卒業旅行 後編

15



 私が星野さんを初めて見たのは入学式でした。これから始まる高校生活に浮足立っている新入生で溢れているなか、星野さんは一際目立っていました。十代の女子にしては高い背に、中性的な容姿を持った星野さんに私は釘づけになりました。まるで小説に出てくる王子様なような美貌に私の心は一瞬で奪われました。あ、別に同性愛とかそういう感情ではないですよ。ただ小説の登場人物のような星野さんのファンになったんです。そこに星野さんが恐怖する恋愛感情は含まれていないので安心してください。
 それで星野さんのファンになった私は声をかけてみようかと思ったのですが、元来人見知りな私は星野さんに近づくことすら出来なかったのです。だからその日は遠くから、凛々しいのにどこか儚げな星野さんの横顔を見つめていました。今思えばあの時に勇気を出して星野さんに話しかけていればよかったなと後悔するばかりですよ。でもあの日はまだ入学式、これから星野さんとの接点が増えていくに違いないと愚かな期待をしてしまったんです。
 授業も始まり、高校というシステムに慣れ始めた……何月だったかな?……あぁ六月ですかね。確か夏服を着ていた記憶があります。とにかく衣替えを終えた六月に、私は入学式からずっと目で追っていた星野さんと会話することに成功したんです。……あ、星野さんの反応を見る限りやっぱり覚えていないのですね。残念ですが、それはとっくに分かっていたことです。もう一々傷つきませんよ。えーと、それで……そうだ。星野さんと初めて言葉を交わした六月のあの日を忘れたことはありません。星野さんがこれっぽっちも記憶していないようなのでその時の状況を詳しくお話ししますね。
 あの日は私のクラスと星野さんのクラスの合同授業があったんです。授業は体育だったのですが、その日体調不良だった私は見学席に一人体育座りをして、友人たちがバレーボールに興ずる姿を見つめていました。しばらくぼんやりと見学をしていた私は気づいたのです、星野さんがどこにもいないことを。その日は少しだけ遅めに登校してきた星野さんをちゃんと確かめていたので、いないはずがないのです。でも星野さんはいない。そのことが急に気になりだした私はいてもたってもおられずに、星野さんが唯一親しくしていた美琴さんに尋ねました。
「……美琴さん……星野さんはどこに行ったのか知ってる?」
「ん?星野さんって……あぁ未来か!うーんどこだろ?もしかしたらトイレにでも行ってるんじゃないかなー」
 星野さんのたった一人の友達、美琴さんは私のような特に親しくもない、冴えない女生徒にも優しかったですよ。元々美琴さんは誰にでも優しくて、朗らかな性格で入学当初から人気者でしたから。だからみんなから愛される美琴さんが星野さんに選ばれた特別な存在だということに嫉妬はしていなかったです。……羨ましくは思っていましたけれどね? あぁそういえばなぜ星野さんは美琴さんとしか親しくなかったのでしょうか……。入学してからずっと、ずっとずっと星野さんだけを見つめてきた私でもその謎だけはまだ解明出来てないのです。気づいたら星野さんの隣には美琴さんがいて、星野さんは美琴さんの前でしか無邪気に笑わなくなっていたのです……。
 あ、それより話の続きですね。美琴さんに尋ねても星野さんの行方が分からなかった私はそのまま大人しく見学席にいました。するとしばらくしてから星野さんがようやく体育館にやって来たんです。
「未来―!見学しないでサボってたらまた怒られるよ」
「……サボってないよ。ちょっとトイレ行ってただけじゃん」
「うーん、前科があるから信用出来ないなぁ!それより隣のクラスの太田さんが未来のこと探してたよ。何か用でもあるんじゃないかな」
「太田さん?」
「……!」
 あの時は本当に心臓が飛び上がりましたよ。まさか二人の会話に自分の名前が出てくるとは思っていなかったので。
(え?どうして私の名前が出たの?というか美琴さんは何を言っているの!確かに星野さんがどこにいるかって聞いたけれど、それは……星野さんに用事があるとかじゃないのに……)
 緊張してしまい二人の方を見られずにいた私は大して興味もないのに、目の前で繰り広げられるバレーボールを必死で見つめていました。私、星野さんのファンではありましたが友達になりたいだとか、そんな願望はその頃には既になかったのです。あくまでもファン、遠くから星野さんを見つめるだけで幸せでした。もちろん運よく星野さんとお話しが出来たなら嬉しいと、あわよくば友達になって星野さんの隣を歩けたらいいのにとか、夢想はしていましたが……。
 私がどれだけ慕っているか知る由もない星野さんは美琴さんとの会話を切り上げるとこちらに近づき、話しかけてきたのです。
「……えと、太田さん?なんか私のことを探していたって美琴が言っていたんだけど……私に用事かな?」
「……あ、あの……」
 今でも昨日のことのように思い出せますよ。月並みな表現にはなりますが、あの時の私の心臓は破裂寸前でした。ずっと憧れていた星野さんが私のすぐ隣にいて、私の名前を呼んでくれて、私という存在を認識してくれた。そのことがとても、とても……嬉しかったのです。……きっと私のこの気持ちを星野さんは一生理解出来ないと思いますがね……。
「……何か私に用事があった?」
「……あ、いえ……特には。えっと、私以外にも隣のクラスの星野さんが今日は見学するって聞いていたのに、いないからどうしたのかなって思っただけで……」
 目も合わせずに体育館の床を凝視しつつ話す私の姿に星野さんはどう思ったのでしょうか。気持ち悪いと思われていたら嫌だな、冷めた瞳で見られていないかなって不安でしたよ。まぁそんな心配は杞憂でしたね。結局星野さんはすぐに私のことなんて忘れちゃうんですから……。
「あぁそういうことか。ちょっと授業が始まる前にトイレに行っていただけだよ」
「……そうでしたか……」
「?太田さんだっけ?同い年なんだからそんなに硬くならないでよ」
「……ご、ごめん……なんか緊張してしまって……」
「人見知りなの?」
「……うん」
「へ~……確か太田さんって隣のクラスだよね?担任ってあいつだよね」
「……うん、数学の……」
「私あいつ好きじゃないんだよね~。乱暴じゃない?」
「……確かに」
「だよね?そういえばこの前もさぁ……」
 ……イメージと違い星野さんは初対面の人間相手にもお喋りでした。キツネのように凛々しい見た目のせいか、他人を寄せ付けない、初対面の人と雑談なんてしない人かと勝手に思っていたけれど全然そんなことなかったのです。明るくて、話し上手で、人懐っこい人でした。正直孤高の王子様だと思い描いていたのでギャップにはとても驚かされました。でも……周囲が抱くイメージとは違う一面を知った私はさらに星野さんを好きになってしまいました。
「終了~。じゃあ体育委員と日直は片付けてから帰りなさいよ」
「はーい」
「あ、終わったね。じゃあ私たちも教室に戻ろうか」
「あ、うん……」
 遠くから見つめているだけで幸せだと思っていたはずなのに、その時の私はもっと星野さんと一緒にいたい、たくさんお話ししたいって欲望に塗れていました。そのくせ自分からは話しかけられない情けない奴でした。だから体育館を出て教室に向かう星野さんの後ろをただ黙ってついていくことしか出来なかった。
 あっという間に教室に着いてしまい、星野さんとのお別れの時間が近づく。ここで自分から友達になろうとか、少しでも星野さんに近づくために何か言えば今とは違うことになっていたのではないかって、未だに考えてしまいます。
「私はこっちだから」
「……う、うん……」
「今日はありがとうね。太田さんと話すのが楽しくてついつい喋りすぎたよ~。初対面なのにうるさくてしてごめんね」
「あ、いえ!そんなことないよ!私も楽しかったから……また、お話ししようね……」
「うん、もちろん!じゃあ太田さん、午後の授業もお互い頑張ろ~またねー」
「……うん……!」
 ひらひらと手を振りながら星野さんはさっさと自分の教室に戻っていったけれど、私はその場からなかなか動けずにいた。なぜかって?そりゃあ嬉しかったからですよ。ずっと見ていた憧れの人とたくさんお話し出来て、その人との繋がりが出来たかもしれないってはしゃいでいましたから。でもその淡い希望はすぐに潰えるのですがね……。無論星野さんの手によってですよ。
 星野さんと初めて言葉を交わしたあの日から二週間ほど経ったころですかね?その間も私は星野さんを見ていましたよ。今日は早めに登校してきたなぁとか、珍しくお弁当ではなくコンビニ弁当なんだなとか、良いことでもあったのか今日はずっと嬉しそうだなぁとか……毎日星野さんのことを見つめていました。……え?ストーカー?まさか……違いますよ、私はただのファンですよ。だって私は一度だって星野さんに危害を加えたことがないし、一定の距離を保っていましたから。では、話を続けますよ。二週間経ったある日、私は幸運にもまた星野さんと共に過ごすチャンスに恵まれました。それは委員会です。私は美化委員会で、星野さんは図書委員会でしたか。お互い所属する委員会が違ったのですが、奇跡的に美化委員と図書委員の合同でやらなければならない仕事が出来たのです。その仕事内容はもう忘れてしまいましたが、私と星野さんはまた出会ったのです。あの時、私は期待していました。星野さんからまた声をかけてくれるのではないか、またあの綺麗な声で私の名を呼んでくれるのではないかと……でも悲しいことに星野さんは私のことを忘れていました。私のことを一度も視界に入れず、私の名前を呼ばず、傍にも来てくれませんでした。
 本当に悲しかったです。二週間前、あんなに楽しく笑い合ったのに……私のことを忘れるなんて……。裏切られた気持ちでしたよ。だって星野さんはあの日の別れ際、またお話ししようって……笑ってくれたのに、手を振ってくれたのにって……。私……委員会が終わってからこっそり泣いたんですよ。星野さんに私の純粋な気持ちを踏みにじられたショックで……。
 それからですね、私の星野さんへの想いが変化したのは。以前は憧憬、尊敬という清らかな感情のみでしたが星野さんに裏切られたあの日から……恨み、憎しみという気持ちも抱き始めました。もちろん星野さんへの憧れは消えませんでした。ただ、今までなら憧れだけだったのに……ほんの少しの憎しみが混入してしまったのです。まぁずっと星野さんを恨みつづけるつもりもありませんでした。星野さんが私を思い出してくれたら、それが無理でも星野さんから私にまた声をかけてくれたら……元の綺麗な感情に戻るはずだったんです。でも星野さんは幾度も私の気持ちを蹂躙したのです。
 そのまま時だけがすぎ、二年生の半ば……星野さんのクラスに転校生がやってきました。そうです、玲奈さんですよね。本音を言えば私は玲奈さんのことが嫌いでした。きっと私だけじゃなくてほとんどの生徒が玲奈さんのことを好ましく思っていなかったはずです。もちろん美琴さんも、星野さんも例外ではないですよね?星野さんは初めのうちは玲奈さんに対して好意的でしたが……彼女の異常性に気づき始めてからは距離を置こうと努力していましたよね。でも見た目によらず慈悲深い星野さんは玲奈さんを見捨てられずにいた……。それが美琴さんの癪に障ってあんなことになるなんて……。
 星野さんと美琴さんの中に玲奈さんが加わってからも、相変わらず星野さんは私を思い出さない。その事実がとても苦しかったです。玲奈さんのような人間に愛を与え、名前を呼ぶのにどうして一途に星野さんを慕う私を愛してくれないのか……。美琴さんだけなら我慢出来ました。だって彼女は非の打ち所がない人間でしたから……。でも玲奈さんは違った。我儘で弱くて……泣いてばかりで、自分の世界しか見つめない社会不適合者。そんな人間を私より大切にする星野さんを許せなかった。だからちょっと嫌がらせをすることにしたのです。しかし星野さんに不満を抱いていたとしてもやっぱり星野さんは私の憧れの人。そんな尊い存在に嫌がらせなんて出来るはずもなかった。ですから、玲奈さんに……少し、ほんの少しだけ意地悪しちゃったんです……。あれ、星野さん?どうしました?え……、玲奈さんにどんな意地悪をしたかって……?……うーん星野さんに直接関わることではないのでハッキリと覚えてはいませんが、玲奈さんが傷つく様な言葉を言いました。……どんな言葉かって?……何度も言っていますがちゃんと記憶していないのです。それでもいいから?……ぼんやりとですが、「お前は嫌われ者」「星野さんに迷惑をかけている」「これ以上星野さんを困らせるな」「気持ち悪い」とかそんなところですかね。まぁありきたりな悪口ですよね。玲奈さんは心底傷つきましたって顔をしていたけれど、私の方が辛い想いをしていますからね。あぁ、思い出しました。「星野さんのためにもこの世から消えてくれ」みたいなことも言いましたね。……星野さん?どうしましたか?そんなに掌を震わせて……。寒いですか?……そうですよね……ちょっと長々と話しすぎましたね。でも話はまだ続くのでもう少しだけ辛抱してください。
 私が玲奈さんに意地悪してからひと月ほど経ったある日、事件が起きましたよね。もう学校全体が星野さんたちに注目していましたよ。中には星野さんが玲奈さんを死に追いやったとか、星野さんと美琴さんが玲奈さんを殺したとか……根も葉もない噂で盛り上がっている連中もいましたが……私は確信していました。玲奈さんは星野さんのために、己のために死を選んだのだと。だから星野さんは『人殺し』なんかじゃないって。
 三年生の後半になっても相も変わらず事件の話題で持ち切りでしたね。私はあの事件以来一層星野さんを見つめていましたよ。周囲の心無い誹謗中傷、目の前で起きた友人の死、親友だった美琴さんが星野さんから離れてしまったことで深まった孤独……全てを一人で抱え込む星野さんをずっと見ていました。本当は今すぐにでも駆けつけて、星野さんを救いたかったのですが……いかんせんまだ星野さんは私を思い出していなかったのです。だから私は見守ることしか出来ませんでした。
 そしてもう進路が確定し始めたころ……私はなんとか星野さんの進路を知ろうと必死でした。進路相談の先生は個人情報だと言って教えてくれないし、星野さんの担任も教えてくれませんでした。なので私は星野さんの鞄を漁ることにしたのです。星野さんは意外とドジなところがありますから、鞄を放置したままどこかに行くことが多々ありましたね。その隙に進路調査票を手に入れて、この大学へ進学希望している情報を入手しました。……ちょっと星野さん……そんな目で私を見ないで下さいよ……。私はただ星野さんに憧れているしがないファンの一人ですから。
 そして迎えた三月……案の定星野さんは卒業式に現れませんでした。……美琴さんもいなかったですね……。あの時は少し寂しかったです。初めて星野さんを見た入学式と同じように、一人で立ち尽くす星野さんの凛々しいお姿をもう一度見たいと思っていたので……。でも過ぎたことなのでもう忘れましょう。さて、高校を無事に卒業した星野さんと私は大学生になりました。この頃になると星野さんに思い出してもらうことはもう諦めていました。思い出してくれないならまた一から星野さんと関係を築けばよいのだと気づいたのです。そのためには星野さんがまた私以外の誰かと親しくなる前に声をかけないといけない。だから大学の入学式、私はずっと星野さんを探していました。でもなぜか星野さんを見つけられなかった。でも幸いなことに私と星野さんは学科が同じだったので、入学式が終了してから学科ごとに説明を受けるときに星野さんを発見しました。その時は本当に嬉しかったです。春休みの間一度も星野さんを見ていなかった私は久しぶりの再会と、星野さんが大学生になってから初めての友人になれることへの幸福に心が躍りました。いざ、話しかけようとした瞬間……私はまたもや絶望に突き落とされました。そう、星野さんの隣にはすでに環さんがいたのです……。私の計画は環さんと私を放置して新しい友人をつくった星野さんのせいで失敗に終わりましたよ。酷いですよね……高校生のときから星野さんのことを一番想っていた私じゃなくて会ったばかりの環さんにあんな無邪気な笑みを見せるなんて……。
 そして入学式から数日後の健康診断の日にも私は辛い想いをしました。あの日、星野さんは慣れない校舎で道に迷っていましたよね?そのことに気づいた私は助けてあげようと思いました。大学での最初の友人という座は環さんに奪われてしまったけれど、まだ希望はあった。今のうちに親しくなっていれば環さんよりも、かつて友人だった美琴さんや玲奈さんよりも……星野さんの特別な存在になれると思っていたから。でも、また……また!私の希望は踏みにじられました!一人で不安そうに右往左往している星野さんに話しかけようとしたそのとき……茉莉奈さんが現れたのです。茉莉奈さんは何の気なしに迷子の星野さんを助け、そのまま星野さんの友人になった……。
 本当に悲しかったです。星野さん、あなたに私の悲しみが分かりますか?ずっと慕っていた人に存在を認識されず、幾度となく否定されてきた私の気持ちが……。……分からないですよね。だから私はちょっと仕返しをすることに決めました。いつまでも私を思い出そうともしない、ゼミが一緒になっても親し気に話しかけてくれない星野さんに。純真な私を差し置いて星野さんの隣で幸せそうに日々を過ごす環さんと茉莉奈さんにも……環さんと茉莉奈さんだけを愛してそれ以外の人を見ようともしない星野さんにも我慢の限界だったのです。
 その仕返しというのはもうお気づきですよね?そうです、由利さんに星野さんの過去を暴露することです。最初は少しだけ躊躇しましたよ。由利さんは口が軽くて噂話が大好きな人だって有名でしたからね。もし由利さんに話せば星野さんの過去が大学中に知れ渡るのは時間の問題だから。でも、そこで気づきました。星野さんの過去を環さんと茉莉奈さんに伝われば、星野さんに愛想を尽かすのではないかと。そうすれば星野さんは高校生のときのように独りぼっちに戻るじゃないかって……。その時に私が星野さんを支えればきっと特別な関係になれるのではないかって……。そう思った私は由利さんに全てを話したのです。いや、もちろん少しぐらい罪悪感はありましたよ?けれど星野さんを手に入れるにはこうでもしないと……。あ、星野さん、怒っていますね。そりゃあそうですよね。私だって本当はこのことを話したくなかったです。だけど星野さんが真実を話せと言うならば話すしかないでしょう……。はい?あぁどうして嘘泣きをしてまで由利さんに強要されたことにしたかったですか?それは……由利さんだけを悪者にしようと思っていたので。残念ながら星野さんは聡い人ですので、騙しきれなかったみたいですが。……星野さん、これだけは知っていてください。私は高校生のときから今もずっと星野さんを慕っています。その感情に嘘偽りはありません。ただ、星野さんの近くにいたかった、星野さんの特別な存在になりたかっただけなのです。だから、どうか……私に慈悲を下さい。


16



 太田さんの告白に未来は何も言えなかった。自分が気づいていなかっただけで長年太田さんに観察されていたこと、太田さんの逆恨み、歪んだ想い……そして全く無関係な人物だと思っていた太田さんと玲奈に接点があったこと。全ての真実を受け入れるには少々時間が必要だった。
(……不気味だ)
 チラリと横を見ると丸い瞳と目が合う。
「……」
 何を考えているのか皆目見当のつかない瞳が恐ろしくてすぐに目を逸らす。
(この話を聞くまでは太田さんのことを純粋で、素直で心優しい人だと思っていたけれど……どうやら彼女は純粋で素直であることは間違いないが、どこか狂っているようだ)
 太田さんは未来の予想通り純粋な心を持っていた。そして素直だった。自分自身に対してだが。
(太田さんは純粋が故におかしな行動、思考に陥ってしまったんだな。なんだか少し……それはそれで可哀想な気がするけれど、やっぱりそう簡単には許せない……と思う)
 太田さんはきっと損得勘定で人付きあいをしたこともなければ、相手の言葉に何か裏があるのではないかと勘ぐることもないのだろう。それは純粋だからこそだ。でも、彼女の場合はその純粋さが仇になってしまった。そうさせたのは私だと太田さんは言うだろう。確かにそれは一理あるかもしれない。人は誰かと親交を深めつつも、腹の内では何を考えているのか分からない。だから簡単に人の言葉を、優しさを信用してはならないと未来は日ごろから思っていた。そして世界の人々も未来と同じ考えを持っていると過信していた。しかし太田さんは違った。彼女は相手の言葉を言葉通りに受け取り、社交辞令なんて口にしない。恐らく太田さんも未来と同じく他人も自分と同じ考えだと思っていたに違いない。
(……だからすれ違った)
 彼女の言うことが正しいのならば未来と太田さん高校生のときに一度だけ、会話をしたことがあるらしい。残念なことに未来の記憶に太田という名前の知人はいないし、目の前にいる彼女と高校生のときに言葉を交わした覚えもない。
(でもわざわざこんな嘘はつかないだろうから、本当なんだろうなぁ)
 太田さんは未来と笑い合ったことがとても嬉しかったのだろう、その思い出を未だにずっと大事に抱きしめている。その姿は純粋そのもので少しだけ……いや、かなり不気味だ。だっておかしい。自分のことを覚えていない相手のことをいつまでも想って、思い出してくれる時を待ち続けるだなんて……無茶苦茶だ。もし、未来と太田さんが元々気心しれた仲なら彼女の行動はおかしくはない。だが未来と太田さんは他人だった。友人でもなんでもないただ一瞬だけ共にしただけ。そんな一瞬だけの関係だった人を覚え続けるだなんて未来には出来ない。なぜなら未来は自分にとって大切な人以外は必要ないからだ。元々自分から新しい友人なんてつくろうとはしない人間だった。だって大事な人が一人でもいれば十分じゃないか。それ以外の人は未来の人生にはいらない。それは今も変わらない。
(……だから私は太田さんを覚えていなかった。まぁ彼女からすれば酷い仕打ちだったかもね。それについては謝りたい気持ちも少しだけどある)
 自分に寄せてくれていた好意を踏みにじったという過去の自分にも責任は少なからずある。なので太田さんには謝った方がよいのかもしれないが、出来ればそれはしたくない。
(……だって太田さんこそが玲奈を追い詰めた張本人なのかもしれないし……そんな奴に頭なんて下げたくない)
 告白が終わっても口を開かない未来に太田さんはついに痺れを切らす。
「……星野さん……何か言ってください……」
「……」
「……星野さん」
「……」
 太田さんの声なんて聞こえないとばかりに未来は何も言わない。
(……太田さんは最後、慈悲を下さいって言ったよな?それはどういう意味だ?)
 『慈悲』という言葉の意味は分かる。分かっているが太田さんがどういった考えで『慈悲』を乞うたのかが分からない。
「……太田さん……」
「はい……!」
 未来に名前を呼ばれたことが嬉しいのか、さきほで枯れかけた花のように項垂れていたというのに今は満面の笑みだ。
(……彼女は元からおかしかったのか?それとも私が彼女の狂気を呼び起こしてしまったのか……)
 情緒不安定に表情を忙しなく変える太田さんに若干引きつつも未来は気になっていたことをぶつけてみる。
「……慈悲を下さいってどういう意味?」
「……え?」
「……慈悲を下さいって……太田さん、あなた……私に赦してもらおうと考えているのかな?」
「……それはその……はい……そうです。……でも!私は悪くないです!星野さんが私のことを思い出さずに環さんと茉莉奈さんとばかり一緒にいるから……」
「……太田さんのことを覚えていなかったのは悪かったと思うよ……。でもそれは仕方ないよね。太田さんとはちょっとの間しか一緒にいなかったし……」
「……そんなこと言わないでください……」
「……とにかく、太田さんは私に慈悲を乞うて赦してもらうつもりなんだね」
 語尾を強くするとビクリと太田さんの肩が揺れる。その姿に良心がちょっぴり痛むが心を鬼にする。
「……どうなの?」
「……星野さんの言う通り私は赦してほしいと思っています……。由利さんに過去を話したのはやりすぎたと反省しているし、なにより私はただ星野さんを慕っているだけだったから……!」
「……」
(自分が何をしてはいけなかったのか分かっていないんだな)
 太田さんは未来のことを長い間観察していたこと、由利さんに全てを話したことについて未来が怒っていると勘違いしている。重要なのはそこではない。確かにずっと見られていたことは気分が悪いし、由利さんに自分の闇を知られたことだって許しがたい。でも、それよりも……もっと赦せないことを太田さんはしていたのだ。
(……玲奈になんてことを言ってくれたんだ)
 太田さんの言う通り玲奈の評判は良くなかった。なぜなら玲奈は病気でも患っていたのか、情緒不安定な性格だったからだ。自分の想い通りにいかなけば癇癪を起し、少しでも一人にすると死を仄めかす。他には未来と美琴以外の人とは友好的に接しようとしない、玲奈だけの独特な世界観を他人にも強要するなど……決して好かれるような人物ではなかった。
(私も初めはどうすればいいか分からなかったし、苦手だったさ)
 美琴も未来と同様で玲奈と距離を置こうと思っていたようだった。でもだんだん玲奈の数少ない長所を知っていくにつれて、かけがえのない友人になったんだ。もちろん、その間にも玲奈に悩まされることはあった。それでも三人で乗り越えた。月日が経つにつれて玲奈も成長して、未来と美琴を困らせることも減ってきていたし、周囲の評判もマシになっていた。それなのにある日、玲奈は未来と美琴の前で自ら命を絶った。
(……一か月前ほどから様子がおかしかった。やたら自分を責めたり、謝ったり、自分の存在を否定したり……一体どうしたのかと不思議だったけれど、どうやら太田さんの言葉が原因だったみたいだね……)
 太田さんの言葉はあくまでも一因にすぎないことぐらい分かっている。未来は美琴と玲奈の間に軋轢が生じていたことも知っていたので、全てが太田さんのせいだとは言わない。でも、少し考えてしまう。太田さんの言葉がなかったら玲奈はまだこの世にいたんじゃないかって。それでなんとか美琴と玲奈の不和を解消させて、今も仲良く笑い合えていたんじゃないかって。こんな風にどこで何をしているのかすら知らない友人だった美琴と、この世にはもういない玲奈の影に怯えて生きていく必要もなかったんじゃないかって考えてしまう。
(そう考えだしたらもう駄目だ……。私は太田さんを赦せないや)
 太田さんをここまで狂わせたのは未来が彼女のことを記憶していなかったことが起因だが、太田さんは元々歪んでいた。きっとその歪んだ思想は未来が太田さんのことを覚えていて、友人になっていたとしても治ることはなかったはずだろう。結局未来は美琴と玲奈を失い、歪な愛を向ける太田さんから逃れることは出来なかったに違いない。
(だからこれ以上酷い状況にならないように、私の世界から太田さんを切り離さないと……)
 そう決意すると未来を太田さんと向かい合い、大きく息を吐く。太田さんは今から何を言われるのかと肩を震わせながら未来の口元を注視していた。
(恨んでくれてもいいけれど、いつか自分の心がどれだけ歪んでいるか太田さんが気づいてくれたらいいなぁ)
 肩に手を置き、未来は太田さんの耳に染みこませるようにゆっくりと語り掛ける。
「……太田さん、色々言いたいことはあるけれど……まずは謝らせてほしい。……太田さんのことをずっと思い出せなくてごめんね」
「……星野さん……」
(本当は謝りたくなんてないけれど、一応ね)
 悪意なく未来の大事なモノを傷つけてきた太田さんに謝罪なんてしたくなかったけれど、話を穏便に進めるために一応詫びの言葉を述べた。「ごめん」の一言さえ言っとけば彼女の癇癪を防げるはずだ。
「……その件に関しては私にも非があったと思うよ。……でもそれからの太田さんの行動は……ちょっと赦せないかな」
「……そんな……!どうしてですか……。確かに星野さんが私を思い出してくれないからってやりすぎたこともありました……でもそれは……星野さんが私のことを……」
「……だからそれは悪かったと思っているよ。でもさぁ、私が太田さんのことを思い出さなかったからってストーカーのように私を監視し続けたり、鞄を漁ったり……私が人に知られたくない過去をよりにもよって由利さんに話したりするのは酷すぎないかな?」
「……星野さん」
「……まぁストーカーとかは私にしか被害を与えなかったからまだ良かったけどね。でも……太田さん、あなたは私以外の人も傷つけたよね……私はそれがどうしても赦せないの」
「……」
 未来が言わんとすることが分からないのか、太田さんは首を傾げた。その反応に未来は小さく舌を打つ。
「……心当たりない?」
「……はい……。そもそも星野さんはもちろん、誰かを傷つけようとしたことなんてありません……」
「……そっか」
「……」
 想像以上に太田さんが利口ではなかったことに肩を落とす。どうやら彼女はただの馬鹿だったみたいだ。
(……これ以上話しても無意味かな)
太田さんの間抜けっぷりに怒りよりも呆れが勝る。きっとここで太田さんの言葉で玲奈がどれだけ傷つき、悲しんだのかを説明しても無駄な時間を過ごすだけだ。太田さんは未来が何に怒っているのか恐らく一生気づけない。
「……もういいや」
「星野さん?」
 太田さんの肩から手を離し、大きくため息をつく。もうやってられない。
「もういいよ、太田さん」
「え?」
「太田さんがどれだけ私のことを好いてくれていたかよく分かった。……そしてあなたがどれだけ身勝手で愚かな人間なのかもよく理解出来たよ」
「……!?」
「じゃあね」
ソファから立ち上がり、床に無造作に放置していたリュックを背負うと未来を出口に向かって足を進める。
「待ってください、星野さん!」
「……」
「……星野さん……」
 必死で呼び止める太田さんの声を無視し、扉に手をかける。
(……無視だ、無視。そして私の中から太田さんの存在を綺麗さっぱり消し去ってしまおう)
未来を立ち止まり、後をついてくる太田さんに顔だけ向ける。太田さんは愛している飼い主に捨てられるのを必死で抗う犬のように惨めな表情を晒していた。
「太田さん、もう二度と私たちの仲を邪魔したりしないでね」
「……私たち……?」
「そう、私たち。高校生の時は私と美琴と玲奈の仲を滅茶苦茶にしたね。……今度は私と環と茉莉奈の仲を壊すつもりなんでしょ」
「……そんなことしません!それに私は星野さんと美琴さん、玲奈さんの仲を滅茶苦茶になんて……」
「自覚がないんだねぇ。……まぁいいや、とにかく金輪際私には関わらないで」
「……星野さん……」
「さようなら、太田さん。あなたが夢見ていた関係にはなれないけれど、今度は太田さんが望んだように誓ってあなたのことを忘れないよ……」
「……違う、違います。私が望んでいたのはそんなことじゃなくて……」
「もう遅いよ」
「星野さん……」
縋るように伸ばされた腕を振り払い部屋を出ると、階段を駆け下りる。八階から一階まで一気に駆け下りていく。途中すれ違う学生たちに不思議そうに見られたがどうでもいい。今は一刻も早く太田さんから離れたかった。
やっと一階に辿り着くころには未来の息は乱れきっていた。
「ハァ……ハァ……」
 膝に手をつき、必死で酸素を取り込む。その姿に通り行く学生は気味悪そうな、心配そうなを目を向けてくる。中には親切に声をかけてくれる人もいたが。
(体調不良じゃないからねぇ)
 徐々に息が整いだした未来はゆったりとした足取りで食堂に向かい、環と茉莉奈にメッセージを送る。
(……食堂にはいないのかな?どこにいるんだろ)
 いつもなら食堂にいるはずの二人が見当たらない。
『二人ともどこにいるの?』
 メッセージを送るとすぐに返信が来た。
「……はや……」
『ゼミ室にいる。今からそっちに向かうわ』
『食堂だよね?今から環とそっちに行くから待ってて』
「……」
『了解、食堂で待ってるね』
 メッセージを送信し終えるとスマホを机の上に放り投げ、未来は頬杖をつき深いため息をつく。
(なんか疲れたなぁ)
 目を瞑り、ついさっきまで同じ空間にいた狂ったストーカー……太田さんについて考える。
(……太田さんの行いは到底赦すことは出来ないけれど……あんな怪物を誕生させたのは私にも責任はあるんだろうな)
 太田さんはある意味純粋で、元々物事を素直に受け止めるような純朴な人なのだろう。だからこそ彼女は自分の予想とかけ離れた行動をする未来に混乱し、誤った道に進んでしまったのだ。
(そして迷走した結果が、ストーカーか……)
 他人から見れば未来と太田さん、どちらに非があって、どちらが被害者かなんて判断を下すことなど出来ない。でも未来は他意なく太田さんの想いを打ち砕き、太田さんも悪意なく未来を傷つけたことは事実だった。
(……もう終わったことだと頭では理解しているけれど、まさか今になって玲奈に死の引導を渡した人物が分かるだなんて……やりきれないよ)
 太田さんが玲奈に言い放ったあの言葉たちは確実に玲奈の心を死に追い込んだ。
(太田さんの行為こそが『人殺し』なんじゃないのか……)
 あの事件以来自分に浴びせられた『人殺し』という不名誉なあだ名。その名は未来ではなくあの善人ぶった狂人……太田さんにこそ相応しいモノじゃないのか。
(……あぁ、悪意ってなんて恐ろしいのだろう……)
 はぁともう一つため息をつき、環と茉莉奈が食堂にやってくるのは静かに待つ。


