*星空文庫

七郎物語

播磨王66 作

  1. 1話:木下七郎の生い立ち1
  2. 2話:横浜の外人学校へ入学1
  3. 3話:横浜の外人学校へ入学2(1962-1971)
  4. 4話:七郎の投資と七郎商会設立1(1980~1990)
  5. 5話:七郎の米国留学と結婚1(1971ー1979)
  6. 6話:七郎の遺産と投資開始1(1980-1990)
  7. 7話:チェルノブイリ原子力事故1(1980-1990)
  8. 8話:イランイラク戦争と投資(1980-1990)
  9. 9話:バブル崩壊と妻の死1(1980-1990)
  10. 10話:ソ連崩壊と阪神大震災(1980-1990)
  11. 11話:オウム真理教事件と円高不況(1984-1999)
  12. 12話:21世紀とテロと戦争とNetバブル崩壊(2000-09)
  13. 13話:七郎が結婚?(200601-12)
  14. 14話:七郎のプロポース(2006-2007)
  15. 15話:両親への結婚式の報告(2007-200801)
  16. 16話:結婚式とリーマンショック(2008-2009)
  17. 17話:恩師、リチャードの死(201001-12)
  18. 18話:東日本大震災と募金活動開始(2011-12)
  19. 19話:与えられた人生?、何せねば!(2011-12)
  20. 20話:福祉活動の芽生え1(201301-12)
  21. 21話:福祉活動の芽生え2(201301-12)
  22. 22話:苦学生の寮を作ろう1(201205-12)
  23. 23話:苦学生の寮を作ろう2(201301-11)
  24. 24話:寮の落成式(201310-12)
  25. 25話:調理器具、食材、スタッフ採用(201310-12)
  26. 26話:仕事の手順書とクレカ支払い(201310-12)
  27. 27話:コマーシャルと協賛金(201310-12)
  28. 28話:募金、寄付の受付(2013-201410)
  29. 29話:苦学生の寮の取材(201411-12)
  30. 30話:ティムからの寄付(201501-12)
  31. 31話:お父さんの心筋梗塞と母の痴呆(2016-17)
  32. 32話:父親の死と母の痴呆(2017-201802)
  33. 33話:父の葬儀とオープンカフェ(201803-05)
  34. 34話:母の老人ホーム入所1(201804-06)
  35. 35話:母の老人ホーム入所2(201804-06)
  36. 36話:激動の世界情勢1(2016-2018)
  37. 37話:米国の貿易戦争と子供ができたの?(201802-9)
  38. 最終章:65歳のパパ誕生(201809-12)

主人公、木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身。1959年、家族が米国旅行を計画した時、運悪くインフルエンザにかかり、七郎一人日本に残った。ところが、一家が帰国の飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。その後、横浜のインターナショナルスクールに入り、学校の友人の家に呼ばれるようになり、その友人の父、リチャードと運命的な出会いによって、七郎の人生の運が開けていく、結婚、別れ、投資、いろんな人生経験を経て、使い切れないお金を得て順風満帆の人生に見えたが、その後、東日本大震災を経験して、特に、被災孤児の教育のために募金活動を通じて、社会福祉活動に目覚めていく、ストーリー

1話:木下七郎の生い立ち1

 1話:木下七郎のおいたち1(1953-59)
主な登場人物:木下康夫(祖父)1885年生、貴族院議員、1945年、自宅で自決。
木下貞夫(父)1924年生、木下早苗(母)1928年生、木下悦夫(兄)1949年生、木下小百合(姉)1951年生
木下七郎(主人公)1953年生
友人・ティム・RCH1952年生、友人ティムの父リチャード・RCH家のスタッフ:1927年生まれ

 木下家は、徳川家の関連の旧華族(侯爵)で由緒正しき名家である。東京に大きな屋敷を持ち、日本の戦後でも不自由のない生活を送っており、大正時代には、所有する土地は、池袋から渋谷まで続いたという広大なものだった。政界、財界、軍上層部との強いパイプがあり、第一次大戦後1915~1920年の空前の好景気(大正バブル)の時に、持っていた広大な土地を、新興財閥の大金持ちに、全て売り払い、その資金で、秘密裏に友人の大手商社の役員、山下真一に依頼して多額の金地金144Kgを買って、スイスの銀行に保管した。関東大震災で東京が焼け野原になったにもかかわらず、武蔵野の自宅は、ほとんど、影響を受けなかった。1945年に入り、終戦が近いと感じた時、長年、交流のあった佐藤和彦弁護士に依頼し、遺言信託の手続きをとった。その数ヶ月後、1945年9月、木下康男は、玉音放送を不服として、自らの命を絶った。

 木下家の人々は、終戦後は、質素な生活してなんと生きながらえた。その後、木下貞夫が以前、父、木下康男と交流のあった三菱商事の会社役員、山下真一の口ききで、三菱商事に就職させてもらった。木下貞夫、一人で、豪邸の維持費と家族の生活費用を賄うのは難しいと考えて、富豪に売りわたすことにし、家族は武蔵野の中古の家に移り住んだ。しかし、木下家の家訓で、子供には教育熱心で、専属の家庭教師をつけて、しっかり教育していた。子供達が英才教育を施され、語学、数学、文学、音楽を小さい時から、みっちり教え込まれた。七郎も例外ではなく、1歳になり、言葉を話せるようになってから、書生さんが絵本を読み聞かせるようになった。どの本が良いか、一通り、毎晩見せて、気に入った本を選び出した。マザーグース、イソップ、ピータラビットの本を毎晩、読んで聞かせた。2歳になり、話をするようになった頃から、国旗や地図、九九算をみせた所、覚えが早いのに驚き、都道府県ジグソーパズルも好きで、いろいろなものを買い与えた。3歳になり、アルファベットや、簡単な英会話の絵本をみせると、英語に興味をもち、すぐに英語を音で覚えたので、英語を話した後に、必ず、日本語で同じ事をくり返し、覚えさせた。その時、耳が良い事がわかり、ドレミの音階を教えると、すぐにマスターした。その後、乗り物の写真と名前を教えると、すぐに覚えた。そこで、国旗の写真あてゲームや、日本の県と県庁所在地、地図上の場所をセットで、また、世界の国も首都と、地図、地球儀上の場所も教えた。4歳になると、ほとんど全て覚えた。

 九九を覚えていたので、応用に、かけ算を暗算で、練習してみると、面白いように遊んでくれ、1ケ月で1桁を習得、3問正解するとビスケット1つをご褒美に与えた。暗算も得意になっていった。次に2桁の簡単な掛け算(インド数学)も少しずつ教えた。
その中でも、外国語と音程と暗算が特に得意だった。そこで、簡単に日本語と同じ、英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語の文を書いたものを家の家庭教師の書生さんに書いてもらい、覚えさせるようにしていった。5歳になる頃には、簡単な日常会話文を英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語で言えるようになったのには、父の木下貞夫も驚いた。今度、家族全員で海外旅行に行く時には、七郎も連れて行こうと思っていた。小さい頃から、食力も旺盛で、なんでも食べ、大きくなっていった。特に肉類は好きであった。身体が大きい割に、足も速く、5歳の頃は、兄弟で競走してもいつも一等賞だった。そして、近くの公園を走り回って、元気いっぱいの男の子に育っていった。

 七郎が6歳になった1959年の秋、子供達の見聞を広めるために、米国へ海外旅行を計画した。最初にニューヨーク、次に、ワシントン、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルの約1ヶ月の長期旅行に出発した。ただ、次男の木下七郎だけが、インフルエンザにかかり、東京の家にお手伝いさんと共に残ることになった。その1ケ月後、木下家人達が、米国から、日本へ帰る飛行機が事故で墜落、家族全員が死亡した。木下家では、七郎だけが生き残るという悲劇に見舞われ、天涯孤独の人生を歩むことになった。

2話:横浜の外人学校へ入学1

 翌年、横浜の南部に引越し小学校に入学したが、彼は、既に簡単な英語、ドイツ、フランス、スペイン語を話し、数学も中卒程度までマスターしていた。そこで横浜の外人学校(Saint Joseph :SJIS)のスカラーシップ試験に合格して学費無料で入学できた。ジュニアハイスクールに入学し、多くの友達を持った。その中でも、特にティムとは親友になるまで多くに時間ががかからなかった。いわゆる馬が合ったのだ。ティムは、RCH家の血筋を引く名家の出であり、頭脳明晰な子供だった。一方の七郎は、冒険大好き、芸術、文学、音楽大好き、直感力に優れた行動派と言った感じであり、全く、異なった性格の持ち主。二人とも、それぞれの個性を尊重しあいながら、充実した学校生活を送った。ティムは、テニス部、七郎は柔道を横浜の道場で習い、学校ではラグビーを楽しんだ。七郎は、この頃には、日本人の友人よりも外人の友人の方が多くなり、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の語学力を向上させていった。中でも、特に理系の才能に優れており、暗算の早さ、正確さは目を見張るものがあった。もちろんジュニアハイスクールでは、学年で常に上位の成績だった。この頃にはティムの鎌倉の家で、夕飯に招待されるようになった。ティムの父のリチャードは、こんな七郎に惚れ込んでいった。七郎はリチャードの家に入り浸るようになり、自宅の借家には、めったに帰らなくなった。

 そんなある日、リチャードは、七郎にうちに来ないかと誘った。借家の契約を解除してリチャードの大きな屋敷の2階の1部屋を無料で使っていいと言ってくれた。たまに、リチャードが七郎を横浜のYCACに連れて行き、ラクビーをさせるようになった。ラグビーの練習後、シャワーを浴びた後に、食堂で大きなビーフステーキをご馳走になり、世の中には、こんなに旨い食べ物があるんだと驚かされた。七郎が外国人と話すことができ、更に、日本の柔道ができるので、回りの人達も興味を持ってくれ、ラグビーの練習に行った時は、声を掛けてくれるようになり、YCACでも人気者になった。その後も、横浜の柔道場に週3回、放課後、練習に出かけていた。


 それはリチャードが仕事の接待でお酒を飲んで帰ってきた日の晩の出来事だった。七郎を部屋に呼んで、日本は敗戦で、経済も悪く、食糧事情も良くない。そこで、日本を捨てて、米国人にならないかと言いだし、米国の国籍を申請したらどうかと提案してきた。それに対して、七郎は、確かに今の日本の現状が欧米、西欧諸国に劣っていて、憧れもあります。しかし日本には、欧米にない、良い伝統、文化があり、それが大好きだといい、だから、日本を見捨てるわけにはいかないと、大人びたことを言った。リチャードは、驚いたように、本当に日本が、欧米に追いつけるとは思わないがと、意地悪そうに言うと、そんな事はない、日本人の勤勉さと、正直さ、結束力で、きっと10年、20年後には追いつくと思うと言った。その為に七郎は、頑張って勉強していきたいと言い切った。リチャードは、更に、七郎、冷静に見て、君は家族を亡くして1人ぼっちだ。それで何ができるとい言うのだと、意地悪そうに言った。七郎は確かに、今の自分には、その通りで、何もできないかも知れないが、頑張ると意地を張った。

3話:横浜の外人学校へ入学2(1962-1971)

 リチャードが、自分で金を稼ぐというのは、並大抵の努力では、できない。相場という手強い相手と闘って、勝たなければならない。七郎、お前に、その覚悟があるのか、また勝てる自信があるのかと、すごい形相で言ってきた。それに対して、七郎は、勝てる自信があるのかと言われれば、本当のところ、わからない、でも、勝つために、努力する覚悟は持っていると、開き直ったように、リチャードの眼を見て、言うと、わかった、投資の勉強をして、早く金をつくれ、金がなければ、勝負にならないと言った。わかった、大金をつくるよと、七郎が、リチャードの手を強い力でがっちりと握り、リチャードが握り返した。話が終わると、あれだけ怖い顔をしていたリチャードの顔が、いつもの、やさしそうな顔に戻った。リチャードは、七郎を抱き寄せて、ハグしながら、お前を見ていると、昔の自分を見ている様な気がしてならないと、急に涙を流し始めるではないか、七郎も、実の父親のように、しっかり抱きしめるであった。その後、リチャードが自分の持ってる、経済の本、投資の本をしっかり読んで勉強するよう言った。七郎は、まさに、むさぼるように、多くの本を読破して、内容を理解していった。約1年たった、ある日、リチャードが投資対象の10銘柄を提示して、君なら、どの銘柄に投資するか、また、その根拠はとたずねた。すると、A社、B社、C社を購入したいと答え、その利用として、A社は、収益率が良い点。B社は、着実で成長性は低いが割安、高配当。C社は、新しくて面白そうな事に投資しているので買いと答えた。この答えを聞いたリチャードはビックリして思わず、すごいと言い、よく勉強したなと、七郎の頭をなでた。

 ある時、リチャードが、七郎に1万ドル投資するから、増やしてみろ言った。その後、七郎に、投資で、わからないことがあれば、聞いてくれと言ってくれた。翌年1965年、ジュニアハイスクールに入学し、ラグビー部に入り毎日、グランドを走り回っていた。その他に、横浜の柔道場に週に2回、練習に通う、忙しい毎日を過ごしていた。そうして、あっという間に3年が経ち、大学受験の時を迎えることになった。投資開始から、翌年には、七郎は資産を1万ドルから2万ドルに増やした。この頃には、リチャードが投資を考えている銘柄を毎週の様に、どう思うか、七郎に聞いた。特に、新しい事業をやり始める企業の将来性について七郎の意見を求める様になった。七郎も株投資を初めて3年目で、持ち金が2万ドルが3万ドルに増えていった。そこで、リチャードが、更に2万ドル渡し合計5万ドルとなった。リチャードが頑張って、増やせよと笑って言った。七郎は言われた通りに、米国に上場してまもない株に投資していった。

 1970年になり、ハイスクールの3年生、進路を考え初め、リチャードが、米国の大学のスカラシップ(無返却の奨学金)の情報をくれた。3つのスカラシップの試験に応募して、最初の試験を受けて合格して、学費は免除されることになった。サンノゼ州立大学に、スカラシップで合格して電気工学科に入学する事にした。リチャードが、これからは、コンピューターの時代が来るので、良い選択だと、七郎をほめて、カリフォルニアに送り出した。送り出すときに、入学祝いとして、更に、1万ドルを口座に振り込んでくれ、合計6万ドルになった。

4話:七郎の投資と七郎商会設立1(1980~1990)

 1974年まで、サンノゼ州立大学で電気工学のソフトウェアを勉強していた。その頃、日本語熱が米国でも盛んになり、日本語教師の家庭教師を掛け持ちで行いながら、学生生活を送っていたので、食費、遊興費、本代など、を賄うことができて、リチャードの入学祝い金を使わずにすんだ。サンノゼでの4年間は、学校の勉強と家庭教師で、忙しく、過ぎ去っていった。印象に残ったのは、大学のパーティーが派手で、美人が多かった事。同じクラスのロサンゼルス富裕層の日系人のお宅で、お寿司や日本料理を行った事。その他は、米国人に柔道を教えた事位だった。その後、サンノゼ州立大学の電気工学科を留年しないで卒業し、1974年(22歳)に日本に帰る事にした。羽田空港から、リチャードの所に電話すると、君の部屋は、そのままにしてあるから、帰ってこいと言われ、戻った。リチャードが、七郎を見て、すっかり、逞しい青年になったと目を細めて喜んでくれた。大学での話、その後、アップル入社、ソフトウェアの話などをした。

