*星空文庫

七郎物語

播磨王66 作

  1. 1話:木下七郎の生い立ち1
  2. 2話:横浜の外人学校へ入学
  3. 3話:七郎の米国留学と結婚(1971ー1979)
  4. 4話:七郎の投資と七郎商会設立1(1980~1990)
  5. 5話:七郎の投資と七郎商会設立2(1980~1990)
  6. 6話:バブル崩壊と妻の死(1990~1994)
  7. 7話:阪神大震災と日本の金融危機(1995~2000)
  8. 8話:戦争とテロと息子の結婚 (2000~2006)
  9. 9話:七郎の再婚1(2006~2009)
  10. 10話:七郎の再婚2(2006~2009)
  11. 11話:リチャードの死と東北大震災(2010~2020)
  12. 12話:東日本大震災被災者への寄付と募金活動1(2011~2013)
  13. 13話:社会福祉事業開始1(2014~2020)
  14. 14話:格安、学生寮の建設1(2014~2020)
  15. 15話:格安、学生寮の活動開始(2014~2020)
  16. 16話:学生寮のテレビと海外からの取材(2014~2020)
  17. 17話:旧友からの支援と義理の父の心筋梗塞(2014~2020)
  18. 18話:義理の父の死と母の痴呆(2014~2020)
  19. 19話:義理母の老人ホーム探し(2014~2020)
  20. 20話:七郎、六十歳にして再びパパになる(2014~2020)

主人公、木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身。1959年、家族が米国旅行を計画した時、運悪くインフルエンザにかかり、七郎一人日本に残った。ところが、一家が帰国の飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。その後、横浜のインターナショナルスクールに入り、学校の友人の家に呼ばれるようになり、その友人の父、リチャードと運命的な出会いによって、七郎の人生の運が開けていく、結婚、別れ、投資、いろんな人生経験を経て、使い切れないお金を得て順風満帆の人生に見えたが、その後、東日本大震災を経験して、特に、被災孤児の教育のために募金活動を通じて、社会福祉活動に目覚めていく、ストーリー

1話:木下七郎の生い立ち1

 木下家は旧華族で徳川家に近い由緒正しき名家である。東京に大きな屋敷を
持ち日本の戦後でも不自由のない生活を送っていた。所有する土地は池袋から
渋谷まで続いたという広大なものだった。

子供達に専任家庭教師をつけ、語学、数学、文学、音楽を身につけさせた。
七郎も例外ではなく2歳になり言葉を話せる様になってからお手伝いさん
が絵本を読み聞かせた。どの本が良いか1通り、毎晩見せて、
気に入った本を選び出した。

マザーグース、イソップ、ピータラビットやポターの本を毎晩、
読んで聞かせた。
3歳になった頃から国旗や地図、九九算をみせ、覚えさせたが、
覚えの早いのに驚いて、都道府県ジグソーパズルも好きで多くの
ものを買い与えた。4歳になりアルファベットや簡単な英会話の絵本
をみせると、英語に興味をもって、英語を音で覚えたので英語を話した後
に同じ事を必ず日本語でくり返した。

 耳が良い事がわかりドレミの音階、その後、乗り物の写真と名前もに覚えた。
 そこで写真あてゲームを日本の県と県庁所在地、地図上の場所をセットで、
また世界の国も首都と地図、地球儀上の場所も教えたところ5歳で、
ほとんど全て覚えた。次に2桁の簡単なかけ算の暗算を少しずつ教えた。
もう覚えるものがなくなった程だった。外国語と音程と暗算がに特に秀でていた。
そこで簡単に日本語と同じ英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語の文を書いた
ものを家の家庭教師の書生さんに書いてもらい覚えさせた。6歳にの頃には、
簡単な日常会話文を英語とフランス語、ドイツ語、スペイン語で言える様になった
のには父の木下貞夫も驚いた。

今度、海外旅行で家族で行く時には七郎も
連れて行こうと思っていた。小さい頃から食力も旺盛で、なんでも食べ
大きくなっていった。特に肉類は好きだった。身体が大きい割に足も速く
6歳の頃は兄弟で競走してもいつも一等賞だった。そして近くの公園を走り回って
元気いっぱいの男の子に育っていった。

七郎が六歳になった1959年の秋、子供達の視野を広めるために
米国へ海外旅行を計画した。最初にニューヨーク、ワシントン、シカゴ、
ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルの一ヶ月の長期旅行にでた。
 ただ次男の木下七郎だけがインフルエンザにかかり東京の家に
お手伝いさんと共に残る事になった。木下家の人達が米国から
帰りに乗った飛行が海に墜落して家族全員が死亡してしまった。

 その後、残された木下七郎は身寄りもなく路頭に迷う事になるので
木下家の弁護士が六才の木下七郎を不憫に思い、住んでいた家と
土地を三千万円で売却して、そのお金で生活する様に指示し一年を
かけて売却した。その金で横浜の借家を借りる手続きをとった。

 

2話:横浜の外人学校へ入学

翌年、横浜の南部に引越し小学校に入学したが彼は既に簡単な英語、
ドイツ、フランス、スペイン語を話し数学も中卒程度までマスター
していた。そこで横浜の外人学校のスカラーシップ試験に合格して
学費無料で入学した。ジュニアハイスクールに入学して多くの友達を持った。
 その中でも特にティムとは親友になるまで、時間ががかからなかった。
 いわゆる馬が合ったのだ。ティムはRCH家の血筋を引く名家の出である、
頭脳明晰、品行方正。一方の七郎は、冒険大好き、芸術、文学、音楽大好き、
直感力に優れた行動派と言った感じであり全く異なった性格の持ち主。
 二人とも、どれぞれの個性を尊重しあいながら充実した学校生活を送った。
 ティムはテニス部、七郎は柔道を横浜の道場で習い、学校ではラグビーを
楽しんだ。七郎は、この頃には日本人の友人よりも外人の友人の方が
多くなった。理系の才能に恵まれており暗算の早さ正確さは目を見張る
ものがあった。 もちろんジュニアハイスクールでは学年で常にトップ
の成績だった。この頃にはティムの鎌倉の家で夕飯を食べるのが楽しみだった。
ティムの父のリチャードは、こんな七郎のに惚れ込んでいった。

 七郎はリチャードの家に入り浸る様になり自宅の借家には、めったに
帰らなくなった。そんなある日リチャードは七郎にうちに来ないかと誘った。
借家の契約を解除しリチャードの大きな屋敷の二階の一部屋を無料で良いから
使いなさいと言ってくれた。その後リチャードが七郎を横浜のYCACに
連れて行きラクビーをさせる様になった。ラグビーの練習しシャワーを
浴びた後に、食堂で大きなビーフステーキをご馳走になり、世の中には、
こんなに旨い物があるんだと驚いた。七郎が外国人と話す事ができ
日本の柔道ができる事に回りの人達も興味を持ってくれラグビーの練習に
行った時は声を掛けてくれる様になりYCACでも人気者になった。

 横浜の柔道場に週3回、放課後、練習に出かけていた。ある日の
夜リチャードが仕事の接待で、お酒を飲んで帰ってきた日の晩、
七郎を部屋に呼んで日本は敗戦で経済も悪く食糧事情も良くない。
 そこで日本を捨てて、米国人にならないかと言いだし米国の永住権を
取ったらどうかと提案してきた。 それに対して七郎は、確かに今の
日本の現状が欧米西欧諸国に劣っていて、憧れもあります。
 しかし日本には欧米にない良い伝統、文化があり、それが大好きだといい、
だから日本を見捨てる訳にはいかないと大人びた事を言った。
 リチャードは、驚いた様に本当に日本は欧米に追いつけるとは思わないが
と意地悪そうに言うと、そんな事はない日本人の勤勉さと正直さ結束力で、
きっと10年、20年後には追いつくと思うと言った。
 その為に七郎は頑張って勉強していきたいと言い切った。
 リチャードは更に、七郎を冷静に見て、君は家族を亡くして1人ぼっちだ。
 それで何ができるとい言うのだと、意地悪そうに言った。
 七郎は確かに今の自分には、その通りで、何もできないかも知れないが、
頑張ると意地を張った。リチャードが、でも金を稼ぐというのは並大抵の努力で、
できる事ではない。すごい相手と闘って勝たなければならないのだ。
 七郎、お前に、そんな覚悟があるのか、また、勝てる自信が、あるのかと、
すごい形相で言ってきた。勝てる自信があるのかと言われれば本当のところ、
わからない、でも、勝つために努力する覚悟は持っていると開き直ったように
リチャードの眼を見て言うと、わかった投資の勉強をして早く金をつくれ、
金がなければ勝負にならないと言った。わかった大金をつくるよと七郎が
リチャードの手を強い力でがっちりと握りリチャードが握り返した。
 話が終わると、あれだけ怖い顔をしていたリチャードの顔が、
いつものやさしそうな顔に戻った。リチャードは七郎を抱き寄せてハグしながら
、お前を見ていると昔の自分の様な気がしてならないと急に涙を流し始めるた。
 七郎も実の父親の様にしっかり抱き付いた。その後リチャードが経済の本、
投資の本を読むよう言った。七郎は、まさに、むさぼる様に多くの本を読破し
内容を理解していった。約一年後のある日、リチャードが投資対象の銘柄を
10銘柄提示して君なら、どの銘柄に投資するか、また、その根拠はとたずねた。 
 するとA社B社C社を購入したいと答え、その利用としてA社は収益率が良い点。
 B社は着実で成長性は低いが割安、高配当。C社は新しくて面白そうな事に
投資しているので買いと答えた。この答えを聞いたリチャードはビックリして
思わず、すごいと言った。リチャードが七郎に一万ドル投資するから
増やしてみろ言った。その後、七郎にリチャードの書庫にいつでも入って
自由に本を読んで構わないと言われ不明な点があれば聞いてくれと話してくれた。
 翌年1965年、ジュニアハイスクールに入学しラグビー部に入り
毎日グランドを走り回っていた。投資開始から三年で、七郎は資産を
1万ドルから2万ドルに増やした。この頃にはリチャードが投資を考えている
銘柄を毎週の様に、どう思うか七郎に聞くようになった。
 特に新しい事業をやり始める企業の将来性について七郎の意見を
求める様になった。七郎も株投資を初めて2年目で、持ち金が2万ドルが3万ドルに
増えていた。そこでリチャードが更に2万ドル、合計5万ドルを君に投資する
から自由に投資して増やしてみろと言った。七郎は言われた通りに米国に
上場まもない株に投資していった。1970年になりハイスクールの三年生、
進路を考え初め、リチャードが、スカラシップ(返却不要の奨学金)の
情報をくれた。三つのスカラシップの試験に応募して最初の試験を受けて
合格して学費は免除される事になった。サンノゼ州立大学にスカラシップで
合格して電気工学科に入学した。リチャードが、これからは、コンピューター
の時代が来るので良い選択だと七郎をほめてカリフォルニアに送った。
 送り出す時に入学祝金1万ドルを口座に振り込んでくれた。

3話:七郎の米国留学と結婚(1971ー1979)

 1971年サンノゼ州立大学の電気工学科にスカラシップで入学した。
 1971年8月に、ニクソンショックにより「金ドル交換停止」1ドル、
の360円という固定相場が終わりを告げた。それを知った、七郎が、
円が強くなることを予想して、持っているドル6万ドルのうち5万ドルを
シティバンクNYで1ドル、360円で1千8百万円交換し自分の持ち金
3千万円と合わせて4千8百万円と1万ドル。1974年まで、
サンノゼ州立大学で電気工学のソフトウェアを勉強していた。
 その頃、日本語熱が米国でも盛んになり日本語教師の家庭教師を
掛け持ちで行いながら学生生活を送っていたので食費、遊興費、
本代などを賄う事ができてリチャードの入学祝い金を使わずにすんだ。
 サンノゼでの四年間は学校の勉強と家庭教師で忙しく過ぎ去っていった。
 大学のパーティーが派手で、美人が多かった事が印象に残こり、
楽しい思い出だった。同じクラスのロサンゼルス富裕層の日系人のお宅で、
お寿司や日本料理を行った事。その他は、米国人に柔道を教えた事だった。

 その後、サンノゼ州立大学の電気工学科を留年しないで卒業し、
1974年(二十二歳)に日本に帰ることにした。羽田空港から、
リチャードの所に電話すると、君の部屋は、そのままにしてあるから、
帰ってこいと言われ、戻った。リチャードが、七郎を見て、
すっかり、逞しい青年になったと目を細めて喜んでくれた。
 大学での話、その後、アップル入社、ソフトウェアの話などをした。

 1974年11月、突然、七郎の父ので友人の大手商社の役員、
 山下真一から電話があり東京で会うことにした。喫茶店でスイスの
PTの書類を見せてもらうと、金地金144kg保管してあると
書いてあった。終戦のどさくさに紛れ、木下の家の土地と大きな屋敷、
別荘、車を売却し全部、安全資産の金に変えた。必要な時に指示して
くれれば日本円か米ドルに換金できると話してくれた。木下家の全員が
亡くなり全部、七郎さんの財産となりましたと告げた。何か、狐に
つままれた様な感じで、にわかに信じられなかった。山下真一は用件を
言うと名刺と渡してくれ私も六十五を越えた。そこで、もし
私に何かあれば息子の山下洋一(三十五歳)に、この件は話して
あるので、彼と話してくれと言われた。同じ弁護士事務所か、家にいるから、
いつでも連絡がつくと言った。

重大な事を話ししてくれ、ありがとうございますとお礼を言って失礼し
、鎌倉のリチャードの家に戻った。木下家の遺産の事をリチャードに
話すべきか考え悩んだがリチャードは、七郎を我が子同様に可愛がって
くれ家も金も貸してくれた。
やはり、秘密を明かすことを心に決め、木下家の全財産がスイスの
PTに3215トロイオンス(144Kg)の金地金があり、
家族が1959年の飛行機事故で全員亡くなったので相続する事に
なったというと、目を丸くしにして本当かと何回も聞いた。
 本当だと言うとリチャードが、七郎の家系は、日本の財閥の関係かと
聞くので、徳川家の親戚と伝えると、江戸幕府の徳川かと聞き直した。
 そうだと言った、七郎の才能は、木下家の小さい時の英才教育の
お陰だと納得した。リチャードは、七郎を以前にも増して好きになり
頼もしく思った。


 リチャードが、私も米国の大富豪ファミリー・RCH家の子孫だと
打ち明けた。七郎も、リチャードがRCH家、信じられないと驚いた。
 リチャードが笑いながら、これでEVENだなといった。
 RCH家もスイスのPT社に口座を持ち大きな金をプライベートバンク
で投資して資産を増やしていると言った。木下七郎も弁護士から
スイスのPTに預けていると言っていたので、七郎一人で管理するのは
難しいから、よかったら、RCH家のプライベートバンクに入れても良いよ
と言ってくれた。七郎は、渡りに船とお願いした。翌日リチャードが、
PTの担当者に電話して財産の処理を依頼した。翌週、全部、完了した
と連絡が入った。リチャードの息子と言う事でプライベートバンクに
登録してくれた様だ。リチャードが、これでPTのプライベートバンクが
節税や投資を指導してくれると言った。七郎は、リチャードに礼を言った。
リチャードが、七郎も正式に私の息子になったんだと、喜んでくれた。