17



 しばらくすると環と茉莉奈が食堂に姿を見せる。
「おーい、こっちこっちー」
 二人に向かって手を振る。未来に気づいた環が茉莉奈の肩を掴み、こちらに近づいてくる。
「やっほ。二人とも食堂にいると思ってたのに、いなかったからちょっと焦ったよ」
「ごめん、また教授に仕事を頼まれてね」
 余程面倒事を押し付けられたのか環は疲弊を隠そうとしない。
「そうなんだ、それでその仕事は終わった?」
「いや、まだ終わってないけれど他のゼミ生も何人か残っていたからその子たちに任せてきたよ」
 凝りをほぐすように首を回したり、捻ったりしている環の代わりに茉莉奈が答える。
「ありゃ、被害者は環と茉莉奈だけじゃなかったのか」
「そうなのよ、午後から用事がない人は手伝って~ってお願いという名の命令が下されたから」
「だから未来からメッセージが来て助かったよ。食堂で落ち合う約束をしていた友人から連絡がきたので失礼しますーって逃げ出してきたよ」
「そんな言い訳で解放してくれる教授だったかな?」
「それが今日は運よく教授の命令に従ってくれるゼミ生が多かったからね、私たち二人が抜けても大丈夫だと判断したんでしょ」
「そっか」
 相変わらず二人が所属するゼミの教授は学生使いが荒いみたいだ。でも本当に学生が嫌がることはしない人なので文句を言いつつも環と茉莉奈は教授のお手伝いをこなすのだろう。
「そういえば未来も何か用事でもあったの?」
 椅子に座り、大きく伸びをしている茉莉奈が思い出したように尋ねる。
「ん?教授に何かお手伝いを頼まれたとかなかったけど……どうして?」
「いやぁ、未来も私たちと同じ時間にゼミが終わるはずなのに連絡が遅かったから」
「……あー……」
 瞬間、太田さんの顔が脳裏を過る。
(ゼミは滞りなく終わったけれど、その後太田さんと少しばかりいざこざがあったからね)
 つい数十分前まで太田さんと面倒なやり取りをしていたことは二人に伝える必要はなさそうなので黙っとこう。
「うーん、ちょっとね。ゼミ生の子と話をしていたら思いの外時間が過ぎていたというか、まぁそんなところだよ」
「……ふーん、未来がゼミ生と雑談ねぇ」
 長い足を組み替えながら環が訝し気に未来を見やる。
「な、なに?私だってゼミ生とお話しぐらいするよ……」
「でもなんか意外かも。だって未来ってあまり親しくない人とは雑談とかしないじゃない。しても事務的な会話か世間話程度?しかもその会話も五、六分がいいところだよね」
「え、二人の私のイメージってそんな感じなの……。私だって親しくない人とでも気軽にお話しぐらい出来るよ?」
 腕を組み反論してみせるが図星だった。茉莉奈の言う通り未来は友人以外の人とは滅多に話をしない。したとしても業務的な内容や挨拶ぐらいだ。ごく稀に他人と一線を引く未来の態度を気にしないで親し気に話しかけてくれる人もいるが、長くは続かない。だから一時間もの間、未来が環でも茉莉奈でもない誰かと話をしていたことを珍しがられても仕方がない。
「まぁどうでもいいじゃん!私もだんだん人見知りを克服していっているってことだよね」
 未来は肉付きの悪い骨ばった胸を張る。
「……未来は人見知りっていうよりは……」
「なに?」
 じっと環が未来を遠慮なく見つめてくる。あまりにも熱心に見つめてくるのでなんだか居心地が悪い。
「……未来は人見知りではないのよ……茉莉奈もそう思うでしょ」
「えっと、うーん……確かにそうかも?未来は意外と初対面の人に対して友好的だし……」
「え、私って友好的?それは自覚なかった……」
 今までされたことのない評価に目を丸くする。
(でもそうかもしれない……?)
 太田さんやゼミ生などへの自分の態度を思い返してみる。人見知りなら近しくない人に自分から話しかけないだろうし、話しかけたとしてもあんなに饒舌に話せるはずがない。
(つまり私は仮面人見知りってわけか?でも環や茉莉奈以外の人に好意的というわけではない……むしろどうでもいいというか)
 ふむと自分が人見知りか否かについて考えこんでいると、ふいに環が未来の胸に触れる。
「ちょっと!?」
 突然のセクハラに未来は思わず大声を出してしまった。近くに座っていた人が何事かと視線を向けてきたが、すぐに興味を失ったのか視線は散っていく。
「ちょ……環……あんた……どこ触って……?」
「あぁ……自分とはタイプの違う胸だなーって思ってついつい触っちゃったわ。ごめん」
「タイプが違うって……」
 哀れなほどに控えめな胸を腕で庇いながら、環の胸元に目をやるとそこには豊穣の神に愛された胸があった。確かに未来とはタイプが違う。環を潤沢と表すとすれば、未来は凶作だった。なんという格差社会。脈絡なく自分と環との差を見せつけられ、未来は自分が今までどんな話をしていたのか頭からすっぽり抜け落ちてしまった。
「……どうしよう、環のせいでさっきまで何の話をしていたのか忘れちゃった……」
「あら、私と同い年なのにもうボケちゃったの?」
「……環、あんたはいいから黙って……。ほら未来も落ち込む必要はないからね。環のこれはただの脂肪だから」
 環の突拍子もない行動を咎め、茉莉奈は未来を慰める。しかしその慰めはこれっぽっちも未来の耳には届きやしない。
(……前から環の胸は私と比べて大豊作だなぁとは思っていたけれど、改めてそれを指摘されると……つ、辛いなぁ)
 すっかり意気消沈してしまった未来。だが環は気にせずに話を続ける。
「そうだ、さっきの続きだけど未来は人見知りではないわよ」
「……ん?あぁ……。ごめん、ちょっと今は心が傷だらけだから放っておいて……」
「どうかしたの?」
「あんたのせいだよ!」
 未来の代わりに茉莉奈が環の頭を強くはたく。誰かに叱られる環なんて貴重な場面を目の当たりにした未来は思わず笑みを零す。
「茉莉奈、痛いじゃない。暴力で物事を解決しようとするだなんて野蛮ね」
「うるさいよ!というかいきなり未来の……胸に触る環の方が野蛮だよ!痴女なの?」
「フフ」
 環と茉莉奈のやり取りを微笑ましく見ながら、「人見知り」についてもう一度考えてみる。人見知りとは知らない人と上手く話せない、心を開くのに時間を要する人たちのことを言う。
(それなら自分も当てはまるけど……さっき指摘された通り、存外自分は初対面の人が相手でも会話が出来ているかもしれない。まぁそれはあくまでも営業スマイルっていうやつだけど……。うーん、あれかな。普段から話しかけられることが少ないし、自分も積極的に声をかけないから自分は人見知りだって思い込んでいただけか?話が続かないっていうのも私が会話のキャッチボールを放棄するというよりは、相手が会話を早めに切り上げているっていう方が正しいのかも)
 そのことに気づくと未来は不思議な気持ちになってきた。
(人見知りではないとすると……どうして私はみんなと距離を縮められないのだろうか)
 未来はこれまでの対人関係を思い出す。美琴や玲奈、環や茉莉奈のように心から大好きだと思える人とは円満な関係を築けているが、それ以外の……好きでも嫌いでもないハッキリ言えばどうでもいい人たちとは上手く付き合えずに敵対することが多々あった。
(由利さんや……太田さんがそれかな)
 それは未来が自分にとって大切な人間以外は興味などないという態度が周囲に勘付かれていただけだったのだが、未来はそのことにまだ気づいていない。
(まぁ自分が人見知りかどうかなんてどうでもいいか。私にとって大切な人……環と茉莉奈さえいれば私は幸せだから)
 目の前にいる環と茉莉奈を満足げに見つめていると、環と目が合った。
「未来、もう立ち直った?」
「……これ以上胸について言及はしないでね……」
「未来、環の言葉なんて気にしないでいいからね」
「……うん」
「まさか未来が胸のことを気にしていたとは知らなかったのよ、怒らないで」
「怒ってはいないよ」
「それは良かった」
「……未来はもう少し環に強く出てもいいんだよ」
 茉莉奈が呆れたようにため息をつきながら助言をしてくれるが、環の減らず口を矯正することなど不可能なので諦めるしかない。それに未来が本当に傷つくことを環は決して言わないから見逃してやる。
「いいよ、茉莉奈。これが環だから」
「……でも」
「茉莉奈もしつこいわね、未来がいいって言っているのだからあんたは黙っときなさい」
「……環、あんたねぇ」
「そうだ、そんなことより卒業旅行について話したいことがあるのよ」
 怒りに米神を引き攣らせる茉莉奈を無視し、環は新しい話題に移る。
「話したいことって?」
「何、もしかして私たちの卒業旅行も行かないことにするの?別に私はいいよ。あ、それとも費用を工面出来なくなったとか」
「煩いわよ、茉莉奈。そもそも私が未来との約束を破るわけがないし、三人の中で一番裕福な私が旅費を確保出来ないわけがないでしょ」
「……自慢か?」
 自慢としか思えない環の言葉に未来は眉を顰めてしまう。しかし環が自慢しているつもりなど毛頭ないことぐらい分かっている。
「自慢に聞こえたらごめんね、でも事実だから仕方ないわよね」
「……強いなぁ」
「……強いね」
 うんうんと未来と茉莉奈が頷いていると環が不機嫌な声を漏らす。
「ねぇ、私の話を聞いてくれない?」
「ごめんごめん。それで話したいことってなにかな?」
「早く言ってよ」
「……茉莉奈の態度が気に食わないけれど話を続けるわね。……今回は普通の旅行じゃなくて『卒業旅行』でしょ?」
「そうだね」
「それがどうしたの?もしや『卒業旅行』の言葉の意味が分かりません!とか言わないよね」
「卒業を間近に控えた学生がみんなで旅行に行くことを『卒業旅行』って言うんだよ」
「それぐらい知っているわよ。そうじゃなくてね、このまま旅行をするだけだと普通の旅行と変わりないじゃない。それだとちょっと味気ないでしょう。せっかくの『卒業旅行』なんだから、もっと卒業という言葉に注目してみた方が面白いと思うの」
 意図がよく分からずに未来と茉莉奈は同時に首を傾ける。
「どういうこと?環って○○にちなんで何か特別なイベントをしよう!って盛り上がるようなタイプだったっけ」
「まず卒業という言葉に注目ってなに?卒業を目前にした私たちが旅行を決行する時点で、大分卒業という言葉を意識していると思うけれど」
「……そういうことじゃないのよ。……はぁ……未来も茉莉奈も思いの外鈍感だったのね」
 残念そうに環はため息をつき、欧米人のように大げさに肩を竦める。
「環、いきなり欧米化してどうしたの」
「環が何を言いたいのかよく分からないけれど、その反応はとても癪に障るね」
「二人とも、よく考えてみて。『卒業旅行』を終えたら卒業式を迎えて、すぐに社会人よ。きっと社会人になる前に学生時代はこんなことがあったなぁって回顧する時間もそんなにないはずよ」
「そうかもしれないねぇ」
「でしょう。そしたら学生時代にやり残したこと、後悔、懺悔を後腐れなく処理出来るのは今しかないって思わない?」
「……あぁ、なるほど」
「……そういうことか……」
 だんだん環の言いたいことが分かってきた。環は今回の『卒業旅行』に合わせて学生時代の後悔や懺悔をしようと誘っているのだ。
(それはとても良い提案だけれど……)
 学生時代の後悔や懺悔なんてそう簡単に他者に打ち明けられるモノではない。少なくとも未来にとっては。
(茉莉奈はどうなのかな)
 チラリと茉莉奈の顔色を窺うと、無表情で一体何を考えているのか分からない。
(……それで、提案者の環も勿論なにかあるんだよね)
 環は茉莉奈とは正反対に何故か嬉しそうな、自信に溢れたような微笑みを浮かべている。これは一体?環は未来と茉莉奈に話したくて堪らない後悔や懺悔でもあるというのか?
(でもなぁ、私の後悔と懺悔は高校生の時からだからな……。濃度が凄いというか……)
 元々二人には今日、未来自身の過去について話そうと決めていたので今更隠し通そうだなんて思っていない。でも、やはり気は進まない。
「その様子だと私が言いたいことを漸く分かってくれたみたいね」
「……分かったよ。あれだよね、『卒業旅行』にちなんで学生時代の後悔していること、懺悔をすることで、スッキリとした気分で新生活を始めようってことでしょ」
「そんなところね」
「別に異議はないけれどどうしてわざわざ……」
 環の提案にあまり乗り気ではなさそうな茉莉奈が表情を歪めながら問う。
「どうしてって……さっきも言ったじゃない。『卒業旅行』だからよ。長年抱えていた葛藤、悶々とした思いを吐露することで今までの自分から『卒業』出来るかもしれないじゃない」
「……」
「……茉莉奈だってあるでしょう。長い間自分だけで抱え込んできた葛藤や、後悔が。それを今回未来と私に話すことで……そのどす黒く渦巻く悩みから卒業出来るのよ」
「……そうだね、環にしては気の利いたアイディアなんじゃないかな」
「でしょう?」
(……ふむ、どうやら茉莉奈も何かあるみたいだね)
「じゃあ決定ね、『卒業旅行』の日に私たちは全てを話そう。隠し事も嘘も、誤魔化しも言い訳もなし。ただ正直に全てを打ち明けよう」
「なんか仰々しい気もするけど……いいよ」
「環が言うと新興宗教の儀式にしか聞こえないけれど……私もいいよ」
 未来も茉莉奈も提案に賛成すると環は満足そうに笑う。
「うん、私の提案に賛成してくれて嬉しいわ」
(……そういえば二人はどんなことを話すのかな)
 環と茉莉奈も自分のように何か後ろ暗い過去でもあるのかと気になってきた。
(気になるけれど詮索しちゃ駄目だ……我慢だ、我慢だよ、未来……それに卒業旅行当日に話してくれるみたいだし。あ、じゃあ私もその日に自分の過去とどうして『人殺し』って呼ばれるようになったかを話せばいいか)
 今日話すつもりだったが、環が提案した、あらゆるしがらみから卒業するための告白イベントまで自分の過去は内緒にしておこう。
「また違う楽しみが出来たね」
「そうでしょう?ただ星空を堪能するだけの旅じゃあつまらないしね」
「……私は普通の旅行で良いと思うけれど、まぁこれも思い出だよね。学生最後の旅行になるし……腹を割って話すよ」
「その意気だ!」
 こんな風にしばし雑談に夢中になっていると時間はあっという間に過ぎ去っていく。気づけば太陽が恥ずかしそうに顔を半分隠していた。
「あちゃ、もうこんな時間かぁ。そろそろ帰ろう」
「そうね、あまり遅くなると帰宅ラッシュにかち合うしね」
「それに完全に日が落ちると気温が一気に下がるもんね」
 冬独特の夕焼けを横目に三人は帰る支度をし、さっさと学校を出る。
「駄目だ!もう寒い!凍え死ぬ!」
「駅まですぐなんだから早く歩きな」
「ほら、未来も環も前向いて歩かないと危ないよ!」
 数分も経たないうちに暗さが増していき、それにつれて寒さが際立ってくる。
「凍死する前に急ごう!」
 早くこの寒さから逃れるために三人は肩を寄せ合いながら駅まで走った。


18



 太田さんから衝撃的な事実を聞かされてから数週間、学生最後のゼミが終わってから二週間ほどが経った今日は卒業旅行決行日だ。天気予報によると長野県は今日も明日も、明後日も快晴らしい。これなら綺麗な夜空を堪能出来るに違いない。
「天気が良いって言ってもまだ二月下旬だし、長野は大阪よりもずっと寒い地域だから防寒対策はちゃんとするのよ」
「わかってるよー」
 出発直前、忘れ物がないか今一度確かめていると母が忠告をしにきた。
「本当に気を付けてよ。たださえ未来はよく風邪を引くんだから……。一番暖かいコートを着ていくのよ?あ、カイロも必要ね、ほら!これ持っていきなさい!」
「カイロは意外と使わないんだよね~」
「いいから!リュックの内ポケットに入れとくからね」
「はいはい」
 母の有難い忠告を適当に聞き流しながら準備を進める。
「えーと、スマホも……カードもあるし、充電器もあるね!よし完璧だ!」
 忘れ物がないことを確認し終え、リュックを背負い玄関に向かう。その後をパジャマ姿の母と寝起きのスバルからついてくる。
「環ちゃんと茉莉奈ちゃんに失礼がないようにね」
「分かってるって」
「心配だわ」
「もう、心配ばかりしないでたまには娘を信用してごらんよ。スバルもそう思うよね?お母さんはちょっと神経質すぎるよね」
 靴を履こうとしゃがんだ未来の足元に擦り寄ってきたスバルを抱き上げ、母の心配性について愚痴る。
「ニャー」
「ほら、スバルも私と同意見みたい」
「……スバルは人間の言葉なんて分からないでしょ。それより急ぎなさい」
「はーい、じゃあスバル、数日間私と会えないけど寂しがらないでね」
 しばしのお別れで愛猫が悲しまないように力強く抱きしめてやる。
「ニャー!ニャー!」
「照れるな、照れるな」
「嫌がってるのよ」
「失敬な!」
 腕の中で活きのよい魚のようにのたうつスバルを解放してやると、すぐに未来の傍から離れていく。本当に可愛げのない猫だ。
「ま、いいや。私がいない間はスバルの餌、糞の処理とかよろしくねー」
「言われなくても分かってるわよ。はい、じゃあいってらっしゃい」
「行ってきまーす」
 母とスバル、ついでにまだ寝ている父にも聞こえるように大きい声で告げると気持ち速足で駅まで向かう。


「……どこだ?」
 最寄り駅から五十分以上かけて、新大阪までやって来た未来はスマホを片手に辺りを見回していた。環と茉莉奈と新大阪で落ち合う約束をしていたのが、何故か二人が見当たらない。
「あれ、時間間違えたかな?それとも集合場所はここじゃなかったのかなぁ」
 二人に新大阪駅に到着したことを連絡し、駅構内をうろつき始める。本当は歩き回らずにどこかで待っていた方がいいのだが、生粋の方向音痴である未来は無意識に迷子になる道を選んでいた。
(まだかな)
 数十分構内をぶらついた後、二人から連絡が来ているかどうか確認するためにスマホを見ると……なんと環と茉莉奈から十件以上の着信があった。
「え!なんだ、なんだ?」
 慌てて環の番号に掛け直すと、なぜか茉莉奈が応答した。しかもとても混乱している様子だ。
「もしもし、未来!?今どこにいるの?」
「え、あれ、茉莉奈?環の番号に掛けたのに」
「そんなことどうでもいいから、何処にいるの?メッセージでは改札前のコンビニにいるって書いてあったのにいないから……。ねぇ、何処?」
「あ~……ごめん、今からそっちに行くよ」
「駄目、未来のことだからどうせ適当に歩いていたら見知らぬ場所に出たんでしょ。きっと戻ろうとしてもさらに迷うだけだから、私たちがそっちに行くよ」
「……いや、改札前までなら看板で方向を示してくれているから大丈夫だよ、待ってて!」
 そう茉莉奈に告げ、電話を切ろうとすると茉莉奈の声に被さるように環の声が聞こえてきた。
「未来、いいからそこから動くな!」
「ひぃ……」
 予想より大分イラついている環の声色に未来は思わず背筋を正す。
「……未来、お願いだからそこから一歩も動かないでね。……それで、何処にいるの?」
「えーと、ここは……どこだろう?」
「……はぁ……」
「待って!えっと……あぁ、なんかコインロッカーが密集しているところにいるよ」
「……コインロッカーが集中しているところ……環、どこか分かる?」
「コインロッカー?……あぁ、あそこかしら」
「分かった?じゃあ今から行こう。あ、未来?すぐにそっちに行くから、一歩も……絶対に一歩も動かないでね」
「……了解です」
 もし一歩でも動いたら承知しないと、緊張感溢れる声で念を押された未来は気を付けの姿勢でその場に留まる。幸い周囲に人はいないので邪魔にはなっていないようだ。
「……うぅ、環も茉莉奈も怒ってるよね。謝らないと」
 日ごろ未来に対して寛容……いや、甘い二人が珍しく怒っていることにさすがの未来も反省している。
(普通に考えてここにいるって連絡したなら、違うところに移動するなんて駄目だったなぁ。しかも今日は新幹線に乗らないといけないから時間厳守だし……あぁなんてこった)
 さっそく環と茉莉奈に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思う。
(……でも)
 未だ強く握りしめたままだったスマホを操作し、時間を確認する。乗車予定の新幹線の発車時刻までまだ一時間近くある。
(……まだ大丈夫、大丈夫)
 新幹線に乗れなくなってしまうかもしれないという危惧がないことが分かった未来はあまり焦っていない。
「まだかな……」
 茉莉奈の言いつけ通り、一歩も動かずにぼんやりと二人が迎えに来てくれるのをひたすら待つ。


 十分ほど突っ立っていると向こうから環と茉莉奈の姿が見えてきた。
「あ、来た来た。おーい、こっちだよ~」
 手を振りながら二人の元まで駆け寄る。未来の姿を認めた二人は大きくため息をつき、強い力で腕を引っ張る。
「うわっ、いきなり掴まれたら吃驚するじゃん」
「ハァ……もう、心配したんだから」
「本当だよ!未来はぼーっとしているから変質者に連れ去られでもしたのかと……」
「え、さすがに私だってそこまでぼさっとしていないよ」
「……してるわよ。とにかく、ただの迷子で安心したわ」
「……本当に。ねぇ、未来、私たちに何か言うことない?」
「……」
 右腕を環に、左腕を茉莉奈に掴まれている未来はふとあの日を思い出した。
(由利さんに『人殺し』だって罵倒された日もこうやって二人に身体を支えてもらったような……その姿がさながら捕獲された宇宙人みたいだなぁって思ったんだよね。今もあの時みたいに私が宇宙人役かな?)
 自分の腕を掴む腕を交互に見ていると、環が低めの声で未来の名を呟く。
「……未来?」
「……勝手に動き回って、迷子になってごめんなさい。それと、迎えにきてくれてありがとう……」
「よろしい」
 誠心誠意謝罪すると二人の声から棘がなくなる。しかし腕はまだ自由を奪われたままだ。
「よし、まだ発車まで時間はたっぷりあるけれどもう行こうか」
「そうだね、じゃあ行こうか」
 未来を間に挟んだまま環と茉莉奈は歩き出そうとする。
「え、ちょっと待って、もう単独行動はしないから腕を離してくれないかな」
「却下」
「駄目だよ」
「えぇ……。人の目が気になるよ……恥ずかしい」
「あら、他人の目を気にするなんて未来らしくないわね」
「そうだよ、未来はいつだって自分の道を突き進むじゃない。今日もいつも通り自分が信じる道を歩めばいいんだよ」
「いや、そういう話じゃないよ!それは精神的な話というか……とにかく、捕獲された宇宙人状態で歩きたくないよ」
 なんとか解放してもらおうと身体を捻ったり、腕を振り回したりしてみるが意外なことに環も茉莉奈も力が強かった。
「くそぉ……私の方が二人よりも身長もあるのに……」
「そうは言っても私とは五、六センチくらいしか差がないわよ」
「未来と環は背が高いよね……私なんて未来との身長差が十センチもある……」
「だからこそ嫌なんだよ~。自分より背の低い女の子にこんな……連行されるだなんて」
 おいおいと泣きまねをしてみるが、二人は全く気にしないで未来を引きずりながら足を進めていく。
「恨むなら集合場所を勝手に離れた自分を恨みなさい」
「そうだよ、ついでに背だけ高いくせに標準的な筋肉をつける努力をしなかった過去の未来自身を恨んでね」
「……返す言葉もないなぁ……」


