春は物憂げ

 私には少し、おかしな悩みがあります。
 川を渡った環状線沿いに、大きな公園があります。全体は芝生で覆われていますが、その半分には小ぶりな池や東屋などと共に、随所に木が生えていて、長閑な庭園のようになっており、もう半分は、ただ広い空き地となっていて、その空き地の隅にいくつかの遊具がある以外にこれといったものはありません。起伏のない平坦な土地で、公園の様々な場所に設置された椅子に座れば、公園の端から端までを見渡せるようになっています。
 公園としての魅力はほとんどないようにも感じますが、休日ともなると家族連れや子供達の集団が訪れ、賑やかな様を見せてくれます。大人の方々は何やら他の親同士での会話を楽しんでいますし、子供というのはどこにでも遊びを見つける才能が有りますから、放っておいても公園中を走り回っては楽しそうにはしゃぐのがいつものことなのです。度々、私のように、各所に設置された椅子に座っている人々を見かけますが、それは大抵ご老人の方々です。たまに私と同い年程の若い男の人も来て、椅子に座って本を読んでいるのを見かけます。皆それぞれに自分の過ごし方があるんだと思うと、自分も公園にいる人たちに、勝手ながら仲間意識を持ってしまいます。
 とかく私は、そこに広がる光景を眺めるのが、習慣となっているのです。
 休日にはそこに出かけ、公園の長椅子に腰かけて、ただぼんやりと私は座っています。この季節ともなると、公園にある桜の木が一斉に芽吹き、緑の芝生は桜色と混ざり合って、絶好の花見日和となります。休日の昼間には視界一杯に、花見をしに来たのであろう人たちが大勢賑わい、いつもは子供の声ばかりが響くこの公園も、この時期ばかりは、大人たちが騒ぐ声で埋め尽くされています。
 傍目からは、私は誰かを待っているようにも、はたまたこの光景を楽しんでいるようにも見えるのでしょうが、そんなことはありません。
 何のためにと問われれば、私にそれを答える術はありません。何かを待っているような気がします。でも、私にそれはわからないのです。平日の仕事の辛さを忘れるためでしょうか。そう言われてみれば、そんな気がします。目の前に広がる様々な人達を眺めるためでしょうか。しかし、それが正しいようにも、また、間違っているようにも感じます。運命の人なんてものが目の前に現れて、私を攫ってくれるの待っているのでしょうか。これはあまりにも妄想がひどすぎて、そんなことを言われてしまえば笑ってしまうような気がしますが、それでもその突拍子もない言葉を、否定する気にはなりません。
 悩みというのは、このことなのです。
 私のこの不可解な行為の根源を、期待、と表現してしまうと、やっぱり誰かを待っているんじゃないかと思われるかもしれませんが、私にはそれ以外に言い表せる丁度良い表現を知りません。それに、実をいうと、私はあまり人を好いてはいないのです。有体に言って、私は人付き合いが良いとも言えませんし、長椅子に座る私に、誰かが一度声をかければ、顔を真っ赤にして、意味もなく踵を挙げて、膝に乗せた拳をぎゅっと握りしめて、そうして俯いて黙り込んでしまうに違いありません。人は、嫌いです。
 例えば、玄関先で隣人に、おはようと声をかけられると、私はぎこちない笑顔を浮かべておはようございますと返します。暖かくなりましたね、と言われ、私は、そうですね春が来るのも随分早くなったものです、なんて言って返します。私が適当に呟いた返しでさえも、相手は笑って、そうですねなどと訳知り顔に言って、良い一日をと言って手を振ります。別に私は、いつもと比べて暖かくなったなどとは思いませんし、春が早く来たなどとも思いません。ただ相手との会話をこちらが無視して遮ると、何だかとても居心地の悪い気がして、ふいに口からだけの言葉があふれてきます。そうすると私の言った言葉が空っぽの心から放たれた空虚のように思えて、私は心底意地の悪い人間なのではないかと考えてしまいます。度々起こるそうした他人との関わり合いが、大変空々しく感じるのです。もしかしたら、私のみならず、相手までもが私に対する牽制として、思ってもいない一言で会話を続けさせようとしているのかもしれません。そう考えてしまう私が、醜く憎く、申し訳なさで一杯になってしまいます。そんな自分が、どうして人を待っているなどと言えるのでしょうか。
 本当に、ただ何となくの気持ちなのです。