 七郎が1979年、26歳の時、リチャードが私の古くからの友人の
娘さんが日本に留学しているんだけれど、一度、会ってみないかと言った。
 名前はサリーと言う。彼女に七郎の事を話したところ本人から興味が
あるので、是非、紹介して欲しいと言われたと言うのだ。日本の文化、
着物、武道、武士道、日本の花、山、紅葉が好きで、今、東京で英語学校
の教師をしていて24歳、UCLAを卒業してすぐ日本に留学したそうだ。
六本木のアマンドで会い七郎が流暢な英語で自己紹介をした。
 お返しにサリーが日本語で自己紹介をした。七郎は聡明で明るく笑顔の
綺麗な美人で、一目で気に入ってしまった。帰る前、突然、会って欲しいと
、出しゃばって、ごめんねと言ったのにはビックリした。なる程、
日本が好きというのがよくわかる気がした。
 サリーが七郎さんは柔道の黒帯だそうですねといい、その内に、
柔道着を着て、練習しているところをみたいわと言った。

 七郎が、たまに横浜の道場に行きますので、良かったらどうぞと言い、
練習する週の初めに、ご連絡しますとサリーに告げた。翌月七郎が
電話を入れて横浜の道場にサリーと出かけた。一時間の練習を終え
汗びっしょりでサリーの所へ来ると、サリーが柔道着をさわらせて
言うので了解すると、帯や、袖、合わせなどを手で触ったり両手で生地を
引っ張ったりして、すごい頑丈で切れそうもないねと笑った。
 汗臭いだろうと七郎が言うと、その位の方が私は好きとサリーが笑った。
 その後、何枚も写真をとった。

 3ヶ月が過ぎて、リチャードが七郎にサリー、いい娘だろと言うと、
照れながら七郎が最高ですと言うと、お互いに大笑いした。
リチャードが結婚しろよと、唐突に言うつと、
七郎が恥ずかしそうに、結婚したいですと言った。
 じゃー決まりだなサリーが七郎の柔道の練習を見て彼なら間違いない
と言い、サリーから七郎に聞いて欲しいと言われたとリチャードが白状した。
 1979年の紅葉の美しい鎌倉の鶴岡八幡宮で神前結婚式を行い、
リチャードなど数人が見守る中、夫婦の契りを結んだ。 
 2年後の春に子供ができ、日米の架け橋のような夫婦が正式に誕生した。

4話:七郎の投資と七郎商会設立1(1980~1990)

 七郎が今後、日本円が強くなるのではないかとリチャードに話すと、
そう思う答えた。日本の優秀な電機製品、車も売れてるし品質も良いので
ソニー、パナソニック、トヨタ、ホンダなどの株を買っても良いかも
知れないと言った。そこで1979年ソニーを二万株とトヨタ株二万株を
それぞれ1600百万円、合計3200万円で購入した。
 残り資産が1600万円となった。七郎がリチャードにパソコンの
ソフト分野でリレーショナルデータベースに興味を持っていると話す
とリチャードが驚いた。そして1980年代を迎えた。

 日本でもパーソナルコンピューター第一号PC8001という
名のパソコンが発売され、早速、購入。
 アメリカ時代の友人に連絡するとRDBのデータベースⅡと言うソフト
を送ってくれた。すぐ模擬データベースを作り試してみていた。
 この話をリチャードに話すと面白いソフトウェアだと言い。
 財産管理のデータベースを作成してくれと言われ、作成し、
見せたところ、是非、財産管理の仕事をやって欲しいと言われた。
リチャードから財産管理だけでなく、顧客管理なども作る様に依頼され
仕事をする事になった。月、20万円で雇うと言われ就職した。

その頃、金価格が上昇しはじめたのでスイスのPTに連絡して七郎の
金地金144kgを日本円に変えたいので金価格を注視する様に指示した。
1982年末に4300円/gの高値となり金地金144kgを
6億円で売却した。1982年末、七郎、30歳の資産が
6億1600万円になった。

その後1984年にアシュトンテイトからdBASEⅢVer2
というMSDOS版の本格的データベースソフトが発売された。
 その後DBⅢは廃れてマイクロソフトのACCESSがに
代わってしまった。これからは大型コンピュータの時代から
パーソナルコンピュータの時代になると七郎は考えていたが、
まさにその時代がやってきた。データベースと共に、学生時代
研究していたのがネットワークだった。
 一方、日本では1984年に東京大学、東京工業大学、慶応義塾大学を
実験的にUUCPで結んだ“JUNET”が誕生した。リチャードは
学費を出すから七郎に慶応義塾大学に研究生として入り込んで勉強して
来いと言った。早速、手続きを取り慶応大学の工学部、電気工学科へ
入り込んだ。

その頃、七郎は、リチャードに言われてRCH家の資産運用の
経理担当会社として七郎商会を1985年、三十二歳の時にに設立して
ニューヨークのRCH本部から送られてくる、事業、投資活動の経理情報を
まとめてデータベース化して、ニューヨークの仕事が終わる午後5時に
七郎商会へ送信してきて、その日の売買結果、投資情報の結果をいれた
新しいデータベースに更新していった。

その後、9時からの日本市場が開き、売買を開始、やがて終了。
 その日の売買結果、投資情報の結果をいれた新しいデータベース
に更新して完成した最新のデータベースをニューヨークと、ジュネーブ
に送る仕事をした。スイスのPTのRCH家のプライベートバンクでの
売買、投資、支払いを入力して新しいデータベースを作成して、
ニューヨークRCH本部に送る。そして、ニューヨーク市場での
売買、投資、支払いを入力して新しいデータベースを作成して、
日本の七郎商会へ送る。つまり、ニューヨーク→日本→ジュネーブで
、休みなしに二十四時間態勢で経済活動の最新データを更新する
事になるのだ。

 翌年1986年、七郎商会には新しくコンピュータの入力、
 管理スタッフを七郎を含め男性4名とパソコンを使える秘書兼、
 受付嬢、女性2名の合計6名で立ち上げ。そして3交代制で、
 日本、欧州、米国の経済状況を二十四時間態勢で見ていき
 ジュネーブのPTのRCH家のプライベートバンクとニューヨーク
のRCH本部と情報を共有して金、原油を初めとした商品市場、
米ドル、ポンド、日本円、スイスフランなど為替、先進国の
株価の変動を見逃さないようにして二十四時間、ベストの状態で
投資活動をできる環境をつくった。七郎商会には、
年間2億円の利益がもたらされる様になった。

5話:七郎の投資と七郎商会設立2(1980~1990)

 1985年の9月20に日のプラザ合意で、急激な円高と
日本株高で、日本円か日本株のどっちかを買うか一日かけて考えて、
変化の大きいと思われる日本株を買う事にした。ソニー株を
30万株で3億円とトヨタ株30万株3億円の合計6億円で購入。
残金1600万円を残しておいた。予想通り1986年から
日本株が一気に上昇してきた。日本株上昇と共に日本円も
高くなってきた。

1986年の4月26日、ウクライナの
チェルノブイリ原子力発電所四号機で発生した史上最大の原子炉事故。
原子炉が暴走し炉心溶融を起こして原子炉や原子炉建屋が破壊され
大量の放射性物質が国境を越えて拡散した。 爆発や急性放射線障害など
で31人が死亡、10万6千人人が避難を強いられた。
 当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を内外に
公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、
 彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り高線量の
放射性物質を浴び被曝した。しかし、翌4月27日にスウェーデン、
フォルスマルク原子力発電所でこの事故が原因の特定核種、高線量の
放射性物質が検出され近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン
当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受け、ソ連は
4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚した。
 爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの
軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。
水蒸気爆発を防ぐため下部水槽の排水。減速材として炉心内へ
鉛の大量投入。液体窒素を注入して周囲から冷却、炉心温度を
低下させる。この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた
炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き5月6日迄に大規模な
放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。
 事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ
周辺は居住が不可能になり約16万人が移住を余儀なくされた。
 避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から
1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが
移住したとソ連によって発表されている。事故処理従事者86万人中
5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5千万人)
の国内被曝者総数343万人の内、作業員は87%が病気に罹っている。
 また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

 こんな大災害が追い打ちを掛ける様に世界の不安の増大と共に
経済も音を立てて崩れおちていった。翌年1987年10月15日
にはイラン・イラク戦争のアーネスト・ウィル作戦で米軍の護衛を
受けていたタンカーがイラン海軍の攻撃を受け、ミサイルを被弾する
出来事があった。米軍は報復として当日未明、イランがペルシャ湾に
持っていた石油プラットフォーム二基を爆撃し、市場参加者の間には
原油市場に対する不安が沸き起こっていた。嫌な予感がした、

 1987年七郎34歳の時、七郎は、翌日、ソニー株、トヨタ株を全株、
成り行きで売った。ソニー株とトヨタ株、32万株づづ合計64万株で
合計19億2千万円で売れ、資産合計が19億3600百万円。
 だた日本経済は、依然、好調なので下げた所を買うつもりで市場を
 見ていた。1987年10月19日のブラックマンデー当日は
 NY証券取引所のダウ30種平均の終値が前週末より508ドル
 下がった。この時の下落率22・6%は世界恐慌の引き金となった、
 1929年の暗黒の木曜日、下落率12・8%を上回った。 
 これを見て七郎は震え上がった。

 そこで、リチャードに相談すると米国市場の混乱は一年位続く
かも知れないが、日本の景気は良いから一気にさげるであろう。
 明日か、もう一段さげた所を買うか上げ始めた所を買い始めるか、
この三つのどれかを選ぶべきだと思うと言った。

 その意見を聞き、七郎は、明日、1987年10月20日が
開く前にソニーとトヨタ株を成行で10万株づつ合計20万株、
買い注文をいれた。米国での株安を受け、日本では1987年
10月20日に、日経平均株価が前日比で3837円安マイナス15%
という大きな下げを記録した。1988年があけて1月にソニーと
トヨタ株を成行で25万株ずつ合計50万株を6億円で指値を入れ、
買えた。この時点での残金11億1200百万円。やがて1987年も
終わりを告げて1988年の新春を迎えた。

1988年から、日本株は再び急上昇し初め、1988年8月には
40%も上昇した。1988年末から再び日本株が上昇を始めた。
 1989年1月から 上昇が加速していった。
 1989年11月も急上昇したのでピークが近いと考え
1989年末高値売りを狙った。12月の最終日に残りの
ソニーとトヨタ株を25万株づつ計50万株を13億万円で売却し
、資産合計が14億2千万円となった。

6話:バブル崩壊と妻の死(1990~1994)

 1990年が始まり大発会から、平成バブルがはじけだした。
それと共に、円高が進んできて日本株の低迷が続いていた。
そんな時に七郎にも大きな不幸が忍び寄ってきた。
 この年の夏に七郎の奥さんが体調を崩して入院した。
 1週間にわたり、東京のKO病院で精密検査をしたら原因不明の
白血病だとわかった。七郎は、一気に不幸のどん底に突き落とされ、
どうして良いかわからなくなった。

リチャードに相談すると最善を尽くすしかないと言われ後は
七郎の気持ちの持ち方だと言った。
 どうしようと言うと七郎、君の人生は君自身で考えるべきだと
言われ突っ放されたような気がして気が動転した。

 そこで以前から、お世話になっている柔道の恩師に相談してみた。
 彼は人生って良い時も悪い時もある、柔道だってそうだろ。
 悪い時、お前はどうした?と聞かれ平常心でしっかり練習に励んだと
答えた。今もすべきだ平常心を持ってベストを尽くせと言われた。
 人生の中で、どうにもならない事って、必ず、あるんだ、そんな時は、
人は、運を天に任せて、平常心でベスト尽くすだけしかできない。
結果は、だれにもわからない。つまり運だ。でも、平常心でいる事はできる。
またベストも尽くせる。逆に言うと、それしかできないだよと言った。
 恩師からこの話を聞いて、少し落ち着くことができた。

折角、柔道場に来たのだから、畳の上で座禅していくといいぞと
言ってくれた。この恩師の優しい言葉に七郎の目には大粒の涙が
浮かび、やがて、こぼれ落ちた。少し落ち着いて、柔道着に
着替えて正座して黙祷をした。すると、動転していた心が、
晴れ渡る様に、まるで雲が去って太陽がさしてきた様に晴れた。
 何があっても落ち着いて平常心でベストを尽くそうと心に誓った。

 その足でKO病院のサリーの病室をたずねた。サリーは七郎に、
ごめんね、こんなになってと謝った。それに対して、七郎は、
精一杯の笑顔で仕方ないよ運命には逆らえないからと言った。
 おちついて話す七郎を見てサリーは感極まって大声で泣き出した。
 すると七郎は、だまって、サリーの身体を抱きしめた。
 ひとしきり泣いた後、サリーが七郎を選んで本当に良かったと
言い、又、泣き出した。サリーを抱き寄せていた七郎も、
この言葉を聞いて、もらい泣きをするのであった。
 その時、病室のドアが開きリチャードが見舞いに来た。サリーと
七郎の姿を見たリチャードが二人の身体を両手ではさんで頑張れよと、
涙ながらに励ましてくれた。

七郎は、やっと、自分がRCH家の仲間に入れてもらったような、
妙な気持ちがした。人の感情って生まれ育ち、言語、国、性別、
人種なんて関係ないんだ、わかる者にはわかるんだと再確認した。
 看病の甲斐なく翌月の秋風が涼しくなってきた頃にサリーは
天に召された。残された十歳のジョージと三十七歳の七郎は、
参列者、数人の小さな葬式に参列して参列者に今日は、
サリーの葬式に参列してくれてありがとう、私とサリーは、
結婚して、わずか10年でお別れすることになってしまった。
 でも、私にとっては、この10年は100年にも匹敵する程
、楽しい日々、幸せな日々だった。幸いにジョージも授かり、
サリー、君との楽しい日々の思い出とともに、君を絶対忘れない事を
神にちかって贈る言葉としたいと話した。
 そのスピーチに参列者からは惜しみない拍手がわき起こった。

 日本式の葬式でサリーの遺骨は七郎が用意したお墓に入った。
 最後に、七郎が、また後で、君の所へ行った時、楽しい時を
過ごしましょうという言葉を聞いて参列者からすすり泣く声が聞こえた。
 葬式の翌日、横浜の道場へ行って、練習で汗を流し、事の次第を
恩師の先生に報告した。恩師の先生から人間はね、こう言う、試練、
悲しみを越えて、強く、優しい人間になっていくんだ。
 七郎、これからの人生を平常心を持って、精一杯頑張って
行けよと言ってくれた。

 息子のジョージに君はどうしたいと聞くと今の横浜の外人学校を出たら
米国の大学に通いたいというので了解し一生懸命、スポーツ、勉強を
楽しんでいくんだぞと言い金が必要なら送るから言ってくれと言った。
 1991年、11歳になったジョージは理数系よりも文学、音楽、
絵、芸術の才能があるようだ。バンドを組んでボーカルで歌っていて
、スポーツはテニスをしていた。成績は学年で3番以内で理数系が弱い
ので七郎に教えてもら事もしばしばあり徐々に成績が上がり全額給付
のスカラシップで米国留学をめざしていた。