 1974年11月、突然、七郎の父で友人の大手商社の役員、山下真一から電話があり東京で会った。喫茶店でスイスのピクテ銀行の書類を見せてもらうと金地金144kg保管してあると書いてあった。大正バブルの末期、まだ、軍部の統制が厳しくない頃に、木下家の東京の広大な土地と大きな屋敷、別荘、車などを売却し、密かに、大手商社の役員、山下真一に依頼して、全部、安全資産の金に変えたらしい。山下真一が帰り際に必要な時に指示してくれれば、日本円か米ドルに換金できると話してくれた。木下家の全員が亡くなり、全部、七郎さんの財産となったと話してくれた。何か、きつねにつままれた様な、感じで、にわかに信じられなかった。山下真一は用件を言うと、名刺と渡してくれ、私も65歳を越えた、そこで、もし私に何かあれば、息子の山下洋一(35歳)に、この件は話してあるので、彼と話してくれと言われた。同じ弁護士事務所か、家にいるから、いつでも連絡がつくと言った。重大な事を話ししてくれ、ありがとうございますとお礼を言って失礼し、鎌倉のリチャードの家に戻った。

 木下家の遺産のことをリチャードに話すべきか、考え悩んだが、リチャードは、七郎を我が子同様に可愛がってくれ、家も金も貸してくれた。やはり、秘密を明かすことを心に決め、木下家の全財産がスイスのピクテに3215トロイオンス(144Kg)の金地金があり、家族が1959年の飛行機事故で全員亡くなり、相続する事になったというと、目を丸くして、本当かと、何回も聞いた。本当だというと、リチャードが、七郎の家系は、日本の財閥の関係かと聞くので、徳川家の親戚と伝えると、江戸幕府の徳川かと聞き直した。そうだと言った。七郎の才能が木下家の小さい時の英才教育のお陰げだと納得した。リチャードは、七郎を、以前にも増して好きになり頼もしく思った。今度は、リチャードが有名な大富豪ファミリー・RCH家の子孫だと打ち明けた。

5話:七郎の米国留学と結婚1(1971ー1979)

 リチャードが、私も米国の大富豪ファミリー・RCH家の子孫だと打ち明けた。七郎も、リチャードがRSC家出身とは、信じられないと、驚いた。リチャードが、笑いながら、これでEVENだなといった。RCH家もスイスのピクテ社に口座を持っていて、大きな金をプライベートバンクで投資したりして資産を増やしていると言った。木下七郎も弁護士からスイスのピクテに預けていると言っていたので、七郎一人で管理するのは難しいから、よかったら、RCH家グループのプライベートバンクに七郎名義の口座を新しく開いても良いよと言ってくれた。七郎は、渡りに船とお願いした。翌日、リチャードが、ピクテの担当者に電話して財産の処理を依頼した。翌週、全部、完了したと連絡が入った。リチャードの義理の息子と言うことで、プライベートバンクに登録したようだ。リチャードが、これで、ピクテのプライベートバンクが節税や、投資を指導してくれると言った。七郎は、リチャードに礼を言った。リチャードが、七郎も正式に私の義理の息子になったんだと、喜んでくれた。

 七郎が。1979年、26歳の時、リチャードの古くからの友人の娘さんが日本に留学しているんだけれど、一度、会ってみないかと言った。名前は、サリー・RCHと言う。彼女に、七郎の事を話したところ、本人から興味があるので、是非、紹介して欲しいと言われたと言うのだ。日本の文化、着物、武道、武士道、日本の花、山、紅葉が好きで、現在、東京で英語学校の教師をしており、24歳、UCLAを卒業して、すぐ、日本に留学したそうだ。六本木のアマンドで会い、七郎が流暢な英語で自己紹介をした。お返しに、サリーが日本語で、自己紹介をした。七郎は、聡明で、明るく、笑顔の綺麗な美人で、一目で気に入ってしまった。帰る前、突然、会って欲しいと、出しゃばって、ごめんねと、彼女が言ったのには驚いた。なる程、日本が好きというのがよくわかる気がした。

 サリーが七郎さんは柔道の黒帯だそうですねといい、その内に、柔道着を着て、練習しているところをみたいわと言った。七郎が、たまに横浜の道場に行きますので、良かったらどうぞと言い、また、電話で、ご連絡しますとサリーに告げた。翌月、七郎がサリーに電話を入れて、横浜の道場へ一緒に出かけた。1時間の練習を終えて、汗びっしょりで、サリーの所へ来ると、サリーが、柔道着をさわらせて言うので、了解すると、帯や、袖、合わせなどを手で触ったり、両手で生地を引っ張ったりして、すごい頑丈で切れそうもないねと笑った。汗臭いだろうと七郎が言うと、そのくらいの方が、私は好きとサリーが笑った。

 その後、何枚も写真をとった。3ヶ月が過ぎて、リチャードが七郎にサリー、いい娘だろと言うと、照れながら、七郎が最高ですと言うと、お互いに大笑いした。リチャードが結婚しろよと唐突に言うと七郎が恥ずかしそうに結婚したいですと言った。じゃー決まりだな。サリーが、七郎の柔道の練習を見て、彼なら間違いないと言い、七郎に結婚のことを聞いて欲しいと言われたと、リチャードが白状した。1979年の紅葉の美しい鎌倉の鶴岡八幡宮でリチャードなど数人が見守る中、神前結婚式を行い、夫婦の契りを結んだ。この2年後の春に、子供ができ、日米の架け橋のような夫婦が正式に誕生したのだった。

6話:七郎の遺産と投資開始1(1980-1990)

 その晩、七郎がリチャードにコンピューターのソフトウェア分野でもRDB(リレーショナルデータベース)に興味を持っていると話すとリチャードが、驚いていた。1979年が終わりを告げ、1980年の新春を迎えた。日本でも、パーソナルコンピューター第1号PC8001というパソコンが発売され、早速、購入、その数年後、本格的なPC9801も購入。アメリカ時代の友人に連絡すると、データベースⅡと言う、リレーショナルデータベースのソフトを送ってくれた。それを使い、模擬データベースをつくり、ソフトを試し始めた。この話をリチャードに話すと面白いシステムで、RCH家の財産管理のデータベースをつくってくれと言われ、作成したところ、RCH家の財産管理の仕事をやって欲しいと言われるようになった。その後、数年後、コンピューター作業スタッフ男性3人と、受付女性1人を雇い、事務所を借りて、アメリカのRCH家から送られてくるデータに、日本での行った、毎日のRCH家の株式、為替、貴金属、原油の取引記録を書き加えて、午後4時までに、イギリスのシティのRCH家のデータセンターへ送る業務を始めた。

 数年後、日本では1982年にNECからPC9801が発売されて本格的なパソコン時だが幕を開けた。その後、1984年にアシュトンテイトからdBASEⅢver2.0JというMSDOS版の本格的データベースソフトが発売された。リチャードから、財産管理だけでなく、顧客管理なども作成する様に依頼され、仕事をする事になった。ネット通信費、事務所費、コンピュータ購入費は、全てRCH家支払いで、別に給料として、200万円/月を支払うと言われ、数年後から、RCH家の仕事を始めた。その後、データベースソフトDBⅢが廃れて、マイクロソフトのACCESSに代わっていった。

 将来は大型コンピュータの時代からパーソナルコンピュータの時代になると七郎は考えていたが、まさに、その時代がやってきたのである。データベースと共に、学生時代研究していたのがネットワークだった。一方、日本では、1984年に東京大学、東京工業大学、慶応義塾大学を実験的にUUCPで結んだ“JUNET”が誕生した。リチャードは、学費を出すから、慶応義塾大学に研究生として入り込んで、勉強して欲しいと言われ了解した。早速、手続きを取り、慶応大学の工学部、電気工学科へ入り込んだ。サンノゼ州立大学で電気工学科卒業と言う事で研究室では有名になった。

 その頃、七郎は、リチャードに言われて、RCH家の資産運用の経理担当会社として、正式に七郎商会を1985年(32歳)に設立した。NYのRCHから送られてくる、事業、投資活動の経理情報をまとめて、データベースを、NYの仕事が終わるNY時間の午後5時:日本時間午前5時(夏時間)午前6時(冬時間))に、NYでのRCH家の取引と取引後のデータを七郎商会に送信してきて、続いて日本時間午前9時から始まる日本市場での取引と取引後のデータ記録を記入しして、日本時間午後4時から始まる欧州市場を記録するため、ロンドンのシティにあるRCH家のオフィスに送るのである。つまり、世界中の市場でのRCH家の取引データを更新しながら、NY→日本→ロンドン(シティ)→NY・・と世界中、ほぼ切れ目なく、24時間連続でRCH家では大きな取引をしていると言うことである。その売買高も、非常に大きく、世界の市場に大きな影響を与えている。そこで生じた利益をスイスのピクテのRCH家のプライベートバンクに定期的に送る仕組みになっているのだ。

 七郎商会では、コンピュータの入力、管理スタッフを七郎を含め男性4名と、パソコンを使える秘書兼、受付嬢、女性2名の合計6名で立ち上げた。そして、3交代制で、日本、欧州、米国の経済状況を24時間態勢で見ていき、ジュネーブのピクテのRCH家のプライベートバンクと情報を共有して、金、原油を初めとした商品市場、米ドル、ポンド、日本円、スイスフラン、など為替、先進国の株価の変動を見逃さないようにして、24時間、ベストの状態で投資活動をしていくのだ。この仕事で、七郎商会には、給料を含めて、RCH家から年間1億円の利益がもたらされるようになっていった。

7話:チェルノブイリ原子力事故1(1980-1990)

 次に、七郎が、今後、日本円が、強くなるのではないかと言うと、その意見にリチャードも賛同した。日本の優秀な電機製品、車など売れてるし、品質も良いので、ソニー、パナソニック、トヨタ、ホンダなどの株を買っても良いかも知れないと言った。1979年ソニーを2万株、1600万円で購入した。トヨタ株2万株、1600万円で購入した。残り資産が1600万円となった。そこで、スイスのピクテに連絡して、七郎の金地金144kgを日本円に変えたいので、金価格を注視するように指示した。1982年末に4300円/gの高値となり、金地金144kgを6億円で売却した。1982年末(30歳)の資産が6億1600万円。1985年の9月22日のプラザ合意で、急激な円高と日本株高で、日本株を買うべきか、円を買うべきか迷った。どっちを買うか1日かけて、考えて、株の変化の方が大きいと考え、残金1600万円を残して、大勝負に出た。

 ソニー株を30万株で3億円とトヨタ株30万株3億円の合計6億円で購入した。予想通り1986年(33歳)から日本株が一気に上昇してきた。日本株上昇と共に、日本円も高くなってきた。

 その年の4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所4号機で発生した史上最大の原子炉事故。 原子炉が暴走し、炉心溶融に続いて水蒸気爆発が起こるなどして、原子炉や原子炉建屋が破壊され、大量の放射性物質が国境を越えて拡散した。 爆発や急性放射線障害などで31人が死亡、11万6000人が避難を強いられた。当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した。

 しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始した。

 この調査結果について事実確認をスウェーデンがソ連に求めた。遂に、ソ連は4月28日に、その内容を認め、事故が世界中に発覚。当初、フォルスマルク原発の技術者は、自原発所内からの漏洩も疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかと考えた時期もあったという。爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。火災の鎮火と、放射線の遮断のためにホウ素を混入させた砂5000tを直上からヘリコプターで4号炉に投下。水蒸気爆発(2次爆発)を防ぐため下部水槽(圧力抑制プール)の排水(後日、一部の溶融燃料の水槽到達を確認したが水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった)。減速材として、炉心内へ鉛の大量投入したが、実際には炉心には、ほとんど到達しなかった。次に、液体窒素を注入して周囲から冷却、炉心温度を低下させた。注入した時には既に、炉心から燃料が流出していた。この策が、功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も、次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。

 砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接、手で投下した。作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが不明。原子炉に近い、水槽(サプレッション・プール)の排水は、放射性物質を多く含んだ水中へとソ連陸軍特殊部隊員数名が潜水し、手動でバルブを開栓し排水に成功した。爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と呼ばれている。事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。

 避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。事故処理従事者86万人中5万5000人が、既に死亡しており、ウクライナ国内(人口5000万人)の国内被曝者総数342.7万人(総数の7%)の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

 この時、九州の「通販生活」カタログハススという会社が「チェルノブイリ事故で苦しんでいる子どもたち」のことを紙面に掲載し、「チェルノブイリの母子支援募金」を募っている。1990年11月からスタートした募金は、年間4~5000万円が集まり、そのお金で医療機器やビタミン剤、医薬品、放射能測定器などを購入し、ベラルーシやウクライナのいくつもの病院に届けた。更に、モスクワに「チェルノブイリ救援連絡事務所」をつくっていて、ゴーリキー通りの日ソ合弁会社の一室を借り、8人乗りのワゴン車を二台とファクシミリ等を設置し、日本語もできる事務局員をおいた。発起人は、斉藤社長。チェルノブイリ担当の神尾さん(この会社の社員)というその若い女性は、市民グループの世話をしたり、一見、優しそうな感じの人なのだが、カタログ誌上の報告では、次のような厳しい文書を書いた。チェルノブイリ現地の医療器具の圧倒的不足について「人工衛星を一基とばす予算で、最新の医療器具がどっさり備えられたのに、ソ連の権力者たちは一体、市民の生命をなんだと思っているのだろう……」その後、広島大や信州大の先生をはじめとする医療専門家(小児の甲状腺癌など)や検査技師が集まって、各々の活動や調査、研究の報告を行い、情報交換しながら、今後のより有効な支援(救援)活動の方向を話し合い、小児患者の治療を最優先に実施していった。

8話:イランイラク戦争と投資(1980-1990)

 チェルノブイリ原発事故のような、大災害が追い打ちを掛けるように、世界の不安の増大と共に、経済も音を立てて崩れおちてきた。翌年1987年10月15日にはイラン・イラク戦争のアーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受け、ミサイルを被弾する出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に持っていた石油プラットフォーム2基を爆撃(ニムバル・アーチャー作戦)し、市場参加者の間には原油市場に対する不安が沸き起こっていた。

 七郎は嫌な予感が心をよぎった。1987年(34歳)翌日、ソニー株、トヨタ株を全株、成り行きで売った。ソニー株とトヨタ株32万株づづ合計64万株で合計19.2億円で売れ、資産合計が19億3600万円。

 ただし、日本経済は、依然、好調なので下げたところを買う心づもりで市場を見ていた。1987年10月19日のブラックマンデーの当日は、ニューヨーク証券取引所のダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がった。この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった、1929年の暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。これを見て、七郎は震え上がった。そこで、リチャードに相談すると、米国市場の混乱は1年くらい続くかも知れないが、日本の景気は良いから、一気にさげるであろう明日か、もう一段さげたところを買うか、上げ始めたところ買い始めるか、この3つのどれを選ぶかだと思うと言った。

 七郎はその意見を聞き、1987年10月20日が開く前に、ソニーとトヨタ株を10万株づつ合計20万株、成り行きで買った。米国での株安を受け、日本では1987年10月20日に、日経平均株価が前日比で 3837円安(-15%)という大きな下げを記録した。更に1988年があけて、1月にソニーとトヨタ株を成り行きで25万株づつ合計50万株を6億円で指値を入れ買った。この時点での残金1億11840万円。

 やがて1987年も終わりを告げて1988年の新春を迎え、1988年から、日本株は再び急上昇し初め、1988年8月には、40%も上昇した。1988年末から、再び、日本株が上昇を始めた。1989年1月から上昇が加速していった。1989年11月も急上昇したので、ピークが近いと考え1989年末に高値売りを狙い、12月の最終日にソニーとトヨタ株を25万株づつ計50万株、13億円で売却し、資産合計が14億1840万円となった。

9話:バブル崩壊と妻の死1(1980-1990)

 1990年が始まり、大発会から、平成バブルがはじけだした。それと共に、円高が進んできて、日本株の低迷が続いていた。そんな時に、七郎にも、大きな不幸が、忍び寄ってきた。この年の夏に、七郎の奥さんが体調を崩し、入院した。1週間にわたり、東京のKO病院で精密検査をしたところ、原因不明の白血病だとわかった。

 七郎は、一気に不幸のどん底に突き落とされ、どうして良いかわからなくなった。リチャードに相談すると、最善を尽くすしかないと言われ、後は、七郎の気持ちの持ち方だと言った。そこで、どうしようと言うと、七郎、君の人生は、君自身で考えるべきだと言われ、突っ放された様な気がして、気が動転した。

