あいのこ

あいのこ

【幼年期】

「また、人間が身投げしよった」
 墓堀りの小鬼はぶつくさ言いながら、いつもそんなホトケを埋めてやっていた。
 彼は「く」の字に曲がった小さな身体で一生懸命に穴を掘って、柔らかい土の上にそっとホトケを寝かしてやる。そして、いつもどこからかたくさんの花を摘んできては、色とりどりの花びらをたっぷりと墓の上に散らすのだった。
 悼む彼の横顔はまるで秋の月みたいにひんやりと優しげで、美しかった。私はそれが大好きで、ホトケを埋める時には必ずついていっていた。
 小鬼は人間を喰らうが、死者は喰らわない。彼らなりの死者への尊敬があるからだが、一方の人間はそのことを全く知らなかった。私が見かけた人々などは、鬼どもは新鮮な肉を求めるから死体には興味が無いのだと、大真面目に話し合っていた。
 人間は小鬼を恐れ、見つけるや否や、たちどころに殺す。それも一人では敵わないので大勢で寄ってたかって、何度でも何度でも槍で刺して殺す。ところが小鬼は、そんな人間が嫌いではなく、どころか、彼らの儚い生き様に、尽きることの無い情を寄せていた。
「…………ホトケだ」
 谷に落ちてきた人間を見る度、墓堀りの小鬼は決まってどこか寂しそうに呟く。
 生きて自分から小鬼の里を訪れる人間は、まずいない。人の世を儚み、谷へ身を投げた者だけがホトケとなって川を下り、里へ流れついた。いつから小鬼たちが死んだ人間のことを「ホトケ」と呼ぶようになったのかは知らないが、その呼び方は不思議と彼らの言葉に馴染んでいた。
「ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………」
 小鬼達の祈祷は私にはそんな風に聞こえた。遥か昔に、海の向こうから来た小鬼の僧が里に伝えたものらしい。
 ある時、私が何気なく「摘まれたお花も可哀想だよ」と言ったら、墓堀りの小鬼はその日から、花の分まで余分に悼むようになった。
「ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………。
 ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………。
 ニャン、ニャン、ニャン、ニャム…………」
 ホトケと花の分まで目一杯に経を唱えると、彼の掠れた物憂げな声は延々と谷に響き続けることになる。私はこの長大な祈祷が終わるまでずっと小鬼の傍にいたので、知らぬ間にこの奇妙な文句をすっかり諳んじられるようになっていた。
 祈祷の意味は、簡単に言えば「小鬼の神様はとても優しい」ということだった。私は鬼族ではなかったので、彼らの神様を信じていいものかわからなかったのだが、小鬼の里で暮らすうちに、いつしか私もその神様を何となく慕わしく思うようになっていった。
 「そんなものがいるのかもなぁ」程度の愛着と、「いつか会えるかなぁ」というおぼろげな夢想。優しいというのだから、どうか私のことも迎えてはくれないだろうか。
「ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………」
 墓堀りの小鬼の祈祷が響く中、私はよく埋められていくホトケの手をじっと眺めていた。まだホトケになって日の浅い、形のきちんと残っているものが特に興味深かった。
 色んな手があった。ゴツゴツとした黒ずんだ手や、消え入りそうな白い手。水疱だらけの赤黒い手。枯れ木のようにくたびれた老いた手。奇妙に曲がりくねった手。小気味良い、ぶ厚い皮にしっかりと包まれた小鬼達の手と見比べて、私はそのホトケ達の手がなんと多彩なのだろうと感心していた。
 一体どんなものに触れて生きてきたら、ああなるのだろう。彼らだって田を耕したり、獲物を追ったり、かたい雪を掘り起こしたりするだけの毎日だろうに。それがなぜ、あんな風に違ってくるのだろう。
 たまに、自分の手を顧みたりもした。私の手は小さく、どちらかと言えば、小鬼の手に似ていた。
 いずれにせよ、ホトケの掌の上にフワリと花が落ちると、私は幾分ホッとした。花びらが冷たくてとても気持ちの良いことは、私もよく知っている。彼らが谷の上でどんな生き方をしてきたとしても、最後は心地良くあって欲しかった。
「ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………」
 墓堀りの小鬼の祈祷は、風に乗ってどこまでも伸びていった。