1991年にはソ連が崩壊してロシアとなり、その後、
ウクライナを始め、旧ソ連の多くの国が独立していった。
 そして米国との冷戦時代が終わり世界の経済にとって平和
にとっても良い時代が来る事が期待された。
 しかし期待とは裏腹に良くならなかった。

 1995年七郎の息子のジョージは15歳になり横浜の
ジュニアハイスクールの成績も初めて学年トップになった。
 ジョージの口からスカラシップを取って、お父さんの様に、
自分の力で、自分の将来の道を切り開いていくと言った。
 また自分自身は音楽、美術といった芸術系が好きだが、
生活の為には、やはり技術、特にコンピュータの時代なので、
ソフトウェアの勉強をしていくと言った。
 七郎はジョージから、この話を聞いて
独立心のある逞しい子に育って非常に喜んだ。

7話:阪神大震災と日本の金融危機(1995~2000)

 そんな時に阪神大震災が起きた。1995年1月17日の早朝、
七郎は、いつもの様に起き、NYからの経済情報を見ていると
NHKの緊急放送が入った。
 神戸の駅あたりで、大きな火災が起き阪神高速がコンクリートの
橋梁が崩落し、何かパニック映画の1シーンをも見ている様だった。
 アナウンサーも事情がわからず、何か大きな火災が神戸の市街地で
起きていますとただ放送するだけだった。
その後、神戸周辺で大きな直下型地震が起きて木造の家が押しつぶされて
死者が大勢出ている、一部のマンションが倒壊して阪神高速も倒壊した様だ
とのニュースが入り、断片的にコンクリートの建物が倒壊しているのが
写り神戸駅前の大火事の画像が流れて事の大きさを知った。
死者6435名、行方不明者2名、負傷者43792名。住宅被害、
全壊104906棟、半壊144274棟、全半壊合計249180棟
(約46万世帯)一部損壊390506棟。多くは木造家屋が倒壊し、
家屋の下敷きになって即死したとみられる。

何か不吉な前触れのようで嫌な年になった。更に、追い打ちを
かける様に同じ年の3月、オウム真理教による松本、地下鉄サリン事件が
発生。まさに、世紀末の悲惨な出来事に、憂鬱な気分にさせられる
七郎だった。投資の世界では世界の株式は上げたり下げたりしていた。

 1995年円高が加速、多分、円高のピーク当たりで1995年4月
、80円で30億円で米ドル3750万ドルを買った。
 この時点の残金15600万円と3750万ドル。

 そんな中、1997年、七郎の息子、ジョージは17歳、3回の
スカラシップの試験を受けて合格してUCLA、カリフォルニア大学
ロサンゼルス校の電子工学科に入学する事が決まった。
この時、七郎はジョージに合格祝いとして1万ドルを送った。

 その後、1998年のアジア通貨危機と共に、円が急速に
安くなっていった1998年8月に1ドル146円まで円安が進んだ、
1750万ドルで円を買い54億7500万円となった。
 1998年夏の資産合計が56億3千万円になった。

 日本の経済界では、1998年11月13日に都市銀行の一角、
北海道拓殖銀行が経営破綻、翌日に日本の4大証券の1つ、山一證券が
経営破綻すると言う大事件が起きた。1999年まで、世界の株価が
上昇を続け、好調を維持して、20世紀が終わりを告げ、21世紀を
迎えることになった。

 この頃には、七郎商会もデータベースを増やして1989年、
七郎商会を1985年に設立して13年で、会社の純利益の
累計が35億円で、社長の七郎の累計収入15億円と膨らんできた。
仕事の量の増加と共に、スタッフを七郎含め男性8人、女性3人と
増員し最近では年間5億円の利益が出る年もあるほど順調に成長してきた。
 リチャードが海外出張している時には、彼の代理として、政治家、
財界人、芸能人達とも会うことができ、木下七郎の顔も売れてきた。
七郎の資産は1999年末の56億3千万と給料の累計15億円の
合計71億3千万円になった。

 1999年に七郎の一人息子のジョージがUCLAから6月に帰ってきた。
大学では、ソフトウェアの勉強しており、将来性のある
パーソナルコンピュターソフトに興味を持っていると言った。
 現在、マイクロソフトのエクセル、ワード、
パワーポイント、アクセスを使っている。簡易プログラム言語の
VBA(Visual Basic for Appication)を使い、特に、アクセスVBA
で簡単なプログラムを作るのが特に面白いと言っていた。

 七郎が、今、会社でRCHの経理を任されているが、
アクセスのソフトを使いVBAでプログラムを組んでいるというと、
まさに、それを大学で勉強していると答えた。七郎が笑いながら、
ジョージに向かって、お前が、しっかり勉強して、俺のあとを継ぐか
と言った。それは、後で考える事で、今はわからないと答えた。

 ジョージが日本にいる間に、実際に、データベースの更新の仕事の
実際をみせると、興味深く見ていた。それ位のことは、簡単にできるよと、
七郎に言い返した。それに対して、そりゃー大学で専門的な勉強してるん
だから当たり前だと言い返した。8月下旬の迄の3ケ月、日本に戻って
旅行したり日本の友人と遊んだりしてロサンゼルスへ帰っていった。

8話:戦争とテロと息子の結婚 (2000~2006)

 2000年にネットバブルがはじけて日本株が大きく売られ始めた。
 その頃、金地金の円での安値であり金の値段900円/gで18億円分
購入した。2000kgの金を購入できた。残金1億2万円。
 2001年を迎えて9月11日にアメリカ合衆国内で同時多発的テロ
が発生した。イスラム過激派がハイジャックされた民間航空機が 
世界貿易センタービルを破壊3000人もの人々の命を奪った。
9.11を境にアメリカの政治も社会も大きく変わった。

 発足して半年程のブッシュ政権は、リベラル派も取り組んだ
教育改革などで実績を残した穏健派の政権であったが、この日以降、
保守派のネオコンが一気に台頭し、軍拡路線に進んでいった。

9.11の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンの引き渡しに
応じなかったタリバン政権を攻撃した2001年の10月
のアフガニスタン紛争開始までは、世界の多くの国がアメリカの動きを
支援していた。その後、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、
イラク戦争を行った。2003年3月のイラク戦争開戦時期には、
イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張する
アメリカに対してフランス、ロシアなどが反対し国際社会とアメリカ
との溝が広がっていき、結局、国連安保理は明確な決議を出せないまま
アメリカとイギリスなどの有志連合でイラクに攻め込んだ。
 イラク戦争は開始から2カ月程で「大規模戦闘終結宣言」を出せる
ほど当初はアメリカにとって順調だった。しかし開戦の理由だった
大量破壊兵器は結局見つからずイラク戦争の大義は揺らいだままだった。

 2000年度年間売上高1110億ドル(全米第七位)、
 20001年の社員数21000名という、全米でも有数の
大企業であったエンロンが巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が
明るみに出て20001年12月に破綻に追い込まれた。
 破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を
含めると400億ドルを超えていたとも言われている。
 それに続いて2002年7月21日に米国の大手電気通信業者
ワールドコムが倒産した。負債総額は410億ドル、資産総額は
連結ベースで1070億ドルにのぼり米国史上最大の経営破綻をした。
 その他、欧州では2002年から欧州統一通貨ユーロが導入された。 
 その後2005年にはロンドン同時爆破事件が発生しテロリスト達の
報復が始まった。2005年、ジョージから、職場の女性が気に入って
、つき合いだして1年が過ぎて、来年2006年4月に結婚したいと
電話があり七郎は喜んでジョージを祝福した。
 2005年の秋にジョージがフィアンセのマーガレットを連れて帰国した。
 銀座で食事をしてマーガレットがシアトルで育った話とか、料理が上手、
日本が好きで魚料理も好きだという事などを聞いた。
 仕事は、今マイクロソフトの本社で働きシアトル郊外のレドモントの
会社から近い所に家を借りて同棲していると言った。
幸せそうな二人を見ていると、七郎は十三年前(1993年)になくなった、
妻のサリーの事を思い出さずにはいられなかった。

 月日の過ぎるのは早い七郎も40歳になった。食事後、息子のジョージが、
僕たちだけ幸せになるのは不公平だから、親父も良い人を見つけて幸せに
なってと言うではないか、いつの間にか大きくなってと胸が熱くなって
思わず涙がこぼれた。そうーだなー仕事ばかりしていては、つまらない
人生かも知れないパートナーを探してみるかと、おどけて言った。
 するとマーガレットがそうして下さい、お父さんと言った。 別れ際に、
ジョージが僕、日本に帰ってこないかも知れない。
 どうも、アメリカの方が性に合うだと言った。
 七郎は、どこで生活しても構わない、お金に困らず幸せに暮らせれば
それで十分だと答えた。ジョージが、あー良かった、親父に
そう言ってもらって、本当に安心したよと言いシアトルへ帰って言った。

9話:七郎の再婚1(2006~2009)

 翌年2006年、いつもの様に七郎商会でRCHの経理情報を
更新していた冬の晩の事、電話の応対をしている、秘書の吉永恵子が、
ちょっと複雑な顔でバレンタイン・チョコをくれた。気になった七郎は
吉永さんどうしたのと聞くと何でもないですと言うばかり・・。

 そこで仕事を終えて食事に誘うと意外な事がわかった。吉永恵子さん
は大学を卒業してから8年、七郎商会に入社して秘書の仕事を続けて
いる真面目な娘。この日は食事をしてワインを飲んでいると時、突然、
吉永さんが社長、私、両親のすすめで最近見合いをさせられたんです。
 MT財閥の御曹司で三十一歳のMT商事の商社マンの方です。
フットボールをしていて、流暢な英語で海外でも大きな仕事をなさって
いるエリートらしいのですが、初めて、お会いした時、全く好きなタイプ
ではない嫌いなタイプ、いわゆる鼻持ちならない気がして駄目なんです。
 私は、クールで感情を表に出さなくて仕事のできる人が好きなんです
と告白した。例えば、社長の様なタイプが大好きなんですと言うではないか
七郎は困ってしまって、変なこと言うなよ、おじさんをつかまえて、
からかうのも、いい加減にしろよと言った。すると、恵子は、
こぼれそうな大粒の涙を浮かべて社長は、私の事、嫌いなんですね
と泣き始めた。いや、そんな事ないよ、むしろ、その逆さ、
好きだよと言うと、ちょっと酔った様に、じゃー結婚して見合い
相手から奪い取って下さいと言った。これには、七郎は、目を
白黒して何て言っていいかわからずに困ってしまった。
 すると続けて今日中に決めてよねと言ってきた。
 そこで吉永さん、今日は飲み過ぎだから家まで送るよと言った。
 タクシーをつかまえて帰る途中、恵子が帝国ホテルの前で止めて
と運転手に言った。ホテルの前で止まると今日だけは私の言う事を
聞いてよねと言うので、ついていくとホテルの部屋に入り最後の
パーティーしようと言う事になり、お酒をのんで吉永君と一夜の契りを
交わしてしまった。

 翌日の朝は、モーニングサービスを取ったが2人とも口数が少なく
、成行での大きな出来事に困惑したように見えた。ただ。恵子は、
この日から、七郎商会でも社長と言わず七郎さんと呼び始めた。
 翌月の七郎の誕生日にパレスホテルを取って楽しい夜と美味しい
食事を取った。吉永恵子は、敬虔なクリスチャンのお父さんを持ち
、横浜の歴史ある貿易商の娘として生まれて、近くに住む外人さん
と遊んでおり、小さい時に英語のマスターした。
そこで、横浜の外人学校に入学させたが、小学校の三年の時に、
日本人の学校に、突然言い出して、転校した。
 その後フェリス中学に入りたいと、家庭教師をつけての猛勉強で合格し
、フェリス女学園高等部へ進んだ。その後、上智大学外国語学部・
英米学科に入学し卒業と同時に七郎商会へ入社した。
 ある日、七郎が外人学校の小学校に入ってのに、何故、日本の学校に
転校したのか聞いてみると外人学校に好きな男の子がいて告白したら
アジア人は程度が悪い、日本人と言っても所詮アジア人であり白人の方が
良いし、君の事も、あまり綺麗だと思わないと言われてショックのあまり
転校した様だ。この話の時ちょっと笑うと厳しい顔で七郎さんも人種差別
主義者なのと大声で言った。違うよ小学校3年生で、おませさんだなと
思い、笑っただけだけだよと言い返した。
 七郎も小さい頃から外人との付き合いが長いので、まれに
人種差別の強い白人至上主義者がいた事は知っていた。
 でも、そんな奴、大成しないよと言った。

10月の恵子の誕生日、恵子がホテルニューグランドで食事したい
というので出かけた。開口一番、ここが一番、落ち着くのよね。
 東京って、大都会だけれどビルと多くの車と人と騒音しかない。
 その点、横浜は、港の海の香り、太陽の光、山下公園の自然と
人も車も決して多すぎない、良い所、やっぱり一番好きな所、
 また、食事はホテルニューグランドが美味しいのよねと言った。
 食事を終えて赤ワインを飲みながら七郎が自分の事を話し始めた。

 1979年にサリーという米国人女性と結婚し2年後、ジョージ
という名の息子ができた。幸せな家庭を築いて0年が過ぎた1989年
にサリーが突然、体調を崩して入院し白血病で看病の甲斐もなく、
翌年、私の腕の中で息を引き取ったと恵子に話した。

 いまでも、サリーの写真は名刺入れ肌身離さず持ち歩いているんだと
言った。恵子が良かったら写真見せてというので、見せると言い、
綺麗な人と言い、若い時で、さぞかし残念だったでしょうねと言い目に
涙を浮かべた。七郎は嫌みのひとつでも言わないかと、内心どきどきして
いたのだが涙を浮かべたのには驚いた。
 でも七郎さんの様な素敵な男性と結婚して、きっと幸せな人生だったに
違いない、そう言う意味では羨ましいわと続けた。
 この話を聞いていた七郎は恵子のやさしさを知り結婚を決意した。

10話:七郎の再婚2(2006~2009)

 翌月、七郎が、恵子に、元町でも行って、食事して、買い物でも
しようと誘った。食事の場所は、中華街の美味しい店がいいなと七郎が
言い恵子にどこが良いと聞いた。それなら聘珍樓を予約しましょう
と言うので任せると言った。当日はオシャレして出かけた。
 聘珍樓は中華街の真ん中にあり大きな座敷で二人きりで、
運ばれてくる料理を食べた。どれも確かに美味しい。
 恵子が美味しいでしょ、多分、日本で一番美味しい中華料理店だ
と思うわと言い笑った。食事の後は元町で何を買ってくれるのと、
七郎に尋ねるので、それは秘密行ってからのお楽しみと言った。
 意地悪ねと七郎の胸を叩いた。中華街から歩いて橋を渡ると元町商店街。

