成り上がり退職後編

会社時代の同期の親友、北野光男君の死。横浜に家を買い、退職金を充てても、足らないので、投資の猛勉強で何とか食いつないでいく。父の死、避寒、病気療養の旅、大津波の時にプーケットへのツアーを偶然にキャンセル。その他、クルーズ、ラスベガスでの出来事、いろんな経験をした。2014年に心筋梗塞で大手術を経て、孫の誕生と続いた。(カクヨム、小説家になろう、にも、載せています。)

 第1話:北野君の病気見舞い

1997年は、ついてない事ばかりだった。最初に会社時代の同期の親友、
北野光男君の死。彼は腎臓が弱く十年前から人工透析をしていたが、
昨年から胸水がた溜まりだして大きな病院に入院してしまった。
今年の夏に彼から連絡があり病院に北島は、奥さんと見舞いに
行く事にした。8月は北海道といえども暑い、千歳空港に降り立ち
人混みをかき分けて札幌行きの列車に乗り込んだ。
 幸いに、女房共々、座る事ができて周りの景色を見ながら北海道は、
東京と違い、まだ、自然が息をしている。
 風になびく、木々や、花、草が、涼しげに見える気がして、ほっとする。

 札幌から、地下鉄と、市電を乗り継いで三十分で、その病院についた。
 平日なので北野君の奥さんは、看護婦さんとして他の医院で勤務しており、
お会いできなかった。病院の受付で病室を聞き、その階のナースステーション
で面会ノートに記入しての部屋へと入っていった。
 やつれてはいたが、それ程、変わらない姿だった北野は、うれしそうに
遠い所、わるいな、北島と言ってくれた。
 今日は、何か具合が良いんだと北野は言い、それから北島と昔話に
花が咲き一時間以上も面会する事になった。
 さすがに北島も身体に触るからと言い北野君に、お別の挨拶をした。
 すると北野君が今日調子良いからと玄関まで送るというのだ。
 遠慮したが、どうしてもと言うので一緒にエレベータに乗り一階へ
歩いて玄関まで来てくれた。別れ際の、なんとも言えない、人なつっこい
笑顔が今でも脳裏に残っている。

 その日は天気も良く、豊平川を眺めながら、札幌市街地へ歩く事にした。
 北野君に会いに、もう既に四回も札幌に来ているが、いつも感じるのは
豊平川に、 かすかな潮の香りがする事である。本州では海から
これだけ離れていて、海の香りがする川なんてないと思うが、豊平川では
薫るのだ。これで鮭が川を上がってくるのは、このせいかも知れないと、
思いを巡らす北島だった。15分歩いたであろうか、少し喉が渇き疲れたので
、風情のある喫茶店に入った。入ってみると、まるで昭和四十年代に
タイムスリップしたかの様な錯覚を起こしそうな懐かしい造りの喫茶店。
 ウェイトレスが注文を取りに来たので珈琲好きの北島はウインナー珈琲
を頼んだ濃いめの珈琲にたっぷりの生クリームが目を引き大きめの
カップに入って出てきた。口に入れた時、芳醇な生クリームを感じ
続いて苦みばしった濃いめの珈琲が、また旨い。
北島は奥さんと北野君の話や雑談を三十分位して店を後にし
市電に乗り終点の停車場から数分の今晩泊まる、すすき野の
ホテルにチェックインした。翌日は北海道神宮や円山公園を
散歩して札幌を後にした。そして横浜の自宅に戻った。
 
 4日後の朝早く北島家の電話が鳴り響いた。北島の奥さんが
最初に電話に出て、かなり大きな声で話して北野さんが
危篤ですってと言った。つい先日、元気な姿を見たばかりなので
信じられない気持ちで北島に電話をかわった。
 北野君の奥さんが先週のお見舞いに来た後、夕方から病状が
急変して集中治療室に移ったと言った。そして今朝、危篤状態に
なったそうだ。もし、また何かあったら連絡して下さいと
告げて電話を切った。北島は、病院で亡くなる前に一度、
急に元気になり、その反動の様に、容態が悪くなり
死亡した例を数多く見ているので、先日のお見舞いの時の
北野君の異様な目の光が思い出されて気が重くなってしまった。

第2話:北野君の、お葬式

 そして、数日後、1996年九月に北野君の死亡の連絡が入った。
 ついに、その時が来たかと北島は観念しており冷静に、お通夜と告別式
の日程を聞き出席する旨を北野君の奥さんに告げた。通夜の日、朝早く
羽田から北海道へ、その日は肌寒い感じがするくらいの日だった。

 札幌駅から地下鉄で北野君の家の近くの駅そばの葬儀場に昼過ぎに
ついた。会社関係者も多く北島が出席するのを知らなかったせいか
驚いて迎えるのだった。奥さんが近寄ってきて遠い所、ご苦労さんですと
挨拶したのだ。
 そして北野君の顔を見ると、すぐ、あついものがこみ上げてきてしまった。
 会社内では北野君との関係は、あまり話していなかったので社内の連中は
一様に驚いていた。香典を渡そうとすると、北海道では会費制の葬式だそうだ。
 事務手続きを終えて彼の家族に、お悔やみ申し上げた。北野君の兄弟が
東京から来ており、お酒をつぎに来たのだ。彼のお兄さんから北野家の話
を聞いたのだった。北野君の父が北海道でなく福井県の出であり、
廻船問屋を営んでおり羽振りが良く商売の関係で最初は小樽に住んで
商売をしていそうだ。その後、商売が順調に運び会社も
大きくなり札幌に出てきた様だった。

そして、おめかけさんも数人いて仕事も遊びも豪快だったと話した。
 しかし、その後の遺産相続では複雑な利害がからみあって、
大変だった様だ。北野光男君も末っ子で本妻の子でありながら
小さい頃から、随分、寂しい思いをしたりしていた様だ。

 そして小さい時から、あの人なつっこい笑顔で大人に愛想を
振りまいていたのだと聞かさせれ、北野君を思い出すたびに、
涙がこぼれる北島だった。そうか北野君の時折見せる、あの寂しそうな
表情や人なつっこい笑顔の裏には、そんな秘密があったのだと思い知らされた。
 そして北野君の昔話をする事になり研修の時に長距離走でトップ争いを
していた事、北野君が退社した後にパソコンで話をしたことなどを語った。
 北野君の奥さんが北島さんとの話が大好きで時間になるのを楽しみに
していた事などを教えてくれた。そして投資や株の話など、
いろいろ話していた様だ。今日は、ここに泊まっていく様に、
すすめられてホテルをキャンセルして、その晩は葬儀場に泊まった。