 しばしば、墓堀りの小鬼は私を連れて川へ出掛けた。彼はそこで私に釣りをさせ、自分は人間を捕りに行った。
 魚は釣れたり釣れなかったりした。それは小鬼の方も同じで、彼が成果によって私を叱ることは決して無かった。不漁の日には、彼はグシャグシャと私の頭を掻き撫で、
「また今度だ」
 と、ちょっと残念そうに小さな目を瞬かせて帰路に着いた。私はと言えば、小鬼が無事に帰ってきてくれるだけで十分だった。万が一彼が人間に殺されたなら、私は間違いなく人間を憎み、復讐に奔っただろう。
 だが、墓堀りの小鬼はそういう私を、いつも淡々と諭すのだった。
「それはいかんよ、「あいのこ」。お前は人間だが、鬼の里の子だ。「憎む」なんぞ、絶対に口にしちゃいかん。鬼の子は、どれだけ怒っても良いが、恨むのだけはいかん。…………地獄に落ちるぞ」
 それから彼は、こうも付け足した。
「それにな。喰われるもんはな、皆、いっつも、すっごく、怖いんだ。怖いと道理が無くなっちまう。道理が無くなるってのは、何もかもが、真夜中みたいに真っ暗になっちまうってことだ。上も、下も、右も、左も、娘も、親父も、人も、鬼も、何っにも、わかんなくなっちまうってことだ。
 …………なぁ、「あいのこ」。夜中に便所行くの、お前もおっかないだろう? …………それなら、もう人間を責めたりしたらいかん。怒ってもいいし、喰ってもいいが、憎むのだけは、いかん」
 私は夜な夜な、その言葉を反芻した。そうして毎夜、たくさんのホトケの手が代わる代わる夢に浮かぶのを眺めていたら、次第に墓に供された花にまで諫められている気分になってきた。
「…………。
 …………」
 植物だから、彼らは終始無言だ。しかし、だからこそ、あの冷たい花びらの感触と甘い香りが胸に沁みた。
 恨めば、自分はもうあの花の悼みがわからなくなると、段々とわかってきた。もし私が憎悪の理屈で生きるなら、私は金輪際、魚を釣らない方が良いだろう。木の実だって拾わない方が良い。人なんぞ、絶対に喰ってはならない。憎しみを解消することなど絶対にできないのだから、いくら死を悼んだところで虚しくなる。何もせず、死ぬことだけが唯一の解決になってしまう。
 人間はこの里の生き物でないから、それでもどうにか折り合いをつけて生きていける。彼らには彼らの神様がいて、彼らの命の輪がある。だが、私は。
 私は自分が人間であることの何よりの証明…………愛情と憎悪の衝動を、言葉にならぬ内にも、ちゃんと自覚していた。私はそして、そんな己から逃れんとするように「花びらのようでありたい」と願い始めていた。
 手慰みにもぎられてもいい。風に飛ばされても構わない。茶色く腐れて落ちるのだって厭わない。愛も憎しみも拭い去れないなら、せめて儚くありたい。
「「あいのこ」。捕れたぞ。…………帰ろう!」
 私は墓堀りの小鬼に呼ばれると、すぐに釣り竿を上げて、釣った魚を入れた魚籠(びく)を抱えて、花びらみたいに飛んでいった。


 冬になると、谷は深い雪で閉ざされる。木の実も動物も雪の下で昏々と眠りに就き、人間の足も自然と遠退いていく。
 小鬼達はどんなに飢えても、私に手を掛けなかった。ある年、意を決して墓堀りの小鬼に訳を尋ねてみたら、
「子供は神様のものだから、喰わん」
 という答えが返ってきた。何でも、人間のでも鬼のでも動物のでも魚のでも、子供は皆、半分は神様だから、大切にしなければならないそうだった。
「神様はな、子らの目を通して、いつも俺達を見守っているんだ」
「そうなの。じゃあ、私が大人になったら、私の中の神様はどこへ行ってしまうの?」
「別の子供のところに行くのさ」
「そしたら、私は食べられてしまう?」
「…………さぁ、なぁ」
 墓堀りの小鬼はゴツゴツとした歯を覗かせて微笑み、私の頭をグシャグシャに掻き撫でた。私は彼の無造作に戸惑いつつも、喰われてもまぁいっかと、ぼんやりと寛いだ心地になって、胡坐をかく彼の膝に転がり込んだ。
 里の小鬼達は結局、いつまで経っても私を喰わなかった。時々、子供の鬼が質の悪いちょっかいを仕掛けてくることはあっても、一線を越えることは決して無かったし、大人の小鬼が本気で私を恐がらせてきたことは一度も無かった。
 私は里で暮らす間に、食い物でもない生き物でもない何かと成り果てていた。ホトケと同じように、最早神様以外の誰のものでもないのだと、暗黙の内に見做されていた。