 七郎がスタージュエリーの前で足を止めて突然入るとビックリした恵子が
、えー宝石!と叫んだ。七郎が結婚指輪だよと言う、涙を浮かべて恵子が
抱き付いてきた。七郎が、ゆっくりとした口調で結婚しようと恵子に言った。
 その時、恵子は、あまりのショックに泣き出した。ひとしきり泣いて、
やっと落ち着いて、ありがとう本当に恵子を選んでくれて、ありがとうと言った。
 これには、冷静な七郎もうっすらと涙が浮かんできた。
店のドアを開けて少し落ち着いた恵子に、結婚指輪を選んで下さいと言った。
 初老の店員が、ほほえみながら結婚指輪をお探しですか、何か、お好みの
ものがありますかと聞いてきた。恵子が特にないのですが、何がおすすめ
ですかと聞いた。すると、お二人の名前を入れたダイヤモンドをちりばめた
結婚指輪なんて素敵じゃないですかと、見本を見せてくれた。
 名前と結婚記念日をいれたものがこれで、こっちは内側に彫ったもので、
外側からは見えませんと説明してくれた。すると、恵子が内側に記念日と
イニシャル入りのこれが良いと思うけど、七郎さんがどうかしらと
聞いてきたので、良いんじゃないと答えた。その指輪を購入する事にした。
 イニシャルは、わかるけど、結婚の予定日は、まだ決めてないだと、
おどけた口調で言うと、みんなで笑った。日取りが決まったら教えて下さい、
そのように彫るようにしますからと言った。お支払いはと言うと、
お渡しの時に頂戴致しますと丁寧に答えてくれた。

 結婚指輪も決まって今晩はホテルニューグランドに泊まっていこうと
七郎が言うと恵子が、それで決まりと叫んだ。
 帰り道、結婚式はニューグランドが良いなと恵子が言い、それで
いつ頃が良いと聞くと暖かい、4月の中旬の日曜。
 これでホテルニューグランドで2008年4月16日の日曜と決まった。
 新婚旅行は4月28日から5月2日の5泊6日で、日本1周、新幹線と
特急電車の旅を計画した。帰りにウチキパンを買った。ホテルに着いて、
フロントで来年、結婚式をしたいといい、まず先にチェックインしたいと
言った。もうこの時間ですとウエディング担当は帰ったので後日、
結婚式の事を伺うと言う事で良いですかと言われウエディング用の
厚いパンフレットを渡してくれた。翌朝、海の見えるレストランで朝食を
とりながら、これで結婚式の事も結婚指輪も決まってめでたしめでたしと
恵子が笑った。明日、電話で、結婚指輪のイニシャルと結婚式の日付を
元町のスタージュエリーに電話しておきますと言った。

 翌週の仕事の休みの土曜日に二人でウエディングの打ち合わせに
来る事にした。土曜日は、あいにくの天気で土砂降りだった。
 そこで車でホテルニューグランドへ、ウエディングの打ち合わせに
向かった。ウエディング担当者と打ち合わせが始まり、人数の話になり
、七郎が、私の方は会社関係社含めても十人だけだと言った。
 すると恵子さんが私の所だけ大勢という訳にはいきませんと
言い出した。ホテルの担当者が一応25名様以上の
ウエディングプランでお願いしていますと話した。
 七郎が恵子さんの方で少なくて悪いが十五人でお願いできない
だろうかと頼んだ。わかりました厳選して15人選びますと言った。
これでウエディングプランが決まり後はドレスとタキシードを
決めて着替えて和装もお願いし終了した。

 帰りに元町のスタージュエリーに立ち寄り結婚指輪を受け取り、
家路を急いだ。数日後、この結婚の話を正式に恵子のお父さん、
山崎仁さんと、お母さん、山崎仁美さんに話しに、実家へ向かった。

実家につくと、山崎仁さんが、あなたが、恵子の勤めている会社の
社長さんの木下七郎さんですか、恵子を何卒宜しくお願いしますと言った。
 七郎が恐縮です。こちらこそ宜しくお願いしますと言った。
 次に、お母さんの木下仁美さんが、わがままな娘ですが、
どうぞ宜しくお願いしますと言った。いえ、仕事のできる素晴らしい
お嬢さんですと答えた。ご両親から、正式に結婚の許可をもらって
安堵する七郎であった。結婚式の日付と場所、その後の新婚旅行の予定。

 訳あって、七郎の親族が少ない事などを話して彼女の実家を後にした。
 やがて12月、クリスマスが終わり、除夜の鐘、また新しい2008年
が始まった。今年は恵子と二人で横浜の伊勢皇大神宮に初詣をして二人の
健康と幸せ結婚がうまくいきますようにとお願いした。

 春めいてきて三月が去り、結婚式の当日、4月16日を迎えて手はず通り
ホテルニューグランドで参列者二十五名で、結婚式と披露宴を行った。

 リチャードの育ての親、リチャードと恵子さんのお父さんが祝辞を
述べてくれた。終了して2008年4月28日から5泊6日、東北から
新潟、名古屋、神戸、博多、出雲大社、広島、岡山、大阪の旅を無事終えた。
 帰ってきて鎌倉のリチャードの家を出て恵子とマンションでも借りようと
考えていたのだが恵子が横浜の家が兄弟達が次々に出たので両親と一緒に
住んでくれないかと言ってきた。七郎は長く独身であり特に断る理由も
見つからないので同居に同意した。

 家の離れが倉庫代わりになっているので改修して2LDKの家として
使う事になった。本宅とは廊下で続いており行き来するのにも便利だった。
 新婚旅行から帰ってきた次の日に恵子のご両親に離れを使わせてもらう
挨拶をして同居を開始した。この年2008年に9月15日についに
アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマンブラザースが経営破綻した。
 負債総額、約六千億ドル(約六十四兆円)という史上最大の倒産に
より世界連鎖的な金融危機を招いた。日経平均株価も大暴落を起こし
9月12日(金曜日)の終値は12214円だったが10月28日には
一時は6995円まで下落し、1982年10月以来の安値を記録した。
 2008年10月3日には、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・
ブッシュが、金融システムに700026億ドルの金銭支援をする
ための法案に署名した。

 2008年に金は高騰して3300円/gとなり2000kgの金を
66億円で売却した。総資産が67億2千万円になった。
 売却後、すぐに、金が急落していき、2008年12月に2400円/g
で4000kgの金を購入した。購入後の資産は2億円となった。

 2009年10月にJAL、日本航空が経営破綻した。
 再建案は、3000億円規模の公的資金の注入や2500億円の
債権放棄などの支援を必要とし、一方、日本航空側にはこうした支援を
受けるため、月に25万円ともいわれる高額な企業年金のカットや、
1万人規模の人員削減の必要性も訴えていた。
 その後、日本航空が再生するまで国営とされた。2009年円高ドル安
の進行が始まった。東北大震災で更に円高、金の高騰が加速した。

11話:リチャードの死と東北大震災(2010~2020)

 2010年1月22日、寒い日、昨年12月から、体調を崩して
東大病院に83歳のリチャードが入院していた。風邪ををこじらせて、
インフルエンザにかかり、肺炎を併発したとの知らせが入り、
七郎は急遽、彼の病室に見舞いに行った。

 マスクを着用して、彼の顔を見ると、青白く、急に老けたような、
生気のない様に見えた。しかし、彼は七郎に精一杯にの笑顔で、
大丈夫だ、じき退院すると強がっていた。
 リチャードが君に話しておきたいことがあるんだが、話すことが
できないので、秘書にメールを送らせるから読んでくれと言った。
七郎は、何と言って良いのかわからず、リチャードの手を握るのだった。
2分位して病室を出るとき、リチャードが小さな声で
「グッド・ラック・Good Luck」と言った様な気が
して永遠の別れが来たと直感した。
 振り返ると我を忘れ、泣き叫びそうになるので、じっと我慢して
静かに病室を後にした。翌日、七郎商会に帰るとメールが入っていたが、
開こうとしてもキーワードを聞いてくるだけだった。そこで昔、
リチャードが教えてくれた秘密の言葉:Good Luckを
打ち込んだ。するとメールが開いた。

 最初に、もし、君が、これを読む時には、私は天に召されている
だろうと買き出しから始まった。僕が君と会ったのは多分、
イエスキリストのお導きがあったのだと思う。
 最初に君を見た時に、すぐに何か、不思議な縁を感じた。
 その後、何のためらいもなく君を自分の息子の様に迎え入れたのだ。

 その数日後、私が酒を飲んで帰宅した晩、君に日本は敗戦国であり
日本を捨てて米国人にならないかと言った時、君は嫌だ日本には優れた文化、
伝統があり、それが大好きだから日本人もままでいると言った。私が本当に
日本は欧米に追いつけるとは思わないと言うと、そんな事はない、日本人の
勤勉さと正直さ結束力で、きっと十~二十年後には追いつくと思うと言った。
 そのために七郎は頑張って勉強していきたいと言い切った。
 その時、正直、頭にきて、金を稼ぐというのは並大抵の努力では、
できる事ではない、すごい相手と闘って勝たなけれならないのだ。
 七郎、お前に、そんな覚悟があるのかと、また、勝てる自信があるのかと、
すごい形相で言ったが、勝てるかどうかわからないが勝つために努力する
覚悟は持っていると開き直った。その時、お前は、俺の後を継げる、
すごい奴だと思った。その時、君を抱き寄せてハグしながら、お前を見ていると
、昔の自分のような気がしてならないと急に涙を流しだ。
 この時、本当の親子になれた気がしたんだ。その後、君は、
僕の本を片っ端から読んで、投資の勝ち方を会得していった。

 サンノゼ州立大学にスカラシップで合格して日本に帰ってきた時は、
見違える程、逞しそうな青年になっていた。本当にうれしかったよ。
 帰国後、君が木下家という由緒正しき家の息子と知って、僕の勘に
間違いなかったとわかった。その後RCH家の経理のデータベース
の更新の仕事を与えた。仕事の内容は、教えていなかったが、多分君の事だから
、経済の大きな変化の時に、ブラックマンデーやリーマンショクの時に
RCHの財産が急に増えた事から、おおよそ、どんな仕事が想像できるだろう。
しかし、僕は、君をRCH家に縛り付ける気はない。君の好きな様に生きて欲しい。
ただ君が僕に与えてくれた、数々の事を考えると、僕は、その歩んできた人生の
価値の分だけの報奨金を渡したいと思う。数日後、君のスイスの
プライベートバンクの口座にその金を振り込んでおくよ。
 君が正しいと思う事に、使ってくれ。そして君が望むなら
RCH家の経理担当の七郎商会をやめても構わない。
本当に長い間、楽しい時間を与えてくれてありがとう、
心から感謝します。これで文面が終わっていた。

 パソコンの画面を見ながら、したたり落ちる涙を拭こうとも
しないで読んでいた。最後に七郎は背筋を伸ばして泣きリチャード
の冥福を祈り黙祷を捧げた。
 翌日、七郎の口座に新たに十億円が振り込まれていた。七郎はリチャード
が予想した様に七郎商会とRCH家との関係を解消する決心をした。

 その旨をRCH家のNY本部に伝えて仕事を終え、その後は日本の製品を
海外に売る貿易の仕事を再開。会社の職員を秘書の恵子だけにして七郎の
給料を貯めたお金から5人の退職金を渡し残りの再就職を世話し退職して
もらった。その後、貿易の仕事を奥さんの恵子に任せて細々と貿易の手伝いを
していく事にした。
昔、七郎もRCH家のメンバーとして政治家、財界人、芸能人ともパイプが
できたので大きなチャリティー組織をつくって日本に大きな募金の和を
作り上げたいと思い2010年8月に七郎基金を1億円で立ち上げた。
 そしてリチャードのいないクリスマスを過ごし2011年を迎えた。

12話:東日本大震災被災者への寄付と募金活動1(2011~2013)

 ところが2011年3月11日、午後2時47分に東北の太平洋で
マグニチュード9という途方もない大きさの大地震が起きた。
 仙台で震度6強、東北の太平洋岸では大きな津波が襲い、
 多数の死傷者を出す大惨事となり、首都東京でも、電車が全線不通で、
 徒歩で数時間かけて自宅に帰る人達の大行進。関東地方でも電気、
 ガス、水道が止まり大騒ぎとなった。その後3月17日の
 東京電力福島第一原子炉のメルトダウンが起きた。

 その時はショックのあまり茫然自失という大人、子供達が多く、
 特に関東以北の人達は大きなショックを受けた。
 七郎も例外ではなく事務所を置いているビルも大きく揺れて
停電し慌てた。しかし、リチャードが非常のために三日分の食料
と水をロッカー中に常備しておく様に言われたのが役だった。
 家に戻れないので七郎はソファーに電気毛布を掛けて寝た。 
 女性達も別室でソファーに電気毛布を掛けて寝た。男性陣は、
机にもたれて寝たり床に段ボールをしいて寝たりしてすごした。
 翌日から、ガス、水道、電気が復旧し家にも帰れる様になった。

 2011年夏に震災孤児1698人の進学のために1億円の募金をし、
顔見知りの財界、芸能界、米国の財閥、富裕層にも会い寄付を募った。
インターネットでも募金を要請した。RCH家の関連の米国の富豪達にも
この事を知らせた。日本での募金活動で十億円、米国から1千万ドル
(10億円)の合計二十億円の基金となり東北へ送った。
 2012年に新たに14億円が集まり、その年七郎が10億円の募金を
して七郎基金で合計24億円を寄付した。この事件を機に七郎は、自分の
歩んできた道が本当に良かったのか、また正しかったのか振り返る時間が
もてた。2011年で58歳を迎え、普通は、あと2年で定年を迎える。
 確かに、金銭的にも、対人関係でも、今までは、恵まれた人生だった。
 お金もでき、地位も、仕事も、名誉も手に入れた。しかし、自分で勝ち取った
ものは、何一つなく、全部、家族、友人のおかげだったことに気づいた。
 つまり、与えられてきた人生であり、自分の足で切り開いたとはいえない。
 この事に気づいて、七郎は、数日間は呆然とした。自分の手で何かしたい。
 何かしなければいけない、そうでなければ、生きている意味がどこに
あるのだと、悩みはじめた。

 数日後、いつもの様に運動のため散歩をしていた時、とある寺に足を止めた。
入り口に、毎週日曜日、無料座禅教室を開いているので、お気軽に
ご参加下さいと書いてあった。これだと思い、寺の事務所で入会した。
翌週の日曜、最初の座禅、座る生活をしていないので、旨く座禅が
組めない。見かねて、お坊さんが、座布団を持ってきて、何とか、
座禅を開始できた。座禅し始めてすぐ、頭の中から何かが抜けていく様な
、不思議な感じ、しかし、嫌な感じと言うよりも、爽快感さえ感じた。
 座禅終了後、お坊さんが座禅の第一歩は雑念を捨て無の境地を
感じる事ですと教えてくれた。静かな感じ、爽快な感じを体感して
下さいと言った。その後、参加者から、いろんな質問とお坊さんから
の話があり1時間ほどで終了した。七郎は、座禅は苦しかったり、
痛かったりするんだろうなと予想していたが、反対に爽快感を感じ
、何か奥深ささえ感じた。その後、毎週、座禅に通い、3ヶ月後
には、お坊さんの言う「無我の境地」を、ぼんやりとだが、
感じることができるようになっていた。
 そして、日頃の悩み、自分は一体何をしてきたんだろう、今後何を
していったら良いんだろうかという質問をした所、与えられた人生を
過ごしてきたと思うおもうなら、今度は人に与える人生をすべきであり、
その方法は自分自身で考えなさいと言われた。