 翌日、告別式には北野君が親しくしていた北海道大学の医学部の
助教授や開業した先生方が数人、来ていた。その中でも下田助教授は
北野君の功績をたたえ、北野君との思い出を涙ながらに語り続けるので
周囲から嗚咽か聞こえる程だった。彼の人なつっこい性格や笑顔でファンを
作ったのだろうと思うと北島も、もらい泣きするのだった。

 その後、霊柩車と共に、最後まで、つきあう事にした。北野君のお墓は
札幌郊外の緑多い広い墓地。帰り際に北野君の奥さんが申し訳ないけど、
いろんな事情があって奥さんの実家の方に身を寄せる事になると言った。
 多分、肉親、親類のめんどな事に苦労させられた様だった。
 わかりましたと答えるだけしかできない北島だった。午後の便で羽田へ
、そして夜遅く自宅に戻ってきた。その晩は疲れ切って、熟睡した。

第3話:投資の猛勉強開始と実践

 気分転換に桜木町から関内を散歩した時に、シティバンク横浜支店(桜木町)
を見つけて、1995年に、ふらっと入って、いろんな説明を聞いた。

 そこでは一千万円以上預金するとゴールドメンバーとして、
米ドルキャッシュは、無料で交換してくれるし、海外の投資商品への
アクセスもでき勉強会も開いているのだった。

 その他シティバンクゴールドカードとドルカードを年会費無料で
つくってくれるのだ。そのため、シティバンクをメインバンクに
する事にした。その頃、投資に興味を持ち始めていたので、
早速、口座を開くことにした。まず、シティバンクで、1996年に
SP500ETF三百万円購入した。次に考えたのが以前から勉強し
始めた日本株投資。意を決して、いろんな証券会社を訪問し始めた。

 水野証券で勉強会をしているので参加の誘いがあり、毎週土曜日、
通う事にした。1996年十月から通い始めた。資金一千万円を入金し
勉強会費用は無料となった。かなりのスパルタ式で、読むべき本まで
個人別に指摘してくれた。北島は熱心に勉強し、理解も早いようで、
ベテランの佐藤課長が、面白そうな銘柄をいくつか教えてもらった。

 特に、注目して銘柄は良品計画、1995年月上場で年が明けて
 1997年の一月五日に、佐藤課長から買いをすすめられて、
 千株を310万円で購入したの。良品計画は商品に付加価値を
 つけて販売する無印良品という考え方が消費者に受ければ利益率も
高いので企業としての将来性が高いと話していた。倒れて二年目にして、
やっと気力が出てきたので天気の良い日は横浜、みなとみらい、
山下公園などを散歩する様になっていったのである。耳鼻科の先生から
少しならドライブしても良いと言われ運転し始めたのだが一時間程度で
眠気が出てくるのだった。

 そのため買い物程度しか運転できない事がわかった。
 そして耳鼻科の先生に言われた様に、耳鳴りがし始めたら休む事。
 もし疲れて眠くなったら寝て下さいと言われていた通り、一日、数回、
仮眠する様にした。病気が回復してくると活力というかやる気が出てきます
ので時間をかけて、ゆっくり直していきましょうと耳鼻科の先生が言うのだった。

 そのため投資の本を読んで疲れたら休み、また本を読む生活を続けた。
 投資の本は、もう既に十冊以上を読み終えて、決算書は理解でき
次に有価証券報告書に挑戦し始めた。売上と利益の種類キャッシュフロー
の意味なども一応理解できた。そして近くのスーパー銭湯に毎週行った。

 身体があったかい時は、調子良くなるのだが湯冷めと共に元に戻る。
そして1997年も暮れて新しい年1998年を迎えた。佐藤課長の
勉強会で1998年七月の新規上場したドンキ・ホーテに注目している
と聞かされたこの会社はディスカントショップであるが店のつくりや
深夜営業など、若者を意識した業態であり今までにない新しさが、
受け入れられたら急上昇間違いないと言っていた。

 まず良品計画を1997年一月に千株、三百三十万円で購入した。
 その後、上場まもないドンキホーテ株を1998年の一月に一万株を
百五十万円で購入した。更に1998年七月新規上場のゴールドクレスト
に注目し買い値を探っていた所、上場直後の1998年七月末、二千株を
百八十万円で購入した。この三銘柄に総合計で六百四十万円の投資した。

 この時点で残金が五千六十万円となった。1999年に入り、
株価が急上昇してきたので、売り所を探り始め、1999年六月三十日に
ドンキホーテ株、一万株を三千百万円で売却。純利益二千三百万円、
七月二日にゴールドクレスト株を七千百万円で売り、純利益二千九十万円、
九月十三日に良品計画、二千株を四千八百万円売り切った。
 純利益三千五百万円。しかしソフトバンクの五百万円損失と、
トレンドマイクロの三百万円損失を出してしまった。
 以上を合計すると純利益の総計が、七千百四十万円となった。
 1999年終了時の総利益と残金合計が一億一千七百万円になった。
 そこで、家のローンの残金七千万円の完済した。それを引いた残金が、
四千七百万円になった。ローン完済と子供達が大学を卒業して社会に
出たので年間の生活費が三百五十万円程度に減って楽になった。
その後2000年のネットバブル崩壊で株価は急落していった。

第4話:避寒のために海外旅行

 1999年、20世紀は終わりを告げ2000年、21世紀の
始まりとなった、騒がれていた2000年問題も特に大きな問題
もなく杞憂に終わった。2000年の夏に水野証券の佐藤課長は
大阪の某営業所の所長として栄転していった。

 その後も佐藤課長とは電話で相談する事にした。
 ネットバブルは世界的な株式市場の低迷期間なので相場が回復する
まで何もするなと言われた。2001年にはシアトルはの
フィッシャマンズワーフでカニを食べに出かけた。うわさ通り、
うまかった。その後シアトルの象徴である、ニードルタワーを見学した。