 三十分ほど前に未来がいた改札前に到着すると、二人は漸く腕を離す。
「まだまだ時間に余裕あるけれどもう入ろうか」
「そうしようか、じゃあ……はい」
 茉莉奈は鞄を漁り、新幹線の切符を未来と環に渡す。
「ありがとう」
「ん、どうも」
 切符を受け取り、改札をくぐる。
「ねぇ、名古屋までどれくらいかかるかな?」
「二時間近くかな」
「結構かかるね、じゃあ駅弁買わないと駄目だね」
「そうだね、じゃあ買いに行こうか」
「そうしよう!」
 旅の一番の楽しみは観光よりも、同行者との語らいよりもご飯だ。何よりも食を愛する未来は多種多様な駅弁を販売している売店にすぐに駆け込んだ。
「あ~どれにしようかな~。どれも美味しそう」
 ズラリと並べられた駅弁を前に頭を抱える。ここはやはりお肉がメインとなっているお弁当がいいだろうか、それとも栄養バランスがよいお弁当がいいだろうか。……とても悩ましい。
 真剣に駅弁選びをしている未来の肩から環が顔を覗かせる。
「うわ、どれも高カロリーね」
「あれ、環ってそういうの気にする方だっけ?」
「前は気にしてなかったけれど最近はね……太りたくないし」
「なるほど……。環はガリガリってわけじゃなくて結構肉付きいいから、それぐらいの美意識でちょうどいいかもね」
 そう言い、案外柔らかい環の二の腕を服越しに摘まむと、未来の手を環が思いっきり捻ってきた。
「い、痛い!」
 直接皮膚に与えられる痛みに顔を歪めるが、環は無言で捻り続ける。
「痛いってば……。何、私何か気に障るようなこと言ったかな?」
「……自覚なしなのね……。未来さぁ、肉付きいいとか女性に言っちゃ駄目な言葉でしょ」
「あ~そういうことかぁ。でも事実だから別にいいじゃん……」
「……」
「あ~痛い!痛い!痛いです環さん!」
 悪びれた様子のない未来にイラついたのか環はさらに力をこめてきた。さすがにこれ以上捻られると皮膚がちぎれそうだ。比喩ではなく、本当に。
「ごめん!肉付きいいとか言ってごめんなさい!」
「よろしい」
 痛みに身を捩らせ、必死で懇願するに満足した環はやっと未来から手を離す。未来はほっと胸をなで下ろし、まだヒリヒリと痛む手の甲を抑える。
「本当に痛かった~。見て、跡が残ってる!」
 白い肌にくっきりと浮かび上がった赤い跡を見せつけるが、環はどこ吹く風だ。
「環~」
 恨めしそうに環の名を呼び、抗議しようと口を開こうとした瞬間背後から茉莉奈の呆れきった声が聞こえた。
「全くもう……未来と環は何をやってるの?早く駅弁と飲み物を選ぼうよ」
「あ、ごめん茉莉奈!」
「はいはい」
 振り向くといつの間に購入したのか、茉莉奈は駅弁も飲み物も確保済みだった。
「えーとどれにしよう……環は決まったの?」
「もちろん、私は未来と違って食べ物にそこまでこだわりがないから」
 ヘルシーを謳ったサンドイッチと、脂肪燃焼を促してくれることで有名なウーロン茶のペットボトルを手に持ち、ヒラヒラと未来に見せる。
「えー……それだけでお腹いっぱいになる?」
「私はなる」
「……私はならない」
「だろうねぇ。じゃあ会計済ませてくるわね」
 くるりと未来に背を向け、レジに向かう環。そろそろ未来も何を食べるのか決めないといけない。しかし魅力的な駅弁だらけでなかなか決断出来ない。
 いつまでも決断を下せない未来に焦れたのか茉莉奈が助言をする。
「電車の中で全部食べ切れなくても部屋で食べられるから、食べたいモノ買いなよ」
「なるほど!その手があったか!どうしてか一つに絞らないといけないとばっかり……」
「まぁ本当は一つに絞ってくれた方がいいんだけどね……。ほら、早く食べたいモノを二つほど選んで買っておいで!」
「はーい」
 ずっとどちらにしようか悩んでいた駅弁二つを手に取り、米国で売り上げナンバーワンを記録し続けている炭酸飲料を駅弁の上に乗せ、レジに向かう。隣にいたビジネスウーマンが少し驚いたように目を丸くしたがそれも仕方がない。未来はちょっとでも強い風が吹けば飛んでいきそうなほどに細く、薄い身体だというのに食欲だけは誰よりもあるから。よくあれだけ食べて肥満体型にならないモノだ。

「お待たせ」
「おかえり……未来……ちょっと買いすぎじゃない?」
「そうかな?」
「私がそこまで悩むならいっそのこと両方買えって言ったからね……」
「あぁ……。それでどのお弁当買ったの?見せてよ」
「いいよ、はい」
 環に袋を渡し、受け取った環は上から中に入っているモノを確認する。
「……これはないわ……」
「え、美味しそうでしょ!?」
「……未来があんなに迷っていたから系統の違う駅弁かと思っていたけど、これ……どっちも肉じゃない」
「そうだよ、だって私はお肉大好きだからね」
 未来が買った駅弁は焼肉弁当と、ローストビーフ丼の二つだ。どちらも肉がメインでローストビーフ丼の方には卵まで乗っかっている。まさに高カロリー、高コレステロールの塊だった。
「未来―……これは美意識どうこう以前に身体に良くないわよ」
「健康に良くない組み合わせだね。しかも飲み物は炭酸飲料……」
「別にいいじゃん、食べたいモノ買って何が悪いのさ」
「いや、悪くないわ。でもねぇ……」
「未来、生活習慣病にだけは気を付けようね」
「……うん?」
 茉莉奈が心底心配そうに言うので取りあえず頷いたが、未来自身はあまりよく分かっていない。
「あ、そろそろホーム上がろうか?」
「もうそんな時間かしら」
「十分前だよ、余裕を持って行動した方が安心じゃない?」
「それもそうね。よし、未来も行くわよ」
「あ、うん」
 五分前行動ならぬ、十分前行動を実践する律儀な茉莉奈の後ろを未来と環はついていく。

 ホームに上がると何人かはもう列に並び始めていた。
「私たちも並ぼうか」
「そうね、えーと私たちが乗る列車番号はっと……」
「……」
 切符を見ながらホームを移動する。
「……」
 茉莉奈と環が先頭となり、該当する列を探してくれているので未来はぼんやりと周りを眺めながら歩く。
(時期的に私たちみたいに卒業旅行に行く子たちが多いのかな)
 未来たちと同年代だと思われる数人の女の子たちがなにやら楽しそうにはしゃいでいる姿、それぞれスマホゲームをしながらも器用に雑談している男子学生たち、サークルの合宿かこれからの予定を確認し合う男女混合の集団、二人だけの世界に浸りありきたりな愛を語り合う年若いカップル。それぞれがそれぞれの仲間とこれから始まる旅に心を躍らせている様子が伝わってくる。
(女の子たちは卒業旅行っぽい、男子グループもそうかな。……それであれはサークルの合宿かな?人多いな~。そしてカップルかぁ。いやはや、よくこんな人が多い場所でイチャイチャ出来るなぁ)
 自分と同じ時代を歩んではいるが、自分とは全く違う道を歩んできたらしい彼女たち、彼たちの姿を横目に未来はひっそりとため息をつく。
(私も環と茉莉奈という大好きな友人と卒業旅行に行けるんだから恵まれてはいるのだけど……やっぱり根本的にというか、私とここにいる人たちとは大きな違いが一つあるよね……)
 未来のすぐ傍で手を叩き笑い合う女性たち、真剣にゲームをプレイする男子たち、お酒でも飲んだのか狂ったようにテンションが高いサークルグループ、お酒なんてなくても愛に酔うカップル……。彼らを馬鹿にしているとかでは決してないが、未来も目の前にいる彼らのように平凡で、特別辛い過去もなく、余計なことを考えずに笑える人生を歩める側の人間になりたかったと少しだけ羨ましく思う。
(彼らのようにその他大勢側の人間だったらもっと楽だっただろう。悩みはあれどありふれた悩みで、確固たる信念もないから疎外感を抱くこともない……そんな普通な人生を送ってみたかった)
 じっと彼らを見つめていると前方から茉莉奈の声が聞こえ、ハッと我に返る。
「あった、あった。ここで待てばいいよ」
「よし」
「五号車かぁ。トイレ近いかな?」
「どうだろ、まぁ遠くてもなんとかなるよ」
「それはどうかな」
「いや、どうにかさせなよ」

 下らない話で盛り上がっていると新幹線がホームに到着する。
「今から掃除の時間だ」
「いつ見ても清掃員さんって凄いわよね。私にはこんな仕事出来ないわ」
「未来は不器用だし環は他人のために掃除だなんて出来ないもんね。……私はこういう縁の下の力持ち的な仕事は嫌いじゃないからやってみたいかも?」
 そんな会話をしながらせっせと車内を綺麗にしてくれている清掃員さんを眺めていると、乗車可能のアナウンスが流れる。
「はい、乗るよー」
「はいはい」
「三人掛けだよね」
「そうだよ、えーと……あ、あったよ。ここだ」
 未来たちが座る座席を見つけると茉莉奈は手早く荷物を取りまとめ始める。
「未来は窓側ね。じゃあリュック頂戴、棚に置くから。あ、環も大きい荷物こっちに渡して」
「はい、よろしく」
「任せて」
 てきぱきと動く茉莉奈に未来は感心する。賃金が発生するわけでもないのに機敏に動く茉莉奈はやはり縁の下の力持ちである。そしてよく気が利く。
「トイレに行きたくなったら言ってね」
「了解」
「……茉莉奈、あんた通路側だけどいいの?未来の隣に座りたくないの」
 珍しく茉莉奈を気遣う環がなんだか面白くて未来は横から二人のやり取りを観察する。
「もちろん私だって未来の隣がいいけれど、荷物の上げ下ろしとかそういう作業を二人に任せられないからね。通路側でいいよ」
「そう、分かったわ」
「うん」
(あっさり解決した)
 駅弁が入った袋をガサゴソと漁りながら、未来はあの日から二人の間に流れていた不穏な空気が徐々になくなってきていることに気づき始める。
(この調子ならもう二人からどちらかを選べって、迫られることはなさそうかな)
 良い兆候に微笑んでいると環と茉莉奈に訝しがられてしまったが、咳払い一つで誤魔化した。


 やがて電車が発車する。
「久しぶりに新幹線乗るからなんかワクワクするよ」
「私も新幹線は久々だわ。基本的に移動は国内でも飛行機だから」
「なーんか裕福自慢に聞こえてしまうのはなんでかな……」
「自慢じゃなくて事実だから仕方ないでしょ」
「経済的に余裕がある人は発言にも余裕があるよねぇ」
 謙遜という言葉を知らない環の態度に笑いながら未来はさっそく駅弁を開ける。
「え、もう食べるの?」
「ちょっと早くないかな」
 環と茉莉奈に咎められ、一旦動きが止まる。しかし食欲は止められない。
「えー……そうかな?でも食べ始めている人は私だけじゃないし、名古屋なんてすぐに着いちゃうから今から食べないと!」
 袋に入ったままの割りばしを二人の前に翳し、己の行動の正しさを主張してみる。すると未来の主張に心を揺り動かされたのか、それとも諦めたのか二人は未来の好きにさせるようにした。
「食べたいならお食べ」
「私たちはもう少ししてから食べ始めるよ」
「よし、ではいただきます!」
 二人からOKサインを貰った未来はローストビーフ丼の蓋を開け、甘美な肉の味に酔いしれた。


 あれから一時間経過した。ローストビーフ丼も焼肉弁当も完食してしまい、やることがなくなった未来はスマホで音楽を聴きながら景色を眺めていた。二人はどうしているかと横を見ると、環は腕を組みながら目を閉じていた。呼吸のリズムから見るに環は寝入っているようだ。
(寝顔も綺麗だなぁ)
 スヤスヤと眠る環の顔に未来はほうとため息をつく。環は友人という贔屓目がなくとも本当に美しい顔をしていると思う。
(最初のころは環の顔の美しさにいちいち驚いていたけれど……慣れって恐ろしいね)
 環の人形のように整った寝顔を堪能した未来は環の隣、茉莉奈にも目をやる。
(ありゃ、起きてる)
 茉莉奈はタブレットでなにやら作業をしていた。ハッキリとは見えないがゲームをしているわけでも、電子書籍を読んでいるわけでもなさそうだ。
(書類作成?でも卒論はとっくの昔に終わらせているし……就職先の書類とか?)
 目を細め、何をしているのか確かめようとするが分からない。
(まぁいいや。名古屋につくまで三十分以上はあるから、それまでは私も寝ようかな)
 ミュージックアプリを開き、リラックスするときに最適な曲を纏めたプレイリストを再生させる。
(おやすみ)


「未来、起きな、降りるわよ」
「んん……?」
 環に身体を揺さぶられ、眠りから覚める。
(あ、そうだ名古屋に向かって新幹線に乗ったんだっけ。すっかり寝てしまっていた……)
 大きく伸びをし、窓の外を見る。全く見たことのない景色が眼前に広がっている。ということはもう名古屋に到着したのだろう。
「はい、これは環の荷物で……こっちは……未来、寝ぼけてないで立って、降りるよ」
「うーん……」
 まだ完全に覚醒していない頭を軽く振りながら、電車を降りる。
「うわぁ名古屋だ……」
「名古屋で降りるのは初めてかもしれないわ」
「私もだよ。さ、目的地は名古屋ではないからぼさっとしてないで行くよ」
 ぼんやりと駅周辺の建物や人を環と一緒に眺めていると茉莉奈がきびきびと動き、さっさと歩くように促してくる。その声に反論もせずに従い、ひな鳥のように茉莉奈の後ろを歩く。


 新幹線の改札を出て、名古屋駅から南木曽行の電車が運行されているホームに入る。
「あ、十分後に電車が来るよ」
「じゃあそれに乗ろうか」
「そうしよう」
 ホームをウロウロしたり、スマホを弄ったり、名古屋の空気を肌で感じたりしているうちに未来たちが乗る電車がやってきた。三人はすぐさま電車に飛び乗り、座席を確保する。
「ここから目的地まで結構かかるから、のんびりしよう」
「そうね」
「じゃあ私はもう一度寝るわ~……」
「おやすみ」
 新幹線で聴いていたプレイリストをもう一度開き、再生ボタンをタップする。するともう未来の耳に周りの雑音や話し声は聴こえない。自分だけの世界だ。
(……電車での長時間移動って意外と腰とお尻が痛くなるんだなぁ)
 などとどうでもいい事を考えていると、あっという間に夢の席あに引きずりこまれていった。


「ハッ……!」
 前触れもなく、瞼が突然開かれる。
「うわ、びっくりした……」
 未来がいきなり目を覚ましたことに環が少しだけ驚いた様子で呟く。
「あれ?なんでだろう、急に目が覚めた……」
「寝すぎだからじゃない?身体がもう睡眠は必要ないですって訴えているのよ」
「うーん……まぁ、もう起きとくよ」
 目を擦り車窓の景色でも楽しもうかと思い、外に目をやると驚いた。
「ど田舎だ」
「未来……あんたってナチュラルに失礼なことを言うわよね」
「え、何か失礼なこと言ったかな」
「……」
 はてと首を捻っていると茉莉奈が身を乗り出しこちらに声をかけてくる。
「未来も起きたのね、あと数分で南木曽に着くから荷物纏めといてね」
「了解!」
「はいはい」
 茉莉奈の指示通り荷物を纏め、いつでも下車OKな状態にする。


 しばらく電車に揺られると南木曽に着いた。
「降りるよ」
 茉莉奈の号令を合図に未来も環も電車を降りる。
「うわぁ……田舎だ!映画とかでよく見る田舎景色だ!」
 ホームの真ん中で手を広げ、田舎独特の澄んだ空気を思いっきり吸い込み感嘆の声をあげる。
「田舎、田舎って連呼しないの」
「未来、環―。予約してあるバスの時間もあるから早くこっちに来てー」
「はーい」
「今行くわ」
 予約していたバスを待たせてはいけないと、二人は慌てて茉莉奈の後を追う。


 改札を出ると茉莉奈が現地の人らしきおじさんと立ち話をしている。そのおじさんはバスの運転手の制服を着ており、すぐ傍には中型バスが停車してある。
「予約してあったバスの運転手さんかな」
「かもね」
 茉莉奈とおじさんから少しだけ距離を置き、その様子を見守っていると茉莉奈が手招きをする。
 茉莉奈とおじさんの近くに寄っていくと、おじさんは愛想のよい笑顔で挨拶をする。
「長旅お疲れ様です。ここからこのバスに乗って宿まで向かうのですが、これがまた三十分ほどかかるんですわ。ですのでお手洗いとかは今の内に済ませた方がよろしいかと」
「あ~そうなんですね、じゃあちょっとトイレ行ってくるよ」
「え、私も行きたい」
「二人ともさっさと行っておいで。二人が戻ってきたら私も行くから」
「はーい」
「ははは。本日バスを予約しているお客様はお嬢様方だけですから、急がなくても大丈夫ですよ」
「いえ、ここで時間を食うと運転手さんにも迷惑をかけてしまうので……ほら、未来も環も早くお手洗い行っておいで!」
「分かってるよー」
 まるでお母さんのような茉莉奈に急かされ、トイレに走る。


 全員トイレを済ませるとバスに乗り込む。
「皆さん出発してもよろしいですかね」
 運転席からおじさんが顔を覗かせる。
「OKです!」
「お願いします」
「……騒がしくてすみません、お願いします」
 手で丸をつくりおじさんにOKサインを送る未来の姿に茉莉奈がなぜかため息をついていたが気にしないことにしよう。
「では出発しますね」
 おじさんがそう宣言するとバスはゆっくりと動き出し、未来たちが泊まる予定の宿へと向かう。


 もうそろそろ着くだろうかと窓から宿を探していると、見覚えのある建物が視界に飛び込んできた。
「あ、あれかな?」
「そうね」
「意外と早く着いたね」
 パンフレットよりも趣がある宿に未来は驚いていた。きっとこの宿は未来の経済力では一泊すら出来ない。環と茉莉奈のような生まれながらにして他者より圧倒的に裕福なモノのみ足を踏み入れられる空間だ。
「想像よりずっと高級っぽいんですけど……」
「……ものすごく高級ってわけじゃないけれど、気楽に泊まれるところでもないことは確かよ」
「なんて恐ろしい……」
 二人と自分の地位の違いを恐怖しているとバスは駐車場に入っていき、お迎えの人なのか着物を着た女性が何人かこちらに向かってやってくる。
「本日は遠路はるばるよく起こしくださいました」
「いえいえ、本日から二泊三日お世話になります」
「ここまで遠かったでしょう」
「そうですねー、思っていたより長旅になりましたね」
「……」
 慣れた様子で女将さんと言葉を交わす環と茉莉奈を未来はただ黙って見つめていた。
(慣れてる……私なんてビジネスホテルの受付のお姉さんと話しをするだけでも緊張するのに……)
 やり取りをずっと見つめていると、運転手のおじさんが未来たちの荷物を下し始めた。慌てて未来もその作業を手伝おうと手を伸ばす。
「あ、私も手伝います!」
「いえ、これも私の仕事ですので」
 ニッコリとお天道様のように明るい笑顔で制されてしまい、未来はすっかり手持ち無沙汰になってしまった。
(疎外感がすごいぞ……)
 行きつけなのか、それとも親せきか誰かが懇意にしているのか、二人と女将さんはとても楽し気に話している。その様子に部外者である未来は会話に参加することも出来ずに、意味もなくスマホを弄るしかなかった。


 数分後、話が終わったのか女将さんと傍に控えていた従業員が未来たちの荷物を持ち、宿へと案内をする。
「さぁ、こちらに」
「はい」
「あ、未来―おいでー」
「あ、うん!」
 特に見るモノもないのに無意味にスマホの液晶を眺めていた未来は、茉莉奈の呼びかけに二人の元へ駆けていく途中……バスの傍で姿勢よく立っていたおじさんにお辞儀をする。
「あ、そうだ……運転手さんここまで運転ありがとうございました」
「あはは、ご丁寧にどうも。お嬢様方も旅行を楽しんでくださいね」
「はい!では」
「はい、失礼いたします」
 未来たちに一礼するとおじさんはまたバスに乗り込み、来た道を戻っていった。
「じゃあ行こっか」
「うん」


 女将さんに案内されながら入った宿は、未来の貧相な語彙ではどう表現したら良いのか分からないほどにとても立派だった。建築のことや調度品だとか、絵画の知識なんてこれっぽっちも知らない未来に正しい価値など分かりはしないのだが、それでもここは歴史ある由緒正しい宿だということは直感で理解出来た。
 ロビーに備え付けられているソファに座り、フロントで手続きをしている環と茉莉奈の後ろ姿を見つめる。その後ろ姿は学生ではなく出来るキャリアウーマンや要人のようなオーラが溢れ出ていた。
(よく怖気つかないなぁ……それくらいこういう高級な宿に泊まり慣れているってことだろうけど)
 二人から目線を外し、ロビーのすぐ隣にあるカフェに目を向ける。そこには老夫婦が茶を片手になにやら談笑していた。何を話しているかは聞こえないが、きっと未来には到底分からない高尚な話題に違いない。茶器だとか日本画だとか、資産運用だとかの話に決まっている。間違ってもアイドルや漫画、ゲームのような庶民的で俗なことを話してはいないだろう。
(私は俗世間の人間だから、きっとあの老夫婦のような人とは親しくはなれないだろうなー。まず話の内容についていけないよ)
 じーっと雅な雰囲気を醸しだす老夫婦を観察していると、手続きが済んだのか環と茉莉奈がこちらに戻って来た。
「はい、行くわよって……ぼーっとしてどうしたの?」
「ん?いやぁ……なんでもないよ」
「女将さんが部屋まで案内してくれるから早くおいでよ」
「あ、はーい」
 急いで立ち上がり、女将さんが待機している場所へと小走りで向かう。
「お揃いですね、では参りましょう」
「はい」
「……」
 エレベーターに入り、女将さんの細く白い指が五階行ボタンを押す。どうやら私たちが泊まる部屋は五階にあるらしい。
「当館は五階建てとなっておりまして、そこからの星の眺めがそれはそれはとても美しいと評判なのですよ」
「そうなんですね~。やっぱり五階にして良かったね」
「そうね、どうせなら部屋からも星空を楽しみたいしね」
「……」
「あ、着きましたね。どうぞ」
 エレベーターを降り、目的の部屋まで女将さんを先頭に歩く。見た感じ五階はほぼ満室のようだ。
(確実ではないけれど人の気配があちこちの部屋からする。もしかして今がシーズンなのかね)

 真っすぐ進み、突き当りの部屋の前で女将さんが足を止める。五○八号室が私たちの部屋なのか。重厚な黒い扉のすぐ横に設置されている薄くて白い板に女将さんがカードを翳すと、ピピッと電子音の後、扉が開いた。驚いたことにここはカードキーを採用していた。こんなに古風な宿だからてっきりアナログな鍵だと思っていたが……。
「さぁどうぞ」
「お邪魔します」
 女将さんに促されるまま部屋に入ると未来は言葉を失った。
「……なんだこれ」
 部屋に入るとそこには大きな窓があり、眩しいほどの光が射しこんでいた。きっとこの窓からなら写真でよく見る大きくて明るい月も、赤や青、白色に光る星までも綺麗に、ハッキリと見られるだろう。
「……凄い」
 窓から見える青空と景色に見惚れていると、いつの間に隣にいたのか女将さんが嬉しそうに話しだす。
「綺麗でしょう?この部屋は星空観賞の特等席なんですよ。だから宿泊中はずっとこの部屋から星空をお楽しみいただけます」
「……本当ですね……」
「そして前に見える山は星の楽園イベントのメイン会場ですね。あの山から見る星空は格別ですよ。是非とも宿泊中に一度は足を運んでみてください」
「……はい」
「でも女将さん、ここに泊まりに来る人はみんな星の楽園目当てでしょう?だから行かないわけがないですよ。私たちもそれを見に来たんですから」
「確かにそうでしたわね」
(あぁ、あそこなのか)
 パンフレットで見た満点の星空はあの山から撮影されたモノなのだ。それなら絶対に行かなくてはならない。そして世にも美しい星空をこの目に焼き付けなくては。
 興奮気味に窓の外を見つめていたから、温泉の入浴時間や夕食時間、朝食の説明なんて少しも耳に入ってこなかった。我に返ったのは女将さんが部屋を出て行った後だ。
「おーい、未来、戻ってきたかしら?」
「……あ、ごめん。今戻ってきた」
「女将さんの説明は聞こえてた?」
「あー……」
 後頭部を掻き、なんとか女将さんが話していた内容を思い出そうとするが全く覚えていない。声は聞こえていたが、内容は脳内に入ってきてなかったのだ。
「ごめん、聞いてなかった」
 素直にそう言うと茉莉奈は肩を落とし苦々しく笑った。
「だと思った。もう一度私が説明するね」
「お願い」
「温泉は朝の六時から夜の二十三時まで。夕食は二日とも七時にしたよ」
「七時かぁ。ちょっと早くない?またお腹空いちゃうかも」
「安心しなさい。ここは未来が言うド田舎だけど、宿から歩いて数十分のところにコンビニがあるからそこで夜食でもなんでも買えるわ」
「おお、それは助かる!」
「じゃあ続きね。朝食はバイキングで……七時から十時までだからあまり遅く起きないようにね」
「はーい」
「こんなもんかな?他に気になることがあったら、女将さんに聞いてくるけど……」
「大丈夫!」
「環は?」
「私も特にないわ」
「分かった、じゃあちょっと休憩しようか」
「そういえば今何時さ」
 スマホを取り出し、時間を確認する。
「十四時ね」
「私たちお昼食べてないよね?」
「そうだね、でもそんなにお腹空いてないでしょ。晩ご飯まで我慢しようか」
「晩ご飯まで……?」
 空腹を訴えるお腹を押さえ、「今すぐにでもご飯を食べたい」と悲痛な眼差しを茉莉奈に向ける。
「……今お腹いっぱい食べちゃったら晩ご飯食べられないよ」
「……それでも少しぐらい食べないと餓死しちゃうよ」
「そんな簡単に人は死なないわ」
「え~……」
 環と茉莉奈はそれほどお腹が空いていないのか、未来の訴えを無視して荷物の片づけ、部屋の換気などを始める。しかし本当にお腹が空いて堪らない未来は諦めない。
「なんだよ……じゃあちょっとコンビニまで行ってきてなにか軽食買ってくるよ……」
 リュックから着替えなどの嵩張る荷物だけを取り出し、必要最低限の装備にする。そして玄関に向かい、スニーカーを履こうと腰を下ろした次の瞬間、二つの腕に肩を掴まれた。
「待ちなさい未来!一人でコンビニなんて行っちゃ駄目よ」
「そうだよ!また迷子になったらどうするの?そもそもどこにコンビニがあるか知ってるの?」
 鬼気迫る二人の態度に面食らいながらも答える。
「どこにあるかは分からないけど歩いて十分かそこらでしょ?なら適当に歩けばたどり着けるでしょ!」
 大丈夫だと自信満々に答えてみたが、環と茉莉奈の制止の声は止まない。
「未来は自分がどれだけ方向音痴か分かっていないのね。こんなところで迷子になったら……それはもう、遭難と同じよ」
「卒業旅行で警察のお世話になんてなりたくないよね?だったら一人でコンビニに行っちゃ駄目」
「……大げさじゃない?」
 とても来春から社会人になる成人女性に向ける言葉ではない。一瞬悪ふざけかと考えたが、二人の瞳を見るに本気だ。本当に未来がすぐ近くのコンビニに辿り着くことなく、迷子になると思っている。
「……分かったよ……一人でコンビニへ行かないよ」
 渋々頷くと二人は心底安心したようで、肩の力を抜いた。
「少しだけ休憩したらコンビニに連れていってあげるから。ちょっとだけ待っていてくれるかしら?」
「……了解」
「うん、良い子」
 環と茉莉奈がまるで犬を褒めるかのように頭を撫でてきた。その感触がなんだかこそばゆくて未来はひっそりと背筋を震わせた。