 そこで、以前から、お世話になっている柔道の恩師に、相談してみることにした。彼は、人生って、良い時も悪い時もある、柔道人生だってそうだろ。悪い時き、お前はどうした?と聞かれ、平常心でしっかり練習に励んだと答えた。今もすべきだ、平常心を持って、ベストを尽くせと言われた。

 人生の中で、どうにもならない事って、必ず、あるんだ、そんな時は、人は、運を天に任せて、平常心でベスト尽くすだけしかできない。結果は、だれにもわからない。つまり、運だ。でも、平常心でいることはできる。またベストも尽くせる。逆に言うと、それしかできないだよと言った。恩師からこの話を聞いて、少し落ち着くことができた。折角、柔道場に来たのだから、畳の上で座禅していけば良いだろうと言ってくれた。この恩師の優しい言葉に、七郎の目に、大粒の涙が浮かび、やがて、こぼれ落ちた。

 少し落ち着いて、柔道着に着替えて、正座して黙想をすると、動転していた心が、晴れ渡る様に、暗雲が去って、太陽がさしてきた。何があっても、その時、七郎は、落ち着いて、平常心で、ベストを尽くそうと心に誓った。

 その足で、KO病院のサリーの病室をたずねた。サリーは、七郎に、こめんね、こんな身体になってと謝った。その言葉に対して、七郎は、精一杯の笑顔で、仕方ないよ、運命には逆らえないからと言った。おちついて話す七郎を見て、サリーは、感極まって、大声で泣き出した。すると、七郎は、だまって、サリーの身体を抱きしめた。ひとしきり、泣いた後、サリーが、七郎を選んで本当に良かったと言い、又、泣き出した。サリーを抱き寄せていた七郎も、この言葉を聞いて、もらい泣きをするのだった。
 
 その時、病室のドアが開き、リチャードが見舞いに来た。サリーと七郎の姿を見たリチャードが二人の身体を両腕ではさんで、頑張れよと、涙ながらに励ましてくれた。七郎は、やっと、自分がRCH家の仲間に入れてもらったような、妙な気持ちがした。人の感情って、生まれ、育ち、言語、国、性別、人種なんて関係ないんだ、わかる者には、わかるんだと再確認した。

 看病の甲斐なく、翌月、秋風が涼しくなってきた頃に、サリーは天に召された。残された10歳のジョージと37歳の七郎は、参列者、数人の小さな葬式に参列して、参列者に、今日は、サリーの葬式に参列してくれてありがとう、私とサリーは、結婚して、わずか10年でお別れする事になってしまいました。でも、私にとっては、この10年は、100年、いやそれ以上にも匹敵するほど、楽しい日々、幸せな日々だった。幸いに、ジョージも授かり、サリー、君との楽しい日々の思い出とともに、君を絶対忘れな事を神にちかって贈る言葉としたいと話した。

 そのスピーチに、参列者からは惜しみない拍手をもらった。日本式の葬式で、サリーの遺骨は、七郎が用意した、お墓に入った。最後に、七郎が、また、後で君の所へ行った時、楽しい時間を過ごしましょうという言葉を聞いて、参列者から、すすり泣く声が聞こえた。

10話:ソ連崩壊と阪神大震災(1980-1990)

葬儀の翌日、横浜の道場へ行って、練習で汗を流し、葬儀を終えた事を恩師の先生に報告した。恩師の先生から、人間はね、こう言う試練、悲しみを越えて、強く、優しい人間になっていくんだ。七郎、これからの人生を平常心を持って、精一杯頑張って行けよと言ってくれた。葬儀の後、息子のジョージに、君はどうしたいと聞くと、今の横浜のインターナショナルスクールを出たら、米国の大学に通いたいというので、了解し、一生懸命、スポーツ、勉強を楽しんでいくんだぞと言い、金が必要なら、送るから言ってくれと言った。

 1991年、11歳になったジョージは、理数系よりも文学、音楽、絵、芸術の才能がある様だった。バンドを組んでトランペットを吹いていた。スポーツはテニス楽しんだ。成績は優秀であり、理数系が弱いので七郎に教えてもらう事もあったが、徐々に成績を向上させ、全額給付のスカラシップで英国留学をめざしていた。

 この頃、1991年には、ソ連邦が崩壊して、ロシアとなり、その後、ウクライナをはじめ、旧ソ連邦の多くの国が独立していった。そして、米国との冷戦時代が終わり、世界の経済にとっても、平和にとっても、良い時代が来ることが期待された。しかし、期待とは裏腹に良くなる事はなかった。

 1995年、七郎の息子のジョージは、15歳になり、横浜のジュニアハイスクールの成績も、初めて学年トップになった。ジョージの口から、スカラシップを取って、お父さんのように、自分の力で、自分の将来の道を切り開いていくと聞かされた。また、自分自身は、音楽、美術といった芸術系が好きだが、生活のためには、やはり技術、特にコンピュータの時代なので、ソフトウェアの勉強をしていくと言った。七郎は、ジョージから、この話を聞いて、独立心のある逞しい子に育って、非常に喜んだ。

 そんな時に阪神大震災が起きた。1995年1月17日の早朝、七郎は、いつもの様に朝5時に起き、ニューヨークからの経済情報を見ていると、NHKの緊急放送が放映され神戸の駅周辺でビルが崩落しパニック映画の1シーンをも見ているようだった。アナウンサーも事情がわからず、何か大きな火災が神戸の市街地で起きていますとただ放送するだけだった。

 その後、神戸周辺で大きな地震が起きて、木造の家が押しつぶされて死者が大勢でている、一部のマンションが倒壊して、阪神高速も倒壊したようだとのニュースが入り、断片的にコンクリートの建物が倒壊しているのが写り、神戸駅までの大火事の画像が流れて、事の大きさを知った。死者:6,435名、行方不明者 : 2名、負傷者 : 43,792名。住家被害:全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟。地震当日に死亡した5036人の76%に当たる3842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死(圧死、窒息死など)だった。多くは木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとみられる。何か不吉な前触れのようで嫌な年になった。

11話:オウム真理教事件と円高不況(1984-1999)

 更に、追い打ちをかけるように、1994年の6月のオウム真理教による松本事件、1995年3月20日の地下鉄サリン事件が発生。まさに、世紀末の悲惨な出来事に、憂鬱な気分にさせられる七郎だった。

 投資の世界では、世界の株式は乱高下していた。1995年円高が加速、多分、円高が変転した時点で米ドルを買う事にした。1995年4月、80円で30億円で米ドル3750万ドルを買った。この時点の残金1億5600万円と3750万ドル。そんな中1997年、七郎の息子、ジョージは17歳、3回のスカラシップの試験を受けて、合格し、UCLA:カリフォルニア大学ロサンゼルス校の電子工学科に入学した。この時、七郎はジョージに合格祝いとして1万ドルを送った。
 
 その後、1998年のアジア通貨危機と共に、円が急速に安くなっていき、反転したときに売ることを決めた。1998年8月に¥146/$で、3750万ドルで円を買い54億7500万円とした。1998年夏の資産合計が56億3千万円になった。

 日本の経済界では、1998年11月13日に都市銀行の一角、北海道拓殖銀行が経営破綻、翌日に日本の4大証券の1つ、山一證券が経営破綻すると言う大事件が起きた。1999年まで、世界の株価が上昇を続け、好調を維持して、20世紀が終わりを告げ、21世紀を迎える事になった。2000年問題というコンピュータ誤作動によるパニックも起きずに無事に21世紀となった。

 この頃には、七郎商会もデータベースを増やして、1989年、七郎商会を1985年に設立して13年で、会社の純利益35億円で、社長の七郎の累計収入、15億円と膨らんできた。仕事の量の増加と共、スタッフ男性8人、女性2人と増員し、最近では年間5億円/年の利益が出る年もあるほど順調に成長してきた。

 リチャードが海外出張している時には、RCH日本支部代表・リチャードの代理として、日本の政治家、財界人、芸能人達とも会う事ができ、木下七郎の顔も売れてきた。七郎の資産は1999年末の56億3千万と給料の累計15億円の合計71.3億円になった。

 1999年に、七郎の一人息子のジョージがUCLAから6月に帰ってきた。大学では、ソフトウェアの勉強しており、将来性のあるパーソナルコンピュターソフトに興味を持っていると言った。現在、マイクロソフトのエクセル、ワード、パワーポイント、アクセスを使っている。簡易プログラム言語のVBA(Visual Basic for Appication)を使い、特にアクセスVBAで簡単なプログラムを作るのが、特に面白いと言った。七郎が、今、会社でRCHの経理を任されているが、アクセス(MSのオフィスパック・プロに入っているデータベースソフト)を使いVBAでプログラムを組んでいるというと、まさに、それを大学で勉強していると答えた。七郎が笑いながら、ジョージに向かって、お前が、しっかり勉強して、俺のあとを継ぐかと言うと、それは、後で考える事で、今はわからないと回答した。

 ジョージが日本にいる間に、実際に、データベースの更新の仕事の実際をみせると、興味深く見ていた。それくらいのことは、簡単にできるよと、七郎に言い返した。それに対して、そりゃー、大学で専門的に勉強してるんだから、当たり前だよと言い返した。8月下旬のまでの2ヶ月半、日本に戻って、旅行したり、日本の友人と遊んだりして、ロサンゼルスへ帰っていった。

12話:21世紀とテロと戦争とNetバブル崩壊(2000-09)

 2000年にネットバブルがはじけて、日本株が大きく売られ始めた。その頃、金地金の円での安値であり、金価格900円/1gで18億円購入する事にした。2000Kgの金を購入できた。残金1億1840万円。

 2001年を迎えて9月11日にアメリカ合衆国内で同時多発的に発生した。イスラム過激派がハイジャックした4機の民間航空機は、世界貿易センタービルやペンタゴンを破壊し、3000人もの人々の命を奪った。9.11を境に、アメリカの政治も社会も大きく変わった。発足して半年ほどのブッシュ政権は、リベラル派も取り込み、教育改革などで実績を残した穏健派の政権であったが、この日以降、保守派のネオコンが一気に台頭し、軍拡路線に突き進んでいった。

 9.11の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンの引き渡しに応じなかったタリバン政権を攻撃した2001年の10月のアフガニスタン紛争開始までは、世界の多くの国がアメリカの動きを支援していた。その後、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。

 2003年3月のイラク戦争開戦時期には、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張するアメリカに対して、フランス、ロシアなどが反対し、国際社会とアメリカとの溝が広がっていき、結局、国連安保理は明確な決議を出せないまま、アメリカ、イギリスなど有志連合でイラクに攻め込んだ。イラク戦争は開始から2カ月ほどで「大規模戦闘終結宣言」を出せるほど、当初はアメリカにとって順調なものだった。しかし、開戦の理由だった大量破壊兵器は結局見つからず、イラク戦争の大義は揺らいだままだった。

 2000年度年間売上高1110億ドル(全米第7位)2001年の社員数2万1千名という、全米でも有数の大企業であったエンロン(エネルギ取引とITビジネス)の巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て2001年12月に破綻に追い込まれた。破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている。それに続いて、2002年7月21日に米国の大手電気通信業者ワールドコムが倒産した。負債総額は410億ドル(約4兆7千億円)資産総額は連結ベースで1070億ドル(約12兆4千億円)にのぼり米国史上最大の経営破綻を記録した。米国経済市場、最悪の出来事だった。その他、欧州では2002年から欧州統一通貨ユーロが導入された。その後、2005年には、ロンドン同時爆破事件が発生し、テロリスト達の報復が始まった。

 2005年、ジョージから、職場の女性が気に入って、つき合いだして1年、2006年4月に結婚したいと電話があり、七郎は、喜んでジョージを祝福した。2005年の秋に、ジョージが、フィアンセのマーガレットを連れて帰国した。銀座で食事をして、マーガレットがシアトルで育った話とか、料理が上手、日本が好きで魚料理も好きだという事などを聞いた。現在、マイクロソフトの本社で働き、シアトル郊外のレドモントにある会社から近い所に、家を借りて同棲していると言った。

 幸せそうな2人を見ていると、七郎は13年前(1993年)になくなった、妻のサリーの事を思い出さずにはいられなかった。月日のたつのは早い、七郎も40歳になってしまった。食事後、息子のジョージが、僕たちだけ幸せになるのは、不公平だから、親父も、良い人を見つけて、幸せになってくれと言うではないか、いつの間にか、大きくなってと胸が熱くなって、思わず涙がこぼれた。そうーだなー、仕事ばかりしていては、つまらない人生かも知れない、パートナーを探してみるかと、おどけて言った。

 すると、マーガレットがそうして下さい、お父さんと言った。別れ際にジョージが、僕、日本に帰ってこないかも知れない。どうもアメリカの方が性に合うんだと言った。七郎は、どこで生活しても構わない、お金に困らず、幸せに暮らせればそれで十分だと答えた。ジョージが、あー良かった、親父にそう言ってもらって、本当に安心したよと言い、シアトルへ帰って言った。

13話:七郎が結婚?(200601-12)

その翌年、2006年、いつもの様に、七郎商会でRSCの経理情報を更新していた冬の晩の電話の応対をしている秘書の吉永恵子が、ちょっと複雑な顔でバレンタイン・チョコをくれた。気になった七郎は、吉永さんどうしたのと聞くと、何でもないですと言うばかり・・。そこで、仕事を終えて、食事に誘うと、意外な事実がわかった。吉永恵子さんは大学を卒業してから8年(29歳)、七郎商会に入社して、秘書の仕事を続けている真面目な娘だった。この日は、食事をして、ワインを飲んでいるとき、突然、吉永さんが、社長、私、両親のすすめで、最近見合いをさせられたんです。

お相手は、三菱財閥の御曹司で31歳の三菱商事の商社マンの方です。フットボールをしていて、流暢な英語で海外で大きな仕事をなさっているエリートらしいのです。ただ、初めて、お会いしたとき、全く好きなタイプではないというか、嫌いなタイプ、いわゆる鼻持ちならない人は、駄目なんです。

 私は、常にクールで感情を表に出さなくて仕事のできる人が好きなんですと告白した。例えば、社長のようなタイプが大好きなんですと言うではないか、七郎は、困ってしまって、変なこと言うなよ、おじさんをつかまえて、からかうのも、いい加減にしろよと言った。すると、恵子は、こぼれそうな大粒の涙を浮かべて、社長は、私のこと嫌いなんですねと、泣き始めた。いや、そんなことないよ、むしろ、その逆さ、好きだよというと、ちょっと酔ったように、じゃー結婚して、見合い相手から、奪い取って下さいと言うのだ。これには、七郎は、目を白黒して、なんて言っていいかわからずに困ってしまった。

 すると、続けて、今日中に決めてよねと言ってきた。そこで、吉永さん、今日は飲み過ぎだから、家まで送るよと、言った。タクシーをつかまえて、帰る途中、恵子が、ホテルニューグランドの前で止めてと運転手に言った。ホテルの前で止まると、今日だけは、私の言うこと聞いてよねと、言うので、ついていくと、ホテルの部屋に入り、最後のパーティーしようと言うことになり、お酒をのんで、吉永君と1夜を共にしてしまった。翌日の朝は、モーニングサービスを取ったが、2人とも、口数が少なく、成行での大きな出来事に困惑したように見えた。ただ。恵子は、この日から七郎商会でも、社長と言わず、七郎さんと呼び始めた。

 翌月の七郎の誕生日にホテルニューグランドを予約し、楽しい夜と美味しい食事をした。吉永恵子は、敬虔なクリスチャンのお父さんを持ち、横浜の歴史ある貿易商の娘として生まれて、幼い頃から、近くに住む外人さんと遊んでおり、英語のマスターするのが早かった。そこで近くのインターナショナルスクールに入学させたが、小学校の3年の時に、突然、日本の学校に行きたいと言い出して転校した。その後、フェリス中学に入りたいと、家庭教師をつけての猛勉強で合格し、フェリス女学園高等部へ進んだ。