 新聞で東日本大震災で親をなくした子供の数1698人と言う記事を
見て木下七郎は心が痛んだ。自分も飛行機事故で一瞬にして家族4人を
なくしたことが思い出され東北大震災で親を亡くした孤児達を
自分の稼いできた、お金で助け様と思いついた。知り合いの芸能人
のチャリティー・ショーなど年に4回行い収益金を全部、東北大震災の
孤児のために送った。
 その後、金地金の価格が勢いよく上昇してきた。
 2012年年末に、また、金が急上昇し、5000円/gを
越えそうな勢いだったので持っている金地金を5000円/gで
3000kgをで売却して150億円を得た。
 その時の総資産が154億円2千万円となった。
 2011年1億円と、2012年の10億円、この時点で2013年
七郎基金に10億円寄付したので合計金額21億円、約130億円
となった。七郎は毎年、四月に一億円ずつ寄付を継続することを決めた。
それでも一人では使い切れない金額なので、うまく使う方法を考えよう思った。

13話:社会福祉事業開始1(2014~2020)

 この頃から老人の生活保護増加、子供の保育園、幼稚園不足、
子供の貧困、シングルマザーの貧困と、その子供の教育の機会が
奪われるという事が、社会問題化してきた。そこで、七郎は自分のお金で、
大きなビルを建てて、1階を保育施設と調理室にして、2階を小学生、
中学生、高校生の学習室にして3階をお金はないが元気なお年寄りの
集会場にしようと考え始めた。その為、東北大震災の募金活動から
1旦、身を引く決心をした。早速、七郎の父ので友人の山下真一さんの
息子さんの山下洋一さんを思い出して、相談にのってもらう事にした。

 話を始めて十分の資産ができたので金銭的に恵まれないシングルマザー
、学生、高齢者を助けるような社会福祉をしたいと打ち明けた。
 そこで、関東で都心まで1時間以内の所に3階建てのビルを建てたい
と思っているんだが、土地、建物に詳しい人を紹介して欲しいとお願いした。
すると山下洋一さんもが、三保太郎と言う学生時代の友人がKG建設で
老人ホームなどの施設をつくっているので紹介してくれると言ってくれた。
彼と連絡して、都合の良い日時と場所が決まったら、七郎に電話して
くれることを約束してくれた。数日後の電話で来週の火曜日に、
池袋駅近くの喫茶店で、午後5時に会う事になった。
 大きな喫茶店で隅の方に山下洋一さんがこっちと合図してくれた。
 七郎が七両商会の名刺を渡し、三保さんがKG建設、建設1課、
課長の名刺をくれた。三保さんが、関東1円でマンション、事業用の
ビルを建設していますと言った。そこで七郎が社会福祉的な目的で
3階建てのビルを都心から電車で1時間以内の場所を考えていると伝えた。
 三保さんが、社会福祉とは、具体的に、どんな事ですかときくので、
貧困のシングルマザーの子供を預かり、働き易くして上げる事。
 金銭的に恵まれない学生のための寮、高齢者の集会場を考えていると、
言うと、3つのことを1人でやるんですか?、パートナーとか、
共同事業者はいないのですかと聞いてきた。1人ですというと、
笑いながら、はっきり言って無茶です。多分できないでしょう。
 そして、あなた自身が参ってしましますよと言った。失礼ながら
福祉関係の仕事の経験ないでょうと言った。ええ、ないですと、答えると、
それなら、なおのこと、無理です。失礼な言い方かも知れませんが、
お金持ちの慈善事業ごっこだったら、悪いことは言わないから、
やめた方がいいと、真剣な顔でいったので、七郎は驚いてしまった。

 三保さんが、七郎に一番やりたい事は何ですかとたずねた。苦学生の
ための、寮ですと言うと、それだけなら可能ですと言った。
 シングルマザーは女性であり、個性が強い人が多いし、第1、子供を
預かって何かあったときの責任はどうするんですか?
 高齢者の集会場なんで、彼らで勝手に探しますよと笑った。

 七郎が自分が6歳の時に家族全員が飛行機事故で亡くなったこと、
 その時の焦燥感、1人で食べていけないと言う不安などを話した所、
三保さんが、そんな辛い経験をなさったんですか、知らないで、
言い過ぎましたと言った。三保さんが、恵まれない学生の寮と食事の
提供をしてあげたらどうですかと言った。つまり、貧困シングルマザー
、高齢者のために簡単なもの具入りのおにぎりと、味噌汁パックでも
良いから、作ってあげたらどうですかと言った。
そして、苦学生には、同じビルで家庭教師または、
塾の講師をして、自分で稼ぐ道を開いて上げたらと言った。
 つまり、苦学生と食事提供の2つなら、実現可能だと思いますよと
言ってくれた。三保さんが、そう言う事なら、コストコに近くて、
地価の安いところで、都心まで1時間以内ですねと言い、スマホで、
調べてくれた。埼玉県入間市なんてどうですかと言った。快速で池袋まで
40分、山手線の駅まで1時間。どうですかと言った。

 それに対して七郎は、わからないので、お任せしますと言った。
 土地建物でどの位しますかとたずねた。土地273坪、建物817坪
(30m*30m)で、社会福祉と言う事で役所の市街化調整区域での
建築許可を取るとして坪5-10万円、8万円として2184万円、
建物817坪で8億円、室内水回り、エレベーターで5千万円、
約8億5千万円くらいかなと言った。
三保さんが、こういう福祉施設は珍しいから、施設が動き出したら、
マスコミや、建設業界に発表して、取材しないかと言っても面白いかもね
と言った。また、備品(勉強机・椅子、ベッド、パソコン、ガスレンジメーカー
、電機メーカー(冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、電気ポット)、食器メーカー
、文房具メーカー、トイレ、自動車メーカーリース業界などに話して、
協賛依頼して無料で提供してもらうなんてアイディもいいんじゃないかと
思うと言ってくれた。夢と想像ばかりでは駄目なので、実際に。三保さんが
、うちで、建設を任せてくれるという条件で、場所を探してきますと
いってくれた。その後、途中経過を写真入りのメールで逐次、送ってくれた。
入間市の市役所で相談した結果、市でも協力してくれると言ってくれ、
地元の大きな農家で、いろんな仕事をしている木元一郎さんを紹介してくれ
、道に面した農地を提供しても良いと言ってくれた、土地の広さは、
約300坪で、十分な広さであり、畑だったところなので、整地もしやすい
と報告してくれた。

入間駅、武蔵藤沢駅、コストコまで車で5-10分、自転車でも15分の
所で便利。1-1.5万/坪であり、300万円で良いと言う事になった。
 電気、都市ガス、水道の引き込み費用が300万円、地盤改良、
アスファルト、外構工事で600万円、全部で1200万円。
三保さんが、ここは日当たりも、水はけも良い場所で、ここにしましょう
と言ったくらい、おすすめの場所らしい。

 そこで、お礼、挨拶かたがた入間の木元一郎と、紹介してくれた、
 市役所の関係者に挨拶に出かける事にした。数日後、三保さんが
迎えに来てくれて、まず、菓子折と持参で、木元一郎さんの家を
たずねた。木元さんも、恐縮して、わざわざ、悪いねと言い、七郎に、
あんた恵まれない人のために、大金はたいて偉いねと言ってくれた。
 こっちに来て、また、何かあったら、相談に来てよ、できるだけ
協力するからと言い握手をしてくれた。その後、市役所へ、行き、
今後の計画などを話した。恵まれない人達に対しての事業は、
市としても誇らしいし、広報やインターネットで宣伝する、つもりだよと
、市としても誇らしいと言ってくれた。
 最後に、市長室へ案内されて、市長と握手し、ご挨拶した。

 帰りに入間駅、武蔵藤沢駅、コストコまで車で回ってみたが確かに近い。
 学生が自転車で駅まで行くのも早くて便利だと思われた。
 数日後、三保さんから、正式な工事の図面、工期などについて、
詳しく説明してもらった。できるだけ早く、着工して、工期は建物だけで
6ケ月、機材、搬入、エレベータ、駐車場などで1ケ月の7ヶ月かかる様だ。
土地の支払い、役所への申請の方も含めて、全て、三保さんの会社で
やってくれるそうで助かった。土地が300坪で、建物3Fで延べ床面積272坪
で3億円。土地の値段300万円、電気ガス水道引き込み、300万円、地盤改良
、アスファルト、外構工事で600万円、その他予備費100万円の
合計1300万円を会わせると3.13億円と言う事で決まった。
七郎は契約を交わして、その日のうちに、三保さんのKG建設へ振り込んだ。

14話:格安、学生寮の建設1(2014~2020)

 寮の備品としてエアコン、机椅子、ベッド、布団28個分で、
300万円、調理室の調理器具で300万円、送迎用の10人乗りの
中古ワゴン2台で400万円、全ての総合計で3.25億円となった。
七郎は七郎商会に戻って、数日後から、インターネットを通じて
、今年の秋、10月から入居可能な、格安の学生寮の募集
(1室、15m2:3万円/月)を開始し始めた。入居募集には、
高校の成績表と合格した大学名、入居希望動機と、両親の年収を
書くようにした。すると、男14室、女14室の募集に対して、
1週間で100名(男女比、約半々)からの応募があった。応募が
あまりに多いので1ケ月で応募打ち切る事にした。
 応募用紙から、両親の年収と成績表、合格した大学名、希望動機を
見て、個性的で将来のビジョンを持った学生を中心に選択していった。
 1ヶ月で1000名(男女比、約半々)も応募が来た。そこで、
 優秀そうな学生を選んで、少数精鋭方式で選ぶ事にした。

 その他には、木元さんに電話して地元で、料理経験のある人を募集
 したいので、探すのを手伝って欲しいと伝えた。わかりました、期間はと
言うので7ヶ月間というと、それだけあれば、探せるかも知れないと言った。
 6月を迎える頃には、入居の学生の選択も決まって通知した。中には、
ご両親から感謝の手紙も多く含まれた。梅雨になり、あけると、暑い夏、
工事現場に、冷たいものを持参で出かけた。ビルの外観がほぼ完成して、
実際に見てみると大きな建物でビックリした。現場監督が、順調に仕事が
進んでいて、今年は、建設会社もそれ程、忙しくないので10月には完成する
可能性が高いと話してくれた。もう少しでビルが完成、その後、全員でビル
の外構と、一緒にアスファルトで駐車場をつくる。部屋や簡単な間仕切りなので
、簡単、水回り、電気関係、エレベータ会社の連中も、ビルができ次第
、一斉に工事にかかれるようだと言っていた。

 10月初旬に、入間の木元さんの所へ行き、ビルの2,3階の男女の
学生28人が決定した事、1階の調理室で、できるだけ多くの食事を提供する事、
その時に、この地のシングルマザーを中心とした恵まれない女性達に手伝ってもらうこと
を提案した。女性達が働いている間は、1階の遊戯室で、お母さんが働いている間、
子供達の面倒を見てくれる女性を雇い、少しでも多くの給料を出したいと言った。
確かに、貧困のお母さん達がこの地域でも問題になっているので、それは
、助かると言ってくれた。

 もう一つ、料理人の件を聞くと、見つけたよと言い24歳で、今、修行中の
料理屋の息子、鈴木良三さん、専門学校を出て栄養士と衛生管理者の資格を
取得したそうだ。将来は実家の料理屋を継ぐつもりらしいが、それまで、
手伝ってくれるという。七郎さんが来るというので、今晩、彼の実家の料理屋
で会う手はずになっていると言った。
 夜6時に料理屋に着き、食事をして、終わったときに、修行中の料理屋
のご主人と息子の鈴木良三さんがやってきた。がっちりとした体格の好青年と
いった感じだった。木元さんにお礼を言って失礼した。
 涼しい風が吹き出した2013年10月下旬、遂に、地上3階建ての学生寮が
完成した。11月10日に入居できる事を入居予定の学生達に通知した。
 11月1日(大安)に工事完成の地鎮祭を行い、木元さんや鈴木良三さん、
役場の関係者をお呼びして、執り行った。
 近くの人が来られていたので、この施設のパンフレットを渡した。
 その後、前途を祝して、餅まきみたいに、せんべい、お菓子、チョコレート、
まんじゅうなどをまいて終了した。

 11月10日の10時前に鈴木良三さんが既に来ていて、調理器具、
電化製品の具合などをチェックした。その後、七郎が来たときに、挨拶後、
衛生管理者の看板をどこにつけるか聞かれ、調理室の入り口のよく見えるところに
、貼ることにした。今日の昼飯はどうしますかと聞かれたので、簡単なもの
でいいよと言うと、具入りのおむすびと、寿司めしをいれたいなり寿司でも
つくりますかと言われたので、それで十分と答えた。
 一応、味噌汁もつくっておきますと言い、スチロール食器も用意しますと
言ってくれた。長テーブルと折りたたみ椅子と白いシーツは、1階の倉庫に
入っていますから、宜しくと言っておいた。すると、すぐ、車で、彼女と思われる
、美人さんと買い出しに出かけた。少しして帰ってきて、2人で料理の用意を始めた。
 木元さんや建設会社の職員と三保さんと山下洋一さんが11時に手伝いに来てくれた。
そこで、倉庫に入っている、長テーブルと折りたたみ椅子で、2つの大きなテーブルを
作ってもらった。11月10日のお昼の開場の時間には入居学生の名前と部屋番号を
、入り口近くの壁に貼りだした。それを見て続々と2階の男子寮と3階の女子寮に
わかれて入っていった。その後、七郎と三保さんと山下洋一さんが、具入りの
おにぎりと、ちらし寿司いりのおいなりさんを大きな皿に載せてテー部の方へ
運んできた。すぐあとに、味噌汁の入った大きな鍋2つを持ってきた。
 ウーロン茶や紅茶、お茶などをおいて、ご自由に食べて下さいと、
 大きな声で知らせ回った。開場してから30分位して、一通り、
 手が空いた人から、順番にテーブルに着き、食事を取った。

 そのあとで簡単な自己紹介をしてもらう事にした。学生は、ほとんどが
、東北、北海道、九州、四国、山陰、山口など、地方出身者が多い。
 自己紹介が終わったあと七郎が、学生寮のみなさんに、学生生活に
なれた後から、地元の中学、高校生の家庭教師を斡旋したいと思って
いますので、自転車や本やどの購入や、見聞を広めるための国内、
海外旅行に使ってもらいたいと考えていると話した。
 学生からは、是非宜しくお願いしますとの声が上がった。
その他、食事も安く提供しますので、利用して下さいと伝えた。
今日も、おにぎりと、お稲荷さんと味噌汁のサービスがありますので
食べていって下さいと言った。次に料理担当の鈴木良三さんが、頑張って、
手軽で、うまい料理を提供しますので宜しくと言った。

