブル病など抱えていなくても、ある日突然生涯に幕を閉じた仲間も多く見てきた。それらを思えば、特に悲観する要素は無いと考えていた。だから八番隊発足時に、隊員たちには自分の体のことを伝えておいた。
 独りで酒を呑むと、こんな風に生産性の低い考えばかりが頭をよぎる。塔内にいると、隊員たちが、上司が、知り合いが、ここぞとばかりに話題を持って執務室にやってくるから、サクヤはそれを避けて市街のなじみの店に来ていた。一人の時間を得るために、定期的にここにくる。そういう時間は誰しもに必要だと感じているからだが、今日に限っては一人になりたくてここへ来た。必然、酒の進みも早くなる。
「いらっしゃい」
 顔見しりの店主の、聴き慣れた声が頭の片隅で響く。
「……お。呼ばれて来たのか?」
「? 誰に?」
来店した客の声も、聞き慣れたそれだった。知り合いだろうなと漠然に思うだけで確かめもしなかった。その軽い足音が店主と共にこちらへ近寄ってくる。気を利かせて別フロアへ案内してくれればいいのに、などと珍しく胸中で毒づいた。
「おいサクヤ、もうやめとけ。いつもの量じゃないだろう、それ」
肩を揺さぶられ何となく顔を上げると、店主の隣にユリィが立っていた。安定の仏頂面。彼女に気を取られている間に、ウイスキーボトルが没収されていった。テーブルにはほとんど氷と水のグラスだけが取り残される。ユリィは当然のようにサクヤの前の椅子を引いた。
「完璧スマイル主義の八番隊隊長殿も、こんなになることがあるのね?」
こんなとは、具体的にどれを指しているのだろう。浅く腰かけた椅子の背に身体を投げ出してアルコールを煽っている様か、鉄仮面のようににこりともせず宙を見つめ続ける様か、いずれにせよ部を弁えていない体たらくであることに変わりはないのだが。 
 しばらく沈黙が続いた。グラスの中の氷山が崩れる音が数度軽快に鳴るのを聞いた後、サクヤは重い口を開いた。
「……僕は君が言うような立派な人間じゃないよ」
「? 知ってるけど?」
間髪入れずの反応に、思わず顔を上げた。が、ユリィはマイペースに自分の夕食メニューを選んでいる。よくよく考えてみれば、彼女は別段サクヤの様子を見にここを訪れたわけではないのだ。彼の心境に同調する義務もなければ、相手をする義務もない。
 自分の不様さと彼女の気質を思い起こして、サクヤは笑いを噴き出した。
「そうか、そうだったね」
「何か、あった」
「いや。……振舞うことに少し疲れただけだよ」
一度笑いをこぼすと、自嘲とも苦笑ともつかない中身の無い笑みが次々と漏れた。ユリィはそれをどこか冷めた瞳で眺める。 
「だったらやめればいいのに」
あっけらかんとした物言いは彼女の本音だ。取り繕う理由が全く無いから思ったままを口にする。そんな彼女のあけすけな態度を敬遠する人間も多いが、サクヤにとっては居心地の良い、慣れた物言いだった。だから今度は自然と、笑みが漏れる。
「わたし今、無理させてる?」
「そんなことないよ。僕も今さらユリィに取り繕ったりはしない」
溶けた氷と僅かなアルコールの水溶液を流し込む。喉が熱い。眼前のユリィの輪郭が、背景に溶け込むように滲んで見えた。
「……分からなくなってきたよ。仲間を疑って、傷つけて軽蔑されて、……僕は何を手に入れようとしてるんだろう」
「そんなの、私が知るわけない」
「分かってる。独り言だよ、聞き流してくれて構わない」
 ユリィは瞬時に、今のサクヤが自分の手に余ることを悟った。それきり黙りこんで項垂れてしまった彼を残して席を立つ。カウンターで電話を借り、迷いなくダイヤルした。
「おい。おいおいおいおい。置いて帰ってくれるなよ。あいつがあんな風に呑むなんて初めて見たぞ」
「分かってるけど、私じゃ手に負えないから。保護者呼んで、お引き取り願う」
「ああ、まぁ……それがいいか」
 店内がまだ賑わう時間帯だったから、ユリィがかけた先も客あしらいに忙しかったのだろう。七、八コールほど呼び出し音が鳴った後、他所行きの落ち着いた声が受話器から聞こえた。業務連絡さながらに状況と用件を端的に説明すると、つっけんどんに受話器を置く。義務は果たしたと言わんばかりに、ユリィは上着を抱え踵を返した。
「ユリィ。飯は? 食って帰らないのか」
「うん。会いたくないのが来るから」
ユリィとしては、会いたくないし話したくないし、できればあまり考えたくない相手がこれからサクヤを迎えに来る。その前に逃げておかないと、まともに食事がのどを通らない。認めたくは無いが、平静を奪われるのは事実なので的確に対処しておきたかった。
 ユリィが店を出て三十分ほど経ったころ、出て行く人間の方が多い中で来店のドアベルが鳴る。いらっしゃいと言いかけて、店主は視線だけをサクヤが陣取る奥の席へ向けた。入って来た男は手刀を切って真っ直ぐにそこを目指す。壁と椅子の背に半分ずつ体重を預けて、瞼を閉じている弟を見つけて、兄であるアカツキは肩を落として思いきり嘆息した。そのわざとらしい溜息に、サクヤもおもむろに顔をあげた。
「あれ。兄さん……?」
「なっさけない面して飲みつぶれやがって……チビが電話してきたんだよ。何やってんだ、お前」
何をやっているのかと訊かれて、答えに窮したのは初めてだ。多分まどろんでいたのだと思うが、ここ一時間くらいの記憶が曖昧だ。ユリィと話していたような気もしたのだが。などとサクヤがのんびり考え込んでいると、アカツキはまたもや特大の溜息をつく。ユリィがさじを投げたのも頷けるというものだ。
「笑って解決できるときと、飲んで解決できるときと、それくらい自分で見極めろ。そうじゃないときはちゃんと話しに来い」
「ユリィが……通報した?」
「通報って……だから、そう言ってるだろ。寝ぼけてんのか。寝ぼけてんだろうな。どうせ潰れるならせめてうちで潰れてくれよ」
「まさか。カリンにこんなの見せられないよ」
からからと他人事のように笑うサクヤ。アカツキの額には青筋が浮かんでいる。自力では立っていられないほどに酔い潰れている割に、こういうくだらない機転だけは健在らしいことに腹が立つ。力づくで立たせてはみたが、これを連れて帰るとなると結構な重労働だ。
「帰るぞ。カリンに『やだ、サクヤくんお酒くさいっ』って罵られて、思う存分嫌われてくれ。そうしたら二度とお前のところに嫁に行くとか言いださないだろうからな」
「それは……いや、だなぁ……」
 自分に向けられる無垢な笑顔を想って、言葉とは裏腹にしまりのない笑みが漏れた。と同時に、もうひとつ。別の笑顔が脳裏をかすめる。信頼と敬愛を乗せた、自分にだけ向けられるその笑顔──紅茶の香りとぬくもりが広がる、とても大切な時間だった。特別な時間だった。十分過ぎるほどに幸福な時間だった。それだけ確認すると、その記憶と感情が傷ついてしまわないように、色褪せてしまわないように丁寧に心の奥底にしまいこんだ。

 さあ──失う準備は整った。閉じられた全ての扉を開き、裏返った全てのカードを表に。

episode vii 朔の夜

 歩いている床は固いはずだ。コツコツと踵を鳴らす音が聞こえる。が、足元の感覚を支配しているのは泥沼の上を進んでいるような不快な柔らかさで、それが彼女の世界の確かさを奪っていた。前に進んでいるのかどうかも不明。今何時で、何を着ていて、どうして自分がここにいるのかも分からない。そこには数えきれないほど多くの視線があった。右目に嫌悪。左目に侮蔑。

──こちらがする全ての質問に、虚偽なく答えてください──

 響き渡るその声に「はい」と答えた。聞いたことの無い声だと思ったが、答えたのは確かに自分だ。促されるまま血を吐くように自分の名前を口にした。
 たたみかけるように次々と問いが降ってくる。ナギはただ「はい」と「いいえ」を発する機械になって、口元だけを稼働させていれば良かった。そういう自分をどこか遠くの他人のように置き去りにして、頭の中ではこの一ヶ月の出来事を延々とリピートしている。数えるほどしかなかった会話のひとつひとつを拾い集める作業に没頭していた。
 窓を開けると刺すような冷たい風が入り込む執務室。微かに漂う紅茶の香り。他人には分からない規則性で積み上げられた机上の本。廊下に出て八番目の扉を開けるだけで会える、彼女の愛おしい日常──。


 扉の前で律儀に所属を告げてノックをしてみたが返事はない。一拍置いてナギは両開き扉の片方を押しあけた。
「またいない……」
空の執務室で独りごちる。
 最近のサクヤはよく執務室を空ける。非番の日はグングニル塔自体にいない場合も多い。業務にも訓練にも、もちろん作戦にも支障をきたすことはなかったが、八番隊の日常には何かぽっかりと穴が空いたような空虚さが漂うようになった。が、そんな風に感じているのはもしかしたら自分だけかもしれないと思うこともある。以前と変わらず、隙間時間にはバルトやサブローとチェス盤を囲んでいるし、リュカと賑やかに食事を摂っている姿も見かける。独りで調べ物に没頭しているなんてのは今に始まったことでもない。
 ナギは執務机に向こう一ヶ月のスケジュールと勤務表を置いた。今日の夕方の汽車で、彼女は古巣である中部第二支部へ向かう予定だ。情報共有と視察のための定期的な支部巡回で、普段は二、三日といったところだが、今回は新隊員の指導のために一ヶ月をあちらで過ごすことになっている。
 出発まで二時間。何をするでもなく、ソファーに腰を沈めた。しばらくは置時計の針が進む音にただ耳を傾けていたが、流石にあんまりだろうと思い身を起こす。意を決したようにチェスト横に歩み寄り、ポットを火にかけた。
「あ」
 扉が開く音に振り向くと入口にサクヤの姿があった。口元に手をあてがったまま、こちらを気に留めるでもなく突っ立っている。かと思えば唐突に深呼吸をし始めた。溜まりにたまった悪いものを二酸化炭素と共に根こそぎ吐きださんとばかりに、深く、長く、息を吐く。
「……いい香りだ。一杯もらえるかい?」
「え? ああ、うん。もちろん」
 ナギの在室には気付いていたらしい──香りで察したともとれるが──驚いて姿勢を正すナギをよそに、サクヤは嬉しそうに微笑んだ。紅茶がティーカップに注がれる音を背に、真っ直ぐ執務机に向かう。置かれていたスケジュールに立ったままで目を通した。
「戻りは一ヶ月先だったね。休暇ってわけじゃないからそうもいかないだろうけど、少しゆっくりしてくるといいよ」
「ゆっくり……。そうだね、うちは家長があの人だからのんびりした空気とは無縁だと思うけど、リフレッシュにはなるかな」
つい本音が口をついて出た。一ヶ月あれば何もかも終わっているのではないかと、そうしてまた以前のように、何事も無かったかのように過ごせるのではないかと、ナギは都合の良い願望を抱いている。その浅ましさがこぼれ出てしまった。
 視線を落として差し出したティーカップの中身が波打つ。乾燥した茶葉を濾して抽出されただけの単なる液体に過ぎないそれを、サクヤは愛おしそうに見つめた。何か特別な儀式のように、ゆっくりと口をつける。そしてまた、柔らかく微笑んだ。見慣れた光景、見慣れた表情のはずなのに、ナギにはそれがひどく懐かしいもののように思えた。
 暫くの沈黙の後、ナギは意を決して顔をあげた。
「……まだ、疑ってるの」
サクヤはすぐには答えなかった。ポーズなのか、残り僅かになった紅茶を黙って飲む。
「サクヤ」
「さあ……どうかなぁ」
まさかのぞんざいな回答に、ナギも思わず口元をひきつらせる。確かに無関係を主張したのは彼女の方だが、こうも露骨に鬱陶しがられるとは思っていなかった。だからこちらも露骨に青筋を浮かべてやる。
 サクヤは困り顔で小さく溜息をついて、空になったティーカップを置いた。
「おかしな話だけど、僕は初めから君を疑ってはなかったよ。物理的にファフニールを撃てるのがナギだけだったとしてもね」
「何、それ」
「だから前置きしたじゃないか。おかしな話だけどって」
「そういうことじゃない。私は私個人の話じゃなくて八番隊の話をしてるんだけど。……もう十分調べたんじゃないの? まだ疑わなきゃ駄目?」
「……疑ってはいないよ。網にかかるのを待ってはいるけど」
平然とそう言ってのけるサクヤに、ナギは二の句が告げずに口をつぐんだ。俯くナギの胸中を見透かしたように、サクヤはまた小さく溜息をつく。
「よそう。僕らはこのあたりの価値観が一致していない。何度やってもこの話は平行線だよ」
「……分かってる」
それはあの日のやりとりで十二分に承知している。サクヤと自分とでは「大切なもの」の順序が大きくかけ離れているだけの話。そしてそれが、ナギにはどうしても受け止められない。サクヤも彼女に理解を求めようとはしなくなった。
「ごちそうさま。向こうに着いたらレイウッド大佐にも宜しく伝えておいて」
 自分の席に座ることもなく、サクヤはいくつか分厚い読本を抱えて執務室を後にした。


 ──思えばこのときが、最後のチャンスだったのかもしれない。望まぬ結末から逃げ続けてきたナギに与えられた、最後の慈悲と選択肢。それらからも結局彼女は眼を逸らしたわけだ。逃避は罪になった。そしてその罪には然るべき罰が用意されていた。
 それが今。グングニル本部地下一階の査問会場で、閉じられた質問が繰り返される。抜け殻の自分が本体になり代わって答えてくれる間にもう少しだけ、彼とのやりとりを辿ろうと思った。できれば笑った顔がいい。何でもない話を随分楽しそうに聞いてくれる、朝の隙間時間へ帰れるなら永遠にそこに留まってもいいとさえ思った。だのに意識はそれを許さない。リピートを許さない、逃避を許さない、終わりへ終わりへと精神と肉体を押し流していく。
 終末を告げるベルの音が頭から離れない。脳裏で繰り返されているのは実はその音だったと気付く。
 受話器をとりたくない──記憶の中の自分は既に手を伸ばしている。真鍮の受信機を通して交換手が告げた名で、ナギにとっての終わりが始まった。
「どうしたの? 通信なんて珍しい。何か、あった」
 声を聞くのは実に三週間ぶりだった。だから平静を装うのに意識的に一呼吸置いた。
 ナギは中部第二支部での三週間を実に平和に過ごしていた。無論、ニーベルングは日々出没するし、訓練も会議も本部以上に行っているから暇を持て余していたという意味ではない。サクヤが絡まなければ、ナギの日常は真に「日常」たりえるのだ。
「もしもし? ……サクヤ? 聞いてる?」
最初に「やあ」などと他人行儀に挨拶したっきり、サクヤは黙ったままだった。彼が黙りこくるのは大抵の場合考え事を巡らせているときだったが、今はそれにふさわしくない。と、向こうにも何か一息つくような間があった。
『ああ、ごめん。ナギの声を聞くのは、なんだか随分久しぶりだと思って』
機器を通して聞こえるサクヤの声は少しくぐもっている。ひとまず何でもないふうに生返事をしたが、鼓動が早まったのが自分でも分かった。わざわざ口にはしないがナギも同じ感慨を持っていたからだ。
『そっちはどうだい? もう雪が積もりはじめてるって聞いたけど』
「ん、まあ寒くはあるけど訓練にも討伐にも支障は無い、かな。もう暫くするとじゃんけんで雪かき当番決めなきゃいけなくなるけどね」
受話器越しにサクヤが笑う声が聞こえる。その様が目に浮かぶようだった。相変わらず何でもないことでよく笑う。ナギがよく知っているサクヤがそこに居るようで、思わず「そっちは?」と返しそうになるのを飲み込む。そうやって再び訪れた沈黙は長くは続かなかった。
「ねえ、そういう確認じゃないんでしょう? ……何なの。何か──」
『今日中に、どうしても君と話をしたい』
 今度はナギが黙る番だった。黙ると同時に息が止まった。
「それは、戻れ……っていう意味、だよね。今日中は無理だよ。今すぐ発っても夜中になるわけだし……」
『それで構わない。戻るまで待つよ』
「だから、夜中っていうのは例えの話で……っ。今すぐになんて実際には無理でしょ? それに──」
その話とやらはできれば聞きたくない。ナギの胸中を察したのか、受話器の向こうでサクヤが苦笑を洩らすのが分かった。
『ナギ。誓願祭の夜に、君に言ったことを覚えてる?』
「────は?」
どうしてこう彼の話にはいちいち脈絡がないのか。唐突、遠回しな帰還命令の御次は数カ月前の話題にワープ。慣れているとはいえついて行く方も必死だ。誓願祭の夜? 例年と変わらず皆でバーベキューと花火を楽しんだ──と高速で記憶をまさぐったところで、例年とは違うことがあったのも思い出した。
「え……はあ!? 覚えてって……それ今関係ある!?」
勢い任せに怒鳴ったのに、あろうことかサクヤは声を殺して笑っている。どこまで人を小馬鹿にしたら気が済むのだろうこの男は。
『覚えてるならいいんだ。約束するよ。どっちに転んだとしても、……僕が生きている限りは君を守る』
「ちょ……っと、待って。何の話……? サクヤ、何するつもり?」
『責任を果たすだけだよ』
「そういうことじゃなくて……!」
サクヤは沈黙で以て、それ以上の具体的な話を拒んでいるようだった。ナギの心臓はこれ以上ないくらいに早鐘を打つ。
『これ以上は通信では話せない。もし間に合わなくても、君は君の思うとおりに動いてくれて構わない。……じゃ、切るよ』
 待ってという言葉が声になる前に、通信は一方的に切られた。待って──思考がついていかない──待って──整理する時間がほしい──待って──手足がしびれて動かない──お願い、待って──このままじゃ間に合わない。
 ナギは次の瞬間、訳も分からず走りだしていた。誰に何を断るでもなく、ほとんど荷物も持たないままで駅まで全速力で走る。停車中だったグラスハイム行きの汽車に、すがるように乗りこんだ。と同時に堰を切ったように溢れだす決定的な不安。もはや胸騒ぎの域を越えている。整わないままの呼吸と鼓動が思考を妨害し、ナギの冷静さを根こそぎ奪っていった。それでもこれから起こるであろうことの本質だけは理解できていた。
 ねじれた世界が元に戻ろうとしているのだ、と。
 

 それから自分の眼で見たことを、実のところナギは断片的にしか覚えていない。
 深夜のグラスハイム市は死んだように静かで、黒一色に塗りつぶされていた。月が無いだけで夜とはこうも異質なものかと思い知る。普段は賑やかな星さえも、何かを察してなりを潜めていた。
 ナギの視界には、黒い背景に影だけがぼんやりと浮かぶグングニルの本部塔があった。静かだった。その耳慣れた爆発音が鳴り響くまでは、ただ美しいだけの静寂の世界だった。
 魔ガンの発砲音と共に、グングニル塔が激しく揺れたように錯覚した。実際揺れていたのかもしれないが、市街地から見上げただけでは確信できない。何度か瞬きした、ただそれだけの間に視界の配色はがらりと変わっていた。黒一色だった夜のキャンバスに、月よりも白く、星よりも明るく、「それ」はグングニル塔を足場にして羽を広げていた。
「ニーベ……ルング」
それを天使と呼ばないのならば──おそらくそういう呼称の生き物だ。ただナギの知っているニーベルングとはいささか異なるようだった。それは要塞のように巨大、それは神の御使いのように純白、それは息をのむほど美しく完成された一枚の絵画のようだった。
 見惚れている間にも魔ガンは鳴り響く。今度は二度、三度、塔の至るところで花火のように
爆発の明かりが灯った。当然火の手があがる。白いニーベルングの出現から一分と経たず、グングニル本部はクリスマスツリーさながらに彩られ、漆黒の世界を鮮やかに照らす燈台となった。
「なんであんなのが中央にいるの……」
こぼれおちる疑問に、ナギは自ら答えを出すことができる。ただしそれを肯定してしまえば、もう身動きがとれない。握りしめたブリュンヒルデは意味を成さないハリボテに成り下がる。頭を振って歩を進めた。とにかく今は塔まで辿り着くのが先決だ。
 魔ガンの発砲や、白い超アルバトロス級ニーベルングの地団駄で大地が震える。眠りについていた街は連鎖を起こして次々と明かりをともす。赤ん坊の泣き声が聞こえる。飼い犬が威嚇を繰り返す。真夜中の市街は一瞬にして、太陽がないだけの昼間のように騒然とし始めた。
 ようやく塔が射程に入ったところで、ナギは無心でブリュンヒルデを構えた。ほとんどの隊員は当然のことながら内部から応戦しているが、ここからなら致命傷とまではいかなくてもかなりの痛手を負わせることができるはずだ。撃つべきだと、漠然と思った。目の前にニーベルングが存在し、それが人を襲っているのなら考える余地などないと思った。
「ナギ! 撃つな!」
が引き金に指をかけたところで、横から飛び出してきた何者かからセーフティーハンマーを無理やり下ろされる。ほとんど体当たりとしか言えないそれのせいで、二人して無様に倒れ込むことになった。
「何……!」
「撃つなよ……っ! っていうか何でここに……」
覆いかぶさってきたのは、シグだった。珍しく余裕が無い。混乱をそのまま口にする。
「ねえ、意味が分からない……! 撃つなって何!? 本部が襲われてるんでしょう!? それに放っておいたら市街に……!」
「さあね! 意味が分からないのは俺も同じだから、その質問には答えてやれない! ……こういう状況で、あのニーベルングはサクヤ隊長だって言っても、すんなり理解してくれるとも思えないしね……!」
「……シグ、ふざけないで」
「理解しなくていいから、とにかく撃たないでくれ」
シグは淡々と吐き捨てて、立ち上がった。
 ナギはもう一度、塔の上のニーベルングを見上げた。今まで見てきたどのニーベルングよりも巨大で、それそのものが発光しているのではないかと思えるほど白い。夜に溶けない異質な光景だった。それでも、どれだけ異質であろうとも、眼前のそれはニーベルングという生き物だ。人ではあり得ない。そう思って何度も見直すのに、全身が震えて止まらなかった。
 シグは、理解しなくていいと言った。しかしナギは、一瞬で全てを理解した。間に合わなかった、ただそれだけの話だ。 
 響いたローグとヴォータンのコッキング音で我に返る。
「何で、シグは撃つの」
「……撃たなきゃ仕方ないだろ。ナギの言う通りこのままじゃ市街に被害が及ぶ」
「被害……? そんなの。だってあれは……」
「それじゃあグングニル塔が破壊されるのを待つか? その後飛び去ってくれる保証もないのに?」
「待ってよ、待って……! 言ってることおかしいよ……っ。あれがサクヤだって言うなら何で撃つの! 必要ないでしょ! こんなこと……!」
「理性なんか残ってるように見えるか!? 俺の魔ガンなら致命傷にならない、でもこのままだと他の連中がなりふり構わず討伐にかかるだろ! ナギは隊長を殺したいのか!」
「もういいやめて! おかしいよ! 言ってること全然分かんない……!」
「だから理解しなくていいって言ってんだろ。気が散るから黙って。とにかくあれを撃退しない限りは、塔内ニブルまみれで全滅だ」
 そうこうしているうちに塔の側から、一際派手な爆発音が轟いた。パイ生地みたくあっけなく、壁が崩れて落ちていくのを二人は成す術も無く見守るだけだった。このレベルの魔ガンを扱える人材は限られている。サクヤの存在を除けば、ここで呆然としているナギか、リュカくらいのものだ。シグの口から舌打ちが漏れた。
「馬鹿が……!」
シグは躊躇わず二丁の魔ガンを上方に向けた。照準を馬鹿でかい両の瞳に定める。撃ち抜くつもりだった。当てる自信も技量も持ち合わせていた。そしてその役は、自分が務めるべきだとも思った。少なくとも隣で放心している彼女に、その業を背負わせるわけにはいかない。この滅茶苦茶な状況下で、ここまで理性的に判断できれば及第点だろう。
 アルバトロス級の白いニーベルングに向けて、シグはいつもと同じように落ち着いて引き金を引いた。


「“サギ”の討伐失敗は八番隊の故意によるものでは?」
「……いいえ」
 ナギの外の世界では、この冷めた声がずっと鳴っていた。グングニル塔の地下一階、空気はこの声と同じく冷えきっている。
 突如現れ、グングニル本部塔を強襲したアルバトロス級ニーベルング、呼称を“サギ”。あの後“サギ”は、それぞれの小隊の執務室や屋内訓練場のある演習塔二棟を半壊させ、両翼を羽ばたかせて自らの意志で飛び去った。傷という傷は負わぬままだ。つまり、シグの狙撃は失敗に終わったということになる。
 情報は瞬く間にグングニル内を駆け巡った。その中で明るみになったことが、八番隊隊長であるサクヤ・スタンフォード中尉の失踪、サギが現れる直前の深夜の魔ガン発砲音、そして塔内の一室から検出された「事実上ありえない」高濃度のニブル、といった事実だった。 
 上層部はすぐさまそれらの点同士を結び付けた。機関の公式発表は、八番隊隊長サクヤ・スタンフォード中尉による謀反というものだった。当然の流れとして、サクヤを除く七名の八番隊隊員たちは、一人一人隔離、軟禁されたまま朝を迎えることになった。
 そして現在、一夜明けた満身創痍の本部塔地下では、“サギ”の出現と討伐に関する八番隊への査問が行われている。ナギはその最後の一人だった。
「では、貴方個人の判断による妨害ですか」
「いいえ。妨害は、していません」
「レイウッド曹長。虚偽なく、答えてください。貴方はシグ・エヴァンス曹長の攻撃を阻害した形跡がある。これは妨害行為だ。その理由を述べてください」
「……覚えていません」
 数時間前の記憶は、グングニル塔にのしかかった白い巨大な竜の絵で占められている。後は爆発音と閃光の繰り返し。それに照らされる神々しい悪魔の姿。自分の言動の大部分は空白になっていた。
「今の発言は虚偽とみなします。理由を答えてください」
「──」
「それでは機関の見解を述べます。貴方はサクヤ・スタンフォードと共謀して今回の襲撃を企てた。違いますか」
「違います。私は、何も」
知らないのだ。何一つ。
「他の隊員に『スタンフォードと特別親しかった者』の名を挙げさせたところ、答えた者は全員が貴方の名を挙げました。協力者になり得るなら貴方以外にない」
 言葉が出てこない。誰が、何を、どのように喋ったかは知らない。ほとんどの情報は開示されたと見るべきなのだろうが、ナギ自身にとってそれが不利な状況を作るとは思ってもみなかった。なぜなら、彼女は何一つ事態を把握していない。真実などというものとは、ほど遠いところに突っ立っていたのだから。
「スタンフォードは日ごろから、機関の在り方に反発している節が見られた。ニーベルングの存在を擁護するような言動も後を絶たなかった。そのことを貴方が知らないはずはない。寧ろ肯定していたといっていいでしょう。その点については」
「それは……」
「彼は末期のニブル病患者でもある。自身も部下もそのことは承知していた。ニーベルングの自然治癒に関して、彼が研究していたという情報も出ています。そのことは?」
「ニーベルングの生態や、ニブルについて勉強していたのは確かです。でもそれは純粋に知識欲からだったと」
「貴方の見解は不要です。事実だけを述べてください」
ナギは黙ると同時に奥歯を噛みしめた。事実というものが現象のことのみを指すなら、それはサクヤにとって(あるいは自分たちにとって)不利なものでしかない。結論は初めから出されているのだ。その根拠として都合の良い証言をかき集めるため、彼らは決まった質問をたたみかけているにすぎない。
「ファフニールという単語を、彼の口から聞いていますね」
 頷くか否か、ナギはそのときだけ一瞬考えた。
「……聞いています」
 第一の魔ガン、引き金を引くだけで濃縮ニブルを散布し、人体をニーベルング化させる欠陥品──実在するかどうかも怪しいその魔ガンの名は、この場では至極当然の代物として語られるようだった。
「スタンフォードは部下にファフニールの所在を調べさせています。その後、彼の権限では入れないはずの地下第二層に侵入している。ファフニールを手に入れるためと見て間違いないでしょう」
「待ってください。部下……って、八番隊の誰かってことですか」
「質問は認められていません。こちらの問いにだけ答えなさい」
自分以外の誰かが、サクヤからファフニールについて聞かされている──? そんな話は知らない。誰一人としてそんな素振りは見せていない。
「ファフニールは機関の最重要機密です。スタンフォードはそれを計略的に強奪し、自分に向けて使用することでニブル病による死から逃れることに成功した。その一連の補佐を務めたのがナギ・レイウッド曹長。貴方です」
「……っ、だから、違います。全てつじつま合わせじゃないですか。何一つ証拠がないのによくもそんな……」
「口を慎みなさい。貴方の言うとおり、つじつまは全てにおいて合う。この事実を覆す証拠がない限り、機関はこれを公式発表とします。八番隊は本日を以て解体、十ヶ月の執行猶予の後、投獄。……ただしこの十ヶ月以内に、サクヤ・スタンフォード、識別名“サギ”を討伐、ファフニールを奪還した場合は無罪放免とします」
「無罪……?」
「そうです。“サギ”は現状最も危険なニーベルングであると同時に、グングニル機関発足以来の汚点です。早急に処理する必要がある。そのために“サギ”討伐特別部隊・零番隊を新たに組織します。八番隊隊員には全員に等しく、零番隊への参加権利がある。ナギ・レイウッド曹長、貴方はどうしますか」
 何、この質問──馬鹿げてる。さんざん脅しておいて今さらどうしますか、だって? ──まるで選択の余地が残されているような言い草だ。
 唇をかみしめる。鉄の味がした。執行猶予は十ヶ月、その間に“サギ”を討ち、ファフニールを奪還する。与えられた使命は至って単純だ。
 こみ上げてくる全ての感情を押し殺して、ナギは鉛と化した唇を静かに開いた。


 月が無い。月が無ければ、夜の空はこんなにも闇一色なのか。視界の端から端まで、区画整理でもするように規則正しく空を見た。星はあったのかもしれない、あるに決まっている。しかし分厚い雲に覆われれば、あっさり行方をくらますような存在だ。
 壁と屋根の半分を失った屋内演習場は、冷蔵室のように冷えていた。ナギは何をするわけでもなく、隅のベンチに座って闇を見つめていた。
「ナギ」
背後から聞こえた自分の名を呼ぶ声にも、応えるのが億劫だった。誰にも会いたくなかった。とりわけ、この声の主には。
 返事をするわけでもなく、視線をよこすわけでもないナギの真正面に、シグは立った。
「……何か用」
「ご挨拶。ナギのおかげでこっちは“サギ”の強襲を手引きした実行犯扱いだってのに」
「そう。悪いんだけど、昨日のことはほとんど覚えてないの。迷惑をかけたなら謝る。……他に用が無いなら、消えて」
 何をするわけでもない。そして何を考えているわけでもない。思ったことをそのまま口にした。
「……わざわざこんなところにいるのは頭冷やすためかと思ったけど、そういうわけでもないんだな。サギも機関も“零番隊”の連中も、もう動いてる。……呆けてる場合じゃないと思うけど」
「忠告? だったら余計なお世話。私は──」
立ち上がろうと視線を上げた刹那、額に押し付けられた銃口とコッキング音で、ナギの頭の中は再び真っ白になった。
「ナギはファフニールの在り処を知ってるんだろ?」
「どういう、意味」
「そのままだよ。サクヤ隊長と結託するならナギの他にはあり得ない。最後の通信で、あの人と何を話した? 俺たちを陥れて、あんたたちは何を得ようとしてるわけ」
 手から、足から、全身から力が抜ける。立ち上がる気力はもう無かったから、それらは既に不要だったといえばその通りだ。空気が冷たい。銃口が冷たい。シグの瞳が冷たい。全てが冷えきっていて、凍えてしまいそうだった。
「ナギ、答えて」
 喉が、唇が渇いている。寒さのせいだと思った。シグの吐く息も白い。長い息が煙のようにただただ立ち昇っていった。と、その白いもやが一瞬視界を覆い尽くすほどに広がる。シグは溜息と共に銃を下げた。
「……っていうのが“零番隊”の見解ね。その気になれば、ここで無防備にぼんやりしてるナギを狙撃して、全部押し付けて葬り去るっていうこともできなくはない。現に今、俺にはそれができた。……もしもし? 俺の言ってること分かるよな」
「分かる。でも、もういい。充分」
金縛りは解けた。ナギは立ち上がって、踵を返す。ここはとにかく、寒すぎた。
「ナギ。敵は、ニーベルングじゃなくなった」
「分かってるっていってるじゃない」
「いや、分かってないでしょ。銃突き付けられたまま無抵抗なのがいい例。ナギに八番隊は撃てないよ。──だから、俺と契約しない?」
「は?」
「サギを討つにせよ他のニーベルングを討つにせよ、俺のローグとヴォータンじゃ難しい。バーストレベルの高い魔ガンがどうしても必要だろ。ナギはそれにうってつけ。……俺がナギを利用する換わりに、俺はナギのボディーガードを引き受ける」
「ボディーガード?」
「そう。例えば今、第二演習塔から監視してるどっかの隊の覗き魔を撃ち落としたりとかね」
シグは言いながら、先刻までナギに突き付けていたハンドガンを無くなった壁の方へ構える。二人の視線の先で、確かに人影が動いた。
「……っていう風に悠長に構えると逃げられるんだけど」
シグはバツが悪そうに銃を下ろし、唖然とするだけのナギに向き直った。
「で、どうするの? そのまま阿呆面さらしててても何も始まらないと思うけど」
「阿呆面は余計」
ナギは嘆息ついでに右手を差し出した。寒さで震えていた。寒さのせいだと自分に言い聞かせた。シグはいつもと変わらず平静ぶって、その手をとる。失ったものばかりの中で、シグの手のぬくもりだけは確かなものとしてそこにあった。本当は、この状況下で変わらないものがあるのなら、それにしがみついていたかった。ただそうした瞬間に膝から崩れ落ちてしまう予感があった。
 だからほんの一時だけ、その手を握って離す。ナギにはやらなければならないことがある。そのためには両の足でしっかりと立っている必要があった。例えその足を動かす脳が、心が凍りつきひび割れてしまったとしても、血を吐きながら立って歩く。それが、ナギ・レイウッドとして逃げ続けてきた人生に課された罰だ。与えられた猶予は十ヶ月、ナギは魔ガンを撃つ覚悟を決めた。
 こうして、サギによるグングニル本部強襲の真実は、鍵付きの情報として一部の限られた者たちにだけ公開されることになった。即ち“零番隊”、サギ討伐を専門とする特別小隊である。小隊と言っても名ばかりで、その中身は最終目的だけを共有した完全個人主義の寄せ集めだ。ある者は上層部からの命を受け、ある者は名誉と手柄を欲し、ある者は信念と正義感を振りかざし“零”の任務に着いた。
 言うまでもなく元八番隊の隊員たちは、いささか事情が異なる。彼らにとって、“零”の任務は絵踏みそのものだ。サギ──かつての隊長を討ち「自分は共犯者ではない」ことを証明するか、存在するかどうかも分からない共犯者を炙りだし突き出すか。そのどちらを優先するにせよ──何を真実に仕立て上げるにせよ──自らの身は自らで守るほか無い。なぜなら零番隊という隊を統べる長は無く、守るべきルールも協力する義務も無い。誰を疑い、誰を欺き、誰を陥れるかも自由だ。それこそが零番隊に課せられた唯一のルール、暗黙の了解であると言えた。


 ナギは繰り返し、その夜を夢に見るようになった。純然たる夜、星さえも隠れる漆黒、瞼を閉じたときに広がる無限の闇と同じ世界。ナギはその冷えた感覚をよく知っていた。記憶の中の鍵付き扉の奥、あの中から漏れてくる空気によく似ている。そのせいで、夢はいつも知らぬ間にその時、その場所へと強制ワープするのだ。
 リンリンと鳴るユキスズカ草を踏みつけて扉の前へ歩み寄ると、それが実は床下の扉だということに気づく。何でもありだ。夢か現かと言われれば、間違いなく夢なのだろうと確信できる。
 それは開けてはならないと教えられた、説教台の下にある古びた木の扉だ。先刻まで何重にも巻かれていた南京錠は見当たらなくなっている。やはり、その都度改変されていく都合の良い精神世界のようだった。扉を開ける。その先に延びる古びた石の階段を下る。暗い。暗い。暗い。まるで地獄の底のように真っ暗だ。上の世界で悲鳴が上がる──すぐ隣でも悲鳴が上がる。上の世界で咆哮が上がる──すぐ隣でも咆哮が上がる。隣には誰がいたんだろう、ふとそんな疑問が脳裏をよぎった。その部分は、紙をぐしゃぐしゃに丸めたような音と感覚に支配されて再生できない。スキップ。スキップ。スキップ。扉が開かれ、光が差しこむところまでスキップ。
 光に包まれながら振り返った。隣には、誰がいたんだろう。とにかくそれを確認したかった。隣には、誰もいなかった。石の階段の下には、ニーベルングの死骸が一体転がっていただけだった。何度も振り返っては確認した。そこには死骸が一体あるだけだ。死体は無い。死骸が一体、死体は無い。ナギは心の底から安堵して、光の中から伸ばされた手にしがみついた。そしてもう一度だけ、繰り返す。
 死骸が一体、死体は無い。隣には誰もいなかった、と。

episode viii 狡猾な天使は微笑わない

 相も変わらず空一面に暗灰色の雲が広がっていた。少女は惜しげも無くうんざりした表情を晒して、裏庭で洗濯ものを干している。父のシャツ、自分のシャツ、タオルが数枚。どれも白いか淡い色合いばかりの中で、一枚だけの真っ黒なシャツはどうにも目立つ。少女は、その仲間はずれのシャツも他のものと同様に丁寧にしわを伸ばし、干した。自然に笑みがこぼれる。そろそろシャツの主が、空腹を主張しながら戻ってくるはずだ。などと考えていた矢先に、微かにドアベルの音が聞こえる。
「うあーっ、疲れたあぁ~、お腹減った~! アカツキさ~ん!」
そして大音量で店内に響く女の声。そろそろ招集がかかる頃合いだとふんで、少女も急ぎ、残りの洗濯ものに手をかけた。
「カリーン。飯にするぞー」
「はーいっ。今行くよーっ」
抜群のタイミングで父の声が響く。最後の洗濯ものを干して、少女は踵を返した。
 裏口から店に入るとすぐ自宅用ダイニングに出るが、当然のように誰もいない。賑やかな声が聞こえるのはカウンターテーブルを跨いだ先からで、カウンターの内側では父・アカツキが調理しながらその客の相手をしているようだった。厳密に言うと客ではない。店は夕方からで、本来昼間は営業していないのだ。だからというわけでもないが、少女はこの「客」たちに「いらっしゃい」という言葉をかけたことはない。
「ナギちゃん、シグくん、おかえりー。今日もお疲れ様ー」
「ただいまーカリンっ。先に食べてるよー」
「ただいま」
 カウンターには、黒いシャツと灰色のジャケット──対ニーベルング機関“グングニル”の制服を着た男女が隣り合って座っている。通常の1.5倍サイズのオムライスを頬張っているのがナギで、バゲットをスプーン代わりに特製ドミグラスをちょいちょい摘まんでいるのがシグ。二人とも四か月前までは叔父、つまりサクヤ・スタンフォードの部下だったという話だ。今の彼らにとっては、ここ最近頻繁に市街に現れる巨大なニーベルングの討伐が最重要任務らしい。それと同時並行で、行方不明になった叔父の行方を捜している。
「今日は、どうだったの?」
分かりきったことを聞くのも可哀そうだが、通例だから聞いておく。
「申し訳ありません、カリン隊長。収穫ゼロ。サギもここのところちっとも出てこないし、手がかりもないし、零番隊はちょろちょろ鬱陶しいし……。あ! そうだ、アカツキさん聞いてよっ! この間のストーカー事件のオチ!」
絶品のオムライスを貪りながらも、愚痴を吐いたり嘆息したりとナギの口は忙しい。半分以下になったコップにカリンが水を注いでくれたのを見て、お礼も忘れず述べる。
「分かったから食べるのか喋るのかどっちかにしてくれ。ったく、お嬢様みたいな顔してるくせに行儀はまるでなってねえな……」
「じゃあ喋る! だって屈辱的なの、ほんっと信じらんないっ。一週間も付けまわしてきといて『あなたの魔ガンさばきに惚れました……』ってあの男、馬鹿じゃないの?」
「なんだ、そっち系か。ある意味無害だろ、良かったじゃないか」
「良くなぁい! 私じゃないの! シグ! 付けまわしてたのも盗み見してたのもぜーんぶシグ目当て! 『今度一緒に食事でも』って……あいつ何のために零番隊にいんのよ、空気読めっての」
青筋を立てて力説するナギの横で、シグは半眼で黙々とバゲットをかじる。確かに一昨日、そういう輩をふんづかまえて自分たちを追う理由を問い質したが、その内容についてナギがここまで立腹していたというのは初耳だ。無論、シグは丁重にお断りしている。
 カウンター越しのアカツキはからからと片眉をあげて笑っていた。こういう分かりやすい表情を作る点では、アカツキはサクヤと似ても似つかない。歯に衣着せぬ物言いも、無精ひげも、項で一本に縛った長髪も、似ていない点など数えだしたらきりがないのだが、それでもサクヤを少しでも知っている人間なら二人が血縁者だということはすぐに分かる。目鼻立ちは元よりその声が、眼を瞑ると聞き分けられないほどに良く似ていた。
 アカツキ・スタンフォードは、中央区グラスハイム市の片隅でバールを経営するサクヤの兄だ。早くに結婚した妻は、ニブル病でやはり早くに亡くしている。一人娘のカリンは今年で14、男手ひとつで育てたにも関わらず、気が利く女の子らしい子に育ってくれた。そして妙なところで聡い。察しが良いと言うべきか、大人の事情というやつに鼻が利く。だからこそ今回、サクヤの失踪についてはどう説明すべきか頭を痛めたわけだが、結局、行方不明になっていることは事実として伝え、サギとの関連は伏せることにした。アカツキ自身は、当然全てを聞か
されている。
(まあ、あの頃に比べりゃあいろいろマシか……)
 ナギの愚痴を聞き流しながら、アカツキはふと四か月前のことを思い返した。
 暮れも差し迫ったある日、グングニル機関の上層部がやってきて、まるで死刑宣告でもするかのように弟の処遇を告げて去った。その翌日に、今度は死刑宣告されたかのような血の気の失せた顔でやってきたのがナギだ。サクヤの部下だと、補佐官だったという彼女は説明こそ機関と似たようなことを言っていたが、その途中何度も頭を下げ、何度も謝罪の言葉を口にした。こんなことになったのは補佐官である自分の責任だと言って、泣いていた。
 アカツキの脳裏には今もその姿が鮮明に刻まれているのだが、眼前でオムライスをがっついている彼女を見ているとどうも別人だったような気がしないこともない。
「……おかわりあるぞ」
「いただきますっ」
 特製ジャンボオムライス1.5人前を平らげてなお、彼女の胃袋は満たされないのか。スプーンを握りしめたまま瞳を輝かせるナギの横で、シグがこれ見よがしに嘆息していた。こいつはこいつで極端に食べない。思春期女子でも今時シグよりは食べる。現に、カリンはナギの横でにこにことジャンボオムライスを食べているのだから。
「シグ……お前はあれか。酒を浴びるように呑むタイプか」
「はい? ……いや、普通、だと思いますけど」
 脈絡の無い質問に謎の不安を覚えて、シグはナギの方を見やった。アカツキも、シグ当人の回答が信用ならないのか、同じく視線をナギへ。
「普通じゃない? 本当にごくごく普通」
「だったら何を動力源に動いてんだよ。食え、もっと。毎日毎日小鳥のようにパン屑なんぞついばみやがって」
などと皮肉を吐きながらも、アカツキがシグに推し進めるのは消化に良さそうな野菜スープだ。アカツキの料理に限定するなら、シグはグングニル本部に居た頃よりも食べるようになっている。特別な理由は無い、要は美味いからだ。
 ナギとシグは、このアカツキのバールを主な拠点にして“サギ”の捜索を続けている。捜索、討伐とは言っても闇雲に大陸全土を巡るわけにはいかないから、零番隊のほとんどの隊員はナギたちと同じように市街地で網を張っている。その消極的方法が一番“サギ”との遭遇率が高いからだ。
「今回はまるまる一ヶ月音沙汰なし、か」
 カウンター奥の壁にぶら下がっているカレンダーを見て、ナギが呟いた。
 グングニル機関が設定する最大等級である「コンドル級」に認定されたサギは、四ヶ月前の本部塔襲撃以降、定期的にグラスハイム市に姿を現すようになった。本部塔の上空をただ旋回するだけのこともあれば、市街地を縦横無尽に飛び回ったり、大量のニブルを吐き捨てて去っていったりもする。サギの行動はその都度異なるが、二週間に一度はグングニル本部塔近辺に姿を現すことは確かだ。
 捕捉はしているが未だ接触はない。ナギとシグはそういう四ヶ月間を過ごしていた。無為と言えば無為、焦燥はもちろんある。
「愚痴っても焦ってもなるようにしかならないだろ。あっちが気まぐれなら、こっちはそれに振り回されないように準備を怠らなければいい」
「それはそうなんだけど……」
シグの冷静と正論が、これに関しては功を奏さない。
「はーい。提案でーす」
 横でひたすらオムライスを頬張っていたカリンが元気よく挙手して、カウンターチェアから軽快に降り立った。
「今日はお店もパパもお休みだし、ナギちゃんもシグくんも元気がないし、ここはひとつみんなで楽しく盛大に夕食を摂るというのはどーでしょうっ」
「いいね。私も手伝おうかな」
(また食事の話……)
ナギが笑顔で賛同する傍らシグの気力は更に減退していたが、姫二人が既に盛り上がっているのだから男の出る幕は無い。
 ナギはカリンに甘い。ひとり親であるアカツキは言わずもがな、シグも何となくカリンにはほだされるところがある。この家の空気は、彼女がつくっていると言っても過言ではなかった。
「そうと決まれば買い出しに行かなくっちゃねー。メニューはパパにお任せ?」
「リクエストがあれば多少受け入れるぞ」
アカツキがにやつきながらシグの方に身を乗り出す。シグは観念したように気だるく両手を挙げて、いくつか思い浮かぶ品名を並べていた。カリンはそれを見て、歯を見せて笑う。
 視点を変えれば、こういう四ヶ月でもあった。サクヤのいない時間を、ナギはなんとか笑って過ごしている。それで事態の何が改善するというわけでもないのだが、魔ガンを握っていないときはせめて笑っていようと決めた。そうでもしないと、途端に世界に現実味がなくなってしまう。
「はーい。ということで、メインはエビに決定しましたー! 他にご意見無ければ買いだしに向かいますが大丈夫ですかー?」
「待ってカリン。買い出しなら私も一緒に──」
 既に玄関扉に手をかけていたカリンを追って、ナギも席を立った。と、扉は外側から開かれる。そこから覗く来客の顔に、ナギとシグは揃って口をへの字に曲げた。対照的に満面の笑みを浮かべるのはカリン。
「ちょうどいいところにっ。今日の夕飯、みんなで一緒に食べるの。ユリィちゃんも是非」
 ナギは条件反射でとってつけたような愛想笑いを浮かべてはみたが、カリンの屈託の無い全開スマイルの前では質の悪いマネキンと同じだ。シグは愛想笑いさえ諦めている。こうなるとユリィと合わせて鉄仮面が二人。非常に居心地が悪い。
「そうね。ちょうどいいところに来たみたい。ナギさん、貴方にいくつか聞いてみたいことがある」
「はあ……。あ、でも買い出し」
「私なら一人で大丈夫だよ。いつもと同じところにしかいかないし」
そう言って、察しの良いはずの少女はナギを残して一人街へ出て行った。太陽が消えた店内には、ユリィの表情を鏡映しにしたような無表情の大人が四体。凍りついた空気も全く意に介さずに、ユリィは当然のようにカウンター席、ナギの隣に腰掛けた。
 アカツキが無言で食器を片づけ始める。シグは相変わらず端の席から動こうとせず、冷えたコーヒーカップを手の中で弄んでいた。やけに響く、壁掛け時計の秒針の音。とにかく気まずい。
「あの……」
「零番隊が編成されてから、こうして貴方と話すのは初めてね」
ニコッ──だとかは、もちろん無い。顔の全神経はそのままで、唇だけが一音一音その言葉を発するために動いているだけに見える。その端正すぎる顔立ちにある意味で見惚れていたが、ナギはかぶりを振って平静を保った。
「そう、ですね。オーウェル補佐官……今は補佐官じゃないか。彼が気持ち悪いくらい私たちのことを見張ってるので、当然の流れとしてユリィ隊長のことは警戒していましたから」
「そう」
 ナギとしては精いっぱいの皮肉を吐いたつもりだった。が、この手の嫌味はユリィには全く効かないようだった。あんたの指示じゃないのかという身も蓋も無い台詞が口をついて出そうになるのを、ぎりぎりで留める。
 ナギとシグをつけまわしているのは、昨日の能天気なストーカー紛いだけではない。把握しているだけでも上層部から二名、一番隊から一名、所属不明者が一名、零番隊に関して言うならほぼ全員が何らかのかたちで自分たちを監視対象においている。かつての三番隊隊長補佐ミナト・オーウェルもその一人だ。
「で、何ですか。私に聞いてみたいことって」
ナギの苛立った催促も気に留めず、ユリィは視線を一瞬だけシグへずらす。この際アカツキは空気扱いなのか意図的に無視されているのか、とにかく「気を遣う対象」からは外されているようだった。
「外した方が?」
「どちらでも。とりわけ目新しい内容を聞きたいわけじゃない。査問でナギさんが話したことを直接聞いてみたいだけ」
 シグは小さく嘆息して席を立った。ユリィは何でもないことのように言うが、それこそがナギが一番話したくない内容であることを、シグは知っている。一瞬にして張り詰めた空気に気付かないはずはないのにユリィは我関せずだ。
「……店の前にいる。なんかあったら、呼んで」
去り際にナギに耳打ちしたが返事はなかった。いざというときは手荒な仲裁に入らなければならないのかもしれない。そういう一抹の不安を汲んでくれたのは、当事者二人ではなく空気扱いされているアカツキの方だった。
(でもこの人だって、こうなるとどっちの味方とも言えないしな)
 ユリィはサクヤの幼馴染──ということはつまり、カウンター奥で素知らぬ顔でグラスを拭いているこの男とも、当然長い付き合いのはずだ。カリンの警戒心のなさ(というより全面的に信用しきっている)からも、それは容易に汲み取れる。
 ともあれ今は、アカツキを頼る方が良さそうだ。ユリィが第一声を発する前に、シグは店を後にした。
「ユリィ隊長は、志願して零番隊に入ったんでしたよね」
 先手はナギがうった。主導権はこちらが持っていたかった。
「なぜですか。元八番隊と違ってユリィ隊長にサギ討伐の義務は科されていないはずです。なのに何故わざわざ」
「あれがサクヤだから、でしょうね。わざわざもなにも身内の不始末は身内が片づけるのが筋ってものでしょう。少なくとも私は、彼を身内だと思っていたから」
「不始末、ですか」
「経緯が分からない以上、結果から判断するしかない。結果だけ見た場合、不始末としか言えないわ。それともナギさんは何か経緯を知っていて、その上で別の見解を持っている?」
何度聞いたところで慣れない淡々とした、とにかく抑揚の無い声だ。しかし、ナギが口元をひきつらせた原因は他にある。
「何が言いたいんですか……」
「確認をしたいだけ。事態は複雑なのか、それとも思っているよりずっと単純なのか」
 ナギは押し黙った。そして身構えた。ユリィ・カーターは自分たちがそう思う以上に、自分たちのことを冷静に敵視している。それが視線ひとつで分かってしまった。
「ナギさん、八番隊のあなたは信頼に足る実力者だった。ただし零番隊としては話が違う。率直に言って私は、あなたがサクヤを撃ったのではないかという可能性を捨てていない」
 昼食の片づけをしていたアカツキの手が止まる。その視線の先、半開きの口を閉じもしないで凝固しているナギが映った。そのまま数秒が静止画のまま通り過ぎる。
「……ばかばかしい。なんで私がサクヤを」
「痴情のもつれ」 
やっとのことで応答したナギに対して、ユリィは間髪いれずたたみかける。これにはナギも、大げさな嘆息で以てすぐさま不快を顕わにした。
「話にならない」
「もしくは。これがサクヤの意思によるものだとすれば、あなたは共犯者、という扱いになるかしら」
何の臆面も無く次から次へと思ったままを口にするユリィ。その、彼女独特のやり方だとか持ち味だとかに付き合ってやる義理はない。
 ナギは席を立った。質問に答える必要はないと判断した。答えずとも、ユリィの中でいくつかの筋書きが決定事項としてあるのであれば、勝手にそれに固執してもらってかまわない。
「機関の上層部は」
呼びとめる代わりに、ユリィは少しだけ声を張った。
「八番隊隊長とその補佐官は男女関係にあったと認識している。認識した上で泳がせておけばいずれサクヤと接触すると考えている。上層部だけじゃない、零番隊の人間は少なからずそう考えているわ。……それはあなた自身がよく分かっているはず」
「見上げた妄想力ですね。それで、私とあのでかいのがどこかで“密会”するまで監視し続けるつもりですか。御苦労さまです」
「まったくだ。さっきから聞いてりゃあ、世迷いごとを次から次へと……」
 カウンターに頬づえをついたアカツキが、突然話に首をつっこんできた。大仰に嘆息してユリィの前へ身を乗り出す。
「ユリィ。悪いけどなあ、ナギを張っても接触するのは俺だけだ。そういうのが趣味だってんなら止めはしないがな?」
「部外者は黙っててくれない」
ユリィはまたも眉ひとつ動かさず辛辣な台詞を吐いてみせるが、心なしか苛立ちの籠った声だった。
 ナギが何か言おうとするのを制して、アカツキは顎先だけでカウンターの端を指し示す。読みさしの文庫本が放置されていた。
「嘘だと思うなら、こいつの文庫本見てみろ。動かぬ証拠ってのが、ちゃーんと挟まってっから」
本の持ち主は元を辿ればサクヤだ。八番隊執務室が閉鎖される前に、ナギがどさくさにまぎれて持ち出したひとつがそれだった。
 ユリィは一瞬だけナギに視線を移しはしたが、許可を求めるでもなく文庫本を手にとってぱらぱらと頁をめくった。ナギにしてみても、その行為をとりわけ全力で制する理由がないからただ見守るだけだ。本に挟んでいるといえば栞くらいのもので、へそくりも無ければラブレターも入っていない。そう悠長に構えていたのはナギだけで、ユリィはとある頁に辿り着くと人形のように整った顔を顰めて荒々しく本を閉じた。
「お前なら分かるだろ」
「……そうね。帰るわ。お邪魔しました」
 え? ──突っ立ったままだったナギの横をすり抜けて、ユリィは足早に店を後にした。粗野に閉められたドアが悲鳴の代わりに軽やかなベル音を撒き散らす。そのリズムの合間にアカツキの噛み殺した笑いが響いた。
「いじめっこ撃退成功ーってな」
「どっちが……それより、何? 何の魔法?」
 氷の美女と謳われるユリィを一瞬にして顰め面にできる、えげつない魔法。その正体を確かめるべく、ナギもぱらぱらと頁を繰る。が、やはり特別なものは何もないし、心当たりもない。疑問符を大量発生させるナギを見かねてアカツキも苦笑を漏らす。種明かしをすることにした。彼が引き抜いたのは、やはり栞だった。
「これ……。ナギに贈ったの、あいつだろう」
「……そうだけど」
正確には、この栞に押し花として張りつけてあるユキスズカ草は、アカツキの言うとおり「あいつ」からもらったものだ。で、それが何をどうしたらユリィ隊長撃退装置に早変わりするというのか。
 黙って解説の続きを待つナギに対して、アカツキは困り顔で小さく唸る。
「サクヤから何も聞いてないのか? 本当に?」
「聞いてないから聞いてるんでしょ? 勿体ぶってないで教えてよ」
「……あいつらしいと言えばそうなんだろうが、こればっかりは何ともな。……ユキスズカってのはな、アルブじゃ特別な意味合いを持つ花なんだ。男が女に贈る花って言えば分かるか?」
ナギは無反応だったが、その表情からこちらの意図は汲んでくれただろうことを察する。
「蕾ばっかりの花束を男が女に贈る。女はそいつを家に持ち帰って、開花の鈴の音を聞く。全部の蕾が花開く前に返事をするってのが、まぁ通例だ。アルブの人間のプロポーズと言えばこれ。俺はもちろん、堅物の代名詞みたいだった親父でさえもやったってんだから笑えるけどな」
「……そんなの知らない」
 これ以上アカツキを困らせたくはなかったが、口をついて出た。視線を文庫本の栞に落とす。これはサクヤからの「お土産」だったはずだ。そんな会話も約束も交わした覚えは無い。
「だってそもそも……花束とかじゃなかったし。鉢ごともらったし。……全部咲いてたし」
「鉢ごと……なぁ。どういうつもりか知らないが、奴の謎アレンジが入ったとしても、だ。ユキスズカってのは間違いなくそういう花だ。なんてったって花言葉が──」
「ねえ、なんか外騒がしくない?」
 空気を読まないやかましいドアベルと同時に、これまた空気を読まない愚痴をこぼしながらシグが戻って来た。しかしそれは仕方の無いことだ。彼は今の今まで気を利かせてたいした用も無い店周辺をひたすらうろついていたのだから、店内でどういう会話が交わされどういう微妙な展開になっているのかを知る由もない。しかしものの数秒で自分の間の悪さだけは悟る。
「……ユリィ隊長は撤退したの」
「おう。俺からのクリティカルヒットを食らってな」
「また意味の分からないことを……」
シグの何気ない呟きで、ナギも我に返る。そうだ、まだその謎が判明していない。ユキスズカ草がアルブでは特別な意味を持つ花だったとして、それが何故ユリィを黙らせる結果につながったのか。
「待って待って。ねえアカツキさん? 結局なんでユリィ隊長は……」
「ん? だからな。あいつは、その花を俺がお前に贈ったと勘違いしたんだよ」
「だからどうしてそれで──……ん? ……え。うわ、え、そ、そういうこと、なの?」
「そういうことだ。喜べ、ナギ。ちび助相手なら最終的に俺を人質にとれば万事解決だ」
アカツキはしたり顔で親指を立ててくるが、素直に喜べない。この男はユリィのそういう感情を知っていながら思いきり利用しているということではないか。ユリィとの立場や性格の不一致はさておき、同じ女としてこういう男を野放しにしていいものか悩む。
「アカツキさんって、ひょっとしてプレイボーイなの」
「おい。今のカリンの前で言ってみろ。いくらナギでもただじゃおかん」
「いや、言わないけど……」
 否定はしないというところに一抹の不安を覚えつつ、ナギもこの話を切り上げることにした。というのもシグが言うとおり、大通りの喧騒がやけに大音量で店内まで響いてくるようになったからだ。三人で顔を見合わせる。
「今日って午後からお祭りとか、だったっけ?」
だとしたら、男たちの怒号が飛び交い、女たちの悲鳴が響き渡るような過激極まりない祭りということになる。百聞は一見に如かずとばかりにシグがドア前に一歩踏み出した。その刹那、再び外側からドアは開かれ、ドアベルが激しく音を立てて揺れた。
「サギが出た! あなたたちも来て!」
たった今追っ払ったばかりのユリィが血相を変えて登場。しかしそれだけ叫ぶと、ドアが閉まりきる前に彼女の姿は街路へと消えた。もはやユリィのものかどうかも判別できないほど、たくさんの足音が溢れかえっていた。それを一切合財かき消すような地響き。窓ガラスが震え、ドアベルがまたガラクタじみた音を立てる。
「ナギ、行こう」
シグは一応声をかけた。が、彼女の方を振り返ることも、ましてやその第一歩を待つこともしない。半ば呆然とするナギを置いてさっさとユリィの後を追っていった。こういうところは八番隊だろうが零番隊だろうが、シグはスタンスを変えない。
 ナギは自分で自分の両頬を打った。古典的な方法だとは思ったが、固まりつつある体を動かすにはその方がいい。
「アカツキさん、行ってくる。カリンのことは私に任せて。アカツキさんはここから出ないでね?」 
「おう。素人はのんびり夕食準備でもして待ってるから。……どういう結果でもいいから、シグとちゃんと二人でここへ戻ってこい」
「分かってる。大丈夫だよ」
笑顔をつくる。ユリィと対峙した時のように、意識してつくる。それはこの場では必要な儀式のような気がしたし、それなりに自己暗示効果もある。が、振り返って街路へ出る瞬間にはまた別の顔をつくる必要があった。すなわち零番隊としての顔。グングニル機関の一員としてニーベルングを討つ、ただそれだけを遂行する機械の顔だ。
「何これ……凄いニブル量……!」
 一歩外に出ただけで別世界が広がった。飛び交っていた怒号と悲鳴は消え、逃げ惑う人々は皆一様に口元を覆っている。無声映画を見ているように周囲は静寂に包まれていた。遠い地響きと砂埃の舞う微かな音だけが鼓膜を震わす。異様な光景だ。
 当たり前のように聞いていたはずの魔ガンによる爆発音に、ナギは身を強張らせた。既に状況は始まっている。爆発と砂埃で濁った空に視線を走らせた。そして言葉を失った。普段その視線の先にはグングニルの塔がある。それをすっぽり覆い隠すようにして、サギはそこに立っていた。圧倒的に巨大だ。それだけならいい。サギが他のニーベルングと一線を画すのは、砦のような巨体と神性さえ思わせる純白の両翼、そしてこのむき出しの敵意である。
「カリン……!」
 ナギは瞬時に優先順位を入れ替えた。サギとは逆方向、市場へ向けて全速力で走る。一般市民と称される人々は、皆我先にとばかりに隣人を押しのけてサギから遠ざかろうと必死だ。支給品の簡易マスクで顔面を覆い疾走する輩も少なくない。
 それよりも数段しっかりしたマスクを装着して、避難もせずサギの観察に精を出している者と数人すれ違った。彼らが零番隊だ。マスクのせいもあり個人の特定には至らない。仮にできたとしても、今はそんなことにかまけている余裕はなかった。
「ナギちゃん!」
市場に辿りつく前に、聞きなれた声で呼ばれ急ブレーキをかける。買出し品をしっかり抱えたカリンが、不安と安堵の両方に顔を強張らせて立っていた。
「教会に行きなさい! あれは私たちが止めるから!」
ナギは持っていた自分のマスクをカリンにかぶせる。どうせ「持っているだけ」で宝の持ち腐れのマスクだ。独善だろうが利己的だろうが、カリンを守るのに役立つなら言うことは無い。
「だ……大丈夫なんだよね? シグくんも、ユリィちゃんだっているし……。あ! パパは? お店に残ってるんじゃないの?」
「いいからっ。カリンは自分の心配。教えたでしょ? 私とシグが居ればニーベルングなんかちょちょいのちょいなんだって。……えーと、ユリィ隊長も、いるし。アカツキさんは私に任せてくれれば大丈夫だから」
 先刻、似たようなことをアカツキにも言ったような気がする。が、父娘そろってそれで納得してくれるのだから恐ろしいほどの信頼度だ。その信頼を裏切るわけにはいかない。マスクをつけたままぶんぶん頷くカリンの頭を撫で回して、その背中を押した。
「さぁ……対話の時間、かな」
 教会へ向けて走るカリンの背を見送って、再びサギへ視線を移した。随分反対方向に走ってきたはずだが、その威圧感が小さくなることはない。たった今ひた走ってきた道を、ナギはまた全速力で駆けた。
 

「零番隊! 出てきたなら撃ちなさい!」
 最前線に陣取って叫んでいたのはユリィだった。マスクをしていても華奢すぎる体格で瞬時に分かる。普段は蚊の鳴くような声で喋るのに、彼女の怒号はこの喧騒で何よりも響いた。商店の屋根の上で続けざまに“クリエムヒルト”の引き金を引いていた。その後方から、シグが援護射撃。
「ユリィ隊長、的になるつもりですか。近すぎでしょ……」
「そういう役回りは貴方が得意だと聞いたけど」
皮肉を言ったつもりは無かったのだが皮肉で返された。なるほど、この無口で小柄なスナイパーは一度口を開くと棘つき台詞しか発射しないらしい。親切心(いつもの無意識おせっかい)で援護にまわってしまったが早まったのかもしれない。
「で、やるの。やらないの。どちらにしろここに居られたら邪魔だわ。決めたら好きに動いて。私がその援護にまわる。……ナギさんは当てにできないから」
 一瞬だけ視線を後方下へ向ける。サギが出没してから随分経つがナギが応戦に合流する気配はない。どこへ行ったのやら。
「いいですけど、俺はナギを優先しますよ」
「好きに動けと言ったのが聞こえなかった?」
ユリィはシグの方を見もしないで吐き捨てるように言った。シグはと言えば、反射的に「すみません」などと情けない単語を呟いて、これ以上ダメージを受けないように即行で踵を返す。手玉にとられている場合ではない。ユリィの狙撃に触発されて、どこの馬の骨ともしれないようなマスク隊員たちが魔ガンを撃ち始めている。サギにはそれを避ける術が無い。いくら鉄壁の皮膚を持っていようが、このまま無防備に食らい続ければ陥落するのは目に見えている。
(深手を負わせて撤退させるのがベストだけどな……)
 シグの今現在の目的は、サギの討伐ではない。今ここでそれを成すべきではないと、街路に飛び出したときにそう判断した。グングニル塔が壊滅するのはこの際構わないが、グラスハイム市の繁華街でこれに大往生された日には、その被害は自分たちで穴埋めできるものではない。
「そういうとこ考えて動いてくれるのが、サクヤ隊長のいいところだったんだけどな」
誰に向けたわけでもない皮肉がまた口から零れおちた。虚しいだけの苦笑ももう何度となく繰り返している。一人になって気を抜くとすぐこのざまだ、などと胸中で自嘲しながらも呼吸を整えて照準を合わせる。狙うは一点、琥珀に光るサギの眼球。と、サギはそれを察知したかのように体を反転させた。刹那──反転させた体を一気に巻き戻す。サギの尾は鞭のようにしなり周囲50メートルの障害物を全て薙ぎ払った。気付いたときには民家の屋根が、窓ガラスが、煉瓦造りの壁がガラクタさながらに宙を舞っていた。無論、人間も例外なく。
 シグはというと、足場にしていた屋根もろとも軽快に吹っ飛んだ後、どこかの家の植え込みに上手い具合に落ち込んだ。自らの悪運の強さに感謝すべきところだが、不様といえば果てしなく不様だ。
「……最悪」
独り言のつもりだったが計ったようなタイミングでナギが現れたせいで、合流早々顰め面をされた。
「それは悪うございましたねぇ。どうしても先にカリンの無事は確認したかったもので」
「居た?」
「居た。教会に向かわせたから大丈夫。……ここであれを食い止めればの話だけど」
「そうなるね。でもどうする? うまいこと撤退させるのはかなり難しい。零番隊の連携ってのはまず期待できないだろうしね」
大儀そうに植え込みから身を起こし、シグは天を仰ぐ。噂の零番隊による反撃は既に再開されていたが、どうにも統一感がない。しかしそんな中にも時折、思わず目を奪われる鮮やかな射撃や格の違う大爆発がある。
「リュカたち、かな……」
「さあ。どっちでもいいんじゃない。今あてに出来ないのは同じことだし」
シグはその真偽については心底興味がないようだった。彼の口から元八番隊について語られたことはこの四ヶ月、一度も無い。シグの徹底振りに感化されて、ナギもいつしかその話題を避けるようになっていた。でもこうしてすぐ近くで同じように戦っていると分かると、思い出さずにはいられない。
 しかしナギはそこで自ら想いを馳せるのをやめにした。シグに諭されなくとも、置かれている状況くらいは分かっているつもりだ。
「交渉してみようと思うんだけど」
「……まさか、あれと?」
 ナギは黙って頷いた。
「たぶん、サギには“目的”がある。グングニル塔や中央市街ばかりを狙うのが、彼の“手段”なら……変えられるかもしれない」
言いながら、頭の中で響く声に耳を傾ける。