 その後、上智大学外国語学部・英文科に入学し、卒業と同時に七郎商会へ入社した。その時、七郎が恵子さんにインターナショナルスクールから日本の学校に転校したのか理由を聞いてみると同じクラスに好きな米国人の男の子がいて恋の告白したらアジア人は程度が悪い日本人と言っても、所詮アジア人であり、白人の方が良いし、君のことも、あまり綺麗だと思わないと言われてショックのあまり転校したようだ。

 この話の時、ちょっと笑うと、厳しい顔で、七郎さんも人種差別主義者なのと大声で言った。違うよ、小学校3年生で、おませさんだなと思い、笑っただけだけだよと、言い返した。七郎も小さい頃から外人との付き合いが長いので、まれに人種差別の強い白人至上主義者がいたことは、知っていた。でも、そんな奴、大成しないよと言った。

14話:七郎のプロポース(2006-2007)

 10月の恵子の誕生日、恵子がホテルニューグランドで食事したいというので出かけた。開口一番、ここが一番、落ち着くのよね。東京って大都会だけれど、ビルと多くの車と、人と、騒音しかない。その点、横浜は港の海の香り、日の光、山下公園の自然と人も車も決して多すぎない、良い所、やっぱり一番好きな所、また食事はホテルニューグランドが美味しいのよねと言った。

 食事を終えて、少し赤ワインを飲みながら七郎が自分の事を話し始めた。1979年にサリーという米国人女性と結婚し2年後、ジョージという名の息子ができた。幸せな家庭を築いて10年が過ぎた1989年にサリーが突然、体調を崩して入院し、白血病で看病の甲斐もなく、翌年、私の腕の中で息を引き取ったと恵子に話した。

 今でも、サリーの写真は、名刺入れ、肌身離さず持ち歩いているんだと言った。恵子が、よかったら写真見せてと言うので見せると、わー綺麗な人と言い、若い時で、さぞかし残念だったでしょうねと言い、目にいっぱいの涙を浮かべた。七郎は、嫌みの1つでも言わないかと内心、どきどきしていたのだが、涙を浮かべたのには驚いた。でも七郎さんのような素敵な男性と結婚して、きっと、幸せな人生だったに違いない、そう言う意味では羨ましいわと続けた。この話を聞いていた七郎は、恵子のやさしさを知り、結婚を決意した。

 翌月、七郎が、恵子に元町でも行って、食事して、買い物でもしようと誘った。食事の場所は、中華街の美味しい店がいいなと、七郎が言い恵子にどこが良いと聞いた。それなら聘珍樓を予約しましょうと言うので任せると言った。当日は、オシャレして出かけた。聘珍樓は、中華街の真ん中にあり、大きな座敷で2人きりで、運ばれてくる料理を食べた、どれも確かに美味しい。恵子が美味しいでしょ、多分、日本で一番美味しい中華料理店だと思うわと言い笑った。
 
 食事の後は元町で何を買ってくれるのと七郎に尋ねるので、それは秘密、行ってからのお楽しみと言った。意地悪ねと、七郎の胸を叩いた。中華街から歩いて、橋を渡ると元町商店街。七郎がスタージュエリーの前で足を止めて、突然はいるとビックリした恵子が、えー宝石!と叫んだ。七郎が結婚指輪だよと言うと、涙を浮かべて恵子が抱き付いてきた。七郎が、ゆっくりとした口調で、結婚しようと恵子に言った。その時、恵子は、あまりのショックに泣き出した。ひとしきり、泣いて、やっと落ち着いて、ありがとう、本当に恵子を選んでくれて、ありがとうと言った。
これには、冷静な七郎もうっすらと涙が浮かんできた。

 店のドアを開けて、少し落ち着いた恵子に結婚指輪を選んで下さいと言った。初老の店員が微笑みながら結婚指輪をお探しですか、何か、お好みのものがありますかと聞いてきた。恵子が特にないのですが、何がおすすめですかと聞いた。すると、お二人の名前を入れたダイヤモンドをちりばめた結婚指輪なんて素敵じゃないですかと、見本を見せてくれた。名前と結婚記念日をいれたものがこれで、こっちは内側に彫ったもので、外側からは見えませんと説明してくれた。すると、恵子が内側に記念日とイニシャル入りのこれが良いと思うけど、七郎さんがどうかしらと聞いてきたので、良いんじゃないと答え。その指輪を購入する事にした。イニシャルは、わかるけど、結婚の予定日は、まだ決めてないだと、おどけた口調で言うと、みんなで笑った。日にちが決まったら教えて下さい、そのように彫るようにしますからと言った。お支払いはと言うと、お渡しの時に頂戴致しますと丁寧に答えてくれた。

15話:両親への結婚式の報告(2007-200801)

 結婚指輪も決まって、今晩は、ホテルニューグランドに泊まっていこうと、七郎が言うと、恵子がそれで、決まりと叫んだ。帰り道、結婚式もニューグランドが良いなと恵子が言い、それでいつ頃が良いと聞くと暖かい、4月の中旬の日曜。これで、ホテルニューグランドで2008年4月16日の日曜と決まった。新婚旅行は、4月28日から5月2日の5泊6日で、日本1周、新幹線と特急電車の旅を計画した。ホテル行く途中でウチキパンでパンを買った。ホテルに到着しフロントで来年、結婚式をしたいといい、まず、先にチェックインした。もうこの時間ですとウエディング担当は帰ったので後日、結婚式のことを後日、伺うと言うことで良いですかと言われ、ウエディングの厚いパンフレットを渡してくれた。

 翌朝、海の見えるレストランで朝食をとりながら、これで、結婚式の事も結婚指輪もきまってめでたしめでたしと恵子が笑った。恵子さんが、明日、電話で結婚指輪のイニシャルと結婚式の日付を元町のスタージュエリーに電話しておきますと言った。

 次の週の土曜日に2人でホテルニューグランドへウエディングの打ち合わせにいく事にした。土曜日は、あいにくの土砂降りだった。そこで、車でホテルニューグランドへ、ウエディングの打ち合わせに向かった。ウエディング担当者と打ち合わせが始まり、人数の話になり、七郎が、私の方は会社関係社含めても10人だけだと言った。すると恵子さんが私の方だけ大勢というわけにはいきませんと言い出した。
ホテルの担当者が一応、25名様以上のウエディングプランでお願いしていますと話した。七郎が、恵子さんの方で、少なくて悪いが15人でお願いできないだろうかと頼んだ。わかりました厳選して15人選びますと言った。これで、ウエディングプランが決まり、後はドレスと、タキシードを決めて、着替えて和装もお願いし終了した。帰りに元町のスタージュエリーに立ち寄り結婚指輪を受け取り、家路を急いだ。

 数日後、この結婚の話を正式に、恵子のお父さん山崎仁さんと、お母さん山崎仁美さんに話しに実家へ向かった。実家につくと、山崎仁さんが、あなたが、恵子の勤めている会社の社長さんの木下七郎さんですか、恵子を何卒宜しくお願いしますと言った。七郎が、恐縮です。こちらこそ宜しくお願いしますと言った。次に、お母さんの木下仁美さんが、わがままな娘ですが、どうぞ宜しくお願いしますと言った。

 いえ、仕事のできる素晴らしいお嬢さんですと答えた。ご両親から、七郎は、正式に結婚の許可をもらって、ほっとした。結婚式の日付と場所、その後の新婚旅行の予定。訳あって、七郎の親族が少ない事などを話して、彼女の実家を後にした。

 やがて12月、クリスマスが終わり除夜の鐘、また新しい2008年が始まった。今年は、恵子と二人で横浜の伊勢皇大神宮に初詣をして、2人の健康と幸せ、結婚がうまくいきますようにとお願いした。

16話:結婚式とリーマンショック(2008-2009)

 春めいてきて3月が去り結婚式の当日、2008年4月16日を迎えて、手はず通り、ホテルニューグランドで、木下七郎の育ての親、リチャード・RSCと山崎恵子さんのお父さん、七郎商会の社員や新郎新婦の友人など、参列者25名で、結婚式と披露宴を行った。七郎の育ての親リチャードが祝辞を述べた。約3時間で終了して、4月28日から7泊8日、東北から、新潟、名古屋、神戸、博多、出雲大社、広島、岡山、大阪の旅へ出かけた。新婚旅行を無事終え、自宅へ帰ってきた。

 その後、七郎は、鎌倉のリチャードの家を出て、恵子とマンションでも借りようと考えていたのだが、恵子が横浜の家が離れを使っていた、恵子の兄弟が次々に出て行ったので、両親と一緒に住んでくれないかと言ってきた。七郎は、長く独身であり、特に断る理由も見つからないので、同居に同意した。現在、家の離れが、倉庫代わりになっているので、片付けて、2DKのとして使うことにした。本宅とは廊下で続いていて行き来するのにも便利だった。

 新婚旅行から帰ってきた次の日に恵子のご両親に、離れを使わせてもらう挨拶をして、同居を開始した。この年、世界経済では大きな出来事が起きた。2008年に9月15日についにアメリカ合衆国の投資銀行であるリーマンブラザースが経営破綻した。負債総額、約6000億ドル(約64兆円)という史上最大の倒産により世界がに鎖的な金融危機を招いた。日経平均株価も大暴落し9月12日(金曜日)の終値は12214円だったが、10月28日には一時は6000円台(6994.9円)まで下落し、1982年10月以来の安値を記録した。

 2008年10月3日には、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュが、金融システムに7000億ドルの金銭支援をするための法案に署名した。2008年に金は高騰して3300円/gとなり、七郎は2000kgの金を66億円で売却した。総資産が67億円1840万円になった。売却後、すぐに、金が急落して2008年12月に2100円/gで3000kg、63億円で、ゴールドを再度購入し、購入後の資産は2億円となった。

 日本でも2009年10月にJAL、日本航空が経営破綻した。再建案は、3000億円規模の公的資金の注入や2500億円の債権放棄などの支援を必要とし、一方、日本航空側にはこうした支援を受けるため、月に25万円ともいわれる高額な企業年金のカットや、1万人規模の人員削減の必要性も訴えられた。その後、日本航空が再生するまで国営とされた。2009年に円高ドル安の進行が始まった。

17話:恩師、リチャードの死(201001-12)

2010年1月22日、寒い日、昨年12月から、体調を崩して東大病院に83歳のリチャードが入院していた。風邪ををこじらせて、インフルエンザにかかり、肺炎を併発したとの知らせが入り、七郎は急遽、彼の病室に見舞いに行った。マスクを着用して、彼の顔を見ると、青白く、急に老けたような、生気のない様に見えた。

 しかし、彼は七郎に精一杯にの笑顔で、大丈夫だ、じき退院すると強がっていた。リチャードが君に話しておきたいことがあるんだが、話すことができないので、秘書にメールを送らせるから読んでくれと言った。七郎は、何と言って良いのかわからず、リチャードの手を握るのだった。

 10分位して、病室を出るとき、リチャードが小さな声で「グッド・ラック・Good Luck」と言ったような気がして、永遠の別れが来たと直感した。振り返ると、我を忘れて、泣き叫びそうになるので、じっと我慢して静かに病室をあとにした。

 翌日、七郎商会に帰ると、メールが入っていたが、開けようとしても、キーワードを聞いてくるだけで、開けない。そこで、昔、リチャードが教えてくれた、秘密の言葉:「Good Luck」を打ち込んだ。すると、メールが開いた。

 最初に、もし、君が、これを読む時には私は天に召されているだろうという書き出しから始まった。僕が君と会ったのは、多分、イエスキリストのお導きがあったのだと思う。最初に君を見たときに、すぐに、何か、不思議な縁を感じた。だから何のためらいもなく君を自分の息子のように迎え入れたのだ。

 その数日後、私が酒を飲んで帰宅した夜、君に、日本は敗戦国であり、日本を捨てて米国人にならないかと言った時、君は、嫌だ、日本には優れた文化、伝統があり、それが大好きだから、日本人のままでいると言った。私が本当に日本は欧米に追いつけるとは思わないと言うと、そんな事はない、日本人の勤勉さと、正直さ、結束力で、きっと10年、20年後には追いつくと思うと言った。その為に、七郎は、頑張って勉強していきたいと言い切った。

 その時、正直、頭にきて、金を稼ぐというのは、並大抵の努力では、できることではない、すごい相手と闘って、勝たなければ勝てないのだ。七郎、お前に、そんな覚悟があるのかと、また、勝てる自信が、あるのかと、すごい形相で言ってきたが、勝てるかどうかわからないが勝つために努力する覚悟は持っていると開き直った。その時、お前は、俺の後を継げる、すごい奴だと思った。その時、君を抱き寄せて、ハグしながら、お前を見ていると、昔の自分のような気がしてならないと急に涙を流しのだ。この時、本当の親子になれた気がしたんだ。

 その後、君は、僕の本を片っ端から読んで、投資の勝ち方を会得していった。サンノゼ州立大学に、スカラシップで合格して、日本に帰ってきた時は、見違える程、逞しそうな青年になっていた。本当にうれしかったよ。

 帰国後、君が木下家という由緒正しき家の息子と知って、僕の勘に間違いなかったと思った。その後、RCH家の経理のデータベースの更新の仕事を与えた。仕事の内容は、教えていなかったが、多分君のことだから、世界経済の大事件の時(ブラックマンデーやリーマンショクの時)にRCHの財産が急に増えた事から、おおよそ、どんな仕事そしていたか想像できるだろう。しかし、僕は、君をRCH家に縛り付ける気はない。好きなように生きて欲しい。

 ただ、七郎が僕に与えてくれた、数々の事を考えると、僕は、その歩んできた人生の価値の分だけの報奨金を渡したいと思う。数日後、君のスイス・ピクテのプライベートバンクの口座にその金をくり込んでおくよ。君が正しいと思う事に、使ってくれ。そして、君が望むなら、RCH家の経理担当の七郎商会をやめても構わない。本当に長い間、楽しい時間を与えてくれてありがとう、心から感謝します。これで、文面が終わっていた。

 パソコンの画面を見ながら、したたり落ちる涙を拭こうともしないで、読んでいた。最後に、七郎は、背筋を伸ばして、泣きリチャードの冥福を祈り、黙祷を捧げた。翌日、七郎の口座に、新たに10億円が振り込まれていた。

 七郎はリチャードが予想したように、七郎商会とRCH家との関係を解消する決心を、その旨をRCHのニューヨークの本部に伝えて、この仕事を終えた。

18話:東日本大震災と募金活動開始(2011-12)

2010年は恩師リチャードの死と七郎商会の解散と続き悲しみのうちにくれていった。七郎商会は、七郎の給料を貯めたお金から5人の退職金合計1億円を渡し残りの再就職策を世話して退職してもらった。七郎は、その後、夫婦で、個人的に日本の製品を海外に売る貿易の仕事を再開した。その後、貿易の仕事を奥さんの恵子に任せて、知り合いの会社を回り、貿易の手伝いをしていく事にした。そして、2011年があけ、初詣で、貿易商の繁栄を祈った。

 その年、2011年3月11日14時47分、東北太平洋沖を震源とする、マグニチュード9.0という、とてつもない大きな地震が起きた。東京、横浜も震度5の大きな揺れに見舞われ、電気、ガスが止まった。その後、電気が復旧すると、東北沿岸の大津波の映像が映し出されて、まるでパニック映画のワンシーンを見ているかのような錯覚に陥った。しかし、これは、映画ではなく、実際に起きているんだと、思うと背筋が凍る恐怖感に襲われた。こう言う大災害の時は、人間の力のなさを痛感した。東京では、交通網が麻痺状態になり仕事から帰る人々の長い行列が国道を埋め尽くしていた。七郎も奥さんも、今後の事など考えられず、呆然と立ち尽くすだけだった。時間だけがむなしく過ぎていくうちに、東北での津波、港の石油コンビナートの大火災などがテレビに映し出されると絶望感が増し不安な気持ちをかきたてられた。その晩は、夢遊病者の様に、ただ、テレビを見て、眠れない夜を過ごした。家族の安否を確認するのが精一杯だった。