 学生達からは拍手があがった。その後、木元さんが地元で農家をしている
木元です、何か困った事や悩み事があれば、すぐ近くに住んでいるから、
相談にのるよと挨拶した。学生達からも、宜しくお願いしますとの挨拶があった。
 最後に、学生寮の中の備品で問題あったりしたら、いつも来ている、
料理人の鈴木良三さんか、私、木下七郎に電話して下さいと言った。
 七郎が週に1回くらいは、顔を出すつもりですので宜しくと言って、話し合い
は終了した。その後、みんなで食事を残さず、全部平らげ、開所式が終了した。

15話:格安、学生寮の活動開始(2014~2020)

 その後、七郎は、鈴木良三さんに、口座を教えてもらい、
購入予定品の概略と購入後に、レシートをA4の紙に貼り付けて、
スマホの写真にして、メールを送ってくれるように言った。
 その他、必要な調理器具、道具があれば、気軽に言って欲しいと伝えた。
 また、食料品は、近くのコストコで、大きな冷蔵庫に保存して、使って
欲しいと言った。地元の木元さんに言って、農家から直接、米30kg単位
で購入するように話しておいた。インターネットも通じたようで、
大きな問題はなかった。ただ、学生さんの自転車が多くなれた、自転車用の
屋根付きの車庫も必要かも知れないのと、送迎用の10人乗りのワゴンも1台、
用意した方が良いかも知れないと言われた。七郎は、28人、入るから、
10人乗りワゴン2台、揃える事にした。

 帰る前に、鈴木良三さんに、お手伝いの女性が何人ぐらい必要かと聞くと、
3-5人位、欲しいと言った。できたら、業務量の16L用大型の圧力鍋
(2.2升炊き)と水圧洗米機が必要になるといった。
 予算を聞くと20万円くらいと言われた。そこで、まず、100万円を
鈴木さんの口座に入金すると約束した。
 それから、朝早く、食堂のテーブルをセットするためには、男性の力が
いるので管理人さんを2人欲しいと言われた。木元さんに、シングルマザーで、
炊事の手伝いをしてくれる人を5人と、お母さんが仕事をしている間、
見てくれる人を2人世話して欲しいといった。もちろん有償ボランティアと
言うことで、半日で2千円と食事、全日で4千円と食事の条件。
 炊事の手伝いも同じ値段で、ただし、シングルマザーには子供の分
まで含めて、3食分の食事を作るという条件でどうかとと聞くと、
子供の世話は、元気なばあさんにお願いして、食事と果物、お茶をつけて
、半日千円、全日2千円でOK。その分、シングルマザーは、常勤で
手伝いなら15万円、パートなら5千円/日で、家族全員の3食分の食事付き
にして欲しいと言われ了解した。

 その他、管理人さんとして常時、男性2人欲しいと言った。
 例えば、朝7時から夜7時まで2人、当直専門の1人(夜7時から朝7時まで)
を1人、報酬は、昼間2千円、当直は4千円で食事付きでお願いしたいと伝えた。
 至急、探しますと、言ってくれた。七郎が、多分、まだ足らない事があると
思いますので、わかり次第、木元さんへ電話させていただきますので協力
お願いしますと言った。そのうち、木元さんが、七郎に、こんな、
大盤振る舞いして、本当にやっていけるのかと聞いてきた。
 七郎が、なんとかしますから大丈夫と言い。木元さんが、本当に
継続して、お願いしますよと笑った。翌週から、木元さんから電話で
管理人さんと、宿直の男性と調理手伝いのシングルマザーが揃った。
 彼女らは3人が土日休みで常勤勤務。3人が、週2日、土日のみ勤務。
 週に2回、前日勤務できる人が5人揃った。子供の面倒見る、
高齢の女性は10人、地元の老人会のボアランティアでやってくれる
ことになった。

鈴木良三さんが、仕事の手順を書いたマニュアルを作成し拡大コピーして
壁に貼った。朝、最初に来たら、計量カップで、米40杯(4升)を水圧洗米機に
投入して、水を流しながら、機械のスイッチをいれて、2-3分で、
米が研ぎあがるので、それを取り出して、2等分して、大きな容器に
入れて水を入れて10分、水に浸しておく、その後水を切って、
2つの大型の圧力鍋に入れて、炊飯開始、65分で炊きあがる、蒸らしてから
、大きなへらで全体を器量に混ぜ、蓋を少しあけて5分、水分をとばすと
、美味しい御飯ができあがる。その1時間10分の間に、手分けして、
おかずの材料を切って、フライパンで炒めたりする。
 野菜類は、スライサーを使い、短時間のうちに切るようにして時短調理を
徹底する。朝食時には卵料理を24個を手際よく焼く。野菜炒め、
ソーセージなど肉類、味噌汁も大鍋で一気に調理する。その他、お湯は5Lの
大きなヤカンで沸かし、5Lの大きなポットにいれて、即席の珈琲、
紅茶、砂糖をつかい、学生さんに自分たちでいれるようにしてもらう。

食器類も大テーブルに、数カ所づつに分けて、自分で取って、御飯、
味噌汁を茶碗に、おかずを皿に、取ってもらうよう、ほとんど
セルフサービスとして短時間に朝食を済ませるようにしてもらう事にした。
 翌日から、実際に学生寮の運用を始めて見ると、いろんな問題が発生した。
 まず、調理の作業が朝に、朝食と昼食の弁当とつくるが、大変で、
継続していけないかもしれないと、鈴木良三さんに言われた。
 対策として、昼食を安く一括して、弁当屋に頼むか、学生が各自で
自分で済ましてもらうかどちらか、しかないと言うのだ。
 そこで、七郎が、学生が自分で昼食を済ましてもらうようにする事にした。
 朝食と夕食だけなら、何とかやっていけると言った。また、食料はコストコ
とイオンで調達するが、お金の精算が面倒なので、七郎の方で、クレジットカード
を作って、自動的に処理できるようにして欲しいと言ったので、
早速クレジットカードを作り、渡す事にした。

 その他、学生さん以外の方の食事は、冷蔵庫の中に、御飯とおかず、近くに
、弁当容器、食器、箸など、おいておくので、セルフサービスでお願いしたい
と言われたので、わかり易く、貼っておきますと答えた。数日後、鈴木良三さんから
、電話で、朝と午後に、4升ずつの米で、御飯として13.5kg、1日で27kg
、米の12kg/日でまかなえる。米30kg袋で2日、週に90kg、
月に400kg(食べる事になる。すごい量だ。木元さんにも電話して、
農協に、納入を切らさない事とクレジットカードでの支払いを頼んで
みると言った。ガソリンから車検、ほとんど全てクレジットカード支払いに
して、その請求書を取る事にした。食料代70-80万円かかりそうだ。

経費が3千万円/年は、かかりそうだ。翌週にKG建設の三保さん
と山下洋一さんから、電話が入った。三保さんが、KG建設に掛け合って
、企業CMに、この学生寮を使ってくれることが決定したと連絡してくれた。
TVとネットCMで合計2千万円/年。この朗報を聞いて、七郎は、
小躍りして喜んだ。三保さんと、施設代表の木下七郎など、関係者全員の
協力して善意の輪というイメージでCMを流したいそうであり、
朝の調理風景や、シングルマザーの働いてる姿、その子供の面倒見てる
、おばあさん、勉強している学生の姿、食事風景、学校へ出かける風景
など、多くのカットを取りますので、協力をしてくれるように言われた。

 もちろん、大歓迎だと七郎が言った。3日後、学生寮で朝10時に
、CM会社の人間と三保さんが来て、撮影の打ち合わせをする事になった。
 山下洋一さんからは、我が社、M商事の上層部にCM協力をお願いしたが、
会社のイメージアップになりそうなので好反応だったとの報告。
 詳細は決まり次第連絡すると言ってくれた。

 その他、自分の知り合いの食品メーカーにもCM依頼していて、
好反応な会社が数社あると言った。また、コストコとイオンをメインに食品を
購入しているというのでコストコとイオンの本社とも掛け合っている様だ。
 また、学生寮の車の関係で大手自動車メーカー3社と、リース会社に、
学生が使う自転車の大手メーカーと小売店にも話をいれておいたと言った。
 七郎は、彼らの迅速な行動に、感謝と共に大きな感動をもらった。
 山下洋一さんから、ブリヂストンからシティサイクルを28台無料の
モニターとして、アンケート提出していただくが、メンテナンス
もしていくと言う条件で無料で貸していただけることになった。

その他、日本最大のパンメーカーからも、取りに行くという条件付きで、
食パンを無料でもらえると言われた。イオンからは持っているイオンカードの
ワオンポイントを常時、特別に3倍につける条件提供してもらった。

そして、M商事からは、学生寮の日常の生活をCMにして、
TVとネットCMで合計2千万円/年の契約をしてもらった。

16話:学生寮のテレビと海外からの取材(2014~2020)

 学生寮のオープンから1ヶ月後、地元の埼玉テレビが取材に来た。
 その翌月、NHKから、取材の要請を受けて、学生寮の学生に取材しない
とい言う理由で了解した。調理室に働きに来ているシングルマザーの話を
取材したり、料理長の鈴木良三さん、地元の協力者の木元さんが協力者
になった理由、開設者の七郎が開設した理由。山下洋一さん、三保さんが
協力した理由などを取材していった。翌週のNHK特集で、この施設の事が
放送され、七郎が自費を投じて開設した、貧困学生、シングルマザーのための
施設で、それをバックアップした、地元の方々、木元さん、鈴木良三さん、
友人の山下洋一さん、建設に携わった三保さんのスポンサー探しなどを
衝撃的な内容にして、全国に流したので、放送後、見学したいとか、
寄付したいとか、多くの電話がかかってきた。

 見学を人手不足を理由に断り寄付については、インターネットにサイト
を立ち上げている所なので少し待ってもらうようにお願いした。
 中傷じみた電話もかなりあった。2013年12月。クリスマスを迎えて
、2014年の幕が開けた。

 2014年も仕事始めの1月5日を過ぎた頃、七郎に対して、生い立ちや
資金を作るまでのストーリーをテレビ映画にして、放送したいので取材したい
と日本最大の有料衛星放送の企業からの電話があった。これに対しては、
個人の人権が侵害される恐れがあるので、丁重にお断りした。
 その後、七郎の美談をゴーストライター書いてもらい、本にして発売したい
から取材したいという申し出があり、お断りした。

 インターネットに「入間の里」というサイトをホームページを開設して、
寄付金の受け入れ先をYahooに言って、開設してもらい、寄付金が
入るようになった。もちろん、寄付者には学生寮での費用をエクセルを使い
収支を見える様にした。寄付金は100円単位で、Tポイントなど各種ポイント
、各種クレジットカード払いもOKにした。寄付額は1口、1回、最大1万円まで
として、広く浅くお願いするようにしていった。
 それでも、月あたり、多いときは百万円以上集まり、非常に助かった。

 不定期で学生寮ニュースとして、この施設での出来事を書く様にしていくと
、寄付者からの投稿も来るようになった。その後、週刊誌で、七郎の過去を
暴こうとの動きがあったがなかなか確証が取れなかったようで、2014年も
12月を迎えマスコミの熱い取材攻勢の日々が過ぎていった。2015年となり
「入間の里」の事も完全に忘れ去られていった。開設一年間は、企業の寄付金や
、物での寄付で、かなり助かったが、翌年からは、継続してくれるパン屋さん
と2社の広告料だけになり、2年目から、費用がかさむようになった。

 今後は、「入間の里」のサイトを通じて、長くバックアップしてくれる
人達を増やして、寄付金を継続してもらうようにお願いしていこうと思う
七郎だった。ただ、七郎は仕事とプライベートは完全に分離したいタイプ
の人間で奥さんの恵子さんは、この件に関して一切の手伝いは無用と言って
、手伝わせなかった。2015年秋にに、9月に米国と、10月にタイから
、七郎の方に取材の要請が入った。米国からはコストコ本部で、素晴らしい
ボランティア活動にコストコ製品が使われていると、聞いて、話を聞きたい
というので、取材要請と受けた。

 その後は、「入間の里」のサイトに米国人から英語で多数のコメント来る
様になり、米ドルで寄付申し込みがあったが日本円でないとできない
と米ドルでの寄付は断った。それでも、米国からの寄付金が増えてきた。
 次に、タイからの取材要請は、日本は仏教大国で、仏教の国のタイでは、
こう言う慈善事業を参考にしたいと言い、財閥の若手が見学に来た。
 学生達への個人的な取材は禁止として、それ以外なら了解。
 言葉は、タイ語は禁止で、英語が日本語での質疑応答ならOKと答えた。
 11月に米国からコストコ本部の4名が来た。コストコのどこが良いか
、聞いてきたので、易くて、大量で品質が良く、ガソリンも買えるし
、全部カードが使えると答えた。訪問団の団長が笑いながら、今、
言ったことが我が社の一番の売りなんだと笑いながら言った。

七郎が流暢な英語で質疑応答をするのに、驚いて、米国に留学した事
あるのと聞いてきたので、もちろん「オフ・コース」というと、
大学はと聞かれ、サンノゼ州立大学の電気工学科に、スカラシップで
入学したと答えた。すると、七郎の事に話題が向かいそうになったので、
これ以上は秘密とウインクした。ジョークも良いねと笑い声が上がった。
 訪問してきた全メンバー4人と固い握手とした。帰り際に、訪問団の
団長さんが名刺をくれ、コストコのメンバーカードと、クレジットカード
の番号を教えてくれと言うので、理由を聞くと、クレジットのポイント
を常時3倍する事と、年に数回、無料でコストコ製品をプレゼントする
からと言ってくれた。

 この申し出には驚いて、軽く団長さんをハグした。みなさん、満面笑みで
帰っていった。その2週間後、タイの訪問団が訪れた、タイの財閥の
若手メンバー5人がやってきた。訪問の目的を七郎が尋ねると、団長
と思しき人が、今後、タイでも、貧しい若者や女性を助けるための福祉施設を
つくりたいと思っているので、この施設を参考にしたいと言った。
 七郎が英語で、質問応答が先か、施設見学が先が良いか聞いた聞くと、
見学が先というので、10時過ぎで、学生は1人もいないので、部屋を
一部見せた。すると、コンパクトだが機能的に机椅子、ベッド、エアコン
が揃っていて快適そうだと、感想を述べていた。

 次に、料理長に調理室を案内してもらつと、大きな圧力鍋と、米の洗浄機
を見て、日本の技術は素晴らしいと言い、何人で食事を作っているのか聞かれ
、料理長以外に女性3-4人でやっているというと、すごい、効率的だと
驚いていた。野菜を切るための大型のスライサーを見て、これ便利そうで
良いね、1つもらいたいくらいだと言い笑っていた。写真を撮って持ち帰る
のはOKだよと七郎がジョークを言うと、かなり受けたようで
、笑い声が上がった。