 行かなくてもいいじゃないかと思い至ることもありましたが、それを選ぶことは出来ませんでした。休日の昼間に家にいると、自身の生産性の無さに惨めになるばかりです。私にはこれといった趣味はありませんし、熱中できるようなものもありません。勿論気の合うような友人もいませんから、専ら、親から譲ってもらったテレビをつけて、興味のない情報を眺めるだけのものです。必要最低限生活できる空間があれば、私は満足してしまうのです。ですが、殺風景の中にぽつんと独りで佇んでいると、頭に靄が広がっていきます。こんな具合では、生きてても死んでいるのと同じなのではないか、これでは、漫然とただただ適当に生きているだけではないか。そんな言葉が、部屋にある椅子や、机や、ベッドから、囁くように聞こえてくるのです。居ても立っても居られないとはこんな気持ちなのでしょうか。とかく、私はそんな後ろ暗い囁きに背中を押されて、部屋を出るのです。そうして辿り着くのが、あの公園なのでした。
 ああ、この気持ちを形に出来たら、どれだけ楽になることでしょう。この歳になってまで、自分で自分が分からない感覚というものは、もうどうしようもなく不快なものに感じてなりません。それでも、公園の長椅子に座れば、そうしたむず痒い感覚が薄れるのです。
 春という季節は不思議なもので、少し前までは枯れ枝が寂しく揺れているだけの公園が、今や満開の桜に彩られています。そうした光景を眺めていると、暗く沈んだ海の底から、光り輝く海面へと徐々に上っていくような、救われる感覚が身を包みます。ただ生きているだけでも、幸せなのではないか。そんな気持ちにすらさせるのです。ですが、自分の生に希望を見出そうとすると、いつも決まって、それに反対する声が響いていきます。生きているだけで幸せなどというのは、私みたいな惨めな人間を生かす甘言でしかない、そんな囁きが何処からともなく聞こえてくるのでした。そうすると、青空はくすみ、春は色を失ってしまいます。視界一杯に広がる桜が、あまりにも味気ない風景に変わって見えるのです。
 自分は心底、卑屈で、面倒な人間なのだと思います。我ながら笑ってしまいます。休日の昼間を怠惰に、得体のしれない感情に動かされるだけの自分には、似合った性格なのでしょう。
 今日も、いつものように公園に来て、適当な長椅子に向かいます。長椅子には桜が積もっており、背もたれやひじ掛けにも山が出来ていました。ピンク色の山を手で払いのけ、私はそこに腰を下ろしました。見渡してみると、公園中がまばらな桜色で彩られていますが、桜の木に咲いた花びらは、開花から結構な時間が経っているにも関わらず、減ったように思いません。尚一層、鮮やかに空を覆っています。
 公園の春を眺めていると、不意に目の前を、小さなボールが横切りました。黄色く、所々土がついてくすんだそれは、ふらふらと頼りなく転がり、木に当たると、少しだけ後退し、やがて静かに止まりました。おかしな話ですが、ふと、自分の人生が目の前のボールと重なって見えました。何かを自分から始めてみるという瞬発力や、真摯に一つのことに熱中するということもせず、ただ節操もなく歩くだけの人生。眼前に止まったボールと私に、何の違いがあるのでしょう。そうして、また、あのゾッとする囁きが聞こえてきます。木々の騒めきが、何気ない人々の雑踏が、私を苛め、惨めな気持ちにさせていきます。自分はどうしてこんな所にいるのでしょう。くすんだ春は、私の心のようでした。
 思えば今までの自分の人生には、活力というものが圧倒的に足りなかったように思います。小学校から高校まで、そして大学と、変わらず私は独りですごすことが多かったのです。部活にも入らず、親の勧めで入った学校を出て、大学側から提案された通りに就職もしました。学校の行事に楽しそうに参加するクラスメイト達が羨ましくなかったと言えば嘘になります。ですが私はそんな団欒の輪の外で、一歩引いた所から、楽しそうにしている人たちを眺めるだけで十分でした。結局、流されるだけ流されて、私はこうして今も生きています。人からは、これをつまらない人生だと指摘されるかもしれませんが、私はこの現状に、納得しているつもりです。
 そこまで考えると、何故か私の目からは侘しい感情が溢れようとしていましたが、ついぞそれが流れ落ちる事はありませんでした。ですが確かに、私の心は悲しみの海に沈んでいるのです。
 しばらくすると、ボールの持ち主であろう子供が、空き地の方から頼りない足取りでこちらに向かってくるのが見えました。自分の頭程ある黄色いボールを拾い抱え、空き地の方へと踵を返そうとすると、私の視線に気がついたのか、子供は振り向き、私と目が合いました。