【少女期】


 雪解けの雫が絶え間なく木の枝から滴り落ちる、ある晴れた日。余所の国から大鬼が一人、谷に迷い込んできた。大鬼は森で独り薪を割っていた私を認めるや、大岩だって一飲みにしそうな大口で哄笑した。
「おぉ、こんな所に人間が!」
 私は喰われると思い、咄嗟に近くの大樹のウロへ身を隠した。大鬼は面白そうに、のしのしと私を追いかけてきて樹に歩み寄ると、大きな大きな黒い目を爛々と輝かせて私を覗き込んだ。
「オイ、怯えるなよ。誰もお前みたいな骨と皮、好んで喰いやしない。…………なぁ、もっとこっちに来て、顔を見せてくれよ。仲良くしようぜ」
 私が怯えて口を噤んでいると、大鬼は子供っぽく眉を下げた。
「ううん。どうにも、小さな生き物ってのは臆病だな。ところで、お前はいつからこの里にいるんだ? 小鬼達に飼われているのか?」
「…………違う。…………ずっといる」
「生まれた時からいるのか? 面白いな。親はどうした? 人間の親は」
「…………お母さんは」
 墓堀りの小鬼が見つけた時には、すでに事切れていたという。俄かには信じ難い話だが、私は身投げした母の屍から産まれてきたのだそうだ。墓堀りの鬼がいつものように母を埋めようとした時に、股ぐらで蠢いている私に気付いたのだとか。
 大鬼はそれを聞くと一層物珍しそうに私を眺めまわし、それから今度は若干ゆったりとした調子で尋ねてきた。
「お前…………人里に帰る気はないか? 何なら、逃がしてやれるが」
「………「帰る」?」
 私が尋ね返すと、大鬼は立ち上がって再度哄笑した。
「ハハ、そうか。嫌か。ならいっそ、俺の里に嫁にでも来るか? 家畜よりかはマシに扱ってやるぞ」
 私は彼が本気なのではと恐ろしくなり、後は彼が立ち去るまでひたすらに暗いウロの中で震えていた。大鬼は小鬼と違い、表情や仕草が一々豪快で、どことなく人間臭くて怖かった。
 帰ってから墓堀りの小鬼に大鬼のことを話すと、彼は少し悩んだ表情を見せた。
「「あいのこ」よ。…………里を出たいか?」
「…………!」
 考えるだにとんでもないことだったので、私は首を横に振った。
 墓堀りの小鬼は調理中の鍋に目を落とすと、「わかった」と言い、それきり口を利かなくなった。私は彼と一緒に鍋を囲みながら(彼はいつも、私にも食べられるようこれでもかと柔らかく煮込んでくれた)、ちょっとだけ泣いた。小鬼はそんな私に、哀しい眼差しを注いだ。
「どうした? 「あいのこ」」
「何でもない。…………」
 寂しい、と口にしかけた途端、堰を切って涙が溢れ出てきて、何も言えなくなった。