──手段は変えることができる。そこに囚われると大事なことを見落とす気がしない? ──

 穏やかで少し懐かしい。そして少し胸が痛む。自分たちは今まさに、手段にからめとられて身動きができない状態に陥っているのではないか。何か大切なことを、随分早い段階から見落とし続けてきたのではないか。
 シグの惜しげもない嘆息がナギを現実に引き戻した。
「誰の受け売りかはだいたい想像つくけど……要するに、サギに接近戦をしかけるってことでいい?」
「いいの?」
「ここからじゃどうせ何の反撃もできないしね。ただ、一個やってほしいことがあるんだけど」
悠長に作戦会議を開いている場合ではなさそうだ。シグはちらちらと落ち着きなくサギの一挙一動を目で追っている。
「至近距離からサギにブリュンヒルデを撃つ。一発でいい。ただ確実に当てて」
「……それに何の意味が」
「あるよ。もう確認したろ? 零番隊は馬鹿みたいにグラスハイムに巣食ってる。連中の前で、ナギがあのニーベルングに魔ガンを撃ったっていう既成事実はどうしても必要だ。……この先もずっとユリィ隊長みたいなのに監視されるのは嫌でしょ」
「……濡れ衣を晴らすためのパフォーマンスをしろってこと」
「まあそういうこと。心配しなくても、あの皮膚装甲ならブリュー一発でどうこうはならないよ。うまくいけば撤退させることもできそうだし」
淡々と語るシグの言葉に、ナギは無意識に眉を顰めていた。対してシグは、ナギの表情を一瞥しただけで眉一つ動かさない。
「無理強いはしない。できなきゃ俺がやるだけの話」
「……いい、大丈夫。私がやるわ。じゃないとたぶん、意味の無いことだろうから」
どのみち魔ガン抜きでサギと対話ができるなどとは考えていない。誰がどう見ても、あれは理性や冷静とはかけ離れた感情で動いている。それを止めるためにもブリュンヒルデの一発は必要だろう。
「死角から一気に攻めよう。射程範囲まで行けたらサギの注意はこっちでひく。後はナギのシナリオに任せるから」
頷いて、次の瞬間には二人同時にスタートを切った。サギの死角、すなわち背後に回り込むために閑散とした街路をひたすら迂回する。
 負傷し、その場で応戦するグングニル隊員がいた。半壊した家屋を盾に他の隊員と通信を試みる者、大量のラインタイトを積み上げて対抗兵器らしきものを準備している者もいる。それらをすべて背景として流して走る。サギだけを見た。灰色に淀んだ景色の中でその純白は恐ろしく映える。その姿かたちは時として神話の中で「竜」とも称されてきたはずだ。だのに、そこに神々しさはなく、ただ圧倒的な禍々しさだけが渦巻いていた。サギは、それが使命だとでもいわんばかりにニブルを吐き続ける。
 視界が濁るほどの霧の中で、純白の光だけを頼りに走った。走って、走って、走り続けた末にシグが急ブレーキをかける。たたらを踏みながら器用にサギめがけて引き金を引いた。四連、八連、十六連射。行き着く間もなく、また与えず、両手の魔ガンを交互に撃つ。灰色のキャンバスに十六個の濁った花火が咲いた。サギが猛々しく吼える。そういう分かりやすい反応の間にシグはすかさず補弾する。出し惜しみは無し。四連、八連、十六連──、一時の静寂もなく爆発音は鳴り続ける。
「さあ……! どう出る、サクヤ隊長……!」
 出方を伺うための間だった。その用意された一瞬の隙を無理やりこじあけたのは、サギの人智を超えた咆哮だった。天と地が引き裂かれてでもいるのか、その大気の振動は視界に映る全てのものを揺らす。
 シグは追撃を諦めた。視線だけを彼女へ送ったが催促は要らなかった。ナギの手元でブリュンヒルデが火を噴く。その反動でよろよろと後退していた。どういう状況であれ、ナギが射撃後に体勢を崩すのは珍しい。などと細かいことを気に留めている余裕はなかった。
 ブリュンヒルデの一発は、サギの長い首の付け根で鮮やかに爆ぜた。光が、音が、振動が、グラスハイム全体に轟いた。
「サクヤ!」
追って吹き出した爆風に煽られて、ナギはまた一歩後ずさった。
「お願い退いて! あなたの目的が何だったとしても、この街は……ここで暮らす人たちが巻き添えをくっていいはずがない! ここにはアカツキさんがいる! カリンがいるの!」
ありったけの声を絞り出しているのに、その声量はブリュンヒルデの爆発音にも、鳴り止まない地響きにもかき消されてしまうものだった。ましてやサギの咆哮には遠く及ばない。それでも、悲鳴のように声をあげるしかなかった。
「ねえ! 聞こえてるんでしょ! 分かってるんでしょ?! あなたの目的はこういうことじゃない……! だったらいつもどおりやってみせてよ! ……サクヤ!」
 いつもどおり──手品みたいに、魔法みたいに、奇想天外なくせに一番合理的な方法を、ちょっと間の抜けた会話を交わしながら試行錯誤。そういうときは、そう、決まって口元に手をあてて周囲の喧騒なんかそっちのけ。でも必ず、次の瞬間には120パーセントの自信と共に解決策をひねり出す。問題はそれがほんの少し、非常識というだけの話だ。大丈夫。そういうのにはいい加減慣れている。
「ナギ!!」
 シグの声と、風切音が耳元でうねった。ナギは自分でも驚くほど大きく後方に跳んでいた。危険を察知して反射的に跳んだような気もするし、何か得体の知れない大きな力に突き飛ばされたような気もする。事実はその両方だった。
 空を切ったのはサギの爪だった。咄嗟の判断で八つ裂きは免れたものの、ナギは受身もとれずそのまま背中から瓦礫に衝突した。体中の骨と臓器の位置ががちゃがちゃとずれる感覚、そして単純な激痛に襲われ嘔吐した。揺れる脳でも分かることはある。サギとの交渉は決裂したのだ。交渉と銘打った、ただの懇願だったのかもしれないが。
(あ、これ絶対やばいパターンだ……)
思考だけははっきりしていたから、状況判断だけは先刻から的確にこなすことができた。さっさと身を起こして体勢を整えなければ、待っているのは目も当てられない無残な死だ。身体は痛むが動ける、はずだ。だのに、体中を鎖で縛られているように身動きがとれない。ひどい倦怠感だ。
 どこかでまた魔ガンの発砲音が鳴った。一発だけ小さく鳴った。遠くで鳴ったのかもしれない。しかし次に轟いたのは、サギの咆哮──いや、絶叫だった。そして耳元でシグの舌打ち。
「シグ、撃っ……」
「撃ったよ。あれは実力行使しないと撤退してくれない」
シグに支えられていた。その手を振り払って立ち上がろうとして、背中に激痛が走る。
「……眼球かすっただけで外れてる。いい加減、片目くらい潰しておかないとこっちが不利だってのに」
先刻のはそういう舌打ちだったらしい。
 ナギはどういう表情を作っていいのか分からず、痛みのままに顔を伏せた。その耳元でまたも魔ガンを構える僅かな音が響く。ナギはほとんど無意識にシグを制そうとしていたが、行動に移す前に状況のほうが著しく変わった。サギは周囲の建物をなぎ倒しながら両翼を広げ、猛り狂って羽ばたく。真っ白な羽を一度翻しただけで、目も開けていられないほどの突風が吹き荒れた。立っていることすら困難になって、気づけば二人で支えあっていた。そのままサギが優雅に撤退するのを、二人は成す術もなく見送るしかなかったのである。
 後に残ったのは、徹底的に破壊された市街の一角とあちこちからあがる火の手、そしてこの生ぬるい風だ。
 ──怠い。身体が鉛のように重い。
「カリン……迎えに行かなくちゃ。アカツキさんも、心配してるから」
 分かりやすい、やるべきことが残っていて助かった。鉛の四肢を引き摺って、瓦礫だらけになった街を歩く。この辺り一帯のニブル濃度が落ち着くまで、どのくらいの期間を要するのだろう。一週間やそこらではないはずだ。霧で濁った視界の中、そんなことをぼんやり考えた。その霧は市街中心部に向かうにつれて、晴れるどころか濃さを増す。始めは気のせいだと思った。が、シグが無言でマスクを付け直すのを目にして、不安は急速に広がった。
「サギの奴……撤退ついでに吐いていったな」
「なんで、そんな……」
「それは俺には答えられないよ」
 ニブルの霧に包まれ白濁した世界に二人は立っていた。異物のように、二人だけが立っていた。もし霧の国(ニブルヘイム)なんてものが本当に存在するのなら、こういう場所をそう呼ぶのかもしれない。ここに人間はふさわしくない。それだけは明白な事実として横たわっている。
「カリンにはマスクも渡したんだろ? 教会に居るなら、無事だよ」
シグの励ましがやけに空々しく聞こえた。この男は、この手の気休めを言いなれていない。どうせなら普段どおり身も蓋も無い客観的見解とやらを述べればいいのに、妙なところで気を遣うからこのざまだ。
 ナギは肯定も否定もしないまま教会を目指した。ニブルは多少薄れてはきたものの楽観できる要素は何もない。市街中心はサギの襲撃そのものよりも、その混乱によって生じた火災だの暴行だのの二次被害が大きかった。生ぬるかった風は熱風となって、時折警告のように通り抜けた。
 教会付近も例外なく燃えていた。その炎の勢い、持続性、何よりその独特の黄金色に二人の背筋が凍る。それは彼らが見慣れた、魔ガンでニーベルングを撃った後の炎と同じだった。
「ここで、戦闘した……?」
「待った。魔ガンじゃなくて、……ラインタイトそのものが燃えてるんじゃないか。この辺、確かもぐりの加工屋が居たろ」
そんなもの数えだしたら星の数だ。なじみのないナギにとって、どこで誰が地下活動に精を出しているかなど知ったことではない。ただ、事実としてラインタイトが燃えているのだから、それ相応の対処を迅速にすべきだ。
 教会の重厚な扉を、痛むからだ全体を使って押しあけた。
「火災が発生しています! マスクをつけて外に出てください!」
避難した人々は、ナギとシグの姿を目にした瞬間、悲鳴をあげた。街中の人間が集結したのではないかと思われるほどひしめきあって座り込んでいる。
「外にって……ニーベルングはどうなったんだ」
「ちょっとあなた! 扉閉めてよっ! こんなニブルの中、外に出ろだなんて……!」
 ナギは彼らの疑問を解消するでもなく、カリンの姿を探して視線を走らせた。──いない。であれば、カタコンベか。座り込んだ人々をかきわけて、ナギは無言のまま教会内へ踏み入った。
「おい……っ、何とか言えよ。よりにもよって、何だってあんな規格外なのが中央区に現れるんだ。グングニルってのはそこまで無能の集まりなのか?!」
 そうかもしれない。そう思ったことは一度もなかったけれど、無能だと割り切ってしまった方がいくらか気が楽なことも確かだ。頭の片隅でそんなことを考えつつも、ナギは非難と怒号のほとんどを聞き流していた。おかげでシグがしゃしゃり出る、なんていう全く以て稀有な状況になる。
「ニーベルングは撤退しました。ここに残る方が危険なので、マスクをしている人から順に外に出てください」 
「撤退って……なんだよ、撤退って。退治してくれたんじゃないのかよ!」
「また襲ってくるかもしれないってことだろ! 出られるか!」
 シグは特大の溜息が喉元でスタンバイしているのを、何とか堪えて呑み込んだ。
「実質、今危険なのは撤退したニーベルングでも、マスクがあれば事足りるニブルでもありません。随所で火災が発生しています。ここに引きこもっていたら全員蒸し焼きですよ」
どよめきは瞬く間に拡散した。今度は我先にと立ち上がり出口を目指そうとする人の群れを、上手く塞き止めて誘導するシグ。ナギはその間に教会の奥へ歩を進めた。
「ナギ! いいよ、俺が行くから」
 入り口で交通整理に追われているシグが、察して叫ぶ。
「大丈夫! そういう場合じゃないから、シグはそっちお願いっ」
 説教台の先、パイプオルガンの隣に貧相な扉がある。グラスハイムの教会にあるカタコンベは、この先の小部屋から地下に続く階段を下りたところだ。躊躇っている場合ではないが、ナギにとってはある程度の覚悟が必要とされる場所であることも確かだ。息を大きく吸って扉を開けた。と、拍子抜けというか幸いというか、カタコンベに入るまでもなくカリンに出くわした。しゃくりあげる子どもたちとすすり泣く女性たちに紛れて、背筋を伸ばして座っている。
「あ、ナギちゃん。お疲れ様っ」
 ナギの口から、本日一番の安堵の溜息がもれた。
「良かった、カリン……。怪我はない?」
「ないない。声が聞こえたからもう大丈夫なのかなーと思って、みんなで上がってきたんだけど……良かった?」
「オッケー。的確な状況判断っ。さすがアカツキさんの娘」
 褒められて──その褒め方もカリンは気に入ったらしい──照れくさそうに笑う。
「あ、でも怪我をしてる人は結構いて、あとまだカタコンベの中に妊婦さんが残ってる。……えっと、私どうしたらいい?」
「後は私とシグに任せて、カリンはこのまま家に帰ること。アカツキさんが発狂しちゃう」
「パパなら大丈夫だよー。それよりナギちゃんたちはどこも怪我とか、ない?」
 その質問には笑顔で答えづらい。背中は今も燃えているように熱い。立って歩けているのだから折れてはいないのだろうが、絶対悲惨なことになっている。絶対だ。今は考えたくなかったから苦笑いで誤魔化した。刹那──。
 ドンッという体の内部に響く重厚な音と共に、部屋全体がぐらぐらと揺れた。ガラスが割れる音と悲鳴とが混ざり合って、状況を混乱に導く。
「ナギ、限界! やっぱりどっか近くでラインタイトが誘爆してる!」
そういうありのまま過ぎる事実が避難した人々を恐怖のどん底に突き落とすのだが、シグももう構わないことにしたらしい。阿鼻叫喚の中、ナギは視線を地下への階段に向けた。
「……シグ、マスク貸して。私が行く」
「限界だって言ってるだろ、俺の話聞いてた?」
言っている傍から小部屋の外で何かが爆ぜた。シグは咄嗟にカリンに覆いかぶさったが、その隙にマスクを奪われる。
「ナギちゃん……!」
「ナギ!」
後を追おうと右足が踏み込んだ。が、その視界にはうずくまったまま泣き喚く人々が映りこむ。腕の中にはカリン。シグは、奥歯をこれでもかというほどかみ締めて、その場の収拾に徹することにした。


 ──吐き気がひどい。
 地下への階段はそう長いものではなかった。背後でシグの叫ぶ声やら悲鳴やら爆発音やら、とにかくそういう大音量の音がけたたましく鳴っているのが分かる。それはさておき、とんでもない吐き気だ。一歩階段を下るごとに増す気がする。
「だ、だれ……」
まだ何も事態は改善していないのに、ナギはその声を聞いて心底助かったと思った。カタコンベの中は案外広い。恐怖に任せて奥の奥まで逃げられていたら心が折れていたところだ。
「グングニル機関です。のんびり説明している時間がありません、とにかく外へ。私につかまってください」
重ねて有難いことに、女性は「グングニル」と聞いて警戒を解き、すんなり指示に応じてくれた。ナギは手際良く、シグからひったくったマスクを女性にかぶせた。
「あなたの分が……」
「私は大丈夫です」
 マスクは必要ない。どれだけニブルが充満していようがナギには関係ない。強いて大丈夫じゃない箇所をあげるなら、絶対どえらいことになっていると確信を持っている背中の激痛と、この吐き気。
 それでも、弱音は呑みこんで一歩一歩階段を上がった。歩を進めるごとに誰かが──何かが──ささやく声が脳内を駆け巡る。
 ひそひそひそひそ──目を閉じてじっとしていれば──そうささやくその声には覚えがあった。今は考えるな、思い出すな。ここは現実だ。それで解決することは何も無い。
 ひそひそひそひそ──何も見ず、何も聞かず、ただ光を待っていれば──
 ここは現実だ。まごうことなき残酷な現実だ。うずくまったら爆発に巻き込まれて何もかも弾けとぶ。
 ひそひそひそひそ──私は救いの手を掴むだけ──
 結局いつも、それだけは変わらないのだと自分が情けなくなる。階段の終わりで誰かが血相を変えて手を伸ばしていた。とてもよく知っている人だ。大丈夫。何度もその手をとってきた気がする。その手は必ず、自分たちを正しいところへ連れて行ってくれる。わけもなくそんな確信を持っていた。
「ナギ! 早く来い!」
 とてもよく、知っている声だ。この世で一番信頼している人の声だ。なのに何故涙が出るんだろう。
「ナギ!」
 滲む視界に手を伸ばした。その手をとったのかどうかはよく分からない。大きな爆発の音と熱と光で、彼女の意識はそれきり完全に暗転してしまった。


 夜は変わらず訪れた。こうして時だけが、何にも動じず普遍の規則を守り続けている。その普遍にして絶対のルールに人間は抗う術を持ち得ない。だからこそ人はそれを無情だと嘆き、唯一の平等だと拝した。
 夜は訪れ、月は輝く。無機質に繰り返される世界の一様相。シグが佇む廊下の窓から見えるのは、そういう変わり映えのしない風景だ。
「そう見張ってなくても、寝てる人間に何かするほど外道じゃないさ。チビも」
 アカツキが苦笑を漏らしながら二階にあがってきた。二階というのは、アカツキの店の二階部分のことで、基本的には彼らの生活スペースである。今はアカツキの私室を占拠して、ナギが昏々と眠っている状態だ。そこへ先刻、ひょっこりとユリィがやってきた。彼女を呼びつけたのは他でもないアカツキだ。確かに手当てだろうが看病だろうが、全てをシグとアカツキがやってのけるわけにはいかない。
「そういうつもりじゃないですよ。……カリンはもう寝たんですか」
「一日気ぃ張って疲れてたみたいだな。ナギちゃんナギちゃん言いながらさっき眠ったよ」
 シグはそうですかなどと有体の相槌をうつと、視線を再び窓の外へ向けた。特に感慨の持てない、つまらない風景をつまらなそうに眺める。その実、頭の中では別のことを考えていた。シミュレートしていた、と言った方が正しいのかもしれない。この先起こり得る状況の想定ではない。ほんの数時間前、教会の扉を開けた後から今に至るまでの過去のやり直しだ。
 ラインタイトが間近で誘爆するということは、すなわち魔ガンの直撃をその身に受けるようなものだ。そんな爆発が教会内にいる間だけで三度起こった。一度目で教会の外壁が崩れ、ありとあらゆるステンドグラスが割れた。二度目で礼拝堂が半壊、その時点でシグは限界だと判断した。その判断が間違っていたとは思わない。ただしその後の自身の行動については、いくつか思うところがある。
 シグはカタコンベへ下りていくナギを止めなかった。体験したことのない恐怖に直面し、成す術のない人々を優先させた。一度も面識の無い、名前も知らない他人だ。理不尽に対して不安を吐露することでしか抵抗できない、哀れな弱者たち。そういう連中を真っ先に避難させて、ナギの後を追わなかった。結果、想定どおり三度目の爆発は起こり、カタコンベへ続く階段諸とも小部屋は吹き飛んだ。
 その瞬間に、頭の中が真っ白になったのを覚えている。閃光が走り思考が焼き切れた。取り返しの付かない判断ミスを犯したことだけは分かった。数十秒、いやほんの数秒だったか、立ち尽くすシグの前に現れたのは、ナギを抱えた煤だらけのアカツキだった。真っ先に口をついて出たのが「なんで」という単純すぎる疑問だった。少し考えれば分かることだ。考えなくとも、肩を上下させて泣き喚くカリンの姿を見れば一目瞭然。要はカリンが、カリンだけがこの場で正しい判断というものを行い、想定された最悪の事態に対処すべくアカツキを呼びつけた
のだ。
「シグももう寝ろ。朝になりゃ、ナギも起きてくるだろ」
 シグの思考を遮断する、現実のアカツキの声。欠伸をかまして踵を返そうとするアカツキを、シグは何とはなしに呼び止めてしまった。また判断を誤った気がする。呼んだからには切り出さざるを得ない。
「アカツキさんは、なんであんな危険なことをしたんですか。一歩間違えば共倒れだったのに」
「なんでってそりゃあ。ナギはうちの大事なお母さんだからな」
何でもないことのようにそう言ってのけるアカツキに、シグは苛立ちを隠せずに目を伏せた。
「……どこまで本気で言ってるんですか」
「お前こそどこまで本気だ? 他のもんと秤にかけた時点でお前の本気ってのはたかが知れてる。あそこで二の足踏んでるような奴にナギは任せられないと思ったから俺がしゃしゃり出たまでだ」
「サクヤ隊長の代行でもするつもりですか」
「さあな。そいつはまた話が別だ。だいたいからしてあいつが話をこじれさせてんだからな」
肩をすくめておどけてみせるアカツキの横を、シグは無言で通り過ぎ階下へ下りていった。
「……いじめすぎたか」
やれやれと言わんばかりに嘆息してアカツキは自室のドアに手をかけた。そして思いとどまって、手の甲を振り上げた。


「気分はどう?」
 目を覚ましてすぐ耳元で響く、機械音のような抑揚の無い声と重火器を構える音。身体は横にしたままで視線だけを声のした方へ向けると、案の定ユリィが魔ガンをこちらに向けて立っていた。
「魔ガンを向けられて気分はと問われても返答に困る」
「意識ははっきりしているようね。面倒がなくて助かる」
生返事だけをして、ナギは自分が置かれている状況を推測することにした。見覚えのある天井に、かすかにアカツキの香りがするベッド、カーテンの隙間からちらと見える色は漆黒。少なくとも四時間以上は気を失っていたらしいことが分かる。それから、丁寧に手当てされた背中の裂傷、きちんと着替えさせらた寝巻き──まさかとは思うが。
「何」
「いえ……もしかして手当てを、して頂いたのかと」
「普通するでしょ。それともアカツキか、エヴァンス曹長に任せた方が良かった?」
ナギは小さく「いえ」と返すしかできない。下手な回答をしたらこのまま撃たれそうな気がする。そもそも何故自分は魔ガンを向けられているのか。その疑問はすぐに氷解した。
「今度今回のような無茶な真似をしてくれたら、そのご自慢のおみ足、両方とも撃たしてもらう。貴方に振り回されてアカツキもカリンも動くから」
なんとも分かりやすい理由と戒めだ。ユリィにとって、この家の住人は第一優先事項なのだ。
「……ともあれ、あの女性を救えたことは貴方のお手柄」
「……どうも」
予想外のところで褒められたことと、ようやく魔ガンを下ろしてくれたことに礼を述べる。そして今更ながらに、カタコンベに取り残されていた女性は救えたらしいことを確認する。意識の最後部分を辿ってみてもそれは自分の功績ではないように思われたが、弁解するのも妙な話なのでとりわけ何も言わなかった。それよりもあのとき──。
 コンコン──と控えめなノックの後、返事をする前にアカツキが顔を出した。
「それじゃあ、私は失礼するわ」
「悪かったな、ユリィ。助かった」
「……別にアカツキに謝られるようなことも、礼を言われるようなこともしたつもりはない」
「そうか。俺は送ってやれんが、気をつけて帰れよ」
さも呆れたと言わんばかりに、ユリィは深々と嘆息して退室した。いや、凄い。ここまで天邪鬼だと、見ている方がが感心する。アカツキに先刻のやりとりを見せてやりたかったが、それはそれで波紋を呼びそうなので胸中にとどめておいた。
「今日はぐっすりだと思ってたんだがな。まぁ、そのまま寝てろ。腹が減ってるなら簡単に作るが、どうする?」
寝たままでゆっくりかぶりを振った。申し訳ないとは思ったが、起き上がるには全身が痛すぎる。
「アカツキさん……ごめん」
自分でも驚くほどの弱々しい声だった。アカツキも虚を突かれたように固まっている。が、次の瞬間にはこれでもかと言わんばかりの特大の嘆息をしてベッド脇に腰をおろした。
「無茶はしてくれるな。心臓がもたん」
「うん、分かってる。もっとちゃんと……しないと。ごめんなさい」
「そういう意味で言ったんじゃない。……だからお前が泣く必要は無い。チビがなんか言ったか?」
また寝たままでかぶりを振った。包帯だらけの手で顔を覆う。途端に世界が真っ暗になった。真っ暗な中で熱を帯びた水だけが次から次へと溢れて落ちていく。落ち着こうと意識すればするほど涙は加速して頬を伝った。吐いた息に嗚咽が混ざる。
「アカツキ、さん」
「うん?」
 確認するように名前を口にした。そのはずなのに、暗闇の中で聞くアカツキの声はどうしようもなく「彼」のものに似ていた。ナギの行為はそれを改めて確認するだけのものだった。
「サクヤはもう、この世界のどこにもいないのかもしれない」
言うつもりのないことが──胸中に隠し続けてきたものが──堰を切ったようにあふれ出た。白い両翼を羽ばたかせて去っていったニーベルング。街を壊し、ニブルを吐き出し、人々を恐怖の底にに叩き落とした「サギ」という名の討伐対象。それはナギが知る「彼」とは全くの別物だ。それは認めるべき事実なのか、否定すべき虚実なのか、もう彼女には分からなくなっている。
「サクヤのいない世界は……夜が、ずっと続いてるみたいに暗い。あの日からずっと……暗いままなの」
それだけが、今ナギに分かる全てだった。
 あの日からもう何度となく夜と昼とを繰り返してきた。満天の星空も満月も、晴れも雨も関係ない。ただずっと夜が続いた。何一つ輝くことの許されない完璧な朔の夜が、普遍の規則を破って繰り返された。それとも──あの日に取り残されているのはナギ自身なのかもしれない。
 アカツキが小さく吐息をつくのが分かった。その直後に、額に温かい感触。アカツキの手のひらは、ナギの両手を包み込むほど大きい。
「そう言うな。真っ暗闇でも、一人じゃなきゃなんとかなる。それに、明けない夜はないって言うだろ。それまでは俺が──」
言いかけて、アカツキはそれきり口をつぐんだ。ただナギの額に乗せた手でリズムを取って、嗚咽を漏らすナギをあやし続けた。
「ユキスズカの花言葉、結局教えてないままだったな」
「花言葉……?」
「ああ。“あなたを守る”──あれはそういう、意志の花だ」
アカツキの穏やかな声を聞きながらナギは何も考えず、泣けるだけ泣いた。何も考えたくなかった。今だけは全ての絶望から目を逸らしていたかった。このまま眠って明日の朝目が覚めたら、また終わりの無い夜の世界を歩かねばならない。眠りたくない。眠りたくない。眠りたくない。
 祈るように胸中で繰り返した。彼女はこの深淵を既に知っている。

──私はまた、あの教会のカタコンベにいる。暗くて深い闇だけの世界に──

episode ix ミイラ捕りがミイラになった理由

 特別討伐対象“サギ”強襲の概要、それに伴ったグラスハイム市街戦についての報告──そういう名目で零番隊に所属する者が例外なくグングニル塔に召集された。零番隊隊員が一堂に会するのは、実質これが初めてだ。召集は機関右翼の代名詞とも言われるメイガス大佐名義で行われた。零番隊を取仕切っていたのが彼だったということ自体、ナギとシグは初めて知ったくらいだ。それほどにこの隊は特殊で、不気味で、公にし難い存在なのだろう。
 彼らが集められたのは本部敷地内の屋外円形演習場。分かりきっていたことだが、ナギとシグは注目の的となった。二人の周囲3メートルは、見えない壁でも張り巡らされているかのように人がよってこない。好奇と侮蔑の眼差しだけが無遠慮に注がれた。
「イライラしてる?」
 シグは欠伸を堪えながら、隣で黙りこくったままのナギに視線を移した。
「え? イライラ? は別にしてない。早く終わらせて、カレー食べに帰りたいとは思ってるけど」
「同感。そのために朝食抜いてきたんだし」
堪えたはずの欠伸が、気を抜いた一瞬で漏れてしまった。今日はこれさえ終わればアカツキの店に立ち寄って、煮込んで2日目の極上カレーにありつける予定だ。シグはそいつを腹にいれるために朝食を抜く徹底振りである。おかげで血圧があがっていないようだが。
 周囲が二人のことをどう思おうが、当人たちにとってはどうでもいいことだった。いい加減に慣れたという方が正しいのかもしれないが、いずれにせよ気に留めるようなことではなくなっていた。ただ、視界にちらつく元八番隊隊員については例外である。とりわけナギは、彼らを目で追ってしまっていた。しかし視線がかち合うことはない。
 それとは別に、無意識に近いレベルでいないはずの人間も探してしまう。バルトとアンジェリカ──二人は零番隊に参加していない、らしい。その事実を知ったのさえ、つい最近のことだった。二人は査問会の後、十ヶ月後の拘束が確定している監視付きの生活を選んだ、ということなのだろうか。事実関係は分からないままだ。ナギには二人と接触する術がない。
「ここ、やけに空いてるわね。隣、いい?」
「あー、どうぞどう……ぞ」
 零番隊の中にも空気の読めない輩が居たか、と適当に応対した矢先、隣に陣取った小柄な隊員に目を剥いた。
「何? 問題あるの」
「いえ……全く」
 ユリィはナギの態度に疑問符を浮かべつつも、圧迫されずに立っていられるナイスなポジションを確保できたことにご満悦のようだった。シグも反対隣で平静を取り繕っていたが、実のところ妙な汗をかいていた。まあ二人でいても目立つのだ、ユリィ一匹増えたところで周囲の視線が変わるわけでもなし。
 などとあれこれ葛藤している間に、壇上にメイガス大佐が現れた。“サギ”のこれまでの出現傾向に始まり、以前の戦闘記録に見られる行動パターン、ニブル排出量、そして今回グラスハイムを襲った際の被害状況などが矢継ぎ早に説明される。早急に復興が必要とされるのは、市内とグングニル塔とを結ぶ大通りと、二次被害が著しかった教会周辺とのことだ。
「(サギを撤退に追い込んだのは、例の八番隊補佐ってのはほんとか?)」
「(うまくできすぎてると俺は思うけどね)」
「(パフォーマンスってやつ?)」
「(エヴァンスがカーター隊長と共闘してたなんて情報もあるけど)」
 黙って話を聞いているだけで、特に欲しくもない情報まで耳元をかすめる。噂話には尾ひれがついてまわるのが常で、そのひとつひとつに反応していたらきりがない。従って全部無視、という手法をとっていたのだが、今回はそのひとつに気にかかるものがあった。
「(なあ、例のブラックマーケット。あれから情報入ったか?)」
「(いや、どうもグングニル隊員は徹底して避けるらしい。モノ自体は、機関が所蔵してるのより上だって話もある。モグリってレベルじゃないことは確かだな)」
「(徹底なんて言っても、結局この中にも顧客がいるわけだろ)」
「(俺は素人が魔ガンを所持してるって方が怖いけどな)」
 ナギは、どこかで交わされている噂話のひとつに完全に意識をうつしていた。初耳のはずだが、全く以て驚愕の事実というわけではないのはなぜだろう。既知情報である気さえしている。
「魔ガンの闇市ってやつか。そういや、一時そんな話も出てたな」
 シグが隣でぼそりと呟く。驚愕といえばこちらの方が驚愕だ。どうやら全く同じ話に耳を傾けていたらしい。
「知ってるの?」
「ナギだって知ってるだろ。違法に手に入れた魔ガンをこぞってぶっ放してくるど素人集団」
 何その危なすぎる連中──と他人事みたくつっこもうとしたところで言葉を失う。思い当たる節がある。ありすぎる。連中なら、収拾した魔ガンを転売する程度のことはやってのけそうだ。
「レーヴァテインが関わってるかもってこと?」
「たぶんね。だいたいからして、あの連中が“サギ”についてノータッチって方が不自然だと思わない? 鳴き声録音してニーベルング呼ぼうとしてた奴らが」
「確かに。もっと表立って動いてそうなのに」
「レーヴァテインは、サギ出現当時から関連が疑われていたわ。なりを潜めているのはそのせい」
 ごくごく自然に会話に参加してきたユリィに、ナギが、そしてシグが揃って半歩後ずさる。ユリィだけが動じず話を続けた。
「加えて、機関にとって彼らは鬼門。探りを入れられるようなパイプを持っていない。結果捨て置かれてる。ここを攻略できれば、局面はがらりと変わるかもしれないわね」
 ナギは小さく唸りながら頷いた。
「レーヴァテイン……。シスイ・ハルティア、か」
「ナギ、まさかあれと接触する気?」
「試してみる価値はありそうじゃない」
「簡単に言うけど、シスイに何されたか覚えてる? そもそもあいつらと闘りあったのが原因でイーヴェルの掃除にも行かされたわけでさ」
「危険は承知の上で動かなきゃいけない局面だと思う。このままグラスハイムに留まったってこの前の焼き直しになるだけでしょ。それに……直接聞いて、確かめてみたいこともあるし」
 パイプはある。ナギ自身がそうだ。もしこのカードが他の零番隊が持ち得ない切り札であるならば、出し惜しみせずに切っておくべきだとも思った。
 シグはあからさまに不服そうだったが、自分の主張を通そうという気はないらしい。それきり反論らしい反論はなかった。


「……で、ユリィ隊長は、なんでちゃっかり付いてきてるんですか」
 ただしこの件については話が別である。ナギが半ば諦めているからこそ、きちんと指摘しておくべきだろう。
 ユリィは出された紅茶に口をつけている真っ最中だったから、視線だけを気持ちシグの方へよこすだけだった。なまじ端正な顔立ちだけにその上目遣いはどこか官能的でもあるのだが、そんな感想を持っているのはナギだけだったらしい。シグは半眼、顰め面のままだ。
「何故? 同行しない理由が見当たらないからよ」
「言葉遊びをするつもりはありません。言ったはずですよ。俺はナギを優先する。あなたがどういうつもりだろうが邪魔だと感じたら撃ちます」
「そう、良かった。それなら今は邪魔になっていないってことだものね」
 ユリィが音もなくカップを持ち上げる、おかげでシグが隣で小さく呻いたのが聞こえてしまった。こうなる気はしていた。だからナギは始めから我関せずを貫いたのだ。
 三人は、グラスハイムから汽車で数分足らずの距離にあるヴィーンガルブ市に来ていた。ヴァーラスガルフ、グラスハイムにつづく中央第三主都。セレブの居住区として知られるこの静かな街に、レーヴァテインの本部がある。もう少し言うと、三人はそのだだっ広い施設内にある応接間に既に通されていた。煉瓦色を基調とした落ち着いた空間、その中央にある同じ色のソファーに腰掛けて、無言のまま威嚇し合っていた。
 事がここまで迅速に運んだのは、下手な小細工も巧みな交渉術も必要とされなかったためである。シスイ・ハルティアは、ナギからの連絡を手薬煉を引いて待っていたのだから、今回の「会談」には二つ返事で応じてくれたというわけだ。無論、これまでの経緯もこれからの内容も機関に報告するつもりはない。それだから、ユリィがこの場に居合わせるということは確かに歓迎すべき事態ではない。
「物騒な会話ですね。冗談にしてもセンスが悪い」
(出た……!)
 本人たちは知る由もないが、シグとナギは胸中で揃って同じ反応をしていた。何かをしつこく朗読でもしているのかと勘ぐる他ない、粘っこい喋り方。一度聞いたら暫くは耳に残る特殊効果付きだ。
 シスイはナギたちを見てにっこりと微笑んだ。秘書官らしき男性二人が入り口扉の前でそのまま待機、シスイは笑みを携えたままナギの対面にあるソファーに腰をおろした。
「お久しぶりですね、ナギさん。あなたからの連絡を心待ちにしていましたよ。どうです? 言ったとおりになったでしょう。あなたは自らレーヴァテインの門をたたくと」
「……こうなることを予見してた、とでも?」
「ええ、していましたよ。……グングニルの闇は、蓋をすれば覆い隠せるような代物ではない。じわじわと染み出し、溢れ出て、いずれ世界を食らい尽くす。そういう類の闇ですから。あなたは望む望まざるに関わらず、闇に触れるしかない。そして触れたらもう、ここへ来るしか道はない」
「言っておきますけど、ここへは訊きたいことがあって来ただけです。ニーベルングを崇拝するつもりも、“巫女”とやらになるつもりも毛頭ありませんから」
「構いませんよ。まずはあなたの話を聞きましょうか」
 調子が狂う。いや、ねっとりボイスもわけの分からない世界論も健在であるから、その意味では彼は絶好調なのだろうが、やけに友好的だ。ナギは何となく隣に視線を移した。が、不機嫌そうなシグと紅茶のおかわりを頼む厚かましいユリィの姿が映っただけで、頼れるものは何も無い。ひとつひとつをその都度自分で判断しながら進むしかないようだ。
「じゃあ単刀直入に。あなたはコンドル級ニーベルング“サギ”の正体を知っていますよね?」
「……知っている、と答えることにしておきましょうか」
「それはどうやって知り得たんですか? サギに関しての一切の情報は、機関でも一部を除いてはトップシークレットです。民間に簡単に諜報されるような機関でもない」
「お互いのために詳しくは言えませんが……我々レーヴァテインは、あなた方の思う“民間”とは別物だと思っていただくのがいい。それに私個人と機関とのつながりについて、あなたはもうご存じのはずだ。大掛かりな諜報活動というものは必要ないのですよ」
「だったらそこに関わった、ある特殊な魔ガンについても知っているはず」
「ええ。それも『知っている』と答えるしかなさそうだ」
 指先が、唇が、僅かに震えるのを誤魔化すために息を呑んだ。この男は、知っている。ナギが知らない、そして永久に知りたくもなかった存在について当然のように知っていたのだ。
「……どこに」
終始微笑みを浮かべていたシスイだったが、ナギの声色が変わった瞬間に苦笑をこぼし両手を挙げた。
「答えてください……っ! ファフニールはどこに!」
「待ってください。それはあまりにも論理が飛躍している。私はあくまで知っていると答えただけで、関与したとは一言も言っていません。そもそもあれは、人の手では撃てないものだ。スタンフォード中尉が消え、サギが現れ、そこにファフニールが使用された形跡が認められるなら導かれる結論はひとつしかないのではないですか?」
シスイは口調は変えなかった。今にも懐に手を入れそうなナギをシグが横から制している間にも、台本をなぞるように一音一音丁寧に発音する。
 それを窘めるように、テーブルの上で陶器がこすれる音が響いた。
「つまり状況証拠からしてどう考えても、サクヤが自分で自分を撃ったという事実は揺らがない、ということ?」
 ユリィの二杯目の紅茶は、カップの半分の位置でゆらゆら揺れていた。傍観者に徹するつもりだったが、進行係が理性を忘れた猿みたくなってしまったのではそうも言っていられない。
「その通りです、ミス・カーター。既に確定している事実を捻じ曲げようとする行為は、愚劣で滑稽だ。加えて何の生産性も無い」
 これにはシグが反応した。ナギを羽交い絞めにしたままで嘆息する。
「……仮にサクヤ隊長が自分自身にファフニールを撃ったことが確定事項だったとして、そこにあんたが関与していないなんて誰が言える。ファフニールの存在も、隊長のニーベルング化も、レーヴァテインにとって利益がなかったとは言わせない」
「そうですね。確かに我々はナギさんの存在と同等……もしかするとそれ以上に、スタンフォード中尉の動向を注視していました。というのも、彼の立場はあくまで暫定的なもので、きっかけひとつで敵にも味方にもなり得る存在だったからです。それもかなり強大な」
「隊長を、味方に引き入れたかったとでも……?」
「協力関係になれるのでは、と考えただけです。同じ思想を持ち得る者と敵対するのは理に反している」
「わけの分からないこと言わないで。サクヤはあなたと同じ思想なんか持ってない」
「近い価値観は彼の中にもあったという話です。彼はもともとニーベルングに対して、グングニル機関のように排他的でも我々のように肯定的でもなかった。それはニーベルングの“動機”を計りかねていたからでは?。それは我々もずっと思っていたところでした」
「その見解を否定する要素はないわね。八番隊がニーベルングを仕留めないときは、必ずサクヤの意思が働いていたし。それも私が知っているだけで、一度や二度じゃないわ」
 ユリィはあっさりシスイを擁護する側にまわった。いや、そもそもこちら側とも言えない立ち位置にあった人だ。などと割り切ろうとするがナギの中では歯がゆさと悔しさが膨らむばかりだ。この愛想の悪い小柄なスナイパーは、ナギの敵にはまわってもサクヤの敵にはまわらないはずだと、勝手に思い込んでいた。奥歯がきしむ。未だに解放してくれないシグにも、その不協和音は聞こえていたに違いない。
「ナギさん。また勘違いが暴走しているようだから忠告しておくけど。貴方は彼を黒幕に仕立て上げることを目的にここへ来たわけじゃないんでしょう。だったら全ての情報を客観的に見つめなおすべき。それができないんだったら、そのまましばらくエヴァンス曹長と抱き合ってて。目障りだけど」
 瞬時に反応したのはシグの方だった。ナギの背後からまわしていた腕を引っ込める。晴れて自由の身になったはずのナギは、そのまま押し黙ってテーブルを見つめる他なかった。
 ユリィに視線で促され、シスイは話を続ける。
「ニーベルングは東へ東へと進撃を続けている。私はそれを単なる縄張り意識でも破壊衝動でもないと考えていました。そしてそれは、もう立証されたといってもいい。スタンフォード中尉の意思が残っているにせよいないにせよ、中央に現れたサギというニーベルングもグングニル本部だけを狙っている。これはもうグングニル……あの機関に何かカラクリがあると思うのが普通でしょう。スタンフォード中尉はそれを知ったからこそ、グングニル機関と袂を分かったのでは?」
 シスイの声がいつかと同じようにぐるぐると頭の中をまわる。吐き気を伴って反響し続ける。それを掻き消すようにナギの脳裏をよぎる、くぐもった声があった。──通信機を通したサクヤの声。もう何度となく繰り返してきた最後の会話。

 今日中に、どうしても君と話がしたい。

 あれは、中身の無い他愛のない話という意味ではなかったはずだ。通信では話せないとサクヤは言った。それは機関内部では話せない、という意味だったのかもしれない。
「サクヤは何か……グングニル機関の触れてはいけない部分を知ってしまった。それを私に話そうとして、話す前に……こうなった。それがサクヤの意志によるものかそうでないのかは分からない。分からない、けど……」
サクヤが知ってしまった「何か」は、偶然彼を選んでその正体を晒したわけではないはずだ。彼は「何か」を追い求め、知るべくして知った。それが、彼がいなくなる直前まで調べていたことと無関係であるはずがないのだ。
(ああそうか……だから)
サクヤは“ファフニールを撃っている人物”をつきとめたのだろう。その人物に接触し、返り討ちにされたと考えるのが妥当だ。
 ナギはどうやら無意識に、自分だけが知っている情報を加味して推測を進めていたようだ。大丈夫、自分は周囲が思うよりは冷静だと安心すると同時に、背筋が寒くなるのを感じた。背筋だけじゃない。全身の血が冷えきったようだった。身体の感覚がなくなった。
「大丈夫ですか。顔色が優れないようですが」
シスイの声が耳から耳に抜けていった。
「ナギ」
「大……丈夫。ちょっといくつか……思い出したことがあって」
そうは言ったが、ナギが話を続ける気配はなかった。ほんの数十秒の短い沈黙の後、シスイが溜息と同時に再び口を切る。
「とにかく、まずは我々レーヴァテインが今回の件に一切介入していないことをご理解いただきたい。そして今後もそれは変わらない。ニーベルング“サギ”は我々の手に余る。……身の程はわきまえているつもりですよ」
「ふうん……そうやって不干渉を宣言しておきながら、裏ではグングニル隊員に魔ガンを卸売り。ナギじゃなくても疑いたくはなる不誠実さではあるな」
「そちらはビジネス。顧客の中に、あなた方のご友人が混ざり始めたというだけの話です。他意はありません」
 シスイは驚くほどあっさりと、魔ガンの闇市のスポンサーであることを明かした。そして悪びれもせず、それでも無関係だと主張する。自らの手は下さず、汚さず、いち早く結果だけを手に入れるには効果的なやり口である。レーヴァテインにとっても、サギの存在が歓迎されるものでないことだけは確かなようだ。
「どうしても私を巻き込みたいようですが……本音を言えば、この件には関わりたくない。疲弊するだけで利潤が無いですから。サギにしろファフニールにしろ、戦局が派手すぎる。グングニル機関を狙ってくれるのはありがたいですから、傍観者に徹するのが一番だ」
「利潤が無い? ファフニールが手に入れば、あなたたちが大好きなニーベルングが好きなだけ増やせるのに、ですか」
「そういう言い方はやめてください。私たちはニーベルングという存在そのものに畏敬の念を抱いている。養殖品に価値は見出せないと言ってもいい。……そもそも現状で一番黒いのはあなたですよ、ナギさん。言うまでもなくあなたはファフニールを撃てる人だ。ブリュンヒルデが実はファフニールだったとしても不思議ではない」
 会話の内容にしろシスイの口調にしろ、順調に不快を溜め込んできたところで出鼻をくじかれた。ナギだけではない。シグもユリィも疑問符を浮かべている。
「話がややこしくなるから今そういう話題は……」
「可能性の話ですよ。我々は実際のファフニールを見たことがない。本当にそんなものが存在するのかさえ怪しい。つまり欺こうと思えばいかようにも欺ける、そういうことです」
場違いにも最後に笑顔を作ってくれたおかげで、一気に恐怖が襲ってきた。ナギが咄嗟に向けた視線の先で、シグが、ユリィが揃ってかぶりを振る。ここにいる全員が、ファフニールという魔ガンの実物を見たことはないのだ。おそらくは零番隊員、のみならず全グングニル隊員に同じことが言えるのではないか。そしてそれは看過してよい事実ではない。シスイの言う可能性とやらを考慮に入れると、魔ガンを所持する誰もが容疑者である。
「以上。分かっていただけたのなら私からお話することは特にありません。どうぞ、お引取りを」
場違いな笑顔は保ったまま、シスイは自らが率先して立ち上がり秘書たちに扉を開かせた。そう間を置かずにシグも腰を上げる。
「帰ろう。これ以上ここに居ても得るものはないよ」
「そうね。お茶をどうもごちそうさま」
 ナギに呼びかけたつもりだったがユリィが応答、のち起立。
「ナギ」
 ナギは立ち上がらず、口元に手をあてがったまま微動だにしない。その仕草には見覚えがあった。とんでもないことを口走る前の、あの人のポーズだ。
「……ナギ」
「ごめん、先に行って? ちょっと話しておきたいことがあるから」
「だったら俺も残るよ」
当然の流れだ。が、ナギはおもむろにかぶりを振った。補足をしなければとは思うのだが、良い説明が見当たらない。あれこれ考えているうちに、シグの方が察して踵を返した。
「五分だけ外で待つ」
シスイの方は見向きもせずに部屋を出た。こうやって気を利かせるのは、最近だけで二度目だ。
これが正しい判断なのか、実は一抹の不安も覚えている。扉一枚隔てた先にナギは居るとはいえ、この一枚で決定的に手遅れになることもあり得るのだ。扉が閉まりきる前に念を押すように振り返ったが、ナギはもうこちらを見てはいなかった。
 束の間の静寂が訪れる。二人は立ち上がったまま向き合っていた。
「知っているのはあなた自身とスタンフォード中尉、といったところですか。であれば、先ほどの発言にはいささか不都合なものがありましたね。お詫びします」
シスイはやはり同じ口ぶりで、少しだけ肩を竦めた。どういう類の話かは察しているようだった。
「……やっぱりあなたは、十年前ヘラにいたんですね」
「そして“ヘラの生き残り”という奇跡を目の当たりにしてしまった。その奇跡を無かったことにするよう画策したのは当時の二番隊隊長です。共同戦線を張った中部支部の隊員に、その子を引き取ってもらうよう手配したのはまた別の隊員。……尽力した当時の二番隊員のほとんどはニブル病で亡くなりましたが」
それはサクヤが調べてくれた空白の記録部分だ。十年前の二番隊隊員の記録は、その先に渡るまで抹消されている。
「ひとつ聞きたいことがあります。あなたはどうして、ヘラの生き残りを公表しなかったんですか。昔も、今も、あなたにはその機会が山ほどあったのに」
「巫女は我々レーヴァテインの切り札ですから。いずれは世界に還元する力だとしても、簡単に大衆に晒す気にはなれませんでした。ただそれだけのこと」
「その巫女になることこそが、ヘラの生き残りの唯一の道だと?」
「以前もそのように申し上げたはず。あなたは人類を導く力を持っている。この壊れゆく世界で人々を照らす希望、奇跡の体現者だ」
「私は……そうは思わない。身勝手だと言われても、私は私のやり方で恩返しをしていくと決めた。私はファフニールを撃てる、ということはきっと対抗することもできる。……生かされた恩はここで返します」
「そんなことを私に宣言しても何の意味もありません。第一、あなたを生かしたのは私ではない。もっと大きな力だ。私はただ、その場に居た、居合わせてしまっただけの哀れな存在です」
 ナギの口からは知らず、苦笑が漏れていた。シスイの中では、とにもかくにもナギは選ばれた特別な存在で、その事実が揺らぐことはないようだ。
「そうだったとしても、私を助けてくれたことも公にしないでいてくれたことも、確定済みの事実ですから。感謝しています。おかげで今の私でいられる」
「今のあなた、ですか。確かに少しだけ以前とは変わったように思います。……逃げるのはやめたのですか」
「……そのツケを今払っているところなので何とも。でも……もう逃げたくはない」
 シスイはそうですかとつまらなそうに返事をし、暖炉の上の置時計に目をやった。
「私もあなたにひとつ、聞いてみたいことがあります。ナギさん、あなたはヘラ・インシデント……あるいはそれ以前のことを鮮明に思い出すことができますか」
「え──」
心臓が大きく一度跳ね上がった。
「つまり、あなたの元の名前や、ご両親や、ヘラでの生活についてという意味ですが。どうです?」
「そりゃある程度は……」
言いながら記憶の奥の奥の奥の扉をそっと開ける。
 ノウヤクイラズ──いや、ユキスズカ草が至るところで花弁を揺らしていた。リンリンとそこらじゅうで鈴の音。その音はあまりにも日常に溶け込んでいて、改まって美しいだの五月蠅いだのと評価する対象にすらなっていなかった。だからというわけでもないが、ナギの記憶にはいつも当たり前のものとしてこの音がある。
 それとは別に微かにオルガンの音が響いていた。陽気なメロディが庭にも流れる。父がまたジェリービーンズの歌でも口ずさんでいるのだろう。彼はこの歌が好きだった。その隣で母は特製のハーブティーを皆にふるまったりして、いつもみたいに穏やかに時が流れていく。
 彼らにはもう十年会っていない。これからも会うことはできない。そういう人たちの記憶が薄れていくのはある意味で当然のことのように思えた。台詞のひとつひとつなど到底思い出せるものではない。──当然のように思っていた。母の笑顔が記憶の霧でいつも霞むことも、父の声が鈴の音にかき消されてしまうことさえも。
「ではカタコンベから救助されたときのことは? あなたの隣に居たニーベルングのことを、思い出せますか」
「隣に居た……ニーベルング……?」
「そうです。私たちはカタコンベからあなたを救出する際、一体のニーベルングを討ちました。カタコンベの内部で、です。そのニーベルングのすぐ傍で、あなたが震えてうずくまっているのを発見した」
「待って。待ってください。そんなはずない、だってあそこには……あそこに一緒に入ったのは……」
 言葉が胃から喉元へ一気に駆け上がって、そこで急停止した。同時に、とても大きな機械の主電源が落ちるような音が脳裏に響く。体中を駆け巡る血液に炭酸でも混じったのか、意識が一瞬弾けて遠のいた。
 ニーベルングの死骸が一体、転がっていたのは確かだ。いや、そういう映像が映像として脳内に残っていることが確からしいというだけだ。
「違う、カタコンベへは一人で……私、一人で」
だから一人で助かったのではないか。あそこに誰かが居たのなら「二人」で助かったはずだ。
「ナギさんはご存じなかったかもしれませんが、あのカタコンベは老朽化が激しくほとんどニブルを遮断できていませんでした。あのときヘラには、通常では考えられない濃度と量でニブルが蔓延していた。それはほとんどそのまま、地下へ流れ込んでいたのです」
 つまりあの場所は地上となんら条件の変わらない場所だったということだ。
「あなたは何かを、知っている……?」
「いいえ。何も。知らないからこそ今、あなたに問うたのです。ただ、今お話した状況は事実ですから、そこからおおよその見当をつけることはできます」
「でもそれは私の記憶と……食い違っています」
「そうですね。“事実”とナギさんの持つ“記憶”は、おそらく多くが矛盾していることでしょう。あなたがナギ・レイウッドとして生きやすいようにヘラ・インシデント以前の記憶には心理的施錠がなされているはずだ。それを施したのが二番隊の誰かか、レイウッド家の誰かか、そのあたりは分かりませんが」
 ナギはこみ上げてくる何かを塞き止めるために、無意識に口元を手で覆っていた。
 シスイの言う心理的施錠とやらを、ナギは夢の中で何度も見た。扉は地下のカタコンベへ続くそれ、幾重にも鎖が巻かれ南京錠が取り付けられていた。そこへ近づくと必ず警告音が鳴る。美しいはずのユキスズカの開花の音が、狂ったように四方八方で鳴り響いた。
 その夢は何度も見た。いつからか、何度も見るようになった。いつから──? 何か、きっかけがあった気がする。少なくとも一年前まで、ナギはカタコンベの夢など一度も見ることはなかったのだ。ヘラを、両親を、ナギ・レイウッドに成る前の自分を想うことなど一度もなかったのである。そのことに、今なら絶対的な違和感を覚えることができた。
 名を知らない感情が胃からこみ上げてくる。悲しみでも恐怖心でもない。それなのに、機械的に涙がこぼれた。
「……私はヘラ・インシデントに関わるひとつひとつの矛盾を、忘れることができなかった。そうして調べれば調べるほど、きな臭いのが自分の足元だということに気付かざるを得なかったのですよ」
「だから……グングニル機関を、離れた……?」
「そうです。私がレーヴァテインを立ち上げたのは、グングニル機関を解体するため。目的を同じくするニーベルングは信仰対象であり、この上ない協力者なのです。願わくば、スタンフォード中尉やナギさんにもそうであってほしかったのですが……。ひとまずは次に持ち越しということにしておきましょう。時間もそうないようですから」
「次、ですか」
「ええ。あなたにその気があるのなら、ですが。この局面で、持っておいて損はしないカードであることは確かでしょう。情報を掌握することは私にとってそれほど難しいことではないし、それを操作するのも同じこと。……そしてある意味で、私もまたヘラ・インシデントを知る生き残りですから」
 ナギは馬鹿みたいに口を半開きにして突っ立っていた。打算は苦手な方だがそれでも本能で、この申し出がある意味で魔ガンよりも強力な兵器になることを悟る。ナギにはどうしてもこの手のアンテナが必要だった。グングニル隊員以外の、近しい関係にない情報網が──。


 レーヴァテイン本部の目の前に、広い緑地公園がある。休日というわけでもないのに、そこかしこで身奇麗な中年女性が犬の散歩をしている。シグがぼんやりと座っていた隣のベンチには、お高そうな装丁の画集を広げあれこれと談笑する老夫婦。なるほどセレブの居住区というやつは時間の流れが俗世とは異なるらしい。こういう場所に庶民だのグングニル隊員だのが混ざったら一発で好奇の目にさらされるのだろうな、などと考えてすぐに自分がそのどちらにも当てはまっていることに気づく。幸い今日は、一目でそれと分かる制服ジャケットは着ていな
い。
(サブローさんちは、確かこの辺りとか言ってたな)
 レーヴァテイン本部に程近く、のんびり読書をするのにはうってつけの公園があるとか言っていたのを思い出した。生憎シグは読書という趣味を持っていない。芸術に興味もなければ、食にも関心がない。だからこういう場所で一人になっても、とりわけやりたいことというのが見当たらない。何もせずにナギを待っていればいいのだろうが、気晴らしというか気分転換らしきことをどうしてもやりたかった。シスイ・ハルティアの溶かしたチーズのような声が頭から離れないからだ。
 とりあえず歌をくちずさんだ。歌が好きなわけではない。気分転換といえばそれしか知らないだけだ。

 優しいキミには桃色ビーンズ
 素直なあの子に真っ白ビーンズ
 元気のない子に空色ビーンズ

 独り言にしても小さいくらいの声量で呟いていただけだ。それが余計にまずかったのかもしれない。中断したのは眼前にいきなりホットドッグが現れたからだ。シグは短い悲鳴をあげて後ずさった。が、ベンチに座っていたのだから即背もたれに激突。一連の行動を全て観察し終えたユリィが、ありえないものでも見たように神妙な顔つきで立っていた。
「驚いた……。エヴァンス曹長も歌を口ずさんだりするのね」
それはあんたにだけは言われたくないと居直りたかったが、あまりの衝撃でむせ返ってそれどころじゃない。
「食べるでしょう、ホットドッグ」
「いや、俺は……」
「じゃあこれはナギさんに。……二つくらいあの人なら食べるでしょう」
 どうやら始めからナギの分まで調達していたらしい。食べない分の二つのホットドッグをベンチの端に並べて、自分は一つを頬張りながらシグの横に腰掛けた。
「なんで隣に座るんです……」
「離れて座る理由が特に見当たらないから」
そうだった。この人にこの手の質問をしても滅茶苦茶なかわし方をされるだけだ。
 深々と嘆息があふれ出る。麗らかな昼下がり、老夫婦の愛のある会話、完璧な躾の犬たち、散歩するにはしゃれ込みすぎた装いの飼い主、そして隣には無表情でホットドッグを頬張るユリィ。わけが分からないが、おかげで脳内にこびりついたしつこい声のことは多少忘れることができた。と思っていた矢先。
「ナギさんとシスイ代表にはどんなつながりが?」
「……わざとですか」
「? 何が」
シグの質問の意図が汲めず、ユリィは思うままに疑問符を浮かべる。シグが返してこないのでホットドッグの最後のひとくちを軽快に頬張った。最初から最後までマスタードの味しかしなかったが、それはそれで。
「さあ……俺は知りませんよ。ナギはニブル耐性が恐ろしく高いんで、どっかからその情報を仕入れたシスイが、しつこくつきまとってるって印象しか無かったんで」
「……それ。不思議に思ったことないの? ニブル耐性っていっても普通はニーベルングの吐き出すニブルに多少適応できるとかできないとかのレベルよ。でもナギさんは異常だわ。サギと応戦したときも、教会でも、彼女は一切マスクをしてなかった」
「だから恐ろしく高いって言ってるじゃないですか」
「それは『ファフニールを撃てる人』だと断言されるくらいに?」
「その話は本人に直接してください。俺の領分じゃない」
 レーヴァテインの巨大な門からナギが駆けてくるのが見えた。シグはベンチから腰を上げ、ナギの到着を待つ。
「長いんじゃない。五分以上待ったと思うんだけど」
「え! そう? でもあの中広いから移動するだけで時間がかかっちゃって。なんか妙な組み合わせだけど、二人で何話してたの?」
「……ユリィ隊長は通訳なんかいなくても案外よく喋るって話」
「そ、そう」
それは本人を目の前にして言っていいことなのだろうか。地雷のような気がしないでもないが、ユリィは特に不快というわけでもなさそうだ。と、思いきやそうでもないかもしれない。ユリィは腕と足をそれぞれしっかり組んでナギを凝視している。待ってほしい、何故怒りの矛先が自分なのか。
「ナギさん、正直に答えてほしいんだけど」
「はい……?」
「あなた、自分にならファフニールを撃てると思う?」
直球、それも剛速球がシグの眼前を通り過ぎナギにぶちあたる。躊躇は全く無い。顔を背けて嘆息するシグの横で、ナギは凝固している。
「……必要性を感じません。リスクが高すぎる」
「答えになってない」
間髪入れずたたみかけるユリィに先刻の柔和な雰囲気は皆無だ。そういうことならとばかりにナギも苛立ちを隠さない。
「……何が言いたいんですか」
「いちいちカッカしないで。そういうのがこの間みたいな無鉄砲な行動につながるのよ。私はあなたがあなたのことをどう考えているのか、それが知りたいだけ。別にあなたを追い詰めたいわけじゃない」
ユリィもまた、シスイと同じく自らのペースを崩さないタイプだ。それが状況にそぐわなかろうが空気読まずだろうがお構いなしだから、誤解という誤解を片っ端から呼ぶことになる。が、今回は本人による注釈というか補足説明が入った。なるほど確かに、ユリィの通訳を謳う歩く騒音公害のような存在は実は必要ないのかもしれない。
「だから想像で構わない。ナギさんが、ファフニールを撃つことが可能かどうか」
 ナギは意識的に一拍おいて平静を取り戻すことにした。いや、そう振舞うための時間を見繕ったに過ぎない。平静という状態は当の昔に吹き飛んでいる。
「……撃てると思います」
それ以上は何も語らない。唇を真一文字に結んでそれを訴えた。と、しらばくしてユリィの口から小さく吐息が漏れるのが分かった。
「客観的な意見ね、安心した。この前も言ったけど、私は八番隊のあなたは信用しているわ。……そうだ、ごほうび」
「え、わ、ありがとうございますっ」
ユリィは振り返って、両の手にそれぞれホットドッグを持った。当初の予定通り二つともをナギに押し付ける。そして想像通りナギはその二つともを快く受け取った。そこに疑問を持つのはシグだけらしい。
「……ナギ。あのさ──」
「ナギさん。あなたたちは、これからどうするつもり?」
シグの言葉を横取りするように、ユリィが口を挟む。
「零番隊という存在がそもそも行き当たりばったりだから、十ヶ月という猶予が保障されるかは甚だ疑問」
「そうですね。私たちは──」
「待った」
今度はシグが割って入った。有無を言わさぬ強い口調とは裏腹に、シグの口からはまたも深い嘆息が漏れる。
「それをユリィ隊長に言う必要はないでしょ。頼むからその辺りの危機感だけは言わなくても持ってよ」
「分かってるよ。私たちはグラスハイムの手前、郊外で情報収集と網を張ろうと思ってます」
「は? ナギ?」
「中央で待ち構えてたんじゃやっぱり遅い。それに、サギだけに気を取られるわけにもいかないというか……肝心のファフニールの所在が全くつかめてない。私は正直、こっちのほうが怖い」
「そうね」
「……ねえ、俺の話聞いてた?」
「聞いてるってば。でも、全ての情報を隠匿したからって完全に雲隠れできるものでもないでしょ。それに私たち、ユリィ隊長に助けられこそすれ妨害されたことってあった?」
「俺はこれからされる可能性の話をしてるんだけど」
ついでに言うと補佐に入って罵詈雑言を浴びたりだとか、囮に使ってやるから好きに動けと無茶ぶりされたりだとか、そういう経験はあるが助けられた経験は思い当たらい。
「でもアカツキさんとカリンのこと頼めるの、ユリィ隊長くらいしかいないから」
「またイライラする勘違い。それ、あなたに頼まれてやることじゃないから」
「です、よね」
「ほら。イライラされてんじゃん。しかも、またとか言われてんじゃん」
「うるさいなぁー……。ほんとシグって細かいことにあーだこーだ、小姑みたい……」
ナギの口からも深刻そうな溜息が吐き出される。シグは唖然としたまま固まっている。
「ちょっと……ちょっと待った。何、小姑って。それ俺じゃない、ナギでしょ。朝は糖質と炭水化物を取れとか、執務室の電気はこまめに消せとか、寝るときは腹を冷やすなとか……」
「エヴァンス曹長。それ、小姑じゃないわ」
「じゃあ何ですっ」
「おかあさん」
目に見えて苛立つシグに、ユリィは事も無げに言い放った。悪気はない。だから再び機能停止したシグに向けて、聞こえなかったのかと追い討ちをかける。
「おかあさん」
「一度言われれば分かります……」
「そう? 聞こえてないみたいだったから」
 ユリィがシグを手玉に取る光景は、見ていて飽きのこないものだった。だからナギも思わず笑いを噴き出す。声を出して笑っていれば、全身をじわじわと蝕むような記憶に──記録に? ──押しつぶされずに立っていられる、気がした。
 でも眩暈と吐き気が止まらない。
「──ナギ」
シグの声。冷めているようでその実、常に一定の温度を保っている。その心地よい音色で、こんな風に名前を呼ばれることが増えた。彼は「大丈夫か」という漠然とした質問の代わりに、ただ名前を呼ぶ。そして往々にして自己判断で片付ける。
 今回はナギが先手を打った。
「……ごめん。ちょっと気分が悪い、から今日はこのまま宿舎に戻ろうかな。シグ、悪いんだけどアカツキさんには上手く言っておいて」
 シグはまた何かを言いかけていたが、少し考えて「わかった」とだけ口にした。
 グラスハイムに戻るための汽車を待つ時間、数分。乗り込んでまた数分。汽車の中は水を打ったように静かだった。ナギには流れていく外の世界も静まりかえって見えた。いつかのように現実味の無い世界。立ったままそれを眺めた。早く、一刻も早く自室にたどり着きたかった。


 駅でシグとユリィと別れて、何日かぶりに宿舎塔にある自分の部屋の扉を開ける。零番隊として行動し始めてからは、ほとんどアカツキ宅や市街の宿で寝泊りしていたから、そもそも一人きりになること自体が随分久しぶりに思えた。
 もう立っている必要は無いと一瞬考えただけで、待っていたように膝が力を失う。扉を背にしたままナギはずるずると床に座り込んだ。室内が埃っぽい。たった数日あけただけで、この部屋は主を忘れたように冷たくナギを出迎えた。
 何をしようという意志も気力も尽きている。ただ泥のように眠りたかった。しかしそれが叶わないことを彼女自身、理解している。断頭台にのぼるように、一歩一歩ベッドへ這って身をゆだねた。
  