 翌朝、パソコンを開くと、RCHの関係者からのメール、息子のジョージ、友人のティムからの安否確認のメールが入った。彼らに自分たちの無事を返信した。ティム、RCHの関係者からは、経済的支援するからとも書いてあったが、その必要はないと答えた。

 半日経って、その後3月17日の、東北電力福島第一原子炉のメルトダウンという未曾有の大事故が起きたのだった。その時は、ショックのあまり、茫然自失という大人、子供達が多く、特に、関東以北の人達は大きなショックを受けた。翌日から、ガス、水道、電気が復旧し、家にも帰れるようになった。

 その後、七郎は元RCH家のメンバーとして政治家、財界人、芸能人ともパイプできたので大きなチャリティー組織をつくって、被災地の救援、大きな募金の和を日本に作り上げ様と思いついた。最初、震災孤児1698人の進学のために、七郎基金を1億円で立ち上げ、顔見知りの財界、芸能界、米国の財閥、富裕層に会い寄付を募った。

 またインターネットでも募金を要請した。RCH家の関連の米国の富豪達にも、この事を知らせた。七郎が私費1億円を拠出し日本での募金活動で10億円、米国から1千万ドル(8億円)の合計18億円の基金となった。まず2011年夏に震災孤児1698人の進学のために1億円を寄付した。その後、毎年3月に1億円ずつ募金した。2012年で14億円になり、その年七郎基金で合計24億円を寄付した。この事業で七郎の全資産8億円のうち5億円を寄付、従業員の退職金1億円を使い2億円となった。自分たちの将来を考えて2012年、SP500に1億円投資し全財産が1億円となった。

19話:与えられた人生?、何せねば!(2011-12)

 この事件を機に七郎は、自分の歩んできた道が本当に良かったのか、また正しかったのか振り返る時間がもてた。2011年で58歳を迎え普通は、あと2年で定年を迎える。確かに金銭的にも、対人関係でも、今までは恵まれた人生だった。お金もでき、地位も、仕事も、名誉も手に入れた。

 しかし自分で勝ち取ったものは何一つなく全部、家族、友人のおかげだったことに気づいた。つまり、与えられた人生であり自分の足で切り開いたとはいえない事に気づいて、七郎は数日間は呆然とした。自分の手で何かしたい。何かしなければいけない、そうでなければ生きている意味がどこにあるのだと悩みはじめた。

 数日後、いつもの様に運動のため、散歩をしていた時、とある寺の前で足を止めた。入り口に、毎週日曜日、無料座禅教室を開催してますので、お気軽にご参加下さいと書いてあった。これだと思い、寺の座禅教室に入会した。翌週の日曜、最初の座禅に参加した。日頃、座る生活をしていないので、うまく座禅が組めない。見かねて、お坊さんが、座布団を持ってきて、何とか座禅を開始できた。座禅し始めてすぐ、頭の中から何かが抜けていく様な不思議な感じがした。しかし嫌な感じと言うよりも、爽快感さえ感じた。

 座禅終了後、お坊さんが、座禅の第一歩は雑念を捨て、無の境地を感じることですと教えてくれた。静かな感じ、爽快な感じを体感して下さいと言った。その後、参加者から、いろんな質問とお坊さんからの話があり1時間ほどで終了した。

 七郎は、座禅は苦しかったり、痛かったりするんだろうなと予想していたが、反対に爽快感を感じ、何か奥深ささえ感じた。その後、毎週、座禅に通い、3ヶ月後には、お坊さんの言う「無我の境地」を、ぼんやりとだが、感じることができるようになっていった。

 そして、日頃の悩み自分は一体何をしてきたんだろう今後何をしていったら良いんだろうかという質問をした所、与えられた人生を過ごしてきたと思うおもうなら、今度は人に与える人生をすべきであり、その方法は自分自身で考えなさいと言われた。

 新聞で東日本大震災で親をなくした子供の数1698人と言う記事を見て、木下七郎は心が痛んだ。自分も飛行機事故で一瞬にして、家族4人をなくしたことが思い出され、東北大震災で親を亡くした孤児達を自分の稼いできた、お金で助けようと思いついた。

 RSC時代に知り合いになった芸能人のチャリティー・ショーなどを年に4回企画し、収益金を全部、東北大震災の孤児のために送った。2008年に金、3000kgを63億円で購入してい分を2012年年末に金価格が急上昇し、5000円/gを越えそうな勢いだったので金地金を5000円/g、3000kgをで全部売却して150億円を得た。その時の総資産が154億円1840万円となった。この時点で2013年七郎基金に10億円寄付したので、約144億円となり、1人ではとても使い切れない。増やすことは終了して、うまく使う方法を考え始めた。

20話:福祉活動の芽生え1(201301-12)

この頃から、老人の生活保護増加、子供の保育園、幼稚園不足、子供の貧困、シングルマザーの貧困と、その子供の教育の機会がが奪われるという事が、社会問題化してきた。そこで、七郎は自分のお金で、大きなビルを建てて、1階を保育施設と調理室にして、2-4階を小学生、中学生、高校生の学習室にして5階をお金はないが元気なお年寄りの集会場にしようと考え始めた。

 その為、東北大震災の募金活動から一旦、身を引く決心をした。早速、七郎の父ので友人の山下真一さんの息子さんの山下洋一さんを思い出して、相談にのってもらう事にした。話を始めて、十分の資産ができたので、金銭的に恵まれないシングルマザー、学生、高齢者を助けるような社会福祉をしたいと打ち明けた。そこで、関東で都心まで1時間以内の所に5階建てのビルを建てたいと思っているんだが、土地、建物に詳しい人を紹介して欲しいとお願いした、すると山下洋一さんもが、三保太郎と言う学生時代の友人が三井住友建設でマンションなどの施設をつくっているので、紹介してくれると言ってくれた。彼と連絡して、都合の良い日時と場所が決まったら、七郎に電話してくれることを約束してくれた。

 数日後の電話で来週の火曜日に、池袋駅近くの喫茶店で、午後5時に会うことになった。大きな喫茶店で、隅の方に山下洋一さんがこっちと合図してくれた。七郎が七郎商会の名刺を渡し、三保さんが三井住友建設、建設1課、課長の名刺をくれた。三保さんが、関東一円で、マンション、事業用のビルを建設していますと言った。そこで、七郎が、社会福祉的な目的で5階建てのビルを都心から電車で1時間以内の場所を考えていると伝えた。三保さんが、社会福祉とは、具体的に、どんな事ですかと聞くので、貧困のシングルマザーの子供を預かり、働き易くして上げる事、金銭的に恵まれない学生のための寮、高齢者の集会場を考えていると答えた。

 すると三保さんが3つの事を1人でやるんですか?パートナーや共同事業者はいないのですかと聞いてきた。1人ですというと笑いながら、はっきり言って無茶です。多分できないし、あなた自身が参ってしましますよと言った。失礼ながら福祉関係の仕事の経験ないんでょと言った。ええ、ないですと、答えると、それなら、なおのこと、無理です。失礼な言い方かも知れませんが、お金持ちの慈善事業ごっこだったら、悪いことは言わないから、やめた方がいいと、真剣な顔で言ったので、七郎は驚いてしまった。

 三保さんが七郎に一番やりたい事は何ですかと聞いた。苦学生のための寮ですと言うと、それだけなら可能ですと言った。シングルマザーは女性であり個性が強い人が多いし、第一、子供を預かって何かあったときの責任はどうするんですか? 高齢者の集会場なんて彼らで勝手に探しますよと笑った。

21話:福祉活動の芽生え2(201301-12)

 三保さんがお金持ちの慈善事業ごっこだったら、悪いことは言わないから、やめた方がいいと言った後、七郎が自分が6歳の時に家族全員が飛行機事故で亡くなったこと、その時の焦燥感、1人で食べていけないと言う不安などを話した所、三保さんが、そんな辛い経験をなさったんですか、知らないで、言い過ぎましたと言った。三保さんが、恵まれない学生の寮を作り食事を提供してあげたらどうですかと言った。

 そして、苦学生には、同じビルで家庭教師または、塾の講師をして、自分で稼ぐ道も開いて上げたらと言った。つまり、苦学生のための寮と食事提供の2つなら、実現可能だと思いますよと言ってくれた。

三保さんが、そう言う点では、ここ入間は、コストコに近くて、地価の安く、都心まで1時間以内で行けるですねと言い、スマホで、調べてくれた。埼玉県入間市なんてどうですかと言った。快速で池袋まで40分、山手線の駅まで1時間。どうですかと言った。

三保さんが、価格の安い大型スーパーに近くにあり、地価の安く、都心まで1時間以内のエリアですねと言い、スマホで、調べてくれた。少しして、埼玉県入間市なんてどうですかと言った。快速で池袋まで40分、近くにコストコがあるし良いんじゃないですかと言った。それに対して七郎は、良さそうなので、すすめて下さいと言った。

 土地建物でどのくらいしますかとたずねた。土地323坪、建物1130坪(33m*33m)で、社会福祉と言う事で役所の市街化調整区域での建築許可を取るとして、坪5-10万円、8万円として、土地代で3000万円、建物1130坪で12億円、室内水回り、エレベーターで7千万円、約13億万円くらいかなと言った。

 三保さんが、こういう福祉施設は珍しいから、施設が動き出したら、マスコミや、建設業界に発表して、取材しないかと言っても面白いかもねと言った。また、備品(勉強机・椅子、ベッド、パソコン、ガスレンジメーカー)電機メーカー(冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、電気ポット)、食器メーカー、文房具メーカー、トイレ、自動車メーカーリース業界などに話して、協賛依頼して無料で提供してもらうなんてアイディもいいんじゃないかと思うと言ってくれた。

 夢と想像ばかりでは、駄目なので、実際に、三保さんが、うちで建設を任せてくれるという条件で詳細を詰めてきますと言い、それでいかがですかと聞いてきた。七郎が、それでお願いしますと言った。その後、途中経過を写真入りのメールで逐次、送ってくれた。

 入間市の市役所で相談した結果、市でも協力してくれると言ってくれ、地元の大きな農家で、いろんな仕事をしている木元一郎さんを紹介してくれ、道に面した農地を提供しても良いと言ってくれた、土地の広さは、350坪で、十分な広さであり、畑だったところなので、整地もしやすいと報告してくれた。

22話:苦学生の寮を作ろう1(201205-12)

 入間駅、武蔵藤沢駅、三井アウトレットパーク、コストコまで車で5-10分、自転車でも15分の所で便利。電気、都市ガス、水道の引き込み費用が400万円、地盤改良、アスファルト、外構工事で6000万円、全部で6400万円。KG建設の三保さんが、この土地は日当たりも、水はけも良いので、ここにしましょうと言った。

 そこで、お礼、挨拶かたがた、入間の木元一郎さんと、紹介してくれた、市役所の関係者に挨拶に出かける事にした。数日後、三保さんが迎えに来てくれて、まず、菓子折と持参で、木元一郎さんの家をたずねた。木元さんは恐縮して、わざわざ悪いねと言い、七郎に、あんた、恵まれない人のために、大金はたいて偉いねと言ってくれた。

 入間に来て、また何かあったら相談に来てよ、できるだけ協力するからと言い握手をしてくれた。その後、市役所へ行き、今後の計画などを話した。恵まれない人達に対しての事業は市としても誇らしいし広報やインターネットで宣伝する、つもりだよと、市としてもありがたいと言ってくれた。

 最後に、市長室へ案内されて市長と握手し報告した。帰りに入間駅、武蔵藤沢駅、コストコまで車で回ってみたが、確かに近い。学生が自転車で駅まで行くのも早くて便利だと思われた。

 数日後、三保さんから正式な工事の図面、工期などについて、詳しく説明してもらった。できるだけ早く、着工して、工期は建物だけで6ケ月、機材、搬入、エレベータ、駐車場などで1ケ月の7ヶ月かかる様だ。土地の支払い、役所への申請の方も含めて、全て、三保さんの会社でやってくれるそうで助かった。

 土地が323坪で、建物5Fで延べ床面積1156坪で11億円。土地の値段2600万円、電気ガス水道引き込み、400万円、地盤改良、アスファルト、外構工事で6000万円、その他予備費1000万円の合計1300万円を会わせると12億円と言う事で決まった。七郎は契約を交わして、その日のうちに、三保さんのKG建設へ振り込んだ。寮の備品としてエアコン、机椅子、ベッド、布団48個分で、500万円、調理室の調理器具で500万円、送迎用の10人乗りの中古ワゴン2台で400万円、全ての総合計で12.14億円となった。

 七郎は七郎商会に戻って、数日後から、インターネットを通じて、今年の秋、10月から入居可能な、格安の学生寮の募集(1室、16m2:3万円/月)を開始し始めた。入居募集には、高校の成績表と合格した大学名、入居希望動機と、両親の年収を書くような書式にした。すると男24室、女24室(計48人)の募集に対して、1週間で200名(男女比、約半々)からの応募があった。

 応募があまりに多いので1ケ月で応募打ち切る事にした。応募用紙から、両親の年収と成績表、合格した大学名、希望動機を見て、個性的で将来のビジョンを持った学生を中心に選択していった。1ヶ月で2000名(男女比、約半々)も応募が来た。そこで、優秀そうな学生を選んで、少数精鋭方式で選ぶ事にした。

23話:苦学生の寮を作ろう2(201301-11)

 七郎は、木元さんに電話して入間の地元で料理経験のある人を募集したいので探すのを手伝って欲しいと伝えた。わかりました、期間は、と言うので半年間というと、それだけあれば、探せるかも知れないと言った。

 6月を迎える頃には、入居の学生の選択も決まって通知した。中には、ご両親から感謝の手紙も多く含まれた。梅雨になり、それがあけると暑い夏、工事現場に冷たいものを持参で出かけた。ビルの外観がほぼ完成して、実際に間近で見てみると大きな建物で驚いた。

 現場監督が順調に仕事が進んでいて今年は建設会社もそれ程、忙しくないので10月には完成する可能性が高いと話してくれた。もう少しでビルが完成し、全員でビルの外構と、一緒にアスファルトで駐車場をつくる。部屋や簡単な間仕切りなので簡単、水回り、電気関係、エレベータ会社の連中もビルができ次第、一斉に工事にかかれるようだと言っていた。

 10月初旬に入間の木元さんの所へ行き、ビルの2,3、4階の男女の学生72人が決定したこと、1階の調理室で、できるだけ多くの食事を提供する事、その時に、この地のシングルマザーを中心とした貧乏な女性達に手伝ってもらうことを提案した。女性達が働いている間は、1階の遊戯室で、お母さんが働いている間、子供達の面倒を見てくれる女性を雇い、少しでも多くの給料を出したいと言った。確かに、貧困のお母さん達がこの地域でも問題になっているので、それは、助かると言ってくれた。

 もう一つ、料理人の件を聞くと見つけたよと言い24歳で、今、修行中の料理屋の息子、鈴木良三さん、専門学校を出て栄養士と衛生管理者の資格を取得したそうだ。将来は実家の料理屋を継ぐつもりらしいが、それまで、手伝ってくれるという。七郎さんが来るというので、今晩、彼の実家の料理屋で会う手はずになっていると言った。

 夜6時に料理屋に着き食事をして終わった時に修行中の料理屋のご主人と息子の鈴木良三さんがやってきた。がっちりとした体格の好青年といった感じだった。紹介してくれた木元さんにお礼を言って失礼した。

 涼しい風が吹き出した2013年10月下旬、遂に、地上5階建ての学生寮が完成した。11月10日に入居できることを入居予定の学生達に通知した。11月1日(大安)に工事完成の地鎮祭を、行い、木元さんや鈴木良三さん、役場の関係者をお呼びして、執り行った。近くの人が来られていたので、この施設のパンフレットを渡した。その後、前途を祝して餅まきみたいに、せんべい、お菓子、チョコレート、餅などをまいて終了した。