 シアトルはパンだけでなく料理が全般的に、その他のアメリカの都市
にはない程、おいしいかった。シアトルに二泊してからアラスカ航空で
ラスベガスへ飛んだ。ラスベガスでは最初にヒルトン・ラスベガスに二泊。
ヒルトンの隣のコンベンションセンターではカーボーイ関連商品の
見本市が行われカーボーイ用の帽子、革の靴、鞭、牛を運ぶ大型トレーラー
など、いろんなものを売っていた。展示会場が広くて全部は回り
きれない。ラスベガスの特徴は、オンシーズンとオフシーズンの
ホテルの値段が4倍も変化する。北島は避寒の時期・冬はバーゲンシーズン
で一流ホテルでも百ドルと格安でパッケージツアーで夫婦でも十五万円程度。

 滞在ヒルトンホテルには靴磨きをするバニーガールも現れて興奮する
北島だった。折角だから豪華ホテルも見学見たいと思い、ベネチアンホテル
に移動した。まず天井のフラスコ画は素晴らしく印象的だった。

 そしてホテルの大きさ客室数も多分、世界屈指の大きさであろう。
ホテルの中を散歩してみると至る所に絵が描いてあり中に川が流れて
ベネチアの様に船頭付きのゴンドラ船が行き交っていた。近くのレストラン
へ歩いて行くのにも三十分近くる位でかい。お味の方はイタリア・ベネチア
を模しているだけあってピザや使っているチーズの旨さは本物。

 ファッションショーモールを見学して北島の奥さんがメーシーズで
バーゲンで半額で衣料品をを買い込んだ。帰国した翌年の冬に実家の
十五年前に中古で買った家の床がボコボコになり大工さんに調査して
もらったところ、家の近くを川が流れており、床下の湿気がひどく
修理しても、すぐ湿気でやられてしまうと言われた。欠陥住宅に近いほど
縁の下の防湿処理など手が抜いてあると指摘された。

 改修工事するにしても最低一千万円以上かかるという。
この家の購入を決めた時、北島はもう既に、単身で生活していたので
全く関与していなかった。相談もなく母と二人の弟の判断で買った。
どうしようかと母に相談された。そこで北島がお世話になった格安住宅メーカー
に相談した。地盤工事費用がかかるので展示場の家を移築する方法で家の
建築費用を安くする方法をすすめられた。45坪の家の建築費用が半額で
一千万円、地盤工事とコンクリートを流して湿気に負けない床下工事で
一千万(地盤は40年保証)合計で2100万円で建設する契約をした。

3月から建設を開始して7月中に完成。以前、母に借りた一千万円は返却した。
 家の建て替えのため、アパートを借りた。夏過ぎに新築の家に入ることが
できて両親とも喜んでくれた。この年の北島家の資産は三千二百万円に
減ってしまった。2002年に入っても2000年の後半のネットバブル
がはじけてから、日本の株式市場は低迷していた。そこで春にフロリダの
オーランドのディズニーワールドに七泊八日のツアーに出かける事にした。

 ノースウエストで(現在のデルタ)三月に成田を出てデトロイト経由で
オーランドへ飛んだ。成田からデトロイトまで約十四時間と長く、大変だった。
デトロイトの乗換はモノレールが走っており比較的にスムーズだった。

デトロイトからオーランドまで三~四時間程度で到着した。
 乗換も含めると行きに一日、帰りに一日かかるのでディズニーランドには
実質四日間の滞在となる。まー、とにかく遠い。若い時しかこれないなーと
実感する北島夫婦だった。オーランドに着いてからホテルまでは車で一時間
もかかかり米国の広さを実感させられる。現地について知った事であるが
今年はディズニーワールドの生誕百年の記念の年だった。ホテルについて
風呂に入って夕食をとり明日に備えて早めに床についた。

 翌朝、バスに乗り込んだ。既に四日間通しフリーチケットをもらって
いるので開演前に入場できた。そして、あまり混んでいないので魔法の
ジュータンの旅とかバーチャルの世界を急いで体感したので少し目が回り
ベンチに座りこんだ。空いてるので、どこを先に回るかを検討した。

 そして一番先に行く所をサーキットでスポーツカーに乗るアトラクション
に決めた。サーキットの大きさが巨大で車に乗り込んで急加速をはじめて
百キロ以上出てる速度で一気に走り去る。ただサーキットが広いので一瞬と
いうわけにはいかない、とにかくスリル満点のアトラクションだ。

 今日はマジックキングダムを回りテーマパークを移動するモノレールや
船に乗った。ますディズニーワールドの大きさであるが日本の山手線の
内側とほぼ同じ大きさで、いかにデカいか想像がつくであろう。

 そのためにテーマパークをバスで移動する場合、移動に1時間程度かかる。
ハイウェイの内側をモノレールが走り、もともと湿地だったために湖にした
所を船が縦断したり、横断して移動する様に設計されていた。

食事は朝食程ひどくはなかったが、それ程うまいと言う料理に
ありつくことはできなかった。夕方になりホテルに戻り夕食後、
早めに床についた。翌日は最初にエプコットに行、近未来の世界を堪能した。

その後モノレールで移動して周りの景色の良さに感動した。また船に乗ったが、
まだ早春で肌寒かった。でも湖から見る景色も素敵で感動した。

スペースシップアースは、バーチャル技術で文明の進化が短時間で
感じられる仕組みであり面白い。今晩は夜の花火を見に言ったが、
そのスケールの大きさには、圧倒されたのだった。スターツアーズ、
ディズニーハリウッドでインディージョーンズのショーなどを楽しんだ。
翌日は帰り支度をしてバスでオーランド空港へ、そしてデトロイト経由で
、成田へほとんど丸一日かけての移動は、やはりしんどいと思う北島だった。

第5話:再び株上昇と洪水プーケットを避けて、命拾い。

 2001年九月に、アメリカ同時多発テロ事件が起こった。
テレビでその様子を見ていると、映画を見ているようで、にわかに
現実に起こっている事件とは信じられなかった。何かアメリカの時代
の終わりなのかも知れないと思ったほど世界中を震撼させた事件だ。 
 情報も錯綜して何がデマで何が真実なのか後でわかった位だった。
 そのためか、この年は株は全く冴えなかった。それでも2002年後半
から株も上昇に向かい始めた。そんなある日パソコンに今は亡き北野君の
メールアドレスを消さないで残しておいたのを思い出して何の気なしに
メールを開いた。当時の株の話などしていた時代の銘柄やコメントが
残っていたので懐かしく。それを再度みなおした。そこには日本精機と
オリックスの名前が載っていたので、こんな事、書いたか不思議に思い
銘柄のチャートを見てみると上げそうな銘柄である事がわかった。