 帽子を被り、柔らかそうな髪を靡かせ、その子供はまっすぐ私の方へと歩み寄ってきます。子供の純粋な瞳に見つめられ、私は蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなっていました。正直なところ、私はこの場から逃げ出したくて堪りませんでした。情けないことです。年端もいかない子供でさえ、私は身構えなくてはまともでいられないのです。人の良さそうな笑顔をして、まっすぐ私に向かってくる姿は、背景のくすんだ春と混ざり合って、悪魔のようにも見えました。あの子供は、さぞ幸せな人生を歩んでいるのだろうと一人合点し、ふと湧いた自身の醜さに、頭を抱えたくなりました。
 とうとう子供は私の目の前まで来ると、言うべき言葉を選んでいるかのような沈黙の後、静かに、口を開きました。
「……お姉さんは、寂しいの?」
 唐突に、そう聞かれ、私は雷に打たれたような衝撃が頭に響くのを感じました。今度こそ、私は目からあふれ出てくるものを止めることは出来ませんでした。思わず私は顔を手で覆いました。堪えようとすればするほど、止めどなく溢れ出るこれは、先ほどのものとは正反対の感情でした。突然の事に、子供はしきりに「どうしたの? 大丈夫?」と狼狽え、それに私が答えようとすると、嗚咽でまともに声が出ませんでした。
 この感情の揺れ動きは、正しく子供の言葉が私の真をついていたからに違いありません。
 自分は、ただ寂しかったのです。一歩引いた傍観者を気取っていたに過ぎない愚かな女であり、質悪くその輝かしい目の前の存在に焦がれた一人の、哀れな女なのでした。しかし私は、嘗てない爽やかな喪失感を感じていました。くよくよと悩んでいた問題は、結局のところ自業自得で、人を好いていないことでさえ、自分自身に対する言い訳にしか過ぎないことを悟りました。目の前の子供は、たった一言で、私のその愚かさを指摘したのです。
子供が私の悩み事を知っていて言った言葉ではないことは、十分承知しています。ただ、私には目の前の子供が、私の卑屈さを咎めるために来た神々しい存在に思えてなりません。
 いくらか落ち着きを取り戻し、困ったような顔で佇む子供に、私は聞きました。
「どうして、そう思ったの?」
 すると子供は、事もなげに言いました。
「だって、お姉さんはいつもお休みの日にここにいるんだもん。それにお姉さんは、寂しそうな目で公園を見てることが多かったから」
 それを聞いて、私は笑ってしまいました。自身の情けない姿を子供にしっかりと見られていたのですから。自分より何歳も下の子の方が、周りを見る目をしっかりと携え、立派に生きているのだと思いました。
 暗い海に沈んだ私を、子供は何気なく救い上げてくれました。人は、何の前触れもなく突然に救われることがあるのだと、私はこの時実感したのです。頭を悩ませていた問題は、とても取るに足らない答えに行きつきましたが、それでも私は良かったと、心の底から思えました。
「ありがとう」
 その言葉は、空虚から発せられる空々しいものではなく、本心からの言葉でした。
「うん」
 子供は私の言葉の意味がきっと分からないでしょう。困ったような顔をして、子供は去って行きました。空き地の手前まで走っていくと、つと立ち止まり、振り返って手を振ってきました。私が小さくそれに応えると、子供は空き地の方にボールを蹴り、それを追いかけていきました。桜の陰から、白く眩しい日向へと駆けていく後ろ姿は、とても華やかなものでした。今や色を取り戻した春の景色は、新鮮に輝いていました。
 一陣の風が私の傍らを駆けていき、桜が一斉に騒めくと、ぱらぱらと花びらが舞い始めました。見上げると、華々しい彩りの桜吹雪に、晴天の空が垣間見えました。
 私はその鮮やかな春を、ただ、目に焼き付けていました。

春は物憂げ

 孤独は、人を卑屈にさせ、視野を狭めてしまうように思います。孤独を自覚することのない人間は、人との距離感を見失い、自身の言動が容易く人を傷つけるという事に気付かないまま、生きていくのかもしれません。

……なんて、それっぽいことを書いては見たものの、自分も付き合いが多い方ではないのだから、どの口が偉そうなことを語っているのだと詰られてしまいますね。数えるほどしか友人のいない自分には、大勢の友人がいる人を羨ましく思います。
 久々に文章と接すると、モノの書き方が思うように行かず、たった五千字程度のものでも、ああでもないこうでもないと頭を悩ませながらの作業になってしまいました。それでも趣味として続けられるぐらいには、文章を書くのが好きなんだなと思う今日この頃です。

春は物憂げ

私には少し、おかしな悩みがあります。 人に言えるような立派なものではなく。本当に、小さな悩みなのです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-09

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