 山桜が一斉に開いて、桃色の花びらがあちこちで舞い踊り始めると、私はたまらなく嬉しくなった。野山を駆け回って、花びらと一緒になってくるくる回れば、風に溶けて空の彼方まで飛べる気がした。
 とりわけ気持ちの良い天気には、里の子供達と木の実を集めながら、ついふらふらと街道の方まで出てしまい、急いで引き返してくることもままあった。
 人間は子供の鬼を見つけると狂ったように追いかけてくるので(捕まえて見世物にするのだ)、彼らが見つかるのだけは絶対に避けねばならなかった。
 人間は年を追うごとに、目に見えて狂暴になっていっていくようだった。山向こうの里は突如押し寄せてきた人間の大群によって、赤子一人残らず滅ぼされてしまったし、川向うの里では、年端もゆかぬ子供が人間に捕まって、文字通り八つ裂きにされて宿場で磔にされたりしていた。
 墓堀りの小鬼が山向こうの里へ弔いに出向いたのだが、彼は頑なにその時の様子を私に語ってくれなかった。
「知らん方がいい…………。お前は、何も見ない方がいい」
 墓堀りの小鬼は春盛りの日差しを浴びながら、今までになく残忍な目をしていた。
 鬼は何をも恨んだりしないが、激しい怒りを覚えることはある。一方の私は人間であった。人間は滅多に純粋な怒りを抱けない。そこには常に恨みや憎しみが付きまとう。墓堀りの小鬼はきっと、私が人間を憎むに違いないと考えたのだろう。
 私はその日、彼の答えを聞いてションボリと肩を落とし、黙って川へ魚を釣りに行った。そうして吹雪にも似た花びらに巻かれながら、水面に映る己の姿をじっくりと見つめていた。
 そのうちにふと別な考えが浮かんできた。滅んだ鬼の里にたくさん転がっているであろう、人間の屍についてのことだった。それらは自ら身を投げたのでもなく、食い物にされるためでもなく、ただ怒りによって殺された者のホトケだ。いかに身を守るためだったといえども、いざ私がそれを目にしたら何を思うのか。もしかして、墓堀りの小鬼はそれを危惧したのではないか。
 私はようやく釣れた小さなイワナを魚籠に放ると、深呼吸してから再び糸を垂らした。心外だと憤りを覚える反面、実際に自分がその場を訪れて何を思うのか、うまく想像できなかった。今までに弔ったホトケの手がぐるぐると胸中を掻き乱し、私をどこか知らない闇の水底へと引きずり込んでいくようだった。
 私は桜がしっとりたっぷりと降り注ぐ中、日が暮れるまで釣りを続けた。里で一番の釣り上手を自負していたのだが、その日は不思議なくらい何も掛からなかった。


 それからしばらく経った頃、いつぞやの大鬼がまた里を訪れて、私を嫁に欲しいと言ってきた。大鬼は私の返事をいつまでだって待つと言い、墓堀りの小鬼はただ静かに頷き、彼一流の、月明かりのような微笑みをたたえて呟いた。
「行きなさい。…………それが良い」
 私は里を離れ難く思ったが(加えて、大鬼が恐ろしくもあったのだが)、花びらが一つ所に留まることはないと、己に言い聞かせた。
 自分がいずれどこかへ行かねばならないのは、この時分にはもうよくわかっていた。すでに老境にある、独り身の墓堀りの小鬼が亡くなった後に、私が頼るべき当ては無い。里の小鬼達は長年のよしみで私を喰らいこそしないだろうが、懐へ招き入れることもできないと思われた。
 私と彼らの間には、目には見えない深い谷がある。それは悪意によって生じたものではなく、それ故に誰にも…………神様にも、どうしようもないものだった。
 流れるべき時期が来たのは、明らかだった。
「行って参ります」
 私は墓堀りの小鬼に深く深く頭を下げ、大鬼の元へと嫁いでいった。
 墓堀りの小鬼に会ったのはそれが最後となった。私が去った夏の暮れに、里は人間の襲撃に遭って滅びた。