 早速この銘柄を追う事にした。そして2003年一月十日に
日本精機を三千株百三十八万円、一月三十一日にゴールドクレストを
150円で八千株、百二十万円で購入。三月一日にオリックスを
二百株で百十四万円で買った。そしてゴールドクレスト以外は以前と
同じ様に二年様子見て、まだ上がる様であれば最長四年待ち
十分に上昇確認後、利益確定する事を考えた。
 その後もメルコを2004年一月に二千株、百三十六万円で
購入、同じ年の九月にCKDを二千株、百十八万円で購入。

今年の夏は涼しい信州へ二泊で旅行に出かけた。高原でのんびりして
夜は温泉につかり疲れをとる様に努めた。秋は箱根、熱海へ冬は静岡
、清水港から富士山を眺めたりして楽しんだのだ。また年が明け
2004年を迎え今年は東南アジアへ行こうとプーケットを予約したが
女房の都合で二週間前にキャンセルした。何と2004年の十二月二十二日
から十二月二十七日のツアーだった。2004年十二月二十六日に、
スマトラ沖地震でプーケットで大津波が襲い多くの死者を出す大惨事が起きた。

 この事件も何か虫の知らせか亡くなった友人の知らせなのか偶然に
キャンセルでき大惨事から免れたのだ。そして行き先をグアムに変更して
更にノースウエストのマイレージが夫婦共に十万万マイルを超えて
ゴールドメンバーになり空港特別室を使える様になった。

 また今回はマイレージを使いジャンボ機のビジネスクラスに
アップグレードした。ジャンボ機のコックピット側の約半分の二階部分に
席を取ってくれ、非常に快適だった。そして今回はPIC俱楽部という
大きな庭と流れる川やスポーツ施設の充実した個性的なホテルに泊まった。

 そして毎日の様にテニスやボート、カヌーなど汗を流した。自律神経失調症
の治療もかねての旅行。もちろんトニーローマのリブ、カプリチョーザのパスタ、
ピザも楽しんだのは言うまでもない。そしてメーシーズのクリスマスセールで
三千ドルの毛皮のコートを四割引クーポンと、更に値切って千四百ドルで
購入してきた。現在も毛皮のコートは北島家に、これしかない。帰る日に
スマトラ沖地震のニュースが飛び込んで来た。ホテルで客が食い入る様に
テレビの報道を見ていた。最初予定していたプーケット島が大津波に
襲われ逃げ惑う旅行客の姿を見ると鳥肌が立つほど怖かったのを鮮明
に覚えている。数ヶ月前までプーケット島に行く旅行を計画していて
何故かグアムに変更したのだ。

 これは亡くなった親友の北野君が神様に頼んで北島夫婦を助けてくれた
のかも知れなと思い、神様の存在を身近に感じ感謝した。
 そして2004年も暮れて2005年を迎えた。ただスマトラ沖地震の
ショックで海外旅行の予定は立てずに、近場の温泉などに行く事にした。

第6話:ロンドン地下鉄テロと父の死

 2005年は7月7日にロンドン地下鉄で三カ所が同時の
爆破テロ事件が起こった。その後バスが爆破され多くの人命が奪われた。
 2001年の米国のテロに続いて世界中がテロの怖さを改めて
知らされる事件だった。

 2000年の夏に父の前立腺癌がわかった。
 前立腺癌が見つかった時には癌が広がっていて1-2ヶ月の命
と言われていたのだが、ホルモン療法と父の屈強な身体のせいで、
5年も生存できた。かかりつけの泌尿器科開業医が自分の手に
負えないと言って父を大学病院に紹介した。

その後も孫の顔を見に来て北島家の庭に
野菜を植えたり春にはタラボの芽を持ってきたり5月になると
大きなタケノコをたくさん山から掘って持ってきてくれるた。
来るたびに一番下の孫の男の子を見ては大きくなったなと
うれしそうに言うのだった。そして大学病院に月に1回、
診察を受けに行った。その担当医も、こんなひどい前立腺癌で
5年も生きるなんて信じられないと話すくらい長生きした。
2005年の夏に父は胸が苦しくして仕方ないと言って自分で
バイクに乗って近くの総合病院に入院し5日後、亡くなった。

彼は生前、平均寿命より長く生きたのだから思い残す事は
ないと淡々語っていた。あっぱれな最後だと言わざるをえない。

北島は、ただただ、父の唯一の孫たち三人を授かった事を神様
に感謝するのだった。葬式の写真も一番下の唯一の男子の孫と
旅行の時に撮った最高の笑顔の写真を引き延ばしたものを使った。

思い起こせば孫の誕生を誰よりも喜んでくれ長女、次女、
5年離れて長男が生まれた時は涙を流さんばかりに喜んでくれた。
そして、その時、人に聞こえない様な小さな声で跡継ぎが
できたんだと、つぶやいたのを思い出さずにはいられない。

2005年11月にメルコ2千株700万円で売却、
純利益、450万円を得た。2004年12月12日に
日本精機を3千株で870万円、純利益、508万円。
 2005年11月にメルコ2千株、700万円、
純利益450万円。2006年にゴールドクレストが上昇してきて、
 売り値検討へ2006年3月末に10800円で二分割したので
800株、864万円で売却し、純利益607万円、
続いて4月3日にオリックスを37500円で2百株、
売値750万円、純利益、504万円で利益確定できた。
4月10日にCKDを2千株405万円売却、純利益226万円、
9月7日に、2005と2006年の純利益総合計1550万円で終了。
 2006年終了時点での北島家の資産は4660万円。

第7話:新築のウインホテルに泊まる

 2006年の秋にラスベガスに新しくできたウインラスベガス
宿泊料が安くなる四日間を予約した。
 そして今回は成田から仁川へ経由で、ラスベガス直行便という
航空券を手配した。この方法で飛んでみるとラスベガスでの
入国手続きがスムーズで簡単だった。またラスベガスに夕方四時
に着くので、すぐにホテルには行って休めるので一番良い方法だ。

 ラスベガスに着くとタクシーでウインホテルにチェックインをした。
 部屋に入ると真っ白なガウンがおいてあり着替えて過ごすした。
 お風呂もぴかぴかの新品で巨大なバスタブが日本人にはうれしい。
 広さもノーマルツインで42平米と十分な大きさ。
 更に北側に何も遮るものがない砂漠が見え朝起きると砂漠に昇る
太陽を見ながら何か得体の知れないパワーをもらえる気がして
元気になる気がして感動した。北島がラスベガスを気に入ったのは
何というか気のパワーがもらえる気がして、元気が出る。
 そんな単純な動機でラスベガスに何回も来るようになったのだ。
 朝早く散歩に出かけると、ふかふかの絨毯を毎日少しづつ掃除
している。できたてのホテルで、その絨毯が厚くて靴でそのふかふか
具合がわかるほどだ。金かかってるのが良くわかるデラックスホテル。