19



「じゃあそろそろ行こうか」
 三十分ほど過ぎたころ、窓側に設置されている椅子に座っていた環が言う。その言葉に畳へ寝そべり、スマホを弄っていた未来は飛び起きる。
「行こう!お腹すいた!」
「片付けも終わったしね。行こっか」
「よし、貴重品だけ持って行こう」
 環と茉莉奈は片手にスマホ、財布のみという軽装で玄関に向かう。一方未来はスマホや財布、モバイルバッテリー、化粧ポーチにハンカチなどなど……荷物が詰まったリュックを背負う。コンビニに行くにしては重装備すぎる姿に二人は眉を顰める。
「未来……そんなにたくさんの荷物は必要ないでしょう」
「お財布とスマホだけで十分だよ。手に持つのが嫌ならポケットに入れればいいし」
 二人の指摘とアドバイスに首を横に振る。
「念のためだよ。もしかしたらいきなりスマホの充電が切れるかもしれない、急にポーチの中に隠してあるアレが必要になるかもしれない、なぜか手や身体に水滴が付着して拭いたくなるかもしれないし……。無限にある可能性を考慮しているんだよ」
「……」
「……」
 用心深いのか極度の心配性なのか、それともただの馬鹿なのか判別しづらく環と茉莉奈は口を閉ざしてしまった。
「それじゃあコンビニへゴ―!」
 薄汚れたスニーカーを履き、意気揚々と部屋を飛び出す未来。まぁいいかと二人も後に続く。
 扉を閉じれば自動的に鍵が掛かる仕組みとなっているので、しっかりと扉が閉まったことを確認すると三人は歩き出す。高価な調度品で彩られた通路とロビーを通り抜け、宿に出る。さっきはすぐに室内に入ったから感じなかったがやはり長野の冬は寒い。大阪の冬なんて比べ物にならない。
「あぁ……本当に寒いね」
「そうね、でも歩いていたらそのうち慣れるわよ」
「今日は最高気温も最低気温も例年より高いみたいだよ」
「えぇ……てことは例年の長野はもっと寒いってことか」
「そうよ、だからこれくらいの寒さで弱音を吐いちゃ駄目よ」
「そんなこと言われても……」
 長野の寒さにぶつくさ文句を言いながら足を進めていくと、「○○コンビニはこちら」と書かれた看板が現れる。
「あ、こっちを右に行けばいいね」
 茉莉奈が先頭を歩き、正しい道順を示す。
「思っていたより近そうだね。これなら私一人でも行けたんじゃないかなぁ」
「それはないわ」
「それはない」
「うっ……」
 二人から同時に突っ込まれてしまい、二の句が継げなくなる。
(人よりも地図を読むのが苦手なのは自覚していたけれど、他人から見たらもっと重症なのか)
 だんだん自分が如何に矯正不可能な方向音痴なのか気づき始める未来だった。


 看板を見つけてから十分ほど歩くと、漸くコンビニが視界に入る。
「あった!」
「やっぱり数十分かかったわね……」
「まぁ田舎……じゃなくて山奥だから仕方ないよね」
「……それを田舎って言うんじゃないの?」
「未来、うるさいよ」
「……」
 どうにも二人は「田舎」という表現に厳しい。この土地に住んでいる人々に配慮でもしているのか?もしそうだとしたら自分も見習う必要があるのかもしれないが……どう見たってここは田舎だ。紛れもない田舎。絵に描いたような田舎。
(別に悪い意味で田舎って言ってるんじゃないのにな~。だってこのご時世、観光資源に出来るぐらいほどの綺麗な星空が見られるところは間違いなく田舎だよ……)
 脳内で「田舎」と評価することを決して許さない環と茉莉奈に反論していると、背後からいきなり腕を掴まれた。
「うわっ!!!」
「ちょっと、大きな声出さないで」
「後ろから突然掴まれたら誰だって大声だすよ!」
「あー、ごめんごめん。でも仕方ないでしょ、未来がコンビニを素通りしようとしたんだから。あんなに渇望していたご飯を買わないつもり?」
「え、嘘」
 ハッとして前を見ると、コンビニも民家もない道路が広がっている。チラリと後ろを振り向けばそこには未来が恋い焦がれていたコンビニがいた。
「違うこと考えていたから気づかなかった!」
「馬鹿ねぇ、ほら行こう」
「あれ、茉莉奈は?」
「寒いから先に入っていったわよ」
 環が指さす方向を見やると、すでに店内で商品を物色している茉莉奈がいた。
「それじゃ私たちも早く店内へ!」
「……ちょっと」
 環の手を振り払い、暖かい店内と美味しいご飯を目指して突っ走る。


 店内に入ると暖かい空気が冷え切った未来の身体を優しく包み込む。
「はぁ……暖かい」
 暖房という文明の利器に感謝しながらお弁当、総菜コーナーに向かうと茉莉奈がすでにいくつかのお弁当とおにぎりを小脇に抱えていた。
「何か目ぼしいモノは見つかった?」
「あ、未来。うん、何個か美味しそうなモノがあったからキープしてる」
 茉莉奈がどんなモノをキープしているのか確認する。
「どれどれ?あぁこのおにぎり美味しいよね!私もよく買うよ。後は……あ、そのお弁当は食べたことないや」
「未来ってこのコンビニチェーンよく利用するの?」
「うん、家の近くにもあるしバイト先の近所にもあるからね~。それに大学の最寄りコンビニもここじゃない」
「私はここじゃなくて△△コンビニをよく利用するから、ここの商品は詳しくないんだ」
「なるほどね、ここはお弁当、総菜に力を入れているから基本的に外れはないよ!」
「そうなの?じゃあこのお弁当とおにぎりにしようかな」
「うんうん、そうしな!さーて私は何にしようかなぁ」
 商品棚を見渡す。中途半端な時間帯だから在庫切れでもしていないかと不安だったが、杞憂だった。さきほど補充したばかりなのか所狭しと並べられた食べ物を前に未来はペロリと唇を舐め、手を擦る。未来にとって食べ物を選ぶという行為はとても大事なことだ。この選択に失敗は許されない。
(さぁ……私はどれを選ぼうか……!)
 真剣な眼差しで商品を吟味していると、いつの間に追いついたのか環が横に立つ。
「どれもこれもカロリー高そうねぇ」
「またカロリーの話?そこまで神経質にならなくていいんじゃないの」
「そうは言ってもねぇ……」
 気になる商品を手に取りながら環とカロリーがどうだ、美容に悪いだとか言い合いをしていたら会計を終えた茉莉奈が声をかけてくる。
「私はもう買って来たけれど二人はまだ決めてないの?」
「ちょっと待って!もうすぐ決まりそう!」
「私はこのサンドイッチだけでいいわ」
 ひょいと未来が持っていたサンドイッチを横から奪うと環は何食わぬ顔でレジに向かっていった。
「あれ、ちょっと、……私が買おうと思ってたやつ……」
「ドンマイ」
 気の毒そうな表情で茉莉奈が肩を叩く。
「……仕方ないね、人生はサバイバルだから……現実を受け入れるよ」
「そうだね、それで未来は何にするの?」
「うーん、このエビフライ弁当とおにぎり二つと……コロッケパンにしようかと悩んでいるところ!本当はここにさっき環に盗られたサンドイッチも加わるはずだったけどね……」
 自分が買おうとしている商品を見せると、茉莉奈は信じられないモノを見るような瞳で未来を見てくる。
「その顔は何?まるで幽霊を見たような顔をしているけれど」
「食べ過ぎだよ!未来のキャパシティから考えるに全部食べ切れると思うけれど、晩ご飯もあるんだよ?晩ご飯は懐石料理だから量があるし……今満腹になったら思う存分楽しめないよ」
「でもまだ十四時だよ。晩ご飯は十九時でしょ?余裕余裕」
「……後十分ほどで十五時になるけど……」
「ふむ。それでも晩ご飯まで時間はあるから大丈夫だよ!」
「……」
 納得がいかないのか茉莉奈は腕を組み、未来を睨みつける。一体なんなのか。食事くらい好きに食べさせてほしい。茉莉奈は私のお母さんか!
「もう、茉莉奈は私のお母さんなの?」
「未来のことは好きだけど、未来みたいな子供はちょっと……嫌だね」
「嫌なのかよ……」
「とにかく食べ過ぎよ。エビフライ弁当を諦めるか、エビフライ弁当だけにしなさい」
「ん~……」
 究極の選択を迫られ未来は悩む。
(エビフライを捨てるか、エビフライを選ぶか……)
 エビフライ弁当を凝視しながらうんうんと唸っていると、コンビニ袋を片手に環が戻ってきた。
「うわ、まだ決まってなかったの?」
「茉莉奈が意地悪するから……」
「未来が優柔不断なのがいけないのよ」
「優柔不断……」
 その言葉に一瞬胸がチクリと痛んだが、無視をする。きっとろくでもないことだ。
「確かに未来って優柔不断なところもあるかもしれないわね。普段はどちらかというと決断力があるけれど、ある状況下ではなかなか白黒つけないというか……つけられないというか」
「あーもー、優柔不断って何度も言わないでよ」
 優柔不断と言われる度に湧き上がる違和感に気づきたくなくて、話を必死で遮る。
「そういうなら早く決めなよ」
「それは……ちょっと……」
「もう私が決めるわよ」
「えっ」
 未来が持っていたエビフライ弁当を取り上げ、おにぎり二つとコロッケパンを押し付ける。
「はい、未来はこれを食べるのよ。拒否権はなしよ」
「環ってば強引―」
「もうそれでいいじゃない。ほら、早くお会計してきて」
「……はーい」
 渋々レジに行き、お金を支払う。どうでもいいことだがここの店員は驚くほどにやる気がなかった。声も小さすぎて何を言っているのか分からないし、何より覇気がない。
(まぁコンビニ店員なんてみんなこんなモノか。それにこんな田舎だったら暇だろうしね。お疲れ様だよ)
 やる気も覇気もない店員からお釣りと商品を受け取ると、二人の元に戻る。
「ただいま」
「はい、おかえり」
「じゃあ宿に戻ろうか」
 コンビニを出てまた冷たすぎる空気に包まれながら、来た道を戻っていく。


 宿が見えてきたあたりで未来は何かの標識を見つける。
「どれどれ?」
 看板に近づき、そこに書かれている文字を読み上げる。
「星の楽園メイン会場行ゴンドラ乗り場はこちら」
「ん?」
「どうしたの未来」
 急に立ち止まった未来の元に二人が近づく。その二人に未来は無言で看板を指さす。
「女将さんが言っていたやつだよね?」
「あれね、どうやって山に登るのか不思議だったけれどゴンドラがあったのね」
「やだ、二人とも気づいてなかったの?ゴンドラが運行していることなんてすぐに分かるでしょ」
「え、茉莉奈は知ってたの?」
「上を見てごらんよ」
 茉莉奈の言葉を聞き、吸い寄せられるように空を仰ぎ見る。するとそこにはロープウェイが山頂に向かって伸びていた。
「うわ、本当だ」
「気づかなかったわ……」
「嘘!?」
 こんなにも目立つのにどうして気づかなかったのか、理由は簡単。未来は夜空にしか興味がないから。昼の空はあまり好きではないので、日ごろから日が射している間に空を見ることなんてほぼない。夕闇の空だったり天気が悪い日の日没直前の空だったりは好きだから見上げるが、今はまだ空が明るい。そのため未来は長野に到着してからまともに空を見上げていなかった。
「それでこのゴンドラはいつ運行しているのかしら?」
「星の楽園が開催されている期間だけだって。時間は十八時から二十三時までって書いてあるよ」
 茉莉奈がスマホとパンフレット、看板に書かれている情報が本当に合っているかどうか確認しながら話す。
「ということは今の時間が十五時だから運行してないんだね」
「そうみたい。でも日中は登山客が結構訪れることでも有名みたい」
「つまりゴンドラがなくても登れる山ってことね」
「そうだろうね、だってそこまで高くないし……ほら、道だってちゃんと整備されてる」
「山の上で星空を楽しんでほしいけれど、夜の山道は危険だからゴンドラを用意したってわけだね」
 青い空を背景にロープウェイが風に揺れる。とても冷たく、身体の熱を奪う冬の風だが妙に心地よい。頭をスッキリと覚醒させてくれる風。
(寒くて仕方ないけれど……この風に当たるのは悪くない)
 目を瞑り、風を全身で浴びていると二人に声をかけられる。
「じゃあ宿に戻るわよ」
「そんなに強くないけれど風も時折吹いて寒いしね。ほら、行こう?」
「……」
 チラと山を見る。中腹あたりに登山ルックのおばさまとおじさんの集団が目に入る。進む方向を見るに今、まさに登っている最中のようだ。登山ルックとはいっても軽装だし、大層な荷物を持っているわけでもない。それによくよく見てみると、未来たちのような普段着の若者も登っている。
「よし……」
 せっかく長野まで来たのだ。どうせなら宿の中ではなくその土地を楽しまなくてはならない。
「ねぇ、二人とも!」
 興味が失せたのか看板の傍を離れ、数歩先を歩く環と茉莉奈を呼ぶ。
「なに」
「どうしたの?」
「私たちも登らない?そこでご飯食べようよ」
「は?」
「いきなりなに?」
 二人とも不可解そうな表情だ。しかしそんなこと気にしないで続ける。
「せっかく長野まで来たのに宿で時間を潰すなんて勿体ない!どうせならその土地で、その土地ならではの経験をしないと」
「……未来の意見はごもっともだけど、それがどうして今からあの山でご飯を食べることに繋がるのかしら?」
「その土地ならではの経験って……晩ご飯食べ終わったら星空観賞に行く予定じゃない。どっちみちその山には登るのだから別に今じゃなくてもいいんじゃないかな」
「確かに夜になったら登るよ、この山に。でもさ、それだと夜の姿しか楽しめないじゃない。折角だし昼間の山も堪能してみようよ」
「……」
「……」
 環と茉莉奈はどうしたものかと顔を見合わせる。愛する未来の望むことならなんだって叶えてやりたい。でも今から山を登るのは正直面倒くさいし、なにより寒い。こんな寒空の下でご飯なんて食べようものなら風邪を引くかもしれない。自分たちが風邪を引くのはいいが、未来が風邪を引いてしまっては元も子もない。未来のために日本で一番夜空が綺麗だと言われる阿智村に来たのに、未来が喜ぶ姿を見たくてここまで来たのに、最初で最後の卒業旅行なのに……。
「茉莉奈、どうする?」
「どうするって言われても……私たちが本気で寒いから嫌だ!って拒否したら諦めてくれそうだけど」
「どうかしら……じゃあ一人で行ってくるとか言わないかしら?」
「あー……言いそう……」
「ここは未来が望むことを叶えてあげた方が賢明かしらね。それに未来がこうやって我儘を言うなんてこと、基本的にないしね」
「……つまり未来に信頼されている私たちだけの特権ってことか……。そう考えると気分がいいね」
「茉莉奈も大概単純で助かったわ」
 話し合いを終えると二人はいまだ看板のすぐ傍に突っ立っている未来の元へ歩み寄り、手を掴む。
「うわ、何?まさかこんな寒い中野外で飯なんて食ってられっか!いいから宿に戻るぞ!って強制連行するつもり?」
「そんなことしないわよ。ほら、歩きなさいよ。登るんじゃなかったの?」
「いいの?」
「いいよ。でも寒くて堪らないのは本当だからもし風邪を引いても責任は未来がとってね」
「……それは無理かなぁ」

 二人の間に挟まれながら山に入る。
「スロープがちゃんとあるし、手すりもある」
 綺麗に手入れされている様子の手すりを撫でながら駆け足で登っていく。耳を澄ませば他の登山グループたちが談笑している声も聞こえてくる。
「気づいてはいたけれどこの山、本当に低いわね」
「よっぽど体力がないとかじゃない限りは十五分かそこらで山頂に辿り着けそうだね」
 おっしゃる通りここは低山だ。お蔭で快調に進むことが出来ている。
「よし、ご飯が冷める前に山頂に向かうぞ!」
 冒険隊長よろしく先頭を切っていく。
「ん?未来って何か暖めてもらったの?」
「コロッケパン」
「……茉莉奈は?」
「私は結局おにぎり二つだけ買ったから暖めてもらってないよ」
「なんだ、じゃあ急がないといけないのは未来だけね」
 自分たちが急ぐ理由はどこにもないと分かると二人の歩く速度が急激に落ちていく。
「駄目だよ、そんなスローペースじゃあ私のコロッケパンが冷たくなっちゃう」
 環と茉莉奈に喝を入れ、三人は緩やかな山道をひたすら登っていく。


「着いたー」
 あれから数十分ほど整備された登山道を歩きつづけ、三人はついに山頂に辿り着いた。イベント会場として利用されているだけあり山頂はとても広く、山とは思えないほどに設備がちゃんとしていた。星の楽園開催中に使用されているらしい望遠鏡が十数台横一列に並べられ、その近くには大勢の人がのんびりと星空を楽しめるように配慮されたベンチと見晴らしのよいテラス席のカフェもある。さらに辺りを見渡すと山にありがちな木材で作られたモノではなく、星空とマッチするようにダークブルーを基調としたベンチがあちこちに設置されている。恐らく色んな角度から星空観賞をさせるためだろう。
「想像していたよりちゃんとしているね」
 ほうと感心したように声を漏らす。よく観察してみるとお手洗いもあった。しかも田舎でよく見かける汲み取り式トイレなんかじゃない、今どきの技術が集結されたシステムトイレだ。
「こんなに綺麗なトイレもあるなんて……ここは星空で大分儲けているみたいね」
「そうみたい……町おこしの成功例だなぁ」
「……お金の話はやめようよ。それでどこで食べる?」
「うーん」
 時間はすでに十五時半を過ぎている。そろそろ食べないと晩ご飯時に支障が出てしまう。
「どこにしようかなぁ」
 キョロキョロと周囲を見やる。未来たちよりも先に山頂に到着していたおばさまとおじさまグループは地面にレジャーシートを広げて手作り弁当に舌鼓を打っている。未来たちと同年代と思わしきグループは望遠鏡が整列してある付近に置かれているベンチに腰掛け、サンドイッチを頬張っていた。
「あっちに行こう」
 出来れば人が少ない場所が良い未来は団らんの時間を楽しんでいる二グループから離れたベンチに足を進めた。
「ここらへんは私たちしかいないから良いね」
「……大分端の方に来たわね」
「さっきの人たちが豆粒……いやお手玉?サイズに見えるね」
 未来たちは山の端にひっそりと設置されていたベンチに腰を下ろす。人気がない分ちょっぴり寂しいがこの方が落ち着く。
「さぁさぁ、食べよう!」
「いただきます」
「いただきまーす」
「お、コロッケパンがまだ暖かい。やったね!」
「良かったわね」
「あ、ゴミは袋にちゃんと纏めといてね」
「はいはーい」
 夜になったら宇宙空間をイメージしたライトアップがされる山の、昼にしか見せない姿をおかずにコンビニで買って来たご飯を貪る。
(あぁ……いいな)
 冬独特の身を切るような冷たい風に目を瞑り、澄み切った空気を肺いっぱいに吸い込む。
(このライトアップ前のもの悲し気な雰囲気も好きだなぁ)
 決して明るくもなく、誰かを照らしだすような力強さがない冬の山。でもそんな姿が未来は好きだ。物言わぬ木々に自分の心に大事に隠している何かを刺激するような冷たい風……。全てを見透かしながらも見守っていてくれているような安心感がある。
(だから星空が好きなんだよね)
 星空は夜を照らす。しかしその光は途方もない時間をかけて未来たちに届けられている。そしてその光を放っている星はもしかしたらもう命が燃え尽きた後かもしれない。そんな強い存在感があるのに儚いなにかを抱えた星空を未来は愛している。
(それに昼間の光よりも星の光の方が優しいよな。人間が他人に見せたくない部分を隠しつつも、しっかりと人間を照らし出す。その光に照らされた人間は勇気を与えられる……だから夜になったら秘密を誰かに打ち明けてもいいような気持ちになるんだ)
 一人で勝手にセンチメンタルな考えに浸りながら黙々とコロッケパンとおにぎりを平らげる。


「みんなもう食べた?」
「うん、ごちそうさま」
「私も、ごちそうさまでした」
 環と茉莉奈の手元を覗き込む。
「何?」
「いや、二人とも完食したんだなぁって」
 もしも残っていたら貰おうと思っていた未来は落胆する。
「未来……どこまで食い意地が張っているのよ」
「あ~そういうことだったの。言ってくれたら残したのに」
「次からは残り物予約しとく……」
「それは残り物って言うのかしら……?」
 未来のよく分からない提案に環は首を傾げるが、それほどまでに未来の食欲が凄いということなのだ。
「さて、食べたから宿に戻ろうか」
 コンビニの袋にゴミを纏め終えた茉莉奈がベンチから立ち上がる。
「そうね、いい加減寒いし」
「もうちょっと山を堪能したいけれど、晩ご飯の後にまた来るからいっか」
「うん、それに十九時回ってからの方が絶対に綺麗だから今はもういいよね」
「星の楽園っていう名の星空観賞イベントだからね。あ、イベントの時間になったらここら一帯もライトアップされるらしいわよ」
「そうみたいだね。それなら尚更今じゃなくて夜が本番ってことか」
「当たり前じゃない!未来のために星空が綺麗なここに来たんだから……」
「そうよ、だから未来が楽しむべき時間はまだよ。夜が本番なんだから」
「そうだね!あ~楽しみだな。その前に晩御飯も楽しみだね。早く食べたい」
「……」
「……未来の食欲は底なしだね」


20



 山を下りてから宿の周辺、宿の共用施設探索をしていたらあっという間に晩ご飯の時間を迎えた。部屋に戻りしばらく大人しくしていると、女将さんが来て恭しく挨拶をする。
「ではごゆっくり」
 一通り挨拶と今夜使用している食材の説明、味わい方をレクチャーし終えると料理が続々と運び込まれる。
「うわぁ……これはすごい」
「本当は一品ずつ持ってきてもらうんだけど未来が待てないと思ってね……一度に持ってくる料理の数を増やしてもらったのよ」
「そうだったの……それは、その……なんかすみません」
 自分の食い意地が張っているばかりに女将さんや宿のスタッフ、調理人にお手数をかけてしまい申し訳なく思う。しかしそこはプロ、女将さんは嫌味も言わずににっこりと人好きのする笑顔で答える。
「いえいえ、お客様が美味しく食べて下るだけで私たちは幸せですので」
「さ、そんなわけだからさっそく食べよう」
「そうね、食べ終わったら星の楽園にも行くんだからね」
「うん、いただきます!」



「あ~美味しかった~」
「本当に美味しかったわね」
「思っていたより量があったのには驚いたけどね」
「いや、ちょうど良かったよ!これなら夜食は必要ないかな」
 お腹いっぱいご馳走を堪能した未来は心持膨らんだお腹を撫でる。
「ん~今何時?」
「えーと、二十時半ね」
「……星の楽園は何時まで?」
「二十三時半までだよ」
「じゃあ急がないと!」
 座椅子にだらしなく身体を預けていた未来は慌てて起き上がろうとしたが、限界まで膨らんだお腹が悲鳴を上げる。
「いきなり動いたから……あいたた」
「もう、だから食べ過ぎるなってあれだけ言ったでしょう」
「でも……美味しい料理を残すだなんて己のプライドが許さなかったんだよ」
「はぁ、もう過ぎたことだからいいけどね。少なくとも数十分は安静にしとかないと。今動いたら最悪……あれだよ」
「……それだけは避けないといけないなぁ」
「でしょ?だから少し横になっときなよ。二十一時前になったら起こすから」
「うーん、お願いするよー」
 茉莉奈の好意に甘え、畳に寝転がる。
(あ、そういえば夜は登山じゃなくてゴンドラに乗っていくんだっけか……)
 寝転んだまま窓に顔を向けると昼間に登った山が仄かに青白く光っているのが目に入る。そして昼間は稼働していなかったゴンドラが熱心に働いている姿もよく見えた。
(よーく見てみるとゴンドラにどんな人が乗っているかどうかも分かるな。……ん、あのゴンドラにもあっちにも人が乗ってる。ふむ……どうやら今日は大盛況らしいね)
 ゴンドラに乗りながら感動した様子で星空を指さす子供、高価そうなカメラでシャッターを夢中で切る白人男性、星空を眺めながらイチャイチャしているカップル。みんながそれぞれ、自分たちだけの世界に浸りながらもみんな同じ星空を見つめている。
(……家族連れでも一人でも、恋人同士でも星空は平等に優しく照らしてくれる。だからみんなは安心して自分たちだけの……他者には立ち入ることが出来ない世界に引きこもれるんだよな)
 だんだん遠ざかっていくゴンドラ。あそこにいる人々は今から星の楽園に辿り着く。きっとその楽園と呼ばれる山頂は昼とは全く違う表情を見せてくれているだろう。事実部屋から見える範囲だけでも大分昼とは違う姿を見せてくれている。
(あの薄らと蒼く光っているモノは木々に巻き付けられていたLED電球かな?明かりが灯っていない状態とだとみすぼらしい印象だったけれど、こうして見ると美しいね)
 ぼんやりと絶賛消化活動中のお腹に手をやりながら、近いながらも遠い星の楽園を観察していると不意にLEDが消え、山は闇に包まれてしまった。
(……ん?)
 じっと闇を見つめていると未来はあることに気づいた。光が消えた瞬間は真っ暗闇が訪れたように見えていたが、闇なんてどこにもないことに気づいた。
(まさか……人工的な光がなくてもこんなにも明るいなんて)
 空に目を向けるとそこには幾多の星が山を、道を、人々を照らし出す。
(私たちの部屋からでもハッキリ見える)
 赤く燃え盛る星、青白く弱弱しく光る星、遠近感を狂わせるほどに大きな星……。一つ一つが違う顔を持った星たちが、一人一人違う顔を持った私たちを照らしている。そのことがなんだかとても素敵で、奇跡に近い出来事だと感じた。
(部屋からでもこんなに綺麗に見えるのだから、外で見たらもっと……)
 じっと窓の外の世界に夢中になっていると、山がまた青く光りだした。
(あ、そっか、そういうことか。何十分か置きにああやってライトアップを消すんだな)
 作られた光を全て消すことで自然の光、星の光を堪能してもらおうってことだ。そんなに星空に注目してほしいなら最初からライトアップなんて必要ないじゃないかと少しだけ思わなくもないが、敢えて人工的な光を見せることが肝なのだろう。人工物と自然との対比をさせたかったに違いない。
(いやぁ、このイベントを考えた人は策略家だね。ライトアップされていても星の光はちゃんと見えるように調節もしてあるし。凄腕だね)
 うんうんと一人、星の楽園イベントを企画した人に感心していると環に叩き起こされる。
「いったぁ」
「行くよ」
「え」
「星の楽園に行くって言っているのよ。ほら、準備して。あ、向こうのトイレは混んでいる可能性が高いからトイレは部屋で済ませておきなさいよ」
「お、もう二十時五十分か!了解~」
「用意出来次第行くからね」
「うん、すぐに済ませるよ!」