 鍵の無い扉があった。そしてその扉は、ほとんど自動で開け放たれた。中では繰り返し、映像が流れている。その古ぼけたフィルムはようやく再生されたことを歓喜するように、また、しまいこまれていたことを非難するように延々と同じシーンを繰り返していた。時折計ったようにノイズが紛れ込んだが、繰り返すうちにどうでも良くなった。
 ナギは黙ってそれを観た。無感動に観続けた。大音量で流れているのは父の最期の言葉だった。
 何があっても扉を開けるな、と彼は叫んだ。そう言って、彼はカタコンベの扉を閉め、厳重に鍵をかけどこかへ去った。■■は、ただ恐ろしかった。穏やかな父が、人が変わったように怒鳴り散らして自分たちを閉じ込めたことも恐ろしかったが、このまま二度と父とは会えないのではないかという予感が、何故か確かなものとして広がっていくのが怖かった。
 ただ、一人でなかったことは救いだった。震える手を握ってくれる、凍えるからだを抱きしめてくれる、大丈夫よと囁いて微笑んでくれる──隣には母がいた。恐ろしい地下のカタコンベは、それだけで温かなリビングと同じに見える。大丈夫。だいじょうぶ。ダイジョウブ。何があってもおかあさんがいる。だからきっと、だいじょうぶ。
 その「恐ろしいこと」は、カタコンベの上で起こったようだった。父の判断は、正しかったのだ。何があってもこの扉は開けない、開けるものか。誓いを立てて母の体を抱きしめた。
 そうして随分と経った頃、母はまとわり付く■■を振り払って一歩一歩、後ずさって距離をとった。とったところで意味などないのだ。ただ暗闇の中でも、お互いの姿が確認できるようになっただけだ。
「おかあ……さん」
■■の口から無意味な単語が零れ落ちた。──ナギもその台詞をなぞることにした。
「おかあさん」
そう呼べば、少し間延びした返事がキッチンの方から聞こえてくるはずだ。いつもそうだったから。特に用なんかなくても、その単語を口にすれば母は笑顔でかけつけてくれた。そのはずが、呼べば呼ぶほど遠ざかっていく。わけのわからない奇妙な音と、聞いたこともない低い唸り声に■■の声はかき消されてしまった。
 ■■は──ナギは──つまり、私は──全てをその眼で見ていた。骨がひしゃげる音を聞き、肉が破れる様を見て、人が化け物に変貌する一部始終を、瞬きもせず馬鹿みたいに見つめていた。化け物は地下で咆哮をあげた。その咆哮と同じ種類の地響きが、カタコンベの外で轟いていた。
 夢だと思った。それほどに現実味が無かった。想像力が追いつかない。目の前にある光景も、地上に広がる光景も、昨日の続きとは思えない。□□と秘密基地で待ち合わせて、お父さんに見つかって叱られて、その後でお母さんがパイを焼いてくれた。みんなでそれを分けた。おいしいねって笑って食べたの。今日は昨日の続きなのだから、これが今日であるはずがない。今日が終われば明日がくるのだから、この夢が覚めたらいつもどおり□□と秘密基地に行かなくちゃ。だから早く醒めて。早く醒めて。早く醒めて。でないと壊れてしまう。こんな夢、夢でも耐えられない。早く醒めて。□□がいつもの場所で待ってるから。
 かくして望みどおり、その夢は霧散した。決して開けるなといわれた扉の向こうから、傷だらけの男たちがなだれ込んできて、その「夢みたいな今日」をめちゃくちゃに破壊してくれた。化け物はすぐさま死骸になった。無抵抗のまま何度も撃たれて、爆ぜた。
 ■■は──マリナは、自分の目の前に差し出された大きな手を、無我夢中で掴んだ。生きているとか、どうしてニーベルングがとか、撤退しようとか、聞いたことの無い言語が飛び交っていた。何かを聞かれた気がしたが、自分の知っている言語では通じないと思った。知らない温かな腕に抱きかかえられて、マリナはようやく知ることができた。
 今日は終わってしまったのだと。だから明日は二度と来ないのだと。


「おい……どういう組み合わせだ」
 軽快なドアベルの音と共に入ってきたシグとユリィを目にして、アカツキは開口一番純粋な感想を口にした。
「それ夕方ナギさんにも言われたわ。私とエヴァンス曹長が一緒にいてはいけない理由でも?」
「そうじゃないが、ナギは? どうした」
いつもの「お腹空いた」宣言が無いと調子が狂うとでも言わんばかりに、アカツキは肩を竦めてみせた。ナギが真ん中に立っていれば、この組み合わせも多少は違和感も中和されるというか緩衝材の役割を果たしてくれるのだが。
「今日は帰りました。気分が悪いって」
事も無げに言って、シグはいつもの席──カウンターの端、壁際の椅子をひく。
「帰りましたって、お前な……付き添わないのか。そうじゃなくても、せめてちゃんと送ってきたんだろうな」
「駅で別れましたよ」
「シグ……」
「一人になりたい人間に無理やり付き添ってどうするんです?」
「その意見は一理あると思うけどその前にあなた、『アカツキには上手く言っておいて』って言われてなかった?」
「あ」
 ユリィの追い討ちも相まって、アカツキには事実そのものが綺麗に伝わってしまった。シグは一瞬しまったというような顔を見せたが、すぐにまぁいいかの表情に切り替わる。アカツキが無造作に出したハムとオリーブを同時につまんで、小腹を満たし始めた。
「明日には迎えにいきますよ。ついでに、明日から暫くはグラスハイムを離れます。第三防衛ラインのぎりぎりでサギを迎撃することにしたんで。その間何かあったら、ユリィ隊長が何とかしてくれると思います」
「ちびが?」
無言で頷くシグの隣で、無言かつ無反応のユリィ。
「三番隊隊長殿が張り込んでくれるなら、まぁ安心だろうな」
「別にアカツキのところを限定して警護するわけじゃない」
間髪入れず返ってきた皮肉に、アカツキは片眉を上げて笑いをこらえている。
「シグとナギは、中央区から出るわけじゃないんだな?」
「と、思いますけど」
「だったら頻繁じゃなくていいから、たまには顔出しに来い。うちにも一人、お前らの熱狂的ファンがいるからな」
アカツキがちらりと見やった先、奥の自宅用キッチンで皿洗いに勤しむカリンの姿がある。シグはその後姿を見て、自然と笑みをこぼしていた。
「了解」
 窓の外に視線を移す。今宵も変わらず、月と星が互いに牽制しあう空。今日が終わり、明日がくるその予兆としての夜。
 シグはカウンターから窓越しに見えるその空を、いつもと同じようにただ眺めた。いつもと同じように微塵も美しいと思わない夜の輝きを、ただ黙って見つめ続けた。

episode x 嘘吐き だれだ

 アルバ暦838年、水の月。
 このところは雨が続く。朝、目が覚めたら既に雨音が聞こえていることもあるし、夜が更けてから思い出したように降り始めることもある。とにかく一日のどこかで必ずと言っていいほど雨が降っていた。
 ナギとシグが橋の街ビフレストに滞在して四日が経つ。が、サギの捜索もファフニールの情報収集も、この天気のおかげで思うように捗らないのが現状だ。この日も夕方近くになってぽつぽつ降り始めたから、その段階で宿に戻ることにした。いや──ナギが「帰ろう」と言ったからか。ヘドロをぶちまけたような空を一瞥して、彼女は独り言のようにそう言った。行動の指針は基本的に彼女に任せてあるから、シグはただいつも通り「分かった」とだけ返した。
 今日も収穫はない。進展もない。本来ならもっと粘るべきなのかもしれないが、今の状態で何をどう足掻いても結果は同じだろうという気もした。
 結局、宿に辿り着く前に一雨降られ、最終的には二人して猛ダッシュした。なだれ込むように宿の扉をくぐると、主が労いと呆れの混ざったような笑みをこぼして出迎えてくれた。それぞれの部屋の鍵は両手に準備済み。滞在四日目ともなると、二人の行動パターンも読めてくるというわけだ。
「降られたね。しばらくはこういう天気だ、分かってるんだから一日くらい休めばいいのに」
「休暇に来てるわけじゃないんでね」
主が手渡してくれた鍵とタオルを受け取りながら、シグが悪態をつく。
「そうかい? 何でもいいから早くシャワー浴びておいで。そのままじゃニブル漬けだろう? 流しときゃ随分違う」
「そうかもね」
 愛想の良い店主は今日も、経験論だか知恵袋だかの適当な知識を披露してくれる。あしらいながらもシグは胸中で同意を示していた。さっさとシャワーを浴びるという一点においては、否定する理由が見当たらない。
「温まったら下に降りてくるといい。特別にハーブティーでも御馳走しよう」
「だってさ。聞いてる? ナギ」
「ああ、うん。……私は遠慮しようかな。今日はこのまま休みたい」
「また調子悪いの」
「そういうわけじゃない。休めるときに休んでおこうかと思って。それだけ」
「……だってさ」
シグの無意味なパスを受けて、店主は大きく肩を竦めた。申し訳なさそうに手刀を切るナギ。無理をしているわけではなさそうだと判断して、シグもそれ以上深入りしないことにした。いや、すべきところなのか? 一瞬迷って立ち止まったときには、ナギは既に階段の踊り場を折り返していた。深入りすべきシーンだったとして、もはや手遅れだ。今の状況をアカツキが見ていたら特大の嘆息を発射してきたに違いない。想像に苛立って、シグの方が小さく嘆息した。
 うわべの気遣いが何になる──結局はいつもの結論に達した。大丈夫かと訊いてかぶりを振る奴なんかそうそういない。仮に居たとして、ナギは十中八九そのタイプではない。無意味なやりとりをするつもりはシグの方にもない。だとしたら放っておくしかないじゃないか。正しい論理だと思うのに苛立ちが消えてくれないから、口内で小さく舌打ちが漏れた。
 ナギの様子がおかしいのは、レーヴァテイン本部でシスイと二人きりで話をした後からだ。何か口実を作っては一人の時間を選ぶようになった。そこで何をするというわけでもない。ただぼんやりしていることの方が圧倒的に多い。二人で行動していても、とにかく上の空だ。それだけならまだ見てみぬふりができる。要はシグ自身が普段よりも神経を研ぎ澄ませておけばよいわけだから、対処法としては分かりやすい類だ。一番の問題はナギの食欲にある。驚くほど食べない。シグ以上にだ。単独で行動している時間の方が多いわけだから、把握していない
ところではそもそも食事を摂っているのかさえ怪しい。
(一度グラスハイムに戻ったほうがいいか……)
 指針はナギ任せ、を決め込んでいたシグも、流石に提案というやつをしてみるかという気になった。グラスハイムに戻れば、アカツキの店に立ち寄るはずだ。アカツキとカリンの顔を見ればナギの気力も食欲も元通り──。
 そこまで考えてかぶりを振った。即効性はあっても持続性がない。それに、この手のことで全面的にアカツキを当てにするのは、どうにも面白くなかった。
 癖づいてしまった嘆息と共に階段を上がりきった先、部屋の扉を開けたままでナギがまだ廊下に立っていた。部屋の点検にやってきた整備士のように、入り口で繁々と自室の様子を観察している。
「……どうしたの」
「ああ、ごめん。明日の打ち合わせ、まだだったなと思って」
取ってつけたような返答。しかしそれを否定するような真似はやめておいた。
「いや、そんなの朝でいいでしょ。もういいからさっさとシャワー浴びて、さっさと寝ちゃってよ。……で、起きたらいい加減、通常運転に戻って。やりにくい」
言うつもりの無いことが思わず口をついて出た。ナギが息を呑む、その表情を見て、しまったと思ったが当然後の祭りである。
「……そうだね、シグの言うとおり」
「違う、言い方が悪かった。やりにくいとかじゃない」
「分かってる分かってる。訳が分からないのに一人でじめじめすんなって話よね? ここんとこ進展なくて、さすがの私もちょっとへこんでただけ。大丈夫、明日には戻る」
 ナギの困ったような頬笑みは、シグの後悔を促進させるだけだった。彼女はいともあっさり禁句を口にする。その言葉を言わせないために知らないふりを通してきたのに、これで全てが水の泡だ。
 シグは額を押さえて派手に嘆息した。
「だからごめんってば……。そこまであからさまに呆れなくてもいいでしょ」
「そうじゃない。これは、自分用」
最初から最後まで、ナギには面白いくらいこちらの意図が伝わらない。彼女の洞察力だとか推察力だとかは一体全体どうなっているのか、そういう類までまとめて鈍くなっているなら由々しき事態だ。
「もういい。ほんと、さっさと寝て。で、なんかあったら呼んで」
無意識なのか定型句なのか、シグはいつも必ず最後にその言葉を付け加える。そして今度こそ呆れかえって自室のドアノブを回した。
「了解。おやすみ」
部屋の奥へ消えて行くシグの背中に、ナギは苦笑交じりに応えた。ようやくナギも、開け放したままだったドアをくぐって一人きりの空間を確保する。
 本来ならここで一息も二息もつきたいところだ。が、ナギは後ろ手にドアを閉めると先刻よりも一層険しい顔で室内を一瞥した。
 説明が難しい類の違和感があった。朝この部屋を出たときと、空気が違う。この宿のルームクリーニングは滞在の場合一日置きだ。ナギの部屋は昨日済ませてあるから、明日の昼までは入らないようになっている。そも、そういう違和感ではない。
 ナギは慎重に窓際まで進み、きっちりと閉じられたカーテンに隙間をつくると外の様子を伺った。眼下の街路に人気は無く、向かいの民家からの視線も無い。先刻より幾分弱まった雨がしつこく窓ガラスを伝って流れているだけだ。
(気のせい、か)
カーテンを元のようにしっかりと留め、薄暗いままの部屋を横切ってバスルームへ向かった。気のせいで片づけるには尚早だとは思うが、警戒しっぱなしではこちらが消耗するだけだ。ある程度隙は見せた上で、油断さえしなければいい。幸いバスルームには内鍵がついているから、何が起こったとしても十分な時間稼ぎはできる。そうと決めたら、まずは冷えた身体を温めてやらなければ。
 バスタブに湯を張る間、ナギは鏡の前に立って、良くも悪くも変化の無い自分の身体を改めて点検した。必要以上に引き締まった、製材されたトネリコのような胴に、丸みを帯びた唯一の箇所とも言える乳房が二つ。豊満とは程遠いが形は綺麗な方だと勝手に思っている。食べても太らない体質なのか、食べた分しっかり消費しているのか、お腹周りは常に美しくくびれている。手足には細かい傷が多い。気をつけてはいるが、ニーベルングとの戦闘を繰り返してきて無傷でいられるはずもない。
 細かいところに不満は無くは無いが、ここまでは概ね満足。いつもと変わりない。それから振り向きざまに背中を確認した。最近はこの過程が一番つらい。
「やっぱり残るよね……」
嘆いても仕方の無いことを、どうしても独りごちてしまう。サギとの戦闘で負った背中の裂傷は、破れた箇所を突貫工事で補正しました、と言わんばかりの有様で今に残っている。鏡に映る継ぎ接ぎの背中を覆い隠すように、低い位置で結ったサイドテールをほどいた。
 扉に一瞬視線を移してから、シャワーのバルブを勢いよく捻った。濡らして、流れて、落ちていく。頭の天辺からつま先まで、冷えきった身体を温かな水が包んでいく。
(シグに心配はかけない)
目を閉じて、簡易の闇に身をゆだねる。そして呪文を唱えるように反芻した。
(明日はちゃんと朝食を摂って、雨だったら資料館を回る。晴れたら旧市街まで出て情報収集)
 きちんと計画を立ててそれを忠実に実行すれば、それだけでも随分調子を戻せるはずだ。脳にそう言い聞かせながら、別のところではもっと強い否定的感情が生まれ、意識を侵食していくのを止められなかった。サギとの接触もない、ファフニールの正体も不明のまま──ビフレストの古くからの職人たちも、魔ガン“ファフニール”について持っている情報は、自分たちと大差ないものだった。古臭さだけは随一の街の図書館にも、目ぼしい記述は見当たらなかった。この上、何をどう足掻けば求める答えにたどり着く? ──そも、求めている答えとは何なのだろう。根本が不確かだ。
 長毛の犬のように、力任せにかぶりを振った。肌にまとわり付いていた濡れた髪が、飛沫を散らして僅かにしなった。
「心配はかけない。しっかりして、ナギ」
聞き分けの悪い脳にも伝わるように口に出した。横目に鏡を見やって、自分の顔つきを確かめる。意識的に眉尻を上げた。そういう意識が足りなかったことに、今更ながらに気づいて自分が嫌になる。
 シャワーの水を止めた。途端に静寂が空間を支配した。ナギの髪から、身体から、伝い落ちる雫の音すらも恐ろしく響いた。その静寂が警報の代わりを果たしてくれた。
(部屋に誰かいる……!)
 違和感が急速に、そして歪に形づくられようとしている。息を潜めて、全神経を扉の向こうの気配に集中させた。脱ぎっぱなしたままの服の下に手を滑り込ませ、銃を抜き取った。
(ドアからじゃない。窓から……? 何か細工をされていた?)
 この隙だらけの状況はナギがわざわざ設えたもので、それは言うまでもなく相手を誘い込むため、その尻尾を掴むための罠だった。が、ここまで大胆不敵に侵入してくるとは些か予想外でもあった。よほどの馬鹿か、自信家か。あるいは敵も、こちらの出方を伺っているというところか。
 扉に背中を張り付けたまま、手早くバスタオルを巻きつけた。こちらの妙な静寂に相手も気づいているはずだ。こうなると、もはや誘い込まれているのがどちらか分からなくなってくる。が、ここで息を潜めていても始まらないことは確かだ。奇襲で先手を打つしかない。
 呼吸を止めて耳を澄ませる。扉越しに聞こえる僅かな物音から、相手の位置を予測する。ベッド脇──おそらくナギが携帯している荷物を物色している。バッグには多少の現金と地図、手帳、そして──
 ナギは体当たりするようにドアを開け放ち、寝室に飛び出した。あたりをつけていたベッド脇に無心で銃を向ける。しゃがみこんだ体勢の人影が、ブリュンヒルデを手にしていた。それさえ確認できればいい。撃つには十分すぎる理由だ。そう思って、重い引き金を半分引いたところでナギは完全に動きを止めた。
 それは、ナギが無意識に──しかしどこか意図的に──警戒の範疇外においてきた人物だった。
「リュ、カ……」
 その名を持つ、かつての仲間によく似た人影は微動だにしない。ブリュンヒルデを右手に持ったまま、肯定もせず否定もせずこちらを見返していた。銃を向けているのはナギのはずだが、彼女の方こそが金縛りにあったように凝固していた。息のできない数秒の後、窓が音もなく開かれた。
「撤退だろ」
 眼前の男とは別の、聞き覚えのある声。ナギはそちらを見なかった。窓側から銃口を向けられていることだけは、気配で察した。
「……分かってるよ」
 侵入者は落ち着き払った態度で、ブリュンヒルデを懐にねじ込む。ナギから視線を外さないままで一歩一歩開け放たれた窓へにじり寄った。
 雨はいつの間にか止んでいた。鈍い月明かりと街灯が、協力して窓際を照らし出していた。ナギは、視界に映る見慣れない光景に呆然と立ち尽くすしかなかった。ブリュンヒルデを持って逃走するリュカ、その隣で銃口をこちらに向けて構えるサブローの姿がある。
 その銃は思った以上にあっさりと火を噴いた。魔ガンの爆発音とは違う、鉄と鉄が爆ぜ合う生々しい音が耳元で轟いた。──耳元で。その違和感を覚えるだけの僅かな冷静さは残っていたようだ。
「リュカ! さっさと行けよっ!」
 あ、焦っているときのサブローの声だ──などと場違いにも懐かしさを感じた。その声を、ナギのうるさすぎる鼓動を、かき消すように連続して二発の銃声が響いた。それも耳元で鳴った。鼓膜がおかしくなるくらいに、すぐ近くで鳴っていた。
「追うよ。ナギはここに居て」
 鼓膜が上手く振動しないせいか、一番聞きなれたはずの声が別人に聞こえる。シグ自身はほとんど音もなく現れて、ナギの反応など待たないまま窓へ走っていた。
「──……いよ」
「え?」
「いいよ。追わなくて」
 窓を跨ぐ前に、シグはナギの独り言のような声を拾って足を止めた。その数秒のロスが二人の追跡を難しくしたのは言うまでもない。シグは一瞬窓の外へ視線を投げたが、すぐにナギの方へ踵を返した。
「なんで」
 ナギは答えない。シグにしても、答えを求めるための質問ではなかったからそれ以上追求はしない。代わりに、今、全身を駆け巡っている苛立ちの在り処を口にすることにした。
「なんで呼ばないわけ。俺言ったよね、なんかあったら呼んでって」
 やはりナギは答えない。それがシグの苛立ちに拍車をかけたが、その全てを一度の深い嘆息に詰め込んで昇華させる。
 それから数秒か、数十秒か、とにかくそこらあたりの長い沈黙を互いに感情の整理に費やした。シグは、ナギが口を開くのを辛抱強く待った。が、その「辛抱」とやらは状況的にも性格的にも、そう長い間持続するものではなかった。次の言葉を模索し始めた矢先に、ようやくナギも重い唇を開いた。
「シグはなんで、来たの」
「なんでって……ドアの音」
「その前から気づいてたでしょ」
「それはお互い様だろ。俺はナギの様子を見て、間接的に警戒してただけだ」
「シグは……簡単に、引き金が引けるんだね」
 俯いたままほとんど消え入りそうな声で、「誰にでも」と、付け加えられた。誰がどう解釈しても皮肉でしかないそれを、シグは黙って聞いていた。
「そうじゃないと一緒にいる意味がない」
一拍置いて、シグは迷いなく答えた。
「ナギに八番隊は撃てないし、撃たせるつもりもないし。……もともとそういう約束だったろ。あいつらを追うのも撃つのも俺の役割で、俺はただそれを実行するだけ。だから──」
 ナギの長い髪の先はまだ濡れていた。だから雫が時折ぱらぱらと雨のように落ちる。細い首筋を伝い、白い肌を辿り、落ちていく。少し視線を落とすとそういう画面が遠慮なく視界に飛び込んでくるから、その度に意識が別の方向へ奪われてしまう。
「……とりあえずなんか着てよ。目のやり場に困るんだけど」
おかげで言いかけたことも途中で忘れてしまった。視線を外す口実ができて適当に上着を物色したが、都合よく見当たらない。仕方なく着ていたジャケットを脱いで、ナギに羽織らせた。バスタオル一枚で、マネキンさながらに突っ立っていられるよりは幾分ましだろう。
「……ごめん」
「いや、俺は寒くないから別にいいけど」
「そうじゃなくて……今、無神経なこと言った」
「そうでもない。事実は事実だから」
「私は──シグに八番隊を撃って欲しくて、一緒にいるわけじゃない」
 シグは一瞬、息を呑んだ。それから意識的に視線を外して、ナギの顔を見ないように細心の注意を払う。
「……ナギはもうちょっと、言葉選んで喋ったほうがいいよ。今の、場合によっては解釈が歪む」
 例えば相手があまりにも無防備な状態で、ほんの少し腕をまわすだけで抱きしめられるような距離にいる場合。今の今まで溜め込んできた大粒の涙を次から次へとこぼしているような場合。ただでさえ華奢な身体をさらにすぼめて、小さな子どものように震えている場合。
 だから彼女を抱き寄せたことに、大それた理由はない。条件が整いすぎていて、その方が自然だと判断したからだ。
「ブリュンヒルデ、このままあいつらにくれてやるってわけにもいかないだろ」
 ナギの耳には先刻の銃声と同じ距離感で、シグの声が響く。鼓膜はまだ、正常に機能していないのだろうか。優しく穏やかにも聞こえたし、どこまでも冷たくも感じられた。シグの手が冷えきっていたせいかもしれない。
「当ては無くも無いから、ブリューの方は俺に任せてくれていい。ナギはここに居て」
シグは薄明かりの室内に視線を走らせた。彼が撃った三発は全て開け放した窓を通り抜けていったから、弾痕があるとすれば隣のアパルトマンの壁だろう。宿の主を強引に誤魔化すことはできそうだ。
「ナギ」
あまりにも反応がないから、流石に心配になった。できれば見ないままやり過ごしたかったナギの顔を、確認しようと少しだけ身体を離す。幸か不幸か、明かりの無い中で俯かれれば表情は読めない。せいぜい分かるのは、まだ髪が濡れたままであることと、身体がすっかり冷えてしまったことくらいだ。
 もう一度、名前を呼ぼうとしたちょうどそのとき、ナギがおもむろに唇を動かしたのが分かった。
「ごめん、大丈──」
ほとんど反射的に、シグは手のひらでナギの口を塞いでいた。その行動に驚いたのはお互いで、涙目を見開くナギ以上にシグの方が困惑の色を隠せずにいた。数秒石化した後、恐る恐る手を離す。
「や、こっちこそ、ごめん。……好きじゃないんだ、それ」
──ナギが口にするのは特に。だってそれはもう自己暗示を超えて、ただの呪いだろうと思っている。じわじわと精神を蝕む、持続性の高い毒のような言葉。それを口にするときのナギは、決まって、なにひとつ「大丈夫じゃない」ときだ。
「とにかく、行ってくるから服着て、俺の部屋で待ってて。すぐ戻れると思う。戻ったら少し話そう」
「……分かった。お願い」
シグは一度だけ頷いて、ナギの肩から手を離すと開け放たれたままの窓から街路へ降り立った。
 当てはある。有りすぎるほどに。自分のやり方が大層賢いとは思わないが、今回に限っては「敵」の行動が浅はかだったから、全て想定内の範囲に収まった。
 グングニル隊員は“ファフニール”の全貌を知らない。それは全ての魔ガンが“ファフニール”である可能性を示唆している。そういう結論に自分たち以外がたどり着くことは少しも不思議ではないし、だとすればナギが黒だと信じて疑わない連中がとる行動は限られてくる。


 精肉店だろうか、そういうぶらさがり看板の店にたどり着いた。周囲の店も含め営業はとっくの昔に終了している。時刻は午後10時。街が寝静まるには早いが、商店街から人気が無くなるには十分な時刻だ。
 それにしても、とシグは歩を進めながら眉根を顰めた。裏口に近づく程に生臭さが強くなる。
こういう場所だからこそ「悪い奴ら」が集まるにはもってこいなのだろうが、いくらなんでも趣味が悪い。誰の案だろうかと、つまらない疑問が頭をかすめた。
 裏口に出る。ゴミや資材を溜め置くための、割に広いスペースがあった。
「昔、サブローさんがやってたのをそのまま利用しただけなんですけどね。ここまで策も無く来られると拍子抜けというか」
 サブローとリュカ、そしてマユリの姿を認めて、シグは開口一番種明かしをした。分かっていたのか三人は特に慌てた素振りも見せずに、一人現れたシグを凝視する。
 シグは、ナギには断らずブリュンヒルデに発信機をつけていた。それは当然、この手の展開が容易に予想できたからだ。予想外だったのは、網にかかったのがよりによってこの三人だったという点くらいか。
「誘い込まれた、とは思わないのか」
「全然。俺をおびき寄せて不利になるのはそっちでしょ」
シグの銃のコッキング音が、周囲を取り囲む壁に反響して、やけに仰々しく鳴った。この期に及んで誰も銃を抜かないから、シグもそのまま構えない。唯一分かりやすい反応を見せたのはリュカくらいで、シグの言動のいずれかに明らかに不快を示していた。
 不快なのはこっちだろ──リュカを意図的に視界から外す。どうせこのお粗末なチームのまとめ役はサブローだ。 
「やるならもっとうまくやってもらえませんか。せめて正体は分からないようにするとか、いくらでもやりようはあったでしょう」
「どっちがだよ……。ここまで露骨に敵意出して何になる」
「何に? なりますよ。その平和ボケした頭に、俺があんたたちを敵だと認識してることくらい理解してもらえると思って」
 話し合いをする気は毛頭なかった。だから痺れを切らしたといっていい、シグは適当な照準で銃を持つ右手を構えた。
「ほんとにお前……びっくりするくらい躊躇なく銃向けるよな」
「同じことを、ついさっきあんたはナギにやってただろ」
「撃つ意志はなかったよ。お前とは違う」
「……そっちも負けじと、都合の良い理屈だけを押し通してると思いますけどね。それで? 強奪したブリューからは何か欲しい情報が得られたわけ。例えば、それがファフニールである証拠とか?」
 ブリュンヒルデはリュカの手に握られていた。だから自然と視線が移動し、口調が変わった。壁にもたれて座り込んでいたリュカは、無言でシグを見上げていたが、やがて重い腰を上げた。
「なるほど、ね。そういう情報はしっかり持ってるわけだ。俺たちは、訳わかんねーまま気づいたらこんなことになってて、訳わかんねーまま執行猶予だとか言われて、今だって訳わかんねーから、可能性のあるものひとつひとつ潰していくしかできねーのにな」
リュカは無造作に、ブリュンヒルデを放り投げた。ナギの魔ガンは縦回転で弧を描いて、勢い良くシグの手元に転がってきた。当然のことながら、ブリュンヒルデからは何も出なかったのだろう。
「なあ、シグ。お前なんで、ナギについてんの」
「は?」
「ナギは八番隊の頃から、俺たちに何か隠してた。隊長もだ。そういうの全員、うすうす分かってたよなあ?」
「それが?」
「なんで信じられるかって訊いてんだよ。少なくとも俺たちは、隊長が何を画策してたかなんてほとんど知らないままだ。知らないまま馬鹿みたいに信じてついてきた……! 結果こうなってんじゃんか」
「ああ……そういうこと。……くだらない」
「どこがだよ!」
「リュカ……っ」
 シグはずっと銃を構えたままだ。適当だった照準を、今は完全にリュカに定めてある。あと一歩、踏み込んできたら撃とうと決めていた。その一歩をぎりぎりのところで踏みとどまらせたのはサブローだった。苦虫を噛み潰したのような顔でシグを見る。
「自分以外は全員見下してるって顔だよな、それ。相変わらずといえば相変わらずだけど……気分のいいもんじゃない」
「別に誰のことも見下してるつもりはないですよ。尊敬もしませんけど」
「……サクヤ隊長のことは?」
「さあ。それを今のあんたたちに説明するほど、俺はお人好しじゃない」
 吐き捨てるように言って、今度こそ銃を下ろした。ブリュンヒルデがこの手にある今、もうここにも、彼らにも用は無い。伝えたいことも確かめたいことも、シグ個人としては生憎持ち合わせていなかった。
 ただ、孤軍奮闘するサブローにはいささか同情心を抱く。感情的になったリュカをなだめ、膝を抱えて隅でうずくまるマユリを気にしつつ、保身のために最善を尽くす様は、元八番隊という肩書きを持つ者の模範解答のようだった。それが哀れで滑稽に思えてならない。
「リュカの質問、俺も気になる。せめてそれくらい答えて行けよ」
 哀れで、滑稽な、難破船。その船には舵が無かった。その場に留まるための碇も無く、激しい波に翻弄され続けている。やがては、シグとは真逆の遠い岸に座礁するのだろう。興味は無いが、幾分羨ましくはあった。
「誰を信じるかとか何で信じるかとか、そんなの人それぞれだ。俺がナギを信じる理由を他人と確認し合ったって意味が無い。説明もできないし」
本当は「信じる」という言葉は適当ではない気がしている。しかし、それに代わる適切な言葉を模索するのは面倒だし、仮にあったとしても訂正する必要性を感じない。
「いや……うん。そうかもな。そういうものなのかもしれない」
「もう行っても?」
「立場をはっきりさせとこう。……俺たちは“サギ”と遭遇したら迷わず討つ。討って俺たち自身にかかった嫌疑を晴らす。お前たちは、お前とナギはどう動く」
「別に同じだと思いますよ。サギを追ってファフニールを回収する。サクヤ隊長がそれを持っていたとして、討つ必要性を感じれば討つ」
「そうか。それが分かればいい。行けよ、ナギも待ってるんだろうから」
 サブローの声には諦めに似た潔さがあった。こういう類の察しの良さは、今も昔も彼が随一だ。シグはここへやってきた時点で、和解も協定の意志も持ち合わせていなかった。そしてそれはどんな条件が付加されようが動かない。この三人が、査問でナギの名を挙げたという事実が、もう動かしようがないように。


 出てきたときと同じように、二階のナギの部屋の窓から帰還した。人の気配はない。ナギには、隣のシグの部屋で待つように告げてきたのだから当然といえば当然なのだが、妙なことにその隣からも気配が感じられない。訝りながらも念のため隣室のドアを開けたが、やはりナギの姿は無かった。
「シグっ。ごめん、下」
 ラウンジのソファーからナギの声。二階の渡り廊下の柵から身を乗り出すと、彼女の姿を確認することができた。
「なんでよりによって下……」
脳裏をよぎった愚痴がそのまま口から漏れた。
 戻ったら話をしよう、と言って出てきた。それはパブリックスペースでハーブティーを嗜みながらする類の話ではない。いや、ナギが構わないのなら別にどっちでもいいのだが。
「銃声の件で適当に話をでっちあげてたら、シグが戻るまではラウンジに居るように言われちゃって」
ナギが声を潜めるのに合わせて、シグもそれとなく店主に視線を移す。我関せずと帳簿に目を通しているが、彼は彼なりに客に対する的外れな気をまわしてくれたようだ。
 すぐにそそくさと二階に上がるのも憚られたので、シグも一旦ソファーに腰を落ち着けた。
「ブリューは……ひとまず後でいい? ここで出すのもなんだし」
「うん。ありがとう。嫌な役、させたね」
「ナギが気にすることじゃない」
 ローテーブルに鎮座している、ティーカップのひとつを摘みあげた。何かの花の香りだろうか、甘ったるいそれが鼻腔をつく。
「この際だから、ちゃんと確認しておきたいことがあるんだけど」
シグは結局、カップには口をつけずにソーサーに戻した。その茶器の擦れる音と、店主が帳簿をめくる音、そして壁掛け時計の針の音──静寂を強調する材料がここには多すぎる。一度黙ると、二の句を告ぐのが難しい。
「ナギは、“サギ”をどうしようと思ってんの」
脳内をがさごそと漁ってはみるが、これだと思える言葉が選べない。もともと持っていないのかもしれない、だとすれば考え考え話すのは時間の無駄だ。
「零番隊の任務は、サギを討って、ファフニールを回収することだ」
「分かってる」
「分かってる? じゃあ今ここに“サギ”が現れたら、どうする? 討つのか? そんなわけないよな」
 シグの語気はナギに反論を許さない。
 彼女の魔ガンを以てすれば、否、そうでなくとも彼女のグングニル隊員としての能力を以てすれば、サギの討伐は不可能なことではない。そうできずに半年が過ぎた。そこには少なからず彼女の意志が働いている。意識的にか無意識にかは、もう関係がない。問題は、もはやその意志とやらに悠長に付き合ってやれるほど、時間が残されていないということだ。
「そういうスタンスが見えるから、一部の連中はナギと隊長の関係をずっと勘ぐってる。マークされ続けてるんだよ、ナギは」
「だから、分かってる……! 何を言わせたいの? サギを討つって……そういうこと?」
「それ以外の選択肢があるなら、どうするつもりなのかを知りたいだけ」
「そんなの……決まってる。私はただ、話を──」
「それはもう試したろ。あのニーベルングが、俺たちの考えてるレベルでの話ができるのかそうでないのか、ナギだってもう分かってるはずだ」
 ──分かってる。
「それ踏まえて、どうするのかっていう……そういう話」
 ──分かってる。分かっている、痛いほどに。分からないふり精一杯してきただけだ。
 時間稼ぎをしてきたつもりはない。考えることを放棄したわけでもない。ただ、たった一度きりのサギとの対峙、そのとき起こった全てのことを、一旦脇に置いていなければ進めなかった。選択肢など始めから存在しない。
「私はただ、サクヤがあの日何を話すつもりだったのか……それを知りたい。知らないと、いけないと思ってる。そうじゃないと身動きがとれない」
「あの日って……最後の、通信?」
 ナギは黙って頷いた。正確には通信の後、ナギが間に合っていたなら明かされただろう黒い真実。
「そういうことなら、俺たち独自のやり方でファフニールやサギを追っても無意味じゃない? 要するに、あの人の見たもの聞いたもの、それで考えたことを辿っていかないと」
「サクヤの軌跡を辿る……」
「……同じものを見て俺たちが同じように感じるかは、ちょっと際どいけど。ナギは? そういう観点でなんか心当たりはないの」
 口元に自然に右手をあてがってしまう。長年近くで見てきた、考えるときの癖。因果関係は一切ないと分かっていても、これをやると頭の片隅で眠っている名案を引きずり出せる気がするのだ。
 より冷静に、丁寧に、記憶の中のサクヤとのやりとりをひとつひとつ拾い上げる。ニーベルングに対してどう考えていたか、どう行動していたか、ファフニールという単語については? そもそも八番隊への言動はどうだっただろう。作戦中、非番の日、訓練中、そして朝礼前に二人で交わす他愛の無い雑談。
「ある、かもしれない」
「何」
「待って、今、脳みそに小骨が刺さってるかんじ」
(なにそれ……)
 うっすらかぶった埃を優しく撫でてふき取るように、ひとつひとつ思い返した。
 まだちゃんと覚えている。思いきり笑うときに少し眉間に皺がよること、栞代わりに書類を使う癖、紅茶を淹れただけで、この世の幸せを独り占めしたみたいな満足そうな顔をすること。何一つ忘れてなどいない。
 会話を辿る。一言一句、その間の一呼吸まで精密に。そうして浮かび上がったいくつかの点を気持ち強引につなぎ合わせてみる。確信はないのに、妙な手応えがあった。
「アルブに、サクヤの先生がいるの。今はニブルの研究してるとか……冬前にやけに頻繁に通ってた」
「その人なら何かを知っている?」
「可能性はある。直接じゃなくても、何かしらサクヤに助言をしたはず」
「ふーん……まぁいいんじゃない。ひとまずそれで。空振りでも気分転換にはなりそう」
 シグの期待値の低さとあからさまな態度に、ナギはうっすら青筋を浮かべる。そんな何気ない感情の動きが、随分久しぶりに思えた。
 顎先で二階に戻るよう合図するシグに続いて、ラウンジを後にする。元の部屋割り通りに階段近くのドアを開けようとするナギを、シグが制した。
「俺がこっちで寝る。どうせ明日には発つけど……何となくその方が良くない?」
「や、まあ。それはどっちでもいいんだけど」
「じゃあ換わって。で、なんかあったら呼んで。……ちゃんと」
 ドアの前から強引にナギをひっぺがえして後、心底嫌そうにシグはお決まりの台詞を口にした。そういうシグの表情も、不思議と久しぶりに思えた。そしてそれが妙に笑いを誘う。ナギは自分でも分からないまま笑いを吹き出していた。
「分かった。次はそうする」
「何で笑ってんの。失礼じゃない? 空気読まなすぎじゃない?」
「ごめん、なんかシグがすっかり紳士になっちゃってるのが面白くて」
「……ナギがそういう態度ならいいよ、俺。六番隊が総動員でナギの部屋に侵入しても、クッキーかじりながら笑って見てることにするから」
「ごめんってば。ちゃんと、呼びつけさせていただきますから。六番隊とか、ゴキブリとか、なんだろ後……幽霊出たとき?」
「それじゃあサブローさんだろ」
 意識しないままに、口から滑り出していた。シグは別段、しまったという顔もしなかったしばつが悪そうに顔を背けたりもしなかった。小さく吐息をつきはしたが。
「……撃った?」
ナギは残りかすのような曖昧な笑みのまま、それだけを口にする。
「撃ってない」
だからシグも、それだけを簡潔に答えた。ナギの安堵が手に取るように分かる。顔を見なくても、言葉を聞かなくても、空気がそれを伝えてくれる。半年間そういう距離にいた。
 シグは、懐に入れっぱなしだったブリュンヒルデを取り出そうとして、やめた。
「別になんでもいい、何もなくてもいい。必要だと思ったら呼んで。行くから」
シグはそのままドアを開けて、ナギの反応も待たず室内へ消えた。
 ナギも仕方なくというか、成り行きでシグの部屋のドアを開ける。室内は未使用みたく綺麗だった。一度も身体を預けていないのではないかと勘ぐりたくなる、皺一つないベッドに倒れこむ。今日はいろいろありすぎた。今日に限ったことではないかもしれないが、考え慣れないことに頭を使いすぎて脳が悲鳴を上げていた。
 明日はサクヤの故郷であるアルブへ──そう思うと期待と不安の入り混じった、新鮮な気持ちになれた。大丈夫、前に進める。大丈夫、何か一つは変えられる。大丈夫、何もかもに一人で立ち向かわなばならないわけではない。大丈夫──繰り返しながら、瞼を閉じた。
 それが毒でも呪いでも、立って進むために必要とされるなら飲み干せる。だから繰り返し、夢の中で呟いた。それが毒でも、呪いでも。


 季節を問わず、アルブの土地は肌寒い。時折身震いするような風が、人を、花を、微動だにしない家々の間を何の断りもなく通り過ぎていく。
 ナギとシグは、市街よりも一段高い丘の上にあるウルズ大学生態研究所を訪ねた。サクヤの恩師であるフェン教授に会うためだ。事前に約束は取り付けていたが、先方の実験が長引いているだとかなんだとかで結構な時間、待たされている。で、大人しく待たされてやるかというとそういうわけでもなく、三十分を越えたあたりでナギはさっさと見切りをつけて応接室を後にした。
「いやいや、ナギさん……どこ行くの」
「散歩? 来るとき、温室みたいなのあったじゃない。あの辺、うろうろしてくる」
「大人しく──」
「待たないよ、こんな謎のねずみがいるようなとこで」
 それもそうか、とシグは二の句がつげずに押し黙った。ナギが言う「謎のねずみ」は、実験用に飼っているマウスのことで、先刻からしきりに奇声をあげてはケージをかきむしっている。それだけなら良い。否、良くはないのだが我慢はできたかもしれない。そのねずみには、骨と皮で構成されたような羽根があった。その隣のマウスは、セメントで塗り固めたような皮膚に全身を覆われてうずくまっている。生きているのか、死んでいるのかも分からない。大きめの観葉植物をちりばめた、白を基調とした部屋の中で、それらはどうしても際立ってしまう。
 シグは残るようだった。ナギは気にせず颯爽と応接室を抜け出して、窓から見えていたガラス張りの施設を目指す。ガラスの奥には色とりどりの花と、中央区では見かけない背の高い木々が生い茂っていたから、ナギは勝手に温室だろうと判断していたが実際は微妙に異なるものだった。
「あれ、先生のお客さん? 迷っちゃいました?」
 白衣を着た研究員らしき男性が、ガラス張りの施設の中からわざわざ顔を出した。
「あー……いえ、えーと、迷ったというか、真っ直ぐここを目指してきたというか……」
「ああ、どうせまだいらっしゃらないんでしょ。先生、時間にルーズだから。せっかくだし、中観ますか? ちょっと暑いかもしれませんけど」
「あ、いいんですか?」
「全然構いませんよ。ここのは実験用っていうより研究員が趣味で育ててるみたいなもんだし。他にも三棟あって、それぞれ高山植物と寒冷植物と、後は特殊条件なんかで育つやつに環境を合わせてあるんで、純粋に温室って呼べるのはここくらいですかね」
「へえ……。あ、わあ、すごい」
 どうぞと中へ通された直後に、自然と歓声をあげる。ガラス越しに観るよりもずっと鮮やかな色彩で、見たことのない美しい花々が咲き乱れていた。燃えるような赤、輝くような黄、空と海を合わせたような深い青。生い茂る葉や木々は濃い緑で、そのコントラストが余計に花の鮮やかさを際立たせていた。まるでお菓子箱の中のような現実離れした世界だ。
「うちでいろいろ品種改良したのばかりです。あれなんかはもともと食用で、甘味成分をめちゃくちゃに上げて実験中です」
「ほんとにお菓子箱みたい」
「なんなら後でお茶菓子にして出しますよ。結構いけます」
 研究員は暇なのか、ナギがいたく気に入ったのか、頼んでもいないのにあれこれと説明をしながら案内してくれた。とりわけ鬱陶しいというわけでもないので、ナギもそれに合わせて適当に相槌を打つ。
 その気の抜けたやりとりのさなかに、さらに現実離れした光景が飛び込んできた。天井まであろうかという大木の根元で、白衣がしゃがみこんで一心不乱に土を掘っている。ナギは反射的に立ち止まった。そして割と機敏に、後ずさった。
「あ、すいません。びっくりしますよね普通。レイヴンさーん、もう三時まわっちゃいましたよ。そろそろ薬の時間じゃないですかー」
研究員が声をかけると、狂ったように土を掘り起こしていた男はぴたりとその動作を止めて振り返った。その瞬間にナギはまた一歩、バックステップする。悲鳴を上げなかっただけマシだったかもしれない。
 男は──体格からして男だと判断した──全身余すところ無く黒い包帯を撒きつけて、片目と口周りだけが外気に触れる状態だった。ミイラである。単純に言えば。白衣の下は病院衣のような簡素な井出達で、よくみると足元もどこかの施設名が書いてあるスリッパだった。右手に小さなシャベル、左手に大量の芋虫が入った籠を抱えて、目の前の二人を凝視している。
「レイヴンさん、お客さん怖がっちゃうんで」
 その通り──ナギは取り繕うことも忘れ、露骨に口元をひきつらせていた。全身黒の包帯男が、親の仇のように土を掘り返して芋虫採集に励んでいれば、誰でもこうなる。
 ミイラ男は意外にも、無言のまま会釈をして──そしてその際、芋虫を数匹取りこぼして──よろよろと出口の方へ歩いていった。
「えっとあの方も、研究員、ですか?」
「そうそう。患者兼助手っていうか。彼、重度も重度のニブル病で先生頼ってここに療養に来てるんですけど、知識も豊富でよく働くし、いい奴ですよ。見た目がああで一切喋りもしないから、研究所の職員たちからは“アルブの怪人”なんて言われてますけどね」
「それはまた……凄まじい通り名ですね」
 あの包帯が黒いのは、体内から分泌されたニブル成分の色に染まっているからだ。元は当然白い。それが全身に及ぶ、ということはどういうことなのだろう。頭を掠める嫌な想像を遮断しようと、ナギは一度大きくかぶりを振った。
「そろそろ戻ります。見せて下さってありがとうございました」
「いえいえ、最後にちょっと衝撃的な現場に遭遇させちゃいましたけど。先生とこには良いお茶菓子をお持ちしますよ」
 研究員は和やかに微笑んで、ナギを温室の入り口まで送り出してくれた。
 シグが人目も憚らず大口で欠伸を漏らしたところに、ナギが戻ってくる。気分転換をしてきた割には神妙というか、険しい顔つきだ。
「温室、見てきたんだよね?」
「見てきた。や、なんか重度のニブル病患者さんが居て……」
「ああ。まぁ、気分は晴れないね、それは」
シグがすぐさま想像した風体とはいささか異なるような気もするが、事細かに説明するようなことでもないので黙っておいた。
 羽根のあるマウスはいつの間にやら大人しくなっていたから、二人が黙れば室内は途端に静寂に包まれる。日当たりの良い部屋だ。シグでなくても欠伸を漏らしたくなる環境ではある。
「すみませんねー、お待たせしてしまったようだ」
 入り口から聞こえるのんびりとした声に、ナギは出かけた欠伸を慌てて飲み込んだ。挨拶のために立ち上がるシグに倣って、襟元を正しながら立つ。
 フェンは自らティーセットと茶菓子の乗ったトレイを持って、よろよろとこちらへ寄ってきた。今時珍しい型の古いロイド眼鏡に、項の部分でひとつに束ねたうねりのある長髪。特徴的というか、はっきり言って風変わりだ。ナギは学者だの研究者だのという人種に面識がないから、とりわけ浮世離れして感じるのかもしれない。
「お忙しいところお時間を頂いてありがとうございます」
「二人ともサクヤくんの部下、だったね。こちらこそ、こうして訪ねてきてくれてありがたい限りですよ。僕に協力できることがあれば是非力になりたい」
 座るよう促されたので、ナギもシグも元の位置に腰を落ち着けた。フェンはローテーブルを挟んで二人の前に座る。
「もう半年か。改めて振り返ると、月日の経つのは早い」
「教授は……サクヤの件については、どの程度ご存じなのでしょうか」
「それを確認するということは、公にはされていない事実があるということだね。もしその部分で何かを期待してここへ来たのなら僕はお役に立てないかもしれない。確かに僕はサクヤくんについてかなり情報を持っている方だと思うけど、それはあくまでここでの彼の話だよ」
「むしろお伺いしたいのはそこです。サクヤは失踪前、特に冬前にこちらへ頻繁に伺っていたと思うんです。それはその、何のためだったのかとか、そのとき何か教授にお伝えしたりしなかったでしょうか。あるいは逆に、教授からサクヤに話したこと、とか」
「うーん? 普段と変わりなかったように記憶してるけどね」
 それはそうなのだろう。思い当たる節があれば、フェンの方からコンタクトをとってきたはずだ。こめかみをさすりながら記憶を辿っているようだが“普段通り”だと認識していた過去から宝探しをするのは至難の業である。
「何でもいいんです。こちらでサクヤがどのように過ごしていたかとか、どんな話をしたのかとか」
「話と言っても、どちらかと言えば僕が一方的に研究の進捗状況をばらす方が多くてね。彼は彼でここにも大学の方にも足を運んで、耐ニブルや抗ニブルの成分について調べていたよ。それはまぁ、自分の身体のこともあったからなんだろうけど……と、サクヤくんの病気のことは?」
「聞かされています」
「そう。……もともとサクヤくんがここへ通っていたのは、彼用に調合した強めの薬を受け取るためだったんだよ。当然市場には出回っていない。僕と雑談してたのはそのついでみたいなものだ。互いに良い気分転換にはなっていたけどね」
「強めの、薬」
 馬鹿みたいに鸚鵡返しした。実家に立ち寄るでもなく、知人に会うでもなく、サクヤがアルブに帰る理由はこれに尽きた。フェンが調合した非認可の抗ニブル剤を手に入れるためである。サクヤはニブル病であることを部下に明かしておきながら、その素振りを周囲に見せることは一切と言っていいほど無かった。だから、ナギには薬を呑むサクヤの姿が思い起こせない。事実、彼は人前では一度も服薬していなかった。
「彼は平気な顔で危ない橋をひょいひょい渡るタイプだったろう? だからここで何か大それたことをやっていたとしても傍目には気付きにくいんだよね。実験用のニブル水溶液なんか、手続きすっ飛ばしてすぐくすねちゃうし」
「あ、それ」
 シグと顔を見合わせる。ビフレストの運河で、バーディ級ニーベルングをおびき寄せるためにつかった餌がそうだった。出所を知るのが嫌で気付かないふりをしていたが、こんなところから持ち出していたとは。しかもフェンの口ぶりからすると、あれ一回きりというわけではないらしい。
「まさか人前で使っちゃったりしてたの? 困るなあ、うちの管理能力を疑われちゃうよ」
大仰に嘆くフェンに対して、ナギもシグも曖昧な笑いを浮かべることしかできない。グングニル隊員としてのサクヤ・スタンフォードではなく、一個人としての彼の軌跡を追ってここまできてはみたが、開けない方が良かった扉が多すぎる。
「そういや一時期、呪いのアイテムみたいなどす黒い花を持ちこんで分析してたこともあったよ。僕は勝手にイカスミマミレ草って呼んでたんだけど、見たことのない花だったなあ。新種かいって聞いても教えてくれなくてね」
 今度はナギだけが顔をあげた。フェンはその様子を見逃さず、柔らかく微笑む。
「……君は、知っているのかな」
「知っている、と思います。でも──」
 そうだ、あのとき──イーヴェルで採取した黒いユキスズカ、その分析結果について、サクヤは「おもしろいことが分かった」と言っていた。その先をナギは知らない。意気揚々と語ろうとするサクヤを遮って、自分の記憶にある“ノウヤクイラズ”の話を披露してしまったからだ。
 ナギが言葉を呑みこみ続けるから妙な沈黙が生まれる。茶の独特な甘い香りだけが、我関せずと立ち込めていた。その甘ったるい香りの茶に、更に砂糖を投入してフェンは音を立てながら飲み始める。
「君たちは、“蛙の足元にある秘薬”の話を知っているかい?」 
 風向きが変わった。とても不穏な方向へ、ティーカップからあがる湯気が流されていく。
「ある蛙が、二本脚で立って歩くことを夢見て毎日毎日神様にお願いをするんだ。蛙があまりにも熱心に祈るものだから、神様はその願いを聞き入れて、彼に立って歩ける秘薬を授ける。蛙は大喜び。ところが、どこを探してももらったはずの秘薬が見当たらない。風変わりな蛙だったから、妻はおろか友人の一人もおらず、誰に尋ねることもできずにいた。そのまま長い長い月日が経って蛙が天に召される日、神様が蛙の足元を指さしながらこう言うんだ。『なんだ秘薬は使わなかったのか』ってね」
顔色ひとつ変えずに、フェンは淡々と、しかし一度も詰まることなくすらすらと語った。
「蛙の眼は自分の足元を見られるようにはできていないからねー。とんだ皮肉を孕んだ昔話ではあるんだけど……僕はこの話が割と気に入っててね。研究が煮詰まったときは、まず足元を見直すことにしてるんだ。……真理は常にそこにあるもの。分厚い蓋に覆われていたとしても」
「……おっしゃることは分かります。ただ、私たちの足元はパンドラの箱かもしれません」
ナギの足元。シグの足元。そしてサクヤの足元に広がっていたもの。始まりから終わりまでサクヤが疑心を持ち続けていたもの。誰かは闇だと言っていた。蓋をしても溢れだしてくる、そういう類の闇だと。
「ははは、それは喜ばしい。最後に真理が残る、約束された箱だ。開けるつもりがあるなら、私にも少しは助力ができるよ」
 フェンは机の一番上の引き出しを開けると、その中にあるさらに小さい鍵付の引き出しの中から長い鎖に繋がれたグングニル機関のエンブレムを取り出した。鈍く光る、何かの宝石でできているのかと一瞬目を細める。が、それは宝石ではなく、最高純度のラインタイトで形作られたものだった。
「何故、あなたがこんなものを?」
「そういう立場にかつて居たことがあってね。昔も今も変わらず、ニブル事情に一番明るいのは僕だ。グングニルの創設にも、運営にも、多少の関わりを持ちながらここまできてしまった。ただまあ……そろそろ必要の無いものだとも思って」
 何故か、視界がちらついた。ちらつきの合間に、どうしようもない違和感が広がった。
「君はとても熱心な蛙だ。二本脚で立つことを望むなら、これは秘薬に辿り着くために必要になる」
「教授は、サクヤにも同じことを言いましたか」
「さあ、どうだったかな。蛙の話をした覚えはあるよ」
 とんだ狸だ──ナギは手のひら大のエンブレムを受け取りながら、胸中で凄まじい勢いで増長する嫌悪感と警戒心を止めることができなかった。ほとんど何も知らない? 普段と変わりない? ──この男だ。この男は、間違いなくサクヤの目的を知りながら背中を押している。
 湧きあがる憎悪で指先が震え、唇が震えた。
「君はとても分かりやすい」
子どもを諭すときのように、フェンは苦笑を洩らした。ナギは黙っていた。美し過ぎるラインタイトを手の中で握りしめて、何かを必死で耐えた。
「ナギ、もうここには用ないだろ。帰ろう」
 シグの声に無言のまま頷いた。とにかく一言も口を利く気になれなかった。ありとあらゆる言葉が喉元でいがみあっている。それはどれも、信じられないくらい薄汚い言葉だった。
「どーも。お世話になりました」
来たときと何ら変わらぬ様子で、シグは何事も無かったかのように会釈をした。そして来たときとは明らかに違い、ナギの手を引いて足早に応接室を出た。ナギは大人しくシグの後ろをついてくる。握った手が熱を帯びていた。
 温室の前までずんずんと引き返してきて、シグが思い出したようにいきなり振り向いた。
「……なんだ、泣いてるかと思った。また」
「ま、また?! そんな言うほど……や、確かに……ここのところ涙腺が……」
「もともとゆるゆるでしょ。なに我慢とかしてんの、気持ち悪い」
「してないよっ。泣くより腹が立ってきて……! 駄目だっ! 戻ってテーブルごとひっくり返してやりたい! あの狸ジジイ!」
「顔真っ赤ですけど」
「だって腹立つじゃない! 腹立ってきたらなんか……涙が、こみ上げてきて……」
 ふりだしに戻る、というわけだ。怒りと同時にこみ上げてくる水分を関所でせき止めるために、顔面中の筋肉に無理な力が加わる。──握ったままの手が、熱かった。
「それよりちょっと提案があるんだけどさ」
「提案? 何、めずらしいね」
闘牛みたく鼻息を荒らげていたナギも、疑問符を発射することで多少クールダウン。シグは遠目に見える建物を指さして深々と嘆息した。
「ラウンジ。フツーーーのコーヒーが飲みたい。あの部屋の臭い、凄くなかった? 息止めてて死ぬかと思った」
「ああ、何か甘味成分が高いお茶だって言ってた。……息、止めてたんだ?」
真剣に頷くシグを見て、堪えた笑いが鼻から出てしまう。そう言えばやけに口数が少なかった。
「……泣いたり笑ったり忙しそうね、あなた」
「だから泣いてない。そこ重要。で、一服するんでしょ? 行こうか?」
再びこっくりと頷くシグ。肺の空気の入れ替えを口実にした休憩は、ナギにとっても必要なものだった。胸中に渦巻くどす黒い感情を、言葉を、言葉にならない苛立ちを、丸ごと綺麗な空気に入れ替えてしまいたかった。
 と、数歩歩いて、ナギはすぐに踵を返す。
「は? 何?」
「ごめん、先に行ってて。すぐ行くから」
ひたすら疑問符を浮かべるシグを残して、ナギは小走りに温室の方へ向かった。見間違いようの無い後ろ姿が目にとまったからだ。病院衣に全身黒い包帯姿、最初に見かけたときと同じようにこちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
「あの、レイヴンさん? でしたよね、確か」
何となく数メートル手前で声をかけた。反応は無い。低い唸り声を上げているだけだ。もしや気分が悪いのか。
「だ、大丈夫ですか……?」
一歩踏み込んだ。と同時に唸り声が途切れ、黒いミイラ男が仰向けに転がってきた。それもかなりの勢いで、だ。ナギは先刻の焼き直しのように、またもや数歩後ずさってしまった。レイヴンと呼ばれていた男は、尻もちをついたまま万歳、その両手には芋が握りしめられている。よくよく見ると、彼がしゃがみこんでいた傍らには籠いっぱいに芋が積まれてあった。どうやら収穫中だったようだ。
「すみません、なんかまた邪魔しちゃったみたいで……。てっきり気分が悪いのかと」
転げたままの体勢でナギを一瞬じっと見つめたかと思うと、レイヴンはおもむろに身を起こし、あちこちについた土埃をはたき落とした。そして今掘り起こしたばかりの芋を綺麗に半分に割ると、何の衒いもなく片方をナギに差し出した。
「え、食べられるの、これ。生のまま?」
ナギの疑問にレイヴンは答えるでもなく、自ら残りの半分を口にした。からからに乾いた色の無い唇が、鮮やかな黄色の果肉をむしりとっていく。黙って咀嚼するレイヴンに倣って、ナギもとりあえず一口。
「うっわ、あまー!」
 掘ったままの固い芋は、噛めば噛むほど甘みを増して口内で溶けていく。ナギはわけのわからない感動に包まれて、ひたすら歓声をあげながら食べ続けた。レイヴンは観察でもするかのようにその一部始終を凝視。その視線にようやく気付いて、ナギは気まずさを振り払おうと愛想笑いをこぼした。その笑みに応えるように、黒い包帯の奥の眼が細まった。もしかして笑った、のだろうか。ナギが呆気にとられているのをよそに、レイヴンはいそいそと抱えていた芋の山から手頃な大きさのものをいくつか選別して、ナギの腕に抱えさせた。
「ひょっとしてくれるんですか?」
今度はきちんと頷いてくれた。そしてそのまま芋の籠を抱えて去っていく。
「あの! ありがとう!」
声を張り上げて手を振ると、少しだけ立ち止まって肩越しに振り返ってくれた。ただし、手を振り返してくれるわけでもなければ、会釈を返してくれるわけでもない。本当にほんの少しの間こちらを見返して、また背を向けて温室の方へ去って行った。
 また肌寒い風が通り抜けていった。その風の音に混ざって、微かに鈴の音が聞こえた。
「……え」
今度ははっきりと、ひとつ。鼓膜をくすぐる優しく、懐かしい、鈴の音。
 畑の脇で、たった今花弁を広げたばかりの白い花が揺れていた。生まれたばかりの赤ん坊のように、少しの風に小さく身体を震わせていた。その花の名を彼女は知っている。
「ユキスズカ……。あ、そうか。アルブでは珍しくはないんだっけ……」
記憶の中のユキスズカは、常に視界を埋め尽くすほどに咲き乱れていた。そんな幻とは違う、現実に咲くその花はたった二輪で、それぞれが寄り添うように重い花弁を重ね合わせていた。
「知りたかったな」
意思とは無関係に口からこぼれでた、それはおそらく本音だったのだろうが、唐突に聞こえた自分の声に驚いて目を見開いた。知りたかった──無機質な情報としてではなく、サクヤの口から、サクヤの声で聞いてみたかった。彼が子どものように瞳を輝かせて、夢中になって調べた黒いユキスズカのことを。この街でどんなふうに育ち、どんな出会いがあったのかを。鉢ごとプレゼントしてくれた白い花に“特別な意味”があったのかどうかを。そして同時に、知らねばならないと思った。彼が辿り着いた、地下深くに置き去りにされたままの真理を。


 テーブルの上に並べられた甘い香りの茶は、ほとんど口をつけられないまま応接室の白い天井を映し出していた。フェンが飲んでいたものだけが空、といっても底の方には溶けきれなかった砂糖がごみのように残っている。
 フェンは上機嫌だった。自らの描いた筋書き通りに事が運んでいる。その喜びを誰かと分かち合いたくて、扉の前に立っている人影に呼びかけた。
「ほーんと、サクヤくんにはいくら感謝しても足りないくらいだよねぇ……。ギブアンドテイクとは言え、まさか最後のピースを見つけてくれるなんて。後は、そうだね。いろんなものが然るべき終わりに向かって行くのを待つだけかな。その辺りに僕はさほど関心はないけれど、君はそういうわけにもいかないだろうから」
 人影は入り口付近に立ったまま無反応を決め込んでいた。応接室の大きな窓から入る西日が、赤と白と黒の風景を作り出す。黒い影はどれも微動だにせず、設置された観葉植物と同じようにただ存在しているだけだ。
「君も僕も、望みは違えど熱心な蛙であることに変わりはない。しかも秘薬を見つけるためなら目玉をえぐり出すことも厭わないホンモノだ。……みんなが笑える結末になるといいよね。もちろん、この僕も」
フェンは瞼を閉じて、出会った全てのモノをひとつひとつ思い返し、慈しんだ。そうすることが、然るべき終わりに向かうために必要だと考えた。最後にお祈りのように呟く。

 全ての熱心な蛙に、相応の真理が与えられますように、と。

episode xi ティーカップの底

 子どもの頃、することがなくなると空を見上げて雲を見ていた。見上げる度に形を違えるそれは、口を開けた大トカゲだったり、バランスの悪い帽子だったり、かじった林檎だったりと、飽きることがない。夜になるとベランダに出て、夢中になって星を数えた。新月の夜は特別光り輝いて見える。星座を見つけ、流れ星を待って、満たされた気持ちで眠りについた。
 今もあの頃と変わらず、気がつくと空を見ている。ただ、探しているものは雲でも星でもなくなってしまったけれど。


「羨ましいくらいぼんやりしてるけど、見たの? 新聞」
 視界を埋め尽くしていた窓越しの空は、シグが向かいの椅子に腰かけたせいで全く見えなくなった。仕方なくテーブルに置かれたタブロイド紙に手を伸ばす。
「何? なんか面白い記事でも載ってる?」
「面白くない記事なら一面に」
訝りながらひとまず目を通す。と言っても、ほとんど時間は必要なかった。紙面一杯に踊る見出しが全てを物語る。