朝食の会場もホテルの一階で10分程度と近く便利。朝食の内容も
 充実していて十分満足できた。それに、このホテルの地下に
シルクドソレイユのショー会場の大きなプールがあり宿泊者が
優先的にチケットを買えるシステムになっており、そのショーを見た。

予約した席はプールから10mくらい離れた席で水しぶきを浴びる事
もなく快適にショーを楽しめたのだった。ちなみに1番良い席プール
に面した席であり通常の席の2倍位。そしてラスベガスはオンシーズン
とオフシーズンではホテルの値段が4倍に上がる。今回の旅行では
以前調べたファッションショーモールの前のクオターズでオペラ座の
怪人のチケットを半額で手に入れて北島の女房の、たっての希望で見に
行く事にした。確かに迫力もあり外人さんの声量の大きさに驚かされた。
90分のショーもあっという間に終わった感じがする位に素晴らしかった。
帰国便は11月4日、夜25時と書いてあったので11月4日の夜11時、
空港について大韓航空のオフィスに行くと、もぬけの殻で誰もいない。

 そこで開いている事務所でチケット見せて確認すると、その便は
もう出たよと言われた。大韓航空は月、水、金の週三便で水曜の便は
出発したというのだ。11月4四日、夜25時でなくて11月4日、
早朝の1時と言う事らしい。わざわざ何回も確認したのに、こんな事も
あるんだと途方に暮れてしまった。女房は愕然として椅子に座り込み
泣き出した。いろいろ考えた末ヒルトンのゴールドメンバーである事を
思い出してラスベガスヒルトンに電話をして状況を話し空室を聞いたところ、
まだあるというので泊めてくれた。その時にフロントにいた女性が以前、
泊まった時に手続きした人だとわかり彼女も北島を覚えていたらしく
電話をかわってくれ交渉してくれた。
 最終的に日本人の従業員を捜す様に促してくれ、幸いに欧州支店に
日本人が、その時間仕事をしていた様で、まわしてくれたので日本語で
話ができた。フロントの彼女にも礼を言い部屋に戻って酒を飲んで寝た。

 さっきまで、めそめそしていた女房は疲れて、ぐっすりと寝ていた。
 翌朝は10時過ぎに起きて朝食を取りフロントに行くと昨晩の彼女がいて
、チェックアウトの時間などを聞くとゴールドメンバーなので
レイトチェックアウトを適応して今晩の夜8時のチェックアウトまで
延ばしておくと言ってくれた。チェックアウトの手続きをとると
昨晩の彼女は交代して違う女性に替わっていたが、その彼女が支払い済みで
OKだと言った。昨晩の彼女が、うまくやってくれたんだ。

 そういえば英語で航空会社の人と一時間近く口論していたのを
聞いていた彼女が、あまりの熱心さに仕事でもないのに電話を応対して
くれて航空会社の日本人に替わる様に指示してくれた。
 地獄に仏とは、こういう事を言うのだと、しみじみ思った。
 そして空港に出発1時間半前に到着し大韓航空のスタッフの
中に日本人の男性がいて事情を話すと聞いております。
 無料で変更と言う事で処理しておきましたと言った。
 お礼をいうと実はこの便のビジネスクラスは、ほとんどが日本人
であり大事なお客さんなんですよと話していた。予定より
2日間延長し10日間のラスベガス旅行を何とか無事終えた。

8話:初めてのハワイクルーズへ

 2007年になっても株式市場は低迷していた。
そこで念願のハワイクルーズ出かけた。航空券はマイレージで
無料、クルーズチケットも米国のネットで千ドルで購入したので
2人で24万円。ホノルルの空港に朝に七時、ホノルル港への
バスは11時半で四時間以上、時間つぶすのに苦労した。

 昼過ぎにホノルル港へ行きクルーズ船にチェックイン。場所は
空港のジ格納庫みたいに大きい倉庫だった。必要書類にサインと
クレジット番号の登録、身分証明書、パスポートなどを提示した。

北島夫婦はマウイ島、カウアイ島での英語のツアーに参加する事にした。
 予約していた海側の窓のある部屋にチェックイン、ホテルの小さめの
ツインルームみたいだ。黒人の大柄な男性がノックして入ってきた
ノルウェイジャンクルーズの日本人向け通訳だと言い、何かあれば
伝えて欲しいと言っていた。彼は日本の上智大学出身で日本語は堪能で、
出航前に救命ボートの使い方の訓練があるから必ず出席して下さいと言った。 
 クルーズ船出向まで上の階の広いレストランで食事しながら待っている
と良いよと教えてくれた。アルコール飲料だけは有料であり、
意図的に持ち込んで部屋で飲んでるのが見つかるとペナルティーフィー
をとられるから注意して下さいと言った。この船が港から離れる時間が
近づいてきて甲板に出た。大きなクルーズ船が夕暮れ時のハワイ港を
ゆっくりと出て行く、ホノルルの町が見えて夜の遊覧船が近くに見えて、
お客さんが手を振ってくれるので、こちらも手を振り返した。

何だか妙に興奮する。岸を離れてから、すぐに太平洋の荒波が
 感じられた。クルーズは大型船を使っているから揺れが少なくて
快適と書いてあったが揺れは大きく感じた。翌日は朝六時には起床し
、すぐに甲板を散歩し、気持ち良い潮風と海の景色を楽しんだ。
朝食はレストランで珈琲とトースト、サラダをいただいたが、
味は普通、種類は多かった。船の甲板から海が見える景色は最高。

朝食後、女房と卓球を始めた。すると隣のフィリピン人ペアが気軽に
声をかけてきた。彼らはフィリピン出身でロサンゼルスに住んでいる
三十代の若夫婦。日本人かと聞いてきたので、そうだと答えると以前、
日本を旅行して町並みのきれいな事と日本人が優しかったので声を
かけたようだ。その後、船で会うと気さくに声をかけてくれた。