 部屋のトイレで用を足し、貴重品だけを詰め込んだリュックを背覆った未来たちはゴンドラの待機列にいた。列といってもそこまで混雑はしていない。未来たちの前にアジア系だと思われる外国人一家と壮年の訳あり風なカップルが並んでいるだけだ。そして未来たちの後ろには天文学に精通してそうな年若い女性たち。みんな揃って難しそうな専門書を携えている。
「このゴンドラって何人乗りかな?」
「正しい人数制限は分からないけれど、十人は乗れそうじゃない?」
「うーん、さすがに何人まで乗れるかまではHPにも載っていないけれど、環の言う通り十人ぐらいが限度じゃないかな」
「そっか」
 前に並んでいる人数を数える。
(外国人家族はお父さん、お母さんと子供一人の三人家族……目の前にいる不倫という言葉が似合いそうなカップルが二人に、私たち三人……。ここまでで合わせて八人か)
 次にくるりと出来るだけ不自然にならないように後ろを振り向き、女性グループの人数も数える。
(ふむ、五人かぁ。これは外国人家族と怪しいカップル、私たちの組み合わせで乗ることになるかな)
 背後で静かに盛り上がっている女性たちに聞こえないように二人に耳打ちをする。
「あのアジア系一家とカップル、私たち合わせて八人だよ。ということは次にゴンドラが来たら私たちが後ろのグループより先に乗れるね」
「そうね、寒空の下でゴンドラを何十分も待つのは耐えられないから早く乗りたいわ」
「そうは言ってもゴンドラから降りたらまた寒空の下に放り投げられるんだけどね……」
 マフラーのようでありながらマフラーではないモノに顔を埋めながら環が不満を漏らす。
「環ってばイライラしないの」
「うるさいわよ、そういう茉莉奈はどうなの?私は寒さにおかしくなっちゃいそうだわ」
「私は雪国出身だから耐えられるよ」
「さすが!私は暑さにも寒さにも弱いから憧れるわー。あ、それより環が首につけているマフラー? 布 ?暖かそうでいいね」
 手を伸ばし環の首に巻き付いているモコモコに触れる。中にカイロが仕込まれている訳でもないのにとても暖かい。
「いいでしょうこれ。後、これはマフラーじゃなくてスヌードって言うから覚えときなさい」
「スヌード? 変な名前だなぁ。なんか北欧にいるモンスターの名前みたい」
「北欧にもそんなモンスターというか妖怪みたいなのがいるの?」
「さぁ? 知らない。でもフィリピンにカバそっくりな妖精の物語があるくらいだからいると思うよ」
「あぁ、なるほど……」
 しばらくの間環のスヌードで手を温めていると誰も乗っていないゴンドラがやって来た。
「あ、ゴンドラ来たよ」
「私たちも乗れるといいけれど」
「乗れると思うけどね、まぁ係員さんの判断次第か」
 係員がゴンドラの扉を開き、列の先頭にいた外国人一家を中に招き入れる。次にその後ろに並んでいたカップルを乗せる。そして未来たちを一瞬視界に捉えた後、ゴンドラに乗っている人数と未来たちの人数を数える。
「はい、お待たせしました、どうぞ。次のお客様は申し訳ございませんがもうしばらくお待ちください」
 予想通り未来たち、外国人家族、カップルが同乗することになった。
「お邪魔します」
 気持ちの良い笑顔でゴンドラに案内をしてくれる係員に会釈をし、ゴンドラに乗車する。
「おお~いいね~」
「あら、外からは気づかなかったけれど内装も拘っているのね」
「窓も大きいから空がよく見えるね」
ゴンドラの中に足を踏み入れた瞬間未来たちは感嘆の声を上げる。外から見ていたときは少し大きめのただのゴンドラだと思っていたが、乗ってみると驚いたことにゴンドラ内部も星空をイメージされたデザインが施されていた。足元は勝色で照らされ、天井は限りなく白に近い青色が乗客の頭部を照らしている。この二つ以外の照明はないので決して明るくはないが、乗っている人の顔はちゃんと確認出来るし何よりも星空がよく見える。
「まさしく星の楽園行きって感じ」
 優しく幻想的な光に見惚れているとゴンドラの扉が閉まり、アナウンスが流れる。
『では出発致します。お手元の手すりを掴むか、備え付けられている椅子にお座りください』
 次に日本語と同じ内容の英語アナウンスが流れる。アナウンスを合図にゴンドラに乗っている人たちは出発に備える。未来は少しでもゴンドラからの星空を見たかったので、後面の窓の前に立つ。環は未来が立っている場所から近い椅子に座り、茉莉奈は未来の隣に立つ。後ろの景色を自分たちが独占してもよいものか不安になり外国人家族の姿を探すと、彼らは前面の窓の前におり家族みんなが笑顔でゴンドラからの景色を楽しんでいる。その様子に思わず頬が緩んだ。
(可愛いなぁ……あ、カップルはどこだ?私たちが邪魔になっていたら申し訳ない)
 ゴンドラ内部を見渡す振りをしながらカップルを探すと、二人は側面の窓からの景色がよく見える場所にあった椅子に大人しく並んで座っていた。この様子なら未来たちはカップルの視界の邪魔にはなっていない。
(よし、誰の邪魔にもなってないね。では私たちはここからの眺望を到着するまで堪能しようか)
 もう一度外に目をやり、手すりを握る。その瞬間ゴンドラが大きく揺れたかと思えば、地上がだんだん遠ざかっていく。ついに出発だ。
(おお……凄い……!ゴンドラに乗ったことは何度かあったけれど夜のゴンドラは特別だね)
 ゆっくりと山に向かうゴンドラからの眺望はただただ美しい。未来たちなんかよりもっと、もっともっと上にあるはずの星々と同じ目線に立っている錯覚に陥ってしまう。
(星たちはもっと高く、遠い場所にいることは分かっているけど、ほんの少しでも近づけた気分だ)
 ゴンドラが上昇するにつれ、未来たちの周りは星たちで溢れる。どこを見ても視界が星で埋め尽くされる。まるで万華鏡のようだ。
(凄い……なんだかこのまま宇宙まで飛んでいけそうだぁ。そして自分も星にでもなれそうな気分)
 手を伸ばせば届きそうなほどにハッキリと、クッキリと存在感を放つ星たち。
「……」
 想像よりも遥かに美しいゴンドラからの眺めに言葉を忘れ魅入っていると、隣に立つ茉莉奈が小声で話しかけてくる。
「ねぇ、未来……どう?」
「どうって……最高だよ!ゴンドラからの眺めなんて大したことないと思っていたけど、そんなことないね。最高に綺麗だよ」
 興奮気味に答えると安堵したのか茉莉奈は微笑む。
「喜んでもらえて良かったよ。未来が天体に興味があることは事前情報で知ってはいたけれど、果たして満足させてあげられるか不安だったから」
「不満とかあるはずがないよ。というか阿智村を旅行地に選んでくれただけで満点だね!ここは本当に星空が綺麗って有名だからさ」
「そうみたいだね。あまり星とかには詳しくないけど、インターネットで星空が綺麗な観光地を探していたら阿智村をオススメする人がたくさんいたから」
「いや~やっぱり評価の高い観光地はそれだけの価値があるってことだね」
 わいわいと茉莉奈とゴンドラからの風景を眺めながら盛り上がっていると、ずっと黙っていた環が口を開く。
「はしゃぎすぎよ」
 茉莉奈と未来だけで盛り上がっている様子に拗ねてしまったのか、口調がちょっぴり刺々しい。
「そりゃ、はしゃぐよ。ずっと行きたいと思っていた星の楽園に来られたんだから」
「環ってばもしかして拗ねているの?子供っぽいよ」
「……違うわよ」
 茉莉奈の挑発にムッと眉を寄せる。
「メインはゴンドラじゃないから、はしゃぎすぎるなって言いたいのよ」
「あ~まぁそうなんだけどね……それでもテンションがあがっちゃって」
「というかさっきから環は楽しくなさそうだね?」
 茉莉奈の言葉にそういえばそうだなと環を見る。ゴンドラからの眺めに心を躍らせている未来と茉莉奈とは違い、環の反応は薄かった。椅子に座り無表情で外を眺めているだけだ。
「……楽しいわよ、普通に綺麗だなぁって思うし」
 何故か未来を見つめてくる環に首を傾げる。
「そう?なんか私から見ると環の反応が薄すぎて寂しいというか……あ!環ってあんまり天体に興味ない?」
 今更なことを質問してみると環が困ったように視線を逸らした。これはビンゴだ。茉莉奈は人並みに星空に興味を抱いているが、環は全くの無関心だ。夜空に星が光り輝いていようがいまいがどうでもいいのだろう。
「もしそうなら申し訳ないね。興味ないのにここまで旅費を出させて」
「違うわ、決して嫌いとか無関心ではないのよ。ただ……未来みたいに星の魅力にまだ気づけていないだけなの」
「気づくもなにも見ているだけで魅了されるはずだけどね。それに未来が好きなモノならなんだって好きになれるんじゃない?」
「……茉莉奈は黙っときなさいよ」
「ふむ」
 自分が好きだからといって他人もそれを好きだとは限らない。そんな当たり前のこと、未来だって知っている。だから普段は自分と趣味が違う人がいても押し売りしたり、魅力を語ったりしないが今日は特別な日。卒業旅行、最初で最後になるかもしれない三人での旅行だ。だからほんの少しでもいいから星の魅力を環にも知ってほしいと思う。だって今から向かう星の楽園を心から楽しんで欲しいし、良い思い出として残してほしい。
「よし!なら私が星の楽園に着くまで星の魅力についてプレゼンしてあげる」
「……プレゼン?」
「それはいい提案だね。私も未来ほど星に詳しくないから是非聞きたいね」
「でしょ?じゃあ環もこっち来て」
 環の手を取り、椅子から立ち上がらせると横に立たせる。右には環、左には茉莉奈。両手に花だ。
「ふふん、両手に花ってやつだね」
「ちょっと意味が違うと思うけれど……未来も私たちも女だし」
「環ってば頭が固いよね。この言葉は良いモノを二つ同時に手に入れたときにも使えるのよ」
「……あっそう」
「こらこら、いがみ合わないの。じゃあ外を……特に空を見て」
「うん」
「分かったよ」
 環と茉莉奈は睨みあいを中断し、未来の言葉通りに目の前に広がる空と星の光により明るく照らし出されている地上に目を向ける。
「……うわ、凄いわね……」
 今になってしっかりと外を見た環は感心したように声を漏らす。ネオンの光で溢れかえる都会の夜とは違い、星という人間の手が加えられていないモノが街並みを明るく照らし出す光景に環は驚きを隠せない。まさかこれほどまでに星の光が明るいだなんて思ってもいなかった。
「……ちょっと侮っていたわ」
 ぼんやりと呟く環に未来は嬉しそうに笑い、二人に星への想いを語り始める。
「星ってとても神秘的だと思っているんだ。肉眼でしっかりと彼らが放つ光を確認出来るのに、その光の発生源である星は遥か遠く……気が遠くなるほど遠い場所にある。それに地球に光が届いているからってその星が今も存在しているとは限らない。もしかしたらとっくに跡形もなく消え去っているかもしれないんだよ」
 じっと他の星よりも赤く、強く輝いている星を見つめる。環と茉莉奈も釣られてその星に視線を送る。
「私は天文学に精通しているわけじゃないから、あまり真剣に聞かなくてもいいんだけどね。青く光る星は比較的若い星なんだって。反対に赤く光る星は年寄りなんだ」
「……そうなのね」
「それは知らなかった」
「それでね、星って最後どうなるか知っている?」
「……爆発するんじゃなかったかしら」
「正解!あ、全ての星が爆発するわけじゃないけどね。それで爆発……つまり、寿命を迎えるってことだから赤く光っているお年寄りの星がそれに当てはまるよね」
「じゃあ赤く光っているあの星はもうすぐ爆発……死ぬってことかしら?」
「その可能性が高いね。とはいっても星の、宇宙の時間は人間とはスケールが違うからその時が目前に迫っているのか、まだまだ先の話なのかは分からない」
「なるほどね」
「ねぇ、未来、爆発した星はどうなるの?」
「そのまま消滅するよ」
「そっか、なんだか寂しいね」
「そうだね……あ、ほら、あれ見て」
「ん?」
 一際赤く、光り輝く星を指差す。
「あれは年寄りの星で合ってる?」
「うん、年をとった星だね。でもね、もしかしたらあの星はもう爆発してしまってもうこの世には存在していないってこともあり得るんだよね」
「え、どうしてって……そっか」
「うん、星が爆発するときに放つ強い光が地球に届くまでに時間が物凄くかかる。だから今、こうやって私たちの肉眼に見えている光は遥か昔、宇宙のどこかで存在していた星の光かもしれないんだ」
「……」
「……なんかそう考えると感慨深いね」
「そう!そこが星の魅力だよ。天文学は紀元前から現代まで研究され続けている学問なのにまだまだ未知な部分が多い。毎日夜になれば私たちは幾多の星たちと顔を合わせているのに、細かくは知らない。それなのに天文学に通暁している人はもちろん、私たちみたいな一般の人々を魅了してやまない星たち……。見ているだけで心が洗われるような、優しく見守ってくれているような……勇気を与えてくれるような存在。そして時折人間では到底想像もつかない時間の中を生きる星たちが、私たちに与える畏怖。それら全てが星の魅力なんだよねぇ」
 うっとりと星空を見つめながら未来が二人にしか聞こえない声で囁く。
「この大いなる自然の驚異と美しさを一度に与えてくれる星に私はすっかり魅了されてしまったんだよ」
「……」
「……」
 未来の星空への熱い想いに二人は無言で星空を眺める。そこには確かに未来と人々を魅了し続ける星々がただ静かに光り輝いていた。
「……どうかな?ちょっと熱く語りすぎたかな。ごめんね、オタクって生き物は自分の得意ジャンルになると気持ち悪いほどに饒舌になっちゃうから~」
 柄にもなく星へのロマンを語ってしまったことが恥ずかしくて思えてきて、照れくさそうに頭を掻く。
「いや、全く星に関しての知識を持ち合わせていなかったから良い勉強になったし……それに少し、未来の言う星の魅力が分かったような気がするわ」
「本当!?」
「うん……」
 星の魅力が少しでも伝わったことが嬉しかった未来は目を細める。一方環はぼうっと星空を見つめたまま。
(……星なんて頭上でなんとなく光っている物体としか思っていなかったけれど、こんなにも力強く華麗に……でもどこか孤独に輝くその姿はなんだか……とっても……)
 星が群れを成している空間から離れたところでポツンと一人、孤独に青白い光を放つ星の姿と隣に立つ未来に環はなぜか親和性を感じていた。


「それにしても未来って星に詳しいね」
 惚けている環を後目に茉莉奈は会話を続ける。
「いやぁ、私なんてまだまだだよ。星空観賞が趣味の人の中でも私は知識不足な方だからさ」
「それでも凄いよ。大学の授業で天体学があったわけじゃないのに、本を読んだりして知識を蓄えているってことは本当に星が好きなんだなって伝わってきたよ」
「うん、好きだね……子供のときからずっと……嫌なことがあった日も幸せなことがあった日も、どんな時でも星が見守っていてくれたしね」
「そういえば未来の苗字って星野だったよね。それも星好きに関係しているのかな?」
「お、どうなんだろう。もし私の苗字と星に何か関係があったら嬉しいね」
「……茉莉奈……未来の苗字を今話しに出すのは駄洒落を得意げに披露するおっさんと変わらないわよ」
 いつの間にか現実に戻ってきていたのか、環が呆れたように首を振る。
「駄洒落じゃないよ!失礼な奴だな~」
「というか今気づいたけど、今から向かう所って星の楽園だよね?私の苗字と同じだ!星の……星野!」
「……あぁ未来……それはさすがの私もフォロー出来ないほどに下らない駄洒落だわ」
「確かに下らないね~。でも偶然の一致にしては出来すぎだよね。星の楽園ってこの私、星野未来にとっての楽園に違いないし。星野楽園にネーミング変更してもいいぐらいだね」
 とてもくだらないことなのに、なんだか可笑しくて未来と茉莉奈は笑い合う。
「これは運命だ!」
「そうだね、未来の星を愛する心が伝わったんだよ!良かったね~」
「……はぁ……」
 未来の苗字と星の楽園という名称の共通点に気づくまでの空想的な雰囲気がすっかり消え去ってしまい、環は目頭を押さえる。
「もうそういうのはいいから……星空を堪能しましょうよ。ほら、もうすぐ到着するわよ」
 くだらないことで笑える脳内が幸せな二人に環が声をかけたと同時にアナウンスが流れる。
『間もなく星の楽園に到着致します。少々揺れますのでお気を付けください』
「うわっ」
 ガタンとゴンドラが一度揺れ、動きが停まる。ついに到着したようだ。
『扉が開くまでその場から動かずにお待ちください』
 アナウンスの指示に従い、傍にあった手すりを掴んだ状態のまま一歩も動かずに扉が開く瞬間を待つ。
「はーい、お疲れ様です!暗いので足元お気をつけください!」
 扉が開くと外で待機していた係員が爽やかな笑顔と、よく通る声で乗客を案内する。初めに外国人家族、次にミステリアスな雰囲気漂うカップル、私たちという順でゴンドラを降りていく。
「看板に沿って歩いていきますと、星の楽園が出てきますのでこのまま真っすぐお進みください!」
「はい、ありがとうございます~」
「いえいえ!では、楽しい時間をお過ごしください!」
 ニッコリと思わずこちらまで嬉しくなってしまうほどの眩しい笑顔を向ける係員にお礼を言い、言われた道順通りに進む。
「あ、星の楽園へようこそって書いてある」
「本当だ」
 ぼんわりと青い光で照らされた看板を見つけ、その看板が指し示している木が覆う道を通り抜けると……そこにはまさしく楽園が広がっていた。

21



 木々を抜けるとそこにはネイビーブルーと白色が混ざり宇宙空間を思わせるライトアップがそこかしこにされた木々が立ち並んでおり、昼間は寂しい空気を醸し出していた山を幻想的に照らしていた。人口光に集まる虫のように未来はフラフラと星の楽園の中央に吸い寄せられる。中央昼場には昼間と同じく望遠鏡が行儀よく一列に並んでおり、望遠鏡の集団からほど近い場所にあるカフェも今は青い光を放っている。さらに歩いていくとそこかしこに設置されているベンチはもちろん、未来たちが座っていたベンチも足元を優しく照らし出すように淡い光が灯っていた。昼間とは全く違う姿を見せる山に未来たちは感嘆の声を漏らす。
「うわ~……これが昼間と同じ山なの?同一人物とは思えない……」
「本当ね……ここまで化けるモノなのね。それより山にも同一人物って使うのかしら?」
「派手なライトアップではないけれど、寧ろそこがいいね。暗闇に限りなく近いけれど暗闇ではないところがね……」
 茉莉奈の言う通り山のライトアップは冬になると街中でよく見かけるイルミネーションとは少し違っている。普通イルミネーションは明るく、華麗に、己の存在を誇示するかのように光を放つ。しかし星の楽園のライトアップはそれらとは異なっていた。最小限のライトアップなのだ。そのためすぐ隣にいる人の顔は辛うじて認識出来るが、それ以上の距離があると顔の認識は難しい。だが薄らとそこに人がいるのだろうなというのは分かる程度には光があるのでぶつかる心配はあまりない。ただあまりないだけで、完璧にその心配がないわけではないので時折アナウンスで星の楽園では走らずに、ゆっくりと歩くことをお願いしている。
「これぐらいのライトアップなら星空を消すこともないもんね」
「確かにそうねって……未来、星の楽園に着いてから一度も空を見ていないんじゃないの?」
「う……」
「え、そうなの?星空を見に来たんだよ、見ないと!」
「う~ん……違うの、今じゃないの」
 目を瞑り、首を振る。グッドタイミングは今じゃない。もちろん今見上げても綺麗な星空を拝めるだろうが、どうせなら最高のタイミングで至高の星空が見たい。
「今じゃないってどういうこと?」
「……環と茉莉奈はもう星空を見た?」
「……ゴンドラを降りてからはまだ見てないね。ライトアップに目を奪われちゃって」
「私もまだね、未来がこけないか心配で目を離せなかったのよ」
「そうだったのか、じゃあ環も茉莉奈もまだ見ちゃ駄目だよ!」
 二人に詰め寄り、手で目を覆う。
「ちょっと、何をするのよ」
「前が見えないよ」
「とにかく!まだ見ちゃ駄目だよ。分かった?」
「……」
「……」
 未来の良く分からない行動を環と茉莉奈は不思議に思ったが、三人の中で一番星空への想いが熱い未来のアドバイス、もとい命令には従ったほうが良さそうだと判断する。
「分かったわ、未来が言うまでは見ないわ」
「私も、星空オタクの未来のアドバイスに我々一般人は口出ししません」
「本当?よし!じゃあ今から望遠鏡の方に戻るから、その間も地面と前だけを見ていてね」
 二人にそう指示すると未来は環と茉莉奈の手をとって望遠鏡に向かって歩き出す。

 しばらく淡い光が灯された地面だけを見つめながら無心で足を進めると、中央広場に設置されている望遠鏡ゾーンに着いた。
「はい、着いたよ!あ、でもまだ上を見ちゃ駄目だよ。えーと……よし、ここらへんに座ろう」
 興奮しているのか早口になりながら、未来は環と茉莉奈の肩を押して望遠鏡の傍に座らせる。地面に直接腰を下ろしたくないと二人は反論しかけたが、望遠鏡が設置されている場所にはシートが敷かれていたので環と茉莉奈は大人しく未来のされるままでいた。
「ネットでここらへんから見る星空が特に良い!って聞いたんだ。それと望遠鏡が目の前にあるから星をじっくり観察出来るしね」
「あぁ、だからここまで私たちを案内してくれたわけね。納得したわ」
「でも望遠鏡を使いたい人は大勢いるだろうから落ち着いて星を見られないかもよ?ほら……未来は人混みが得意じゃないでしょ」
「あぁ、その心配はないよ。茉莉奈、よーく周囲を見てごらん。薄暗いから見えにくいかもしれないけれど」
「?うん」
 未来の言う通り茉莉奈は目を凝らし、辺りを見渡す。望遠鏡は縦六列、横五列で設置されており、前や横との距離は一メートル近く離れている。さらによく見てみると今日は星の楽園に訪れている人が少なめなようだ。事前情報では望遠鏡は人気があるからいつ行っても空席がないとか、望遠鏡を使わない人だけでもたくさんの人が中央広場に集まってくるとか聞いていたのでちょっぴり拍子抜けだ。
「見えた?」
「……見えた」
「じゃあ人混みが苦手な私でも安心して、落ち着いて星空観賞を楽しめる理由が分かったよね」
「分かったよ。一つ一つの望遠鏡は一定の距離が設けられているから息苦しくないし、幸運なことに今日は観光客が少ないからだね」
「その通り!いや~本当に運がいいよー」
「良かったね」
「ねぇ、それよりいつになったら顔を上げてもいいのかしら?」
「あ~ちょっと待って」
 環のほんの少しだけ苛立った声を聞いた未来は慌てて環と茉莉奈の間に身体を滑り込ませる。
「……」
「……!」
「えーと……後数分ほどでライトアップの光が消える時間なんだ。だからそれまでは我慢して。きっと人工的な明かりなんて一つもない空間で見る星は格別なんだ」
 ワクワクと声を弾ませている未来を二人はじっと見つめる。あまりにも強い視線を送っていたのか、未来は不審そうに鼻が触れそうなほど傍にいる環と茉莉奈の顔を交互に見遣る。
「え、何?」
「いや……ちょっと驚いただけよ」
 目を逸らし、環は冷え切った未来の手を握り身体をさらに密着させる。
「わ!吃驚した。でも環の手暖かいな~」
 自分とは違い心地よい体温の環の手を握り返すと、冷気に晒されていた左手も何か暖かいモノに包まれる。
「うお!茉莉奈の手は暖かいというより、熱いな」
「寒いんでしょ?ほら、もっとくっつこうよ」
「うん?そうだね」
 気恥ずかしいのかそれとも未来に感情を読みとられたくないのか、茉莉奈は目を伏せたまま未来に身体を寄せる。
「暖かい~」
「そうね」
「未来、風邪引いちゃ駄目だからね」
「一応対策はしているけれど断言は出来ないな」
 クスクスと笑い合っているとアナウンスが流れる。
『只今より二十分間ライトアップを消灯します。消灯中は危険ですので走らないでください』
 アナウンスを聞いた人々が消灯に備えてベンチや、地面に腰を下ろす。
『では、消灯いたします。今からは人口光が一斉存在しない世界を皆さんには体験していただきます。きっとその時間は皆さんが想い描いている世界よりも美しく、幻想的な世界になることでしょう。星々の光はそれほど尊いモノなのです。是非ともここ、星の楽園で星の本来の美しさ、自然の尊さを感じ取っていただけることを願います。……それでは……皆さん、空を見てください』
 ライトアップが一斉に消される。……そして未来たちはゆっくりと顔を上げる。するとそこには今まで見てきた天体写真よりも美しい星空が広がっていた。


22



 無限に広がる星空。所狭しと敷き詰められた星たちが白く、青く、赤く……それぞれが異なる光を放っている。今にも地球に落ちてくるのではないかというほどに大きく、赤く、燃えるように光る星。目を細めないと見えないけれど確かにそこに存在している星。どんな宝石よりも美しい艶を出す青い星。多種多様な星々が夜空を彩っていた。
「……わぁ……」
「……」
「凄いね……」
 ずっと夢見ていた満天の星空。それが今、自分の眼前に広がっている。その事実と夢見ていたよりも遥かに眩いほどの光を放つ星たちに未来は言葉を失う。綺麗とかそんな言葉では表しきれない。この星空は自分のような一般人が評価できる代物ではない。
「……」
(あぁ……なんて綺麗なんだ……どんな高価な宝石よりも、都会に溢れるネオンやイルミネーションなんて比べ物にならない……自然の美だ)
 ほうと星空に見惚れていると未来はあることに気づく。
(あれ……?星の光ってこんなにも明るいんだ)
 ライトアップが消され、今この場所を照らすのは星の光しかないはずなのに消灯前と変わらない……もしかしたらそれ以上に明るいかもしれなかった。
(凄いなぁ……やっぱり星は私たちを完璧な孤独にはさせないでしっかり照らしてくれる)
 チラリと周囲の人たちを見渡す。そこにいる人の性別や年齢などの大まかな情報を確認出来るが、その人がどんな表情をしていて、どんなことをしているかまではハッキリと認識は出来ない。
(……私たちを優しく照らしてくれるけれど、決して全ては照らさない。あくまでも存在が消えないように、忘れ去られないように照らしてくれるだけ。……それがとても……私みたいな人間にはとても救われる)
 星は今日も未来の姿を照らしながらも、未来が内緒にしておきたいことは闇に隠してくれる。
(本当の暗闇に投げ出されてしまったらきっと私は壊れてしまうだろう。自分は誰にも赦されない、永遠に罪を背負い生きていかなくてはいけないと絶望し、人生に一寸の光も見いだせなかっただろう)
 誰もいない、あの日、夢で見た真っ暗闇を想像してしまい背筋が凍り付く。でも今は違う。もう一度空に目を向けるとそこには変わらずに星々が地上を煌々と照らしている。その光は人を真の孤独にはさせず、間違っても絶望に陥らせないように未来を照らす。
(星たちに感情なんてない。全ては私の都合の良い解釈だってことぐらい分かっているけれど、それぐらい星の光は私の拠り所なんだ)
 幼い頃はただ綺麗だからという理由で星空をよく眺めていた。けれど自我が芽生え、思春期を迎え、色んな人と関わっていくうちに己の在り方や人との付き合い方に悩みを抱き始めたあの頃から未来には星空だけが心の拠り所になっていた。
(信頼している子がいてもその子にどう思われるか、その子が望む自分を演じていたかったから誰にも自分の悩みや想いを吐露出来なかった。それにもし何か間違いがあって相手を傷つけたり、秘密のはずだった自分の心の内が第三者に伝わったりすることが恐ろしかった。……でも星たちは違う。彼らには感情も口もなければ、私たち人間とは本質が全く異なる存在。だからこそ安心出来た。誰にも言えない悩みを星にだけ打ち明けて、自分の未完成な心や穢れた部分を曝け出すことが出来た。星たちは助言も慰めも、叱責もしてくれないけれど……ただ私という存在を照らしてくれた。いつだって消えてしまいたい、でも本当の独りにはなりたくないと想っていた私をただ黙って照らしてくれていた。それが……私にはとても大きな力になったんだ)
 他人が聞いたら嗤われてしまっても仕方ない話だと思う。それでもいい。きっとこの気持ちを理解してくれない人は私にとって必要のない存在だから。でも……この話を馬鹿にせずに聞いてくれて、理解してくれた人はこれまでの人生で四人もいたんだ。そのうち二人とは悲しいことにもう縁が切れてしまったけれど。
(……美琴……玲奈……)
 高校の夏休みに獅子座流星群を三人で見に行ったときのことを思い出す。あの時も今と同じように未来の両隣には美琴と玲奈が座って、星空を眺めながら笑い合っていた。あの頃はこのまま三人の友情は永遠に続くモノだと信じ切っていた。
(……でも現実は違ったんだ)
 三人は確かな友情で繋がっていたはずだった。でも未来が知らないうちにそれぞれが相手に望むモノの形が違うことに気づいてしまい、だんだん私たちの間に亀裂が入ってしまった。そして最後は……。思い出したくもないが事実として起こったしまった。忘れることなんて一生出来ない。
(美琴と玲奈と共に毎日を過ごしていた時は星以外の拠り所が出来たと心から嬉しかった。きっと三人一緒ならこれからも生きていけると……あの夏の夜、一緒に見た星たちが私たちの仲を末永く見守ってくれると愚かにも信じ切っていた……)
 旧友たちと過ごした大切な日々が脳裏に蘇り、未来は感傷的になる。過去は過去で今は今で大切な人たちがいる。人と人の縁は時間と共に移ろいでいくモノだ。だから今、未来が環や茉莉奈と幸せな日常を送っていることに罪悪感を抱くはず必要なんて一つもないって、環と茉莉奈は美琴と玲奈とは別の存在だって理解しているはずなのに……心のどこかでは怯えている。美琴と玲奈とは八月のあの日、しし座流星群を一緒に見に行った後しばらくしてからぎこちない関係になってしまったこと、環と茉莉奈もあの二人と同じような感情を自分に向けているかもしれないこと、また大切な人たちを失ってしまうかもしれない可能性に未来は心底恐怖していた。
(……怖いよ、美琴と玲奈を差し置いて自分だけが恵まれた日々を過ごしている罰がいつ下るかと……怖くて、不安で堪らない。……それに美琴と玲奈は赦してくれるだろうか、私が環と茉莉奈だけを親友と認めることを)
 ギュッと環と茉莉奈の手を強く握る。自分勝手だと分かってはいるが、未来はどうしても二人と離れたくない。
(……美琴、玲奈……ごめんね。今の私に必要なのは環と茉莉奈なんだ……ごめん……)
 心の中でかつて友情を誓い合った二人に謝った瞬間、キラリと星が流れていった。流れ星だ。青白く、他の星までもを焼き尽くす勢いで流れ去っていく姿がまるで涙みたいだと未来は思った。
(……私が環と茉莉奈の傍にいたいと願ったところで……どうしようも出来ないことだってあるんだよねぇ。……だって二人には私の過去をまだ全部話していないし、二人がひっそりと抱え込んでいる本心だって未だ知らない)
 今はお互いを傷つけないように多少の嘘をついている。自分の穢い側面や知られたくない過去を嘘で隠してきた。そのお蔭で今日まで未来たちは良好な関係を保ってこられた。しかし恐怖からくる気遣いも、優しさからつく嘘も今夜で終わりにするんだ。
(私たちの全てを告白しようって決めたもんね。本当は自分の穢いところなんて二人には知られたくないけれど……今回はただの旅行じゃなくて卒業旅行なんだ。自分の過去を、自分の弱さを見て見ぬふりしてきたことから卒業しないといけない)
 唇を引き締め、覚悟を決める。
(……大丈夫、怖くない。だって……私には彼らがいるじゃないか)
 空を見上げれば無数の星たちがちっぽけな人間たちに光を放っている。
(彼らは私みたいな人間も照らしてくれている。だから怖くない。彼らに誓って嘘偽りなく私の過去を、私の弱さを二人に話そう)