 ──第二防衛ライン、陥落──

 ナギは大きく目を見開いたまま、記された情報を一字たりとも逃さぬように辿った。そこには、ニーベルングの大群が第二防衛ラインを突破し、現在も侵攻中であること。中部の主要都市であるミドガルドが激戦区と化していること。ミドガルドに居を構えるグングニル中部第一支部が孤軍奮闘していること。そして中部第二支部が総員出撃したことなどが感慨なく羅列されていた。全て本日未明の話だ。
「何これ……最悪。よりによって新聞で初めて知るなんて」
「零番隊には関係の無い話、ってことなのかもね」
否定する気力もないし、実際その通りなのだろう。ただナギ個人としては気にならないはずもない。中部第二支部を仕切っているのは父ディランだ。それを差し引いても中部には知人が多い。できるなら、今すぐ駆けつけたいくらいだった。
 が、シグがタブロイド紙を見せた意図は別にある。そしてそのことに、ナギも気付かないわけにはいかなかった。別の見方をすれば、二人はこの瞬間を待っていたと言っても良かったのだから。
「今しかないんじゃない」
シグの呟きに、躊躇いなく頷く自分がいた。
 今、グングニル機関とニーベルングを取り巻く全ての視線は中部に集中している。この状況なら昼前には本部からも増援が送られるだろう。大所帯の六番隊か、後方支援に長けた九番隊、あるいは三番隊かもしれない。いずれにせよグングニル塔の“守り”は薄くなる。事を成すにはそうあってもらなわねばならない。そういう意味で、これ以上の好機はおそらくもう巡ってこないだろうと思えた。
「加勢に行くなら、俺はそれでもいいけど」
今度は静かにかぶりを振った。シグにしては珍しい及び腰な物言いだと思った。
「あっちにはキャプテンが……支部長がいるから何とかすると思う、駄目なら撤退するし。そういう判断は間違わない人だから。って私のこと気にしてくれるのはいいんだけど、シグは? シグも八番隊の前は中部所属じゃなかった?」
「そうだけど。ちょっとの間、籍がそこにあったってだけで家族がいるのといないのとじゃ大違いでしょ。俺は第一支部にたいして思い入れはないし」
おかしなことを聞くなとばかりに、シグは肩を竦めて椅子の背に身体を預けた。
 じゃあ八番隊は、シグにとってどうだった? ──喉元まで出かかった言葉を、ナギは冷めたコーヒーで流しこんだ。シグはこの話題については多くを語らない。彼には彼なりの、そしてある意味ではナギ以上の“思い入れ”が八番隊にはある気がした。そこにおいそれと触れるべきではない、そう考えるから何も言わない。ちょうどシグが、ナギのいくつかの秘密を見て見ぬふりし続けるのと同じ理屈だ。
 黙ってカップに口をつけるナギを見て、シグもタイミング良く真横を通りかかったウェイターを呼びとめた。顔見知りすぎるウェイターは、あろうことか口をへの字に曲げて不快を顕わにする。
「……ちょっとは気を遣えよ。いっそ手伝うとか、そういう選択肢があってもいいと俺は思うぞ」
「やだなぁアカツキさん。仮にもお客さんに手伝えとか」
「ご、ごめんね? 朝食時間、こんなに盛況だとは知らなくて」
「だろうな。いつも昼までぐーすか寝こけてやがるからな」
 大量の皿をトレイに乗せた状態で、アカツキは器用に丸テーブルの間をすり抜けてキッチンに消える。シグは伸びをして、その背中を心配そうに見守っていた。コーヒーは結局もらえるのかもらえないのか、そういう心配だ。それが傍目にも見て取れるから虚しい。
「……私が淹れてくる」
「えーいいよー。それだといつもと変わんないじゃん」
などと言いながら、ナギの飲みさしのカップを物欲しげにぐるぐると回す。
「こーいうのって、豆? 淹れ方の問題?」
「何が?」
「……ここのは塔の食堂の百倍うまいから」
「それは是非、店長さんに直接お伝えしてみてはいかが?」
「気が向いたらね」
 伝える気はなさそうだ。シグ待望のコーヒーは、そんな他愛のない会話の内に運ばれてきた。給仕はアカツキではなくカリンだ。たった一杯のコーヒーのために、朝から百点満点の笑顔を添えてくれる。
「お待ちどーさまーっ。シグくん専用スペシャルブレンドでーす」
「ははっ、何それ」
シグが思わず声を出して笑う。ナギはそれを物珍しそうに見ていた。
「え、ほんと何それ。いいな、シグだけずるい」
「って言えってパパが」
「消しゴムのかすとか入ってないよな」
一抹の不安を抱きながら恐る恐るカップに口をつける。いつもと変わらない、程よい苦みと芳醇な香り。ここから消しゴムのかすの有無を見極めるのは至難の業だ。早々に諦める。
「……一口ほしい」
「は? いや、同じでしょ。それと」
同じ釜の飯ならぬ、同じサイフォンのコーヒーだ。消しカスだの唾だのが混入されていない限りは全く同じ成分だと思うのだが。
「はいはい“ナギちゃん専用スペシャルブレンド”お待たせしました。奪い合うなよ、見苦しい」
 二人のやりとりを見かねたアカツキが、最高のタイミングでおかわりを運んできた。自他共に了承済みの、ただのおかわりだ。ナギは名称で満足したらしく上機嫌である。対照的にアカツキは、ナギの肘下に敷かれたタブロイド紙を一瞥して表情を曇らせた。
「えらいことになったもんだな。チビもそっちに招集されたみたいだ」
「ユリィ隊長が? ってことは三番隊は確実に不在、か」
「二人は行くのか」
「俺たちはどこまでもフリーですよ。ニーベルング討伐に関しては、機関からの信用度はゼロですからね。まぁただ……この機に乗じてやるべきことはありますけど」
 無言で相槌だけ打つアカツキ、そのすぐ後ろでやはり新聞に目を通していた客が食後のコーヒーを追加注文してきた。ここにいるのはアカツキにとっては馴染みの客ばかりだから、受け答えは実に気軽で適当だ。
「アカツキさん」
踵を返すアカツキを、ナギが呼びとめた。
「準備して、日没後には出ようと思う。私たちがいない間にもし──」
「いいから。こっちのことは気にしなくていい。気が済むまでやって、何かしら納得して、またここに帰ってくればいい。オムライス作って待っててやるよ。シグは……トマトスライスか?」
小さく笑いを噴き出すナギの横で、シグはぽかんと口を開けている。どうもアカツキにからかわれるのが日常化している気がして、しかもそれをとりわけ不快に思わない自分がいる。こういうのを居心地がいいと言うのかもしれない。そういえばここ最近は教会で寝ていないことを改めて思い起こした。
「いや、俺も。……俺も、オムライスで」
「じゃあシグくん専用特製ミニミニオムライスだね」
 カリンがまた、悪気もなくそんなことを言うものだからナギとアカツキの意地の悪い笑いが止まらない。笑いの種にされているのに、シグ自身もつられて笑いがこみあげてくる。
「おーいアカツキ~、コーヒー。自分でやっちゃうぞ、もー」
「悪い悪い、すぐ淹れるよ」
 待たされた客も、しょうがねぇなとばかりに笑っている。ここはそういう誰も苛々しない魔法のかかった場所なのだ。
 カウンター奥に消えるアカツキを見送りながらナギとシグも席を立った。
 完璧な準備が必要とされた。
 手持ちの魔ガンとハンドガンの充分な調整、ラインタイトの補充、護身用にナイフを数本。最小限、しかし充分な量の明かり。事前の腹ごしらえはもちろんのこと、携帯食も準備しておいた方がいい。野戦の準備をしているのだと思えば要領は分かる。その中からシグと話し合いつつ余計なものを削っていった。グングニル上層部の一部の者が、そしてサクヤが短時間で行って帰って来られる場所だということを加味した方がいい。
「後はこれ、か」
 案外に嵩張る、グングニル機関のエンブレムを象ったラインタイト。フェンから預かったものだ。これが第二層以降のパスキーとして機能する。
 荷物の準備が済んだら次は身辺整理と情報整理。三番隊が、つまりはユリィが中部へ発つ前にこの家のことは任せなければならないだろう。それから一番肝心なグングニル塔地下への潜入手引き。協力者は手配済みだ。レーヴァテイン──代表のシスイには今回のことを伝えてある。グングニル機関下層で入手した全ての情報を開示、共有することと引き換えに、地下への潜入を手引きさせた。グングニルの地下資料室はそもそも少尉以上しか入れないよう徹底されているから、まずその扉を開く必要があった。
「外部の……よりにもよってレーヴァテインに頼むってのも、皮肉な話だけどね」
 シグはそういう単純な感想だけを口にする。ナギとシスイがどういう繋がりを持ち、それを互いがどう利用しているかには決して触れない。その態度はナギにとってありがたい反面、無性に不安を煽るものでもあった。
「何?」
「……ううん、何でもない。地下二層より先は少尉クラスも当然シスイも入ったことがない。一般隊員には閉架書庫だとか保管庫だとか言われてるところね。今までは、ファフニールが保管されてたんだろうって漠然と考えてたんだけど……」
「それを論じても時間の無駄でしょ。見に行くんだから、見た方が早い」
「それもそうだね」
 シグのどこまでもあっさりした言い草に、思わず苦笑が漏れた。


 全ての準備を終え、夕刻すぎにはグングニル塔へ向かった。この時間帯なら補給や報告に戻る零番隊が少なくはないから、ナギたちも彼らに紛れて堂々と塔内に入ってしまえばいい。後はシスイと通じているグングニル隊員の指示に従って、隊員宿舎塔の図書室で夜を待った。昼間でも誰も寄りつかないであろう地質学だの鉱物学だのの専門書の棚、それに背中を預けて座り込んでいた。
 今夜は新月、窓の外まで延々と続く闇夜を目にしてそれと知る。
「複雑だよねぇ」
 シグがおもむろに立ち上がる。闇に埋め尽くされた視界にも慣れ、黙りこくっていることにも飽きたところだった。
「今更だって気がしなくもないけど」
ナギは膝を抱えたままで苦笑した。おそらくシグもそんな風に思っているから怒りもしないのだろう。
 レーヴァテインに通じていたのは、整備部の責任者であるロベルト・シーカー大佐だった。レーヴァテインの所持する魔ガンが潤沢であることにも、シスイの持つ情報が豊富で正確であることにも、おそらく彼は大きく関与している。彼らが互いにその立場を利用しているにしても、目的を共有しているにしても、彼らが描いたシナリオの最も危険で重要たる核の部分をナギたちが無償で買って出たようなものだ。付け加えるなら、シーカー大佐とは顔見知りである。グングニル隊員で整備部の世話にならない者はいないから、当然といえば当然なのだが。
 シグは、口を切った割には話を続ける気はないらしい。ナギもようやく重い腰を上げた、刹那。
「こっちの質問もまさに今更って感じなんだけどさ。行けるの、地下」
「何その確認、ほんと今更っ」
不謹慎だとか場違いだとか、そういう意識が一瞬頭をよぎったが、ナギは気にせず笑った。シグはいつからそのことを気にかけていたのだろう、もっと言うなら、いつから他人の心配がきちんとできるようになったのだろう。それがこんな風に土壇場だったとしても、目を見張る成長ぶりだ。
「ここは教会でもカタコンベでもないから」
「狭い、且つ暗いとこじゃなかった?」
「そうだったかな。まあ大丈夫でしょ、シグもいるから」
「……狭かろうが暗かろうが、ひとりじゃなきゃ行けるってこと」
シグは疑問符をつけず、自らに確認をとるように呟いた。それで腑に落ちたかと言えば、全然落ちてなどいない。理解不能とでも言いたげに小首を傾げながら、さっさとエレベーターへ歩を進めた。ナギも今度はすぐさま、その後を追う。
「あ。もう一個、確認」
エレベーターの扉に手をかける。蛇腹式のそれは、少し動かしただけでがちゃがちゃと過剰に騒ぎ立てる代物だった。
「もう後戻りきかなくなるけど……いいんだよね、それで」
「必要性を感じない」
「俺も」
 本来一人用に作られた狭苦しいケージに、二人で無理やり乗り込んだ。格子の向こうには夜の図書室が、足元には無限の闇が広がっている。クレーンとワイヤーが全力で擦れ合う、その振動でケージは不安定に揺れながらも、二人をきちんと地下へ送り届けてくれた。
 空気は冷えていた。部屋というより井戸の中に投げ入れられたような気分だ。脳がそういう認識だから全身に悪寒が走るのは仕方がないことなのかもしれない。
「暗いね……。明かりは、点けない方がいいのかな」
暗いことよりも、寒いことに意識が集中していた。知らず両腕を抱える。
「どこに漏れるわけでもないんだからいいんじゃない? 点けようよ」
 エレベーターを出てすぐの両脇の壁に、どこまでもお粗末な簡易のランプが二つ掛けられていた。シグは迷わず二つのランプに火を灯す。四方の壁には書棚が敷き詰められていた。書棚と書棚の間には煉瓦が見え隠れ。古風だの伝統的だのを通り越して、ただただ辛気臭い。
 シグは僅かな明かりを頼りに、目につく全てのランプに火を灯していった。計八つ。十メートル四方の地下室には充分とは言えない光量だったが、そもそも夜中に開放されていない場所
なのだから致し方ない。ランプがあるだけマシというものだ。
「さ。一応ここも洗い出す? 上官は普通に閲覧できるところだから大して意味はない気はするけど」
「そうだね……そもそもここにあるのは、五年以上前の古い資料ってだけで……」
 サクヤも以前から(趣味で)何度も出入りしていたところだ。それでも、ここに何もないという確証はないから壁面伝いに目を凝らして歩く。とりあえずといった感じで、シグもそれを真似て反対回りに確認作業を行った。ランプの炎が揺れ、映し出される自分たちの影が蠢く。せっかく照らされた場所を自らの存在で覆い隠しているようなもどかしさがあった。
 ナギは各隊の所属履歴や報告書類のファイルの前で足を止め、いくつかのファイルを棚から抜き出した。ランダムに、ではない。シスイ・ハルティアがグングニル機関に入隊した821年、ヘラ・インシデント前の最後の記録824年、そしてインシデント後の828年、その一番隊と二番隊の名簿だけに目を通した。825年から827年の記録はサクヤが言っていた通り、はじめから存
在しなかったかのように抹消されている。
(ヘラ・インシデントがグングニルの闇に関係してる……)

 ──ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい? ──

 声が響く。頭の中で。
 ニーベルングは、空の亀裂からグングニル塔がある東へ侵攻し続けている。大襲撃を受けたヘラもヨトゥンも、その軌道上に位置する大都市だ。それだけで説明は事足りると思っていた。イーヴェル区という矛盾を指摘されるまでは。
「何かめぼしいものあった?」
シグが上から顔を覗き込む。二番隊の名簿を虚ろに眺めたままのナギも、かぶりを振ってファイルを棚に戻す。
「逆。ヘラ・インシデント前後の記録が抜け落ちてる」
「ヘラの資料なら上にもあるじゃん」
「あんな後世のための資料~みたいなのじゃなくて、生の報告書。……ここに無いとおかしいでしょ。二番隊隊長が作ったはずのものが」
 824年と828年のファイルは一切の隙間なく敷き詰められている。ナギは、その本来あるべき隙間の位置を指さした。二番隊隊長、と言ってはみたが当時の隊長が誰なのかさえ自分たちは知らない。
「ここに無いなら下にあるんじゃないの」
壁にかけたままにしていたランプのひとつを取って、シグは隅にある鉄扉を照らし出した。おそらくは煉瓦と同じような赤茶けた色で、蝶番付近に見慣れた形の窪みがある。絡みつく二頭の翼竜を貫く一本の槍──グングニル機関のエンブレム、同じ形のものが二人のジャケットの襟にあり、またナギの手元でも揺れていた。
「ぱっと見、物置かなって思う」
「だから誰も気に留めないんだろ。俺が昔聞いたときは、緊急時のシェルターじゃないかとか言ってた奴居たよ」
「私は地下牢があるとかって聞いてたよ?」
「地下牢って……勘弁してよ」
 割にあっけらかんとホラーな考えを披露してくれるナギ。地下も暗闇も駄目なくせにこういう肝だけは座っているのが彼女らしいと言えば彼女らしい。
 他愛のない話で誤魔化しながらフェンに譲り受けたエンブレム型のラインタイトを嵌めこむ。冒険小説に出てくる謎解きだの仕掛けだのを解いている気分だ。が、高揚感は無い。緊張ばかりが増幅されて手が震えた。蝶番を外し、扉を押しあけたのはシグだった。
「階段か」
 地獄へ続くような、ただ暗い、先の見えない下り階段があった。シグはランプをもう一つ取り外して先陣を切る。切ってすぐ、つまりは下りて二段目だか三段目だかで振り返って、微動だにしないナギにランプを持ったままの手を伸ばした。
「つなぐ?」
「……なんで」
「だって恐いんでしょ、こういうの」
「カタコンベじゃないから平気だって言ってるでしょ」
伸ばされた手からランプだけを奪って、ナギはシグを追い越した。シグはシグで、あっそうなどと半眼で見送るだけだ。
「カタコンベだって用途は地下シェルターなんだから、似たようなもんだと思うんだけど……」
「あのねえ。別物だって今、けっこう一生懸命刷り込んでんの。似てるなんて言いだしたらおしまいでしょ?! そういうとこに気まわしてくれると大変ありがたいのですがっ」
「それは、すいません」
「分かれば宜しい」
「じゃ、気分悪くなったら言って。そういうの、言ってくれないと分かんないから。今は特に」
 立ち止まったナギを追い越して進むと、小部屋のような空間に出た。シグが持っていたランプひとつで全体をぼんやり照らすことができる。地下一層の資料室の半分ほどの面積だろうか。天井も第一層より低く、3メートルあるかないかという程度だ。ひとまずカタコンベでもシェルターでもなく、地下牢でもないことは確かである。
「記帳台があるね。ランプも」
ナギの分も合わせて三つ。小部屋は充分に明るく、細かい文字に目を通すことも苦ではなさそうだった。ナギの緊張状態も多少は緩和されたようだ。ただ、閉塞感だけはぬぐいきれない。そしてこの小さな空間に渦巻く、例えようのない嫌な空気も。
「さ、まずはヘラの記録? 片っ端からめくってもそんなに時間はかからなそうだ」
 資料棚は二つ。天井から床まで余すところなく敷き詰められているが、総量は多くはない。一人が一つの棚を担当することにした。背表紙には何も記されていないから、面倒だがひとつひとつ手に取って頁を繰る。
 暫くは頁を繰る音だけが場を支配した。しかしその暫くという時間は、そう長いものでもなかった。シグが踏み台を下りて、ナギの後方から一冊のファイルを差し出す。
「ヘラ」
 挨拶でも交わすように、あるいは何かの合言葉のように、シグは無感動にその言葉を口にした。そのファイルは一冊で一年分をまとめたような分厚さで、頁を繰るにも注意が必要だった。細心の注意。だから指先が震えるのは条件反射みたいなものだと割り切ることにした。
 それは、地下第一層の資料室から不自然に消えていた“二番隊によるヘラ・インシデントの報告”ファイに間違いなかった。そこには事細かに捜索箇所と進捗状況が記されている。彼らはニーベルングの巣窟と化したヘラで、討伐ではなく人命救助を最優先に動いたようだった。捜索三日目に隊員二名が殉職している。四日目には放棄した地区名が並び、五日目にはいくつかの死体を発見。六日目以降はその繰り返しが続いていた。
 ナギはそこに書かれた所感を、指でなぞった。覚えのあるフレーズだった。
「遺体が、少なすぎる」

  ──ナギは、ヘラ・インシデントが何故起こったか考えたことがあるかい? ──

「ナギ……?」
サクヤの声が脳内を反響する中で、シグの心配声が遠くに聞こえた。
 サクヤはあのときそう言って、イーヴェル区の話を始めた。遺体が無く、綺麗過ぎた現場。そこに横たわる矛盾と絶対的な違和感。それらの糸を手繰り寄せ、ファフニールが使用されたのではないかという仮説を立てた。思い出す限りそういう流れの会話だったと思う。
 では何故、彼は話のはじめにヘラ・インシデントを引き合いに出したのか。
 ナギは遠ざかるシグの声を無視して、夢中で頁を繰った。七日目、発見したのは二名の遺体。八日目、無し。九日目、一名。九日目の所感には、次のように記されていた。

   今まで収容した遺体は全て、重度のニブル病患者のものであった。ニーベ
  ルングが人体を食らうという事例は上がっていない。ヘラのニーベルングだ
  けがそのような特性を持つのだろうか。それにしても様子がおかしいように
  思う。上層部の調査結果を待つ。

「ナギ、ちょっと深呼吸して」
「……え」
「いいから、深呼吸」
 ファイルを取り上げられた。だからというわけでもないが言われるままに深呼吸をした。大きく吸ったはずの空気はほとんど肺を満たさず、吐いたつもりのそれは唇を震わせただけだった。
 シグはナギの様子を横目に、取り上げたファイルを手ずからめくる。捜索は史実通り十四日間で打ち切られていた。十四日間の活動報告の最後に、別途書きなぐりのようなメモが挟みこまれている。一度丸めたのか、はっきりとした皺が刻まれていた。どう見ても、正式なものではない、なのにここに一緒に保管されている。理由は一目瞭然だった。
「『捜索初日に保護した子どもについては、一切他言無用。生存者は零として報告を上げる』これって……まさか、ヘラの生き残り……?」
シグの抑揚のない音読に、ナギも青い顔を上げた。
「そう、だね。そうだと思う。記録は他に……?」
「ひとまずこのファイルには無い。……それより、息。できてんの、ちゃんと」
「できてる、ありがとう」
微笑むと同時に冷静に、冷酷に事実を咀嚼した。
 ヘラ・インシデントはファフニールによって引き起こされた。ナギがそう確信したのは、イーヴェル区と同じく遺体が少なかったからではない。そうでないと説明がつかない“現象”を、彼女はその目で見てその心に刻んでいた。
 ヘラの教会、その地下のカタコンベ、そこで母はニーベルングと化しグングニル隊員に討たれた。
 人体は大気中のニブルで一気にニーベルング化などしない。ニーベルングの体内から吐かれたニブルでも同様、ニブル病を急性的に発症しはすれども、肺をはじめとする内臓が硬化するに留まる。そして人は、それだけで死に至る。
 人が瞬時にニーベルングと化すときは、有り得ない高濃度のニブルを爆発的に大量に摂取したときだ。その条件を満たせるのは、ニブルの申し子であるニーベルングではない。人が産み出したファフニールという魔ガン、唯一それだけである。
 ナギとシグは手分けするのを止め、一冊一冊のファイルを二人で揃って覗きこみ始めた。ヘラの生き残りに関すると思われる記述は、その後何度か登場したがどうにも曖昧で、腑に落ちない点が多い。ナギ自身にも全く覚えがないものばかり。そもそもヘラ・インシデント後の彼女の記憶は霧がかかったように頼りないもので、頭の中できちんと形作られている次の光景は、既にニダの牧場でディランたちと暮らしているものだ。
「このネタバレ満載の資料庫でも、ヘラの生き残りに関するものはごく僅か。相当徹底して隠ぺいしたんだろうね。善意か悪意か知らないけど……あるいはそう単純なものじゃなくて、そうすることで利益を得る人間がいたのかも。……にしても、こっちまで混乱してんじゃん」
 シグが苦笑する通り、ヘラの生き残りらしき子どもは容姿、性別が箇所箇所によって異なった。少女と書いてあることもあれば、少年と書いてあることもある。黒髪だったり金髪だったり、肌の色までその都度違う。
「大事に隠匿して、こんなとこに保管しちゃう情報として、この適当さはどうなのかね。だから都市伝説扱いされるんだよ」
「そういう情報操作なのかな」
「だとしたら勲章もの」
 シグは今までよりも慎重に、今までと趣の異なる分厚い本を取り出した。鍵付の日誌のようだったが、鍵の部分は既に壊れている。誰かが無理にこじ開けたように見えた。
「……サクヤ、かな」
「その前にもいたかもよ?」
それは正しい見解だと思った。ここに入るために必要とされたグングニルのエンブレムは、もともとフェン・アルバートから預かったものだ。ということはフェンは、この資料室の内容は全て知っていたと見るべきである。グングニルの創設に関わった者がこの資料庫を封印していたのだとすれば、当然、容疑者はフェンだけに留まらない。
「総司令は……もちろんこの資料庫のことを知っている」
「じゃないとつじつまが合わないからね。知ってるっていうか当事者じゃないの」
記帳台の上に日誌を広げて、躊躇なく頁をめくった。

   アルバ暦809年、盃の月18日。
  政府の正式な依頼を受け、ムスペル地区の病の調査を開始した。病の症状は
  様々だが、主に呼吸器に異常が認められる。何かしらの大気汚染が最有力と
  され全調査員はマスク着用が義務付けられた。
   事前の報告通り空には「亀裂」があったが、そこから現れるという魔物に
  出くわすことはなかった。そもそも本当にそんなものが存在しているのかも
  疑わしい、とそのときはまだ思っていた。しかし調査三日目にして我々は魔
  物と接触してしまった。有翼、灰色の個体。体調は3メートルほど。病の原
  因は、この魔物の吐く霧状の息にあると思われる。これを仮に「ニブル」、
  魔物を「ニーベルング」と称する。

   同21日。
  ニーベルングに接触していない集落で病状の進行が著しいことを受け、付近
  の森を再調査する運びになった。正確な位置は記せないが、森の奥深くで
  我々はニブルの根源である。「鶏」と「卵」を発見。この弱った鶏が絶命す
  れば、卵が孵化してしまう。かといって助けるわけにもいかない。結論から
  言って捕獲・監禁する他、策はない。
   鶏を管理するための土地はロイが準備することになった。私とアルバート
  は、このおぞましい卵を封じるための策を講じる。と、書きながら不思議に
  思うのだが、私たちは誰ひとりとしてこのことを公にしようとは言いださな
  かった。この空から降ってきた脅威は、人類の力に変えることができるので
  はないかという、研究者としての本能がそうさせたのだと信じたい。それも
  突き詰めれば私利私欲の類ということにはなるだろうが。

   同24日。
  アルバートの助言通り、ムスペル地区の病の原因を「ニブル」、その発生源
  は「ニーベルング」であると上層部に報告。嘘の報告をするわけではないか
  ら気に病むことはないが、隠し事があるというだけで私などは気が気でなく
  なる。その点、ロイはやはり凄い。ニブルやニーベルングへの対応策を提出
  し、それ専用の組織を立ち上げるところまで話をつけてきた。私も「卵」を
  覆う外殻の考案をまとめたところである。この外殻が完成すれば、ひとまず
  これ以上の病の進行や新たな発症はないと思われる。ニブル研究はそれから
  となろう。

「……確認、していい?」
「どうぞ。遠慮なく」
最初の頁を読み終えたところで、ナギが切り出した。
「この……“ロイ”っていうのがグンター総司令のこと、だよね。ロイ・グンター。で、“アルバート”は……」
「フェン教授だろうね? そりゃ。偽名くらい使えばいいのに。自尊心高すぎ」
「それじゃあこれを書いてる“私”は、総司令でもフェン教授でもない誰かってことよね」
「……そうなんじゃない」
 当たり前のことをいちいち確認し合わなければ、こうであってほしいという願望に流される気がした。
「グンター総司令とフェン教授、それにもうひとり、この日誌を書いた調査員は、ニブル研究を独占するために“鶏”と“卵”の処理を秘密裏に進めることにした。そこまでは分かる。でもその鶏とか卵ってなんのこと? 何かの暗喩ってわけでもないだろうし」
「鳥の名前でしょ」
「や、それは知ってる」
「じゃあある程度は予測できるんじゃない。俺たちが知ってる、鳥の名前がついてる鳥じゃないものなんて一つしかない」
 固唾をのむ、その挙動にこんなにもはっきりとした効果音がつくなど思いもしなかった。恐怖だの緊張だの、そういうものはもう臨界点を突破して身体はとっくの昔に麻痺している。だから今更震えもしないし鼓動も早まらない。思考が鈍っているなとは感じた。加えて、然るべき反応というやつが、やけに遅れてやってくる。
 鳥の名をあてられた、最初のニーベルング──それが鶏なのか。ニブルの根源と記されていた。では卵とは、何を指す?
 麻痺した恐怖心と指先は、機械のようにただ先の頁をめくる。

   冠の月3日。
  卵【エッグ】を覆い隠す外殻【ファフニール】が試作品ながら完成した。こ
  れでニブルの拡散は防げる。今後はこちらの思い通りにニブルの調整と研究
  を行えるということである。ムスペル地区の経過観察も並行して行う必要が
  あるから、私は中央に帰らずこのまま西部に居を移すことになった。

   賽の月10日。
  三日前にようやく【グングニルの塔】が完成した。鶏はその地下深くに監禁
  し……というよりも、鶏を地下に閉じ込めたその上に、カモフラージュとし
  て建てたものがあの塔である。当初ロイが発案したものよりも随分厳めしく
  重厚に建てられたようだ。建設に直接関わった■■■など数十名に事の次第
  は知れているらしいが、イニシアチブをとられることにならないか懸念され
  る。ロイにはうまくやる策があるようなので、この件は彼に任せるのが良い
  だろう。しかし、ロイはこのままニブル研究から手を引くつもりなのだろう
  か。グングニル機関の運営や空の亀裂を塞ぐ方法論などは我々の分野ではな
  いように思うが、……彼にはそういったものの方が合っているのかもしれな
  い。

 その先は不自然に白紙が続いたから、シグがぱらぱらと頁を進めた。 
「待って」
何が書いてあるわけでもない、やはり白紙の頁でナギのストップがかかった。
「待って。待って待って待って待って。追いつかない。何の話? 何が塔の地下に……地下って、ここよ?」
「そうだね、ここ。まだ下があるみたいだし」
「待ってよ……。その、鶏が、ここに監禁されているってこと? いつから? 今も? 今も……この下に、居る……って、こと」
「見てみないと分からない」
「外殻って何……ファフニールはそもそも魔ガンでもないって……そういう……」
 シグが答えなくなった。当然だ、彼が全てを知っているわけじゃない。ナギ自身も何が言いたくて口を動かしているのか分からなくなっていた。この古い日誌に淡々と綴られた闇は、まるで希望の光のように扱われていた。それが頭の先から爪の先まで、流れる血が逆流したかのように気持ちが悪い。
 結局日誌はその後、白紙のまま終わっていた。シグが丁寧に棚に戻すその横で、ナギは同じ列にあるファイルを片っ端から抜き出した。
「ナギ、ちょっと」
 鶏の詳細な経過報告──数冊に渡るわりにはどれもこれも似たようなことが書いてある。鶏の細胞と別個体のニーベルングの細胞比較、解体ショー、解剖結果──どうでもいい。ムスペル地区のニブル病患者の病理解剖──ニブル成分の報告ばかりが成果として挙げられている。その猛毒性、致死性、そして細胞変化を促す神秘性、全てがここには財産として記された。
 ナギが探しているのは狂人が愉悦に浸って残した記録などではない。“ファルニール”があれから出てこない。一心不乱にファイルに目を通した。その甲斐あってか、求めていたものは出番を待ち焦がれていたかのように無防備に目の前にやってきた。
「イーヴェル区における、魔ガン【ファフニール】の実験、結果」
探していた単語が全て綺麗に出揃ったので、声に出して読んだ。どれもこれもなじみ深い単語ばかり、なのにそのどれもがわけのわからない異国の言葉のように響いた。
「前回同様、137名、すべてニーベルング、化。Bルート進化は確認できず。……イーヴェルは放棄。……ガンナー異常、なし」
かいつまんで声に出した。異国の言語、知らない単語、それを恐ろしいものだと感じるのは本能からか。
 パンドラの箱から闇は勝手に飛び出さない。溢れ出ることもない。それらはひとつひとつ丁寧に、蓋を開けた者が取り出していく仕組みだった。
「837年詩の月、1日、ミドガルド郊外における……」
 837年詩の月1日──頭の中のカレンダーがひとりでにあの日に戻っていく。戻りたがっていた。誓願祭の夜にサクヤがくれた特別でも何でもない言葉たちを、何度でも拾いに行ってしまう。そしてそれ以外のものを全て、自分は取りこぼしてきた。だから今度は、何一つ見過ごさないように脳内であの日をやりなおす。
 疲労の残る身体を無理やり起こして、しっかり朝食を摂った。サクヤの様子を見に医務室へ顔を出し、寝転がったままの横着な彼とスケジュールの確認。イーヴェルの報告書を代筆するため、指示を仰いだ。それから報告書に取りかかり、合間に隊員たちと雑談。重症だと言い張るバルトをアンジェリカと共にケアし、シグを探してうろうろしているところをリュカにからかわれ、サクヤから本の差し入れを頼まれたサブローを手伝った。そうだ、あの日は手が回らなくて、マユリに整備部に行ってもらって魔ガンの調整を頼んだのだった。昼遅くから始まっ
た功労賞の叙勲式には、サクヤを除いた全員が出席した。あれも全員揃えるのにわけのわからない苦労をした覚えがある。確かに究極に気だるい儀式ではあった。
 叙勲式を終えた後から翌朝までに起こった出来事、会話した人物、その内容をナギは事細かにやりなおした。本当はそこまで子細に確認する必要などないのだと分かっている。探していたのは、何かの間違いだと言えるほんの少しの可能性だ。しかしそれは、どの記憶をまさぐっても、やりなおしても見当たらない。
 もっと早く、いや、はじめから──気付くべきだった。“あれ”は、誓願祭の夜のできごとだったのだ。
「ミドガルド郊外における粛清14名。いずれもBルート進化は見られずニーベルング化。中部第一支部二番隊、三番隊、本部六番隊にて早期討伐完了」
 先刻よりも随分落ち着いて読み上げることができた。 
「サクヤが調べていたとおり……イーヴェルは、ファフニールの実験で壊滅したんだ。Bルート進化……? 生き残るか残らないかって意味?」
「ニブルに適応する細胞進化、じゃないの。ヘラの生き残りみたく」
「あー……なるほど、そういう実験。実験かあ……撃ったなぁ私。イーヴェルで、何人も何人も何人も何人も……人を撃って、殺しちゃったのか」
 それを認めたくなくて、信じたくなくて、サクヤの仮説を根こそぎ否定した。今ならそれがよく分かる。グングニル機関とは、体の良いスケープゴートで殺人者の派遣機関だった。
「別にナギだけがってわけじゃない。そもそも正当防衛だし」
シグは資料棚の横、床上ぎりぎりに設置された排気口のような蓋を手際よく取り外した。更なる闇が広がっている、かと思いきやそこからは白い明かりが漏れていた。少なくとも、今いる地下第二層よりもはるかに明るい。
「行く? それとも帰る?」
お決まりのように馬鹿げた質問をするシグ。
「何が見える……?」
「何も。下に続く鉄製梯子、長いやつ。ランプは要らないかもね」
「先に行っても……?」
「どうぞ?」
 ナギが覗き込んだ穴の中は、明らかに人口の物と思われる安定した明かりで満たされていた。入り口がこうだから穴、と一度は称したが梯子はおそらく10メートル以上あり、そこに広がる空間は造船工場かという規模である。
 ナギは迷わず梯子の最初の段に足をかけた。壁際、床に垂直に設置された鉄製梯子は、それそのものは頑丈そうだが、あまりにも風通しがよすぎる。緊急用というわけでもないらしい。そもそも使用することが想定されていない梯子なのかもしれない。
 鉄を踏む無機質な音がリズム良く反響する。視線は足もとだけに集中、後はピントをずらす。そうして数分、一定の速さを保ち降りつづけたところ程なくして床を踏みしめる感覚を覚えた。──床だ。むき出しの土ではない、人の手で整備された固い床。
 着地して、振り向いた。同じ動作をシグもとっていると思われる。二人は何も言わなかった。想像を絶する光景、というのは少し違うかもしれない。想像するための材料を何一つ持っていない状態でここへ来た。今までの人生で培ってきた価値観、倫理観、世界観、そういうもの全てが通用しないことだけはすぐさま理解した。生まれたての赤ん坊のように、ただ眼前に広がる世界を呆然と見つめた。全景を把握するには、首を縦に何度か往復させねばならなかった。最大等級だと思っていたサギよりも、遥かに巨大。
「コンドル級の上の上……って、等級とか必要ないか。これがはじまりの一体なんだろうから」
 倒れる前の巨木の根。干からび、骨と皮だけで存在を保つミイラ。それが、はじまりのニーベルング【鶏】の姿だ。拘束具と思われる巨大な鉄の塊が両足にあったが、もはや必要ないのではないかというほどに衰弱しきっていた。
「生きてる……」
「だね。ご立派にニブル吐いてる」
ナギの呟きに、シグは皮肉の笑みで返した。口元から漏れている濁った霧は、間違いなくニブルだ。その口が、皮だけの首元が、僅かに動く。そしてその声は響き渡った。
「ようやく、殺しにきたか」
 誰が──その言葉を口にしたのか、確認するまでもない。人は声帯を震わせ、舌と唇で空気の振動を操って言葉を発する。唇を真一文字に結んだまま、話すことはできないのである。
「喋った……人語が、解るの……?」
「解るとも。階級の高い者は、皆、早々にお前たちの言語を理解する。我々が言語を持たないと勝手に解釈したのはお前たちだ」
「どうせ理解するなら、もう少しましな話し方学べば優しくしてもらえたかもしれないね、あんた」
 シグはすぐに状況に適応してみせた。無礼に無礼で返すほどの余裕をみせる。力関係は歴然であったからこその平静なのかもしれないが。
「……要求は一つだけ。私を殺してほしい。解放してほしい、ただそれだけだ」
「解放」
 その言葉はおそらく正しい。鶏は四肢と翼を鉄鎖につながれ、ここに活かさず殺さずの状態で拘束されているのだ。であれば、何故「逃がしてほしい」ではないのか。
「この身体で逃げることはもうかなわない。自由が利くのは首から上だけ、その下の感覚はとうにない。……もっとも、繋がれているのは私ではなく、お前たち人間の方かもしれないが」
「私たちが繋がれている……」
「そう、忌まわしき欲という名の鉄鎖で。私とエッグを手中に収めてしまえば、この世界では全ては意のままだ。ニブルで人々の恐怖、救済、審判、粛清……神の裁量で行われてきたものを全て制御下に置くことができよう。事実そうであったろう? この塔を建てた男はそう望み、実行してきた。欲の忠実な僕としてな」
 グングニル機関総司令、ロイ・グンターのことを言っているのだろう。例の日誌にロイのその後は書かれていなかった。が、彼が純粋にニブルの研究欲にだけ捕らわれていたのなら、ファフニール実験などというものはなされなかったはずだ。
「ニブルの発生源、と書かれてた。エッグとは、そもそも何なの」
「我々種族の王……つまり私が産んだ、文字通り【卵】だ。中には次代の王を含む孵化前の全てのニーベルングの子どもが詰まっている。殻の内部では、既存のニーベルングとエッグの中の雛のための栄養素であるニブルが絶えず生成され、放出される。……分かるか? 何故、ニーベルングがこの塔を目指し、人間を襲うか」
「エッグが無ければ……滅びるしかない、から」
 次代の命が、生きるための糧が、全てつまったニーベルングにとって世界そのもののような【卵】、それをロイはコントローラーとして用いることを思いついた。秘密裏に王を監禁しニーベルングの標的を人間へ、グングニル機関へ向ける。いとも簡単に絶対悪のできあがりだ。人々の敵意と憎悪は全て彼らニーベルングに向くよう仕向けた。怯える者、意思を持たない者は救いの手を差し伸べてさえやれば簡単に手なずけることができる。こうして、グングニル機関というロイ・グンター自作自演の世界の舞台装置ができあがったというわけだ。
 知らずかみしめていた奥歯が、不協和音をたてていた。
「あなたの言う鉄鎖を、今ここで断ち切ったらどうなるの」
 ニブルを垂れ流していただけの鶏の裂けた口が、会心の笑みを浮かべるようにじわりと動いた。
「私を殺せば、エッグとしての機能が止まりニブル生成が止まる」
「ニブルが無くなる……?」
 それはつまり、ファフニールという存在が機能しなくなるということだ。はじまりのニーベルングを討てば、全ての連鎖が断ち切れる。ニブル病も、ニーベルングの強襲も、グングニルの闇もすべて終わらせることができる。最善策だと思った。しかし一つ、大きな疑問が残る。これが最善策なら、なぜサクヤはその道を進まなかったのか──。
「くっ……ははっ」
 堪えに堪えた笑い声が、地下室に響く。シグが顔を背けて笑っていた。
「あんたペテン師の才能あるよ。黙って聞いてれば今のところ、相当かわいそうな完全なる被害者だもんな」
「シグ……?」
「その厄介な【エッグ】と一緒に亀裂の向こうからこっちにやってきたのはなんでだよ。観光じゃないよなあ? 侵略するのにのこのこ大将が出てくるのも聞いたことがない。……何の力もない人間にあっさり捕獲されるほど弱ってここへ来たのは何故か──逃げてきたからだろ?」
「──そうだ。亀裂の向こうの我が国家では、エッグを産みおとすものを絶対とする王制に異議を唱える者が出始めていた。国は二つに割れた。すなわち、今の王政を擁護する者と新しい王政を唱える者。私は臣下の手引きで空に亀裂をつくり、このアスガルドへ逃げてきた。……一時的な避難のつもりだった。無事、エッグを産み、次代の礎ができればそれで良かった」
「力のある対立者に真っ向から立ち向かうより、さっさと新しい土地で新しい国家開いちゃった方が楽だもんな。……なあ、あんたまだ、言ってないことがあるよな? 王であるあんたが死ねばエッグの機能が止まる、だったっけ? いい言い方思いついたもんだな。でももっと正しい言い方がある。あんたが死ねば、エッグは機能を停止して次代のニーベルングとやら全てが孵化して飛び出してくる。新ニーベルング国家誕生、一件落着。最悪これであんたの望みは果たされるわけだ。こんな仕打ちまでうけて、人間に肩入れする理由は一切ないだろうからね。……悪いけど、あんたを楽にするわけにはいかない」
「好きにすればいい。私とて体内のニブルが無くなればいずれ死ぬ」
「だからさぁ……そういう煽り、勘弁してくれない? 何のために定期的にニブル供給してると思ってんの……」
「……シグ」
 地下第三層へ来てからずっと、気になっていることがあった。
「ナギは? 他にもうこれに聞きたいことはない? 無いならそろそろ戻ろうか」
何故、シグはマスクもせずに立っていられるのか。鶏の体内から絶えず吐き出されているニブル、そしてそれ以前に、はじめからこの空間に充満しきっていたニブル量は戦闘時をはるかに上回るものだ。
「あなたに、聞きたいことがある」
「俺?」
 本当は何も聞かなくてもいいのかもしれない。その方がいいに決まってる。だって一度蓋を開けたら最後、中にぎっしり詰まった闇は、ひとつひとつ血を吐きながら取り出さねばならないのだから。
 シグはちょっとだけ肩を竦めてナギの言葉を待っていた。ナギの唇が動くのを辛抱強く待っていた。だからもう後戻りはできない。ナギは喉元までこみ上げてきた何かを、言葉に変えて吐きだした。
「去年の誓願祭の日。あなた、どこにいた?」

episode xii 神か屍

 シグの様子に変化はなかった。驚愕もしない、不快を顕わにもしない。平静を保つのに全神経を動員しなくてはならなかったのは、むしろナギのほうだった。
「詩の月1日、誓願祭の日。叙勲式の後シグがどこに居て、何をしてたか」
「詳しく話したほうがいいの? それ」
ようやくのシグの反応は、ナギが思っていたものとはかけ離れていた。
 たった今、自分はどこまでも場違いな質問をシグに向けて投げた。脈絡はない。そこに脈絡というものが生まれているとすれば、それはナギの質問の意図を正確に捉え、かつ肯定しているということだ。
「シグ……」
「ミドガルドの外れにいたよ。もともとそういう予定だった。何をっていうほどのことは何も
してないんだけど……。魔ガンの引き金引は引いたよ、一回だけ」
 シグの様子に、変化はなかった。いつもと同じ、皮肉めいた物言いに落ち着き払った声。ナギの言動を嗜めて、アカツキにコーヒーを頼むときと大差ない態度だ。それが吐き気を催すほどに、ナギの中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。ずれている。ねじれている。シグがいる空間だけが無理やりに裏返ってしまっている。
 ナギの視界はぶれていた。焦点が定まらないその瞳の中で、シグがまたいつもどおりにナギの名前を口にする。ずれているのはナギ自身のほうかもしれないと思わされるほどに、彼には一点の動揺もなかった。
 シグにはそもそも隠す気がなかった。言い逃れができないから観念した、というような絶望感からくる投げやりな態度ではない。シグはもう随分前から、この瞬間が来ることを知っていた。これが正しい道筋であるとさえ思っていた。だから何の躊躇いもなくナギの手を引いて、グングニルの底までやってきたのだ。
「俺、ここに来るのは初めてじゃない」
 シグは視線だけで鶏を指す。
「覚えてるか」
「……ここを訪れる人間はごく僅か、限られている。お前のことは覚えている」
「俺じゃない。お前を助けようとして、ここで撃たれた女のことだよ」
 鶏は一拍置いて、覚えているとだけ口にした。イエスであろうがノーであろうが、その回答はシグを満足させるものではない。シグにとっては、眼前の干からびたニーベルングこそが、ねじれの中心だった。
「話して、シグ」
「長いよ?」
 今までに味わったことのない虚脱感と倦怠感がナギの全身を取り巻いていた。シグのどうでもいい確認に頷く気になれない。その目を見返す勇気が出ない。
「昔、昔、大昔。まだ俺が生まれて間もない頃、コレを助けようとしたひとりの馬鹿な女がいました。グングニル機関総司令ロイ・グンターの妻、二番隊のホープでジークフリートの使い手、名前はイオリ。イオリ・グンター。……シグ・エヴァンスの母親」
シグはまるで他人事のように話しはじめる。どこか遠い、知らない国の物語でも紡ぐように。
「シグのお母さん……」
 その後に続くはずだった確認の言葉を、ナギは無意識に呑みこんだ。その女性がシグの母親であるなら、父親が誰か改めて問い直すまでもない。
「女は何も知らずにグングニルに入隊し、ロイと結婚し、子どもを産んだ。まあつまり、ここにこういうのが幽閉されててニブルもニーベルングも自分の夫が呼び寄せてたって事実ね。そういう事実をわざわざ教えてくれたおせっかいな男がいた。……あの日誌を書いたのは、たぶんそいつだと思うんだけど。まあそれはどうでもいいか。イオリはとにかく馬鹿がつくタイプの正直者だったから、事実を知るなりロイを告発しようとした。けど、当然失敗する。ジークフリートも剥奪されて全くの役立たず状態。……そこで大人しく引き下がっておけばよかった
んだろうけど……彼女は謀反を起こした」
 シグにとっては記憶とも呼べない遠い昔のただの事実──記録だ。他人から聞かされた、おそらくは真実とは多少の食い違いのあるもの。それでも現在という結果に齟齬が生じないのだから、それは記録として一定の客観性があるものだと信じられた。
 一方、その事実を記憶として知っているのが鶏。それも彼にとっては、つい最近の出来事のように鮮やかに思い出せるもの。記憶の中のその女を、鶏は「人間」とは別のカテゴリに分類していた。彼が知る「人間」は強欲で短絡で、利己的で残虐だった。それらの性質をまるまる持ち合わせないその女を、同じ種別として認識するのは間違いだと考えた。
 ほんの少し前の記憶を検索する。愚かにも孤軍奮闘する女の姿がありありと思い出せた。


「──あなたを助ける。人間のこと、憎んでると思うし信じられないと思うけど……虫のいい話だって思うかもしれないけど……。どうか元いた場所へ帰ってほしい。ここはあなたの居るべき世界じゃないのよ」
 女は、イオリは、彼女は言った。震える腕で、鶏につけられた無数の拘束具と鎖を外していく。女の愚直と献身を、ニーベルングの王はただ冷ややかな目で見ていた。何をたくらんでいるのか知れない。この、一見して何の力もない、地べたを這いずりまわるだけの汚らわしい種族は、智慧だけは恐ろしく進化していることを既に知っていた。己の欲を満たすために、他を欺き、陥れ、一方的に搾取することに長けたおぞましい生き物だ。
「なんで、逃げないの」
「残念だが私はもう飛ぶことができない。お前たちの持つ“魔ガン”とやらで私を撃てば、それですべて終わる」
 解放してくれるというのであれば、それが最良の手段だ。王が死ねば、卵は孵る。それで責務は果たしたと言えるだろう。
「本音を言えば私だってそうしたいわよっ。でももう、私には魔ガンがない。私には何の力もないの。だからお願い。飛んで……」
「悪いができない相談だ。この骨子だけと成り果てた羽根を羽ばたかせたところで、身体が朽ち果てるだけ。私を殺さないのであれば去るがいい」
 なるほどこの個体は、今までのどの人間とも違った思想を持っているようだ。だからと言ってそれが何になるわけでもない。事態を動かせる力のない弱者。それは囚われた自分も同じであることに思い至ると、少しだけ眼前の女に興味がわいた。
「この部屋には微量とはいえ、私が吐いたニブルが充満している。早く脱出せねば、お前の身体を蝕む毒となるだろう」
「だから……! わかんない奴ね、言葉通じてる!? 私だってそうしたいのは山々だって言ってんでしょうが! でもできない、したくない!」
「……理解しかねる」
「そう? そうでもないと思うわよ。私ね、息子がいるの。とっても頭が良くってとってもかわいくって目に入れたって痛くもないの。分かる? あの子が生きる時代を、血なまぐさい嘘で塗り固めるわけにはいかないのよ。だから──」
 この空間に満たされていたニブルは、微量とはいえないものだった。おそらくはそのとき既にイオリの身体を侵食していたはずだ。その弱りきった身体を、小さな鉛の塊が貫通した。視界には見飽きたいつもの「人間」が数名。熱を帯びた鉛の塊は、イオリの身体を通り抜け鶏の皮膚にも届いたが、泥団子を投げつけたように細かく爆ぜただけでニーベルングの皮膚装甲に傷はつかない。
 力なく崩れ落ちる女を見て、やはりというかなるほどというか、人間だなと思い直す。呆れるほどに脆弱だ。 
 イオリは鶏の足を支えにして、かろうじて不様に立っていた。
「何故立つ?」
仲間に撃たれ、取り囲まれ、勝機は一寸たりともない。理解不能の光景に思わず疑問符がもれた。
「だから……死ぬわけにはいかないって言ってるでしょう、ほんと、鈍い……。あなたと同じよ」
「同じではない。私は死にたいと言ったのだ」
「そうじゃないでしょ。犬死にはごめんだって言ってるの。あなたも……そう、ただで、死ぬものかと思ってる……」
 この女は心が読める。そういう意味でやはり人間とは言えないのだろうか、と再び混乱をきたす。鶏は分類を諦め、ただ自分と似て非なるものとして認識を改めた。それは永遠とも呼べる長い時間生きながらえるしかなかった鶏の幽閉生活の中では、興味深い刺激物だった。
「そうであるなら、お前も醜く不様に生きながらえるがいい」
 地下に閉じ込められてからほとんど始めて、鶏は大きく深呼吸をした。体力を使う。気力も使う。ただ鶏にとってはその程度の浪費にすぎない。この息を吐くだけで、この空間にいる人間を一人残らず片付けることが可能だ。人間とはかくも脆弱、そして愚かなのだから。


「女は逃げ延びた。その後、女がどこへ行き、どう生きたかは私の知る由ではない」
「……あんたが思うとおり、不様に生きて不様に死んだよ」
 シグの言葉は、実の母親を語るにはあまりにも冷酷なもののように思えた。いや、そうではない──憎悪や侮蔑がそこにないことくらいは、ナギにも分かる。だからこそ違和感がぬぐえないのだ。シグは今自分自身のことを語っている。なのに何故、こうも主観が入らないのか。
シグが口に出す言葉は、思えばいつも「外から見ている人」のようだった。
「イオリは、一人息子をつれて知人のもとへ逃げた。彼女に事実を教えたおせっかいな男のところだ。男はニブルの研究者をやめて、ロイやアルバートと袂を分かって、ニブル病の治療者として暮らしていた。結婚して子どももいた。街の人によく慕われる医者であり牧師だった。
……俺は母とその街で暮らすことにした。彼女は重度のニブル病を患って、全身木炭みたいに真っ黒だった。綺麗な人だったんだけどね」
 あれ──何かが、頭の隅に引っかかる。
 ナギはシグの話すその光景を、やけに具体的に想像することができた。ニブル病患者もその家族も、健康な者も身寄りのない者も、その牧師は分け隔てなく接し、必要なら治療や施しを買ってでる。自分の娘も重度のニブル病に侵されていたのではなかったか。妻は美しく優しい、笑顔の似合う女性。花が好きだった。その土地では珍しくない、どこにでも咲く白い花が。
「え、あれ……」
 男はニブルの研究者をやめ、ロイやアルバートと袂を分かった。
「そんなはず……」
 街の人によく慕われる医者であり、牧師だった。美しく優しい妻と、ニブル病に侵された娘。
──ソノオトコハ、ファフニールヲツクッタ。ソノオトコハ、ヘラインシデントガオコルコト
ヲシッテイタ。
「……ナギ」
 シグが名前を呼ぶのは「大丈夫か」の合図だ。それで伝わる。ずっとそうやってきたから。ずっとその名を呼ばれ続けてきたから。けれどもう、それすら違和感に変わってしまった。
 カードはずっとずっと前から裏返っていた。全てのカードが断りなく表に返されていくだけ、その過程をナギは黙って見ている。表に返されたはずの、はじめとは別のカードを見つめ続けるだけ。
「あなたは……、……誰……?」
「詳しく話したほうがいいの? それ」
シグは可笑しそうに片眉をあげた。
 この期に及んで、誰ときた。うらやましいほどに、彼女は何もかもを忘れ去ってくれている。どんな魔法を使って、どんな科学でそうなれたのか。うらやましいと思った。だけど妬ましいとは思わなかった。心底良かったと思えた。そう思ってここまでやってこれた。同時に生きる意味はどこかへ消えた。
「俺はすぐに先生……そのおせっかいな元研究者のことを好きになった。先生の奥さんのことも、娘さんのことも好きだった。大人になったら絶対そのコと結婚しようと思ってたからね。子どもの浅知恵なんだけど、とても……好きだった。二人だけが知ってる秘密基地があってさ。白い花が一面に咲く原っぱなんだけど。その花の蜜が、めちゃくちゃ甘いんだよ。……大人の目を盗んでは、そこで二人で花びらばっかりかじってた」
 シグの微笑みは、今まで見たどれよりも哀しくやわらかだった。大事に大事にしまっていた鍵付きの箱から、子どもの頃の宝物を取り出すみたいに。ただ当然のことながら、古い宝物はどうしたって色褪せる。そしてそれは大人になって見返すと、ひどく陳腐なガラクタにも見える。
 一息入れよう。自分とその子をつないでいたのは記憶ではない。そのことをシグ自身が知っていればそれでなにひとつ問題はない、そう考えた。
「優しいキミには桃色ビーンズ、素直なあの子に真っ白ビーンズ。……知ってるでしょ、この歌」
 

 優しいキミには桃色ビーンズ 素直なあの子に真っ白ビーンズ
 元気のない子に空色ビーンズ がんばり屋さんにお日さまビーンズ
 我慢ができたら森色ビーンズ ごめんね言えたら紫ビーンズ
 笑顔になれるよ真っ赤なビーンズ
 七つ集めて幸せビーンズ

 嘘吐きさんには泥色ビーンズ 苦くてがっかり 遠くへなげろ

 願いがかなうよ虹色ビーンズ 集めてもらおう魔法のビーンズ


 シグが流れるように口ずさんだその歌は、ナギにとってとても思い出深いものだった。暇を見つけては父が──おぼろげな記憶の中の──古いオルガンを鳴らして、意気揚々と歌っていた童謡だ。七色集めると願いが叶う虹色のビーンズがもらえるのだという、子供だましの方便を信じて日々お手伝いに明け暮れたものだ。あの頃の願いが何だったかまでは思い出せない。それでも夢中になってジェリービーンズを集めたことだけは、はっきりと覚えている。
「ナギは、子どもの頃に流行った有名な歌だって言ったよね」
「そう……。昔、教わったの。たぶん父から」
「だろうね。でも誰に聞いても、ジェリービーンズの歌を知ってるやつなんかいないよ。この歌を知ってるのは、世界で俺とマリナだけ。……だってこれ、先生の自作だからさ」
「え──」
 これまでの何を語るときよりも申し訳なさそうに、シグは肩を竦めた。
 夜中に聴こえてきたオルガンの音と、拙い歌声を思い出す。

 ──いいか、マリナには言うんじゃないぞ……っ。んー、あー、そうだな、中央で流行ってる超有名な歌ってことにしよう! うん、それがいいなっ──

 娘のために一生懸命つくった変てこな歌を、その牧師は照れくさそうに教えてくれた。元気がないときに歌いなさいとか、お説教のときに口ずさんでやるとか、そういう他愛のないやりとりと共に、二人で秘密を共有した。男と男の約束だと言われたからには、口が裂けてもマリナに真実を伝えるわけにはいかないと心に決めた。
 そのちっぽけな約束と誓いは守り続けて十年以上になる。もう時効だろう。義理を果たす相手はとっくの昔にこの世から消えている。
「じゃあシグは、私が──だって、はじめから知ってた……ってこと」
ヘラの、という単語と、生き残り、という単語が声にならずに抜け落ちた。
「はじめからじゃない。正確には、あのとき知った」
 グラスハイムの教会で思いきり寝過ごした、あの雨の日。ナギがずぶ濡れで避難してきて、何も聞かないでほしいと言ったあのときに。ナギが、ジェリービーンズの歌を口ずさんだから。
「だって思わないでしょ普通。『ヘラの生き残りは二人いた』なんてさ」
 金縛りにあったかのように、息が止まった。シグは何でもないことのように口にしたが、ナギにとってそれは存在そのものが足元から崩れ落ちていくような衝撃だった。
「ナギは? 種明かしはもういい? それともまだ話す? ……俺は何一つ忘れてなんかないから、今なら全部もれなく教えてあげられるけど。先生、マリナの母さんのこととか? マリナ自身のこともまあ、話せるか。教会に来てた、仲良かったやつらのこととか。ヘラ・インシデントの前の話だけどね」
シグが発する一言一句が、ナギの心の扉を激しくノックする。忘れたかったわけじゃない、忘れようと思ったわけじゃない、気づいたらそうやって生きていた。目を逸らし、逃げることこそが生きていく術だと思った。そんなナギの姿は、シグにどう映っていたのかはしらない。
 ナギは答えられないまま、シグの顔を見た。
「……じゃあインシデントの話でもする? 知りたいだろ? 先生が、あんたの父親が何をしてどうやって死んだか」
 地下の空間にはシグの穏やかな声しか響かない。鶏は常に傍観者だった。ナギは常に逃亡者だった。物語の主人公ははじめからシグで、彼は一人で全ての配役をこなさねばならなかった。

 先生──アシュレ・ウィンストンは、ロイ・グンター、アルバート・フェンと共に鶏を発見した調査員の一人だ。卵【エッグ】からのニブル流出を防ぐための外殻【ファフニール】を開発し、それを持ってヘラに身を隠した。……鶏と卵で世界を掌握しようとするロイや、ニブル研究にのめりこんで倫理の道から外れたアルバートについていけなくなったからだ。
 ヘラで身を隠しながら、ムスペル地区でニブル病を発症した者の治療にあたってた。マリナの母さんはムスペル出身だったとか、言ってたような気もするな。マリナは母胎感染で重度のニブル病を持って産まれてきた。まあつまり、俺の母さん同様「炭みたいに真っ黒」の体でって意味。西部はどうか知らないけど、中央ではもうそういう患者は見なくなったな。皮膚の黒化が始まる前に肺が先にやられて死ぬパターンが多いし。マリナが産まれてから、先生は闇医者みたいな真似はやめて教会の牧師になった。それでも知識と技術があったから、医者の真似
事は続けてたみたいだけどね。
 そんなときに、西部にニーベルング討伐にきていたイオリ、俺の母さんと再会。鶏とエッグの話をべらべらしゃべってくれたんだろうけど、詳しい経緯は知らない。結果はさっき話したとおり、母さんは上層部に撃たれて重症を負った挙句、ニブル病で再起不能になった。……いや、そんな顔されても事実だからさ。先生はニブル病の特効薬を持ってたわけじゃない。免疫強化だか洗浄だかで死ぬまでの時間を多少延ばせたとしても、治せるわけじゃなかった。事実、最期の最期まで母さんは家から一歩も外には出られなかったから。
 ヘラに落ち延びた母さんと俺を、先生は献身的に世話してくれた。けしかけた罪悪感もあったんだろうけど、それでも俺たちには救いの手だった。
 俺は先生を実の父親みたいに慕ってた。マリナと出会って、毎日一緒に遊ぶようになった。そういうのは? 覚えてはいるの? ……ま、どっちでもいいんだけどさ。ノウヤクイラズって呼ばれてた白い花があったろ。あれが一面に咲いてる原っぱが俺たちの秘密基地だった。確か私有地で、入っちゃだめだって意識はあったんだよね。そういうのが秘密基地っぽくてよかったんだけど。花の蜜がとにかく凄く甘くて、そこらじゅうに咲いてんだからいいだろってかんじで花びらを千切ってはかじり千切ってはかじりして。……そういや俺、マリナにプロポー
ズした覚えあるんだよね。なんて言ったかまでは覚えてないんだけど、マリナが何て言ったかはよく覚えてる。病気が治ったら凄くかわいくなるから、そうしたらライトのお嫁さんになってあげる、てさ。マリナの母さん綺麗だったからそういう発想になんのかな。それにしても横着だよね。
 先生がおかしくなり始めたのは、ヘラ・インシデントの数ヶ月前くらいから。まぁまた別のおせっかいな誰かから、余計な情報を仕入れたんだろうけどね。
 先生がつくった「ファフニール」はエッグの密閉カバーみたいなもの。……臭いものに蓋しただけ。中でニブルはどんどん溜まる。放出されなかった分とんでもない濃度で。

「こいつはそれを知ってた。だからここでこうして何もしなくても、エッグがいずれ人間の手に負えなくなると思ってた」
 骨と皮だけになった囚われのニーベルングの王に、シグは侮蔑の眼差ししか向けない。そこには一切の憐れみも同情もなかった。鶏に反論はない。彼は傍観こそが最大の復讐になることを知っている。

 ──十年、長くて二十年? 待ってれば、エッグは濃縮ニブルをぶちまけて暴発する。つまり、先生がつくった外殻【ファフニール】は、全くの逆効果だったってわけ。エッグをファフニールで覆ってから既に十五年以上が経ってた。後はただのタイミングの問題。今日爆発するのか、一ヵ月後爆発するのか、そういう違いだけ。先生はぱんぱんに膨らんだ風船を最期まで一人で大事に抱え込んでた。どっかに捨ててくるとか、そういう発想はなかったのかって思わない? いっそここに仕掛けてくれれば、せめてこの腐ったバゲットみたいな塔は吹っ飛んだかもしれないのにね。
 そういうわけで、ヘラ・インシデントは起こった。ヘラ地区一帯はニーベルングに襲われてなんかない。へラの住人が一人残らずニーベルングになっただけの話。運悪く「なれなかったやつ」はほうっておいてもニーベルング化したやつに殺されるし、全自動の殺戮現場ができあがったって寸法。ナギはカタコンベに居たんだっけ? そこを二番隊に救出されたっていう、都市伝説どおりか。

「シグはどうして……助かったの」
「さあ? 知らないよ。ナギもそうだろ? あのニブル量と濃度でカタコンベなんか意味なかったことくらい分かる。ただ、ものすごく運が悪かったってことだけははっきりしてるけどね」
 ナギはシスイの言葉を思い出していた。老朽化が進み、教会のカタコンベはほとんどニブルを遮断していなかったと。だからこそ、母はカタコンベの中でゆっくりとニーベルングと化したのだろう。その一部始終だけは、細部まではっきりと思い起こせる。むせ返るような血のにおいと、骨がひしゃげる不協和音、そこにか細く響く母の断末魔を。
 シグはニーベルング化しなかったことを、生き残ったことそれ自体を「運が悪かった」と称した。否定する心と肯定する心がせめぎあった。
「……カタコンベにナギをつっこんだのは先生だろ?」
「……そう」
「じゃあその後だと思う。先生来たよ、うちにも。」
「シグの家に、行ったってこと……?」
「そう。もう、ほんと、史上最悪のありがた迷惑。最悪だよ。先生さえ来なければ……ほんと、全部違った。生きなくても良かった。ちゃんと選択できたんだ」
 淡々と物語を語るだけだったシグの表情が、はじめてぐにゃりと歪んだ。ニブルだらけの空気を大きく吸い込んで、吐く。間があった。何かを押し殺すための間だったのか、何かを切り替えるための間だったのか、長い長い沈黙があった。
「先生は俺の家でニーベルングになった」
 ナギは何かを声にしようとして、息を吐けずに無意味に口をあけたまま。どうせ何かを口にしても、馬鹿みたいに鸚鵡返しするだけだ。
「わざわざうちまでやってきて……何がしたかったんだか。とんでもないショーを披露してくれた挙句、助けにきたはずの母さんを切り刻んでくれちゃって、もうなんか、最悪の恩人だったよ、あの人」
「父が……シグのお母さんを、殺した、の」
「……復唱しなくていいよ。持たなくていい罪悪感だし、それ。俺はとにかく運悪く、ニーベルングが親を殺す瞬間に立ち会っちゃっただけ。で、もの凄く運悪く母さんの魔ガンでそいつを撃っちゃっただけ」
 そう長く自分に言い聞かせ続けてきた。罪悪感? 良心の呵責? 自責の念? そんなものは息をしているだけでひとりでに湧いてくる。夜眠る前、瞼を閉じるとああすれば良かった、こうしなければ良かったと安全地帯にいる自分が身勝手に回想しはじめた。それを毎夜繰り返すうちに疑問を持つようになった。この後悔は正常なものなのか疑わしくなった。──冷静に、客観的に、自身が持つ能力と状況を分析して何度も何度も過去をやりなおす。結果は同じだった。
「ごめん、撃った。マリナの──ナギの父さんだって、知ってて撃った。……先生は俺が、殺したんだ」
 罪悪感は要らない。それでもひとりでに、そして無限に湧いてくる。

 ──先生が憎くて撃ったんじゃない。ただ、このままだと自分も殺されると思って、それが恐くて気づいたら撃っていた。大好きな母さんは調理中の魚みたいにいろんなところがぐちゃぐちゃになっていて、先生だったもの? は、悪魔に姿を変えてごうごうと燃えていた。
 撃ったときは、憎くなんてなかった。でも、俺に撃たせた先生がだんだん憎くなってきた。こんなことになるって、ちょっとでも予測がついてたなら、先生をお父さんみたいだななんて絶対に思わなかったのに。大好きになったりしなかったのに。全部先生のせいじゃないか。
 あ、で、ちょっと待って。結局僕は、ここで死ぬべきなのかな。だって僕は、人を殺してしまった。先生はもう人間じゃない。だから母さんを殺してしまってもきっと仕方が無かった。でも僕は人間のままなのに。
 ──違うのかな。うん、そうかもしれない。ここにはもう、人間なんか一人もいないんだ。僕は何かの手違いで、人間の姿をしてしまっているだけで、みんなと同じように人間ではなくなってしまったんだろう。
 今ならそんなに恐くない。だって全部の現実味がなくて、からだも気持ちもふわふわしてる。母さんも、先生もそっちに行ってしまったなら、そっちの方が楽しいに決まってる。幸せに決まってる──