 11月10日の10時前に鈴木良三さんが既に来ていて、調理器具、電化製品の具合などをチェックした。その後、七郎が来たときに、挨拶後、衛生管理者の看板をどこにつけるか聞かれ、調理室の入り口のよく見えるところに、貼ることにした。

24話:寮の落成式(201310-12)

料理担当チーフの鈴木良三さんが、七郎に、今日の昼飯はどうしますかと聞かれたので、簡単なものでいいよと言うと、具だくさんおむすびと、寿司めしをいれたいなり寿司でもつくりますかと言われたので、それで十分だと答えた。一応、みそしるもつくっておきますと言い、発泡スチロール食器も用意しますと言ってくれた。長テーブルと折りたたみ椅子と白いシーツは、1階の倉庫に入っていますから、宜しくと言っておいた。

 すると、すぐ、彼の車で彼女と思われる、美人さんと買い出しに出かけた。少しして帰ってきて2人で料理の用意を始めた。木元さんや建設会社の職員と三保さんと山下洋一さんが11時に手伝いに来てくれた。そこで、倉庫に入っている、長テーブルと折りたたみ椅子で、学校の教室のように2列、並べて、78人が座れる様にして、一番前のテープルにマイクを置き、反対向きに椅子を置き、対面で話ができるようにした。その他、壁の前に長いすを8つ、48人分用意した

 11月10日の11時の開場の時間には、入居学生の名前と部屋番号を、入り口近くの壁に貼りだした。それを見て、続々と2階の男子寮と3階の女子寮にわかれて、入っていった。

その後、七郎と三保さんと山下洋一さんが、具入だくさんおにぎりと、ちらし寿司いりのおいなりさんを大きな皿に分けて長テーブルの方へ運んできた。すぐあとに、味噌汁の入った大きな鍋2つを持ってきた。

 ウーロン茶や紅茶、お茶などをおいて、ご自由に食べて下さいと、大きな声で知らせ回った。開場してから30分位して、一通り、手が空いた人から、順番にテーブルにつき、食事を取った。

 そのあとで、簡単な自己紹介をしてもらう事にした。学生は、ほとんどが、東北、北海道、九州、四国、山陰、沖縄など、地方出身者が多い。自己紹介が終わったあと、七郎が、学生寮のみなさんに学生生活に慣れた後から地元の中学、高校生の家庭教師を斡旋したいと思っていますので、得られたお金で自転車や本などの購入したり、見聞を広めるための国内、海外旅行に使ってもらいたいと考えていると話した。すると学生からは、是非宜しくお願いしますとの声が上がった。その他、食事も安く提供しますので、利用して下さいと伝えた。

 今日も、おにぎりと、おいなりさんと味噌汁のサービスがありますので食べていって下さいと言った。次に料理担当の鈴木良三さんが頑張って手軽で、うまい料理を提供しますので宜しくと言った。学生達からは、拍手があがった。その後、木元さんが、地元で農家をしている木元です、何か困ったことや、悩み事があれば、すぐ近くに住んでいるから、相談にのるよと挨拶した。

 学生達からも、宜しくお願いしますとの挨拶があった。最後に、学生寮の中の備品で問題あったりしたら、いつも来ている、料理人の鈴木良三さんか、私、木下七郎に電話して下さいと言った。週に1回くらいは、顔を出すつもりですので宜しくと言って、話し合いは終了した。その後、みんなで食事を残さず、全部平らげ、開所式が終了した。

25話:調理器具、食材、スタッフ採用(201310-12)

 その後、七郎は鈴木良三さんに銀行口座を教えてもらい購入予定品の予算と購入後にレシートをA4の紙に貼り付けて写真にしてメールを送ってくれる様に言った。次に調理器具の予算を立てて、必要な調理器具、道具があれば、その都度、メールで送って欲しいと伝えた。予算通りの金額を鈴木良三さんの銀行口座に、振り込むと伝えた。また、基本的にはクレジットカードをつくったので、それが使える所、例えば、コストコ、その他の商品もイーオンなどを優先して利用して欲しいと伝えた。その他、お米は地元の木元さんに依頼し、農家から直接、米60kg単位で購入するからトラックで運ぶように話したと伝えた。

 その他、気がついたところでは学生さんの自転車用が屋根付きの車庫、送迎用の10人乗りのワゴンをもう1台用意した方が良いと感じた。七郎は、28人入るから、10人乗りワゴン2台、揃える事にした。

 七郎は、家に帰る前に鈴木良三さんに、お手伝いの女性、何人必要かと聞くと5人欲しいと言った。また、業務量の16L用大型の圧力鍋(2.2升炊き)と水圧洗米機が必要になるといった。予算を聞くと20万円くらいと言われた。そこで、まず、100万円を鈴木さんの口座に入金すると約束した。更に、鈴木さんが朝早く食堂のテーブルをセットするためには、力仕事があるので管理人さんと併せて男性4人欲しいと言われた。話を聞いて、木元さんに、シングルマザーで、パートで炊事の手伝いをしてくれる人を8人と、お母さんが仕事をしている間、見てくれる人を4人世話して欲しいといった。もちろん有償ボランティアと言うことで、半日で2千円と食事、全日で4千円と食事の条件。炊事の手伝いも同じ値段で、ただし、シングルマザーには、子供の分まで含めて、3食分の食事を付けるという条件でどうかとと聞くと、木元さんは子供の世話は、元気な、ばあさんにお願いして、食事と果物、お茶をつけて、半日千円、前日2千円でOK、その分、シングルマザーは、常勤なら15万円、1日なら5千円で家族全員の3食分の食事付きにして欲しいと言われ了解した。

 その他、管理人さんとして常時、男性2人は必要じゃないかと言った。例えば、朝7時から夜7時まで2人、当直専門の人(夜7時から朝7時まで)を1人、報酬は、昼間2千円、当直は4千円で食事付きで員じゃないかと言いそれで良ければ。、至急、近所の町内会を通じて探しますと、言ってくれた。

 七郎が、多分、まだ足らない事があると思いますので、わかり次第、木元さんへ電話させていただきますので協力お願いしますと言った。そのうち、木元さんが、七郎に、こんな、大盤振る舞いして、本当にやっていけるのかと聞いてきた。七郎が、なんとかしますから大丈夫と言い。木元さんが、本当に継続して、お願いしますよと笑った。

 翌週から、木元さんから電話で管理人さんと宿直の男性と調理手伝いのシングルマザーが揃った。彼女らは3人が土日休みで常勤勤務。5人が週2日、土日のみ勤務。週に2回、全日勤務できる人が8人揃った。子供の面倒見る、高齢の女性は10人、おやつ、お茶、食事付きで、地元の老人会のボアランティアでやってくれることになった。

26話:仕事の手順書とクレカ支払い(201310-12)

鈴木良三さんが、仕事の手順を書いたマニュアルを作成し、拡大コピーして壁に貼った。朝、最初に来たら、計量カップで、米40杯(4升)を水圧洗米機に投入して、水を流しながら、機械のスイッチをいれて、2-3分で、米が研ぎあがるので、それを取り出して、2等分して、大きな容器に入れて水を入れて10分、水に浸しておく。

 その後、水を切って、2つの大型の圧力鍋に入れて、炊飯開始、65分で炊きあがる、蒸らしてから、大きなへらで全体を器量に混ぜ、蓋を少しあけて5分、水分をとばすと、美味しい御飯ができあがる。

 その1時間10分の間に、手分けして、おかずの材料を切って、フライパンで炒めたりする。野菜類は、スライサーを使い、短時間のうちに切るようにして時短調理を徹底する。朝食時には、卵料理を40個を手際よく焼く。野菜炒め、ソーセージなど肉類も大鍋で、一気に調理する。味噌汁も一気に大鍋でつくる。

 その他、お湯は5Lの大きなヤカンで沸かし、5Lの大きなポットにいれて、即席の珈琲、紅茶、砂糖をつかい、学生さんに自分たちでいれるようにしてもらう。食器類も大テーブルに、数カ所づつに分けて、自分で取って御飯、味噌汁、を茶碗に、おかずを皿に、取ってもらうよう、ほとんどセルフサービスとして、短時間に朝食を済ませるようにしてもらう事にした。

 翌日から、実際に、学生寮の運用を始めて見ると、いろんな問題が発生した。まず、調理の作業が朝に、朝食と昼食の弁当とつくるが、大変で、継続していけないかもしれないと、鈴木良三さんに言われた。対策として、昼食を安く、一括して、弁当屋に頼むか、学生が各自で自分で済ましてもらうかどちらか、しかないと言うのだ。

 そこで、七郎が、学生が自分で昼食を済ましてもらうようにする事にした。朝食と夕食だけなら、何とかやっていけると言った。また、食料はコストコとイオンで調達するが、お金の精算が面倒なので、七郎の方で、クレジットカードを作って、自動的に処理できるようにして欲しいと言ったので、早速クレジットカードを作り、渡す事にした。

 その他、学生さん以外の方の食事は冷蔵庫の中に御飯とおかず、近くに、弁当容器、食器、箸など、おいておくのでセルフサービスでお願いしたいと言われたので、わかり易く手順を貼っておきますと答えた。

 数日後、鈴木良三さんから、電話で、朝と午後に、6升ずつの米で、御飯として30kg、1日で40kg、米の18kg/日でまかなえる。米30kg袋で2日、週に130kg、月に550kg(食べる事になる。すごい量だ。

 木元さんにも電話して農協に米の納入を切らさない事と、クレジットカードでの支払いを頼んでみると言った。ガソリンから、車検、ほとんど全て、クレジットカード支払いにして、その請求書を取る事にした。食料代150-170万円、かかりそうだ。経費が8000万円/年は、かかりそうだ。

27話:コマーシャルと協賛金(201310-12)

翌週にKG建設の三保さんと山下洋一さんから、電話が入った。三保さんが、KG建設に掛け合って、企業コマーシャルに、この学生寮を使ってくれることが、決定したと連絡してくれた。TVとネットコマーシャルで合計2千万円/年。この朗報を聞いて、七郎は、小躍りして喜んだ。

 三保さんと、施設代表の木下七郎など、関係者全員の協力して善意の輪というイメージでコマーシャルを流したいそうであり、朝の調理風景や、シングルマザーの働いてる姿、その子供の面倒見てる、おばあさん、勉強している学生の姿、食事風景、学校へ出かける風景など、多くのカットを取りますので、協力をしてくれるように言われたようだ。もちろん、大歓迎だと七郎が言った。

 3日後、学生寮で朝10時に、コマーシャル会社の人間と三保さんが来て、撮影の打ち合わせをする事になった。山下洋一さんからは、我が社、M商事の上層部にコマーシャルの協力をお願いしたが、会社のイメージアップになりそうなので好反応だったとの報告。詳細は決まり次第連絡すると言ってくれた。

 その他、自分の知り合いの食品メーカーにもコマーシャル依頼していて、好反応な会社が数社あると言った。また、コストコとイオンをメインに食品を購入しているというので、コストコとイオンの本社とも掛け合っている様だ。

 また、学生寮の車の関係で、大手自動車メーカー3社と、リース会社に、学生が使う自転車の大手メーカーと小売店にも話をいれておいたと言った。

 七郎は、彼らの迅速な行動に、感謝と共に、大きな感動をもらった。山下洋一さんから、ブリヂストンからシティサイクルを72台無料のモニターとして、アンケート提出していただくが、メンテナンスもしていくと言う条件で無料で貸していただけることになった。

 その他、日本最大のパンメーカーからも、取りに行くという条件付きで、食パンを無料でもらえると言うことになった。イオンからは、持っているイオンカードのワオンポイントを常時、特別に3倍につける条件提供してもらった。そして、三菱商事からは、学生寮の日常の生活をコマーシャルにして、TVとネットコマーシャルで合計2千万円/年の契約をしてもらった。

 学生寮のオープンから1ヶ月後、地元の埼玉テレビが取材に来た。その翌月、NHKから、取材の要請を受けて、学生寮の学生に取材しないとい言う理由で了解した。

 調理室に働きに来ているシングルマザーの話を取材したり、料理長の鈴木良三さん、地元の協力者の木元さんが協力者になった理由、開設者の七郎が開設した理由。山下洋一さん、三保さんが協力した理由などを取材していった。

 翌週のNHK特集で、この施設の事が放送され七郎が自費を投じて開設した、貧困学生、シングルマザーのための施設で、それをバックアップした地元の方々、木元さん、鈴木良三さん、友人の山下洋一さん、建設に携わった三保さんのスポンサー探しなどを衝撃的な内容にして全国に流したので、放送後、見学したいとか寄付したいとか多くの電話がかかってきた。

28話:募金、寄付の受付(2013-201410)

その後、見学希望者が多くなり、見学を人手不足という理由で断り寄付についてはインターネットにサイトを立ち上げている所なので、少し待ってもらう様にお願いした。 中傷じみた電話もあったが時間と共に忘れ去れた。

 その後、クリスマスパーティーをし2013年が終わり2014年となった。仕事始めの1月5日を過ぎた頃、七郎に対して、生い立ちや資金を作るまでのストーリーをテレビ映画にして、放送したいので取材したいと日本最大の有料衛星放送の企業からの電話があった。これに対しては、個人の人権が侵害される恐れがあるので、丁重にお断りした。その後、七郎の美談をゴーストライター書いてもらい、本にして発売したいから取材したいという申し出があったが、お断りした。

 インターネットに入間の里というサイトをホームページを開設して、寄付金の受け入れ先をYahooに言って、開設してもらい、寄付金が入るようになった。もちろん、寄付者には、学生寮での費用をエクセルを使い、収支を見える様にした。寄付金は100円単位で、Tポイントなど各種ポイント、各種クレジットカード払いもOKにした。寄付額は1口、1回、最低100円からとして、広く浅くお願いするようにした。それでも、月あたり、多いときは百万円以上集まり、非常に助かった。

 不定期で学生寮ニュースとして、この施設での出来事をネットの「入間の里」ホームページに書くようにしていくと、寄付者からの投稿も来るようになった。その後、週刊誌で、七郎の過去を暴こうとの動きがあったが、なかなか確証が取れなかったようだった。

 2014年も12月を迎え、マスコミの熱い取材攻勢の日々が過ぎていき、2015年となり「入間の里」の事も完全に忘れ去られていった。開設一年間は、企業の寄付金や、物での寄付で、かなり助かったが、

 翌年からは、継続してくれるパン屋さんと2社の広告料だけになり2年目から費用がかさむようになった。今後は、「入間の里」のサイトを通じて、長くバックアップしてくれる人達を増やして、寄付金を継続してもらうようにお願いしていこうと思った。

 七郎は仕事とプライベートは完全に分離したいタイプの人間で奥さんの恵子さんは、この件に関して一切の手伝いは無用と言って手伝わせなかった。

 2015年秋にに9月に米国と10月にタイから七郎の方に取材の要請が入った。米国からはコストコ本部で素晴らしいボランティア活動にコストコ製品が使われていると、聞いて話を聞きたいというので、取材要請と受けた。その後は、「入間の里」のサイトに米国人から英語で多数のコメント来るようになり米ドルで寄付できないかと言われたので、日本円でないとできないと米ドルでの寄付は断った。それでも米国からの円の寄付金が増えてきた。

 次に、タイからの取材要請は日本は仏教大国で仏教の国のタイでは、こう言う慈善事業を参考にしたいというので財閥の若手の見学希望があり、学生達への個人的な取材は禁止として、それ以外ならOKという条件付きで引き受けた。言葉はタイ語は禁止で英語か日本語での質疑応答ならOKと答えた。

29話:苦学生の寮の取材(201411-12)

11月に米国からコストコ本部の方が4名がやってきた。コストコのどこが良いか、聞いてきたので、易くて、大量で品質が良く、ガソリンも買えるし、全部カードが使えると答えた。訪問団の団長が、笑いながら、今、言われたことが、我が社の一番の売りなんだと笑いながら言った。

 七郎が流暢な英語で質疑応答をするのに、驚いて、米国に留学したことあるのと聞いてきたので、もちろん「オフ・コース」というと大学はと聞かれサンノゼ州立大学の電気工学科にスカラシップで入学したと答えた。