23



 頭上には誰かが散りばめたようにたくさんの星たちが煌々と輝いている。どこまでも、終わりなく……星たちは無限に続き、環の視界を埋め尽くしていた。
(……本当に綺麗ね……)
 環は魅入られたように星空を見つめる。環は元々星空や天体に大して関心を抱いたことなどなかった。高校生のときに地学の授業で天体について基礎的な知識を学んだぐらいだ。なので正直なところ、未来がここまで星空を愛しているのかがよく分からなかった。星なんて特別な存在ではない。夜になればいつだって空にいる、地球から遥か遠くにいる縁もゆかりもないモノたち。今、爆発したって、ブラックホールに呑みこまれたって環の人生には何の影響も与えない存在たち。いてもいなくてもいい。それはまるで環の周囲に蠢く未来以外の人間たちと同じではないか。彼らが死のうが、笑おうが、泣こうが環の人生には無関係。そんな彼らに嫌悪感を抱きこそすれ、関心なんて持つはずがない。
(……私にとって星も同じだったのよ。自分には全く関係ないから価値なんて見いだせないし、それを愛する気持ちなんて全く分からなかった……)
 でも環の大切な人……未来が星空を愛し、特別な想いがあると知ってしまったら無視は出来ない。環は未来の全てを知りたい、全てを受け入れたいし、未来と全てを共有したいのだ。そのためには環も星空を愛する必要があった。
(ここを探し出すのだって苦労したわ……。だって今までこれっぽっちも興味なかったモノだから……)
 茉莉奈と卒業旅行はどこに行くかという相談をしたとき、どうせなら未来が行きたがっているところが良いと提案した。そうしたら茉莉奈が「なら星空が綺麗なところかな」なんて言うもんだから必死こいて探した。以前未来がオススメだと言っていた星空写真集を買って、未来お気に入りの一枚がどこで撮影されたモノなのか……卒論よりも真剣に調査したものだ。
(我ながら馬鹿よねぇ。でもそれぐらい未来のことが好きなのよ……)
 調査を続け、未来へのさりげないヒアリングの結果、環と茉莉奈は未来が長野県、阿智村へ行きたいということが判明した。
(その後はすぐに評判が良くて、格式高い宿を探しだすことに熱中したわね。まぁ悔しいことに宿は茉莉奈が先に見つけ出してしまったけれど)
 宿の予約や新幹線の手配など、旅行の準備を整えた後に未来と少しでも喜びを分かち合うために星空について軽く調べてみたがやはり環の心には響かなかった。客観的には確かに綺麗だと感じる星空の写真を見ても何も思わなかったし、星を題材にした作品を読んでみても無感動だった。そんな状態だったから果たして愛する未来が、心から愛している星たちを受け入れられるか不安だった。
(……でもゴンドラで未来から星の魅力とやらを聞いた瞬間からどういうわけか、星たちが輝いて見えだしたのよね)
 もちろん初めから星は輝いていた。夜中でも明るい都会から見える夜空なんかより、全然光の強さが違うことには気づいてはいたが決して美しいだとかは思わなかった。それなのに未来が語る星の魅力を聞いてから環の眼に映る星々は以前とはすっかり違って見えてきた。
(……気づいたのよ、未来と星が似ていることに。自己主張せずに、他者と一定の距離を置きながらも光を放つ。その光はただ周囲を照らす。その光は他のモノたちと比べたら確実に弱い。あ、ちょうどあの星みたいね)
 キラキラと青い光を放ちながらも、不安定に揺れる星。星自体が揺れているのか、それとも角度が悪いのか、その星は一瞬キラリと一際強く輝いたかと思うと次の瞬間には切れかけの電球のようにチラリと点滅する。その星の輝き方が未来にそっくりで環は目が離せなくなってしまう。
(決して弱者ではない……けれど心のどこかで自分という存在を卑下している……そんな感じに見えるわ)
 強い心を持ち、一人でも逆境に立ち向かう勇気を有しているのに何故か自己肯定感が極端に低い。強く生きたい、認められたいと光を放つが、やっぱり自分なんかが烏滸がましいと光を弱める。あの星は未来なんだ。環が知っている未来だ。
(未来と同じであの星は……どの星よりも綺麗な光を持っているわ。でも……どうしてか今にも消えてしまいそう。誰かの助けを求めているなら、気づいてほしいなら……もっと、もっと強引になってもいいのに……)
 星に未来の姿を重ねていると急に未来が強く手を握ってきた。不思議に思い、チラリと視線だけを横に向けるとそこには唇を引き締め、何かを決心したような表情をした未来がいた。
(……あぁ、そうだったわね。今回は卒業旅行だから私たちが今まで相手に内緒にしてきたことや、内に秘めた想いを全て打ち明けて過去の自分から卒業しようって約束だったもんね)
 環は未来がいつまでも過去に囚われていることに気づいていたから今回の計画を提案したのだ。未来と親しくなってから一度だって高校生の頃はどんな日常を送っていたか、どんな学友たちがいたかなどの話をしないことをずっと不思議に思っていた。何度かそれとなく尋ねたことがあるが、毎回誤魔化されたものだ。無理矢理聞き出す勇気もなかったし、誰にも言いたくないことぐらい未来にだってあるだろうと過去を詮索することをやめたが、この前由利が言い放った「人殺し」という言葉が気になって仕方がなかった。最初は根拠のない悪口など思った。元々由利は未来のことが好きじゃなかったから。
(だからこの女はなんて酷いことを言うのだろうかと驚いただけだったけれど……)
 由利に「人殺し」だと言われた未来の反応が尋常ではなかったことを思い出す。普段なら由利のしようもない悪口や嫌味なんて相手にしないのに、あの時は目に涙を溜めながら、必死で懇願していた。その言葉を言わないでほしいと、聞きたくないと……。
(……あそこまで動揺するということは由利の口から出まかせって可能性が低いと気づいたわ)
 その後なんとか二人を宥め、由利には金輪際未来に近づかないことを約束させてなんとかその場を落ち着かせたが環と茉莉奈はあることに気づいてしまったのだ。「人殺し」という言葉と未来が無関係ではないことに。そして未来が自分自身のことを「人殺し」だと思っていることに。
 もちろん言葉通りに未来が「人殺し」だと一瞬だって考えたことなどない。それは未来が人を殺めるような人間じゃないと信じているとかそういう理由じゃない。単純に殺人を犯した人が数年で出所してくるはずがないからだ。由利の口振りからして未来が「人殺し」と呼ばれるような事件が起きたのは高校生のときだろう。もしも、万が一未来が本当に人の命を奪っていたとしたらまだ獄中だろう。いくら少年法が適用されるからといって一、二年では出所は不可能だ。即ち未来は本当の意味での「人殺し」ではないことが分かる。
(きっとあの言葉は揶揄の一つだろう。だから未来が傷つくのは当たり前なのだけれど……あそこまで狼狽することなんてない。……どうして?どうして未来はあそこまで怯えていた?……なぜ自分を責めるような瞳をしていた?……きっと答えは未来の過去に隠されている……)
 環は未来の過去を知る必要があった。だって環はこれからの人生を未来の隣で歩いていくと決めていたから。そんなこと勝手に決められても迷惑だろうが、環には未来しかいないのだ。それほどまでに大事な未来の過去を知らない人間が隣に並ぶわけにはいかない。だから環は知らないといけない。
(半分は私の我儘だって分かっているわ。未来の全てを知って、唯一の理解者になりたいというエゴイズムよ……。でも、それでも過去を他人に話すことが未来には必要だと思うの。未来が時折覗かせる自己肯定の低さ、自己否定を少しでも改善させるには過去と向き合うことが大事なのよ……)
 まだ強く握りしめてくる未来の手を、環はさらに力強く握り返す。
(……今回の卒業旅行で忌々しい過去から卒業しようよ……未来……)


24



 未来が過去と決別する覚悟を固め、環が未来と星の共通点を考えているとき、茉莉奈は自分の平凡さに呆れていた。
(……うん、綺麗な星空だね。私は芸術家ではないから、この美しさを後世に残す手段がないことがを残念に思うよ)
 インターネットで何度か見かけた天体写真なんかとは比べ物にならないほどの美しい星空。自分がもし詩人だったらこの星空を唄に、画家だったら星の麗しい輝きをキャンバスに閉じ込め、写真家だったら刹那的な輝きをカメラに収めるのに……。それが出来ない自分がどうしてだかとても情けなく感じられる。世界の大多数は芸術家でもない、自分のような一般人で構成されているというのに。
(……この星空を見て未来と環はどういう感情を抱くんだろう?二人は何か特別なモノを持っているからきっと私みたいに、綺麗だなとか幻想的!だとかいうありきたりな感想は抱かないよね)
 未来は授業で小説執筆に取り組んでいたから豊富な語彙力でこの星空を描写し、一篇の物語をすぐに書き上げてしまうだろう。そして環は芸術的感性に乏しい代わりに聡い。ついさっきまで欠片も興味がなかった星空の新たな魅力や事実を発見し、まるで小論文みたいに感想を述べることが可能だろう。
(……だけど私はいくら星空を眺めたって詩的な表現を思いつかないし、星の明かりが綺麗だということ以外の発見が出来ない)
 はぁとすぐ傍にいる未来に聞こえないように息を吐く。吐く息は真っ白で改めてここが酷寒の長野県だと気づかされる。
(あぁ……それでもいいか。私がどう足掻いたって未来と環には敵わない。二人のように独特な視点なんて持ち合わせていないし、一人で立ち上がれる強さもない)
 茉莉奈は未来と環にコンプレックスを抱いていた。未来の独創的な考え方、流れに身を任せずに自分の足でしっかり立ち、自分が選んだ道を歩める強さ。環のカリスマ性に、誰かに嫌われようとも自分の正義を貫く姿勢。茉莉奈が望んでも手に入れられなかったモノたちだ。
(そんな二人が私のいないところで笑い合っている姿を見るのがずっと嫌いだった。だって私に不足しているモノを全て持っている二人が一緒になってしまったら、私の場所がなくなってしまう。それがとても怖かったんだ……でも他の友人関係を絶ち切ってまで未来を優先するほどの強さもなかった。私のそんな態度に耐えきれなくなった環の言葉のお蔭で由利さんたちとじゃなくて、今はこうして未来と卒業旅行に来られたんだけどね)
 一か月ほど前の自分を思い出し思わず苦笑いが漏れる。あの頃よりは大分強くなったかもしれない。未来のことを大事に想っていることを本人に隠すことなく伝えるようになったし、環の嫌味に言い返すようにもなった。そのせいか環の態度も友好的になり、未来と環の二人だけだった世界にお邪魔することも許されるようになった。
(それはとても嬉しいことなんだけど……なんだろう……なんだか……見えない壁を感じるよ)
 未来と環は入学式の日に出会ったという。茉莉奈は入学式の次の日か、数日後に未来と出会った。だから茉莉奈と環はほぼ同じ時期に未来と出会っている。それなのに未来と環は茉莉奈よりも親しくなっていた。そのことが茉莉奈は不思議で、悲しくて、悔しかった。
(最初のころはなんであんな高飛車な女と仲良くしているの?って思ったけれど……今思えば必然だよね。他人の視線ばかり気にして、少数派でいることを極端に恐れる私みたいな人間といるより、自分の意見をしっかり持っている環と一緒にいる方が良いに決まっている……。だって未来は由利さんたちのように見栄えのための友人を探していたわけではないから。心の底から信頼出来る人を求めていたんだもんね)
 初めから茉莉奈と環の勝負はついていたのだ。今更自分の欠点に気づき、改善していったって環には追いつけない。自分の知らないところで未来と環はきっと色んな話しをして、色んな顔を見せ合ったことだろう。そして環は茉莉奈よりも未来のことを分かっている。その事実を認めるのは癪だけど、本当のことだから仕方ない。
(……そういえば環が観光して終わりじゃあただの旅行と変わらない!卒業旅行らしいことをしないといけないって言うもんだから、秘密や色々と心に抱えた想いなんかを告白しあうことになったけれど……)
 チラリと未来の横顔に視線を向ける。未来は眩しそうに星空を見つめており、茉莉奈の視線には気づいていない。
(……本心を告白したところで私は未来の一番にはなれないんだろうし……それにどうやら訳ありっぽい未来の過去を全て受け入れる自信も……正直言って、ないよ)
 環は自分が未来の一番だと信じて疑っていないし、未来の過去がどんな曰くつきでも動じることなく受け入れるだろう。
(私も環みたいに未来の全てを受け止める強さと覚悟があれば……)
 心の何処かでは未来が由利の言う通り「人殺し」と呼ばれるような人間なのではないかと疑っている自分がいる。そして未来が本当に真実を話してくれるのだろうかと猜疑心すら抱いてしまっていた。
(……最悪だな……一番不安なのは未来だっていうのに……私は……)
 自己嫌悪に陥っていると不意に未来が握り合っていた手に力をこめてきた。
(……未来?)
 何かあったのだろうかと横を向くと、そこには瞳に強い意志を宿した未来が真っすぐに星空を見つめていた。
(……そうか、そうだよね……。未来は強い子だもんね。一度した約束を破ることもなければ、卑怯な嘘もつかない……。それに比べて自分って人間は……)
 未来は真っすぐに向き合おうとしているのに、自分は未来の本気を疑って……ついには身勝手にも悪人かもしれないとも思っていた。
(……ごめん、ごめんね……未来。私はやっぱり環の言う通り弱虫で自分一人じゃ生きていけない人間だよ。そんな奴が未来の隣に立つ資格なんてないよね。分かっているよ……。でも……)
 茉莉奈の手を強く握りしめる未来の手を見つめる。その手は寒さからか……それとも恐怖からか微かに震えていた。
(環と私に否定されることを怯えながらも逃げないで向き合うことを選んだ未来。そんな強い未来がこうやって私の手を離さないでいてくれる間は……私もこの手を離さないでいよう)
応えるように茉莉奈も手に力をこめ、未来の細く白い手を握りしめる。そして茉莉奈も決心する。
(きっと未来の話と比べたら何の重みも、面白みもない話しになると思うよ。でも……未来の信頼のために私も話すよ……。ねぇ、未来、私たち……一緒に卒業しようね?今まで見て見ぬふりをしてきた弱い自分から)


25



 消灯されてから二十分ほど経過した時、アナウンスが流れた。
『ではライトアップを再開いたします。次に消灯するのは三十分後となっております』
 アナウンスが終了するとぼんわりとライトアップが灯り始める。
「……」
「……」
「……」
 ライトアップが再開され、周囲の人々が動き出してもなお、未来たちは手を繋いだまま星空を見上げていた。
「……あ」
 ハッと我に返った未来はキョロキョロと辺りを見渡す。ライトアップの前でポーズをとる若者、手を繋ぎながら感動を共有するカップル、一体何に興奮しているのか狂ったように走り回る子供を追いかける両親……。いつの間にか未来たち以外の人々が動き出していたことに驚き、環と茉莉奈の身体を揺らす。
「おーい、もうライトアップ再開されたよー。ずっとここにいても面白くないから場所移動しない?……おーい?聞こえてる?」
 肩を揺すり、目の前で手を振り、軽く頬を叩いても二人から返事はない。ぼんやりとだが視線は未来に向けられているので無視されているわけではなさそうだ。
「どうしたの?まさか星空があまりにも美しかったから腰を抜かしちゃった?」
 ふふと笑うといきなり環と茉莉奈が立ち上がる。
「うわっ!吃驚した~」
 突然のことに未来は尻もちをついてしまった。そんな未来に手を差し伸べ、起き上がらせると二人はどこかへ歩き出す。言われるがまま、されるがままにしていたら、また連行されている宇宙人みたいな図になってしまっている。
「え……何?なんで二人とも無言なの?怖いんだけど……というかどこ行くの?」
「……ちょっと人が少ないところに行きたくなってね」
「え……!なんか企んでる?怖いよ……」
「別にリンチしようとか考えてないよ。ただ、落ち着いて話しが出来る場所に行くだけだよ」
「……そんな物騒なこと一瞬たりとも考えたことなんてないよ……。というか落ち着いて話しって……何か話でも……あぁ……あるねぇ」
 環と茉莉奈が自分に話したいことでもあるのかと思ったが、すぐに合点がいった。卒業旅行にちなんで自分の過去や秘めていた想いを打ち明けることで、あらゆることから卒業しようって出発前に決めたのだ。まさかこんな風にいきなり始まるとは思っていなかったが……。
(心の準備はもう済んでいるからね。後は恐れずに、二人の信頼を裏切らないためにも全てを話せばいいだけ)

 少しの間歩くとライトアップの数が減り、人が全くいない場所に辿り着く。中央広場からちょっと離れただけでまるで別次元のようにここは静まりかえっていた。
「よし、ここなら滅多に人は通らないわね」
「うん、ここは街灯とベンチが僅かに設置されているだけだからね。ライトアップの写真を撮りたがっているミーハーな女子とかも来ないよ」
「……でも人があまり来なくて、薄暗いならカップルとか来そうだよね」
「……」
「……」
 急に黙ってしまった環と茉莉奈が気になり、未来は二人の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないわ」
「カップルは来ないよ。イチャイチャするなら宿に戻るはずだしね」
「それもそうかぁ」
「……さて、あ、あそこのベンチに座ろうか」
 青い街灯に照らし出されたベンチを環が指さす。公園によく設置されているベンチとは違い、背もたれもしっかりしているし三人が並んで座っても余裕がありそうだ。
「そうだね、じゃあ……未来は真ん中ね」
「うん」
 指示された通りに環と茉莉奈の間に腰を下ろす。
「寒いなぁ……」
「そうね」
「……寒いから部屋に戻るという選択肢はないの?」
 悴む手に息を吐きかけながら二人に問う。
「……正直私も部屋でじっくりと話をするのでも良いと思っているんだけれど」
「だよね?じゃあそうしようよ」
 空を見上げ提案する。本当はもう少しだけ星空を眺めながら二人と語り合いたいところだが、もし環と茉莉奈が風邪でも引いてしまったら大変だ。だから未来は宿に戻ることを勧めた。
「……未来、今夜は星の楽園がメインイベントなのよ。すぐに宿に戻っていいわけ?せっかく阿智村まで来たのだから、ここでしか出来ないことをしないといけないんでしょ」
「……」
(そっか、これは二人の気遣いか)
 二人は未来が寒さに身を震わせながらも、星空と同じ空間にいたいと願っていることに気づいていたのだ。
(なるほどね……じゃあ二人の気遣いに甘えようかな)
「確かにそうだよねー、このままあっさり部屋に戻っちゃ味気ないよね」
「でしょう?」
「うん、それにこんなに綺麗な星空の下で語り合うってのもなかなか乙だよね!」
「そうだね」
「それに未来は星たちの光に勇気を貰えるんでしょう?」
「……うん、そうだね」
 目を細め、夜空を見上げる。そこには相変わらず無数の星々が未来たちを照らしていた。
(こんなにたくさんの星に見られているとなると、逃げようとする弱虫な自分をなんとか抑えることが出来そうだ……。それに環の指摘通り私は星の光に勇気を貰えるから、ここでだったらちゃんと最後まで話せそうだな)
 ふうと息をつき、未来は環と茉莉奈の顔を見遣る。
「じゃあ誰から話す?」
「そうねぇ……」
「……」
「私がトップバッターでもいいけれど」
 なんて言いながら未来は内心最後がいいと思っていた。きっと自分が二人に話す内容は暗鬱としたモノだ。もしそんな話を最初にしてしまったら、環と茉莉奈が不快感を抱くかもしれない。そしたら二人は嫌な気分のまま自分の話をしないといけない。
(それだけは避けたい。出来れば穏やかな気持ちのまま二人には話してほしい)
 環か茉莉奈のどちらかが話し出してくれないかと期待していると、茉莉奈が口を開く。
「……私からでもいいかな?」
「お、いいよ!」
「……どうぞ」
 未来はトップバッターを免れたことに安堵し、笑顔で返事をしたが環は何かを知っているのか、少しの間無言で茉莉奈を見つめた後ニヤリと唇を歪ませる。そんな環の表情に茉莉奈は不快そうに眉を顰めたが、すぐに気を取り直して背筋を正す。
「私が今から話すことは面白くないと思うし、未来と環からしたら私がどうしてこんな下らないことで悩んだりしていたかなんて理解出来ないと思う……」
「……そんなこと……」
「そうかもね、それでもいいから話してみなさいよ」
 顎を動かし、環が先を促す。
「……うん、じゃあ話すね」


26



 茉莉奈は物心ついたときから大多数、普遍的な人生を歩んできた。世間で流行しているモノこそが良いと信じ、みんなが右に進みだしたら自分も同じ方向に足を進め、一人の言葉より十人の言葉を聞いて、孤立は恥だと思い群れを成すことで安心するような人間だった。自分の意見なんて無くて、誰かと違うことは赦されないことだと思っていた。私みたいな感覚が世間では普通なのだと信じて疑うことはなかった。だって自分はみんなが同じ道を歩いているから、大多数の人間と同じ意見に賛同しているから自分は間違っていないと本気で思っていた。幼い頃から……大学で未来と出会うまでは己のように世間の流れに身を任せ、少数派になることだけを避けて生きていくことが正しい生き方なのだと。
 あの日、未来と出会った日のことは今でも鮮明に思い出せる。一目見た時から茉莉奈は未来に心惹かれていた。決して茉莉奈は男性より女性の方が好きだとかそういう性的指向は持っていなかった。そりゃそうだろう。大多数、一般的、普通こそが正義だと信じていた茉莉奈が同性に恋愛感情を抱くだなんてそんな……少数派、マイナーな属性を持っているはずがなかった。それなのにどうしてか未来に魅了されてしまった。一言も言葉を交わしていないのに、茉莉奈の中で星野未来という人が特別な存在になった瞬間だった。
「まぁ、一目ぼれってやつだよね。自覚していなかっただけで、私は未来みたいな外見の子が好きだったみたい」

 茫然と未来に見惚れていると目が合ってしまった。日本女子の平均身長を軽く超えたモデルのようにスラリと伸びた手足。耳の下半分が見えるほどに短く切られた中性的なヘアスタイルに、どこか憂いを帯びた瞳に茉莉奈は胸が苦しくなった。
「クラスのマドンナを近くで見た思春期の男子みたいな心境だったね」
 未来は絶世の美女だとか、芸能人顔負けの美貌を持っているわけではなかった。でも未来の中性的な容姿は決してそこらへんにいるモノではなかった。
 数秒間視線を交差した状態で立ち尽くしていると、先に未来が軽く会釈をし、くるりと踵を返してしまった。普段の茉莉奈ならそのまま去っていく人の後ろ姿を見つめるだけだが、その時は自分でもよく分からないが……気づいたら未来の腕を掴んでいた。
 いきなり見知らぬ女に腕を掴まれたことに驚き、目を見開く未来に茉莉奈は努めて明るく言葉をかけた。
「……あなたも新入生だよね?私もなんだ。……私は鵜飼茉莉奈っていうの。……あなたは?」
「……私は……星野未来……。……あはは、急に腕を掴んでくるから何事かと思ったよ」
「あ、ごめんね、痛かった?」
「ちょっとだけ痛かったけど、大丈夫。それより鵜飼さんだっけ?」
「……茉莉奈でいいよ」
「うーん……初対面でいきなり呼び捨ては難しいなぁ。茉莉奈ちゃんでいいかな」
「うん」
「私さ、方向音痴だから道に迷ってしまったんだよね。早くしないと国文学科の健康診断の時間が終わってしまうから困っていて……。茉莉奈ちゃん、一緒に来てくれるかな」
「……もちろんだよ。ほら、行こう」
 細い腕を今度は優しく握りしめて、方向音痴だという未来の代わりに目的地まで道案内をしてあげた。

「これが未来との出会いだったね……覚えている?」
「覚えてるよ!でも……なんかあれだな。照れるなぁ。まさか茉莉奈がそこまで私の見た目が好きだったとは知らなかったよ」
「私もその時は知らなかったよ……じゃあ続けるね」

 勇気を振り絞り未来の腕を掴み取ったあの日から、茉莉奈と未来は一般的な友達関係を築いていた。メッセージアプリで下らない雑談をし、週に何度か一緒にお昼を食べたり、たまに大学以外のところで遊んだりと普通な、有り触れた学生らしい友情を育んでいた。
「そのことに不満なんてなかったよ。寧ろ毎日が楽しかった」
 けれどある日から未来の傍に茉莉奈以外の人が現れた。
「それが環だよ」
 学校で未来を見かけるといつも環が隣にいた。初めは自分より遅くに未来と知り合いになったくせに生意気だと身勝手にも想っていた。でも後で未来から環とは入学式の日に出会ったのだ聞かされ、茉莉奈は未来を横取りされた悔しさと悲しみをどこにぶつければ良いのか分からなくなってしまった。
 お昼を食べる約束をすれば未来は快諾してくれるがそこにはいつも環もついてきて、一緒に遊ぼうと誘えば環はいないのに環の話題を振ってくる未来に茉莉奈は二人の仲の良さに嫉妬をするしかなかった。
 そんな状態が続き、二年生になった。二年生になるとゼミが始まる。未来と茉莉奈は専攻が違うので同じゼミになることはなかった。しかし茉莉奈は大学で一番苦手な人間……環と同じゼミになってしまった。元々環とは大して会話をしたこともなかったから、適当に過ごせばいいと楽観していた。だが事はそう簡単に進まなかった。
 ゼミが始まってしばらく経ったある日、茉莉奈は環に呼び止められた。ゼミに関する話しかと思い、耳を傾けると環は信じられない言葉を口にした。
「あんたさ……未来のこと好きでしょう?しかも普通の友情じゃない感情を抱いているでしょう」
「は、何を言っているの?……そりゃあ未来とは友達……だから好きに決まっているじゃない」
「そうじゃなくて……本当にその好きなの?」
「どういうこと?」
「……自覚していないならどうでもいいわ、じゃあね」
「ちょっと待ってよ!環さん……だよね。あなた、少し……失礼じゃない?私の被害妄想だったら謝るけれど、環さん……私への態度が冷たいよね?」
 そう、環はなぜか茉莉奈への態度が他の人と比べて冷たかったのだ。別に虐めだとかそういうモノではない。きっと他人が見たら気づかない、茉莉奈にしか分からない程度の違い。
「あぁ、それは……あんたがライバルだと思っていたからよ。でもあんたは自分の感情に気づいていないし、未来じゃないと駄目というわけじゃなさそうだからもういいわ」
「……ライバル? 未来じゃないと駄目……? 何を言っているのかよく分からないけれど、環さん。あなたは未来の何なの?さっきから未来に関係することばかり口にして……」
「……何って……親友よ、親友」
 親友。その言葉に茉莉奈は一瞬眩暈がした。
「……へぇ、確かに未来と環さんはよく一緒にいるもんね」
「羨ましい? でも悪いわね、未来の親友は私一人だけで十分だから……あんたは友達という立場に甘んずればいいわ」
「……私、あなたのことあまり知らないけれど性悪だってことはよく分かったよ。そんな性悪が未来の傍にいるなんて……なんか嫌だな。ねぇ、未来のためを思うなら……」
「未来のためって、なにそれ?あんたにだけは言われたくないわよ。いつだって群れの中にいないと安心出来なくて、一人じゃ何も出来ない。他者と違うことを極端に怯えるようなあんたと一緒にいさせない方が未来のためじゃないかしら?」
「……!」
 図星だった。ずっと自分の生き方を正しいと思っていたが未来と出会い、未来と色んな話をしていくうちに彼女のように自分で道を切り開き、周囲に味方がいなくても自分の力で立つことの出来る生き方に憧れるようになった。自分も未来のようになりたい、他人の視線なんて気にしないで自分の好きなモノを好きだと伝えたい。
(……いくら心の中で未来の生き方に憧れて、私もああなりたいと願ったところで実行には移せていないもんね。今日も明日も……きっとこの先も誰かの後ろを歩いて、大多数の意見に頷くだけの……その他大勢の人間として生きていくんだ)
 環の鋭い指摘に言い返す言葉もなく、唇を噛みしめていると環が呆れたように息を吐く。
「駄目じゃない、いくら図星だからって黙ったら……。そんなだからあんたはいつまで経っても未来の特別になれないのよ。じゃあね」
 茉莉奈は自信に溢れた環の背中を黙って見送ることしか出来なかった。