「──ってなふうにライト少年は考えた。そこで思い切りよく自分の頭に魔ガンぶっぱなしてれば全部終わってた……んだけど、そのときちらっと、思い出しちゃったんだよね。『マリナはどうなったんだろう』って。どうもこうもないんだけど。結果は、そのとき俺の目の前にあったどっちかなわけでしょ? 化け物になってるか、化け物に殺されてるか」
シグ自身が何事も無かったかのように無傷で生きていたから、もしかしたらという希望を持たなかったわけじゃない。すがるような思いで外へ出た。そして、シグは──ライトという名の少年は、そのとき初めて何もかもがなくなってしまったことを知った。
 家から一歩出たその先に、街はもうなかった。人はひとりもいなかった。鳴き叫びながら闊歩していたのは暗灰色の巨大な化け物で、その足元にゴミのように死体が転がっていた。
「死んでればいいと思った」
脳が溶けていく。ヨーグルトをかき混ぜるみたいに、どろどろとくちゃくちゃと頭の中で音がする。分からない。考えられない。記憶できない。それでも血走った目でその光景を見続けた。
「死んでくれてれば、マリナは天国に行っただろうから。でも、もし、先生みたいになってたんだったら、その可能性が目の前の光景みたいに二分の一なら、マリナだけこんなところに残していくわけにはいかないと思った。……俺が生きてる理由なんてそんなもんだよ。ヘラで飛び回ってるニーベルングを一体残らず始末する。そうするためにはグングニル機関に入る必要があって、後ろ盾が必要で、全部の理由を説明する必要があった」
 何か大いなる力に生かされたとは思えなかった。そこに希望や光が一片もなかったから。奇跡も夢も見なかった。ヘラから生まれたニーベルングを全て始末する、生きる目的はそれだけだ。誰も彼もを救うヒーローになろうなどと酔ったつもりはない。マリナを見つけられないから、全て殺すしかないと思っただけだ。至極単純な思考回路。そのためだけにグングニル機関の門をたたいた。西部戦線に近い中部支部を希望した。
 “ヘラの生き残り”という言葉にほとんど自分を重ねることがなかったのは、救出劇の顛末が随分歪曲されているように感じたのと、気色の悪い奇跡や希望がトッピングされていたから。そして自分は“生き残り”というより、目的のために身体にしがみついている亡霊のようだと思っていたから。生きているという感覚はない。それはあの日に、消えてなくなったままだ。
「──わからない」
「何が?」
「ヘラのニーベルングを全て討つために、あなたはグングニル機関に入った」
「そう」
「だったら、なんで……そのあなたがどうして……ファフニールを撃つの? よりによってなんであなたが!」
「俺しか撃てないから」
「意味わかんないよ! なんで!? 人をニーベルングに変えて、それを知らずにグングニルが殺して、何の意味があるの!」
「さあ……。俺にとってはそれは結果論だから」
「は……? 何言ってんの、結果……論?」
「だから。溜まってくんだよ、ニブル。放っておけばエッグの中で濃縮されていくだけ。十年単位でヘラ・インシデントが起こる。それを防ぐためには、エッグの中のニブルをどっかで小出しにする必要があるでしょ。できるだけ被害がないように、どうでもいい場所で」
それが、魔ガン【ファフニール】の正体だ。アルバート・フェンが開発したエッグ制御のための二つ目のシステム。
「俺はそれを撃つ役目を買ってでただけ。グンターは俺がファフニールを撃つその場所に“粛清”したい相手を混ぜてきた。フェンもそれに乗った。完璧なニブル抗体の謎を解き明かしたかったからだ」
「ファフニール実験……って、そういうこと」
「鶏のことも、エッグのことも、それからファフニールのことも全部フェンから聞かされた。偏った情報だろうけどね。“ヘラの生き残り”の生体サンプルと、ファフニールを撃てる存在っていうフェンにとっての絶対的価値が俺にはあったから、まぁ割と何でもしてくれた。エヴァンス家を後見人に仕立ててくれたのも、グングニル機関やグンターに口利きしてくれたのもそう。それ以上の奉仕はしてんだから当然だけど」
 フェンの研究結果とそれがもたらした功績の多くは、シグが実行してきたファフニールの臨床実験とシグ自身によるものだった。
「イーヴェル区も……シグが撃ったの」
「あそこはフェンに実験場として買われてた。俺は知らずに撃った。イーヴェルは本当に……知らなかった」
「イーヴェルは、って何」
「……言ったろ。グンターは粛清者を、フェンは被験者を、その都度見繕ってた。そんなところまで気、まわさないよ。どうでもいい奴が死んだり、ニーベルングになったとしてそれが何?」
そんなものを死体だと、ましてや遺体だと認識したことはない。シグにとってそれは単に死骸であり、結果だった。
「本気で言ってるの、それ」
「俺は救世主になろうと思ったわけじゃない。それがそんなに悪いこと?」
 目的は二つしかなかった。初恋の女の子を助けてあげたかった。狂った世界のはじまりを作った連中を、一人残らず消し去りたかった。そのうちひとつは、ナギの存在で消化不良のまま立ち消えた。だから、もう一つだけは完璧にこなしたかった。
「娘よ。それは、私と同じただの復讐者だ」
「は? お前と同じ? 反吐が出るようなことあっさり言うなよ」
 背景の一部のように壁に溶け込んでただの一言も発さなかった鶏が、ニブルと共に吐き出したのは、シグのたったひとつの存在理由だった。
「同じだろう。私もお前もエッグを制御する装置にすぎない。制御しながら、それが解放されるときを心待ちにしているのだ。私はここで待ってさえいればそれが果たされる。お前は策を凝らし己を殺し、心を捨ててまでそのためだけに生きている。鉄鎖に絡めとられた哀れな復讐者」
「ほんと……口を開けばふざけたことしか言えないんだな、お前」
 シグはグングニルに入隊した直後に、フェンに頼んでこの地下を訪れた。「私を殺しに来たのか」という鶏のお決まりの台詞を一笑に付して、定められた量のニブルを供給してやった。
「なんで俺がお前を楽にしてやらんきゃならないんだよ。助けもしないし殺しもしない。苦しみぬいて不様に死ねよ」
そう言って、この見るに不快な磔のニーベルングに侮蔑の眼差しを浴びせ続けた。
 もし何もかもの責任を誰か一人になすりつけて構わないなら、間違いなくこいつを選ぶ。実際こいつだろう。被害者の皮をかぶった悪魔は。
「なんでよりによって俺がファフニールを撃つのかって、ナギのさっきの質問だけど。……そうやってれば、少なくともファフニールは常に俺の手元にある。そういう状態をつくっておきたかった」
「“復讐”のために?」
鶏が使った陳腐な言葉をナギはあてつけのように口にする。その嫌な耳障りがきっかけになったのかもしれない、シグはナギの瞳を、口元を、指先を、確かめるように見た。
 ああ──流石に今まで見たことのない、向けられたことのない表情だ。それがただ、無性に哀しかった。今までだって、別にとびきりの笑顔をくれるわけではなかったけれど、それでも。
「母が死んだ。先生も死んだ。俺もマリナも、ヘラで死んだんだ。あいつらが生きてるのは不自然だろ」
そんな世界は嘘だ。ロイ・グンターが、フェン・アルバートが、そしてアシュレ・ウィンストンが知らず作り上げてきたねじれた世界は、そうやってシグに嘘を吐き続けてきた。
 罪だ罰だ、復讐だ、裁きであり粛清だ、浄化であり審判だ。言い方なんてそれこそ星の数ほどある。どれで認識され、どうやって非難されても構わない。ただねじれた世界を終わらせたいだけだ。
「そんな顔しないでよ。……ナギが悪いわけじゃない」
全部全部全部、揃いすぎていた。良いものも悪いものも特別なものも当たり前のものも、あの頃あの場所で過ごしていた自分は持ちすぎていたのだろう。だからほんの少しの歯車のずれで、その全てが作用して、連鎖して、こうなった。ただそれだけのこと。
「私、は──」
 覚えてもいなかった。思い出しもしなかった。自分が辿る道の全てをシグに押し付けて生きてきた。それさえ知らなかった。
「マリナもライトも、あのとき……死んだんだ。だから俺がナギを憎む理由はどこにもない。……正直さ、ナギのことをマリナだと思って接したことないし」
シグというヘラの亡霊が、ニダの牧場で育ったグングニル八番隊の隊長補佐官を恨む理由は見当たらない。
「もう、いい?」
「シグ……?」
「ここまでだよ、ナギ。パートナーごっこはおしまい。後はそれぞれ、好きなように」
 シグはジャケットの内ポケットから魔ガンを引き抜いた。ヴォータンでもローグでもない、お守り代わりだと言った三丁目の魔ガン。美しい装飾の小さな魔ガン、フリッカ。シグはそれをかけっこのスタート合図みたいに、天井に向けて構えた。
「シグ! 待っ──!」
 狙いを定める必要のない、気軽なトリガープルだった。聞きなれた魔ガンの発砲音と聞きなれない、さざなみのような通り雨のような一瞬の水音が駆け抜ける。それは空気が無理やり上書きされる音だった。何に囚われているわけでもないのに、ナギは身動きがとれなくなった。もともと高濃度のニブルが充満していたこの空間に、更に重いニブルが降り注ぐ。滝つぼに身を預けたようだった。
「ナギならしばらくすれば普通に動けるでしょ。来た道戻れば、たぶん安全に抜けられる。これからここへ完全武装で下りてくる連中は、中央塔の真下にある正規ルートしか使わないから」
塗り替えられていくのが分かる。無色から無色へ。毒から毒へ。ニーベルングだけが生きられる隔離された世界へ。蟻一匹から象まで、一呼吸でニーベルングになる小さなヘラ。
「何するつもり……?」
「最後の一手をうっただけ。……ナギも、そろそろ行ってくれない?」
「ふざけないでよ……! まだ、肝心なことをあなたに訊いてない。……最後にひとつだけ答えて。あなたが、サクヤを撃ったの?」
結局それかと言わんばかりに、シグは苦笑して、それから嘆息した。掲げていたフリッカを静かに下ろす。
 もう一度、深く静かに深呼吸。肺をニブルで満たす。吸って吐く。吐いて、吸う。変化も異常も少しもない。頭痛がひどいのはニブルとは関係ないようだ。強いて理由をあげるなら、ナギが思ったようには撤退してくれないことだろうか。
 話せる時間はそう長くない。この場所でファフニールを撃ったという事実は、直に塔内に広がるだろう。それを狙って撃ったのだから、そうなってくれなければ困る。
「じゃあ餞別に、あの日の話をしようか」
 鶏を閉じ込めるための巨大な檻、その天井を仰いでシグは再び物語を紡ぎ始めた。

episode xiii 裁かれる衛兵,欺かれる奇術師

「今日中に、どうしても君と話をしたい」
 見せかけの柔らかな空気は、サクヤのその言葉を皮きりに崩壊した。が、それを促したのはナギのほうだった。
 アルバ暦837年、年の終わりの剣の月。ナギはグングニル本部ではなく、中部第二支部で新隊員の指導に当たっていた。その日演習の合間に入ったサクヤからの通信、これが彼と彼女の最後の会話である。
「それで構わない。戻るまで待つよ」
 ナギはなんと答えたのか──すぐ戻る? 遅くなる? 間に合わないかもしれない? 傍から見ているだけでは分からない。通信のはじめに世間話をしていたときも、こうして本題を持ちだしたときも、サクヤの平静は崩れることがなかった。
 と、思っていた矢先にふと、笑みがこぼれた。作戦中は元より、非番であったとしてもお目にかかれないような本当に無意識の笑みが。
「ナギ。誓願祭の夜に、君に言ったことを覚えてる?」
しばらく間があって、今度は大笑いだ。声を殺しているのは誰への配慮なのか不明である。
「覚えてるならいいんだ。約束するよ。どっちに転んだとしても、……僕が生きている限りは君を守る」
 なるほど、この人ならこれくらい真面目な顔で言うだろうな──などと妙に納得してしまった。生きている間に限定されているところが、現実的というか生々しいというか、彼らしい気さえした。
「責任を果たすだけだよ」
 サクヤ・スタンフォード中尉にとって──いや、グングニル八番隊隊長殿にとっては、これまでのこととこれからのことは、果たすべき責任という認識になるらしい。くだらない。そんなもののために、生きるか死ぬかをベッドするなんて馬鹿げてる。
 そう思う一方で、シグもまた自分自身がある種の「責任」の下に動いていることを自覚していた。見たもの、聞いたもの、知ってしまったもの、思い、考え、判断してきた全てのものには責任が生じる。そんな単純な言葉で片づけるのは気が引けたが、現実なんてそんなものだ。
「これ以上は通信では話せない。もし間に合わなくても、君は君の思うとおりに動いてくれて構わない。……じゃ、切るよ」
 サクヤが静かに受話器を置くまで、シグは物陰から見届けた。見届け、自分自身の責任のために歩き始めた。ナギが、間に合うことはない。間に合わせるつもりはない。サクヤがそれに一縷の望みを抱いているのだとしたら、とんだ失策だと笑うしかなかった。誰に向けたのか分からない嘲笑がこみあげる。そしてできるだけうまくやってくれと、切に願った。いつも通り幾重にも策を巡らせ、相手の裏をかき、欺き、狡猾に出し抜いてくれと祈った。
 どれだけ世界がねじれていても、ほとんど誰も気付かなかった。この塔と自分はいつもそのねじれの中心にいる。何食わぬ顔でそこに立っている。皆が皆、一様に目を背けてきたその場所を、ただ一人目指してやってきたのがサクヤだった。彼には、そこに至る相応の実力と健全な好奇心と極めて真っ当な倫理観が備わっていた。
 ねじれた世界が正常に戻るならそれはそれで構わない。一度は、いや何度かそれはシグも望んだことだった。何なら今だってそう望んでいると思わなくもない。つまりはシグにとって、正常な世界の復帰という結末は、正しいだけのどうでもいいものに成り下がっていた。多大な犠牲を払ってまで達成すべき目的ではない。目的は、別にある。


 演習塔の最上階に、八番隊と一番隊共用の室内訓練場がある。基礎訓練や格闘訓練のためのスペースで、その性質上、共用とは名ばかりの八番隊専用部屋である。射撃場程の設備や防音性はないが、射撃もやってやれないことはない。そういう、シグが落ち着ける要素を兼ね備えたのがこの場所だった。ほとんど常に人気がない、というのはポイントが高い。
 その日も筋力トレーニングと精密射撃を二時間ほど行って、夕暮れまで時間をつぶした。窓の外が薄紫になったのを確認すると、大きく一息ついて端に備え付けられたロッカーまで歩き、扉を開ける。ヴォータン、ローグの手入れを済ませ、掛けておいたジャケットを着直す。その内ポケットに改めて“フリッカ”をねじこんだ。小振りの装飾魔ガン。心臓の一部のように、常に左胸付近にその重みを感じる。
 ロッカーの扉を閉めた。シリンダーの鍵をまわしたところで背後の気配に気づいて振り向いた。
「非番時の魔ガンの携帯は認められていないんだけどな。“それ”を持ってこんな時間にどこへ?」
 来た──分かっていたはずなのに、鼓動が一度、大きく脈打った。
 入り口ドアを背にして、サクヤが立っていた。口調はいつも通り穏やかだったが、笑みを携えていない彼がこんなにも別人の気配を纏えるとは思ってもみなかった。
 シグは軽く肩を竦める。
「これはお守りみたいなものですから。撃っても、ニーベルングには傷ひとつつきませんよ」
「僕の質問はそれの性能の優劣じゃない。それを持ってどこへ行くつもりか聞いている」
 笑みと余裕のない、シグの知らないサクヤだ。駄目だなあサクヤ隊長、もう少し、我慢して外堀を埋めていくのが貴方のスタイルのはずでしょ。それに付き合うくらいの時間はあると思うんだけど。喉元まで出かかった言葉を、片っ端から呑みこんだ。
「……プライヴェートまで答える必要が?」
「うーん……。ないとは言いきれないな。君はもういくつか規則を破ってるからね」
「規則? って、それサクヤ隊長にだけは言われたくないな。今回は見逃してもらえませんか。許可が必要なら後日とります」
「悪いけど、それはできない」
サクヤは調子を変えない。それなのに空気がひとりでに変わった。
「今晩君を見逃して、明日死体のない戦場に赴くのは御免だ」
暗く、重く、息苦しい。ちょうど外の景色が、紫から黒に変わるみたいに。
「死体があれば、満足ですか」
 シグ自身、随分皮肉めいた言い回しだなと思っていた。無意識に挑発していたのかもしれない。鼓動が早い。興奮している自分に気が付いた。数分後にどういう状況が起こり得るのか、それが目に見えているのだから、いっそ何の気兼ねも未練も失くしてしまった方がいい。
「……そういう話をしてるんじゃないよ。シグ、君のやり方は根本的に間違っている」
「俺のやり方ってわけじゃありません。俺はただ、グングニルのやり方を忠実に守ってるだけです」
それに──。
「手段は変えられない。だって昔も今も、これしかないんだから」
 シグはジャケットの内ポケットから“フリッカ”を引き抜いた。否、最初からそんな魔ガンは存在しない。今シグが手にしているのは──手にし続けているのは──“ファフニール”、人を魔物に、この世を地獄に変える、神の卵。
 シグは他の魔ガンと同じように、一分の隙もない動作でファフニールを構える。
「どうしますか、隊長。あなたの敵は俺じゃない」
「そんなことは重々承知しているよ。でもそれが今君を止めない理由にはならない。フリッカ……ファフニールはこちらに渡してもらう。撃ってでも」
「それは俺の台詞です」
 サクヤが懐から引き抜いたのは、彼が愛用する魔ガン・ジークフリートではなく対人用のハンドガンだった。滑稽だ。わざわざ持ち替えてきた? 何のために。魔ガンであれハンドガンであれ、人を殺す兵器であることに何ら変りはないだろうに。
 シグは躊躇することなく引き金を引いた。ヴォータンよりも、ローグよりも手になじむ固い引き金だ。かけっこの合図みたいに空砲が鳴った。空砲に見せかけて、何をも生かさぬ毒が放たれた。
 サクヤの次の一手は苦しまぎれの手元狙いだろう。もしくは足、肩、どちらでもいい。どれだけ至近距離にいたとしても構えれば軌道が読める。そしてサクヤの攻撃は、せいぜい三手、凌げばこちらの自動勝利だ。
「マスク持ってこなかったのは失敗でしたね?」
「そうでもないよ」
 トリガープルからのクールダウン、シグは律儀にそんなステップを守っていた。サクヤの声が響いたのは、シグの腕の関節付近。彼は銃を構えなどしなかった。放たれたニブルをかいくぐって、シグの腕をいなす。床にたたきつける勢いだったから、いなすという表現は正しくないかもしれない。
 ものの見事に体勢を崩した。ファフニールをとりこぼしそうになるのを寸前で堪えた。流れる視界の中で、突き出された銃口がシグの耳元で火を噴いた。
(滅茶苦茶だな、この人……!)
 鼓膜が悲鳴をあげた。それを気遣っている暇は与えられなかった。サクヤはまだ硝煙を上げる銃を握ったまま、その拳を全体重をかけて振りおろしてくる。それを両手でかろうじて防いだ。
(そうか、撃たせないために……っ)
そのための近接戦闘、そのための組手、さらに言えばサクヤは零距離射撃が思いのほか得意だったのを思い出した。魔ガンを握れば実質グングニル最強、その謳い文句に偽りはない。ないどころか、魔ガンを握ればだとか、実質だとか、条件設定そのものが不要じゃないかと唾を吐きたくなる。
「ほんと……! 腹立つ人だな、サクヤ隊長はっ……!」
 手首がぎちぎちと音をたてる。張り合っても力負けするのは目に見えているから引くしかない。
 シグは左手を懐にねじ込んだ。当然体勢が崩れる、それを利用してサクヤから振りおろされた拳が脳天を直撃するのを避けた。左肩に激痛。本当にこの男、爽やか好青年の皮をかぶった化け物だ。胸中で皮肉を吐きながら、左手人差し指にかかった金具を引き抜いた。
 弾はサクヤの首筋を少しだけ掠めて視界から消えた。そこから連射すれば一気に形勢逆転できたのだろうが、シグは距離をとって構えるだけにとどめる。仕方なく、ハンドガンを右手に持ち替えた。左肩から腕にかけてがものの見事にしびれている。情けないが深追いはしない。する必要もない。
 サクヤは冷静だった。シグが作った数メートルの距離を詰めるでもなく、そこから今一度、躊躇なく引き金を引いた。二度。シグは転げるように右方へ飛び、ままならない体勢のまま、今度こそ一撃必中のつもりで全神経を右手に集中させた。いつも通りだ。外す気がしない。思い描いた通りの軌道で弾は飛ぶ。
 かくしてシグが放った弾丸は、サクヤの左太腿を撃ち抜いた。一寸の狂いなく、狙い通り。ただそれは、そこまでのシミュレーションにおいての話だ。サクヤは撃ち抜かれた足など無かったかのように全速力で突進してきて、呆気にとられているシグに飛びかかった。
(化け物……っ)
 気道を抑えつけられたため、胸中でなじるしかない。そうでなくてもいちいち同じ感想を口にしてやれるほど悠長な場でもなかった。このまま絞め殺されるのではないかというほど、サクヤに手加減は一切感じられなかった。それも今更の感慨か。
「めずらしく、迷ってたな。さっき」
腕が引かれたかと思うと、今度は銃口を喉元に突き付けられた。確かにこの方が、体力も使わないし話もできて一石二鳥。セオリー通りのマウントというわけだ。
「今更何を、ですか」
「撃つ場所を。迷った挙句、間違えた。この状況で四肢を撃たれて止まる馬鹿はいないよ」
「……止まるんですよ、普通は」
 当人の意志とは無関係に、強制的に崩れ落ちるのが通常想定される光景だ。素直に笑いがこみあげてきた。一番肝心なことがすっぽり頭から抜けていた。サクヤ相手に正攻法が通じた試しなど数えるほどしかなかったではないか。
「……悪かった。ずいぶん長いこと気づかずに、お前一人に背負わせた。俺の不甲斐なさがお前を一人にしてしまった」
「隊長のせいじゃない。俺も結局は利用される側の人間ってだけです」
 この聡明な部外者には、シグが何かを背負っているように見えたのだろうか。悲劇の体現者に映ったのだろうか。それはどうにもサクヤらしからぬ、愚鈍な思考のように思えた。
 人間誰しもが何かに利用されているものだろう。ただし、利用されるだけの人間とそうでない人間の違いはあるが。
「たぶん、あなたも」
何かにずっと利用されていた。はじめからずっと迷っていた。高尚な目的のためではなく、ただ自らの願望のために命を費やしてきた。──みんな同じ。なんだっけ、こういうのを十把一絡げにできる便利な言葉があったはずだ。
 サクヤはいつまでも撃とうとしなかった。かと言って何かをシグから聞きだそうという素振りもなかった。彼のこの場での目的は、ファフニールの奪取とシグの無力化だと思われるから、その大半は果たしたといっていい。後はシグを落とすだけ。その最終局面で、天秤は一気に反対方向に傾いた。
「目の前で知ってる人間がニーベルングになるっていうのは、結構きつい見世物ですよ、隊長」
「……だろうね」
戦闘の合図代わりに撃ったファフニールの一発は、確かに手加減したものだった。それでもこんなに長く粘られる予定ではなかった。その布石がようやく功を奏したのか、銃を握るサクヤの腕が、撃ち抜いた腿が、そしてそれでも笑う口元が暗灰色の物質に変容し始めていた。
「……もしかして、はじめから相討ち狙いでしたか」
「どうかな。本当は、別に狙いがあったかもしれないよ」
それは大いにあり得ることだと思った。
「だったら──」
 喉元の銃口で精神的に身動きを封じられているだけで、四肢はサクヤ以上に自由だった。心臓の一部である、その引き金を引くことほど容易いことはなかった。
 ──徹底的に潰しておく。サクヤが掛けた保険全て、伏線全て、この人がいなくなったあと何一つ機能しないように、ここで絶つ。
 シグはもう一度、ファフニールの引き金を引いた。覆いかぶさったサクヤの腹部めがけて、加減なしに最後まで引ききった。刹那、またはじまりと同じ、空砲めいた派手な銃声が轟いた。崩れ落ちるサクヤに潰されないように、その下から這い出す。
「隊長」
だったもの、と称すべきなのだろうか。迷った末に、もう一度だけ確かめるようにその名を呼んだ。
「……サクヤ隊長」
 応えはない。サクヤはただひたすらに呼吸を繰り返しているだけだった。ぼろぼろと瓦礫のように皮膚が崩れて落ちていく。そこから染み出してきた本当にどす黒い色素に彼の全身が塗り替えられていく。頭の先からつま先まで、心の奥から表層まで。サクヤ・スタンフォードを形作っていた全ての要素が、瞬く間に消えてなくなっていく。
 シグは立ち上がって、ロッカーから二丁の魔ガンを取り出すと早々に訓練場を後にした。どこかで警報が鳴っていた。誰かが何かを懸命に叫んでいた。無意識でも人目を避けて移動した覚えはある。が、覚えているのはそれだけだ。どんな顔でどんな道を通ったかは判然としない。気がついたら塔の外まで歩いていた。そう、漠然と、教会に行かなければという思いがあった。
 歩いている途中に、ふと思い出したことがあった。
「そうだ、ただの……熱心な蛙」
愚直に、一心に、狂信的に、ただ両の足で立つことを願った。他には何も望まなかった。その蛙には妻がいなかった。ただの一人も友人がいなかった。──だから彼の所業を嘲笑う者もなければ憐れむ者もなかった。その蛙に救いはいらなかった。ましてや絶対に手に入らない足元の希望など。
 自分が歩いて来た道、背後からニーベルングの咆哮が轟いた。振り向いて、空の白さに目を見開く。今夜はやけに明るい月。そんな馬鹿なことを思ったのも刹那、今宵が新月だと思いだす。見たこともない純白のニーベルングが、あのどす黒い塔のてっぺんで狂ったように鳴いていた。
「以上が俺の知ってる、俺が見た一部始終。その後、サギにブリュンヒルデを構えてるナギに会った。更にその後は、ナギも知ってるはず」
 あの時、ナギに“サギ”を撃たせるわけにはいかなかった。純粋にその業を彼女に背負わせるわけにはいかないと思った。そこに嘘はない。ただ今更口に出してそんなことを説明しても、ただ虚しいだけだ。
「俺には、ニーベルングが何なのかなんてどうでもいい。神格だとか、高尚だとかいうやつは頭がぶっとんでる。ニブルがなきゃ理性も持てない、頭の悪い獣だろ。そうじゃないのもいる? だからどうでもいいんだって。人間だって同じだろ。頭のいいやつ、悪いやつ。生きてて価値のあるやつ、価値のないやつ」
「よく……わかった」
ナギは絞り出すように呟いた。
 シグはエッグの中のニブルが暴発しないように、ひたすらファフニールを撃ち続けた。そうやって体の良い手駒のように振舞うことで、ファフニールを自分の手元に常に置いた。それを名実ともにシグの所有物にするのに、サクヤの介入はうってつけだったのだ。「ファフニールは奪われました」と報告すればいい。事実、そうやってシグはファフニールを完全に手中に収めた。理由と目的は常に同じ。彼には“ファフニール”でロイ・グンターとアルバート・フェンを撃つこと以外に、もう生きる意味が残されていなかった。
「あなたの生きる目的は、もう人のそれじゃない」
「……かもね。俺もそもそも、生きてるとは思ってない」
「シグ……!」
ナギは意志を持って懐からハンドガンを抜き、シグに銃口を向けた。
 涙が溢れる。この期に及んで、陳腐な生ぬるい水が後から後からこみあげてきて、雫になってぱらぱらと落ちた。
「撃ってもいいから、泣くのやめてよ」
「シグ……っ!」
「だって俺は、ナギの大事な人を撃った。だから撃っていい。理にかなってるよ」
 そうやって言葉にすると抱き続けてきた違和感が消え、ようやく合点がいった。零番隊発足時、どうしてナギに声をかけたんだろう。何となくだと思っていた。傷つけることしかないと分かっていて、自分に不利な状況を作ると分かっていて、ひとつひとつの道を案内してここまで連れてきた。成り行きだと思っていた。どの時点でも、如何様にでも嘘をつくチャンスがあった。そうしなかったのは、このため。最後の最後で、後始末を全部ナギに押し付けるためだった。
 面倒なことはない。今彼女が銃口を向けている相手に、そのまま引き金を引けばいい。それはとても順当な、あるべき終わりだと思えた。
「撃てないならそろそろ行ってほしいと思ってるんだけど。答えるべきことには答えたよ」
 二人がいる地下には、外部からと思われる相当数の足音がけたたましく響いていた。のんびりと構えている状況ではなくなったというわけだ。が、そう考えるのはシグだけらしい。彼女は逃げろと言っても逃げないし、撃てと言っても撃ちもしない。刻一刻と状況が悪化するだけ。こうなると最優先事項というものが必然的に入れ替わる。
 シグは高い天井に向けて、ニブルで満たされた肺の空気を深く長く吐きだした。
「こっちが先に辿り着いちゃった、か」
 鶏の後方に伸びていた通路から、続々と人間がなだれ込んできた。皆が皆西部戦線用のマスクで顔を覆い、ニブル遮断の防護服に身を包んでいた。異様な集団だった。一様に見えるその姿でも集団の筆頭に、ロイ・グンター総司令がいることは察しがつく。ということは、ばたばたと不規則な足音を響かせていたのは、彼の側近や相談役、開発部幹部の連中だろう。
 グンターと思しき完全防備の男は、この場にいるはずのない人間、すなわちナギの姿を認めて目を見開き、シグには慣れた調子で嫌悪の眼差しを投げた。
「どういうことだ」
おどけたように肩を竦めるシグ。ナギは彼に銃口を向けたまま微動だにできずにいた。
「ちょっと、想定外のことになっちゃいまして」
シグは今更、空っぽの両手をすごすごと上げる。
「シグ、あなた……!」
 シグは冷えきった眼でナギを見つめながら、鶏のお決まりの台詞を思い返していた。私を殺せないのなら去るがいい──どこまでも利己的な自殺願望だと思っていた。しかしそこに、少しだけ共感も覚える。これだけ舞台を設えて、引き金ひとつ引けない女にもはや用は無い。
「何故お前がここにいる。それに……この充満したニブルはどういうことだ」
「さあ? それを俺に聞かれてもって感じですかね。俺も彼女も来たときにはこうなってたんで。言っておきますけどここへの道を手引きしたのは俺じゃなくてフェン。ちなみに彼女は中途半端に秘密を知ってる状態だったんで、ここに連れてきて消えてもらった方が早いかなって。そうしたら、ま、見ての通り。俺と同じ体質みたいで」
「Bルート進化、しているというか」
「さあ。そういう名前とか、いちいち興味ないから。ひとまずはそういうわけなんで、丁重にお連れしてもらっていいですか? 傷つけるとフェンにも怒られそうだし」
 グンターもシグの説明に全て納得したわけではなさそうだった。不服そうに顔を歪めて、不信感を顕わにする。が、ここで弾劾しても始まらないのは明白だ。とりもあえずという感じで目配せして後方に指示を出すと、防護服の数人が速やかに左右に分かれてナギを取り囲んだ。彼らの手には、やはりというか魔ガンではなく対人用の機関銃が抱えられている。鶏のいるこの地下で、魔ガンは御法度というわけだ。
 ナギはシグに銃を向けていながら、何もできずに自由を奪われた。マネキンのように固まっていただけだから当然と言えば至極当然。ハンドガンを奪われ、ジャケットの中のブリュンヒルデを奪われ、その上で双方から両腕を絞められた。何の抵抗も出来ず、何の弁解もできない。眼球だけがずっと、シグの姿を追っていた。
「ナギ、言ったろ。パートナーごっこは終わり。俺に、君はもう必要ない」
 だからさっさと視界から消えてくれ。できるだけ無傷で、安全に──そんなことを思って、自らも踵を返した刹那。
 ドンという太鼓を打ち鳴らしたような重い音が響き、足元と天井が揺れた。短い悲鳴を上げて防護服が、ナギが、グンターが、そしてシグさえも大きくよろめいた。状況を確認する前に、再び足場が揺れる。場所が場所だけに無意味と分かっていながら、各々本能的に姿勢を低くしていた。太鼓のような地鳴りに連動するかのように警報が鳴りはじめた。
『本部塔にコンドル級ニーベルング出現。識別名“サギ”と確認。ニブル警報が発令されました。総員マスクを着用し、戦闘に備えてください』
「サギ……?」
アナウンスは地下まで明瞭に響く。スピーカーがどこかに設置されているからだろうが、そんなことはどうでもいい。かろうじて立った状態で、ナギの口から疑問符がこぼれた。シグの口からは極上の皮肉まじりに舌打ちが。
「タイミングがいいんだか悪いんだか……うちの隊長さんはっ」
『非戦闘員は直ちに塔外へ避難し……さい。“サギ”が本部塔中腹……撃。一番隊、六番隊が応……中』
 スピーカーが破損したのか、指令室が攻撃を受けたのか、流れるアナウンスも途切れ途切れになった。微弱な揺れが続いている。サギが地上、塔にへばりついている限りは収まるどころか、いつ塔ごと破壊されてれもおかしくない。地下に留まるのは危険だと誰もが感じた。
「レイウッド曹長はこのまま連行。シグは我々を先導し、その後地上で、あれの始末を」
「……了解。そろそろサギの派手な立ち回りにも飽きてきたところだしね」
ファフニールを懐に収め、シグは鶏の後方、グンターたちが下りてきた本部塔へ続くルートへ歩を進めた。その後をグンターが、そして防護服に囲まれたナギが機関銃で背中を押されふらふらと続く。その一部始終を鶏だけが無言のまま、ただ見送った。恨みごともなく、情けを請うこともなく、地下の壁の一部のように傍観者に徹した。
 グンターたちが下りてきた通路は人が往来するように設計されていて、壁も階段もある程度の清潔感があり舗装がなされていた。電気だって通っているから明るい。それなのに何故こんなにも、ナギの足元と眼前は真っ暗なのだろう。
(まただ……私)
 放棄したくなる。考えることを、歩くことを、信じることを全て投げ出してしまったときに訪れる解放感を既に彼女は知っていた。一生懸命馬鹿みたいに想うから、こんなに悲しい目に合わなくてはいけない。そういうときは、どこかの部屋に何もかも全部を詰め込んで、ドアを閉めて鍵をかけてしまえばいい。不安なら幾重にも鎖を巻いて南京錠を。鍵をかけたら後は全速力で逃げるだけだ。
 簡単で効果てきめん。しかし彼女はもう、その道を選べない。その過程で誰かをどうしようもなく傷つけることを知ってしまった。例えば今、無言の背中しか見えなくなってしまった仮初のパートナー。そして、破壊衝動に身をゆだねるしかなくなったかつての──。
「司令! 報告致します!」
上層から下りてきたらしいグンター直属の部下が、血相を変えて走り寄って来た。
「サギ討伐に出向いたグングニル小隊が襲撃を受けています!」
「そんなことは知っている。指揮系統を正せ。配置は?」
「そうではなく! 謀反……謀反ですっ! この混乱に乗じてか仕組んでのことかは分かりませんが……!」
 謀反──? 誰もが胸中で一度、鸚鵡返しした。我関せずだったシグが振り向き、ナギが顔を上げた。グンターは顔色を変えない。そう振舞っているだけのようにも見えた。
「規模は」
グンターの冷めた追及に、報告という名の煽りにきただけの隊員は言葉に詰まるだけだった。
「シグ」
「……いやいや、どう考えても管轄外でしょ。そっちはそっちできちっとやってよ。俺は、当初のご命令どおりサギを討ちにいく」
「それでいい。余計な動きはとるな。反乱分子の鎮圧はこちらでやる」
「申し上げます! 司令!」
話がまとまりかけた矢先に、別の男が階段から転げるように下りてきた。
「新たなニーベルングの襲撃です! 漆黒の、その……魔ガンを持った人間がそれを駆っていると!」
 舌打ちが響いた。グンターのそれである。俄かには信じがたい、想像しづらい情報ばかりが五月雨式に飛び込んでくる。サギの襲撃、規模不明の謀反、そして謎のニーベルング使い? 
──どれかひとつはデマであってほしいものだ。そう思いながら歩みを速めた。


 枯れ枝にとまった美しい蝶のように、サギはグングニル本部塔のちょうど真ん中にしがみついていた。宿舎塔や演習塔からは、その異様過ぎる光景が如実に見える。主に悲鳴が上がったのは、就寝中だった隊員が多くいた宿舎塔からだった。そして本部塔にちらほらと残っていた、運の悪い隊員たちから。
 好きなお菓子が買ってもらえない駄々っ子さながらに、サギは塔の外壁を一定間隔で蹴り続けていた。内部が揺れているのはそのせいだ。窓らしき窓はほとんどが割れた。そこから直接見えるサギの羽や爪に、免疫の無い隊員たちは後ずさるしかなかった。格が違う。今まで“ニーベルング”と称してきた化け物たちと、そして自分たち人間とは一線を画す高次の生き物だ。そう本能が告げるから、蹂躙されながらも神々しいとさえ感じてしまう。
 幾度目かの足での痛烈なノックが、塔全体を掻きまわした。その瞬間は敵も味方も関係なく、身動きがとれなくなる。
 男は魔ガンを構えた矢先だった。
「ぬおぉう! 鬱陶しいったらねぇな本当に……! レーヴァテインの連絡網はどこまで節操がねぇんだ? あれもハルティアが呼びつけたんじゃねえのか」
 女は男の方を見向きもしない。眼前でよろめく知った顔の隊員たちに向けて──実際は少し照準をずらして──魔ガンの引き金を引いた。バーストレベルが低い彼女の魔ガン「エルダ」は、ほとんど護身用や威嚇用だったが対人兵器としてはそれで充分だった。破裂音と共に廊下に熱風が渦巻く。
「どっちだっていいでしょう。私たちの標的はこっち」
 グングニル本部塔5階。上層部の執務室が固まるこのフロアで、バルトとアンジェリカは文字通り大暴れしていた。二人はサギが出現する数分前に、宿舎塔の空中庭園を経由して(詳しくは語らないが)このフロアに直接侵入した。目指しているのは地下だ。地獄の底の蓋を開けにいったらしい向こう見ずな二人のバックアップが目的である。情報源は全て、レーヴァテイン代表、シスイ・ハルティアだ。
 二人は、八番隊査問の後、零番隊には加わらず監視付の執行猶予期間を選んだ。その間に魔ガンの闇市を通じてシスイと接触し、情報を交換し合っていたというわけだ。その分野で言うなら、シスイだけでなくアンジェリカも精通しているところだった。
「外からはサギの攻撃、中は魔ガンの撃ち合い……滅茶苦茶だな」
焦げて黒ずんだ廊下にサギのキックと雄叫びが響く。
 バルトは既に先刻、自らの一発で5階の天井、つまり6階の床を完膚なきまでに破壊している。それを繰り返せば1階までは容易く辿り着けるのだろうが、どうにも気が引けた。おかげで今度は引き金を引くのをいちいち躊躇う始末だ。
 廊下の突き当たりで響く新手の足音に、一度口元を大きくひきつらせた。
「もう! 撃たないならどいてっ! 役立たずったらありゃしない……!」
「待て待て待て待てっ。これ以上撃ったらエルダでもフロアごと吹っ飛ぶっ」
「だったらどう──……バルト。あれ」
アンジェリカが、廊下の奥を指さすまでは二人には揉めている余裕があった。二人が共有した視界には、頭が黒い、腕が黒い、全身真っ黒い“生き物”が走ってくるのが映った。それが黒いフードと黒い包帯だということに気が付くまで数秒を要した。さらにその後方から、おそらく六番隊と見られる小隊が魔ガンを構えながらやってきた。
「アンジェリカ!」
伏せるというセオリー通りの行為が正しいのかは分からない。が、直撃は避けることができるはずだ。なりふり構わず放たれた魔ガンの一発は、その黒い生き物を追い越し、うずくまったバルトとアンジェリカの頭上を通り越し、壁に大きなクレーターを作った。砂埃が視界を覆う。
「どうしてこう六番隊ってのは……」
考えなしなのか、という嫌味は噎せかえったせいで言葉にならなかった。
「いいからどいて。次が来るわ」
 自分の身体に覆いかぶさったバルトの顎を、扉でも開けるようにすんなり押してアンジェリカは低い体勢のまま身を起こす。その際「グキッ」という生々しい効果音が響いたが、この場ではなかったことにされた。
 二人は固唾を呑んで、その光景を見守るしかなかった。全身黒い包帯に身を包んだその男は、いきなり立ち止まって振り返る。その勢いをバネ代わりに背後の隊員の鳩尾に渾身の肘をたたきこんだ。倒れこむその隊員を踏み台にしたかと思うと握られていたお飾りに等しい魔ガンを奪い取って間髪いれず撃ち放った。考えなしに、ではない。天井の一部だけが崩落するように計算しての一発だと思われた。
「なんだ、あれ」
 黒い男の独擅場は続く。向かってきた残存兵の腕を引き、またもや鳩尾に重い拳が入っていく。野生の獣のような、無駄を一切省いた獲物を仕留めるための鮮やかな動きだ。そんな時間はないと知りながら、バルトもアンジェリカもただ茫然と見とれていた。
「おい。あのミイラ男みたいなのは味方なのか……?」
「知らないわよ……っ」
二人の視線の先で、男は自分の後方にいた六番隊を全て蹴散らした。そして、一呼吸だけ置いてまた脇目も振らずこちらにひた走ってくる。
「おいおいおい! 来るぞ、突っ込んでくるぞ! 撃っていいのか駄目なのか、どっちだあ!」
「知らないって言ってんでしょ! ちょっとは自分で考えなさいよっ。っていうか何とかして!」
「何とかっつったってなぁ!」
 二人を襲ったのは得体のしれない恐怖感だった。全身真っ黒のミイラ男が全力疾走で、廊下の端から自分たちに突撃してくる。のみならず、男に並走する形で既にガラスの入っていない窓の外を漆黒のニーベルングが飛んでいた。叫ぶ以外に対処のしようがないではないか、というのがこのときのバルトの本音だった。そしてそれは、この場に限り、最初から最後まで全て正しい対処だった。
 ほとんど抱き合った状態で妙な悲鳴を上げるバルトとアンジェリカ。その近くまでくると、包帯男は急ブレーキをかけ、膝に手をついて呼吸を整えた。随分荒い、そして濁った呼吸だ。あれだけの大立ち回りをして短距離選手のように廊下を走り抜ければこうなるのかもしれないが、それにしてもという安定しない呼吸だった。だから彼の息が整うまで、妙な沈黙と間があった。
「バルトとアンジェは、ここで増援を足止めしてくれ。僕はこのまま下層にナギを迎えに行く」
 その声を──
「……お? いや、えっと……」
 随分懐かしいと感じた。その感情だけは何の根拠もなかったが、確かなものだと思えた。ただ五感に自信は持てないから、バルトはどうしていいか分からず頭をかくだけだ。
「……了解! このまま時間を稼ぎます。隊長は下へ!」
アンジェリカの力強い応答に、男の包帯に覆われた目尻が少しだけ下がったのが分かった。男は眼を見開いたままのバルトにも目配せをして、その後はもう一度も振りかえることなく階下への道を突き進んでいった。黒いニーベルングだけが、変わらず彼の後を追っていた。
 アンジェリカはその後ろ姿を目で追いながら、泣き崩れそうになるのを必死に耐えた。瞳から溢れ出る涙は止められそうもないから、せめてしっかりと立っていなければと思った。ちょうどいいところに、ちょうどいい具合の木偶の坊が突っ立っていたからその腕を掴む。
「アンジェリカ」
「何よ、……いいでしょ、ちょっとくらい」
顔を上げた先で、バルトが泣いていた。すまん、と小さくこぼして空いている方の手のひらで顔を覆う。アンジェリカも、ゆるす、と小さく囁いた。


 本部塔の地下第二層は、一流ホテルのラウンジのようだった。アラベスクの絨毯がひかれ、広い空間の隅には会議用だか密談用だかのソファーが結構な数用意されていた。カタコンベとそう大差なかった宿舎塔の地下とは雲泥の差である。第二層に上がって、揺れは収まるどころかより一層激しく感じられた。天井が降ってくる可能性は、ここでは杞憂とはいえない。
 不透明な情報に、くだらない報告が続いた。次に階段から下りてくるのも、その類だと誰もが思っていた。が、その足音はどうにも不規則というか頼りなげに聞こえた。それが図らずも多くの注目を集める理由になった。
 足音の主は階段の陰に身を潜めたまま、なかなか姿を現そうとはしなかった。その行動が不審さに拍車をかけて、グンターの護衛である防護服たちは一斉に機関銃を構える。
 階段室から伸ばされたのは、黒い包帯が巻かれた腕とそこに握られた見覚えのある旧式の魔ガンだった。
「撃つな! 吹き飛ぶぞ!」
シグが必死に制した甲斐あってか、機関銃の引き金は引かれることはなかった。それはこちら側の話、階段室から突き出された魔ガンは、シグの叫び声を合図代わりに火を噴いた。整然としたラウンジは、爆発とそれによる爆風とでたちまちに景色が変わる。ニーベルングでも数体、一気に片づけられるバーストレベルの魔ガンだ。そんな魔ガンは、数えるほどしか存在しない。
(嘘だろ)
シグの中で主観と客観がせめぎ合う。
(そんなことは、絶対にありえない)
言い聞かせなければ、目の前の光景そのものに押し負ける。だが主観も客観もついには揃って肯定側に天秤を傾ける。──そんな魔ガンを手足のように扱える人間は、数えるほどしか存在しないと。
 一見すると浮浪者のような男だった。自身の身体も満足に支えられない負傷者であり病人だった。全身に纏った黒い包帯、それを覆うように更に黒いフードをかぶった男が立っていた。
「レイヴン、さん……? なんで、こんなところ、に」
 ナギはその男のことを見たことがあった。患者兼研究員としてウルズ大学生態研究所にいた男に相違ない。視覚情報は間違っていない。それなのに、一瞬、何故か別の名を呼びそうになった。全ての矛盾をあっさり塗りつぶすような何かが、その男にはあった。
 包帯の奥に見え隠れする目が細まった。この状況下でにっこりと笑ったらしい、その空気読まずな頬笑みは、間違いなくナギに向けられたものだった。
「約束を、果たしにきた」
 黒衣の男は随分穏やかな口調で、ただそう告げた。知っている声だった。
 シグは奥歯をかみしめた。認めたくない。認めたくなんかない。疑問符が次々とシグの脳裏をよぎり、形にならないまま渦巻く。シグにとって、その存在は今ここにあってはならないものだった。否定しなくてはならない。拒絶しなくてはならない。それがまだ間に合ううちに。
「サ……ク、ヤ……?」
 だからその名を呼ばないでくれ──名前を呼ぶとは、それがそこにいると証明すること。ここに居てほしいと渇望すること。ここに居ていいのだと、承認すること。
「サクヤ……!」
 ナギの絞り出すような声から逃れるために、シグは大きく嘆息してローグとヴォータンを引き抜くと、そのまま後方天井に向けて発砲した。弾幕はこれで充分。グンターたちには自分が足止めを買って出たように見えるだろうから、ほとんど自動的に邪魔者はいなくなる。去っていく足音を少しだけ気にかけながらも、シグは眼前の怪人に意識を集中することにした。
 あの日と同じように、またこの人と銃を向け合うのかと思うとうんざりする。しかも今度はどちらも魔ガンだ。
「どういうトリックを使ったか知らないけど、満身創痍ってかんじですね……。亡霊のあなたが、今更何の用です」
黒衣の男は、先刻とは打って変わって沈黙を守った。全身を覆う黒い包帯から唯一のぞく両の瞳は、シグの知っているその男の面影を残していない。それなのに。
「……今のあんたで、どう俺を止める」
 脳より先に、心が認めてしまっていた。目の前の男は、サクヤ・スタンフォードだ。シグがファフニールで撃ち、目の前でニーベルングと化したはずの退場者。
 動揺と混乱は抑えられるレベルをとうに越えていたが、シグは無理やりに思考を働かせた。
「やりようは、いろいろあるよ」
「そんな茶番に俺が付き合うとでも?」
 蘇ったなら、もう一度徹底的に潰すまで。
 サクヤに魔ガンの扱いで遅れを取るとは思わない。射撃速度、命中精度に関してはこちらの方が上だ。注意すべきは格闘になった場合だが、今ならその心配はいらない。どのようなカラクリがあるにせよ、サクヤがファフニール内のニブルをその身に受けたことは紛れもない事実だ。隅から隅まで汚染された身体で、どこまで動けるかは知れている。
 シグはローグとヴォータンの銃口をサクヤに向けた。それが開戦の合図になった。互いに惜しげもなく引き金を引く。ローグとヴォータンの二発を以てしても、サクヤの一発には競り負けてしまう。同じラインタイトで構成されているはずの弾丸は、二人の狭間で誘爆しフロアそのものを吹き飛ばすほどの爆風を巻き起こした。
 シグは煽られながらも、グンターたちが上っていった階段へ逃げ込んだ。酸素が薄い。息が上がっていた。
(ゲリラ戦になるとなんでこうも不利になるんだよ……!)
胸中で毒づき、ほぼ砂煙だけになった地下二層を後にした。ここに留まったら最悪フロアごと大爆発して生き埋めだ。普通は想定しない選択肢まで、残しておけなければならない。シグが相手取っているのは「ありえない」が辞書にない男だからだ。
 静かすぎる階段室、一段一段を慎重に上る。待ち伏せされている可能性、背後からの奇襲の可能性、そもそも階段で上ってくるという想定が間違っている場合もある。
(床つきやぶって出てくるってことも、ある、よな)
想像するにひどい絵面だが、だからと言って考慮しないわけにはいかない。
 地下第一層に出た。出てすぐに、床に何か宝石めいたものが無数にが散らばっていることに気が付いた。それがラインタイトの欠片だということに気付いたのは、足元が爆発を起こしたのとほぼ同時だった。シグは咄嗟に階段室に引きかえし、鉄製の扉を盾に直撃を免れる。
 直接ジークフリートを撃ったのでは威力が大きすぎてサクヤ自身も巻き添えを食う。それゆえに、むき出しのラインタイトを起爆剤にバーストレベルの低い魔ガンで攻撃するという策らしい。
「こういう手段をとってくるってことは、生き埋め心中は選択肢から除外でいいんだよなっ」
だったらこちらにも動きようがある。ばらまかれたラインタイトを逆手にとって、ローグとヴォータンの低いバーストレベルを補強できる。
 扉を盾代わりに、その隙間から適当な床を撃った。轟音と火柱があがる。バーストレベルの高い魔ガンをぶっ放すような開放感があった。が、手ごたえはない。
(間接じゃだめだ。直接、あてる)
視認できないのなら他の感覚に頼るしかない。何かあるはずだ。満身創痍で並以上の動きをとれば、どこかに綻びができるはず。聴覚を研ぎ澄ました。足音はしない。ただ、聞き慣れないざらざらとした空気の音が微かに鼓膜を揺らした。
 シグは再び、今度は適切に狙いを定め床を撃った。四散する閃光の中にサクヤの姿が見える。
ヴォータンを持ち直して一気に駆け抜けた。頭部めがけて腕を伸ばしたところで、突然に胃酸がこみあげてきた。サクヤの膝が綺麗にシグの脇腹に収まっている。蹴られたのは胴でも、ダメージはすぐさま脳と脚にきた。更に視界が暗転する。息もできない。激痛と混乱で何も考えられなくなった。何か樹の幹のような分厚くて固いもの──おそらくサクヤの腕か──が、背後からシグの気道を圧迫していることくらいしか分からない。
(まずい……落ちる……)
 手段を精選している余裕はない。もう一度、撃つしかない。下半身をまるごと飛ばしてでも、今撃たなければこれはまたゾンビみたいに蘇ってやってくる。それはもうごめんだ。
 力なく握っていたヴォータンを、手探りで自分の背中にねじこませた。と、覚悟を決めた矢先に呼吸が楽になった。無意識に酸素供給を優先させたせいで最善の瞬間を逃したのが分かる、サクヤはバックステップでとれるだけの距離をとった。
 最善を逃したとしても、直撃に至らないとしても、この一発には充分に意味がある。相手は装甲皮膚のニーベルングじゃない。生身の人間だ。シグは息を吸って、振り向きざまにヴォータンを、そして軌道を上向きにしてローグの引き金を引いた。
 足元のラインタイトも巻き込んで、空間が爆ぜた。熱風で肌が焼ける。全てを外側へ薙ぎ払おうとする強大な力に逆らってシグは立ち、かざした腕の下で舌打ちをするしかなかった。
 シグの必中の二発は、またしてもジークフリートに相殺された。だからシグとサクヤの間の空間が弾け飛んだのだ。ただ、それでいい。今一度自分に確認をとる。相手は生身の人間だ。そして、ニブルに全身を汚染された劣化品である。
「ほんとにどうやったら、そこまで動けるんです? サイボーグとかいうオチは無しですよ」
 白く霞んだ視界の中で、黒い男は異物としてよく目立つ。男は床に仰向けに倒れていた。静かになると、あのざらざらとした空気の振動が聞こえる。サクヤの呼吸音。どう聞いても、正常な人間のそれではない。シグは引き金に指をかけたまま、ゆっくりとサクヤを見下ろせる位置まで歩いた。
「ナギを……守るなら、優先順位が違ったんじゃないですか」
「そうなんだけど……シグを救うには、今しかないのも事実だった」
 勘弁してくれ、とシグは口の中で呟いた。
「いい加減悟ってくださいよ、あなたじゃ俺は救えない。あなたは、俺が欲しかったものも憧れたものも持ちすぎてる。……だからそれ持って、早く俺の前から消えてください」
すぐ傍で、一メートル四方の天井が崩落し音をたてて砕けた。そんなものに気をとられたつもりはない。ただ、その無遠慮な騒音のせいで聞き逃した音はある。サクヤのブーツの踵が鳴らした微かな金属音だ。
 そして彼は飛び起きた。踵に仕込んだ何とも単純な切り札を握り、シグに体当たりする。
「なん……っ!」
 勢いよく噴き出した血は、苦痛に歪んだシグの顔面まで飛んだ。燃えるような痛みが左大腿に広がる。ナイフの柄らしきものがめり込んでいた。いや、めり込んでいるのは刀身なのだろうが、それはもう視認できない。形勢は完全に逆転した。
「サクヤ……隊長っ!」
「普通は足を狙えば止まってくれるらしいからね」
サクヤの手元は容赦なく回る。握られたナイフの柄が回り、刀身がシグの中で回った。
 悲鳴を上げたのか、声にならなかったのか、とにかくシグの耳に自分の声は聞こえなかった。足に走った神経と共に意識が途切れ途切れになった。
「救えないなら全力で止める……!」
「それでも……!」
 黒い男の黒い瞳に、シグが足掻く姿が映る。シグは自分の姿よりもその瞳の色を見ていた。
 もっと淡い色だったと記憶している。そりゃそうか、肌も髪も真っ黒になって虹彩だけ元のまま、なんてことはないだろう。綺麗な黒だった。黒い色に綺麗なものがあるなんて不思議な気分だった。いや待てよ。そうでもないか。母もマリナも、その瞳の色は美しい黒に輝いて一度も濁ることがなかったのだから。
 黒くなっていく。意識が暗転する。自分の瞳はどうだったっけと、今まで気にも留めたことがないことを考えながら、シグは薄れゆく意識の中で天井に向けて魔ガンを放った。


 地上一階。本来静まり返っているはずの本部塔周辺は、ニーベルングの雄叫びと、魔ガンの発砲音、そしてグングニル隊員たちの怒号と悲鳴が響き渡っていた。
「撃て撃て撃て! ありったけ撃て! ここで潰せなきゃ市街に飛ぶぞ!」
戦艦一隻に数多の戦車で立ち向かうような、どこか虚しい光景だった。それ一撃で岩壁も貫くはずの魔ガンの光は、ただ照明弾のように暗闇を照らすだけだ。その度に、闇夜に白い悪魔の姿がはっきりと浮かび上がる。
「司令……! お下がりください! ……と、そいつは……レイウッド曹長、ですか。何故彼女が」
「さあな。じっくり聞きたいが、そういう状況でもない」
 ナギは背中を蹴られて膝まずいた。思いきり地面に打ち付けた膝よりも、後頭部に抑えつけられた冷えた銃口の方に意識が集中して痛みを感じない。
「問おう。貴様が、あれの扇動者か」
「扇、動……? 私が、サギの?」
どういう理屈でそうなるのか、という疑問が先行したが言葉にならない。奥歯がかちかち鳴っていた。視界は暗闇に光る銃口、扇状に広がるそれに埋め尽くされている。総司令が手ずから銃口を向けるという行為は、それそのものが合図になるらしい。加えて後頭部に、どうしようもない絶対的な感触がある。銃口という形のある殺意だ。
「こうなってしまってはどちらでも……同じことだがね」
撃鉄を起こす音が頭の芯まで響く。
 こうなってしまっては──そうだ、ナギは既にパンドラの箱を開けている。死ぬのではないかと思うことは、今までも幾度かあった。しかし、それをこんなにも理不尽で恐いと思うことは初めてだった。何の意味もないとは知りながら、固く瞼を閉じた。
「サクヤ・スタンフォードがニーベルングと隊を率いて機関に謀反を起こした! スタンフォードの腹心であるレイウッド曹長を今ここで銃殺刑とする!」
 次の瞬間、つまり最期の瞬間、頭の中いっぱいに響き渡るのは味も素っけもない銃声のはずだった。なのに響いたのはナギの名を呼ぶ、切羽詰まった聞き慣れた声。
 顔を上げた。それが最期でも構わないと思って、声の鳴る方へ視線を走らせた。
「サクヤぁ!!」
 降ってくる。
「撃てえええぇ!」
空から黒い塊が降ってくる。闇夜に溶け込む翼をはためかせ、一体のニーベルングと黒衣の男が降ってきた。
「司令! こ、こいつは!」
「スタンフォードだ! 構わず撃て!」
漆黒のニーベルングは短く一度だけ、雄々しく吠え、両の羽を広げたかと思うとサクヤとナギをすっぽり覆い隠してしまった。ナギの視界はそれきり真っ暗になる。黒いニーベルングの翼に包まれ、全身黒い包帯の男に抱かれれば当然といえば当然。絶え間のない銃声は、どこか別次元の音のように遠くに聞こえた。
 急ごしらえのシェルターの中でサクヤはまず安堵の溜息を漏らした。
「本当にすごく……間一髪だったな」
再び深い、深呼吸にも似た安堵の吐息。その熱を持った息は、直接ナギの額にかかり瞼にかかった。しかし現実味はない。理解が現実に追いついていない、と言った方が的確か。何か言わねばと思うのだが、ナギの脳裏には何一つ言葉が浮かばない。ただ“壁”の外で鳴りつづける銃声を聞き、自分を抱く男の胸が上下するのを見ていた。
「おいサクヤ。生きているか」
突然、頭の中に直接響くような低い低い声が反響し、ナギは思わず身を強張らせた。
「生きている。心配いらないよ」
「そんなものはしていない。生きているなら役目を果たせ。私はいつまで撃たれてやればいい」
状況から考えて、その声は明らかに盾代わりとなってくれているニーベルングのものだった。鶏が、格の高いニーベルングは人語を解すると言っていたのを思い出した。サクヤは自分たちを包むその“壁”と会話をしている。妙な話だが、ナギはそこにようやく現実味を見出せた。ニーベルングと笑いながら気易く会話を交わす、この男がサクヤ以外のなんだというのだろう。
「そうだな……カラスがいくら鉄壁でも魔ガンが出てくるとまずいね。……ナギ? 大丈夫だよ、そう簡単に彼は崩れない」
 ナギは大急ぎでかぶりを振った。不安はもうない。泣きたいわけでもない。それなのに涙は意志とは無関係に流れて落ちる。どこまで馬鹿になってしまったのだろう、自分の涙腺は。
「そうじゃない。サクヤ、もういい。……もういいの。約束は果たされた」
「……まだだ。生きて、動いている間は君を守ると約束した」
 ナギは、何かを言わねばと思った。漏れるのは堪えに堪えた嗚咽ばかりだ。これでは何も伝わらない。懺悔も、後悔も、ありったけの感謝も、何にも代えられないこの特別な感情も。言わねばならないと思いつつ、言葉では足りないとも思った。どうしようもない。お手上げだ。涙は途中から悔し泣きになった。不甲斐ない自分に涙。
 顔を上げないナギの前髪に、サクヤは静かに唇を乗せた。
「カラス。飛ぼう。行ってほしいところがある」
「私は構わないが、羽を広げれば蜂の巣になるぞ」
「死なない程度にうまくやるよ」
あまりに笑えない冗談を言いながら、サクヤはごそごそと上着の中をあさる。その手に握られた二丁の魔ガンはどちらも見覚えのないものだった。片方をナギへ手渡す。
「地面を撃って煙幕を張る。……変なところ撃つと甚大な被害が出るから気をつけてね」
つまり、ちょっとでも照準を上方へずらすと死体の山ができあがるよ、という意味であるが、どういう言い方をしたとしても同じだ。
「バーストレベルは高い方じゃない。早撃ちしても二発、それでも死角はできるからタイミングが悪ければこちらが撃たれる」
「……うまくいけば無傷で逃走」
「無傷、はどうかなあ。そこは、カラスのスタートダッシュがどれほどのものかにかかってるから」
煽ったつもりだったが、盾役のニーベルングは我関せずを決め込んでくれた。
 ナギは渡された無銘の魔ガンをしげしげと眺め、今度は率直に浮かんだ疑問を口にした。
「ジークフリートは、どうしたの?」
「うん、ちょっとね。今はある人に預けてある」
「……サクヤ。私、この半年で早撃ちが少し向上したの」
「それは頼もしいね」
「あなたは?」
サクヤは微笑したまま凝固した。
「え。いや、僕は……」
「三発撃つ。死角があるならなくすまで」
 言葉にはならなかった。しようがなかった。だから彼女は、自分が一番得意とする方法に気持ちを乗せることにした。グングニル小隊八番隊隊長の完璧な補佐を──彼が立案する全ての作戦を成功に導く、そのために自分ができる最善の働きをするまで。
 ナギはサクヤの腕をすり抜け背を向けた。というより、勝手に背中を預かることにした。その背を通じて、サクヤが笑ったのが分かる。本当はその顔が見たかった。が、それはここを切り抜けるまでとっておくことにした。願掛けみたいなものだ。
「ナギ。──作戦の本質を見失わないように、気を引き締めて行こう」
それは懐かしい作戦開始の合図だった。ナギの口からも思わず笑みが漏れる。
「そうだね。了解、サクヤ」
 名前を呼び合う。それは、そこにいると証明すること。ここに居てほしいと渇望すること。ここに居ていいのだと、承認すること。

episode xiv 君と凪の丘で

 この不躾で物騒な集団がそこまでの気をまわしてくれる所以はないから、最後の客が出て行った後になだれこんできたのは偶然だと思われた。入り口ドアを乱暴に押しあけてわらわらと店内に展開。制服はグングニル機関のものだが、構えている銃器は対人用だ。
 アカツキはカウンター奥で訳も分からないまま両手を挙げた。カリンがフロアに居なかったのは不幸中の幸いかもしれない。彼女は厨房で皿洗いに勤しんでいた。
「サクヤ・スタンフォードがニーベルングと隊を率い、グングニル塔を襲撃している。共謀の疑いが高いアカツキ・スタンフォードを拘束する」
「いやいや……。何を今更」
疑問符を浮かべる前に、集団の先頭にいた隊員が律儀に説明してくれた。が、どうにも腑に落ちない。例の馬鹿でかい、白いニーベルングの強襲なら今までにも数度あったが、こんなふうにグングニル隊員が押し掛けきたのは初めてだ。監視は常にあったものの、それは逆にアカツキたちの身の潔白を証明するシステムになっていたはずだ。
(ナギとシグが何かヘマしたのか? ……って聞くわけにもいかないしな)
あまりにも身に覚えが無さすぎて、頭がまわらない。共謀と言うなら、その対象はサクヤよりもナギとシグのほうがはるかに納得できる。たまに食事と寝床を提供して、愚痴を一通り聞いてやって、必要なら物資を仕入れてもやった。その結果がこれだとしたら、なかなか割に合わない役回りだ。しかし今はそもそも二人の名前が出てきていない。
「サクヤくんが……見つかったの?」
カリンが厨房の陰から顔を出した。父に向けられている銃口に驚いたように目を見開き、誰に言われずともすぐさま身を縮こまらせて引っ込む。
「パパ……。何これ、ど、……どうするの……?」
「ちょっと待てカリン。パパも今いろいろ考えてる最中で……」
珍しく思考がままならない。というのも、先刻から何かとてつもない違和感が、どっかりと脳内に居座っているからだ。しかも、カリンがそれに拍車をかけた気がする。
(なんだなんだ~? なんかどいつもこいつも妙なこと言ってたぞ~。がんばれ俺! 俺の脳細胞!)
「パパ~……」
「両手を挙げたまま後ろを向け。妙な真似はするな」
 急かさないでくれ。そして今、新たな指示を与えないでくれ。アカツキは歯を食いしばって唸りはじめた。
「アカツキ・スタンフォード!」
湯だった頭でこちらが妙なことを口走れば、カリンに伏せていたあれやこれやがばれてしまう。カリンは察しも良ければ機転も利くし、頭の回転も早い。それだけじゃなく家事全般こなせるし、店の手伝いだって手伝いとは言えないレベルでこなしてくれる。さすが我が娘、なんという器量の良さ! ──などと逃避している場合ではない。とにかくカリンが不審に思わないように何かうまい説明を、と苦肉の策をひねり出そうとした刹那。
「サクヤ……?」
頭の中のフィラメントが、接触が悪いなりに明かりを灯そうとしている。
「そうだよ、パパ。サクヤくん、グングニルを攻撃してるって……なんで……?」
背後から聞こえる不安をいっぱいに積載したカリンの声。それで、アカツキの脳内接触不良も無理やりに改善されることになった。何故今になって急に、サクヤの名前が表舞台に浮上するのか、それが違和感の正体に間違いない。
「……じゃあまあ、大人しく投降するとしますか。言っておくが、カリンに手ぇ出そうものならそこそこ大事そうな情報なんかぜーんぶ溜めこんだまま自害してくれるからなっ」
彼らが望む類の情報はどの引き出しを開けても入っていないが、ここは嘘も方便はったりも命綱である。
「パパ……!」
飛び出してこようとするカリンを後ろ手で優しく制して、アカツキは無防備のままカウンターの外へ出た。そのままグングニル隊員に連れられ、店の外へ。確認したかったのは、塔の様子だ。いつかの夜と同じように、白い白い巨大な異物が塔にへばりついていた。そこだけが薄ぼんやりと光って見える。周囲の空が生き物のように蠢いていた。
 アカツキはぼんやりと見える塔を視界の中央に捉えながら、横目でグングニル隊員たちの襟章を確認した。一番隊。確か、初動調査や偵察を主要に行う「身の安全最優先集団」だったか。ナギの愚痴がこんなところで役立つ知識になるとは、などと苦笑が漏れる。賭けではあるが、前線で活躍する小隊よりも遥かに勝率は高そうだ。と、覚悟を決めた折、隊員が所持していた無線が不躾に叫び声をあげた。
『全グングニル隊員は黒いイーグル級を最優先! そいつを駆っているのがスタンフォードだ、三番隊はスタンフォードを狙撃! これを撃沈せよ!』
 ほら──。
「馬鹿じゃないの。私たちに人間を撃てって命令?」
 ほら見ろ。神がどうかは知らないが、振られた賽の目は最終的に正直者の味方をしてくれる。ライフル型魔ガン「クリエムヒルト」を肩に担いだ、小柄な戦乙女が店の外に立っていた。アカツキは万歳したまま「よう」などと場違いな声をかけた。ユリィは不快をこれでもかと言わんばかり顕わにして、すぐにまたいつもの涼しげな表情に戻す。
「三番隊。そんな人畜無害なニーベルングに構っている暇があるなら、目の前の撃つべきものを撃ちなさい。私もそうする。命令は以上」
「カーター少尉! どういうつも──」
「それはこっちの台詞でしょう。私の家族に乱暴な真似して、撃たれないなんてふざけた選択肢があるとでも?」
 吐き溜めの汚物でも蔑むような目は、はじめから一番隊の連中に向けられたものだった。クリエムヒルトは長距離、狙撃に特化した魔ガンだからこの場でユリィに蜂の巣にされるなんてことは冷静に考えればあり得ない。しかし一番隊の身の安全は十二分に揺らいでいることは明白だった。三番隊の「目の前」は基本的にスコープ越し、最大二キロ。加えてユリィのカリスマはグングニル小隊随一、彼女の命令に背く隊員はあの隊にはいない。それが知れているから、本人がこの場で何をしなくてもユリィの存在はそれそのものが脅威になる。
「で、どうするの。早く決めて実行してほしいのだけど」
「……は?」
「遅いと言ってるの。待ってられないわ。撃ってさっさと次に行く」
ユリィの静かなる怒気は嘆息と共にものの数秒で殺気になった。大惨事になる前に、アカツキが動く。隙だらけの両サイドをたたいて、先導していた隊員の後頭部を打つ。拍子抜けするほどうまくいった。アカツキの大活躍の間に、ユリィはのんびりとボルトを起こし、とりあえずとばかりにクリエムヒルトを構える。
「もう少し早くこういう風にしてくれればよかったのに」
業を煮やしたのはアカツキに対してだった。
「いや、待て。助けに入ったんだろう、チビスケは。それより大丈夫なのかグングニルってのは……俺は一般市民だぞ」
「退役軍人のことを一般市民とは呼ばない」
「それはそれ、これはこれだ」
 そもそも身の潔白が証明されてから久しいアカツキ一家を、今更拘束しようなどという判断自体が愚かである。まともな指揮系統が機能していないのだろうか。それは塔で咆哮をあげる白いニーベルングが立証しているような気もした。
「ユリィちゃん!? が、追いかえしてくれたの?」
「カリン、出てくるなって言ったろ」
 店の玄関から顔だけを覗かせたカリンが驚愕の声をあげる。
「アカツキが一人で蹴散らしたのよ」
「おいユリィ……」
そうに違いはないが、その言い方は幾分大げさだ。カリンは「パパかっこいい~!」などと興奮しているが、実際一番隊を撤退させたのはユリィの存在とそこにもれなくついてくる三番隊という背後霊的威圧である。
「黒いニーベルングをサクヤが駆ってる、か。……有り得な……くは、ないところが嫌なところだよなあ、あいつの」
「ニーベルングって人が乗れるのね。知らなかった」
 一難去ったところで、悠長に空を見上げて各々感想などを述べる。
 星も無ければ月も無い。妙な空だった。濁ったヘドロを垂れ流したような、重く息苦しい風が時折吹く。音声になる内容とは裏腹に心臓は早鐘を打つ。サギの存在は、世界をまるごと別物に変えてしまったような気配さえ漂わせていた。
『ユリィ隊長~? 随分のんびりしてますけど、そろそろ合流してもらえませんかねー! 黒いの、ミイラ男と美女が結構派手に応戦してくるんで人畜無害とは言えないかんじになってますよ~!』
無線から陽気な声。三番隊の補佐官、オーウェルだろうか。
「ミイラ男と……」
「美女だって。ナギさんかしら? 相変わらずいい御身分」
ユリィは無意識にまた眉間にしわを寄せて嘆息した。根拠はないが、その不釣り合いなコンビがサクヤとナギであろうことを疑わない自分がいる。二人がセットとして揃ってしまったなら戦況は派手にならざるを得ないだろう。うまく収拾せねばなるまい。
 ユリィは再びクリエムヒルトを肩に担ぐと、アカツキに目配せだけしてグングニル塔へと走った。