 すると、七郎の事に話題が向かいそうになったので、これ以上は秘密とウインクした。ジョークも良いねと笑い声が上がった。訪問してきた全メンバー4人と固い握手とした。帰り際に、訪問団の団長さんが名刺をくれ、コストコのメンバーカードと、クレジットカードの番号を教えてくれと言うので、何故と聞くと、クレジットのポイントを常時3倍することと、年に数回、無料でコストコ製品をプレゼントするからと言ってくれた。この申し出には驚いて、軽く団長さんをハグした。みなさん、満面笑みで帰っていった。

 その2週間後、タイの訪問団が訪れた、タイの財閥の若手メンバー5人がやってきた。訪問の目的を七郎が尋ねると、団長と思しき人が、今後、タイでも、貧しい若者や女性を助けるための福祉施設をつくりたいと思っているので、この施設を参考にしたいと言った。

 七郎が英語で、質問応答が先か、施設見学が先が良いか聞いた聞くと、見学が先というので、10時過ぎで、学生は1人もいないので部屋を一部見せた。するとコンパクトだが機能的に机椅子、ベッド、エアコンが揃っていて快適そうだと、感想を述べていた。

 次に、料理長に調理室を案内してもらつと、大きな圧力鍋と、米の洗浄機を見て日本の技術は素晴らしいと言い、何人で食事を作っているのか聞かれ、料理長以外に女性5-6人でやっているというと、すごい、効率的だと驚いていた。野菜を切るための大型のスライサーを見て、これ便利そうで良いね、1つもらいたいくらいだと言い笑っていた。写真を撮って持ち帰るのはOKだよと七郎がジョークを言うと、かなり受けたようで、笑い声が上がった。

 その後、質疑応答が始まり七郎が何故、こんな大規模な施設を慈善事業として始めたのかという本質的な質問には、ちょっと困って、おもむろに、私が、神様から多くの幸運をもらったから、そのおっそ分けをしないといけないと思ったからだと言うと、君は仏教徒か言われ、残念ながらクリスチャンですと答えた、信心深いのかというので、そうでもない、キリストよりも奥さんの方を信じるというと、また、笑い声が上がった。

 ジョークのセンスが良いが、もしかして海外留学したのかと聞かれ、米国の大学で4年間、学んだと答えた。

30話:ティムからの寄付(201501-12)

タイからの訪問団が、最後に、タイで同じ様な施設をつくりたいのだが、大事な事は何かと聞かれ、継続することですと答えた。その為には、自分のマインド(気持ち)を制御して、平常心でいる事。もう一つ、こういう活動に一般市民を巻き込んでいく事、この2つが大事だ、と言うと、団長と思しき人が、近くに来て、肩を叩いて握手を求めてきて、次々と全員と握手し終了した。また、わからないことがあれば、メールで教えてよと言うので、メールアドレスと、「入間の里」のホームページを教えた。

 2015年2月1日に七郎に、ティム・RSCと言う名前でメールが届いていた。昔、世話になったリチャードの息子のティムからだった。ティムとは、彼が、アメリカの東海岸のニューヨークで働き出してから、全く、音信不通だった。風の便りでは、RSC家の仕事をして、ロービイスト(政治圧力団体・スポンサー)という政治家・団体を動かす仕事をしていると聞いていた。いま、アメリカ支部のバイス・プレジデント(副社長)No2に上り詰めたと書いてあった。

 七郎の事は、コストコ本社メンバーが日本の慈善団体の学生寮を訪ねたという小さなニュースで知ったそうだ。この記事を見て、あまりの懐かしさに、メールを送ったというのだ。そこで、継続的に寄付活動をして上げたいと思っていると書いてあった。ついては、寄付したときの入金明細書と、七郎の活動団体のサインが欲しいと書いてあり、了解した。どの位の金額を送ったら、不自然にならずに、都合が良いかと尋ねてあった。

 そこで、寄付の送り先を、団体と、ティム個人と2口に分けて、月1万ドルずつ、七郎の慈善団体の口座に入金して欲しいと書いて返信した。翌日、ティムから、了解、今月から送ると書いてあった。おもわぬスポンサーがついて、天国のリチャードにお礼を言った。数日後、奥さんの恵子さんの紹介かたがた、リチャードの息子のティムに助けてもらうお礼のメールを送った。

 この日は曇っていたが、リチャードのお墓に出かけた。参拝を終えた直後、一瞬、雲ががきれて太陽が顔を出し、七郎と奥さん頭上に日が差した。まるで、リチャードが微笑み掛けた様な気がして、七郎は、運が向いてきたぞと、明日からの活動に、力がわいてきた。この出来事をティムへのメールに書いた。

 また、七郎の財産でスイスのピクテにプライベートバンクに口座を開き、ファンドで運用したいと書いた。返信で1万ドル以上ならOKと書いてあったので、後日、送金予定額が決まったらメールすると書いた。2016年2月12日、全財産の残金が130億円、76%の100億円を米ドルに両替した約9900万ドルを送るとティムにメールを送った。この9900万ドルを投資ファンドで運用にすることにした。

 その残りの30億円を「入間の里」の運営資金に充てようと考えたのだ。実際の費用は、給料総額が2400万円、食費2000万円、電気ガス水道600万円、その他諸費用1000万円を含めて、年間4000万円程度。残金が3億円を切った段階で、スイスのファンドから、日本に七郎の米ドル口座に、送金してもらうように手配した。

31話:お父さんの心筋梗塞と母の痴呆(2016-17)

苦学生の学生寮が、一段落した頃、2016年4月12日、七郎の女房、恵子さんのお父さんが山崎仁さんが心筋梗塞で倒れたとの連絡が入り、入院先のKU病院にお見舞いに行った。恵子が病室で待っていて、父と母が散歩しているときに、急にお父さんが胸の痛みを訴えて倒れ、近くにいた学生さんが、すぐ救急車を呼んでくれ、病院に担ぎ込まれて、緊急手術で命を取り留めたと言った。おかあさんは、口もきけないほど憔悴しきっていた。病室でも、窓の外の一点を見つめる様に、ただ黙っているだけだった。

 お父さんの方は、すっかり意識をもどしていた。むしろ、疲れ切った、恵子さんのお母さんを心配して、七郎君、妻をタクシーで送っていってくれと言った。そこで、少しして、恵子とお母さんと3人で実家に帰った。家に戻るとお母さんが、お父さんはどうしたのと言うではないか散歩中にいなくなったので探しにいこうと言いだした。入院見舞いに行って帰ってきたばかりよと恵子が言う言葉にも、お父さんがいないと言うばかり。この様子を見て七郎がKU病院に電話し、お父さんを手術した先生に、状況を説明したところ、お父さんを特別室に移して、そこにベッドをいれて奥さんもしばらくの間、その特別室へもうお1つベッド入れて、入院させて方が良いと助言してくれた。

 その助言を聞いて、そうさせていただきますと言い、もう一度、3人で七郎の運転する車でKU病院に戻り、お父さんの特別室に、お母さんも入院させてもらう事にした。母が父の顔を見て安心して心筋梗塞の事を思い出した。

 明日、お母さんを循環器内科の痴呆外来で診察を受けてもらう事にした。そこで、恵子と七郎はすぐ近くのホテルに泊まる事にした。そんなやりとりをしている最中に、母が疲れたのか、眠り始めた。

 そこで、静かに、明日、又来るねと父に言い残して病室をあとにして、ホテルにチェックインした。夕食後、早めに床につき、翌朝は、早めに起きて朝食をとり8時前に
ホテルを出て病院に入り母の外来診察の手配をして9時過ぎに循環器内科の外来に母を連れて行った。

 10時頃、外来に3人で入り、診察を受けた。先生の問いかけに、ちょっとぼーとした感じで受け答えをしていた。七郎が昨日の出来事を先生に話すと、多分、大きなショックを受けて、動揺して、痴呆症状が顕在化してきたのでしょうと言い。痴呆の検査をしましょうといい、恵子と七郎は、外で待つことにした。20分位で、診察を終え、七郎が先生に呼ばれた。

 痴呆の程度は、かなり進んでいて3種類の薬を飲んでもらうことになりショックが収まって普通通りの生活ができるまで数日、お父さんの病室で一緒に入院してもらいましょうといわれ承諾した。1週間くらいで母が正気に戻り、自宅に戻った。
 
 その後、父親の方が、不整脈が見られ程度も悪く、ステント手術後、体調が回復したらペースメーカをいれる手術が必要だろうと言うことになった。特別室から普通の病室に移り、入院後2週間して、ステント手術を受けることになった。手術は2時間程度で終了した。リハビリなどをして4日後、2017年5月20日に退院した。

32話:父親の死と母の痴呆(2017-201802)

 その後、夏から普通の生活を始めて、9月頃から両親が散歩を開始し、今までの生活を取り戻した。その後、七郎は週に2回、入間の学生寮に出かけた。学生達を集めて、家庭教師の仕事を探すので、希望しない人は手を上げて下さいと言うと、手を上げる人がいないので、全員の家庭教師のバイトの手配を開始する事にした。

 2017年10月から、学生寮や、近くの施設や最寄りの3つの駅にも、家庭教師募集のポスターを貼らせてもらった。その他、イオンやコストコにもポスターを貼らせてもらった。内容は、土日、毎週1-2回、1回は2時間とした。高校生、5千円/時間と書いた。

 ポスターを貼った翌日から学生寮の2つの電話や学生寮のホームページに依頼の知られが、次々と入ってきた。1週間で56件の応募があり、ほとんど全てが2教科を希望していた。先生と生徒の組み合わせは、できるだけ同性の先生に振り分ける事にした。これで2万円の報酬を得られれば、学生の助けになると思われた。家庭教師、希望の高校生と教える先生、振り分けして、11月から家庭教師を開始した。家庭教師、希望の高校生に学生塾まで来てもらう事にした。こうして、2017年も終了した。

2018年に入り七郎が学生に家庭教師と他のアルバイトの状況を聞くと家庭教師で2万/月、その他、平日、学校を終えてからのバイトで3-5万円で食事代込みで寮費が3万円/月と、実家から仕送りがなくても贅沢しなければ生活できるようになったと感謝された。

 2018年に入り1月12日の寒い日に恵子さんの父、吉永仁さんが再び体調を崩して救急車でKU病院に運ばれたとの連絡が入った。急いで、恵子さんと共に病院に行くと、担当の先生から、心不全の兆候が見られて、クラスⅡからⅢに移行している。つまり、日常動作をしても心不全の症状、息切れ、むくみ、呼吸不全を起こしやすくなっていると言うのだ。とりあえず、入院して、治療をして、症状の改善をはかるつもりですと話してくれた。

 七郎が治癒する見込みは何%位あるんですかと単刀直入に聞いた。すると、かなり厳しいかも知れないと言い呼吸不全が直らないと死の危険が増すと言った。今回も母親の吉永仁美さんが取り乱して、興奮状態になって死ぬんじゃないですよねと担当の先生に叫んだ、心配しないで、できるだけの事はしますからとの返答だった。

 先生と話して、今回も特別室に移して患者さんの奥さんも一緒に入院してもらいましょうと言ってくれた。七郎が恵子さんに実家から近いからタクシーを使って行き来して看病しなさいと言った。

 その日から数えて15日目に恵子さんの父の吉永仁さんの容態が回復せず、静かに息を引き取った。彼の妻の吉永仁美さんが、この出来事に対して、現実を受け入れられないように、取り乱して、錯乱状態になった。先生が鎮静剤の注射をして眠らせた位の興奮状態だった。彼女が目を覚ますと、隣に、旦那さんの姿はなく、今度は泣き出してしまった。泣き終わると窓の外の一点を見つめて、お父さんが、お星様になったですかと七郎や恵子さんに問いかけてきた。やさしく、そうです、お星様になったんですというと、私も一緒にお星様になりたいと言い出した。

 言動の変化に驚いて先生を呼ぶと、あまりのショックで、痴呆が急激に悪化したのかも知れないと言い、精神科の先生に見てもらいましょうと言った。

 少しして若い精神科の医者が来てゆっくりとした口調で吉永仁美さんに語りかけた。少しずつ落ち着いてきたが今度は口数が少なくなり、ただ、ぼんやりと外を眺めているだけの状態になった。精神科のお医者さんが、病室を替えて、数日、様子を見るために入院してもらいましょうと言い、それに対して、七郎と恵子が宜しくお願いしますと言った

33話:父の葬儀とオープンカフェ(201803-05)

七郎が、葬儀屋に電話したり斎場の空き状態を聞いたり忙しく電話をしていた。どこも混んでいたので7日以上、待たないと空きがない。そこで入間市の木元さんに電話を入れて葬儀場の手配をお願いした。すると30分後に、遠いけど、埼玉県飯能市の飯能斎場ならの4日後の午後に空きが出たようで一応、抑えたと言ってくれた。

 葬儀屋に電話すると、えー飯能ですかと驚いていたが、葬儀の打ち合わせに来てくれると言った。幸か不幸か、参列する人は総勢18人程度であり葬儀当日の朝、横浜から、27人乗りの中型バスを借りて1台に関係者全員を乗せて出かけることにした。

 葬儀屋さんに必要なものを急いで揃えてもらい、準備ができた。恵子のお母さん吉永仁美さんの容態は、落ち着いてきたが、旦那さんの葬式に参列するのは、やめた方が良いと精神科の先生からいわれ、葬式のことは、言わないでおいた。

 傾向のお父さんの葬儀当日は、どんよりとした曇り空で、飯能に入ると、弱い雨がみぞれになり、寒さが一段と厳しくなった。斎場に到着すると、既に、葬儀屋さんと、斎場を手配してくれた入間の木元さんが来られており、斎場の手配のお礼を言った。こちらこそ世話になっているんだから、これくらいのこと、当たり前だと言った。また、できるだけ力になるよと、自然に会釈してくれた。

 その後、控え室で待ち、午後1時から、葬儀が始まり、読経が終わり、弔辞、弔電が読み上げられ、精進落としが出て、4時には終了して、解散となった。帰り際、木元さんが、力を落とすなよと、やさしく言ってくれ、熱いものがこみ上げた。参列してくれた、山下洋一さん、三保さんにも、お礼を言った。雨、みぞれもあがったが、帰りは、八王子あたりの渋滞で、七郎が自宅に着いたのは7時過ぎになってしまった。

 風呂に入り、すぐ床に入って休んだ。恵子に、貿易帳簿の点検をお願いして、翌日、入間の学生寮に向かった。「入間の里」学生寮に着くと、料理担当の鈴木良三さんが、昨年の夏過ぎから、炊事、調理にも慣れてきて、多めに、料理を作り始め、学生達が登校し終わった10時から、オープンカフェを開いたんですが、入り口に10時から看板を上げて、近くの中高年の方が、来てくれるようになって、最初、1つのテープルだけだったんですが、そのうち、和食弁当と洋食ランチも始めたら、お客さんが増えて、2テーブル、3テーブルになり、繁盛してきたんですと言った。

 昨年のクリスマスは10時~午後4時まで盛況でした。 学生の食事は、しっかり作っていきますから、ここままオープンカフェを続けて良いですよねと言うので、もちろん、地元のみなさんに喜んでもらい、ついでにがっぽり稼いでくれと笑った。その分、僕の出費が減るから助かるよと、笑いながら言った。基本的に運営は、君に任せるよと伝えておいた。不都合なこと、面倒なことがあれば、電話してくれるように言っておいた。

 料理担当の鈴木さんが、儲かったお金は通帳を作って、入金してありますからというので、その金で、良い食材を買って儲けてくれと言った。しかし鈴木さんが、そのお金を自分だけがもらうわけにはいかないというので、七郎がわかった、年末のボーナスとして、職員に分配しようと提案した。料理長の鈴木さんも、そうしましょう、そうすれば、ここで働くみんなも喜ぶでしょうと言った。

34話:母の老人ホーム入所1(201804-06)