「ちょっと、そんな話をしたら私が悪者みたいじゃない」
「……あの頃の私からしたら環は悪者だったよ」
「……環~……茉莉奈になんてことを……」
「もう済んだことじゃない」
「……環の悪行も暴露したし、話を進めるね」

 環に酷いことを言われながらも茉莉奈は相変わらず未来との交友関係を続けていた。あんな性悪女と仲良くしている未来と関係を続けることが果たして最善の選択なのか分からなかったが、未来と一緒にいたい気持ちは確かだったので未来の交友関係には目を瞑ることにした。
 そうやって時折環からの妨害を受けながらも、未来と平穏に過ごせていた。そんなある日、事件が起きた。今思えばこの事件をきっかけに茉莉奈は未来への感情を自覚したのかもしれない。
 それは三年生も後半を迎えた冬の日、茉莉奈は未来以外の友人たち……由利たちと食堂にいた。卒論の愚痴や就活への不安、バイト先の人間関係の相談、恋愛話で盛り上がっていた。茉莉奈もその会話に当たり障りのない返答をしていると、由利が急に大学でムカつく奴がいないかという話題を口にした。初めはみんな乗り気ではなかったが、やはり女というのは陰口が好きなのかだんだん陰口の内容がヒートアップしていった。
(なんか嫌な雰囲気……)
 元来人を悪く言えない茉莉奈には耐えがたい時間だった。そろそろ陰口大会もお開きになるかと思ったその時、由利が未来の名を口にした。
「私さー、未来のことあんまり好きじゃないんだよね」
「……!」
 心臓がドクリと大きく脈打つ音が聞こえた。
(やめてよ……こんな話題に未来の名前を出さないで……お願い)
 しかし茉莉奈の願いは届かず、由利は喜々として未来の悪口を話し出す。
「だいだいあの子って変人だし!なんか気持ち悪いよね~。それなのに環といつも一緒にいるし……気に食わない」
「あ~確かに未来ちゃんって変わってるよね」
「あんま絡んだことないからなんとも言えないけれど、いつ見ても環ちゃんと一緒にいるな!」
「未来はきっとあれよ、一人じゃ何も出来ないへっぽこだから環にくっついているのよ。環も可哀想にね、助けてあげたいわ」
(……誰が一人じゃ何も出来ないへっぽこだって?)
 由利の言葉が信じられなくて茉莉奈は固まってしまう。
(未来はへっぽこなんかじゃない。一人でも弱音を吐かずになんでもやり遂げる……立派な人だ。それに未来は環に甘えているわけでもない、単純に二人の仲が良いからだよ)
 ぐっと拳を握り、怒りを鎮める。すると何も知らない由利が憎たらしい笑顔で茉莉奈に話しを振る。
「茉莉奈はどう思う?未来のこと」
「え……」
 ハッと顔を上げると由利達が前のめりになって茉莉奈の返事を待っていた。
(……早く返事をしないと……でもなんて?素直に自分の気持ちを言おうか?未来はそんな子じゃないって、私は未来のことを嫌いだと思ったことなんてないと。……いや、駄目だ。自分の気持ちをそのまま伝えたらこの場の空気は悪くなってしまう。……それはいけない……私は、いつも通りに、昔からのやり方で……)
 緊張と罪悪感で震える唇を開く。。
「……正直私も未来のこと詳しくないから、好きも嫌いもないよ。……というかもうこの話はお終いにしようよ!ほら、最近大学の近くに出来たパンケーキ屋さんとか……」
 やや強引だったがパンケーキという言葉を口にすると、由利以外のメンバーはすぐに喰いついた。
「嘘、初耳!どこらへんにあるの?」
「私知ってるよー。今度行かない?」
「……」
(……なんとか成功した)
 由利は望んでいた言葉が返ってこなかったことに不満そうだったが、すぐにパンケーキの話の輪に加わった。
(……険悪な雰囲気になるのだけは回避出来たけれど……なんだろう、この気持ち)
 茉莉奈は自分の対応が間違いではなかったと思っているのに、心のどこかで「これで良かったのか?」と問いかける声が聞こえてきた。
(分かってる、分かっているよ。私は卑怯だ。未来の前で友達面しているくせに、未来がいない場所では未来を友達だと認めない。未来と友達だと他人に知られることで自分の評価が下がることを恐れている。なんて狡くて、意気地なしなんだろう……)
 きっと未来と環が自分と同じ立場だったら、恐れることなく本当のことを話すだろう。それがあの二人の強さであって、茉莉奈が尊敬している部分だ。本来なら見習わないといけないのに、二人と自分の違いを実感する度に、茉莉奈は自分がなりたい姿から遠ざかっていた。
「あ、今日バイトがあったんだ!すっかり忘れてたよ。ごめん、先に帰るね」
「え、まじか。遅刻しないようにねー」
「ばいばーい」
「うん、またね」
 後悔と自己嫌悪に押しつぶされそうになった茉莉奈はバイトがあると嘘つき、その場を離れた。
(……また逃げたよ)
 食堂を出た茉莉奈は校門ではなく、図書館のトイレにいた。ここは滅多に人が使わない場所で有名なトイレだ。他の校舎のトイレは最新のトイレが設置されており、清潔感ある内装に変わったのにここだけはいつまでも和式便所で、少し汚いから人気がない。
「はぁ……」
 洗面台に手をつき、思いっきり息を吐き出す。
「最悪だよ……どうして私は未来のように強くなれないんだろうう」
 鏡に映る自分を見つめる。そこには頼りない表情をした茉莉奈がいた。
「……憧れの未来と一緒に過ごしているのに、私は駄目な人間だな」
 鏡に手を伸ばし、自分の顔に爪をたてる。醜い、なんて自分は醜い心を持った人間なんだろうか。
「う……ごめん、未来……」
「え、何?私がどうかしたの?」
「え!?」
 突然未来の声が聞こえ、茉莉奈は慌てて鏡から手を離しトイレの入り口に視線を向ける。するとそこには正真正銘、本物の未来が立っていた。
「未来……」
「珍しく図書館のトイレに人がいるなーって思ったらまさか茉莉奈だったとは。もう今日は授業ないの?」
 薄ら涙の膜が張っていた目を擦る。
「あ、うん。今日は四限目までだよ。未来は?」
「私は三限目までー。今までずっと図書館で自習してたんだ。偉いよね」
「そ、そうだね」
 自画自賛しながら未来は個室に入り、用を足す。
「ふー、スッキリした」
「……」
「茉莉奈も今から帰る?」
「うん」
 普通に会話をしてくれる未来に、茉莉奈はさっきの姿を見られてはいなかったと心配で堪らなかったが聞く勇気はなかった。
「じゃあ一緒に帰ろうよ」
「うん」
 荷物を持ち、トイレを出る。その間茉莉奈は罪悪感と一方的に気まずさを覚えて無言だった。一方未来はずっと喋っていた。今日の授業がどうだったとか、ずっと独り言を言っている学生が図書館にいて怖かったとか延々と喋り続ける。普段からお喋りな未来だったが今日は特にお喋りだ。
(なんでだろう?)
 不思議に思いながらも今の自分にはちょうど良かったので、茉莉奈は未来の話に相槌を打ち続けた。
「あ、茉莉奈は奈良方面だったね」
「うん、じゃあ……またね」
 ホームへと続く階段を登ろうとした瞬間、未来が茉莉奈の腕を掴み引き留める。
「どうしたの?」
「……うーん……お節介かもしれないけれどあまり思い詰めないでね」
「え?」
「茉莉奈はいつも頑張りすぎだよ。しかも愚痴も弱音も吐かずに笑顔だから、いつか壊れるんじゃないかって心配なんだよ」
「そんな……別に悩みとかないから大丈夫だよ」
「……駄目だ!茉莉奈の優しさと笑顔にいつも甘えていたけれど、今度は茉莉奈が甘える番だよ」
 そういうと未来は茉莉奈を引き寄せ、抱きしめる。
 未来より十センチほど背が低い茉莉奈はすっぽりと腕の中に閉じ込められてしまった。
「!?」
 いきなりのことに脳内の処理が追い付かず、茉莉奈は身を硬くする。
「……茉莉奈はよく自分のことを平凡な人間で、特別なモノを持っていないって言うけれど……そんなこと気にしないでいいよ」
「……」
「確かに茉莉奈は奇抜な発想とか得意じゃないけれど、必ずしも人間にはそんな発想力が必要なわけじゃないよ。それに茉莉奈はそんな自分のことを平凡だとか卑下するけれど、その考えがありふれたモノでも茉莉奈の本心なんだから胸を張らないと」
「……」
「後はー……あぁ、あれだ。茉莉奈は冗談っぽく私とか環みたいに好き嫌いをハッキリ主張出来る人が羨ましいとか言うけどさ、私は逆だよ」
「逆?」
「うん、逆。私は自分の意見が正しい!って過信してしまう癖があるんだけど、茉莉奈はみんなの意見を一通り聞いてあげて、そこかからみんなが納得する答えを引き出すよね。あれって真似しようとしても出来ないことだよ」
(でもそれが原因で私は……)
「その場で自分の主義主張や好き嫌いをハッキリと伝えるの悪くないけれど、そのせいで誰かが傷つくかもしれない。だけど茉莉奈は自分の感情を押し殺してまで、その場にいる人たちの気持ちを優先しているよね?それを人によっては八方美人だとか、流されやすいって批判する人がいるけれど私は尊敬しているよ」
「……」
 未来のその言葉が茉莉奈の心を少しだけ救ってくれた。もちろん今日茉莉奈が犯してしまった過ちには後悔しかない。けれど未来が自分のことを八方美人で、弱い人間だと認識していないと分かっただけで茉莉奈は嬉しかった。

「今もこの言葉で救われているんだ。やっぱり生まれ持った性格とかはそう簡単には変えられないからね。だから自己嫌悪に陥りそうになったらこの時の言葉を思い出すの」
「……未来ってば男前ね」
「あ~……そういえばそんなこともあったね」
「私の大事な思い出よ」

 一しきり未来は日ごろから茉莉奈に抱いていた気持ちを全て告白すると、スッキリしたのか漸く茉莉奈を腕から解放する。
「……ありがとう」
「いや、私がどうしても茉莉奈に言いたかっただけだから!」
「それでも……そうやって私のことを褒めてくれる人は初めてだよ」
「あれ、そうなの?おかしいなぁ。でもいっか!これで茉莉奈の中で私の存在感が増すだろうから」
(そんなの……初めて会ったときから未来は私の中で大きな存在だよ)
「あ、じゃあそろそろ行くね。バイバイ」
「うん、バイバイ」
 茉莉奈は未来の言葉が本当に嬉しかった。茉莉奈は自分の性格が嫌で堪らなかったから、尊敬している未来から認められて茉莉奈は救われたのだ。
(本当に……初めてだよ、私を肯定してくれた人は)
 いつだって大多数の意見に従い、みんなが望むことをしてあげて、場の空気を乱さないように生きてきたのに誰一人だって茉莉奈を肯定してくれなかった。目立ったことはするなと釘を刺す大人も、茉莉奈を自分のイエスマンとして考えている友人たちも……みんな茉莉奈を肯定しなかった。だけど未来は肯定してくれた。茉莉奈をちゃんと見てくれていた。否定しないで茉莉奈を受け入れてくれた。そのことがとても、とても嬉しかった。
「その時からだね、未来への感情がただの友情ではないと気づいたのは」
「ふーん、遅かったのね」
「仕方ないよ、まさか自分がそっち側に回るだなんて想像もしていなかったからね」
「……」
 ふうと茉莉奈は息をつく。
「茉莉奈の告白はお終いかしら?」
「そうだね、私が二人に告白したかったことは全部話したよ」
「そう」
 茉莉奈は星空を見つめながら満足そうに笑った。
「私は自分の性格にコンプレックスを抱いていたこと、未来がいない場所では未来を守り切れなかったこと、人生で初めて私を肯定してくれた人が未来だったということを伝えたかったんだ」
 茉莉奈の顔は晴れやかだ。
「聞いてくれてありがとう。なんだか心が軽くなったよ」
「あら、たかがあれくらいで茉莉奈の心は軽くなったのね。意外と脆いメンタルなのね」
「うるさいよ」
「……」
 環と軽口をたたく茉莉奈が未来を見る。
「……私の話を聞いてどう思った?」
「どうって……」
 茉莉奈は不安だったのだ。未来がいないところでは未来の守り切れなかったことを知られるのが。もしかしたら軽蔑されるかもしれない、嫌な気持ちにさせるかもしれないと。しかし未来は茉莉奈の心配をよそに笑った。
「なんか嬉しかったよ」
「え?」
「実は茉莉奈は環と違って、たくさんの子と仲が良かったから……不安だったんだ。優しい茉莉奈だから私を邪険に扱えないだけじゃないかって」
「そんなこと……!」
「うん、さっきの話で分かったよ。茉莉奈の気持ちは本当だって!」
 未来は嬉しくて顔が綻んでしまうのを止められなかった。茉莉奈の気持ちが嘘偽りのないことが分かり、本当に嬉しかったのだ。
「じゃあそろそろ……」
「あぁ、そうだね!」
「次は誰?」
 ごほんと一つ咳をした環が手を挙げた。けれど暗いからよく見えない。
「次は私ね。未来は最後よ」


27



 どんなことでも卒なくこなし、いつも人を先導していくような存在の環は実は孤独な人間だった。誰の助けも必要とせずに結果を出してしまうので周囲から羨望の眼差しを向けられ、そんな完璧な環に人々は距離を置いていた。それは環のことを嫌いだとかそういう理由で距離を取られていたわけではないことぐらい分かっていた。憧れの人は遠くから見つめたい、高嶺の花、自分とは釣り合わないから近づかない……。小さいころは嫌われているのかと不安になったが、どうやら自分は好かれてはいるが親しみが足りないのだと気づいた。別に嫌われているわけではないのならこのままでも良いかと放置したのがいけなかったのか、周囲が環に抱く理想と尊敬の念がじりじりと環を孤独に追いやった。
 みんなが想い描く理想の人物を演じることを強要され、少しでも期待と違うことをしてしまったら一気に非難の視線が注がれる。稀に環と友好関係を築こうと接近してくる人もいたが、そいつらは環自身には興味なんてなくて飾り物として環を欲しがった。環と仲が良いというだけで彼らの評価も上がるからだろう。初めのうちはそんな奴らにも優しく接していたが、環のことを本当に大事に想ってくれる人なんていないと気づいてからは無視をしている。
 そうやって他人からの好意を受け取りつつも孤独な日々を過ごしていた環は大学生活に何の期待も抱いていなかった。きっとここでも自分は誰かの崇拝対象になり、彼女らの理想を演じることを強いられるのだろうと。そんな半ば諦めた気持ちで入学式に向かうと環はある人に出会った。
「ある人というのは未来のことだけどね」

 入学式が始まるまでどこか静かな場所で時間を潰そうと、講堂の裏に回ると先客がいた。
(なんだ、誰かいたのね)
 違うところに行こうかと悩んだが、まだ大学内にどんな建物があるのか把握してない今は動き回らない方が良いと判断した。なので環は出来るだけ先客から離れたところで一息ついた。
(……あの子も新入生よね?さっきから挙動不審ね)
 暇つぶしに先客を観察していたら彼女はどこか焦っているように見えた。辺りを落ち着きなく見渡し、校門で配られた地図を穴が開いてしまうほどに見つめている。
(まさか……迷子かしら?)
 大して広くもないここで道に迷うなんて俄かには信じられないが、目の前にいる彼女は実際困っているようだ。本来の環は進んで人助けなんてしない。それなのに何故か彼女を無視出来なかった。
「ねぇ、あなた……もしかして迷子なの?」
「え……!」
 同じ空間に人がいたことに気づいていなかったのか、彼女は肩を飛び上がらせ環を見る。
「私も新入生なんだけど、あなたもそうよね?」
「あ、はい!そうです!」
「なら同い年だから敬語はやめてよ……それで?あなた迷子よね」
「あ……はい、じゃなくて……うん。地図を見ながら会場に向かっていたはずなんだけど気づいたらこんな場所に迷い込んじゃって」
「……」
 配布された地図はそんなに分かり難かったかと環は自分の地図を見る。シンプルだがきちんと目印になる建物を書いてあるし、入学式に向かう他の学生たちの後についていけばたどり着けるはずだ。もしかしなくてもこいつは極度の方向音痴なのか。
「ねぇ、もしかしてあなたって方向音痴?」
「あ~そうかもしれない」
(かも、じゃなくてそうよね)
 病的な方向音痴の彼女を放置するわけにもいかないので、環は彼女の腕を取り歩き出す。
「ほら、案内してあげる」
「え、いいの?」
「いいわよ。このままあなたを放置したら行方不明者として捜索願が出されるかもしれないしね」
「うわぁ……そんなことあり得ない!って言えないのが辛いなぁ」
 大人しく後をついてくる彼女に環はそういえばお互い自己紹介がまだだったと気づく。
(別にしなくてもいいかしら。どうせこの子も私と仲良くなんてなれないんだし)
 どうせこの子も今までの奴らと一緒だ。ならわざわざ自分の名前を伝える必要はない。
 やがて入学式会場に到着し、環は手を離す。
「はい、着いたわよ」
「ありがとう!本当に助かったよ~」
「別に……あ、あなた学科はどこなの?学科ごとに席が決まっているから気を付けるのよ」
「私は国文学科だよ。えーと、国文はどこに座ればいいんだ?」
(なんだ、私と一緒か)
 これでもし違う学科だったらここで別れても良かったのかもしれないが、同じ学科なら最後まで面倒をみてやろう。
「私も国文学科だわ。おいで、連れていってあげる」
 もう一度手を握り、国文学科の席まで彼女を連れていく。
「どうやらここら辺に国文学科の人は座ってくださいという指示はあるけれど、席自体は自由みたいね。そりゃそうよね、まだ自分の学籍番号も分からないんだし」
「席は自由なんだね?じゃあ……一番後ろに座ろっと」
「……」
「ほら、早く」
 どこに座ろうかと立ち尽くしていると、方向音痴の彼女が環の腕を取り隣に座らせる。
「……」
「いやぁ、ここまで案内してくれてありがとう!……あ、あなたの名前をまだ聞いてなかったね。私は星野未来です、よろしく」
「……桐谷環よ。よろしく」
 差し伸べられた未来の手を握り、握手を交わす。
(なんだ、この感じ……)
 未来からは下心を全く感じられなかった。今まで環と親しくなりたいと近づく人間は下心だらけだったというのに。
(あぁ、そうか。この子……未来はまだ私がどんな人物か知らないからだ)
 環のことをよく知らないのに握手を交わし、笑ってくれた未来。この子は損得を考えないで人と付き合う人なのかもしれない。
(それなら……少しは信用出来るかもしれないわね)

 そして未来と環は入学式での出会いをきっかけに仲良くなった。大学生活が始まり、相変わらず環に勝手なイメージをつくる奴や、由利のように環をアクセサリーか何かのように考えている奴もいたが環は孤独を感じなくなった。今までなら所詮こんなモノかと、自分は一生本当の友情に触れることはないと、嘆息していただろうが今はそんなことない。
「未来」
「ん、どうしたの環」
「いや、別に」
 環には未来がいる。環自身を見つめてくれ、自分の利益のために人と付き合わない。こんなに素直で素晴らしい人間はきっと未来しかいない。
(私には未来しかいない)
 そう、環には未来しかいない。これほどまでに未来に心酔している環はどんなことがあっても、他人には話せない過去を未来が抱えていたとしても……そんなのは大した問題ではない。
(ただ、未来が自分の傍にいてくれたら……ずっと私を見つめてくれていたら……それだけで幸せなの)


「はい、私の話はこれにて終了」
「え、もう!?」
「なに、文句でもあるの?」
「いや、なんか……環が私のことを大事に想ってくれているのは分かったというか……それは普段から実感しているかたいいけど。きっかけが分からないよ」
「そう?」
 どうやら環も人知れず悩みを抱えていたことは分かった。でも一体どうして未来が特別な存在になったのか……説明不足だ。
「……私はなんとなくだけど分かったよ」
「嘘、茉莉奈は共感出来るの?」
「共感というか……私と似ているよ。私のことを初めて肯定してくれた人が未来だった。そしてイメージで塗り固められた環ではなく、環自身を見つめて利害関係なんて考えないでただ素直に、環に笑いかけてくれた人が、未来が初めてだったということだよ」
「あら、正解。茉莉奈の割には頭の回転がいいわね」
「どうも」
「へぇ……」
 未来はどうも知らないうちに環の心を救っていたようだった。
(私ばかり二人に助けられてばかりだと思っていたけれど、私たちは支え合っていたんだね)
 少しでも二人の支えになれていて良かったとしみじみ感じた。
「さて、最後は未来よ」
「あ、そっか」
「大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
 正直言って怖い。自分が今から話そうとしていることは環と茉莉奈の話とは毛色が違う。
「……抱え込んでいる全てを話しなよ……。そうしたら未来はもう辛い想いをしないで済むわよ」
「……」
「未来が他人には話せない過去があったことぐらいとっくの昔に気づいているわよ。でも……いつまでも過去に囚われていたら未来は幸せになれない。……全てを打ち明けることで忌々しい過去とそれに囚われ続けていた自分から卒業しよう、ね?」
 環は優しく未来の肩を抱く。
「……ありがとう、じゃあ聞いてくれるかな」
「もちろん」
「うん」
「もしかしたら不快な気分にさせるかもしれない、私のことを嫌いになるかもしれない。でもお願い……聞いてほしい。ずっと秘密にしていきたい気持ちもあるけれど、やっぱり誰かに聞いてほしかったんだ」
「安心して、私はどんな過去でも未来を受け入れるわ」
「私は……未来の過去を知ることがちょっぴり怖いけれど、大丈夫だよ。聞かせて?」
「……じゃあ二人に内緒にしてきた私の昔話を始めるね」



28



 もう五、六年も前のこと未来は高校一年生だった。これから始まる高校生活に不安と期待に胸を躍らせていた。そんな気持ちが浮ついているころ、未来はある女の子と親しくなった。その子の名は美琴といった。美琴は高い位置で括ったポニーテールがよく似合う女の子だった。いつも笑顔で、明るくて、誰にでも分け隔てなく接する良い子だった。そんな子と未来は友達になった。自己紹介のときに未来と美琴って響きが似ているねと、美琴が話しかけてきたのが仲良くなったきっかけだったと記憶している。
「美琴は本当にいい子だったよ。人の悪口なんて言わないし、笑顔を絶やさずに……本当に心が綺麗な子だった。そんな美琴と一緒に過ごす毎日がとても楽しかった」

 昨日見たテレビの話で盛り上がったり、苦手な数学の宿題を二人で力を合わせて解いたり、二人だけの秘密場所を見つけたり……それはそれは本当に楽しい毎日だったよ。自分は美琴と違って社交的ではなかったから、美琴以外の友達はいなかった。だからといって孤立しているわけではなかった。挨拶を交わす顔見知りもいたし、美琴経由で雑談をする程度の知り合いだっていた。
「孤立しなかったのも美琴のお蔭だと思うんだよ。あの子の友達だから周りの人たちも私のことを色眼鏡で見てこなかったし」
 空を見上げ未来はふうと小さく息をつく。
「……」
 目を閉じ美琴の笑顔を思い出す。太陽のように輝く笑顔がとても懐かしい。悪意を持って他人を傷つけることなんて絶対にしない、清らかな笑み。未来は美琴のように真っ白で純粋な人間と初めて出会った。まさか、ここまで心が美しい人がいるなんて思いもしなかった。
(……でも、人の心は変わっていくモノ)
 目を開き、話を再開する。
「まぁ、そんな風に喧嘩も、事件もない平穏な日常を送っていたんだ」

 そんなある日、高校二年生の中頃に転校生がやってきた。その子は玲奈というんだけど無口で、話しかけても反応せずに常に俯いているような子だった。良く言えば大人しい、悪く言えば暗い子だった。当初玲奈のあまりにも重苦しい雰囲気にクラスのみんなは少し引いてしまったけれど、何か事情があった子なのかもしれない、人見知りが激しい子なのだと思いしつこく話しかけたり、揶揄ったり、玲奈を不快な気持ちにさせる行動をする人はいなかった。
 玲奈が転校してきて二週間ほど経過したころ、相も変わらず玲奈は一人だった。何人かは玲奈とお近づきになろうと努力してみたようだが、なしのつぶてだったらしい。未来は内心勿体ないと思っていた。玲奈は静かというか……湿っぽいイメージばかりが浸透していたが玲奈は綺麗な顔をしていた。雪のように真っ白な肌に、血色の良い真っ赤な唇。そして肩まで伸ばされた艶やかな黒い髪。まるで白雪姫のような……とにかく海の向こうの童話に出てくるお姫様みたいな儚い美しさを持っている子だった。みんなが玲奈に話しかけるのを躊躇するのは外見も原因の一つだっと思う。絵に描いたように綺麗な顔をした玲奈においそれと近づくには気が引ける。かといって仲良くなるには話しかけないと始まらない。でも人形のように整った玲奈を前にするとみんな緊張してしまい、上手く立ち回れない。
(……ほんの少しでもいいから笑ってみたらもっと可愛くなるのになぁ)
 いつも無表情で、何の感情も映さない瞳をした玲奈を見つめながら未来はそう思っていた。しかし自分は美琴のように話し上手でもなかったし、玲奈と親密になろうと考えてもいなかったので一クラスメイトとして玲奈と接し続けた。
 玲奈が我が高校にやってきてから一か月経った。やっぱり玲奈は今日も一人だった。ここまでくると玲奈を気持ち悪がる人も現れた。感情のない人形だとか、幽霊みたいだとか、不気味だとか……。玲奈に特別な感情なんて持っていなかったが、さすがに悪口を聞くと気分が良くない。
「ねぇ、みんなして酷いよね。玲奈ちゃんの悪口ばかり言って」
「あ~……そうだね」
「あまり元気な子ではないけれど、仕方ないよね。あれがあの子の性格なんだろうし、もしかしたら何か辛いことがあって転校してきたかもしれないのに」
「そうだね」
「美琴はどう思う?」
「私?」
「うん、だって美琴っていつもこういう時、率先して陰口を叩く人を叱りつけるじゃない。それに一人でいる子には積極的に話しかけるのに……今回は玲奈ちゃんに近づかないなぁって」
「……」
「美琴?」
「……それってさ、玲奈ちゃんに関して何も行動を起こさない私を責めているわけ?」
「え!違うよ!そういう意味で言ったんじゃないよ……。もし嫌な気持ちにさせたならごめん……。でも本当にそんな意味じゃなくて……」
 その時今まで聞いたことのない美琴の低い声が恐ろしくて未来はすぐに謝った。
(どうしよう、怒らせた……。確かに私のさっきの発言は良くなかった。美琴に問題の解決を強制していると解釈されても文句は言えない)
「……」
「……美琴……」
「私こそごめん、少しだけ神経質になっていたみたい!気にしないで!」
「……そっか、本当にごめんね」
「もういいって~」
 美琴が怒っているわけではないと分かり、未来は胸をなで下ろす。もう美琴の前では玲奈の名前を出さないようにしようとその時、何故か思った。今思えばそれは予感というのか、本能は分かっていたのかもしれない。