 グングニルの主力は、本部塔に張り付いたままのサギをひたすらに撃ち続けていた。絶え間ない爆発と轟音で敷地内にいる全ての者が、敵味方関係なく視覚と聴覚の精度を失っていく。その傍ら、黒いイーグル級ニーベルングは片翼を閉じたまま演習塔の中腹にへばりついていた。無論好き好んでこの体勢をとっているわけではない。こちらも魔弾の雨にさらされている。
「万策尽きたか、サクヤ」
カラスは閉じた羽の中で、弾切れの、すなわち完全完璧お荷物でしかない人間を二個抱えている。煙幕作戦は思った以上にうまくいったが、それは飛び立つまでの話だった。魔ガンの花火が咲く夜空を、自分ひとりで逃げ切ることも難しいのに、背中に丸腰の人間など乗せては飛べるはずもない。結局、カラスは再度盾としてサクヤとナギを抱え込むことになった。
「うーん……レベル5の魔ガンがあれば、状況は違ったんだろうけど」
「たらればの話はするな。意味がない」
「ほんと、君はよく人語を理解してるよね? 感心す──」
「サクヤ」
ナギがぴしゃりと声を張る。代替案どころか状況すらよく分かっていないから、この場は黙って見守ろうと思っていたのだが、どうにも耐えきれなくなってつい諌めてしまった。ニーベルングの片翼に二人揃って抱かれていては、互いにどういう表情をしているかは全く見えない。いつも通りなら──昔と変わらないのならば──彼は鳩が豆鉄砲をくったような顔で固まっているのだろうが。
「……ナギ。もしかしてフェン先生から、グングニルのエンブレムを預かってない?」
「え、ある、けど」
「だったらこの場は切り抜けられる、かもしれない。ただ一歩間違うと本当に大量虐殺者だ。失敗する可能性もある」
「こんなの今何の役に立つの」
「それは最高純度のラインタイトでできてる。つまり世界で一番強力な爆発物ってことだ」
「即席の、魔ガンってこと」
「そう。コントロールは一切利かないけど、ね」
 狙った場所で、すなわち演習塔と地面との狭間、誰もいない空中で大爆発してくれれば逃亡の足がかりになる。ただ、その成功率が分からない。
「こうしていてもカラスが落とされるだけだ。迷っている時間はない」
サクヤらしからぬ、自分に言い聞かせるような物言いだった。言いながらごそごそと右手でハンドガンを抜く。これでエンブレムを撃ちぬいて暴発させる。すがるにしては強大すぎる藁だったが、覚悟を決めた。
 エンブレムの鎖を引きちぎってサクヤに手渡した。その瞬間に大爆発! ──の衝撃と轟音が盾の外で展開した。カラスの足元のフロアに巨大な横穴があく。訳が分からない。二人でエンブレムを握りあったまま仲良く顔を見合わせた。この場で唯一状況を呑みこめていたのは、一部始終をしっかり両の眼に収めたカラスだけだ。
「飛ぶぞ! 歯をくいしばれ」
 悲鳴を上げたり、うろたえたり、そういう恐怖の共有手順を一切合財省略して、二人はカラスの背にしがみついた。今の今まで守ってくれていた翼が開かれる、途端に生ぬるい風が直接肌にぶち当たった。生ぬるい、というより猛烈に熱い焔の風だ。
 誰かが、撃ってほしい当にその場所に魔ガンを撃った、ということだけが分かった。本当はもう少しだけ分かっていることがあったが、互いに確認している余裕はなかった。ブリュンヒルデやジークフリートに匹敵する高いバーストレベルであったこと、おそらく本来の狙いとは少しずれた位置で爆ぜたであろうこと。考えられたのはここまでだ。余裕がない。飛び立つきっかけにはできたが、ニーベルングの背に屋根はないから無防備のまま上昇するしかないことにかわりはない。
 ナギは自分の腕の隙間から、眼下の光景を確認しようと首をひねった。それを遮るように、サクヤの腕が全てを覆う。だから聴覚だけがやけに鋭敏になった。魔ガンの発砲音が聞こえる。聞き慣れた、聞きあきた、何故か絶対的な安心感のある早打ちと連射の音。演習塔の外壁近くで十六発の濁った花火が咲いた。小爆発を繰り返し、ただでさえ視界が悪かった夜の闇は更なる煙のヴェールで覆われることになった。煙と爆音と熱風に覆われた薄汚い夜になる。
「魔ガンで弾幕張るっていうのは、こういうことを言うんだよ」
 シグは手持ちのラインタイトが尽きるまで演習塔を撃った。五階から上がぼろぼろとお菓子の塔のように崩れていく。ストレス解消にはちょうど良かったのかもしれない。ローグとヴォータンの役割は終わった。空撃ちの情けない音までをしっかりと聞き、三本目の魔ガンと入れ替えた。
「冷静沈着のモンスターだと思ってたけど、そうでもなかったのかな」
柄にもなく、苦笑を洩らしながら独りごちた。あのまま、どこかの誰かさんの、下手くそ極まりない援護射撃がなかったらサクヤたちはどうするつもりだったのだろう。あれのおかげで、シグも結局、反射的に引き金を引いてしまった。ほとんど無心、無意識でからだが勝手に動いてしまった。
 意識がちらつく。こういうのを朦朧というのだろうか。感覚がないようで痛みだけがしっかりと支配する左足を引き摺って不様にここまで来た。サクヤは詰めがあまい。毎度、意図的にあまい。それとも彼の知るシグ・エヴァンスは、こういう目も当てられない醜態は晒さない男だったのだろうか。
「まあ今となっては……どうでもいいことばっかりなんだけど」
そのどうでもいい独り言を、また声に出した。少し鼓膜がおかしい。そういうことを確認するためでもあったが、だからといって何がどうということもない。
 視界がとんでもなく悪い。全ての音が籠って聞こえる。バランス感覚もない。ただ立っているだけのつもりなのに、世界がゆらゆらと振り子のように左右に揺れた。足の痛みがなければ今すぐにでも寝てしまいそうなほど全身が疲れ切っていた。それらが全て、今はとるに足らないことだと思えた。
「あんたたちは選ばれるのか、弾かれるのか」
常に共にあった三本目の魔ガンを構える──いや、何なら構えなくたっていい。どこを狙ったっていい。狙わなくたっていい。それでもそれが、銃の体裁をとっているからどうしても銃口を誰それに向けるというポーズになってしまう。
 誰かが「ファフニールだ!」と叫んだ。それが起爆剤になったらしく、パニックになった。サギが居て、ついさっきまで黒いニーベルングにも翻弄されていたわけだから、はじめからパニック状態は出来上っていたのだが、それに輪をかけてひどい、無秩序な世界となった。
「サクヤ隊長」
もう見えない。ここにはおそらくもう、居ない。だから言える。
「俺は、あなたになりたかった」
 去年の誓願祭で、そう願った。ミドガルド郊外でファフニールを撃って、誰とも知れない人の形をした何かがニーベルングになるのを見届けた後、教会のいつもの席に座りこんでそう願った。
 優しくて温かい場所に立ってみたかった。大切な人を守ってみたかった。自分の存在に胸を張ってみたかった。そして、たった一人で構わないから、誰かの光になってみたかった。
 その願いは概ね満たされたのかもしれない。期間限定ではあったけれど、子どものごっこ遊びの延長でしかなかったけれど、憧れただけあって悪くない役どころだった。
 シグは虚ろな視界の中にグンターの姿を見つけた。お決まりの荘厳な儀式のように、銃口をその男に向けた。
「さあ、──審判の時間だ」


 頭の中に、心臓の奥に、肌の表面全てに、風の音がする。それがとにかく轟音で、目も開けていられない。当然考えなど、まとまるはずもない。
 ナギが断片的に見たのは惜しげもない精密な連射による、完璧な弾幕だった。ほんの少しずつ着弾点をずらしていたから広範囲に渡って視界が遮断されたはずだ。だから今、こうして無事に離脱できている。訳が分からない。状況はこんなにも瞬時に理解できたのに、文脈が理解できない。あれはシグにしかできない芸当だ。
 ごうごうと風の音。それしか聞こえない。自分が今どこに居て、どういう状況にあるのかが曖昧になっていく。ごうごうと風の音。自分が曖昧になっていく。溶けていく。流れていく。境界のない、輪郭のない、何にでもなれて何にもなれない、感覚だけが唯一の自分の証明だったが、それも風に混ざっていく。ごうごうと風の音。それが過ぎ去るのをただ待った。
 しばらくだか一瞬だか、意識していなかったので時間の感覚はない。気が付いたときには無音になっていた。それはそれで居心地が悪い。ナギは音を探した。草をかきわける柔らかな感触を覚えると同時に、リンという鈴の音が耳元で鳴った。それで慌てて飛び起きた。飛び起きてすぐ、どうやら自分は寝ていたらしいと気が付いた。まさか。あの状況で。なんたる太ましい神経の持ち主か。自分に嫌気がさす。
「気分はどう?」
間髪入れず、最悪だと答えたかった。しかし顔をあげてすぐ、ナギは口をつぐんだ。目の前でサクヤが笑っている。いつものサクヤだ。ナギがよく知る、柔らかい笑顔と銀の髪。
「……悪くない、と思う」
 もう一度確認をする。瞳に映るのは黒い包帯男ではなく、昔のままの姿のサクヤだ。夢なのかな、という割と短絡的な結論に辿り着いた。全ての矛盾をもれなく解消するにはこの結論が一番だ。そうでなくても、この場所は美し過ぎる。およそ現実という血生臭い世界とは同一視できない景色が広がっていた。
 視界一面に真っ白な、羽のような花が咲き乱れている。どこを見渡してもユキスズカの花。恥ずかしそうに、嬉しそうに、全てを許すように優しく、リンと鳴って花弁を開く。目で追えないくらいに、あちこちで花開いた。
 ナギが座りこんでいる地面は仄かに温かい。心地よい温かさだったが、サクヤが立ちあがるのに合わせて手を差し伸べてきたから、ナギもその手をとって立った。 
「いつかここに、君を連れてきたいと思ってた」
「ここって……夢の、中?」
サクヤは一瞬だけ目を丸くして、こぼれるように笑った。違うともそうだとも言わない。ただ笑うだけで、答えはないようだった。ナギもそれで良かった。
 ざっという音と共に風が通り過ぎた。ユキスズカたちは、皆一様に身を逸らせてしなやかに揺れた。ヘラの秘密基地に似ている。日が昇ってから暮れるまで“彼”といろんなことを語り合った、あの場所に。
「ヘラの人たちは、この花をノウヤクイラズと言ってたんだったよね? 調べて分かったんだけど、その名前はあながち間違いでもなかったんだ」
「土を綺麗にしてくれるんでしょ?」
「うん。実は根を中心に、強力な浄化作用がある。毒素のある地盤に根を張ると、その毒素を吸い取って花は黒く咲く。地盤の浄化が終わると花は元の真っ白な色に戻る。……だからニブル汚染の進んだイーヴェルは一面に黒いユキスズカが咲いていたんだ。あそこはまだ、浄化途中だったんだよ」
土が付着した状態で、根株ごとユキスズカを持ち帰ったのは正解だった。花弁の色素にばかり目を奪われていたら、ただのニブル汚染された花で終わっていたに違いない。イーヴェルの土中に正常な虫が住んでいたことも一役買った。
「僕はこの花が、ニブル病治療の鍵になるかもしれないと思った。……賭けた、と言った方が正しいかもしれない」
 フェンが実験していたマウスでBルート進化──元の形状を保ったまま、ニブルに適応できたのはアルブマウスのごく一部だけだった。同様にBルート進化したと思われるヒトは“ヘラの生き残り”。両者には、高濃度ニブルを瞬時に大量摂取したという、基本要素以外の共通項が必要だった。アルブとヘラ。二つの点と点を結ぶのが、ユキスズカでは? と。
「よくそんな……突拍子もない仮説に辿り着くね? や、平常運転か」
「突拍子なくないよ。君が言ってたんだよ? 『根っこを煎じてお茶にしてた』って」
「私?」
──言った。
「そう、君」
確かに言った。そしてそれは事実だ。母が毎日、お手製のおやつと一緒に淹れてくれた甘いお茶。ナギはそれが好きだった。よく知っている白い花が主成分だと知っていたから、その甘美な味をこっそり楽しむために、好きな男の子とだけ共有するために、群生地を秘密基地にした。アルブマウスがユキスズカを煎じて茶になどするはずはないから、彼らはそのまま根を食用にでもしていたのだろう。雑食万歳である。
「でも……だったらなんで。父も母も、他の子たちだってお茶は飲んでた。私ほどじゃなくたって……なのに」
「ヘラには“遺体”があった。あそこに居た全ての人間がニーベルング化したわけじゃなかったってことだ」
その記述は確かに地下資料室にあったものだ。二番隊の報告書に記されていたものをナギも読んだ。
「父も母も、ニーベルング化した」
「……思い出したの?」
「扉を、開けるだけだったから」
その表現がサクヤに通じるとは思わない。通じなくてもいい。それ以上に補足ができないのも事実だ。心の中の鍵付扉の奥で、母はニーベルングになって殺された。グングニルの地下三番目の扉の奥で、父はニーベルングになって人を殺した。ユキスズカの摂取がBルート進化とやらの鍵だったのなら、何故二人は人として死ねなかったのだろう。
「身体そのものを急速に自然改造するわけだから、抗体のでき方や速度に個体差は少なからずあったと思う。子どもの方が作用しやすかったのかもしれない。……どっちにしても、絶対という保証はないよ」
「難しい、ね」
 シグは、運だと言った。サクヤは同じ話を確率の問題だと言う。突き詰めれば同じことなのかもしれない。何もかも正確に、寸分違わずレシピ通りにやっても、最後は神の裁量ということなのだろうか。難しい。それが当然だと割り切ることが、こんなにも難しい。
「……それでも、君やシグ、あのときのヘラにBルート進化して生き残った人がいたというのも事実だ。だからこれは、賭けだと思った」
「サクヤ、あなたもしかして」
「それは順を追って話すよ。ナギにファフニールの話をした後……つまり、君と気まずくなってしまった後、という意味だけど。僕は、ユキスズカの分析とその結果をフェン先生と共有するためにアルブをたびたび訪れていた」
「アルバート・フェン、か」
ナギが惜しげもなく眉を顰める理由は、言わずとも知れている。その名の男は、すべての中心に腰を据えていながら無関係を装い続けたペテン師だ。彼女とシグがフェンに面会していたことを“レイヴン”であったサクヤは当然知っている。
「彼は根っからの学者気質というか、野心家で知的好奇心に忠実な人だ。結果を出すという一点において最善の手段を選ぶところがある。それは否定しない」
「やけに肩を持つ」
「恩師で恩人であることに変わりはないからね。彼の協力がなかったら、僕は今ここに居られないわけだから」
「それは……そうかもしれないけど」
サクヤにもナギたちにも協力的であったのは、彼らがフェンの求める結果を出すための優秀な駒であったからだろう。フェンに悪意はない。そして善意もない。こちらが勝手に彼の掌の上で踊っていただけだ。
「先生の話は少し置いておいて、アルブでもうひとつ出会いがあったんだ。再会、かな?」
サクヤは肩越しに振り向いて、遠く木陰で羽を休める黒いニーベルングをナギに紹介した。魔ガンで痛めつけられた翼や背を労るべく、猫のように身体をまるめてくつろいでいる。こちらにはほんの一瞬視線をよこしただけで、概ね興味はなさそうだった。
 ナギは何とも言えず、馬鹿みたいに口を半開きにするだけだ。やっぱりそうなんだ──という、とても今更な理解と納得を抱く。サクヤが塔の地下に現れた後、怒涛のように事態が動いていったから確認している余裕がなかった。サクヤの登場以上に、ある意味で予想外すぎたのがあの黒いニーベルング“カラス”の存在だ。
 サクヤは、カラスともこの場所で再会したのだと言う。アルブ北部の丘陵帯。サクヤの生まれ故郷である町からほど近い、ユキスズカの群生地。サクヤがナギに見せたいと言った、ナギが夢の世界だと言った、美しく幻想的なこの場所で──。


 ユキスズカ草の持つ浄化作用をニブル病の特効薬として応用できないか、というサクヤの提案にフェンは歓喜した。狂喜した、というべきかもしれない。ニブル研究の第一人者は仮説とも呼べないこの段階で、なぜか絶対の自信と確信を持っていた。サクヤはサンプルと実験結果をフェンに引き継いで、定期的に様子を見に来ることにした。
 そういうことをざっくり取り決めた帰りの話である。アルブのこぢんまりとした駅まで、白衣を着たままの研究員が血相を変えて走って来た。彼の嘆願を要約すると「丘の上にニーベルングが出た。何とかしてほしい」といった内容だった。研究所の人間のほとんどは、サクヤがグングニル隊員であることを知っていたから(しかも彼は時折制服のまま訪ねたりもしている)、サクヤが帰郷していたことは不幸中の幸いだとでも思ったのだろう。が、サクヤの反応は鈍かった。
「こんなところにニーベルングか。参ったなあ……」
後頭部をぽりぽりと掻く。彼が帰郷しているということは、つまり本日は非番。魔ガンを所持していない。
「し、市街は大騒ぎですよっ。どどどどどうしたらいいですか、僕らも逃げた方がいいですかっ」
研究員はサクヤの応答をとかく無かったことにして、市街と自身の震撼具合を猛烈にアピールした。そうこうしている内に中央グラスハイム行きの列車が到着し、サクヤは思いきりそちらに視線を移動させた。冷静に、冷徹に考えるならばこのまま列車に乗り込み、報告なり応援要請なり、あるいは出撃準備などを整えて臨むべきだ。
「サクヤさぁん!」
「一応行ってはみるけど、討伐はできないよ」
ひとまず実物を見てから決めようという気になった。このまま帰ろうものなら次回からは研究所に入れてもらえないかもしれない。
「好戦的なタイプなら今の僕には手がつけられないから、避難誘導に徹することになる」
「そのあたりはお任せしますよっ。っていうよりですね、なんか空からドカーンって降ってきてそのまま動かないっていうか……死んでるんじゃないかって」
「墜落したってことかい?」
「どうなんですかね、分からないですよそんなのっ。動かないってだけで、いつ突然動き出すか考えたら逆に恐いじゃないですか。死んだふりしてるだけかもしれないですし」
「おもしろいこと言うなあ」
同じような台詞をどこかで聞いたことがあるような気がする。が、思い出すには至らない。真剣に考え込むような状況でもなければ、サクヤ自身もその必要性を感じていなかった。ともあれ暴れ狂って周囲はニブルだらけ、地獄絵図だ、なんて情報よりは遥かに有難い。純粋に好奇心を優先させるだけで良さそうだった。
 丘の上に続く小道は、一人で上った。このあたりの土地勘には明るいから案内は必要ない。街の人たちは思い思いに避難したり家屋に閉じこもったりしたらしく、不自然なほどに人気がなかった。そのせいか、よく知っている風景が別物に見える。静まりかえった空気に、鈴の音が響いた。
 上りきった先の高台は、その場所だけ世界から切り離されたような、現実離れした風景が広がっていた。視界いっぱいに咲くユキスズカの花。一際強く吹いた風に逆らうわけでもなく、なぎ倒されるわけでもなく美しく揺れている。と、その美しさに感嘆を漏らしている場合ではない。一面真っ白な世界に、その黒い点はどうにも目立ち過ぎていた。
(黒い、ニーベルングか。めずらしい、ような……いや? どこかで……)
 事前情報通り、その黒い塊は花畑の真ん中でうずくまって動かない。だからサクヤも躊躇せず突き進んだ。不発弾の解体を命じられたような気分だ。近づきながら視覚情報を整理する。とにかく黒い。イーグル級相当。動く気配、未だなし。
 既視感は常にあった。その正体は、目標物まで数メートルという近距離にまで近づいて、ようやく判明した。
「え……」
 風の音、鈴の音、それだけの音の世界にサクヤの声は不協和音だと言わんばかりに悪目立ちした。今の今まで微動だにしなかった黒い塊が、おもむろに首をもたげる。ニーベルングの翡翠のような両の目には、あんぐりと口を開けたサクヤの姿が映し出された。刹那。
 ぶふっ──凝固していた表情筋が緩み、あろうことかサクヤは笑いを噴き出した。
「いやっ……申し訳ないっ。だけどその、あまりにもその格好は……」
 ニーベルングの漆黒の翼は、いたるところに白い物質がへばりついていた。練乳を撒き散らしたお菓子のようでもあり、鳥のフンを一身に浴びた哀れな彫像のようでもあり、兎にも角にもお粗末だ。いや、見ようによってはお洒落かもしれない。などと視点を変えようと努めてはみたが、残念ながらその手の芸術性はサクヤは持ち合わせてはいなかった。だからどう足掻いても笑いが出る。多少の罪悪感を抱くのは、この白い物質、特殊な蝋を彼にぶちまけたのが八番隊だからである。
 このニーベルングの個体識別名は“カラス”。宗教都市リベンティーナで、サクヤ指揮のもと八番隊が意図的に討伐失敗、逃亡させた曰く付のニーベルングだ。
「ご挨拶だな。こうして討たれるリスクを冒してまでお前に会いに来たのだが」
低い低い、よく通る声が鳴った。サクヤはそれ自体にはたいして驚きを見せなかった。ニーベルングには知性がある。感情もある。それがどの程度かは測りかねていたが、人知を超えたレベルであることはこれで証明されたようなものだ。カラスの会話に驚きはしなかったが、おかげで笑いは沈静化した。
「君は人語を理解しているんだね。……というより、自由自在に操れる? ひょっとして他のニーベルングも」
「当然だ。音声による情報伝達に一定の規則が設定されているだけだろう。暗号性のないちゃちな規則だ。理解するなと言う方が難しい」
「言語学者が泣きそうな台詞だ」
 無理をせず会話が成立する。それは互いに敵意がないことの確認でもあった。サクヤにしてみれば魔ガンを所持していないのだから敵意の出しようがないのだが、そもそも、彼はニーベルングに敵意というものを抱いたことがないような気もした。個人的な恨みがないのだから当然と言えば当然だ。サクヤの中で、ニブル病とニーベルングの因果関係は、悔恨の念を直接結びつけるようなものではなかった。
「会いに来たって言ったね。僕にかい?」
「そうだ。あの塔にまで押し掛けるのはリスクが高すぎる。お前の行動パターンは予測しづらいが、ここには定期的に訪れているようだった。人目は避けたつもりだったが……うまくはいかないものだな」
「君はその……目立つからね」
 この世界には調和しない、異端の漆黒。こんな明るい内から飛びまわって、よりにもよってこの当たり一面真っ白な地に降り立てば、どんなに視力が悪くても見つけてしまう。しかしそれで良かったのかもしれない。夜に来られたのでは、肝心のサクヤも気付かない。
 しばしの沈黙が訪れた。カラスが本題をなかなか切り出そうとしないからだ。危険を冒してまでわざわざサクヤに会いに来たのだ、それ相応の目的があるに違いないのだが。何かこの場にふさわしい世間話はないかと、サクヤが模索し始めた矢先、カラスが重い口をきった。
「リベンティーナの時計塔で、お前が言っていたことがどうしても気にかかった。人間が組織化し我々を狩るのは、あくまで手段だと。そして、その手段は変えられると」
サクヤは頷いた。そこまであけすけな表現をした覚えはないが、今はそれについて細かく論じるときではない。
「そうだね。少なくとも僕個人はそう考えている。君たち側にも、それは当てはまることだと思うんだけど」
「だろうな。だからこそこうして、お前に会いにきたのだ」
「……話が見えないな。僕に何の期待を?」
「我々の目的は侵略と蹂躙ではなく、救出と奪還にあると明かした場合、お前ならどういう手段を選ぶのか興味があった」
「いや、明かした場合って……」
もはや仮定になっていない。この黒いニーベルングは、意志伝達のための言語のみならずユーモアの類にも精通しているのか。それとも至って真面目なのだろうか。
「グングニルの塔には我々の王たる個体が捕らわれている。お前たちが名付けた識別名は“鶏”、はじまりのニーベルングという意味らしいな。王には他のニーベルングにはない、特別な責務と能力がある。次代のニーベルング……数にして三億の新しい命が詰まった卵【エッグ】を産みおとすこと、それが、王が王たる所以でもある」
「へえ……。各個体に生殖機能はないみたいだから、どうやって種の存続をはかってるんだろうと思っていたけど、そういう仕組みなのか」
サクヤは素直に感心だけを顕わにした。空の亀裂の向こう側には、専制君主制のニーベルング国家が存在する。その王は全てのニーベルングの頂点であり、母である。その仕組みだけで十二分に興味深い。
「救出するのはニーベルングの王“鶏”、で、奪還するのはその“卵”」
サクヤの独り言のような確認に、カラスは静かに頷いた。そして、サクヤが疑問符を投げかける前に、いくつかの補足説明を行った。【エッグ】には新しい生命と、既存のニーベルングのためのニブルを生成する機能があること。ニーベルングの国家【ニブルへイム】ではエッグを産みおとすものを絶対とする王制に異を唱える者が出始め、内戦状態にあったこと。王である【鶏】を逃し、無事に卵【エッグ】を産おとすため、空の亀裂を作ったこと。
「ムスペル上空の亀裂は、君がつくった?」
「……そうだ。緊急措置として、こじ開けた。だから閉じることはできない」
サクヤは再び派手に感心し、間髪いれず渋い顔をしてみせた。
「今のところ、こっちの世界はとばっちりを受けているっていう印象しか受けないな」
「そうだな。ファフニールさえ作らなければ、お前たち人間の所業は正当防衛の範囲内だっただろう」
 サクヤの顔色が変わった。彼が纏っていた空気が、といったほうが的確だろうか。
「ここでその名前が出る、か」
思わず漏れたのは苦笑だった。歪に組み立てていた仮説の塔を更地に戻し、カラスが無造作に投げ入れた正しい部品を加えて、もう一度積み上げる。面倒な思考の作業だった。が、出来上った新たな仮説には一切の揺らぎがなかった。
「派閥に関係なく全てのニーベルングが強行に及ぶのは、エッグがこちらの手中にあるせいか」
 魔ガン“ファフニール”は、原初の魔ガンでも、現在の魔ガンの試作品でもない。人が持ち得ない「力」を制御し、所有するために作られた欲望の産物である。一方、その核となる卵【エッグ】は、ニーベルングにとって生存と種の存続に不可欠な代物。彼らの世界はエッグを中心にまわる。だから今人々が暮らすこの世界で、ニーベルングはまわっている。
「そのとおりだ。お前はやはり察しがいいな。我々はエッグ無しには生きられない。体内のニブルを使い果たした者から滅びる運命にある。さあ、こちらの事情は飲み込めたか?」
「だいたいね」
「では改めて問おう。お前は、手段を変えられるか?」
「……ひとつ質問がある。そのエッグを君たちの元に返せば、ニーベルングは人間を襲わなくなる?」
「さあな。お前たちは我々の怒りを買った。エッグが戻れば良しとする者もいれば、もはや怒りが収まらない者もいるだろう」
 芳しくない回答だ。ニーベルング側の要求はそれに尽きるのだろうが、見返りが曖昧すぎる。それともフェアトレードを想定している時点で間違っているのだろうか。
 サクヤは口元に手をあてがって、長いこと唸り声をあげていた。カラスはこれ以上何も話すことはないとでも言わんばかりに、堂々と構えているだけだ。
「質問追加。その“鶏”が既に死んでいる、という可能性は?」
「ゼロだ。王が絶命すれば、卵【エッグ】が孵化する。そういう仕組みになっている」
「なるほど。王という名の、切り替えスイッチみたいなものだね」
「……否定はしない。どうあれ、その存在は特別なものだ。他のニーベルングにはない業と役割、責務がある。我々は、その存在を王と呼び、ふさわしい終わりのときまで導き守るだけだ」
 カラスは、さもそれが唯一の正しさであるかのように言いきった。サクヤは考える素振りを続ける。これに似た話を、知っていた。特別だからと特別な名前で呼ばれ、その業に追いたてられ、逃げながら居場所を探し続ける──その人に、ここに居てほしいと言った。それだけで、彼女はとても美しく笑って泣いた。
「君は、“鶏”を守りたいと思っている」
「……そうだ。質問はあとどれくらい増える?」
「今のは確認だよ。僕と君は基本的には利害が一致する。だから協力はできると思う。……だけどその先が必要だ。鶏に会ってくるよ」
 カラスの翡翠の目が大きく見開かれた。その中で、サクヤがなんだか満足そうな笑顔を浮かべている。カラスはサクヤに賭けてここへ会いにきた、そう知った時点で心は決まっていた。ニーベルングには、目的があった。対話する手段があった。そうとなれば、こちらがとる行動は劇的に変わる。会って話せばいい。武器をとるかどうかの判断は、それからでいい。
 それから彼は研究所へ戻り、事の次第をかいつまんでフェンに伝えた。単なる相談のつもりだったが、事態は思わぬ展開を見せることになる。フェンは何のつもりか、自身がグングニル機関創設の関係者であることを明かし、積極的に下層へ潜入する便宜をはかったのである。フェンにとっての桃源郷・ニブル環境に完全適応するための扉が開かれた今、鶏も、それを隠すためだけに存在するグングニル機関も、無用の長物と成り下がったのかもしれない。
 サクヤは、グングニル塔の下層に潜入し、ナギと同じようにひとつひとつの真実を暴いていった。はじまりはムスペル地区で発見された鶏と卵、それらの力に魅入られた三人の研究者。彼らは目的を違え袂を分かちながらも、どこか同じ思想を共有し世界のねじれを一定に保ちつづけた。ねじれを正そうとした一名を除いての話だ。その綻びは、新たなねじれを生んだ。
 最下層で対面した鶏は、やはり自分を殺すよう懇願した。それが唯一の救いの道だと悪びれもせず語った。
「……すまないがそれはできない。僕があなたを撃てばエッグが孵化してこっちの世界はめちゃくちゃになる。それにほかのニーベルングの怒りも止められない」
「なるほど、全て承知済みというわけか。であれば、去れ。私はもはや、それ以外の方法でお前たちを許す術を持たない」
「そんなことはないんじゃないかな。僕は何とか、あなた方のもとにエッグをお返ししたいと思っている。全ては無理でも、それで戻るものも確かにあるはずだ。……だから、取引をしませんか」
「取引、だと」
「ええ。中身はシンプルです。もし、僕が無事にエッグを取り返すことができたら……あなたには、他のニーベルングを連れて亀裂の向こう側の世界へ帰ってもらいたい」
「随分虫の良い話を思いついたものだ。今更エッグを取り返そうなどとは思わない。私はただ死を迎え、この世界を塗り替える」
「それはあなたの自己満足に過ぎない。あなたが王だというなら、死を望む前に果たすべき責任があるはずだ」
 この、城のように巨大なニーベルングが、王という名の冠を与えられただけの飾りでないのならば。いや、希望的観測は持たない方がいい。例え飾りであったとしても、その責務だけは果たしてもらわねばならない。
「お前は、人間の責任のために動くのか」
「僕は王じゃないから、そんな大層な責任はない。あなたに課せられたものよりもはるかにちっぽけな責任と、いくつかの約束があるだけ」
 その腕で守れるものは、そんなに多くはない。そのくらいの弁えは持っている。それでも、限られた命の時間でできるだけ何かを守ろうと、残そうとして生きてきた。命の逆算出。それは億劫ではあるが、それほど難しいものではない。できることと無理なことが明確になった。した方がいいことと、しない方がいいことに折り合いがつけられた。伝えるべきことと、伝えてはならないことに細心の注意が払えた。
 ただ何事も計画通りにはいかないもので、サクヤは自分で取り決めたはずの短い人生設計の中で何度かぼろを出している。とりわけナギに対しては致命的な「しない方がいい」ことと「伝えてはならない」はずのことを、うっかりやらかしている。挙句、「生きている限り」などという期限つきの、逃げの一手を講じることになった。何度思い返しても苦笑しか出ない。そのいくつかのぼろのおかげで、欲が出たのも確かだった。
「昔、お前と同じことを言った娘がここへ来た」
 サクヤがぼんやりと自分の半生を振り返っている間に、鶏は何かしら決断を下したようだった。
「え? 取引? えぐいですね」
「そうではない。エッグを返す、といった娘だ。お前と同じ魔ガンを使っていた。澄んだ眼、闇を知らぬ眼をしていた。そして闇に呑まれて……死んだらしい」
「……らしい、か」
「ここへはその息子がニブル供給に来る。人間風情がどういうわけか、ニブルを無毒化できる術を持っているようだ。……エッグを持っているのはその男だ」
無造作にばらまかれた情報に、サクヤは強い眩暈を覚えざるをえなかった。
 記憶が正しければ、ジークフリートを所持した女性隊員は今までに一人だけ。総司令の亡くなった妻で元二番隊所属のイオリ・グンター。子どもはいなかったはずだが、その情報操作が易いことは想像に難くない。
「男はエッグの中の濃縮ニブルを定期的に放出している。暴発を防ぐため、らしい。健気なことだ。奴は私を哀れだと言うが、私はこの男こそがこの世界で一番哀れな装置に思える」
「少し、黙ってくれないか」
サクヤは手持ちのカードを一枚一枚頭の中でめくっていった。不正に入手した隊員健康診断の結果。家族構成と養子縁組の情報。所持している魔ガンの記録。そして誓願祭の夜の、行動。
「名を、教えようか」
「いや……必要ない」
鶏が、その皮だけの口角をあげた。サクヤの苦悩が彼には大変に嬉しい見世物だった。
「心当たりがあるようだな」
そのどうでもいい追いうちに、サクヤは答えなかった。


「それからは、シグの経歴と動向を徹底的に洗った。もともとフェン先生がかんでたからね、あの人からの情報も合わせれば、ファフニールのガンナーを特定するのは難しくなかった。どこかの段階でシグと話をする必要があったから……そのために、保険としてユキスズカを摂取しはじめたんだ」
 サクヤの足元で、またユキスズカの蕾が花開いた。アルブではプロポーズに使われる祝福の花。ヘラではお茶やお菓子として振舞われ、農地の浄化に一役買う花。
「シグにファフニールを撃たれたときの保険、という意味よね。それは」
「あわよくば説得、無理ならファフニールの奪取にこじつけるつもりだった。結果は両方失敗に終わったんだけど。だから、保険をかけていた方の作戦でいくことにした」
「それが“レイブン”として動くことだったの?」
「あー……いやー、あれはね。正直予想外だったというか、予想以上だったというか」
今までの淀みない口調とは打って変わって、サクヤはお茶を濁す。ナギはわけがわからないから、素直に疑問符を浮かべるしかなかった。待つこと数十秒。愛想笑いで誤魔化し続けるサクヤの代わりに、彫像のように身じろぎひとつしなかったカラスが文字通り首をはさんできた。
「吐くほど得体のしれない薬を摂取した割に、肝心のニブル抗体とやらが思ったよりもできていなかったというわけだ。サクヤの当初の計画では、ファフニールは無効化できるはずだった」
「あ、なるほど」
「うんまあ……そういうわけで、生死の境を行ったり来たりしながら、思いっきり重度のニブル病患者に扮して(というよりそうせざるを得なくて)、再起を待つかんじになっちゃったんだよね」
「死ななかっただけマシという捉え方もある。そもそもあのくそまずそうな胡散臭い薬が、ファフニールに対抗できたというだけで奇蹟だ。一歩間違えば本当に我々の仲間入りだっただろうに」
カラスは暇を持て余したのか、積極的に話に首をつっこんでくる。その上どこで覚えたのか、やけに人間味あふれる単語をチョイスして、ユキスズカの新薬がいかに生理的に受け付けないものかをさりげなく、かつ直接的に教えてくれた。
「黒いボロぞうきんのようになったサクヤを塔から連れだすのに、私は相当な苦労をしたのだ」
「……その話ならもう何度も聞いたし、お詫びもちゃんとしたよね?」
「この娘にはまだ話していない」
「いや、そうかもしれないけど……」
二人の会話に割り込む形で、ナギが笑いを噴き出した。
「仲がいい……っ」
改めてそう思うと、何とも微笑ましい光景だった。想定外だったのは、カラスのとっつきやすさだ。このニーベルング、リベンティーナの時計塔では、この世のものとは思えない凄まじい執念で壁にへばりついていたはずなのだが。
「その解釈はいささかずれたものだな。私とサクヤは協力体制をとっているにすぎない。いわば契約上のやりとりだ」
ずれているのはあんたの方だと指摘してやりたかったが、どう考えてもこの手のタイプはまともに相手をすると面倒そうだ。ナギは顔を背けて笑いをこらえながらも、あのとき起こったことへの疑問を解消しておくことにした。
「それならそれで構わないんだけど。塔から連れだしたってことはつまり、やっぱりあの白いニーベルングは全く別ものってこと、なんだよね?」
「“サギ”だね。彼があのタイミングでグングニル塔に現れたのは全くの偶然だった。運が良かったというか悪かったというか……。シグも含めてほとんど全ての人を目を欺けたという点では助かったというべきなのかな」
 抜群としか言えないタイミングで登場し、あの超コンドル級ニーベルングは人々の目を奪った。シグは苦しむサクヤを最後まで見届けることなく退室したせいで、他の者同様にサギのことを、サクヤがニーベルング化したものだと思いこんだのだ。機関が、白い翼の巨大ニーベルング=サクヤ・スタンフォードだと認識したことで、サクヤはニブル病患者のレイヴンとして暗躍することがより容易になったわけである。
「サギこそが、反王政派の筆頭だ。あれは自分の力を誇示し、エッグを手中に収めるためにグングニル塔を襲撃している。……見ての通りの脳足らずだ」
「その反王政のサギ派と、現王政の鶏派……を動かしているのは君だから、今はカラス派ってことになるのかもしれないけど、とにかく両勢力のニーベルングがグングニル塔上空に集結しはじめているみたいだ」
第二防衛ラインが落ちたことも、サギがグングニル塔を再び強襲したことも、すべてはここで勝負をしかけるためだったのかもしれない。
「君は、どうしたい?」
サクヤはごく自然に、ナギにその判断を委ねた。
 またザッと音がして一陣の風が通り過ぎた。ナギの髪を流し、ユキスズカの花弁が舞い、視界を覆う。一瞬サクヤが見えなくなった。その一瞬が過ぎても彼は消えずにそこにいた。
 風が止む。恐ろしく澄んだ世界だった。微動だにしない空気を揺らすのは、足元で懸命に咲くユキスズカの開花の音だけになった。凛と咲き、凛と鳴る。散り際までも美しく、それはまるで天使の羽のよう。
「この時間が、とても好きだ」
サクヤは独り言のようにそう呟いた。
 無音よりもはるかに静寂と呼ぶにふさわしい凪の時間。目を閉じても、そこに現れる暗闇はどこか優しかった。耳をすませば聴き慣れた鈴の音が鳴る。その音が、正しい方向へ導いてくれる気がした。
「サクヤ……もう一度だけ、私を助けてほしい」
「君が望むなら、何度でも」
優しさと自信に満ちた笑顔──それはとても、サクヤらしい表情のように思えた。ナギにも自然に笑みがこみあげてくる。
「グングニルの塔へ飛んで。あの場所で、全部終わらせないといけない」
「分かった。だったらこれは、君の判断に任せる」
サクヤはそれをジャケットの内ポケットから引き抜くと、そのままナギの手に握らせた。驚愕と緊張でナギは目を見開いた。一部始終を見ていたカラスも同様の反応を見せた。
「これ……どうして、サクヤが」
「最後の仕掛けが思いのほか上手くいった結果、かな」
何でもないことのように言ってのけるサクヤ。ナギは開いた口が塞がらないようで、半開きのままやっとのことで愛想笑いを浮かべるだけだった。カラスはこれに関しては口を挟まず、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「不服そうだね?」
「……約束が違うように思うが、仕方がない。彼女の判断とやらが間違っていた場合は、私が手を下せばいいだけの話だ」
当然の権利だと言わんばかりに、何食わぬ顔で物騒な台詞を吐くカラス。その態度に合わせてサクヤも動じず笑顔で切り返した。
「不服なのは君だけじゃない。君らニーベルングの覇権争いにまで手を貸すなんて言った覚えはないからね。追加の担保だよ」
笑顔は保ったままとにかくさらりと、しかし視線はどこか冷やかだ。付き合いは浅いはずだが、カラスはサクヤのそういった機微を読めるようになっていた。これ以上は皮肉を吐かない方が懸命であると判断。ニブル混じりの鼻息を吐きながら、指図される前に両の羽を大きく広げた。そしてもう一度、世界のねじれの中心地、混沌と化したグングニルの塔を目指して飛んだ。

episode xv バゲットの中の美しい世界

 この世には、人の姿をした人でない何かが巣食っている。
 十一年前のあの日、世界はたったそれだけのことを強烈に、そして鮮明にシグの脳裡に刷り込んだ。柔和な笑顔で踏み込んでくる男、言葉巧みに愛を語る女、公明正大な振舞いの若者、人畜無害な佇まいの老人──見かけに騙されてはいけない──分厚い皮を一枚剥げば、みんな同じ、ただの化け物だ。

 *

 日付はとっくの昔に変わっていた。
 グラスハイム市上空の夜空は、ひしめき合うイーグル級ニーベルングで覆われている。何百という数の暗灰色の身体と翼が上下する、その様は地上からは雨雲が蠢いているだけのようにも見えた。ただ滞空しているだけでは飽き足らず、縦横無尽に飛びまわる者もあり、塔の延長線を中心軸に旋回している者もある。いずれにせよ、空は右も左もニーベルング一色であった。
 上空約三千メートルの位置からも、グングニル塔ははっきりと確認できた。塔そのものというよりは、そこに寄生したサギの巨体を参照物体として輪郭を把握できているのだろう。月が地上に落ちたかのように、サギとその周囲だけがおぼろげに明るかった。
 ナギはカラスの背から身を乗り出して、変わり果てた空と大地の光景を見比べる。ただ、息を呑むしかなかった。現実離れした現実が広がる。いや、亀裂の向こう側の現実が、この世界を侵食しようとしているのか。
「落ちて死にたいのか。大人しくしがみついていろ」
騎乗マナーを守らない新規の乗客に対して、カラスは律儀にそんな注意をしてしまう。してもしなくても凄まじい風圧で、乗客の身体は自動的にカラスの背に押し付けられた。
「ここに集結してるニーベルングたちは、サギが呼び寄せたんだよね……?」
「半分はそうだろう。もう半分は寄り集まるサギ派を追ってきた鶏派だ」
「えーと……私にはちょっと、見分けがつかないけど。半分はあなたの仲間、ってことでいいのね?」
こうも臨戦態勢に入られると敵だろうが味方だろうが恐怖でしかないが。
「そうだ。私が何かの拍子にむしゃくしゃして、お前たちとの協力関係を解消しない限りは、無茶な行動には出ない。半分はな」
 ナギは苦笑いを返すしかできない。大真面目なのか冗談交じりなのか、カラスの発言はいちいちそのあたりが分かりにくいのだ。隣で、黒い包帯を爽やかにはためかせている誰かさんと良い勝負かもしれない。などと、悠長に構えていられたのもここまでだった。
 地上でサギが咆哮をあげる。長く、低く、大音量。上空の風をものともせず、広範囲にわたって声は響き渡った。すると、滞空していたサギ派のニーベルングたちも共鳴し、一斉に吠える。これにはナギも、そしてサクヤも思わず耳を塞いだ。
「なにこれ……っ、うるさっ」
「リベンティーナでの、カラスの鳴き方と同じだね」
 サクヤのあっさり爽やか塩味風味の言い草に、ナギだけが目を剥いた。聞いたことがあるだとか、似ているね、ではなく「同じだね」。断言である。
(どうしよう……ついていける気がしない)
いや。いやいやいや。諦めるには早い。ここ数年は何度となくそういう感覚に襲われ、その都度適応してきたではないか。半年間のブランクがナギを弱気にさせているだけだ。などと自らを鼓舞するために、人知れずかぶりを振った。
「集合の合図、というわけだ。大将自らが先陣を切るとは、笑わせてくれるじゃないか」
(あなたもやってましたけどね?)
突っ込みが追い付きそうにないので、こちらに関しては早々に諦める。
「これだけ集まっておいて、まだ増えるってこと?」
「咆哮は亀裂の向こうにも響く。あっち側で我関せずとだらだらしている連中も、これを機に腰を上げて参戦してくるかもしれん」
「勘弁して……」
「そうならないように円く──いや、最小限の被害でおさえたいものだ」
そこは言いなおしてほしくなかったところだ。カラスはどこまでも客観的すぎる。そういうところが、サクヤと気が合うのかもしれない。
 ナギは横目で、相も変わらず落ち着き払った様子のサクヤを盗み見る。全身に巻いた黒い包帯はところどころ解けかけていて、それが風に吹かれて元気にはためいていた。隙間からのぞく肌も黒い。今さら注視しなくとも、それが重度のニブル病患者の姿であることをナギは知っている。かつては彼女自身がそうだったし、ヘラにはこういう出で立ちの人が少なくなかった。
「どうしたの?」
「あ、ううん。何でも」
 さっきユキスズカの丘で話したサクヤは、以前の姿のように見えた──とは言えずに、言葉を呑みこんだ。半分夢の中にいたような曖昧な感覚と記憶だ。自分の都合の良いように視覚と認識をすり替えただけなのかもしれない。
「そろそろ降下しようか。最終確認はいるかい?」
ナギは静かにかぶりを振った。最優先事項は鶏の死守、そのための動きは今細かく取り決めてもおそらく意味を成さない。サギを早急に討伐せねばならないかもしれないし、あるいはこの空のニーベルングを殲滅せねばならないかもしれない。場合によっては、まずグングニル隊員を蹴散らすという、タイムロスを強いられるかもしれない。状況は刻一刻と変化していたから、その都度最短で最善の判断をしていくしかない。
「りんきおうへんに」
「それしか無いからね」
何かの標語みたいに一言一句をはっきり発音するナギ。サクヤは笑いを噛み殺しながらも同意を示した。
 滞空しているだけのニーベルングの群から抜け、カラスだけが急降下を始めた。その背にしがみついている人間二人。風圧で目も開けられず、轟音で会話も困難になる。風の音に混ざって爆発音が響くようになった。おそらく魔ガンによる砲撃を受けている。が、カラスが降下速度を緩めるつもりはなさそうだ。
「ねえ! このままだとあなた! ヤキトリになっちゃうんじゃない!?」
臨機応変にとは言ったものの、カラスにはその意図が正しく伝わっているのだろうか。猛烈に不安に襲われたが、今更どうしようもない。
「例えの下品な女だな。魔ガンごときで燃え尽きるほど、私の皮膚装甲はやわではない」
「それはそうなのかもしれないけど!」
 確かに、リベンティーナでブリュンヒルデを連発しても貫けなかった皮膚だ。説得力はあるが、グングニル隊員の総攻撃となると話は違ってくるのではないか。
「相手が通常の魔ガンなら、表面がかりかりに焦げるくらいで済むはずだ。僕らは応戦できないし、今は信じて引っ込んでるしかないね」
 言っている傍から、一発もろに頭部を直撃したように見えた。衝撃と熱風の残りかすのようなものがナギとサクヤの肌にも刺さる。
「い、生きてる!?」
「問題ない。このまま降下する……が、最終的にどこに着陸すべきなんだ?」
「どこ? どこって、そりゃ!」
 ──グングニル塔の一階部分、中庭には数多の隊員たちがサギの応戦に汗を流している。そこに再び乱入しようものなら場は大混乱、逃げ場も無い。では塔の屋上か。着陸自体の安全性はぐんと増すが、目指す場所が最下層だということを思えば、ハイリスクローリターン以外のなにものでもない。どうも自分たちは、ねじれの中心地に合流する前から詰んでいる気がする。
 唸ったままのナギの隣で、サクヤはあろうことか上半身を起こして下界を覗きこんだ。
「……主塔の五階部分に、僕らが開けた横穴があるはずだ。そこに滑り込もう」
「乗客二名の安全は保障できんぞ」
「自分の身は自分で守るよ」
サクヤは手ぶらで、根拠のこの字もない満面の笑みを浮かべた。繰り返すが、彼は手ぶらだ。ついでに言うとナギもそうで、彼らは揃って愛用の魔ガンを所持していない。にも関わらず、この落ち着きようである。
 所属も階級も、もはや不明のグングニル隊員たちが、自分たちの判断だけで迎撃に当たる。彼らが目視できる位置まで降下したが、夜の闇を味方につけたカラスに一発を食らわせるのは至難の業だった。それでも射撃技術の高い隊員は当然いるし、バーストレベルの高い魔ガンを惜しげもなく撃ってくる輩もいる。それに当たるか当たらないかは、もう運としか言いようがなかった。その不運の部分が、一直線にナギとサクヤ目がけて飛んでくる。
 ナギはなす術もなく、固く瞼を閉じることしかできなかった。その刹那、特大の花火が頭上で弾けた。その花火は、少しずつ軌道をずらしながらカラスの周囲でいくつも咲いた。その光景も、それを作り出した技術も、全てが鮮やかだ。
「当たりそうなのだけ相殺してあげるから、後はうまくやりなさい!」
 演習塔の屋上に、小人がいた。いや、小人サイズのスナイパーが。彼女がいくら叫んだところで、カラスの背に乗った二人に聞こえるわけはないが、ちょっときつめの激励が飛んできたことだけは伝わる。
「ユリィ、隊長……!」
「さすが、抜群のタイミングだね」
魔弾相殺のド派手な花火は、間髪いれずに何度も宙で弾ける。ユリィの的確な射撃と、それを補佐する三番隊の援護射撃が、カラスの周囲に鉄壁の守りを施してくれた。無数に飛び交う魔弾を、着弾寸前で撃ち抜いて爆破させる──なんて神業を、三番隊はいつもの訓練の延長のように軽々とこなす。一周まわって気味の悪い集団だ。
「どぉーせ『ありがとう! 素敵! ユリィ隊長!』しか言ってないんだろうけどさー! ばっちりしっかり俺らも援護しちゃってるからね~! ナギさん、これ高くつくよ~!」
 クリエムヒルトよりも幾分バーストレベル(というより貫通力)が高い爆発が続く。ユリィ翻訳機改めユリィの金魚のフン、改めユリィの補佐官オーウェルだ。何故かはわからないが、彼の雄叫びだけはこの爆発音の中、内容までしっかり聞こえてくる。それなのに姿は見えない。恐すぎである。
 ともあれ、道は開けた。カラスは鼻で笑った後、言われたとおり忠実に主塔を目指して滑空した。
「おい、サクヤ。五階部分の横穴っていうのはあれか? 突っ込みづらいな……」
「? 割と広めに壊したつもりだった、け、──カラス! 一度上がってくれ!」
カラスは舌打ち代わりに少量のニブルを吐いて、大きく一度両翼を羽ばたかせると、目的地寸前で急ブレーキをかけそのままふわりと六階部分へ浮上した。その足元を、戦艦の主砲のような魔ガンエネルギーの塊が通り過ぎて行った。遠くで地鳴りがする。
「指示が遅い」
「君の報告が遅いんだよ……」
報告というのは先刻の世にも分かりづらい愚痴のことだろうか。五階横穴の奥にカラスが見たのは、隊列を組んで待ちかまえる六番隊の姿だった。地下へ向かう際にこてんぱんにやっつけてしまった報復が、今返ってくるとは何とも間が悪い。しかも指揮系統が整ったらしく、それなりに整然とした隊列が組まれている。あれを丸腰で突破するのは流石に自殺行為だ。
 魔ガンを持った相手には、魔ガンで太刀打ちするしかない。しかしその肝心要の魔ガンが自分たちの手元には無い。臨機応変さも元手が無ければ机上の空論だ。
「ナギちゃ~ん! 隊長~! うまくよけてねー! でっかいやつ、行っくよー!」
 足元で、聞き覚えのある気だるい声がした。気付きも確認も中途半端なまま、結果だけがすぐさま返ってきた。「でっかいやつ」は、先刻の六番隊キャノンに負けず劣らずの威力で三階部分の内側から放たれた。爆音と砂煙があがり、壁が吹き飛ぶ。五階と同じように歪な横穴ができていた。
 ナギは落下すれすれまで下方に身を乗り出した。新たにできた三階横穴で、声の主らしき人影が揺らめいた。
「マジどんくせぇなあ! さっさととっとと降りて来いっての!」
人影は、いつのまにやら「でっかいの」の引き金を引いた人物にすり替わっていた。口が悪い。態度が悪い。ついでに言えば命中率も悪い。そのくせここぞというときは絶対に外さない、質の悪い安心と信頼のある男、リュカだ。
「ナギちゃん! とにかくこっち!」
忙しく手招きするマユリに従って、カラスは無理やり急降下すると三階部分にヘッドスライディングで着陸した。乗客の安全などはお構いなしである。カラスの背中から投げ出されたナギの目の前に、ゆっくりと手が差し伸べられた。
「……大丈夫?」
「いったー……大丈夫。ありが、とう」
 予感はあった。その手をとってそれが確信に変わるや否や、ナギは突撃するように目の前の人物に抱きついた。手を貸しただけのつもりだった男は、ダイヤモンド以上の硬度でその場で固まる。
「ひゅーひゅー。やだー。サブローさん、その役おいしー」
「ばっ! 違う! なんだよ、ナギっ、相手間違えてるよっ!」
「そうだよナギちゃん。隊長の前でそれはまずいよー」
「はあ? たいちょ、わあぁぁぁ! ナギ! マジなにっ、なんなの! 隊長! 違います、マジで!」
サブローはサクヤの姿を目にするなり、コアラのようにくっついたナギを力づくで引きはがしにかかる。何故この女は、よりにもよって自分を選んでこういう面倒くさい事態をつくってくれるのか。
「ナギぃぃぃ!」
べりっというお粗末な効果音と共に、だっこちゃんが引きはがされる。そしてそれは、サブローにとって、より最悪な状況を作ることになった。
「うわぁ……泣ーかした。サブローさんが泣ーかしたぁ」
完全に他人事のリュカが、話をややこしくしてくれる。そういう技術にだけは長けた奴だ。
 ナギの涙は後から後から溢れて止まらなかった。両手で瞼を覆っても、指の隙間から零れて落ちる。嗚咽だけはかろうじて堪えた。そのせいで言うべき言葉が喉を通らない。
「みんな……ごめん。ありがとう」
言葉はある。胸の中に山ほど。が、音声として伝えられるのはそれが限界だった。後はかみしめた唇に遮断される。
 サブローは短い嘆息で呼吸を整えると、顔を上げないままのナギの頭の上に手を置いた。
「ナギが謝るようなことは何も……ないだろ。それを言うなら、こっちの方で」
「言ってどうこうなるってわけでもないと、俺は思うけど」
「それをお前が言うのかよ……」
リュカは茶化した風ではあったが、顔つきはいつになく真面目だった。お見合い状態のサブローとナギの間に割って入る。
「俺は謝らない。俺たちに与えられた情報でサブローさんは的確な判断をしたし、それを信じたのは俺自身だから」
「うん。わかってる」
「とか何とかかっこいいこと言いながら、さっきも今もナギちゃんたちのアシストを買って出たのは、リュカさんなんだけどね?」
「うん……っ。それも、わかってる」
 あのピントのずれた援護射撃がなければ、ナギたちはそもそもここから離脱できていなかっただろうし、運よく事が運んでいたとしても五体満足とはいかなかっただろう。あの瞬間から、ナギの冷えきった心は少しずつ解凍されていた。今は仄かに温かい。
「どーせ戻ってくんだろうとは思ってたけど、ほんとに戻ってきたっつーか、早すぎんだろ。はぁ~あ。もうちょっと俺が持っててやっても良かったんだけどなー。ま、しかたねーか。はい、じゃあ質問です」
なんだこの展開、と思いながらもナギは適当に相槌をうってリュカのペースに合わせる。調子が狂うと思ったのは一瞬で、どうやら狂っていた調子が元に戻りはじめているようだった。証拠に、このくだらない応酬はどこか心地よい。
「あなたが落としたのはー、こっちの超高性能高バースト魔ガン“ヴェルゼ”ですかー? それとも、こっちの超扱いづらい常時暴発気味の魔ガン“ブリュンヒルデ”ですかー? ドッチデスカー?」
「……は?」
ここにきて、垂れ流し気味だった涙がぴたりと止まった。宣言そのままに、リュカの右手にはヴェルゼが、左手にはブリュンヒルデが握られている。まるで手品で鳩でも出したかのような、不思議な空気が周囲に漂った。黙って事の次第を見守っていただけのサクヤも、この光景には眼を剥いている。
「どっちだよ。魔ガンの泉の精霊は、この後も多忙でケツカッチンなんだから、さっさと選べって」
「え、あ、はい。すいません。そっちの、ブリュンヒルデだと、思います。……え。なんで?」
「ブラボー! 正直者のあなたには、このブリュンヒルデに、なーんと予備の魔弾カートリッジ3セットをつけてプレゼントっ。これであなたも役立たずからご卒業! ちゃきちゃき前衛で働けよ~」
手品師=リュカはナギの疑問の一切を解消する気もなく、ブリュンヒルデの上にカートリッジを次々と重ね、ひたすらに満足そうだ。ナギは疑問符の矛先をサブローに向け直す。
「シグがブリュンヒルデに発信機をつけてたろ。それを利用して、こっちでも信号が追えるようにしておいたんだ。それがこんな形で役に立つとは思ってなかったけどね」
「取り返して……くれたの?」
「それはナギの手元にあるべきものだろ?」
「ほんっとにさー、ナギは魔ガンの管理が甘すぎるんだよな。ここ一年で何回没収されてんのよ。ってその内一回は俺たちなん──」
リュカの皮肉は、あえなく尻切れトンボとなる。全く予想だにしていなかったところからの不意のタックル、いやハグ攻撃により言語野が真っ白になったためだ。
「……ひゅーひゅー。やだーリュカさん、公衆の面前で破廉恥ー。隊長もマユリも見てるよー」
サブローの地味な仕返しが始まる。
「そうですよー、リュカさん狡いです……」
「はあ? 待てよっ、見てたろ今の。ナギが勝手に……!」
「ナギちゃん私もー」
「マユリも……! そうだね、マユリも!」
 こうしてマユリの自主参加により、謎のハグ大会が勃発。生き別れた姉妹の感動の再会シーンさながらに、三人は言葉も無く抱きしめ合った。五月蠅いのがひと固まりになってくれてちょうどいい。この機を逃すまいと、サブローは横穴の淵でたそがれるサクヤに駆け寄った。
「隊長」
呼びかけながら、この呼び名に小さな違和感を抱く。八番隊はもうない。それ以前に、この全身黒い包帯に身を包んだミイラのような男が、自分の知るサクヤ・スタンフォードだという確信が持てずにいる。
「さすが、痒いところに手がとどく男だなぁ、サブローは」
その反応ひとつで、サブローは知らず安堵のため息を漏らしていた。声が、仕草が、一挙手一投足の間が、そして黒い瞳が笑うたびに細まるのが、目の前の男が自分がよく知る人物だと証明してくれた。
「本当はゆっくり話をしたいところですが、言うほど時間がありません。状況がどうなってるかと俺たちがどう動くべきかだけ、指示をもらえますか」
 包帯の隙間から覗くサクヤの黒い瞳が、まるくなる。サブローの申し出はそれだけ彼にとって意外性を伴ったものだった。ここにいる彼らが、元八番隊がそれぞれ何を思いどう行動を起こしてきたか、サクヤはある程度知っている。
「結論だけ話しても、君は納得しないと思うけど」
サクヤらしからぬ殊勝な態度に、今度はサブローが目をまるくして思いきり嘆息した。深く、長く、今の今まで溜めこんでいたありとあらゆるストレスを吐き出すみたいに。
「……今だから言いますけど、隊長の作戦にはじめから納得した試しなんか、数えるほどしかありませんよ」
「え。あ、そうなの」
「で、最終的に不満をもったこともありません。だから説明は今、必要ありません」
「なるほど、サブローらしいね。それじゃあ簡潔にいこう。三人にはこのままナギを地下まで送り届けてもらいたい」
「隊長は?」
「僕らの隊のエースを、連れ戻してくるよ」
 サブローはサクヤの視線の先を追った。下方、主塔の入り口にできた人垣。その中心で見知った人物が対峙していた。