七郎が預金通帳を見ると鈴木良三さんからオープンカフェの売上35万円も入金されていたので今年の12月にボーナスとして支給しようと考えた。もし今後、売上が落ちても七郎のポケットマネーでボーナスを出そうと決心した。

  今年はインフルエンザが流行して困ったと、鈴木さんが話していたので、彼が買い物に行った時についでに外来者用の消毒用アルコール、大入りのマスク箱、殺菌力の強い泡状石けん、うがい液を買ってきて、水飲み場や手洗い場におくように指示した。

 七郎が家に帰り恵子にお母さんの容態を聞くと少しずつ回復しているが痴呆症状があるので老人施設に入れた方が良いと先生が話したと言った。症状が悪くなると介護のため、家族の方が通常の生活ができなくなる心配があると言うのだ。介護疲れで介護している家族も疲れて駄目になるケースを多く見ているので忠告するんだと話してくれた。

 七郎は、数日後、病院に行った時に、お母さんの診療後に先生に詳しく聞いた所、痴呆症状がある患者も受け入れてくれる施設があり場所も、できたらストレスの多い都会でなくて、自然豊かな田舎の方がお母さんのためにも良いと提案してくれた。

 そこで七郎が入間の方で仕事していると言うと東松山、森林公園、飯能、そう言う自然の多い所が良いと言った。わかりました探してみますと答えた。先生が決まり次第、退院の手続きを取ることにすると言ってくれた。

 木元さんに電話を入れると、ここから車で20分程度の所で痴呆老人も入れる老人ホームですね調べておきますと、言ってくれた。翌週「入間の里」学生寮に行き、木元さんに電話を入れると、入間と飯能と狭山に3ヶ所あると教えてくれた。午後1時から、その3ヶ所を案内するよと言うのでお願いした。3ヶ所とも車で10分程度の所で、入間はゴルフ場の近くで景色が良いので、そこに決めた。

 数日後、KU病院に行き、恵子さんのお母さんの主治医にその話をすると、すぐに退院書類を書いてくれて、その日のうちに退院して自宅に帰った。自宅に戻っても、特に反応がなく、ご主人を亡くした悲しみがいまだに消えないようだった。そこで、明日、恵子さんを連れて、ドライブに誘い、気分転換に行きましょうと、恵子さんが言うとそうしましょうかと、承諾してくれた。

 翌朝、渋滞の前に家を出て途中で休みながら10時に、めざす、入間のゴルフ場についた。昔は、お父さんと、良く、この辺のゴルフ場に来たのよと、昔を懐かしむように行った。もしかしたら、このゴルフ場も来たかも知れないと言った。ゴルフ場の中のレストランで食事をして、ゆったりと休んだ、ゴルフ場は景色がきれいで、気分が晴れるわと、久しぶりの笑顔で話してくれた。

 恵子さんがゆっくりとした口調で、お父さんの思い出がある実家を出て、こんな景色の良い、老人ホームに入りませんかと切り出した。すると、そうね、そういう考えも、良いかも知れないねと母が言った。

35話:母の老人ホーム入所2(201804-06)

次に、七郎が、実は、この近くに、私が、開設した「入間の里」と言う名の学生寮があって、週に何回も通っていることを話して、この近くの老人ホームなら、恵子を連れて、毎週、来ることができるんですよと、言うと、本当?、それなら、寂しくないわと言ってくれた。

 七郎さんの「入間の里」学生寮を見せて下さると言うので、行く事にした。学生寮に連れて行くと、お母さんが、立派で新しい建物ね、お金かかったでしょうと、笑いながら言った。その日は、ちょうど、老人ホームを紹介してくれた木元さんが、来られていて、母を紹介した。木元さんが、七郎が自費でこの施設を立ち上げて、全国からの苦学生に安く部屋を提供して、地元のシングルマザーに仕事を与えてくれたんですよと話してくれた。お母さんが、すごい本当と七郎に聞くので、照れくさそうに、まーねと、おどけて言った。

 お母さんが、この人、娘の旦那さん、何だけど、どんな仕事をしてるのか、生い立ちのことなんかも、全然、教えてくれないのよと言い、でも、素晴らしいことをしていたんですね、見直したわと笑った。オープンカフェで、料理長の鈴木良三さんが、お母さんに挨拶して、折角、お見えになったんですから、おいしい、狭山茶と名産のまんじゅうと、お団子を食べていって下さいと言ってくれ、少しして、持ってきてくれた。お母さんは、実は、私、お茶には、うるさいのよと言い、狭山茶の香りをかいで、ゆっくりと味わうように飲んだ。おいしい、本当に美味しいと言ったのだ。料理長は、喜んで、お口に合って、光栄ですと、笑いながら言った。

 すると、回りの連中からも笑い声が聞こえた。母は、すっかり機嫌を良くしてくれ、いろんな人の挨拶に、答えてくれた。30-40分後、七郎と奥さんとお母さんが、みなさんにお別れを言って帰って行った。帰りの車中で、お母さんは、上機嫌で、恵子、良い旦那とめぐり逢って、よかったねと言い、恵子さんが、お母さんの子だから、良い男を見つける才能があるのよと、笑って返した。

 母が、すっかり元気になって、入間に連れてきて良かったと思い、母に入間の施設に入居して良いのですかと聞くと、景色も綺麗だし、気に入ったわ。それに、あなたたちが毎週来てくれるというのだから、入間の老人ホームに入りますよと言ってくれた。

 その後、お母さんは、旦那さんの死を乗り越えて、元気を取り戻して、若い頃の様に、元気な、お節介さんに戻る事ができた。その後、恵子にも秘密にしていた「入間の里」学生寮の仕事や、スイスのプライベートバンクの話も打ち明けた。特に、スイスのプライベートバンクでの投資について、七郎が忙しいときには、変わって、メールを打ってプライベートバンクの職員にいろんな指示をしてくれるようになり、七郎は、入間での仕事に専念できるようになり、約束通り、毎週1-2回、お母さんの施設への訪問は欠かさず行う様にしていった。

36話:激動の世界情勢1(2016-2018)

 次に、世界の情勢に目を向けてみると2016年から18年の2年で、悪い方へ向かって行った。2016年7月のイギリスのEU離脱に始まって、翌年には、勝つはずのなかった、トランプ氏が大統領になり、オバマ前大統領の融和路線から強硬路線に転換して、アメリカンファーストと言う、孤立主義に突き進んだ。実際に就任直後のTPPからの離脱、2017年6月の地球温暖化対策・パリ協定からの離脱と、時代に逆行した施策をとり続けた。

 しかし株価は上昇し続けた。この原因は5年前から景気低迷の対策として各国が金融緩和して大量にに大金を刷って市場にばらまいた、緩和マネー、低金利が原因だろうと
想像された。巨額の借金低金利で借りて機関投資家、ヘッジファンドなどが株を買い続けたためだろうと言われた。米国株などは株価の天井知らすの上昇だった。

 2017年7月の九州北部豪雨や、8月のバルセロナでの車を使った、テロ事件と自然災害やテロが世界で多発し、まさに混沌とした時代が続いた。2017年も年末に向けて、流石に、現在の景気はバブルという話も出始めたが、2018年になっても以前として株価は上昇続けた。

 しかし2018年4月に入り、ダウ指数が大きな下げのを見せ始め、-3%下落するが日が、あらわれて来た。世界中の緩和マネーが米国株に流入していたので大きな下げが起きると下げ足を速める悪循環が起きた。加えて中国の引き締め政策により中国経済の成長率が5%代に落ちルだろうと予測された。

 七郎も、米国発のバブル崩壊を恐れて投資資産を現金化したいと思った。2016年2月にピクテに預けた9900万ドルが米株の急上昇で、投資開始から約2年、2018年1月24日までに40%も上昇してきた事と、この急上昇がバブルだと感じ、換金する事にした。9900万ドルが13900万ドルになったのだ。その1億3900万ドルのうち、3900万ドルを円に両替して41億円を日本の七郎の口座に振り込んでもらった。

 残金29.5億円と41億円で、合計70.5億円となったピクテに残した1億ドルを現金のまま、利子はつかないがおいてもらう事にした。この事を知った、恵子は、その金額に驚いて、何これ、こんなに持ってるんだったら、もっと豪華な結婚指輪もらうんだった。これからでも遅くないから、宝石でも買ってねと笑った。わかりました必要なものは買いましょう、でも不必要で華美なものはいりませんと言い「入間の里」学生寮は10億円以上の費用がかり今後も毎年数千万円の費用が必要なんだからと説得したた。

 でも本当に驚いたわ、まるでジェームズボンド見たいというと、恵子が言うので、それなら君はボンドガール?、どおりで美人な訳だと、おどけて言うと、ふざけないでよと頭をたたいた。この事があって、夫婦の中も、お母さんとの信頼関係も強固なものになっていった。

37話:米国の貿易戦争と子供ができたの?(201802-9)

 その後2018年2月に入りSP500指数で2月5日に-2.4%、2月6日にで-5.9%と大きな下げに見舞われた。その後も七郎の予想通り2月9日に-3.4%とバブル崩壊を思わせる動きとなった。

 その後、トランプ大統領の他国から米国への不当に安い鉄鋼とアルミニウムに対するダンピング課税を鉄25%、アルミニウム10%を加えるという発表があった。これに対して中国、欧州から対抗措置が予想され貿易戦争の様相を呈してきた。株の世界でもバブル崩壊が心配された。

 こんな時に、何と七郎(64歳)と恵子(41歳)の間に赤ちゃん誕生というウルトラCがおきた。2018年の正月過ぎのある朝、朝食後、恵子が気持ち悪いと食べたものをもどした。何か悪いものでも食べたんじゃないと、七郎が茶化すと怒った顔で、もしかしたらと言い婦人科を受診したところ妊娠しが判明した。出産予定日は2018年9月と言われた。家から近いKU病院の婦人科にかかり、ここでの出産を決意した。恵子に仕事を辞めさせ七郎がノートパソコンを持ち歩き「入間の里」でも必要な時に貿易の書類書きや、いろんな仕事をしてスイスのピクテとのやりとりも全てやる事になり忙しくなった。それでも毎週、お母さんの老人ホームには顔を出した。翌週、七郎が、お母さんに恵子が妊娠したと報告した所もう電話で直接、聞いてるわよと言い、手紙を手渡しくれた。

 帰って開いてみると七郎さんへ、恵子が妊娠したという知らせを聞いて一番驚いたのは私かも知れない。だって、あんな、おてんばで勝ち気な娘が、お母さんになるなんて信じられない、でも、うれしい、本当うれしい!、天国のお父さんも、さぞ喜んでいることでしょうと書いたペンの字が滲んでいた。たぶん、感極まって、涙を落としたのだろう。なんて、可愛い、お母さんなんだろうと、七郎もほろっとした。

 次に、気を取り直して書いたのだろうか、七郎さんへのお願い、恵子が元気な赤ちゃんを産むために、仕事をさせない炊事、洗濯など重労働をさせない事を約束しなさい。もちろん浮気なんてもってのほか、それから恵子に、常にやさしく接して下さい、妊娠中の女性は神経過敏だから・・。

 最後に絶対に食べ過ぎに注意しなさい、七郎さんじゃなくて、恵子の事です。食欲が出て、ついつい食べ過ぎちゃうのですが、増えすぎると出産がキツくなります。その為にも、食べ過ぎないことが大切です。これは私が体験済みですので強く希望しますと書いてあった。なんて可愛い、お母さんだろうと、七郎はうれしく思った。

 春風が吹き端午の節句が過ぎ梅雨も過ぎ暑くなり秋風が吹き出した頃、恵子の腹は、ぱんぱんになってきた。そして9月20日、待望の赤ちゃん誕生となった。

最終章:65歳のパパ誕生(201809-12)

まさか65歳で子供を授かるとは夢にも思わなかった。 七郎は、生まれてきた女の子をみて、複雑な感情が頭の中を駆け巡った。

 1つ目は、この子を見て孫を見てるような奇妙な感じ。 現実なのか夢を見ているのかわからない不思議な感覚に襲われた。
 2つ目は、この子のために何をすべきか、良い教育を受けさせたい。勉強を教えて上げて自立できる様にしたい。
 3つ目は、投資の方法を伝授して食いっぱぐれないようにしてあげたい。
 4つ目は、いっぱいお金を残して上げたい。

 どんどん、湧き上がってくる妄想に悩まされた。そんな、空想を打ち消すように恵子が帰りが遅いわね、私こんなに大変な思いをして頑張ってるのに、まったくもうと怒りだした。40歳越えの出産って大変なんだから、この貸しは、後で、きっちかえしてもらうからねと息巻いていた。こんな大変事をさせて、この野郎と、軽く七郎の頭をたたいた。

 七郎が、ご苦労さん、大変だったねとやさしく彼女の頭をなでると堰を切った様に目に涙があふれた。彼女として今まで経験したことのない痛さ、つらさだったのだろう。
そして頑張って分だけ、汗のように、涙でストレスを発散したのだろうと思うと、急に、愛おしくなった。

 この出来事を考えると今まで生きてきたことが走馬燈のように、頭の中を駆け巡った。生まれて何もわからないうちから多くの大人に、いろいろ覚えさせられた。

 物心ついた6歳の時に家族全員で米国旅行に行くのを楽しみにしていたのに風邪・インフルエンザになり、高熱で、うなっていて、1人だけ日本に残された事。かえりのお土産を楽しみに待っていたのに、家族全員が飛行機事故という不幸な出来事で1人ぼっちになり悲しかった事。

 横浜の外人学校に入り友達になったティムのお父さんのリチャードとの運名的な出会い、彼は、実の子以上に可愛がってくれ、厳しく人生を生き抜くすべを教えてくれた。リチャードとRCH家の援助で不自由ない生活ができた。
更に木下家の巨額の遺産の事。それを元手に巨万の富を築いたこと。

 本当に悲しかった事。最初の妻・サリーや、恩人リチャードの死。巨額の富を前に何をすべきか考えあぐねた日々。最後に巨万の富を与えてくれた多くの幸運に感謝して、その幸運に恵まれなかった人々にチャンスを与える事が自分の巨万の富を有効活用することだと悟り「入間の里」学生寮を私費を投じて設立した事。

 このご褒美なのか本当に身近にいた新しい妻との結婚、彼女の父との悲しい別れの次にサヨナラ満塁ホームランのような、65歳にして、女の子の誕生という幸運。

 こう考えてみると人生悪い事の後には良いことがある、「禍福は糾える縄の如し」幸運を独り占めしないで幸運に恵まれない人に与えれば、又、幸運がやってくる。「禍福己による」こういう事を七郎は、身をもって知った。

これで、全編終了です。読んでいただき、誠にありがとうございます。

『七郎物語』

木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身で、6歳の時、一家が飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。残された広大な東京の土地を知り合いの貿易商が、その換えを金に替えてスイスのプライベートバンクに預けた。戦後、横浜のインターナショナルスクールで知り合った、RCH家のリチャードに可愛がられ、RCH家の経理の仕事をもらう。戦後、木下家の金の存在を知り、金価格が高いときに金に換えて、投資で、巨万の富を得た。その直に東日本大震災を経験し、戦災孤児の教育のために、募金活動を開始、社会福祉活動に目覚めて、彼の富で、貢献していくストーリー。東日本大震災後の募金、社会福祉活動をテーマにした小説

『七郎物語』 播磨王66 作

主人公、木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身。1959年、家族が米国旅行を計画した時、運悪くインフルエンザにかかり、七郎一人日本に残った。ところが、一家が帰国の飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。その後、横浜のインターナショナルスクールに入り、学校の友人の家に呼ばれるようになり、その友人の父、リチャードと運命的な出会いによって、七郎の人生の運が開けていく、結婚、別れ、投資、いろんな人生経験を経て、使い切れないお金を得て順風満帆の人生に見えたが、その後、東日本大震災を経験して、特に、被災孤児の教育のために募金活動を通じて、社会福祉活動に目覚めていく、ストーリー

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-03-30
Copyrighted

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