【成熟期】

 大鬼の里では、大昔に一度人間を娶った試しがあったらしく、私は意外とすんなり受け入れられた。ただ一つ、小鬼の里で育ったということだけは非常に珍しがられたが(なぜ喰われなかったのだと、何度も尋ねられた)、次第にそれも飽きて聞かれなくなっていった。
 大鬼達はおしなべて大雑把で、喜怒哀楽が激しかった。唯一、小鬼と一緒だと思えたのは、他の生き物への尊敬と情の深さだったけれど、それもまた少し、私の知っているものとは趣が異なっていた。
 大鬼達はとにかく一心に、そして大いに愛するのだった。彼らは動物にも、植物にも、大地にも、太陽にも、あの冷たく重い雪にだって、ありったけの愛情を注いだ。
 彼らは何かを好きになると、たちまち堪らなくなってしまうようで、時には相手の迷惑も顧みずに、全身全霊を尽くした。運悪くその愛が通じなかったりすると、山一つ沈めるのではないかという勢いで泣き伏した。鬼族らしく、恨みや憎しみは抱かなかったが、噴出する怒りと悲しみの激しさはまさに火山の如くだった。
 私を愛した大鬼も、その例に漏れなかった。彼は小さな私を毎晩とても丁寧に抱いた。まるで芽吹いたばかりの若葉を慈しむかのように、辛抱強く、そして惜しげもなく、尽きることなく愛を注いだ。私が笑えば、彼は私の何百倍もの笑顔を見せた。私は彼に何も返せないのが申し訳なかったけれど、彼はそんな戸惑いすら押し流すように、問答無用で私を愛し続けた。
 彼はまた、郷里を失った私を慰めるためにたくさんの食べ物をくれた。中には人間の食べ物もあったが、これは人里から盗ってきたものではなく、彼らが人間の商人と取引をして手に入れてきたものだった。
「気にするなよ。お前が喰う分なんざ、俺達からすれば栗鼠が喰う分と大して変わらん。大鬼は大喰らいでな。それが祟って、めっきり数が減っちまったんだ」
 夫の大鬼は、仕入れてきた牛肉をおっかなびっくり、じっくりと煮込む私をいつもじれったそうに見守っていた。
 彼の昔語りは、決まってそんな時に始まった。
「それで、まずは人間を喰うのを止めたんだ。ともかくも喰う量を減らさんと、どうにもならなかったし、何より人を喰えば、人に襲われるからな。…………お侍が4人5人で掛かってきた頃なら訳も無かったんだが、この頃のヤツらは、どえらい軍勢を率いて来やがるからな。あれだと、流石の俺達も敵わない。
 …………決定を下した長老は賢かったと、俺は思うよ。おかげで里はこうしてまだ続いているし、腹一杯とは言わんが、まずまず肉も喰える。お前とも一緒に暮らせる」
 大鬼はしょぼくれた目つきで鍋を見つめながら、急にハッとして私を撫でた。
「ああ、いや…………違うぞ、「あいのこ」。別に小鬼達のやり方が間違っていたと言いたい訳じゃない。ただ、大鬼はこんな風だったと、伝えたかっただけで…………」
 私は彼のそういう所が、すごく人間らしいと感じていた。人間と暮らしたことなど一度もないのに、どうしてかふいにそう思える時がある。私が
「ありがとう」
 と伝えると、深い安堵の溜息を吐くところも含めてだ。
 大鬼は本当に、人間のことをよくよく知っていた。私達がふとした拍子に凄まじい憎悪を抱くことも、それが愛情の反動であることも、ちゃんと見抜いていた。墓堀りの小鬼が注意深く私を戒めていたように、彼もまた、彼の流儀でもって、私の衝動を丹念にくるもうとしていた。
 大鬼の里の近くにも川が流れていたので、私は相変わらず釣りをした。小鬼の里に伝わる仕掛けがとても役に立って(手先の荒い大鬼には作れない、繊細な仕掛けだった)調子の良い日には、人里へ持っていく分の魚まで獲れた。大鬼に一等大きな獲物を持って帰ると、それはそれは大袈裟に褒められた。
 ただ、私自身は決して人里へ近づかないよう、それだけはきつく言い含められていた。夫の大鬼はその話になると、いつか墓堀りの小鬼が見せたのと全く同じ、鬼気迫った眼差しで私を射た。
「…………なぁ、「あいのこ」。お前に話すのもおかしなことだが、俺には未だに人間がよくわからない。色々と頑張ってはみたんだが、それでもまだ、人間がお前を見つけた時に何をするのかわからんのだ。
 見世物にするのか。八つ裂きにするのか。それとも、もっと思いも寄らない残酷を為すのか。人間の暴力には、怒りでは説明のつかないことがあまりに多い。
 だから、お前はここにいろ。…………ずっとだ」
 私はその後の、彼らしからぬ強い抱擁をいつも拒めない。力のせいもあるが、それよりも、有無を言わさぬひたむきな鬼の感情に抗うことが出来なかった。
 私は彼に応え、かろうじて囁いた。
「はい。…………ここに、います」


「ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………。
 ニャム、ニャム、ニャンニャンナム…………。
 ニャン、ニャン、ニャン、ニャム…………」
 大鬼の里で暮らすようになっても、小鬼の祈祷は私の頭から離れなかった。夜ごとに大勢のホトケの掌がポッと夢の水面に浮かんでは、音も立てずに深い泥の底へ沈んでいく。その上へハラハラと降り注ぐ色とりどりの花びらはすぐに淡雪へと変わって、どれもあっけなく水面に溶けていった。
 夢の淵に佇む私は、なぜかホトケの手を取りたいと強く思うのだが、泥沼へ身を乗り出そうとした途端に、必ず足を滑らせてしまう。すると闇に沈んでいったはずのホトケの手が俄かに蠢き出し、私を四方から絡め取る。私は死に物狂いでもがき、叫んだ。人のものとも鬼のものともつかない、異様な己の悲鳴がどこまでも虚しく闇に吸い込まれていく。気付けば私は、切り立った崖から真っ逆さまに落ちていた。地面がぐんと近付き、「ぶつかる」と感じたその刹那、私は寝床で汗にまみれて目を覚ました。
 夫の大鬼は度々うなされる私を案じ、人里の薬師から貰ってきた薬を煎じてくれた。人骨から作られたという、人間のための薬であった。
「鎮心に効くと言われたが…………。ううむ、人も人を喰うもんなんだなぁ…………」
 大鬼が不可解そうに呟くのを霞みがかった意識の内で聞きながら、私は今も小鬼の里に埋まっている、弔う者無きホトケ達のことを思い起こしていた。
 かつて見た彼らの手と私の手は、月日を重ねるごとに似てきていた。私の手はまだゴツゴツと黒ずんでもいないし、消え入りそうに白くもない。水疱だらけでもなければ、枯れ老いてもなく、曲がりくねったりもしていなかった。だが、肌の細かな皺の狭間に刻まれた陰影は、あれらと全く同じ色を滲ませていた。
 幼い日に感じたあの掌達の彩りは、私のこの垢にまみれた、何の変哲もない手を、いとも簡単に溶かし込んでしまうだろうと思えた。私はホトケとなった私を墓の淵で眺める幼い自分を、ありありと思い描けた。
 私は大鬼に礼を言い、ひどく苦い薬湯を飲み干した。大鬼は寝付くまで付き添うと言ってくれたが、彼は床に入るなり早々に眠りに落ちてしまった。仕方無く静かに横になっていると、隙間風に乗って、遥か彼方から小鬼の祈祷が聞こえてくるような気がして、胸がきゅうと締め付けられた。


 一際月の明るい真夏の晩、人間の猟師が里に宿を借りに来た。無我夢中で獲物を追う内に日が暮れ、人里へ帰れなくなったそうだった。
 里の長老は猟師に、私の家の納屋を使えと言った。夫の大鬼は私に決して姿を見せないよう言いつけた後、猟師を案内して納屋の前に張り込んだ。猟師はひどく無口な、氷柱のような目つきをした壮年の男で、強面の大鬼を相手にしても少しも怯えを見せなかった。
 大鬼の里では最早人を喰らわなくなっていたとはいえ、それでも里にまで足を運ぶ人間は稀であった。私は物陰からこっそりと風変りな猟師の横顔を窺いつつ(その面差しはどことなく墓堀りの小鬼と似ていた)、痛く感じ入った。
 人間というのは、もっと気の狂った、一直線な目をしているものとばかり思っていたのだが、彼の目は明らかに違っていた。本気の彼にかかれば、恐らくは小鬼だって姿を隠しきれずに気取られてしまうだろう。彼はほとんど獣だった。彼の透明かつ広く繊細に行き渡った神経は、もしかしたら神様だって捉えられるのではないかと、半ば本気で考えた。
 私は彼に気付かれないよう、息を殺して晩を過ごした。夫の大鬼は「護衛だ」と言ってずっと母屋の戸口から離れず、おかげで、やがて彼が大鼾をかいて寝てしまうまで、私は厠にも立てなかった。
 ようやく用を済ませる機会を得て母屋へ戻ってきた時、私はふいに納屋から物音を聞きつけた。私は少し躊躇った後に、その方へと足を運んでいった。いけないこととは知りつつも、惹かれずにはいられなかった。
 見れば、猟師が弓矢を手にして木立の合間にぽつねんと佇んでいた。何をしていたのかはわからないが、彼はあたかもそこに私がやって来ることを知っていたのかのように、折良くこちらを振り向いた。
 彼は私を目にして、眼を大きく見開いた。
「人…………か?」
 微かな男の呟きが静寂の帳の内に零れ落ちる。私は薄い着物を一枚纏っただけの姿で、黙って彼を見返していた。
 二人の間を夜風がそぞろに吹き抜けていった。しばらくすると猟師は、おもむろに矢を番えた。私を妖の類だと思ったのだろう。彼の瞳に映る私は銀色の月影の下で、確かにそんな瘴気を帯びていた。
 もし私が当前の如く人間の屍となったなら、この男は一体どんな顔をするのだろうかと、一抹の興味が湧いた。私は挑戦的に死を待っていた。後で彼が逆上した夫にどんな殺され方をするのか、それすら遥か遠い未来のことだった。私の心は瀬戸際にあって、いつになく熱に浮かされ、湧き上がっていた。
 私は彼を迎えるように、両手を広げた。「おいで」と口にする必要も無い程に濃密な空気が夜を蒸していた。山の冷えた風も、真夏を冷まさない。キリリと引き絞られた弓弦が、私の魂をこれでもかと締め付けた。
 猟師の目が、閃く。
 矢が放たれた。
 …………短い風切り音の後、矢は私を外れて傍らの葉を射抜いた。はらりと散った木の葉と私の髪が足下にゆらゆらと舞い落ちてくる。
 猟師は少し息を荒げて私を見据えていた。私はゆっくりと両手を降ろし、彼に背を向けた。母屋へと歩んでいく私を、彼はただ呆然と立ち尽くして見守っていたのではない。猟師がもう一度矢を番えたのを、風がそれとなく私に知らせてくれた。
 知りつつ、私はあえて歩き通した。夕立ちの後のように熱が冷めて、もう何にもそそられなかった。遠い谷から徐々に小鬼の祈祷が戻ってくる。私は合わせてそれを口ずさんだ。夏草と土の匂いが、私の肌にじっとりと馴染んでいった。
 猟師はついに、矢を放たなかった。
 彼を翌朝早く、誰に何を言うともなく里を発った。