 玲奈の話題を出さないまま過ごしていたある日、未来は玲奈と二人きりという異様な状況になっていた。忘れ物に気づいた未来が教室に戻ると、とっくに下校したはずの茉莉奈がいたのだ。驚いた未来はついつい玲奈に話しかけた。
「あれ、玲奈ちゃん。帰ったんじゃなかったの?玲奈ちゃんも忘れ物?」
「……」
(やっぱり反応なしかぁ)
 分かっていたことだが、返事をしてくれないのは結構悲しい。
(えーと、あ、あった)
 机の中を漁り、忘れ物を手に取る。
「よしっと……て、何?」
 顔を上げると玲奈が未来の目の前に立っていた。一瞬不気味だなと思ったが、そんな失礼なことを考えてはいけないと頭を振るう。
「どうしたの?私に何か用事かな」
「……未来さん……」
「!」
 初めて玲奈の声を聞いた。いつも挨拶をしても軽く会釈するぐらいだったし、先生と会話している時も物凄く小さい声だったからこの数カ月の間に玲奈の声を聞く機会なんてなかった。
(……綺麗な声だなぁ)
 玲奈の声は見た目と同じくか細く、今にも消えてしまいそうだったがとても綺麗な声色だった。
 じっと顔を見つめていると玲奈は照れた様子で目線を下げてしまう。
「あ、それより何かな?」
 未来の名前を呼んだということは私に用事があるのだろう。そう思い言葉を待っていると、玲奈はとんでもないことを口にした。
「実は私……一目見たときから未来さんのことが好きでした」
「?」
(どういうことだ)
 理解が追い付かない。好きとは一体?それはあれか、友達になりたいとかそういうモノか。そうだろう、まさか……恋愛感情なわけがない。
「えーと、そうなんだ……ありがとう?」
「未来さん、私の言葉をよく理解していませんね。私はあなたのことが好きなんです」
 そういうと玲奈は未来の頬に触れ、妖艶に微笑む。いつも人形のようにニコリともしない彼女が笑っている。そのことが何故かとても恐ろしいことのように感じられた。
「……!」
「未来さんだけです。他の人は私の陰口で盛りあがり、中には私に直接酷い言葉を投げかける人だっていた。けれど未来さんは一度だって私のことを悪く言わなかった。それにずっと挨拶もしてきてくれる……そんな未来さんのことが私は……」
「何してるのよ!気持ち悪い!未来から離れて!」
 誰かが玲奈に向かって鞄を投げる。鞄は頭に直撃し、玲奈はバランスを崩し地面に崩れ落ちる。
「未来、帰ろう!こいつは頭がおかしいんだよ!相手にしちゃ駄目!」
「ちょっと美琴!?」
「……」
 美琴は未来の腕を引っ張り、物凄い勢いで教室を飛び出した。その様子を玲奈はいつもの無表情で見つめていた。
 そこからだ、未来と美琴の中に玲奈が加わったのは。美琴は最初狂ったように玲奈が未来に近づくのを阻止していたが、次第に疲れたのか放置するようになった。一方未来は突然の変化に頭がついていけなかった。どうして美琴はここまで玲奈を拒絶するのか、なぜ玲奈は未来に執着するのか。全く分からなかった。
「当時は不気味だったよ。いつも明るくて優しい美琴が玲奈に向ける鬼の様な形相に……いつでもどこまで私の傍を離れようとしない玲奈……一体何があったのか分からなかったからね」

 玲奈と一緒にいるようになってから未来の平穏な日常が徐々に崩れ出した。美琴も変わってしまった。全ての人に優しかった美琴が攻撃的な性格になってしまい、未来以外の人と言葉を交わさなくなってしまった。あまりの変貌ぶりに未来は何度か何かあったのか聞き出そうとしたが、美琴は何も言わなかった。
 そんな奇妙で暗鬱な毎日を送っていると、玲奈からある話を聞かされた。
「実は私ね、前の学校で問題を起こしたんだ」
「……そうなんだ」
 本当なら玲奈を振り切ってしまえばいいのに、未来は玲奈を無視出来なかった。玲奈に同情していたのだ。みんなに気味悪がられ、孤立している玲奈を見捨てるほど未来は大人ではなかった。だから、未来は玲奈の話を聞いてあげていた。
「前にいた学校は女子高で、カトリックだったのよ。しかも厳しいの。今どきそんな校則が存在していたのかってほどに古臭いところだよ」
「……へぇ」
「そんな時代錯誤な学校だったから普段から学生の言動も規制されていたんだ。カトリックの教えにそぐわないモノや人を好きだなんて知られたら説教されたよ」
「それは酷いね」
 そんな学校は映画や小説の中にしか存在しないと思っていた。
「酷かったよ、お蔭で私は学校を追い出されたの」
「一体何をしたの」
 何が可笑しいのか玲奈はくすくす笑う。
「ねぇ、禁断の愛って言葉聞いたことある?」
「あぁ、よく映画のキャッチフレーズであるよね。あれだよね、世間一般的に許容されない愛のことを言うんだよね」
「うん、未来はさ……禁断の愛ってどんなモノがあると思う?」
「どんなのって……近親相姦とか不倫……幼児愛とかじゃない?」
「ふーん……それだけ?」
「うん」
「じゃあ未来にとっては禁断の愛でもなんでもないことが原因で私は学校を追い出されたことになるんだな」
「……玲奈……あんた何したの」
「……女の子と愛し合ったの」
「え?」
 玲奈の真っ黒な瞳が未来を見つめる。
「同級生の女の子と私は愛し合ったの。それが先生たちにばれて、怒られたの……。それで学校中の噂になってね……シスターに学校の恥さらしになるからって転校を勧められたの」
「……そんなことが……」
 ショッキングな内容に未来は言葉を失った。
「……相手の子はどうなったの」
「その子も違う学校に行ったよ。ちなみにもう連絡はとっていないよ。向こうの親にお願いだから関わらないでくれって言われちゃった」
「……」
 未来は何も言えなかった。やっぱり玲奈は予想通り訳ありだったのだ。きっと前の学校で負った傷がまだ癒えていない。だから誰とも口を利かず、自分が傷つかないように他人と距離を置いていたのだ。
(……もっと早く気づいてあげればよかった)
 そうすれば周囲の誤解も解けたのに。
「……辛い過去を話してくれてありがとう」
「ん?未来が感謝する話しなんだ、これ」
「玲奈は気づいていないかもしれないけど、あんたはまだ心の傷が癒えてない。だから無理しないでいいんだよ」
「……」
 玲奈の癖一つない綺麗な黒髪を優しく撫でる。そうすると玲奈は気持ちよさそうに目を閉じる。
「ふふ……未来って優しいよね。やっぱりあの子に似ているだけあるよね」
「あの子って?」
「……私が愛した子……」
 うっとりとした玲奈の瞳には未来ではない誰かが映っていた。
(そうか、玲奈は愛した子に似ている私にその子を重ねているんだな)
 自分を通して自分ではない誰かを見ているのを気分が良いモノではないけれど、それで玲奈の傷が少しでも癒えるならいい。


 秘密を知った未来は以前より玲奈と親しくなりつつあった。そんな状況が面白くないのは美琴だった。何度か美琴に玲奈との関係を注意されたが、やっぱり傷心の玲奈を突き離せなかった。美琴もそれを黙認しくれていたある日、ついに美琴の堪忍袋の緒が切れた。
「どうして玲奈ばかり優先するの?未来と先に友達になったのは私だよ。どうして私を一番に考えてくれないの」
「そんなこと言われても……美琴は知らないかもしれないけれど、玲奈は前の学校で辛い想いをしたんだよ」
「……そんなこと随分前から知っているよ。あれでしょ、未来と玲奈の元恋人がそっくりなんだよね?」
「なんだ、知っていたのか」
「……未来とその子が似ているからって何よ。未来は未来でしょ。玲奈は未来じゃなくて遠くにいる人のことを見ているのよ。そんな……未来自身を見てくれない人間なんて相手にしなくてもいいじゃない」
「……」
 確かに美琴の言う通りだった。それでも今、玲奈を一人にしてしまうと良くないことが起こりそうな予感がする。
「……もう少しだけ……今、玲奈を一人にしてはいけないよ」
「……もういいじゃん!玲奈なんて……あんな奴……う、なんでもない」
「……」
 美琴は寸でのところで言葉を飲み込む。恐らく攻撃的な言葉を口走りそうになったのだろう。
「……別に私は玲奈がこの世から消えてほしいとか思っていないよ。ただ、未来の傍から離れてほしいだけ」
「……でもそれは厳しいよ。正直今は玲奈に否定的な人ばかりだしね……。陰口の内容は日に日に酷くなっていっているし」
「……死ねばいいとか、消えろとか言われてるね」
「うん、いくらなんでも酷いよ。玲奈は前の学校でもきっとそんな暴言に苦しんだはず。だから今度は誰かが守ってあげないと」
「……未来は正義の味方なんだね……」
「……」

 願い虚しく状況はさらに悪化していった。玲奈は変わらず未来に依存し、未来も玲奈の同情心からその手を振りほどけない。美琴の余裕は失われていく。そして玲奈の態度が気に入らない人々の陰口はヒートアップしていく。休み時間、玲奈に聞こえるように「死ねばいいのに」とか「消えろ」とか心無い言葉を平気で口にする人たちが増えつつある。どうしたらいいのか、どうしたら玲奈の傷を癒せる、何をしたら美琴の笑顔は戻る。もう分からない。
 玲奈を助けたいという気持ちとは裏腹に未来は疲れ切っていた。自分の椅子に座り頭を抱える。
(駄目だ、玲奈だってもう少し協力的になってほしい。私以外の人に挨拶されても無視しないでよ。このままじゃあんたはいつまで経っても救われないよ)
 もう限界かもしれない。自分では玲奈を救えないと未来は気づく。
「はぁ……」
「未来……」
 疲弊しきった未来を心配そうにのぞき込む美琴に笑いかける。
「ごめん、大丈夫って……玲奈」
「……」
 フラフラと覚束ない足取りで玲奈は未来の前に立つ。心なしか顔色が悪い。
「……未来……私って生きる価値がない人間?」
「……突然どうしたの?誰かに言われたの?」
「……ねぇ、未来……私は死んだほうがいい?」
「……やめて、そんなこともう言わないで。私は玲奈に生きてほしいから……お願いだから……」
「……」
「……」
 静寂が包む。あの時、少しでも玲奈の瞳を見てあげていたら……止められたかもしれないのに。
「……未来……みんなが私に酷いことを言うの……どうして?ねぇ、未来、助けてよ……」
「……」
「ちょっと、玲奈、やめなよ!」
(もう駄目だ)
 玲奈は時折こうやって自分が生きていても赦される存在なのかどうか、未来に問い詰める癖があった。玲奈にいなくなってほしいなんて思ったこともない未来は毎回必死になって、玲奈を説得していた。しかしいい加減限界だった。何度説得しても、また同じことを聞いてくる。そんな終わりのない繰り返しに未来は疲れ切っていた。だから……未来は玲奈にとても酷い言葉をぶつけてしまった。
「……玲奈!いい加減にしてよ。私は玲奈の心の傷が少しでも癒えてくれたらいいって、いつかは明るく笑えるようにしてあげたいって頑張っているのに……。どうして玲奈は変わろうとしてくれないの?このままじゃ駄目なことぐらい玲奈だって分かっているよね!?……もし、もしも本当に玲奈が死を望んでいるのなら私は止めないよ。もう好きなようにすればいい!」
「……」
「……」
 しまった。あまりにも独りよがりな言葉を玲奈に言ってしまった。こんなの、こんな言葉を聞いた玲奈は傷つくに決まっている。
「玲奈……」
 謝ろうと手を伸ばすと、玲奈はポケットから何かを取りだし未来の掌にのせる。
「?」
 見てみるとアイビーの花があった。
「……玲奈?」
「ねぇ、未来……アイビーの花言葉を知っている?」
「……知らない」
「そっか、じゃあ教えてあげる」
 未来の手を握り、その手に口づけると玲奈はそっと囁く。
「アイビーの花言葉はね……死んでも離れないだよ」
「……!」
「じゃあね、未来。死んでもずっと傍にいるからね」
 その瞬間、未来の目の前が真っ赤に染まった。一体何が起きたのか分からなかった。数秒、数十秒、いや、数分?未来は茫然と玲奈を見つめていた。鋭利な刃物を首元にあて、溢れ出る血で全身を染める玲奈。未来はただ見ていることしか出来なかった。
 やがて美琴の悲鳴が轟き、未来は我に返る。
「……未来!玲奈が……玲奈が!」
「お、落ち着いて……先生、そうだ先生を呼ばなきゃ」
「うぅ……」
「……私が呼んでくるから待ってて」
 自分の頬に勢いよく噴き出した玲奈の血がついていることにすら気づかずに、未来は先生を呼びに行った。

 先生を呼び、救急車が到着すると学校は騒然としていた。野次馬が集まり、グランドからこちらを指さす学生、慌てふためく先生たち、もう助からないことを悟り冷静に対応をする救急士……。目の前で起こっている出来事なのに遠く感じる。
(……玲奈は死んじゃったのか……)
 玲奈に手渡されたアイビーの花を強く握りしめる。
『死んでも離れない』
 玲奈のあの言葉は果たして未来に向けられたモノだったのか、それとも未来にそっくりだという……かつて愛し合った少女に向けられた言葉だったのか。真相は分からない。そして……未来が玲奈に謝るチャンスも失われてしまった。
 未来と美琴は一週間休みを貰えた。その間に玲奈のお葬式があったらしいが、家族葬だったようで未来も美琴も知らない間に玲奈は骨だけになってしまっていた。
 休みが明け、登校すると未来は好奇の視線に晒された。仕方がない。予想していたことだ。なるべく気にしないように努めた。しかし日に日に視線は強くなっていった。最初は興味本位からの視線だったのに、次第に悪意が混ざるようになった。それに伴い未来の悪口を聞くようになった。「人殺し」「星野が玲奈を自殺に追いやった」「事件以来登校してこない美琴も星野に虐められていた」だとか根拠のない噂で持ち切りだった。
(……辛い、苦しい、逃げたい。けれど逃げちゃ駄目だ。私なんかよりも玲奈の方がずっと悲しい想いをしたんだ。……これが罰だ)
 未来は卒業まで「人殺し」と後ろ指を指され続けた。そして美琴はあの日から一度も学校に来なかった。何度か連絡をとろうと試みたが繋がらなかった。未来は一気に二人の人生を壊してしまったのだ。
(もし、あの日……私が玲奈にあんなことを言わなければ今頃……)
 あったかもしれない日々を夢想しては胸を痛める。二人の笑顔を奪った自分は赦されない存在だ。こんなに罪深いことをしてしまった自分には幸せになる資格なんてない。
(私は一生孤独に生きなければいけない……このアイビーの花と一緒に)
 アイビーの花は押し花にし、いつも持ち歩いている。自分が犯した罪を、美琴と玲奈の存在を忘れないように。
(これがせめての罪滅ぼしだ)
 美琴と玲奈のためにも未来は「人殺し」として生きて、孤独に生きていくと決めた。それなのに……未来はやっぱり孤独に耐えきれなかったのだ。
「環と茉莉奈……二人に出会ってしまった私は愚かにも二人からの愛を欲してしまった。そんなことを望める立場なんかじゃないのに……それでも」
 黙って未来の話に耳を傾けてくれていた二人の手を握る。
「……それでも二人とずっと一緒にいたいの。環と茉莉奈と一緒にいるときだけは辛い過去を忘れることが出来た。心から笑うことが出来た。こんなにも幸せな時間を手放したくないんだ……ごめん、ごめんね……」
 未来の瞳から涙が流れ落ちる。この謝罪は誰に向けられたモノなのか自分でも分からない。でも、誤らなければいけないと思った。
「ごめんね……ごめん」
「……」
「……」
 泣き止まない未来を環と茉莉奈はそっと優しく抱きしめる。そんな三人を星たちはずっと見ていた。


29



「……はぁ……ごめん、ちょっと情緒不安定になっていたみたい」
 漸く落ち着いた未来が涙に濡れた目元を乱暴に拭う。
「ううん、大丈夫よ。だから無理して笑わないでいいのよ」
「環……」
 自分自身に嘘つくことが上手な未来は普段から無理をする。そのことをよく知っていた環は自分たちの前では無理をする必要はないと、弱い部分を曝け出してもよいのだと未来の頬を撫でる。
「……話してくれてありがとう」
「……私こそありがとう。全部聞いてくれて……」
「全てを話すのは辛かったでしょう?」
「まぁね、でもいつまでも秘密にしとくわけにはいかなかったし……。自分の過去を一言も語らない、秘密主義者のままじゃあ環と茉莉奈の親友でいられないと分かっていたし」
「未来には過去を洗い浚い打ち明けてもらうことで、過去から卒業してもらおうと考えていたのだけれど……少し荒療治すぎたかもしれないわね」
 環と茉莉奈に心を開いても尚、過去を一切語らない未来のことだから何かあったとは勘付いてはいたが予想より辛い過去を背負っていたことが分かり、環は驚いた。未来の人の良さが災いし玲奈という子に縋られ、女特有の嫉妬心を燃やす美琴に責められ、自分の無力さに嘆き……目の前で起こった友の死、そして他人からの心無い攻撃。環は未来に罪など存在しないと思っているが、未来は玲奈が死んでしまったあの日から全ての責は自分にあると思い込んでいる。玲奈を死に追いやったのも、美琴の笑顔を奪ったのも……自分の罪だと。そんなことないのに、未来は何も悪くないのに。ただ、二人の友人を愛し、二人の笑顔を守りたかっただけなのに。
「嫌なことを思い出させたと思うけれど、話してくれて嬉しかったわ」
「私も話せて良かったよ」
 ニコリと力なく笑うと未来は恐る恐る茉莉奈に顔を向ける。先ほどから無口の茉莉奈。過去を知り、失望されたのではないかと不安で堪らなかった。
「……未来」
「な、なに?」
 ずっと無反応だった茉莉奈が顔をあげ、未来を見つめる。その瞳には怯えや嫌悪という感情は見当たらない。
「ごめん……私はやっぱり弱い人間だったよ」
「え、何が?」
 いきなり茉莉奈に謝罪され、未来は訳が分からなかった。弱い人間というのは未来のことだ。美琴と玲奈の幻影に何年も怯え続け、罪の意識に苛まれ孤独に生きていかなければいけないのに、環と茉莉奈という自分を受け止めてくれる救世主に甘える。そんな自分こそが弱い人間なのだ。
「実は、私……由利ちゃんの言う通り未来が人殺しなのかもしれないと疑って、未来の過去を全て受け入れられる自信なんてなかった。無意識に抱いていた自分の中の未来が壊れるんじゃないかって怖かったの」
「……」
「でも、でもね未来の話を全部聞いたとき……怯えも軽蔑もしなかった。ただ、自分を軽蔑したよ。一方的に未来を神格化して、自分が求める存在でいてほしいという我儘を平然と未来に押し付けていたことに気づいたよ」
「……うん」
「……私はもしかしたら、玲奈のように未来という存在そのものを見ていなかったのかもしれない。自分が理想とする人物を未来に重ねていたと思う……」
「そっか……」
「……ごめん。本当にごめんなさい。未来はこんな私を認めてくれたのに、私は……本当の未来をしっかり見つめていなかった……」
「別に謝る必要はないよ。茉莉奈は自分の理想を私に押し付けたって思っているかもしれないけれど、そんなこと一度だって感じたことないよ。茉莉奈は私のことをちゃんと見てくれていたよ」
 あの日の時のように茉莉奈を腕の中に閉じ込める。さっきまでは未来が慰められていたのに……。
(ふふ……でも悪くないなぁ。私たちは一緒にいると平等ってことだもんね。どちらかが守り、どちらがか守られる立場だといつか均衡は崩れてしまう。これでちょうど良い)
 茉莉奈の頭を撫でていると、環も言いづらそうに口を開く。
「……私も未来に謝らないといけないことがあったわね」
「え、どうして?」
「……だって、未来はその……美琴さんと玲奈さんの間に挟まれて苦しい想いをしたんでしょう。どちらも同じくらい大切に想っているのに……」
「あぁ……確かにそうだね。もし、美琴と玲奈の仲を上手く取り持てたならって後悔するときもあるよ。二人の一番が私でも、いがみ合う仲でさえなかったら三人でいられたかもしれないなぁって」
「……そうよね。未来はどちらが大事とかじゃなくて、どちらにも同じだけ愛を注いてくれているものね」
「……で、それがどうかしたの?環が私に謝らないといけないことって?」
「……私は未来を独占したとずっと思っていたの。茉莉奈と笑い合っている姿も見たくない、これから新しい人々と親しくなんてしてほしくない……ずっと私の傍に、私だけを見ていてほしいって。ずっと思っていたの」
「……」
 薄々環の異常な独占欲に気づいてはいたが、面と向かって言われるとやはり戸惑ってしまう。
「そっかぁ。うーん……勘付いてはいたけどね……」
「やっぱり?」
「そりゃそうでしょ。環が未来を見つめる瞳は熱っぽいし、なんというか……不気味だったよ」
「なによ、茉莉奈は黙っときなさい」
 未来に抱き着いたまま茉莉奈は環を挑発する。そんな二人のやり取りに未来は笑みを零す。
(環が茉莉奈さえも蹴落として、私の傍にいたいことは分かっていたよ。それぐらい私を求めてくれていることは嬉しかったけれど、やっぱり私は茉莉奈のことも大切だから。今度こそは三人一緒に幸せになりたいんだ……。この私の願いはきっと実現不可能だと諦めていたけれど、なんとなくだけど……叶えられる気がする)
 茉莉奈と子供っぽい悪口を交わした後、環は咳払いをし話を続ける。
「……つまりね、いくら未来の過去を知らなかったとしても私は未来を追い詰めることを願っていたのよ。それを謝りたかったの。ごめんなさいね、未来の幸せを無視して自分のことばかり考えていて……」
「……いいよ、気づいてくれたならそれでいいよ」
「……ありがとう」
「赦してもらえてよかったね」
「茉莉奈、いい加減黙りなさい」
 つい数十分前までは未来の過去を知ったことで二人とも気まずそうにしていたというのに、いつの間にか元通り笑えている。
(……二人とも無理して笑っている感じでもない。心なしかどこか吹っ切れているようにも見える)
「……あぁ、そっか」
 あることに気づいた未来がぼそりと呟くと環と茉莉奈は話しを止め、未来に視線を向ける。
「どうしたの?」
「未来?」
「ねぇ、私ね。まだまだ美琴と玲奈のことを引きずっている。時が経てば彼女たちへの罪の意識や思い出も薄れていくと思うんだ」
「うん」
「それで?」
「昔は時間と共に美琴と玲奈の記憶が薄れ、自分だけが幸せに過ごすことは決して赦されないモノだと思っていた。だから他人にも話してはいけないし、自分も自分自身を赦してはいけないと……でも」
 目を瞑り美琴と玲奈の姿を思い描く。太陽に明るく微笑む美琴、あまり感情を表には出さなかったが時折見せる笑顔が愛らしかった玲奈。二人とは悲惨すぎる別れ方を迎えてしまった。そのことは未だに後悔する。けれどあの出来事はもう過ぎ去ったこと。いくら後悔してもやり直せない。そんなこと未来だって、どこか遠くに行ってしまった美琴も……未来ではない誰かを追い求めていた玲奈だって分かっている。
「いつまでも、いつまでも……終わったことに囚われて、罪の意識だけを持って生きるだけでは駄目だって気づいたよ」
 未来が二人に罪悪感を抱き、勝手に罪を償う行為をしたって二人は報われない。むしろ未来がずっと美琴と玲奈の影に囚われている方が報われないのかもしれない。未来が罪の意識を持つことで、二人と友達だった楽しい記憶がないモノとされ、残るのは美琴と玲奈への恐怖と罪悪感。それだけ。そのせいで未来の心の奥俗では二人が恐怖の象徴となってしまっていた。
(私は……自分を責めるあまりに大切だった二人を恐れてしまった。それは駄目だ、私は……大切な友人を失ったことを悲しまないいけないのに、まるで……二人に自分が虐げられているような錯覚に陥ってしまっていたよ)
 目を開き、目の前にいる……環と茉莉奈を見る。
「初めて人に話して気づいたよ。私は過去の思い出を大切にしまっていたんじゃなくて、囚われていたって……。自ら光の届かない闇に閉じこもっていたよ」
「そう……」
「……」
「それでね、もう一つ気づいたことがあるんだ」
「何?」
「教えて」
 未来に顔を覗き込む環と茉莉奈の手を優しく握る。
「……どうやら環と茉莉奈に懺悔をしたことで、その呪縛から卒業出来たみたい」
「あら」
「……そんなあっさりと?」
「うん、自分でも吃驚したよ。他人に話したからといって過去の呪縛から解き放たれるだなんて……。ずっとこの気持ちを理解してくれる人はいない、話したところで気持ちが軽くなるわけがないと思っていたけれど……違ったね」
 二人の手を握ったまま、空を見上げる。星たちはまるで未来を応援するかのように一際強く輝いている。
「……私はここで誓うよ。これ以上過去に囚われないで前を向いて生きていくことを。もちろん美琴と玲奈のことは忘れない。恐怖の対象としてではなく、大切な友人として胸に残すよ。そして……これは私だけでは決められないことなんだけど」
「何かしら」
「何?」
 環と茉莉奈の手を繋がせる。二人は一瞬眉を顰めたが、そこまで嫌悪感を抱かなかったのか大人しくしていた。
「……私はこれからも大切な親友二人……環と茉莉奈と共に人生を歩んでいきたいと思っている。片方が欠けちゃ駄目なんだ。私にとって環と茉莉奈は特別な存在なの。そこには優劣はないよ」
「……」
「……」
「二人が一般的な友情とは違う想いを私に抱いていることも知っているよ。その感情を私は否定しないし、二人が望むなら受け入れるよ。ただし、環と茉莉奈……一緒にね。他人から見たら理解出来ないかもね。普通、特別な存在は一人だけみたいだから」
「まぁそうよね」
「普通代表の私が言うんだから間違いないよ」
「だよね。でも、私たちの関係に普通なんていらないよ。他人になんて口出しさせない、私たちがこうやってここに存在している間は間違った関係ではないということだもん……。ねぇ、二人は私と一緒に……生きてくれる?」
 涙ながらに未来は二人を見つめる。環と茉莉奈はしばしの間、苦虫を潰したような表情をしていたが、結局二人とも未来が一番大事。それなら断る理由なんてどこにもなかった。
「未来……もちろんでしょ。私だって今更未来と離れた日々なんて考えられないわ」
「私だって!未来と一緒じゃないと意味がない。だから安心してよ、私たちはずっと一緒だよ」
「そう、私たち……。茉莉奈と一緒というのは気に入らないけれど、最近のあんたは以前と違って自分の言葉で話すようになったからね……。認めてあげるわ」
「環に認めて貰わなくてもいいよ。……まぁ、前より環との距離も縮まったしね。他の誰かとよりはマシかもしれないね」
「……ありがとう」
 環と茉莉奈の返事に未来は心からの感謝を述べる。きっとこれからも美琴と玲奈への罪悪感が完全に消え去ることはないだろうが、今よりは少しだけ明るく生きていけるはずだ。そしていつか……笑顔で美琴と玲奈との思い出を語れる日がくるだろう。
(……さようなら、美琴……玲奈。私は漸く前を向けるよ)
 二月の寒いある日、未来は過去から卒業した。三人のやり取りを見守っていた星たちは新しい一歩を踏み出そうとしている未来と環、茉莉奈を煌々と照らし続けていた。
終わり

卒業旅行 後編

卒業旅行 後編

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-03

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