 シグの周囲は騒然としていた。人々はサギから逃げ惑い、姿をくらましたカラスとサクヤに恐怖し、そんな中で突き出されたファフニールに心から悲鳴をあげている。このなんの変哲もない装飾魔ガンが、空間を塗り替える代物だと知っている者がいたのは気の毒だ。恐怖に震えるのはロイ・グンターだけだと思っていた。
 肝心のグンターは、ファフニールの銃口を向けられてもなお、取り乱すことなく怪訝そうな顔を作っていた。囲っていたファフニールの担い手が、ついに故障した程度の認識だった。そういうこともあるだろうと苦虫をかみつぶし、無理やりに想定内のカテゴリへ振り分けた。
「フェンの差し金、というわけでもないか。何が望みだ」
 シグは目を円くして一瞬間固まると、そのまま思いきり噴き出す。声を出して笑った。腹を抱えて前傾姿勢になった。
「いや、ちょっと面白いこと言いますね? 司令。望みって、望み。ねえ?」
単語も陳腐だが、その言い回しはもっと滑稽に思えた。グンターは誰それの望みを聞きいれ、必要に応じて叶えるような立場にあるらしい。それは神だか天だか世界だか、そういうものの仕事だとシグは思っていた。しかし、残りかすのような笑いを噛み殺しながら、こうも考えた。神とやらが目に余る仕事ぶりだから、こういう自称代行者が跋扈するのだろうな、と。
「お前がファフニールを撃ってきたのは私情によるものだろう。そうであるなら、望みがあるはずだ」
「……だから今、それをかなえようとしてるんですよ」
この期に及んで皮肉の押収をするつもりはなかったのだが、口をついて出た。
 できるなら全身の血を一滴残らずぶちまけて、総入れ替えしたい。が、それはあまりにも非現実的すぎる。だから誰を当てにするでもなく期待するでもなく、自分自身の力で実現可能な最低限の目的だけを胸に抱いてきた。
「俺はただ、あんたにも同じ審判を受けてほしいだけ」
 今となってはそれが唯一の望みだ。結果はもうどうでもいい。どちらだってかまわない。神だの天だの世界だの、そういうものの判断基準はどうせシグとは大きくかけ離れている。 
「……案外、動じないんですね。自分はニーベルング化しないとでも?」
「するだろうな。この場にいるグングニル隊員と市街の一般市民も含めて。……お前が自らを犠牲に守ってきたもの全てを棒に振るつもりか」
「あんたが言うと、何でも安っぽく聞こえるね。……俺が救世主ごっこをしてたのは、もののついでだから」
 シグは自嘲の笑みと共にそうこぼした。
 自分を取り巻いていた優しい環境を、初恋の女の子を、救いたいと思った。その動機には絶対の正当性と清純性があった。そのためなら人の形をしただけの人でない自分も、存在することが許される気がした。要は、十一年前のシグが必死に探してしがみついた、生きるための言い訳だ。それがどうだ。少女は何の奇蹟か生きていて、何の因果か傍にいて、毎日をとても幸せそうに過ごしていた。それを知った瞬間に、シグの存在を意義づけていたものは消えて無くなってしまった。行き場なく漂うだけだったシャボン玉が弾けるみたいに、呆気なくだ。
 しがらみから解放されたのだと言えば随分聞こえはいい。ただ彼の場合は、それはしがらみではなく舵だった。羅針盤であり、灯台だった。それらを一気に失った船は、漂って、流されて、やがて沈むだけだ。ずぶずぶと奈落に落ちていく船体を、止める術はもはやない。
「私が消えて、今更何かが変わると思うか。何も変わらない。何ひとつだ。世界の均衡は保たれている。それを人は秩序と呼ぶ。現に誰ひとりとして世界に違和感を覚えていない」
「俺にはその全部が狂ってるようにみえる。気持ち悪いんだよ……! あんた何がしたいんだ!? 狂った秩序の上に君臨して何が楽しい?」
「世界は私が狂わせたわけじゃない」
「あんただよ……! それとも地下の化け物か? ニブルそのものか?」
「はじめからだ」
「──は?」
「はじめから、狂っていたよ。この世界は」
 ニブルが、ニーベルングが出現するずっと前から人は人を食い物にして生きていた。強者が弱者を搾取し、弱者がいなければつくりだした。生きてほしい者は死に、死んでほしい者は随分長く生きた。
「……人はいずれ、あまねく死に至る。それを鑑みれば、誰を生かすかではなく誰が生きるに値しないかをを選定する方がよほど重要で、効率的だ。人間の敵は、人間であってはならない。私の望みと理想はただそれだけだ」
 シグは、胃の底からマグマのようにこみあげてきた吐き気で、一瞬間目の前が暗くなったのを感じた。悪寒が駆け巡る。血液が泡立った。
 ──目の前に鏡がある。醜いメッキの鏡がある。その前に立つ自分と、鏡の中の自分は双方共に被害者の顔をしていた。偽善者の顔をしていた。頭のてっぺんからつま先まで、はがれかけたメッキで構成されていた。
 堪える必要がないことに気づき、シグは不快感のすべて胃液と共にを吐きだした。何度も吐いた。その間、グンターも周囲のグングニル隊員も微動だにしない。用意された結末を邪魔しようなどという者は、当人を含め誰も居ないのかもしれない。
 吐くものが無くなると、ファフニールの銃身を握りなおした。無造作に構える。照準を正確に定める必要はない。躊躇う必要はもっとない。呼吸を繰り返し鼓動を重ねてきたのも、機械のように従順にファフニールを撃ち続けてきたのも、全てはこの瞬間のためだったと思えば。
 最後は無心で引き金を引いた。そのシグの視界に有り得ないもの、あってはならないものが飛び込んできた。
 これ以上はないというほど最高の笑顔を携えて、男はグンターの前に躍り出た。両手を大きく広げ、ひとかけらの迷いもなく、魔ガンをその身に受けた。
 刹那、空間が爆ぜた。轟音と砂煙で聴覚と視覚が奪われる。それはグングニル隊員なら何度となく味わう、ある意味で日常の一部ともいえる感覚だった。その後、間髪いれず肉の焦げる匂いが立ちこめ、ニーベルングの断末魔が響く。それがセオリー通りの結末。ただ当然と言えば当然のことながら、今はその流れにない。砂煙が晴れる頃には、噎せかえるような血の臭いが漂った。
 そこには小柄な壮年の男が立っていた。白と赤の奇抜な出で立ちにレンズの割れたロイドメガネ。その場に居た誰もが微動だにできずにいた。男の腹部は右半分が、大きくかじったパンのように欠けていた。その場に居た誰もが、固唾を呑んだ。その男を知らない者はいなかった。
「ついにだぁっ! これで僕もBルート進、化……っ!」
鮮血で真っ赤に染まった白衣を翻し、アルバート・フェンは両の拳を高々と掲げた。黒一色の天を仰ぎ、歓喜にうち震える、かと思うと糸の切れたマリオネットのように勢いよく膝をついた。満面の笑み、高笑いをあげていたその口から大量の血を吐く。
「フェン」
「大丈夫大丈、夫。これくらいは必要な痛、み、だろうね~。何せ生まれ変わるんだから。多少の……が、我慢は……」
顎から首へ、首から一気に地面へ、フェンの吐きだした血液は音を立てて汚物のように落ちていく。祈るように膝をついていたその身体も、気付けば四つん這いになっている。腹に空いた大きな穴と、笑みの止まらない口元からは絶えず血液が排出された。
フェンは、身を呈してグンターを庇ったわけではない。ユキスズカの新薬を投与し、抗体ができる状態になった身体が完全にニブルに適応するためには、瞬間的爆発的に高濃度ニブルにさらされる必要がある。それは自身が進化論の中で提唱したことでもあり、今までのBルート進化者が全員通った道である。その環境を実現できるのは、ファフニールくらいのものだ。
 グンターは事情を察して、フェンには構わず塔の中へと踵を返した。シグもすぐにその後を──追う、という選択肢が彼にはもう無かった。
「……ファフニールじゃ、ない」
「は?」
息も絶え絶えに、這いつくばったままフェンは疑問符を浮かべた。シグは左手にぶらさがったままの──引き金に指をかけたままの、魔ガンを見下ろした。
 ファフニールに弾丸は無い。どんなに近くで、例え零距離で引き金を引いたとしても高濃度のニブルが「爆発的」に噴出するだけで、人体に風穴は開かない。ましてやこんな大穴は。
「これは、ジークフリー……ト……?」
「は?」
フェンはまた同じ反応。自分で吐いた生温かい血溜まりの中で、状況が飲み込めず懸命に呼吸だけを繰り返した。酸素を吸って、ただ吐く。その無意識にできるはずの行動が、全神経を集中しないと止まってしまいそうだった。何故そういうことになっているのかは、分からない。分からないが進化には必要な過程だと解釈した。
「どうなってる……!」
 一方で、シグは撃ち放ったばかりの魔ガンの銃身をがむしゃらに解体しはじめた。労力も時間もほとんど必要なかった。
「シグと同じトリックを使わせてもらっただけだよ」
“中身”が出てくるころに、一陣の風と共に仕掛け人が姿を現した。本当に、風に乗ってやってきたかのようだった。駆ってきたであろうカラスの輪郭は、ものの見事に夜の闇に溶け込んで肉眼では確認できない。そこにいるのかもしれないし、もうどこかへ飛び去ったのかもしれない。今はどちらでも良かった。
「サクヤ……隊長」
 どこをどうとっても理解不能──シグは馬鹿みたいに口を開けたまま、電池が切れたみたいに動きを止めた。目の前に悠然と現れたのは、先刻死に物狂いで、本当に間一髪のところでこの場から逃げおおせたはずの男に相違ない。全身に巻いていたはずの黒い包帯は、ここまでの様々な大立ち回りでほとんど用を成さないものとなっていた。申し訳程度に肌を覆ったその隙間から、浄化途中の黒い皮膚が斑に覗く。
「ファフニールは、はじめからフリッカとして偽装されていた。それを逆手にとって、別の魔ガンをファフニールに仕立てることも可能だと思った。シグの言うとおり、それはジークフリートだ」
(あのときか……)
 これでようやく合点がいった。塔の地下第二層でサクヤが現れたとき、ナギが絶体絶命のピンチにも関わらず、彼はシグを優先させた。あのときジークフリートを所持していた彼なら、そう苦労をせずにシグを戦闘不能にすることはできたはずだ。それなのに、やけにまどろっこしい戦い方を選ぶと思っていた。シグはそれを、情けや憐れみ、あるいはサクヤの甘さだと決めつけていた。それが何のことはない、手の込んだ最高に気分の悪い仕掛けだったというだけだ。ジークフリートを極力使わなかったのは、このファフニール仕立ての装飾を隠すため。シ
グの意識を落とすことにこだわったのは、すり替えるチャンスを作るためだったのだ。
(ということは、本物は……)
力のない目でサクヤを見た。彼が所持している、と考えられなくもない。が、シグは何故か確信に近いレベルで、そうではないだろうと考えた。
 もう、いいか。

 息をして、両手両足を操って、立って歩く。その原動力が、シグにはもうどこにも見当たらなかった。もともと外付けの動力だったのだ。最後のそれがどこかへ吹き飛んだ今、何かを想ったり考えたりするのさえもただただ面倒だった。
 目の前では安い物語の最悪の結末がだらだらと展開されている。まさか、これを見守らなければならない? ──そう脳裏をよぎっただけで、また億劫な気持ちになった。
 フェンが這う度に、身体を引き摺る不快な音が鮮明に鼓膜に届いた。
「どういう……。意味が、わからないな。し、進化は……」
「しません。それはただの、通常僕らがニーベルングを撃つために使う魔ガンですから。……あなたの言う『進化』が僕にはそうは思えないけど」

 もう、いい。

「ただの……魔ガン? 僕は、魔ガンに、撃たれたの?」
「……大丈夫だと思いますよ。すぐに手当てをすればの話ですが」

 もう充分だ。

「いいいぃぃ嫌だっ! 死にたくない!」
「教授、落ち着いてください。ジークフリートは人を殺せないようにできてます。僕や、イオリ少尉が使ってきたのはそういう魔ガンです」
「本当だね!? サクヤくん! 早く……! 早く手当てを!」
口から、腹から、血を撒き散らしながらフェンは凄まじい勢いでサクヤの足にしがみついてきた。サクヤの口からは深く長く、溜息が漏れる。こういうのをたぶん、殺しても死なないと言うんだろうな、などと漠然と考えた。
「罰だと思ってしばらくそのままのたうちまわってください。……あなたなら、止められたんだ。シグも、この馬鹿げた計画も」
「そんな……っ」
フェンの大きく見開かれたままの瞳には、地面すれすれの世界しか映らない。鮮血に濡れた自らの髪と、ひび割れたロイドメガネ、さっきまでしがみついていたはずのサクヤの足。
「なんでこんな……僕は、ただ……真理を追究……。人間の可能性を、広げよう、と……」
 そうなのかもしれない。フェンの動機を否定することはできない。それは科学者特有の高級な好奇心だったろうし、あるいは誰しもが一度は胸に抱く、素朴でありきたりな夢のひとつだった。だからこそ彼は、その実現のために犠牲をいとわなかった。いや、犠牲を犠牲だとも思わなかった。Aのマウスが死ななければ、Bのマウスが生き残った理由を探れない。そういう、ある意味当然で、価値ある失敗を繰り返して、真理はじわりじわりと炙りだされる。Aの死の積み重ねは、フェンにとって貴いデータだった。「犠牲」などという無為な単語はそこには当てはまらない。
「なんで……なんでだ、ちくしょう……! 畜生! あと一歩で……っ」
 激痛と共にずるずると血溜まりの中を這った。サクヤは瀕死の蛇と化した恩師を、憐みと蔑みの目でただ見ていた。宣言通り手は差し伸べない。放っておいても、フェンにはもう何をしでかす生命力も残っていないだろう。
 そうやって期待はずれのラストシーンがただただ繰り広げられた。シグはそれを見ている。観客として、ただ見せられている。初めからそうだったのかもしれない。世界のねじれの中心にいたのは、いつもいつもこの人だったのかもしれない。
「……満足ですか」
 絞り出した声は掠れていた。もはや正体を失っている血だらけの三文役者に向けたのではない。最後の最後まで一切の冷静さも欠くことのなかった、純然たる勝利者へ向けた皮肉だ。みんな、みんな、みんな、何一つ、誰ひとり例外なくサクヤの思惑通りに動いていたのだとしたら、こんなに笑える話はない。もう鼻で笑う気力すら一寸たりとも残されていないのに。
「シグ」
「結局……最後は何もかも、あなたの思い通りだ。狡いですよ……。俺はここまできて、何一つ手に入れてないのに」
「それは君が、望むものを手に入れるためじゃなく、望まないものを排除することだけに特化した生き方をしてきたからだ。逆に聞くけど、ひたすら引き算に明け暮れて、それで君の手元には何が残った?」
 シグは言われるまま、自らの手のひらに視線を落とした。その手にあるのは、ファフニール仕立ての装飾を暴かれたジークフリート──他人の魔ガンだ。この光景が答え。すべてを象徴的に物語っている。そういう理解に達すると、シグの口から今度こそ力のない笑いが噴き出された。
「何も。……でも、最初から最後まで、空っぽってもわけでもなかったんですよ」
 生かすべき者より死すべき者の選定を、優先してやってきた。手に入れたいものは勘定に入れず、手放したいものだけに意識を集中させた。それはサクヤが言うとおりの、極端に傾いた天秤による判断だ。そして本質的には、グンターの考え方と変わらない。
 再びこみあげてきた吐き気に抗うために、息を止めて目を閉じた。そしてジークフリートを持ったまま、気だるく両手を挙げた。
「降参します。あなたの、勝ちだ」
「勝ち?」
「そう。俺はたぶんずっと……あなたと戦ってた」
 眩しいと思った。羨ましいと思った。無意味な生にしがみつくための理由を、生き汚く探し続ける自分と、価値ある死に何の未練もなく突き進むサクヤ。その姿があまりに鮮烈で、憧れた。その人生を生きてみたかった。シグ・エヴァンスという人間が欲しがったのものは、後にも先にもそれひとつだ。
 この手には何も残らなかった。それでもとても長い一瞬、シグは望むものを確かに手にしていた。
「もう充分です」
ジークフリートの銃身を、サクヤに差し出した。
「これは、隊長の魔ガンだから。俺には扱えない」
 サクヤは黙ってジークフリートを受け取った。その瞬間に、シグは心底ほっとしたと言わんばかりの長い安堵の溜息をついた。
「シグ」
「少し後始末をして帰ります。上の騒音公害はどうにかしないと、ゆっくり眠れない」
 言った傍から彼らの頭上、主塔の三階部分で再び大きな爆発があり、大小バラエティに富んだ瓦礫が自由気ままに落ちてきた。いつ根元からぽっきり折れてもおかしくない。あるいはサギが抱きついている中腹階層から真っ二つ、という状況が難なく予想できる。それにも関わらず、サクヤは落ち着き払っていた。手をかざして、ネズミがくいちぎったような穴ぼこだらけの塔を見上げるだけだ。
「塔を放棄するつもりですか」
「サギがそっちの作業に夢中みたいだから、やらせておけば時間稼ぎになる。ナギとリュカにもそう動いてもらってるしね。……塔は壊す。僕らの手で」
「地下のアレは……どうするつもりですか」
「ファフニールと一緒に、亀裂の向こうの世界へご退場願うつもりだよ」
「でもアレは……外界に出しただけで、死ぬかもしれませんよ。例え外に出せても、格好の的になる」
「その点に関しては手は打ってある。問題はまぁ、あれかなぁ」
 二人は同じように空を見上げ、同じ視界を共有した。ああいうのは放っておいていいことはない、実際なかったではないか。そういう単純な思考もおそらく共有していると思われる。それがシグには無性に癪だった。が、感情よりも慣れ親しんだ確認のほうが、気付けば口をついて出ていた。
「俺がやります。──指示をください、サクヤ隊長」
「隊長、その前に負傷者の手当てをさせてもらえます? 応急処置くらいしないと途中でもげるわよ、その足」
「アンジェリ……カ!」
 どこで様子をうかがっていたのか、大きめの救護バックをななめがけにしたアンジェリカがいそいそと合流してきた。何の断りもなく、親の仇でも締めあげる勢いでシグの左大腿をしばる。シグに抵抗の余地はなかった。驚愕も中途半端なまま、荒療治にうめき声をあげる。
「はーい、歯くいしばってー。だいぶ失血してるわね。痛みは? あるの? それはおめでとう。まだ神経がぴんぴんしてる証拠よ」
「アンジェリカ。シグの応急手当が済んだら、フェン先生を診てくれないか」
「え? ……ああ、気は進みませんけど仕方がないですね。見殺しにして査問会場に呼ばれるのも、もう嫌ですし」
サクヤに言われるまま、数メートル先でうつ伏せに倒れているフェンを確認した。視線はそのままで、やはり荒っぽくシグに鎮痛剤を射つ。悲鳴はあがらなかったが、アンジェリカが知るシグの中では随一の苦悶の表情を浮かべていた。
「ここまでなったら普通、ベッドに張りつけて絶対安静をおすすめするけど」
「この状況で?」
 サギの攻撃とグングニル隊員による迎撃で、塔は一時も休まず崩れてくる。頭上、爆撃、流れ弾すべてに注意。安全地帯はもはやない。
 肩を竦めるシグ。アンジェリカはそれを嘆息で見送るほかない。
「隊長は? どこか手当てが必要なところはありますか?」
「特にないよ。ありがとう」
「そうですか。ではここだけ」
 二の腕から垂れ下がった包帯の端をとって、アンジェリカは丁寧に結び直した。
「あれが片付いたらきちんと、新しいのに変えましょう。二人分のベッドを確保しておきますから」
「そうだね、よろしく頼む。さて、そうと決まれば、さる要人の引き揚げ完了までもう少し時間を稼ぎたい。僕らも応戦しようか」
 世間一般の要人は荒っぽくサルベージされたりはしない。が、彼らにお鉢が回ってくる案件は基本全てが規格外だから、対処も常に斜め上の視点が要求される。正直、今までどおりだ。そう納得した瞬間に、シグの周囲を取り巻いていた張り詰めた空気が弾けて消えた。
 至って真面目に「鶏サルベージ作戦」について概要を語るサクヤの背中を、シグは笑いを堪えながら見た。いつもどおり、今までどおり。あと少しだけ、その居心地の良い感覚の中で魔ガンを握ろうと思った。
 

「くっそー。気にくわね~! なんで俺がこんな地味な役回りなんだよっ。足止めとか! アシドメ! 用済みの脇役がする係じゃんかっ。しかもさー。人間相手にこんなにも魔ガンぶっぱなしちゃっていいわけ? 前めっちゃ怒られたじゃん、隊長に。あ! っていうかさ、アンジェリカは? バルト、いっしょにイチャイチャ行動してたんじゃないのかよ」
 ゴッ!! ──サブローの死角、斜め後方で喚き散らしていた誰かが殴り倒された。しかも、おそらくだが機銃の持ち手でだ。鈍い音と共に騒音が止んだから、当然、無論、言わずもがな制裁をくらったのはリュカなのだろう。「うわぁ……」という本能的な感想と「よし!」という理性的な感想が、サブローの中で適当にせめぎ合った。
「黙って集中しろ! いや、させろ! 次めんどくせぇこと言ったらお前から撃つ!」
「はーーーい……」
リュカはしぶしぶ、本当に全く納得がいかないといった表情でバルトの後ろにつきなおした。
 バルトのだだっ広い背中の向こうには、相も変わらず空気を読まない六番隊(他)の有象無象がひしめきあっている。彼らは造反部隊である自分たちを止めることに一生懸命らしい。リュカでさえ分かる──こいつらは絶対に考えることを放棄している、と。
 ここは主塔の四階回廊。リュカは今の今まで、ナギと協力して三階の床を爆撃して破壊するという派手な作業についていた。サクヤの提案である。床という床を壊し、地下まで貫通させることが目的だ。ヴェルゼとブリュンヒルデの威力が合わされば、古臭い建築物の床のひとつやふたつや三つや四つ、プディング並に一瞬で粉々にできてしまう。それはそれは爽快で痛快な作業であった。
 気にくわないのはその後だ。当然、二階、一階と続けざまに大活躍できると思っていたのに、シャットアウトされた。サクヤが言うのは分かる。ナギもまあ百歩譲って仕方がない、負い目もあることだし。しかしあいつは別だろう!
「なんなんだよ、あのイカスミニーベルングは~!」
 見覚えのあるような、全く無いような、とにかく全身真っ黒のイーグル級ニーベルング。いつのまにかサクヤに取り入っていて、知らない間にナギとコンビを組んでいた。それだけでもう、リュカにとっては土足で自宅を踏み荒らされた気分である。挙句の果てにナギだけを背中に乗せて、二階へ急降下したのだ。ほとんど足場のなくなった三階で、馬鹿みたいにぼんやり奴らの帰りを待つわけにはいかないから、こうして不本意ながら足止め大会に参加している。
 四階には、どこからか湧いて出てきた完全武装のバルト(鉄壁の盾)と、天井から落ちてきた瓦礫にこそこそ身を隠し、ごく偶にしょぼい反撃をするサブローと、一番安全と思われる階段付近でマイペースに魔ガンの点検を始めるマユリ、つまりはあまり緊張感のないメンバーがそろっている。
「あ~~! やめだ、やめっ! なんでグングニル同士で撃ちあってんだよ! しかもちまちまちまちま! 外だろ外、ぶっちゃけサギ! あんなにでっかくて白くて目立ちまくってんのになんでスルーして俺たち追いかけてこれんだよ!」
「すげえな……正論言ってる、リュカが」
「だろお?! 窓の外見ろってんだ! グングニルなら魔ガンで撃つべきはあのニーベ──」
リュカのやけくその演説に気おされて、皆思わず窓の外を見た。そして、そこに留まっている来客に揃って息を呑む。特別白くもなく、特別巨大でもなく、特別神々しくもない、ある意味で一般的なニーベルングが窓の外からこちらを覗きこんでいた。その数──およそ十数体。
「なんでだよっ!」
「白いのが呼びよせたんじゃないでしょうか!」
「すげえな、正論言ってる。マユリも」
 リュカがひとりツッコミに全力投球し、サブローが弱冠賢いお馬鹿組に感心している間に、四面楚歌になった。長い回廊の窓と言う窓を豪快に突き破って、無数のニーベルングがなだれ込んでくる。こっちからもあっちからもとにかく悲鳴があがる、阿鼻叫喚の世界である。
「めちゃくちゃだねぇ。なんかもう誰も玄関から入ろうとしてない。お行儀悪い子たちには、こっちもそれ相応の対応でいいと思うんだけど」
 マユリがごそごそと手荷物を漁りはじめた。取り出したのは魔弾に加工される前の、純度の低いラインタイトだ。手のひらにいくつか乗るビー玉サイズのそれを、無造作に放り投げる。
「サブローさん、援護おねがいでーす」
「う、わ! マジ、か!」
 指名されたのは、おそらく彼がこの中では一番命中精度が高いからだ。慌てふためきながらもマユリの射撃に続いて二度引き金を引いた。ラインタイトに当たるのはそのうちの一発でいい。ひとつが爆発すれば、あとは勝手に誘爆を繰り返す。
 結局、いくつかを見事に撃ち抜いて空間ごと弾け飛んだ。礼儀のなっていないニーベルングの団体も、その向こうで冷静さを欠いた六番隊も、ついでに自分たちも吹き飛んだ。階段室まで後退して、とりあえず全員で噎せる。
「やったか?」
「無理でしょー。仕留めたいならフロアごと吹き飛ばすくらいじゃないと」
眼鏡が欠けた。マユリは珍しく不機嫌を顕わにする。
「んー……でもそれをやると私たち、塔と一緒に心中か」
「……だな。とにかく、こっから出るぞ。そろそろ主塔ももたねえだろうからな。どいつもこいつも、派手にやりすぎだ」
バルトは抱えていたマシンガンを放り投げた。リュカの言うとおり、敵はニーベルングであって同じグングニル隊員ではない。それが双方に知れていれば、重いだけの対人用兵器など無用の長物だ。
 追ってくる足音が人のそれではないことを確認して、バルトは懐から“ハーゲン”を引き抜いた。


 空気中にびっしりと詰まった砂埃と熱風で視界は最悪の極みである。その中で、ナギは迫りくる床を撃ち続けた。ブリュンヒルデ数発で、床だったもの、あるいは天井だったものは均一性のないいくつかの塊となり、重力に従って落ちていった。同じようにして、もう三つのフロアを貫通させた。三階、二階、そしてたった今、風通しがよくなった一階部分の床。
 カラスは降下スピードを緩めることなく、だらだらと落ちていく瓦礫をかいくぐっていく。ナギを乗せたままだが配慮はない。あるとすれば、瓦礫にぶち当って死なないようにだとか、やりすぎて振り落とさないようにだとかの本当に最低限の気遣いだ。おかげさまで現在ナギは、絶賛“ニーベルング酔い”中である。文句を言いたいが、喋ればおそらく舌を噛む。人間とは難儀な生き物だ。
「おい。もう少し細かくできないか? 避けるのも一苦労だ」
 と、思えば向こうから難癖をつけられた。もっと狙い撃てということなのか、巨大な瓦礫は自ら処理しろということなのか、いずれにせよ、それらを実行に移せる余裕はナギにはない。というよりも、この超高速落下中にニーベルングは何故会話ができるのか。腹立たしいことこの上ない。
 ナギの反応がないのと状況が改善されないのとが相まって、カラスは一度大きく両翼を羽ばたかせ宙に留まることにした。今の今まで頭から落ちていたところを、何の断りもなく反転されたのだからたまったものではない。内臓がふわりと浮きあがる、得も言われぬ嫌悪感が喉元までせりあがった。
「脆弱極まりないな……」
「それは、すみませんね……? 落ちてるだけならまだしも、右に左に空中を振りまわされるなんて経験、めったにないもので」
「それが嫌なら精度をあげることだ。それとも瓦礫に頭から突っ込むか方がお好みか? 私は構わないが」
 喉元まで出かかった罵詈雑言を、ナギは必死の思いで呑みこんだ。握りしめていたブリュンヒルデの銃口が無意識にカラスへ向きかけたが、それも寸でで堪える。
 肺に溜まった気持ちの悪い空気を吐きだすと、確認のために上を見た。現在地下一層、にも関わらず周囲はどことなく明るく、開放感さえあった。グングニルの塔の三階より下は、フロ
アの一切を失って、がらんどうと化していた。だから今はるか上方に見えている天井らしきものは、四階のそれということになる。自分で壊してきたのだが、爽快という感覚はない。あるべきものがそこにないという光景は、喪失感と虚無感しかもたらさない。見慣れた光景であればあるほど、だ。
「感傷に浸っている場合でもないだろう。どのみちこれで最後だ」
 適当に相槌をうって、撃つべき最後の「地」を見下ろした。
「実はいくつか問題がある」
「……なんだ」
「どのあたりに鶏がいるのか、よく分からない。もし間違えて真上を撃ち抜いたら……」
それでブリュンヒルデの一発が鶏に直撃しようものなら、あっさりとゲームオーバーになる。そうでなくとも、瓦礫のあたりどころが悪ければそのまま絶命するかもしれない。それほど弱っていた。生きているという事実の方がよほど不思議なくらいに。
「……」
「……」
 妙な沈黙が訪れた。妙ではあるが、必然の沈黙だった。問題点を述べたからと言ってカラスが解決策を提示してくれるなんてことがあるはずもないのだ。
「ヘラの生き残り、だったか」
「はい?」
「お前は生まれながらにして運が良いのだろう。もしくは魂がしぶとい。そうでなければ、お前のような行き当たりばったりの人間が、こんなところで無傷で私の背に乗っているはずはないのだから」
「そういう……言われ方をしたのは、はじめてかも」
「皮肉を言ったつもりはない。不服だったのなら詫びよう」
「や、そういう意味じゃなく。……そうね、私は……いつも守られていたんだと思う」
 父に、母に、レイウッド家の人たちに、そして八番隊の誰もかれもから。
「そういう人間にことごとく出会ってきたというのは、運が良いということだ」
 随分乱暴な論理だと思った。カラスは確率が高かろうが低かろうが、今背に乗せている脆弱な人間に頼るほかない。この床を、ブリュンヒルデで撃たないことには始まらないからだ。そのためなら甘美な嘘もつくだろう。情にもうったえるだろう。しかしこの乱暴で青臭い論理からは、それを吐く黒いニーベルングからは不思議にそれらを感じない。
「そうなのかもしれない」
 フロアの中央の床に向けて、ナギはブリュンヒルデを構えた。
「あなたという腹心のいる、この下の王様もきっと、相当に運が良いんじゃないかな」
 カラスはただ鼻で笑っただけだった。ナギはそれを合図代わりに、いつもと同じように引き金を引いた。
 手応えはすぐに、地鳴りと熱風という目に見えない形で返ってくる。やることは先刻と変わらない。自らが開けた大穴に向かって、自由落下する瓦礫をかいくぐって飛び込んでいくだけだ。この時点で早いとは思いつつ安堵の溜息をもらしていた。鶏の安否は確認するまでもない。それを証明する唯一にして絶対のものを、ナギは懐に隠し持っている。
「最高のポジションじゃないか。探しまわる手間も省けるというもの」
 三階から地下二層までが、一続きになった。彼らが悠々と降り立ったこの深淵部にも、外界の明かりが降り注ぐ。もともと人口の明かりで満たされていたわけだが、それとは完全に別種の淡く穏やかな星の光だ。
 鶏は穴から数メートル離れた壁際で、変わらず最低限の呼吸だけを繰り返していた。ナギとシグが訪れたときと変わらず、サクヤが取引をもちかけたときと変わらず、シグの母・イオリが撃たれたときと変わらず、グングニルの塔が自分の真上に聳え立った日から何一つ変わらず、ただ呪いを抱いて生きていた。
 ナギとカラスは振ってくる瓦礫を避けて、舗装の息届いた平らな地面に足をつけた。ナギは数時間前にここを訪れたばかりだ。気まずさも相まってか鶏にもカラスにも言葉をかけなかったが、件の両者までもが無言であるのはどういうことだろうか。気まずさに拍車がかかるだけだ。助けを求めるように、カラスに視線を送った。
「事情を説明するのに、少し時間がかかりそうだ」
「だったら早く話してよ……」
「言ったはずだ。我々の意志疎通に音声言語は必須ではない」
カラスは苛立ったように周囲のニブルを吸い込んで、あてつけがましくナギに吹きかけた。無論、そんなものは彼女にとっては単なる生ぬるい風でしかないのだが、その無意味な行為が腹立たしさを助長した。青筋がひとりでに浮きあがる。
 無音、無表情、身体的動作一切なしの異様な会話がしばらく飛び交った(あくまでナギの想像の話だ)。その間を、ナギはひとり覚悟を決めることに費やした。サクヤから託されたものの感触をジャケットの中で確かめる。触れただけで重い。信念が、思想が、欲望と責任が、幾重にも折り重なって手の中にある。
 ナギは意を決して、それを引き抜いた。魔ガン「ファフニール」──全てのねじれの起点。始まりと終わりの空砲。世界を塗り替える力。たった一人が背負ってきた、神の呪いの卵。

episode xvi 星月夜

 君の判断に任せる──ユキスズカの丘で、そう言ってサクヤはジャケットの内ポケットからファフニールを引き抜き、ナギの手に握らせた。
「鶏を地下から救出するには、彼自身に飛んで出ていってもらうしかない。いろいろ想定してみたけど、あの巨体を人の手で移動させるのは不可能だ」
「つまりはこれで……鶏を撃って、回復させるみたいなこと?」
「みたいなこと、だね」
 理屈はすぐに理解したが、ナギの表情は浮かないままだ。そのうちに苦虫をかみつぶしたように眉根を潜めはじめる。
「それはそんなテンプレート通りにいくものなの? ……私も、アレを見た。けど……」
 とてもじゃないが、再び飛べるようになるとは思えない──という言葉を、ナギは音声にしないまま呑みこんだ。カラスの前で直接的な表現を使うのは躊躇われる。
「ファフニールには、常に極限状態までニブルがチャージされてる。シグはそれを小出しにして暴発を防いでたんだ。その微量で、イーヴェルは地区ごとニーベルングの巣になった」
「言いたいことは分かる」
 サクヤの言うことは理に適っている。ファフニールの中身──エッグは、ニーベルングの生命の源だ。新も旧もない世界そのものでもある。その力とニーベルング一体の命なら、規格外サイズだろうが何だろうが充分につり合いがとれる。寧ろお釣りがくるほどに容易いことなのかもしれない。
 理屈は分かる。それでも手にしたファフニールから感じる重圧は、理屈だけではぬぐえない。
「ナギがやるのは、ファフニールの引き金を鶏に向かって思いきり引くことだ。ただ、それは僕が思う手段であって君がやらなくてはならない使命じゃない。だから──」
 サクヤの中で言葉は慎重に吟味されたはずだった。その上で彼はもう一度同じ言葉を口にした。
「君の判断に任せる」


 ナギは思い返して苦笑いをこぼしていた。それが「やれ」と言われるよりもよほど残酷な命令であることを、サクヤは当然知っていただろう。
 人智を超えたものを操るとき、人は人であることを放棄するしかない。実父であるアシュレが、グンター司令が、フェン教授が、そしてシグがそうしてきたように。それが唯一にして絶対の代償だ。その上で、サクヤは選択をナギに委ねた。
 どこにでもあるような装飾のその魔ガンを、ナギは感慨なくしげしげと眺めた。手渡された瞬間を含めてたったの二度しか握っていない、それなのに妙に手になじむ感覚がある。
(ブリュンヒルデと似てるのかもしれない)
 ジークフリートにも、ヴェルゼにも、あるいはローグやヴォータンとも似ている。全ての魔ガンとどこかが似ていて、そして何かが決定的に違う。魔ガンのプロトタイプとしてファフニールが知られていたのは、この妙な感覚のせいなのかもしれない。
 神聖な儀式のようにおもむろに、引き金に指をかけた。それだけで、身体中のありとあらゆる水分が冷や汗になって流れていく気がする。急激に冷えた身体は眩暈を引き起こし、ナギの視界にあるすべての輪郭をぐにゃりと歪ませた。
 記憶の中のシグはこの引き金を、何でもないように引いた。ルーチンワークのひとつだと言わんばかりに無造作に引いた。その姿に自分を重ねることはできない。
「ニーベルングと人間では、そもそもニブルの持つ意味が違う。それを鶏に撃つという行為に、背徳感を持つ必要はない」
 いつの間にか概要説明とやらは済んだらしい、カラスがいささか的外れな助言をくれた。そのずれた気遣いが今は嬉しい。礼を述べる代わりにナギは穏やかに微笑ってみせた。
「大丈夫、わかってるつもり」
「ならば私がかけられる言葉はもうない。王の同意は得られた。後はただ粛々と、お前の役割を果たすがいい」
 驚くほど偉そうな言い草に、こみあげてきたのは怒りではなく笑いだった。おかげで肩の力が抜けたのが分かる。背伸びをして、無理をして、わかっているつもりだったものの輪郭がはっきりと見える。
 ナギが抱くこの畏れは、善悪の概念がもたらすそれではない。
 「これ」は、人が持ってはいけないものだった。識ってはいけないものだった。御することなど、できようはずがなかったのだ。今ならそれがあたりまえに分かる。この畏怖心は、人が人としてはじめに持たねばならないものだった。
 今自分はどうしようもなく震えている。それは人としての正しさの証明だと、思うことができた。うるさく鳴り響く心臓の音。命の証。この音がある限り、人は人として客観的に生きていると証明できる。生きているつもりがないと、彼は言った。けれど抱きしめられたとき、その身体は確かに温かかったし、その心臓は確かに鼓動を刻んでいた。たったそれだけのことを伝えるために、もう一度シグに会わなければと思った。
 カラスの背に飛び乗ろうと肩を翻す。そのとき、地面に落ちた白い何かに気が付いた。がくから上のユキスズカ草の蕾、ファフニールの受け渡しの際に懐に紛れこんで、ここまでついてきたのか。ナギはそれをつまみあげると、普段は何も入れない胸ポケットに収めた。
 鶏は、餌を欲しがる無力な雛のように、その大口を開く。
「今から貴方をファフニールで撃つ」
「あの青年との取引は、すでに成立している。……私がお前たちに異論を唱える道理は無い。科せられた責任のみを果たすとしよう」
 鶏の無機質な言葉は脳内に直接響く。ナギもまた静かに頷いた。もう既に、人差し指は引き金に張り付いて離れない。震える右手をなんとか制するために、左手を全力で添えた。生かすために、生きるために、ねじれを解いて正すために。ナギは、鶏に向けてファフニールの引き金を引いた。
 鼓膜を震わせたのは金属が触れ合う微かな音だけだった。そして視界が刹那、陽炎のように揺らめいた気がした。違和感と言えばそれだけである。全ては無音の中で処理されていく。気を抜いた覚えはなかったが、ナギは膝からくずれて座りこんだ。
 刹那、地下に突風が巻き起こる。ニブルを纏ったその風は、鶏の両翼の羽ばたきによるものだった。骨格むき出しの薄っぺらい翼、枯れ枝のような手足、何も変わったようには見えない。しかし、鶏は猛々しく一度咆哮を上げると今にも折れそうな長い首を縦横無尽に振り回し、取りこぼしたニブルを吸い込んだ。厚みのない胸が上下する。
 ナギはカラスの背から落ちないように無我夢中でしがみついた。
「上出来だ。後は私が先導し、サクヤの元に導こう……と、言いたいところだが」
カラスの翡翠の瞳がぎょろりと動き、その矮小な影を映し出す。
「招かれざる客の登場だ。この場合は、招かれざるホストか? 難しいな」
 カラスのように言葉遊びを楽しんでいる余裕はナギにはない。が、なかなかどうして、そのたとえは的を射ている。あれだけ滅茶苦茶に破壊してきたフロアのどこを通ってくれば、こんなにも容易くこの場所へ辿り着くことができるのだろう。聞いてみたくもあったが、その質問は呑みこんだ。シグの言っていた正規ルートなるものを、ナギは結局知らないままだ。
 ナギはその人影に警戒心だけを向けた。わけのわからないこじつけで銃殺刑にされそうになった恨みは、数時間で消えるものではない。男──グンターは、鶏の羽ばたきに煽られながらも、何か眩しいものでも見るように目を細め片手をかざし立っていた。無視するわけにもいかないからまた一旦大地に降り立つ。カラスはナギの風避けになるよう片翼だけを広げた。
「ニーベルングを従えてここまでやってくるとは、魔女そのものだな……」
「彼は私に従ってるわけじゃない。そんなことは、あなたなら分かるはずですが」
「……ちがいない」
この期に及んで自嘲の笑みなど漏らせるのだから、その泰然とした態度は一定の評価に値する。だからというわけでもないが、カラスは手も口も出さず様子見に徹することにした。本音を言えば、これは今すぐに八つ裂きにすべき人物だと認識している。だが、ここは回りくどい人間たちの流儀に合わせて、ナギの顔を立てておくことにした。などと思った矢先、ナギはグンターに向けて無造作にファフニールを構えた。
「今さら何をしにきたのか知りませんが、邪魔をするなら押し通ります」
ナギには今更迷いも恐怖も無いようだった。無いものを挙げるなら、ファフニールの中のニブルも実はほとんど無い。ナギがそのあたりをきちんと理解しているのかどうか疑わしかったが、カラスから助言はしないことにした。
 グンターに動じた様子は見られなかった。何もかもを承知のしたような妙な落ち着きさえあった。
「それが君の出した答えか……イオリ」
 醜い鶏の前で美しく魔ガンを構える女をよく知っているような気がして、グンターはほとんど無意識にそう呟いた。はるか遠い昔この場所で、あるいは毎夜の夢の中で、瞼を閉じた暗闇の奥で、女はいつも同じ台詞を繰り返していた。一点の曇りもない瞳で彼を射ぬき、非難しつづけた。
 貴方のつくる世界は、一体誰のためのもの? ──眼前の女が同じ台詞を口にしたように見えた。錯覚かもしれない。幻聴かもしれない。それでも構わない。その問いに、グンターは淀みなく答えることができる。
「人のため。人は、人の心だけは進化などしない。振り出しに戻り続ける。だから……必要とされる。絶対の弱者が、絶対の悪が、そういう世界の装置が」
「そうかもしれませんね。でもその論理を、絶対の弱者と悪である私たちに説いても無意味では?」
「そうなのだろう。私の生涯を費やした大きな実験と観察は、終わった。一定の結果は出た。それで充分だ。……普遍の真理には至らなかったがね」 
グンターはやはりどこか眩しそうに、自らが仕立て上げた絶対悪の装置を見つめた。彼にとってはじまりのニーベルングは恐怖の象徴でも崇拝の対象でもない、ただ「在るべきもの」だった。空気のように、水のように、太陽や月や、あるいは愛や憎悪のように人の世に在るもの。世界の構成要素がひとつ消えようとしているのだから、それが終わりでなくて何だというのだ。その終わりに自分は立ち会おうとしている、それだけの話だ。
「ごちゃごちゃ言っていないで職務を果たしてください……! あなたがグングニル機関の最高司令だというなら、やるべきことが残されているはずです」
「そうだな。君の意見は正しい。今この瞬間においては」
含みのある言い方だったが、グンターは踵を返すとしっかりとした足取りで地上へ続く階段を上っていった。
 去っていくグンターの背をしばらく目で追っていたが、ナギはかぶりを振ってファフニールを下げた。頭痛がする。ついでに寒気も。極度の緊張と弛緩の繰り返しが、精神と身体に無理を強いている。それでも泣きごとを言っている状況ではない。言っても、カラスには一蹴される。酷い場合には用済み扱いされて、ここに捨て置かれる。その方がよほどぞっとしないではないか。ナギは身震いして冷えきった身体をごまかした。
「私たちも上に戻ろう。大変なのはたぶんここからだと思う」
自らの心を奮い立たせる。何かの終わりに立ち会っている、その感覚はナギの中にも確かにあった。


 グングニルの敷地内では最大規模の円形演習場、その陰にサクヤ、シグ、アンジェリカは身を寄せた。安全地帯というわけではない。それでも主塔からは死角になっているし多少の距離もある。この草むらが急ごしらえのブリーフィングルームというわけだ。
 サギの無差別ニブル砲と、呼び寄せられたニーベルングたちの妨害、未だに状況を把握してくれない一部の隊員たちの攻撃を振り切って、彼らは死に物狂いでここへ辿り着いた。普段ならもう少しうまくやる。が、今はアンジェリカを除く二人のコンディションは最悪なわけだから、こうして辿り着いているだけでも僥倖だ。壁際に座りこんで呼吸だけに集中するサクヤの姿を、シグは何か貴重なものでもみるように眺めていた。かくいう自分も、満足には走れない。
「よぉ、生きてたな。お互い」
 不意に後ろから肩をたたかれた。それが知った声でなければ、シグはおそらく反射的に引き金を引いただろう。警戒を怠った自分に苛立ちながらも、成す術も無くよろめいた。慌てたのは声をかけたバルトの方だ。シグが倒れこまないように抱き支える羽目になった。
「ぼろぼろかよ、らしくもなく」
「俺は別にたいした怪我じゃない」
「そうか? アンジェリカの様子からするとそうは見えないけどな。……っと、もっとぼろぼろなのが元気に動いてるうちに報告は済ませとかねぇとな」
バルトはあっさり引き下がる。そして壁の暗がりに溶け込んでいる、不気味極まりない黒いミイラに向かって歩を進めた。
 バルトの後ろにはサブロー、リュカ、マユリが控えていた。サブローだけが、バルトに倣ってか「よぉ」などとわざとらしく片手を挙げる。互いに驚きはなかった。自分たちははじめから、サクヤ・スタンフォードという磁石に引き寄せられて集まった砂鉄だ。磁石がここにあるのだから、必然誰もかれもがこの場所に辿り着く。
 何か声をかけるべきか、シグの中にもそういう選択肢が一応あった。しかし、後方から聞こえてきた不躾な笑い声に出鼻をくじかれた。バルトとサクヤだ。酒が入った親戚同士の集まりみたいに、脈絡のない報告事項でなぜか豪快に笑っている。
「っていうことは、鶏サルベージ作戦の方は首尾よくいってるってことだね」
「ああ。後はナギがそのでかい奴をきちっと連れてくるだけだ。しかしな、隊長。その後はどうする? その鶏ってのは、サギよりでかいんだろう? ……この状況でそんなのに出てこられたら、全会一致でラスボス認定ってことにならないか」
「……確かに、現状一番厄介なのはニーベルングじゃなくてグングニル隊員だ」
「手は打ってあるって言ってませんでした?」
二人のやりとり、とりわけサクヤの嘆息に一抹の不安を覚え、シグが合流してくる。残りの三人も座りこんだままのサクヤを中心に半円状に並んだ。一見して集団リンチの現場のようになる。サクヤは座りこんだまま、隊員たちを見上げて話を続けた。
「打ったつもりだったんだけど、思った以上に状況が芳しくない」
「そもそもどういう作戦だったんですか」
「鶏を亀裂の向こう側まで死守するには、とにかく極力目だたせないことが必要だ。カラスみたいにね。ただ、あの表面積に夜間迷彩を施すとなると人手も時間もかかりすぎる。そこを短縮するために、訓練用のペイント弾を低レベルの魔ガンで撃ちまくるっていう……」
「待て待て待て待て、そりゃ結局何人がかりの想定なんだ。だいたい低レベルの魔ガンなんかうちにはないだろ。アンジェリカとせいぜいシグのか?」
ナギがいないから、真っ当な人間の真っ当な質問はバルトが肩代わりしてくれた。サクヤはそれには答えない。どうやらその真っ当すぎる問題がネックになっているようだった。
 サクヤの想定では、ユリィ──三番隊との連携がもう少しうまくとれるはずだった。が、最初の援護射撃以降の所在がつかめない。無線さえうまく繋がれば解決するはずの問題だったが、実際ここまで現場が混乱していては、何が標的で誰が味方か判別しようという余裕すら生まれない。皆目の前にいる脅威を排除するのに手いっぱい、それが悪循環を助長する。
 肩を竦める面々、その中でひとり唸り声をあげていたマユリが意を決して口をきった。
「やってやれないことはないっていうか、今だからできるっていう気もするんだけど」
「どういう意味だい?」
「だってヒトもモノも揃ってるじゃないですかココ。訓練用の低レベル魔ガンだったら整備部の倉庫にたんまりあるし、ペイント弾なんて古い分どうやって破棄しようか揉めてたくらい。今あっちでわけわかんないまま乱戦繰り広げてる附属隊のみなさんも? 一応試験と訓練をクリアしてる魔ガンナーなわけで」
「六番隊をこっちに引き入れる、か。確かに鶏への脅威も消えて一石二鳥ではあるけど……」
歯切れが悪いのは、六番隊を説き伏せる材料と物理的手段がないからだ。あの大所帯はただでさえ指揮系統が乱れがちなうえ、今は肝試しの真っ最中のように冷静さの欠片もない状態だ。近づいただけで魔ガンで撃たれる。実際撃たれてきたのが数名ここにいる。そうでなくても昔から六番隊には煙たがられているサクヤのことだ、妙案も思い浮かばない。
「いいんじゃねーの? 俺はマユリに賛成。あいつら全部機械みたいに動かすのに、苦労はいらんでしょ。適役がいる。探す手間がかかるだろーけど」
 組んだ指を頭の後ろにまわして、リュカが事もなげに言う。装ったと言えばそのとおりだった。視線はシグを捉えている。事情は知らない。だが、この機関の総司令にシグが魔ガンの銃口を向けていた現場はこの目で見ている。生きてはいるのだろうという、とんでもなく大枠の確認のつもりだった。自分たちが塔の床を粉々にしていた間に、サクヤはその結末を曲げに行ったはずだから。
「指令を丸めこむ、もしくは脅して六番隊を動かす。そういうことか」
バルトが自分への確認のために呟く。
「そういうこと。隊長、どうすんの?」
サクヤが思案するために口元を覆ったのは一瞬のことだった。
「やろう。鶏には今夜だけ夜鷹になってもらう。作戦名は……そうだな、鶏ステルス作戦!」
とってつけたような、そしてその割にテーマは押さえた作戦名をひねり出すときには、先刻の比ではない、しっかりと下顎に手を添えて一度大きく唸ってみせた。彼のこだわりは基本的に優先順位を履きちがえた形で発揮される。その全ては苦言を呈するまでもなく一瞬で執り行われた。
「ペイント弾と魔ガンはマユリ主導で確保。サブローとアンジェリカは、マユリと一緒に整備部を経由して司令の探索に当たる。その際整備部のスピーカーが生きてれば、三番隊に応援は頼めるはずだ。司令が確保できなければ最悪この二個小隊で作戦を遂行することになる」
「考えたくありませんが、司令の確保に失敗し、スピーカーも死亡していた場合は?」
「鶏の夜間迷彩は諦めて強行突破になるね。こればっかりはもう運にすがるしかない」
「了解」
平静を装いながらもサブローは人知れず息を呑んだ。サクヤの口から飛び出した聞きなれない単語のせいだ。彼は運を当てにしない。先の先まで対応できる幾通りもの戦術を、その都度組んでは計画通りにこなす。だから常に起こりえる全ての事象が彼の想定内に収まる。サクヤとチェスをしているとそれがよく分かる。
(強行突破を視野に入れろ、っていうことか)
それがサクヤの想定内なのだろう。そう考えるといつも通りだと思いなおすことができた。
「作戦の主旨はあくまでもサギ派への目くらましだから、鶏に危害が加わることがないように徹底してくれ。これがうまくいけば、鶏の護送は随分楽になるはずだ」
「まっかしといてー。これが最終決戦ってやつなら魔ガンも弾も出し惜しみする必要ないし、在庫一掃セールだと思って心おきなくぶっぱなすからねー」
サブローに続いてマユリも、弱音や不満は一切吐かない。黒い包帯の奥で、サクヤの目が細まった。
「ステルス作戦の進捗に合わせて、僕はカラス……協力者のニーベルングと共に鶏の護送に徹する。ナギを含めた残りの四人で、サギ派のニーベルングの相手をしながらサギ本体を討伐する……のは実際難しいなぁ」
「であれば、ニーベルングはニーベルングで引き受けよう。もとよりこちらの争いに手を出す気はないのだろう?」
 突然空から降って来た鶴の一声ならぬカラスの一声で、場の空気が一変した。カラスの輪郭は確かに夜に溶けていて、煤だらけ灰だらけのナギの姿だけがぼんやり夜空に浮かび上がる。八番隊の半円とは十メートルほど距離をとった辺りに降下した。それには理由があったのだが、伝わるはずもないからマユリあたりが即行で突進してくる気がした。そしてそれはすぐに現実のものとなる。
「ナギちゃーん! おかえりーっ」
「待っ! 待ったマユリ! そこでストップ!」
従順な飼い犬のように、マユリはわけもわからず急ブレーキをかけた。その横をサクヤが頼りない足取りで通っていく。ひとりナギとカラスの傍へ歩み寄った。
「御苦労さま。うまくいったみたいだね」
「たぶん。鶏には一階部分で待機してもらってる。それより、さっきの話だけど」
「うん、ちょうど作戦を詰めてたところだった。ナギたちもこのまま一緒に話そう。ニブルはほとんど残ってないみたいだし、心配ないよ」
「え、うん。そうならいいんだけど」
 マユリを止めたのはもちろんそのためだった。が、ナギが今一番確認したいと思っているのはそのことではない。またよろよろと踵を返すサクヤの背を見て、ナギは慌ててその手を掴んだ。
「さっきの……。カラスと一緒に鶏を護送するって」
「? うん? ステルスが成功しても追撃を防ぐ役は必要だし、カラスとの連携も考えるとそうなるよね」
 分かってない──相変わらず、こちらの質問の意図は一切汲んでくれない。この脱力感も久しぶりだ。ナギの口から思わず深々と嘆息が漏れた。
「それは私がやる。……これ以上の無理はしないで」
察しの悪い上官に、補佐官は苛立ちを顕わにした。ナギがこの手の話題で一度むくれると、何を言っても手遅れだ。この抜き差しならない状態も少しだけ懐かしい。サクヤからは嘆息ではなく苦笑いが漏れた。
「相変わらずだなあ」
「はあ? どっちが……っ」
「適材適所には自信がある。僕の采配は疑わしいかい?」
「そういう意味じゃ……」
口ごもるしかなかった。が、引き下がる気もなかった。
 サクヤは完璧じゃない。無敵でもない。ただ、無理の仕方が人並み外れて上手い。ナギはそれをよくよく承知しているからこそ、彼のやり方を尊重してきた。が、今のサクヤの塩梅を認めるわけにはいかない。今この手を離したら、サクヤはまた簡単に手の届かないところへ行く、そんな確信があった。本当は気付きたくなかった。
 ニブルに適応したサクヤになら、ファフニールを撃つことができただろう。そうしなかった理由はひとつ。彼は今、そのパフォーマンスに耐え得る身体を持ち合わせていないのだ。
「ナギ」
 無意識のうちに目を伏せていた。だからサクヤの諭すような声は上から降ってきた。
「僕は君のおかげで、今もこうしてここに立てている」
 地面を見つめたままかぶりを振った。
「君が隣にいたから、僕はいつでも感情のある判断ができた。機械にも獣にもならずに、人として選ぶべきものが見えた。ナギのおかげだよ」
「そうじゃない……私は、ただ」
 サクヤが珍しく言葉を尽くそうとするから、ナギもそれに応えなければと思った。しかしサクヤのように胸を張って伝えられる言葉が、ナギにはない。その胸に渦巻くのは利己的で非合理であさましい感情ばかり。自覚があるから自己嫌悪にも余念がない。サクヤはそんなナギの次の言葉を根気強く待っていた。
「ただ──」
その先が続かない。口にするまでもない単純な望みが、言葉にならない。歯がゆさで俯いたその一瞬、鼻先をかすめる微かな香りに気付く。ナギは胸ポケットに潜ませていたものを大事そうに取り出すと、サクヤの掌の上にそっと乗せた。
「ユキスズカ……」
「咲くかどうかわからないけど」
 それでもいい。応えは無くてもいい。ナギが言葉にしなくても、この花が持つ言葉だけなら伝わると思った。特別珍しい花ではない、けれど特別な意味を持った花。
 サクヤは唖然として、がくから上しかないユキスズカ草の蕾を見つめていた。繭のようなサナギのような一見して珍妙な印象、その感想をはっきり持ってしまったがために堪えていた笑いが噴き出した。ナギはとんでもなく心外そうだ。
「確かに形はなんか……ちょっと、あれだけど」
「そうじゃないよ、ごめん。いや、それもあるにはあるんだけど。普通はその……逆だと思って」
「──知ってる」
サクヤが笑いながら言う「逆」の意味を、ナギはすぐに察することができた。サクヤにとってはそれが意外でしかなかったから、笑いも同時におさまる。
 いつかと同じように、気付いたらサクヤの左手が頬に触れていた。そしていつもと変わらない穏やかな笑みで彼はナギを見ていた。何かを言いかけていた、そういうふうに唇が動いた絶妙なタイミングで、遠く暗がりから事態(強制)終了のアナウンスが発せられる。
「すいませんけどねー! そこのドラマの役者さんたちー! 手短に済ますか、いっそもうちょっとでっかい声で話すかしてもらえませんかねー! そろそろ俺らも暇ぶっこいてまーす!」
リュカの前触れのない大音量のクレームにより、ナギはようやく周囲の状況というやつに意識を向けることができた。八番隊、みんな仲良く勢ぞろい。バルトがリュカを小突いている。それを窘めるアンジェリカと項垂れているサブロー。マユリはこちらに向かって朗らかに手を振っている。ナギはそれらを全て順序良く確認した後、高速で後ずさった。最悪だ。死にたい──後ずさった先で肌触りの悪い壁にぶちあたる。ナギの背には、最初から最後まで完全にお客様と化していたカラスが座っていた。
「終わったのか? 随分中途半端に見えるが」
 最悪だ! 死にたい! ──今度こそ脳内ではっきりとそう叫ぶが逃げ場はない。ある意味で四面楚歌の状況下で、ナギは完全に言葉を失って座りこんだ。立ち上がれない。いや、立ち直れない。ここまでの失態を、未だかつて彼女は犯したことがない。
「隊ちょー! よく分からんけど、俺たちこっから会話しなきゃだめー? 結構めんどくさいよ、これー!」
これ見よがしに両手でメガホンをつくってリュカが声を張り上げる。ナギの自尊心を粉々に砕いたことなど彼にとっては瑣末事だ。サクヤはと言えば、実にあっさりと踵を返して生温かい目のクレーマーたちと合流を果たす。
 ナギは紅潮した首から上を両手ですっぽりと覆った。カラスは特に文句も言わずからかいもせず、黙って背もたれ代わりになってくれている。もしかするとこの中で一番気が効くのはこのニーベルングではないのか。いや、さっきの発言からするとこれは腹の底で嫌らしく笑い転げているのかもしれない。ともあれ今はカラスの無言の厚意に甘えることにした。
 そうしてナギが心頭滅却モードに突入して数十秒、サクヤは手招きだけでナギとカラスを呼び寄せる。ナギはカラスに後押しされるようにしてようやく輪の中に入る始末だった。
「これでやっと八番隊全員集合か」
バルトの苦笑交じりの台詞に、ナギを含めた数人が思わず顔を見合わせた。
「隊長の見た目がちょっとばっかしクレイジーになったってこと以外は、モトサヤって感じだよなー?」
リュカは軽い確認のつもりで誰ともなく話を振った。が、それが地雷だった。輪になった八人の間で様々な種類の視線が飛び交った。失策だったことは理解したが、リュカは後頭部を掻きながらあろうことか舌打ちをかます。
「違うのかもしんないけど、ここは無理やり鞘におさめとくとこだろっ。喧嘩はあとまわしな!」
「一理ある」
すぐさま同意を示したのは意外にもナギだった。これにはリュカもほっとした、のも束の間。
「……でもごめん。どうしても、一発だけ」
「あ?」
 ナギが決意の表情で立ちあがる。そのまま標的を一点に絞り、迷いなく距離を詰めた。
「待った! ばか、リュカ止めろ!」
 もう遅い。ナギは標的のジャケットの襟を鷲掴みにすると、奥歯を食いしばって右の拳を振りかぶっていた。サブローは叫んだだけだったし、リュカはナギを制するどころか本能的に仰け反って退避。他は皆、突然のことにただただ唖然と一部始終を見守るだけだった。
 派手な音はしなかった。遠くで響く魔ガンの爆発音やニーベルングの咆哮とは対照的に、鈍く籠った骨の音がしただけだ。逆に言うと音だけが地味だった。シグは何の抵抗も防御もせず殴り飛ばされたから、当然体勢を崩して後方に倒れ込んだ。
「ナギ! あんた怪我人相手になにやってんのっ」
アンジェリカが頭を抱えて呆れとも怒りともつかない金切り声をあげる。何をと言われても、収拾がつかない感情を拳にこめて、渾身の力でシグの顔面にお見舞いした、としか言えない。そしてそれは見ていた者には分かりすぎるほどに分かるだろうから説明はしない。
 シグの無言の口元からは真っ赤な血が、だらだらと垂れていた。
「なんだ……俺、この光景見たことあるぞ」
「奇遇。俺も」
リュカとサブローは揃って遠巻きに既視感満載のこの光景を眺めている。覚えている限りでは前回は平手打ちだった。兎にも角にもここでシグを庇ってはいけない。サブローの脳裏には強くその教訓だけが刻まれている。
「全部片付いたら話がある!」
ナギの一方的な宣言にシグは了承も拒否も示さない。ナギもいちいちそれを待たない。やるだけやって言うだけ言うと、鬼気迫る表情のまま踵を返した。
「おいシグ……、大丈夫か」
様子を伺っていたバルトがおそるおそるシグに近寄る。反応はやはりない。後から後から滲みだしてくる口内の血液にも、シグはどこか上の空で対処していた。
「奥歯折れた」
シグがようやく発した言葉は「何が」「どうした」のごくごく単純な構成でありながら、それなりに衝撃的なものだった。百聞は一見にしかずとばかりに証拠品がシグの口内から手のひらへ転がり出る。血まみれの哀れな破片と化した左奥歯だ。
 凄惨な現場に凍りつく外野をよそに、シグは無造作に立ちあがった。唾液と共に残った不快な血を吐き出す。
「……何」
 バルトが至近距離で意味ありげに固まっているのが鬱陶しい。返答はなく、そうかと思うと背中を思いきりたたかれた。これにはシグも反応せざるを得ない。せっかく立ちあがったところをまたよろめいて、前のめりに噎せかえった。
「は……!? 何なの……っ」
「いや? 気が抜けた炭酸みたいな顔してるから、喝でも入れといてやろうってな。ほら。ブリーフィングの仕切り直しだ。顔は冷やしとけよ」
 準備の良いバルトから湿布薬を投げ渡される。シグはそれをまた黙って張り付けながら、少し離れた位置で歪な円陣を組む連中に合流した。
「お待たせしました」
「いや……えーと、大丈夫なの」
「問題ありません」
 サクヤはおそらく殉職した奥歯の心配をしているのだろうから、シグもそう答えた。ブリーフィング中に暴力行為に及んだ女は、アンジェリカからこっぴどくお灸をすえられている。
 本当は問題と呼べるものは山のようにあって、しかもそのどれもこれもが一筋縄ではいかない混み入ったもののはずなのに、この空間では全てが些細なもののように感じられた。
「ったく、いい加減本題に戻るぞ。問題は、あのデカブツ本体をどう片づけるか、だ」
ぼやいたバルトの視線の先には、夜空をぼんやりと照らすサギの巨体がある。
「簡単だろ。本気出せばいいわけよ、俺たちが」
「言うじゃねえか」
リュカは通常通り、どこまでも楽観的だ。しかしその抽象的すぎる提案はあながち間違いでもない。サブローも小さく唸りながら同意を示した。
「何が恐いって、まあ……ぶっちゃけデカイだけって気はするな。強いて他に挙げるなら癪に障るほど美白でいらっしゃる点か?」
「んなの見りゃ分かるっての。他になんかねーのかよ。実は一か所白くないとか、近づくとめっぽう臭いとか」
「そのどっかで聞いたことあるやりとりやめろっ。知りたいのはサギのチャームポイントじゃなくてウィークポイントだ」
バルトの的確すぎる諌めにリュカとサブローは揃って苦笑した。しかし一度緩んだタガはおいそれと締まらない。
「だなー。下から撃っても尻? にあたるだけで全く効果なしときた。ってかほんと、いい加減そのあたりに気づいて作戦を立てなおせよって話だよな……いつまで尻? を撃ってんだよあいつらは」
 遠回しに六番隊をはじめとする有象無象をなじる。演習場の壁の先では、未だに魔ガンの花火が絶えることなく上がっているから彼らは間違いなく、何の策もなく展望もなくサギの臀部を集中砲火しているに違いない。リュカが半音上げたのは、忌々しい尾が垂れさがっているあの部位を尻だと断言して良いのか判断に迷ったからだ。
「せめて尻の穴でもあればな」
サブローも便乗する。話の流れはおそらく正しい方向に戻りつつあるはずだ。確か、論点はサギのチャームポイントについてだったか。
「穴……ないの。初めて知ったわ」
アンジェリカも驚愕と興味本位の滲み出た表情を隠さない。これは一度持ち帰って慎重に論じるべき議題なのかもしれない。ニーベルングに尻と呼ばれる部位は存在するのか、そしてそこにあるべき穴は──。
 皆が期待の眼差しをサクヤとカラスに向けた。サクヤは答えず、更に新たな疑問を重ねる。
「そういえば排泄物ってどう──」
パーンッ!! ──悪意をこめてクラッカーの紐を全力で引き抜いた、みたいな破裂音が響いた。ナギの合掌による強制終了の合図だ。毎度おなじみ脱線走行を止めるにはこれが一番有効である。ばつが悪そうに視線を逸らす面々の中央で、ナギはいただきますポーズのまま打ち震えていた。いや、だって、痛い。先刻シグを殴り飛ばした右手が、ありえないくらいに疼く。
「尻の話はまた今度改めて。えーと、今は、サギにダメージを与えるためにはどうするのがいいかって話だったよね、たぶん」
 取り繕おうとするサクヤに対してナギは唇を真一文字に結んだままこっくりとうなずいた。本当は「たぶん」というところに文句をつけたいが、今その話を持ち出せば全員がまた喜び勇んで脱線する。我慢我慢、いろいろと我慢。
「あの位置から引き摺りおろせばいいんじゃないか? ほら、カラスのときみたいに特殊弾とか使ってさ。何なら塔ごと吹っ飛ばすとか」
「いや、できればサギはあそこに磔ておきたい。下手に追いこんで標的が鶏になるのは避けたいからね」
「じゃあもうあれじゃねーか。俺たちが同じ高さまで上がるしかねーじゃん。尻の穴が無いなら目か口にぶっこむしかねーんだろ?」
「皮膚装甲が折り紙つきだからなあ」
 思い思いに意見を述べる男性陣。視線の先はカラス。今度は彼に白羽の矢がたったというわけだ。
「そういうわけだから……カラスが信用できる、気のいい友達にかけあってもらえない?」
「乗るつもりか」
「そうでもしないと、サギの顔面まで魔ガンは届かない」
暫くの沈黙があった。ナギたちの目にそう見えただけで、カラスは違ったのかもしれない。とにかく無音の状態が数十秒、場を支配した。
「……手配はしよう。気のいい連中かは保証しかねるがな」
「ありがとう、助かるよ。さあて……これで下準備は整った、かな? 質問がなければ作戦行動に入ろう。作戦の本質を見失わないようにね」
「最優先事項は鶏の死守、でいいんですよね」
 ひたすら黙りこくっていたシグが、ここにきてらしくない確認を口にした。
「そうじゃないよ、シグ」
「だったら」
「本作戦は、ここにいる全員が無事に帰ってくることが最優先事項だ。例外はない。いいね?」
シグへの確認だった。しかしそれには全員が頷いた。
「……。了解」
シグ当人は返事に数秒を要した。示し合わせたみたいに遅れて、ナギも同時に返事をしたものだから思わず顔を見合わせる。シグは単に、自分とサクヤは既に「無事」とは言い難いのではないかという疑問を、多少強引に解消していただけであったが、ナギの方はいささか事情が異なるようだった。少し寂しそうに、どこかほっとしたように微笑っていた。
「魔ガン、撃てるの。その手」
 シグは無事かどうか、という問いを眼前にいるドメスティックバイオレンスの具現者にもしておくべきだろうと判断した。青紫に変色したナギの右手の甲、アンジェリカが特大の溜息をつきながらテーピングしていく。小言を言われているのにナギはどこか嬉しそうだった。シグの問いは無視をされたので、たたみかけることにする。
「普通は利き手で殴らない」
「……うるさいな。そんなところまで考えてる余裕なかった」
「そういう問題じゃないっ。普通はそもそも“殴らない”のよっ。女が男を、よりにもよってグーで」
 神妙な面持ちで頷くシグ、そして後方の男性陣。ナギの額に再び青筋が浮きたつ前に、良いタイミングで邪魔が入った。
 カラスが呼び寄せたらしい数体のニーベルングが、演習場の外れに急降下して立ち並ぶ。サクヤはカラスと話しこみながら、何やら面接めいたものを行っているようだ。その内にあからさまに闘争心むき出しの、強面の一体が飛び去った。カラスよりも一回り図体の大きい者も、手を振るサクヤの顔にニブルらしき息を吹きかけて去っていく。残った二体は翼に顔立ち、胴周りに至るまでシャープ、イーグル級の中では比較的小さい方かもしれない。
「ハヤブサと、ミサゴ。スピードと柔軟性があるから、人が乗ってもうまく対処してくれると思う」
 やはり残存の二体に決めたらしい。サクヤが紹介にナギたちも黙って頷く。てっきり見た目の印象で選んだんだと思っていたがそうではなかったらしい。
「ちなみに名前って……」
「決めていいって言うから僕が今決めた。気にいってくれたみたいだよ。ナギはどっちに乗る? 試乗する時間があれば良かったんだけどね」
「……そんなのあるわけないでしょ。じゃあいきなり急降下したり、こっちの射撃に文句とかつけてこない方」
 カラスが何か言いたげにこちらを見ていたが気にしないことにした。もうニーベルング酔いはこりごりだ。どうせ乗るなら紳士的なニーベルングがいいに決まっている。サクヤが新顔のニーベルングに半ばどうでもいい聴取を行うのを尻目に、ナギは演習場の向こうに見えるサギの姿を焼き付けた。あれには借りがある。今度こそ手加減なしでブリュンヒルデを撃つときだ。そして、おまじないのように胸中で繰り返す。作戦の本質を忘れないように、と。