 大鬼の里の近くを流れる川を遡って行くと、小さな滝に辿り着く。里の者が「合いの子滝」と呼んでいる滝だった。その昔、大鬼に攫われてきた人間の娘が鬼の子を孕み、身の上を嘆いて赤ん坊ごと身を投げたことから、この名が付いたのだという。
 夫の大鬼が長らく言い渋ってきたために、私はずっとその所在を知らずにいたのだが、今日になってようやくこの滝を目にすることができた。
 合いの子滝は、澄んだ水が滔々と天から流れ落ちてくる、素朴で背の高い滝だった。近寄ると冷たい水飛沫に交じって、野ばらの甘い香りが漂ってくる。
 私の名前もこの滝と同じ「あいのこ」だ。誰が名付けたかは定かでないが、物心付いた時には、墓堀りの小鬼からそう呼ばれていた。いつだったか、由来を尋ねた時には、彼はちょっとばかり間を置いてこう話したものだった。
「「あいのこ」って、「きのこ」みたいなものなんだ、多分」
 私がよく飲み込めずに首を傾げていると、彼は何てことない口ぶりで付け加えた。
「「きのこ」は「木」の子。だから、「あいのこ」は「あい」の子」
「…………。「あい」って、何?」
 私のあどけない問いに、墓堀りの小鬼はなぜか懐かしそうに目を細めて答えた。
(かな)しいこと…………だな」
 私は合いの子滝の水際に屈んで、遥かな追憶に浸っていた。その間、夫の大鬼は片時も私から離れず、至極真剣な表情で私の一挙手一投足を見張っていた。私は蒼くたゆたう滝壺を眺めつつ、地に落ちた白い野ばらの花びらを一枚、手に取った。
 それから私は立ち上がって大鬼の方を振り返り、彼の黒く大きな瞳を仰いだ。そこには初めて彼に会った時よりも少しばかり大きくなった、それでも小さな私がいた。彼の方はもう一人、私の腹の子も見つめていただろう。彼は桜の幹そっくりの武骨な手で、新芽にちょこんと触れるみたいに私の頬を撫でた。
 私は花びらを風に乗せて流した。花びらは軽やかに身を躍らせて宙返りし、やがてそろりそろりと柔らかに水面に着いた。
 私は、
「帰りましょう」
 と微笑んだ。

(了)

あいのこ

あいのこ

子鬼の里で育てられた少女「あいのこ」。彼女は遠い人の社会にほのかな思いを馳せつつ、豊かな自然と、鬼達からのこよない愛に恵まれて成長していく。「あいのこ」は人か、鬼か。彼女の選ぶ道とは。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-03-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 【幼年期】
  2. 【少女期】
  3. 【成熟期】