 船内の図書館みたいな所へ行きチェスや将棋、カード、
プレイステイション、任天堂64、多くのゲームがあった。
 北島夫婦はとトランプを借りて七並べをはじめた。
すると小柄な男の子が興味深げに七並べを見に来た。
 彼は黒い帽子をかぶったユダヤ人だった。彼が七並べを
知らないから教えてくれと言った。少しして両親が来られ、
日本人なら大丈夫だと言い宜しくお願いしますと慇懃な挨拶をした。
 その後、七並べや神経衰弱をで楽しんだ。 終了時、彼の両親が
来て多くの事を教えてくれてありがとうと挨拶に来た。
 感じの良さそうな、両親だった。 その後も、この船で会うと
必ず挨拶してくれた。翌日マウイ島のカフルイ港に到着した。

予約しておいたハレアカラ火山噴火口めぐりのツアーに参加した。
ツアーバスに乗り込み、ひたすら曲がりくねった山道を登っていった。 
 山頂からの景色はマウナロア、マウナケアまで見えて素晴らしかった。
 また火口のクレーターの雄大さは見るものを圧倒する。
 標高が高く寒くて風も強いので暖かい服を重ね着しないと寒くてたまらない。
 翌日はハワイ島に到着してコナの港のおきに停泊して小さなボートに
乗り換えてコナ港に上陸した。ここではツアーでなく自分の足で
観光する事にした。まずカメハメハホテルでカメハメハの写真を見て回った。
その後ビーチサイドのレストランでコナコーヒーとサンドイッチを食べた。
景色が良いのでい長居をした。大きな木の下で少し涼んで行き交う人を
眺めていた。また小さなボートで港からクルーズ船に乗り込んだ。

歩き疲れたので少しの間、仮眠をとった。そして夜にキラウエア火山の
溶岩流失を海上から眺めた。真っ赤な溶岩が海に流れ落ち溶岩の熱で
蒸発した海水が湯気を上げてる姿は圧巻。翌日は島の反対側のヒロ港から
地元のツアーでマカデミアナッツの工場やレインボーフォールズを見学した。
日系人が多く住む地域らしく商店には日本人の名前の商店が多かった。
 コナとヒロは気候が対照的でコナは乾いていてヒロは雨が多いそうだ。
 コナの方が高級な土地らしく日系人は湿った安い土地のヒロを
与えられたそうだ。翌日はカウアイ島ナウィリウィリ港へ寄港。
 予約しておいたワイメア渓谷のツアーに参加した。最初に、
 お決まりの観光コース潮吹き岩の見学をし、その後、太平洋の
グランドキャニオンと呼ばれるワイメア渓谷についた。
 グランドキャニオンに行った事がないので比較はできないが
雄大な景色で写真を取りまくった。最終日にホノルル港に戻り解散
となり日本への帰路についた。

9話:リーマンショック、大震災と清水君の死

 2008年を迎え、久しぶりに高専時代の同窓会が東京で7月に
開かれるとの知らせが舞い込み出席した。
 仲間は、まだ現役で仕事の話をしている人ばかりで、なかなか話題の
中に入れず、ただ聞いているだけだった。そして同じ年にもかかわらず
若くて血色の良いグループと北島みたいに病気をしたり、
ただ老けた感じのグループと別れた気がした。

更に現在体調悪くしてるのが一人で既に死亡したのが三名いること
がわかった。若くして亡くなった仲間は全て癌と事故によるものだった。
 2007年も株価は低迷を続け、を出す状況になかった。
 そして翌年2008年9月15日に米国でリーマンショックが
起きたのだ。サブプライムローンで欧州では大手銀行での不良債権の
問題が表面化し大騒ぎだ。株も急落していた。

そろそろ底を迎えるかも知れないと北島は考えていた。
 そして以前の不思議な経験が思い出されて亡き北野君のメールアドレスを
開いた。そこには硝子、リースと書いてあった。これは何だろう?、
 もしかしたら北野君が黄泉国から北島を助けるために情報をくれてるの
かも知れないと思い、早速、旭硝子、日本電気硝子、三菱UFJリース、
芙蓉リース、興銀リース、東京センチュリーリースなどを調べると、
底に近い感じがした。日本電気硝子の急降下は注目に値するので注視し始めた。

そして2008年12月24日に3千株、133万円で買えた。
 その他、旭硝子と芙蓉リースをターゲットに注視しはじめ2009年を
迎えた。2月を過ぎて下値が近い事を予感した。旭硝子を2月24日に
416円で指値をいれ3月3日に3千株、125万円で買えた。
芙蓉リースを3月2日、1200株、132万円で買えた。
今回の購入総額392万円、売りは日本電気硝子が2010年1月5日
、3千株、売値405万円、純利益、214万円、旭硝子2010年5月12日
に3千株、売値330万円、純利益、162万円と芙蓉リースの
売値1200株売値、384万円、純利益2百万円、純利益総合計が
576万円だった。2011年は3月11日の東北大震災が起きた。

 忘れもしない午後2時47分株式市場が閉まる直前に横浜でも大きな揺れが
起きてすぐ停電となった。その後の原発事故と言い最悪の年だった。
東北地方から関東地方までこの世の終わりかと思われるくらいにうろたえた。
 この年の十月に転勤時代に一緒に仕事をしていた後輩の清水君が東京支店課長
で赴任して来た。連絡で横浜で久しぶりに会う事になった。

 彼が、所長になり活躍した話や、その後会社の若手登用政策のため
彼が部下なし課長で東京に単身赴任で来る事になった話などを聞かされた。
 ただ彼は北島とは違い、あまり自己主張が強くなく、それが彼の良い点でも
あったが彼が出世して営業所長になった時には自分の考えで引っ張って
いかねばならないので、いろいろ苦労した様だった。

 昔、北島は随分、彼の盾になって北島が上司と交渉したりしていた。
 また愚痴を聞いて下さいねと言われ再会を誓った。

 2012年は株が下がってきて売買に忙しく出かけられなかった。
 8月に村田製作所を146万円、10月に富士フイルムを150万円、
11月5日にソニーを156万円の合計452万円で購入。

 そんな寒い日が続く冬のある日に清水君が出勤途中で新宿で倒れて
心筋梗塞で亡くなったとの一報が入った。彼は松本時代に長野地区を
担当して接待上手で大きな病院の先生方を摑み、二人分の売上、
年間1.5億円の売上で長野県の45%を売っていた。交際費が必要だ
と言えば北島の交際費を回して成果を上げていた。
 何と可愛そうな企業戦士の死だろうか・・・。
 昔の思い出が走馬燈のように駆け巡った。北島は上司と何回も口論して
部下を守ってきたのは清水君も覚えており会議で会って飲んだ時には、
あの頃は良かったと慕ってくれた。
そんな上司は時代遅れなのかも知れないが北島は上司の盾になって
部下を可愛がり彼らが何回もの業績表彰、給料上昇という形で恩返し
してくれたのを懐かしく思い出した。新潟へ清水君の葬儀に出かけた。