 ブリーフィング終了からおよそ一時間、ハヤブサを駆ってグングニルの塔を旋回しながら、ナギは目の前の現実に人知れず溜息をついた。上も地獄、下も地獄、だから中間地点を高速で旋回して時間を稼いでいる。そろそろバターになるかもしれない。
「なんか今思うと馬鹿みたいだよなあ……」
「何が」
シグの独り言めいた呟きが背中越しに聞こえてしまったから、ナギは間髪入れず反応した。
「俺たち、あれ相手に一生懸命話しかけてたわけだろ。まあ、概ねナギが、だけど」
それはそれはしみじみと、シグは遠い目でサギを見る。ナギはそれには敢えて応答せず「下」の進捗状況を確認するためにハヤブサの背から身を乗り出した。
 主塔の一階部分にこれでもかというほど集まったグングニル隊員は、皆一心不乱に魔ガンの引き金を引いている。爆音は一切ない。マユリが整備部から根こそぎ引き摺りだしてきた黒いペイント弾が音も無く放たれていく。かれこれ二十分この状態だ。
 総司令であるグンターが、大した脅しも必要とせずにこちらの言い分を呑んだことに驚きはなかった。少なくともナギはそうだった。彼は自分の残された職務をまっとうしようとしていた、その延長線上にサクヤの作戦があっただけのことだ。そうして統率のとれた六番隊はそれなりに頼りがいがある。一糸乱れぬ陣形でペイント弾を乱れ撃つ様は、上から見ているだけでも圧巻の一言に尽きた。彼らは大所帯の動き方を熟知しているからこそ、敢えて個を殺す。隊という巨大な個体に綻びが出ないよう歯車に徹する。 
 そんな眼下の静寂地獄とは対照的に、耳元では断続的に魔ガンの発砲音が鳴っている。相棒は湯水のように惜しげもなく魔弾を消費し、消費した分確実にニーベルングを地に墜としていった。
「ねえ! ヴォータンとローグ、持ち替えてないよね! なんでそんな一発で墜とせるの!」
「何! 聞こえない! っていうか、撃とうよ。何さぼってんの?」
 シグが狙う先を目で追う。眼球、口元、あるいは翼の決まった箇所を撃っているようだった。だから完全撃墜とまではいかなくても、戦意をそぐことはできる。もともと確固たる信念を持って集合したわけではない賑やかしのニーベルングたちだ。負傷しただけで塔からは距離を置いてくれる。
 それにしても妙ではあった。サギは随分長いこと主塔から動いていない。現れた直後はさておき、今は積極的に塔を破壊するふうでもない。時折数体のニーベルングが、雛に餌を与える親鳥のように、近づいてきてはまた飛び去っていった。シグは時間稼ぎと時間つぶしにそれらを撃っている。
「こんな高速でぐるぐる回られると、まとまる考えもまとまんないな……」
 アトラクション化したら一定の興行収入を見込めるかもしれない。ただし子どもは乗れません。あしからずご了承ください。
「止まれば的になります。王の準備が整うまで今しばらくご辛抱を」
「分かってるよハヤブサ。ありがとう」
 唯一の救い、唯一の癒しがこれだ。搭乗したニーベルング、ハヤブサはナギが望んだ以上の紳士的性格だった。ただちょっと速すぎるというか加減知らずすぎるというか、つまりバターになるのも時間の問題というか。とにかく何でもいいから早急に、下の連中に鶏ステルス作戦というやつを完遂してほしかった。などと幾分雑に神だのみしていた結果、地上の隊員たちが蜘蛛の子を散らすように広がっていくのが見えた。
「来た! 来た来た来た! シグっ」
「分かってるって! ナギも撃とう、マジで!」
 シグお得意の十六連射で夜空に濁った花火が咲く。冷やかしとしか思えない数体のニーベルングが、文字通り尻尾を巻いて逃げだした。その奥でサギが咆哮をあげるのが見える。無防備に開けられた大口に向けて、ナギは開戦の狼煙とばかりに一発を放った。着弾はしなかった。サギの口元一歩手前で、奴の吐いたニブルに着火して爆発する。毒の霧を巻き込んだ熱風が吹き荒れ、ブリュンヒルデの一発は一際大きな花火となって夜空に掻き消えた。
 このド派手な煙幕の中で、事態は次の局面へ移行する。
 地上から巻きあがる風があった。先刻ナギが撒き散らしたニブルを全て上空に押し戻す、その風に煽られてハヤブサは少しだけ滞空位置を上方にずらした。少し下の空中で、闇が動いている。夜を味方につけた黒いニーベルングと黒い男が、ムスペル上空を目指して飛び立った。
ナギたちに分かったのは気配だけだ。ステルス効果は十二分に発揮されている。
「邪魔者も飛んでったし、こっちも仕事をしようか」
「そうだね。もたもたしてるとリュカたちに横取りされちゃう」」
「どうだか」
シグの嘲笑を是認するように、件の男が撃ったであろう高圧エネルギーが明後日の方向にすっ飛んでいく。ニーベルングに騎乗した状態で魔ガンを扱うのは初めての経験だろうから無理もないのだが、リュカの場合それとは無関係に狙いどころが悪い。同じくミサゴに搭乗したバルトの威嚇射撃は、それなりにサギの身体に傷を負わせているようだ。実はそれが、シグには有難迷惑でしかない。
「あっちに注意ひきつけてどうすんだよ、当たらない主砲しか搭載してないのに。大人しくエキストラを散らしてくんないかな……!」
下手に追い詰めてニブルを吐かれても厄介だ。だからサギを仕留めるのは、自分たち二人が適任だと思っている。高濃度ニブルをもろともせず、サギを翻弄し確実に撃沈できるこの二人でなければ。
「確かにこう……ちょっと逸れると、私あの二人を撃沈しちゃうと思うんだよね」
「なんでバルトが乗っててそういうところに気がいかないんだよ」
「……私が伝えましょうか」
苛立つ搭乗者たちを見かねて、ハヤブサが立候補した。
「え、できるの? できるかっ。お願いしてもいい?」
 おのぼりさん二名にではなく、それらを乗せて飛ぶミサゴに。数秒間をおいて、視界の中のミサゴが上昇体勢をとった。こちらの思惑通りサギからは離れ、その上空で蠢くイーグル級の群れの中へ突っ込んでいく。小さく悲鳴が聞こえた気がした。
「何か、上の二人が揉めていたそうです。年長者の方が高いところがどうとかで」
(バルトか……)
(バルトだな……)
 今はバルトの高所恐怖症を気遣っている余裕はない。というかそんな話は寝耳に水である。もしかしたら本人でさえも知らなかった事実なのかもしれない。そうであれば御気の毒さまとしか言いようがない。
 ともあれこの機を逃す手はなかった。ハヤブサは絶好の位置取りをしてくれる。後はシグと連携してサギの大口を開けさせるだけだ。負傷した右手の痛みを堪えながら、ナギは魔ガンを構えた。引き金を引く直前に、視界に湧いて出た数体のニーベルングに思わず舌打ちを漏らす。
どれだけ追い払っても性懲りもなく冷やかしがやってくる。またサギの周囲をちょろちょろと旋回しては飛び去っていくだけだ。この命がけの冷やかしに何の意味があるというのか。
「ニーベルングって……そこまで馬鹿じゃない、よね」
ふと脳裏をよぎったことが口から漏れた。
「中には救いようのない馬鹿者もいます。知能指数の話でしたらお考えの通りです」
ハヤブサが執事のように律儀に答えてくれた。
「さっきから……ううん、最初から。気になってたことがある」
「何。思わせぶりなのやめて」
「あのニーベルングたちは、サギに“何か”を運んでると思わない……?」
 シグはすぐさま身を乗り出し、訝しげに目を凝らした。
 親鳥が自分よりも遥かに巨大な雛に餌を与える、献身的な光景だった。それがそもそもナギが抱いた違和感のはじまりでもあった。サギは雛ではない。餌と呼ばれるものも必要としない。そしてニーベルングは、意味のない行動をとることはない。
「ラインタイトを……運んでるのか? なんで」
シグは目にしたままを口にした。口にしながら一つしかない答えに辿り着いていた。背筋から全身の末端まで悪寒が走り抜けたのを感じる。伝染するはずもないのに、ナギも同じように身体を強張らせていた。誰かが言っていたのをこの局面で思いだす。自分たちが「魔ガン」と称するこの小型の爆撃機は、人に向ければその瞬間に殺戮兵器に早変わりする両刃の剣だと。それは否定の余地のない真実だった。よもやこうしてニーベルングから実証されようとは思いもしなかったが。
 サギは塔の中腹でただ機が熟すのを待っていたのだ。部下から運ばれるラインタイトを体内に蓄積し、サギという名の意思を持った魔ガンが完成するのを。
「お二人ともしっかり掴まってください! 急降下します!」
ハヤブサは言うが早いか頭を下にして真っ逆さまに落ちて行った。たった数秒前まで彼らが漂っていた宙を、光の玉が通り過ぎていった。それは宿舎塔に直撃し、塔の上から半分を吹き飛ばした。ナギもシグも、見慣れている爆発の仕方だった。しかし後に残ったその光景は、二人にとって、ここにいるグングニル隊員全てにとって見たことのない凄惨なものだった。
「低く飛ぶな! サギより上に行くようにあっちにも伝えろ!」
 低空飛行を保っていたハヤブサに向かってシグが怒鳴る。宿舎塔はおそらく試し撃ちだ、サギの目的は最初から主塔、その下に「居るはず」のニーベルングの王である。
「マユリたちは……!? まだ塔内に居るんじゃ……!」
「居てもどうしようもないだろ! あいつらが危機管理能力ゼロのボンクラ隊員じゃなけりゃ、とっくの昔に離れてる!」
 主塔から距離をとり、ハヤブサ、ミサゴの二対の戦闘機はほとんど垂直方向に急上昇した。ナギは風圧で抑えつけられた瞼をこじ開けてサギの姿を追う。 
 月があった。サギの口内で、今宵の夜空を彩る満月が煌々と輝いていた。そしてそれは次の瞬間轟音とともに地上に落ちた。視界が余すところなく白く染まった。グングニルという組織が作ったニーベルングを撃破する唯一の手段、その爆発、その光、その焔が、彼らの立つ大地を焼いた。グングニル機関の中央に聳え立っていた主塔は、火柱をあげる瓦礫だけを残して姿を消した。
 爆発と同時に拡散した熱波に煽られて、ハヤブサは不時着を余儀なくされた。
「目当てのものが無いってばれたみたいだけど? どう動くんだろうね、あの単細胞は」
 機転を利かせて搭乗者二人に覆いかぶさったハヤブサの身体を、瓦礫でも押しのけるようにしてシグは這いだした。同じく這いだそうともがくナギの手を、取ろうとして躊躇する。シグの頬を渾身の力で殴り飛ばした彼女の右手はほとんど力が入っていないようにみえる。自業自得といえばそうなのだが、無視して握ると折れそうだ。結局は手首を掴んで半ば乱暴に引き摺りだす形になった。
「ハヤブサは? 大丈夫?」
「羽を少し焼かれたようです。飛ぶことはできますが、最高のパフォーマンスは約束しかねます」
「気にしないで。無事なら良かった」
 いや、良くないだろう──力づくとはいえ一応引き摺りだした自分には礼の一つもなく、ニーベルングの心配にかまけるナギを、シグは半眼で見下ろしていた。
 対してサギは、綺麗さっぱり何もなくなった宙から呆然と地下の穴を見下ろしている。この場所に鶏がいた痕跡はある。それも今の今まで。それが手品のように消えうせている理由と仕掛けを模索した。それらに心当たりはなかったが、眼下を虫のように這う人の群れと、その虫のような人間に加担する誇りのない同族がせっせと下準備をしたことは間違いない。彼らはサギにとってこの上なく腹立たしく、目ざわりな存在だった。
 塔を一撃で破壊するためのラインタイトを収拾するのに、随分な月日をかけた。無力なヒトがニーベルングに抗う唯一の術を逆手にとって、彼らの欺瞞の塔を粉々にしてやればどれほど気分がいいだろうと考えた。王と呼ばれるただ特別なだけの木偶の坊も、同じように始末できるはずだった。怒りで猛り狂わずにはいられない。そこにあるのにそこにない、新月に向かって吠えた。
「本来の目的は王の抹殺だったはずです。別のやり方であれば、サギならうまくやったかもしれません」
「手段に固執すると、大事なものを見落とすらしいから」
「どーでもいーけど、事態は別に好転してはないよね。俺たちはあれを仕留めなきゃならない。今ここで。……でなきゃ次“主砲”が狙うのは人間だろ」
「次ってまさかそんな──」
 ナギの疑問への回答は、サギから即座になされた。猛るだけ猛り、その口元から吐き出されたラインタイトの塊が隕石のように炎をまとって降ってくる。ナギの頭は空っぽだった。何も考えないまま、いつものようにブリュンヒルデを握りいつものように標的に向かって構え、思いきり引き金を引いた。
 目の前で星が砕けたようだった。肌が、髪が、喉が焼ける。何より右手に激痛。頭の中で後悔と不安とがせめぎ合った。シグを殴るのは後回しにしておけば良かっただとか、この後何回これを凌げば終わりがくるのかだとか。熱風に煽られてナギは後方に吹き飛ぶ。その背を、シグが間一髪で受け止めた。
「ナギ。あと一回でいいから、このままここで的になってくれない?」
 前言撤回。背後から聞こえた情も何もない打診に再び右手拳に力が入った。
「あと一回って何! 何基準!」
「信じていいよ。俺誰かと違って外さないし」
 シグの声は、ナギの耳元で聞こえた。だからその不似合いで穏やかな息遣いや、こぼした苦笑まで伝わってくる。
「待って、シグ」
「飛べるんだよな! 悪いけどあんたにはつきあってもらうぞ」
それはハヤブサに向けられた言葉だった。ハヤブサは一も二もなく従順にシグを背中に乗せて離陸した。先ほどまでの切れのある飛び方ではない。傷ついた羽を極力羽ばたかせないように慎重に上昇していく。目だたずに目的地にたどり着くには好都合かもしれない。
「シグ!」
 誰かに名前を呼ばれた気がした。それをかき消すくらいの大声で、シグの名を叫んだ。
「ナギ! いいからあんたはこっちに集中しなさいっ! シグなら大丈夫だから!」
気付けばアンジェリカが隣に立っていた。無事を喜ぶ心の余裕がない。
「陽動すればいいんだろ!? マユリ、せーので一緒に撃つぞ、二時の方向、とにかくシグたちと逆!」
「ナギちゃんはど真ん中ね!」
サブローが、マユリが、煤けた顔で合流してくる。これで大丈夫、シグなら大丈夫──? 違う、そうじゃない。これでは意味が無い。彼を殴り飛ばしたことが、一緒にハヤブサに乗ったことが、これまで二人で過ごしてきた日々の全てが、無意味なものになってしまう。
 シグからは生きている気配がしなかった。ナギだけがはじめからそれを知っていた。もうほとんど感覚のなくなった右手人差し指を引き金にかける。そうするほかなかった。シグを世界につなぎとめておく手段が、もうこれの他には見当たらない。視界の中央にサギを捉えながら、ナギの瞳はシグとハヤブサの姿を探していた。
 シグはハヤブサの背骨にうつ伏せ状態で張り付いて、息を殺してそのときを待った。三発目の主砲を吐きだしたその後の、警戒心のまるでないがら空きの背中。シグはローグとヴォータンを交互に撃った。“むら”がないように満遍なく、息つく間もなく連射した。地上から見るとそれは、小さな明かりが灯っては消え、また灯っては消えるイルミネーションのようだった。ダメージははじめから期待していない。シグが期待したのは、その長い首ごとこちらに振り向いてくれるという体勢だけだ。
 かくして狙いどおり、サギが振り向いた瞬間にハヤブサは絶好の位置を確保していた。シグは自らハヤブサから飛び降り、島のような大きさのサギの顔面に着地する。着地と呼べるほど鮮やかではなかった。左大腿から全身を引き裂くような痛みが走った。その場に倒れこみそうになるのを気力だけでつなぎとめる。
 間近で見るサギの皮膚は、死んだ珊瑚礁のようにでこぼこした歪な表面で、目を見張るほど美しくも神々しくもなかった。ただひたすらに白いだけ、ひたすらに巨大なだけ、八番隊の皆ではじめに確認し合ったそれだけの脅威だった。
 シグはサギの鼻っ面に立って右眼にローグを、左目にヴォータンを向けた。
「あんたも俺も、とっくの昔に用済みなんだよ。敗者は潔く消えようぜ」
それぞれ一度ずつ、感触を確かめながら丁寧に引き金を引いた。銃身も手元も一切ぶれない、消すべきものを確実に消すための精密射撃。シグが得意としてきたもの。早撃ちでも連射でもない、彼の存在証明。
 弾け飛んだのが巨大な眼球となれば、いつものように肉の焦げるにおいだけで済むはずがない。爆発音に混ざって不快な水音が、熱風を打ち消すように温かい雨が降り注いだ。この世のものとは思えない醜い悲鳴がサイレンさながらにけたたましく鳴り響く。
 シグは糸がきれたマリオネットのように両腕を下げた。のたうちまわるサギの顔面に留まることは至難の業で、抗わず逆らわず、転げるままに身を任せた。
(……正直少し、疲れたな)
 糸は遥か昔に切れていた。何度も切れては、その度に歪に結びなおしてきただけだ。人でなくてもいいから人らしく、生きていなくてもいいから生きているふりをしていたかった。望みは充分すぎるほどに、果たされたように思えた。
 だからサギの爪が高速で降りおろされて視界を埋め尽くしたとしても、ぼんやりと観察するだけにとどめた。恐怖を感じなかったのは、その資格がないことを知っていたのと、胸いっぱいのよくわからない満足感のせいだろう。少なくとも次の展開を予期してのことではない。
 ドバンッ! という、どこか陳腐で教科書通りの砲撃音が鳴った。それがサギの爪を一撃で粉々にするほどの威力だったということ以上に、その奥でがむしゃらに手を伸ばす男にシグは眼を剥いた。
「だあああ! バルトちゃんと持って、支えて! ミサちゃんもうちょっと寄って! 落ちるっ落ちるっ!」
「……なにやってんの」
ミサゴの背にバルトが、そのバルトに支えられてリュカが魔ガンを持ったままこちらに身を乗り出していた。
「くそっ! シグか? リュカか? どっちだ、もたもたすんな! もたもたしてる方を引き摺れ!」
 組体操の下の方の人みたく、バルトには目下の状況さえ把握できないようだった。ぎゃあぎゃあと危機感と恐怖感だけで喋る二人に、シグはただ呆気にとられるばかりだ。それを見たリュカが暴挙に出る。何か奇声を発しながら(おそらく自身を鼓舞するためだ)自らもサギの顔面に降り立つと、シグを横抱きに抱え上げ全速力でミサゴの元へ走った。その間、サギの闇雲な爪攻撃を捌いたのはもちろんバルトで、鮮やかではないが堅実な、普段通りの戦いぶりをみせてくれた。お姫様だっこされたシグが無事にミサゴに乗ったのを見届けて、リュカと共にも
う一発をお見舞いする。速くて正確なミサゴの飛行に助けられ、三人は暴れ馬ならぬ暴れサギから距離をとることができた。
「吐き気がするから下ろしてほしいんだけど」
 タイミングを見計らって、できるだけ角が立たないように普通を装ったつもりだったが、シグのいささかずれた気遣いによってリュカの火には油が注がれる結果になった。
「おい! 実はすっげー馬鹿なのか!? だよな! 絶対そうだよな! 今までお前のことちょっと賢いんじゃねーかと思ってた俺が馬鹿だったわ……! …...
あ? ってことはどっちが馬鹿かわからねーじゃねーかよ!」
「……うるさ」
「んだぁっ! 俺より格下の癖にその態度!」
「階級は一緒だろ、寝ぼけてんのかよ」
シグは自分で言いながら気分が滅入るのが分かった。普段は忘れたふりというか気に留めないようにしていたのだが、シグとリュカの階級は同じ、曹長だ。
「階級がどうのじゃねーよ。全員無事に戻るのが最優先事項つったろーが! お前のための命令だろ? んなことも分からねーくせに偉そうぶってんじゃねえよ!」
 シグは馬鹿みたいに口を開けたまま、固まっていた。バルトは両耳の穴につっこんだままだった指を抜きながら深々と嘆息する。
「シグ、お前あそこで格好良く死んでやるつもりだったか?」
「いや、俺は……」
「違うんだったら、人としてまず言うべきことがあるだろうが」
お父さん、いやバルトの後ろで、鼻息を荒らげたままのリュカがうんうんと頷いている。
「……アリガトウゴザイマシタ」
「……ねえミサちゃん、聞いた? 今の。俺こんなに心のこもってないありがとう聞いたの生まれて初めて」
「そう責めるもんでもないよ。ちょっとやり方が真面目すぎたってだけさ。結果オーライなんだ、だったら反省なんか全部終わってからでいいじゃないか」
「なるほどね~。まぁ、ミサちゃんがそう言うならそういうことにしといてやってもいいかもね」
「……アリガトウ、ゴザイマス」
 シグは突っ込まなかった。いつの間に愛称で呼ぶほど仲良くなったんだこいつらは、だとかミサゴは言葉をどこで仕入れてきたんだとか──どう考えても場末のバーのママの貫禄がある。あるいは、バルトの高所恐怖症はどうなっただとか。高度がありすぎて感覚が麻痺したのかもしれない。
「さあて、サギは? 随分落ちてきたな。こっちにはリュカもいることだし、このまま上から砲撃するのもありか」
「あ、それならハヤブサから伝言きてるよ。上に乗ってたお嬢さんからだろうけどね。『下から一斉射撃するから巻き添え食らわないようにとっとと下りて来い』だそうだ。いいねぇ、派手なのは嫌いじゃないよ」
「……シグ、お前もう片方の奥歯もなくなるかもしれんな」
青ざめるバルトとは対照的に、シグは思わず笑っていた。命令違反未遂が、補佐官殿からの鉄槌一撃で済むなら安いものだ。その際は四の五の言わずに思いきり殴られておこうと考えた。

last episode 8番目の扉にノックを

 光のない世界を一人きりで歩いていた。落ちていたマッチの明かりで足元を照らせることを知ると、その火が消えてしまわないように必死に守り続けた。小さくていいからランプが欲しかった。ただこの灯火を守るためだけのランプが。 
 ランプを手に入れると、周囲がよく見えるようになった。自分が居る場所が、今も昔もこの先もずっと、延々と続く、常しえの闇だということを知った。進むしかないから進む。理由といえばそれだけ。冷たい壁に手をついて、仄暗い階段をおそるおそる下った。途中にあった古ぼけた、けれども頑丈そうな扉は、そのどれもが開け放たれていて中から見知った誰かがこちらを覗きこんでいた。
 ふと前を見る。全然知らないような、よく知っているような、とにかく矛盾した印象の女が歩いていた。ひとつひとつの扉の前で立ち止まって、かぶりを振ったり謝ったりしながら、静かに丁寧に扉を閉めていく。すがるような目の母に、空ろにこちらを見つめる父に、無邪気に笑うたくさんの小さな友達に別れを告げる。鍵はかけない。哀しくて愛おしい記憶として大事にしまうだけだ。
 放っておけばいいのに──思ったことが溜息になって漏れた。そのせいで女が気付いて振り返る。手元のランプが彼女のはにかんだ笑顔を煌々と照らし出した。
「つなごうか」
 気付いたらそう口走って、空いた方の手を差し伸べていた。ナギは少し考えてから、シグのその手をとった。それがちょっと、いや、かなり予想外だったから、反射的に握り返してしまう。つなごうという提案をしたのだからこの方が自然だし、思わずというか、深い意味はない──などと説明するのもわざとらしいので黙っておく。
 知ってか知らずか、ナギは小さく「やっぱり」と呟いた。
 手をつないだまま二人で階段を下った。足音は聞こえないのに、他のいろんな音は折り重なって響く。懐かしいオルガンの音色、ジェリービーンズの歌、魔ガンの発砲音と爆発音、ニーベルングの咆哮と断末魔。行き当たる扉の中では似たような光景が繰り返されていた。二人は並んでそれを見た。黙ったまま見つめて、通り過ぎた。同じ風景を見て同じ行動をとっていたはずだった。そんなふうにして時間を共有しながら、その実なんの感情も分かり合わないままでここまで来てしまったのかもしれない。
「でも、もう分かる」
 ファフニールを手にしたとき、ナギは全てを理解した。世界の理や命の意味、そういう極めて重要で難解なものも悟ったような気がしたが、割と躊躇なく脇に押しやった。そんなことよりももっと大事なこと──はじめて、シグの気持ちを理解したように思った。
 この冷たい大きな手は、ナギのための救いではない。ひとりぼっちで生きてきた少年が、助けを求めて伸ばした精一杯のSOSだった。


「シグ!」
 怒声が耳元で鳴った。その聞き飽きた金切り声で白昼夢は終わり。現実は静寂だの沈黙だのとは無縁の喧騒にまみれている。
 ミサゴの着陸はこの状況下でも見事に安定していた。ほとんど無駄な振動もなく、ナギたちが集まっている場所へピンポイントで滑り込む。
「うわー! もう超ギリじゃんっ、ありえん! ……っていうか俺の名前も呼べよ、なんなら一番活躍してきたっつーの! 腹立つわー!」
こちらも耳元で喚いてくれる。あまりの声量に傷という傷が疼いた。おかげさまでというか、痛みで意識は鮮明だ。不平を垂れ流しながらも、リュカはしっかりナギとハイタッチなんかかわしている。
「で、作戦は? じたばた降って来るでっかいゴミを集中砲火だっけ?」
「グングニルキャノンだよ、リュカさん。今つけたんだけど」
「なんだそれっ! かっこよすぎるだろ……!」
徹夜明けの謎のハイテンションでマユリとリュカは手を取り合って跳ねている。そういうのにはまだ早いのだが、これといって制する理由もないからほったらかしておく。そんなものに構っていられない、というのが本音だ。
 グングニル隊員は皆、一様に空を見ていた。月はもとから無く、星は夜の終わりを告げるように姿をくらました。かと言って朝陽と呼べそうな確かな存在があるわけでもなく、空は何の感動もない灰色一色だ。その中でサギは徐々に高度を下げながら喚き、暴れた。失った両眼の苦痛でこの世のものとは思えない悲鳴をあげてのたうちまわっていた。どこまでも白いニーベルングの存在感と威圧感は、白んできた空では儚いものだった。あれだけ周囲を飛んでいた取り巻きのニーベルングは一体も見当たらない。
「あっけないもんだな。結局はセオリー通りでうまくいくんだから」
 サブローはぼやきながら、付き合いの長くなってきた魔ガン「フライア」を空に向けた。
「お腹の中にまだラインタイト残ってんのかな? あんまり高度下げられるとこっちも危ないね?」
マユリは「ノルニル」を、その隣でリュカは「ヴェルゼ」をそれぞれ構える。かけっこの合図みたいに、正しく垂直に。
 誰かが何かを指示したわけではない。空を見ていたグングニル隊員たちは皆、次々と自らの魔ガンを上空に向けて構えた。利潤と保身を第一としてきた一番隊、狙撃特化型の癖に参加したくてたまらない三番隊、支援専門でやってきたせいか素人のような構えの五番隊、組織の歯車であることを自認しながら、その実どの隊よりも数の恐ろしさを知っている六番隊──この場に居合わせた誰もかれもが天を見据えて引き金に指をかける。誰の命令でもなく、作戦でもない。グングニル隊員として駆けてきた日々と経験が、彼らを正しい一つの回答に導いただけだ。
「これだけの人数からこれだけの魔ガンを一身にくらうってのは、ラスボス冥利に尽きるってもんだよなあ」
「あんたたちは見ててもいいわよ? どうする?」
 バルトがしみじみと照準を定める横でアンジェリカは嫌らしく笑っている。ぼろ雑巾さながらのシグと、ナギの真っ赤に腫れた右手を見てこれみよがし肩を竦めてみせた。
 ナギは、自分の右手には見向きもせずに周囲の、異様で、どこか滑稽で、そしてそれ以上に荘厳な光景を瞼の裏に焼きつけた。そして自らもおもむろに、両手を添えてブリュンヒルデを掲げた。それを他人事のようにぼんやり見上げるシグ。
「……ちょっと」
「何? 俺はいい。そもそももう弾がない」
「じゃあ手伝って。私もう身体がブリューについていかない」
「はあ? だったら撃たなきゃいいのに…・…」
言いながら、そういうわけにもいかないだろうことは分かっている。しぶしぶ立ち上がってナギの身体を支えた。相変わらず鉛筆の芯みたいに細い。よくもまあこれで、今の今まで最高レベルの魔ガンの反動に耐えてきたものだ。
「音頭は私がとっても?」
命令ではないから先制でも合図でもなく、音頭。その緊張感の無い単語選びにアンジェリカが苦笑する。
「いいんじゃない、ブリュンヒルデが一番目立つし。先越されないように撃ったら?」
 ナギは頷く代わりに微笑を返して、一呼吸だけ置いた。そしてシグに目で合図すると、ブリュンヒルデの最後の引き金を引いた。
 花火があがった。ひとつめの特大花火をかわきりにいくつもいくつも、夏の空を彩るために音を立てて咲く。地上で灯った流れ星が空に帰っていくように、全ての光がサギを目指して弾けて飛んだ。新月に輝く偽りの月は、耳をつんざくような破裂音と何をも排除する突風を巻き起こして大爆発すると、空の塵となって消えた。
 ナギたちは、暫くの間馬鹿みたいに呆然と、漠とした空を見上げていた。
「終わった……んだよな」
誰かが終止符を打たないとこのまま全員で首を痛めるだけだ。情緒を解さない嫌な役回りだとは思いながらも、サブローがそれを買って出た。周りを見渡せば、未だにぽかんと口を開けて上を向く連中ばかり、反応はない。サブローごときの呼びかけでは、彼らの抜け出た魂を押し戻すきっかけにはならないようだ。どうしようかと次の手を模索する最中、
「……シグ」
ぽつりとナギが呟くのが耳に入った。やばい。根拠はないがそれだけは何となくわかる。自分が呼ばれたわけでもないのに頭の先から足の先まで悪寒が走った。
「ナギ、ちょ、待っ、一回冷静になろ。なっ」
サブローがいくら急いで取り繕ったところで、肝心のシグが無防備で座り込んでいるのでは助けようもない。ブリュンヒルデの発射台代わりにされ吹っ飛んだ挙句、残ったもう片方の奥歯まで失うことになるのか。本人も覚悟の上だったとしても、見ていられない。サブローが目を逸らした次の瞬間、シグは本人を含めた全員の予想どおり背中から地面に思いきり倒れ込んだ。
「わああああ! シグ! 生きてる……か、あれ?」
視界の隅で、倒れたシグだけを目撃したリュカが咄嗟に悲鳴を上げた。他の者はみな無言で、その状況を見守っていた。ナギは殴っていない。ただ思いきり、加減もなしにシグを抱きしめたらこうなった。
「生きてる、ちゃんと」
 図らずもリュカの問いにはナギが答える結果になった。リズムを刻むシグの心臓の音に耳を澄ます。
「生きてきたんだよ、シグ。嘘じゃない、何も。あなたにそのつもりが無くても、私がそれを知ってる。みんながそれを、知ってるから」
 シグは黙っていた。元から満足に動けないのに、今は指先ひとつ思うようにならない。仰向けのまま空を見るしかなかった。
「だからいい加減分かってよ……!」
 すがるようなナギの声がする方に、シグは少しだけ頭を動かした。どうやらまた泣かせてしまったらしい、ナギが泣くと問答無用で全員が敵にまわることを思うと、殴られた方が幾分ましだったような気もしてきた。
「シグ、お前」
 ほら──ほらほら。今回はバルトがさきがけか。それにしては、妙に落ち着いた声だった。
 頬が水に濡れてかすかに冷たい。ナギの涙の雫だと思っていたが、彼女の後頭部は自分の心臓の真上にあったからそれは妙な話だった。雨か、と思ってまた空を見た。そのせいで一番乗りで空の異変に気づく羽目になる。思わずあげた「あ」の一言で、皆の視線も空に集まった。
 見上げた彼らの視界全てを覆い尽くす灰色の群れ、うねりながら集まって隊列を組み、大河のように、ひとつの大きな流れになって西へ西へと飛んでいく。その中にハヤブサとミサゴの姿もあった。ニーベルングが一斉に飛び立つ凄まじい光景を目にして、何人かが動揺を隠せず噎せていた。
「すっげぇな……なんだこれ。どこにこんなに潜んでたんだよ」
「みんなおうちに帰んのかねー」
「私たちが空気なしでは生きられないように、ニーベルングもニブルの霧の中でないと生きられないってわけ」
「はー俺たちも帰りてー」
「宿舎吹き飛んだけどな」
「っていうか、そもそも職を失ったってことだよな俺たち。どうすっかね、これから」
 八番隊に限らず、グングニル隊員なら当然この光景に想いを馳せるものだ。釘付けにもなるだろう。しかしシグにとってはそれは単なる大名行列でしかなかった。強いていうなら、雨は降っていないという事実の方が彼にとってはよほど重要なことだった。
「息しづらい……どいて」
皆の注意が一斉に空に向いたのをいいことに、「体勢を立て直す」ことにする。ナギが起き上がるのに合わせて、シグも無理やり上半身を起こした。そしてそのまま顔を見られないようにナギを抱きしめた。空を見ようが地面を見ようが、シグの頬は何かが流れて冷たかった。
 頭の中では同じ言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。生きてきたんだよ、シグ──ここにいる彼女が、みんながそれを知っている。認めてくれる。証明してくれる。自分が生きて今ここに存在することを。たったそれだけの事実に涙が止まらなかった。抱きしめているのか、抱きしめられているのか分からなくなるほどに全身が熱かった。
 すぐ傍にいるよく知っているはずの声が、凄く遠くにいる誰かの声に聞こえる。
「凄い光景ね……」
「ほんとに。なんか、今までやってきたことが全肯定されてるのか全否定されてるのか、分かんなくなりますよ」
「? 何の話? 私が言ってるのはそっちじゃなくて、こっち。全隊員の前でよくやる」
「こっち? ……って、うぉい! 何やってんだお前ら!」
今度こそ、バルトが割って入ってひっぺがえされた。ナギは涙でゆらゆら揺れる視界で、自分たちが目いっぱい注目されていることを悟ると、今さらだとは思いつつ一歩後ずさった。そうしたことで今度は静かに涙を流すシグが目に入る。つまらない恥辱心が一気に吹き飛んだ。
「シ、シグ……大丈夫……?」
「いいからナギ。シグは俺の胸使え、ナギのは駄目だ」
「待った。バルトの鉄板みたいな胸で泣いて誰が喜ぶのよ。シグ、こっち。私の方がナギより居心地はいいはずだから」
「なにそれ……どういう意味」
 バルトとアンジェリカが何故かシグの奪い合いを始めたので、ナギは一旦退きさがることにした。皆に出遅れること数分、空を見上げることにする。同じように隣で、随分つまらなそうに空を見上げる女がいることに気づき眼を見開く。
「ユリィ隊長……!」
 先刻バルトにそれとなく密告していたのは、確かに彼女の声だった。周囲には三番隊の姿もある。彼らを順に確認して、ナギは安堵と喜び、そして言いようのない気まずさの入り混じった複雑な心境になった。従って、そういう曖昧極まりない表情になる。
「何、その顔」
「いえ……その。大変でした、ね」
「そうね。正直死ぬかと思ったわ」
涼しい表情でさらりと言ってのけるユリィだったが、彼女を筆頭に三番隊隊員の顔は皆一様に泥まみれ灰まみれだった。何かの実験で大失敗をやらかしたような古典的な爆発頭の者もいる。彼らは各々に演習塔、宿舎塔を狙撃ポイントとして確保した後、援護射撃をしてくれていたらしい。言うまでもなくどちらの塔もサギのラインタイト砲で木端微塵になった。
「ナギさんたちも、他人のこととやかく言えるような状態じゃないみたいだけど」
ユリィがちらりと見やったのは、もはやゾンビ色としか表現しようのないナギの右手と、物理的にも精神的にも立ち上がれなくなったシグの姿だ。今はバルトに抱きしめられているが、あれで良いのだろうか。
「それで? サクヤは? 見当たらないけど」
「あー……そのうち、帰ってくると思います。たぶん」
「なにそれ。大丈夫なの? なんていうか、考え方がおめでたいというか」
ユリィは元々少し寄り気味の眉間のしわを一層深めて、おそらく呆れていたのだと思う。が、ナギは一拍置いてあろうことか声をあげて笑いはじめた。周囲の隊員たちも、なんだなんだと注目し始める。
「今のは皮肉を言ったつもりだったんだけど」
目の前で笑い飛ばされながらも、ユリィは別段不愉快そうではなかった。
「や、そうですよね。うん。でもそれ最高の褒め言葉だなって思って」
 わけがわからないといったふうに小首を傾げて、普段通り「そう」とだけつまらなそうに呟いた。ナギがこれでもかというほど嬉しそうに笑うから、わけはわからないが不快ではない。
 風に吹かれて朝霧が晴れていった。雲間から溢れんばかりの陽の光が注ぐ。夜明けはまるで、新しい世界のはじまりを祝福するように光に満ちていた。


 西部との境界、第一防衛ラインを越えて一時間。ムスペル地区上空でサクヤは朝を迎えることになった。遠くの稜線が明るい。夜明けまでにこの場所にたどり着くことが、作戦成功のための必要条件だったからまずは一安心というところだ。ここまでに迎撃したニーベルングは三体、夜間迷彩は十分に功を奏したといっていい。かろうじて、という断りは必要だが全員五体満足でここまでやってこれた。
「サギが墜ちた」
「うん。間に合ったみたいだ」
 空の亀裂を前にして、他に言うべきことがありそうなものだが、カラスは仲間から受信した情報をそのまま口にしただけだった。改めて言われるまでもなく、サクヤもそれは承知していた。そうでなければもっと多くの、有体に言うなら星の数ほどのサギ派の待ち伏せを受けたはずだ。今、亀裂の前に立ちはだかるのは三体。サギの忠臣だとか側近だとか、そういうふうに解釈していいイーグル級二体とアルバトロス級一体である。
「よりにもよって……」
誰の目も気にしなくていいと思うと閉口し、深い嘆息が漏れた。アルバトロス級──通常、一個小隊でお相手する限界等級である。戦車一輌で戦艦を相手取るようなものだ。否、冷静に、客観的に戦力を分析するなら今の自分は戦車一輌におそらく値しない。
「カラス、あれに幅寄せしてくれないか。飛び移りたい」
「……何の冗談だ、それは」
「冗談? いや、そんな気力は残ってないよ。あれを足場にして、まずイーグル級を片付ける。仮に残りが鶏を目指したとしても、僕が上にいない状態なら君も応戦できるだろ?」
「お前が落ちても私は追わない。王の護衛を優先するぞ」
「それでいい。落ちるつもりはない」
そこまでの過剰な自己犠牲精神は、後にも先にも持った試しがない。それに──帰ったら、何もかも綺麗に片付いたら、どうしてもやりたいことがある。ただこういう局面でそういう内容を口にするのはどうも宜しくないらしい。この手のジンクスを信じた試しはなかったが、今回に限っては念には念を入れて、胸の内に留めておくことにした。
 こちらが仕掛ける前に、アルバトロス級が咆哮をあげ突進してきた。サクヤはしかめ面のまま腰を浮かせて「お乗換え」に備える。体力も気力も限界寸前、ニブル汚染された肌は上空の気圧だの風圧だのに耐えるだけで精一杯だ。おそらく自分は今、誰にも見せられないような形相で魔ガンを握っているのだろう。まあいい、それこそ誰も見ていないのだから取り繕う必要もない。
 ただただ大きく口を広げニブルを吐きだそうとするニーベルングに向かって、サクヤはすれ違いざまにダイヴする。ごろごろとその背を無様に転がった。ごろごろ。かなりごろごろと。勢いづいて端まで。
「サクヤ!」
カラスは急旋回して、敵ニーベルングと交戦の構えを見せた。あるいはサクヤを再びキャッチするためだったかもしれない。言っていることとやっていることがものの見事に矛盾している。大理石のように硬い背の縁で、サクヤは可笑しそうにそれを見ていた。落下はかろうじて免れたようだ。
 鶏に向かって旋廻するイーグル級を一体、見送った。もう一体はまっすぐサクヤめがけて飛んでくる。短く深呼吸を済ませて息を止めた。同時に感情を遮断する。安堵や恐怖、緊張とそれに伴うはずの使命感、全て断絶してジークフリートを握り締めた。体当たりしてくるイーグル級の首の下に身体を滑り込ませ、仰向けのまま、サクヤの顔面すれすれの位置にある喉下に銃口を押し当てた。
「まず一体」
 爆発はサクヤを中心に起きた。自爆かと問われたら、限りなくそれに近いものだとしか言えない。一瞬で火達磨になったイーグル級の陰から、二発目、三発目の爆発音が轟いた。カラスにはその音だけしか確認できない。四発目が鳴り響くや否や、アルバトロス級はいきなり高度を下げた。その降下スピードよりも遙かに速く、ちぎれた首が焔を上げてこぼれていく。肉が焦げるにおいも視界を覆うはずの黒煙も、空の上では一瞬のうちに流されて、首なしニーベルングが滑空する異様な光景が現れた。
(でたらめだな……)
 カラスは呆れと感心とが入り混じった感想を、ただ胸中で呟いた。大部分は恐怖だったかもしれない。長い首筋を電気のようなものが走り抜けていった。ぞっとする、というのがこういう感覚なら、まさにそれだった。自分が背に乗せてきたのは、イーグル級もアルバトロス級も関係なくものの数秒で灰にする男だ。一騎当千にも程がある。
 そうしてカラスが恐れおののいていることまた数秒、電池が切れたラジコンのように、アルバトロスの足場が下方に傾く。サクヤは体勢を崩し、成す術もなく大空へ放り出された。風が気持ちいい、その割りに大して感動するような光景でもない。空の上で生身の人間は、完膚なきまでに無力だ。それをまざまざと思い知らされるだけの果てしない空間。
 投げだされた身体は恐怖やら諦観やらを覚える間もなく、カラスの大口に受け止められた。牙で串刺しにしないよう力加減は調整されているようだったが痛いものは痛い。挟まれているのだから当然か。単純明快に言うならこれは「食われている」という状態に近いのではないか。
「助けないとかなんとか言ってた気がするけど」
 音声会話を行えばサクヤが落ちてしまうため、カラスはその皮肉を黙って受け入れるしかなかった。胸中では偉そうに「これは貸しだ」と豪語していたが、伝えるのはやめておく。どうせこれもサクヤの想定内だ。腹立たしいことこの上ないが、そうにちがいないのだ。
 少し開いた鶏との距離をつめるべく、カラスはサクヤを咥えたままスピードをあげた。敵はもう一体、そのはずだったのだが。
 眼前の壮絶な光景に、サクヤは思わず息を呑んだ。半開きのカラスの口内で自らもだらしなく口をあけてしまう。
 鶏の巨大な口が、イーグル級の身体を真っ二つに噛み切った。一瞬のできごとだった。まるで当然そうあるべきだったとでもいうように、鶏は何事もなかったかのように悠々自適に翼を翻す。これが自然の摂理、サクヤはそれをいまさらながらに見せつけられただけの話だ。
 そうして両目を見開いていても始まらない。深い深い溜息の後に通常の呼吸を再開した。
「空が、明るいな」
カラスの牙の隙間から見える白んだ空に、サクヤは目を細めた。流れてくる心地よい明け方の風に、ほとんどとれて(燃えて)しまった黒い包帯がたなびく。少し暑い。カラスの上あごをこじ開けてその鼻っ面をよじ登ると、グングニル塔の方に美しい朝日が輝くのが見えた。それがあまりに爽快で、思わず伸びなどしてしまう。
「いい気なもんだな。滅茶苦茶な戦い方だったが」
「次を考えなくていいなら多少の無茶はするよ。どう考えたってあれが最後だ。僕の役目は終わったからね」
 彼らの進行方向には、雷がそのまま版画になってしまったような黒い亀裂がある。この先はニーベルングの世界だ。サクヤはその中をまじまじと覗きこんではみたものの、何が見えるというわけでもなく一人唸る羽目になった。ただ恒久の闇があるばかりだ。
「閉じることはできない、って言ったね」
「今のところその方法はない」
カラスの端的な解答にサクヤもただ頷いただけだった。そして懐からおもむろにファフニールを取り出すと、鶏に向けて差し出した。
「ひとつだけ予言をしておこう」
大陸横断中ただの一言も発しなかった鶏が、ここにきてその巨大な口を大きく開いた。嫌な笑みを浮かべる。全身を黒く染めた夜間迷彩は、朝日に彩られた今では陰湿で邪悪な何かになり果てている。少なくとも、人の眼からはそう見えた。
「お前たちの世界は絶対悪を失った。次にその銃口を向けるのは同じ人間だろう」
「かもしれないね。それでも、手を取り合える人がいれば一緒に前には進んで行ける」
サクヤは臆することなく、そして何の迷いもなく静かに答え、ファフニールを手放した。あるべきものを、あるべき場所へ。鶏もまた、礼どころか別れの挨拶ひとつもなしに大きく羽をはばたかせ、亀裂の向こう側へ消えた。
 ムスペル上空に取り残されたのは純粋にただ黒いニーベルングが一体と、その上で思いきり伸びをする黒い包帯の青年が一人。生まれたての朝日の下では、彼らの存在は良くも悪くも際立ったものだった。他人の眼からすれば、これらは陰湿で邪悪な何かにしか見えないのかもしれない。
「さて、と」
 頭と気持ちの切り替えのために、何となくそう言った。その声に呼応するように、胸元で鈴の音が鳴った。小さく繊細に。サクヤは数秒固まった後、おそるおそる胸ポケットからそれを取り出すと複雑な笑みを浮かべて唸った。
「間に合わなかったな。……というより、凄いな、本当に咲いた」
サクヤの手の中で、がくから上しかなかったユキスズカが誇らしげに花開いていた。残る全ての生命力をおそらくは開花のために費やしたのだろう、花弁は綻び、色あせている。
「鈴音の花か。その花を思えば、世界ははじめからひとつだったのかもしれないな。種の存続という大義名分が、憎悪や嫌悪といった負の感情を作り出した。あるいは、逆も考えられようが」
「……どういう意味だい」
「正だろうが負だろうが、感情というものは生きるために仕組まれた高位のシステムだ、という話だ」
「そうじゃない。どうしてこれが、『世界がひとつだった』ことの証になる?」
カラスは不敵に笑った。しかしそれが背の上にいるサクヤに伝わることはない。逆に、サクヤの困惑した表情はカラスには手に取るように分かった。
「それはそもそも黒い花だ。ニブルヘイムであればどこにでも咲いている。……が、私が亀裂を作るはるか以前から、こちらの世界でも根付いていたようだ」
「亀裂を通って運ばれたわけじゃない、と?」
「さあな。そう考えたほうがつじつまが合うというだけの話だ。気になるか?」
「気にはなる」
即答した。不機嫌そうなのは、カラスがこの土壇場になってこういう話をし始めたのが、どうやら作為的なものらしいということが知れていたからだ。
 サクヤは再び、亀裂の向こう側へ視線を向けた。ニブルヘイムと呼ばれる、今この場所とは別の理を持つ世界。その理を越えて咲く、ユキスズカの花。
「サクヤ。お前はニブルヘイムの環境に適応した身体を既に持っている。望めば世界の根源、原初の謎を解き明かすことも不可能ではないだろう。……選ぶがいい。私にはお前の選択に答える用意がある」
「僕は──」
 その答えが正しいかどうかを考えることはしなかった。ただ思ったままを口にした。カラスはまた不敵に笑い、誰かに何かを告げるために一度高らかに咆哮を上げた。



 廊下に出て八番目の扉の前に立つ。ノックはしない。自分が隊長を務める隊の執務室だから当然と言えば当然だったが、一旦立ち止まって中の気配をそれとなく確認するのは癖だ。気配でなく香り、かもしれない。隙間から仄かに漂う香りが鼻孔をくすぐる。サクヤはいつも通り静かに扉を開けた。
 他人には分からない規則性で積み上げている机上の本、保留にしてあった案件の書類、出掛けに椅子の背にかけてきたジャケット、それらだけを上手くよけて室内は片付いていた。ティーテーブルには優先度の高い順に並べ替えられた書類の山と淹れたての紅茶。
「お疲れ様。凄いタイミングだね? 今淹れたとこ」
カップから立ち昇る湯気で、ナギの笑顔が霞んで見えた。それだけのことを少し残念に感じる。彼女は大抵この後、溜まった仕事を怒涛のように説明し始めるから、今のを見逃すと次の休憩時間までは拝めない可能性が高い。
 運が無かったと思いながら、サクヤは自分のティーカップを手に取った。
「良い香りだ」
気の利かない台詞が、口をついて出る。
「買い出しのついでにちょっと新しいの買ってみた。夕方疲れたときにいいでしょ?」
 相槌もそこそこに喉を潤すサクヤ、無意識に笑みが漏れる。その様子を、ナギは訝しげに観察する。
「……また笑ってる」
「え?」
「何かいいことでもあった?」
「ないよ? むしろ長老会に重箱の隅をつつかれてきたところ」
思いだすのはよそう、と再び紅茶に口をつけた。
「だったらなんでこう……こんなにも幸せそうというか嬉しそうに笑えるのかと……。あ、ほらまた」
仄かに甘い香りが口内に広がったところで、現行犯逮捕される。確かに指摘されなければ気付かないほど無意識に口元が緩んでいた。
「ああ、そういうことか。……特別美味しいからね、ナギの淹れる紅茶は」
「……またそうやってはぐらかす」
ナギは溜息をひとつつくと、空になった自分のカップと書類を持って執務室を後にした。サクヤのありのままの回答はお気に召さなかったらしい。
「いや、正直に言ったんだけどな……」
毎度のことながらうまく伝わらないものだ、小さく唸りながら後頭部を掻く。室内に残った紅茶の香りとぬくもりに、サクヤはまた笑みをこぼしていた。そして頭の、どこか隅の領域で考える。
 ──これはいつのことだっただろう。随分前のことのようにも思えるし、昨日のことのようにも思える。本当はこんな日は存在していなかったのかもしれないし、もっと別の形で実際にあったのかもしれない。記憶の断片をいいようにつなぎ合わせた妄想か、願望を忠実に再現した夢か、いずれにせよ「今」ではないことだけは確かだ。八番隊執務室はもう無い。
(「今」じゃない、か)
 意識が別に発生したことを自覚した。真っ暗とも一色とも言えない奇妙な空間に意識だけが漂っていた。微かに紅茶の香りだけが残っている。
 何もかも片付いたら、ひとつだけどうしてもやりたいことがあった。よくよく考えるとそれは自分主体ではなかったから、彼女に頼んでおかなければならなかったのだが、相変わらずそういう肝心なことはまんまと伝えそびれて今に至っている。余計なことは随分口に出してきたのに、だ。
 今──またその言葉がひっかかる。意識ははっきりしていて随分いろんなことを鮮明に考えることができる。だのに周囲の状況が判然としない。まさかうっかり死んでしまったのだろうか。それにしてはずっと良い香りが続いている。紅茶のそれではなく、もっとずっと懐かしい、彼と彼女の原風景にあった香り。
 とにもかくにも自らの生死を確認したかった。散らかった意識をかき集めて、心臓らしき場所を探す。鼓動を聞くために耳を澄ませた。彼の心臓は、鈴の音に似た美しい響きで小さく鳴った。
 かと思えば野犬の遠吠えのような、悲痛にまみれた長い長い雄叫びが腹の底に伝わってきた。サクヤはそれをきっかけに閉じているらしい瞼をこじあけることにする。予想や期待をこっぴどく裏切った現実の幕開けだった。
「うおおおおおおお! 隊長おおおおおぉぉぉぉ……!」
まず視界に入ったのは見慣れない高い天井と、その隙間から見え隠れする青空だった。やけに天気がいいらしい、こんなにも清々しいと思える空色をサクヤは随分久しぶりに拝んだ気がした。
「サクヤ隊長おおおおぉぉう!」
次に視線を、放心状態の見知った面々に移す。アンジェリカが居て、マユリが居て、サブローが、リュカが、神妙な面持ちでこちらを覗きこんでいた。その背景と周囲の音で、ここが駅のホームだと知る。おそらくグラスハイムの中央駅。天井ばかりが視界をかすめるのは、自分の身体が横たわっているからに他ならないが、起きようとすると謎の圧力によって押し戻される。などと知らぬふりを続けていたかったが、そうも言っていられなくなった。サクヤはようやく、自分の腹の上に覆いかぶさって号泣するバルトに視線を移した。
「バルト、悪いんだけどそろそろ起きたいから」
「うるせええ! お前に何が分かるっ! やっとこれからってときだったんだよ、やっとこれで元通りんなって……報われなきゃいけない奴がなんで報われねえ! あんた生きて帰って来なきゃならなかったんだよ! 意地でも!」
「バルト……」
肩を寄せたアンジェリカを振り払うようにして、バルトは嗚咽もこらえず泣き続けた。それでようやく、アンジェリカが、切れた。
「邪魔だっつってんでしょ」
青筋ひとつを動力源に、熊の剥製みたく横たわったバルトを一気にひっぺがえすアンジェリカ。皆、タイミングを計ったように一歩引いてバルトが転げるスペースを確保してやった。
「起きられます? 隊長」
「ありがとう、みんな無事?」
アンジェリカが背中を支えながら楽な姿勢に誘導してくれる。軽い眩暈と頭痛、全身の疲労感はあるが意識の混濁はない。眼前に映る景色のひとつひとつを確かな現実として認識することができた。それができていないのはむしろ、ここに集ったサクヤ以外の隊員たちだ。
「どうなってんだ、おかしいだろ! 死んでただろう! さっき」
「そういう風にバルトが叫ぶからみんな勘違いしたんでしょうが! ほんと迷惑! 熊以下!」
「熊に失礼だよアンちゃん……」
「いや、マユリ。熊よりバルトに気つかってやろ?」
 バルトの大失態に、リュカまでもが珍しく同情の意を示す。一歩間違えばこの役回りは自分だったような気がしているせいかもしれない。そしてその想像はあながち間違いではない。
「とにかく今は一秒でも早く医療設備が整ったところに。私は足を確保してきますから、ちょっとそこの……あーもう! 言われる前に動きなさいよ、パンダ見に来たわけじゃないでしょ!」
「ぶはっ。隊長、パンダだって、パンダ。まあある意味珍獣みたいなもん……」
 地べたに座り込んだままの疲労困憊のサクヤを指して、リュカはあろうことか笑いを噴き出す。それがアンジェリカの逆鱗に触れたのは言うまでもなく、結局のところバルトとひとまとめにして迷惑生物のカテゴリに振り分けられた。彼女の冷ややかな視線の下、サブローとマユリという妙な組み合わせがサクヤを支えると、彼はベンチに腰かけさせられた。
「ナギと……シグは?」
「居ます。同行してくれた中部支部の上役と話をしてるところです」
「そうか、そうだね」
 サクヤの胸中を察して、サブローは極力簡潔な応答を心掛けた。その甲斐あってか単に取り繕う余力がないのか、サクヤはこれまで見たこともないくらい無防備に、安堵の表情を浮かべていた。
「でもなんで……中部なんですか。あのニーベルング、最後の最後に隊長のこと放ったらかしていったってことですよね」
「ああ、それにはまぁ、いろいろあって」
 カラスの提案に、間髪いれず「帰る」と答えたら喧嘩になった、ところまではよく覚えている。鶏を護送してファフニールを返したら一目散に帰る、はじめから決めていたことだ。そもそも全員無事に帰還することが作戦だと豪語したからには、自分が例外になるわけにはいかない。などということをありのまま話した後、あわよくばグラスハイムまで送ってくれないかと頼んだら、何が彼の癪に障ったのか知らないが、ものの見事に捨て置かれたのだった。
「それでムスペルから中部支部まで徒歩とか、馬鹿ですか」
あけすけにものを言うサブローも珍しいので不意に顔をあげてみたが、当の本人はぬれぎぬだとばかりに全力でかぶりを振っていた。いつのまにやらベンチの横にシグの姿がある。駅前のカフェでテイクアウトしてきたらしいコーヒーのカップをいくつか持って、手当たり次第に配っていた。シグにしてはやはり珍しい気遣いのような気がした。
「隊長が命がけで散歩してた一日で、情勢はがらっと変わりましたよ。主に悪い方に」
 グングニル塔の崩壊と事実上の組織の解体、忽然と姿を消した各地のニーベルング、世間にはなにひとつ実情が伝わっていない。ロイ・グンターが行っていた世界の統制とやらは完全に瓦解し、外には混乱と不安が渦を巻いている。シグはそういったことをかいつまんで説明した。
「長老会の方はしぶとく機能してますから、遅くとも一週間ほどで弾劾が始まると思います。隊長とナギはさておき、俺と、総司令、その周辺はどういう形で責任がまわってくるか分かりません。最悪──」
「そうはならない。安心していいよ」
「何を根拠に、そう言い切れるんですか」
シグは相変わらずの不遜な態度で疑問を投げる。呆れて(もはや、呆れ果てているのレベルで)いるのは隣で聞いていたサブローの方だった。サクヤはもうこれに慣れ切っていて、呆れるどころか動じることもない。
「シグの力はこの先の世界にこそ必要なものだ。それに僕らはファフニールが齎した淀みの全てを回収しきれたわけじゃない。まだ先がある。そのための現状最も有効な“手だて”を放棄するのは馬鹿げてるからね」
「ヘラのことを言ってるなら……難しいかもしれませんよ。あそこはもう機関的にも世間的にも重要な意味を持たない、なかったことにされた土地ですから」
「でもまだ、そこにある」
「見てきたみたいに言うんですね」
「見てきたよ。空からと、……徒歩で周縁だけだけど」
 上げ足をとりにいったつもりが、思いもよらないド直球で返されてシグは押し黙った。そうかと思うと、噛み殺していた笑いを顔を背けて噴き出す。
「ほんと、かなわない。もっと早く気付いてれば良かった」
 本当は、気付いていた。随分早くから知っていた。どれだけ策を弄しても、この男に自分は勝つことはないだろうと。でも今はそれでいいと思っている。
 サクヤは寝そべるようにして浅く腰かけていたベンチに、おもむろに姿勢を正して座りなおした。身体は軋むが、大方は単なる疲労によるものだ。そう横着な態度もとっていられない。
「シグ、君は今から新しい理由と目的のために魔ガンを握らないといけない」
「そうですね。そうじゃないと、俺を生かす意味ほとんどないですもんね」
「~~シグ」
「皮肉じゃありません。今は、そういうふうに考えられるようになったんです。俺は……生かされてきたんだと。サクヤ隊長や、ナギや、……仲間に」
それも情けないことに、自分で考えた末に出した結論ではない。ナギが言わなければ、伝えてくれなければ、たぶん一生たどりつくことのなかった境地だ。
「だから俺は、まだ必要とされるなら魔ガンを握ります。それがあなたからの命令なら是非もなく」
「頼りにしてるよ」
「はーい、そこー。暑苦しく信頼関係を確認されてるとこ申し訳ないんですけど、車用意できたんでさっさと乗り込んでもらえますかー」
 アンジェリカが事もなげに出立を告げにきた。サクヤとシグは揃って顔を見合わせる。
「アンジェリカ。……ナギは?」
「先に乗せてますよ。もう隊長やだー。ナギは、ナギは、ってさっきからそればっか」
「渡したいものがあるんだ。生ものだから、早めに」
アンジェリカの渾身のからかいに、サクヤはやはり全く乗ってくれない。それどころか幾分真剣な顔つきで生ものが入っているらしい紙袋をつきだしてくる。
「それ、さっきから気になってたんですけどなんですか。肉?」
シグは半分冗談、半分本気で疑問符を浮かべる。命からがら帰って来た男が、肉を土産に現れる──男という代名詞が、サクヤという固有名詞に替わっただけで、無くは無いような気がしてくるから不思議だ。
 サクヤはシグの質問には答えなかった。数分前までホームで大往生していたとは思えないほど機敏な足取りで用意された車の方へ向かう。隊が物資の補給や中距離移動時に使用していた搬送車両の後部荷台、それをまるまるサクヤが寝られるように設えた即席の救急車といったところだ。本人は最終的には誰の手も借りず、きびきびと歩いてきてしまったから出迎えたナギは拍子抜けしていた。
「おかえり。なんだ、思ったよりぴんぴんしてる」
こちらも負けじと拍子抜けのご挨拶。
「寝てなくて平気? 混み入った話は疲れると思うから、また後日ね」
ナギは運転席のバルトと簡単な会話を交わし、助手席に乗ろうとしてアンジェリカに止められた。困ったように一瞬口元に手をあてがって、やはり困ったようにこちらに小走りに駆けてくる。
「後ろに乗るの、アンジェの方がいいと思うんだけど……。まあそれだけ元気なら、大丈夫かな」
要は後部荷台にサクヤに付き添って乗れ、と指示されたのだろう。どうもナギはアンジェリカには頭があがらない節がある。それが微笑ましくて、つい微笑をこぼしてしまった。
「ナギ」
 借りていた本を返すみたいに、サクヤは手に持っていた紙袋をナギの前に差し出した。さすがというか、まさかという反応だった。中身の分からない紙袋に、ナギは警戒心を顕わにした。それでも恐る恐る両手でそれを受け取ると、ゆっくり視線を中へ向けた。そしてそのまま硬直してしまった。
「声が聞こえた気がしたんだ。あのとき」
「あのとき?」
 アルバトロス級を討って大空に投げ出された瞬間。あるいは、カラスに共にニブルヘイムへ行くかの選択を迫られたそのとき。サクヤの裡でははっきりと自覚した瞬間があったが、ナギの質問には答えないまま続けた。
「声……いや、もっと漠然とした……でもちゃんとナギのものだって分かる、何か」
「気持ち、じゃない?」
ナギは何の気なしに思ったままを口にした。ここは適当に笑って返される場面だと思っていたのだが、サクヤはそうはしなかった。下あごに手をあてがう。これはまずいな、と経験則で悟ることができた。一足飛びにとんでもない結論にたどり着く前にナギが先手を打つ。
「ごめん、冗談。非科学的でした」
「どうして? 科学と論理で全部説明できるなら、はじめから君にユキスズカを送ったりしないよ」
「ああ、あの……根っこ付きのやつ」
「ナギのはがくから上しかなかった」
「あ~れ~は~……あのときはその、何を言っても場違いな気がして」
「僕は、誰かにユキスズカの花を送ることはないと思ってた」
故郷アルブに咲き乱れる野の花は、サクヤの原風景であり、もっとも身近な存在であると同時に、もっとも縁遠い代物だった。かと言って特別な憧れを抱くこともなかったし、嫌悪するようなこともなかった。花は花として、ただ当たり前に咲いている。そういうものだと思っていた。イーヴェル区に咲く、黒いユキスズカを見るまでは。
 ナギは黙ったまま、紙袋の中からユキスズカの花束を取り出した。片手では持ち切れないほどの量で、そのいくつかは天使が羽を広げたように美しく咲き、多くは白く固い蕾を閉じたままだった。根元に取ってつけたような簡素なリボンが飾られている。サクヤらしいなと思った。ふっと笑った反動で、蕾のひとつが弾けるように開花した。鈴の音が鳴った。泣きたくないと思っていたのにその音を聞いた瞬間、条件反射みたいに涙が溢れた。
「これ、どっかで摘んできたでしょ。不揃い」
「うん。ヘラで」
サクヤの発するその単語に、ナギは反射的に目を見開いて顔を上げた。
「カラスと別れて中部支部を目指してる最中、少しだけヘラに立ち寄った。……一面、白かった。見せたかったよ、君に」
「白、かった……?」
「十年経ったからね。それをせめて、君に伝えたかった」
本当はそれだけじゃない。ヘラに立ち寄るよりも先に、彼はナギにユキスズカの花束を贈ることを考えていた。独りよがりでも、誤魔化しでもない、本来の意図で──これは、そういう意志の花なのだから。
 少しだけ緊張している自分に気が付いた。矛盾しているようだが、心はひどく穏やかだった。
「この先もずっと、僕は君と生きていきたいと思っている。君のことが好きだから。僕がナギに伝えたいと思っていたことは、それが全部だ」
 一切の誤解がないように、言わなくてもよさそうな言葉まで詰め込んだ。相当に野暮だという自覚はある。が、そうでもしないと彼女は「この花束には特別な意味があったかどうか」なんて的外れな質問を、切腹でもしにきたのかという緊張感と共にしにくる。しかも、後日だ。同じ轍は踏みたくはない。
「ナギ……?」
 ナギは黙っていた。真っ白なユキスズカの花弁にその小さな顔をうずめて、声も立てず泣いていた。もともと華奢なその肩が、今はより一層小さく見えた。涙の粒が、白く繊細な花弁を濡らしていく。サクヤはそれを綺麗だと思った。本心ではもう少し見ていてもいいなどと思っていた。それでも左手は自動的に彼女の頬に触れる。
「生きていこうね、この先もずっと。……一緒に」
ナギの口からはそれだけ伝えるのが精いっぱいといった風だった。たったそれだけのありきたりな愛の言葉を、決して開けてはならない扉の奥の、開けてはならない一番綺麗な箱の中に隠してきた。それが今手の中にある。
 ナギから口づけをした。伝えたい想いが多すぎた。話したい出来事が、聞いてみたい昔話が、共に語りたい未来が数えきれないほどあった。今はたったひとつが伝わればいい。だからそう、下手な言葉でなくてもいい。息が止まるような口づけだった。永遠のような刹那だった。
特別な意味はない、ただ愛を告げるためだけのサインだった。
 パァァァーー! ──唐突に、不躾すぎる鳴りものが轟き、ナギは小さく飛び上がった。サクヤも驚いて発生源を振り返る。振り返った先は、搬送車両の運転席から半分身を乗り出したバルトだった。
「いい加減にしろよっ! 待ってんだよこっちは、長いこと~! そういうのは乗ってからにしろっ、俺は文句つけねぇから!」
先刻の派手な音は車のクラクションだ、鳴らした本人はゆでダコのように真っ赤になった顔で既に明後日の方向を向いている。代わりにとんでもなく嫌らしい笑みを携えたアンジェリカが顔を出した。
「そういうことらしいから、とりあえず乗ったら?」
 項をさすりながら爽やかに笑い飛ばすサクヤの横で、ナギは花束を抱きしめたまま完全に顔をうずめていた。沈静作用はないと知りながら二度三度と深呼吸しながら猛省を始める。同じ轍を踏んで踏んで踏みまくった、その集大成──この場合「醜態」成か──がこれである。いや、そう思うのがそもそも間違いなのかもしれない。もういっそ胸を張ってみるというのはどうだろう。などとナギにしては画期的な結論に辿り着いて勢いよく顔をあげた。
 一足先に荷台に落ち着いたサクヤが、ダンスにでも誘うように手を差し出して待っていた。何がそんなに嬉しいのか、それとも楽しいのか、とにかくいつもの幸せそうな笑顔でナギを待つ。だからナギもいつものようにその手をとった。
 指先が触れる。ぬくもりが伝わる。生きていこうと思える。この先もずっと、一緒に──。

 耳元でまた澄んだ鈴の音がした。美しく儚く力強い、目を閉じても響く命の音がした。

── Fin. ──

double B side

double B side

全17話。episode viiの新月の夜を境に、物語の「裏/表」が変わります。 敵が味方に、味方が敵に。嘘が真実に、真実が嘘に。 そして主人公ナギたちの思いや行動も。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-13

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. episode i 黒い羽根のラプンツェル
  3. episode ii 救いのお求めは市場で
  4. episode iii 家畜に首輪を与えてはならない
  5. episode iv 弓張月の夜
  6. episodev 魔女は琥珀の涙を流す 
  7. episode vi ジェリービーンズを7つ
  8. episode vii 朔の夜
  9. episode viii 狡猾な天使は微笑わない
  10. episode ix ミイラ捕りがミイラになった理由
  11. episode x 嘘吐き だれだ
  12. episode xi ティーカップの底
  13. episode xii 神か屍
  14. episode xiii 裁かれる衛兵,欺かれる奇術師
  15. episode xiv 君と凪の丘で
  16. episode xv バゲットの中の美しい世界
  17. episode xvi 星月夜
  18. last episode 8番目の扉にノックを