 その後、質疑応答が始まり七郎が何故、こんな大規模な施設を慈善事業として
始めたのかという本質的な質問には、ちょっと困って、おもむろに、私が、神様
から多くの幸運をもらったから、そのおっそ分けをしないといけないと思った
からだと言うと、君は仏教徒か言われ、残念ながらクリスチャンですと答えた。

 信心深いのかというので、そうでもない、キリストよりも奥さんの方
を信じるというと、また、笑い声が上がった。ジョークのセンスが良いが、
もしかして海外留学したのかと聞かれ、米国の大学で4年間、学んだと答えた。

 最後に、タイで同じ様な施設をつくりたいのだが一番大事な事は何かと聞かれ
、継続する事。その為には自分のマインド(気持ち)を制御して、平常心で
いる事。こう言う活動に一般市民を寄付とか、手伝い、ボランティア活動に
巻き込んでいく事、大衆を導いていくこと、この2つを大事にしている
と言うと、団長と思しき人が、近くに来て、肩を叩いて握手を求めて
きて次々と全員と握手して終了した。
 また、わからないことがあれば、メールで教えてよと言うので、
メールアドレスと、「入間の里」のホームページを教えた。

17話:旧友からの支援と義理の父の心筋梗塞(2014~2020)

 2015年2月1日に七郎に、ティム・RSCと言う名前でメールが
届いていた。昔世話になったリチャードの息子のティムからだった。
 ティムとは、彼が、アメリカの東海岸のニューヨークで働き出してから、
全く、音信不通だった。風の便りでは、RSC家の仕事をして、
ロービイスト(圧力団体、スポンサー)という政治家・団体を動かす
仕事をしていると聞いていた。いま、アメリカ支部のバイス・プレジデント
(副社長)No2に上り詰めたと書いてあった。

 七郎の事は、コストコが日本の慈善団体の学生寮を訪ねたという小さな
ニュースで知ったという。あまりの懐かしさにメールを送ったそうだ。
 そこで、継続的に寄付活動をして上げたいと思っていると書いてあった。
ついては、寄付したときの入金明細書と七郎の活動団体のサインが欲しいと
書いてあり了解した。どの位の金額を送ったら、不自然にならずに都合が良いかと
尋ねてあった。そこで、寄付の送り先を、団体と、ティム個人と2口に分けて、
月1万ドルずつ、七郎の慈善団体の口座に入金して欲しいと書いて返信した。
  翌日、ティムから了解、今月から送ると書いてあった。
 おもわぬスポンサーがついて天国のリチャードにお礼を言った。
 数日後、奥さんの恵子さんの紹介かたがた、リチャードの息子のティムに
助けてもらうお礼を報告した。この日は曇っていたが、お参りをした直後、
一瞬、雲ががきれて太陽が、七郎と奥さん頭上に咲いたのだった。
 まるで、リチャードが微笑み掛けた気がした。

 七郎は、運が向いてきたぞと、明日からの活動に、力がわいてきた。
 この出来事をティムへのメールに書いた。また、七郎の財産でスイスの
プライベートバンクに口座を開き、ファンドで運用したいと書いた。
返信で1万ドル以上ならOKと書いてあったので、後日、送金予定額が
決まったらメールすると書いた。

 2016年2月12日、全財産の残金が130億円76%の100億円を
米ドルに両替した約9900万ドルを送るとティムにメールを送った。
 この9900万ドルを投資ファンドで運用にすることにした。
 その残りの30億円を「入間の里」の運営資金に充てようと考えたのだ。
 実際の費用は、給料総額が1200万円、食費1000万円、
電気ガス水道200万円、含め2900-3000万円程度。

 学生寮が1段落した頃4月12日、七郎の女房、恵子さんのお父さんが
山崎仁さんが心筋梗塞で倒れたとの連絡が入り、入院先のKU病院に
お見舞いに行った。恵子が病室で待っていて、父と母が散歩している時に
、急にお父さんが胸の痛みを訴えて倒れ、近くにいた学生さんが、すぐ
救急車を呼んでくれ、病院に担ぎ込まれて、緊急手術で命を取り留めた様だ。

 おかあさんは、口もきけないほど憔悴しきっていたというのだ。
 病室でも窓の外の一点を見つめる様に、ただ、黙っているだけだった。
 お父さんの方は、すっかり意識をもどしていた。むしろ、疲れ切った、
恵子さんのお母さんを心配して、七郎君、妻をタクシーで送っていって
くれと言うのだった。そこで、少しして、恵子とお母さんと3人で実家に
帰った。家に戻るとお母さんが、お父さんはどうしたのと言う
ではないか散歩中にいなくなったので探しにいこうと言いだした。
 入院見舞いに行って帰ってきたばかりよと恵子が言う言葉にも、
お父さんがいないと言うばかりだ。
 この様子を見て、七郎がKU病院に電話し、お父さんを手術した先生に、
 状況を説明したところ、お父さんを特別室に移して、そこにベッドをいれて、
奥さんもしばらくの間入院させて方が良いと言われた。
 その提案を聞いて、そうさせていただきますと言い、もう一度、3人で
、七郎の運転する車でKU病院に戻り、お父さんの特別室に、お母さんも
入院させてもらう事にした。母が、父の顔を見て、安心して、心筋梗塞の事も
思い出した。明日、内科の痴呆外来で診察を受けてもらう事にした。

 そこで、恵子と七郎はすぐ近くのホテルに泊まる事にした。
 そんなやりとりをしている最中に、母が疲れたのか、眠り始めた。
 そこで、静かに、明日、又来るねと、父に言い残して病室をあとにして、
ホテルにチェックインした。夕食後、早めに床につき、翌朝は、早めに起きて
、朝食をとり、8時頃に病院に入り、母の外来診察の手配をして、9時過ぎに
、循環器内科の外来に、母を連れて行った。10時頃、外来に3人で入り、
診察を受けた。先生の問いかけに、ちょっとぼーとした感じで受け答えを
していた。七郎が昨日の出来事を先生に話すと、多分、大きなショックを
受けて、動揺して、痴呆症状が顕在化してきたのでしょうと言い。
 痴呆の検査をしましょうといい、恵子と七郎は、外で待った。
 20分位で、診察を終え、七郎が先生に呼ばれた。痴呆の程度は、
かなり進んでいて、3種類の薬を飲んでもらうことになり、ショックが
収まって、普通通りの生活ができるまで数日、お父さんの病室で一緒に
入院してもらいましょうといわれ、承諾した。

1週間くらいで、母が正気に戻り自宅に戻った。その後、父親の方が、
不整脈が見られ、程度も悪く、ステント手術後体調が回復したら
ペースメーカをいれる手術が必要だろうと言う事になった。
 特別室から普通の病室に移り、入院後2週間して、ステント手術を受けた。
 手術は2時間程度で終了した。リハビリなどをして4日後、
2017年5月20日に退院した。

 その後、夏から普通の生活を始めて9月頃から両親が散歩を開始し、
今までの生活を取り戻した。その後、七郎は週に2回、入間の学生寮に出かけた。
 学生達を集めて家庭教師の仕事を探すので希望しない人は手を上げて下さい
と言うと手を上げる人がいないので、全員の家庭教師のバイトの手配を開始した。
 2017年10月から、学生寮や、近くの施設や最寄りの3つの駅にも、
家庭教師募集のポスターを貼ってもらった。その他、イオンやコストコにも
ポスターを貼った。土日、毎週1-2回、1回は2時間とした。
 高校生は5千円/時間と書いた。ポスターを貼った翌日から、学生寮の
2つの電話や、学生寮のホームページに希望の知られが次々と入ってきた。
1週間で56件の応募があり、ほとんど全てが2教科を希望していた。
先生と生徒の組み合わせは、できるだけ同性の先生に振り分ける事にした。
 
 これで2万円の報酬を得られれば、学生の助けになると思われた。
家庭教師、希望の高校生と教える先生、振り分けして、11月から
家庭教師を開始した。家庭教師、希望の高校生に学生塾まで来てもらう事にした。
こうして、2017年も終了した。2018年に入り、七郎が学生に、
家庭教師と他のアルバイトの状況を聞くと、家庭教師で2万/月、その他、
平日、学校を終えてからのバイトで3-5万円で、食事代込みで寮費が3万円/月と
、実家から仕送りがなくても贅沢しなければ生活できる様になったと感謝された。

 2016年に入り、1月12日の寒い日に、恵子さんの父、吉永仁さんが再び、
 体調を崩して、救急車でKU病院に運ばれたと連絡が入った。
 急いで、恵子と共に病院に行くと、担当の先生から、心不全の兆候が見られて、
クラスⅡからⅢに移行している。つまり日常動作をしても心不全の症状、
息切れ、むくみ、呼吸不全を起こしやすくなっていると言うのだ。
とりあえず入院して治療をし、症状の改善をはかるつもりですと話してくれた。

 七郎が治癒する見込みは何%位あるんですかと、単刀直入に聞いた。
すると、かなり厳しいかも知れないと言い、呼吸不全が直らないと、
死の危険が増すと言った。

18話:義理の父の死と母の痴呆(2014~2020)

 今回も、母親の吉永仁美さんが取り乱して、興奮状態になって、死ぬんじゃない
ですよねと担当の先生に叫んだ。心配しないで、できるだけの事はしますから
との返答だった。先生と話して、今回も特別室に移して、患者さんの奥さんも
一緒に入院してもらいましょうと言ってくれた。七郎が、恵子さんに、実家から
近いから、タクシーを使って、行き来して、看病しなさいと言った。その日から、
数えて15日目に、恵子さんの父の吉永仁さんの容態が回復せず静かに息を引き取った。

 彼の妻の吉永仁美さんが、この出来事に対して現実を受け入れられない様に
取り乱して錯乱状態になった。先生が鎮静剤の注射をして眠らせた位の興奮状態。
 彼女が目を覚ますと、隣に旦那さんの姿はな、今度は泣き出してしまった。
 泣き終わると窓の外の一点を見つめて、お父さんが、お星様になったですか
と七郎や恵子さんに問いかけてきた。やさしく、そうです、お星様に
なったんですかと言うと、私も一緒にお星様になりたいと言い出した。

 言動の変化に驚いて、先生を呼ぶと、あまりのショックで、痴呆が急激に悪化した
のかも知れないと言い、精神科の先生に見てもらいましょうと言った。
 少しして、若い精神科の医者が来て、ゆっくりとした口調で吉永仁美さんに
語りかけた。少しずつ落ち着いてきたが、今度は、口数が少なくなり、
ただ、ぼんやりと外を眺めているだけの状態になった。精神科のお医者さんが、
病室を替えて、数日、様子を見るために入院してもらいましょうと言い、
それに対して、七郎と恵子が宜しくお願いしますと言った。

 七郎が、葬儀屋に電話したり、斎場の空き状態を聞いたり、忙しく電話をしていた。
 どこも、混んでいたので7日以上、待たないと空きがない。そこで、入間市の
木元さんに電話を入れて、葬儀場の手配をお願いした。すると、30分後に、
遠いけど、埼玉県飯能市の飯能斎場ならの3日後の午後に空きが出た様で、
一応、抑えたと言ってくれた。葬儀屋に電話すると、えー、飯能ですかと
驚いていたが、葬儀の打ち合わせに来てくれると言った。
 幸か不幸か、参列する人は総勢18人程度であり、葬儀当日の朝
、横浜から、27人乗りの中型バスを借りて1台に関係者を乗せて
出かけることにした。葬儀屋さんに必要な物を急いで揃えてもらい、
準備ができた。恵子のお母さん吉永仁美さんの容態は落ち着いてきたが
、旦那さんの葬式に参列するのは、やめた方が良いと精神科の
先生からいわれ、葬式のことは、言わないでおいた。

 恵子のお父さんの葬儀当日は、どんよりととした曇り空。飯能に入ると
弱い雨がみぞれになり寒さが一段と厳しくなった。
斎場に到着すると、既に葬儀屋さんと斎場を手配してくれた、入間の木元さんが
来られており、斎場の手配のお礼を言った。
こちらこそ世話になっているんだから、これくらいの事、当たり前だと言った。
また、できるだけ力になるよと自然に握手してくれた。控え室で待ち、
午後1時から葬儀が始まり読経が終わり、弔辞弔電が読み上げられ、
精進落としが出て4時には終了して、解散となった。
 帰り際、木元さんが力を落とすなよと、やさしく言ってくれ、
熱いものがこみ上げた。参列してくれた、山下洋一さん、三保さんにも、
お礼を言った。雨、みぞれもあがったが帰りは八王子あたりの渋滞で七郎が自宅に
着いたのは7時過ぎになってしまった。風呂に入り、すぐ床に入って休んだ。
 恵子に、貿易帳簿の点検をお願いして、入間の学生寮に向かった。

 「入間の里」学生寮に着くと、鈴木良三さんが、昨年夏過ぎから、炊事、
調理にも慣れてきて、多めに、料理を作り始め、学生達が登校し終わった
10時から、オープンカフェを開いたんですが、入り口に10時から看板を
上げて、近くの中高年の方が、来てくれるようになって、最初、1つのテープル
だけだったんですが、そのうち、和食弁当と洋食ランチも始めたら、
お客さんが増えて、2テーブル、3テーブルになり、繁盛してきたんですと言い
、昨年のクリスマスは、10時から午後4時まで、盛況でした。学生の食事は
、しっかり作っていきますから、ここままオープンカフェを続けて良いですよね
と言うので、もちろん、地元のみなさんに喜んでもらい、ついでにがっぽり
稼いでくれと笑った。

 その分、僕の出費が減るから助かるよと笑いながら言った。
 基本的に任せるよと伝えた。不都合な事、面倒な事があれば、
電話してくれる様に言っておいた。儲かった、お金は通帳を作って
入金してありますからというので、その金で、良い食材を買って、
儲けてくれと言った。しかし、鈴木良三さんが、自分だけが
もらうわけにはいかないというので七郎は、わかった。
 年末のボーナスとして、分配しようと提案した。料理長の
鈴木さんも、そうしましょう、そうすれば、ここで働くみんなも
喜ぶでしょうと言った。七郎が、預金通帳を見ると35万円も入金されていた。
 今年の11月にでも、ボーナスとして支給しようと考えた。
 もし売上が落ちても、七郎のポケットマネーで補填しようと決心した。

 ただ、今年はインフルエンザが流行して困ったと鈴木さんが話して
いたので彼が買い物に行ったときについでに外来者用の消毒用アルコール
、大入りのマスク箱、殺菌力の強い泡状石けん、うがい液を買ってきて、
水飲み場や手洗い場に置く様に指示しておいた。七郎が家に帰り、
恵子にお母さんの容態を聞くと、少しずつ回復しているが、痴呆症状が
あるので、老人施設に入れた方が良いと先生が話していたそうだ
 症状が悪くなると、介護で、家族の方が通常の生活ができなくなる
心配があると言うのだ。介護疲れで、介護している家族も疲れて駄目になる
ケースを多く見ているので、忠告するんだと話してくれた。

19話:義理母の老人ホーム探し(2014~2020)