 葬儀に以前の会社の連中が多く、挨拶はするが親しく話しかけてくれる
人は一人もいない。いわば北島は彼らにとって疫病神見たいなものだった
のかも知れない。ただ清水君の奥さんは以前は大変お世話になりました、
 お加減はいかがですかと聞いてきた。清水君の葬儀には這ってでも
出なければならないと思い、来たんですよと言うと涙ぐんで喜んでくれた。
 香典も奮発した、香典返しだけでは少ないので後日、何かお送りします
 というので、昔の良い時代を共有した仲間には、できるだけの事をする
のが信条ですと清水君の奥さんに言った。ありがとうございます清水も
喜んでると思いますよと、また泣いた。
 まさか本人もこうなるとは思っていなかった様で実は来月、休暇を
取ってハワイ旅行の計画があり新しいゴルフクラブを買ったばかりの
出来事で家族も今でも信じられない気がしますと言った。

 今の会社は、そんな古くさい仁義なんて無用の長物なのかも知れない
と思う北島だった。そして葬式を終えると会社の人が、お世辞に飲みに
行きましょうよと言う声を後に、さっさと新幹線で横浜に帰った。

第10話:ラスベガスで会った老紳士 

 2013年に、また直行便でラスベガスに出かけた。今回は
ハラーズホテルとベネチアンに6泊のバーゲン目当ての旅行である。
 いつもの通り、昼間の暖かいときに豪華ホテルを散歩して回った。
 翌日はベネチアンのちかくホテルから無料ツアーバスで郊外の
 カジノホテルのレジャー施設とショッピングモール半日めぐりに参加した。
 10時に集合して、バスで高速道路を一時間で、そのカジノホテルについた。
 ついて珈琲を飲んで併設してる小さなテーマパークで人工の動物の可愛い
動きなどを見た。女房が革製品のショップで足を止めカーボーイ用の
革靴や鞭や革の財布など、じっくり見て小さなバッグを買った。

また喫茶店で休んでると高齢の男性が、やってきて英語できるか
と言うのでOKと言うと話しかけてきた。彼はニューヨークの北側に
住んでいて冬は二ヶ月も、このホテル滞在するそうだ。
 ホテル料金は千ドル/月で朝食付きだとの事。
 あまりギャンブルはしないので月に2千ドルで充分足りると
言っていた。朝も十時過ぎれば日が上がって暖かく長生きするには、
一番良いと言い大きな病院が、すぐ近くにあるのも安心できる様だ。

暇で困らないか聞くと、若い頃、一生懸命に働き金も貯めた。
 今は、好きな事をするだけだよと、たまにストリップのホテルに彼の友人
が来れば迎えに来てくるし、ちっともさみしくないと笑っていた。
 しかしワイフが生きていれば、もっと楽しんだけどねと、
しんみり言った。北島は彼は強がっているが、さみしくて彼の奥さんを
忘れに、ここに来てるのかも知れないと感じた。
 北島の奥さんも気さくに彼に質問をしていた。
(女房の日本語の質問を北島が英語にして聞いたのだが・・)
以前どんな仕事をしていたのと聞くと金融関係の仕事でカジノよりも、
よっぽど危険な仕事だよと、にゃッと笑った。北島が自分も株やファンド
をやってると言い基本はSP500ETFを10年以上やってるというと
ビックリして、それがベストなやり方だよと北島の肩をたたくのだった。

個別株は儲かったり損したりするが、米国株全体は時間と共に上昇するんだ
と言い。その理由は米国は移民も多く消費意欲も高いから必ず物価が上がるんだ。
 物価が上がるという事は土地、金、株、商品、全て値上がりをすると言う
事なんだ。だからSP500ETFの様な優良株の塊を持ち続けるのが一番、
確実に儲かるんだと力説していた。彼が夢の様に一晩にして大金持ちに
なったり金を失ったりする、お客を数多く見てきたんだ、
だから時間と仲良くして、そのおっそをわけとして利益をいただくのが
1番良いんだよ。だから神様が我々にお恵み下さるんだよと話してくれた。
 北島は、さすがに相場の世界で長く生きてきた人の言う事は重みがあり
説得力があると痛感した。1時間位、話し、帰り時間が近くなったので彼に
礼を言いお別れした。

 彼が北島にグッドラック神のお恵みがあります様にアーメンと
言ってくれた。しかし残念ながら翌年の2014年心筋梗塞で
倒れるはめになるとは、全く知らず、うれしそうに
ラスベガスを後にした。

第11話:心筋梗塞で、緊急手術

 2014年があけて春に、いつも通り散歩している時に胸の痛みを感じて、かかりつけ医に診察を受けたところ、逆流性食道炎だと言われ薬を処方された。しかし翌日も症状は良くなるどころか、むしろ悪化して胸の締め付られるような痛みがひどくなった。その晩遅く、あまりの痛みで地区の救急診療所に行くと、また逆流性食道炎と診断された。2日後あまりの痛みに耐えられず救急車を呼ぶのも待てず自分で車を運転し近くの大学病院に行き強引に救急で診察を受けた。心臓内科の医者が、もう少し遅れたら命が危なかったと言い即手術するからとストレッチャーに、のせられたまま手術室へ直行。数時間して手術が終わり病室に運ばれた。軽い食事とった後、全部吐いて再び気を失った。同じ先生が、あわてて同じ所が再凝血したかも知れないと言い再手術。この時は難しい手術のため担当科の教授が立ち会って多分周りに多くの先生方がいた様で質問したり教授の指示が聞こえたりして手術時間が長く思えた。教授がまれに再凝血するケースがあると先生方に説明して、そういう時の処置の仕方は勉強になると話しているのが聞こえた。また心臓がどきどきして血流が強くなると手術している先生が落ち着いて、ゆっくり息をしてと言うであり不安でたまらなかった。そして心臓に栄養を送る太い血管が詰まり詰まったところにステント再度入れて血管を広げる手術の仕方を教授がほ若手医師に説明した。二回の大きな手術を経て集中治療室に14日間入院で絶対安静。再手術のステントは股の太い血管に穴を開けて挿入したのでトイレにも行けない。尿管カテーテルをいれてられた。それでも、うとうとしてたので7日間位は問題なかったが意識が完全に戻った頃に急に不安になった。
 そして14日目一般病棟に移って少しづつ加重をかけて動き出すと筋力低下で思う様に動けない。こんな情けない事は今までに経験した事がない程、屈辱的だった。しかし時間をかけ徐々に歩行訓練をして行くしかない。担当の医者に言わせれば、まだ筋力があるので短期間で歩けた方ですよと言われた。その後の診察の時、まだ二~三ヶ所、心臓の近くの血管が細くなっているので時間をかけて数回に分け追加手術と言われた。半年後と翌年に二回、合計4回の手術した。2015年の秋に最終手術を無事終えた。最後の診察の時に北島は五年生存率はどの位ですかと先生に聞くと笑いながら癌じゃないんだからステントは入れてあるのだから半永久的ですと言った。もし何か具合や症状が出たら来て下さいと言われた。その後、一ケ月後検診、三ヶ月後検診を終えて後は何かあったらで来てといわれ、かかりつけ医に紹介状を書いて送っておくと言われた。ただ、その検診は一泊二日で血管造影剤を入れてステントを入れた血管の血流を見るので意外に大変。費用も十万円以上してその上、治療でなく検査なので医療保険がきかないので、大きな出費。毎年定期検診を欠かさず受けてるの血管が詰まってるのがわからないのに愕然とした。また胸が痛いと言って診察しても逆流性食道炎と誤診され開業医に不信をいだいた。それを検診の時、心臓血管内科の先生に聞くと良くある事ですよと言った。まず年一回の検診では心電図も数秒分しかとらないので異常がわからない。検査値が異常にならなくても時間をかけて血管が詰まるケースは意外に多いと言った。心筋梗塞と逆流性食道炎は症状が似ており一般の内科では見逃すケースも多いと言うのだ。手足の末端の冷えとか色とか見て血流不全がある場合は、ほぼ百%、血管が詰まっていると患者さんが自分で判断するのが一番ですよという始末だった。

第12話:2015年の株売却と、人生を振り返る

 2015年5月13日ソニーを2千株、780万円、7月2日に
村田製作所を4百株880万円で、8月18日に富士フイルムを
1200株で624万円で売却、売却総額1460万円、
税引き後、795万円の利益だった。

 手術後、海外旅行は行けずに近くの温泉に行く程度で安静にしている
北島夫婦だった。2015年終了で、北島の資産合計は3150万円。
 翌年の2016年に、2011年に550万円で買ったSP500ETF
を2016年夏に売却して700万円の利益が出た。

 その資金で新たな投資商品を購入した。家も築15年以上になり、
2つの和室の畳替えや、トイレ、水回りの修理で大きな出費が発生し、
2016年終了時点で、北島家の資産合計は2660万円で終了。
 北島は病気後の残金が多くないので、念のため30%減額されても
前倒し年金全額をもらう事にした。最後に北島は、

 ここ迄の自分の人生を振り返ってみて、決して後悔はしていない。
 専門の化学での仕事は、新製品開発を世に出すという形で結実した。
 次に工場長の推薦状で、受験した優良会社は、社長のおかげで入社でき、
人とものを売る仕事を完遂できた。
 実は、私の生まれる1年前に、先に生まれた姉がおりましたが、
食糧事情が極度に悪い時代で、残念ながら死産。
 優良会社に入社した時の最初の臨時ボーナスで、
ある薬師にて水子永代供養をお願いして供養してもらった。
5歳の時のジフテリア、50歳の重度のメニエール、61歳の時の
心筋梗塞と3度の死の危険から助かったのも、亡き姉のお陰かも知れない。

仕事の業績では成功したものの、仕事の仕方が馬鹿まじめで、
 上司に媚びることもせず、結果として、社内の上司を味方をつける事が
できなかった。そのため体調を崩した時にも会社内にとどまれなかった。
では上手くやれたのかというと、そんな器用な生き方はできない。
 いつも真剣勝負だった。それで勝ち得た収入と地位。体調崩したのは不覚だが
神様がもう頑張らなくて良いよ、休みなさいと合図を送ったのだと思う。
 無理して交通事故を起こさなくて良かったとさえ思う。
 恨むつもりは全くない。無理して交通事故を起こしたり、
人を傷つけたりしなくて良かったと感謝している位だ。

 その後、株式投資の先生に教えてもらいなら猛勉強して稼ぐ事ができ
破産しないですんだ。シティバンクで、世界市場への投資、株式の知識を
広く教えてもらい貴重な体験をさせてもらった。

 これからの人生は孫の成長と自分自身が世の中の為に何かしたい。
 一つは苦学生への募金活動、もう一つは小説という形で自分の考え方を
世に問うてみたいという願望が芽生えている。
 こういう意欲が出てきたという事は少しずつではあるが気力、体力が
回復している証であろう。そう言う意味で、今後も神様に感謝しつつ、
ゆっくりと着実に残りの人生を精一杯生きたい。

 そしてこの年に長女に男の子が生まれて北島家に男の子の初孫ができた。
北島家は、それはもう大喜びだった。更に翌年、長男にも男の子の孫ができた。
 北島は、孫達のために、まだ、死ねない、もう一旗揚げたいと固い決心をした。

成り上がり退職後編

成り上がり退職後編

会社時代の同期の親友、北野光男君の死、長野時代の後輩、清水君の死。横浜に家購入、投資の猛勉強と実践で何とか食いつないでいく。父ル。その他、クルーズ、ラスベガスでの出来事、いろんな経験。2014年に心筋梗塞で大手術、孫の誕生と続いた。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-04-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1.  第1話:北野君の病気見舞い
  2. 第2話:北野君の、お葬式
  3. 第3話:投資の猛勉強開始と実践
  4. 第4話:避寒のために海外旅行
  5. 第5話:再び株上昇と洪水プーケットを避けて、命拾い。
  6. 第6話:ロンドン地下鉄テロと父の死
  7. 第7話:新築のウインホテルに泊まる
  8. 8話:初めてのハワイクルーズへ
  9. 9話:リーマンショック、大震災と清水君の死
  10. 第10話:ラスベガスで会った老紳士 
  11. 第11話:心筋梗塞で、緊急手術
  12. 第12話:2015年の株売却と、人生を振り返る