 七郎は、数日後、病院に行ったときに、お母さんの診療後に先生に
詳しく聞いた所、痴呆症状がある患者も受け入れてくれる施設があり、
場所も、できたらストレスの多い都会でなくて、自然豊かな田舎の方が
お母さんのためにも良いと提案してくれた。
 そこで、七郎が入間の方で仕事していると言うと、東松山、森林公園、
飯能、そう言う自然の多い所が良いと言った。わかりました探してみます
と答えた。決まり次第、入院の手続きを取る事にすると言ってくれた。
 木元さんに電話を入れると、ここから車で20分程度の所で痴呆老人も
入れる老人ホームですね、調べておきますと言ってくれた。
 翌週、「入間の里」学生寮に行き、木元さんに電話を入れると、入間と飯能と
狭山に3ヶ所あると教えてくれた。午後1時から、その3ヶ所を案内するよ
と言うのでお願いした。3ヶ所とも車で10分程度の所で、入間はゴルフ場の
近くで景色が良いので、そこに決めた。数日後、KU病院に行き、恵子さんの
お母さんの主治医にその話をすると、すぐに退院書類を書いてくれて、
その日のうちに退院して、自宅に帰った。

自宅に戻っても、特に反応がなく、ご主人を亡くした、悲しみがいまだに
消えない様だ。そこで、明日、恵子さんを連れて、ドライブに誘い、気分転換
に行きましょうと恵子さんが言うとそうしましょうかと承諾してくれた。
 翌朝、渋滞の前に家を出て、途中で、休みながら、10時に、めざす、
入間のゴルフ場についた。昔は、お父さんと、この辺のゴルフ場に来たのよと
、昔を懐かしむように言った。もしかしたら、このゴルフ場も
来たかも知れないというのだ。ゴルフ場の中のレストランで食事をして、
ゆったりと休んだ、ゴルフ場は景色がきれいで、気分が晴れるわと、久しぶりの
笑顔で話してくれた。恵子さんがゆっくりとした口調で、お父さんの思い出が
ある実家を出て、こんな景色の良い、老人ホームに入りませんかと切り出した。
 すると、そうね、そういうのも良いかも知れないねと言った。

 次に、七郎が、実は、この近くに、私が、開設した「入間の里」と言う名の
学生寮があって、週に何回も通っていることを話して、この近くの老人ホームなら
、恵子を連れて、毎週、来る事ができるんですよと、言うと、本当?、
それなら、寂しくないわと言ってくれた。七郎さんの「入間の里」学生寮を
見せて下さると言うので、行く事にした。学生寮に着くと、お母さんが、
立派で新しい建物ね、お金かかったでしょうと、笑いながら言った。その日は、
ちょうど、老人ホームを紹介してくれた木元さんが、来られていて母を紹介した。
 木元さんが、七郎が自費でこの施設を立ち上げて全国からの苦学生に安く部屋
を提供して地元のシングルマザーに仕事を与えてくれたんですよと話してくれた。
 お母さんが、すごい本当と七郎に聞くので照れくさそうに、まーねと言った。
 お母さんが、この人、娘の旦那さん、どんな仕事をしてるのか、生い立ちの事
なんかも、全然、教えてくれないのよと言い、でも素晴らしい見直したわと笑った。
オープンカフェで、料理長の鈴木良三さんが、お母さんに挨拶して、折角、
お見えになったんですから、おいしい、狭山茶と名産のまんじゅうと、お団子
を食べていって下さいと言ってくれ、少しして持ってきてくれた。

お母さんは、実は、私、お茶には、うるさいのよと言い、狭山茶の香りを
かいで、ゆっくりと味わうように飲んだ。本当に美味しいと言った。
 料理長は、喜んで、お口に合って、光栄ですと笑いながら言った。
 すると、回りの連中からも笑い声が聞こえた。母は、すっかり機嫌を
良くしてくれ、いろんな人の挨拶に答えてくれた。
 30-40分後、七郎と奥さんとお母さんが、みなさんにお別れを言って
帰って言った。帰りの車中で、お母さんは上機嫌で恵子、良い旦那とめぐり
逢って良かったと言い、恵子さんが、お母さんの子だから良い男を見つける
本能があるのよと笑って返した。すっかり元気になって、連れてきて良かったと
思い、お母さん、入間の施設に入居して良いのですかと聞くと、相談する人も
いないし、ここが気に入ったし、あなたたちが毎週来てくれるというのだから、
入りますよと言ってくれた。

その後、お母さんは、旦那さんの死を乗り越えて、元気を取り戻して、若い頃の様に
、元気なお節介さんに戻る事ができた。その後、恵子にも秘密にしていた
「入間の里」学生寮の仕事やPTのプライベートバンクの話も打ち明けた。
 特にPTのプライベートバンクでの投資について七郎が忙しい時には、恵子が
変わってメールを打ってプライベートバンクの職員に指示してくれる様になり
、入間での仕事に専念できるようになった。また、約束通り、毎週1-2回、
お母さんの施設への訪問は欠かさず行う様にした。

 しかし、世界情勢は、悪い方へ向かっていった。2016年7月の
イギリスのEU離脱に始まって、翌年には、勝つはずのなかったトランプ氏
が大統領になりオバマ前大統領の融和路線から強硬路線に転換して、
アメリカファーストと言う孤立主義に走った。実際に就任直後のTPPから
の離脱、2017年6月の地球温暖化対策・パリ協定からの離脱と、
まさに時代に逆行した施策をとり続けた。
 しかし、何故か、5年前から景気低迷の対策として各国が金融緩和して、
ジャブジャブに大金を刷って、市場にばらまいた、緩和マネー、低金利での
巨額の借金で株を買い続けたためだろうと言われる、米国株など株価の
天井知らすの上昇。

 2017年7月の九州北部豪雨や、8月のバルセロナでの車を使った、
 テロ事件と自然災害やテロが世界で多発したのだった。まさに混沌とした
時代が続いた。2017年も年末に向けて、流石に現在の景気はバブルという
話も出始めたが、2018年になっても、以前として株価は上昇続けた。
 しかし2018年4月に入り、ダウ指数が大きな下げのを見せ始めた、
-3%下落するが日が、あらわれて来たのだ。世界中の緩和マネーが米国株に
流入していたので、大きな下げが起きると、下げ足を速める悪循環が起きた。
 加えて、中国の引き締め政策により、中国経済の成長率が5%代に、
落ちて来る予想。

 七郎も、米国発のバブル崩壊を恐れて投資資産を現金化したいと思った。
 2016年2月にPTに預けた9900万ドルが米株の急上昇で、
2018年1月24日に投資開始から約2年で40%も上昇してきた事と
、この急上昇がバブルだと感じ、換金する事にした。
9900万ドルが1億3900万ドルになった。
 その1億3900万ドルのうち3900万ドルを円に両替して41億円を
日本の七郎の口座に振り込んでもらった。残金29.5億円と41億円で、
合計70.5億円となったPTに残した1億ドルを現金のまま利子はつかないが
、おいてもらう事にした。この事を知った恵子は、すごい金額に驚いて、
何これ、こんなに持ってるんだったら、もっと豪華な結婚指輪もらうんだった。
これからでも遅くないから、宝石でも買ってねと笑った。
 わかりました必要なものは買いましょう、でも、不必要で、華美なものは
いりませんと言い「入間の里」学生寮は、毎年、数千万円の赤字であり、
補填しているんですからと笑った。でも本当に驚いたわ、まるでジェームズボンド
見たいというと、恵子が言うので、それなら、君はボンドガール?、
道理で美人な訳だと、おどけて言うと、ふざけないでよと頬をつねった。
この事があって、夫婦の中も、お母さんとの信頼関係も強固なものに
なっていった。
その後、2018年2月に入り、SP500指数で2月5日に-2.4%
、2月6日にで-5.9%の大きな下げに見舞われた。その後、七郎の
予想通り2月9日に-3.4%とバブル崩壊を思わせる動きとなった。
 その後、トランプ大統領の他国から米国への不当に安い鉄鋼とアルミニウム
に対するダンピング課税を鉄25%、アルミニウム10%を加えるという発表があり、
これに対して、中国、欧州などから、対抗措置が予想され、
貿易戦争の様相を呈してきた。株の世界でもバブル崩壊予感がしてきた。

20話:七郎、六十歳にして再びパパになる(2014~2020)

 こんな時に何と七郎(64歳)と恵子(41歳)の間に赤ちゃん
誕生というウルトラCがおきた。2018年の正月過ぎのある朝、
朝食後。恵子が気持ち悪いと、食べたものをもどした。
 何か悪いものでも食べたんじゃないと、七郎が茶化すと、怒った顔で
、もしかしたらと言い、婦人科を受診したところ、妊娠した事がわかった。
 出産予定日は218年9月と言われた。
 家から近いKU病院の婦人科にかかり、ここでの出産を決意した。
 恵子の仕事を辞めさせ七郎がノートパソコンを持ち歩き「入間の里」
でも必要な時に貿易の書類書きや、いろんな仕事をして、スイスのPT
とのやりとりも全てやることになり忙しくなった。
 それでも、毎週、お母さんの老人ホームには顔を出した。翌週、七郎が
、お母さんに、恵子が妊娠したと報告した所、もう電話で直接、聞いてるわよ
と言い、手紙を手渡しくれた。帰って「入間の里」で開いてみると七郎さんへ
、恵子が妊娠したという知らせを聞いて一番驚いたのは、私かも知れない。
 だって、あんな、おてんばで勝ち気な娘が、お母さんになるなんて
信じられない、でも、うれしい、本当うれしい!
 天国のお父さんも、さぞ喜んでいることでしょうと書いたペンの字が
滲んでいた。たぶん、感極まって、涙を落としたのだろう。
 なんて、可愛い、お母さんなんだろうと七郎もほろっとした。
 次に、気を取り直して書いたのだろうか、七郎さんへのお願い、
恵子が元気な赤ちゃんを産むために、仕事をさせない、炊事、洗濯など
、重労働をさせない事を約束しなさい。

 もちろん、浮気なんてもっての他、それから、恵子に、常にやさしく接して
下さい、妊娠中の女性は神経過敏だから・・。
 最後に、絶対に、食べ過ぎに注意しなさい七郎さんじゃなくて恵子の事です。
 食欲が出て、ついつい食べ過ぎちゃうのですが重すぎると出産がキツくなる。
 その為にも、食べ過ぎないことが大切です。
 これは、私が体験済みですので強く希望します。書いてあった。
なんて、可愛い、お母さんだろうと七郎はうれしく思った。

 春風が吹き、端午の節句が過ぎて、梅雨も過ぎ、熱くなってきて
、夏休み、秋風が吹き出した頃、恵子の腹は、ぱんぱんになってきた。
 そして9月20にち、待望の赤ちゃん誕生。まさか、65歳で子供を
授かるとは夢にも思わなかった、七郎は、生まれてきた女の子をみて、
複雑な感情が頭の中を駆け巡った。1つは、この子を見て、孫を見てる
ような奇妙な感じと、現実なのか、映画を見ているのかわからない不思議な
感覚に襲われた。続いて、この子のために、何して上げよう、
良い教育を受けさせたい。勉強を教えて上げたい、自立できる様に、
投資の方法を伝授して上げたい。いっぱい、お金を残して上げたい。
 どんどん、湧き上がってくる妄想にさいなまれた。そんな変な空想を
打ち消す様に、恵子が遅いわね、私こんなに大変な思いをして
頑張ってるのに全くもうと、怒りだした。40歳、越えての出産って、
大変なんだから、この貸しは、後できっちかえしてもらうからねと言った。
 こんな大変事をさせやがって、この野郎と、軽く、七郎の頭をたたいた。
 七郎が、ご苦労さん、大変だったねとやさしく、彼女の
頭をなでると、堰を切ったように、目に涙があふれた。
 彼女として今まで経験したことのない痛さ、つらさだったのだろう。
 頑張って分だけ、汗の様に、涙で発散したのだろうと思うと、急に、
いとおしくなった。この出来事を考えると、今まで生きてきたことが
走馬燈のように、頭の中を駆け巡った。

 生まれて、何もわからないうちから、多くの大人に
、いろいろ覚えさせられて、ほめられて、物心ついた6歳の時に、
家族全員で米国旅行に行くのを楽しみにしていたのに、風邪、
インフルエンザになって、高熱でうなっていて、1人だけ日本に残されて
、かえりのお土産を楽しみに待っていたのに、家族全員が、飛行機事故
という不幸な出来事で、天涯孤独、1人になり悲しかった事。

何故か横浜の外人学校に入れられ、友達になったティムのお父さんのリチャード
との運名的なであい、彼は、実の子以上に可愛がってくれ、厳しく人生を
生き抜くすべを教えてくれた。リチャードとRCH家の援助でなに不自由ない
生活ができた。更に、木下家の巨額の遺産の事。
 それを元手に、巨万の富を築いた事。本当に悲しかった、最初の妻・サリーや、
リチャードの死。巨額の富を前に何をすべきか、考えあぐねた日々。
 最後に、巨万の富を与えてくた、多くの幸運に感謝して、その幸運に
恵まれなかった人々にチャンスを与える事が、自分の巨万の富を
有効活用することだと悟り、「入間の里」学生寮を私費を投じて設立した。

 この、ご褒美なのか、本当に身近にいた新しい妻との結婚、彼女の父との
悲しい別れの次に、サヨナラ満塁ホームランの様な65歳にして、
女の子の誕生という幸運。

こう考えてみると、人生悪いことの後には良いことがある、
「禍福は糾える縄の如し」、幸運を独り占めしないで、幸運に
恵まれない人に与えれば、又、幸運がやってくる。
「禍福己による」こういう事を七郎は身をもって知ったのであった。終了!

『七郎物語』

木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身で、6歳の時、一家が飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。残された広大な東京の土地を知り合いの貿易商が、その換えを金に替えてスイスのプライベートバンクに預けた。戦後、横浜のインターナショナルスクールで知り合った、RCH家のリチャードに可愛がられ、RCH家の経理の仕事をもらう。戦後、木下家の金の存在を知り、金価格が高いときに金に換えて、投資で、巨万の富を得た。その直に東日本大震災を経験し、戦災孤児の教育のために、募金活動を開始、社会福祉活動に目覚めて、彼の富で、貢献していくストーリー。東日本大震災後の募金、社会福祉活動をテーマにした小説

『七郎物語』 播磨王66 作

主人公、木下七郎は、旧華族で徳川家の近い由緒正しき名家の出身。1959年、家族が米国旅行を計画した時、運悪くインフルエンザにかかり、七郎一人日本に残った。ところが、一家が帰国の飛行機の墜落という悲劇に見舞われて、一瞬にして、七郎がひとりぼっちになってしまった。その後、横浜のインターナショナルスクールに入り、学校の友人の家に呼ばれるようになり、その友人の父、リチャードと運命的な出会いによって、七郎の人生の運が開けていく、結婚、別れ、投資、いろんな人生経験を経て、使い切れないお金を得て順風満帆の人生に見えたが、その後、東日本大震災を経験して、特に、被災孤児の教育のために募金活動を通じて、社会福祉活動に目覚めていく、ストーリー

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-03-30
Copyrighted

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